巻第九十一(下)
大智度論釋照明品第八十一
1.【論】菩薩道を具足して、阿耨多羅三藐三菩提を得るとは
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大智度論釋照明品第八十一
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


【論】菩薩道を具足して、阿耨多羅三藐三菩提を得るとは

【論】問曰。先說菩薩行六波羅蜜等諸助道法不具足菩薩道則不能得阿耨多羅三藐三菩提。今須菩提應自知行六波羅蜜等具足菩薩道應得阿耨多羅三藐三菩提。何以更問。 問うて曰く、先に説かく、『菩薩は、六波羅蜜等の諸助道法を行ずるも、菩薩道を具足せざれば、則ち阿耨多羅三藐三菩提を得る能わず』、と。今、須菩提は、応に自ら、『六波羅蜜等を行じて、菩薩道を具足すれば、応に阿耨多羅三藐三菩提を得べし』、と知るべし。何を以ってか、更に問える。
問い、
先に、こう説いたのであるから、――
『菩薩は、六波羅蜜等の諸助道法を行じても!』、
『菩薩道を具足しなければ!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得ることはできない!』、と。
今、
『須菩提』は、
自ら、知るはずであるのに、――
『六波羅蜜等を行じて菩薩道を具足すれば!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得ることになる!』、と。
何故、
『更に!』、
『問うたのですか?』。
答曰。須菩提不疑。云何得阿耨多羅三藐三菩提。今但問。云何具足菩薩道得阿耨多羅三藐三菩提。佛答。若菩薩用六波羅蜜等諸法。以方便力和合故能行。是時具足菩薩道。 答えて曰く、須菩提は、『云何が、阿耨多羅三藐三菩提を得る』、とは疑わず。今は但だ、『云何が菩薩道を具足すれば、阿耨多羅三藐三菩提を得るや』、と問えり。仏の答えたまわく、『若し菩薩、六波羅蜜等の諸法を用うれば、方便力の和合するを以っての故に能く行じ、是の時、菩薩道を具足するなり』、と。
答え、
『須菩提』は、こう疑うのではなく、――
何故、
『阿耨多羅三藐三菩提』が、
『得られるのか?』、と。
今は、但だ、こう問うただけである、――
何故、
『菩薩道を具足すれば!』、
『阿耨多羅三藐三菩提を得られるのですか?』、と。
『仏』は、こう答えられた、――
若し、
『菩薩が、六波羅蜜等の諸法を用いれば!』、
『方便力が和合する!』が故に、
『六波羅蜜等の諸助道法』を、
『行じることができ!』、
是の時、
『菩薩道』を、
『具足するのである!』、と。
方便力者。不決定得是布施等三事。亦不離是三事行檀波羅蜜。是時照明菩薩道。照明具足是一義。若菩薩決定得布施等三事。直墮常顛倒取相著法等過罪。若不得是三事則墮斷滅邊著空。還起邪見等諸煩惱便離菩薩道。 方便力とは、是の布施等の三事を決定して得ず、亦た是の三事を離れずして、檀波羅蜜を行ずれば、是の時、菩薩道を照明す。照明と具足と、是れ一義なり。若し菩薩、布施等の三事を決定して得れば、直ちに常の顛倒、取相、著法等の過罪に堕す。若し是の三事を得ざれば、則ち断滅の辺に堕して、空に著し、還って邪見等の諸煩悩を起し、便ち菩薩道を離る。
『方便力』とは、
是の、
『布施等の三事(施者、受者、施物)』を、
『決定して!』、
『得ることもなく!』、
是の、
『三事を離れることもなく!』、
『檀波羅蜜』を、
『行じれば!』、
是の時、
『菩薩道』を、
『照明することになる!』が、
是の、
『照明と、具足』は、
『一義である!』。
若し、
『菩薩』が、
『決定して、布施等の三事を得れば!』、
直ちに、
『常顛倒とか、取相とか、著法等の過罪』に、
『堕ちることになる!』が、
若し、
是の、
『三事を得ることがなければ!』、
『断滅の辺に堕ち!』、
『空に著する!』ので、
還って、
『邪見等の諸煩悩を起して!』、
便ち( then )、
『菩薩道』を、
『離れることになる!』。
若菩薩離是二邊。因空捨是施等假名字虛誑法。因諸法實相離是著空無施者無受者。如阿耨多羅三藐三菩提相。觀是布施亦爾無異。如是布施名為具足。乃至十八不共法亦如是。 若し菩薩、是の二辺を離るれば、空に因りて、是の施等の仮の名字の、虚誑の法を捨て、諸法の実相に因りて、是の著空を離るれば、施者無く、受者無し。阿耨多羅三藐三菩提の相の如く、是の布施も亦た爾して、無異なりと観れば、是の如き布施を名づけて、具足と為し、乃至十八不共法も亦た是の如し。
若し、
『菩薩』が、
是の、
『二辺を離れ!』、
『空に因って( by the emptiness )!』、
是の、
『施等の仮の名字や、虚誑の法』を、
『捨て!』、
『諸法の実相に因って!』、
是の、
『著空』を、
『離れれば!』、
則ち、
『施者も、受者も!』、
『無くなり!』、
是の、
『布施』は、
『阿耨多羅三藐三菩提の相ようであり、異が無い!』と、
『観れば!』、
是のような、
『布施』を、
『具足する!』と、
『称し! 」、
乃至、
『十八不共法』も、
『是の通りである!』。
舍利弗在會中聞佛與須菩提說般若甚深果報大有利益。雖有利益無決定性云何可習。 舎利弗は、会中に在りて、仏と須菩提の説ける、般若の甚深の果報には、大利益有るを聞くに、利益有りと雖も、決定の性無くんば、云何が習うべき。
『舎利弗は、会中に在って!』、
『般若波羅蜜の甚深の果報には、大利益が有る!』と、
『仏と、須菩提が説く!』のを、
『聞き!』、
『仏』に、こう問うた、――
『利益が有っても!』、
『決定の性』が、
『無ければ!』、
何のように、
『般若波羅蜜』を、
『習えばよいのか?』、と。
佛答。菩薩行般若波羅蜜時。不壞色不隨色。如是名習般若波羅蜜。菩薩初發心為知實法故。常行般若波羅蜜。次第隨其所宜行布施等諸法。是故常說菩薩行般若波羅蜜時行布施等諸法。 仏の答えたまわく、『菩薩の般若波羅蜜を行ずる時、色を壊らず、色に随わず。是の如きを、般若波羅蜜を習うと名づく』、と。菩薩は、初発心より、実法を知らんが為めの故に、常に般若波羅蜜を行じて、次第に其の宜しき所に随うて、布施等の諸法を行ずれば、是の故に常に、『菩薩は般若波羅蜜を行ずる時、布施等の諸法を行ず』、と説きたまえり。
『仏』は、こう答えられた、――
『菩薩が、般若波羅蜜を行じる!』時には、
『色』を、
『壊ることもなく、随うこともない!』ので、
是のような者を、
『般若波羅蜜を習う!』と、
『称するのである!』、と。
『菩薩は、初発心より!』、
『諸法の実相を知る為め!』の故に、
常に、
『般若波羅蜜』を、
『行じながら!』、
其の、
『宜しき所に随って( for the convenience )!』、
『布施等の諸法』を、
『行じる!』ので、
是の故に、常に、こう説くのである、――
『菩薩は、般若波羅蜜を行じる!』時、
『布施等の諸法』を、
『行じる!』、と。
色不壞者。不言是色無常。不言是色空無所有。是名不壞色。 色壊れざれば、『是の色は、無常なり』、と言わず。『是の色は空にして、無所有なり』、と言わず。是れを色を壊らずと名づく。
『色が壊れなければ!』、
是の、
『色は、無常である!』と、
『言うこともなく!』、
是の、
『色は空であり、無所有である!』と、
『言うこともない!』が、
是れを、
『色を壊らない!』と、
『称するのである!』。
不隨色者。不如眼見色取相生著。 色に随わずとは、眼見の色の如く、相を取りて、著を生ぜず。
『色に随わない!』者は、
『眼見の色のように!』、
『相を取って!』、
『著を生じることがない!』。
復次不說是色若常若無常若苦若樂等。是名不隨色。常無常等皆非色實相。 復た次ぎに、是の色の若しは常、若しは無常、若しは苦、若しは楽等を説かず。是れを色に随わずと名づく。常、無常等は、皆色の実相に非ざればなり。
復た次ぎに、
是の、
『色』は、
『常である、無常である、苦である、楽である!』等と、
『説かなければ!』、
是れを、
『色に随わない!』と、
『称する!』。
何故ならば、
『常、無常』等は、
『皆、色の実相ではないからである!』。
復次不說是色根本從世性中來若從微塵中來從大自在天中來。亦不說從時來。亦不說自然生。亦不說無因無緣而強生。如是等名為不隨不壞。 復た次ぎに、是の色の根本は、世性中より来たり、若しは微塵中より来たり、大自在天中より来たりと説かず、亦た時に従いて来たりと説かず、亦た自然に生ずと説かず、亦た無因無縁なるに強いて生ずと説かず。是れ等の如きを名づけて、不随、不壊と為す。
復た次ぎに、
是の、
『色の根本』は、
『世性( the nature of the world )中より!』、
『来る!』とか、
亦たは、
『微塵( particles of dust )中より!』、
『来る!』とか、
亦たは、
『大自在天中より!』、
『来る!』とか、
亦たは、
『時に従って( following time )!』、
『来る!』とか、
亦たは、
『自然に( naturally )!』、
『生じる!』とか、
亦たは、
『無因、無縁でありながら!』、
『強いて、生じる( be raised by force )!』と、
是れ等のように、
『説かなければ!』、
『随うこともなく、壊ることもない!』と、
『称せられる!』。
  根本(こんぽん):梵語 muula の訳、蕪や、その他の野菜の根( a radish or the root of the other plants )の義、基礎/原因/起源/始原/始まり( basis, foundation, cause, origin, commencement, beginning )の意。
此中佛自說因緣。是色性無故不隨不壞。 此の中に仏の自ら因縁を説きたまわく、『是の色は性無きが故に、随わず、壊らざるなり』、と。
此の中に、
『仏』は、
自ら、
『因縁』を、こう説かれた、――
是の、
『色は、性が無い!』が故に、
『随うこともなく!』、
『壊ることもないのである!』、と。
性無者。是色從一切四大和合假名為色。是中無定一法名為色。如先破色中說。是色從因緣和合生故即是無性。若無性即是性空。若得是色相性空。即是習般若波羅蜜。乃至十八不共法亦如是。 性無ければ、是の色は、一切の四大和合するによりて、仮名して、色と為せば、是の中には定かなる一法の名づけて、色と為す無し。先に色を破る中に説けるが如く、是の色は、因縁和合によりて生ずるが故に、即ち是れに性無し。若し無性なれば、即ち是れ性空なり。若し是の色の相、性の空なるを得れば、即ち是れ般若波羅蜜を習うなり。乃至十八不共法も亦た是の如し。
『性が無ければ!』、
是の、
『色』は、
『一切の四大が和合するにより!』、
『色である!』と、
『仮名するだけであり!』、
是の、
『色』中には、
『定んで、色と称される!』者は、
『一法すら!』、
『無い!』。
先に、
『色を破る!』中に説いたように、――
是の、
『色は、因縁の和合より生じる!』が故に、
『即ち、無性である!』。
若し、
『無性ならば!』、
『即ち、性空である!』。
若し、
是の、
『色の相、性』は、
『空である!』と、
『得るならば!』、
即ち、
『般若波羅蜜』を、
『習うことになり!』、
乃至、
『十八不共法』も、
『是の通りである!』。
復問。世尊若諸法無自性可壞可隨者。云何菩薩習般若波羅蜜。不學般若波羅蜜不得阿耨多羅三藐三菩提。 復た問わく、『世尊、若し諸法に自性の壊るべく、随うべき者無くんば、云何が菩薩は、般若波羅蜜を習わん。般若波羅蜜を学ばずんば、阿耨多羅三藐三菩提を得ざらん』、と。
復た、こう問うた、――
世尊!
若し、
『諸法』に、
『壊れたり、随われたりするような!』、
『自性が、無ければ!』、
何のように、
『菩薩』は、
『般若波羅蜜』を、
『習うのですか?』。
『般若波羅蜜を学ばなければ!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得られませんが?』、と。
佛可舍利弗意自說因緣。若菩薩用方便力行六波羅蜜。是人雖知諸法空而能起般若波羅蜜。 仏は、舎利弗の意を可として、自ら因縁を説きたまわく、『若し菩薩、方便力を用いて、六波羅蜜を行ずれば、是の人は、諸法の空を知ると雖も、能く般若波羅蜜を起すなり。
『仏』は、
『舎利弗の意を可として( to agree Sariputra's opinion )!』、
自ら、
『因縁』を、こう説かれた、――
若し、
『菩薩が、方便力を用いて!』、
『六波羅蜜』を、
『行じれば!』、
是の、
『人は、諸法の空を知りながら!』、
『般若波羅蜜』を、
『起すことができる( can raise )!』。
舍利弗若菩薩求一切法。若得少許定性則可取可著。今菩薩實求覓一切法不得定實。所謂是般若波羅蜜是禪波羅蜜。乃至是十八不共法。是諸法皆不可得。不可得故何所取。 舎利弗、若し菩薩、一切法を求めて、若し少許りの定性を得れば、則ち取るべく、著すべし。今、菩薩は実に一切法を求覓するも、定実を得ず。謂わゆる是れ般若波羅蜜なり、是れ禅波羅蜜なり、乃至十八不共法なり、と。是の諸法は皆不可得なれば、不可得なるが故に、何んが取る所なる。
舎利弗!
若し、
『菩薩が、一切法を求めて!』、
若し、
『少許りの定性でも!』、
『得ることができれば!』、
則ち、
『取ることもでき!』、
『著することもできるだろう!』が、
今、
『菩薩は実に、一切法を求覓しながら!』、
『定実( the truth )』を、
『得ることはできない!』、
謂わゆる、
『是れが、般若波羅蜜である!』、
『是れが、禅波羅蜜である!』、
乃至、
『是れが、十八不共法である!』が、
是の、
『諸法は、皆不可得であり!』、
『不可得である!』が故に、
『何が、取られるのか?』。
  求覓(ぐみゃく):尋究( search )。
  定実(じょうじつ):梵語 tattva の訳、真実/現実的な状態/真実/現実( true or real state, trueth, reality )。
舍利弗。是名菩薩無取般若波羅蜜。菩薩應學無取般若波羅蜜。無取尚不可得。何況般若等諸法。一切法無性故。 舎利弗、是れを菩薩の無取の般若波羅蜜と名づけ、菩薩は、応に無取の般若波羅蜜を学ぶべし。無取すら尚お不可得なり。何に況んや般若等の諸法をや。一切法は、無性なるが故なり。
舎利弗!
是れを、
『菩薩の無取の般若波羅蜜』と、
『称する!』が、
『菩薩』は、
『無取の般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』。
『無取の法すら!』、
尚お、
『不可得である!』。
況して、
『般若等の諸法』は、
『言うまでもない!』。
何故ならば、
『一切法』は、
『無性だからである!』。
舍利弗復問。若一切法無性云何知是凡人乃至佛。 舎利弗の復た問わく、若し一切法にして無性なれば、云何が、是れ凡人、乃至仏なりと知る。
『舎利弗』は、復た問うた、――
若し、
『一切法が無性ならば!』、
何のように、
『是れは凡人である、乃至是れが仏である!』と、
『知るのですか?』、と。
佛答。一切法雖無根本定相。但凡人顛倒故著。菩薩行般若波羅蜜時。以方便力故見一切法無根本。而發阿耨多羅三藐三菩提心。 仏の答えたまわく、『一切法は根本の定相無しと雖も、但だ凡人は顛倒の故に著す。菩薩は般若波羅蜜を行ずる時、方便力を以っての故に、一切法には根本無きを見て、而も阿耨多羅三藐三菩提の心を発す。
『仏』は、こう答えられた、――
『一切法』に、
『根本の定相』が、
『無くても!』、
但だ、
『凡人は、顛倒する!』が故に、
『著するのである!』。
『菩薩は、般若波羅蜜を行じる!』時、
『方便力を用いる!』が故に、
『一切法には!』、
『根本が無い!』と、
『見ながら!』、
『阿耨多羅三藐三菩提に向う!』、
『心』を、
『発すのである!』。
是菩薩深行諸法性空故不見一切法有根本。不見故不懈不退。了了知一切法無我無所有性性常空。但眾生愚癡顛倒故著是陰界入。 是の菩薩は、深く諸法の性空を行ずるが故に、一切法に根本有るを見ず。見ざるが故に懈(おこた)らず、退かず。了了に、一切法の無我、無所有の性にして、性は常に空なるを知るも、但だ衆生は愚癡、顛倒の故に是の陰界入に著す。
是の、
『菩薩は深く、諸法の諸空を行じる!』が故に、
『一切法』には、
『根本が有る!』と、
『見ず!』、
『見ない!』が故に、
『懈怠することもなく!』、
『退没することもなく!』、
了了に( very clearly )、
『一切法は無我、無所有の性であり、性は常に空である!』と、
『知る!』が、
但だ、
『衆生が愚癡であり、顛倒する!』が故に、
是の、
『陰界入(≒一切法)』に、
『著するだけである!』。
是時菩薩思惟籌量諸法甚深寂滅相。而眾生深著虛誑顛倒。菩薩自立如幻師。種種神通變化說法度人。如幻所作。無憎無愛等心說法。所謂慳者教施等六法復為說轉勝法令出生死得須陀洹果乃至阿耨多羅三藐三菩提。 是の時、菩薩は、諸法の甚深の寂滅相を思惟、籌量するも、衆生は深く、虚誑に著して顛倒す。菩薩は自ら幻師の如く立ちて、種種の神通・変化し、法を説いて人を度せば、幻の所作の如きに憎無く、愛無く、等心もて法を説く。謂わゆる慳者には施等の六法を教え、復た為めに勝法を説転し、生死を出でしめ、須陀洹果、乃至阿耨多羅三藐三菩提を得しむ。
是の時、
『菩薩』は、
『諸法の甚深の寂滅相』を、
『思惟・籌量する( to consider and estimate )!』が、
『衆生』は、
『深く、虚誑に著して!』、
『顛倒する!』ので、
『菩薩』は、
『自ら、立って( raising himself )!』、
『幻師のように!』、
『種種に神通変化して!』、
『法を説きながら!』、
『人』を、
『度すのである!』が、
『幻の所作(≒衆生の行業)』中に、
『憎、愛すること!』は、
『無く!』、
『等心に!』、
『法』を、
『説くだけである!』。
謂わゆる、
『慳者』には、
『施等の六法(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧)』を、
『教え!』、
復た、
『慳者の為め!』に、
『勝法』を、
『説転しながら( expressing one after another)!』、
『生死より出させ!』、
『須陀洹果、乃至阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得させるのである!』。
  説転(せつてん):梵語 abhilaapaaH pravartante の訳、進み出てする説明( verbal expressions coming forth )、動きながら説明する( express being in motion )の義、( expressing one after another )の意。又言説転に作る。
問曰。六波羅蜜外更有何法為勝。何以言更為說勝法。 問うて曰く、六波羅蜜の外に、更に何の法か有りて、勝ると為すや。何を以ってか、『更に為めに、勝法を説く』、と言う。
問い、
『六波羅蜜の外』に、
『更に、何のような法が有る!』ので、こう言うのか?――
更に、
『慳者の為め!』に、
『勝法を説く!』、と。
答曰。此中不說波羅蜜。但為慳者說施。乃至癡者為說智慧。諸佛菩薩法有初有後。初法所謂布施持戒。受戒施果報得天上福樂為說五欲味利少失多。受世間身但有衰苦。讚歎遠離世間斷愛法。然後為說四諦令得須陀洹果。 答えて曰く、此の中には、波羅蜜を説かずして、但だ慳者の為めに、施を説き、乃至癡者の為めに智慧を説く。諸仏、菩薩の法には初有り、後有り。初法は、謂わゆる布施、持戒にして、戒、施の果報を受けて、天上の福楽を得れば、為めに『五欲の味は利少く、失多く、世間の身を受くれば、但だ衰苦有るのみ』、と説いて、世間を遠離するを讃歎して、愛法を断ぜしめ、然る後に為めに四諦を説いて、須陀洹果を得しむ。
答え、
此の中は、
『波羅蜜を説かずに!』、
但だ、
『慳者の為め!』に、
『施』を、
『説き!』、
乃至、
『癡者の為め!』に、
『智慧』を、
『説くだけである!』。
『諸仏、菩薩の法には初も有り、後も有り!』、
『初法とは、謂わゆる布施、持戒であり!』、
『戒、施の果報を受けて!』、
『天上の福楽を得ることである!』が、
『初法を得た者の為め!』には、こう説いて、――
『五欲の味( the enjoying of the five desires )!』は、
『利が少く!』、
『失が多く!』、
『世間の身を受けても!』、
但だ、
『衰苦』が、
『有るだけである!』、と。
『世間を遠離することを、讃歎して!』、
『愛法』を、
『断じさせた!』後、
『愛法を断じた者の為め!』に、
『四諦を説いて!』、
『須陀洹果』を、
『得させるのである!』。
  (み):梵語 aasvaadana の訳、味/味わう/味わって( tast, tasting, by tasting )の義、楽しむこと( enjoying )の意。
此中菩薩但說欲令眾生得佛道故先教令行六法。此中善智慧不名為三解脫門所攝。是善智慧能生布施等善法。能滅慳貪瞋恚等惡法。能令眾生得生天上。何以知之。更有勝法故。 此の中の菩薩は但だ、衆生をして仏道を得しめんと欲するが故に説いて、先に教えて、六法を行ぜしむ。此の中の善の智慧は、名づけて三解脱門の所摂と為さず。是の善の智慧は、能く布施等の善法を生じ、能く慳貪、瞋恚等の悪法を滅し、能く衆生をして、天上に生ずるを得しむ。何を以ってか、之を知る。更に勝法有るが故なり。
此の中に、
『菩薩』は、
但だ、
『衆生』に、
『仏道を得させよう!』と、
『説くだけである!』が故に、
先に、
『六法を行じよ!』と、
『教えるのである!』。
此の中の、
『善の智慧』とは、
『三解脱門の所摂ではなく!』、
是の、
『善の智慧』は、
『布施等の善法』を、
『生じさせ!』、
亦た、
『慳貪、瞋恚等の悪法』を、
『滅しさせ!』、
亦た、
『衆生』に、
『天上に生じさせるものである!』。
何故、こう知るのか?――
更に、
『勝法』が、
『有るからである!』。
勝法者所謂四諦聖法。出法一切聖人所行法名為聖法。出三界生死名為出法。以是四諦說法故隨眾生根因緣令得須陀洹果。乃至得一切種智。此中雖不說初六法說布施等當知已攝。 勝法とは、謂わゆる四諦聖法と、出法にして、一切の聖人の所行の法を、名づけて聖法と為し、三界の生死を出づるを名づけて、出法と為す。是の四諦を以って、法を説くが故に、衆生の根の因縁に随って、須陀洹果を得しめ、乃至一切種智を得しむ。此の中には、初より六法を説かずと雖も布施等を説くは、当に知るべし、已に摂すと。
『勝法とは、謂わゆる四聖諦の聖法と、出法である!』が、
『一切の聖人』の、
『所行の法』が、
『聖法であり!』、
『三界の生死』を、
『出る法』が、
『出法である!』。
是の、
『四諦を用いて、法を説く!』が故に、
『衆生の根の因縁に随って!』、
『須陀洹果』を、
『得させ!』、
乃至、
『一切種智』を、
『得させるのである!』。
此の中に、
『初の六法を説かずに!』、
『布施等』を、
『説く!』のは、
当然、こう知るべきである、――
『六法』は、
『布施等に、已に摂されている!』、と。
復次菩薩為佛道故說是六法。但眾生意劣故自取小乘。是故不說布施持戒生天受報等初六法。 復た次ぎに、菩薩は、仏道の為めの故に是の六法を説き、但だ衆生の意の劣れるが故に自ら小乗を取り、是の故に、布施、持戒にて天に生じ、報を受くる等の初の六法を説かず。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
『仏道の為め!』の故に、
是の、
『六法』を、
『説くのである!』が、
但だ、
『衆生の意が劣る!』が故に、
自ら、
『小乗』を、
『取る!』時には、
是の故に、
『布施、持戒して天に生じ、果報を受ける!』等の、
『初の六法』を、
『説くことはない!』。
舍利弗白佛言。世尊。先說菩薩是畢竟不可得法。今為無所有眾生說法。令得無所有法。所謂須陀洹果乃至一切種智。世尊。菩薩今得無所有法故能令眾生得無所有法。無所得是有所得。 舎利弗の仏に白して言さく、『世尊、先には、菩薩は是れ畢竟不可得の法なりと説きたまい、今は無所有の衆生の為めに、法を説いて、無所有の法を得しめたもう。謂わゆる須陀洹果、乃至一切種智なり。世尊、菩薩は、今無所有の法を得るが故に、能く衆生をして、無所有の法を得しむ。無所得とは、是れ有所得なりや』、と。
『舎利弗』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
先に、
『菩薩とは、畢竟不可得の法である!』と、
『説かれた!』が、
今は、
『無所有の衆生の為めに、法を説いて!』、
『無所有の法( the dharma of the absence of substance )』を、
『得させられた!』。
謂わゆる、
『須陀洹果、乃至一切種智である!』。
世尊!
『菩薩』は、
今、
『無所有の法を得た!』が故に、
『衆生』に、
『無所得の法を得させることができます!』が、
『無所得』には、
『所得』が、
『有るからですか?』。
佛答。菩薩行般若波羅蜜時。無有有所得過。何以故。菩薩行般若波羅蜜時。不見眾生及法。但諸因緣和合假名眾生。 仏の答えたまわく、『菩薩は、般若波羅蜜を行ずる時、有所得の過有ること無ければなり。何を以っての故に、菩薩は般若波羅蜜を行ずる時、衆生、及び法を見ず、但だ諸の因縁の和合を仮に、衆生と名づくればなり。
『仏』は、こう答えられた、――
『菩薩が、般若波羅蜜を行じる!』時には、
『所得が有るという!』、
『過』は、
『無いからである!』。
何故ならば、
『菩薩は、般若波羅蜜を行じる!』時、
『衆生も、法も!』、
『見ないからであり!』、
但だ、
『諸因縁の和合』を、
仮に、
『衆生』と、
『称するだけだからである!』。
菩薩住二諦中為眾生說法。不但說空。不但說有。為愛著眾生故說空。為取相著空眾生故說有。有無中二處不染。如是方便力為眾生說法。眾生現在我身及我尚不可得。何況當得阿耨多羅三藐三菩提。 菩薩は、二諦中に住して、衆生の為めに法を説くに、但だ空を説かず、但だ有を説かず。愛著する衆生の為めの故に、空を説き、相を取りて空に著する衆生の為めの故に有を説くも、有無中の二処に染まらず。是の如き方便力もて、衆生の為めに法を説けば、衆生は、現在の我が身、及び我すら、尚お不可得なり。何に況んや当に阿耨多羅三藐三菩提を得べけんや。
『菩薩』は、
『世間、出世間の二諦中に住しながら!』、
『衆生の為め!』に、
『法』を、
『説くので!』、
但だ、
『空』を、
『説くだけでもなく!』、
但だ、
『有』を、
『説くだけでもなく!』、
『法に愛著する!』、
『衆生の為め!』の故に、
『空を説き!』、
『相を取り、空に著する!』、
『衆生の為め!』の故に、
『有を説く!』ので、
『有、無』中の、
『二処』に、
『染まることはない!』。
是のような、
『方便力を用いて!』、
『衆生の為め!』に、
『法』を、
『説くのである!』から、
『衆生』は、
尚お、
『現在の我身や、我すら!』、
『不可得であり!』、
況して、
『阿耨多羅三藐三菩提を得る!』など、
『言うまでもない!』。
舍利弗歡喜白佛言。世尊。曠大心是菩薩。 舎利弗の歓喜して、仏に白して言さく、『世尊、曠大の心は、是れ菩薩なり』、と。
『舎利弗は、歓喜して!』、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
『曠大な心』が、
『菩薩なのです!』、と。
曠大心者。此中自說因緣。所謂無有法可得若一相若異相如人市買必須交易。大心人則不然。無所依止而能發大莊嚴。大莊嚴故不生三界。亦拔眾生令出三界。而眾生不可得。不縛不解故一切法空。 曠大の心とは、此の中に自ら因縁を説かく、謂わゆる、『法の可得なること、若しは一相、若しは異相なる有ること無し』、と。人の市に買うには、必ず、交易を須(もち)うるが如し。大心の人は、則ち然らず。依止する所無くして、能く大莊嚴を発し、大莊嚴の故に三界に生ぜず。亦た衆生を抜いて三界を出でしむるも、亦た衆生は不可得なり。不縛、不解の故に一切法は空なり。
『曠大の心』とは、
此の中に、
自ら、
『因縁』を、こう説いている、――
謂わゆる、
『一相だろうが、異相だろうが!』、
『可得の法』は、
『無い!』、と。
譬えば、
『人』が、
『市』で、
『買おうとすれば!』、
必ず、
『交易( to trade )』を、
『須いる( necessarily )ことになる!』が、
『大心の人は、爾うでなく!』、
『依止する所が無い( have not the basis )!』ので、
『大莊嚴』を、
『発すことができ!』、
『大莊嚴する!』が故に、
『三界』に、
『生じることもなく!』、
亦た、
『衆生を抜いて!』、
『三界より出させながら!』、
而も、
『衆生』は、
『不可得であり!』、
亦た、
『不縛、不解である!』が故に、
『一切法は空なのである!』。
  無所依止(むしょえし):梵語 niradhiSThaana の訳、休息所が無い/根拠が無い/援助が無い/[論議の]根拠が薄弱な( having no resting-place or basis, supportless, untenable )の義。
從久遠以來煩惱顛倒皆是虛誑不實。是故名無縛。縛無故亦無解。縛即是垢。解即是淨。無淨無垢故無六道分別。不分別六道故無罪福業。罪福業無故無煩惱。能起罪福業者不起罪福業。亦不應有果報。如是諸法畢竟空中而作大莊嚴。是為希有。譬如人虛空中種樹樹葉花果多所利益。 久遠より以来の煩悩、顛倒は、皆是れ虚誑にして不実なれば、是の故に無縛と名づけ、縛無きが故に亦た無解なり。縛とは、即ち是れ垢、解は即ち是れ浄なり。無浄、無垢なるが故に六道の分別無し。六道を分別せざるが故に罪福の業無し。罪福の業無きが故に煩悩の、能く罪福の業を起す者無し。罪福の業を起さざれば、亦た応に果報有るべからず。是の如き初法の畢竟空中に、大莊嚴を作せば、是れを希有と為す。譬えば人の虚空中に樹を種えて、樹葉、華果に利益する所多きが如し。
久遠より、
『煩悩や、顛倒』は、
皆、
『虚誑であり!』、
『不実であり!』、
是の故に、
『無縛』と、
『称するのである!』。
『縛が無ければ!』、
『解』も、
『無く!』、
『縛とは、垢であり!』、
『解』とは、
『浄である!』が、
『浄も、垢も無い!』が故に、
『六道の分別』が、
『無く!』、
『六道を分別しない!』が故に、
『罪、福の業』は、
『無く!』、
『罪福の業が無い!』が故に、
『罪福の業を起す!』、
『煩悩』も、
『無く!』、
『罪福の業を起さなければ!』、
『果報など!』、
『有るはずがない!』。
是のような、
『諸法の畢竟空』中に於いて、
『大莊嚴』を、
『作す!』ので、
是れを、
『希有』と、
『称するのである!』。
譬えば、
『人が、虚空中に樹を種えながら!』、
『樹の葉、花、果の利益する!』所が、
『多いようなものである!』。
佛可舍利弗意。舍利弗難是空故佛亦答亦可。以其說空故可。以其難空故答。所謂舍利弗若眾生及諸法先有今無。諸佛賢聖有過罪。 仏は、舎利弗の意を可としたもうも、舎利弗は、是の空を難ずれば、故に仏も亦た答え、亦た可としたもうは、其の空を説けるを以っての故に可とし、其の空を難ずるを以っての故に答えたまえり。謂わゆる、『舎利弗、若し衆生、及び諸法にして、先に有りて、今無ければ、諸仏、賢聖には過罪有り』、と。
『仏』が、
『舎利弗の意』を、
『可とされる( to agreed )!』と、
『舎利弗』が、
是の、
『空』を、
『難じた!』が故に、
『仏は答えて!』、
亦た、
『舎利弗の意』を、
『可とされたのである!』が、
即ち、
『舎利弗』が、
『空を説いた!』が故に、
『可とされ!』、
亦た、
『空を難じた!』が故に、
『答えられたのである!』、
謂わゆる、
舎利弗!
若し、
『衆生や、諸法』が、
『先に有って!』、
『今無ければ!』、
『諸仏や、賢聖』には、
『過罪』が、
『有る!』、と。
過罪者所謂令眾生入無餘涅槃永滅色等一切法入空中皆無所有。以斷滅眾生及一切法故有過罪。 過罪とは、謂わゆる衆生をして、無余涅槃に入らしめ、色等の一切法を永滅すれば、空中に入りて、皆無所有となり、衆生、及び一切法を断滅するを以っての故に、過罪有り。
『過罪』とは、謂わゆる、――
『衆生を、無余涅槃に入らせて!』、
『色等の一切法』を、
『永滅させれば!』、
『空中に入って、皆無所有となり!』、
『衆生や、一切法を断滅することになる!』が故に、
『過罪が有る!』。
舍利弗。眾生及一切法先來無。若有佛無佛常住不異。是諸法實相。是故無六道生死。亦無眾生可拔出。 舎利弗、衆生、及び一切法の先より来(このかた)無きこと、若しは仏有り、仏無くとも、常住にして異ならず。是れ諸法の実相なり。是の故に六道の生死無く、亦た衆生の抜き出すべき無し。
舎利弗!
『衆生や、一切法は先より無という!』、
『法は仏が有ろうと、無かろうと!』、
『常住であって!』、
『異らない!』、
是れが、
『諸法の実相である!』。
是の故に、
『六道の生死は、無く!』、
『六道より抜き出すべき衆生』も、
『無いのである!』。
舍利弗。一切法先空。是故菩薩於諸佛所聞諸法如是相故發阿耨多羅三藐三菩提心。作是念。菩提中亦無有法可得。亦無實定法令眾生著而不可度。但眾生癡狂顛倒故著是虛誑法。 舎利弗、一切法は先より空なれば、是の故に菩薩は諸仏より、所聞の諸法の是の如き相なるが故に、阿耨多羅三藐三菩提の心を発して、是の念を作さく、『菩提中にも亦た法の得べき有ること無く、亦た実定の法の衆生をして著せしめて、度すべからざらしむる無し。但だ衆生は癡狂にして顛倒するが故に、是の虚誑の法に著するなり。
舎利弗!
『一切法は先より、空であり!』、
是の故に、
『菩薩が、諸仏より聞いた!』所の、
『諸法も、是のような相である!』が故に、
『阿耨多羅三藐三菩提の心』を、
『発しながら!』、
こう念じるのである、――
『菩提』中にも、
『得るべき法』は、
『無く!』、
亦た、
『衆生を著させ、度せなくさせるような!』、
『実定の法』も、
『無い!』。
但だ、
『衆生は癡狂であり、顛倒する!』が故に、
是の、
『虚誑の法』に、
『著するのである!』。
是故菩薩發大莊嚴。不轉於阿耨多羅三藐三菩提。作是念。我必當得阿耨多羅三藐三菩提。非不得得已用實法利益眾生。利益眾生故眾生從顛倒得出。 是の故に菩薩は、阿耨多羅三藐三菩提より転ぜずと、大莊嚴を発して、是の念を作さく、『我れは、必ず当に阿耨多羅三藐三菩提を得べく、得ざる非ざるべし。得已れば実法を用いて衆生を利益し、衆生を利益するが故に、衆生は、顛倒より出づるを得ん』、と。
是の故に、
『菩薩』は、
『阿耨多羅三藐三菩提より転じないだろう!』と、
『大莊嚴』を、
『発しながら!』、
こう念じるのである、――
わたしは、必ず、
『阿耨多羅三藐三菩提を得るはずであり!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得られないはずがない!』。
『得たならば!』、
『実法を用いて!』、
『衆生』を、
『利益し!』、
『衆生を利益する!』が故に、
『衆生』は、
『顛倒より!』、
『出ることができるだろう!』、と。
欲明了是事故經中說幻師譬喻。幻師即是菩薩。幻師所作園林盧觀。即是六波羅蜜等度眾生法。幻師所作象馬男女。即是菩薩所度眾生。如幻師一身以幻力故幻作眾生園林盧觀等娛樂眾生。若幻師以所幻作事為實。於所幻人求其恩惠即是狂人。 是の事を明了にせんと欲するが故に、経中に幻師の譬喻を説く。幻師とは即ち是れ菩薩、幻師の所作の園林、廬観は、即ち是れ六波羅蜜等の衆生を度する法、幻師の所作の象馬、男女は即ち是れ菩薩所度の衆生なり。幻師の一身の幻力を以っての故に衆生、園林、廬観等を幻作して衆生を娯楽せしむるが如きに、若し幻師の幻作する所の事を以って実と為し、幻ずる所に於いて、人、其の恩恵を求むれば、即ち是れ狂人なり。
是の、
『事を明了にしようとして!』、
『経』中に、
『幻師の譬喻が説かれた!』。
即ち、
『幻師』とは、
即ち、
『菩薩であり!』、
『幻師の所作の園林、廬観』は、
『六波羅蜜』等の、
『衆生を度する法であり!』、
『幻師の所作の象馬、男女』は、
『菩薩の度する!』所の、
『衆生である!』。
例えば、
『幻師の一身が、幻力を用いる!』が故に、
『衆生、園林、廬観等を幻作して!』、
『衆生』を、
『娯楽させる!』時、
若し、
『幻師の幻作する!』所の、
『事』を、
『実であるとしたり!』、
『所幻の事(般若波羅蜜等)』に於いて、
『人』が、
『恩恵を求めれば!』、
是の、
『人』は、
『狂人ということになる!』。
菩薩亦如是。從諸佛聞一切法性空如幻。而以布施等利益眾生欲求恩惠福報即是顛倒。 菩薩も亦た是の如く、諸仏より、一切法の性空なること幻の如きを聞いて、布施等を以って衆生を利益するに、恩恵の福報を求めんと欲すれば、即ち是れ顛倒なり。
『菩薩』も、
是のように、
『諸仏より!』、
『一切法は性空であり、幻のようだ!』と、
『聞きながら!』、
『布施等を用いて、衆生を利益し!』、
『恩恵や、福報』を、
『求めようとすれば!』、
是れは、
『顛倒したことになる!』。
問曰。幻法咒術實有。幻所作物可虛。如眾生空菩薩亦空。菩薩不化作眾生何得為喻。 問うて曰く、幻法、咒術は実に有るも、幻の所作の物は虚なるべし。衆生の空なるが如く、菩薩も亦た空なり。菩薩にして、衆生を化作せざれば、何んが喻と為すを得んや。
問い、
『幻法や、咒術は実に有る!』が、
『幻の所作の物』は、
『虚であろう( may be empty )!』。
『衆生が、空ならば!』、
『菩薩』も、
『空である!』。
『菩薩』が、
『衆生』を、
『化作しなければ!』、
何故、
『衆生』に、
『喻えることができるのか?』。
答曰。諸法實相中法尚無。何況眾生。眾生異名名為幻師。幻師實無何以言幻師有而所幻者無。 答えて曰く、諸法の実相中には法すら尚お無し。何に況んや衆生をや。衆生の異名を名づけて、幻師と為す。幻師は実に無きに、何を以ってか、『幻師有りて、所幻の者無し』、と言う。
答え、
『諸法の実相』中には、
尚お、
『法すら!』、
『無いのであり!』、
況して、
『衆生』は、
『言うまでもない!』。
『衆生』は、
『異名』を、
『幻師と称する!』が、
『幻師が、実に無い! 」のに、
何故、こう言うのか?――
『幻師は有る!』が、
『所幻の者は無い!』、と。
如汝以幻師實有所幻者無。聖人觀幻師及所幻物不異。以明了事故說譬喻。取其少許相似處為喻。何以盡取為難。如師子喻王。師子於獸中無畏。王於群下自在。無難故以為喻。復何可責四腳負毛為異也。 汝が幻師を以って実有とし、所幻の者は無しと以(おも)うが如きに、聖人は、幻師、及び所幻の物を異ならずと観、事を明了ならしめんとするを以っての故に、譬喻を説き、其の少許りの相似の処を取りて喻と為す。何を以ってか、尽く取るに難を為すや。師子を王に喻うるが如きは、師子は獣中に於いて畏るる無く、王は群下にお言いて自在にして難ずる無きが故に以って喻と為す。復た何んぞ、四脚にして毛を負うを責めて、異と為すべけんや。
譬えば、
『お前』は、
『幻師は実有であり、所幻の者は無い!』と、
『以う( considering )!』が
『聖人』は、
『幻師も、所幻の物も異らない!』と、
『観る!』。
『事を明了にする為め!』の故に、
『譬喻』を、
『説くのであり!』、
『喻える!』所に、
『少許り相似の処を取って!』、
『喻えたとしても!』、
何故、
『取るということ!』を、
『尽く難じるのか?』。
譬えば、
『師子を、王に喻えるようなこと!』は、
『師子』は、
『獣』中に於いて、
『畏れる所が無く!』、
『王』は、
『群下に於いて自在であり!』、
『難ずる者が無い!』ので、
是の故に、
『師子を用いて!』、
『王に喻えるのである!』が、
復た、
何故、
『四脚であり、毛を負うていること!』を、
『責めて( to blame )!』、
『王は、師子と異なるというのか?』。
佛說性空法。諸法皆空猶有眾生。是故說幻為喻。我今說喻以破眾生。汝云何復以眾生為難。 仏の性空の法を説きたまわく、『諸法は、皆空なるも、猶お衆生有り』、と。是の故に幻を説いて、喻と為したまわく、『我れ、今、喻を説くを以って、衆生を破るに、汝は云何が復た衆生を以って難を為すや』、と。
『仏』は、
『性空の法』を、こう説いて、――
『諸法は、皆空である!』が、
猶お( yet )、
『衆生』が、
『有る!』、と。
是の故に、
『幻を説いて!』、こう喻えられた、――
わたしは、
『今、喻を説いて!』、
『衆生』を、
『破ったばかりなのに!』、
お前は、
何故、
『衆生は有るのか?』と、
『難じるのか?』、と。
爾時須菩提白佛言。世尊。何等是成就眾生淨佛國土道。須菩提雖知菩薩道。以中說甚深性空故聽者生疑。是故發問。 爾の時、須菩提の仏に白して言さく、『世尊、何等か、是れ衆生を成就して、仏国土を浄むる道なる』、と。須菩提は、菩薩道を知ると雖も、中には、甚深の性空を説けるを以っての故に聴者、疑を生ずれば、是の故に問を発せり。
爾の時、
『須菩提』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
何のような、
『道』が、
『衆生を成就したり、仏国土を浄めるのですか?』、と。
『須菩提』は、
『菩薩の道を知っている!』が、
此の中には、
『甚深の性空が説かれている!』が故に、
『聴者』が、
『疑を生じ!』、
是の故に、
『問』を、
『発したのである!』。
佛答。菩薩從初發心行六波羅蜜乃至十八不共法。是菩薩道行是道。成就眾生淨佛國土。 仏の答えたまわく、『菩薩の初発心より行ずる、六波羅蜜乃至十八不共法は、是れ菩薩の道にして、是の道を行じて衆生を成就し、仏国土を浄むるなり。
『仏』は、こう答えられた、――
『菩薩』が、
『初発心より行じる!』、
『六波羅蜜、乃至十八不共法』、
是れが、
『菩薩』の、
『道』であり、
是の、
『道を行じて!』、
『衆生を成就し、仏国土を浄めるのである!』。
須菩提復問。云何行是法成就眾生。須菩提意。若是法性空眾生亦性空。云何可得成就。 須菩提の復た問わく、『云何が、是の法を行ずれば、衆生を成就する』、と。須菩提の異は、『若し是の法は性空にして、衆生も亦た性空なれば、云何が成就するを得べき』、となり。
『須菩提』は、復た問うた、――
何故、
是の、
『法を行じれば!』、
『衆生を成就することになるのですか?』、と。
『須菩提の意』は、こうである、――
若し、
是の、
『法が性空であり!』、
『衆生も性空ならば!』、
何うして、
『衆生』を、
『成就することができるのか?』、と。
佛答。菩薩以方便力故以布施法教化眾生不教令著布施以為真實。方便者。菩薩語眾生。汝曹善男子來布施莫著是布施。 仏の答えたまわく、『菩薩は、方便力を以っての故に布施の法を以って、衆生を教化するも、教えて、布施に著するを以って、真実と為さしめず。方便とは、菩薩の衆生に語らく、『汝曹(なんじら)、善男子、来たりて布施するも、是の布施に著する莫かれ』、と。
『仏』は、こう答えられた、――
『菩薩は、方便力を用いる!』が故に、
『布施の法を用いて!』、
『衆生』を、
『教化する!』が、
『布施に著させ!』て、
『布施こそが、真実である!』と、
『教えるのではない!』、と。
『方便』とは、
『菩薩は、衆生』に、こう語るからである、――
お前達、善男子よ!
『来て、布施せよ( Join us and donate )!』
是の、
『布施』に、
『著してはならない!』、と。
如經中說。眾生以布施生貴樂處。貴樂因緣故生我憍慢。我憍慢增長故破善法。破善法故墮三惡道。是故菩薩先教言莫著布施。但因是布施修持戒等善法。皆迴是法向涅槃。所以者何。是性空。諸法實相不可取相。 経中に説けるが如し、『衆生は布施を以って、貴楽の処に生ずれば、貴楽の因縁の故に我の憍慢を生じ、我の憍慢増長するが故に善法を破り、善法を破るが故に三悪道に堕す』、と。是の故に菩薩は、先に教えて、『布施に著する莫かれ』、と言うも、但だ是の布施に因りて、持戒等の善法を修すれば、皆是の法を迴らして、涅槃に向く。所以は何んとなれば、是の性空なる、諸法の実相は、相を取るべからざればなり。
『経』中には、こう説かれている、――
『衆生』が、
『布施を用いて!』、
『貴、楽の処』に、
『生じれば!』、
『貴、楽の因縁』の故に、
『我の憍慢( the erroneous conception that 'I am.' )』を、
『生じ!』、
『我の憍慢が増長する!』が故に、
『善法』を、
『破り!』、
『善法を破る!』が故に、
『三悪道』に、
『堕ちる!』、と。
是の故に、
『菩薩』は、
『先に教えて!』、こう言うのである、――
『布施』に、
『著してはならない!』、と。
但だ、
是の、
『布施に因って!』、
『持戒等の善法』を、
『修めれば!』、
皆、
是の、
『法を迴らして!』、
『涅槃』に、
『向けることになる!』。
何故ならば、
是の、
『性空という!』、
『諸法の実相』は、
『相を取ることができないからである!』。
  我憍慢(がきょうまん):梵語 abhimaana の訳、自負心( self conceit )の義、[特に自己に関する誤った]概念( conception (especially an erroneous one regarding one's self) )の意。又憍慢に作る。
如是菩薩方便力故。教化眾生令得須陀洹果乃至佛道。是菩薩自行布施亦教眾生布施。若不自施。或有人言。若施是好法何不自行。是故菩薩先自布施。 是の如く菩薩は方便力の故に、衆生を教化して、須陀洹果、乃至仏道を得しむ。是の菩薩は、自ら布施を行じて、亦た衆生に教えて布施せしむ。若し自ら施さざれば、或は有る人は言わん、『若し施は、是れ好法なれば、何んが自ら行ぜざる』、と。是の故に菩薩は、先に自ら布施す。
是のように、
『菩薩は、方便力を用いる!』が故に、
『衆生を教化して!』、
『須陀洹果、乃至仏道』を、
『得させるのである!』が、
是の、
『菩薩』は、
『自ら、布施を行じながら!』、
『衆生に教えて!』、
『布施させるのである!』。
若し、
『自ら、施さなければ!』、
或は、こう言う人が有るだろう、――
若し、
『施が、好い法ならば!』、
『何故、自ら行じないのか?』、と。
是の故に、
『菩薩』は、
『先に、自ら!』、
『布施するのである!』。
復次菩薩深愛善法布施是初門。是故行是布施。又菩薩深慈悲眾生。以慈悲心雖大而不能充滿眾生。是故先行布施令其心濡可以引導。 復た次ぎに、菩薩は、深く善法を愛し、布施は是れ初門なれば、是の故に是の布施を行ず。又菩薩は、深く衆生を慈悲し、慈悲心の大なりと雖も、衆生を充満せしむ能わざるを以って、是の故に先に布施を行じて、其の心を濡(うるお)して、以って引導すべからしむ。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
『深く、善法を愛する!』が、
『布施』は、
『善法の初門であり!』、
是の故に、
是の、
『初門の布施』を、
『行じるのである!』。
又、
『菩薩』は、
『深く、衆生を慈悲する!』が、
『慈悲の心は、大であっても!』、
『衆生』を、
『充満させられない!』ので、
是の故に、
『先に、布施を行じて!』、
『衆生の心を濡し( to soften the people's mind )!』て、
『引導しやすくするのである!』。
  (にゅ):うるおす。水に漬けて柔げる( soak and soften )。
布施因緣生於四姓。及作轉輪王以四攝法攝取眾生。漸漸以三乘法令得涅槃。教他布施讚歎布施法歡喜讚歎行布施者。是深愛布施。見同行故歡喜讚歎。 布施の因縁もて、四姓に生じて、及び転輪王と作り、四摂法を以って衆生を摂取し、漸漸に三乗の法を以って、涅槃を得しめ、他を教えて布施せしめ、布施の法を讃歎し、布施を行ずる者を歓喜、讃歎するは、是れ深く、布施を愛すれば、同行を見るが故に歓喜、讃歎するなり。
『布施の因縁』の故に、
『四姓に生じて!』、
『転輪王』と、
『作り!』、
『四摂法(布施、愛語、利行、同事)を用いて!』、
『衆生』を、
『摂取し( to grasp )!』、
『漸漸に( gradually )、三乗の法を用いて!』、
『涅槃』を、
『得させ!』、
『他人に教えて、布施させながら!』、
『布施の法』を、
『讃歎し!』、
『布施を行じる!』者を、
『歓喜し!』、
『讃歎する!』のは、
『深く、布施を愛するからであり!』、
『同行の者を見る!』が故に、
『歓喜し、讃歎するのである!』。
復次憐愍心於眾生。若見修福則為之歡喜。如慈父見子行善心則歡喜。是人四種行布施。生剎利等貴姓中。 復た次ぎに、憐愍心は、衆生に於いて、若し福を修するを見れば、則ち之が為めに歓喜す。慈父の、子の善を行ずるを見て、心則ち歓喜するが如し。是の人は、四種に布施を行じて、刹利等の貴姓中に生ず。
復た次ぎに、
『憐愍心』は、
『衆生』に於いて
若し、
『福を修める!』のを、
『見れば!』、
是の、
『衆生の為め!』に、
『歓喜するのである!』が、
譬えば、
『慈父』が、
『子の善を行う!』のを、
『見て!』、
則ち、
『心』が、
『歓喜するようなものである!』。
是の、
『人は、布施を四種に行じる!』が故に、
『刹利等の貴姓』中に、
『生じるのである!』。
  四種布施(ししゅのふせ):布施の浄不浄に係りて四種の分別あるを云う。即ち一には施者清浄にして、受者は不浄なり。二には施者不浄にして、受者は清浄なり。三には施者清浄にして、受者も亦た浄なり。四には施者不浄にして、受者も不浄なり。
  参考:『大智度論巻10』:『佛法中有四種布施。一施者清淨受者不淨。二施者不淨受者清淨。三施者清淨受者亦淨。四施者不淨受者不淨。』
以布施攝已漸漸教令持戒禪定等。乃至令得辟支佛道。或見眾生有大心者。有少許慈悲心。是人怖畏生死長遠故其心懈退。 布施を以って摂し已れば、漸漸に教えて、持戒、禅定等をせしめ、乃至辟支仏道を得しむるに、或は衆生を見るに、大心有る者にして、少許りの慈悲心有るも、是の人は生死の長遠なるを怖畏するが故に、其の心懈怠なり。
『布施を用いて、摂しながら!』、
漸漸に、
『持戒、禅定』等を、
『教え!』、
乃至、
『辟支仏道』を、
『得させる!』が、
或は、
『衆生を見れば!』、
『大心を有する者である!』が、
『少許りの慈悲心』を、
『有するだけなので!』、
是の、
『人』は、
『生死が長遠である!』のを、
『怖畏する!』が故に、
其の、
『心』は、
『懈怠している!』。
菩薩方便力故語是眾生。咄眾生阿耨多羅三藐三菩提易得。汝等何以為難。眾生所著處此中無有定實法能遮者難解者。汝等當發阿耨多羅三藐三菩提心。既自得度復當度脫眾生。 菩薩は、方便力の故に、是の衆生に語らく、『咄(とつ)、衆生の阿耨多羅三藐三菩提は得易きに、汝等は何を以ってか難しと為すや。衆生の所著の処は、此の中に定実の法にして能く遮る者も、難解の者も有ること無し。汝等は当に阿耨多羅三藐三菩提の心を発すべし。既に自ら度を得れば、復た当に衆生を度脱すべし』。
『菩薩は、方便力を用いる!』が故に、
是の、
『衆生』に、こう語ることになる、――
咄( tut )!
『衆生』の、
『阿耨多羅三藐三菩提』は、
『得易い!』のに、
お前達は、
何故、
『難しい!』と、
『為す( to consider )のか?』。
『衆生の著する!』、
『処には!』、
此の中に、
『遮ったり、難解であるような!』、
『定実の法』は、
『無いのである!』から、
お前達は、
『阿耨多羅三藐三菩提の心』を、
『発さねばならぬ!』。
既に、
『自らを、度すことができたならば!』、
復た( moreover )、
『衆生』を、
『度脱せねばならぬのだ!』、と。
  (とっ):叱声( tut, a disapproving sound )。
度脫眾生者。菩薩自乘大乘得度。以三乘隨眾生所應度而度之。既自利益復利益他人。利益他者。既自作佛而以三乘度脫眾生。 衆生を度脱すとは、菩薩は自ら大乗に乗りて、度を得て、三乗を以って、衆生の応に度すべき所に随いて、之を度し、既に自ら利益すれば、復た他人を利益す。他を利益すとは、既に自ら仏と作りて、三乗を以って、衆生を度脱す。
『衆生を度脱する!』とは、――
『菩薩』は、
『自ら、大乗に乗って( to take oneself on the Maha-yana )!』、
『度』を、
『得たならば!』、
『三乗』中の、
『衆生を度するに相応しい乗を用いて
by a yana appropreate to the people )!』
是の、
『衆生』を、
『度し!』、
既に、
『自らを、利益したならば!』、
復た、
『他人』を、
『利益することである!』。
『他を利益する!』とは、――
既に、
『自ら、仏と作ったならば!』、
『三乗を用いて!』、
『衆生』を、
『度脱することである!』。
若菩薩能如是行般若波羅蜜者。從初發心終不墮三惡道。常作轉輪聖王者。菩薩多生欲界。何以故。以無色界中無形故不可教化。色界中多味著禪定樂。無厭惡心故難化。亦不生欲天。所以者何。著妙五欲多故難化。在人中世世以四事攝眾生故作轉輪聖王。此中佛自說因緣。隨其所種得大果報等。 若し菩薩、能く是の如く般若波羅蜜を行ずれば、初発心より、終に三悪道に堕ちずして、常に転輪聖王と作るとは、菩薩は多く欲界に生ず。何を以っての故に、無色界中には無形なるを以っての故に教化すべからず、色界中には多く禅定の楽を味著して、厭悪心無きが故に化し難ければなり。亦た欲天にも生ぜず。何を以っての故に、妙五欲に著する多きが故に化し難ければ、人中に在りて、世世に四事を以って衆生を摂せんが故に転輪聖王と作る。此の中に仏は自ら因縁を説きたまわく、『其の種うる所に随いて、大果報を得』等、と。
若し、
『菩薩』が、
是のように、
『般若波羅蜜を行じることができれば!』、
『初発心より!』、
終に、
『三悪道』に、
『堕ちず!』、
常に、
『転輪聖王』と、
『作る!』とは、――
『菩薩』は、
多くが、
『欲界』に、
『生じるからである!』。
何故ならば、
『無色界』中には、
『無形である!』が故に、
『教化することができず!』、
『色界』中は、
『多く!』が、
『禅定の楽』に、
『味著し!』、
『厭悪心が無い!』が故に、
『教化すること!』が、
『難しいからである!』。
亦た、
『欲天』に、
『生じることもない!』。
何故ならば、
『著する!』所の、
『妙五欲』が、
『多い!』が故に、
是れを、
『教化すること!』が、
『難しいからである!』。
是の故に、
『人中に在って!』、
世世に、
『四事を用いて!』、
『衆生を摂取する!』ので、
是の故に、
『転輪聖王』と、
『作るのである!』が、
此の中に、
『仏』は、
自ら、
『因緣』を、こう説かれた、――
其の、
『種える所に随って!』、
『大果報を得る!』等、と。
如經中說布施相。復有菩薩行檀波羅蜜時。見眾生破戒作是言。汝曹以因緣不具足故破戒。我當給汝所須令無乏少。 経中に布施の相を説くが如く、復た有る菩薩は、檀波羅蜜を行ずる時、衆生の破戒するを見て、是の言を作さく、『汝曹は、因緣の具足せざるを以っての故に破戒せり。我れは当に汝に所須を給して、乏少無からしむべし』、と。
『経中に説かれた布施の相のように!』、――
復た、有る、
『菩薩は、般若波羅蜜を行じる!』時、
『衆生が破戒するのを、見て!』、こう言うのである、――
お前達は、
『持戒』の、
『因縁が具足しない!』が故に、
『破戒するのである!』。
わたしは、
『お前に、所須を給して( will give you necessities )!』、
『乏少する!』のを、
『無くさねばならぬ!』。
破戒人有二種。一者持戒因緣不具足故。如貧窮人飢寒急故作賊。二者持戒因緣雖具足以習惡心故。好行惡事貧窮破戒者。菩薩語之言。汝但持戒我當給汝所須。汝等住持戒中漸漸以三乘而得度脫。是名因布施生戒。 破戒の人に二種有り、一には持戒の因緣の具足せざるが故、貧窮人の飢寒の急なるが故に賊と作るが如し。二には持戒の因緣は具足すと雖も、悪心を習うを以っての故に、好んで悪事を行ず。貧窮の破戒の者に、菩薩は之に語りて言わく、『汝は、但だ持戒すれば、我れ当に汝に所須を給すべし。汝等、持戒中に住すれば、漸漸に三乗を以って度脱するを得。是れを布施に因りて、戒を生ずと名づく。
『破戒の人』には、
『二種有り!』、
一には、
『持戒する!』、
『因緣』が、
『具足しないからであり!』、
譬えば、
『貧窮人の、飢寒が急である!』が故に、
『賊と作るようなものであり!』、
二には、
『持戒の因縁が具足しながら!』、
『悪心を、習う!』が故に、
『好んで、悪事を行じる者である!』。
『菩薩』は、
『貧窮の破戒者に語って!』、こう言う、――
お前が、
『但だ、持戒するだけで!』、
わたしは、
『お前に!』、
『所須を給するだろう!』。
お前達は、
『持戒中に、住しながら!』、
漸漸に、
『三乗を用いて!』、
『度脱を得るのだ!』、と。
是れが、
『布施に因って!』、
『戒を生じるということである!』。
眾生以不如意事故瞋。若以求物不如意故瞋。人不稱意故瞋。菩薩住檀中隨其意而給足之。 衆生は、不如意の事を以っての故に瞋り、若しは物を求めて、如意ならざるを以っての故に瞋る。人の意に称(かな)わざるが故に瞋るに、菩薩は檀中に住して、其の意に随いて、之に給足す。
『衆生』は、
『不如意の事( things not being self-willed )である!』が故に、
『瞋り!』、
若しは、
『物を求めて、如意でない!』が故に、
『瞋る!』が、
『人』が、
『意に称わない( being not acceptable )!』が故に、
『瞋る!』ので、
『菩薩は、檀中に住して!』、
其の、
『意に随って( satisfying him )!』、
『給足するのである!』。
  不如意(ふにょい):梵語 niruddha の訳、遮られた/妨げられた/妨害/制限/抑制された( obstructed, hindered, checked, restrained, curbed )の義。
  如意(にょい):梵語 aniruddha の訳、遮られない/抑制されない/意のままの( unobstructed, ungovernable, self-willed )の義。
問曰。若貧乏者。給施令不瞋可爾。人不得稱意惱之令瞋復云何。 問うて曰く、若し貧乏ならば、給施して、瞋らざらしむること爾るべし。人は、意に称うを得ざれば、之を惱して、瞋らしむ。復た云何。
問い、
若し、
『貧乏な者であれば!』、
『給施しても!』、
『瞋らせることはないだろう!』が、
『人』は、
『意に称う!』者を、
『得られなければ!』
之を、
『惱して!』、
『瞋らせることになる!』。
復た、
『何うするのか?』。
答曰。以如意珠施之則使人皆稱意。珠之威德故人無瞋者。如行者入慈三昧故人無瞋者。是故說少。何因緣故瞋。我當令汝所少具足。 答えて曰く、如意珠を以って、之に施せば、則ち人をして皆意に称(かな)わしめ、珠の威徳の故に人の瞋る者無きは、行者は慈三昧に入るが故に、人の瞋る者無きが如し。是の故に説かく、『何なる因緣を少(か)くが故に瞋るや。我れ当に汝が少く所を具足せしむべし』、と。
答え、
『如意珠を用いて!』、
是の、
『人』に、
『施せば!』、
『人に!』、
『皆( any thing )!』、
『意に称うようにさせる!』ので、
『珠の威徳』の故に、
『瞋る人』を、
『無くすることになる!』が、
例えば、
『行者も、慈三昧に入る!』が故に、
『瞋る人』が、
『無くなるのであり!』、
是の故に、こう説くのである、――
何のような、
『因緣を少く( of what lacking makes you so )!』が故に、
『瞋る( angry )のか?』。
わたしが、
『お前の少く!』所を、
『具足させよう!』、と。
復次一切法性皆空無所有。汝所瞋因緣亦皆虛誑無定。汝云何以虛誑事故瞋罵加害乃至奪命。起此重罪業故墮三惡道受無量苦。汝莫以虛誑無實事故而受大罪。 復た次ぎに、一切の法性は、皆空にして、無所有なれば、汝が瞋る所の因緣も亦た皆虚誑にして定たる無し。汝は、云何が虚誑の事を以っての故に瞋罵し、加害して乃至命を奪わんとする。此の重罪の業を起すが故に三悪道に堕して、無量の苦を受くるなり。汝は、虚誑、無実の事を以っての故に、大罪を受くる莫かれ。
復た次ぎに、
――
『一切法の性』は、
『皆、空であり!』、
『無所有である!』。
『お前の瞋る所の因緣』も、
『皆、虚誑であり!』、
『無定である( no fact existing )!』。
お前は、
何故、
『虚誑の事を用いる!』が故に、
『瞋罵、加害して、乃至命を奪うのか?』。
此の、
『重罪の業を起す!』が故に、
『三悪道に堕ちて、無量の苦を受けるのに!』。
お前は、
『虚誑、無実の事』の故に、
『大罪を受けてはならない!』。
  無定(むじょう):梵語 asad-bhuuta の訳、事実/事物が存在しない状態( not exsisting matter or fact )の義。
如山中有一佛圖。彼中有一別房。房中有鬼來恐惱道人故。諸道人皆捨房而去。有一客僧來。維那處分令住此空房而語之言。此房中有鬼神喜惱人。能住中者住。 山中に有る一仏国の如きは、彼の中に一別房有りて、房中に有る鬼来たりて、道人を恐悩するが故に、諸道人は皆房を捨てて去る。有る一客僧来たるに、維那処分して此の空房に住せしめ、之に語りて言わく、『此の房中に鬼神有りて、人を惱すを喜ぶ。能く中に住すれば、住せよ』、と。
例えば、こうである、――
『山中に、一仏国が有り!』、
彼の、
『仏国』中に、
『一別房が有った!』。
『房』中には、
有る、
『鬼が来て!』、
『道人を恐悩する( to make the monk feel fear )!』が故に、
諸の、
『道人』は、
『皆房を捨てて、去った!』。
有る、
『一客僧が、来る!』と、
『維那( a monasty controller )』は、
『此の房舎に住するよう!』、
『処分する( to let him )!』と、
『語って!』、こう言った、――
此の、
『房中には、鬼神が有り!』、
『喜んで!』、
『人を惱す!』が、
此の中に、
『住することができれば!』、
『住しなさい!』、と。
  維那(いな):梵語 karma-daana の訳、布施の管理所( a office of donation )の義、僧院の差配者( monasty controller, duty-distributor )の意。
  処分(しょぶん):待遇( treatment )。
客僧自以持戒力多聞故。言小鬼何所能我能伏之。即入房住。暮更有一僧來求住處。維那亦令在此房住。亦語有鬼惱人。其人亦言。小鬼何所能我當伏之。 客僧は、自ら持戒力、多聞を以っての故に、『小鬼の、何ぞ能くする所ぞ。我れ能く、之を伏せん』、と言い、即ち房に入りて住す。暮れに更に有る一僧来たりて、住処を求む。維那は亦た此の房に在りて、住せしめ、亦た語らく、『鬼有りて、人を惱す 」、と。其の人の亦た言わく、『小鬼の、何ぞ能くする所ぞ。我れ当に之を伏すべし』、と。
『客僧』は、
『自らの持戒力と、多聞である!』が故に、こう言った、――
『小鬼などに、何ができるものか?』。
わたしには、
『之を、伏すことができるだろう!』、と。
即ち、
『房に入って!』、
『住した!』。
暮れに( in the evening )、
更に、有る、
『一僧が来て!』、
『住処』を、
『求めた!』。
『維那』は、
亦た、
『此の房』に、
『住させる!』と、
亦た、こう語った、――
有る、
『鬼』が、
『人を惱すだろう!』、と。
其の、
『人』は、亦たこう言った、――
『小鬼などに、何ができるものか?』。
わたしが、
『之を、伏してやろう!』、と。
先入者閉戶端坐待鬼。後來者夜闇打戶求入。先入者謂為是鬼不為開戶。後來者極力打戶。在內道人以力拒之。外者得勝排戶得入。內者打之外者亦極力熟打。至明旦相見乃是故舊同學各相愧謝。眾人雲集笑而怪之。 先入の者は戸を閉めて、端座して鬼を待つに、後来の者は夜闇に戸を打ちて、入るを求む。先入の者の謂わく、『是れ鬼と為す、為めに戸を開けず』、と。後来の者は力を極めて戸を打ち、内に在る道人は力を以って、之を拒み、外の者は勝を得て、戸を排(ひら)いて入るを得、内の者は之を打ち、外の者も亦た力を極めて、熟打す。明旦に至るに相見れば、乃(すなわ)ち是れ故旧の同学なれば、各相愧じて謝す。衆人雲集して笑い、之を怪しむ。
『先入の者』が、
『戸を閉め!』、
『端座(正座)して!』、
『鬼を待っている!』と、
『後来の者』が、
『夜闇に( in the night dark )!』、
『戸を打って!』、
『入るを求めた( to want to enter )!』。
『先入の者』は、こう謂った、――
『是れは、鬼である!』、
『鬼の為めに!』、
『戸を開けるものか!』、と。
『後来の者』が、
『力を極めて!』、
『戸を打つ!』と、
『内の道人』も、
『力を用いて!』、
『外の者を拒んだ!』。
『外の者が、勝を得て!』、
『戸を排いて!』、
『入ってくる!』と、
『内の者』は、
『入ってきた者』を、
『打ち!』、
『外の者』も、
『力を極めて!』、
『熟打した( to hit very hard )!』。
『明旦に至り( at the next morning )!』、
『相見る( to see each other )!』と、
乃ち( indeed )、
『故旧の同学( old school friend )であった!』。
各、
『相愧じて!』、
『謝る!』と、
『衆人が雲集して( every body come together )!』、
『笑いながら!』、
『怪しんだ( to wonder )!』。
  故旧(こきゅう):旧友( old friend )。
眾生亦如是。五眾無我無人空。取相致鬥諍。若支解在地但有骨肉無人無我。 衆生も亦た是の如く、五衆は無我、無人の空なるに、相を取りて、闘諍を致すも、若し支解して地に在れば、但だ骨肉有るも、人無く、我無し。
『衆生』も、
是のように、
『五衆』には、
『我も、人も無く!』、
『空である!』のに、
『相を取って!』、
『闘諍』を、
『致す( to incur )のである!』が、
若し、
『支解して、地に在れば( being dismembered on the ground )!』、
但だ、
『骨、肉が有るだけで!』、
『人も、我も無いのである!』。
  支解(しげ):解体する/四肢を切断する( to cut off into a body, a head and limbs, dismemberment )。
是故菩薩語眾生言。汝莫於根本空中鬥諍作罪。鬥諍故人身尚不可得。何況值佛。當知人身難得佛世難值好時易過。一墮諸難永不可治。 是の故に菩薩の衆生に語りて言わく、『汝は、根本の空中に於いて闘諍し、罪を作る莫かれ。闘諍するが故に、人身すら尚お得べからず。何に況んや仏に値(あ)うをや。当に知るべし、人身は得難く、仏世は値い難く、好時は過ぎやすくして、一たび諸難に堕すれば、永く治すべからず。
是の故に、
『菩薩』は、
『衆生に語って!』、こう言う、――
お前は、
『根本()の空中に、闘諍して!』、
『罪』を、
『作ってはならない!』。
『闘諍する!』が故に、
尚お、
『人身すら!』、
『得ることはないであろう!』、
況して、
『仏』に、
『値えるはずがない!』。
当然、こう知らねばならぬ、――
『人身は得難く!』、
『仏世には値い難く!』、
『好時』は、
『過ぎ易い!』のに、
『一たび、諸の難処に堕ちれば!』、
『永く!』、
『治する( to handle yourself )ことはできない!』。
   (じ):<動詞>[本義]治水( prevent flood by water control )。管理/統治( administer, govern )、処理/扱う( handle, treat )、経営( manage )、治療( cure )、懲罰( punish )、審問/治験( try )、修築( build, construct )、研究( study, reach )。<名詞>政治( political affairs )。<形容詞>社会の安定[乱に対す]( stable )。
若墮地獄燒炙屠割何可教化。若墮畜生共相殘害亦不可化。若墮餓鬼飢渴熱惱亦不可化。若生長壽天千萬佛過著禪定味故皆不覺知。如安息國。諸邊地生者。皆是人身愚不可教化。雖生中國或六情不具。或四支不完。或盲聾瘖啞。或不識義理。或時六情具足。諸根通利而深著邪見言無罪福不可教化。 若し地獄に墮つれば、焼炙、屠割あり、何ぞ教化すべきや。若し畜生に墮つれば、共に相残害す、亦た化すべからず。若し餓鬼に墮つれば、飢渇に熱悩す、亦た化すべからず。若し長寿天に生ずれば、千万の仏過ぎたもうも、禅定の味に著するが故に、皆覚知せず。安息国の如き、諸の辺地に生ずれば、皆是れ人身なるも、愚にして教化すべからず。中国に生ずと雖も、或は六情具せず、或は四支完からず、或は盲聾瘖唖、或は義理を識らず、或は時に六情具足して、諸根通利するも、深く邪見に著して、罪福無しと言えば、教化すべからず。
若し
『地獄に堕ちれば!』、
『焼炙され、屠割される!』ので、
『教化することができない!』。
若し、
『畜生に堕ちれば!』、
『相残害する( to kill each other )!』ので、
『化すことができず!』、
若し、
『餓鬼に堕ちれば!』、
『飢渇に熱悩する( be envious with hunger and thurst of having )!』ので、
『化すことができず!』、
若し、
『長寿天に生じれば!』、
『千万の仏が過ぎても、禅定の味に著する!』が故に、
『皆、覚知することがなく!』、
若し、
『安息国のような、諸の辺地に生じれば!』、
『皆人身であっても、愚である!』が故に、
『教化されず!』、
『中国(摩伽陀国乃至舎婆提国)に生じたとしても!』、
或は、
『六情が不具である!』が故に、
『教化されず!』、
或は、
『四支が完全でない!』が故に、
『教化されず!』、
或は、
『盲聾瘖唖である!』が故に、
『教化されず!』、
或は、
『義理を識らない!』が故に、
『教化されず!』、
或は、時に、
『六情が具足して、諸根が通利であっても!』、
『邪見に深く著して!』、
『罪福など無い!』と、
『言う!』が故に、
是れを、
『教化することはできない!』。
  熱悩(ねつのう):羨望に悩む/羨む( be angered by envy, be envious of somebody )。
  通利(つうり):障礙が無い( no obstacles, not obstracted )。
是故為說好時易過。墮諸難中不可得度。餘波羅蜜如經中廣說故不復解之。 是の故に為めに説かく、『好時は過ぎ易く、諸難中に堕すれば、度を得べからず』、と。餘の波羅蜜は、経中に広説するが如きなるが故に、復た之を解かず。
是の故に、
是の、
『人の為めに!』、こう説くのであるが、――
『好時は、過ぎ易く!』、
『諸難中に堕ちれば!』、
『度を得ることができない!』、と。
『餘の波羅蜜』は、
『経中に、広説された通りである!』が故に、
復た( again )、
『解くことはない!』。
問曰。住檀波羅蜜行五波羅蜜訖。何以復更說六波羅蜜。 問うて曰く、檀波羅蜜に住して、五波羅蜜を行じ訖(おわ)るに、何を以ってか、復た更に六波羅蜜を説く。
問い、
『檀波羅蜜に住して!』、
『五波羅蜜』を、
『行じ訖った( had completely done )!』のに、
何故、
『復た更に( so many times )!』、
『六波羅蜜を説くのですか?』。
答曰。上一度中次第具足五。今則一時總說。復次先但說六波羅蜜。今通說三十七品及諸道果。 答えて曰く、上は、一度中に次第に五を具足し、今は則ち一時に総説す。復た次ぎに、先には但だ六波羅蜜を説くも、今は通じて三十七品、及び諸道果を説く。
答え、
上は、
『一度(一波羅蜜)』中に、
『次第に( gradually )!』、
『五度を具足する!』が、
今は、
『一時』に、
『五度』を、
『総説する!』。
復た次ぎに、
先には、
但だ、
『六波羅蜜』を、
『説いただけである!』が、
今は、
通じて、
『三十七品や、諸の道果』を、
『説く!』。
問曰。三十七品自從心出。云何是因緣可與。 問うて曰く、三十七品は、自ら心より出づれば、云何が、是の因縁を与うべき。
問い、
『三十七品』は、
『自ら!』の、
『心より!』、
『出るものである!』のに、
『檀波羅蜜を行じれば!』、
何故、
是の、
『三十七品等の因縁』を、
『与えることになるのか?』。
答曰。菩薩供給坐禪者衣服飲食醫藥法杖禪鞠禪鎮。令得好師教照。令得好弟子受化。與骨人令觀。與禪經令人為說禪法。如是等三十七助道法因緣。又令人為說摩訶衍法。汝等所須衣服飲食盡來取之。便是汝物莫自疑難。汝等得是物已。自行六波羅蜜亦教化他人令行六波羅蜜。是布施性皆空。汝等莫著是施及以果報。 答えて曰く、菩薩、坐禅者に衣服、飲食、医薬、法杖、禅鞠、禅鎮を供給して、好師の教照を得しめ、好弟子の受化を得しめ、骨人を与えて観しめ、禅経を与えて人をして、為めに禅法を説かしむ。是れ等の如きは、三十七助道法の因緣なり。又人をして、摩訶衍の法を説かしめんが為めに、『汝等、所須の衣服、飲食を尽く来たりて、之を取れ。便ち、是れ汝が物なれば、自ら難を疑うこと莫かれ。汝等は、是の物を得已りて、自ら六波羅蜜を行じ、亦た他人を教化して、六波羅蜜を行ぜしめよ。是の布施の性は、皆空なれば、汝等、是の施及以(および)果報に著する莫かれ』、と。
答え、
『菩薩』が、
『坐禅者』に、
『衣服、飲食、医薬、法杖、禅鞠、禅鎮を供給したり!』、
『好師の教照を得させたり!』、
『好弟子の受化を得させたり!』、
『骨人を与えて観させたり!』、
『禅経を与えて、人に禅法を説かせたりすれば!』、
是れ等は、
『三十七助道法』の、
『因緣である!』。
又、
『人に、摩訶衍の法を説かせる為めに!』、こう言う、――
お前達は、来て、
『所須の衣服、飲食』を、
『尽く取れ!』。
便ち( simply )、
是れは、
『お前の物である!』。
自ら、
『難じられる!』のを、
『疑うな!』。
お前達は、
是の、
『物』を、
『得たならば!』、
自ら、
『六波羅蜜を行じながら』、
亦た、
『他人を教化して!』、
『六波羅蜜を行じさせよ!』。
是の、
『布施の性は、皆空である!』から、
お前達は、
是の、
『施や、果報に!』、
『著してはならない!』、と。
  禅経(ぜんきょう):『坐禅三昧経』。
  参考:『釈氏要覧巻3』:『禪鎮 木版為之。形量似笏。中作孔。施細串於耳下。頭戴去額四指。坐禪人。若昏睡頭傾則墮以自警。
骨人 智度論云。更與骨人。令坐禪者觀之。即今盡作枯骨幀子。是也。
禪杖 以竹葦為之。用物包一頭。令下座執行。坐禪昏睡。以軟頭點之。
禪毱 毛毬也。有睡者。擲之令覺。』
眾生得是性空。漸漸得阿耨多羅三藐三菩提入無餘涅槃。如布施為首生五波羅蜜。餘波羅蜜亦如是
大智度論卷第九十一
衆生は、是の性空を得て、漸漸に阿耨多羅三藐三菩提を得、無余涅槃に入る。布施を首として、五波羅蜜を生ずるが如く、餘の波羅蜜も亦た是の如し。
大智度論巻第九十一。
『衆生』は、
是の、
『性空を得て!』、
漸漸に、
『阿耨多羅三藐三菩提を得!』、
『無余涅槃』に、
『入るのである!』が、
『布施を首として!』、
『五波羅蜜』を、
『生じるように!』、
亦た、
『餘の波羅蜜』も、
『是の通りである!』。

大智度論巻第九十一


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