巻第九十二(下)
大智度論釋淨佛國土品第八十二
1.【論】菩薩の道とは?
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大智度論釋淨佛國土品第八十二
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


【論】菩薩の道とは?

【論】釋曰上來須菩提常種種問空法以時會疑。其己體寂滅無戲論法猶復多問。是以不問而心念。 釈して曰く、上来、須菩提は常に種種に空法を問えるも、時に会(かなら)ず、其の己体の寂滅、無戯論の法なるを疑うを以って、猶お復た多く問えり。是を以って問わずとも、心に念ぜり。
釈す、
上来( from the beginning )、
『須菩提』は、
常に、
『空法』を、
『種種に問うていた!』が、
時に会ず( sometimes )、
『己体が寂滅、無戯論の法である!』のを、
『疑っていた!』ので、
猶お復た( still )、
『多く!』、
『問うたのであり!』、
是の故に、
『問わなくても!』、
『心に念じていたのである!』。
  時会(じえ):時々/しばしば/時に( sometimes, ocasionally )。
  己体(こたい):自らの身体( your own body )。
復次有菩薩及諸天。深入禪定不好語言。而欲得法利。是故須菩提不發言而心念。 復た次ぎに、有る菩薩、及び諸天は深く禅定に入りて、語言を好まず、而も法利を得んと欲すれば、是の故に須菩提は、言を発せずして、心に念ぜり。
復た次ぎに、
有る、
『菩薩や、諸天』は、
『深く、禅定に入って!』、
『語言する( saying )こと!』を、
『好まない!』のに、
而も、
『法利( knowledge of dharma )』を、
『得ようとする!』ので、
是の故に、
『須菩提』は、
『言を発することなく!』、
『心』に、
『念じたのである!』。
  法利(ほうり):◯梵語 dharma-abhisamaya の訳、法を明了に理解すること( clear understanding of dharma )の義。◯梵語 dharma- laabha の訳、法に関する知識( knowledge of dharma )の義。
問曰。須菩提雖無言而世尊以言答。 問うて曰く、須菩提は無言なりと雖も、世尊は言を以って答えたもうや。
問い、
『須菩提が、無言なのに!』、
『世尊』は、
『言を用いて、答えらえたのか?』。
答曰。佛身色視無厭足。如色無厭。聲亦如是。雖語而不妨細禪定行。是故佛以言答。 答えて曰く、仏の身色は視るに厭足無く、色の厭無きが如く、声も亦た是の如ければ、語ると雖も、細なる禅定の行を妨げず。是の故に仏は、言を以って答えたまえり。
答え、
『仏』の、
『身色』は、
『視て!』、
『厭足することが無く!』、
『色に、厭足が無いように!』、
『声』も、
『是の通りである!』ので、
『語られたとしても!』、
『微細な禅定の行』を、
『妨げない!』ので、
是の故に、
『仏』は、
『言を用いて( in words )!』、
『答えられたのである!』。
復次佛安立寂滅相。於阿耨多羅三藐三菩提中住。不分別一切法若善若不善等。眾生有疑而問。佛隨所問所念而答。是故不與須菩提同。 復た次ぎに、仏は寂滅相に安立して、阿耨多羅三藐三菩提中に住し、一切法の若しは善、若しは不善等を分別せず。衆生に疑有りて問えば、仏は所問、所念に随いて答えたもう。是の故に、須菩提と同じからず。
復た次ぎに、
『仏』は、
『寂滅相に安立し!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』中に、
『住されている!』ので、
『一切法』を、
『善であるとか、不善である!』等と、
『分別せず!』、
『衆生』に、
『疑が有って!』、
『問えば!』、
『仏』は、
『衆生の所問、所念に随って!』、
『答えられる!』ので、
是の故に、
『須菩提』と、
『同じではない!』。
  安立(あんりゅう):梵語 pratiSThaa, pratiSThaapana の訳、しっかり立つ/住する( to stay, stand still, stand firm )、置く/設置する( placing, locating )の義。
須菩提聞是六波羅蜜等諸法甚深義。不能得其邊。是故問何等是菩薩道。行是道如清淨無所著。六波羅蜜等諸善法莊嚴。 須菩提は、是の六波羅蜜等の諸法の甚深の義を聞くも、其の辺を得る能わず。是の故に問わく、『何等か、是れ菩薩の道にして、是の道を行ずれば、清浄、無所著の六波羅蜜等の如き、諸善法もて荘厳するや』、と。
『須菩提』は、
是の、
『六波羅蜜等の諸法』の、
『甚深の義( the very deep meaning )』を、
『聞いていた!』が、
其の、
『辺( the limit )』を、
『得ることはできなかった( cannot understand )!』ので、
是の故に、こう問うた、――
何のようなものが、
『菩薩の道であり!』、
是の、
『道を行じれば!』、
『清浄無所著の六波羅蜜等のような!』、
『諸善法』に、
『荘厳されるのですか?』、と。
  甚深(じんじん):梵語 atigambhiira, atigahana の訳、甚だ深い/理解不能( very deep, unfathomable )の義。
  (へん):梵語 anta, antapaara の訳、限界( limit, fullest extent )の義。
佛知其意。於須菩提所益雖少。為增益諸菩薩故答。六波羅蜜等是菩薩道。六波羅蜜是菩薩初發心道。次行四禪八背捨九次第定及三十七道品。但求涅槃十八空佛十力等。微細但為求佛道。六波羅蜜道多為眾生故。三十七品等但求涅槃。十八空等於涅槃中。出過聲聞辟支佛地。入菩薩位道。是三種皆是生身菩薩所行。所以者何。分別諸法故。 仏は、其の意の須菩提に於いては益する所少きを知ると雖も、諸菩薩を増益せんが為の故に答えたまわく、『六波羅蜜等は、是れ菩薩の道にして、六波羅蜜は是れ菩薩の初発心の道なり。次に行ずる四禅、八背捨、九次第定、及び三十七道品は、但だ涅槃を求め、十八空、仏の十力等の微細なるは、但だ仏を求むる為の道なり。六波羅蜜の道は、多く衆生の為めの故なり。三十七品等は但だ涅槃を求め、十八空等は涅槃中に於いて、声聞、辟支仏の地を出過して、菩薩位に入る道なり。是の三種は、皆是れ生身の菩薩の所行なり。所以は何んとなれば諸法を分別するが故なり。
『仏』は、
『須菩提の意』は、
『須菩提には、益する所が少い!』と、
『知っていられた!』が、
『諸菩薩を増益する為め!』の故に、こう答えられたが、――
『六波羅蜜』等は、
『皆、菩薩の道である!』、と。
『六波羅蜜』は、
『初発心の菩薩の為め!』の、
『道であり!』、
『次に行じる四禅、八背捨、九次第定、及び三十七道品』は、
但だ、
『涅槃を求める為め!』の、
『道であり!』、
『十八空、仏の十力等は、微細であり!』、
但だ、
『仏を求める為め!』の、
『道である!』。
『六波羅蜜』は、
多く、
『衆生の為め!』の故の、
『道であり!』、
『三十七品』等は、
但だ、
『涅槃を求めるだけ!』の、
『道であり!』、
『十八空』等は、
『涅槃』中に於いては、
『声聞、辟支仏の地』を、
『出過し( exceeding )!』、
亦た、
『菩薩位に入る為め!』の、
『道である!』。
是の、
『三種の道』は、
皆、
『生身の菩薩』の、
『所行である!』。
何故ならば、
『諸法』を、
『分別するからである!』。
今又一切法皆是菩薩道。是法性生身菩薩所行。不見諸法有好惡。安立諸法平等相故。此中佛自說因緣。菩薩應學一切法。若一法。不學則不能得一切種智。學一切法者用一切種門思惟籌量修觀通達。 今又、一切法は皆、是れ菩薩の道なるも、是れ法性生身の菩薩の所行なれば、諸法に好悪有るを見ず、諸法の平等相に安立するが故なり。此の中に、仏は、自ら因縁を説きたまわく、『菩薩は応に一切法を学ぶべし。若し一法たりとも、学ばざれば則ち一切種智を得る能わず。一切法を学ぶ者は、一切種の門を用いて、思惟し、籌量し、修観し、通達す』、と。
今又、
『一切法は、皆菩薩の道である!』が、
是れは、
『法性生身の菩薩の所行であり!』、
『諸法に、好悪が有る!』と、
『見ることはない!』。
何故ならば、
『諸法の平等相( the sameness of every dharma )』に、
『安立するからである!』。
此の中に、
『仏』は、
自ら、
『因緣』を、こう説かれた、――
『菩薩は、一切法を学ばねばならない!』、
若し、
『一法でも、学ばなければ!』、
『一切種智』を、
『得ることはできないからである!』。
若し、
『一切法を、学べば!』、
『一切種の門を用いて!』、
『諸法を思惟し、籌量して!』、
『修観して、通達するからである!』。
  平等相(びょうどうそう):梵語 samataa の訳、平等性/同一性( equality, sameness )の義、平等想/諸法を平等に観る( to observe something being same )の意。
須菩提白佛。若一切法一相。所謂空。云何菩薩學一切法。將無於無戲論相法中作戲論耶。所謂此彼諸法略說是戲論相。此東彼西是上是下是常是無常是實是虛是世間是出世間。乃至是二乘法是佛法。 須菩提の仏に白して言さく、『若し一切法は、一相謂わゆる空なれば、云何が菩薩は、一切法を学ぶや。将(まさ)に、無戯論相の法中に於いて、戯論を作すこと無しや』、と。謂わゆる此れ、彼れの諸法を略説すれば、是れ戯論の相なり。『此は東、彼は西、是れは上、是れは下、是れは常、是れは無常、是れは実、是れは虚、是れは世間、是れは出世間、乃至是れは二乗の法、是れは仏法なり』、と。
『須菩提』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
若し、
『一切法』が、
『一相であり!』、
『謂わゆる、空ならば!』。
何故、
『菩薩』は、
『一切法』を、
『学ぶのですか?』。
将たして( Really, )、
『無戯論相の法』中に於いて、
『戯論を作すこと!』が、
『無いのでか?』、と。
謂わゆる、
『此れとか、彼れとか、諸法を略説すれば!』
是れが、
『戯論という!』、
『相である!』。
謂わゆる、
『此は東である、彼は西であるとか!』、
『是れは上である、是れは下であるとか!』、
『是れは常である、是れは無常であるとか!』、
『是れは実である、是れは虚であるとか!』、
『是れは世間である、是れは出世間であるとか!』、
乃至、
『是れは二乗の法である、是れは仏法である!』、と。
佛可其說。一切法空相。若法實定有不空者。即是無生無滅。無生無滅故無四諦。無四諦故無佛法僧寶。如是三寶等諸法皆壞。 仏の、其の説を可としたまわく、『一切法は空相なり。若し法にして、実定の有にして、空ならざれば、即ち是れ無生無滅なり。無生無滅なるが故に四諦無く、四諦無きが故に仏法僧の宝無し。是の如く三宝等の諸法は皆壊れん。
『仏』は、
『須菩提の説を可として!』、こう言われた、――
『一切の法は、空相だからである!』。
若し、
『法』が、
『実定の有であり( really certainly exists )!』、
『空でなければ!』、
是れには、
『生も、滅も!』、
『無いことになる!』が、
『生、滅が無い!』が故に、
『四諦』も、
『無いことになり!』、
『四諦が無い!』が故に、
『仏法僧の宝』も、
『無いことになり!』、
是のように、
『三宝等の諸法』は、
『皆、壊れることになる!』。
今諸法實空。乃至空相亦空。眾生愚癡顛倒故著。是故於眾生中起悲心欲拔出故求佛身力。欲令眾生信受其語捨顛倒入諸法實相。是故菩薩雖知諸法空而為利益眾生分別說。若眾生自知諸法空。菩薩但自住空相中。不須學分別一切法。 今、諸法は実に空、乃至空相も亦た空なるに、衆生は愚癡、顛倒の故に著せり。是の故に衆生中に於いて悲心を起して、抜き出さんと欲するが故に仏の身力を求め、衆生をして、其の語を信じて、顛倒を捨て、諸法の実相に入らしめんと欲す。是の故に菩薩は、諸法の空を知ると雖も、衆生を利益せんが為めに、分別して説く。若し衆生にして、自ら諸法の空を知らば、菩薩は但だ自ら空相中に住して、一切法を学んで分別するを須(もち)いず。
今、
『諸法は、実に空であり!』、
乃至、
『空相も!』、
『空なのである!』が、
『衆生』は、
『愚癡であり、顛倒する!』が故に、
『著している!』ので、
是の故に、
『衆生中に、悲心を起し!』、
『抜き出そうとする!』が故に、
『仏の身、力』を、
『求め!』、
『衆生に、菩薩の語を信じさせて!』、
『顛倒を捨てさせ!』、
『諸法の実相』に、
『入らせようとするのであり!』、
是の故に、
『菩薩は、諸法の空を知りながら!』、
『衆生を利益する為め!』に、
『諸法を分別して!』、
『説くのである!』が、
若し、
『衆生が、自ら諸法の空を知っていれば!』、
『菩薩は、但だ空相中に住するだけであり!』、
『一切法を学んで、分別するようなこと!』を、
『須いることはない( need not )!』。
菩薩行菩薩道時。從初發意已來。如是思惟一切法。無定實性但從因緣和合起。是眾因緣亦各各從和合起。乃至到畢竟空。畢竟空唯是一法實。餘者無性故皆虛誑。 菩薩は、菩薩道を行ずる時、初発意より已来、是の如く思惟すらく、『一切法は、定実の性無く、但だ因縁の和合より起る。是の衆因縁も亦た各各和合より起り、乃至畢竟空に到るに、畢竟空は唯だ是の一法のみ実にして、餘は無性なるが故に皆虚誑なり。
『菩薩が、菩薩道を行じる!』時、
『初発意より!』、こう思惟してきた、――
『一切法』は、
『定実の性』が、
『無く!』、
但だ、
『因緣の和合より!』、
『起るだけである!』が、
是の、
『衆因縁の各各も!』、
『因緣の和合より!』、
『起こり!』、
乃至、
『畢竟空にまで!』、
『到ることになる!』。
『畢竟空』は、
唯だ、
是の、
『一法のみ!』が、
『実であり!』、
餘は、
『無性である!』が故に、
『皆、虚誑である!』。
我從無始世來。著是虛誑法。於六道中厭受苦惱。我今是三世十方佛子。般若是我母。今不應復隨逐虛誑法是故菩薩乃至畢竟空中亦不著。何況餘法。所謂檀波羅蜜等。 我れは、無始の世より来、是の虚誑の法に著せるも、六道中に於いて苦悩を受くるを厭う。我れは今是れ三世十方の仏の子にして、般若は、是れ我が母なり。今は応に復た虚誑の法に随逐すべからず』、と。是の故に菩薩は、乃至畢竟空中にも亦た著せず。何に況んや餘法の、謂わゆる檀波羅蜜等をや。
――
わたしは、
『無始の世より!』、
是の、
『虚誑の法』に、
『著してきたが!』、
『六道』中に於いて、
『苦悩を受ける!』のを、
『厭うようになった!』。
わたしは、
今、
『三世十方の仏』の、
『子であり!』、
亦た、
『般若』は、
『わたしの母である!』が故に、
今、復た、
『虚誑の法』に、
『随逐すべきではない!』、と。
是の故に、
『菩薩』は、
乃至、
『畢竟空』中にも、
『著すことなく!』、
況して、
『餘法、謂わゆる檀波羅蜜等』は、
『言うまでもない!』。
爾時菩薩照明菩薩道。其心安隱自念。我但斷著心道自然至。知是事已。念眾生深著世間而畢竟空。亦空無性無有住處。眾生難可信受。為令眾生信受是法故學一切法。修行生起是度眾生方便法。觀眾生心行所趣。知好何法念何事何所志願。觀時悉知眾生所著處。皆是虛誑顛倒憶想分別故著。無有根本實事。 爾の時、菩薩は、菩薩道を照明し、其の心は安隠にして、自ら念ずらく、『我れ、但だ著心を断ずれば、道は自然に至る』、と。是の事を知り已りて、念ずらく、『衆生は深く世間に著するも、畢竟空も亦た空、無性にして、住処有ること無きに、衆生は信受すべきこと難し』、と。衆生をして、是の法を信受せしめんが為めの故に一切法を学び、修行して、是の衆生を度する方便の法を生起し、衆生の心行の趣く所を観て、知るらく、『何なる法を好み、何なる事を念じ、何んが志願する所なる』、と。観る時、悉く知るらく、『衆生の所著の処は、皆是れ虚誑顛倒なるに、憶想分別するが故に著すれば、根本の実事有ること無し』、と。
爾の時、
『菩薩』は、
『菩薩道を照明して!』、
『心』が、
『安隠となり!』、
自ら、こう念じる、――
わたしは、
『但だ、著心を断じるだけで!』、
『道』は、
『自然に至る( to reach without effort )!』、と。
是の事を知って、こう念じる、――
『衆生』は、
深く、
『世間』に、
『著している!』ので、
『畢竟空』も、
亦た、
『空、無性であり!』、
『住処が無い!』と、
是のように、
『衆生に信受させる!』のは、
『難しい!』、と。
『衆生』に、
是の、
『法を信受させる為め!』の故に、
『一切法』を、
『学んで!』、
是の、
『衆生を度する為め!』の、
『方便を生起する法』を、
『修行するのである!』が、
『衆生の心行の趣く所を観て!』、こう知ることになる、――
『衆生』は、
何のような、
『法』を、
『好むのか?』。
何のような、
『事』を、
『念じているのか?』。
何のような、
『事』を、
『志願しているのか?』、と。
『衆生の心行を観る!』時、悉く知ることになる、――
『衆生の著する!』所は、
『皆、虚誑である!』が、
『顛倒した憶想、分別』の故に、
『著する!』ので、
是れに、
『根本や、実の事』は、
『無いのである!』、と。
  照明(しょうみょう):梵語 virocana の訳、~を照らす( shining upon, brightening, illuminating )の義。
  自然(じねん):梵語 aprayatna の訳、努力なく/特別の助けなく( absence of effort, naturally )の義。
  心行(しんぎょう):梵語 caitasika, citta-pracaara の訳、精神活動( the operations of the mind )の義、精神作用( the mental function )の意。
爾時菩薩大歡喜作是念。眾生易度耳。所以者何。眾生所著皆是虛誑無實。譬如人有一子。喜在不淨中戲聚土為穀。以草木為鳥獸而生愛著。人有奪者瞋恚啼哭。其父知已此子今雖愛著此事易離耳。小大自休。何以故。此物非真故。 爾の時、菩薩は大歓喜して、是の念を作さく、『衆生は度し易し。所以は何んとなれば、衆生の著する所は、皆是れ虚誑、無実なればなり。譬えば人に一子有り、喜んで不浄中に在りて、戯れて、土を聚(あつ)めて穀と為し、草木を以って鳥獣と為し、而も愛著を生ずれば、人の奪う者有れば、瞋恚、啼哭す。其の父知り已るらく、『此の子愛著すと雖も、此の事は離れ易し。小にして大となれば自ら休まん。何を以っての故に、此の物は真に非ざるが故なり』、と。
爾の時、
『菩薩は大歓喜して!』、こう念じた、――
『衆生は、度し易い!』。
何故ならば、
『衆生の著する!』所は、
『皆、虚誑であり!』、
『実が無いからである!』。
譬えば、
『人に、一子が有り!』、
『喜んで、不浄中に戯れて!』、
『土を集めて、穀と為し!』、
『草木を、鳥獣と為し!』て、
『愛著』を、
『生じた!』が、
『奪う人が有って!』、
『瞋恚し!』、
『啼哭した!』。
『父』は、こう知っていた、――
此の、
『子の、今愛著している!』、
此の、
『事(愛著)』は、
『離れ易く!』、
『小児が、大人となれば!』、
『自ら( naturally )!』、
『休むだろう( should stop )!』。
何故ならば、
此の、
『物』は、
『真でないからである!』、と。
菩薩亦如是。觀眾生愛著不淨臭身及五欲。是無常種種苦因。知是眾生得信等五善根成就時即能捨離。 菩薩も亦た是の如く、衆生の愛著せる不浄の臭身、及び五欲は是れ無常にして、種種の苦の因なるを観て、是の衆生、信等の五善根を得て成就する時には、即ち能く捨離するを知る。
『菩薩』も、
是のように、
『衆生の愛著する!』、
『不浄の臭身や、五欲』は、
『無常であり、種種の苦の因である!』と、
『観て!』、
是の、
『衆生が信等の五善根を得て、成就する!』時、
『即ち、捨離することができる!』と、
『知る!』。
若小兒所著實是真物。雖復年至百歲。著之轉深不可得捨。 若し小児の所著が実に是れ真の物なれば、復た年百歳に至ると雖も、之に著すること転た深く、捨つるを得べからず。
若し、
『小児の著する!』所が、
『実に!』、
『真の物であれば!』、
復た( additionally )、
『年が、百歳に至ったとしても!』、
『愛著が、転た深まり!』、
『捨てることができないだろう!』。
若眾生所著之物定實有者。雖得信等五根著之轉深亦不能離。以諸法皆空虛誑不實故得無漏清淨智慧眼時。即能遠離所著大自慚愧。譬如狂病所作非法醒悟之後羞慚無顏。 若し衆生の所著の物が、定実の有ならば、信等の五根を得と雖も、之に著すること転た深く、亦た離るる能わず。諸法は、皆空、虚誑、不実なるを以っての故に、無漏清浄の智慧の眼を得る時、即ち能く所著を遠離し、大いに自ら慚愧するなり。譬えば狂病の所作の非法なるを醒めて之を悟れる後には羞慚して、顔無きが如し。
若し、
『衆生の著する!』所の、
『物』が、
『定実の有であれば!』、
『信等の五根を得たとしても!』、
『著が、転た深まって!』、
『離れることができない!』が、
『諸法』が、
『皆、空であり!』、
『虚誑、不実である!』が故に、
『無漏の清浄の智慧の眼を得た!』時には、
『即ち、所著を遠離することができ!』、
『大いに、自ら慚愧するのである!』。
譬えば、
『狂病の所作が、非法であっても!』、
『醒めて、非法を悟った!』後には、
『羞慚して!』、
『顔色が無くなるようなものである!』。
菩薩知眾生易度已。安住般若中以方便力教化眾生。汝等當行布施可得饒財。莫恃是布施果報而自憍高。此中無有堅實皆當破壞。與未布施時無異。持戒等乃至十八不共法亦如是。是諸法雖清淨大有所益。皆是有為法從因緣生無有自性。汝等若著是法能生苦惱。譬如熱金丸雖是寶物捉則燒手。 菩薩は、衆生の度し易きを知り已り、般若中に安住して、方便力を以って、衆生を教化すらく、『汝等は、当に布施を行ずべし。饒財を得べきも、是の布施の果報を恃んで、自ら憍高する無かれ。是の中には堅実有ること無く、皆当に破壊すべければ、未だ布施せざる時と、異無し。持戒等、乃至十八不共法も亦た是の如し。是の諸法は、清浄にして、大いに益する所有りと雖も、皆是れ有為法にして、因縁より生ずれば、自性有ること無し。汝等は、若し是の法に著すれば、能く苦悩を生ぜん。譬えば熱き金丸の、是れ宝物なりと雖も、捉らうれば、則ち手を焼くが如し。
『菩薩』は、
『衆生が度し易いのを、知る!』と、
『般若中に安住し、方便力を須いて!』、
『衆生』を、こう教化する、――
お前達は、
『布施』を、
『行じなければならない!』が、
若し、
『饒財を得たとしても( get an abundant property )!』、
是の、
『布施の果報を恃んで!』、
『自ら、憍高してはならない!』。
是の、
『果報』中には、
『堅実が無く!』、
『皆、破壊することになる!』ので、
未だ、
『布施しない!』時と、
『異が無いからである!』。
亦た、
『持戒等、乃至十八不共法』も、
『是の通りである!』が、
是の、
『諸法は清浄であり!』、
大いに、
『利益する!』所が、
『有りながら!』、
皆、
『有為法でありて!』、
『因緣より生じて!』、
『自性が無い!』のに、
お前達が、
若し、
是の、
『法に著すれば!』、
『苦悩』を、
『生じさせることになるだろう!』。
譬えば、
『熱い金丸は、宝物でありながら!』、
『手に捉れば!』、
『手を焼くようなものである!』。
如是菩薩教化眾生行菩薩道自無所著。亦為眾生說無所著。以無著心行檀波羅蜜故。於檀中不住。 是の如く菩薩は、衆生を教化して、菩薩道を行ずるも、自ら所著無く、亦た衆生の為めに無所著を説き、無著の心を以って檀波羅蜜を行ずるが故に、檀中に住せず。
是のように、
『菩薩』は、
『衆生を教化しながら!』、
『菩薩道』を、
『行じる!』が、
自らには、
『著する!』所が、
『無く!』、
亦た、
『衆生の為め!』に、
『無所著を説き!』、
『無著の心で、檀波羅蜜を行じる!』が故に、
『檀』中に、
『住することもない!』。
不住者所謂布施時不取三種相。亦不著果報而自高生罪業。布施果報滅壞時亦不生惱。尸羅波羅蜜乃至阿耨多羅三藐三菩提亦如是。 不住とは、謂わゆる布施の時、三種の相を取らず、亦た果報に著して、自ら高ぶり、罪業を生ぜざれば、布施の果報の滅壊する時にも亦た悩を生ぜず。尸羅波羅蜜乃至阿耨多羅三藐三菩提も亦た是の如し。
『不住』とは、
謂わゆる、
『布施する!』時、
『施者、受者、施物の三種の相』を、
『取ることがない!』ので、
亦た、
『果報に著して、自ら高ぶり!』、
『罪業を生じることもない!』ので、
『布施の果報が、滅壊する!』時にも、
『苦悩』を、
『生じることがない!』。
亦た、
『尸羅波羅蜜、乃至阿耨多羅三藐三菩提』も、
『是の通りである!』。
此中佛自說不住因緣。有二種。一者菩薩深入空不見諸法性故不住。二者不以小事為足故不住。是菩薩無有異心。但一向能生菩提道。 此の中に仏は、自ら説きたまわく、『不住の因緣には二種有り、一には菩薩は深く空に入りて、諸法の性を見ざるが故に不住なり。二には小事を以って足ると為さざるが故に不住なり。是の菩薩は、異心有ること無く、但だ一向に、能く菩提の道を生ず』、と。
此の中に、
『仏』は、自ら、こう説かれた、――
『不住の因緣には、二種有り!』、
一には、
『菩薩が、深く空に入る!』と、
『諸法の性を見ない!』が故に、
『住することがなく!』、
二には、
『小事では!』、
『足るとしない!』が故に、
『住することがない!』。
是の、
『菩薩は異心無く、但だ一向に!』、
『菩提の道』を、
『生じさせるのである!』、と。
須菩提白佛。若一切法無生。云何菩薩能生菩提道。 須菩提の仏に白さく、『若し一切法にして無生なれば、云何が菩薩は、能く菩提の道を生ずるや』、と。
『須菩提』は、
『仏』に、こう白した、――
若し、
『一切法』に、
『生』が、
『無ければ!』。
何故、
『菩薩』が、
『菩提の道』を、
『生じさせられるのですか?』、と。
佛可須菩提意。一切法無生。我實處處說諸法無生。非為凡夫說。但為得無作解脫不起三種業者說。 仏の須菩提の意を可としたまわく、『一切法は無生なり。我れは実に処処に、諸法の無生を説けるも、凡夫の為めに説くに非ず。但だ無作解脱を得て、三種の業を起さざる者の為めに説く。
『仏』は、
『須菩提の意を可として!』、こう言われた、――
『一切法は、無生である!』。
わたしは、
処処に、
『諸法は、無生である!』と、
『説いてきた!』が、
是れは、
『凡夫の為め!』に、
『説いたのではなく!』、
但だ、
『無作解脱門を得て、三種の業を起さない者の為め!』に、
『説いたのである!』、と。
復問。世尊佛自說有佛無佛諸法法相常住。如聖人法相空。凡夫亦如是。 復た問わく、『世尊、仏は自ら、有仏にも、無仏にも諸法の法相は常住なり、と説きたまえるに、聖人の法相の空なるが如く、凡夫も亦た是の如しや』、と。
復た、こう問うた、――
世尊!
『仏』は、
自ら、
『仏が有ろうが、無かろうが!』、
『諸法の法相は常住である!』と、
『説かれました!』が、
『聖人』には、
『法相』が、
『空であるように!』、
亦た、
『凡夫』も、
『是の通りですか?』、と。
佛可其所說諸法實相常住。以眾生不知不解故起菩提道。但為除凡夫顛倒法故名為道。若決定有道可著者即復是顛倒。道非道平等即是道。是故不應難。 仏の、其の所説を可としたまわく、『諸法の実相は常住なるも、衆生が知らず、解せざるを以っての故に、菩提の道を起せり。但だ凡夫の顛倒を除かんが為めの法なるが故に名づけて、道と為すのみ。若し決定して、道の著すべき有らば、即ち復た是れ顛倒なり。道と、非道の平等なる、即ち是れ道なり。是の故に応に難ずべからず』、と。
『仏』は、
『須菩提の所説を可として!』、こう言われた、――
『諸法の実相は、常住である!』が、
『衆生が知ることもなく、理解することもない!』が故に、
『菩提の道』を、
『起したのであり!』、
但だ、
『凡夫の顛倒を除く為め!』の、
『法である!』が故に、
『道と称する!』が、
若し、
『決定して!』、
『道』が、
『有り!』、
是の、
『道』に、
『著するようであれば!』、
是れも、
復た、
『顛倒なのである!』。
『道と、非道とが平等ならば!』、
是れが、
即ち、
『道であり!』、
是の故に、
『道が有る!』と、
『難じてはならないのである!』、と。
須菩提復問。云何可得菩提。用生道故得耶。佛言不也。 須菩提の復た問わく、『云何が菩提を得べけん、道を生ずるを用うるが故に得んや』、と。仏の言わく、『不なり』、と。
『須菩提』は、復た、こう問うた、――
何故、
『菩提を得られるのですか?』、
『道を生じる!』が故に、
『菩提』を、
『得られるのではないですか?』、と。
『仏』は、こう言われた、――
『そうでない!』、と。
何以故。生道者菩薩觀是有為法。生滅相謂是實。是故言不。如先說熱金丸喻。不生法即是無為無作法故亦不可以得菩提。生不生二俱有過故。非生非不生得菩提耶。答言不也。 何を以っての故に、道を生ずれば、菩薩は是の有為法の生滅相を観て、『是れ実なり』、と謂えば、是の故に『不なり』、と言えり。先に説ける熱金の丸の喻の如く、不生の法は、即ち是れ無為、無作の法なるが故に、亦た以って菩提を得るべからず。生、不生の二は倶に過有るが故に、『非生非不生なれば、菩提を得や』。答えて言わく、『不なり』、と。
何故ならば、
『道を生じれば!』、
『菩薩』は、
是の、
『道が有為法であり、生滅の相である!』と、
『観ながら!』、
是れを、
『実である!』と、
『謂う!』ので、
是の故に、
『そうでない!』と、
『言われたのである!』。
譬えば、
『先に、説いた!』、
『熱金の丸の喻のようなものである!』。
『道が、不生の法ならば!』、
是の、
『道』は、
『無為、無作の法である
a dharma being neither made nor making )!』が故に、
是の、
『道を用いて!』、
『菩提を得ることはできない!』。
『生も、不生も二は倶に過が有る!』が故に、
『非生非不生ならば!』、
『菩提を得られるのではないですか?』。
『仏』は、こう言われた、――
『そうではない!』、と。
問曰。若生不生二俱有過。非生非不生復不應有過。何以言不得。 問うて曰く、若し生、不生の二倶に過有れば、非生非不生には復た応に過有るべからず。何を以ってか、『得ず』、と言う。
問い、
若し、
『生、不生の二に倶に過が有れば!』、
復た( no more )、
『非生非不生』には、
『過が有るはずがない!』のに、
何故、
『菩提を得られない!』と、
『言うのですか?』。
答曰。若分別非生非不生是好是醜取相生著故。故言有過。若能不著則是菩提道。 答えて曰く、若し非生非不生を是れ好、是れ醜なりと分別して、相を取れば、著を生ずるが故に、故(ことさら)に過有りと言うも、若し能く著せざれば、則ち是れ菩提の道なり。
答え、
若し、
『非生非不生の法』を、
『是れは好である、是れは醜であると分別して!』、
『相を取れば!』、
『著』を、
『生じる!』が故に、
故に( intentionally )、
『過が有る!』と、
『言っただけで!』、
若し、
『著すことがなければ!』、
是の、
『法』は、
『菩提の道である!』。
須菩提問。若不以四句得者。云何得道。佛答。不以道不以非道則得菩提。何以故。菩提即是道。道即是菩提。 須菩提の問わく、『若し四句を以って得ざれば、云何が道を得るや』、と。仏の答えたまわく、『道を以ってせず、非道を以ってせざれば、則ち菩提を得るなり。何を以っての故に、菩提は即ち是れ道、道は即ち是れ菩提なればなり』、と。
『須菩提』は、こう問うた、――
若し、
『生、不生、生不生、非生非不生』の、
『四句を用いて!』、
『得られなければ!』、
何故、
『道』が、
『得られるのですか?』、と。
『仏』は、こう答えられた、――
『道や、非道を用いなければ!』、
則ち、
『菩提』を、
『得ることになる!』。
何故ならば、
『菩提は、即ち道であり!』、
『道は、即ち菩提だからである!』、と。
菩提名諸法實相。是諸佛所得究竟實相無有變異。一切法入菩提中。皆寂滅相。如一切水入大海同為一味。是故佛說菩提性即是道性。 菩提とは、諸法の実相と名づけ、是れ諸仏所得の究竟の実相なれば、変異有ること無く、一切法は菩提中に入れば、皆寂滅相なること、一切水の大海に入れば、同じく一味と為るが如し。是の故に仏の説きたまわく、『菩提の性は、即ち是れ道の性なり』、と。
『菩提とは、諸法の実相であり!』、
『諸仏の所得である!』、
『究竟『の、
『実相であり!』、
『変異が無い( there is not alteration )!』ので、
『一切法が、菩提中に入れば!』、
『皆、寂滅相であり!』、
譬えば、
『一切水が、大海に入れば!』、
『同じく、一味と為るようなものである!』。
是の故に、
『仏』は、こう説かれた、――
『菩提の性』とは、
『即ち、道の性である!』、と。
  変異(へんい):梵語 aniyathaa-bhaava の訳、改変/相違( alteration, difference )の義。
若菩提性道性異者。不名菩提為無戲論寂滅相。是故說菩提即是道道即是菩提。 若し菩提の性と、道の性と異なれば、菩提を名づけて、無戯論、寂滅の相と為さず。是の故に説かく、『菩提は即ち是れ道、道は即ち菩提なり』、と。
若し、
『菩提の性が、道の性と異なれば!』、
『菩提』を、
『無戯論、寂滅の相である!』とは、
『称しないだろう!』。
是の故に、こう説かれたのである、――
『菩提とは、即ち道であり!』、
『道』は、
『即ち、菩提である!』、と。
復次是二法異者行道。不應到菩提。諸法因果不一不異故。 復た次ぎに、是の二法が異なれば、道を行じて、応に菩提に到るべからず。諸法の因果は不一、不異なるが故なり。
復た次ぎに、
是の、
『二法が、異なれば!』、
『道を行じて!』、
『菩提』に、
『到るはずがない!』。
何故ならば、
『諸法の因、果』は、
『不一、不異だからである( be neither one nor another )!』。
須菩提復問。若爾者菩薩行道應便是佛。所以者何。道即是菩提故。又佛應是菩薩。何以故菩提即是道故。今何以說有差別。佛有十力等三十二相八十隨形好。 須菩提の復た問わく、『若し爾らば、菩薩は道を行ずれば、応に便ち是れ仏なるべし。所以は何んとなれば、道は即ち是れ菩提なるが故なり。又仏は応に是れ菩薩なるべし。何を以っての故に、菩提は即ち是れ道なるが故なり。今は何を以ってか、『差別有り、仏には十力等、三十二相、八十随形好有り』、と説く。
『須菩提』は、復たこう問うた、――
若し、爾うならば、
『菩薩が、道を行じれば!』、
『菩薩』は、
『便ち、仏でなければならない( should be Buddha )!』。
何故ならば、
『道』が、
『即ち、菩提だからである!』。
又、
『仏』は、
『菩薩でなければならない!』。
何故ならば、
『菩提』が、
『即ち、道だからである!』。
今、何故、こう説かれたのですか?――
『仏には、十力等や、三十二相、八十随形好が有り!』、
『差別』が、
『有る!』、と。
須菩提為新學菩薩故分別難佛。菩薩應即是佛。佛以反問答。佛得菩提不。答言不也。 須菩提は、新学の菩薩の為めの故に分別して、仏を難ずらく、『菩薩は、応に即ち是れ仏なるべし』、と。仏は、反問を以って答えたまわく、『仏は、菩提を得や、不や』、と。答えて言わく、『不なり』、と。
『須菩提』は、
『新学の菩薩の為め!』の故に、
『道と、菩提と!』を、
『分別し!』、
『仏を難じて!』、こう言った、――
『菩薩』は、
『即ち、仏だということですか?』、と。
『仏』は、
『問を反して!』、こう答えられた、――
『仏』が、
『菩提を得るのか?』、と。
『答えて!』、こう言った、――
『いいえ!』、と。
何以故。菩提不離佛。佛不離菩提。二法和合故。是佛是菩提。是故不應難言菩薩即是佛。此總相答。 何を以っての故に、菩提は仏を離れず、仏は菩提を離れず、二法和合するが故に、是の仏は是れ菩提なり。是の故に応に難じて、『菩薩は、即ち是れ仏なりや』、と言うべからず。此れ総相の答なればなり。
何故ならば、
『菩提は、仏を離れず!』、
『仏』は、
『菩提を離れず!』。
『仏、菩提の二法和合する!』が故に、
是の、
『仏』が、
『菩提だからである!』。
是の故に、
『菩薩とは、仏なのか?』と、
『難じてはならない!』。
此の、
『答』は、
『総相だからである( referring to the universal characteristic )!』。
  総相(そうそう):梵語 saamaanya-lakSaNa の訳、一般的特質( a universal characteristic )の義、空の意。別相に対す。
問曰。佛是眾生。菩提是法。云何言佛即是菩提。 問うて曰く、仏は是れ衆生、菩提は是れ法なるに、云何が『仏は即ち是れ菩提なり』、と言う。
問い、
『仏は、衆生であり!』、
『菩提』は、
『法である!』が、
何故、こう言うのですか?、――
『仏』とは、
『即ち、菩提である!』と。
答曰。先有三十二相莊嚴身。六波羅蜜等功德莊嚴心。而不名為佛。得菩提故名之為佛。是故言佛與菩提不異。微妙清淨五眾和合。假名為佛法。即是五眾。五眾不離假名。菩提即是五眾實相。一切法皆入菩提故。是故佛即是菩提菩提即是佛。但凡夫心中分別有異。 答えて曰く、先に三十二相の荘厳せる身と、六波羅蜜等の功徳の荘厳せる心と有るも、名づけて仏と為さず、菩提を得るが故に之を名づけて、仏と為す。是の故に言わく、『仏と菩提とは異ならず』、と。微妙清浄の五衆の和合を仮に名づけて仏と為すも、法は即ち是れ五衆にして、五衆は仮名を離れず、菩提は即ち是れ五衆の実相なり、一切法の皆菩提に入るが故なり。是の故に仏は即ち是れ菩提、菩提は即ち是れ仏なるも、但だ凡夫の心中に、分別して異有るのみ。
答え、
先に、
『三十二相が荘厳する身や、六波羅蜜等の功徳が荘厳する心が有っても!』、
是れを、
『仏』と、
『称するのではなく!』、
『菩提を得た!』が故に、
『仏』と、
『称するのである!』。
是の故に、こう言うのである、――
『仏と、菩提と!』は、
『異らない!』、と。
即ち、
『微妙、清浄な五衆が和合して!』、
仮に、
『仏』と、
『称するのである!』が、
『仏という!』、
『法』は、
『即ち、五衆であり!』、
『五衆』が、
『仏という!』、
『仮名を、離れることはない!』。
即ち、
『菩提( the mind of Buddha )』とは、
『五衆』の、
『実相である!』が、
何故ならば、
『一切法』が、
『皆、菩提に入るからであり!』、
是の故に、
『仏とは、即ち菩提であり!』、
『菩提とは、即ち仏なのである!』、
但だ、
『凡夫心』中に、
『仏と菩提とを分別して!』、
『異が有るだけである!』。
問曰。汝先論議中說言。菩提與道不一不異。經中何以說道即是菩提菩提即是道。佛即是菩提菩提即是佛。 問うて曰く、汝は先の論議中に説いて言わく、『菩提と道とは不一、不異なり』、と。経中には何を以ってか、『道は即ち是れ菩提、菩提は即ち是れ道なり。仏は即ち是れ菩提、菩提は即ち是れ仏なり』、と説ける。
問い、
お前は、
先の論議中に説いて、こう言ったが、――
『菩提と、道と!』は、
『一でもなく!』、
『異でもない!』、と。
『経』中には、
何故、こう説くのか?――
『道は、即ち菩提であり!』、
『菩提』は、
『即ち道であり!』、
『仏は、即ち菩提であり!』、
『菩提』は、
『即ち仏である!』、と。
答曰。一異雖俱不實而多用一故。此中說菩提即是道道即是菩提無咎。如常無常。是二邊常多生煩惱故不用。無常能破顛倒故多用。事既成辦亦捨無常。此中亦如是。若以觀種種別異法故多生著心。若觀諸法一相若無常苦空等。是時煩惱不生。著心少故。是故多用是一。於實義中一亦不用。若著一即復是患。 答えて曰く、一異は倶に不実なりと雖も、多く一を用いるが故に、此の中に、『菩提は即ち是れ道、道は即ち是れ菩提なり』、と説くも咎無し。常無常の如きは、是れ二辺なるも、常は多く煩悩を生ずるが故に用いず、無常は能く顛倒を破るが故に多く用う。事既に成辦すれば、亦た無常をも捨つるなり。此の中も亦た是の如く、若しは、種種の別異の法を観るを以っての故に、多く著心を生じ、若しは、諸法の一相、若しは無常、苦、空等を観るも、是の時煩悩生ぜず。著心少きが故なり。是の故に多く、是の一を用うるも、実義中に於いては、一も亦た用いず。若し一に著すれば、即ち復た是れ患なればなり。
答え、
『一、異は倶に実でない!』が、
『多く、一を用いる!』が故に、
此の中に、――
『菩提は即ち道であり、道は即ち菩提である!』と、
『説いても!』、
『咎は無い!』。
例えば、
『常、無常は二辺である!』が、
『常』は、
『多く、煩悩を生じる!』が故に、
『用いず!』、
『無常』は、
『顛倒を、破ることができる!』が故に、
『多く、用いる!』が、
『事が、既に成辦すれば( his business were already done )!』、
『無常』も、
『捨てることになる!』。
此の中も、
是のように、
若し、
『種種の別異の法を観れば!』、
是の故に、
『著心』を、
『多く、生じる!』が、
若し、
『諸法の無常、苦、空等の一相を観れば!』、
是の時、
『煩悩』は、
『生じない!』、
何故ならば、
『著心』が、
『少いからである!』。
是の故に、
是の、
『一を、多く用いる!』が、
『実義』中には、
『一を用いることもない!』。
若し、
『一に、著すれば!』、
即ち、
『復た!』、
『患となるからである( to becomes to a calamity )!』。
復次別異無故一亦不可得。相待法故。但以不著心不取一相。故說無咎。一不實故。菩薩不得即是佛。 復た次ぎに、別異無きが故に一も亦た不可得なり。相待の法なるが故なり。但だ不著の心は、一相すら取らざるを以っての故に、『咎無し』と説き、一も不実なるが故に菩薩は即ち是れ仏なりと得ず。
復た次ぎに、
『別異が無い!』が故に、
『一』も、
『不可得である!』。
何故ならば、
『異と、一と!』は、
『相対の法( the dharmas being dependent on each other )だからである!』が、
但だ、
『不著の心は、一相すら取らない!』が故に、
『咎が無い!』と、
『説くだけであり!』、
『一は、実でない!』が故に、
『菩薩が、即ち仏である!』と、
『得ることはない( cannot understand )!』。
  相待(そうたい):梵語 anyonya-apekSaNiiya の訳、相互に視られる( be regarded mutually )の義、相互依存の関係( inter dependence, mutual dependence )の意。
復次今佛更答。須菩提自說因緣。菩提雖寂滅相而菩薩能具足六波羅蜜等諸功德。住金剛三昧。以一念相應慧得阿耨多羅三藐三菩提。爾時於一切法中自在得名為佛。 復た次ぎに、今仏は更に須菩提に答えて、自ら因縁を説きたまわく、『菩提は、寂滅の相なりと雖も、菩薩は能く六波羅蜜等の諸功徳を具足して、金剛三昧に住すれば、一念相応の慧を以って、阿耨多羅三藐三菩提を得れば、爾の時、一切法中に於いて、自在となり、名づけて仏と為すを得』、と。
復た次ぎに、
今、
『仏』は、
『更に、須菩提に答えて!』、
『自ら、因緣』を、こう説かれた、――
『菩提は、寂滅相である!』が、
『菩薩が、六波羅蜜等の諸功徳を具足して!』、
『金剛三昧に住すれば!』、
『一念相応の慧を用いて!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得ることができる!』ので、
爾の時、
『一切法中に、自在となり!』、
『仏』と、
『称されることになるのである!』。
菩薩雖知道及菩提不異。未具足諸功德故不名為佛。又佛諸事畢竟願行滿足故。不名為菩薩。得者是佛法是菩提。求菩提者是菩薩。 菩薩は、道及び菩提は不異なりと知ると雖も、未だ諸功徳を具足せざるが故に名づけて、仏と為さず。又仏は、諸事畢竟し、願行満足するが故に、名づけて菩薩と為さず。得る者は是れ仏、法は是れ菩提、菩提を求むる者は是れ菩薩なり。
『菩薩』は、
『道と菩提は異らない、と知りながら!』、
『未だ、諸功徳を具足しない!』が故に、
『仏』と、
『称されず!』、
又、
『仏は、諸事が畢竟しており( Buddha's businesses are perfect )!』、
『願行が満足している!』が故に、
『菩薩』と、
『称されることはない!』。
即ち、
『得る者が、仏であり!』、
『法が、菩提であり!』、
『菩提を求める者が、菩薩である!』。
  畢竟(ひっきょう):梵語 atyanta の訳、限界を超えた/完全な( beyond the proper end or limit, absolute )の義。
須菩提從佛聞菩提相道相成就眾生已。今問淨佛國土事。諸阿羅漢辟支佛無有力知淨佛國事。是故問。 須菩提は、仏より菩提の相、道の相、衆生を成就するを聞き已りて、今、仏国土を浄むる事を問う。諸の阿羅漢、辟支仏には力有ること無けれども、仏国を浄むる事を知れば、是の故に問えり。
『須菩提』は、
『仏より!』、
『菩提の相、道の相、衆生を成就すること!』を、
『聞いた!』ので、
今、
『仏国土を浄める事( the work of purifying a buddha's land )』を、
『問うた!』。
『諸の阿羅漢、辟支仏』は、
『力が無くても、仏国を浄める事を知った!』ので、
是の故に、
『問うたのである!』。
  浄仏国土(じょうぶっこくど):梵語 buddha-kSetra-parizodhana の訳、仏の領土を浄めること( purifying a buddha's land )の義。
問曰。何等是淨佛土。 問うて曰く、何等か、是れ仏土を浄むる。
問い、
『仏土を浄める!』とは、何ういうことですか?
答曰。佛土者百億日月百億須彌山百億四天王等諸天。是名三千大千世界。如是等無量無邊三千大千世界名為一佛土。 答えて曰く、仏土とは、百億の日月、百億の須弥山、百億の四天王等の諸天にして、是れを三千大千世界と名づけ、是れ等の如き無量、無辺の三千大千世界を名づけて、一仏土と為す。
答え、
『仏土』とは、
『百億の日月、須弥山、四天王等の諸天』を、
『三千大千世界』と、
『称し!』、
是れ等のような、
『無量無辺の三千大千世界』を、
『一仏土』と、
『称する!』。
佛於此中施作佛事。佛常晝三時夜三時。以佛眼遍觀眾生誰可種善根誰善根成就應增長誰善根成就應得度。見是已以神通力隨所見教化。 仏は此の中に於いて、仏事を施作し、仏は常に昼の三時と、夜の三時に、仏眼を以って遍く衆生の誰か善根を種うべき、誰の善根か成就して、応に増長すべき、誰の善根か成就して、応に度を得べきを観て、是れを見已りて、神通力を以って所見に随いて、教化したもう。
『仏』は、
此の中に於いて、
『仏事』を、
『施作し( to do his business )!』、
『仏』は、
『常に昼の三時、夜の三時( every whole day and night )に!』、
『仏眼を用いて!』、
『衆生』中の、
『誰に、善根を種えればよいのか?』、
『誰の善根が成就して、増長するはずなのか?』、
『誰の善根が成就して、度を得るはずなのか?』と、
遍く、
『衆生』を、
『観察し!』、
是れを、
『見たならば、神通力を用いて!』、
『所見の衆生に随い!』、
『教化するのである!』。
  施作(せさ):梵語 prati-√(pad) の訳、踏み込む/入る( set foot upon, enter )の義、仕事を始めて行う/誰かの為めに何かを行う( beginning and doing a business, to do anything to anyone )の意。
眾生心隨逐外緣得隨意事則不生瞋惱。得不淨無常等因緣則不生貪欲等煩惱。若得無所有空因緣則不生癡等諸煩惱。是故諸菩薩莊嚴佛土。為令眾生易度。故國土中無所乏少。無我心故則不生慳貪瞋恚等煩惱。 衆生心、外縁に随逐するも、事を随意にするを得れば、則ち瞋悩を生ぜず。不浄、無常等の因緣を得れば、則ち貪欲等の煩悩を生ぜず。若し無所有、空の因緣を得れば、則ち癡等の諸煩悩を生ぜず。是の故に諸菩薩は仏土を荘厳す。衆生をして度すること易からしめんが為めなり。故に、国土中に乏少する所無く、我心無きが故に、則ち慳貪、瞋恚等の煩悩を生ぜず。
『衆生心が、外縁に随逐しても!』、
『事を随意にすることができれば
his work is as wanting )!』、
『瞋悩』を、
『生じない!』し、
『不浄、無常等の因緣を得れば
to recognize the cause of impuriry and impermanence )!』、
『貪欲等の煩悩』を、
『生じない!』し、
若し、
『無所有、空の因緣を得れば!』、
『癡等の煩悩』を、
『生じない!』ので、
是の故に、
『諸菩薩が、仏土を荘厳する!』のは、
『衆生』を、
『度し易くするためである!』。
是の故に、
『国土中に、乏少する所が無くなる!』が故に、
『我心( the mind noticing mine )』が、
『無くなり!』、
是の故に、
『慳貪、瞋恚等の煩悩』を、
『生じないのである!』。
有佛國土一切樹木常出諸法實相音聲。所謂無生無滅無起無作等。眾生但聞是妙音不聞異聲。眾生利根故便得諸法實相。如是等佛土莊嚴名為淨佛土。如阿彌陀等諸經中說。 有る仏国土は、一切の樹木常に諸法実相の音声を出す。謂わゆる、『無生、無滅、無起、無作等なり』、と。衆生は但だ是の妙音を聞いて、異声を聞かざるも、衆生の利根の故に便ち諸法の実相を得。是れ等の如き、仏土の荘厳を名づけて、浄仏土と為す。阿弥陀等の諸経中に説けるが如し。
有る、
『仏国土』は、
『一切の樹木』が、
常に、
『諸法の実相の音声』、
『出す!』、
謂わゆる、
『無生無滅、無起無作等である!』が、
『衆生』は、
但だ、
是の、
『妙音を聞くだけ!』で、
『異声を聞かなくても!』、
『衆生が利根である!』が故に、
便ち( easily )、
『諸法の実相』を、
『得る!』。
是れ等のような、
『仏土の荘厳』を、
『仏土を浄める!』と、
『称するのである!』が、
例えば、
『阿弥陀経等の諸経』中に、
『説かれた通りである!』。
佛答。菩薩從初發意來。自淨麤身口意業。亦教他人淨麤身口意業。 仏の答えたまわく、『菩薩は、初発意より来、自ら麁の身口意業を浄め、亦た他人に教えて、麁の身口意業を浄めしむ』、と。
『仏』は、こう答えられた、――
『菩薩は、初発意より!』、
『自ら、麁の身口意業を浄めながら!』、
『他人に教えて!』、
『麁の身口意業を浄めさせる!』、と。
問曰。若菩薩淨佛土。是菩薩得無生法忍住神通波羅蜜。然後能淨佛土。今何以言從初發意來淨麤身口意業。 問うて曰く、若し菩薩、仏土を浄むれば、是の菩薩は無生法忍を得て、神通波羅蜜に住し、然る後に能く仏土を浄むるなり。今は何を以ってか、『初発意より来、麁の身口意業を浄む』、と言う。
問い、
若し、
『菩薩』が、
『仏土』を、
『浄めるとすれば!』、
是の、
『菩薩は、無生法忍を得て!』、
『神通波羅蜜』に、
『住し!』、
その後、
『仏土』を、
『浄めることになる!』のに、
今は、
何故、こう言うのですか?――
『初発意より!』、
『麁の身口意業を浄める!』、と。
答曰。三業清淨非但為淨佛土。一切菩薩道皆淨此三業。初淨身口意業。後為淨佛土。自身淨亦淨他人。 答えて曰く、三業の清浄は、但だ仏土を浄めんが為めに非ず。一切の菩薩道は、皆此の三業を浄むるなり。初には身口意業を浄め、後に仏土を浄めんが為めに。自身を浄めて、亦た他人を浄むるなり。
答え、
『三業を清浄にする!』とは、
但だ、
『仏土』を、
『浄めるだけでなく!』、
『一切の菩薩道』は、
皆、
『此の三業(麁の三業)』を、
『浄めるのであり!』、
初には、
『菩薩道を行じる為め!』に、
『自身の身口意業』を、
『浄め!』、
後に、
『仏土を浄める為め!』に、
『自身を浄めて!』、
『他人をも浄めるのである!』。
何以故。非但一人生國土中者。皆共作因緣。內法與外法作因緣。若善若不善。多惡口業故地生荊棘。諂誑曲心故地則高下不平。慳貪多故則水旱不調地生沙礫。不作上諸惡故地則平正多出珍寶。如彌勒佛出時。人皆行十善故地多珍寶。 何を以っての故に、但だ一人のみに非ず、国土中に生ずる者は、皆共に因縁を作す。内法は、外法に因縁の、若しは善、若しは不善を作して与(あずか)り、悪口の業多きが故に、地に荊棘を生じ、諂誑の曲心の故に地は則ち高下して平らかならず、慳貪多きが故に、則ち水旱(かわ)きて調わず、地に沙礫を生じ、上の諸悪を作さざるが故に地則ち平正にして、多く珍宝を出す。弥勒の出づる時、人皆十善を行ずるが故に地に珍宝多きが如し。
何故ならば、
但だ、
『一人だけ!』で、
『因縁』を、
『作すのではなく!』、
『国土中に生じる!』者が、
『皆、共に!』、
『因緣を作すかからである!』。
即ち、
『内法が、外法に!』、
『善や、不善の因緣を作って!』、
『与るのであり( to help )!』、
例えば、
『悪口の業が多い!』が故に、
『地』には、
『荊棘が生え!』、
『諂誑の曲心( flattering and ambiguous mind )』の故に、
『地が高下して!』、
『平らでなく!』、
『慳貪が多い!』が故に、
『水が渇いて、調わず!』、
『地に、沙礫が生じる!』が、
『上の諸悪を作さない!』が故に、
『地は、平正であり!』、
『多く、珍宝を出すのである!』。
例えば、
『弥勒仏が出る時、人が皆十善を行じる!』が故に、
『地に、珍宝が多いようなものである!』。
  荊棘(けいきょく):薊と茨( thistles and thorns )。
  諂誑(てんごう):諂いの( flattering )。
  曲心(ごくしん):両義性の/不明瞭な心( ambiguous mind )。
問曰。若布施等諸善法得淨佛土果報。何以但說淨三業。 問うて曰く、若し布施等の諸善法にして、浄仏土の果報を得れば、何を以ってか、但だ、三業を浄むるを説く。
問い、
若し、
『布施等の諸善法を行じて!』、
『浄い仏土という!』、
『果報』を、
『得られるならば!』。
何故、
但だ、
『三業を浄めることだけ!』を、
『説くのですか?』。
答曰。雖知善惡諸法是苦樂因緣。如一切心心數法中。得道時智慧為大。攝心中定為大。作業時思為大。得是思業已。起身口意業布施禪定等以思為首。譬如縫衣以針為導。 答えて曰く、善悪の諸法は、是れ苦楽の因緣なりと知ると雖も、一切の心心数法中に、道を得る時には智慧を大と為し、摂心中には定を大と為し、作業の時には思を大と為すも、是の思業を得已れば、身口意業の布施、禅定等を起すに、思を以って首と為すが如し。譬えば衣を縫うに、針を以って、導と為すが如し。
答え、
『善、悪の諸法』は、
『苦楽の因緣である!』と、
『知りながら!』、
『一切の心、心数法』中に、
『道を得る!』時には、
『智慧』が、
『大であり!』、
『摂心( controlling his mind )』中には、
『定』が、
『大であり!』、
『業を作す( doing something )!』時には、
『思』が、
『大である!』が、
是の、
『思業を得れば、身口意業の布施や、禅定等を起すことになる!』ので、
『思』を、
『首とするようなものである!』。
譬えば、
『衣を縫う!』時、
『針』を、
『導( the pilot )とするようなものである!』。
受後世果報時業力為大。是故說三業則攝一切業法。意業中盡攝一切心心數法。身口則攝一切色法。人身行三種福德具足則國土清淨。內法淨故外法亦淨。譬如面淨故鏡中像亦淨。如毘摩羅詰經中說。不殺生故人皆長壽如是等。 後世の果報を受くる時には、業力を大と為せば、是の故に三業を説いて、則ち一切の業法を摂し、意業中には尽く一切の心心数法を摂し、身口には則ち一切の色法を摂す。人身に三種の福徳を行じて具足すれば、則ち国土清浄にして、内法の浄なるが故に外法も亦た浄なり。譬えば面の浄なるが故に鏡中の像も亦た浄なるが如し。毘摩羅鞊経に、『不殺生の故に、人は皆長寿なり』、と説けるが如し。是れ等の如し。
『後世の果報を受ける!』時には、
『業力』が、
『大であり!』、
是の故に、
『三業を説けば!』、
『一切の業報』を、
『摂することになり( to be contained )!』、
『意業』中には、
『一切の心心数法』を、
『尽く摂することになり!』、
『身口業』中には、
『一切の色法』を、
『摂することになる!』。
『人身』に、
『三種の福徳を行じて、具足すれば!』
『国土』が、
『清浄になる!』のは、
『内法が、浄である!』が故に、
『外法』も、
『浄となるからである!』。
譬えば、
『面が、浄ければ!』、
『鏡中の像』も、
『浄いように!』、
『毘摩羅鞊経』中に、
『不殺生であるが故に、人は皆長寿である!』と、
『説くように!』、
是れ等のように、
『内法が浄ければ!』、
『外法も浄となるのである!』。
  参考:『維摩詰所説経巻上』:『寶積。當知‥‥十善是菩薩淨土。菩薩成佛時命不中夭。大富梵行所言誠諦。常以軟語眷屬不離。善和諍訟言必饒益。不嫉不恚正見眾生來生其國。如是寶積。菩薩隨其直心則能發行。隨其發行則得深心。隨其深心。則意調伏。隨意調伏則如說行。隨如說行則能迴向。隨其迴向則有方便。隨其方便則成就眾生。隨成就眾生則佛土淨。隨佛土淨則說法淨。隨說法淨則智慧淨。隨智慧淨則其心淨。隨其心淨則一切功德淨。是故寶積。若菩薩欲得淨土當淨其心。隨其心淨則佛土淨』
問曰。身口意麤業是事易知。須菩提何以故問。 問うて曰く、身口意の麁業は、是の事知り易きに、須菩提は、何を以っての故にか問える。
問い、
『身口意の麁業という!』、
『事』は、
『知り易い!』のに、
『須菩提』は、
『何故、問うたのですか?』。
答曰。麤細不定故。如求道人中布施是麤善。於白衣為細。如小乘中不善業為麤。善業為細。摩訶衍中取善法相乃至涅槃皆名為麤。以麤細不定故問。佛次第為說麤業相。所謂奪命乃至邪見。是三種身業四種口業三種意業。皆名為麤。 答えて曰く、麁細は不定なるが故なり。求道の人中に布施は是れ麁善なるも、白衣に於いては細と為すが如く、小乗中には不善業を麁と為し、善業を細と為すも、摩訶衍中には善法の相を取れば、乃至涅槃まで、皆名づけて、麁と為すが如く、麁細の不定なるを以っての問うに、仏は次第に、為めに麁業の相を説きたもう。謂わゆる奪命、乃至邪見にして、是の三衆の身業、四種の口業、三種の意業は、皆名づけて麁と為す。
答え、
『麁、細は定らないからである!』。
例えば、
『布施など!』が、
『求道人中には、麁善である!』が、
『白衣には、細であるように!』、
『小乗』中には、
『不善業は、麁であり!』、
『善業は、細である!』が、
『摩訶衍』中には、
『善法の相を取れば!』、
乃至、
『涅槃の相まで!』、
『皆、麁であるように!』、
『麁、細は定らない!』が故に、
『須菩提』は、
『問うたのである!』が、
『仏』は、
次第に( gradually )、
『須菩提の為め!』に、
『麁業の相』を、
『説かれた!』。
謂わゆる、
『奪命、乃至邪見という!』、
是の、
『三種の身業、四種の口業、三種の意業』は、
『皆、麁なのである!』。
復次破菩薩六波羅蜜法慳貪等。皆名為麤。 復た次ぎに、菩薩の六波羅蜜を破る法の慳貪等は、皆名づけて麁と為す。
復た次ぎに、
『菩薩の六波羅蜜を破る!』、
『法である!』、
『慳貪等は!』、
皆、
『麁』と、
『称する!』。
問曰。先說十不善道已攝慳貪等。何以復別說。 問うて曰く、先に十不善道を説き已れば、慳貪等を摂するに、何を以ってか、復た別に説く。
問い、
先に、
『十不善道を説いた!』ので、
已に、
『慳貪』等は、
『摂されている!』のに、
何故、
『復た別に( more again )!』、
『説くのですか?』。
答曰。是六法不入十不善道。十不善道皆是惱眾生法。是六法不但為惱眾生。如慳心但自惜財不惱眾生。貪心有二種。一者但貪他財未惱眾生。二者貪心轉盛求而不得則欲毀害。是名業道。以能起業故。瞋心亦如是。小者不名業道。以其能趣惡處故為道。是故別說六法無咎。 答えて曰く、是の六法は、十不善道に入らず、十不善道は皆、是れ衆生を惱す法なるも、是の六法は、但だ衆生を悩ます為めにあらず。慳心の如きは、但だ自ら財を惜んで、衆生を悩まさず。貪心に二種有り、一には但だ他の財を貪りて、未だ衆生を悩まさず。二には貪心転た盛んになりて、求めて得ざれば、則ち毀害せんと欲す。是れを業道と名づくるは、能く業を起すを以っての故なり。瞋心も亦た是の如し。小の者は業道と名づけず。其の悪処に能く趣くを以っての故に道と為す。是の故に別に六法を説くも咎為し。
答え、
是の、
『慳貪、破戒、瞋恚、懈怠、乱心、愚癡の六法』は、
『十不善道』に、
『入らないからである!』。
『十不善道』は、
皆、
『衆生を惱す!』、
『法である!』が、
是の、
『六法』は、
但だ、
『衆生』を、
『惱すだけのものでなく!』、
例えば、
『慳心など!』は、
『但だ、自ら財を惜むだけで!』、
『衆生を、悩さない!』。
『貪心には、二種有り!』、
一には、
『但だ、他人の財を貪るだけで!』、
『未だ、衆生を悩ますことはなく!』、
二には、
『貪心が、転た盛んになって!』、
『求めて得られなければ!』、
『衆生を毀害しようとする!』。
是れを、
『業道と称する!』のは、
『業を起すからである!』。
亦た、
『瞋心』も、
『是の通りである!』。
若し、
『瞋心が、小さければ!』、
『業道』と、
『称することはない!』。
是の、
『瞋心』は、
『悪処に趣かせる!』が故に、
『道なのである!』。
是の故に、
『六法を、別に説いたとしても!』、
『咎』は、
『無いのである!』。
問曰。六波羅蜜中已說戒。今何以復說戒不淨。 問うて曰く、六波羅蜜中には、已に戒を説けるに、今は何を以ってか、復た戒の不浄を説く。
問い、
『六波羅蜜』中に、
已に、
『戒』を、
『説いたのに!』、
今、何故、
『戒の不浄』を、
『復た、説くのですか?』。
答曰。破戒法是殺生等麤罪。戒不淨是微細罪。不惱眾生。如飲酒等不入十不善道。 答えて曰く、破戒の法は、是れ殺生等の麁罪なるも、戒の不浄は、是れ微細の罪にして、衆生を悩まさず。飲酒等の十不善道に入らざるが如し。
答え、
『破戒の法』は、
『殺生』等の、
『麁罪である!』が、
『戒の不浄は、微細の罪であり!』、
『衆生』を、
『悩まさない!』のは、
例えば、
『飲酒』等が、
『十不善道に入らないようなものである!』。
復次破五眾戒名為破戒。不破所受戒常為三毒覆心不憶念戒。迴向天福邪見持戒如是等名為戒不淨。 復た次ぎに、五衆戒を破るを名づけて、破戒と為す。所受の戒を破らずとも、常に三毒に心を覆われて、戒を憶念せず、天福に回向すれば、邪見の持戒にして、是れ等の如きを名づけて、戒の不浄と為す。
復た次ぎに、
『不殺、不盗、不邪淫、不妄語、不飲酒の五衆の戒を破る!』のを、
『破戒』と、
『称し!』、
『所受の戒を破らなくても!』、
常に、
『三毒に心を覆われて!』、
『戒を憶念せず( do not cherish the precepts )!』、
『天福に回向するような!』、
『持戒』は、
『邪見の持戒であり』、
是れ等のような、
『持戒』が、
『戒の不浄である!』。
  憶念(おくねん):梵語 anusmRti の訳、大切に育まれた記憶/他の考えを排除して、それだけを想い出す( cherished recollection, recalling some idea to the exclusion of all others )の義。
復次若菩薩心遠離四念處等三十七品三解脫門。是名麤業。所以者何。此中心皆觀實法。隨涅槃不隨世間。若出四念處等法。心則散亂。譬如蛇行本性好曲若入竹筒則直出筒還曲。 復た次ぎに、若し菩薩心が四念処等の三十七品、三解脱門を遠離すれば、是れを麁業と名づく。所以は何んとなれば、此の中の心、皆実法を観ずれば、涅槃に随いて、世間に随わず。若し四念処等の法を出づれば、心は則ち散乱すればなり。譬えば蛇行は本性にして、曲を好み、若し竹筒に入れば則ち直なるも、筒を出づれば還って曲がるが如し。
復た次ぎに、
若し、
『菩薩の心』が、
『四念処等の三十七品や、三解脱門』を、
『遠離すれば!』、
是れを、
『麁業』と、
『称する!』。
何故ならば、
此の、
『四念処、乃至三解脱門中の心』は、
『皆、実法を観る!』ので、
『涅槃には随う!』が、
『世間には随わない!』ので、
若し、
『四念処等の法より、出れば!』、
『心』が、
『散乱するからである!』。
譬えば、
『蛇行は、虵の本性であって!』、
『曲がる!』のを、
『好む!』ので、
若し、
『竹筒に入れば!』、
『直に!』、
『行くことになる!』が、
『竹筒を出れば!』、
『還た、曲がって!』、
『行くようなものである!』。
復次若菩薩貪須陀洹果證是為麤。如人聞佛說須陀洹果不墮三惡道盡無量苦如五十由旬池水餘在者如一渧二渧。則生貪心。以其心不牢固。本求作佛為眾生。今為自身而欲取證。是為欺佛。亦負眾生。是故名麤。 復た次ぎに、若し菩薩が、須陀洹果の証を貪れば、是れを麁と為す。人の、仏の、『須陀洹果は、三悪道に堕せずして、無量の苦を尽すこと、五十由旬の池水に、餘の在る者一渧二渧の如し』、と説きたもうを聞いて、則ち貪心を生ずるが如く、其の心の牢固ならざるを以って、本、作仏を求むるは、衆生の為めなるに、今、自身の為めに、証を取らんと欲すれば、是れを仏を欺いて、亦た衆生に負(そむ)く。是の故に麁と名づく。
復た次ぎに、
若し、
『菩薩』が、
『須陀洹果の証を貪れば!』、
是れを、
『麁』と、
『称する!』。
譬えば、
『須陀洹果』が、
『三悪道に堕ちず、無量の苦が尽きる!』のは、
譬えば、
『五十由旬の池水を尽して!』、
『餘に在る水は、一渧か、二渧しかないようなものである!』と、
『仏が、説かれる!』のを、
『人が聞いて!』、
『貪心』を、
『生じるように!』、
其の、
『心が、牢固でない!』が故に、
本、
『仏に作ろう!』と、
『求めていた!』のは、
『衆生の為めであった!』のに、
今、
『自身の為め!』に、
『証』を、
『取ろうとしている!』ので、
是れは、
『仏』を、
『欺くことであり!』、
亦た、
『衆生』に、
『負くことになる( to betray )!』。
是の故に、
『麁』と、
『称する!』。
  (ふ):<動詞>[本義]恃む/依る( rely on )。背負う( carry on the back )、背を向ける/背く( with the back for ward )、抱く( hold, cherish )、擔う( shoulder )、違背する/裏切る( betray )、借金する/欠乏する( owe, lack, short of )、失敗する( fail in )、負ける( lose )、加える( add )、受ける( suffer )、償う( compensate )、失う( lose )。
  参考:『北本大般涅槃経巻36』:『迦葉菩薩白佛言。世尊。如佛先說須陀洹人所斷煩惱。猶如縱廣四十里水。其餘在者如一毛渧。』
譬如人請客欲設飲食而竟不與。是則妄語負客。菩薩亦如是。初發心時作願。我當作佛度一切眾生。而貪須陀洹。是則負一切眾生。如貪須陀洹果。乃至貪辟支佛道亦如是
大智度論卷第九十二
譬えば、人の客を請して、飲食を設けんと欲するも、竟に与えざれば、是れ則ち妄語にして、客に負くなり。菩薩も亦た是の如く、初発心の時、『我れ当に仏と作りて、一切の衆生を度すべし』、と願を作し、而も須陀洹を貪れば、是れ則ち一切の衆生に負くなり。須陀洹果を貪るが如く、乃至辟支仏道を貪るも亦た是の如し。
大智度論巻第九十二
譬えば、
『人』が、
『客を請じて( to invite guests )!』、
『飲食を設けようとしながら!』、
竟に、
『客に!』、
『与えなければ!』、
是れは、
『妄語したのであり!』、
『客に!』、
『負いたことになるように!』、
『菩薩』も、
是のように、
初発心の時、
『わたしは仏と作り、一切の衆生を度さねばならぬ!』と、
『願を作しながら!』、
而も、
『須陀洹』を、
『貪れば!』、
則ち、
『一切の衆生』に、
『負くことになる!』。
『須陀洹果を貪るように!』、
乃至、
『辟支仏道を貪る!』のも、
『是の通りである!』。

大智度論巻第九十二


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