巻第一百(下)
大智度論釋囑累品第九十 
1.【經】阿難に摩訶般若波羅蜜を嘱累する
2.【論】阿難に摩訶般若波羅蜜を嘱累する
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大智度論釋囑累品第九十 
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


【經】阿難に摩訶般若波羅蜜を嘱累する

【經】爾時佛告阿難。於汝意云何。佛是汝大師不。汝是佛弟子不。 爾の時、仏の阿難に告げたまわく、『汝が意に於いて云何。仏は、是れ汝が大師なりや不や。汝は是れ仏弟子なりや不や』、と。
爾の時、
『仏』は、
『阿難』に、こう告げられた、――
お前の意には、何うなのか?――
『仏は、お前の大師なのか?』、
『お前は、仏の弟子なのか?』、と。
  参考:『大般若経巻400』:『爾時佛告阿難陀言。汝於如來有愛敬不。阿難陀曰。如是世尊。如是善逝。我於佛所實有愛敬。如來自知。佛告慶喜。如是如是。汝於我所實有愛敬。汝從昔來常以慈善身語意業。恭敬供養隨侍於我未曾違失。慶喜。汝應如我現在以實愛敬供養我身。我涅槃後汝亦當用如是愛敬供養尊重甚深般若波羅蜜多。第二第三佛以如是甚深般若波羅蜜多教誡慶喜。令深愛敬供養尊重過如來身。佛告慶喜。我以如是甚深般若波羅蜜多。對今大眾付囑於汝。汝應受持。我涅槃後乃至一字勿令忘失。如是般若波羅蜜多。隨爾所時流布於世。當知即有諸佛世尊現住世間為眾說法。慶喜當知。若有於此甚深般若波羅蜜多恭敬聽聞受持讀誦。究竟通利如說修行。如理思惟甚深義趣。書寫流布為他解說。復以種種上妙花鬘塗散等香衣服瓔珞寶幢幡蓋伎樂燈明。及餘種種珍奇雜物。供養恭敬尊重讚歎。當知是人常見諸佛恒聞正法修諸梵行。時薄伽梵說是經已。無量菩薩摩訶薩眾。慈氏菩薩而為上首。大迦葉波及舍利子阿難陀等諸大聲聞。及餘天龍人非人等一切大眾。聞佛所說。皆大歡喜。信受奉行』
阿難言。世尊。佛是我大師。脩伽陀是我大師。我是佛弟子。 阿難の言わく、『世尊、仏は是れ我が大師にして、修伽陀は是れ我が大師なり。我れは是れ仏弟子なり』、と。
『阿難』は、こう言った、――
世尊!
『仏は、わたしの大師であり!』、
『修伽陀』は、
『わたしの大師であり!』、
わたしは、
『仏』の、
『弟子なのです!』。
  修伽陀(しゅかだ):梵語 sugata の訳、好去/好説( going well, preaching well )の義。『大智度論巻2下注:修伽陀』参照。
佛言。如是如是。我是汝大師。汝是我弟子。若如弟子所應作者汝已作竟。 仏の言わく、『是の如し、是の如し。我れは是れ汝が大師にして、汝は是れ我が弟子なり。若(なんじ)が弟子の応に作すべき所の如きは、汝已に作し竟れり。
『仏』は、こう言われた、――
その通りだ、その通りだ!
『わたしは、お前の大師であり!』、
『お前は!』、
『わたしの弟子である!』。
お前の、
『弟子ならば、作さねばならぬ!』所は、
お前は、
『已に!』、
『作し竟えたのである!』。
阿難。汝用身口意慈業供養供給。我亦常如我意無有違失。 阿難、汝は身口意の慈業を用いて、我れを供養供給し、亦た常に我が意の如きに、違失有ること無し。
阿難!
お前は、
『身、口、意の慈業を用いて!』、
『わたしを!』、
『供養、供給した!』が、
常に、
『わたしの意』に、
『違失すること!』は、
『無かった!』。
阿難。我身現在汝愛敬供養供給心常清淨。我滅度後是一切愛敬供養供給事當愛敬供養般若波羅蜜。乃至第二第三以般若波羅蜜囑累汝。 阿難、我が身現在するに、汝は愛敬、供養、供給して、心常に清浄なるに、我が滅度の後には、是の一切の愛敬、供養、供給の事は、当に般若波羅蜜、乃至第二、第三を愛敬、供養すべく、般若波羅蜜を以って、汝に嘱累せん。
阿難!
わたしが、、
『身を、世に現す!』と、
お前は、
『愛敬、供養、供給して!』、
常に、
『心』が、
『清浄であった!』が、
わたしの、
『身が、滅度した!』後には、
是の、
『一切の愛敬、供養、供給の事』は、
『般若波羅蜜』を、
『愛敬、供養しなければならず!』、
乃至、
『第二の事や、第三の事まで!』、
『般若波羅蜜の為め!』に、
『行わねばならない!』と、
是のように、
『般若波羅蜜』を、
『お前に嘱累するのである!』。
阿難。汝莫忘莫失莫作最後斷種人。 阿難、汝は忘るる莫かれ。失う莫かれ、最後の断種の人と作る莫かれ。
阿難!
お前は、
『般若波羅蜜を忘れて、失ってはならぬ!』、
お前は、
『般若波羅蜜の種を断じる!』、
『最後の人』と、
『作ってはならぬ!』。
  断種人(だんしゅにん):後継者無き者( one who is heirless )、他の種を断ずる者( one who make someone infertile )。
阿難。隨爾所時般若波羅蜜在世。當知爾所時。有佛在世說法。 阿難、爾所の時に随いて、般若波羅蜜は世に在るは、当に知るべし、当に爾所の時に、有る仏世に在りて、法を説けばなり。
阿難!
『爾所の時に随って( Ever so many times, )!』、
『般若波羅蜜』が、
『世に!』、
『在る!』のは、
こう知らねばならぬ、――
『爾所の時( so many times )に!』、
『仏が有り( there is a Buddha )!』、
『世に在って( being in the world )!』、
『法を説くからである!』、と。
阿難。若有書般若波羅蜜受持讀誦正憶念為人廣說恭敬尊重讚歎華香幡蓋寶衣燈燭種種供養。當知是人不離見佛不離聞法常親近佛。 阿難、若し般若波羅蜜を書いて、受持、読誦、正憶念しえ、人の為めに広説し、恭敬、尊重、讃歎し、華香、幡蓋、宝衣、灯燭もて種種に供養する有れば、当に知るべしに、是の人は仏を見るを離れず、法を聞くを離れずして、常に仏に親近す。
阿難!
若し、
有る、
『人』が、
『般若波羅蜜を書いて!』、
『受持、読誦、正憶念し!』、
『人の為め!』に、
『広く説きながら!』、
『経巻を恭敬、尊重、讃歎し!』、
『華香、幡蓋、宝衣、灯燭を用いて!』、
『種種に供養すれば!』、
こう知ることになる、――
是の、
『人』は、
『仏』を、
『見ること!』を、
『離れることなく!』、
『法』を、
『聞くこと!』を、
『離れることなく!』、
常に、
『仏』に、
『親近するのである!』、と。
佛說般若波羅蜜已。彌勒等諸菩薩摩訶薩。慧命須菩提舍利弗大目犍連摩訶迦葉富樓那彌多隸耶尼子摩訶俱絺羅摩訶迦旃延阿難等。并一切大眾及一切世間諸天人犍闥婆阿修羅等。聞佛所說皆大歡喜 仏の、般若波羅蜜を説き已えたまえるに、弥勒等の諸菩薩摩訶薩、慧命須菩提、舎利弗、大目揵連、摩訶迦葉、富楼那弥多隷耶尼子、摩訶倶絺羅、摩訶迦旃延、阿難等、并びに一切の大衆、及び一切の世間の諸の天、人、揵闥婆、阿修羅等は、仏の所説を聞いて、皆大歓喜す
『仏が、般若波羅蜜を説き已えられる!』と、
『弥勒等の諸の菩薩摩訶薩や!』、
『慧命須菩提、舎利弗、大目揵連、摩訶迦葉、富楼那弥多隷耶尼子や!』、
『摩訶倶絺羅、摩訶迦旃延、阿難等や!』、
『一切の大衆と、一切の世間の諸の天、人、揵闥婆、阿修羅等は!』、
『仏の、所説を聞き!』、
『皆、大歓喜したのである!』。



【論】阿難に摩訶般若波羅蜜を嘱累する

【論】問曰佛已斷法愛。乃至一切種智涅槃不著不取相。今何以種種因緣囑累是法似如愛著。 問うて曰く、仏は已に法愛を断じたまえば、乃至一切種智、涅槃すら著したまわず、相を取りたまわざるに、今は何んが、種種の因縁を以って、是の法を嘱累したまい、愛著の如きに似たりたまえる。
問い、
『仏』は、
已に、
『法愛を断じて!』、
乃至、
『一切種智や、涅槃にすら著さず!』、
『相を取られない!』のに、
今は、
何故、
『種種の因縁を用いて!』、
是の、
『法』を、
『嘱累され!』、
例えば、
『愛著されているように!』、
『似られたのですか?』。
  :此の論には一に語法/文脈の乱れ、二に未だ曽て有らざる表現と初出の訳語、三に理解の未熟、四に論理の破綻等の不備多々あり。恐らくは本より龍樹此の論を造らず、羅什亦た訳さざるを、何者か之を擬して造れるに非ずや。形式的、官僚的、自高憍慢の釈教僧叡を想定すれば、当らざるも遠からずというところか。是の一論は、大智度論全体の概要とも取れるが故に、後学の誤解を除かんが為め、敢て管見を顧みず目に奇妙に移る部分部分に於いて敢て註を記す。読者は自ら知見を以って各宜しく判断すべし。
答曰。諸佛大慈悲心從初發意已來。乃至到涅槃門常不捨離。於娑羅雙樹間。以金鋼三昧為眾生碎身如麻米。何況經法多所饒益而不囑累。 答えて曰く、諸仏の大慈悲心は、初発意より已来、乃至涅槃の門に到るまで、常に捨離せず、娑羅双樹の間に於いて、金剛三昧を以って、衆生の為めに身を麻米の如く砕きたもう。何に況んや経法の多く饒益する所を嘱累せざるをや。
答え、
『諸仏の大慈悲心』は、
『初発意より、乃至涅槃の門に到るまで!』、
常に、
『衆生』を、
『捨離せず!』、
『沙羅双樹の間に到って、金剛三昧を用い!』、
『麻か、米のように!』、
『身を、砕かれたのである!』。
況して、
『経法』には、
『饒益する所が多い!』のに、
『嘱累されないはずがない!』。
  :やや強引にして奇異な譬喻。
又阿難是未離欲人。未盡知般若波羅蜜力勢果報多所利益。是以慇懃囑累汝。當好受持無令忘失。是故佛雖於一切法無憎愛常寂滅相。而囑累是般若。 又阿難は、是れ未離欲の人にして、未だ尽くは般若波羅蜜の力勢、果報の利益する所の多きを知らざれば、是を以って、慇懃に嘱累したまわく、『汝、当に好く受持して、忘失せしむること無かるべし』、と。是の故に仏は、一切法に憎愛無く、常に寂滅相なりと雖も、是の般若を嘱累したまえり。
又、
『阿難は、未離欲の人であり!』、
未だ、
『般若波羅蜜の力勢、果報』には、
『利益する所が多い!』のを、
『尽く、知るわけではない!』ので、
是の故に、
『慇懃に( again and again; unsatisfiedly )!』、
『嘱累して!』、こう言われた、――
お前は、
『好く、受持して!』、
『忘失されること!』を、
『無くさねばならない!』、と。
是の故に、
『仏』は、
『一切法中に、憎愛が無く!』、
『常に!』、
『寂滅相でありながら!』、
是の、
『般若』を、
『嘱累されたのである!』。
  :強引にして理に合わざる推論。
問曰。阿難是聲聞人。何以以般若波羅蜜囑累。而不囑累彌勒等大菩薩。 問うて曰く、阿難は、是れ声聞人なるに、何を以ってか般若を以って嘱累したまい、弥勒等の大菩薩に嘱累したまわざるや。
問い、
『阿難は、声聞人である!』が、
何故、
『般若波羅蜜』を、
『嘱累され!』、
而も、
『弥勒等の大菩薩』には、
『嘱累されなかったのですか?』。
答曰。有人言。阿難常侍佛左右供給所須。得聞持陀羅尼。一聞常不失。既是佛之從弟。又多知多識名聞廣普四眾所依。是能隨佛轉法輪第三師。 答えて曰く、有る人の言わく、『阿難は常に仏に侍して、左右に所須を供給し、聞持陀羅尼を得て、一たび聞けば常に失わず、既に是れ仏の従弟にして、又多知、多識の名聞は広く普く、四衆の依る所なれば、是れ能く仏に随いて法輪を転ずる第三の師なり。
答え、
有る人は、こう言っている、――
『阿難』は、
『常に仏に侍って、左右に所須を供給しており!』、
『聞持陀羅尼を得て!』、
『一たび、聞けば!』、
『常に、忘失することなく!』、
『既に仏の従弟でありながら!』、
『多知他識の名聞が、広く普く聞こえて!』、
『四衆』に、
『依頼されていた!』し、
『仏に随って!』、
『法輪を転じることができ!』、
『第三の師であった!』。
佛知舍利弗壽短早滅度故不囑累。又阿難是六神通三明共解脫。五百阿羅漢師。能如是多所利益。是故囑累。 仏は、舎利弗の寿の短く、疾く滅度するを知りたもうが故に、嘱累したまわず。又阿難は、是れ六神通、三明の共解脱にして、五百の阿羅漢の師なれば、能く是の如く利益する所多く、是の故に嘱累したまえり。
『仏』は、
『舎利弗の寿が短く!』、
『早期に滅度することを、知っていられた!』ので、
『嘱累されなかった!』が、
又、
『阿難は六神通、三明、共解脱として!』、
『五百の阿羅漢』の、
『師であり!』、
是のように、
『利益する!』所が、
『多い!』ので、
是の故に、
『般若波羅蜜』を、
『嘱累されたのである!』。
彌勒等諸大菩薩佛滅度後。各各分散至隨所應度眾生國土。彌勒還兜率天上。毘摩羅鞊文殊師利亦至所應度眾生處。 弥勒等の諸大菩薩は、仏の滅度の後、各各分散して、応に度すべき所に随いて衆生の国土に至れば、弥勒は兜率天上に還り、毘摩羅鞊、文殊師利も亦た応に度すべき所の衆生の処に至れり。
『弥勒等の諸の大菩薩』は、
『仏の滅度の後に、各各分散して!』、
『度すべき衆生に随って!』、
『国土』に、
『至る!』ので、
『弥勒』は、
『兜率天上』に、
『還り!』、
『毘摩羅鞊や、文殊師利』も、
『度すべき衆生の処』に、
『至ったのである!』。
佛又以是諸菩薩深知般若波羅蜜力不須苦囑累。阿難是聲聞人隨小乘法。是故佛慇懃囑累。 仏は又、是の諸菩薩の深く般若波羅蜜の力を知るを以って、苦(ねんごろ)に嘱累するを須(もち)いたまわず。阿難は、是れ声聞人にして、小乗の法に随えば、是の故に仏は慇懃に嘱累したまえり。
『仏』は、
又、
是の、
『諸の菩薩は、深く般若波羅蜜の力を知っている!』が故に、
『苦に( energetically )!』、
『嘱累する必要がなく!』、
『阿難は声聞人であり、小乗法に随っていた!』ので、
是の故に、
『仏』は、
『慇懃に嘱累されたのである!』。
  :苦をして懃(ねんごろ)/精力的にと読ませるのは、大智度論中他にも有ったかどうか。極めて珍しい。
  :極めて奇妙な論理。
問曰。若爾者法華經諸餘方等經。何以囑累喜王諸菩薩等。 問うて曰く、若し爾らば法華経、諸余の方等経をば、何を以ってか、喜王と、諸の菩薩等に嘱累したまえる。
問い、
若し、爾うならば、
『法華経や、諸余の方等経』を、
何故、
『喜王等の諸の菩薩』に、
『嘱累されたのですか?』。
答曰。有人言。是時佛說甚深難信之法。聲聞人不在。又如佛說不可思議解脫經。五百阿羅漢雖在佛邊而不聞。或時得聞而不能用。是故囑累諸菩薩。 答えて曰く、有る人の言わく、『是の時、仏の甚深難信の法を説きたまえるに、声聞人の在らざればなり。又、仏は不可思議解脱経を説きたまえるに、五百の阿羅漢は仏の辺に在りと雖も、聞かざるが如し。或は時に、聞くことを得るも、用うること能わざれば、是の故に諸の菩薩に嘱累したまえり』、と。
答え、
有る人は、こう言っている、――
是の時、
『仏は、甚深難信の法を説かれた!』が、
『声聞人』は、
『不在だったのである!』、と。
又は、
『仏』は、
『不可思議解脱経』を、
『説かれた!』が、
『五百の阿羅漢』は、
『仏の辺に在りながら!』、
『聞かなかったようなものである!』。
或は時に、
『聞くことはできた!』が、
『用いることができない!』ので、
是の故に、
『諸の菩薩』に、
『嘱累されたのである!』、と。
問曰。更有何法甚深勝般若者。而以般若囑累阿難。而餘經囑累菩薩。 問うて曰く、更に何法か、甚深なること般若に勝る者有れば、般若を以って、阿難に嘱累し、餘の経をば菩薩に嘱累したもうや。
問い、
更に、
何かの、
『法が有り!』、
『般若に勝って!』、
『甚深である!』が故に、
『般若』を、
『阿難』に、
『嘱累し!』、
『餘の経』を、
『菩薩』に、
『嘱累されたのですか?』。
答曰。般若波羅蜜非祕密法。而法華等諸經說阿羅漢受決作佛。大菩薩能受持用。譬如大藥師能以毒為藥。 答えて曰く、般若波羅蜜は、秘密の法に非ずして、法華等の諸経は、阿羅漢受くれば、決まって仏と作ると説けばなり。大菩薩は能く受持して用うること、譬えば大薬師の能く毒を以って薬と為すが如し。
答え、
『般若波羅蜜』は、
『秘密の法でない!』が故に、
『阿難』に、
『説かれたのである!』。
『法華等の諸経』にも、
『阿羅漢でも!』、
是の、
『経を受ければ、決まって仏と作る!』と、
『説かれており!』、
『大菩薩』でも、
是の、
『経を受持すれば!』、
『用いることができる!』。
譬えば、
『大薬師』が、
『毒を用いて!』、
『薬と為すようなものである!』。
  :毒薬の譬喻は卒かには理解しがたい。
  :奇異な論理に聞こえる。
復次如先說。般若有二種。一者共聲聞說。二者但為十方住十地大菩薩說非九住所聞。何況新發意者。 復た次ぎに、先に説けるが如く、般若には二種有り、一には声聞を共に説き、二には但だ十方の十地に住する大菩薩の為めに説き、九住の所聞に非ず。何に況んや、新発意の者をや。
復た次ぎに、
先に説いたように、――
『般若には、二種有り!』、
一には、
『声聞、菩薩を共にして!』、
『説かれ!』、
二には、
但だ、
『十方の十地に住する大菩薩の為めに説かれて!』、
『九地に住する菩薩の所聞ではない!』。
況して、
『新発意の菩薩の為めに!』、
『説かれたものではない!』。
  参考:『大智度論巻72』:『問曰。何以不說入法位菩薩隨順佛生。答曰。有人言。漏未盡故不說。須菩提漏盡故說。有人言。入無餘涅槃者是第一清淨。阿羅漢末後身住有餘涅槃。近無餘涅槃門故說。菩薩雖有深利智慧往返生死中。是故不說。有人言。般若有二種。一者唯與大菩薩說。二者三乘共說。共聲聞說中須菩提是隨佛生。但與菩薩說時不說須菩提隨佛生。何以故。法性生身大菩薩。是中無有結業生身。但有變化生身。滅三毒出三界。教化眾生淨佛世界故住於世間。此中都無一切聲聞人。佛大慈悲心菩薩心亦爾。是名菩薩隨生。』
  :十地の大菩薩の為めに特別に説かれた般若 ???。般若波羅蜜とは無量無数の内外の法の総称なるも、簡約すれば六波羅蜜に過ぎず、此れも謂ってみれば空、無相、無作三昧を根本とする布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧を越えるものに非ず。
復有九地所聞乃至初地所聞。各各不同。般若波羅蜜總相是一而深淺有異。是故囑累阿難無咎。 復た、九地の所聞、乃至初地の所聞有りて、各各同じからず。般若波羅蜜の総相は、是れ一なるも、深浅に異有り。是の故に阿難に嘱累するも、咎無し。
復た、
『九地の所聞、乃至初地の所聞』の、
『般若波羅蜜が有り!』、
『各各の所聞』は、
『同じでない!』。
『般若波羅蜜』の、
『総相としては一である!』が、
『各各の所聞の深浅』に、
『異が有るからである!』。
是の故に、
『阿難に嘱累されたとしても!』、
『咎は無い!』。
問曰。先見阿閦佛品中囑累。今復囑累有何等異。 問うて曰く、先には見阿閦仏品中に嘱累し、今復た嘱累す。何等の異か有る。
問い、
先に、
『見阿閦仏品中に嘱累した!』のに、
今、
『復たしても!』、
『嘱累された!』のは、
何のような、
『異』が、
『有るのですか?』。
  見阿閦仏品:摩訶般若波羅蜜経巻20累教品第66を指す。
答曰。菩薩道有二種。一者般若波羅蜜道。二者方便道。先囑累者為說般若波羅蜜體竟。今以說令眾生得是般若方便竟囑累。以是故。見阿閦佛後說漚和拘捨羅品。 答えて曰く、菩薩道には二種有り、一には般若波羅蜜道、二には方便道なり。先の嘱累は、為めに般若波羅蜜の体を説き竟り、今は説いて、衆生をして是の般若の方便を得しめ竟るを以って嘱累す。是を以っての故に、見阿閦仏の後に漚和拘舍羅品を説けり。
答え、
『菩薩道には、二種有り!』、
一には、
『般若波羅蜜という!』、
『道であり!』、
二には、
『方便という!』、
『道である!』。
先には、
『般若波羅蜜の体』を、
『説き竟えた!』が為めに、
『嘱累したのであり!』、
今は、
是の、
『般若波羅蜜の方便を説いて!』、
『衆生に得させ竟えた!』が故に、
『嘱累したのである!』。
是の故に、
『見阿閦仏品の後』に、
『漚和拘舍羅(方便)品』を、
『説くのである!』。
  漚和拘舍羅品:摩訶般若波羅蜜経巻21方便品第69を指す
  :奇異なる論理。般若経/乃至大智度論に於いては般若波羅蜜を離れた方便なく、方便を離れた般若波羅蜜なし。即ち般若波羅蜜/方便は同じ大乗の二側面なのである。
般若波羅蜜中雖有方便。方便中雖有般若波羅蜜。而隨多受名。般若與方便本體是一。以所用小異故別說。譬如金師以巧方便故以金作種種異物雖皆是金而各異名。 般若波羅蜜中には、方便有りと雖も、方便中に般若波羅蜜有りと雖も、多きに随いて名を受く。般若と方便と本より体は是れ一なり。所用の小異あるを以っての故に別に説く。譬えば金師の巧方便を以っての故に、金を以って種種の異物を作すに、皆是れ金なりと雖も、各は名を異にするが如し。
『般若波羅蜜』中にも、
『方便』が、
『有り!』、
『方便』中にも、
『般若波羅蜜』が、
『有る!』が、
『多い者に随って!』、
『名』を、
『受けるだけである!』。
『般若波羅蜜と、方便と!』は、
『本より、体は一である!』が、
『所用が、小し異なる( their uses are slightly different )!』が故に、
『別に、説かれている!』。
譬えば、
『金師は、巧方便を用いる!』が故に、
『金を用いて!』、
『種種の異物』を、
『作る!』が、
『皆、金でありながら!』、
『各の名』が、
『異なるようなものである!』。
菩薩得是般若波羅蜜實相。所謂一切法性空無所有寂滅相。即欲滅度以方便力故不取涅槃證。是時作是念。一切法性空涅槃亦空。我今於菩薩功德未具足不應取證。功德具足乃可取證。是時菩薩以方便力過二地入菩薩位。住菩薩位中知甚深微妙無文字法引導眾生。是名方便。 菩薩は是の般若波羅蜜の実相、謂わゆる一切の法性の空、無所有、寂滅相を得れば、即ち滅度せんと欲するも方便力を以っての故に涅槃の証を取らず。是の時、是の念を作さく、『一切の法性は空にして、涅槃も亦た空なり。我れは今、菩薩の功徳に於いて、未だ具足せざれば、応に証を取るべからず。功徳具足すれば乃ち証を取るべし』、と。是の時、菩薩は方便力を以って、二地を過ぎて菩薩位に入り、菩薩位中に住して、甚深微妙なる無文字の法を知り、衆生を引導す。是れを方便と名づく。
『菩薩』は、
是の、
『般若波羅蜜の実相、謂わゆる一切の法性である!』、
『空、無所有、寂滅相』を、
『知り!』、
即ち、
『滅度しようとするが、方便力を用いる!』が故に、
『涅槃の証』を、
『取ることがなく!』、
是の時、こう念じるのである、――
『一切の法性は、空である!』が故に、
『涅槃』も、
『空である!』。
わたしは、
今、
『菩薩の功徳が、未だ具足していない!』が故に、
『涅槃の証』を、
『取るべきではない!』。
『功徳が具足したならば!』、
乃ち、
『証』を、
『取ってもよいだろう!』、と。
是の時、
『菩薩は、方便力を用いて!』、
『二地を過ぎ!』、
『菩薩位』に、
『入るのであり!』、
『菩薩位中に住する!』が故に、
『甚深微妙の無文字の法を知って!』、
『衆生』を、
『引導する!』ので、
是れを、
『方便』と、
『称するのである!』。
  :般若波羅蜜の実相は勿論空であるが、無戯論性の空であり、それは過去に何度も出ている通りであるが、次と併せてこの論理には軽重を取り違えた理解の未熟が透けて見える。
復次有方便。菩薩知一切法畢竟空性無所有。而能還起善法行六波羅蜜不隨空。若能生四種事。若疑若邪見若入涅槃若作佛。以般若有如是分別。若能除邪疑不入涅槃是為方便。 復た次ぎに、方便有る菩薩は、一切法の畢竟空性にして、無所有なるを知り、能く還って善法を起して六波羅蜜を行ず。空に随わざれば、若しは能く四種の事を生じて、若しは疑い、若しは邪見し、若しは涅槃に入り、若しは仏と作らん。般若を以って、是の如き分別有れば、若しは能く邪疑を除き、涅槃に入らず、是れを方便と為す。
復た次ぎに、
『方便を有する!』、
『菩薩』は、
『一切法』が、
『畢竟空性であり、無所有である!』と、
『知る!』ので、
『還って、善法を起すことになり!』、
『六波羅蜜』を、
『行じるのである!』。
『空に随わない!』、
『菩薩』は、
若しは、
『四種の事を生じて!』、
『疑ったり!』、
『邪見したり!』、
『涅槃に入ったり!』、
『仏に作ったりするのである!』が、
『般若を用いて!』、
是のような、
『分別があれば!』、
若しは、
『邪見や、疑を除いて!』、
『涅槃に入ることもない!』ので、
是れを、
『方便』と、
『称するのである!』。
有人言。般若波羅蜜多所饒益。於大珍寶聚中最勝。佛知滅度後多有怨賊欲毀壞者。品品囑累猶尚無咎。何況二處。 有る人の言わく、『般若波羅蜜には饒益する所多く、大珍宝聚中に於いて最勝なり。仏は滅度の後に、多く怨賊の毀壊せんと欲する者有るを知りたまえば、品品にて嘱累したまわんにも、猶尚お咎無し。何に況んや二処なるをや。
有る人は、こう言っている、――
『般若波羅蜜には、饒益する所が多い!』ので、
『大珍宝聚』中の、
『最勝である!』。
『仏』は、
『滅度した!』後、
『怨賊が多く有って!』、
『般若波羅蜜を毀壊しようとすること!』を、
『知っていられた!』ので、
『品品に於いて、嘱累されたとしても!』、
猶尚お、
『咎』は、
『無い!』、
況して、
『二処に嘱累されたぐらい!』は、
『尚更である!』、と。
問曰。若囑累何以乃爾慇懃鄭重。 問うて曰く、若し嘱累したまわんに、何を以ってか、乃ち爾く慇懃、鄭重なるや。
問い、
若し、
『嘱累されたとして!』、
何故、
『爾のようにも!』、
『慇懃、鄭重なのですか?』。
答曰。佛隨世俗法引導眾生。譬如估客主欲遠出他國。雖以財寶囑累於子大價妙寶偏獨慇懃以其子未識妙寶價重故。餘人以估客主是識寶價人而慇懃囑累必知其貴。若聞其子讚說寶價則不信之。佛亦如是。 答えて曰く、仏は世俗法に随いて、衆生を引導したもう。譬えば估客の主、遠く他国に出でんと欲すれば、財宝を以って子に嘱累すと雖も、大価の妙宝なれば、偏に独り慇懃なるは、其の子の未だ妙宝の価重きを知らざるを以っての故なり。餘人は、估客主の是れ宝の価を識る人なるを以って、慇懃に嘱累せらるれば、必ず其の貴きを知るも、若し其の子の宝の価を讃説するを聞くも、則ち之を信ぜざるが如し。仏も亦た是の如し。
答え、
『仏』は、
『世俗の法に随って!』、
『衆生』を、
『引導されるからである!』。
譬えば、
『估客主が、他国に遠出しようとすれば!』、
『財宝』を、
其の、
『子』に、
『嘱累することになる!』が、
『大価の妙宝』は、
『偏に独り( still more )!』、
『慇懃にする!』のは、
『估客主の子』が、
『妙宝の価の重さ!』を、
『未だ、識らないからである!』。
『餘人』は、
『估客主』が、
『宝の価を識る人である!』と、
『知る!』が故に、
『估客主』が、
『慇懃に嘱累すれば!』、
其の、
『貴さ!』を、
『必ず知ることになる!』が、
其の、
『子』が、
『宝の価を讃説する!』のを、
『聞いても!』、
其の、
『説』を、
『信じることはない!』。
亦た、
『仏』も、
『是の通りなのである!』。
  :此の中には、估客主を仏に譬え、其の子を阿難等の声聞に譬え、声聞は信用がないが故に、仏が嘱累しなければ、その説を信じる者が無いと言うのである。
復次若於餘人異眾中讚歎般若囑累人則譏佛自稱讚法。疑而不信。自於弟子中囑累則無嫌。 復た次ぎに、若し餘人の衆を異にする中に於いて、般若を讃歎して嘱累すれば、人は則ち仏は自ら法を称讃すと譏り、疑いて信ぜざるも、自ら弟子中に於いて嘱累すれば、則ち嫌う無し。
復た次ぎに、
若し、
『衆を異にする餘人』中に、
『般若』を、
『讃歎して!』、
『嘱累すれば!』、
『人』は、
『仏は、自らの法を称讃している!』と、
『譏って、疑い!』、
『信じない!』が、
『自らの弟子』中に、
『嘱累すれば!』、
『人』は、
『嫌うことが無い( should not have any suspicion )!』。
  :嘱累とは自ら弟子に法を伝うるを以って其の義と為す、此の如き錯謬の論は龍樹は本より、羅什すら未だ曽て出さざる所である。
復有人言。佛上品中說寂滅相無戲論。是一切智是中無有決定法可取。則人以為無所可貴。今慇懃囑累。則知佛不著空法。一切眾生中愛念般若無過佛者。佛知般若恩深故。貴重是般若而慇懃囑累。 復た有る人の言わく、『仏の上の品中に、寂滅相の戯論無きを、是れ一切智なりと説きたまえるに、是の中には決定の法の取るべき有ること無く、則ち人は、貴ぶべき所無しと為すを以って、今慇懃に嘱累したまえば、仏は空法にすら著したまわずと知る。一切の衆中に般若を愛念すること、仏に過ぐる者無ければ、仏は般若の恩の深きを知りたもうが故に、是の般若を貴重して、慇懃に嘱累したまえり』、と。
復た、
有る人は、こう言っている、――
『仏』は、
上の品中に、こう説かれたが、――
『寂滅相であり!』、
『戯論の無い!』のが、
『一切智である!』、と。
是の中には、
『決定した!』、
『取ることのできる法』は、
『無い!』ので、
則ち、
『人』は、
『貴ぶべき所の法など、無い!』と、
『思っていた!』のに、
『仏が、今慇懃に嘱累された!』ので、
『仏は、空法にすら著されない!』と、
『知るのである!』。
『一切の衆生』中には、
『仏に過ぎて!』、
『般若を愛念する!』者は、
『無い!』が、
『仏』は、
『般若の恩が深いのを、知る!』が故に、
是の、
『般若を貴重して!』、
『嘱累されたのである!』、と。
有人言。佛欲現中道故囑累。先說諸法空以遮有邊。今慇懃囑累則破無邊。是則中道。若人謂佛貪心愛著此法。佛以種種因緣說般若波羅蜜空相。若人謂佛墮斷滅中。是故慇懃囑累。如是則離二邊。 有る人の言わく、『仏は、中道を現さんと欲したもうが故に嘱累したもう。先に、諸法の空を説いて以って有辺を遮し、今、慇懃に嘱累して則ち無辺を破りたまえば、是れ則ち中道なり。若し人、仏は貪心もて、此の法を愛著すと謂わば、仏は種種の因縁を以って、般若波羅蜜の空相を説きたまい、若し人、仏は断滅中に堕すと謂わば、是の故に慇懃に嘱累し、是の如くして則ち二辺を離れたまえるなり』、と。
有る人は、こう言っている、――
『仏』は、
『中道を現そうとされた!』が故に、
『嘱累された!』。
先には、
『諸法は空であると、説かれて!』、
『有辺』を、
『遮し!』、
今は、
『慇懃に嘱累されて!』、
『無辺』を、
『破られた!』が、
是れが、
『有無の辺』の、
『中道なのである!』。
若し、
『人』が、こう謂えば、――
『仏の貪心』が、
此の、
『法』を、
『愛著しているのだ!』、と。
『仏』は、
『種種の因縁を用いて! 」、
『般若波羅蜜は空相である!』と、
『説かれ!』、
若し、
『人』が、こう謂えば、――
『仏』は、
『空という!』、
『断滅中に堕ちた!』、と。
是の故に、
『仏は、慇懃に嘱累されたのであり!』、
是のように、
『二辺』を、
『離れられたのである!』。
問曰。佛知阿難是弟子。何以故。問阿難汝是我弟子不。我是汝師不。 問うて曰く、仏は、阿難は是れ弟子なり、と知りたまえるに、何を以っての故にか、阿難に、『汝は是れ我が弟子なりや不や。我れは是れ汝が師なりや不や』、と問いたまえる。
問い、
『仏』は、
『阿難は、仏弟子である!』と、
『知りながら!』、
何故、
『阿難』に、こう問われたのですか?――
『お前は、わたしの弟子なのか?』、
『わたしは、お前の師なのか?』、と。
答曰。佛有惡弟子須那刹多羅等。有少因緣故作弟子。欲於佛所取射法。佛不為說。於是反戒言。我非佛弟子。 答えて曰く、仏には悪弟子の須那刹多羅等有り、少因縁有るが故に弟子と作り、仏所に於いて、射法を取らんと欲するも、仏は為めに説きたまわず。是に於いて戒を反して言わく、『我れは仏弟子に非ず』、と。
答え、
『仏』には、
『須那刹多羅等の悪弟子が有り!』、
『少因縁が有った!』が故に、
『仏弟子』と、
『作りながら!』、
『仏所に於いて!』、
『射法』を、
『取ろうとした!』が、
『仏』は、
『須那刹多羅の為めに!』、
『射法』を、
『説かれることはなかった!』ので、
『須那刹多羅』は、是に於いて、
『戒を反して!』、こう言った、――
『わたしは!』、
『仏弟子ではない!』、と。
  須那刹多羅(しゅなせつたら):比丘名。『大智度論巻33上注:須那刹多羅』参照。
  反戒(へんかい)、捨戒(しゃかい):在家に戻ること。受戒の対語。作法は「戒を捨てる」と言えばよい。
又如須尸摩。為盜法故作弟子。如是等是名字弟子。 復た、須尸摩の如きは、法を盗まんが為めの故に弟子と作る。是れ等の如きは、是れ名字の弟子なり。
又、
『須尸摩など!』は、
『法を盗む為め!』の故に、
『弟子』と、
『作ったのである!』が、
是れ等のような、
『弟子』は、
『名字の弟子なのである( a disciple in name )!』。
  須尸摩(しゅしま):梵志の名。『大智度論巻23下:須尸摩』参照。
又復外道等謂。阿難不得已而在佛邊。阿難曾作外道弟子。著草衣求神仙。今以佛是其親族尊重故給侍。以如是等事故。於大眾中問。阿難。汝是我弟子不。若言是真弟子當隨我敕。是故阿難為欲令人信故重答。 又復た外道等の謂わく、『阿難は、得已らざれば、仏の辺に在り。阿難は曽て外道の弟子と作りて草衣を著け、神仙を求むるも、今、仏は是れ其の親族なるを以って尊重するが故に給侍す』、と。是れ等の事を以っての故に、大衆中に於いて、阿難に問いたまわく、『汝は是れ我が弟子なりや不や。若し是れ真の弟子なりと言わば、当に我が勅に随うべし』、と。是の故に阿難は人をして信ぜしめんと欲せんが為めの故に重ねて答えたり。
又復た、
『外道』等は、こう謂っていた、――
『阿難』は、
『法を得ていない!』ので、
『仏の辺』に、
『在ったのである!』。
『阿難』は、
『曽て、外道の弟子と作り!』、
『草衣を著けて!』、
『神仙の法を求めていた!』が、
『今、仏は親族であり!』、
『尊重している!』が故に、
『給侍するのである!』。
是れ等の、
『事がある!』が故に、
『大衆中に於いて、阿難に!』、こう問われた、――
お前は、
『わたしの弟子なのか?』、――
若し、
『真の弟子である!』と、
『言えば!』、
わたしの、
『勅』に、
『随わねばならない!』、と。
是の故に、
『阿難』は、
『人に信じさせようとする!』が故に、
『重ねて!』、
『答えたのである!』。
佛告阿難弟子所應作法汝盡具足。弟子法者所謂以善身口意業供給師。有弟子心好身口業不稱。有弟子身口業好而心不稱。若弟子以善心深愛樂師。身口相稱不惜身命不難懃勞。自捨其心隨師教敕。阿難盡具足此事。 仏の阿難に告げたまわく、『弟子の応に作すべき所の法は、汝尽く具足せり』、と。弟子の法とは謂わゆる善の身口意業を以って師を供給するなり。有る弟子は心好ましきも、身口業は称(かな)わず、有る弟子は身口業好もしきも、心は称わず。若し弟子、善心を以って師を深く愛楽して、身口相称えば、身命を惜まず、懃労を難とせず、自ら其の心を捨てて、師の教勅に随う。阿難は尽く、此の事を具足す。
『仏』は、
『阿難』に、こう告げられた、――
お前は、
『弟子の作すべき所の法』を、
『尽く具足した!』、と。
『弟子の法』とは、
謂わゆる、
『善の身、口、意業を用いて!』、
『師』を、
『供給することである!』が、
有る、
『弟子』は、
『心業は好ましい!』が、
『身、口業』は、
『称わない( be incapable of )!』。
有る、
『弟子』は、
『身、口業は好ましい!』が、
『心業』が、
『称わない!』。
若し、
『弟子』が、
『善心を用いて!』、
『深く!』、
『師を愛楽し!』、
『身口業が相称えば!』、
『身命を惜まず!』、
『懃労』を、
『難とせず!』、
『自らの心を捨てて!』、
『師の教勅』に、
『随うはずである!』が、
『阿難』は、
『尽く身、口、意業が!』、
此の、
『事』を、
『具足していたのである!』。
佛告阿難。汝今現在恭敬於我。我滅度後恭敬般若亦當如是。 仏の阿難に告げたまわく、『汝は、今現在、我れを恭敬す。我が滅度の後にも般若を恭敬すること、亦た当に是の如くなるべし』、と。
『仏』は、
『阿難』に、こう告げられた、――
お前は、
『今、現在には!』、
『わたしを!』、
『恭敬している!』が、
わたしが、
『滅度した!』後にも、
是のように、
『般若』を、
『恭敬せねばならない!』、と。
問曰。般若是諸佛師。而阿難何以不恭敬其師而恭敬佛。 問うて曰く、般若とは、是れ諸仏の師なるに、阿難は何を以ってか、其の師を恭敬せずして、仏を恭敬するや。
問い、
『般若』は、
『諸の仏』の、
『師である!』が、
『阿難』は、何故、――
其の、
『諸仏の師』を、
『恭敬せずして!』、
而も、
『仏』を、
『恭敬するのですか?』。
答曰。阿難雖得初道漏未盡故。不深知法寳如佛所知。是故佛告阿難。汝恭敬般若如恭敬我。 答えて曰く、阿難は初道を得と雖も、漏未だ尽きざるが故に、深く法宝を知ること、仏の所知の如きにあらず。是の故に仏の阿難に告げたまわく、『汝、我れを恭敬するが如く、般若を恭敬せよ』、と。
答え、
『阿難は、初道を得ていた!』が、
『未だ、漏が尽きていない!』が故に、
『仏の所知のように!』、
『法宝』を、
『深く知っていたのではない!』が故に、
『仏』は、
『阿難』に、こう告げられたのである、――
お前は、
『わたしを恭敬するように!』、
『般若を恭敬せよ!』、と。
  :奇妙な論理。
復次眾生見佛三十二相八十隨形好大光明金色身多愛敬。般若波羅蜜微妙甚深無形無色。智者能知佛身相好。愚智視之皆無厭足。是故佛以身喻般若。佛在世時能自遮魔。是故佛告阿難。我滅度後好守護般若。 復た次ぎに、衆生は仏の三十二相、八十随形好、大光明、金色身を見て、多く愛敬す。般若波羅蜜は微妙、甚深なるも無形、無色なれば、智者のみ能く知る。仏身の相好は愚も智も之を視れば皆厭足無し。是の故に仏は身を以って般若に喻えたまい、仏の在世の時なれば、能く自ら魔を遮したもうに、是の故に仏の阿難に告げたまわく、『我が滅度の後には、好く般若を守護せよ』、と。
復た次ぎに、
『衆生』は、
『仏の三十二相、八十随形好、大光明、金色身を見て!』、
『仏を愛敬する!』者が、
『多い!』が、
『般若波羅蜜は微妙、甚深でありながら!』、
『形、色が無い!』が故に、
『智者だけ!』が、
『知ることができる!』。
『仏身の相好』は、
『愚者も、智者も視れば!』、
『厭足すること!』が、
『無い!』ので、
是の故に、
『仏』は、
『身を用いて!』、
『般若に喻えられた!』。
『仏の在世の時ならば!』、
『仏』は、
『自ら、魔を遮ることができた!』が、
是の故に、
『仏』は、
『阿難』に、こう告げられたのである、――
『わたしが滅度した!』後は、
好く( well )、
『般若』を、
『守護せよ!』、と。
問曰。一囑累則足何以至三。 問うて曰く、一たび嘱累すれば、則ち足るに、何を以ってか三たびに至るや。
問い、
『一たび!』、
『嘱累すれば!』、
『足るものを!』、
何故、
『三たびに!』、
『至るのですか?』。
  :「乃至第二第三以般若波羅蜜囑累汝」とは、「般若波羅蜜以外に嘱累すべき第二、第三の法は無い」との意にして、「唯だ般若波羅蜜のみ、他に勝れて重要な法であるが故に、一心に受持すべし」、と説くに過ぎない。
答曰。佛深愛般若波羅蜜故三囑。 答えて曰く、仏は深く般若波羅蜜を愛したもうが故に三たび囑したまえり。
答え、
『仏』は、
『深く、般若波羅蜜を愛されていた!』が故に、
『三たび!』、
『嘱累されたのである!』。
問曰。若深愛者何限於三。 問うて曰く、若し深く愛したまえば、何んが三たびに限りたもう。
問い、
若し、
『深く愛すれば!』、
何故、
『三たび!』に、
『限られたのですか?』。
答曰。諸佛常法語不過三。若過三不從。執金鋼神則以杵擬之。又執金鋼神意。若過三不從則是逆人便當殺之。是故佛問不過三。 答えて曰く、諸仏の常法は、語りたもうこと三たびを過ぎず。若し三たびを過ぐれば従わざればなり。執金剛神則ち杵を以って、之を擬す。又執金剛神の意にすらく、『若し三たびを過ぎて従わざれば、則ち是れ逆人にして、便ち当に之を殺すべし』、と。是の故に仏の問いたもうも、三たびを過ぎざるなり。
答え、
『諸仏の常法』は、
『語られる!』のに、
『三たび!』を、
『過ぎることはない!』。
若し、
『三たびを過ぎ!』て、
『仏に!』、
『従わなければ!』、
『執金剛神』は、
『杵を用いて( with a vajra )!』、
『仏』を、
『擬するのである( to imitate the buddha's manner )!』。
又、
『執金剛神の意』は、こうである、――
若し、
『三たびを過ぎて、従わなければ!』、
是れは、
『逆人であり!』、
『便ち、殺さねばならない( must kill speedily )!』、と。
是の故に、
『仏が問われる!』のも、
『三たび!』を、
『過ぎないのである!』。
    (ぎ):<動詞>推測/推量/推度する( conjecture)。類似/比較する( similar, analogous, compare )、習う/效う( follow the example of )、模倣する( imitate )、意図する( intend )、算定する( work out )、起草する( draw up )。
  :此の段には、文脈の乱れがある。抑も龍樹の論は簡明であり、羅什の訳は明解であるのを特徴とするが、羅什の訳が簡明であるのは、伝え聞く所に依れば、羅什が梵文を唱えて、秦人の通訳これを訳し、その訳文を受けて、羅什の同国人、これを更に梵文に訳し、羅什これを聞いて良好なれば次に至り、良好ならざれば同じ事を繰り返すという厳密なる手順を踏んだものであるが故に、訳文が非常に簡明なのである。この故に、文脈の乱れは本質的に起り難いのである。管見ながら、これは存在せざる論を訳して指摘を受けざる者、恐らくは皇帝の信任厚き者、即ち彼の大智度論の序を造れる釈僧叡の手に成れるものと推測する。
復次若一說猶緩。過三太急。似如凡夫貪著者。 復た次ぎに、若し一説ならば猶緩、三を過ぐれば太急にして、似たること凡夫の貪著する者の如し。
復た次ぎに、
若し、
『一たび!』、
『説くだけならば!』、
『猶緩であり( half-hearted )!』、
『三たびを過ぎれば!』、
『太急であり( so greedy )!』、
『凡夫が貪著するのに似ている!』。
  猶緩(ゆうかん):鈍い/愚図ついた/恥ずかしそうな/気乗りしない( so slow, shily, half-hearted )。
  太急(たいきゅう):慌てた/大急ぎな/がつがつする( so hasty, so greedy )。
復次受者心有三種。鈍根者至三乃生善心。阿難雖復利根心向聲聞。但一身求度。是故三告。 復た次ぎに、受者の心には三種有り、鈍根の者は三たびに至りて、乃ち善心を生ず。阿難は復た利根なりと雖も、心は声聞に向い、但だ一身の度を求むれば、是の故に三たび告げたまえり。
復た次ぎに、
『受者の心には、三種有り!』、
『鈍根の者』は、
『三たび!』、
『説かれる!』に、
『至って!』、
乃ち、
『善心』を、
『生じる!』が、
『阿難』は、
『復た、利根でありながら!』、
『心』は、
『声聞に向っており!』、
但だ、
『一身の度だけ!』を、
『求める者であり!』、
是の故に、
『三たび!』、
『告げられた!』。
  :三種有りと言って、三種を挙げざるは大智度論中には相当程度に於いて希有のことである。
所以囑累者為不令法滅故。汝當教化弟子。弟子復教餘人展轉相教。譬如一燈復然餘燈其明轉多。 嘱累する所以は、法をして滅せざらしめんが為めの故に、『汝は当に弟子を教化すべし。弟子も復た餘人に教えて展転として相教うること。譬えば一灯の復た餘灯を然せば、其の明転た多きが如し』、となり。
『嘱累する所以』は、
『法を滅させない為め!』の故に、こう嘱累するのである、――
お前は、
『弟子を教化せよ!』、
『弟子も、復た餘人を教化して!』、
『展転して( from generation to generation )!』、
是の、
『法』を、
『教えよ!』。
譬えば、
『一灯が、復た餘の灯を然しながら!』、
其の、
『明』を、
『転た多くするようなものである!』。
莫作最後斷種人者。世人有子若不紹繼則名斷種最為可恥。佛以此喻告阿難。汝莫於汝身上令般若斷絕。 最後の断種人と作る莫かれとは、世人は子有るも、若し紹継せざれば、則ち断種と名づけ、最も恥づべしと為す。仏は此の喻を以って阿難に告げたまわく、『汝は、汝が身上に於いて般若をして断絶せしむる莫かれ』、と。
『最後の断種人と作るな!』、とは、――
『世人』は、
『子が有っても!』、
『紹継しなければ!』、
『断種と呼ばれて!』、
『最も恥じねばならない!』。
『仏』は、
此の、
『譬喻を用いて、阿難に!』、こう告げられた、――
お前は、
『お前の身上に於いて( in your life-time )!』、
『般若』を、
『断絶させるな!』、と。
  紹継(しょうけい):財産、事業、地位等を継承/相続する( inherit )。
  身上(しんじょう):身体の上に( on one's body )、身に帯びる( have sth. with one )。
問曰。如先品中明般若波羅蜜說亦不增不說亦不減畢竟寂滅相。今何以言莫令斷滅。譬如虛空誰能滅者。 問うて曰く、先の品中に般若波羅蜜の説いても亦た増えず、説かずとも亦た減ぜずと明かすが如き畢竟寂滅の相なるに、今は何を以ってか、『断滅せしむる莫かれ』、と言う。譬えば、虚空の如きを、誰か能く滅する者ならんや。
問い、
先の品中に、
『般若波羅蜜』は、
『説いても増えず、説かなくても減らず!』と、
『明かしたように!』、
是の、
『般若波羅蜜』は、
『畢竟寂滅の相である!』が、
今は、
何故、
『般若波羅蜜を断滅させるな!』と、
『言うのですか?』。
譬えば、
『虚空のようなもの!』を、
『誰が、滅することができるのですか?』。
答曰。般若波羅蜜雖寂滅無生無滅相如虛空不可戲論。而文字語言書般若波羅蜜經卷為他人說。是此中般若於此因中而說其果。 答えて曰く、般若波羅蜜は寂滅、無生、無滅の相にして、虚空の如く戯論すべからず、と雖も、文字、語言もて、般若波羅蜜の経巻を書き、他人の為めに説かば、是れ此の中の般若は此の因中に於いて、其の果を説くなり。
答え、
『般若波羅蜜』は、
『寂滅の相、無生、無滅の相であり!』、
『虚空のように!』、
『戯論できるものではない!』が、
『文字、語言を用いて般若波羅蜜の経巻を書き!』、
『他人の為め!』に、
『説けば!』、
此の中の、
『般若』は、
此の、
『経巻という!』、
『因中に説かれた!』、
其の、
『般若という!』、
『果なのである!』。
凡人聞般若波羅蜜微妙。即生著心取般若相分別諸法所謂是善是不善是世間。是涅槃等。以分別故於是法中生著心。著心故鬥諍。鬥諍故起諸罪業。如是人名為滅般若波羅蜜。 凡人は般若波羅蜜の微妙なるを聞いて、則ち著心を生じ、般若の相を取り、諸法を分別す。謂わゆる是れ善、是れ不善、是れ世間、是れ涅槃等なり。分別するを以っての故に、是の法中に於いて著心を生じ、著心の故に闘諍し、闘諍の故に諸の罪業を起す。是の如き人を名づけて、般若波羅蜜を滅すと為す。
『凡人』は、
『般若波羅蜜』は、
『微妙である!』と、
『聞く!』と、
即ち、
『著心を生じて!』、
『般若の相』を、
『取り!』、
『諸法』を、
謂わゆる、
『是れは善、是れは不善、是れは世間、是れは涅槃である!』等と、
『分別するのである!』が、
『分別する!』が故に、
是の、
『法』中に、
『著心を生じ!』、
『著心の故に闘諍し!』、
『闘諍する!』が故に、
『諸の罪業』を、
『起すのである!』が、
是のような、
『人』を、
『般若波羅蜜を滅する!』者と、
『称するのである!』。
佛告阿難。汝當如般若波羅蜜相。莫著文字語言教化眾生。是名不滅。 仏の阿難に告げたまわく、『汝は当に般若波羅蜜の相の如くすべし、文字、語言に著して衆生を教化すること莫かれ』、と。是れを不滅と名づく。
『仏』は、
『阿難』に、こう告げられた、――
お前は、
『般若波羅蜜の相のようでなくてはならず!』、
『文字、語言に著して!』、
『衆生』を、
『教化してはならない!』、と。
是れを、
『滅するな( Don't let it be not existing )!』と、
『称するのである!』。
  :奇妙な意訳。此の段、原文は、「阿難。汝莫忘莫失莫作最後斷種人」。
。阿難隨般若在世幾時。則知爾許時佛在世。如經中廣說。佛慇懃囑累。在會眾生有疑。是故佛說囑累因緣。所謂有般若在世則為佛在。 『阿難、般若の在世する幾ばくの時に随いて、則ち爾許の時、仏在世したもうを知る』。経中に広説するが如く、仏は慇懃に嘱累したもうに、会に在る衆生に疑有り。是の故に仏は嘱累の因縁を説きたもう、謂わゆる、『般若の在世有れば、則ち仏在りと為す』、と。
阿難!
『般若の世に在る!』、
『幾ばくの時に随って!』、
『爾許の時、仏が世に在る!』と、
『知ることになる!』。
『経中に広説されたように!』、――
『仏が、慇懃に嘱累される!』と、
『会に在る衆生』中に
『疑う!』者が、
『有った!』ので、
是の故に、
『仏』は、
『嘱累の因縁』を、
『説かれたのである!』。
謂わゆる、
『般若が有り、世に在れば!』、
『仏』が、
『世に在るということである!』、と。
  幾時(いくじ):暫くの時/多少の時( for a while, for a short time )。
  爾許時(にこじ):此の如き時間( for the fitted time )。
所以者何。般若波羅蜜是諸佛母。諸佛以法為師。法者即是般若波羅蜜。若師在母在不名為失利。所以者何。利本在故。是故說若般若在世佛亦在世。 所以は何んとなれば、般若波羅蜜は是れ諸仏の母、諸仏は法を以って師と為せばなり。法とは即ち是れ般若波羅蜜なり。若し師在り、母在れば、名づけて利を失うと為さず。所以は何んとなれば、利の本の在るが故なり。是の故に説かく、『若し般若世に在れば、仏も亦た世に在り』、と。
何故ならば、
『般若波羅蜜は、諸仏の母であり!』、
『諸仏』は、
『法』を、
『師とするからである!』。
『法とは、即ち般若波羅蜜であり!』、
若し、
『師が在り、母が在れば!』、
『利』が、
『失われることはない!』。
何故ならば、
『利』の、
『本』が、
『在るからであり!』、
是の故に、こう説かれたのである、――
若し、
『般若が世に在れば!』、
亦た、
『仏』も、
『世に在る!』、と。
又法寶不離佛寶。菩薩有三十二相八十隨形好不名為佛。得法寶故名為佛。法寶即是般若波羅蜜。如人從佛得利乃至得解脫涅槃。若人於般若中能信行。亦以三乘法而入涅槃。是故說般若在世如佛在世說法無異。 又、法宝は仏宝を離れず、菩薩に三十二相、八十随形好有るも名づけて、仏と為さず。法宝を得るが故に名づけて仏と為す。法宝は即ち是れ般若波羅蜜なり。人の仏に従いて利を得、乃至解脱、涅槃を得るが如く、若し人、般若中に於いて能く信行すれば、亦た三乗の法を以って涅槃に入る。是の故に説かく、『般若世に在れば、仏世に在りて説法したもうが如きに異無し』、と。
又、
『法宝は、仏法を離れることはなく!』、
『菩薩』に、
『三十二相、八十随形好が有るだけ!』では、
『仏』と、
『称されず!』、
『法宝を得る!』が故に、
『仏』と、
『称されるのである!』が、
『法宝とは、即ち般若波羅蜜であり!』、
『人』が、
『仏より!』、
『利、乃至解脱、涅槃』を、
『得るように!』、
若し、
『人』が、
『般若中に信行することができれば!』、
亦た、
『三乗の法を用いて!』、
『涅槃に入るのであり!』、
是の故に、こう説くのである、――
『般若が世に在れば!』、
『仏が世に在って、説法される!』のと、
『異が無い!』、と。
阿難。若有人聽受般若及書持等。當知是人不離見佛聞法親近諸佛。 『阿難、若し有る人般若を聴受し、及び書持等すれば、当に知るべし、是の人は仏を見て、法を聞き、諸仏に親近するを離れず』。
阿難!
若し、
有る、
『人』が、
『般若』を、
『聴受し、乃至書持等すれば!』、
当然、こう知らねばならぬ、――
是の、
『人』は、
『仏を見、法を聞き、諸仏に親近すること!』より、
『離れることはない!』、と。
問曰。有人重罪三不善業成就。聽受書持般若。是人云何當得不離諸佛聞法親近佛不。 問うて曰く、有る人は重罪の三不善業成就するに、般若を聴受し、書持すれば、是の人は云何が、当に諸仏を離れずして、法を聞ききや。仏に親近するを得べきや、不や。
問い、
有る、
『人』が、
『重罪の三不善業が成就している!』のに、
『般若』を、
『聴受し、書持したとすれば!』、
是の、
『人』は、
何故、
『諸仏を離れることなく!』、
『法を聞いたり!』、
『仏に親近することになるのですか?』。
――
『そういうことではないのですか?』。
  :此の段、最後の「不」は、通常「云何」が有れば、此所に置くことはない。
答曰。是事先品中已答。所謂聽法者有二種人。一者但聽而不信受行。二者聽而信受奉行。如弟子不聽不信受行師語是名不聽。若以一心聽聞信受奉行。厭世愛涅槃離小乘樂大乘。作如是聽受。是名真聽。誦讀亦如是。 答えて曰く、是の事は先の品中に已に答えたり。謂わゆる聴法の者には二種の人有り、一には但だ聴いて信受行せず、二には聴いて信受し、奉行す。弟子の師の語を聴かず、信受行せざるが如き、是れを聴かずと名づく。若し一心に聴聞し、信受し、奉行するを以って、世を厭い、涅槃を愛し、小乗を離れて、大乗を楽しめば、是の如き聴受を作す、是れを真に聴くと名づく。誦読も亦た是の如し。
答え、
是の、
『事』は、
『先の品中に、已に答えた!』。
謂わゆる、
『聴法する者には、二種の人が有り!』、
一には、
『但だ、聴くだけで!』、
『信受することもなく!』、
『行じることもない!』。
二には、
『聴いたならば!』、
『信受して!』、
『奉行する!』が、
『弟子』が、
『師の語』を、
『聴かないか!』、
『信受、奉行しないような!』者、
是れを、
『聴かない!』と、
『称するのである!』。
若し、
『一心に聴聞し、信受し、奉行する!』が故に、
『世を厭って!』、
『涅槃』を、
『愛し!』、
『小乗を離れて!』、
『大乗』を、
『楽しみ!』、
是のような、
『聴受を作せば!』、
是れを、
『真に聴く!』と、
『称し!』、
亦た、
『誦読』も、
『是の通りである!』。
正憶念隨如佛意。離有無二邊。行於中道如所聞受持。及其義解。為他人解說。恭敬尊重供養讚歎花香等。初始微薄。乃至正憶念為他人說。其心轉厚功德轉多。牢固不動。 正憶念とは、仏の意の如きに随いて、有無の二辺を離れ、中道を行じ、所聞の如きを受持し、及び其の義を解して、他人の為めに解説し、華香等もて恭敬、尊重、供養、讃歎すれば、初め微薄より始めて、乃ち正憶念に至り、他人の為めに説けば、其の心転た厚く、功徳転た多く、牢固不動なり。
『正憶念する!』とは、――
『仏意のままに随って!』、
『有無の二辺を離れて、中道を行じながら!』、
『聞いた通りに!』、
『受持し!』、
其の、
『義を解して!』、
『他人の為め!』に、
『解説し!』、
『経巻を書写して!』、
『華香等を用いて!』、
『恭敬、尊重、供養、讃歎し!』、
初は、
『微薄な憶念より始まり!』、
乃ち、
『正憶念する!』に、
『至り!』、
『他人の為めに説きながら!』、
其の、
『心は、転た厚く、牢固、不動となり!』、
『功徳は、転た多くなる!』。
若聞師說若見經卷。花香等供養。若智者知般若功德。供養者福德重。不知者供養福德微薄。 若しは師の説を聞き、若しは経巻を見て華香等もて供養するに、若し智者にして般若の功徳を知りて供養すれば、福徳重く、知らざれば、供養するも福徳微薄なり。
若し、
『師の説を聞いたり、経巻を見たりすれば!』、
『華香等を用いて!』、
『供養することになる!』が、
若し、
『智者』が、
『般若の功徳を知って、供養すれば!』、
『福徳』は、
『重い!』が、
『般若の功徳を知らずに、供養しても!』、
『福徳』は、
『微薄である!』。
福德純厚者。轉身不離見佛聞法親近諸佛。福德微薄者。不言轉身得三福報。償眾罪已久後亦必當得佛。此中佛總說福德純厚微薄漸漸皆當見十方佛聞佛所說漸漸具足六波羅蜜皆得作佛。佛以佛眼見。般若有如是大利益眾生故。慇懃囑累。 福徳の純厚なる者は、身を転ずるも仏を見、法を聞き、諸仏に親近するを離れず。福徳の微薄なる者は、身を転じて、三福報を得とは言わず、衆罪償い已りて久しき後に、亦た必ず当に仏を得べし。此の中に、仏の総説したまわく、『福徳の純厚なるも微薄なるも漸漸に皆当に十方の仏を見て、仏の所説を聞き、漸漸に六波羅蜜を具足して、皆仏と作るを得べし』、と。仏の仏眼を以って、『般若には是の如く大いに衆生を利益すること有り』、と見たもうが故に慇懃に嘱累したまえり。
『福徳が純厚な!』者は、
『身を転じても!』、
『仏を見たり、法を聞いたり、諸仏に親近すること!』を、
『離れない!』が、
『福徳の微薄な!』者が、
『身を転じて!』、
『三福報を得る!』と、
『言うことはできない!』が、
『衆罪を償い已って、久しき後には!』、
『必ず!』、
『仏を得るはずである!』。
此の中に、
『仏』は、
『総説して!』、こう言われている、――
『福徳が純厚であっても、微薄であっても!』、
漸漸に( guradually )、
皆、
『十方の仏を見て!』、
『仏の所説を聞き!』、
漸漸に、
『六波羅蜜』を、
『具足して!』、
皆、
『仏』と、
『作ることができる!』、と。
『仏』は、
『仏眼を用いて!』、
『般若』には、
是のように
『大きな利益が有り、衆生を利益する!』と、
『見られた!』が故に、
『般若』を、
『慇懃に!』、
『嘱累されたのである!』。
  :此の段は経の趣旨を外れている。経:『阿難。若有書般若波羅蜜受持讀誦正憶念為人廣說恭敬尊重讚歎華香幡蓋寶衣燈燭種種供養。當知是人不離見佛不離聞法常親近佛。』
問曰。是諸大阿羅漢已證實際無復憂喜。小喜尚無何況大歡喜。 問うて曰く、是の諸の大阿羅漢は已に実際を証して、復た憂喜する無く、小喜すら尚お無きに、何に況んや大歓喜するをや。
問い、
是の、
『諸の大阿羅漢』は、
『已に実際を証している!』ので、
復た( more again )、
『憂、喜すること!』は、
『無い!』。
『小喜すら、尚お無いのだから!』、
況して、
『大歓喜』は、
『言うまでもない!』。
答曰。諸大阿羅漢雖離三界欲未得一切智慧故。於諸甚深法中猶疑不了。是摩訶般若波羅蜜中。了了解說斷除其疑。是故大歡喜。 答えて曰く、諸の大阿羅漢は、三界の欲を離ると雖も、未だ一切の智慧を得ざるが故に、諸の甚深の法中に於いて、猶お疑いて了せず。是の摩訶般若波羅蜜中に了了に解説して、其の疑を断除すれば是の故に大歓喜せり。
答え、
『諸の大阿羅漢』は、
『三界の欲を離れただけで!』、
未だ、
『一切の智慧』を、
『得たわけではない!』ので、
『諸の甚深の法』中には、
猶お、
『疑って!』、
『了解することがない!』が、
是の、
『摩訶般若波羅蜜中に於いて、了了に解説し!』、
其の、
『疑』が、
『断除された!』ので、
是の故に、
『大歓喜したのである!』。
復次此諸大弟子已證實際。實際者即是空無相無量無所分別。佛以此寂滅法種種分別名字語言譬喻廣說亦不壞法性。又不與世間相違。諸阿羅漢是法中證故大歡喜。 復た次ぎに、此の諸の大弟子は已に実際を証す。実際とは即ち是れ空、無相、無量にして分別する所の無きなり。仏は此の寂滅の法を以って、種種に分別して、名字、語言、譬喻もて広く説きたまえるも、亦た法性を壊りたまわざるも、又世間と相違せざれば、諸の阿羅漢は、是の法中に証するが故に大歓喜す。
復た次ぎに、
此の、
『諸の大弟子』は、
已に、
『実際』を、
『証している!』が、
『実際』とは、
『空、無相、無量であり!』、
『分別する!』所が、
『無いことである!』が、
『仏』は、
此の、
『寂滅の法を、種種に分別され!』、
『名字、語言、譬喻を用いて!』、
『広く説かれながら!』、
亦た、
『法性』を、
『壊られたわけでもなく!』、
又、
『実際が、世間と相違するわけでもない!』ので、
『諸の阿羅漢』は、
是の、
『実際の法中に証していた!』が故に、
『大歓喜したのである!』。
  :この論理は、奇異にして率かには受け入れがたい。
  :空、無相、無量という言い方は希有にして、他の経にも有らざる所であるし、意味も不明瞭である。
佛善說是空無相無量寂滅法。諸餘大眾未悉漏盡。信力深故。亦大歡喜言。此法能盡我等生死苦令得佛道。如是等無量因緣故大眾皆歡喜。 仏は善く是の空、無相、無量、寂滅の法を説きたもうに、諸余の大衆は、未だ悉くは、漏尽きざるも信力深きが故に、亦た大歓喜して言わく、『此の法は、能く我等が生死の苦を尽して、仏道を得しむ』、と。是れ等の如き無量の因縁の故に、大衆は皆歓喜す。
『仏』が、
善く( well )、
是の、
『空、無相、無量、寂滅の法』を、
『説かれる!』と、
『諸余の大衆』は、
未だ、
『悉くは、漏が尽きていなくても!』、
『信力』が、
『深い!』が故に、
亦た、
『大歓喜して!』、こう言ったのである、――
此の、
『法』は、
わたし達の、
『生、死の苦を尽して!』、
『仏道を得させることができる!』、と。
是れ等の、
『無量の因縁』の故に、
『大衆』は、
『皆、大歓喜した!』。
  :仏の説かれた空、無相、無量の法とは、般若波羅蜜なのか、実際の法なのか?般若波羅蜜の功徳は無量なるも、法自体は六波羅蜜に簡約することができ、それを分別すれば無量であるとしても、要は六種を過ぎざれば、無量の法と言うのは如何にも素人臭い言い方である。寧ろ空、無相、無作の寂滅法と言うならば意味が通る。
問曰。若佛囑累阿難是般若波羅蜜。佛般涅槃後阿難共大迦葉結集三藏。此中何以不說。 問うて曰く、若し仏、阿難に是の般若波羅蜜を嘱累したまえば、仏の般涅槃の後、阿難は大迦葉と共に三蔵を結集するに、此の中には何を以ってか説かざる。
問い、
若し、
『仏』が、
『阿難』に、
是の、
『般若波羅蜜』を、
『嘱累されたとすれば!』、
『仏が般涅槃された!』後に、
『阿難は、大迦葉と共に!』、
『三蔵』を、
『結集している!』が、
此の、
『三蔵』中に、
何故、
『般若波羅蜜』を、
『説かなかったのですか?』。
答曰。摩訶衍甚深難信難解難行佛在世時有諸比丘聞摩訶衍。不信不解故從坐而去。何況佛般涅槃後。以是故不說。 答えて曰く、摩訶衍は甚深、難信、難解、難行なれば、仏の在世時には、諸の比丘の摩訶衍を聞くも不信、不解なるが故に坐より去る有り。何に況んや仏の般涅槃の後にをや。是を以っての故に説かず。
答え、
『摩訶衍は甚だ深く!』、
『信、解、行じること!』が、
『難しい!』ので、
『仏が在世された!』時すら、
有る、
『諸の比丘は、摩訶衍を聞きながら! 、
『信じることもなく、解することもない!』が故に、
『坐より、去ったのである!』。
況して、
『仏が般涅槃された!』後は、
『言うまでもない!』。
是の故に、
『三蔵』中に、
『摩訶衍は説かれないのである!』。
復次三藏正有三十萬偈。并為九百六十萬言。摩訶衍甚多無量無限。如此中般若波羅蜜品有二萬二千偈。大般若品有十萬偈。諸龍王阿修羅王諸天宮中有千億萬偈等。 復た次ぎに、三蔵は正に三十万偈有りて、并びに九百六十万言と為す。摩訶衍は甚だ多く無量、無限なり。此の中の般若波羅蜜品は二万二千偈、大般若品には十万偈有るが如く、諸の龍王、阿修羅王、諸天の宮註には千億万偈等有り。
復た次ぎに、
『三蔵』中には、
『正しく、三十万偈が有り!』、
『并びに、九百六十万言と為す!』。
『摩訶衍は甚だ多く、無量無限である!』が、
此の、
『摩訶衍』中の、
『般若波羅蜜品の二万二千偈や、大般若品の十万偈』が、
『有るように!』、
『諸の龍王、阿修羅王、諸天の宮』中には、
『千万億の偈等』が、
『有る!』。
  :「并為」は、大智度論には外になし。「并」は also の義。
  :「般若波羅蜜品有二萬二千偈」は、通例として「摩訶般若波羅蜜経27巻(通称大品)」を二万五千偈/頌と称することがある。「大般若品有十萬偈」とは、「大般若波羅蜜多経第一会400巻」を十万偈/頌と称することが有るが、此の十万頌は龍樹の時代とは適合しない可能性が高い。
所以者何。此諸天龍神。壽命長久識念力強故。今此世人壽命短促識念力薄。小般若波羅蜜品尚不能讀。何況多者。諸餘大菩薩所知般若波羅蜜無量無限。 所以は何んとなれば、此の諸天、龍、神の寿命は長久にして、識、念の力の強きが故なり。今の此の世の人の寿命は短促にして、識、念の力薄ければ、小般若波羅蜜品すら尚お読む能わず。何に況んや多き者をや。諸余の大菩薩の所知の般若波羅蜜は無量、無限なり。
何故ならば、
此の、
『諸の天、龍、鬼神』は、
『寿命が長久であり!』、
『識力、念力が強いからである!』。
今、
此の、
『世の人』は、
『寿命が短促であり!』、
『識力、念力が薄い!』ので、
尚お、
『小般若波羅蜜品すら!』、
『読むことができない!』。
況して、
『多い者など!』は、
『読めるはずがない!』が、
『諸余の大菩薩の知る!』所の、
『般若波羅蜜』は、
『無量、無限である!』。
何以故。佛非但一身所說。無量世中或變化作無數身。是故所說無量。 何を以っての故に、仏は但だ一身の所説に非ず。無量世中に或は変化して、無数の身を作し、是の故に所説は無量なり。
何故ならば、
『仏の所説』は、
但だ、
『一身だけ!』の、
『所説ではなく!』、
『無量世』中に、
或は、
『変化して!』、
『無数の身を作す!』ので、
是の故に、
『仏の所説』は、
『無量なのである!』。
  :語法乱脈にして文字を知らざるが如し。
又有不可思議解脫經十萬偈。諸佛本起經寶雲經大雲經法雲經各各十萬偈。法華經華手經大悲經方便經龍王問經阿修羅王問經等諸大經。無量無邊如大海中寶。云何可入三藏中。 又不可思議解脱経の十万偈有り。諸仏の本起経、宝雲経、大雲経、法雲経は各各十万偈なり。法華経、華手経、大悲経、方便経、龍王問経、阿修羅王問経等の諸の大経は無量、無辺なること大海中の宝の如し。云何が三蔵中に入るべき。
又、
『不可思議解脱経の十万偈が有り!』、
『諸仏の本起経、宝雲経、大雲経、法雲経は各各が十万偈であり!』、
『法華経、華手経、大悲経、方便経、龍王問経、阿修羅王問経』等の
『諸の大経』は、
『大海中の宝のように!』、
『無量、無辺である!』のに、
何故、
『三蔵』中に、
『入れることができるのか?』。
小物應在大中。大物不得入小。若欲問應言。小乘何以不在摩訶衍中。摩訶衍能兼小乘法故。是故不應如汝所問。 小物は応に大中に在るべきも、大物は小に入るるを得ず。若し問わんと欲せば、応に、『小乗は何を以ってか、摩訶衍中に在らざる』、と言うべし。摩訶衍は能く小乗の法を兼ぬるが故なり。是の故に応に汝が所問の如くなるべからず。
『小物は、大中に在ってもよい!』が、
『大物』を、
『小中に入れることはできない!』。
若し、
『問おうとすれば!』、こう言うべきである、――
『小乗』は、
何故、
『摩訶衍』中に、
『存在しないのか?』、と。
何故ならば、
『摩訶衍』は、
『小乗法を兼ねることができるからである!』。
是の故に、
『お前のように!』、
『問うべきではない!』。
復次有人言。如摩訶迦葉將諸比丘在耆闍崛山中集三藏。佛滅度後。文殊尸利彌勒諸大菩薩。亦將阿難集是摩訶衍。 復た次ぎに、有る人の言わく、『摩訶迦葉の諸の比丘を将いて、耆闍崛山中に在りて、三蔵を集むるが如く、仏の滅度の後、文殊師利、弥勒、諸の大菩薩も亦た阿難を将いて、是の摩訶衍を集めたり』、と。
復た次ぎに、
有る人は、こう言っている、――
『摩訶迦葉』が、
『諸の比丘を将いて!』、
『耆闍崛山中に於いて!』、
『三蔵を集めさせたように!』、
『仏が滅度された!』後、
『文殊師利、弥勒、諸の大菩薩も阿難を将いて!』、
是の、
『摩訶衍』を、
『集めさせたのである!』、と。
又阿難知籌量眾生志業大小。是故不於聲聞人中說摩訶衍。說則錯亂無所成辦。 又、阿難は衆生の志業の大小を知りて、籌量すれば、是の故に声聞人中に於いては摩訶衍を説かず。説けば則ち錯乱して成辦する所無ければなり。
又、
『阿難』は、
『衆生の志業』が、
『大乗か、小乗か?』を、
『知って、籌量した!』ので、
是の故に、
『声聞人』中には、
『摩訶衍』を、
『説かなかったのである!』。
若し、
『説けば!』、
『声聞人は錯乱して!』、
『成辦する所が無くなるからである( they would not finish any work )!』。
  :「志業」は、大智度論中、此に出るだけであり、三蔵中には僅かに「大宝積経」と、「文殊師利普照三昧経」中に出るだけである。恐らく対応すべき明確な梵語もないものと思われる。或は意志/意趣/心念/希求( abhipraaya = intention, wish, purpose )の義か。
佛法皆是一種一味。所謂苦盡解脫味。此解脫味有二種。一者但自為身。二者兼為一切眾生。雖俱求一解脫門。而有自利利人之異。是故有大小乘差別。為是二種人故。佛口所說以文字語言分為二種。三藏是聲聞法。摩訶衍是大乘法。 仏法は皆是れ一種、一味にして謂わゆる苦の尽きたる解脱の味なり。此の解脱味には二種有り、一には但だ自ら身の為めなり、二には兼ねて一切の衆生の為めなり。倶に一解脱門を求むと雖も、自利と利人の異有り。是の故に大、小乗の差別有り。是の二種の人の為めの故に仏口の所説は文字、語言を以って分けて二種と為し、三蔵は是れ声聞法、摩訶衍は是れ大乗法なり。
『仏法』は、
『皆一種であり、一味であり!』、
謂わゆる、
『苦の尽きた!』、
『解脱の味である!』。
此の、
『解脱の味には、二種有り!』、
一には、
但だ、
『自身の為め!』の、
『解脱であり!』、
二には、
兼ねて、
『一切の衆生の為め!』の、
『解脱である!』が、
倶に、
『一解脱門を求めながら!』、
『自利と利人という!』、
『異が有る!』ので、
是の故に、
『大乗、小乗の差別』が、
『有るのである!』。
是の、
『二種の人の為め!』の故に、
『仏口の所説』は、
『文字、語言を用いて、二種に分けられ!』、
『三蔵』は、
『声聞人の為め!』の、
『法となり!』、
『摩訶衍』が、
『大乗人の為め!』の、
『法となったのである!』。
  :「解脱味」は大智度論中には此以外に出でず。「華厳経」、「大集経」、「勝鬘経」等の後期大乗経典に僅かに見るのみ。
  :「所説の経を分けて二種と為す」と言わず、「所説は文字、語言を以って分けて二種と為す」と言う。敢て言を増加せしめて同じ義を表すは非理。
復次佛在世時無有三藏名。但有持修多羅比丘持毘尼比丘持摩多羅迦比丘。 復た次ぎに、仏の在世の時には、三蔵の名有ること無く、但だ修多羅を持する比丘、毘尼を持する比丘、摩多羅迦を持する比丘有り。
復た次ぎに、
『仏が在世された!』時、
『三蔵』は、
『名すら!』、
『無かった!』が、
但だ、
『修多羅を持する比丘、毘尼を持する比丘、摩多羅迦を持する比丘』が、
『有っただけである!』。
  摩多羅迦(またらが):梵語 maatRkaa の訳、母/祖母( the mother, grandmother )の義、論蔵( abhidharma-piTaka : the pasket of metaphysics )を指す。
  参考:『十住毘婆沙論』:『是在家菩薩敬禮塔已。求造諸比丘說法者。所持律者。讀修多羅者。讀摩多羅迦者。讀菩薩藏者。作阿練若者。著納衣者。乞食者。一食者。常坐者。過中不飲漿者。但三衣者。著褐衣者。隨敷坐者。在樹下者。在塚間者。在空地者。少欲者。知足者。遠離者。坐禪者。勸化者。應各隨諸比丘所行奉事。若至讀阿毘曇者所。隨其所說諸法性相相應不相應等請問所疑。問已習學。若遇持律者。應當請問起罪因緣罪之輕重滅罪之法及阿波陀那事。問已修學行。若遇讀修多羅者。應當請問諸阿含諸部中義習學多聞。若遇讀摩多羅迦應利眾經憂陀那波羅延法句者。應當學習如是等經。若遇讀菩薩藏者。應當請問六波羅蜜及方便事問已修學。若遇阿練若。應學其遠離法。若遇坐禪者。應學其坐禪法。餘諸比丘亦應如是隨其所行請問修學無所違逆。攝護口者詣諸比丘應善攝口安詳默然。觀時觀土隨事思惟心不錯亂少於語言。又於說法者所。諸比丘等隨所乏少。若衣若缽若尼師壇。資生之物隨力而施無所匱惜。所以者何。菩薩尚應施諸惡人。何況比丘有功德者。乃至身肉猶當不惜。況復外物。助道因緣。』
修多羅者是四阿鋡中經名。摩訶衍中經名修多羅有二分。一者四阿含中修多羅。二者摩訶衍經名為大修多羅。入二分。亦大乘亦小乘。 修多羅とは、是れ四阿含中には経と名づけ、摩訶衍中にも経と名づく。修多羅には二分有りて、一には四阿含中の修多羅、二には摩訶衍の経にして名づけて、大修多羅と為し、二分に入れて、亦た大乗、亦た小乗なり。
『修多羅( String )』とは、
『四阿含』中には、
『経( String )』と、
『称され!』、
『摩訶衍』中にも、
『経』と、
『称される!』。
『修多羅には、二分有り!』、
一には、
『四阿含』中の、
『修多羅であり!』、
二には、
『摩訶衍の経』は、
『大修多羅』と、
『称する!』ので、
是れを、
『二分すれば!』、
『大乗と、小乗とに!』、
『入ることになる!』、
  :「修多羅( suutra )」を秦に訳して「経」と名づく。共に縦糸の義。龍樹の説と為せば信ずべからず。
二百五十戒如是等名為修多羅。毘尼名比丘作罪。佛結戒應行是不應行。是作是事得是罪。略說有八十部。亦有二分。一者摩偷羅國毘尼含阿波陀那本生有八十部。二者罽賓國毘尼除卻本生阿波陀那。但取要用作十部。有八十部毘婆沙解釋。 二百五十戒も、是れ等の如きを名づけて修多羅と為し、毘尼を、比丘作罪するに、仏、応に是れ行ずべし、応に是れを行ずべからず、是の事を作さば、是の罪を得、と結戒したもうと名づく。略説すれば八十部有りて、亦た二分有り、一には摩偸羅国の毘尼にして阿波陀那と本生を含みて、八十部有り。二には罽賓国の毘尼にして本生と阿波陀那とを除却し、但だ要用を取りて、十部と作す。八十部の毘婆沙有り。
『二百五十戒』も、
是れ等のような、
『戒』も、
『修多羅と称する!』。
『毘尼(律蔵)』とは、――
『比丘が作罪する!』と、
『仏』が、
『是れは作さねばならぬ!』、
『是れは作してはならぬ!』、
『是の事を作せば、是の罪を得る!』と、
是のように、
『結戒されたもの!』を、
『毘尼と称し!』、
是れを、
『略説すれば!』、
『八十部である!』。
亦た、
『毘尼には、二分有り!』、
一には、
『摩偸羅国の毘尼』で、
『阿波陀那、本生を含んで!』、
『八十部有り!』、
二には、
『罽賓国の毘尼』で、
『本生、阿波陀那』を、
『除却して!』、
但だ、
『要用を取って!』、
『十部と作した!』。
『阿毘達磨(論蔵)』には、
『毘婆沙という!』、
『解釈』が、
『八十部有る!』。
  毘尼(びに):梵語 vinaya の訳、又毘奈耶に作り、律と訳す。『大智度論巻1上注:三蔵』参照。
  阿波陀那(あぱだな):梵語 avadaana の訳、譬喻と訳す、十二部経の一。『大智度論巻33下注:十二部経』参照。
  摩偸羅(まちゅうら):梵名 madhuraa 、又摩突羅、摩度羅、摩頭羅等に作る。古代中央印度に在った国の名。
  罽賓(けいひん):梵名 kaazmiira 、又迦溼弥羅、迦翅弥羅、迦湿弥羅に作る。古代北部印度に在った国の名。
  毘婆沙(びばしゃ):梵語 vibhaaSaa 、広解と訳す。「阿毘達磨発智論」の解説書。『大智度論巻2上注:阿毘達磨発智論、毘婆沙』参照。
  要用(ようゆう):重要なもの。
  参考:『大智度論巻33』:『諸經中直說者名修多羅。所謂四阿含諸摩訶衍經。及二百五十戒經。出三藏外亦有諸經。皆名修多羅。』
  参考:『大智度論巻33』:『阿波陀那者與世間相似柔軟淺語。如中阿含中長阿波陀那經。長阿含中大阿波陀那。毘尼中億耳阿波陀那。二十億阿波陀那解。二百五十戒經中欲阿波陀那一部。菩薩阿波陀那出一部。如是等無量阿波陀那。』
  参考:『大智度論巻2』:『憂婆離受僧教。師子座處坐說。如是我聞一時佛在毘舍離。爾時須提那迦蘭陀長者子初作婬欲。以是因緣故結初大罪。二百五十戒義作三部七法八法比丘尼毘尼增一。憂婆利問雜部善部。如是等八十部作毘尼藏。』
是故知摩訶般若波羅蜜經等在修多羅經中。以經大事異故別說。是故不在集三藏中
大智度論卷第一百
是の故に知るらく、『摩訶般若波羅蜜経等は、修多羅経中に有るも、経大にして事異なるを以っての故に別に説く。是の故に三蔵を集むる中に在らず』、と。
大智度論巻第一百
是の故に、こう知ることになる、――
『摩訶般若波羅蜜経』等は、
『修多羅経』中に、
『在り!』、
『経が大であり!』、
『事情』が、
『異なる!』ので、
是の故に、
『別に説いて!』、
『三蔵中には集められなかった!』、と。

大智度論巻第一百
  :「修多羅経」は、大智度論中には此以外に見られず。やや奇妙な言葉。
  :奇妙な論理。


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