巻第九十四(上)
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大智度論釋畢定品第八十三之餘(卷第九十四)
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


【經】菩薩は空中に住して、神通波羅蜜を起す

【經】世尊菩薩摩訶薩住何等白淨法。能作如是方便力而不受染污。佛言。菩薩用般若波羅蜜作如是方便力。於十方如恒河沙等國土中饒益眾生。亦不貪著是身。何以故。著者著法著處。是三法皆不可得。自性空故空不著空。空中無著者亦無著處。何以故。空中空相不可得須菩提是名不可得空。菩薩住是空中。能得阿耨多羅三藐三菩提。 『世尊、菩薩摩訶薩は何等の白浄法に住すれば、能く是の如き方便力を作して、染汚を受けざる』。仏の言わく、『菩薩は般若波羅蜜を用いて、是の如き方便力を作し、十方の恒河沙に等しきが如き国土中に於いて、衆生を饒益するも、亦た是の身にも貪著せず。何を以っての故に、著者、著法、著処の是の三法は皆不可得、自性空なるが故に、空は空に著せず、空中に著者無く、亦た著処無ければなり。何を以っての故に、空中の空相は不可得なれば、須菩提、是れを不可得空と名づけ、菩薩は、是の空中に住して、能く阿耨多羅三藐三菩提を得るなり』、と。
――
世尊!
『菩薩摩訶薩』は、
何のような、
『白浄の法に住する!』ので、
是のような、
『方便力を作しながら!』、
『染汚』を、
『受けないのですか?』。
『仏』は、こう言われた、――
『菩薩』は、
『般若波羅蜜を用いて!』、
是のような、
『方便力を作し!』、
『十方の恒河沙に等しいほどの国土中に於いて!』、
『衆生』を、
『饒益しながら!』、
是の、
『身』にも、
『貪著しないのである!』。
何故ならば、
『著者、著法、著処の三法』は、
『皆不可得であり、自性空である!』が故に、
『空は、空に著さず!』、
『空中には、著者も著処も無いからである!』。
何故ならば、
『空』中には、
『空相』は、
『不可得だからである!』。
須菩提、
是れが、
『不可得空であり!』、
是の、
『空中に菩薩は住する!』ので、
『阿耨多羅三藐三菩提を得ることができるのである!』。
  参考:『大般若経巻394』:『時具壽善現白佛言。世尊。諸菩薩摩訶薩方便善巧如是廣大。雖成就白淨無漏聖智。而為有情故受種種身。隨其所宜現作饒益。世尊。諸菩薩摩訶薩安住何等白淨勝法。能作如是方便善巧。雖受種種傍生等身。而不為彼過失所染。佛告善現。諸菩薩摩訶薩安住般若波羅蜜多。能作如是方便善巧。雖往十方無量殑伽沙等世界現種種身。利益安樂彼有情類。而於其中不生染著。何以故。善現。是菩薩摩訶薩。於一切法都無所得。謂都不得能染所染及染因緣。何以故。以一切法自性空故。善現。空不能染著空。空亦不能染著餘法。亦無餘法能染著空。所以者何。空中空性尚不可得。況有餘法而可得者。善現。如是名為不可得空。諸菩薩摩訶薩安住此中。能證無上正等菩提。爾時具壽善現白佛言。世尊。諸菩薩摩訶薩為但安住如是般若波羅蜜多。能作如是方便善巧。為亦住餘法耶。佛告善現。豈有餘法不入般若波羅蜜多。云何復疑為住餘法。世尊。如是般若波羅蜜多若自性空。云何般若波羅蜜多攝一切法。世尊。非於空中可說有法攝與不攝。善現。豈不諸法自性皆空。如是世尊。如是善逝。善現。若一切法自性皆空。豈不空中攝一切法』
世尊菩薩但住般若波羅蜜中。得阿耨多羅三藐三菩提。不住餘法中耶。須菩提。頗有法不入般若波羅蜜者不。世尊。若般若波羅蜜自性空。云何一切法皆入般若波羅蜜中。世尊空中無有法若入若不入。須菩提。一切法一切法相空不。世尊空。須菩提。若一切法一切法相空。云何言一切法不入空中。 『世尊、菩薩は但だ般若波羅蜜中に住して、阿耨多羅三藐三菩提を得、餘法中には住せずや』。『須菩提、頗る法の般若波羅蜜に入らざる者有りや不や』。『世尊、若し般若波羅蜜の自性空なれば、云何が一切法は皆般若波羅蜜中に入るや。世尊、空中に法の若しは入り、若しは入らざる有ること無しや』。『須菩提、一切法の一切法相は空なりや不や』。『世尊、空なり』。『須菩提、若し一切法の一切法の相空なれば、云何が一切法は空中に入らず、と言うや』。
――
世尊!
『菩薩』は、
『但だ、般若波羅蜜中に住して!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得るのであり!』、
『餘法中に住して!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得ることはないのですか?』。
――
須菩提!
頗る( rather )、
『般若波羅蜜に入らないような!』、
『法』が、
『有るのか?』。
――
世尊!
若し、
『般若波羅蜜の自性が空ならば!』、
何故、
『一切法』が、
『皆、般若波羅蜜中に入るのですか?』。
世尊!
『空』中に、
『入ったり、入らなかったりするような!』、
『法』は、
『無いのではないですか?』。
――
須菩提!
『一切法』の、
『一切法相』は、
『空ではないのか?』。
――
世尊!
『空です!』。
――
須菩提!
若し、
『一切法』の、
『一切法相』が、
『空ならば!』、
何故、こう言うのか?――
『一切法』が、
『空』中に、
『入らない!』、と。
須菩提白佛言。世尊。云何菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。住一切法空中。能起神通波羅蜜。住是神通波羅蜜中。到十方如恒河沙等國土。供養現在諸佛。聞諸佛說法。於諸佛所種善根。 須菩提の仏に白して言さく、『世尊、云何が菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずる時、一切法の空中に住して、能く神通波羅蜜を起し、是の神通波羅蜜中に住して、十方の恒河沙に等しきが如き国土に到って、現在の諸仏を供養し、諸仏の説法を聞き、諸仏の所に於いて、善根を種うるや』、と。
『須菩提』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
何故、
『菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行じる!』時、
『一切法の空中に住して!』、
『神通波羅蜜』を、
『起すことができ!』、
是の、
『神通波羅蜜中に住して、十方の恒河沙に等しいほどの国土に到り!』、
『現在の諸仏を供養したり!』、
『諸仏の説法を聞いたり!』、
『諸仏の所に於いて、善根を種えることができるのですか?』、と。
  参考:『大般若経巻394』:『爾時具壽善現白佛言。世尊。云何菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多時。住一切法自性空中。引發神通波羅蜜多。諸菩薩摩訶薩住是神通波羅蜜多。能往十方無量殑伽沙等世界。供養諸佛聽受正法。於諸佛所種諸善根。佛告善現。若菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多時。遍觀十方無量殑伽沙等世界及諸佛眾。并所說法自性皆空。唯有世俗假說名字。如是世俗假說名字亦自性空。善現。若十方界及諸佛眾并所說法。假說名字自性不空。則所說空應不周遍。以所說空非不周遍故。一切法自性皆空。善現。是菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多時。由遍觀空方便善巧。便能引發殊勝神通波羅蜜多。住此神通波羅蜜多。復能引發天眼天耳神境他心宿住隨念。及知漏盡殊勝通慧。善現。諸菩薩摩訶薩非離神通波羅蜜多有能自在成熟有情嚴淨佛土證得無上正等菩提。善現。是故神通波羅蜜多是菩提道。諸菩薩摩訶薩皆依此道。求趣無上正等菩提。於求趣時能自圓滿一切善法。亦能令他修諸善法。雖作是事而於善法不生執著。所以者何。是菩薩摩訶薩知諸善法自性皆空。非自性空有所執著。若有執著則有愛味。由無執著亦無愛味。自性空中無愛味故。善現。是菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多時住勝神通波羅蜜多。引發天眼清淨過人。用是天眼觀一切法皆自性空。善現。是菩薩摩訶薩見一切法自性空故。不依法相造作諸業。雖為有情說如是法。而亦不得諸有情相及彼施設。善現。是菩薩摩訶薩以無所得而為方便。引發神通波羅蜜多。用是神通波羅蜜多能作悲願神通作事。』
佛告須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。觀是十方如恒河沙等國土皆空。是國土中諸佛亦性空。但假名字故。諸佛現身所假名字亦空。若十方國土及諸佛性不空者。空為有偏。以空不偏故。一切法一切法相空。 仏の須菩提に告げたまわく、『菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずる時観ずらく、是の十方の恒河沙に等しきが如き国土の皆空、是の国土中の諸仏もも亦た性空にして、但だ名字を仮るるなり。故に諸仏の現身なる名字を仮るる所も亦た空なり、と。若し十方の国土及び諸仏の性にして空ならざれば、空には、偏(かたより)有りと為すも、空の偏らざるを以っての故に、一切法の一切法相は空なり。
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
『菩薩摩訶薩が、般若波羅蜜を行じる!』時、こう観る、――
是の、
『十方の恒河沙に等しいほどの国土は、皆空であり!』、
是の、
『国土中の諸仏』も、
『性空であり!』、
『但だ、名字を仮りただけである!』が故に、
『諸仏の現身という!』、
『名字を仮りる!』所も、
『空である!』、と。
若し、
『十方の国土や、諸仏が空でなければ!』、
『空には( the emptiness )!』、
『偏りが有ることになる
should have the situation of not being general )!』が、
『空には、偏りが無い!』が故に、
『一切法の一切法相』は、
『空なのである!』。
  (へん):梵語 asarvazas の訳、普遍的でない( not generally )の義。
  (へん):梵語 sarvazas の訳、普遍的な/有らゆる場所/場合/時間に( in general, everywhere, always )の義。
以是故一切法一切法相空。是故菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。用方便力生神通波羅蜜。住是神通波羅蜜中。起天眼天耳如意足知他心智宿命智。知眾生生死。若菩薩遠離神通波羅蜜。不能得饒益眾生。亦不能得阿耨多羅三藐三菩提。是菩薩摩訶薩神通波羅蜜。是阿耨多羅三藐三菩提道。 是を以っての故に一切法の一切法相は空なれば、是の故に菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずるに、方便力を用いて神通波羅蜜を生じ、是の神通波羅蜜中に住して、天眼、天耳、如意足、知他心智、宿命智を起して、衆生の生死を知る。若し菩薩、神通波羅蜜を遠離すれば、衆生を饒益するを得る能わず、亦た阿耨多羅三藐三菩提を得る能わず。是の菩薩摩訶薩の神通波羅蜜は、是れ阿耨多羅三藐三菩提の道なり。
是の故に、
『一切法』の、
『一切法の相』は、
『空であり!』、
是の故に、
『菩薩摩訶薩』は、
『般若波羅蜜を行じて、方便力を用い!』、
『神通波羅蜜』を、
『生じ!』、
是の、
『神通波羅蜜中に住して!』、
『天眼、天耳、如意足、知他心智、宿命智を起して!』、
『衆生の生死』を、
『知るのである!』が、
若し、
『菩薩が、神通波羅蜜を遠離すれば!』、
『衆生を饒益することもできず!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得ることもできない!』。
是の、
『菩薩摩訶薩の神通波羅蜜』は、
『阿耨多羅三藐三菩提に到る!』、
『道だからである!』。
何以故。用是天眼自見諸善法。亦教他人令得諸善法。於善法亦不著。諸善法自性空故空無所著。若著則受味。是空中無有味。 何を以っての故に、是の天眼を用いて、自ら諸善法を見、亦た他人に教えて諸善法を得しむるも、善法に於いても亦た著せず。諸善法の自性は空なるが故に、空には所著無く、若し著すれば、則ち味を受くるも、是の空中には味有ること無ければなり。
何故ならば、
是の、
『天眼を用いて!』、
『自ら、諸善法を見!』、
『他人にも教えて!』、
『諸善法を得させる!』が、
亦た、
『善法』に、
『著することもない!』。
何故ならば、
『諸善法の自性は空である!』が故に、
『空』には、
『著する所が無い!』ので、
若し、
『空に著すれば!』、
『空の味』を、
『受けることになる!』が、
是の、
『空』中には、
『味が無いからである( not having any taste )!』。
  (み):◯梵語 rasa の訳、味覚/味わい( taste, flavour )の義。◯梵語 aasvaada, aasvaadya の訳、味わう/楽しむ( eating with a relish, tasting, enjoying )、食べられる/味わわれる/楽しまれる( to be eaten or tasted or enjoyed )の義、味わい( taste, enjoying )の意。
是菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時能生如是天眼。用是眼觀一切法空。見是法空不取相不作業。亦為人說是法。亦不得眾生相。不得眾生名。如是菩薩摩訶薩用無所得法故。起神通波羅蜜。用是神通波羅蜜。神通所應作者能作。 是の菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずる時、能く是の如き天眼を生じ、是の眼を用いて一切法の空なるを観、是の法空は相を取らず、業を作さざるを見、亦た人の為めに是の法を説くも、亦た衆生の相を得ず、衆生の名を得ず。是の如く菩薩摩訶薩は無所得の法を用うるが故に、神通波羅蜜を起し、是の神通波羅蜜を用うれば、神通所応を作者は能く作すなり。
是の、
『菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行じる!』時、
是のような、
『天眼を生じさせることができ!』、
是の、
『天眼を用いて!』、
『一切法は空である!』と、
『観( to observe )!』、
是の、
『法は空である!』が故に、
『相を取ることもなく、業を作すこともない!』と、
『見て( to view )!』、
是の、
『法を、人の為めに説きながら!』、
『衆生の相も、衆生の名』も、
『得ることはない( does not recognize )!』。
是のように、
『菩薩摩訶薩は、無所得の法を用いる!』が故に、
『神通波羅蜜を起し!』、
是の、
『神通波羅蜜を用いる!』ので、
『作者』は、
『神通所応を作すことができるのである
can do what is fit for the miracle forces )!』。
是菩薩用天眼通過於人眼。見十方國土。見已飛到十方饒益眾生。或以布施或以持戒。或以忍辱或以精進。或以禪定或以智慧饒益眾生。或以三十七助道法。或以諸禪解脫三昧。或以聲聞法或以辟支佛法。或以菩薩法或以佛法饒益眾生。 是の菩薩は、天眼通を用うれば、人眼に過ぎて、十方の国土を見、見已りて、十方に飛到して衆生を饒益し、或は布施を以って、或は持戒を以って、或は忍辱を以って、或は精進を以って、或は禅定を以って、或は智慧を以って衆生を饒益し、或は三十七助道法を以って、或は諸禅、解脱、三昧を以って、或は声聞法を以って、或は辟支仏法を以って、或は菩薩法を以って、或は仏法を以って衆生を饒益す。
是の、
『菩薩』は、
『人眼に過ぎる天眼通を用いて!』、
『十方の国土』を、
『見!』、
『見たならば、十方に飛到して!』、
『衆生』を、
『饒益する!』。
謂わゆる、
或は、
『布施や、持戒や、忍辱や、精進や、禅定や、智慧を用いて!』、
『衆生を饒益し!』、
或は、
『三十七助道法や、諸禅解脱三昧や、声聞辟支仏法、菩薩法、仏法を用いて!』、
『衆生を饒益する!』。
為慳者如是說法。諸眾生當行布施。貧窮是苦惱法。貧窮之人自不能益。何能益他。以是故。汝等當勤布施。自身得樂亦能令他得樂。莫以貧窮故共相食噉。不得離三惡道 慳者の為めには、是の如く説法すらく、『諸衆生は、当に布施を行ずべし。貧窮は是れ苦悩の法にして、貧窮の人は自ら益する能わず。何んが能く他を益する。是を以っての故に、汝等は当に布施を勤めて、自身に楽を得、亦た能く他をして、楽を得しむべし。貧窮を以っての故に、共に相食噉して、三悪道を離るるを得ざること莫かれ』、と。
『慳者の為め!』には、こう説法する、――
諸の衆生!
『布施を行じなけれならない!』、
『貧窮とは苦悩の法であり!』、
『貧窮の人』は、
『自らを、益することができない!』のに、
『何のように、他を益することができるのか』。
是の故に、
お前達は、
『布施に勤めて!』、
『自身にも楽を得て!』、
『他にも楽を得させねばならない!』。
『貧窮である!』が故に、
『共に、相食噉しながら!』、
『三悪道を離れられないようにしてはならない!』。
為破戒者說法。諸眾生破戒法大苦惱。破戒之人自不能益何能益他。破戒法受苦果報。若在地獄若在餓鬼若在畜生。汝等墮三惡道中自不能救何能救人。以是故。汝等不應隨破戒心死時有悔。 破戒の者の為めには説法すらく、『諸衆生、破戒の法は大苦悩なり。破戒の人は自ら益する能わず、何んが能く他を益するや。破戒の法は、苦の果報を受け、若しは地獄に在り、若しは餓鬼に在り、若しは畜生に在り。汝等、三悪道中に堕すれば、自ら救う能わず、何んが能く人を救わんや。是を以っての故に、汝等は、応に破戒の心に随いて、死する時に、悔有るべからず』、と。
『破戒者の為め!』には、こう説法する、――
諸の衆生!
『破戒の法は、大苦悩である!』、
『破戒の人』は、
『自らを、益することができない!』のに、
『何のように、他を益することができるのか』。
『破戒の法』は、
『苦の果報を受けて!』、
『地獄や、餓鬼や、畜生中に在ることになる!』。
お前達が、
『三悪道中に堕ちれば!』、
『自らを、救うこともなでない!』のに、
『何のように、他を救うことができるのか?』。
是の故に、
お前達は、
『破戒の心に随って!』、
『死ぬ!』時、
『悔が有ってはならない!』。
若有共相瞋諍者。說如是法。諸眾生莫共相瞋。瞋亂心人不順善法。汝等今共相瞋亂心。或墮地獄若餓鬼畜生中。以是故。汝等不應生一念瞋恚心。何況多。為懈怠眾生說法令得精進。散亂眾生令得禪定。愚癡眾生令得智慧。亦如是 若し、共に相瞋諍する者有れば、是の如き法を説かく、『諸の衆生、共に相瞋る莫かれ。瞋乱心の人は、善法に順ぜず。汝等、今共に相瞋乱心なれば、或は地獄、若しは餓鬼、畜生中に堕ちん。是を以っての故に、汝等は、応に一念すら瞋恚の心を生ずべからず。何に況んや多くをや。懈怠の衆生の為めには法を説いて精進を得しめ、散乱の衆生には禅定を得しめ、愚癡の衆生には智慧を得しむるも、亦た是の如し。
『共に、相瞋諍する者が有れば!』、こう説法する、――
諸の衆生!
『共に、相瞋諍してはならない!』。
『瞋乱心の人』は、
『善法』に、
『順じることはない!』。
お前達が、
『今共に、相瞋乱心を起せば!』、
或は、
『地獄や、餓鬼や、畜生』中に、
『堕ちるだろう!』。
是の故に、
お前達は、
『一念すら!』、
『瞋恚心』を、
『生じてはならない!』。
況して、
『多念ならば!』、
『尚更である!』、と。
亦た、
『懈怠、散乱、愚癡の衆生の為めに法を説いて!』、
『精進、禅定、智慧を得させる!』のも、
『是の通りである!』。
行婬欲者令觀不淨。瞋恚者令觀慈心。愚癡眾生令觀十二因緣。行非道眾生令入正道。所謂聲聞道辟支佛道佛道。為是眾生如是說法。汝等所著是法性空。性空法中不可得著。不著相是空相。 婬欲を行ずる者には、不浄を観ぜしめ、瞋恚の者には慈心を観ぜしめ、愚癡の衆生には十二因縁を観ぜしめ、非道を行ずる衆生には、正道に入らしむ。謂わゆる声聞道、辟支仏道、仏道なり。是の衆生の為めには、是の如く説法すらく、『汝等が所著の是の法は性空なり。性空の法中には、著を得べからず。不著の相は是れ空相なり。
『婬欲を行じる者、瞋恚する者、愚癡の衆生』には、
『不浄や、慈心や、十二因縁』を、
『観じさせ!』、
『非道を行じる衆生』には、
『正道、謂わゆる声聞道、辟支仏道、仏道』に、
『入らせる!』。
是の、
『衆生の為め!』に、こう説法する、――
『お前達の著する!』所の、
是の、
『法』は、
『性空であ!』、
『性空の法』中に、
『著』は、
『不可得である( it's impossible to attach )!』。
是の、
『不著の相( the quality of non-attaching )!』が、
『空相である!』。
如是須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。住神通波羅蜜中。為眾生作利益。須菩提。菩薩若遠離神通。不能隨眾生意善說法。以是故。須菩提菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時應起神通。 是の如く、須菩提、菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行ずる時、神通波羅蜜中に住して、衆生の為めに利益を作す。須菩提、菩薩は若し神通を遠離すれば、衆生の意に随いて、善く説法する能わず。是を以っての故に、須菩提、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずる時、応に神通を起すべし。
是のように、
須菩提!
『菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行じる!』時、
『神通波羅蜜中に住して!』、
『衆生の為め!』に、
『利益を作すのである!』。
須菩提!
『菩薩』が、
若し、
『神通を遠離すれば!』、
『衆生の意に随って!』、
『善く、説法することはできない!』。
是の故に、
須菩提!
『菩薩摩訶薩が、般若波羅蜜を行じる!』時には、
『神通』を、
『起さねばならぬのである!』。
須菩提譬如鳥無翅不能高翔。菩薩無神通不能隨意教化眾生。以是故須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。應起諸神通。起諸神通已。若欲饒益眾生隨意能益。 須菩提、譬えば鳥に翅無ければ、高翔する能わざるが如く、菩薩に神通無ければ、意に随って、衆生を教化する能わず。是を以っての故に、須菩提、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずるに、諸神通を起すべく、諸神通を起し已りて、若し衆生を饒益せんと欲すれば、意に随いて能く益するなり。
須菩提!
譬えば、
『鳥に、翅が無ければ!』、
『高く!』、
『翔ぶことができないように!』、
『菩薩に、神通が無ければ!』、
『意に随って!』、
『衆生を教化することができないのであり!』、
是の故に、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』が、
『般若波羅蜜を行じる!』時には、
『諸の神通』を、
『起さねばならないのであり!』、
『諸神通を起した!』後、
『衆生を饒益しようとすれば!』、
『意に随って!』、
『饒益することができるのである!』。
是菩薩用天眼見如恒河沙等諸國土。及見是國土中眾生。見已用神通力往到其所。知眾生心隨其所應而為說法。或說布施或說持戒或說禪定。乃至或說涅槃法。 是の菩薩は、天眼を用いて、恒河沙に等しきが如き諸国土を見、及び是の国土中の衆生を見、見已りて神通力を用いて、其の所に往到し、衆生の心を知って、其の応ずる所に随いて、為めに説法し、或は布施を説き、或は持戒を説き、或は禅定を説き、乃至或は涅槃の法を説く。
是の、
『菩薩』は、
『天眼を用いて!』、
『恒河沙ほどの国土と、其の国土中の衆生』を、
『見!』、
『見たならば、神通力を用いて!』、
『其の衆生の所』に、
『往到し!』、
『衆生の心を知って、衆生の応じる所に随い!』、
『衆生の為め!』に、
『説法するのであり!』、
或は、
『布施や、持戒や、禅定』を、
『説いたり!』、
乃至、
『涅槃の法』を、
『説くのである!』。
是菩薩用天耳聞二種音聲。若人若非人。用天耳聞十方諸佛所說法皆能受持。如所聞法為眾生說。或說布施乃至或說涅槃。 是の菩薩は、天耳を用いて、二種の若しは人、若しは非人の音声を聞き、天耳を用いて、十方の諸仏所説の法を聞き、皆能く受持し、所聞の法の如く、衆生の為めに説き、或は布施を説き、乃至或は涅槃を説く。
是の、
『菩薩』は、
『天耳を用いて!』、
『人や非人の二種の音声』を、
『聞き!』、
『天耳を用いて!』、
『十方の諸仏の所説の法を聞き!』、
『皆、受持することができ!』、
『所聞の法のように!』、
『衆生の為めに説き!』、
或は、
『布施』を、
『説いたり!』、
乃至、
『涅槃』を、
『説くのである!』。
是菩薩淨他心智。用他心智知眾生心。隨其所應而為說法。或說布施乃至或說涅槃。 是の菩薩は、他心智を浄めて、他心智を用いて、衆生の心を知り、其の所応に随いて、為めに説法し、或は布施を説き、乃至或は涅槃を説く。
是の、
『菩薩は、他心智を浄めながら!』、
『他心智を用いて!』、
『衆生の心』を、
『知り!』、
『衆生の応じる所に随って!』、
『衆生の為め!』に、
『説法し!』、
或は、
『布施』を、
『説いたり!』、
乃至、
『涅槃』を、
『説くのである!』。
是菩薩宿命智憶念種種本生處。亦自憶亦憶他人。用是宿命智念過去在在處處諸佛名字及弟子眾。有眾生信樂宿命者。為現宿命事而為說法。或說布施乃至或說涅槃。用如意神通力到種種無量諸佛國土。供養諸佛從諸佛種善根還來本國。 是の菩薩の宿命智は、種種の本生の処を憶念し、亦た自ら憶し、亦た他人を憶し、是の宿命智を用いて、過去の在在処処の諸仏の名字、及び弟子衆を念ず。有る衆生は、宿命を信楽すれば、為めに宿命の事を現して、為めに説法し、或は布施を説き、乃至或は涅槃を説き、如意神通力を用いて、種種無量の諸仏の国土に到って、諸仏を供養し、諸仏に従いて善根を種え、本国に還来す。
是の、
『菩薩』は、
『宿命智を用いて!』、
『種種の本生の処を憶念し!』、
亦た、
『自らの本生』を、
『憶念し!』、
亦た、
『他人の本生』を、
『憶念し!』、
是の、
『宿命智を用いて!』、
『過去の在在処処の諸仏の名字や、弟子衆を憶念して!』、
有る、
『衆生が、宿命を信楽していれば!』、
是の、
『衆生の為め!』に、
『宿命事を現して( to show the things of his former living )!』、
『衆生の為めに、説法して!』、
或は、
『布施』を、
『説いたり!』、
乃至、
『涅槃』を、
『説き!』、
『如意神通力を用いて!』、
『種種の無量の諸仏の国土に到り!』、
『諸仏を供養しながら!』、
『諸仏に従って!』、
『善根を種え!』、
還って、
『本国』に、
『来るのである( to return to his own country )!』。
  宿命事(しゅくみょうじ):梵語 puurva- nivaasa- vastu の訳、前世の事実( the real things of the former living being )の義。
  本国(ほんごく):梵語 svaka の訳、自分のもの/我がもの( one's own, a thing that belong to his own )の義。
是菩薩漏盡神通智證。用是漏盡神通智證故。為眾生隨應說法。或說布施乃至或說涅槃。 是の菩薩の漏尽神通智証は、是の漏尽神通智証を用うるが故に、衆生の為めに、応ずるに随いて説法し、或は布施を説き、乃至或は涅槃を説く。
是の、
『菩薩の漏尽神通智証』は、
是の、
『漏尽神通智証を用いる!』が故に、
『衆生の為め!』に、
『衆生の応じる所に随って!』、
『説法する!』ので、
或は、
『布施』を、
『説いたり!』、
乃至、
『涅槃』を、
『説くのである!』。
如是須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。應如是起諸神通。菩薩用修是神通故。隨意受身苦樂不染。譬如佛所化人作一切事苦樂不染。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。應如是遊戲神通能淨佛國土成就眾生。 是の如く、須菩提、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずる時、応に是の如く諸の神通を起すべし。菩薩は、是の神通を修するを用うるが故に、意に随いて身を受くるも、苦楽に染まらず。譬えば仏の所化の人の、一切事を作して、苦楽に染まらざるが如く、菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行ずる時、応に是の如く神通を遊戯すべく、能く仏国土を浄め、衆生を成就す。
是のように、
須菩提!
『菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行じる!』時、
是のように、
『諸神通』を、
『起さねばならず!』、
『菩薩』は、
是の、
『神通を修めて用いる!』が故に、
『意に随って、身を受けながら!』、
『苦楽に染まらないのである!』。
譬えば、
『仏に化された人』が、
『一切事を作しながら!』、
『苦楽』に、
『染まらないように!』、
『菩薩摩訶薩が、般若波羅蜜を行じる!』時、
是のように、
『神通を遊戯するはずであり!』、
『仏国土を浄めることができ!』、
『衆生を成就するのである!』。
復次須菩提。菩薩摩訶薩不淨佛國土。不成就眾生。不能得阿耨多羅三藐三菩提。何以故。因緣不具足故。不能得阿耨多羅三藐三菩提。 復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は仏国土を浄めず、衆生を成就せざれば、阿耨多羅三藐三菩提を得る能わず。何を以っての故に、因縁の具足せざるが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得る能わざるなり。
復た次ぎに、
須菩提!
『菩薩摩訶薩が、仏国土を浄めることなく!』、
『衆生を成就しなければ!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得ることができない!』。
何故ならば、
『因縁が具足しない!』が故に、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得られないのである!』。
須菩提白佛言。世尊。何等是菩薩摩訶薩因緣具足已得阿耨多羅三藐三菩提。佛告須菩提。一切善法是菩薩阿耨多羅三藐三菩提因緣。 須菩提の仏に白して言さく、『世尊、何等か、是れ菩薩摩訶薩の因縁具足し已りて、阿耨多羅三藐三菩提を得る』、と。仏の須菩提に告げたまわく、『一切の善法は、是れ菩薩の阿耨多羅三藐三菩提の因縁なり』、と。
『須菩提』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
『菩薩摩訶薩』は、
何のような、
『因縁が具足すれば!』、
『阿耨多羅三藐三菩提を得られるのですか?』、と。
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
『一切の善法』は、
『菩薩』が、
『阿耨多羅三藐三菩提を得る!』、
『因縁である!』、と。
須菩提白佛言。世尊。何等是善法。以是善法故得阿耨多羅三藐三菩提。 須菩提の仏に白して言さく、『世尊、何等か是れ善法にして、是の善法を以っての故に阿耨多羅三藐三菩提を得る』、と。
『須菩提』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
何のような、
『善法』の故に、
『阿耨多羅三藐三菩提を得られるのですか?』、と。
佛告須菩提。菩薩從初發意已來。檀波羅蜜是善法因緣。是中無分別是施者是受者。性空故。用是檀波羅蜜能自利益。亦能利益眾生。從生死拔出令得涅槃。 仏の須菩提に告げたまわく、『菩薩は、初発意より已来の檀波羅蜜是れ善法の因縁にして、是の中に是れ施者、是れ受捨と分別する無く、性空なるが故に、是の檀波羅蜜を用うれば、能く自ら利益し、亦た能く衆生を利益して、生死より抜き出して、涅槃を得しむ。
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
『菩薩が、初発意以来行じる!』所の、
『檀波羅蜜』が、
『善法の因縁であり!』、
是の、
『檀波羅蜜』中には、
『施者も、受捨の分別が無く!』、
『皆、性空である!』が故に、
是の、
『檀波羅蜜を用いて自ら利益し、衆生をも利益して!』、
『生死より、抜き出し!』、
『涅槃を得させることができるのである!』。
是諸善法皆是菩薩摩訶薩阿耨多羅三藐三菩提因緣。行是道過去未來現在諸菩薩摩訶薩得度生死。已度今度當度。 是の諸善法は、皆是れ菩薩摩訶薩の阿耨多羅三藐三菩提の因縁にして、是の道を行じて、過去、未来、現在の諸菩薩摩訶薩は、生死を度するを得、已に度し、今度し、当に度すべきなり。
是の、
『諸の善法』は、
皆、
『菩薩摩訶薩が阿耨多羅三藐三菩提を得る!』、
『因縁であり!』、
是の、
『道を行じて!』、
『過去、未来、現在の菩薩摩訶薩』は、
『生死を度すことができ!』、
『已に度し、今度し、当に度すはずなのである!』。
尸羅波羅蜜羼提波羅蜜毘梨耶波羅蜜禪波羅蜜般若波羅蜜。四禪四無量心四無色定四念處。乃至八聖道分十八空八背捨九次第定陀羅尼門。佛十力四無所畏四無礙智十八不共法。如是等功德皆是阿耨多羅三藐三菩提道。 尸羅波羅蜜、羼提波羅蜜、毘梨耶波羅蜜、禅波羅蜜、般若波羅蜜、四禅、四無量心、四無色定、四念処乃至八聖道分、十八空、八背捨、九次第定、陀羅尼門、仏の十力、四無所畏、四無礙智、十八不共法の、是れ等の如き功徳は、皆是れ阿耨多羅三藐三菩提の道なり。
『尸羅波羅蜜、乃至般若波羅蜜も!』、
『四禅、四無色定、四念処、乃至八聖道分も!』、
『十八空、八背捨、九次第定、陀羅尼門も!』、
『仏の十力、四無所畏、四無礙智、十八不共法も!』、
是れ等のような、
『功徳』は
『皆、阿耨多羅三藐三菩提の道なのである!』。
須菩提是名善法。菩薩摩訶薩具足是善法已當得一切種智。得一切種智已當轉法輪。轉法輪已當度眾生 須菩提、是れを善法と名づけ、菩薩摩訶薩は、是の善法を具足し已れば、当に一切種智を得べく、一切種智を得已れば、当に法輪を転ずべく、法輪を転じ已れば、当に衆生を度すべし。
須菩提!
是れが、
『善法であり!』、
是の、
『善法を、菩薩摩訶薩が具足すれば!』、
『一切種智』を、
『得ることになり!』、
『一切種智を得たならば!』、
『法輪』を、
『転じることになり!』、
『法輪を転じたならば!』、
『衆生』を、
『度すことになるのである!』。



【論】菩薩は空中に住して、神通波羅蜜を起す

【論】釋曰。爾時須菩提問。住何等善根故能受此身。佛答。菩薩摩訶薩一切善法具足。乃至須菩提大歡喜白佛言。菩薩摩訶薩大方便成就力。住何等聖無漏法能受此身。而不為畜身所染。譬如幻師亦如變化住何等白淨法能作如是方便。佛答。菩薩以般若波羅蜜力故能成就如是方便。作種種身能利益十方國土中眾生。亦不貪是身。 釈して曰く、爾の時、須菩提の問わく、『何等の善根にか、住するが故に能く此の身を受くるや』、と。仏の答えたまわく、『菩薩摩訶薩は一切の善法具足するなり』、乃至、須菩提の大歓喜して仏に白して言さく、『菩薩摩訶薩の大方便成就の力は、何等の聖無漏法に住して、能く此の身を受け、畜身に染せられざるや。譬えば幻師も、亦た変化の如きなるが如きに、何等の白浄の法に住して、能く是の如き方便を作すや』、と。仏の答えたまわく、『菩薩は、般若波羅蜜の力を以っての故に、能く是の如き方便を成就して、種種の身を作し、能く十方の国土中の衆生を利益するも、亦た是の身を貪らず』、と。
釈す、
爾の時、
『須菩提』が、こう問うと、――
何のような、
『善法に住する!』が故に、
此の、
『身』を、
『受けることができるのですか?』、と。
『仏』は、こう答えられた、――
『菩薩摩訶薩』は、
『一切の善法』が、
『具足するからである!』、と。
乃至、
『須菩提は大歓喜しながら!』、
『仏に白して!』、こう言った、――
『菩薩摩訶薩の大方便が成就した力』は、
何のような、
『聖無漏法に住して、此の身を受けることができ!』、
而も、
『畜生の身』に、
『染まらないのですか?』、と。
『菩薩摩訶薩』は、
譬えば、
『幻師も、亦た変化のようなものある!』のに、
何のような、
『白浄の法に住して!』、
是のような、
『方便』を、
『作すことができるのか?』、と。
『仏』は、こう答えられた、――
『菩薩は、般若波羅蜜の力を用いる!』が故に、
是のような、
『方便を成就して!』、
『種種の身』と、
『作ることができ!』、
『十方の国土』中の、
『衆生』を、
『利益することができる!』が、
是の、
『身』を、
『貪ることはもないのである!』。
佛此中說因緣。是菩薩三法不可得。一者是菩薩身。二者所作鹿馬。三者所用法。何以故。是法皆性空。空亦不著空。空中亦無貪著。法無故眾生無。眾生無故法亦無。 仏は、此の中に因縁を説きたまわく、『是の菩薩の三法は不可得なり、一には是の菩薩の身、二には作る所の鹿、馬、三には用うる所の法なり。何を以っての故に、是の法は、皆性空にして、空も亦た空に著せず、空中にも亦た貪著する無く、法無きが故に衆生無く、衆生無きが故に法も亦た無ければなり』、と。
『仏』は、
此の中に、
『因縁』を、こう説かれた、――
是の、
『菩薩の三法は、不可得である!』、
一には、
是の、
『菩薩』の、
『現在の身であり!』、
二には、
是の、
『菩薩が作る!』所の、
『鹿や、馬であり!』、
三には、
是の、
『菩薩が用いる!』所の、
『法である!』。
何故ならば、
是の、
『法は、皆性空である!』が故に、
『空』は、
『空』に、
『著することなく!』、
『空』中には、
『貪著する!』所が、
『無く!』、
『法が無い!』が故に、
『衆生』も、
『無く!』、
『衆生が無い!』が故に、
『法』も、
『無いからである!』、と。
此中佛說因緣。空中空不可得。不可得故菩薩云何貪是智慧。是名無所得空般若波羅蜜。菩薩住是中能得阿耨多羅三藐三菩提。以無障礙故易得。 此の中に、仏は因縁を説きたまわく、『空中には空も不可得なれば、不可得なるが故に菩薩は、云何が是の智慧を貪らんや。是れを無所得空の般若波羅蜜と名づく。菩薩は、是の中に住して、能く阿耨多羅三藐三菩提を得れば、障礙無きを以っての故に得やすし』、と。
此の中に、
『仏』は、
『因縁』を、こう説かれた、――
『空中に、空は不可得であり!』、
『空』は、
『不可得である!』が故に、
『菩薩』は、
是の、
『空の智慧』を、
『何のように、貪るのか?』。
是れが、
『無所得空という!』、
『般若波羅蜜であり!』、
『菩薩』は、
是の、
『般若波羅蜜中に住して!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得ることができ!』、
『般若波羅蜜中には障礙が無い!』が故に、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得易いのである!』。
須菩提問。菩薩住六波羅蜜乃至十八不共法。今何以但說住無所得般若波羅蜜中得。佛答。須菩提。何法不入般若中。一切法皆入般若波羅蜜中。若住般若波羅蜜則住一切法。 須菩提の問わく、『菩薩は、六波羅蜜乃至十八不共法に住するに、今、何を以ってか、但だ無所得の般若波羅蜜中に住して得、と説きたもうや』、と。仏の答えたまわく、『須菩提、何法か、般若中に入らざる。一切法は皆般若波羅蜜中に入り、若し般若波羅蜜に住すれば、則ち一切法に住するなり』、と。
『須菩提』は、こう問うた、――
『菩薩は、六波羅蜜乃至十八不共法に住する!』のに、
今は、
何故、
但だ、こう説かれたのですか?――
『無所得という!』、
『般若波羅蜜中に住して!』、
『得るのである!』、と。
『仏』は、こう答えられた、――
須菩提!
何のような、
『法が、般若中に入らないのか?』、――
『一切法』は、
『皆、般若波羅蜜中に入るのであり!』、
若し、
『般若波羅蜜に住すれば!』、
『一切法』に、
『住することになる!』、と。
復問。若般若波羅蜜性空。云何一切法皆入中。此中須菩提自說因緣。一切法性空中無有法出無有法入。佛告須菩提。一切法一切法相空耶。世尊空。須菩提。若一切法一切法相空。一切法應入空中。汝云何言空中無有法出入。 復た問わく、『若し般若波羅蜜の性空なれば、云何が一切法は皆中に入るや』、と。此の中に須菩提は、自ら因縁を説かく、『一切法の性空中には法の出づる有ること無く、法の入る有ること無し』、と。仏の須菩提に告げたまわく、『一切法の一切法相空なりや』、と。『世尊、空なり』、『須菩提、若し一切法の一切法相は空なれば、一切法は応に空中に入るべし。汝は云何が、空中には法の出入有ること無し、と言う』。
復た、こう問うた、――
若し、
『般若波羅蜜の性が空ならば!』、
何故、
『一切法』が、
『皆、般若波羅蜜中に入るのですか?』、と。
此の中に、
『須菩提』は自ら因縁を、こう説いている、――
『一切法の性空』中には、
『出る法も、入る法も!』、
『無い!』、と。
『仏』は、こう告げられた、――
須菩提!
『一切法』の、
『一切法相』は、
『空なのか?』、と。
――
世尊!
『空です!』。
――
須菩提!
若し、
『一切法』の、
『一切法相』が、
『空ならば!』、
『一切法』が、
『空』中に、
『入るはずである!』が、
何故、
お前は、こう言うのか?――
『空』中には、
『法の出入は無い!』、と。
爾時須菩提心伏受解。聞是菩薩化身度眾生。今問。世尊。菩薩云何住一切法空中。能起神通波羅蜜到十方如恒河沙國土供養佛聽法種甚深善根。善根者諸陀羅尼三昧門。無礙解脫之根本。 爾の時、須菩提は心伏し受解して聞くらく、『是の菩薩は化身なるに衆生を度す』、と。今問わく、『世尊、菩薩は云何が一切法の空中に住して、能く神通波羅蜜を起して、十方の恒河沙の如き国土に到りて、仏を供養し、法を聞いて、甚だ深き善根を種うるや』、と。善根とは、諸の陀羅尼、三昧門、無礙解脱の根本なり。
爾の時、
『須菩提』は、
『心伏し受解して( being convinced and attaining )!』、こう聞いたので、――
是の、
『菩薩は化身でありながら!』、
『衆生』を、
『度すことができる!』、と。
今、こう問うたのである、――
世尊!
『菩薩』は、
何故、
『一切法の空中に住しながら!』、
『神通波羅蜜を起して、十方の恒河沙ほどの国土に到って!』、
『仏を供養することができ!』、
『法を聞いて、甚だ深い善根を種えることができるのですか?』、と。
『善根』とは、
『諸の陀羅尼、三昧門であり!』、
『無礙解脱の根本である!』。
  心伏/心服(しんぷく):梵語 samaahita- citta? の訳、定心/馴致された心( a mind put in order )の義、心より確信する( genuinely convinced )の意。
  受解(じゅげ):梵語 abhisambhava の訳、[知識を]獲得する( attainment )の義。
須菩提意般若波羅蜜性空。云何菩薩安住性空波羅蜜中能行是神通有法。佛言。空故能行。所以者何。須菩提。菩薩行般若時。觀十方如恒河沙國土皆空。是國土諸佛亦空。 須菩提の意は、『般若波羅蜜は性空なるに、云何が菩薩は、性空の波羅蜜中に安住して、能く行ずるや。是の神通には、法有りや』、と。仏の言わく、『空なるが故に能く行ずるなり。所以は何んとなれば、須菩提、菩薩は般若を行ずる時、十方の恒河沙の如き国土は、皆空なり、是の国土の諸仏も亦た空なりと観ればなり』、と。
『須菩提の意』は、こうである、――
『般若波羅蜜は、性空なのに!』、
何故、
『菩薩』は、
『性空の波羅蜜中に安住しながら!』、
『諸の行』を、
『行じることができるのですか?』。
是の、
『神通に有る法を用いて!』、
『行じるのですか?』、と。
『仏』は、こう言われた、――
『空であるが故に、行じることができるのである!』。
何故ならば、
須菩提!
『菩薩が、般若を行じる!』時には、
『十方の恒河沙ほどの国土も、是の国土の諸仏も皆空である!』と、
『観るからである!』、と。
問曰。若國土空佛亦應空。何以別說。 問うて曰く、若し国土にして空なれば、仏も亦た応に空なるべきに、何を以ってか、別して説きたまえる。
問い、
若し、
『国土が、空ならば!』、
『仏も!』、
『空のはずである!』が、
何故、
『別けて!』、
『説くのですか?』。
答曰。佛以無量阿僧祇實功德得是身。能以一足指動十方如恒河沙國土。又菩薩世世來。深愛重佛不能疾觀使空。是故不共國土合說。 答えて曰く、仏は無量阿僧祇劫の実の功徳を以って、是の身を得たまえば、能く一足指を以って、十方の恒河沙の如き国土を動かしたもうに、又菩薩は世世に来たりて、深く仏を愛重すれば、疾かに観て、空ならしむる能わず。是の故に国土と共に合して説かざるなり。
答え、
『仏』は、
『無量阿僧祇劫に積んだ!』、
『実の功徳を用いて!』、
是の、
『身』を、
『得られた!』ので、
『一足指を用いて!』、
『十方の恒河沙ほどの国土』を、
『動かすことができる!』し、
『菩薩』も、
『世世に仏所に来て!』、
『仏を深く愛重する!』ので、
『疾かに観て!』、
『仏を空にすることができない!』ので、
是の故に、
『仏を、国土と共に合して!』、
『説かないのである!』。
此中佛自說因緣。若十方國土及諸佛不空者空為有偏。有偏名有空不空處。今實不偏故。一切法一切法相空。 此の中に仏は自ら因縁を説きたまわく、『若し十方の国土、及び諸仏にして空ならざれば、空には偏り有りと為す』、と。偏り有るを、空と不空の処有りと名づく。今は実に偏らざるが故に、一切法の一切法相は空なり。
此の中に、
『仏』は、
自ら、
『因縁』を、こう説かれている、――
若し、
『十方の国土と諸仏とが空でなければ!』、
『空』には、
『偏りが有ることになる!』、と。
『偏りが有る!』とは、
『空の処も、不空の処も!』、
『有るということである!』が、
今、
『空は、実に偏らない!』が故に、
『一切法の一切法相』が、
『空なのである!』。
菩薩行般若波羅蜜一切法無礙。以肉眼觀色不通。見上不見下。見前不見後。通見障不見。晝見夜不見。知肉眼力少故。以方便更求天眼。 菩薩は、般若波羅蜜を行ずるに、一切法は無礙なり。肉眼を以って色を観れば通ぜず、上を見れば下を見ず、前を見れば後を見ず、通ずれば見るも、障うれば見ず、昼に見て夜に見ず、肉眼力の少きを知るが故に、方便を以って更に天眼を求む。
『菩薩が、般若波羅蜜を行じる!』と、
『一切法』には、
『障礙( any obstacle )』が、
『無くなる!』が、
『肉眼を用いて観れば!』、
『色を通すことがない!』ので、
『上を見れば、下が見えず!』、
『前を見れば、後が見えず!』、
『通じれば見えて、障えぎられれば見えず!』、
『昼に見えても、夜には見えない!』。
『肉眼の力が少い、と知る!』が故に、
『方便を用いて!』、
『更に、天眼を求めるのである!』。
方便力者令他界四大來在身中。用天眼義如先說。生天耳如意足他心智宿命智。知眾生生死所趣等。 方便力とは、他の界の四大を、身中に来たらしむるなり。天眼を用うる義は、先に説けるが如し。天耳、如意足、他心智、宿命智を生ずれば、衆生の生死の趣く所等を知る。
『方便力』とは、
『他の色界、無色界等より!』、
『四大』を、
『身中に来させることである!』。
『天眼を用いる義』は、
先に、
『説いた通りである!』。
『天耳、如意足、他心智、宿命智を生じれば!』、
『衆生の生死の趣く所等』を、
『知ることになる!』。
菩薩若無神通不能得饒益眾生。何以故。若無神通云何能令多眾生發心。菩薩有神通猶尚不能盡令眾生發心。何況無。是故神通波羅蜜是菩薩所行道。 菩薩に、若し神通が無ければ、衆生を饒益するを得る能わず。何を以っての故に、若し神通無ければ、云何が能く多くの衆生をして発心せしむる。菩薩には神通有るも、猶尚お、尽くは衆生をして発心せしむる能わず。何に況んや無きをや。是の故に、神通波羅蜜は是れ菩薩所行の道なり。
『菩薩に、神通が無ければ!』、
『衆生を饒益する道』を、
『得られない!』。
何故ならば、
『神通が無ければ!』、
何のようにして、
『多くの衆生』を、
『発心させられるのか?』。
『菩薩に神通が有ったとしても!』、
猶尚お、
『尽くの衆生』を、
『発心させることはできない!』、
況して、
『無ければ!』、
『尚更である!』。
是の故に、
『神通波羅蜜』は、
『菩薩の行じる!』所の、
『道なのである!』。
菩薩自見善法。亦令他人得見善法。亦不著是善法。何以故。是法性皆空故。 菩薩は、自ら善法を見て、亦た他人をして、善法を見るを得しめ、亦た是の善法にも著せず。何を以っての故に、是の法性は、皆空なるが故なり。
『菩薩』は、
『自ら、善法を見ながら!』、
『他人にも!』、
『善法を見えるようにさせ!』、
是の、
『善法』に、
『著することもない!』。
何故ならば、
是の、
『法性』は、
『皆、空だからである!』。
問曰。天眼可見色。云何見善法。又言。見一切法性空。 問うて曰く、天眼は色を見るべし。云何が善法を見る。又、『一切法の性空なるを見る』、と言う。
問い、
『天眼』は、
『色を見ることはできる!』が、
何故、
『善法』を、
『見ることができるのか?』。
又、
『一切法が性空である、と見る!』と、
『言うのか?』。
答曰。因中說果以天眼見。自見己身及見十方眾生。然後用他心智宿命智。求其今世後世善根。是善根及果報久皆磨滅。磨滅故見空。 答えて曰く、因中に果を説けばなり。天眼を以って見るに、自ら己身を見、及び十方の衆生を見、然る後に他心智、宿命智を用いて、其の今世、後世の善根を求むるも、是の善根、及び果報は久しくすれば、皆磨滅し、磨滅するが故に、空を見るなり。
答え、
『因中に、果を説くからである!』。
謂わゆる、
『天眼を用いて見れば!』、
『自ら、己身を見て!』、
『十方の衆生を見る!』に、
『及び!』、
その後、
『他心智、宿命智を用いて!』、
『己身、衆生の今世、後世の善根』を、
『求める( to seek )!』と、
是の、
『善根も、果報も久しくすれば!』、
『皆、磨滅することになり!』、
『磨滅する!』が故に、
『空』を、
『見るのである!』。
是善根皆是有為法無自性。無自性故空。空故不可著亦不可受味。不可受味故不著。譬如蠅無處不著唯不著火焰。眾生愛著亦如是。善不善法中皆著。乃至非有想非無想著故不能入涅槃。唯不能著般若波羅蜜性空火。 是の善根は、皆是れ有為法にして自性無く、自性無きが故に空なり。空なるが故に著すべからず、亦た味を受くべからず。味を受くべからざるが故に著せず。譬えば蝿には著せざる処無けれども、唯だ火焔には著せざるが如し。衆生の愛著も亦た是の如く、善不善の法中に皆著し、乃至非有想非無想にも著するが故に、涅槃に入る能わず。唯だ般若波羅蜜の性空の火に著する能わず。
是の、
『善根は、皆有為法であり!』、
『自性』が、
『無い!』が、
『自性が無いが故に、空であり!』、
『空である!』が故に、
『著することも、味を受けることもできない!』。
『味を受けることができない!』が故に、
『善根の法』に、
『著さないのである!』。
譬えば、
『蝿には、著さない処が無い!』が、
唯だ、
『火焔には!』、
『著さないように!』、
『衆生の愛著』も、
是のように、
『善、不善の法』中に、
『皆、著し!』、
乃至、
『非有想非無想にまで著する!』が故に、
『涅槃に入ることができない!』が、
唯だ、
『般若波羅蜜の性空の火』には、
『著することができないのである!』。
所以者何。般若波羅蜜般若波羅蜜相空。若般若波羅蜜不空。即是味是可著處。 所以は何んとなれば、般若波羅蜜の般若波羅蜜相は空なればなり。若し般若波羅蜜が空にあらざれば、即ち是れ味にして、是れ著すべき処なり。
何故ならば、
『般若波羅蜜』の、
『般若波羅蜜相』は、
『空だからである!』。
若し、
『般若波羅蜜が空でなければ!』、
即ち、
『味であり( something enjoyed )!』、
『可著の処である( something attached )!』。
菩薩住是智慧中不起有漏業。為眾生說法。亦知眾生假名不可得安住是無所得般若波羅蜜中。而能具足神通事。若菩薩不得是無障礙般若。則不能得無礙神通。 菩薩は、是の智慧中に住して、有漏業を起さず、衆生の為めに説法して、亦た衆生は仮名にして、不可得なるを知り、是の無所得の般若波羅蜜中に安住して、能く神通の事を具足す。若し菩薩にして、是の無障礙の般若を得ざれば、即ち無礙神通を得る能わず。
『菩薩』は、
是の、
『智慧中に住して!』、
『有漏業を、起すことなく!』、
『衆生の為めに、説法し!』、
亦た、
『衆生は仮名であり、不可得である!』と、
『知り!』、
是の、
『無所得の般若波羅蜜中に安住する!』ので、
『神通の事』を、
『具足することができるのである!』。
若し、
『菩薩』が、
是の、
『無障礙の般若を得られなければ!』、
『無礙の神通』を、
『得ることができない!』。
菩薩得是無障礙空神通。飛到十方國土利益眾生。如經中廣說。或以布施或以持戒等。 菩薩は、是の無障礙、空の神通を得て、十方の国土に飛到し、衆生を利益すること、経中に広説するが如く、或は布施を以って、或は持戒等を以ってなり。
『菩薩』は、
是の、
『無障礙、空の神通を得て!』、
『十方の国土に飛到しながら!』、
『衆生を利益するのである!』が、
『経中に広説されたように!』、
或は、
『布施や、持戒等を用いて!』、
『衆生』を、
『利益するのである!』。
慳者為說布施等六波羅蜜義。如此中佛自廣說。如此中說譬喻。如鳥無翅不能飛翔。菩薩亦如是。無神通波羅蜜不能教化眾生。 慳者の為めに説きたまえる布施等の六波羅蜜の義は、此の中に、仏の自ら広説したもうが如し。此の中に、『鳥の翅無ければ、飛翔する能わざるが如く、菩薩も亦た是の如く、神通波羅蜜無ければ、衆生を教化する能わず』、と譬喻を説けるが如し。
『慳者の為めに説かれた!』、
『布施』等の、
『六波羅蜜の義』は、
此の中に、
『仏』が、
『自ら広説された通りである!』。
此の中の、
『譬喻』に、こう説く通りである、――
『鳥』に、
『翅が無ければ!』、
『飛翔することができないように!』、
『菩薩』も、是のように、
『神通波羅蜜が無ければ!』、
『衆生を教化することができない!』、と。
菩薩以天眼見十方國土諸佛及一切眾生。以天耳力從諸佛聞法。以如意神通力放大光明。或現水火作種種變化現奇特事。令眾生發希有尊重心。以他心智力故。知他心心數法所著所厭可度不可度是利是鈍是善根成就是未成就。如是等知他眾生心。攝取善根成就者 菩薩は天眼を以って、十方の国土の諸仏、及び一切の衆生を見、天耳の力を以って、諸仏より法を聞き、如意神通の力を以って、大光明を放ち、或は水火を現し、種種の変化を作して、奇特の事を現わし、衆生をして希有の尊重心を発さしめ、他心智の力を以っての故に、『他の心心数法の著する処、厭う所、度すべし、度すべからず、是れ利なり、是れ鈍なり、是の善根は成就す、是れ未だ成就せず』、と知り、是れ等の如く、他の衆生心を知りて、善根の成就せる者を摂取するなり。
『菩薩』は、
『天眼を用いて!』、
『十方の国土の諸仏と、一切の衆生』を、
『見!』、
『天耳の力を用いて!』、
『諸仏より!』、
『法を聞き!』、
『如意神通の力を用いて!』、
『大光明を放ったり、水火を現わして種種の変化を作したり、奇特の事を現わして!』、
『衆生』に、
『希有である、と尊重する心を発させ!』、
『他心智の力を用いる!』が故に、
『他の心、心数法』の、
『著する所や、厭う所』を、
『知り!』、
『度すことができるのか、できないのか?』、
『利なのか、鈍なのか?』、
『善根が成就しているのか、成就していないのか?』と、
是れ等のように、
『他の衆生心を知って!』、
『善根が成就した者を摂取するのである!』。
有可度者。以宿命智生死智觀其本末何所從來。種何善根所好何行。從此終當生何所。何時當得解脫。如是籌量思惟知可度者。過去業因緣未來世果報。 度すべき者有れば、宿命智、生死智を以って、其の本末を、『何所より来たるや、何なる善根を種うるや、好む所は何なる行なりや、此に終るによりて、当に何所にか生ずべきや。何れの時にか、当に解脱を得べきや』を観、是の如く籌量、思惟して度すべき者の過去の業因縁と、未来世の果報を知る。
『度すべき者が有れば!』、
『宿命智、生死智を用いて!』、
其の、
『本末を観る!』、――
謂わゆる、
『何所より来て、何のような善根を種え、何のような行を好むのか?』、
『此に終ると何所に生じることになるのか?』、
『解脱を得られるのは、何時なのか?』、と。
是のように、
『籌量、思惟しながら!』、
『度すべき者の過去の業因縁と、未来世の果報』を、
『知るのである!』。
復以神通力。是人應以恐怖度者。以地獄示之。汝當生此中。應以歡喜度者示以天堂。眼見是事心懷驚怖歡喜厭患世間。 復た神通力を以って、是の人は応に恐怖を以って度すべき者なれば、地獄を以って之に、『汝は、当に此の中に生ずべし』、と示し、応に歓喜を以って度すべき者には、天堂を以って示すに、眼に是の事を観て、心に驚怖、歓喜を懐いて、世間を厭患す。
復た、
『神通力を用いて!』、
是の、
『人』が、
『恐怖を用いて度すべき!』者ならば、
『地獄を用いて!』、
之に、
『お前は、此の中に生じるだろう!』と、
『示し!』、
『歓喜を用いて度すべき!』者には、
『天堂を用いて!』、
之に、
『示す!』と、
『眼』に、
是の、
『事を見て!』、
『心に、驚怖や歓喜を懐いて!』、
『世間を厭患するのである!』。
爾時以漏盡神通說漏盡法。眾生聞是法破其著心。以三乘而得涅槃。譬如白鷺欲取魚時籌量進止不失期會知其可得即便取之終不空也。菩薩亦如是。以神通力故觀眾生本末應度因緣國土時節。知其信等諸根增利諸因緣具足而為說法則不空也。是故說菩薩離神通不能饒益眾生如鳥無翅。 爾の時、漏尽神通を以って、漏尽の法を説くに、衆生は是の法を聞いて、其の著心を破り、三乗を以って涅槃を得。譬えば白鷺の魚を取らんと欲する時、進止を籌量すれば、期会を失わず、其の得べきを知りて、即便ち之を取れば、終に空しからざるが如く、菩薩も亦た是の如く、神通力を以っての故に、衆生の本末と、応に度すべき因縁と、国土、時節を観、其の信等の諸根増利して、諸の因縁具足すを知りて、為めに説法すれば、則ち空しからず。是の故に説かく、『菩薩は神通を離るれば、衆生を饒益する能わざること、鳥に翅無きが如し』、と。
爾の時、
『漏尽神通を用いて、漏尽の法を説く!』と、
『衆生』は、
是の、
『法を聞いて!』、
『著心』を、
『破り!』、
『三乗を用いて!』、
『涅槃』を、
『得るのである!』。
譬えば、
『白鷺が、魚を取ろうとする!』時、
『進、止を籌量し!』て、
『期の会するを、失わず( not to miss the chances )!』、
其の、
『得べき時』を、
『知って!』、
即便に( at the instant )、
『之を、取れば!』、
『終に、空しくないように!』、
『菩薩』も、
是のように、
『神通力を用いる!』が故に、
『衆生の本末、度すべき因縁、国土、時節を観て!』、
其の、
『信等の諸根が増利し、諸因縁が具足した!』のを、
『知って!』、
是の、
『衆生の為めに、説法すれば!』、
『空しいことはない!』。
是の故に、こう説くのである、――
『菩薩が神通を離れれば!』、
『鳥に翅が無いように!』、
『衆生』を、
『饒益することができない!』、と。
  期会(ごえ):機会( the chance )。機が熟す( the ripening of the chances )。
餘神力如佛自說。以天眼見十方眾生生死。亦知眾生心隨意說法。乃至善修神通力。而為眾生受身。不為苦樂所污。 餘の神力は、仏の自ら説きたまえるが如し、『天眼を以って十方の衆生の生死を見、亦た衆生の心を知りて隨意に説法し、乃至善く神通力を修し、衆生の為めに身を受くるも、苦楽に汚されず』、と。
『餘の神力』は、
『仏』が、自らこう説かれている、――
『天眼を用いて!』、
『十方の衆生の生死を見、衆生の心を知って!』、
『意のままに!』、
『説法し!』、
乃至、
『善く、神通力を修めながら!』、
『衆生の為めに、身を受ける!』が、
『苦楽に汚されることはない!』、と。
是菩薩於眾生中。或為父或為子或為師或為弟子或為主或為奴。或為象馬或為乘象馬者。或時富貴力勢或時貧賤。於此諸事亦不為染污。譬如佛所化人作一切事不染苦樂。 是の菩薩は、衆生中に於いて、或は父と為り、或は子と為り、或は師と為り、或は弟子と為り、或は主と為り、或は奴と為り、或は象馬と為り、或は象馬に乗る者と為り、或は時に富貴にして力勢あり、或は時に貧賤なるも、此の諸事に於いて染汚されず。譬えば仏の所化の人の、一切の事を作すも、苦楽に染まらざるが如し。
是の、
『菩薩』は、
『衆生中に於いて!』、
或は、
『父と為ったり!』、
『子と為ったり!』、
或は、
『師と為ったり!』、
『弟子と為ったり!』、
或は、
『主と為ったり!』、
『奴と為ったり!』、
或は、
『象馬と為ったり!』、
『象馬に乗る者と為ったり!』、
或は時に、
『富貴の力勢であったり!』、
『貧賤であったりしながら!』、
此の、
『諸事』に、
『染汚されることもない!』。
譬えば、
『仏に化作された!』、
『人』が、
『一切事を作しながら!』、
『苦楽』に、
『染まらないようなものである!』。
一切事者如先作種種阿僧祇身度眾生。苦樂不染者樂中不生愛。苦中不生瞋。不如生死眾生隨處起煩惱。菩薩應如是遊戲神通成就眾生淨佛國土。 一切事とは、先に種種阿僧祇の身と作りて、衆生を度すが如し。苦楽に染まらずとは、楽中に愛を生ぜず、苦中に瞋を生ぜず、生死の衆生の如く、随処に煩悩を起さざるなり。菩薩は、応に是の如く神通に遊戯して、衆生を成就し、仏国土を浄むべし。
『一切事』とは、
『先に、種種の身と作って!』、
『衆生』を、
『度すようなことである!』。
『苦楽に染まらない!』とは、
『楽中に愛を生じず、苦中に瞋を生じず!』、
『生死の衆生のように!』、
『随処に煩悩を起さないことである!』。
『菩薩』は、
是のように、
『神通に遊戯しながら!』、
『衆生を成就し!』、
『仏国土を浄めねばならない!』。
問曰。菩薩神通力有所作。何以名遊戲。 問うて曰く、菩薩の神通力には所作有るに、何を以ってか、遊戯と名づくる。
問い、
『菩薩の神通力』には、
『所作が有る( have what to be done )!』のに、
何故、
『遊戯( a child play )』と、
『称するのですか?』。
  遊戯(ゆげ):梵語 vikrIDita の訳、遊び/子供の遊び、即ち容易な仕事( play, a child play( i.e. easy work ) )の義。
答曰戲名如幻師種種現變。菩薩神通種種現化名之為戲。 答えて曰く、戯を、幻師の種種に現変するが如しと名づけ、菩薩の神通の種種の現化、之を名づけて戯と作す。
答え、
『遊戯』とは、
例えば、
『幻師』が、
『種種に現変することであり( to make sth. appear )!』、
『菩薩の神通』の、
『種種の現化( something which is performed )』も、
『遊戯』と、
『称する!』。
  現変(げんぺん):梵語 vidarzayati の訳、~を出現させる( to make something appear )の義。
  現化(げんけ):梵語 nirmita の訳、組み立てられた/建造された/形造られた/創造された/作された( constructed, built, formed, created, performed )の義。
復次佛法中三三昧空名為上行。何以故。似如涅槃無所著無所得故。諸餘行法皆名為下。下如小兒。是故說神通力名為遊戲。於成就眾生淨佛土中最為要用成就眾生。如是中說淨佛土共修善根。 復た次ぎに、仏法中の三三昧の空を名づけて、上行と為す。何を以っての故に、涅槃の如きに似て、無所著、無所得なるが故なり。諸余の行法を、皆名づけて下と為し、下なるは小児の如し。是の故に説かく、『神通力を名づけて、遊戯と為す』、と。衆生を成就し、仏土を浄むる中に於いて、最も衆生を成就するに要用なりと為し、是の中に説けるが如く、仏土を浄むることと、共に善根を修するなり。
復た次ぎに、
『仏法』中の、
『三三昧という!』、
『空』は、
『上行である!』。
何故ならば、
『涅槃などに似て!』、
『無所著であり!』、
『無所得だからである!』。
『諸余の行法は、皆下であり!』、
『小児のように下である!』が故に、
『神通力を遊戯と称す!』と、
『説くのである!』。
『衆生を成就し、仏土を浄める!』中に於いて、
『神通』は、
『衆生を成就する!』のに、
『最も要用であり( the most useful )!』、
是の中に説かれた、
『仏土を浄めることと共に!』、
『善根を修めることになる!』。
  要用(ようゆう):梵語 upayogya の訳、役に立つ( useful, serviceable )の義。
問曰。何必要用成就眾生淨佛國土。 問うて曰く、何んが必ず要用にして、衆生を成就し、仏国土を浄むるや。
問い、
何故、
『衆生を成就し、仏国土を浄めること!』に、
『必ず、要用なのですか( is it needful and useful )!』。
答曰。佛自說因緣。不成就眾生淨佛國土不能得無上道。何以故。因緣不具足則不能得阿耨多羅三藐三菩提。 答えて曰く、仏は自ら因縁を説きたまわく、『衆生を成就し、仏国土を浄めざれば、無上道を得る能わず。何を以っての故に、因縁具足せざれば、則ち阿耨多羅三藐三菩提を得る能わざればなり』、と。
答え、
『仏』は、
自ら、
『因縁』を、こう説かれている、――
『衆生を成就せず、仏国土を浄めなければ!』、
『無上道』を、
『得ることができない!』。
何故ならば、
『因縁が具足しなければ!』、
『阿耨多羅三藐三菩提を得られないからである!』、と。
因緣者所謂一切善法。從初發意行檀波羅蜜乃至十八不共法。於是行法中無憶想分別。是施者是財物是受者。乃至十八不共法亦如是。若菩薩不著心無所分別。行六波羅蜜乃至十八不共法。是為阿耨多羅三藐三菩提因緣。以是道得阿耨多羅三藐三菩提。亦能自度又能度眾生。 因縁とは、謂わゆる一切の善法なる、初発意より行ずる檀波羅蜜乃至十八不共法にして、是の法を行ずる中に『是れ施者、是れ財物、是れ受者』と憶想、分別する無く、乃至十八不共法まで亦た是の如し。若し菩薩、不著の心に分別する所無く、六波羅蜜乃至十八不共法を行ずれば、是れを阿耨多羅三藐三菩提の因縁と為し、是の道を以って、阿耨多羅三藐三菩提を得れば、亦た能く自ら度し、又能く衆生を度す。
『因縁』とは、
『謂わゆる、一切の善法であり!』、
『初発意より行じる!』、
『檀波羅蜜乃至十八不共法である!』。
是の、
『檀波羅蜜の法を行じる!』中に、
『是れは施者である、是れは財物である、是れは受者である!』と、
『憶想、分別することは無く!』、
乃至、
『十八不共法まで!』、
『是の通りである!』。
若し、
『菩薩の不著の心に、分別する所が無く!』、
『六波羅蜜、乃至十八不共法』を、
『行じれば!』、
是れは、
『阿耨多羅三藐三菩提』の、
『因縁であり!』、
是の、
『道を用いて、阿耨多羅三藐三菩提を得る!』ので、
『自ら、度すことができ!』、
『衆生をも、度すことができるのである!』。
問曰。菩薩若著心布施有何等過而不名具足。著心布施受者恩重。 問うて曰く、菩薩、若し著心もて布施すれば、何等の過か有りて、具足と名づけざる。著心の布施も、受者には恩重ければなり。
問い、
『菩薩』に、
若し、
『著心で、布施すれば!』、
何のような、
『過が有って!』、
『具足しないのですか?』。
『著心の布施であっても!』、
『受者』には、
『恩が重いからです!』。
答曰。雖有小利而有大過。如美食雜毒雖有美利而自喪命。 答えて曰く、小利有りと雖も、大過有ること、美食に毒を雑うれば、美の利有りと雖も、自ら命を喪うが如し。
答え、
『小利が有っても!』、
『大過』が、
『有るからである!』。
譬えば、
『美食に毒を雑えれば!』、
『美の利が有っても!』、
『自ら、命を喪うようなものである!』。
問曰。何者是過。 問うて曰く、何者か、是れ過なる。
問い、
何のような、
『過』が、
『有るのですか?』。
答曰。若著心布施有不稱意事則生恚怒。若受者不感其恩即成怨嫌。若著心供養善人有少凶衰則嫌。布施不應悔惜所施。若布施心悔所受果報則不清淨。 答えて曰く、若し著心の布施に、意に称(かな)わざる事有れば、恚怒を生じ、若し受者、其の恩を感ぜざれば、即ち怨嫌を成じ、若し著心もて供養するに、善人に少しの凶衰有れば、則ち布施の応ぜざるを嫌いて、施す所を悔惜し、若し布施して心悔ゆれば、受くる所の果報は則ち清浄ならず。
答え、
若し、
『著心の布施』に、
『意に称わない事が有れば( there is something being not satisfyed )!』、
『恚怒』を、
『生じさせることになり!』、
若し、
『受者』が、
『恩を感じなければ!』、
『怨嫌』を、
『成じることになり!』、
若し、
『著心で供養して!』、
『善人に少しの凶衰でも有れば
the good-man appears slightly dying weak )!』、
『布施が応じない( the donetion is not fit to him )のを嫌って!』、
『施す所を悔惜し!』、
若し、
『布施して!』、
『心に悔やめば!』、
『受ける所の果報』も、
『清浄でなくなる!』。
復次著心布施者深心貪著財物。若有侵奪則便加害。自念我為福德好事集財。汝何故侵奪。先貪財物為今世事。而作布施為後世事愛惜轉深。以染著故若有侵奪能為重罪。重罪因緣故受三惡道苦。 復た次ぎに、著心の布施する者は深心に財物に貪著すれば、若し侵奪有れば、則便ち害を加え、自ら念ずらく、『我れは、福徳、好事の為めに財を集むるに、汝は何の故にか侵奪する。先に財物を貪るは、今世の為めの事にして、布施を作すは、後世の為めの事なり』、と。愛惜すること転た深く、染著を以っての故に、若し侵奪有れば、能く重罪を為し、重罪の因縁の故に、三悪道の苦を受く。
復た次ぎに、
『著心の布施する!』者の
『深心』は、
『財物』に、
『貪著する!』ので、
若し、
『侵奪されることが有れば!』、
『害を加えて!』、自らこう念じ、――
わたしが
『福徳、好事の為めに集めた!』、
『財』を、
お前は、
何故、
『侵奪するのか?』。
先に、
『財物を貪った!』のは、
『今世の為め!』の、
『事であり!』、
今、
『布施を作す!』のは、
『後世の為め!』の、
『事である!』、と。
『愛惜が転た深まり!』、
『染著( defiled attachment )』の故に、
若し、
『侵奪が有れば!』、
『重罪』を、
『為すことができ!』、
『重罪の因縁』の故に、
『三悪道の苦』を、
『受けるのである!』、
復次貪著因緣故生瞋恚。瞋恚因緣故加刀杖。刀杖殺害受諸苦惱。 復た次ぎに、貪著の因縁の故に瞋恚を生じ、瞋恚の因縁の故に刀杖を加え、刀杖もて殺害すれば、諸の苦悩を受く。
復た次ぎに、
『貪著の因縁』の故に、
『瞋恚』を、
『生じ!』、
『瞋恚の因縁』の故に、
『刀杖』を、
『加え!』、
『刀杖で殺害する!』が故に、
『諸の苦悩』を、
『受けるのである!』。
復次人起愚癡業大不安隱。行此虛誑不實事故後必致大患。 復た次ぎに、人の愚癡を起す業大なれば、安隠ならず、此の虚誑にして、不実の事を行ずるが故に後に必ず、大患を致す。
復た次ぎに、
『人』が、
『愚癡を起す!』と、
『業が大きい!』が故に、
『安隠でなく!』、
此の、
『虚誑、不実の事を行じる!』が故に、
『後には必ず!』、
『大患を致す( to invite suffering in body and mind )!』。
  大患(だいげん):梵語 aatura の訳、[心身の]病気/苦痛( suffering, sick (in body or mind) )の義。
十方諸佛皆說無相解脫門。諸法無相相是為實。若人取是財物虛誑不實相。然後心著。心著故期大果報而能施與。譬如人欲求多收故大用穀子。如是著心布施果報少而不淨。終歸於盡受諸憂惱不可稱說皆由取相。故有如是過。 十方の諸仏は、皆無相解脱門を説きたまえば、諸法の無相の相は、是れを実と為す。若し人、此の財物の虚誑、不実の相を取りて、然る後に心著し、心著するが故に大果報を期して、能く施与す。譬えば、人の多收を欲求するが故に、大いに穀子を用うるが如し。是の如く著心の布施は果報少くして不浄なれば、終に尽くるに帰し、諸の憂悩を受くること称説すべからざるは、皆相を取るに由るが故に、是の如き過有り。
『十方の諸仏』は、
皆、
『無相という!』、
『解脱門』を、
『説かれている!』ので、
『諸法』が、
『無相の相である!』とは、
『実である!』。
若し、
『人』が、
是の、
『財物』の、
『虚誑、不実の相』を、
『取って!』、
その後、
『心』が、
『著すれば!』、
『心が著する!』が故に、
『大果報を期待して!』、
『施与することができるだろう!』が、
譬えば、
『人』が、
『多く収穫しようと欲求する( desiring an abundant harvest )!』が故に、
『大きく!』、
『穀子を用いるようなものである!』。
是のように、
『著心の布施』には、
『果報が少く!』、
『不浄である!』が故に、
『終に、尽に帰するのであり!』、
『不可称説( unexplainable )』の、
『諸の苦悩』を、
『受ける!』のは、
皆、
『相を取ること!』に、
『由る!』が故に、
是のような、
『過』が、
『有るのである!』。
若以如實相行布施。無有如是過。無量阿僧祇生死中受諸福樂而亦不盡。乃至得阿耨多羅三藐三菩提。 若し如実の相を以って布施を行ずれば、是の如き過有ること無く、無量阿僧祇劫の生死中に諸の福楽を受けて、亦た乃至阿耨多羅三藐三菩提を得るまで尽きず。
若し、
『如実の相を用いて!』、
『布施を行じれば!』、
是のような、
『過』は、
『無く!』、
『無量阿僧祇劫の生死』中に、
『諸の福楽を受けながら!』、
乃至、
『阿耨多羅三藐三菩提を得るまで!』、
『尽きることがない!』。
復次若人以著心行善法。是人若聞諸法畢竟空。即時捨所行法著是空法取相以此為實。先者為虛誑。是人則失二種法。失先善法而墮邪見。著心者有如是過。譬如重病之人雖有眾藥療之無損藥復作病。著心行諸功德有如是等過罪。 復た次ぎに、若し人、著心を以って善法を行ずれば、是の人若し諸法の畢竟空なるを聞けば、即時に所行の法を捨てて、是の空法に著して、相を取り、此れを以って実と為し、先の者を虚誑と為す。是の人は則ち二種の法を失い、先の善法を失いて邪見に墜つ。著心の者には、是の如き過有り。譬えば重病の人にして、衆薬の之を療して損ずる無き有りと雖も、薬も亦た病を作すが如し。著心もて諸功徳を行ずれば、是れ等の如き過罪有り。
復た次ぎに、
若し、
『人』が、
『著心で!』、
『善法を行じれば!』、
是の、
『人』は、
若し、
『諸法は畢竟空である、と聞けば!』、
即時に、
『所行の法を捨て!』、
是の、
『空法に著して、相を取り!』、
此の、
『空法』を、
『実として!』、
先の、
『善法』を、
『虚誑とする!』ので、
是の、
『人は、二種の法を失うばかりでなく!』、
先の、
『善法を失う!』が故に、
『邪見に墜ちることになる!』。
『著心の者』には、
是のような、
『過』が、
『有り!』、
譬えば、
『重病人には、衆薬が有って!』、
『病を療しながら!』、
『損なうことが無くても( does not harm him )!』、
復た、
『薬』は、
『病と作るようなものである!』
『著心で、諸功徳を行じれば!』、
是れ等のような、
『過罪』が、
『有る!』。
菩薩捨於著心不取空相如如法性實際。於布施等法亦如是。見為一切眾生迴向阿耨多羅三藐三菩提。 菩薩は、著心を捨つれば、空相を取らざること、如、法性、実際の如し。布施等の法に於いても、亦た是の如く見て、一切の衆生の為めに、阿耨多羅三藐三菩提に迴向す。
『菩薩が、著心を捨てれば!』、
『空の相』を、
『如、法性、実際の相のように!』、
『取らず!』、
亦た、
『布施等の法を見ても!』、
『是の通りであり!』、
『一切の衆生の為めに!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』に、
『迴向するのである!』。
復次菩薩布施時作是念。如十方三世諸佛。畢竟清淨智慧知諸法實相。亦知是布施相。我亦以是性迴向。 復た次ぎに、菩薩は布施する時、是の念を作さく、『十方の先世の諸仏の畢竟清浄なる智慧の諸法の実相を知りて、亦た是の布施の相を知るが如く、我れも亦た是の性を以って迴向せん』、と。
復た次ぎに、
『菩薩は、布施する!』時、こう念じる、――
『十方、三世の諸仏の畢竟清浄な智慧』が、
『諸法の実相を知り!』、
是の、
『布施の相』を、
『知るように!』、
わたしも、
是の、
『性を用いて( with this nature )!』、
『阿耨多羅三藐三菩提に回向しよう!』、と。
  (しょう):梵語 sva-bhaava の訳、出身地( native place )の義、自然な状態/気質/生来の性質/本性( natural state or constitution, innate or inherent disposition, nature )の意。
復次是菩薩一切五情心心數法中。不用不行不能知諸法相故。是法皆是因緣邊生。虛誑無有自性故我今欲知諸法實相。迴向是諸虛誑入實相中皆無有異。我今未能得諸法清淨實智慧故。有所分別是虛是實。以清淨智慧知之則皆作第一義諦。入第一義諦中皆為清淨無有別異。 復た次ぎに、是の菩薩は、一切の五情と心心数法中に、諸法の実相を用いず、行ぜず、知る能わざるが故に、『是の法は、皆是れ因縁の辺に生じ、虚誑にして自性有ること無きが故に、我れは今、諸法の実相を知りて迴向せんと欲す。是の諸の虚誑は、実相中に入れば、皆異有ること無ければ、我れは今、未だ諸法の清浄、実の智慧を得る能わざるが故に、是れ虚、是れ実なりと分別する所有るも、清浄の智慧を以って、之を知れば、則ち皆第一義諦と作り、第一義諦中に入れば、皆清浄と為りて、別異有ること無し』、と。
復た次ぎに、
是の、
『菩薩』は、
『一切の五情、心、心数法』中に、
『諸法の相』を、
『用いることも、行じることもなく!』、
『知ることができない!』が故に、
是の、
『法(五情、心、心数法)』は、
『皆、因縁の辺に生じる
all are arising by other mental functions )!』ので、
『虚誑であり!』、
『自性が無い!』ので、
是の故に、こう念じる、――
わたしは、
『今、諸法の実相を知って!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』に、
『迴向することにしよう!』。
是の、
『諸の虚誑の法』は、
『実相中に入れば!』、
『皆、異が無くなる!』。
わたしは、
『今は、未だ諸法の清浄の実の智慧を得られない!』が故に、
『是れは虚である、是れは実である!』と、
『分別する所が、有る!』が、
『清浄の智慧を用いて!』、
『諸法の実相を知れば!』、
『諸法』は、
『皆、第一義諦と作り!』、
『第一義諦中に入れば!』、
『諸法』は、
『皆、清浄と為り!』、
『別異が無くなる!』、と。
如是布施等迴向直至佛道。是故說無所分別心能行布施等。是名真菩薩道 是の如き布施等を迴向すれば、直ちに仏道に至り、是の故に説かく、『分別する所無き心は、能く布施等を行じ、是れを真の菩薩道と名づく』、と。
是のような、
『布施等を、阿耨多羅三藐三菩提に回向すれば!』、
『仏道』に、
『直至することになる!』ので、
是の故に、こう説く、――
『分別する所の無い!』、
『心』は、
『布施等を行じることができ!』、
是れを、
『真の菩薩道』と、
『称する!』、と。


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