【論】釋曰。曇無竭既出至法座所。遍觀無勝己者於是而坐。爾時薩陀波崙菩薩知坐已定。到曇無竭所頭面禮足一面坐。禮有三種。一者口禮。二者屈膝頭不至地。三者頭至地。是為上禮。人之一身頭為最上。足為最下。以頭禮足恭敬之至。 |
釈して曰く、曇無竭は既に出でて法座の所に至り、遍く観るに、己れに勝る者の、是に坐する無し。爾の時、薩陀波崙菩薩は坐の已に定まれるを知り、曇無竭の所に到りて頭面に足を礼し、一面に坐せり。礼に三種有り、一には口の礼、二には膝を屈するも、頭は地に至らず、三には頭地に至りて、是れを上の礼と為す。人の一身には頭を最上と為し、足を最下と為せば、頭を以って足を礼するは、恭敬の至なり。 |
釈す、
『曇無竭は、既に宮殿を出て!』、
『法座の所に至り、遍く観た!』が、
是の、
『坐』には、
『己に勝る者が無かった!』。
爾の時、
『薩陀波崙菩薩は、坐が已に定ったのを知り!』、
『曇無竭の所に到る!』と、
『頭面に足を礼して!』、
『一面に坐した!』。
『礼には、三種有り!』、
一には、
『口』で、
『礼し!』、
二には、
『膝を屈めるだけ!』で、
『頭』は、
『地に至らず!』、
三には、
『膝を屈めて!』、
『頭』が、
『地に至るものである!』が、
是れは、
『上』の、
『礼である!』。
何故ならば、
『人の一身』中に、
『頭が、最上であり!』、
『足が、最下である!』ので、
『頭で、足を礼する!』のが、
『恭敬』の、
『至だからである!』。
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曇無竭見其坐已。知從遠來不惜身命種種勤苦為欲聞法。初相見時日垂欲沒。少時聞法。曇無竭以日沒故起入宮中。今為法故七歲渴仰不生異心。垂欲出時以血灑地。知其為法不惜身命其心不退決定無疑堪受教化。是故告言。善男子一心諦聽。上疑諸佛來去已斷。今但欲聞甚深般若波羅蜜。是故為說般若波羅蜜相。 |
曇無竭は、其の坐するを見已りて、遠くより来たりて、身命を惜まず、種種に勤苦するは、法を聞かんと欲するが為めなるを知る。初めて相見る時、日垂(なんなん)として没せんと欲すれば、少時法を聞くに、曇無竭は日没するを以っての故に起ちて宮中に入る。今、法の為めの故に七歳渇仰して異心を生ぜず、垂として出でんと欲する時、血を以って地に灑げば、其の法の為めに身命を惜まず、其の心の不退、決定して疑無く、教化を受くるに堪うるを知る。是の故に告げて言わく、『善男子、一心に諦聴せよ』、と。上の諸仏の来去を疑えること已に断ずれば、今は但だ甚深の般若波羅蜜を聞かんと欲するのみ。是の故に為めに般若波羅蜜の相を説けり。 |
『曇無竭』は、
『薩陀波崙が坐るのを見て!』、こう知った、――
『薩陀波崙が、遠くより来て!』、
『身命を惜まず、種種に勤苦した!』のは、
『法』を、
『聞こうとした為めである!』が、
『初めて、相見た!』時は、
『日が、没しようとしていた!』ので、
『少時、法を聞いただけ!』、
『日が没した!』が故に、
『曇無竭は坐を起ち!』、
『宮中に入ってしまった!』が、
『今だに、法の為め!』の故に、
『七歳、法を渇仰して!』、
『異心を生じることなく!』、
『宮中より出ようとした!』時には、
『血を用いて!』、
『地に灑いでいた!』。
『曇無竭』は、こう知った、――
『薩陀波崙は、法の為め!』に、
『身命を惜まず!』、
『心は不退であり、決定している!』ので、
『疑が無くなり!』、
『教化を受ける!』に、
『堪えられるだろう!』、と。
是の故に、
『薩陀波崙に告げて!』、こう言った、――
善男子!
一心に諦聴せよ!、と。
上には、
『諸仏の来去を疑っていた!』が、
其の、
『疑』も、
『已に断じて!』、
今は、
但だ、
『甚深の般若波羅蜜』を、
『聞こうとしている!』ので、
是の故に、
『薩陀波崙の為め!』に、
『般若波羅蜜の相を説いたのである!』。
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般若波羅蜜相者。如先諸法平等義中說。或有人言。般若波羅蜜力故觀諸法皆平等。非諸法性性自平等。是故曇無竭言。諸法平等故般若波羅蜜平等。所以者何。因果相似故。初觀諸法平等。是因。決定心得般若波羅蜜。是為果。 |
般若波羅蜜の相とは、先の諸法平等の義中に説けるが如し。或は有る人の言わく、『般若波羅蜜の力の故に、諸法は皆平等なりと観れば、諸法の性は、性自ら平等なるに非ず』、と。是の故に、曇無竭の言わく、『諸法は平等なるが故に、般若波羅蜜は平等なり』、と。所以は何んとなれば、因果相似するが故に、初めて諸法の平等を観るは、是れ因なり。決定して、心に般若波羅蜜を得れば、是れを果と為せばなり。 |
『般若波羅蜜の相』とは、
先に、
『諸法平等の義』中に、
『説いた通りである!』が、
或は、
『有る人』が、こう言うので、――
『般若波羅蜜の力』の故に、
『諸法は、皆平等である!』と、
『観るのであり!』、
『諸法の性』が、
『性として!』、
『自ら平等なのではない!』、と。
是の故に、
『曇無竭』が、こう言ったのである、――
『諸法が平等である!』が故に、
『般若波羅蜜』は、
『平等なのである!』、と。
何故ならば、
『因、果は相似する!』が故に、
初めて、
『諸法は平等である、と観る!』のが、
『因であり!』、
決定して、
『心に、般若波羅蜜を得る!』のが、
『果だからである!』。
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問曰。觀諸法平等即是般若。般若即是平等。何以分別為因果。 |
問うて曰く、諸法の平等を観れば、即ち是れ般若なり。般若は即ち是れ平等なり。何を以ってか、分別して因、果と為す。 |
問い、
『諸法が平等である!』と、
『観ること!』が、
『即ち、般若であり!』、
『般若は、即ち平等である!』のに、
何故、
『因、果』を、
『分別するのですか?』。
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答曰。般若及諸法雖一相無二無別。行者初觀時是因。觀竟名為果。如須陀洹道得向。又如有漏五眾。因時名集。果時名苦。色等一切法平等。即是般若波羅蜜平等。 |
答えて曰く、般若、及び諸法は、一相にして無二無別なりと雖も、行者の初めて観る時は、是れ因なり。観竟れば名づけて果と為す。須陀洹道の得、向の如し。又有漏の五種を因の時、集と名づけ、果の時、苦と名づくるが如し。色等の一切法の平等なる、即ち是れ般若波羅蜜の平等なり。 |
答え、
『般若と諸法は、
『一相であり!』、
『無二、無別である!』が、
『行者』が、
『初めて観る時が、因であり!』、
『観竟れば!』、
『果と称する!』のは、
譬えば、
『須陀洹道』の、
『得と、向のようなものである!』。
又、
『有漏の五種』を、
『因の時』には、
『集』と、
『称し!』、
『果の時』には、
『苦』と、
『称するように!』、
『色』等の、
『一切法』が、
『平等であるということ!』が、
即ち、
『般若波羅蜜』の、
『平等なのである!』。
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問曰。應說般若波羅蜜相。今何以說平等。因不平故有平等。因平故有不平。於般若中亦不一相亦不異相。汝何以故欲取一相。 |
問うて曰く、応に般若波羅蜜の相を説くべきに、今は何を以ってか、平等を説く。不平に因るが故に平等有り。平に因るが故に不平有れば、般若中に於いては、亦た一相ならず、亦た異相ならず。汝は何を以ての故にか、一相を取らんと欲する。 |
問い、
『般若波羅蜜の相を説かねばならない!』のに、
『不平等に因る!』が故に、
『平等』が、
『有り!』、
『平等に因る!』が故に、
『不平等』が、
『有る!』が故に、
『般若中の平等、不平等』は、
『一相でもなく!』、
『異相でもない!』。
お前は、何故、
『平等という!』、
『一相を取ろうとするのか?』。
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答曰。般若波羅蜜甚深微妙不以方便說則無解者。是故若分別不等則生諸煩惱三毒增長。所謂憎怨愛親愛善。憎不善。 |
答えて曰く、般若波羅蜜は甚深微妙なれば、方便を以って説かざれば、則ち解する者無し。是の故に若し分別して不等なれば、則ち諸の煩悩を生じて、三毒増長す。謂わゆる怨を憎み、親を愛し、善を愛して、不善を憎む。 |
答え、
『般若波羅蜜は甚深微妙であり!』、
『方便を用いて、説かなければ!』、
『解する!』者が、
『無いからである!』。
是の故に、
若し、
『分別して等しくなければ!』、
『諸の煩悩を生じて!』、
『三毒が増長し!』、
謂わゆる、
『怨を憎んで、親を愛し!』、
『善を愛して、不善を憎むことになる!』。
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菩薩住是二等中觀一切法皆平等。住眾生等中怨親憎愛皆悉平等。開福德門閉諸惡趣住法等中。於一切法中憶想分別著心取相皆除滅。但見諸法空。空即是平等。 |
菩薩は、是の二の等中に住して、一切法の皆平等なるを観ずれば、衆生の等中に住して、怨親、憎愛、皆悉く平等に、福徳の門を開いて、諸の悪趣を閉じ、法の等中に住して、一切法中に於いて、憶想、分別、著心、取相、皆除滅すれば、但だ諸法の空を見る。空とは即ち是れ平等なり。 |
『菩薩』は、
是の、
『衆生等、法等という!』、
『二等』中に、
『住する!』が故に、
『一切の法』は、
『皆、等しい!』と、
『観るのである!』。
謂わゆる、
『衆生等中に住して!』、
『怨親、憎愛を皆悉く平等に観て!』、
『福徳の門を開き!』、
『諸の悪趣を閉ざし!』、
『法等中に住して!』、
『一切法』中の、
『憶想、分別、著心、取相』が、
『皆、除滅し!』、
但だ、
『諸法は空である!』と、
『見るのである!』が、
是の、
『空』が、
『即ち、平等なのである!』。
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有人得是諸法平等空直趣菩薩道。於空不戲論。有人雖得平等而生戲論。若觀都空有如是失。如是人於平等即是不等。是故此中為真平等。故說般若波羅蜜等。非是戲論離平等不平等二邊。是般若波羅蜜相。 |
有る人は、是の諸法の平等、空を得て、直ちに菩薩道に趣くも、空に於いて戯論せず。有る人は、平等を得と雖も、戯論を生ず。若し都て空なりと観れば、是の如き失有り。是の如き人は、平等に於いて即ち、是れ等にあらず。是の故に、此の中には真の平等の為めの故に般若波羅蜜の等を説くも、是れ戯論に非ず。平等と不平等との二辺を離るれば、是れ般若波羅蜜の相なり。 |
有る人は、
是の、
『諸法の平等、空を得て!』、
直ちに、
『菩薩道に趣く!』ので、
『空に於いて!』、
『戯論しない!』が、
有る人は、
『平等を得ながら!』、
『戯論を生じる!』ので、
若し、
『都てが、空である!』と、
『観れば!』、
是のような、
『失』が、
『有る!』。
是のような、
『人』には、
『平等』が、
『即ち、不等なのである!』。
是の故に、
此の中には、
『真の平等を説く為め!』に、
『般若波羅蜜の等』を、
『説くのであり!』、
是れは、
『戯論ではない!』。
『平等や、不平等という!』、
『二辺を離れる!』のが、
『般若波羅蜜の相なのである!』。
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問曰。平等者於般若波羅蜜相已具足。何以故。更說離等是般若波羅蜜相。 |
問うて曰く、平等とは、般若波羅蜜の相に於いて、已に具足せり。何を以っての故にか、更に、『等を離るるは、是れ般若波羅蜜の相なり』、と説く。 |
問い、
『平等』は、
已に、
『般若波羅蜜の相に於いて!』、
『具足している!』が、
何故、
『等を離れるのが、般若波羅蜜の相である!』と、
『更に、説くのか?』。
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答曰。經中但說諸法等故般若等。行者取是平等相而生著。是故說般若波羅蜜平等相。自性離色等諸法自相離故。離義如相無相品中說。 |
答えて曰く、経中には但だ、『諸法の等の故に般若は等なり』、と説くも、行者は、是の平等の相を取りて、著を生ず。是の故に、『般若波羅蜜は平等相なり』、と説く。自性を離るるは、色等の諸法は自相を離るるが故なり。離の義は相無相品中に説けるが如し。 |
答え、
『経』中に、
但だ、
『諸法は平等であるが故に、般若は平等である!』と、
『説く!』と、
『行者』は、
是の、
『平等の相を取って!』、
『著を生じる!』ので、
是の故に、
『般若波羅蜜は平等相である!』と、
『説くのである!』が、
『般若波羅蜜』が、
『自性を離れる!』のは、
『諸法』は、
『自相を離れるからである!』。
『離の義』は、
『相無相品』中に、
『説いた通りである!』。
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得此諸法平等。又於平等離安住空中。空中則不動。戲論不能動。諸煩惱山亦不能動。無常時亦不能動。所以者何。於一切法得實相故。 |
此の諸法の平等を得れば、又平等を離れ、空中に安住す。空中とは則ち不動にして、戯論も動ずる能わざればなり。諸の煩悩の山も亦た動ずる能わず、無常の時も亦た動ずる能わず。所以は何んとなれば、一切法に於いて、実相を得るが故なり。 |
此の、
『諸法の平等を得れば!』、
又、
『平等をも離れて!』、
『空』中に、
『安住することになる!』。
『空』中に、
『安住する!』とは、
『動かせないということであり!』、
『空中に安住すれば!』、
『戯論にも、諸の煩悩の山にも、無常の時にも!』、
『動かされない!』。
何故ならば、
『一切法に於いて!』、
『実相』を、
『得たからである!』。
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菩薩住是二空。得不動般若波羅蜜。是則究竟。若有念即是有相著處。是故說諸法無念故。當知般若波羅蜜亦無念。無動相是般若波羅蜜。般若波羅蜜諸相滅故。 |
菩薩は、是の二空に住して、不動の般若波羅蜜を得れば、是れ則ち究竟なり。若し念有れば、即ち是れ有相の著処なり。是の故に説かく、『諸法に念無きが故に、当に知るべし、般若波羅蜜も亦た念無し』、と。無動の相は、是れ般若波羅蜜なり。般若波羅蜜は諸相滅するが故なり。 |
『菩薩』は、
是の、
『二空に住して!』、
『不動の般若波羅蜜』を、
『得れば!』、
是れが、
則ち、
『究竟である( the final understanding )!』。
若し、
『念が有れば!』、
是れは、
『有相』の、
『著処であり!』、
是の故に、こう説かれたのである、――
『諸法は、無念である!』が故に、
『般若波羅蜜も無念である!』と、
『知らねばならぬ!』と。
『無動の相が、般若波羅蜜である!』が、
何故ならば、
『般若波羅蜜』中には、
『諸相が滅するからである!』。
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若不念是般若。或迷悶無所趣向。有戲論者在大眾中則生怖畏。或於涅槃中不了故亦生怖畏。是故說無怖畏相是般若波羅蜜。是人雖不決定取諸法相。而深入法性故。於大眾中有難論諸相者。心無所畏。於諸法得無相故。又入無生法忍時。知一切法不可得。於是中亦無所畏。所以者何。是菩薩善通達一切法故。 |
若し、是の般若を念ぜざれば、或は迷悶して趣向する所無く、有るいは戯論すれば、大衆中に在りて則ち怖畏を生じ、或は涅槃中に於いて了せざるが故に、亦た怖畏を生ず。是の故に説かく、『怖畏無き相は、是れ般若波羅蜜なり』、と。是の人は、決定して諸法の相を取らずと雖も、深く法性に入るが故に、大衆中に於いて、諸相を難論する者有れども、心に畏るる所無し。諸法に於いて無相を得るが故なり。又無生法忍に入る時、一切法の不可得なるを知れば、是の中に於いて亦た畏るる所無し。何を以っての故に、是の菩薩は、善く一切法に通達するが故なり。 |
若し、
是の、
『般若を念じなければ!』、
或は、
『迷悶して!』、
『趣向する!』所が、
『無くなり!』、
『戯論する者が有れば!』、
『大衆中に在って!』、
『怖畏を生じることになり!』、
或は、
『涅槃を了していない!』が故に、
『怖畏』を、
『生じる!』ので、
是の故に、
『怖畏の無い相』が、
『般若波羅蜜である!』と、
『説かれたのである!』。
是の、
『人』は、
『諸法の相を、決定して取ることはない!』が、
『深く、法性に入る!』が故に、
『大衆』中に、
『諸相を難論する!』者が、
『有ったとしても!』、
『心』に、
『畏れる!』所が、
『無い!』。
何故ならば、
『諸法に於いて!』、
『無相』を、
『得たからである!』。
又、
『無生法忍に入る!』時には、
『一切法』は、
『不可得である!』と、
『知る!』が故に、
是の中に於いて、
『畏れる!』所が、
『無い!』。
何故ならば、
是の、
『菩薩』は、
『善く、一切法に通達するからである!』。
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復次一切法一相所謂性空。是故般若波羅蜜隨一切法故亦性空一味。 |
復た次ぎに、一切法の一相とは、謂わゆる性空なり。是の故に、般若波羅蜜は、一切法に随うが故に、亦た性空の一味なり。 |
復た次ぎに、
『一切法の一相とは、謂わゆる性空である!』が、
是の故に、
『般若波羅蜜は、一切法に随う!』が故に、
『性空という!』、
『一味なのである!』。
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問曰。上已說諸法平等。今何以更說一味。 |
問うて曰く、上に已に諸法の平等を説けるに、今は何を以ってか、更に一味を説く。 |
問い、
上に、
已に、
『諸法の平等』が、
『説かれている!』のに、
今、
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答曰。空或時有味或時無味。若行者為諸見取相分別好醜籌量。爾時。得是諸法平等空心大歡喜故名為味。如人為熱渴所逼。得清冷水以為真味無比。隨時用故名味。真實畢竟空則無味不味。 |
答えて曰く、空は或は時に味有り、或は時に味無し。若し行者、諸見を為して、相を取り、好醜を分別して籌量すれば、爾の時、是の諸法の平等空を得て、心に大歓喜するが故に名づけて味と為す。人の熱渇の為めに逼らるれば、清冷の水を得て、以って真味無比なりと為すが如き、随時に用うるが故に味と名づくるも、真実の畢竟空には則ち味、不味無し。 |
答え、
『空』にも、
或る時には、『味が有り!』、
或る時には、『味が無いからである!』。
若し、
『行者』が、
『諸見を為して、相を取り!』、
『好醜を分別したり!』、
『籌量したりする!』時、
是の、
『諸法の平等という!』、
『空を得れば!』、
『心が大歓喜する!』ので、
是の故に、
『味』と、
『称するのである!』。
譬えば、
『人』が、
『熱渇に逼られながら!』、
『清冷の水』を、
『得たならば!』、
是れを、
『真の味であり!』、
『無比だとするように!』、
『時に随って!』、
『空を用いる!』が故に、
『味』と、
『称するのであり!』、
『真実畢竟の空』には、
『味、不味』は、
『無いのである!』。
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復次一味者菩薩行般若波羅蜜時。所緣所觀皆為一味。空智力大故餘法皆隨而為空。譬如煮石蜜欲熟時。雖異物和合皆為石蜜。又如大海百川歸之皆為一味。所謂畢竟空味。 |
復た次ぎに、一味とは、菩薩は般若波羅蜜を行ずる時、所縁、所観を皆一味と為す。空の智力の大なるが故に餘法は皆随いて、空と為すなり。譬えば石蜜を煮て、熟せんと欲する時、異物和合すと雖も、皆石蜜と為すが如し。又、大海は百川之に帰すれば、皆一味を為すが如きが、謂わゆる畢竟空の味なり。 |
復た次ぎに、
『一味』とは、
『菩薩が、般若波羅蜜を行じる!』時、
『所縁、所観』が、
『皆、一味と為る!』が、
『空の智力が大である!』が故に、
『諸法は、皆随う!』ので、
『空と、為るのである!』。
譬えば、
『石蜜を煮て、熟しそうな時には!』、
『異物が和合したとしても!』、
『皆、石蜜であるよう!』に、
又、
『大海』に、
『百川が帰すれば!』、
『皆、一味と為るよう!』に、
謂わゆる、
『一味』とは、
『畢竟空の味なのである!』。
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色等諸法亦如是。凡夫心中各各別異。入般若波羅蜜中皆為一味。 |
色等の諸法も亦た是の如く、凡夫心中には各各別異なるも、般若波羅蜜中に入れば、皆一味を為す。 |
『色等の諸法』も、
是のように、
『凡夫心』中には、
『各各が!』、
『別異である!』が、
『般若波羅蜜中に入れば!』、
『皆が!』、
『一味と為るのである!』。
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邊名為相。若有若無實觀色等諸法非有非無故無相。無相即是無邊。觀是已即是無邊般若波羅蜜。 |
辺を名づけて相と為すに、若しは有り、若しは無けれども、色等の諸法を実観すれば、有に非ず、無に非ざるが故に無相なり。無相なれば則ち是れ無辺なり。是れを観已れば、則ち是れ無辺の般若波羅蜜なり。 |
『辺』を、
『相と称して!』、
『有や、無である!』が、
『色等の諸法を実観すれば!』、
『有でも、無でもない!』が故に、
『相』が、
『無く!』、
『無相とは、無辺である!』が故に、
是のように、
『観ること!』が、
『即ち、無辺の般若波羅蜜なのである!』。
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復次有人言。邊有二種。常邊斷邊世間邊涅槃邊惡邊善邊等。此中無如是等諸邊故名為無邊般若波羅蜜。 |
復た次ぎに、有る人の言わく、『辺には二種有り、常の辺と断の辺、世間の辺と涅槃の辺、悪の辺と善の辺等なり、と。此の中には是れ等の如き諸辺無きが故に名づけて、無辺の般若波羅蜜と為す。 |
復た次ぎに、
有る人は、こう言っているが、――
『辺には、二種有り!』、
『常の辺と、断の辺!』、
『世間の辺と、涅槃の辺!』、
『悪の辺と、善の辺等である!』、と。
此の、
『般若波羅蜜』中には、
是れ等のような、
『諸の辺』が、
『無い!』が故に、
是れを、
『無辺の般若波羅蜜』と、
『称するのである!』。
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復次有人言。邊名前際後際。世間無始故無前際。入無餘涅槃故有前際。不復更出故無後際。如是等分別諸邊。著世間故畏涅槃。是故般若波羅蜜中無是一切邊。但聞諸法實相無入無出。 |
復た次ぎに、有る人の言わく、『辺を前際、後際と名づくるに、世間には始無きが故に前際無く、無余涅槃に入るが故に前際有り、復た更に出でざるが故に後際無し』、と。是れ等の如く諸の辺を分別すれば、世間に著するが故に涅槃を畏れ、是の故に般若中には、是の一切の辺無く、但だ諸法の実相は入る無く、出づる無し、と聞くのみ。 |
復た次ぎに、
有る人は、こう言っているが、――
『辺とは、前際と後際である!』が、
『世間には、始が無い!』が故に、
『前際』が、
『無く!』、
『無余涅槃に入る!』が故に、
『前際』が、
『有る!』が、
『復た更に、無余涅槃を出ることはない!』が故に、
『後際』が、
『無い!』、と。
是れ等のように、
『諸の辺を分別すれば!』、
『世間に著することになる!』が故に、
『涅槃』を、
『畏れる!』ので、
是の故に、
『般若波羅蜜』中には、
是の、
『一切の辺』が、
『無く!』、
但だ、こう聞くだけである、――
『諸法の実相』は、
『入ることも、出ることも無い!』、と。
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問曰。諸法平等諸法離。皆是無邊。何以復別說。 |
問うて曰く、諸法の平等、諸法の離は、皆是れ無辺なるに、何を以ってか復た別に説くや。 |
問い、
『諸法の平等も、諸法の離』も、
『皆、無辺である!』が、
何故、復た、
『平等、離、無辺を!』、
『別けて説くのですか?』。
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答曰。有人知諸法平等。知諸法離。則不須說。若有人取相著是一味故說無邊。曇無竭非但為薩陀波崙故說。薩陀波崙亦不但自為故問。但為眾生有種種心種種行故。於般若波羅蜜相中略說 |
答えて曰く、有る人は諸法の平等を知り、諸法の離を知れば、則ち説を須たず。若し有る人、相を取れば、是の一味に著するが故に無辺を説く。曇無竭は但だ薩陀波崙の為めの故に説くに非ず。薩陀波崙も亦た但だ自らの為めの故に問うにあらず。但だ衆生には種種の心、種種の行有る為めの故に、般若波羅蜜の相中に於いて略説す。 |
答え、
有る人は、
『諸法の平等や、離を知る!』ので、
『説かれる!』のを、
『須たない!』が、
若し、
有る人が、
『相を取れば!』、
是の、
『相の一味』に、
『著することになる!』が故に、
是の、
『無辺の般若波羅蜜』を、
『説くのである!』。
『曇無竭』は、
但だ、
『薩陀波崙の為め!』の故に、
『般若波羅蜜の相』を、
『説いたのではく!』、
『薩陀波崙』も、
但だ、
『自らの為め!』に、
『般若波羅蜜』を、
『問うたのではない!』。
但だ、
『衆生』には、
『種種の心や、行( many kinds of mind and thinking )』が、
『有る為め!』の故に、
『般若波羅蜜の相』を、
『平等や、離や、一味や、無辺である!』と、
『略説したのである!』。
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無生無滅。如先種種因緣破生滅中說。虛空無邊。如摩訶衍。虛空譬喻中說。大海水無邊。須彌莊嚴先未說。故今當略說。 |
無生、無滅とは、先に種種の因縁もて、生滅を破する中に説けるが如し。虚空の無辺は、摩訶衍の虚空の譬喻中に説けるが如し。大海水の無辺と、須弥の荘厳は先より未だ説かざるが故に、今当に略説すべし。 |
『無生、無滅』は、
先に、
『生滅を破る種種の因縁』中に、
『説いた通りである!』。
『虚空の無辺』は、
『摩訶衍の虚空の譬喻』中に、
『説いた通りである!』。
『大海水の無辺、須弥の荘厳』は、
『先より、未だ説いていない!』が故に、
『今、略説せねばならない!』。
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問曰。虛空無為常法故無得其邊者。可言無邊。大海水在四天中繞須彌山有由旬數量。有人能渡。何以言無邊。 |
問うて曰く、虚空は無畏の常法なるが故に其の辺を得る者無ければ、無辺と言うべし。大海水は四天中に在って、須弥山を繞(めぐ)れば、由旬の数量有れば、有る人は能く渡らん。何を以ってか、無辺と言う。 |
問い、
『虚空は無為であり!』、
『常法である!』が故に、
其の、
『辺を得る!』者が、
『無い!』ので、
其れが、
『無辺である!』と、
『言ってもよい!』が、
『大海水』は、
『四天中に在って!』、
『須弥山』を、
『繞る!』ので、
『由旬の数量が有り!』、
『渡ることのできる!』、
『人すら有る!』のに、
何故、
『無辺だ!』と、
『言うのですか?』。
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答曰。無邊有二種。一者實無邊。二者人不能到故無邊。海亦有二種。一者可渡。二者繞須彌山在九寶山裏。廣八萬二千由旬。世間人不能得邊故言無邊。 |
答えて曰く、無辺には二種有りて、一には実の無辺、二には人の到る能わざるが故の無辺なり。海も亦た二種有りて、一には渡るべく、二には須弥山を繞りて、九宝山の裏(うち)に在りて、広さ八万二千由旬なれば、世間の人の辺を得る能わざるが故に無辺と言う。 |
答え、
『無辺には二種有り!』、
一には、
『実』の、
『無辺であり!』、
二には、
『到ることができない!』が故の、
『無辺である!』。
『海にも二種有り!』、
一には、
『渡ることのできる!』、
『海であり!』、
二には、
『須弥山を繞って!』、
『九宝山の裏に在り!』、
『広さが八万二千由旬である!』ので、
『世間の人には、辺を得ることができない!』が故に、
『無辺』と、
『言うのである!』。
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如小海船力可渡。大海水船力不可渡。唯有神通者能度。如外道凡夫能生禪定船。度欲界色界海。無色界如大海深廣。則不能渡。以不能破我心故。諸賢聖人智慧禪定翅力。破諸法邪相。得實相故能度。是故說大海譬喻。 |
小海は船の力もて渡るべきも、大海水は船の力もて渡るべからず、唯だ神通有る者のみ能く度るが如く、外道、凡夫の如きは能く禅定の船を生じて欲界、色界の海を度るも、無色界は大海の如く深広なれば、則ち渡る能わず、我心を破る能わざるを以っての故なり。諸の賢聖の人は、智慧と禅定の翅の力もて、諸法の邪相を破り、実相を得るが故に能く度る。是の故に大海の譬喻を説けり。 |
譬えば、
『小海』は、
『船の力』で、
『渡ることができる!』が、
『大海水』は、
『船の力』では、
『渡ることができず!』、
唯だ、
『神通を有する!』者だけが、
『渡ることができるように!』、
『外道、凡夫など!』は、
『禅定の船を生じて!』、
『欲界、色界の海』を、
『渡っても!』、
『大海のように深広な!』、
『無色界』は、
『渡ることができない!』、
何故ならば、
『我心』を、
『破ることができないからである!』。
『諸の賢聖の人』は、
『智慧と禅定の二翅の力』で、
『諸法の邪相を破り、実相を得る!』が故に、
『渡ることができる!』ので、
是の故に、
『大海の譬喻』を、
『説いたのである!』。
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問曰。須彌山一色何以言莊嚴。 |
問うて曰く、須弥山は一色なるに、何を以ってか荘厳と言う。 |
問い、
『須弥山は、一色なのに!』、
何故、
『荘厳』と、
『言うのですか?』。
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答曰。外書說須彌山一色純是黃金。六足阿毘曇中說須彌山四邊各以一寶成金銀頗梨琉璃莊嚴。若諸鳥隨所至方各同其色。難陀婆難陀龍王兄弟以身圍繞七匝。山頂有三十三天宮。其城七重名為喜見。九百九十九門。一一門邊皆有十六青衣大力鬼神守護城中。高處作殿名曰最勝。 |
答えて曰く、外書に説かく、『須弥山は一色にして、純ら是れ黄金なり』、と。六足阿毘曇中に説かく、『須弥山の四辺は各一宝を以って成じ、金、銀、玻璃、琉璃荘厳す。若しは諸鳥の至る所の方に随いて、各其の色を同じうす。難陀、婆難陀龍王兄弟、身を以って囲繞すること七匝す。山頂には三十三天の宮有り、其の城は七重にして名づけて喜見と為す。九百九十九門の一一の門の辺に、皆十六の青衣の大力の鬼神の守護する有り。城中の高き処に殿を作れば、名づけて最勝と曰う。 |
答え、
『外書』には、こう説かれている、――
『須弥山』は、
『一色であり!』、
『純ら、黄金である!』、と。
『六足阿毘曇』中には、こう説かれている、――
『須弥山の四辺』は、
各、
『一宝を用いて!』、
『成じており!』、
各は、
『金か、銀か、玻璃か、琉璃』が、
『荘厳している!』。
若し、
『諸の鳥が至れば!』、
其の、
『至る所の方に随って!』、
各の、
『色』が、
『同じである!』。
『須弥山』は、
『難陀、婆難陀龍王兄弟』が、
『身を用いて!』、
『七匝』、
『囲繞しており!』、
『三十三天宮が、山頂に有って!』、
『城は、七重であって!』、
『喜見城』と、
『称し!』、
『城の九百九十九門』は、
『一一の門の辺』が、
『皆、十六の青衣大力の鬼神に守護されている!』。
『城中の高処』には、
『殿が作られており!』、
『最勝と称される!』。
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四邊有四大園。四天王在四邊。有山名遊乾陀。各高四萬二千由旬。四天王治其上。四大海水諸阿修羅宮及諸龍王宮殿遊乾陀等九寶山日月五星二十八宿及諸餘星圍繞莊嚴。 |
四辺には四大園有り、四天王は四辺に在り。有る山を遊乾陀と名づけ、各高さ四万二千由旬なり。四天王は、其の上を治す。四大海の水は、諸の阿修羅の宮、及び諸の龍王の宮殿にして、遊乾陀等の九宝山、日月、五星、二十八宿、及び諸余の星囲繞して荘厳す』、と。 |
『須弥山の四辺』には、
『四大園が有り!』、
『四天王』も、
『四辺に在る!』。
『須弥山の四辺』の、
有る、
『山』を、
『遊乾陀と称し!』、
各は、
『高さ四万二千由旬であり!』、
其の、
『上』を、
『四天王が治めている!』。
『四大海水』は、
『諸の阿修羅や、諸の龍王』の、
『宮殿であり!』、
『遊乾陀等の九宝山』は、
『日月、五星、二十八宿や、諸余の星に囲繞されて!』、
『荘厳されている!』、と。
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如是等種種雜飾以為莊嚴。視之無厭。般若波羅蜜亦如是。六波羅蜜果報故。作轉輪王梵釋天王淨居天王大自在天。如是等果報行般若波羅蜜未具足時。受此果報莊嚴。般若波羅蜜具足時。則有須陀洹果斯陀含果阿那含果阿羅漢果辟支佛道阿毘跋致菩薩諸佛道果莊嚴。 |
是れ等の如き種種の雑飾を以って、荘厳と為すに、之を視て厭くる無し。般若波羅蜜も亦た是の如く、六波羅蜜の果報の故に転輪王、梵釈天王、浄居天王、大自在天と作り、是れ等の如き果報もて、般若波羅蜜を行ずれば、未だ具足せざる時にすら、此の果報の荘厳を受け、般若波羅蜜の具足する時には、則ち須陀洹果、斯陀含果、阿那含果、阿羅漢果、辟支仏道、阿鞞跋致の菩薩、諸の仏道の果の荘厳有り。 |
是れ等のような、
『種種の雑飾で、荘厳される!』ので、
『須弥山を視て!』、
『厭きることが無い!』が、
亦た、
『般若波羅蜜』も、
是のように、
『六波羅蜜の果報』の故に、
『転輪王、梵釈天王、浄居天王、大自在天』と、
『作るような!』、
是れ等のような、
『果報』が、
『有る!』ので、
『般若波羅蜜を行じれば!』、
『未だ、般若波羅蜜が具足しない!』時にも、
此のような、
『果報の荘厳』を、
『受けるのであり!』、
『般若波羅蜜が具足した!』時には、
『須陀洹乃至阿羅漢果、辟支仏道、阿鞞跋致の菩薩、諸の仏道の果の荘厳』が、
『有るのである!』。
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如須彌山上下皆有莊嚴。般若波羅蜜莊嚴亦爾。未具足時。諸天王等莊嚴。具足已諸道果莊嚴。 |
須弥山の上下は、皆荘厳有るが如く、般若波羅蜜の荘厳も亦た爾く、未だ具足せざる時には、諸の天王等荘厳し、具足し已れば諸の道果荘厳す。 |
『須弥山の上下』には、
『般若波羅蜜』も、
爾うであり、
『未だ具足しない!』時には、
『諸の天王』等が、
『荘厳し!』、
『已に具足した!』時には、
『諸の道果』が、
『荘厳するのである!』。
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如須彌山者劫初立時四邊大風吹聚地之精味積為須彌山。更有風吹令堅而成寶。般若波羅蜜亦如是。一切善法中第一堅實牢固和合以為般若。 |
須弥山の如きは、劫初の立つ時、四辺に大風吹きて、地の精味を聚めて、積みて須弥山と為し、更に風の吹く有りて、堅からしめ、宝を成ずるに、般若波羅蜜も亦た是の如く、一切の善法中に第一の堅実、牢固の和合を以って般若と為す。 |
譬えば、
『須弥山』は、
『劫初の立つ!』時、
『四辺より、大風が吹いて!』、
『地の精味を聚め( to aggregate the essence of earth )!』、
『積んで、須弥山と為し!』、
『更に、風が有って吹き!』、
『須弥山を堅くして!』、
『宝を成じるように!』、
亦た、
『般若波羅蜜』も、
是のように、
『一切の善法』中の、
『第一の堅実、牢固が和合して!』、
『般若と為るのである!』。
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如須彌山。四邊大風吹。大海水波所不能動。般若波羅蜜亦如是。邪見外道戲論及諸魔民所不能動。 |
須弥山の如きは、四辺より大風、大海水を吹くも、波の動かす能わざる所なり。般若波羅蜜も亦た是の如く、邪見、外道、戯論、及び諸の魔民の動かす能わざる所なり。 |
譬えば、
『須弥山』は、
『四辺の大風が、大海水を吹いても!』、
『波』に、
『動かされない!』が、
亦た、
『般若波羅蜜』も、
是のように、
『邪見、外道、戯論や、諸の魔民』には、
『動かされないのである!』。
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如須彌山頂四園。諸天到者受種種樂。般若亦如是。行者能登般若頂到四禪等諸定園中受種種樂。 |
須弥山頂の四園の如きは、諸天到れば、種種の楽を受くるも、般若も亦た是の如く、行者は能く般若の頂に登りて、四禅等の諸定の園中に到れば、種種の楽を受く。 |
譬えば、
『須弥山の頂の四園』に、
『諸天が到れば!』、
『種種の楽』を、
『受けるのである!』が、
亦た、
『般若』も、
是のように、
『行者が、般若の頂に登ることができれば!』、
『四禅等の諸定の園中に到って!』、
『種種の楽を受けるのである!』。
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復次有人言。須彌山眾鳥到者皆同一色。般若波羅蜜亦如是。諸法入中皆同一相。所謂無相 |
復た次ぎに、有る人の言わく、『須弥山に衆鳥到れば、皆一色に同ずるが如く、般若波羅蜜も亦た是の如く、諸法が中に入れば、皆一相に同じうす。謂わゆる無相なり』、と。 |
復た次ぎに、
有る人は、こう言っている、――
『須弥山』に、
『衆鳥が到れば!』、
『皆、同じく一色となるように!』、
『般若波羅蜜』も、
是のように、
『諸法が、般若波羅蜜中に入れば!』、
『皆、同じく一相となり!』、
『謂わゆる無相である!』、と。
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如虛空無分別者。虛空無分別是內是外是遠是近是長是短是淨是不淨等。般若波羅蜜亦如是。諸法入般若中亦無內外善不善等分別。 |
虚空に分別無きが如しとは、虚空を是れは内、是れは外、是れは遠、是れは近、是れは長、是れは短、是れは浄、是れは不浄等なりと分別する無ければなり。般若波羅蜜も亦た是の如く、諸法は般若中に入れば、亦た内外、善不善等の分別無きなり。 |
『虚空のように、分別が無い!』とは、――
『虚空』には、
『是れは内である、是れは外である!』とか、
『是れは遠である、是れは近である!』とか、
『是れは長である、是れは短である!』とか、
『是れは浄である、是れは不浄である!』等の、
『分別』が、
『無いように!』、
『般若波羅蜜』も、
是のように、
『諸法が、般若中に入れば!』、
『内外や、善不善等の分別』が、
『無くなるのである!』。
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如五眾無邊者。五眾常遍滿世間。般若波羅蜜亦如是。不遠離於五眾。五眾實相即是般若波羅蜜。 |
五衆の如く辺無しとは、五衆は常に世間に遍満すれば、般若波羅蜜も亦た是の如く、五衆を遠離せず。五衆の実相は即ち是れ般若波羅蜜なればなり。 |
『五衆のように、無辺である!』とは、――
『五衆』は、
『世間』に、
『常に遍満している!』が、
『般若波羅蜜』も、
是のように、
『五衆』を、
『遠離することがない!』。
何故ならば、
『五衆の実相』が、
『即ち、般若波羅蜜だからである!』。
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復次如色等法。分析破裂乃至微塵則無方。無方故無邊。無色法無形故無此彼。無此彼故無邊。般若波羅蜜亦如是。於一切法分別色。乃至微塵分別無色法。乃至一念中不見決定有常樂我淨。是故說色無邊故般若無邊。乃至虛空六種亦如是。 |
復た次ぎに、色等の法を分析し乃至微塵まで破裂すれば、則ち方無く、方無きが故に辺無く、無色の法は無形なるが故に此れ彼れ無く、此れ彼れ無きが故に辺無きが如く、般若波羅蜜も亦た是の如く、一切法に於いて色を乃至微塵まで分別し、無色の法を乃至一念中まで分別すれば、決定して常楽我淨有るを見ず。是の故に説かく、『色は無辺なるが故に般若は無辺なり』、と。乃至虚空、六種も亦た是の如し。 |
復た次ぎに、
『色等の法を分析して!』、
『乃至微塵まで破裂すれば!』、
『方』は、
『無くなり!』、
『方が無い!』が故に、
『辺』が、
『無く!』、
『無色法』は、
『形が無い!』が故に、
『此れ、彼れ!』が、
『無く!』、
『此れ、彼れが無い!』が故に、
『辺』が、
『無いように!』、
『般若波羅蜜』も、
是のように、
『一切法』に於いて、
『色』を、
『乃至微塵まで!』、
『分別し!』、
『無色法』を、
『乃至一念中まで!』、
『分別すれば!』、
『決定して有るような!』、
『常、楽、我、浄』を、
『見ることはない!』ので、
是の故に、こう説くのであり、――
『色が無辺である!』が故に、
『般若』は、
『無辺である!』、と。
乃至、
『虚空や、六種』も、
『是の通りである!』。
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如金鋼等者如天王所執金鋼無憎無愛。隨所用處無不摧碎。諸佛一切智前心。此心中三昧能斷一切結使煩惱顛倒。及習皆滅故名為如金鋼。 |
如金剛の等とは、天王所執の金剛は憎無く、愛無く、所用の処に随いて、摧砕せざる無きが如き、諸仏の一切智の前心は、此の心中の三昧は、能く一切の結使、煩悩、顛倒、及び習を断じて、皆滅するが故に名づけて如金剛と為す。 |
『如金剛が等である!』とは、――
『天王所執の金剛』には、
『憎、愛が無く!』、
『用いられた処のままに!』、
『摧砕しないこと!』が、
『無いように!』、
『諸仏の一切智という!』、
『前心中の三昧( the concentration of the prior mind )』は、
『一切の結使、煩悩、顛倒及び習を断じて!』、
『皆、滅することができる!』が故に、
『如金剛と称するのである!』。
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前心(ぜんしん):梵語 prathama-citta-utpaada, vyutthaana-citta の訳、前端的精神状態( prior mental
state )の義、最初に現れる精神状態( the mental state that comes first )の意。 |
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如金鋼三昧相應智慧觀一切法皆平等。般若波羅蜜觀諸法平等亦如是。何以故。般若先觀諸法平等。然後得是三昧。 |
如金剛三昧相応の智慧もて、一切法を観れば、皆平等なり。般若波羅蜜もて諸法の平等を観れば、亦た是の如し。何を以っての故に、般若もて先に諸法の平等を観て、然る後に是の三昧を得ればなり。 |
『如金剛三昧に相応する!』、
『智慧で観れば!』、
『一切法』は、
『皆、平等である!』が、
亦た、
『般若波羅蜜で観る!』、
『諸法の平等』も、
『是の通りである!』。
何故ならば、
『般若』で、
先に、
『諸法の平等』を、
『観て!』、
その後、
『如金剛三昧』を、
『得るからである!』。
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諸法無分別者。世間凡夫煩惱力故種種分別諸法。得諸法實相則皆破壞變異。是故聖人得般若波羅蜜。不隨憶想分別諸法。入空無相無作三昧中。若得諸法變異時則不憂愁。以先來不分別取諸法相故。 |
諸法に分別無しとは、世間の凡夫は煩悩の力の故に種種に諸法を分別するも、諸法の実相を得れば、則ち皆破壊して変異すればなり。是の故に聖人は般若波羅蜜を得て、憶想に随いて諸法を分別せず、空、無相、無作三昧中に入れば、若し諸法の変異を得る時にも則ち憂愁せず。先より来、諸法の相を分別して取らざるを以っての故なり。 |
『諸法には、分別が無い!』とは、――
『世間の凡夫』は、
『煩悩の力』の故に、
『諸法』を、
『種種に分別する!』が、
『諸法の実相を得れば!』、
『諸法』は、
『皆、破壊し変異する!』ので、
是の故に、
『聖人』は、
『般若波羅蜜を得て!』、
『憶想に随って!』、
『諸法』を、
『分別せず!』、
『空、無相、無作三昧中に入って!』、
若し、
『諸法の変異を得た( to recognize any change of dharmas )!』時にも、
『憂愁することがない!』。
何故ならば、
先より、
『諸法の相を取って!』、
『分別することがないからである!』。
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諸法性不可得者。一切法皆從因緣和合生無有無因緣。若少因緣而起者。若從因緣生則無自性。 |
諸法の性の不可得とは、一切法は、皆因縁の和合より生ずれば、無因縁有ること無く、若し因縁少くして起る者なりとも、若し因縁より生ずれば、則ち自性無し。 |
『諸法の性は不可得である!』とは、――
『一切法は、皆因縁和合より生じる!』ので、
『因縁の無い!』者は、
『無い!』。
若し、
『少因縁で、起ったとしても!』、
若し、
『因縁より生じれば!』、
『自性は無いはずである!』。
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性者名本有決定實事。若性從因緣和合邊生。當知未和合時則無。若先無今從因緣和合有者則知無性。若從因緣而生性者。性即是作法。性名不相待不相因。常應獨有。如是有為法則無。是故言一切諸法性不可得。般若波羅蜜性亦爾。 |
性とは本より、決定せる実事有りと名づく。若し性にして、因縁和合の辺より生ずれば、当に知るべし、未だ和合せざる時には則ち無し。若し先に無くして、今因縁和合より有らば、則ち無性なりと知る。若し因縁より性を生ずれば、性は即ち是れ作法ならん。性を相待せず、相因せずと名づくるに、常に応に独り有るべきも、是の如き有為法は則ち無し。是の故に言わく、『一切の諸法の性は不可得にして、般若波羅蜜の性も亦た爾り』、と。 |
『性』とは、
本より、
『決定した実事』が、
『有るということである!』が、
若し、
『性』が、
『因縁の和合の辺より!』、
『生じれば!』、
当然、こう知らねばならぬ、――
『未だ、和合しない!』時には、
『無いはずである!』、と。
若し、
『先に無く、今因縁の和合より有れば!』、
『性が無い!』と、
『知ることになる!』。
若し、
『因縁より!』、
『性』を、
『生じれば!』、
即ち、
『性』とは、
『作法だということになる!』。
『性』とは、
『相待して有るのでもなく!』、
『相因して有るのでもなく!』、
常に、
『独りで!』、
『有るはずである!』が、
是のような、
『有為法』は、
『無い!』ので、
是の故に、こう言う、――
『一切の諸法の性』は、
『不可得であり!』、
亦た、
『般若波羅蜜の性』も、
『爾うなのである!』、と。
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諸法無所有等故者。諸法性不可得故眾因緣亦不可得。眾因緣亦不可得故皆是無所有。入無所有中故則皆平等。所以者何。有故有分別。無故無分別。如草香栴檀香燒時有分別滅時無分別。 |
諸法の無所有にして、等の故にとは、諸法の性は不可得なるが故に衆因縁も亦た不可得なり。衆因縁の亦た不可得なるが故に皆、是れ無所有なり。無所有中に入るが故に則ち皆平等なり。所以は何んとなれば、有の故に分別有り。無の故に分別無し。草の香、栴檀の香は焼くる時、分別有るも、滅する時には分別無きが如し。 |
『諸法が無所有であり、等であるが故に!』とは、――
『諸法』は、
『性として不可得である!』が故に、
『衆因縁』も、
『不可得であり!』、
『衆因縁も不可得である!』が故に、
『諸法も、性も、衆因縁も!』、
『皆、無所有なのである!』が、
『無所有中に入る!』が故に、
『諸法』は、
『皆、平等なのである!』。
何故ならば、
『有の故に、分別が有り!』、
『無』の故に、
『分別が無いからである!』。
譬えば、
『草の香も、栴檀の香も!』、
『焼く!』時には、
『分別』が、
『有る!』が、
『滅する!』時には、
『分別』が、
『無いようなものである!』。
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諸法無作者。眾生空法。空故則皆無作。眾生所作者。所謂十善十不善等法。作者所謂火然水流風動。識能識智能知。如是法各各自有力。無眾生乃至無知者見者。無色等乃至一切種智先已破。破眾生故無作者。破法故無所作。但凡夫人顛倒覆故言我有所作。 |
諸法の無作とは、衆生空、法空の故に則ち皆、無作なり。衆生の所作とは、謂わゆる十善、不十善等なり。法の作とは、謂わゆる火の然、水の流、風の動、識の能識、智の能知、是の如き法には各各自ら力有り。衆生無きこと、乃至知者見者まで無く、色等無きこと、乃至一切種智まで、先に已に破れば、衆生を破るが故に作者無く、法を破るが故に所作無く、但だ凡夫人は顛倒に覆わるるが故に、『我れに所作有り』、と言うのみ。 |
『諸法の無作』とは、――
『衆生空、法空』の故に、
『諸法』には、
『皆、作が無い!』。
『衆生の所作』とは、
謂わゆる、
『十善や!』、
『不十善等であり!』、
『法の作』とは、
謂わゆる、
『火の然や( the burning-action of fire )!』、
『水の流や( the flowing-action of water )!』、
『風の動や( the moving-action of wind )!』、
『識の能識や( the knowing-operation of mind )!』、
『智の能知( the knowing-action of wisdom )であり!』、
是のような、
『法』には、
『各各に、自らの力が有る!』。
『衆生』は、
『法』は、
『色等、乃至一切種智まで!』、
『無い!』と、
『先に已に破った!』ので、
『衆生を破った!』が故に、
『作者』が、
『無く!』、
『法を破った!』が故に、
『所作』が、
『無く!』、
但だ、
『凡夫人は、顛倒に覆われる!』が故に、
『わたしには、所作が有る!』と、
『言うだけである!』。
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能知(のうち):梵語 jJaanin の訳、知識/知性を授けられた( endowed with knowledge or intelligence
)の義、知る行為( the act of knowing )の意。
能識(のうしき):梵語 vijaanaati の訳、知る/識る作用( operation of knowing )の義。 |
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諸法不可思議者。色等一切法不得決定。若常若無常若苦若樂若實若空若我若無我若生滅若不生滅若寂滅若不寂滅若離若不離若有若無等。種種門分別亦如是。不可得思議。 |
諸法の不可思議とは、色等の一切法は、決定して若しは常、若しは無常、若しは苦、若しは楽、若しは実、若しは空、若しは我、若しは無我、若しは生滅、若しは不生滅、若しは寂滅、若しは不寂滅、若しは離、若しは不離、若しは有、若しは無等を得ず。種種の門を分別するも亦た是の如く思義するを得べからず。 |
『諸法を思義することができない!』とは、――
『色等の一切法』は、
『常無常、苦楽、実空、我無我、生滅不生滅、寂滅不寂滅、離不離、有無』等を、
『決定することができず!』、
是のように、
『種種の門の分別』も、
『思義することができない!』。
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所以者何。是法皆從心中憶想分別生。亦不可決定。一切法實性皆過心心數法。出名字語言道。如前品說。一切諸法平等。一切賢聖不能行不能到。是故不可思議。般若波羅蜜亦爾。觀是法故生。 |
所以は何んとなれば、是の法は皆心中の憶想、分別より生ずれば、亦た決定すべからず。一切法の実性は、皆心心数法を過ぎ、名字語言の道を出づればなり。前の品に説けるが如く、一切の諸法は平等にして、一切の賢聖も行ずる能わず、到る能わず、是の故に不可思議なり。般若波羅蜜も亦た爾く、是の法を観ずるが故に生ず。 |
何故ならば、
是の、
『法』は、
皆、
『心中の憶想、分別より!』、
『生じる!』ので、
亦た、
『決定することができず!』、
『一切法の実性』は、
皆、
『心心数法を過ぎ!』、
『名字、語言の道を出るからである!』。
前品に説かれたように、――
『一切の諸法は平等であり!』、
『一切の賢聖にすら!』、
『行じることができず!』、
『到ることもできない!』ので、
是の故に、
『諸法』は、
『不可思議である!』が、
『般若波羅蜜』も、
爾うであり、
是のような、
『法を観る!』が故に、
『生じるのである!』。
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是時薩陀波崙即於坐上得諸三昧。問曰。薩陀波崙先已知諸法空相。今種種勤苦住立七歲。見曇無竭得何等利益。 |
是の時、薩陀波崙は、即ち坐上に於いて諸の三昧を得。問うて曰く、薩陀波崙は、先に已に諸法の空相を知れば、今種種に勤苦して、七歳住して立ち、曇無竭を見るに、何等の利益をか得る。 |
是の時、
『薩陀波崙は、坐上に於いて!』、
『諸の三昧』を、
『得た!』。
問い、
『薩陀波崙』は、
先に已に、
『諸法の空相』を、
『知っている!』のに、
今、
『種種に勤苦して!』、
『七歳立ったままで!』、
『住し!』、
『曇無竭を見たのである!』が、
何のような、
『利益』を、
『得たのですか?』。
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答曰。薩陀波崙先見諸佛得諸三昧。貴重般若波羅蜜生著相。今曇無竭七歲從定起。為說般若破其著心。一切法性自空。非般若波羅蜜令其空。是故說諸法等故般若波羅蜜等諸法離相。乃至諸法不可思議故。般若不可思議。不令輕賤餘法貴重般若。 |
答えて曰く、薩陀波崙は先に諸仏を見て、諸の三昧を得るも、般若波羅蜜を貴重して、著相を生ずるに、今曇無竭は七歳にして定より起ち、為めに般若を説いて、其の著心を破る。一切の法性は自ら空にして、般若波羅蜜、其れをして空ならしむるに非ず。是の故に説かく、『諸法は等なるが故に般若波羅蜜は等なり。諸法の離相、乃至諸法の不可思議なるが故に般若は不可思議なり』、と。餘法を軽賎して、般若を貴重せしめず。 |
答え、
『薩陀波崙』は、
『先に諸仏を見て、諸の三昧を得ながら!』、
『般若波羅蜜を貴重する!』が故に、
『著相』を、
『生じた!』ので、
『曇無竭』は、
『今、七歳の定より起ち!』、
『薩陀波崙の為めに、般若を説いて!』、
『薩陀波崙の著心』を、
『破ったのである!』が、
『一切の法性は、自ら空であり!』、
『般若波羅蜜』が、
『諸法の性』を、
『空にしたのではない!』ので、
是の故に、こう説き、――
『諸法が等である!』が故に、
『般若波羅蜜』は、
『等なのであり!』、
『諸法の離、乃至諸法の不可思議である!』が故に、
『般若』は、
『不可思議なのである!』、と。
『餘法を軽賎させ!』て、
『般若』を、
『貴重させることがないのである!』。
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何以故。不令因般若故更生垢著。般若波羅蜜雖畢竟清淨多所饒益。復不可取相而生著心。如熱金雖好不可手捉。薩陀波崙得是教化斷般若中著心。即得諸法等諸三昧 |
何を以っての故に、般若に因らしむるが故に更に垢著を生ぜしめざればなり。般若波羅蜜は、畢竟清浄にして饒益する所多しと雖も、復た相を取りて著心を生ずべからず。熱金は、好しと雖も手に捉るべからざるが如し。薩陀波崙は、是の教化を得て、般若中の著心を断ずれば、即ち諸法等の諸三昧を得。 |
何故ならば、
『般若に因る!』が故に、
更に、
『垢著』を、
『生じさせないからである!』。
『般若波羅蜜』は、
『畢竟清浄であり!』、
『饒益する!』所も、
『多い!』が、
『復た、相を取って!』、
『著心』を、
『生じてはならない!』。
譬えば、
『熱金が好もしくとも!』、
『手に!』、
『捉るべきでないようなものである!』。
『薩陀波崙』は、
是の、
『教化を得る!』と、
『般若中の著心』を、
『断じることになり!』、
即ち、
『諸法等三昧等の諸三昧』を、
『得た!』。
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句句解說。散亂心中但有智慧不名三昧。今從師聞已一心思惟名為三昧。攝心不散智慧變成三昧。 |
句句に解説せるは、散乱心中に但だ智慧有るを、三昧とは名づけず。今、師より聞き已りて、一心に思惟すれば、名づけて三昧と為す。心を摂して散ぜざれば、智慧変じて三昧と成るなり。 |
『諸の三昧を句句に解説した!』のは、
『散乱心』中に、
但だ、
『智慧が有るだけでは!』、
『三昧』と、
『称されない!』が、
今、
『師より聞いて、一心に思惟した!』ので、
『三昧』と、
『称するのである!』。
即ち、
『心を摂して、散じなければ!』、
『智慧が変じて!』、
『三昧と成るのである!』。
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如風中燈不能照明在靜室閉門明乃遍照。先已欲界心散亂故智慧力未成就。今入攝心中所聞諸法皆名三昧。能破諸煩惱等及魔人民。 |
風中の灯は、照明する能わざるも、静室に在りて門を閉づれば、明は乃ち遍く照すが如し。先に已に欲界心の散乱せるが故に智慧力未だ成就せざるも、今摂心中に入れば、所聞の諸法は皆三昧と名づけ、能く諸の煩悩等及び魔の人民を破す。 |
譬えば、
『風』中に、
『灯が在れば!』、
『照明することができない!』が、
『静室に在って、門が閉じられていれば!』、
乃ち( and then )、
『明』が、
『遍く照すように!』、
先には、
『已に、欲界心が散乱していた!』が故に、
未だ、
『智慧の力』が、
『成就していなかった!』が、
今は、
『摂心中に入った!』ので
『聞いた!』所の、
『諸法』を、
『皆、三昧と称して!』、
即ち、
『諸の煩悩等や、魔の人民』を、
『破ることができるのである!』。
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如水寒風未至未成為冰則無堅用若成凍冰能有所蹈。得如是等六百萬三昧門。薩陀波崙得聞曇無竭所說法。得諸法中大智慧明。所謂種種諸法實相門 |
水と寒風と未だ至らざれば、未だ成じて、氷と為らず、則ち堅の用無く、若し凍りて氷と成らば、能く踏む所有るが如し。是れ等の如き、六百万の三昧門を得て、薩陀波崙は曇無竭の所説の法を聞くを得、諸法中の大智慧の明を得。謂わゆる種種の諸法実相の門なり。 |
譬えば、
『水』に、
『寒風が至らず!』、
未だ、
『氷』と、
『成らなければ!』、
『堅いという!』、
『用( utility )』が、
『無い!』が、
若し、
『凍って、氷に為れば!』、
『踏む!』所が、
『有るようなものである!』。
是れ等のような、
『六百万の三昧門を得た!』ので、
『薩陀波崙』は、
『曇無竭の説く!』所の、
『法』を、
『聞くことができ!』、
『諸法』中に、
『大智慧の明』を、
『得た!』。
謂わゆる、
『種種の諸法の実相の門』を、
『得たのである!』。
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諸法平等。平等是智慧。入薩陀波崙禪定心中變為三昧。今欲說三昧智慧。今世後世果報故。 |
諸法の平等とは、平等とは是れ智慧にして、薩陀波崙の禅定心中に入りて、変じて三昧と為る。今、三昧の智慧を説かんと欲するは、今世、後世の果報なるが故なり。 |
『諸法の平等』とは、――
『平等とは、智慧である!』が、
『薩陀波崙の禅定心中に入れば!』、
『智慧が変じて!』、
『三昧と為るのである!』が、
『今、三昧の智慧を説こうとする!』のは、
是の、
『三昧』が、
『今世、後世の果報だからである!』。
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爾時佛告須菩提。如我今在大眾中說般若。以是相以是像貌以是名字說般若。薩陀波崙從曇無竭得是三昧。於三昧中見十方佛。在大眾中說般若亦如是。 |
爾の時、仏の須菩提に告げたまわく、『我が今の大衆中に在りて、般若を説くに、是の相を以って、是の像貌を以って、是の名字を以って般若を説けるが如く、薩陀波崙は、曇無竭より、是の三昧を得て、三昧中に於いて十方の仏の大衆中に在りて、般若を説けるを見るも亦た是の如し』、と。 |
爾の時、
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
わたしが、
今、
『大衆中に在って!』、
『般若を説く!』時、
是のような、
『相、像貌、名字を用いて!』、
『般若を説くように!』、
『薩陀波崙』は、
『曇無竭より!』、
是の、
『三昧』を、
『得て!』、
『三昧中に於いて!』、
『十方の仏』が、
是のように、
『大衆中に在って、般若を説く!』のを、
『見たのである!』。
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須菩提。薩陀波崙從是以後深愛樂法故多集諸經。廣誦多聞如阿難佛所說皆能持。薩陀波崙亦如是。多聞智慧不可思議如大海水。即於是世常不離佛。如是等名為今世果報。 |
『須菩提、薩陀波崙は、是れより以後、深く法を愛楽するが故に、多く諸経を集め、広く誦し、多く聞くこと、阿難の仏の所説を皆能く治するが如く、薩陀波崙も亦た是の如く、多聞、智慧の不可思議なること大海水の如く、即ち是の世に於いて、常に仏を離れず』、と。是れ等の如きを名づけて、今世の果報と為す。 |
――
須菩提!
『薩陀波崙』は、
是れ以後、
『深く、法を愛楽する!』が故に、
『広く誦し!』、
『多く聞いて!』、
『阿難』が、
『仏の所説』を、
『皆、持することができたように!』、
『薩陀波崙』も、
是のように、
『大海水のように!』、
『多聞や、智慧が不可思議だったのであり!』、
即ち、
是の、
『世に於いて!』、
『常に、仏を離れなかったのである!』、と。
是れ等のようなことを、
『今世の果報』を、
『称するのである!』。
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捨身常生有佛國中。好修行念佛三昧故。乃至夢中初不離見佛。地獄等諸難皆已永絕。隨意往生諸佛國土。以其深入般若波羅蜜集無量功德故不隨業生。 |
身を捨つれば、常に有仏の国中に生じ、好んで念仏三昧を修行するが故に、乃至夢中にすら初めより、仏を見るを離れず、地獄等の諸難は皆已に永絶し、隨意に諸仏の国土に往生するも、其の深く般若に入りて、無量の功徳を集むるを以っての故に業に随って生ぜず。 |
『薩陀波崙』は、
『身を捨てれば!』、
『好んで、念仏三昧を修行する!』が故に、
『乃至、夢中にすら!』、
初より、
『仏を見ること!』を、
『離れず!』、
已に、
『地獄等の諸難』は、
『永く絶え!』、
意のままに、
『諸仏の国土』に、
『往生する!』が、
『深く、般若波羅蜜に入って!』、
『無量の功徳を集めた!』が故に、
『業に随って!』、
『生じることはない!』。
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薩陀波崙從一佛土至一佛土。供養諸佛度脫眾生。集無量功德。譬如豪貴長者。從一會至一會。乃至今在大雷音佛所淨修梵行。 |
薩陀波崙は、一仏土より一仏土に至り、諸仏を供養して衆生を度脱し、無量の功徳を集むること、譬えば富貴の長者の一会より一会に至るが如く、乃ち今に至るまで大雷音仏の所に在りて、梵行を浄修す。 |
『薩陀波崙』は、
譬えば、
『富貴の長者』が、
『一会より、一会に至るように!』、
『一仏土より、一仏土に至りながら!』、
『諸仏を供養して!』、
『無量の衆生』を、
『度脱し!』、
『無量の功徳を集めながら!』、
『乃ち今に至るまで、大雷音仏の所に在って!』、
『梵行を!』、
『浄修しているのである!』。
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若有欲求般若波羅蜜者。當如薩陀波崙菩薩堅正一心不可傾動。是故當知般若波羅蜜因緣故。能成就一切功德者。諸菩薩等得般若者。貪欲瞋恚等。在家罪垢邪疑戲論等。出家罪垢皆悉除滅得心清淨。心清淨故得一切功德成就。 |
若し般若波羅蜜を求めんと欲する者有らば、当に薩陀波崙菩薩の如く、一心を堅く正すべく、傾動すべからず。是の故に、『当に知るべし、般若波羅蜜の因縁の故に、能く一切の功徳を成就す』とは、諸の菩薩等は、般若を得れば、貪欲、瞋恚等の在家の罪垢と、邪疑、戯論等の出家の罪垢と皆悉く除滅し、心清浄を得て、心清浄なるが故に、一切の功徳の成就するを得。 |
若し、
『般若波羅蜜を求めようとする者が有れば!』、
当然、
『薩陀波崙のように!』、
『一心を正して!』、
『堅持しながら!』、
『傾動させてはならない!』。
是の故に、
こう知らねばならない、――
『般若波羅蜜の因縁』の故に、
『一切の功徳』を、
『成就することができる!』、と。
何故ならば、
『諸の菩薩』等が、
『般若波羅蜜を得れば!』、
『貪欲、瞋恚等の在家の罪垢も、邪疑、戯論等の出家の罪垢も!』、
『皆、悉く除滅して!』、
『心に清浄を得!』、
『心が清浄である!』が故に、
『一切の功徳』を、
『成就させることができるのである!』。
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得一切種智者。所謂得阿耨多羅三藐三菩提。六波羅蜜者。從初地乃至七地得無生忍法。八地九地十地是深入佛智慧。得一切種智成就作佛。於一切法得自在者。皆應受持乃至華香妓樂。 |
一切種智を得とは、謂わゆる阿耨多羅三藐三菩提を得るなり。六波羅蜜とは、初地より乃至七地にして、無生法忍を得る八地、九地、十地は是れ仏の智慧に深入し、一切種智を得れば、成就して仏と作るなり。一切法に於いて自在を得れば、皆応に受持乃至華香、妓楽なるべし。 |
『一切種智を得る!』とは、
謂わゆる、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得ることである!』。
『六波羅蜜』とは、
『初地乃至七地』の、
『行であり!』、
『無生法忍を得た!』、
『八地、九地、十地』は、
『仏の智慧』に、
『深く入り!』、
『一切種智を得て!』、
『仏と作ること!』を、
『成就し!』、
『一切法に、自在を得れば!』、
皆、
『般若波羅蜜』を、
『受持するはずであり!』、
乃至、
『華香、妓楽』で、
『供養されるはずである!』。
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須菩提雖常樂空行。佛共說般若。又得無諍三昧故不應囑累。阿難得聞持陀羅尼。又常親近世尊故廣囑累 |
須菩提は、常に空行を楽しむと雖も、仏は共に般若を説きたもうも、又無諍三昧を得るが故に応に嘱累すべからず。阿難は聞持陀羅尼を得て、又常に世尊に親近せるが故に広く嘱累したまえり。 |
『須菩提』は、
『常に、空行を楽しみ!』、
『仏は共に!』、
『般若を説かれた!』が、
『又、無諍三昧を得ていた!』が故に、
『般若』を、
『嘱累されるはずがない!』。
『阿難』は、
『聞持陀羅尼を得ており!』、
又、
『世尊』に、
『常に親近していた!』が故に、
『仏』は、
『般若』を、
『広く嘱累されたのである!』。
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