巻第九十三(上)
大智度論釋淨佛國土品第八十二之餘
1.【經】浄土とは?
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大智度論釋淨佛國土品第八十二之餘(卷第九十三)
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


【經】浄土とは?

【經】復次須菩提菩薩取色相受想行識相眼相耳鼻舌身意相色聲香味觸法相男相女相欲界相色界相無色界相善法相不善法相有為法相無為法相。是名菩薩麤業。 復た次ぎに、須菩提、菩薩が色相、受想行識相、眼相、耳鼻舌身意相、色声香味触法相、男相、女相、欲界相、色界相、無色界相、善法相、不善法相、有為法相、無為法相を取れば、是れを菩薩の麁業と名づく。
復た次ぎに、
須菩提!
『菩薩』が、
『色相、受想行識相、眼相、耳鼻舌身意相、色声香味触法相や!』、
『男相、女相、欲界相、色界相、無色界相や!』、
『善法相、不善法相、有為法相、無為法相』を、
『取れば!』、
是れを、
『菩薩の麁業( a caorse activity of BodhiSattva )』と、
『称する!』。
  麁業(そごう)・麁重(そじゅう):大般若には麁重と訳す。梵語 duSThula の訳。衰弱させる( debilitating )の義、粗雑な行為( coarse activity )の意。煩悩、或は習慣という勢力/習気に言及する語( the term can refer to afflictions or habit energies )。
  参考:『大般若経巻393』:『復次善現。若菩薩摩訶薩起色想起受想行識想亦名麤重。起眼處想起耳鼻舌身意處想亦名麤重。起色處想起聲香味觸法處想亦名麤重。起眼界想起耳鼻舌身意界想亦名麤重。起色界想起聲香味觸法界想亦名麤重。起眼識界想起耳鼻舌身意識界想亦名麤重。起眼觸想起耳鼻舌身意觸想亦名麤重。起眼觸為緣所生諸受想起耳鼻舌身意觸為緣所生諸受想亦名麤重。起地界想起水火風空識界想亦名麤重。起因緣想起等無間緣所緣緣增上緣想亦名麤重。起從緣所生諸法想亦名麤重。起無明想起行識名色六處觸受愛取有生老死愁歎苦憂惱想亦名麤重。起布施波羅蜜多想起淨戒安忍精進靜慮般若波羅蜜多想亦名麤重。起內空想起外空內外空空空大空勝義空有為空無為空畢竟空無際空散空無變異空本性空自相空共相空一切法空不可得空無性空自性空無性自性空想亦名麤重。起四念住想起四正斷四神足五根五力七等覺支八聖道支想亦名麤重。起苦聖諦想起集滅道聖諦想亦名麤重。起四靜慮想起四無量四無色定想亦名麤重。起八解脫想起八勝處九次第定十遍處想亦名麤重。起陀羅尼門想起三摩地門想亦名麤重。起空解脫門想起無相無願解脫門想亦名麤重。起極喜地想起離垢地發光地焰慧地極難勝地現前地遠行地不動地善慧地法雲地想亦名麤重。起五眼想起六神通想亦名麤重。起佛十力想起四無所畏四無礙解大慈大悲大喜大捨十八佛不共法想亦名麤重。起三十二大士相想起八十隨好想亦名麤重。起無忘失法想起恒住捨性想亦名麤重。起一切智想起道相智一切相智想亦名麤重。起預流果想起一來不還阿羅漢果獨覺菩提想亦名麤重。起一切菩薩摩訶薩行想起諸佛無上正等菩提想亦名麤重。起異生想起聲聞想獨覺想菩薩想如來想亦名麤重。起地獄想起傍生想鬼界想天想人想男想女想亦名麤重。起欲界想色界想無色界想。起善想不善想無記想起世間想出世間想。起有漏想無漏想。起有為想無為想亦名麤重。善現。諸如是等無量無邊執著諸法。補特伽羅虛妄分別。及所等起身語意業。并彼種類無堪住性皆名麤重。善現。是菩薩摩訶薩遠離如是所說麤重。自行布施波羅蜜多。亦教他行布施波羅蜜多。若諸有情須食與食。須飲與飲。須衣服與衣服。須車乘與車乘。須舍宅與舍宅。須僮僕與僮僕。須侍衛與侍衛。須花香與花香。須嚴具與嚴具。須幢蓋與幢蓋。須伎樂與伎樂。須臥具與臥具。須燈明與燈明。須床座與床座。隨諸所須種種資具。隨時隨處皆悉施與。如自所行教他亦爾。如是施已。持此善根與諸有情平等共有迴向所求嚴淨佛土。令速圓滿利樂有情。善現。是菩薩摩訶薩自行淨戒波羅蜜多。亦教他行淨戒波羅蜜多。自行安忍波羅蜜多。亦教他行安忍波羅蜜多。自行精進波羅蜜多。亦教他行精進波羅蜜多。自行靜慮波羅蜜多。亦教他行靜慮波羅蜜多。自行般若波羅蜜多。亦教他行般若波羅蜜多。是菩薩摩訶薩作此事已。持是善根與諸有情平等共有迴向所求嚴淨佛土。令速圓滿利樂有情』
菩薩摩訶薩皆遠離如是麤業相。自布施亦教他人布施。須食與食須衣與衣。乃至種種資生所須盡給與之。亦教他人種種布施。持是福德與一切眾生。共之迴向淨佛國土故。持戒忍辱精進禪定智慧亦如是。 菩薩摩訶薩は、皆、是の如き麁業の相を遠離して、自ら布施し、亦た他人に教えて布施せしめ、食を須(もと)むれば食を与え、衣を須むれば衣を与え、乃至種種の資生の所須を尽く、之に給与し、亦た他人に教えて、種種に布施せしめ、是の福徳を持して、一切の衆生と、之を共にす。仏国土を浄むるに迴向せんが故なり。持戒、忍辱、精進、禅定、智慧も亦た是の如し。
『菩薩摩訶薩』は、
皆、
是のような、
『麁業の相を遠離して( to leave the marks raising caorse activities )!』、
『自ら、布施しながら!』、
『他人にも、教えて布施させ!』、
『食を須める!』者には、
『食』を、
『与え!』、
『衣を須める!』者には、
『衣』を、
『与えて!』
乃至、
『種種の資生の所須』を、
『尽く、与え!』、
亦た、
『他人に教えて!』、
『種種に布施させ!』、
是の、
『福徳を持して( keeping this merit )!』、
『仏国土を浄める為め!』の故に、
『一切の衆生と共に!』、
『迴向するのである!』。
亦た、
『持戒、忍辱、精進、禅定、智慧』も、
『是の通りである!』。
  遠離(おんり):◯梵語 akurvan, akurvat の訳、不作/作さない( not doing, not acting )の義。◯梵語 kevala の訳、独りで( alone, only )の義、何物にも繋がらない( not connected with anything else )の意。
是菩薩摩訶薩或以三千大千國土滿中珍寶施與三尊。作是願言我以善根因緣故。令我國土皆以七寶成。 是の菩薩摩訶薩は、或は三千大千国土の中に満つる珍宝を以って、三尊に施与し、是の願を作して、言わく、『我れは、善根の因縁を以っての故に、我が国土をして、皆七宝を以って成ぜしめん』、と。
是の、
『菩薩摩訶薩』は、
或は、
『三千大千国土中を満たす!』、
『珍宝』を、
『三尊(仏法僧)に施与して!』、
こう願って言う、――
わたしは、
『善根の因縁』の故に、
わたしの、
『国土』を、
『皆、七宝で成じさせよう!』、と。
  参考:『大般若経巻394』:『復次善現。有菩薩摩訶薩。以通願力盛滿三千大千世界上妙七寶施佛法僧。施已歡喜發弘誓願。我持如是所種善根。與諸有情平等共有迴向所求嚴淨佛土。當令我土七寶莊嚴。一切有情隨意受用種種珍寶而無染著。復次善現。有菩薩摩訶薩。以通願力擊奏無量天上人中諸妙音樂。供養三寶及佛制多。供已歡喜發弘誓願。我持如是所種善根。與諸有情平等共有迴向所求嚴淨佛土。當令我土常奏如是上妙樂音。有情聞之身心悅預而無染著。復次善現。有菩薩摩訶薩。以通願力盛滿三千大千世界人中天上諸妙香花。供養三寶及佛制多。供已歡喜發弘誓願。我持如是所種善根。與諸有情平等共有迴向所求嚴淨佛土。當令我土常有如是諸妙香花。有情受用身心悅預而無染著。復次善現。有菩薩摩訶薩。以通願力營辦百味上妙飲食。供養諸佛獨覺聲聞及諸菩薩摩訶薩眾。供已歡喜發弘誓願。我持如是所種善根。與諸有情平等共有迴向所求嚴淨佛土。當得無上正等覺時。令我土中諸有情類。皆食如是百味飲食。資悅身心而無染著。復次善現。有菩薩摩訶薩。以通願力營辦種種天上人中上妙塗香細軟衣服。奉施諸佛獨覺聲聞及諸菩薩摩訶薩眾。或復施法并佛制多。施已歡喜發弘誓願。我持如是所種善根。與諸有情平等共有迴向所求嚴淨佛土。當得無上正等覺時。令我土中諸有情類。常得如是衣服塗香隨意受用而無染著。復次善現。有菩薩摩訶薩。以通願力嚴辦種種人中天上隨意所生上妙色聲香味觸境。供養諸佛及佛制多獨覺聲聞并諸菩薩施餘生類。歡喜踊躍發弘誓願。我持如是所種善根。與諸有情平等共有迴向所求嚴淨佛土。當得無上正等覺時。令我土中諸有情類。隨心所樂上妙色聲香味觸境應念而至。歡喜受用而無染著。復次善現。有菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多。發弘誓願精勤勇猛。自住內空。亦勸他住內空。自住外空內外空空空大空勝義空有為空無為空畢竟空無際空散空無變異空本性空自相空共相空一切法空不可得空無性空自性空無性自性空。亦勸他住外空乃至無性自性空。作此事已復發願言。當得無上正等覺時。令我土中諸有情類。皆不遠離內空乃至無性自性空。復次善現。有菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多。發弘誓願精勤勇猛。自修四念住。亦勸他修四念住。自修四正斷四神足五根五力七等覺支八聖道支。亦勸他修四正斷乃至八聖道支。作此事已復發願言。當得無上正等覺時。令我土中諸有情類。皆不遠離四念住乃至八聖道支』
復次須菩提。菩薩摩訶薩以天妓樂樂佛及塔。作是願言。以是善根因緣願我國土中常聞天樂。 復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は天の妓楽を以って、仏及び塔を楽しましめ、是の願を作して言わく、『是の善根の因縁を以って、願わくは我が国土中には常に、天の楽を聞かしめん』、と。
復た次ぎに、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』は、
『天の妓楽を用いて!』、
『仏や、塔』を、
『楽しませ!』、
こう願って、言う、――
是の、
『善根の因縁を用いて!』、
願わくは、
『わたしの国土』中には、
『常に、天楽が聞こえるように!』、と。
復次須菩提。菩薩摩訶薩以三千大千國土滿中天香。供養諸佛及塔。作是願言以是善根因緣令我國土中常有天香。 復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は三千大千国土中に満つる天香を以って、諸仏及び塔を供養し、是の願を作して言わく、『是の善根の因縁を以って、願わくは我が国土中をして常に、天の香有らしめん』、と。
復た次ぎに、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』は、
『三千大千国土中に満ちる!』、
『天香を用いて!』、
『諸仏や、塔を供養し!』、
こう願って、言う、――
是の、
『善根の因縁を用いて!』、
わたしの、
『国土』中に、
『常に、天香が有るようにしよう!』、と。
復次須菩提。菩薩摩訶薩以百味食施佛及僧。作是願言。以是善根因緣故。令我國土中眾生皆得百味食。 復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は百味の食を以って、仏及び僧に施し、是の願を作して言わく、『是の善根の因縁を以って、我が国土中の衆生をして皆、百味の食を得しめん』、と。
復た次ぎに、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』は、
『百味の食を用いて!』、
『仏や、僧』に、
『施し!』、
こう願って、言う、――
是の、
『善根の因縁を用いて!』、
わたしの、
『国土中の衆生』の、
『皆に、百味の食を得させよう!』、と。
復次須菩提。菩薩摩訶薩以天香細滑施佛及僧。作是願言。以是善根因緣故。令我國土中一切眾生受天香細滑。 復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は天香の細滑を以って、仏及び僧に施し、是の願を作して言わく、『是の善根の因縁を以って、我が国土中の一切衆生をして天香の細滑を受けしめん』、と。
復た次ぎに、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』は、
『天香の細滑を( a fine, smooth and perfumed clothes of Gods )!』、
『仏や、僧』に、
『施し!』、
こう願って、言う、――
是の、
『善根の因縁を用いて!』、
わたしの、
『国土中の一切の衆生』に、
『天香の細滑を受けさせよう!』、と。
  細滑(さいかつ):梵語 suukSma- zlakSNa の訳、きめ細かく滑らか( fine and smooth )の義。
  天香細滑:大般若経394に説かく、「上妙塗香細軟衣服」、と。
復次須菩提。菩薩摩訶薩以隨意五欲施佛及僧并一切眾生。作是願言。以是善根因緣故。令我國土中弟子及一切眾生皆得隨意五欲。是菩薩以隨意五欲共一切眾生迴向淨佛國土。作是願言。我得佛時。是國土中如天五欲應心而至。 復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は随意の五欲を以って、仏及び僧、併びに一切の衆生に施し、是の願を作して言わく、『是の善根の因縁を以っての故に、我が国土中の弟子、及び一切の衆生をして、皆隨意の五欲を得しめん』、と。是の菩薩は、隨意の五欲を以って、一切の衆生と共に、仏国土を浄るに回向し、是の願を作して言わく、『我れ、仏を得ん時、是の国土中には、天の如く、五欲は心に応じて至らん』、と。
復た次ぎに、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』は、
『隨意の五欲』を、
『仏や、僧や、一切の衆生』に、
『施し!』、
こう願って言う、――
是の、
『善根の因縁』の故に、
わたしの、
『国土中の弟子や、一切の衆生』には、
皆、
『隨意の五欲』を、
『得させよう!』、と。
是の、
『菩薩』は、
『隨意の五欲を、一切の衆生と共にして!』、
『仏国土を浄めること!』に、
『回向する!』と、
こう願って言う、――
わたしが、
『仏を得た!』時には、
是の、
『国土中には、天のように!』、
『五欲』が、
『心に応じて、至るだろう!』、と。
  随意(ずいい):梵語 iSTam の訳、望ましい/好ましい/喜ばしい( wished, desired, liked, beloved, agreeable, cherished )の義、意に適う/意のままの( regard as good, approved )の意。
復次須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。作是願言。我當自入初禪。亦教一切眾生入初禪第二第三第四禪。慈悲喜捨心乃至三十七助道法亦如是。我得阿耨多羅三藐三菩提時。令一切眾生不遠離四禪。乃至不遠離三十七品助道法。 復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずる時、是の願を作して言わく、『我れは、当に自ら初禅に入り、亦た一切の衆生を教えて、初禅に入らしめ、第二、第三、第四禅、慈悲喜捨心、乃至三十七助道法も亦た是の如くなるべし。我れは阿耨多羅三藐三菩提を得ん時、一切の衆生をして、四禅を遠離せざらしめ、乃至三十七品の助道法を遠離せざらしめん』、と。
復た次ぎに、
須菩提!
『菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行じる!』時、
こう願って言う、――
わたしは、
『自ら、初禅に入りながら!』、
『一切の衆生を教えて!』、
『初禅に入らせ!』、
亦た、
『第二、三、四禅、慈悲喜捨心、乃至三十七助道法』も、
『是の通りでなくてはならない!』。
わたしが、
『阿耨多羅三藐三菩提を得た!』時には、
『一切の衆生』を、
『四禅より!』、
『遠離しないようにさせ!』、
乃至、
『三十七品の助道法』を、
『遠離しないようにさせよう!』、
如是須菩提。菩薩摩訶薩能淨佛國土。是菩薩隨爾所時行菩薩道。滿足是諸願。是菩薩自成就一切善法。亦成就一切眾生善法。是菩薩受身端正。所化眾生亦得端正。所以者何。福德因緣厚故。 是の如く須菩提、菩薩摩訶薩は、能く仏国土を浄む。是の菩薩は、爾所(そこばく)の時に随いて、菩薩道を行じ、是の諸願を満足す。是の菩薩は、自ら一切の善法を成就して、亦た一切の衆生の善法を成就せしむ。是の菩薩は身の端正を受け、所化の衆生も亦た端正なるを得。所以は何んとなれば、福徳の因緣の厚きが故なり。
是のように、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』は、
『仏国土』を、
『浄めることができるのである!』。
是の、
『菩薩』は、
『爾所の時に( on so many occasions )!』、
『菩薩道を行じながら!』、
是のような、
『諸願』を、
『満足するのであり!』、
是の、
『菩薩』は、
『自ら、一切の善法を成就しながら!』、
『一切の衆生』にも、
『善法』を、
『成就させる!』ので、
是の、
『菩薩』は、
『身に、端正を受け( to get a beautiful body )!』、
『所化の衆生( the educated people )』も、
『端正』を、
『得るのである!』。
何故ならば、
『福徳の因緣』が、
『厚いからである!』。
  爾所(にじょ):梵語 iyataa の訳、そこばくの/かなり多い( so much )の義。
  爾所時(にじょじ):梵語 iyataa-kaalena の訳、そこばくの時/かなり多い機会に( on so many occasions )の義。
  端正(たんじょう):梵語 praasaadika の訳、親切な/気立ての良い/喜ばしい/美しい( kind, amiable, pleasant, beautiful )の義。
  所化(しょけ):梵語 vineya の訳、連れ去られた( to be taken away, removed )の義、教化/教育/訓練された( to be trained or educated or instructed )の意。
  参考:『大般若経巻394』:『善現。是諸菩薩摩訶薩隨爾所時行菩提道。應得圓滿所起行願。即爾所時精勤修學。由此因緣自能成就一切善法。亦能令他漸次成就一切善法。自能修得殊勝相好所莊嚴身。亦能令他漸次修得殊勝相好所莊嚴身。由廣大福所攝受故。善現。是諸菩薩摩訶薩各於所求嚴淨佛土。證得無上正等覺時。所化有情亦生彼土。共受淨土大乘法樂。善現。是諸菩薩摩訶薩。應修如是嚴淨佛土。謂彼土中常不聞有三種惡趣。亦不聞有諸惡見趣。亦不聞有貪瞋癡毒。亦不聞有男女形相。亦不聞有聲聞獨覺。亦不聞有苦無常等。亦不聞有攝受資具。亦不聞有我我所執。亦不聞有隨眠纏結。亦不聞有顛倒執著。亦不聞有安立諸果分位差別。但聞說空無相無願無生無滅無性等聲。謂隨有情所樂差別。於樹林等內外物中。常有微風互相衝擊。發起種種微妙音聲。彼音聲中說一切法皆無自性。無性故空。空故無相。無相故無願。無願故無生。無生故無滅。是故諸法本來寂靜自性涅槃。若佛出世若不出世法相常爾。彼佛土中諸有情類。若晝若夜若行若立若坐若臥。常聞如是說法之聲。善現。是諸菩薩摩訶薩。各於所住嚴淨佛土。證得無上正等覺時。十方如來應正等覺。皆共稱讚彼彼佛名。若諸有情得聞如是所讚佛名。定於無上正等菩提得不退轉。善現。是諸菩薩摩訶薩。各於所住嚴淨佛土。證得無上正等覺時。為諸有情宣說正法。有情聞已必不生疑。謂為是法為是非法。所以者何。彼有情類了達諸法。皆即真如法界法性不虛妄性不變異性。一切是法無非法者。善現。是諸菩薩摩訶薩皆能嚴淨如是佛土』
須菩提。菩薩摩訶薩應如是淨佛國土。是國土中乃至無三惡道之名。亦無邪見三毒二乘聲聞辟支佛之名。耳不聞有無常苦空之聲。亦無我所有乃至無諸結使煩惱之名。亦無分別諸果之名。 須菩提、菩薩摩訶薩は、応に是の如く仏国土を浄むべし。是の国土中には、乃至三悪道の名すら無く、亦た邪見、三毒、二乗、声聞、辟支仏の名も無く、耳には無常、苦、空の声有るを聞かず、亦た我の所有無く、乃至諸結使、煩悩の名無く、亦た諸果を分別する名も無し。
須菩提!
『菩薩摩訶薩』は、
是のように、
『仏国土』を、
『浄めねばならぬのである!』。
是の、
『国土』中には、
乃至、
『三悪道の名すら!』、
『無く!』、
亦た、
『邪見、三毒、二乗、声聞、辟支仏の名も!』、
『無く!』、
『耳』に、
『有る無常、苦、空の声』を、
『聞くこともなく!』、
亦た、
『我の所有』も、
『無く!』、
乃至、
『諸結使、煩悩の名』も、
『無く!』、
亦た、
『諸果を分別する名』も、
『無い!』。
風吹七寶之樹。隨所應度而出音聲。所謂空無相無作如諸法實相之音。有佛無佛一切法一切法相空。空中無有相。無相中則無作出如是法音。若晝若夜若坐若臥若立若行。常聞此法。 風は、七宝の樹を吹きて、応に度すべき所に随いて、音声を出す。謂わゆる『空、無相、無作にして、諸法実相の如き音なり。仏有るも、仏無きも、一切法と一切法の相は空にして、空中に相有る無し。無相中には則ち無作なり』、と。是の如き法音を出し、若しは昼、若しは夜、若しは坐、若しは臥、若しは立、若しは行にも、常に此の法を聞く。
『風が、七宝の樹を吹く!』と、
『度すべき者に随って!』、
『音声』を、
『出す!』。
謂わゆる、
『空、無相、無作であり!』、
例えば、
『諸法の実相』の、
『音である!』。
『仏が有ろうと、無かろうと!』、
『一切法も、一切法の相』も、
『空であり!』、
『空』中には、
『相』が、
『無く!』、
『無相』中には、
『作』も、
『無い!』、と。
是のように、
『法音を出すので!』、
『昼も、夜も、坐、臥、立、行常に!』、
此の、
『法』を、
『聞くのである!』。
  所応度(しょおうど):梵語 niSkraantavya の訳、出発すべき( should be gone out )の義、教化せらるべき者( who should be educated )の意。
是菩薩得阿耨多羅三藐三菩提時。十方國土中諸佛讚歎眾生。聞是佛名必至阿耨多羅三藐三菩提。 是の菩薩は阿耨多羅三藐三菩提を得る時、十方の国土中の諸仏、讃歎すれば、衆生、是の仏名を聞きて、必ず、阿耨多羅三藐三菩提に至る。
是の、
『菩薩が、阿耨多羅三藐三菩提を得る!』時には、
『十方の国土中の諸仏』が、
是の、
『仏の名』を、
『讃歎する!』ので、
『衆生』は、
是の、
『仏の名を聞いて!』、
『必ず、阿耨多羅三藐三菩提に至るのである!』。
是菩薩得阿耨多羅三藐三菩提時。說法眾生聞者無有不信而生疑言。是法是非法。何以故。諸法實相中皆是法無有非法。 是の菩薩は、阿耨多羅三藐三菩提を得る時、法を説き、衆生の聞く者に、信ぜずして、疑を生じ、『是れは法なり、是れは非法なり』、と言う有ること無し。何を以っての故に、諸法の実相中には、皆是れ法にして、非法有ること無ければなり。
是の、
『菩薩が、阿耨多羅三藐三菩提を得る!』時には、
『法を説いても!』、
『衆生が聞いて!』、
『信じず!』に、
『疑を生じて!』、
『是れは法であるが、是れは法でない!』と、
『言う!』者は、
『無い!』。
何故ならば、
『諸法の実相』中には、
『皆、法であり!』、
『法でないものが、無いからである!』。
諸有薄福之人於諸佛及弟子不種善根。不隨善知識。沒在我見中。乃至沒在一切種種見中。墮在邊見若斷若常。如是人以邪見故。非佛言佛佛言非佛。非法言法法言非法。如是人破法故。身壞命終墮惡道地獄中。 諸の薄福有る人、諸仏及び弟子に於いて、善根を種えず、善知識に随わず、我見中に没在し乃至一切の種種の見中に没在して、辺見の若しは断、若しは常に堕在す。是の如き人は邪見を以っての故に、非仏を仏と言い、仏を非仏と言い、非法を法と言い、法を非法と言う。是の如き人は、法を破るが故に、身壊して命終るに、悪道の地獄中に堕す。
『諸の薄福が有る人』は、
『諸仏や、弟子に善根を種えず!』、
『善知識に随わない!』ので、
『我見中に没在したり( turning back to the self-view )!』、
乃至、
『一切の種種の見』中に、
『没在して!』、
『断見や、常見のような!』、
『辺見』に、
『堕在する( to depart )!』ので、
是のような、
『人は、邪見を用いる!』が故に、
『仏でない!』者を、
『仏である!』と、
『言い!』、
『仏』を、
『仏でない!』と、
『言い! 」、
『法でない!』者を、
『法である!』と、
『言い!』、
『法』を、
『法でない!』と、
『言うのである!』が、
是のような、
『人は、法を破る!』が故に、
『身が壊れて、命が終る!』と、
『悪道や、地獄』中に、
『堕ちるのである!』。
  没在(もつざい):梵語 parivartamaana の訳、転回する/後退する( turning, turning back )の義。
  堕在(だざい):梵語 gamana の訳、出発する( departing, setting out )の義。
諸佛得阿耨多羅三藐三菩提時。見此眾生往來五道。令離邪聚立正定聚中。更不墮惡道。 諸仏は阿耨多羅三藐三菩提を得たもう時、此の衆生の五道を往来するを見て、邪聚を離れて、正定聚中に立たしめ、更に悪道に堕ちざらしむ。
『諸仏は、阿耨多羅三藐三菩提を得た!』時、
此の、
『衆生』が、
『五道を往来する!』のを、
『見て!』、
『邪聚より離して!』、
『正定聚』中に、
『立たせる!』ので、
更に、
『悪道』に、
『堕ちることはない!』。
  邪定(じゃじょう):梵語 mithyaatva-niyata の訳、曲解/幻想に結びついた/依る( to be connected with or dependent on perversion or illusion )の義、虚偽に決定した( fixed on falsehood )の意。
  邪聚(じゃじゅ)、邪定聚(じゃじょうじゅ):梵語 mithyaatva-niyata- raazi の訳、虚偽に決定した者( those who are fixed on falsehood )の意。
  正定(しょうじょう)、畢定(ひつじょう):梵語 samyaktva-niyata の訳、完成/完全に結びついた/依る( to be connected with or dependent on perfection or completeness )の義、真実に決定した( fixed on truth )の意。
  正定聚(しょうじょうじゅ):梵語 samyaktva-niyata- raazi の訳、真実に決定した者( those who are fixed on truth )の意。
  不定(ふじょう)、不畢定(ふひつじょう):梵語 aniyata の訳、( not fixed, uncertain )の義、真実/虚偽のいづれにも決定しない( fexed on neither truth nor falsehood )の意。
  不定聚(ふじょう)、不畢定聚(ふひつじょうじゅ):梵語 aniyata raazi の訳、真実/虚偽のいづれにも決定しない者( those who are fixed on neither truth nor falsehood )の意。
如是須菩提。菩薩摩訶薩淨佛國土中。眾生無雜穢心。若世間法若出世間法。若有漏若無漏。若有為若無為。乃至是國土中眾生。畢竟至阿耨多羅三藐三菩提。須菩提。是為菩薩摩訶薩淨佛國土 是の如く須菩提、菩薩摩訶薩の浄むる国土中には、衆生に雑穢の心の、若しは世間法、若しは出世間法、若しは有漏、若しは無漏、若しは有為、若しは無為無く、乃至是の国土中の衆生は畢竟じて、阿耨多羅三藐三菩提に至る。須菩提、是れを菩薩摩訶薩の仏国土を浄むと為す。
是のように、
須菩提!
『菩薩摩訶薩が浄めた!』、
『仏国土中の衆生』には、
『世間法や出世間法、有漏や無漏、有為や無為を分別する!』、
『雑穢の心』が、
『無く!』、
乃至、
是の、
『国土中の衆生』は、
『畢竟じて( at last )!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』に、
『至る( to accomplish )のである!』。
須菩提!
是れが、
『菩薩摩訶薩』が、
『仏国土を浄めるということである!』。
  雑穢(ぞうえ):梵語 saMbhinna の訳、完全に壊れた/粉々になった( completely broken, shattered )、一つに結びついた/一つになった( combined or united with )の義、分別/差別( distinction )の意。



【論】浄土とは?

【論】釋曰。復有麤業。於諸法畢竟空中取相生著心。所謂取色相受想行識相眼相乃至意相色相乃至法相男相女相三界善不善有為無為相等。 釈して曰く、復た麁業有り、諸法の畢竟空中に於いて、相を取りて、著心を生ず。謂わゆる色相、受想行識相、眼相乃至意相、色相乃至法相、男相、女相、三界、善、不善、有為、無為の相等なり。
釈す、
『復た、麁業が有る!』。
『諸法という!』、
『畢竟空中に於いて、相を取り!』、
『著心』を、
『生じるからである!』。
謂わゆる、
『色、受想行識、眼相乃至法相、男女、三界、善不善、有為無為の相』等を、
『取るのである!』。
問曰。男女相可是虛妄不實。餘色等善不善法若不取相。云何能厭色等成就善法。 問うて曰く、男女相は、是れ虚妄、不実なるべし。餘の色等の善、不善の法に、若し相を取らざれば、云何が能く、色等を厭うて、善法を成就するや。
問い、
『男女の相』は、
『虚妄であり!』、
『不実かもしれない!』が、
『餘の色等の善、不善の法』に、
若し、
『相』を、
『取らなければ!』、
何故、
『色等を厭うて!』、
『善法を成就することができるのですか?』。
答曰。佛法中有二種空。一者眾生空。二者法空。以眾生空破眾生相。所謂男女等相。以法空破色等法中虛妄相。如破一切法空中說。能觀色等善法如幻如化不取定實相。得厭心則捨戲論常無常等。是不名為取相。 答えて曰く、仏法中には、二種の空有り、一には衆生の空、二には法の空なり。衆生空を以って、衆生の相を破る、謂わゆる男女等の相なり。法空を以って、色等の法中の虚妄の相を破る。一切法を破る空中に、『能く色等の善法を幻の如く、化の如しと観て、定実の相を取らずして、厭心を得て、則ち戯論を捨つれば、常無常等は、是れを名づけて、相を取ると為さず』、と説けるが如し。
答え、
『仏法』中には、
『二種の空が有り!』、
一には、
『衆生という!』、
『空であり!』、
二には、
『法という!』、
『空であり!』、
『衆生空を用いて!』、
『衆生の相』、
謂わゆる、
『男、女等の相』を、
『破り!』、
『法空を用いて!』、
『色等の法』中の、
『虚妄の相』を、
『破る!』。
『一切法を破る!』、
『十八空』中に、こう説く通りである、――
『色等の善法』も、
『幻か、化のようである!』と、
『観て!』、
『一切法』中に、
『定実の相』を、
『取らなければ!』、
『心に、厭想を得て!』、
『戯論』を、
『捨てることになる!』ので、
『常、無常等を説いても!』、
『相を取る!』と、
『称されることはないのである!』、と。
又色等及善法皆和合性空行故。不生諸煩惱。 又色等、及び善法は皆、性空、和合の行なるが故に、諸煩悩を生ぜず。
又、
『色等や、善法』は、
皆、
『性空、和合( natural empty and unified )』の、
『行である( be conditional phenomena )!』が故に、
是の、
『法』が、
『諸煩悩を生じることはない!』。
  (ぎょう):梵語 saMskaara の訳、因縁生の事物/因果関係を通して、生起させられた法/例えば有為法など( Conditioned things; dharmas produced through causation, i.e., so-called conditioned phenomena )、造作する能力/因緣と恒常的変化とにより生起する事物( formative forces. Those things which arise out of causes and conditions and constantly change )、又意志/一時的感情/意向/志向/外部的対象に向って働く精神作用( Also volition; impulse, intention, orientation—the mental function of 'going' toward external objects )、五蘊の一( one of the five aggregates )、十二因縁の第二( The second of the twelve links of dependent arising )。
問曰。一切有為法假名和合故不應取。無為法是真實法。所謂如法性實際。何以不取。 問うて曰く、一切の有為法は仮名の和合なるが故に、応に取るべからず。無為法は、是れ真実の法なり。謂わゆる如、法性、実際をも、何を以ってか、取らざる。
問い、
『一切の有為法は、仮名の和合である!』が故に、
『相』を、
『取るべきでない!』が、
『無為法は、真実の法である!』のに、
何故、
『謂わゆる如、法性、実際の相』を、
『取らないのですか?』。
答曰。以不取相是無為法無相名為無為法門。若取相便是有為。如是等一切虛誑取相不實。 答えて曰く、相を取らざるを以って、是れ無為法なり。無相を名づけて、無為法の門と為す。若し相を取れば、便是(こ)れ有為なり。是れ等の如き、一切の虚誑の相を取れば、不実なり。
答え、
『法』の、
『相を取らない!』が故に、
『無為法であり!』、
『無相』とは、
『無為法』の、
『門なのである!』。
若し、
『相を取れば!』、
『便是れは( this is )!』、
『有為である!』。
是れ等のような、
『一切の虚誑の法』に、
『相を取っても!』、
『実ではない!』。
  便是(べんぜ):即是/これは( this is )に同じ。
遠離麤身口意業。菩薩欲行淨佛土。遠離如是等麤身口意業。自行六波羅蜜亦教他人令行。共清淨因緣故則佛土清淨。上總相說下別相說。 麁の身口意業を遠離するは、菩薩は、仏土を浄むるを行ぜんと欲すればなり。是れ等の如き麁の身口意業を遠離して、自ら六波羅蜜を行じ、亦た他人に教えて行ぜしめ、清浄の因縁を共にするが故に則ち、仏土清浄なり。上は総相の説にして、下は別相の説なり。
『麁』の、
『身口意業』を、
『遠離する!』とは、
『菩薩』が、
『仏土を浄めること!』を、
『行じようとするからである!』。
是れ等のような、
『麁の身口意業を遠離しながら!』、
『自ら、六波羅蜜を行じ!』、
『他人にも教えて!』、
『行じさせれば!』、
『清浄の因縁を共にする!』が故に、
『仏土』は、
『清浄なのである!』。
上には、
『総相』が、
『説かれ!』、
下には、
『別相』が、
『説かれている!』。
是菩薩滿三千大千世界七寶施佛及僧。作是願。我以是布施因緣令我國土皆七寶莊嚴。 是の菩薩は、三千大千世界に七宝を満てて、仏及び僧に施して、是の願を作さく、『我れは、是の布施の因縁を以って、我が国土をして、皆七宝荘厳ならしめん』、と。
是の、
『菩薩』は、
『三千大千世界を、七宝で満たして!』、
『仏や、僧』に、
『施しながら!』、
『願って!』、こう言う、――
わたしは、
是の、
『布施の因縁を用いて!』、
『わたしの国土』を、
『皆、七宝で荘厳させよう!』、と。
問曰。若滿三千大千世界珍寶從何處得。又諸佛賢聖少欲知足。誰受是者。若凡夫無厭足。何能受三千世界物。 問うて曰く、若し三千大千世界に珍宝を満てば、、何処より得るや。又、諸仏、賢聖は少欲知足なるに、誰か、是れを受くる者なる。若し凡夫なれば、厭足する無きも、何んが能く三千世界の物を受くるや。
問い、
若し、
『三千大千世界に、珍宝を満たすとすれば!』、
何のような、
『処』で、
『得るのですか?』。
又、
『諸仏や、賢聖は少欲知足なのに!』、
誰が、
是れを、
『受けるのですか?』。
若し、
『凡夫が受ければ、厭足することが無くても!』、
何のようにして、
『三千世界の物』を、
『受けることができるのですか?』。
答曰。是菩薩是法性生身。住具足神通波羅蜜中。為供養十方佛故。以如三千世界珍寶供養。又此寶物神通力所作輕細無妨。如第三禪遍淨天六十人坐一針頭而聽法不相妨礙。何況大菩薩深入神通所作寶物。 答えて曰く、是の菩薩は、是れ法性生身にして、具足せる神通波羅蜜中に住し、十方の仏に供養せんが為めの故に、三千世界の珍宝の如きを以って、供養するなり。又此の宝物は、神通力の所作なれば、軽く細くして、妨ぐる無し。第三禅の遍浄天の如きは、六十人、一針の頭に坐して、法を聴くも、相妨礙せず。何に況んや大菩薩の深く神通に入りて作す所の宝物をや。
答え、
是の、
『菩薩は、法性生身であり!』、
『具足した神通波羅蜜中に住して!』、
『十方の仏に供養する為め!』の故に、
『三千世界の珍宝など!』を、
『供養するのであり!』、
又、
是の、
『宝物は、神通力の所作である!』が故に、
『軽く、細いので!』、
『妨礙することが無い!』。
譬えば、
『第三禅の遍浄天』が、
『一針の頭』に、
『六十人坐ったとしても!』、
『法を聴く!』のに、
『相( mutually )! 』、
『妨礙しないようなものである!』。
況して、
『大菩薩が、深く神通に入って作った!』、
『宝物ならば!』、
『尚更である!』。
或有菩薩變身如須彌山遍十方佛前。以為燈炷供養於佛若佛塔廟。而作願言。令我國土常有光明。不須日月燈燭。 或は有る菩薩は、身を変じて、須弥山の如く、十方の仏前に遍くし、以って灯炷と為して、仏若しは仏の塔廟を供養し、願を作して言わく、『我が国土をして、常に光明有らしめ、日月、灯燭を須(ま)たざらしめん』、と。
或は、
有る、
『菩薩』は、
『身』を、
『須弥山のように!』、
『変じて!』、
『遍く、十方の仏前に於いて!』、
『灯炷と為して( making it into a wick )!』、
『仏や、仏の塔廟』を、
『供養し!』、
『願って!』、こう言った、――
『わたしの国土にも!』、
『常に、光明が有り!』、
『日月、灯燭を必要としないように!』、と。
或有菩薩雨諸華香幡蓋瓔珞以為供養。復作是願。令我國土眾生端正如華身相嚴淨無有醜陋。如是等種種好色因緣。 或は、有る菩薩は、諸の華香、幡蓋、瓔珞を雨ふらして、以って供養を為し、復た是の願を作さく、『我が国土の衆生をして、端正なること、華の如くならしめ、身相厳浄して、醜陋有ること無からしめん』、と。是れ等の如きは、種種の好色の因縁なり。
或は、
有る、
『菩薩』は、
『華香、幢幡、瓔珞を雨ふらして!』、
『供養し!』、
復た、こう願った、――
『わたしの国土の衆生』は、
『華のように端正であり!』、
『身相は厳浄され!』、
『醜陋を無くそう!』、と。
是れ等のような者が、
『種種の好色』の、
『因縁である!』。
  厳浄(ごんじょう):梵語 upazobhita の訳、美しく飾られた( adorned, ornamented, decorated )の義、厳粛清潔な( grorious and pure )の意。
  醜陋(しゅうる):梵語 azobhaa の訳、醜悪( agliness )の義、醜悪な者( something ugly )の意。
復有菩薩以天伎樂娛樂於佛若佛塔廟。是菩薩或時以神通力故作天伎樂。或作天王轉輪聖王伎樂。或作阿修羅神龍王等天伎樂供養。願我國中常聞好音。 復た有る菩薩は、天の伎楽を以って、仏、若しは塔廟を娯楽す。是の菩薩は、或は時に神通力を以っての故に、天の伎楽を作し、或は天王、転輪聖王の伎楽を作し、或は阿修羅神、龍王等の天の伎楽を作して供養し、願うらく、『我が国中にも、常に好音を聞かん』、と。
復た、
有る、
『菩薩』は、
『天の伎楽を用いて!』、
『仏や、仏の塔廟』を、
『娯楽する( to please )!』。
是の、
『菩薩』は、
或は時に、
『神通力を用いて!』、
『天の伎楽』を、
『作し!』、
或は、
『天王や、転輪聖王』の、
『伎楽』を、
『作し!』、
或は、
『阿修羅神や、龍王』等の、
『伎楽を作して!』、
『供養し!』、
こう願うのである、――
『わたしの国』中に、
『好音』を、
『常に聞くことになろう!』、と。
  娯楽(ごらく):梵語 priiNayati の訳、喜ばせる/ご機嫌をとる( to please, delight, gratify, propitiate )の義。
  自娯楽(じごらく):梵語 priiyate の訳、喜ぶ/満足する/楽しむ( to be pleased or satisfied with, delight in, enjoy )の義。
問曰。諸佛賢聖是離欲人。則不須音樂歌舞。何以伎樂供養。 問うて曰く、諸仏、賢聖は是れ離欲の人なれば、則ち音楽、歌舞を須いず。何を以ってか、伎楽を供養する。
問い、
『諸仏、賢聖は離欲の人であり!』、
『音楽、歌舞』を、
『必要とされない!』のに、
何故、
『伎楽』で、
『供養するのですか?』。
答曰。諸佛雖於一切法中心無所著。於世間法盡無所須。諸佛憐愍眾生故出世。應隨供養者令隨願得福故受。如以華香供養。亦非佛所須。佛身常有妙香諸天所不及。為利益眾生故受。 答えて曰く、諸仏は、一切法中に於いて、心の所著無く、世間法に於いて、尽く所須無けれども、諸仏は衆生を憐愍したもうが故に、世に出でたまえば、応に供養する者に随いて、随願の福を得しめんが故に受けたもう。華香を以って供養するが如きすら、亦た仏の所須に非ず。仏身は、常に妙香有りて、諸天の及ばざる所なるも、衆生を利益せんが為めの故に受けたもう。
答え、
『諸仏』は、
『一切の法』中に、
『所著の心』が、
『無く!』、
『世間法』には、
『尽く!』、
『所須が無い( nothing which is necessary )!』。
『諸仏』は、
『衆生を憐愍するが故に、世に出られた!』ので、
『供養する者に随い、願に随って!』、
『福を得させる為め!』の故に、
『供養を受けられる!』ので、
例えば、
『華香を供養したとしても!』、
『仏』が、
『須められたものではない!』。
『仏身には、常に妙香が有る!』ので、
『諸天』の、
『及ぶ所ではない!』が、
『衆生を、利益する為め!』の故に、
『供養』を、
『受けられるのである!』。
是菩薩欲淨佛土故求好音聲。欲使國土中眾生聞好音聲其心柔軟。心柔軟故易可受化。是故以音聲因緣而供養佛。 是の菩薩は、仏土を浄めんと欲するが故に、好音声を求む。国土中の衆生をして、好音声を聞かしめんと欲す。其の心柔軟ならしむれば、心柔軟なるが故に、化を受くべきこと易し。是の故に音声の因縁を以って仏を供養す。
是の、
『菩薩』は、
『仏国土を浄める為め!』の故に、
『好音声』を、
『求めるのである( to seek )!』が、
『国土中の衆生』に、
『好音声を聞かせて!』、
『衆生の心を柔軟にさせようとするのである!』が、
『心が柔軟である!』が故に、
『化を受けること!』が、
『容易だからである!』。
是の故に、
『音声の因縁を用いて!』、
『仏』を、
『供養するのである!』。
或有菩薩滿三千大千世界香。供養諸佛若塔。根香莖香葉香末香。若天香若變化香若菩薩果報生香。作是願令我國土中常有好香無有作者。 或は有る菩薩は三千大千世界に香を満てて、諸仏若しは塔に、根香、茎香、葉香、末香、若しは天香、若しは変化香、若しは菩薩の果報生の香を供養し、是の願を作さく、『我が国土中をして、常に好香有らしむるも、作者有ること無からしめん』、と。
或は、
有る、
『菩薩』は、
『三千大千世界』に、
『香』を、
『満たして!』、
『諸仏や、塔』に、
『根、茎、葉、末香や、天香や、変化香や、菩薩の果報生の香』を、
『供養し!』、
『願って!』、こう言う、――
『わたしの国土』中にも、
『常に、好香が有りながら!』、
『作者が、無いようにしよう!』、と。
或有菩薩以百味供養諸佛及僧。有人言。能以百種羹供養。是名百味。有人言。餅種數五百。其味有百。是名百味。有人言。百種藥草藥果作歡喜丸。是名百味。有人言。飲食羹餅總有百味。有人言。飲食種種備足故。稱為百味。 或は有る菩薩は百味を以って、諸仏及び僧に供養す。有る人の言わく、『能く百種の羹を以って供養すれば、是れを百味と名づく』、と。有る人の言わく、『餅種を五百数うれば、其の味に百有り、是れを百味と名づく』、と。有る人の言わく、『百種の薬草、薬果の作る歓喜丸、是れを百味と名づく』、と。有る人の言わく、『飲、食、羹、餅には、総じて百味有り』、と。有る人の言わく、『飲食を種種に備足するが故に、称して、百味と為す』、と。
或は、
有る、
『菩薩』は、
『百味を用いて!』、
『諸仏や、僧』に、
『供養する!』が、
有る人は、こう言っている、――
『百種の羹を供養できれば!』、
是れを、
『百味』と、
『称するのである!』、と。
有る人は、こう言っている、――
『餅の種類を五百数えれば!』、
其の、
『味』に、
『百有る!』ので、
是れを、
『百味』と、
『称するのである!』、と。
有る人は、こう言っている、――
『百種の薬草、薬果で作る!』、
『歓喜丸』を、
『百味』と、
『称するのである!』、と。
有る人は、こう言っている、――
『飲、食、羹、餅』には、
『総じて!』、
『百味有るからである!』、と。
有る人は、こう言っている、――
『飲食を、種種に備足する!』が故に、
『百味』と、
『称するのである!』、と。
  備足(びそく):梵語 saMniviSTa の訳、陣営を張る/集合する/箱詰めされる( encamped, assembled, contained in )の義、
人飲食故百味。天飲食則百千種味。菩薩福德生果報食。及神通力變化食。則有無量味。能轉人心令離欲清淨。是四種食菩薩隨因緣供養佛及僧。是故國土中自然有百味飲食。 人の飲食なるが故に百味なるも、天の飲食なれば則ち百千種の味なり。菩薩の福徳生の果報の食、及び神通力の変化の食なれば、則ち無量の味有りて、能く人心を転じて、離欲清浄ならしむ。是の四種の食を菩薩は因緣に随って、仏及び僧に供養すれば、是の故に国土中には自然に百味の飲食有り。
『人の飲食であるが故に、百味である!』が、
『天の飲食ならば!』、
『百千種の味である( be a hundred thousand kinds of taste )!』。
『菩薩の福徳生の果報の食や、神通力の変化の食』は、
『無量の味が有り!』、
『人心を転じて、離欲させ!』、
『清浄にすることができる!』。
是の、
『四種の食』を、
『菩薩は、因緣に随いながら!』、
『仏や、僧』に、
『供養する!』ので、
是の故に、
『国土』中には、
『自然に( naturally )!』、
『百味の飲食』が、
『有るのである!』。
或有菩薩以天塗香。天竺國熱。又以身臭故以香塗身供養諸佛及僧。以此因緣故。令我國土眾生受天細滑。 或は有る菩薩は天の塗香を以(もち)う。天竺国は熱くして、又身臭きを以っての故に、香を以って身に塗り、諸仏、及び僧を供養し、此の因縁を以っての故に、『我が国土の衆生をして、天の細滑を受けしむ』、となり。
或は、
有る、
『菩薩は、天の塗香を用いる!』が、
『天竺国は熱くて、身が臭くなる!』が故に、
『香を、身に塗って!』、
『仏や、僧』を、
『供養するのである!』。
此の、
『因縁』の故に、こう願うのである、――
『わたしの国土の衆生』は、
『天の細滑』を、
『受けるようにしよう!』、と。
問曰。沙彌戒乃至受一日戒。尚不以香塗身。云何以香供養佛及僧。 問うて曰く、沙彌戒、乃至一日戒を受くれば、尚お香を以って身に塗らざるに、云何が、香を以って、仏、及び僧を供養する。
問い、
『沙彌戒、乃至一日戒を受ければ!』、
尚お、
『香』を、
『身に塗ることはない!』のに、
況して、
『具足戒を受けた仏や、僧にまで!』、
何故、
『香』を、
『供養するのですか?』。
答曰。是菩薩以身所貴物。隨所須時用以供養。或以塗地塗壁及行坐處。 答えて曰く、是の菩薩は、身の貴ぶ所の物を以って、所須の時に随って用い、以って供養すれば、或は以って地に塗り、壁及び行坐の処に塗る。
答え、
是の、
『菩薩』は、
『身が貴ぶ( that to which they attach importance on their bodys )!』所の、
『物』を、
『用いて!』、
『必要な時に随って!』、
『仏や、僧』に、
『供養したり!』、
或は、
『地や、壁や、行坐の処』に、
『香を塗るのである!』。
又以隨意五欲供養諸佛及僧及餘眾生。是菩薩以好車馬妻妾妓樂幡蓋金銀衣服珍寶。出家人所不受則施諸眾生。作願言。令我國土眾生常得隨意五欲。 又、隨意の五欲を以って、諸仏、及び僧、及び餘の衆生を供養するに、是の菩薩は、好き車馬、妻妾、妓楽、幡蓋、金銀、衣服、珍宝を以って、出家人の受けざる所なれば、則ち諸衆生に施し、願を作して言わく、『我が国土の衆生をして、常に隨意の五欲を得しめん』、と。
又、
『菩薩』は、
『隨意の五欲』で、
『諸仏や、僧や、餘の衆生』を、
『供養する!』。
是の、
『菩薩』は、
『好い車馬、妻妾、妓楽、幡蓋、金銀、衣服、珍宝』を、
『出家人が受けない!』が故に、
『諸の衆生』に、
『施し!』、
『願って!』、こう言う、――
『わたしの国土の衆生』にも、
『隨意の五欲』を、
『常に得させよう!』、と。
問曰。此五欲佛說如火如坑如瘡如獄如怨如賊能奪人善根。菩薩何以願使眾生得五欲。又佛說弟子應納衣乞食坐林樹下。菩薩何以為眾生求得五欲。 問うて曰く、此の五欲を、仏は、『火の如く、坑の如く、瘡の如く、獄の如く、怨の如く、賊の如く、能く人の善根を奪う』、と説きたまえるに、菩薩は、何を以ってか、願うて、衆生をして、五欲を得しむる。又仏は、『弟子は、応に納衣乞食し、林樹の下に坐すべし』、と説きたまえるに、菩薩は、何を以ってか、衆生の為めに、五欲を得んと欲する。
問い、
此の、
『五欲』を、
『仏』は、こう説かれているのに、――
『火、坑、瘡、獄、怨、賊のように!』、
『人より!』、
『善根を奪うものである!』、と。
『菩薩』は、
何故、
『衆生に、五欲を得させよう!』と、
『願うのですか?』。
又、
『仏』は、こう説かれているのに、――
『弟子』は、
『納衣で乞食しながら!』、
『林樹の下に坐すべきである!』、と。
『菩薩』は、
何故、
『衆生の為め!』に、
『五欲を得ようと求めるのですか?』。
  納衣(のうえ):梵語 paaMsukuula-ciivara の訳、糞掃衣/ゴミ箱から集めたボロ布を以って作られた僧の衣( a cloth for Buddhist monks made of the rags collected from dust heaps )の意。
答曰。天上人中五欲是福德果報。若今世若後世。貧窮薄福者不能自活。則行劫盜或為物主所害。或為財殺他或被詰問妄言不作。如是次第作十不善。皆由貧窮故作。若人五欲具足則所欲隨意則不行十不善。 答えて曰く、天上、人中の五欲は、是れ福徳の果報なり。若しは今世、若しは後世の貧窮、薄福の者は、自ら活くる能わざれば、則ち劫盗を行じて、或は物の為めに、主に害せられ、或は財の為めに、他を殺し、或は詰問を被りて、『作さず』と妄言す。是の如く次第に十不善を作すも、皆貧窮に由るが故に作す。若し人、五欲を具足すれば、則ち欲する所隨意にして、則ち十不善を行ぜず。
答え、
『天上、人中の五欲』は、
『福徳』の、
『果報である!』が、
『今世や、後世の貧窮、薄福の者』は、
『自ら、活きることができず!』、
『劫盗を行じることになる!』が、
或は、
『物の為めに!』、
『主』に、
『害されたり( to be killed )!』、
或は、
『財の為め!』に、
『他人』を、
『殺したり!』、
或は、
『詰問されて!』、
『作していない!』と、
『妄言したりして!』、
是のように、
『次第に( gradually )!』、
『十不善』を、
『作すことになる!』が、
皆、
『貧窮に由る!』が故に、
『作すのである!』。
若し、
『人が、五欲を具足すれば!』、
『欲する所が、隨意となり!』、
『十不善』を、
『行じることがない!』。
菩薩國土眾生豐樂。自恣無所乏少。則無眾惡。但有愛慢等軟結使。若聞佛所說。或聞弟子所說。以心柔軟故聞法易可得道。雖著心多利根故聞無常苦空等即便得道。譬如垢膩之衣則以灰泥淹之經宿以水浣之一時都去。菩薩不欲令眾生著故。以五欲施但欲令一時捨故與之。 菩薩の国土の衆生は豊楽、自恣にして乏少する所無ければ、則ち衆悪無く、但だ愛、慢等の軟結使有るのみ。若し仏の所説を聞く、或は弟子の所説を聞けば、心柔軟なるを以っての故に法を聞いて、道を得べきこと易く、著心多しと雖も、利根なるが故に無常、苦、空等を聞けば、即便(すなわ)ち道を得。譬えば、垢膩の衣は、則ち灰泥を以って、之を淹(ひた)し宿を経て、水を以って之を浣(すす)げば、一時に都(みな)去るが如し。菩薩は、衆生をして著せしめんと欲するが故に、五欲を以って施すにあらず、但だ一時に捨てしめんと欲するが故に、之を与う。
『菩薩の国土の衆生』は、
『豊楽自恣にして( satisfying provisions and wishes )!』、
『乏少する!』所が、
『無い!』ので、
則ち、
『衆悪』が、
『無く!』、
但だ、
『愛、慢等の軟結使』が、
『有るだけなので!』、
若し、
『仏や、弟子の所説を聞けば!』、
『心が、柔軟である!』が故に、
『法を聞くだけで!』、
『道』を、
『容易に得ることができる!』。
若し、
『著心が多くても、利根である!』が故に、
『無常、苦、空等を聞けば!』、
『即便に( promptly )!』、
『道を得ることになる!』。
譬えば、
『垢膩の衣だとしても( a grimy cloth coverd in dirt )!』、
『灰泥に淹して( soak in the ash-water )!』、
『宿を経て( after a night )!』、
『水で浣げば( to rinse it in clean water )!』、
『一時に!』、
『都( all the dirt )!』、
『去る( be removed away )ようなものである!』。
『菩薩』は、
『衆生』に、
『著させようとして!』、
『五欲を、施すのではなく!』、
但だ、
『一時に、捨てさせようとして!』、
『五欲を、与えるのである
  豊楽(ぶらく):梵語 subhikSa の訳、食料の豊富な供給( an abundant supply of provisions )の義、人民が幸福に過ごせるほど食料が豊富であること( abundance of good food, such that the people lead happy lives )の意。
  自恣(じし):◯梵語 pravaaraNa の訳、願望の実現( fulfilment of a wish )、自堕落にすること( self-indulgence )の義、意のままに/満足な( satisfying, satisfyingly )の意。◯梵語 pravaraNa の訳、夏安居の終りに行われる祭典( the festivities at the end of the rainy season )の義。
如汝先說。佛教弟子納衣乞食。宿罪因緣生在惡世。染著心多。若得好衣美食著心則深。又為求好衣食故妨廢行道。 汝が、先に説けるが如きは、『仏は、弟子に納衣、乞食を教えたもう』、とは、宿罪の因緣もて、悪世に生じて在り、染著心多きに、若し好衣、美食を得れば、著心は則ち深く、又好き衣食を求めんが為めの故に、行道を妨廃す。
お前が、先に説いたように、――
『仏』が、
『弟子』に、
『納衣、乞食を教えられた!』のは、――
『宿罪の因縁』の故に、
『悪世に生じて、染著の心が多ければ!』、
若し、
『好衣、美食を得れば!』、
『著心』が、
『深くなり!』、
又、
『好い衣、食を求める為め!』の故に、
『道を行じること!』を、
『妨廃することになる( to hamper and stop )!』。
是菩薩淨佛國土。眾生無量福德成就。五欲一等故不復貪著。亦不更求故無所妨。又復若行者離五欲修苦行則增長瞋恚。又復憶念五欲則生煩惱。爾時則無所向。是故佛言。捨苦樂用智慧處中道。是故淨佛國土。五欲施無妨。 是の菩薩は、仏国土を浄むれば、衆生は無量の福徳成就して、五欲一等なるが故に、復た貪著せず、亦た更に求めざるが故に妨ぐる所無し。又復た若し行者、五欲を離れて、苦行を修すれば、則ち瞋恚増長し、又復た五欲を憶念して、則ち煩悩を生ずれば、爾の時、則ち向かう所無し。是の故に、仏の言わく、『苦楽を捨てて、智慧を用い、中道に処せよ』、と。是の故に、仏国土を浄むれば、五欲を施すも、妨ぐること無し。
是の、
『菩薩が、仏国土を浄めれば!』、
『衆生は、無量の福徳が成就して!』、
『五欲が一等である( the five desires are the same, only one )!』が故に、
復た( no longer )、
『五欲』には、
『貪著せず!』、
更に( again )、
『五欲』を、
『求めない!』ので、
是の故に、
『妨げる!』所が、
『無い!』。
又復た、若し、
『行者が五欲を離れて、苦行を修めれば!』、
『瞋恚を増長することになり!』、
又復た、
『五欲を憶念して!』、
『煩悩』を、
『生じることになる!』ので、
爾の時、
『向かうべき!』所が、
『無い!』。
是の故に、
『仏』は、こう言われたのである、――
『苦、楽を捨て!』、
『智慧を用いて!』、
『苦、楽の中道』に、
『処せよ( to keep yourself in )!』、と。
  一等(いっとう)、一味(いちみ):梵語 ekarasa の訳、唯一の喜び/等しい愛情の対象を持つこと( having an only pleasure or a same object of affection )の義。
問曰。若爾者毘尼中何以一比丘言。我知佛法義受五欲不妨道。是比丘應呵乃至三。不止擯出。 問うて曰く、若し爾らば、毘尼中には、何を以ってか、一比丘の、『我れは仏法の義を知れば、五欲を受くるも、道を妨げず』、と言い、是の比丘は、応に呵すべきに、乃至三止まざれば、擯出する。
問い、
若し爾うならば、
『毘尼(律蔵)』中には、
何故、こうあるのですか?――
『一比丘』が、こう言った、――
わたしは、
『仏法の義を、知っている!』ので、
『五欲は、道の妨げにならない!』、と。
是の、
『比丘は、呵られるべきであり!』、
乃至、
『三たび呵られても、止めなかった!』ので、
『擯出した!』、と。
  擯出(ひんしゅつ):梵語 pravraajana の訳、追放する( banishment, exile )の義。
答曰。佛法有二種。小乘大乘。小乘中薄福之人三毒偏多。如婆蹉經中佛說。我白衣弟子非一非二乃至出五百人。受赤栴檀塗身及受好香花。妻子共臥使令奴婢而斷三結得須陀洹。盡三結薄三毒得斯陀含。 答えて曰く、仏法には二種有り、小乗と大乗となり。小乗中の薄福の人は、三毒偏(ひとえ)に多し。婆蹉経中に仏の説きたもうが如し、『我が白衣の弟子は、一に非ず、二に非ず、乃至五百人を出づるもの、赤栴檀を受けて身に塗り、及び好香の花を受け、妻子と共に臥し、奴婢を使令するも、三結を断じて須陀洹を得、三結を尽して、三毒を薄れしめ、斯陀含を得たり』、と。
答え、
『仏法』には、
『二種有って!』、
『小乗、大乗である!』が、
『小乗』中の、
『薄福の人』には、
『三毒』が、
『偏に多く( having so much )!』、
『婆蹉経』中に、
『仏』が、こう説かれた通りである、――
わたしの、
『白衣の弟子』中の、
『一や、二でなく、乃至五百人を出るほど!』が、
『赤栴檀を受けて、身に塗り!』、
『好香の花を受けたり!』、
『妻子と共に臥したり!』、
『奴婢を使令したりしている!』が、
『三結を断じれば!』、
『須陀洹』を、
『得ることになり!』、
『三結を尽して、三毒を薄くすれば!』、
『斯陀含』を、
『得るのである!』、と。
  参考:『雑阿含(964)経巻34』:『婆蹉白佛。置比丘尼。有一優婆塞修諸梵行。於此法.律度狐疑不。佛告婆蹉。不但一.二.三。乃至五百優婆塞。乃有眾多優婆塞修諸梵行。於此法.律斷五下分結。得成阿那含。不復還生此。婆蹉白佛。復置優婆塞。頗有一優婆夷於此法.律修持梵行。於此法.律度狐疑不。佛告婆蹉。不但一.二.三優婆夷。乃至五百。乃有眾多優婆夷於此法.律斷五下分結。於彼化生。得阿那含。不復還生此。婆蹉白佛。置比丘.比丘尼.優婆塞.優婆夷修梵行者。頗有優婆塞受五欲。而於此法.律度狐疑不。佛告婆蹉。不但一.二.三。乃至五百。乃有眾多優婆塞居家妻子。香華嚴飾。畜養奴婢。於此法.律斷三結。貪.恚.癡薄。得斯陀含。一往一來。究竟苦邊。婆蹉白佛。復置優婆塞。頗有一優婆夷受習五欲。於此法.律得度狐疑不。佛告婆蹉。不但一.二.三。乃至五百。乃有眾多優婆夷在於居家。畜養男女。服習五欲。華香嚴飾。於此法.律三結盡。得須陀洹。不墮惡趣法。決定正向三菩提。七有天人往生。究竟苦邊。婆蹉白佛言。瞿曇。若沙門瞿曇成等正覺。若比丘.比丘尼.優婆塞.優婆夷修梵行者。及優婆塞.優婆夷服習五欲。不得如是功德者。則不滿足。以沙門瞿曇成等正覺。比丘.比丘尼.優婆塞.優婆夷修諸梵行。及優婆塞.優婆夷服習五欲。而成就爾所功德故。則為滿足。瞿曇。今當說譬』
是阿梨吒比丘聞是事即言。雖受五欲而不妨道。不知是事。佛為誰說。佛為白衣故說。此比丘持著出家法中說。是須陀洹斯陀含等不作是言我盡形壽不犯欲。以有餘三毒故。時時忘道而發婬心。 是の阿梨吒比丘は、是の事を聞いて、即ち、『五欲を受くと雖も、道を妨げず』、と言いて、是の事を、仏は誰の為めに説きたまえるを知らず。仏は白衣の為めの故に説きたまえるに、此の比丘は出家法中の説なりと持著せり。是の須陀洹、斯陀含等の、『我れは形寿を尽して、欲を犯さず』と、是の言を作さざるは、餘の三毒有るを以っての故に、時時道を忘れて、婬心を発せばなり。
是の、
『毘尼中の阿梨吒比丘』が、
是の、
『事を聞いて!』、
即ち、
『五欲を受けても、道を妨げない!』と、
『言った!』のは、
是の、
『事』を、
『仏は、誰の為めに説いたのか?』を、
『知らないからである!』。
『仏』は、
是の、
『事』を、
『白衣の為め!』の故に、
『説かれた!』のに、
此の、
『比丘』は、
『出家法中の説である!』と、
『持著したのである( had determined that )!』。
是の、
『上の須陀洹、斯陀含』等は、
わたしは、
『形寿を尽して、欲を犯さない!』とは、
『言わない!』。
何故ならば、
『餘の三毒( the impressions of the three poisons )』を、
『有する!』が故に、
時時、
『道を忘れて!』、
『婬心を発すからである!』。
  阿梨吒(ありた):悪見比丘の名。『中阿含経巻54』、『四分律巻17』等に出づ。
  持著(じじゃく)、執著(しゅうじゃく):梵語 abhiniveza の訳、目的を達成しようと決心すること( determination to attain an object )の義、執着/固執( tenacity, adherence to )の意。
  (よ):梵語 zeSaa の訳、餘残/残ったか、捨て置かれた者/残り物( remainder, that which remains or is left, leavings )の義、習気( karmic impressions )の意。
  参考:『中阿含経(200)経巻54』:『爾時。阿梨吒比丘本伽陀婆梨。生如是惡見。我知世尊如是說法。行欲者無障礙。諸比丘聞已。往至阿梨吒比丘所。問曰。阿梨吒。汝實如是說。我知世尊如是說法。行欲者無障礙耶。時。阿梨吒答曰。諸賢。我實知世尊如是說法。行欲者無障礙。諸比丘訶阿梨吒曰。汝莫作是說。莫誣謗世尊。誣謗世尊者不善。世尊亦不如是說。阿梨吒。欲有障礙。世尊無量方便說欲有障礙。阿梨吒。汝可速捨此惡見也。阿梨吒比丘為諸比丘所訶已。如此惡見其強力執。而一向說。此是真實。餘者虛妄。如是再三。眾多比丘不能令阿梨吒比丘捨此惡見。從坐起去。往詣佛所。稽首佛足。卻坐一面。白曰。世尊。阿梨吒比丘生如是惡見。我知世尊如是說法。行欲者無障礙。世尊。我等聞已。往詣阿梨吒比丘所。問曰。阿梨吒。汝實如是說。我知世尊如是說法。行欲者無障礙耶。阿梨吒比丘答我等曰。諸賢。我實知世尊如是說法。行欲者無障礙。世尊。我等訶曰。阿梨吒。汝莫作是說。莫誣謗世尊。誣謗世尊者不善。世尊亦不如是說。阿梨吒。欲有障礙。世尊無量方便說欲有障礙。阿梨吒。汝可速捨此惡見。我等訶已。如此惡見其強力執。而一向說。此是真實。餘者虛妄。如是再三。世尊。如我等不能令阿梨吒比丘捨此惡見。從坐起去。世尊聞已。告一比丘。汝往阿梨吒比丘所。作如是語。世尊呼汝。於是。一比丘受世尊教。即從坐起。稽首佛足。遶三匝而去。至阿梨吒比丘所。即語彼曰。世尊呼汝。阿梨吒比丘即詣佛所。稽首佛足。卻坐一面。世尊問曰。阿梨吒。實如是說。我知世尊如是說法。行欲者無障礙耶。阿梨吒答曰。世尊。我實知世尊如是說法。行欲者無障礙。世尊訶曰。阿梨吒。汝云何知我如是說法。汝從何口聞我如是說法。汝愚癡人。我不一向說。汝一向說耶。汝愚癡人。聞諸比丘共訶。汝時應如法答。我今當問諸比丘也。於是。世尊問諸比丘。汝等亦如是知我如是說法。行欲者無障礙耶。時。諸比丘答曰。不也。世尊問曰。汝等云何知我說法‥‥』
  参考:『四分律巻17』:『爾時佛在舍衛國祇樹給孤獨園。爾時有比丘字阿梨吒,有如是惡見生:「我知世尊說法,其有犯婬欲,非障道法。」時諸比丘聞阿梨吒比丘有如是惡見生:「我知世尊說法,犯婬欲非障道法。」時諸比丘聞,欲除去阿梨吒比丘惡見,即往阿梨吒所,恭敬問訊已在一面坐,諸比丘語阿梨吒比丘言:「汝實知世尊說法,犯婬欲非障道法耶?」阿梨吒報言:「我實知世尊說法,犯婬欲非障道法。」時諸比丘,欲除阿梨吒惡見,即慇懃問之:「阿梨吒!莫作如是語,莫謗世尊,謗世尊者不善,世尊不作是語。阿梨吒!世尊無數方便說法教斷欲愛,知欲想,教除愛欲、斷愛欲想,除愛欲所燒、度於愛結。世尊無數方便說,欲如大火坑,欲如炬火,亦如果熟,欲如假借,欲如枯骨,欲如段肉,如夢所見,欲如利刀,欲如新瓦器盛水置日中,欲如毒蛇頭,欲如捉利劍,欲如利戟。世尊作如是說欲,阿梨吒!世尊如是善說法,斷欲無欲、去垢無垢,調伏渴愛、滅除巢窟,出離一切諸結縛,愛盡涅槃。佛如是說法,汝云何言:『犯婬欲非障道法。』」時諸比丘慇懃問阿梨吒如是說時,阿梨吒比丘堅持惡見,實定而言:「此是真實,餘皆虛妄。」爾時諸比丘不能除阿梨吒比丘惡見,便往世尊所,頭面禮足已在一面坐,以此因緣具白世尊。世尊爾時告一比丘:「汝持我言往速喚阿梨吒比丘來。」彼比丘受教,即往阿梨吒比丘所語言:「世尊有教喚汝。」時阿梨吒比丘聞世尊喚,即往世尊所頭面禮足在一面坐,佛問阿梨吒比丘言:「汝實有是語:『我知佛所說法,行婬欲非障道法。』耶?」阿梨吒答言:「大德!實有如是言。」佛告阿梨吒:「汝云何知我所說如是?我無數方便說斷欲愛法,如上所說。」爾時世尊以無數方便呵責阿梨吒比丘已,告諸比丘:「聽眾僧為阿梨吒比丘作呵諫,捨此事故,白四羯磨呵諫。應如是諫,眾中應差堪能羯磨者如上,作如是白:『大德僧聽!此阿梨吒比丘作如是語:「我知佛所說法,行婬欲非障道法。」若僧時到僧忍聽,僧今與阿梨吒比丘作呵諫,捨此事故。「阿梨吒!汝莫作是語,莫謗世尊,謗世尊者不善。世尊不作是語,世尊無數方便說婬欲是障道法。若犯婬欲即是障道法。」白如是。』『大德僧聽!此阿梨吒比丘作如是語:「我知佛所說法,犯婬欲非障道法。」僧今與作呵諫,捨此事故。「阿梨吒!莫作是語,莫謗世尊,謗世尊者不善,世尊不作是語,世尊無數方便說婬欲是障道法,若犯婬欲即是障道法。」誰諸長老忍僧為阿梨吒比丘作呵諫捨此事者默然,誰不忍者說。是初羯磨。』第二、第三亦如是說。『僧已為阿梨吒比丘作呵諫竟,僧忍,默然故,是事如是持。』應作如是呵責阿梨吒比丘,捨此事故白四羯磨。」諸比丘白佛,佛言:「若有餘比丘作是言:『我知佛所說,行婬欲非障道法。』眾僧亦應呵諫白四羯磨。自今已去與比丘結戒,集十句義乃至正法久住,欲說戒者當如是說:若比丘作如是語:『我知佛所說,法行婬欲非障道法。』彼比丘諫此比丘言:『大德!莫作是語,莫謗世尊,謗世尊者不善。世尊不作是語,世尊無數方便說行婬欲是障道法。』彼比丘諫此比丘時,堅持不捨,彼比丘乃至三諫,捨此事故。若三諫捨者善,不捨者波逸提。」』
出家人於僧中口自誓言。我盡形壽不犯婬欲。佛言。若出家人犯欲則棄。是比丘自誓而犯。是一罪。知佛所制而故違犯。是二罪。是比丘見白衣得道故。而以自身同彼。是故墮罪。 出家人は、僧中に於いて、口もて自ら、『我れ、形寿を尽して、婬欲を犯さず』、と誓言し、仏は、『若し出家人、欲を犯せば、則ち棄てん』、と言えるに、是の比丘は自ら誓いて、而も犯せば、是れ一の罪なり。仏の所制なりと知りながら、故(ことさら)に違犯すれば、是れ二の罪なり。是の比丘は、白衣の道を得るを見るが故に、自身を以って彼れに同じうすれば、是の故に罪に堕せり。
『出家人』は、
『僧』中に於いて、
『口』で、こう誓言し、――
自ら、
『わたしは、形寿を尽して!』、
『婬欲を犯さない!』、と。
『仏』は、こう言われたのに、――
若し、
『出家人が、欲を犯せば!』、
『棄てることになる!』、と。
是の、
『阿梨咤比丘』が、
自ら、
『誓言しながら!』、
『犯した!』のは、
『一の罪であり!』、
是れは、
『仏の所制であると知りながら!』、
『故に、違犯した!』のは、
『二の罪である!』。
是の、
『比丘』は、
『白衣』が、
『道を得た!』のを、
『見た!』が故に、
『自身』を、
『彼れに!』、
『同じた!』ので、
是の故に、
『罪』に、
『堕ちたのである!』。
淨佛國土有二種眾生。若出家若在家。在家者雖受五欲無罪亦無所妨。如兜率陀諸天及鬱單曰人。雖受五欲不起重罪。出家眾生隨佛所聽。在家五欲亦無過咎。 仏国土を浄むるに、二種の衆生有り、若しは出家、若しは在家なり。在家の者は、五欲を受くと雖も、罪無く、亦た妨げらるること無し。兜率陀の諸天、及び鬱単曰の人の如きは、五欲を受くと雖も、重罪を起さず。出家の衆生は、仏より聴(ゆる)す所に随えば、在家の五欲も亦た過咎無し。
『仏国土を浄める!』時、
『衆生』には、
『二種有って!』、
『出家と、在家である!』。
『在家の衆生』は、
『五欲を受けても!』、
『罪が無く!』、
『妨げられることも無い!』。
例えば、
『兜率陀の諸天や、鬱単曰の人のように!』、
『五欲を受けながら!』、
『重罪を起さないのである!』。
『出家の衆生』は、
『仏に聴されれれば!』、
『在家の五欲であっても!』、
『過咎は無い!』。
小乘法中為阿梨吒比丘說。薄福重罪之人心多悔故。淨佛土者世世習行六波羅蜜三解脫門。雖得五欲亦不染著。 小乗法中の阿梨吒比丘の為めの説は、薄福重罪の人は、心に多く悔ゆるが故なり。仏土を浄むる者は、世世に六波羅蜜、三解脱門を習行すれば、五欲を得と雖も、亦た染著せず。
『小乗中の阿梨吒比丘の為めの説』は、
『薄福重罪の人』は、
『心に悔ゆること!』が、
『多いからであり!』、
『仏土を浄める!』者は、
『六波羅蜜、三解脱門を世世に習行する! 」ので、
『五欲を得ても!』、
『染著することはない!』。
如經中說。所謂菩薩摩訶薩行般若波羅蜜作是念。我當自入初禪。亦當教化眾生入初禪四禪四無量心。乃至三十七品亦如是。是菩薩作是願。我作佛時盡行四禪乃至三十七品。如是福德故眾生雖受五欲不能為妨。 経中に説けるが如し。謂わゆる菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行じて、是の念を作さく、『我れは当に自ら初禅に入り、亦た当に衆生を教化して、初禅に入らしむべし。四禅、四無量心、乃至三十七品も亦た是の如し』、と。是の菩薩は、是の願を作さく、『我れ、仏と作らん時、尽く四禅、乃至三十七品を行じて、是の如き福徳の故に、衆生は五欲を受くと雖も、妨げと為る能わず』、と。
『経中に説かれた!』のは、
謂わゆる、
『菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行じて!』、こう念じて、――
わたしは、
『自ら、初禅に入らねばならず!』、
亦た、
『衆生を教化して!』、
『初禅に入らせねばならない!』。
亦た、
『四禅、四無量心、乃至三十七品』も、
『是の通りである!』、と。
是の、
『菩薩』は、こう願うのである、――
わたしが、
『仏と作った!』時には、
『四禅、乃至三十七品』を、
『尽く、行じている!』ので、
是のような、
『福徳』の故に、
『衆生』は、
『五欲を受けたとしても!』、
『妨げられることはないだろう!』、と。
是菩薩作無量阿僧祇願。隨爾所時行道盡具足是願。是菩薩一切善法皆成就。及所成就眾生一切善法成就故。得身端正見者無厭。亦成就眾生令得端正。 是の菩薩は、無量阿僧祇の願を作し、爾所の時に随いて、道を行じて、尽く、是の願を具足すれば、是の菩薩は、一切の善法を皆、成就し、成就する所衆生の、一切の善法成就するに及ぶが故に、身の端正を得て、見る者厭(あ)くこと無く、亦た衆生を成就して、端正を得しむ。
是の、
『菩薩』は、
『無量阿僧祇の願を作して!』、
『爾所の時に随い( on so many occasions )!』、
『道』を、
『行じながら!』、
是の、
『願』を、
『尽く、具足する!』ので、
是の、
『菩薩』は、
『一切の善法が、皆成就し!』、
及び、
『成就される衆生』の、
『一切の善法』も、
『成就する!』が故に、
『身に、端正を得て!』、
『見る!』者が、
『厭きること!』が、
『無く!』、
亦た、
『衆生を成就して!』、
『端正』を、
『得させるのである!』。
須菩提。菩薩應如是淨佛土。復次淨佛土者。乃至無三惡之名。何況有三惡道。 須菩提、菩薩は、応に是の如く仏土を浄むべし。復た次ぎに、浄土を浄むれば、乃至三悪の名すら無く、何に況んや三悪の道有るをや。
須菩提!
『菩薩』は、
是のように、
『仏土』を、
『浄めねばならない!』。
復た次ぎに、
『仏土を浄めれば!』、
乃至、
『三悪の名すら!』、
『無いのである!』から、
況して、
『三悪の道など!』、
『有るはずがない!』。
問曰。諸佛以大慈悲心為苦惱眾生故出世。若無三惡道何所憐愍。 問うて曰く、諸仏は、大慈悲心を以って、苦悩の衆生の為めの故に出世したまい、若し三悪道無ければ、何んが憐愍する所なる。
問い、
『諸仏』は、
『大慈悲を用いて!』、
『苦悩する衆生の為め!』の故に、
『世に出られた!』が、
若し、
『三悪道が無ければ!』、
何が、
『仏』に、
『憐愍されるのですか?』。
答曰。佛出為度眾生故。而三惡道眾生不可度。但可令種善根而已。是故佛名天人師。若無天人但有三惡道可應有難。應作是問。 答えて曰く、仏の出でたもうは、衆生を度せんが為めの故なるも、三悪道の衆生は、度すべからず。但だ善根を種えしむるべきのみ。是の故に仏を天人師と名づく。若し天人無く、但だ三悪道のみ有れば、応に難有るべく、応に是の問を作すべし。
答え、
『仏が、世に出られた!』のは、
『衆生』を、
『度す為めである!』が、
而し、
『三悪道の衆生が、度されることはなく!』、
但だ、
『善根』を、
『種えさせられるだけである!』。
是の故に、
『仏』を、
『天、人の師』と、
『称するのである!』。
若し、
『天、人が無く、但だ三悪道だけが有れば!』、
『非難されること!』も、
『有るだろうし!』、
是の、
『問』を、
『作すべきであろう!』。
問曰。佛憐愍眾生淨佛國土中。何以無三惡道眾生。 問うて曰く、仏は衆生を憐愍して、仏国土中を浄めらるれば、何を以ってか、三悪道の衆生無き。
問い、
『仏が、衆生を憐愍して!』、
『仏国土』中を、
『浄められる!』と、
何故、
『三悪道の衆生』が、
『無くなるのですか?』。
答曰。憐愍一切眾生平等無異。此中說清淨業因緣。是國土中無三惡道。又佛非但一國土。乃有十方恒河沙國土。佛有清淨國土有雜國土。雜國土中則具有五道淨佛國土。或有人天別異。或無有人天別異。如過去天王佛國土中。唯佛世尊以為法王。是故名為天王佛。 答えて曰く、一切の衆生を憐愍すること、平等にして異無きこと、此の中に説きたまわく、『清浄業の因縁もて、是の国土中には、三悪道無し』、と。又、仏は但だ一国土に非ず、乃(すなわ)ち、十方の恒河沙の国土有り。仏には、清浄の国土有り、雑なる国土有り。雑なる国土中には、則ち五道を具有す。仏国土を浄むれば、或は人天の別異有り、或は人天の別異有ること無し。過去の天王仏の国土中には、唯だ仏世尊を以って、法王と為し、是の故に名づけて、天王仏と為す。
答え、
『一切の衆生を憐愍して!』、
『平等であり!』、
『無異である!』が、
此の中に、こう説かれている、――
『清浄業の因縁』の故に、
是の、
『国土』中には、
『三悪道が無い!』、と。
又、
『仏』には、
『但だ、一国土が有るだけでなく!』、
乃ち( really )、
『十方の恒河沙の国土』が、
『有り!』、
『仏』には、
『清浄の国土も有れば!』、
『雑の国土』も、
『有る!』ので、
『雑の国土』中には、
『五道』を、
『具有する( have allover )!』。
『浄の仏国土』には、
或は、
『人、天の別異』が、
『有り!』、
或は、
『人、天の別異』が、
『無い!』。
例えば、
『過去の天王仏の国土』中には、
唯だ、
『仏世尊( a truth-speaker )だけ!』が、
『法王( being a king of Dharma )とされた!』ので、
是の故に、
『天王仏( King-of Gods-Buddha )』と、
『称されるのである!』。
  天王仏(てんのうぶつ)、天王如来(てんのうにょらい):過去の俗形を以って成仏せし仏の名。「自在王菩薩経巻下」に依るに、此の仏は、過去の燃燈佛、威德佛、提沙佛、光明佛以前の仏にして、其の眷属等と与に、皆袈裟を著けず、自生浄妙の天衣を著くるも、亦た結惑無し。
  天王(てんのう):梵語 maha-raaja の訳、神々の王( a king of gods )の義。
  仏世尊(ぶつせそん):梵語 tattva-vaadin の訳、真実を話す者( a truth- speaker )の義。
  法王(ほうおう):梵語 dharma-raaja の訳、法の王( a king of Dharma )の意。
復有國土無三毒邪見。 復た、有る国土には三毒、邪見無し。
復た、有る、
『国土』には、
『三毒も、邪見も!』、
『無い!』。
問曰。諸佛但為除眾生煩惱故出世。邪見三毒即是煩惱。若無煩惱出何所為。 問うて曰く、諸仏は、但だ衆生の煩悩を除かんが為めの故に世に出でたまい、邪見、三毒は即ち是れ煩悩なるに、若し煩悩無きに出でたまわば、何の為す所ぞ。
問い、
『諸仏』は、
但だ、
『衆生の煩悩を除く為め!』の故に、
『世に!』、
『出られるだけであり!』、
是の、
『煩悩』とは、
『即ち邪見や、三毒である!』。
若し、
『煩悩が無ければ!』、
『世に出て!』、
『何が為されるのですか?』。
答曰。有人言。是中大福德因緣故。邪見三毒不發故言無。 答えて曰く、有る人の言わく、『是の中の大福徳の因緣の故に、邪見、三毒発らざれば、故に無しと言えり』、と。
答え、
有る人は、こう言っている、――
是の、
『般若波羅蜜』中には、
『大福徳の因緣』の故に、
『邪見も、三毒も!』、
『発らない!』ので、
是の故に、
『邪見、三毒が無い!』と、
『言うのである!』。
復次有人言。是中諸菩薩皆得無生法忍。常修六波羅蜜等諸功德。常遊十方度脫眾生。於諸佛所修習諸佛三昧勝教化無數聲聞辟支佛。亦勝教化阿鞞跋致菩薩成就眾生菩薩淨佛土菩薩。為近佛道故利益轉大。 復た次ぎに、有る人の言わく、『是の中には、諸菩薩は皆、無生法忍を得て、常に六波羅蜜等の諸功徳を修し、常に十方に遊んで衆生を度脱し、諸の仏所に於いて、諸の仏の三昧を修習し、無数の声聞、辟支仏を教化するに勝(た)え、亦た阿毘跋致の菩薩を教化するに勝え、衆生の菩薩を成就して、仏土を浄む。菩薩は、仏道に近づけるが為めの故に、利益転た大なり。
復た次ぎに、
有る人は、こう言っている、――
是の中の、
『諸菩薩は、皆無生法忍を得ており!』、
常に、
『六波羅蜜等の諸功徳』を、
『修めながら!』、
常に、
『十方に遊んで!』、
『衆生』を、
『度脱し!』、
『諸仏の所』に於いて、
『諸仏三昧』を、
『修習し!』、
『無数の声聞、辟支仏』を、
『教化する!』に、
『勝え( can bear )!』、
『阿毘跋致の菩薩』を、
『教化する!』に、
『勝え!』、
『衆生の菩薩を成就して!』、
『仏土』を、
『浄める!』。
是の、
『菩薩は、仏道に近づいた!』が故に、
『利益( his merit )』が、
『転た大となる( to become great increasingly and increasingly )!』。
是國土無二乘之名者。問曰。餘佛有三乘教化豈獨劣耶。 是の国土に、二乗の名すら無しとは、問うて曰く、餘の仏には、三乗有りて、教化するに、豈に独り劣れりや。
是の、
『国土』には、
『二乗の名すら!』、
『無い!』とは、――
問い、
『餘の仏』は、
『三乗が有って!』、
『教化されている!』のに、
豈に( how can )、
『独りだけ!』、
『劣るのですか?』。
答曰。佛出五濁惡世。於一道分為三乘。 答えて曰く、仏は、五濁の悪世に出でたまわば、一道を分かちて、三乗と為したもう。
答え、
『仏』は、
『五濁(命濁、劫濁、煩悩濁、見濁、衆生濁)の悪世に出られる!』と、
『一道』を、
『三乗に分けられるのである!』。
問曰。若爾阿彌陀佛阿閦佛等不於五濁世生。何以復有三乘。 問うて曰く、若し爾らば、阿弥陀仏、阿閦仏等は、五濁の世に生じたまわざるに、何を以ってか、復た三乗有る。
問い、
若し、爾うならば、――
『阿弥陀仏や、阿閦仏』等は、
『五濁の世に生じられない!』のに、
何故、復た、
『三乗』が、
『有るのですか?』。
答曰。諸佛初發心時。見諸佛以三乘度眾生。自發願言我亦當以三乘度眾生。 答えて曰く、諸仏は初発心の時、諸仏の三乗を以って、衆生を度するを見て、自ら願を発して、言わく、『我れも亦た、当に三乗を以って衆生を度すべし』、と。
答え、
『諸仏』は、
『初めて発心した!』時、
『諸仏が、三乗を用いて衆生を度される!』のを、
『見て!』、
『自ら、願を発して!』、こう言われた、――
わたしも、
『三乗を用いて!』、
『衆生を度さねばならない!』、と。
亦無無常苦空無我之名者。以眾生深著常樂等顛倒故為說無常等苦法。是中無常樂等倒故不須無常苦。若無病則不須藥。亦無我所有乃至無諸煩惱結使亦如是。 亦た無常、苦、空、無我の名すら無しとは、衆生は深く常楽等の顛倒に著するを以っての故に、為めに無常等の苦法を説きたまえばなり。是の中に常、楽等の倒無きが故に、無常、苦を須いず。病無ければ、則ち薬を須いざるが如し。亦た我の所有無く、乃至諸煩悩、結使無きことも亦た是の如し。
亦た、
『無常、苦、空、無我(苦諦四行相)』は、
『名すら!』、
『無い!』とは、――
『衆生』は、
『深く常、楽等の顛倒に著する!』が故に、
『無常等の苦法』を、
『説かれたのである!』。
是の、
『清浄の仏国土』中には、
『常、楽等の顛倒が無い!』が故に、
『無常、苦』を、
『須いないのであり!』、
例えば、
『病が無ければ!』、
『薬』を、
『須いないようなものであり!』、
亦た、
『我の所有、乃至諸煩悩や結使が無い!』のも、
『是の通りである!』。
無二乘故亦無須陀洹等諸果。但一向著諸法實相。先得無生法忍者得諸三昧陀羅尼門。轉復增益諸地等功德。 二乗無きが故に、亦た須陀洹等の諸果も無く、但だ一向に、諸法の実相に著するのみ。先に無生法忍を得たる者は、諸の三昧、陀羅尼門を得て、転た復た諸地等の功徳を増益す。
是の中には、
『二乗が無い!』が故に、
『須陀洹等の諸果』も、
『無く!』、
『但だ、一向に( with undivided attention )!』、
『諸法の実相』に、
『著するだけである!』。
先に、
『無生法忍を得た!』者が、
『諸の三昧、陀羅尼門を得れば!』、
転た復た( increasingly )、
『諸地等の功徳』を、
『増益することになる!』。
  一向(いっこう):梵語 ananya-manas の訳、脇目も振らずに行うこと( exercising undivided attention )の義。
風吹七寶之樹隨所應度而出聲者。是菩薩欲使眾生易聞法故。七寶之樹出法音聲。寶樹遍滿國土故。眾生生便聞法。餘心不生但生法心。 風は、七宝の樹を吹き、応に度すべき所に随って、声を出すとは、是の菩薩は、衆生をして、易(たや)すく法を聞かしめんと欲するが故なり。七宝の樹は、法の音声を出して、宝樹は遍く、国土に満てるが故に、衆生は、生じて便(すなわ)ち法を聞けば、餘心生ぜずして、但だ法心を生ずるのみ。
『風は、七宝の樹を吹き!』、
『度すべき所に随って!』、
『声』を、
『出す!』とは、――
是の、
『菩薩(≒仏)』が、
『衆生』に、
『易すく( easily )!』、
『法を聞かせようとするからである!』。
『七宝の樹』は、
『法の音声』を、
『出し!』、
『国土』には、
『宝樹』が、
『遍満する( being filled with )!』が故に、
『衆生』は、
『生じて便ち( from their birth )!』、
『法を聞くことになる!』ので、
『餘心を生じず!』、
但だ、
『法心だけ!』が、
『生じるのである!』。
  遍満(へんまん):梵語 aapuuryate の訳、満たされた( to be filled )の義。
問曰。諸佛有無量不可思議神通力。何以不變化作無量身說法度眾生。何須樹木音聲。 問うて曰く、諸仏には、無量不可思議の神通力有るに、何を以ってか、変化して、無量の身を作して、説法し、衆生を度せずして、何んが樹木の音声を須うるや。
問い、
『諸仏には、無量不可思議の神通力が有る!』のに、
何故、
『変化して!』、
『無量の身』と、
『作り!』、
『説法して!』、
『衆生』を、
『度さないのですか?』。
何故、
『樹木の音声を用いて!』、
『衆生』を、
『度すのですか?』。
答曰。眾生甚多。若佛處處現身眾生不信。謂為幻化心不敬重。有眾生從人聞法心不開悟。若從畜生聞法則便信受。如本生經說。菩薩受畜生身為人說法。人以希有故無不信受。又謂畜生心直不誑故。 答えて曰く、衆生は甚だ多し。若し仏処処に身を現さば、衆生信ぜずして、謂いて幻化と為し、心に敬重せず。有る衆生は、人より法を聞いて、心開悟せざるも、若し畜生より法を聞けば、則便ち信受す。本生経に説けるが如し。『菩薩は、畜生の身を受けて、人の為めに説法するに、人、希有なるを以っての故に、信受せざる無し』、と。又謂わく、『畜生の心は直くして、誑さざるが故なり』、と。
答え、
『衆生は、甚だ多く!』、
若し、
『仏が、処処に身を現せば!』、
『衆生は、信じず!』に、
『幻化である、と謂って!』、
『心に、敬重しない!』。
有る、
『衆生』は、
『人より、法を聞いても!』、
『心』が、
『開悟しない( be not awakened )!』が、
『畜生より、法を聞けば!』、
『則便に( instantly )!』、
『信受する!』。
『本生経』などに、こう説く通りである、――
『菩薩が、畜生の身を受けて!』、
『人の為め!』に、
『法を説く!』と、
『人』は、
『希有である!』が故に、
『信受しない者が無い!』、と。
又、こうも謂っている、――
『畜生の心』は、
『直く( being straight )!』、
『誑すことがない!』、と。
  開悟(かいご):梵語 prativibudhyati の訳、覚醒させられる( to be awakened )の義。
有人謂畜生是有情之物皆有欺誑。以樹木無心而有音聲則皆信受。所謂空無相無作。有佛無佛一切法常空。空故無相。無相故無作無起。如是等法晝夜常出。 有る人の謂わく、『畜生は、是れ有情の物なれば、皆欺誑する有り。樹木は、無心なるを以って、音声有れば、則ち皆信受す。謂わゆる空、無相、無作なり。仏有るも、仏無きも、一切法は常に空なり。空なるが故に無相、無相なるが故に無作、無起なりと、是れ等の如き法を昼夜常に出すなり』、と。
有る人は、こう謂っている、――
『畜生は、有情の物なので!』、
『皆!』、
『欺誑が有る!』が、
『樹木は、無心である!』が故に、
『音声が有れば!』、
『皆が、信受する!』。
謂わゆる、
『空、無相、無作である!』。
『仏が有ろうと、無かろうと!』、
『一切法は、常に空であり!』、
『空である!』が故に、
『無相であり!』、
『無相である!』が故に、
『無作であり( nobody makes )!』、
『無起である( nobody arises )!』、と。
是れ等のような
『法』が、
『昼も、夜も!』、
『常に、出るのである!』、と。
餘國土以神通力口力種種變化。此中常自然音聲淨佛國土。佛常為諸佛所讚大作功德故。能得如是淨國。若聞淨國佛名則畢定作佛。 餘の国土は、神通力、口力、種種の変化を以ってするも、此の中は、常に自然の音声が、仏国土を浄むるなり。仏の常に諸仏に讃ぜらるるは、大いに功徳を作せるが故に、能く是の如き浄国を得て若し浄国の仏名を聞けば、則ち畢定して、仏と作ればなり。
『餘の仏国』は、
『神通力、口力( the force of words )、種種の変化を用いて!』、
『仏国土を浄める!』が、
『此の阿弥陀仏国』等は、
『自然の音声』が、
『仏国土を浄める!』ので、
『此の仏』が、
『常に、諸仏に讃じられる!』のは、
此の、
『功徳を、大いに作して!』、
是のような、
『浄国( the purified land )』を、
『得ることができ!』、
若し、
『浄国の仏名を聞けば!』、
『畢定して( inevitably )!』、
『仏と作るからである!』。
  口力(くりき):梵語 vaacika-bala の訳、言葉による力( a power or force or strength caused by words )の義、言葉による
  畢定必定(ひつじょう):梵語 avazya の訳、必然的に/確実に( necessarily, inevitably, certainly )の義。
  浄仏国土(じょうぶっこくど)、浄仏国(じょうぶっこく)、浄国(じょうこく)、浄土(じょうど):◯梵語 parizuddha- kSetra, parizuddha- buddha- kSetra の訳、浄められた仏土( a purified buddha's country )の義。◯梵語 buddha- kSetra -parizudhyati, buddha- kSetra- parizudhi の訳、仏土を浄めること( the purification of a buddha's land )の義。
問曰。餘佛種種勤苦說法。眾生尚不得道。何以但聞佛名便得道。 問うて曰く、餘の仏も種種に勤苦して、説法したもうも、衆生は尚お道を得ず。何を以ってか、但だ仏名を聞いて、便ち道を得る。
問い、
『餘の仏』も、
『種種に勤苦して!』、
『法』を、
『説かれている!』が、
『衆生』は、
尚お( yet )、
『道』を、
『得ることはない!』。
何故、
『但だ、仏名を聞くだけ!』で、
便ち( easily )、
『道』を、
『得るのですか?』。
答曰。餘處佛種種說法。眾生或得道或得善根終不空說。若聞是佛名畢至阿鞞跋致不言今得。 答えて曰く、餘処の仏も、種種に法を説きたもうに、衆生は或は道を得、或は善根を得れば、終に説いて空しからず。若し是の仏名を聞けば、畢(つい)に阿毘跋致に至るも、今得るとは言わず。
答え、
『餘処の仏が、種種に法を説かれれば!』、
『衆生』も、
或は、
『道』を、
『得たり!』、
或は、
『善根』を、
『得るので!』、
終に、
『空しく!』、
『説くわけではない!』が、
是の、
『仏名を聞けば!』、
畢に( at last )、
『阿毘跋致』に、
『至る( to attain )ことになる!』が、
今、
『阿毘跋致を得る!』と、
『言うのではない!』。
問曰。一切佛若人好心聞名皆當至佛。如法華經中說。福德若大若小皆當作佛。何以獨說淨國佛。 問うて曰く、一切の仏は、若し人好心もて、名を聞けば、皆当に仏に至るべし。法華経中に説くが如し、『福徳若しは大、若しは小、皆当に仏と作るべし』、と。何を以ってか、独り、浄国の仏と説く。
問い、
『一切の仏』は、
若し、
『人の好心』が、
『仏の名』を、
『聞けば!』、
皆、
『仏』に、
『至るはずである!』。
例えば、
『法華経』中に、こう説く通りであるが、――
『福徳』が、
『大でも、小でも!』、
『皆、仏と作るはずである!』、と。
何故、
『般若波羅蜜』のみ、
独り、
『浄国の仏の名を聞けば!』と、
『説くのですか?』。
  参考:『法華経巻4』:『藥王。若有人問何等眾生於未來世當得作佛。應示是諸人等於未來世必得作佛。何以故。若善男子善女人。於法華經乃至一句。受持讀誦解說書寫。種種供養經卷。華香瓔珞末香塗香燒香繒蓋幢幡衣服伎樂。合掌恭敬。是人一切世間所應瞻奉。應以如來供養而供養之。當知此人是大菩薩。成就阿耨多羅三藐三菩提。哀愍眾生願生此間。廣演分別妙法華經。何況盡能受持種種供養者。』
答曰。人聞餘佛名字。謂受生與人無異但有一切智得道。為異心不敬重故。雖種善根亦不能深。是中是法性身佛身無量無邊光明說法音聲遍滿十方國土。國中眾生皆是近佛道者。無量阿僧祇由旬眾中說法。勝無量億阿僧祇日月光明。常從身出。 答えて曰く、人は、餘の仏の名字を聞いて、『生を受くること、人と異無く、但だ一切智有りて、道を得るを異と為す』、と謂いて、心に敬重せざるが故に、善根を種うと雖も、深うする能わず。是の中は、是れ法性身なれば、仏身の無量無辺の光明と、説法の音声十方の国土に遍満し、国中の衆生は、皆是れ仏道に近き者にして、無量阿僧祇由旬の衆中に法を説いて、無量億阿僧祇の日月の光明の常に身より出づるに勝(た)う。
答え、
『人』が、
『餘の仏の名字を聞いても!』、
『生を受けること!』は、
『人』と、
『異が無く!』、
『但だ、一切智が有る!』ので、
『道を得ることが、異なるだけだ!』と、
『謂って!』、
『心に、敬重しない!』が故に、
『善根を種えても!』、
『深くすることができない!』、
是の中の、
『仏』は、
『法性身であり!』、
『仏身の無量無辺の光明や、説法の音声』が、
『十方の国土』に、
『遍満し!』、
『国中の衆生』は、
『皆、仏に近い者ばかりであって( they are all like buddhas )!』、
『無量阿僧祇由旬の衆中に、法を説けば!』、
『無量億阿僧祇の日月の光明を、常に身より出す!』に、
『勝える( can bear to )!』。
佛令眾生見則得見若不聽則不見。是佛一一毛孔邊常出無量無邊阿僧祇佛。一一諸佛等無異。於化佛邊展轉復出。隨應度眾生。見佛優劣。根本真佛無有分別大小之異。如是等若見若聞名若聞如是功德。深信敬重故。所種善根云何不畢定作佛。 仏は、衆生をして、見しむれば、則ち見るを得、若し聴したまわざれば、則ち見ず。是の仏の一一の毛孔の辺より、常に無量、無辺、阿僧祇の仏を出して、一一の諸仏は等しくして、異無く、化仏の辺に於いても、展転して、復た出で、応に度すべき衆生に随いて、仏の優劣を見(あらわ)したもうも、根本の真仏は、分別、大小の異有ること無し。是れ等の如きを、若しは見、若しは名を聞き、若しは是の如き功徳を聞けば、深信して、敬重するが故に、種うる所の善根は、何んが畢定して、仏と作らざる。
『仏』は、
『衆生に見せたければ!』、
『衆生』は、
『見ることができ!』、
『聴されなければ( does not allow )!』、
『衆生』は、
『見ることができない!』。
是の、
『法性身の仏』は、
『一一の毛孔の辺より!』、
『無量無辺阿僧祇の仏』を、
『常に出し!』、
『一一の諸仏は等しくして、異ならず!』、
『化仏の辺より!』、
『展転して、復た出る( to appear one after another )!』。
『一一の化仏』は、
『度される衆生に随って!』、
『仏身の優劣( the buddha's body is superior or inferior )!』が、
『見われる( it appears that )!』が、
『根本の真仏』は、
『大小の異のような!』、
『分別』は、
『無いのである!』。
是れ等のように、
『仏身を見たり、仏名を聞いたりして!』、
是のような、
『功徳を聞けば!』、
『深信し!』、
『敬重する!』が故に、
『種えられた善根』が、
何故、
『畢定して!』、
『仏と作らないのか?』。
  参考:『60華厳経巻15』:『復得十種無盡功德之藏。何等為十。一者常見諸佛無盡功德之藏。於一一毛孔中見無量阿僧祇諸佛。二者入無盡法功德之藏。以如來智慧。等觀一切法即是一法。三者受持正念無盡功德之藏。聞一切佛所說正法聞持不忘。四者得無盡慧功德之藏。於一切如來所說經法。善能次第解其句義。五者無盡趣法功德之藏。善能分別一切法趣。六者無盡佛願功德之藏。智慧如空。充滿三世一切諸法。七者無盡功德功德之藏。充滿一切諸眾生意猶不可盡八者無盡智功德之藏。一切眾生愚癡曀障悉能除滅。九者無盡辯才功德之藏。令一切眾生悉解一切佛法平等無二。十者無盡十力四無所畏功德之藏。具足修習菩薩所行。受法王職得一切智。佛子。是名菩薩摩訶薩得十無盡功德之藏。以此無盡功德之藏。皆悉迴向一切功德。』
復次是佛說法時無有疑者。乃至無一人言是法為非。佛口所說悉皆是法。 復た次ぎに、是の仏の法を説く時には、疑う者の有ること無く、乃至一人すら、『是の法を非と為す』、と言う無く、仏の口の所説は、悉く皆是れ法なればなり。
復た次ぎに、
是の、
『仏が、法を説く!』時には、
『疑う者が、無く!』、
『是の法は、非である( this dharma is fault )、と言う!』者は、
乃至、
『一人も!』、
『無い!』。
『仏』が、
『口で説かれた!』所は、
『悉く、皆法だからである!』。
問曰。人從釋迦文尼佛聞法生疑者多。 問うて曰く、人は、釈迦文尼仏に従うて、法を聞くに、疑を生ずる者多し。
問い、
『人が、釈迦文尼仏より法を聞いた!』時、
何故、
『疑を生じる!』者が、
『多かったのか?』。
答曰。佛此中自說因緣。有人薄福不種善根不得善知識故。生疑著我見邊見邪見等。諸煩惱覆故非佛言是佛。是佛言非佛。不深種善根不順善師。三毒邪見一時發起無所依。隨任意自恣若見邪見。順其意故言是一切智。見諸佛說畢竟空。不順其意便言非佛。非法言法。法言非法。 答えて曰く、仏は此の中に、自ら因縁を説きたまわく、『有る人は薄福にして、善根を種えず、善知識を得ざるが故に、疑を生じて、我見、辺見、邪見等に著して、諸煩悩に覆わるるが故に、仏に非ざるを、是れ仏なり、と言い、是れ仏なるを、仏に非ず、と言い、深く善根を種えず、善師に順わざれば、三毒と邪見と一時に発起して、依りて随う所無く、意に任(まか)せて、自ら恣にし、若し見れば邪見して、其の意に順うが故に、是れ一切智の見なりと言い、諸仏の畢竟空を説くも、其の意に随わず、便ち仏に非ず、と言い、法に非ざるを法なりと言い、法を法に非ずと言う。
答え、
『仏』は、
此の中に、自ら因緣をこう説かれた、――
有る人は、
『薄福であり、善根を種えず、善知識を得られない!』が故に、
『疑を生じて!』、
『我見、辺見、邪見』等に、
『著し!』、
『諸の煩悩に覆われる!』が故に、
『仏でない!』のに、
『仏である!』と、
『言い!』、
『仏である!』のに、
『仏でない!』と、
『言い!』、
『善根を深く種えず、善師に順わない!』が故に、
『三毒と邪見が、一時に発起しても!』、
『依随する( on what is depended )!』所が、
『無く( there is nothing )!』、
『意に任せて、自ら恣にする!』が故に、
若し、
『見れば!』、
『邪見して!』、
其の、
『意に順う( subjecting to own-understanding )!』が故に、
是れは、
『一切智の見である!』と、
『言い!』、
『諸仏が、畢竟空を説かれても!』、
其の、
『意に順わずに!』、
便ち( easily )、
『仏でない!』と、
『言い!』、
『法でない!』のに、
『法である!』と、
『言い!』、
『法』を、
『法でない!』と、
『言う!』、と。
  依随(えずい):梵語 adhiina の訳、倚り掛かる( resting on or in )の義、頼る/従属する/依止隨順( depending on, subject to )の意。
如是人於諸佛所多生疑。多生疑故心悔。是淨佛國中無如是罪人故不生疑。佛言。如是罪人破諸法實相故死墮地獄惡道中。諸菩薩得阿耨多羅三藐三菩提。見諸罪人往來生死中。以佛神通力拔出眾生令住正定聚中。不墮三惡趣。是名淨佛土。 是の如き人は、諸仏の所に於いて、多く疑を生じ、多く疑を生ずるが故に、心に悔ゆるも、是の浄仏国中には、是の如き罪人無きが故に、疑を生ぜざれば、仏の言わく、『是の如き罪人は、諸法の実相を破るが故に、死して地獄、悪道中に墮す。諸菩薩は阿耨多羅三藐三菩提を得て、諸の罪人の生死中を往来するを見、仏の神通力を以って、衆生を抜き出し、正定聚中に住せしめ、三悪趣に出せざらしむ。是れを仏土を浄むと名づく』、と。
是のような、
『人』は、
『諸仏の所』に於いて、
『多く!』、
『疑を生じ!』、
『多く、疑を生じる!』が故に、
『心』に、
『悔ゆることになる!』が、
是の、
『浄仏国』中には、
是のような、
『罪人が無い!』が故に、
『疑を生じない!』ので、
『仏』は、こう言われたのである、――
是のような、
『罪人は、諸法の実相を破る!』が故に、
『死ねば!』、
『地獄や、悪道』中に、
『墜ちる!』が、
『諸の菩薩』は、
『阿耨多羅三藐三菩提を得て!』、
『諸の罪人』が、
『生死中を往来する!』のを、
『見る!』と、
『仏の神通力を用いて!』、
『衆生を抜き出して、正定聚中に住させ!』、
『三悪趣』に、
『堕ちさせない!』。
是れを、
『仏土を浄める!』と、
『称するのである!』、と。
是佛土中無如是諸過無不具足。於世間出世間有漏無漏有為無為等中無有障礙。所謂國土七寶眾生身端正相好莊嚴無量光明常聞法音。常不遠離六波羅蜜乃至十八不共法。是中眾生皆畢竟至阿耨多羅三藐三菩提。 是の仏土中には、是の如き諸の過無く、具足せざる無く、世間、出世間、有漏、無漏、有為、無為等中に於いて、障礙有ること無く、謂わゆる『国土は七宝にして、衆生の身は端正にして、相好荘厳し、無量の光明ありて、常に法音を聞き、常に六波羅蜜乃至十八不共法を遠離せず。是の中の衆生は、皆畢竟じて阿耨多羅三藐三菩提に至る』、と。
是の、
『仏土』中には、
是のような、
『過が無く、具足しないことが無く!』、
『世間、出世間、有漏、無漏、有為、無為等の法』中に於いて、
『障礙が無い( there are no obstacles )!』。
謂わゆる、
『国土は七宝であり!』、
『衆生の身は端正であり!』、
『相好が荘厳して!』、
『無量の光明が有り!』、
『常に、法音を聞く!』ので、
『六波羅蜜、乃至十八不共法』を、
『遠離しない!』ので、
是の、
『仏土中の衆生』は、
『皆、畢竟じて!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』に、
『至るのである!』。
問曰。上聞佛名畢定至佛。此於諸法無礙必得作佛。有何差別。 問うて曰く、上には、仏名を聞いて、畢定して、仏に至り、此には、諸法に於いて礙無く、必ず仏と作るを得、と。何なる差別か有る。
問い、
上には、こう説き、――
『仏の名を聞けば!』、
『畢定して!』、
『仏に至る!』、と。
此には、こう説く、――
『諸法に、礙が無くなり!』、
『必ず!』、
『仏と作ることができる!』、と。
何のような、
『差別』が、
『有るのですか?』。
答曰。此中眾生常見佛常聞法。深種善根多集佛法故疾得作佛。聞名者雖俱畢竟定而小不如。如是等名為淨國土相。如十地中莊嚴菩提樹說 答えて曰く、此の中の衆生は、常に仏を見て、常に法を聞き、深く善根を種えて、多く仏法を集むるが故に、疾かに仏と作るを得。名を聞く者は、倶に畢竟じて定ると雖も、小しく如かず。是れ等の如きを、名づけて浄国土の相と為し、十地中の荘厳菩提樹に説けるが如し。
答え、
此の中の、
『衆生』は、
『常に、仏を見て!』、
『常に、法を聞き!』、
『深く、善根を種えて!』、
『多く、仏法を集める!』が故に、
疾かに、
『仏』と、
『作ることができる!』が、
『名を聞く!』者は、
『仏を見る者と、倶に畢竟じて定まる!』が、
『小しばかり!』、
『及ばないだけである!』。
是れ等のようなものが、
『浄国土の相である!』が、
例えば、
『十地中の荘厳菩提樹で説いたように!』、
『皆、諸仏の神通力の不可思議なのである!』。
  参考:『大智度論巻50』:『【經】‥‥云何菩薩莊嚴佛樹成就。是菩提樹以黃金為根。七寶為莖節枝葉。莖節枝葉。光明遍照十方阿僧祇三千大千世界。【論】‥‥莊嚴佛樹成就者。莊嚴菩提樹如先說。佛此中自說。是菩提樹以黃金為根。七寶為莖節枝葉。莖節枝葉光明遍照十方無數阿僧祇諸佛世界。或有佛以菩薩七寶莊嚴佛樹。或有不如是者。所以者何。諸佛神力不可思議。為眾生故現種種莊嚴。』


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