巻第九十(下)
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大智度論釋實際品第八十
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


【論】衆生が不可得ならば、誰の為めに般若波羅蜜を行じるのか?

【論】釋曰。上品中須菩提種種因緣難。若諸法空。云何有五道生死善不善法。今難眾生作是言。世尊。若眾生畢竟不可得。菩薩為誰故行般若。先難法為眾生。今難眾生為法故。佛答。為實際故菩薩行般若波羅蜜。須菩提意。謂菩薩為度眾生故行般若波羅蜜。 釈して曰く、上の品中に須菩提は、種種の因縁もて難ずらく、『若し諸法にして空ならば、云何が五道の生死、善不善の法有らんや』、と。今は衆生を難じて、是の言を作さく、『世尊、若し衆生にして畢竟じて不可得なれば、菩薩は誰の為めの故にか、般若を行ずるや』、と。先に法を難ずるは衆生の為めにして、今衆生を難ずるは法の為めの故なり。仏の答えたまわく、『実際の為めの故に、菩薩は般若波羅蜜を行ず』、と。須菩提の意に謂わく、『菩薩は衆生を度せんが為めの故に、般若波羅蜜を行ず』、と。
釈す、
上の品中に、
『須菩提』は、
『種種の因縁を挙げて!』、
『諸法』を、こう難じたが、――
若し、
『諸法が空ならば!』、
何故、
『五道の生死や、善不善の法』が、
『有るのか?』、と。
今は、
『衆生を難じて!』、こう言ったのである、――
世尊!
若し、
『衆生が、畢竟じて不可得ならば!』、
『菩薩は、誰の為め!』の故に、
『般若』を、
『行じるのですか?』、と。
先に、
『法を難じた!』のは、
『衆生』を、
『為そうとした( to establish )からであり!』、
今、
『衆生を難じた!』のは、
『法』を、
『為そうとしたからである!』。
『仏』は、こう答えられたが、――
『実際を為そうとする!』が故に、
『菩薩』は、
『般若波羅蜜』を、
『行じるのである!』、と。
『須菩提の意』は、こう謂ったのである、――
『菩薩』は、
『衆生を度す為め!』の故に、
『般若波羅蜜』を、
『行じるのである!』、と。
佛意眾生假名虛誑畢竟不可得。菩薩為一切實法故行般若波羅蜜。實法即是實際。 仏の意は、『衆生は仮名、虚誑にして畢竟じて不可得なるも、菩薩は一切実法の為めの故に、般若波羅蜜を行ず』、となり。実法とは、即ち是れ実際なり。
『仏の意』は、こうである、――
『衆生』は、
『仮名、虚誑であり!』、
『畢竟じて不可得である!』が、
『菩薩』も、
『一切の実法の為め( to intend to establish all real dharmas )!』の故に
『般若波羅蜜を行じるのである!』、と。
『実法』とは、
即ち、是れが、
『実際なのである!』。
問曰。一切菩薩見眾生苦惱。為度眾生故發大悲心。今何以言為實際。 問うて曰く、一切の菩薩は、衆生の苦悩を見て、衆生を度せんが為めの故に、大悲心を発す。今は何を以ってか、実際の為めにと言う。
問い、
『一切の菩薩』は、
『衆生』の、
『苦悩』を、
『見て!』、
『衆生を度す為め!』の故に、
『大悲心』を、
『発すのである!』が、
今は、何故、
『実際の為めに!』と、
『言うのですか?』。
答曰。初發意菩薩但為滅眾生苦故發大悲心。苦者所謂老病死等及身心衰惱。云何滅是苦。尋苦因緣由生故。如佛十二因緣中說。何因緣故有老病死以有生故。 答えて曰く、初発意の菩薩は、但だ衆生の苦を滅せんが為めの故に大悲心を発す。苦とは謂わゆる老病死等、及び身心の衰悩なり。云何が是の苦を滅せんや、苦の因縁を尋ぬれば、生に由るが故なり。仏の十二因縁中に、『何なる因縁の故にか、老病死有る。生有るを以っての故なり』、と説けるが如し。
答え、
『初発意の菩薩』は、
但だ、
『衆生の苦を滅する為め!』の故に、
『大悲心』を、
『発すのである!』が、
『苦』とは、
謂わゆる、
『老病死等の苦』と、
『身心の衰悩である!』。
是の、
『苦』を、
『何のように!』、
『滅するのか?』、――
『苦の因縁を尋ねれば!』、
『生に由る!』が故に、
『苦が有る!』。
例えば、
『仏』が、
『十二因縁』中に、こう説かれた通りである、――
何のような、
『因縁』の故に、
『老病死』が、
『有るのか?』、
何故ならば、
『生』が、
『有るからである!』、と。
問曰。一切眾生皆知生因緣是苦。菩薩有何奇特。 問うて曰く、一切の衆生は、皆生の因縁は、是れ苦なりと知る。菩薩には、何なる奇特か有る。
  問い、
『一切の衆生』は、
皆、
『生の因縁が、苦である!』と、
『知っている!』のに、
『菩薩』には、
何のような、
『奇特( something extraordinary )』が、
『有るのですか?』。
  奇特(きどく):梵語 adbhuta の訳、特別な( extraordinary )の義。
答曰。眾生不知由生有苦。若遭苦時但怨恨人。自不將適初不怨生。以是故增長結使。重增生法不知真實苦因。有人無鞭杖刀兵諸愁惱苦而有死苦。此死從何所來。從生而有。 答えて曰く、衆生は、生に由りて苦有るを知らずして、若し苦に遭える時には、但だ人を怨恨し、自ら将適せず、初より生を怨まず。是を以っての故に結使を増長し、重ねて生法を増すも、真実の苦因を知らず。有る人には鞭杖、刀兵、諸の愁悩の苦無けれども、死苦有り。此の死は、何所より来たるや、生に従いて有り。
答え、
『衆生』は、
『生に由って、苦が有る!』と、
『知らない!』ので、
若し、
『苦に遭う!』時には、
但だ、
『人を怨恨するだけで!』、
『自ら、将適しようとせず( will not control himself )!』、
『初より!』、
『生を怨まない!』ので、
是の故に、
『結使を増長して!』、
『重ねて、生法を増し!』、
『真実の苦因』を、
『知ることがない!』。
有るいは、
『人に鞭杖や、刀兵や、諸の愁悩の苦が無くても!』、
『死苦』は、
『有るのである!』。
此の、
『死は、何所から来るのか?』、――
『生に従って( belong to the birth )!』、
『死が有るのである!』。
  将適(しょうちゃく):進んで適応する( will control oneself )。
復次鞭杖刀兵愁惱皆由生故有。餘法或有苦或無苦。是生法必定有苦。正使大智及諸天。有生必有死有死必有苦。是故知生定是苦本。如草木有生故必可焚燒。若當不生雖有猛火大風無所燒害。 復た次ぎに、鞭杖、刀兵、愁悩は、皆生に由るが故に有り。餘の法は、或は苦有るも、或は苦無し。是の生法は、必ず定んで苦有り。正しく大智、及び諸天をして、生有らしむるも、必ず死有り、死有れば必ず苦有り。是の故に生は、定んで是れ苦の本なりと知る。草木に生有るが故に、必ず焚焼すべく、若し当に生ぜずんば、猛火、大風有りと雖も、焼害する所無きが如し。
復た次ぎに、
『鞭杖、刀兵、愁悩の苦』は、
皆、
『生に由る!』が故に、
『有り!』、
『餘法に由れば!』、
或は、
『苦』が、
『有り!』、
或は、
『苦』が、
『無い!』。
是の、
『生法』に、
『苦が有る!』のは、
『必定なのである!』。
正使( even if )、
『大智の人や、諸天であっても!』、
『生が有れば!』、
必ず、
『死』が、
『有り!』、
『死が有れば!』、
必ず、
『苦』が、
『有る!』ので、
是の故に、
『生は、定んで苦の本である!』と、
『知るのである!』。
譬えば、
『草木』が、
『生が有る!』が故に、
『必ず!』、
『焚焼される!』が、
若し、
『生じなければ!』、
『猛火、大風が有っても!』、
『焼害する!』所が、
『無いようなものである!』。
  正使(しょうし):設令某をして~せしむるも( even if you make them to do something )。
菩薩既得苦因緣復推生因緣。生因緣者有。有有三種。欲有色有無色有。著是三有起善惡業。是生因。有因者四種取。取因緣者愛等諸煩惱。小者未能起業故名為愛。增長能起業故名為取。欲取見取戒取我語取取著是四事故能起種種業。愛因緣三種受。受因緣者眼等六種觸。觸名受等諸心數法。情塵識三事和合故。心中生受等心數法。根本 菩薩は、既に苦の因縁を得れば、復た生の因縁を推す。生の因縁は有なり。有には三種有りて、欲有、色有、無色有なり。是の三有に著して、善悪の業を起す。是れ生の因なり。有の因とは、四種の取なり。取の因縁とは、愛等の諸煩悩にして、小なる者は、未だ業を起す能わざるが故に名づけて、愛と為し、増長すれば、能く業を起すが故に名づけて、取と為す。欲取、見取、戒取、我語取なり。是の四事を取著するが故に、能く種種の業を起す。愛の因縁は三種の受なり。受の因縁は、眼等の六種の触なり。触を受等の諸心数法と名づけ、情塵識の三事和合するが故に、身中に受等の心数法の根本を生ず。
『菩薩』は、
既に、
『苦の因縁』を、
『得れば!』、
復た、
『生の因縁』を、
『推すことになる( to infer )!』。
『生の因縁』とは、
『有( that what is being )であり!』、
『有には!』、
『欲有、色有、無色有の三種』が、
『有り!』、
是の、
『三種の有に著して!』、
『善悪の業』を、
『起すのである!』が、
是れが、
『生』の、
『因である!』。
『有の因は、四種の取である!』が、
『取の因縁は、愛等の諸煩悩であり!』
『小因縁』は、
『未だ、業を起すことができない!』が故に、
『愛』と、
『称され!』、
『因縁が増長すれば!』、
『業を起すことができる!』が故に、
『取』と、
『称され!』、
即ち、
『欲取、見取、戒取、我語取』の、
『四取である!』。
是の、
『欲、見、戒、我語の四事を取著(執著)する!』が故に、
種種の、
『業』を、
『起すことができる!』。
『愛の因縁は、三種の受(苦、楽、不苦不楽)であり!』、
『受の因縁』は、
『眼』等の、
『六種の触である!』。
『触は、受等の諸心数法であり!』、
『情、塵、識が和合する!』が故に、
『受等の心数法の根本』が、
『心中に生じる!』。
  四取(ししゅ):梵語 catvaary upaadaanaani の訳、四種の執著( four kinds of grasping or clinging )を云う。即ち以下の通り、
  1. 欲取(梵語 kaama-upaadaana ):欲に執著する( clinging to desire )、
  2. 見取(梵語 dRSTy-upaadaana ):邪見に執著する( clinging to mistaken views )、
  3. 戒取(梵語 ziila-vrata-upaadaana ):戒律とその目的の邪な解釈に執著する( clinging to a mistaken understanding of the precepts and their purpose )、
  4. 我語取(梵語 aatma-vaada-upaadaana ):我に関する認識に随って起る概念に執著する( clinging ideas that arise from a notion of self )。
雖三事和合故生觸。為六情依止住處故但說六入。六入因緣名色。六入雖即是名色分。成就名六入未成就名名色。色成就名五入。名成就名一入。是胎中時因緣次第名名色名色因緣。是識若識不入胎初。胎初則爛壞。識名中陰。中五眾是五眾細故但名為識。若識不入而胎成者如一切和合時。皆應成胎。 三事和合の故に生ずと雖も、触を六情の依止する住処と為すが故に、但だ六入を説く。六入の因縁は名色にして、六入は即ち是れ名色の分なりと雖も、成就すれば六入と名づけ、未だ成就せざれば名色と名づく。色の成就を五入と名づけ、名の成就を一入と名づく。是れ胎中の時の因縁にして、次第に名色と名づけ、名色の因縁は是れ識なり。若し識、胎初に入らずんば、胎初は則ち爛壊す。識を中陰中の五衆と名づけ、是の五衆は細なるが故に但だ名づけて、識と為す。若し識、入らざるに胎成ずれば、一切和合する時の如きは、皆応に胎を成ずべし。
『三事(情、塵、識)和合する!』が故に、
『触』を、
『生じるのである!』が、
『触』は、
『六情』が、
『依止する!』、
『住処である!』が故に、
但だ、
『六入(六情)』を、
『説くだけである!』。
『六入』の、
『因縁』は、
『名色であり!』、
『六入は、各各名色の分である!』が、
『成就すれば!』、
『六入』と、
『称され!』、
『未だ、成就しなければ!』、
『名色』と、
『称され!』、
『色が成就すれば!』、
『五入(眼、耳、鼻、舌、身入)』と、
『称され!』、
『名が成就すれば!』、
『一入(意入)』と、
『称され!』、
是れは、
『胎中の時の因縁の次第』を、
『名色』と、
『称するのであり!』、
『名色』の、
『因縁』は、
『識であり!』、
若し、
『識が、胎の初位に入らなければ!』、
『胎の初位( the first week after conception )』は、
『爛壊する!』が、
『識』とは、
『中陰中の五衆であり!』、
是の、
『五衆は細である!』が故に、
但だ、
『識』と、
『称するだけである!』。
若し、
『識が、胎に入らない!』のに、
『胎』が、
『成じれば!』、
『一切の和合時』には、
皆、
『胎』を、
『成じるはずである!』。
  胎内五位(たいないごい):胎児の五期間( The five periods of the unborn child in the uterus )
  1. 羯剌藍 (梵語 kalala ):凝滑( the first week after conception : the embryo )、
  2. 頞部曇(梵語 arbuda ):皰( the second week : the shape of the fetus )、
  3. 閉尸(梵語 pezii ):凝結( the third week : the coagulating )、
  4. 鍵南(梵語 ghana ):凝厚(the fourth week : the fetus in the second month )、
  5. 鉢羅奢佉(梵語 prazaakha):支節、( from the fifth to the thirty-sixth week : an embryo in which tha hands and feet are formed )。
問曰。識何因緣故入胎。 問うて曰く、識は、何なる因縁の故にか、胎に入る。
問い、
『識』は、
何のような、
『因縁』の故に、
『胎に入るのですか?』。
答曰。行因緣。行即是過去三種業。業將識入胎。如風吹絕焰空中而去焰則依止於風。先世作人身時。然六識故命終時業將識入胎。 答えて曰く、行の因縁なり。行は、即ち是れ過去の三種の業なり。業の、識を将(ひき)いて胎に入ること、風吹きて焰を絶やし、空中に去れば、焰は則ち風に依止するが如く、先世に人身と作りし時、六識を然(もや)すが故に命終うる時、業は識を将いて胎に入る。
答え、
『識の因縁』は、
『行という!』、
『因縁であり!』、
『行』は、
『過去』の、
『三種の業であり!』、
『業は、識を将いて!』、
『胎』に、
『入るのである!』。
譬えば、
『風が吹いて!』
『焰を絶やし!』、
『空中に去る!』と、
『焰』が、
『風』に、
『依止するようなものであり!』、
『先世に、人身と作った!』時、
『六識』の、
『焰』を、
『然していた!』が、
『命の終る!』時、
『業が、識を将いて!』、
『胎』に、
『入るのである!』。
  (ぜつ):<動詞>[本義]切断( break off, sever, cut off )。気息中止する( die )、断絶/中断する( discontinue )、横断する( cross )、落ちる( fall )、根絶する( completely eradicate, wipe out )、上回る/超過する( surpass )、止める/停止する( stop )、尽す( exhaust )。<形容詞>独特無二( unique, superb, excellent )、隔絶した( distant )、欠乏( poor )。<副詞>絶対( absolutely )、極めて( extremely )。
問曰。上業何以名有。今業何以名行。 問うて曰く、上の業は、何を以ってか有と名づけ、今の業は何を以ってか、行と名づく。
問い、
『上の業(愛、取)』は、
何故、
『有』と、
『称し!』、
『今の業(過去の三種の業)』は、
何故、
『行』と、
『称するのですか?』。
答曰。上是今世業。為未來有故名為有。今業過去世已滅盡但有名名為行。(天竺語刪迦羅秦言行)是行因緣名無明。一切煩惱雖是過去業因緣。無明是根本故但名無明。今世現在著愛取多故愛取受名。過去世中是疑邪見處故但名無明。今得一切苦惱根本是無明。 答えて曰く、上は是れ今世の業にして、未来の有と為すが故に名づけて、有と為す。今の業は、過去世已に滅尽すれば、但だ名のみ有りて、名づけて行と為す。是の行の因縁を、無明と名づけ、一切の煩悩は、是れ過去の業の因縁なりと雖も、無明は是れ根本なるが故に但だ無明と名づく。今世、現在の著には、愛、取多きが故に愛、取名を受け、過去世中には、是れ疑と邪見の処なるが故に但だ無明と名づく。今、一切の苦悩の根本は、是れ無明なるを得。
答え、
『上の業』は、
『今世の業であり、未来の有である!』が故に、
『有』と、
『称し!』、
『今の業』は、
『過去世は、已に滅尽しており、但だ、名が有るだけなので!』、
『行( the forming the mind )』と、
『称して!』、
是の、
『行の因縁』を、
『無明』と、
『称する!』。
『一切の煩悩』は、
『過去の業』が、
『因縁である!』が、
『無明は、一切の根本である!』が故に、
但だ、
『無明』と、
『称する!』。
『今世、現在の著』には、
『愛、取が多い!』が故に、
『愛、取の名』を、
『受け!』、
『過去世中の著』は、
『疑、邪見の処である!』が故に、
但だ、
『無明』と、
『称すれば!』、
今、
『一切の苦悩の根本は、無明である!』と、
『得たのである( to understand deeply )!』。
  刪迦羅(さんから)、(ぎょう):梵語 saMskaara の訳、一緒に置く( putting together )の義、心を成形すること/訓練/教育( forming the mind, training, education )の意。
問曰。無始生死展轉甚多。何以止齊無明。 問うて曰く、無始より生死に展転すること甚だ多し。何を以ってか、無明と斉(ひと)しくするに止まる。
問い、
無始より、
『生死に展転すること!』は、
『甚だ多い!』のに、
何故、
『無明に斉しくするだけ!』に、
『止めたのですか?』。
  (さい):<形容詞>[本義]整った/平坦な( neat, even )。整然とした/秩序正しい/均一な( in good order, uniform )、平等な( equal )、打ち揃う( all present, complete )、疾い/敏捷な( quick, fast, speed )、好い( good )。<動詞>同等である( equal, of the same class, rank or status )、整え治める( govern )、集合させる( assemble )、刈り整える( trim )。<副詞>一斉に/同時に( in common, simultaneously )。<介詞>より/従り( from )。
  (し):<動詞>停まる/止める( halt, stop )、阻止する/進行を阻む( prevent )、駐屯する( be stationed )、居住する( dwell )、停留する( stay )。<副詞>只だ( only )。<句末の助詞>[肯定の語気を表示する]。
  止斉(しさい):隊伍を整頓する/行列を整える。
答曰。是事先已答。菩薩思惟為人從苦得脫故求苦因緣。眾生過去現在老死等苦不可得除。為除未來世老死苦。斷相續不令復生。如良醫過去病不可治現在病亦不可治。服藥但能治應起病破其冷熱不復令起。又如失火燒舍不為已過去火故勤滅。亦不為現在火故勤滅。但為未來火不令更燒故勤滅。良醫滅火人勤方便亦不虛。 答えて曰く、是の事は先に已に答えたり。菩薩の思惟すらく、『人に、苦より脱るるを得しめんが為めの故に、苦の因縁を求むるも、衆生の過去、現在の老死等の苦は除くを得べからず。未来世の老死の苦を除いて、相続を断ぜしめんが為めに、復た生ぜしめず。良医の過去の病は治すべからず、現在の病も亦た治すべからず、薬を服して、但だ能く応に起るべき病を治し、其の冷熱を破りて、復た起らしめざるが如し。又失火して家を焼くに、過去の火を已めんが為めの故に、勤めて滅せず、亦た現在の火の為めの故に勤めて滅せず、但だ未来の火をして、更に焼かしめざらんが為めの故に勤めて滅するが如し。良医、滅火の人の勤めて方便するは、亦た虚しからず』、と。。
答え、
是の、
『事』は、
『先に、已に答えた!』が、
『菩薩』は、こう思惟するのである、――
『人』を、
『苦より、脱れさせようとする!』が故に、
『苦の因縁』を、
『求めた!』が、
『衆生』の、
『過去、現在』の、
『老死等の苦』を、
『除くことはできず!』、
『未来世の老死の苦を除き!』、
『相続を、断じる為め!』に、
『復た、生じさせないだけである!』。
譬えば、
『良医』が、
『過去や、現在』の、
『病』を、
『治すことができない!』が、
『薬を服ませて!』、
但だ、
『起るはずの病』を、
『治させて!』、
其の、
『冷、熱を破って!』、
『復た、起きないようにしたり!』、
又、
『失火して、舎を焼いても!』、
『過去や、現在の火』を、
『已らせる為め!』の故に、
『勤めて、滅するのではなく!』、
但だ、
『未来の火に、更に焼かせない為め!』の故に、
『勤めて、滅するだけである!』が、
『良医や、滅火の人』が、
『勤めて、方便したとしても!』、
『虚しくないようなものである!』。
菩薩滅眾生苦惱亦如是。過去苦已滅無所復能現在苦惱。先世因緣成就故不可卻。但破未來世老死等苦因緣故。破是生法老死等苦自然永滅。 菩薩の衆生の苦悩を滅するも、亦た是の如く、過去の苦は已に滅し、復た能くする所無し。現在の苦悩は、先世の因縁の成就するが故に却(しりぞ)くべからず。但だ未来世の老死等の苦の因縁を破るが故に、是の生法を破れば、老死等の苦は自然に永滅す。
『菩薩』が、
『衆生の苦悩を滅するのも、是のように!』、
『過去の苦』は、
『已に、滅したので!』、
『復た、苦悩させられることはなく!』、
『現在の苦悩』は、
『前世の因縁が成就したものである!』が故に、
『除却されることがない!』が、
但だ、
『未来世の老死』等の、
『苦の因縁』を、
『破ることになる!』が故に
是の、
『生法を破れば!』、
『老死等の苦』は、
『自然に、永滅するのである!』。
是故菩薩欲滅未來世老死等苦因緣生。得現在有等八因緣。 是の故に、菩薩は、未来世の老死等の苦の因縁なる生を滅せんと欲して、現在の有等の八因縁を得。
是の故に、
『菩薩』は、
『未来世の老死等の苦の因縁である!』、
『生』を、
『滅しようとして!』、
『現在の有』等の、
『八因縁(有、取、愛、受、触、六処、名色、識)』を、
『得る( to comprehend )のである!』が、
一名有漏業。二名現在世諸煩惱。所謂四取一愛。是二種煩惱從二心數法生。所謂受及觸。觸能生一切心數法。受前生故得名。觸是受因緣。受雖能生三毒。一切眾生愛是舊煩惱。觸因緣是內六入。如先說。雖有外六入內六入無故。觸等心數法不生。是故內六入得名。名色是六入因緣。如此中說。 一を有漏業と名づけ、二を現在世の諸煩悩、謂わゆる四取、一愛と名づくるに、是の二種の煩悩は、二心数法、謂わゆる受、及び触より生ず。触は能く一切の心数法を生じ、受の前に生ずるが故に、触は是れ受の因縁なりと名づくるを得。受は、能く三毒と、一切衆生を生ずと雖も、愛は、是れ旧の煩悩なり。触の因縁は、是れ内の六入なり。先に説けるが如く、外の六入有りと雖も、内の六入無きが故に、触等の心数法生ぜず。是の故に内の六入の名を得。名色は是れ六入の因縁なること、此の中に説けるが如し。
一に、
『有漏業』と、
『称し!』、
二に、
『現在世の諸煩悩、謂わゆる四取、一愛』と、
『称すれば!』、
是の、
『二種の煩悩』は、
『二心数法、謂わゆる受、触より!』、
『生じる!』。
『触』は、
『一切の心数法を生じさせる!』が、
『受の前に生じる!』が故に、
『触は、受の因縁である!』と、
『称することができる!』。
『受』は、
『三毒と、一切の衆生』を、
『生じさせる!』が、
『愛』は、
『旧い( former≒before the three poisons )!』、
『煩悩である!』。
『触』の、
『因縁』は、
『内の六入である!』が、
先に、こう説いた通りであり、――
『外の六入が有っても、内の六入が無い!』が故に、
『触等の心数法』が、
『生じることはない!』、と。
是の故に、
『内の六入』が、
『名を得た( be mentioned )!』。
『名色』は、
『六入』の、
『因縁である!』が、
此の、
『般若波羅蜜』中に、
『説かれた通りである!』。
  (きゅう):<名詞>旧交( old friendship )、旧い制度( old institutions )、旧家( aristocratic family )。<形容詞>過去の/古い( old, used, worn )、古びた( worn )、過去の/旧世代の/原初の( bygone, past, former, original )、久しい( long )。
初入胎識是名色因緣。識名色在胎中。此中雖有六入未成就未可用故未得名字。既生嬰孩未能有所作但有六入。轉大有六觸。如小兒蹈火履冰但有觸未知苦樂。轉大受苦樂未深愛著。如小兒雖瞋未能起殺等惡業。雖喜未能起施等善業。 初めて胎に入る識は、是れ名色の因縁なり。識と名色と胎中に在り、此の中には六入有りと雖も、未だ成就せず、未だ用うべからざるが故に未だ名字を得ず。既に生ぜし嬰孩には、未だ所作有る能わずして、但だ六入有り、転た大となれば、六触有り。小児の火を踏み、氷を履むに、但だ触有りて、未だ苦楽を知らざるが如し。転た大となれば苦楽を受くるも、未だ深く愛著せず。小児の瞋ると雖も、未だ殺等の悪業を起す能わず、喜ぶと雖も、未だ施等の善業を起す能わざるが如し。
『初めて、胎に入った!』、
『識』は、
『名色の因縁であり!』、
『識と名色は、胎中に在る!』時、
此の中には、
『六入が有る!』が、
『未だ、成就せず!』、
『未だ、用いられない( being not applied )!』が故に、
未だ、
『六入の名字』を、
『得ることはない!』。
『既に生じて、嬰孩となれば!』、
『未だ、所作を有することができず!』、
但だ、
『六入』が、
『有るだけである!』。
『転た大となれば( to grow greater )!』、
『六触を有する!』が、
譬えば、
『小児が、火を踏んだり、氷を履んだりしても!』、
但だ、
『触』が、
『有るだけであり!』、
未だ、
『苦楽』を、
『知らないようなものである!』。
『転た大となれば!』、
『苦楽を受けるようになる!』が、
未だ、
『深く!』、
『愛著することはない!』、
譬えば、
『小児が、瞋ったとしても!』、
未だ、
『殺等の悪業』を、
『起すことができず!』、
『喜んだとしても!』、
未だ、
『施等の善業』を、
『起すことができないようなものである!』。
年及成人得苦生恚得樂生愛求樂具故。取欲等四取。取時能起善惡業。若知先一世無明業因緣則億萬世可知。譬如現在火熱。過去未來火亦如是。 年の成人するに及んで、苦を得れば恚を生じ、楽を得れば愛を生じ、楽の具するを求むるが故に、欲等の四取を取り、取る時能く善悪の業を起す。若し先の一世の無明の業因縁を知れば、則ち億万世を知るべし。譬えば現在の火熱ければ、過去、未来の火も亦た是の如くなるが如し。
『年が、成人するに及べば!』、
『苦を得て!』、
『恚』を、
『生じ!』、
『楽を得て!』、
『愛』を、
『生じ!』、
『楽を具することを求める( to seek having pleasure )!』が故に、
『欲等の四取(欲、見、戒、我語取)』を、
『取るのである!』が、
『取る!』時に、
『善、悪業』を、
『起させるのである!』。
若し、
『無明の業因縁』を、
『先の一世だけでも!』、
『知ったならば!』、
則ち、
『億万世であろう!』と、
『知ることができる!』。
譬えば、
『現在の火』が、
『熱いこと!』を、
『知れば!』、
『過去、未来の火』も、
『是の通りだ!』と、
『知るようなものである!』。
若無明因緣更求其本則無窮。即墮邊見失涅槃道。是故不應求。若更求則墮戲論非是佛法。 若し無明の因縁を更に、其の本を求むれば、則ち窮無く、即ち辺見に堕して、涅槃の道を失えば、是の故に応に求むべからず。若し更に求むれば、則ち戯論に堕し、是れ仏法に非ず。
若し、
『無明の因縁』を、
更に、
『本まで!』、
『求めれば!』、
則ち、
『窮』が、
『無く!』、
即ち、
『辺見に堕ちて!』、
『涅槃の道を失うことになる!』ので、
是の故に、
『無明の因縁』を、
『求めてはならない!』。
若し、
『更に、求めれば!』、
則ち、
『戯論に堕ちて!』、
『仏法でなくなるからである!』。
菩薩欲斷無明故求無明體相。求時即入畢竟空。何以故。佛經說。無明相內法不知外法不知內外法不知。菩薩以內空觀內法內法即空。以外空觀外法外法即空。以內外空觀內外法內外法即空。如是等一切是無明相如先品。德女經中破無明廣說。 菩薩は、無明を断ぜんと欲するが故に、無明の対相を求むれば、求むる時、即ち畢竟空に入る。何を以っての故に、仏の経に説かく、『無明の相は、内法なりやを知らず、外法なりやを知らず、内外法なりやを知らず』、と。菩薩は、内空を以って内法を観れば、内法は即ち空なり、外空を以って外法を観れば、外法は即ち空なり、内外空を以って内外法を観れば、内外法は即ち空なればなり。是れ等の如く、一切は、是れ無明の相なること、先の品の如し。徳女経中に無明を破して、広く説けり。
『菩薩』が、
『無明を断じようとする!』が故に、
『無明の体相』を、
『求める!』と、
『求める!』時、
『畢竟空』に、
『入ることになる( to understand completely )!』。
何故ならば、
『仏の経』には、こう説かれているが、――
『無明の相』は、
『内法であるのか、外法であるのか、内外法であるのか?』、
『知らない!』、と。
『菩薩』が、
『内空に入って、内法を観れば!』、
『内法』は、
『即ち、空であり!』、
『外空に入って、外法を観れば!』、
『外法』は、
『即ち、空であり!』、
『内外空に入って、内外法を観れば!』、
『内外法』は、
『即ち、空だからである!』。
是れ等のように、
『一切が、無明の相である!』のは、
『先の品』中に、
『説いた通りであり!』、
『徳女経』に、
『無明を破って!』、
『広く説かれた通りである!』。
  参考:『有徳女所問大乗経』:『有德女所問大乘經 唐南天竺國三藏菩提流志奉詔譯 如是我聞。一時佛在波羅奈國仙人住處施鹿林中。與大比丘眾五百人。及無量諸菩薩摩訶薩眾俱。爾時世尊。食時著衣持缽。共阿逸多菩薩摩訶薩。入波羅奈大城乞食。於其城中次第行乞。至有德婆羅門女家。時有德女。遙見如來色相端嚴諸根寂靜。其心恬曠最上無比。威儀顧視審諦閑詳。譬如龍王有大威德。如真金柱嶷然安固。如清淨池皎無穢濁。欣慼不動如第四禪。身放光明內外融徹。時有德女。見如是相。心生淨信。來詣佛所。頂禮如來及阿逸多菩薩摩訶薩足。曲躬恭敬。合掌向佛。而作是言。善來世尊。善來善逝。我於今者欲問所疑。惟願垂哀暫時住此。于時世尊。默然受請敷座而坐。阿逸多菩薩摩訶薩。亦隨佛坐。爾時有德婆羅門女。心生歡喜。益加恭敬。即白佛言。世尊。我聞如來於波羅奈仙人住處施鹿林中。轉妙法輪。未知世尊所轉法輪說於何法。佛告之言。有德女。我轉法輪。說無明緣行。行緣識。識緣名色。名色緣六處。六處緣觸。觸緣受。受緣愛。愛緣取。取緣有。有緣生。生緣老死憂悲苦惱。無明滅則行滅。行滅則識滅。識滅則名色滅。名色滅則六處滅。六處滅則觸滅。觸滅則受滅。受滅則愛滅。愛滅則取滅。取滅則有滅。有滅則生滅。生滅則老死憂悲苦惱滅。有德女。此是如來於波羅奈仙人住處施鹿林中所轉法輪。一切世間。若沙門。若婆羅門。若天魔梵。悉無有能如法轉者。爾時有德婆羅門女白佛言。世尊。所言無明為內有耶。為外有乎。佛言不也。有德女言。世尊。若於內外無有無明。云何得有無明緣行。復次世尊。有他世法。而來至於今世以不。佛言不也。有德女復白佛言。世尊。無明行相是實有耶。佛言不也。無明自性從於虛妄分別而生。非真實生。從顛倒生。非如理生。有德女復白佛言。世尊。若如是者則無無明。云何得有諸行生起。於生死中受諸苦報。世尊。如樹無根則無枝葉華果等物。如是無明無自性故。行等生起定不可得。佛言。有德女。一切諸法皆畢竟空。凡愚迷倒不聞空義。設得聞之無智不了。由此具造種種諸業。既有眾業諸有則生。於諸有中備受眾苦。第一義諦無有諸業。亦無諸有而從業生及以種種眾苦惱事。有德女。如來應正等覺。隨順世間。廣為眾生演說諸法。欲令悟解第一義故。有德女。第一義者。亦隨世間而立名字。何以故。實義之中能覺所覺。一切皆悉不可得故。有德女。譬如諸佛化作於人。此所化人。復更化作種種諸物。其所化人虛誑不實。所化之物亦無實事。此亦如是。所造諸業虛誑不實。從業有生亦無實事。爾時有德女復白佛言。世尊。如我解佛所說之義。今者如來所轉法輪。是虛空法輪。性空法輪。出離法輪。通達法輪。不思議法輪。無能轉者法輪。無等法輪。如實法輪。無生法輪。無自性法輪。無相法輪。世尊。如此法輪如來已轉。作是語已。即以兩手捧栴檀香末。散佛足上而作是言。世尊。願我以此善根之力。於當來世。能轉如是種種法輪。爾時世尊怡然微笑。從於口中放種種光。其光朗曜具含眾色。遍至十方無量世界。一一世尊靡不充滿。還來佛所右遶三匝。從佛頂入。爾時阿逸多菩薩摩訶薩白佛言。世尊。如來今者。有何因緣忽然微笑。如我意解非無因緣。佛告之言。阿逸多。汝見此婆羅門女。以手捧持栴檀香末散我足不。答言已見。佛言。此女因今所種善根。當於八萬四千億劫不墮惡道。於六萬四千諸佛所。以尊重心承事供養。聽聞正法守護受持。彼佛在世及涅槃後。如見時間相續不絕。復令無量阿僧祇眾生迴向菩提。然後於此三千大千世界。光曜劫中而得成佛。號法光曜如來應正等覺。其佛住壽滿足一劫。教化無量阿僧祇眾生令得涅槃。爾時阿逸多菩薩摩訶薩復白佛言。世尊。此有德婆羅門女。曾於往世種何善根。佛言。阿逸多。汝今當知。此有德女於過去世毘婆尸佛出現之時。已作女身。為求阿耨多羅三藐三菩提。解其身上所著瓔珞。奉上彼佛而為供養。尸棄如來出現之時。於其佛所問甚深義。以妙衣服而為供養。在彼法中出家學道。修持梵行滿足千年。毘葉浮佛出現之時。營辦種種上好飲食。於半月中供養彼佛及聲聞眾。隨意所須皆無乏少。俱留孫佛出現之時。以阿提目多迦華。散彼佛上以為供養。得受五戒護持無缺。拘那含牟尼佛出現之時。願以種種飲食。衣服臥具湯藥。及餘供身所須之物盡佛壽來恒為供養。于時彼佛於兩月中受其飲食及革屣等供身之具。迦葉如來出現之時。復以金花散佛供養。如是所作。皆為求於阿耨多羅三藐三菩提。又作是言。願我以此供養善根。速得授阿耨多羅三藐三菩提記。若未得記。終不願捨女人之身。阿逸多。此有德婆羅門女。過去世中所種善根其事如是。此則是其最後所受女人之報。佛說此經已。阿逸多菩薩摩訶薩。及有德婆羅門女。一切世間天人阿修羅等。皆大歡喜信受奉行 有德女所問大乘經』
復次菩薩求無明體即時是明。所謂諸法實相名為實際。觀諸法如幻如化。眾生顛倒因緣故起諸煩惱。作惡罪業輪轉五道受生死苦。譬如蠶出絲自裹縛入沸湯火炙。凡夫眾生亦如是。初生時未有諸煩惱。後自生貪欲瞋恚等諸煩惱。是煩惱因緣故覆真智慧。轉身受地獄火燒湯煮。 復た次ぎに、菩薩は、無明の体を求めて、即時に是れを明らかにす、謂わゆる諸法の実相を名づけて、実際と為し、『諸法は幻の如く、化の如きなるに、衆生は顛倒の因縁の故に、諸の煩悩を起して、悪罪業を作し、五道を輪転して生死の苦を受く』、と観る。譬えば蚕の糸を出して自ら裹縛し、沸ける湯に入りて火に炙らるるが如し。凡夫の衆生も亦た是の如く、初生の時には未だ諸煩悩有らざるに、後に自ら貪欲、瞋恚等の諸煩悩を生じ、是の煩悩の因縁の故に、真の智慧を覆い、身を転じて地獄を受け、火に焼かれ、湯に煮らる。
復た次ぎに、
『菩薩』は
『無明の体を求め
to seek the substance of the fundamental delusion of reality )!』、
即時に、
こう明らかにして、――
謂わゆる、
『諸法の実相』が、
『実際なのである( that is the realm of reality )!』、と。
こう観ることになる、――
『諸法は幻や、化のようなものなのに!』、
『衆生』は、
『顛倒の因縁( because of the reversed cognition )』の故に、
『諸煩悩を起して!』、
『悪罪の業』を、
『作し!』、
『五道中に輪転しながら!』、
『生死の苦』を、
『受けるのである!』。
譬えば、
『蚕( a silk-worm )』が、
『糸を出して、自ら裹縛し!』、
『沸いた湯に入って!』、
『火』に、
『炙られるようなものである!』。
『凡夫の衆生』も、
是のように、
『初生の時には、未だ諸煩悩を有しない!』が、
『後に、自ら貪欲、瞋恚等の諸煩悩を生じて!』、
是の、
『煩悩の因縁の故に、真の智慧を覆い!』、
『身を転じて、地獄を受け!』、
『火に焼かれ!』、
『湯に煮られるのである!』。
  裹縛(かばく):包み縛る( wrap and bind )
菩薩知是法本末皆空。但眾生顛倒錯故受如是苦。菩薩於此眾生起大悲心。欲破是顛倒故求於實法。行般若波羅蜜通達實際。種種因緣教化眾生令住實際。是故住實際無咎。 菩薩の知るらく、『是の法の本末は、皆空なるも、但だ衆生は顛倒して錯(あやま)つが故に、是の如き苦を受く』、と。菩薩は、此の衆生に於いて、大悲心を起こし、是の顛倒を破らんと欲するが故に、実法を求め、般若波羅蜜を行じて、実際に通達し、種種の因縁もて衆生を教化して、実際に住せしむ。是の故に実際に住するも、咎無し。
『菩薩』は、こう知るので、――
是の、
『法の本、末は皆空である!』が、
但だ、
『衆生』は、
『顛倒して錯つ
make mistakes because of the reversed cognition )!』が故に、
是のような、
『苦』を、
『受けるのである!』、と。
『菩薩』、
此の、
『衆生に、大悲心を起こして!』、
是の、
『顛倒を破ろうとする!』が故に、
『実法』を、
『求め!』、
『般若波羅蜜を行じ!』て、
『実際( the realm of the reality )』に、
『通達し!』、
種種の、
『因縁により、衆生を教化して!』、
『実際』に、
『住させる!』ので、
是の故に、
『実際に住しても!』、
『咎』は、
『無いのである!』。
復次經中說。若眾生與實際異。菩薩不應行般若波羅蜜。異者實際是畢竟空。眾生際是決定有。若爾者應難。若諸法實際相空。菩薩云何為眾生故修是實際。若眾生畢竟空實際定有。無眾生則無所利益。為誰故行實際。今眾生際實不異實際故行般若波羅蜜。欲覺悟狂惑顛倒凡夫故行般若波羅蜜。令眾生住實際中而不壞實際。 復た次ぎに、経中に説かく、『若し衆生にして、実際と異なれば、菩薩は応に般若波羅蜜を行ずべからず』とは、異とは、実際は是れ畢竟空なるも、衆生際は是れ決定の有なり。若し爾らば、応に、『若し諸法は実際相にして空なれば、菩薩は云何が衆生の為めの故に、是の実際を修するや』、と難ずべし。若し衆生は畢竟空にして、実際は定有なれば、衆生無ければ則ち利益する所無く、誰の為めの故にか、実際を行ずる。今、衆生際は、実に実際と異ならざるが故に、般若波羅蜜を行じ、誑惑、顛倒の凡夫を覚悟せんと欲するが故に般若波羅蜜を行じて、衆生をして実際中に住せしめ、実際を壊らず。
復た次ぎに、
『経』中には、こう説かれている、――
若し、
『衆生際( the realm of all living being )』が、
『実際』と、
『異なれば!』、
『菩薩』が、
『般若波羅蜜』を、
『行じるはずがない!』、と。
『異なる!』とは、――
『実際が、畢竟空であり!』、
『衆生際』が、
『決定の有である( be the real being )!』が、
若し、爾うならば、こう難じなければならない、――
若し、
『諸法』の、
『実際の相』が、
『空ならば!』、
何故、
『菩薩は、衆生の為め!』に、
是の、
『実際』を、
『修めるのか?』、と。
若し、
『衆生が、畢竟空であり!』、
『実際』が、
『決定の有ならば!』、
『衆生が無ければ!』、
則ち、
『利益する!』所が、
『無い!』のに、
誰の為めに、
『実際』を、
『行じるのか?』。
今、
『衆生際』は、
『実に、実際と異らない!』が故に、
『般若波羅蜜』を、
『行じ!』、
『誑惑、顛倒の凡夫を覚悟しようとする!』が故に、
『般若波羅蜜』を、
『行じながら!』、
『衆生』を、
『実際』中に、
『住させるのであり!』、
而も、
『実際』を、
『壊らないのである!』。
  決定有(けつじょうのう):梵語 sad-bhaava の訳、真実の存在( real being, existence )の義。
是時須菩提更問。若眾生際實際不異。云何以實際著實際。自性不應自性中住。如指端不能自觸指端。 是の時、須菩提の更に問わく、『若し衆生際と実際と異ならざれば、云何が実際を以って、実際に著(つ)くるや。自性は応に自性中に住すべからざること。指端の自ら指端に触るる能わざるが如し』、と。
是の時、
『須菩提』は、更に問うた、――
若し、
『衆生際』が、
『実際』と、
『異らなければ!』、
何のようにして、
『実際』を、
『実際』に、
『著ける( to attach )のですか?』。
譬えば、
『指端』が、
自ら、
『指端』に、
『触れられないように!』、
『自性』が、
『自性』中に、
『住するはずがないからです!』、と。
佛可其意菩薩以方便故建立眾生於實際。如眾生實際不異一亦不可得。若是一則壞實際相。所以者何。得是一性故。菩薩知是二法不一不二亦不不一亦不不二畢竟寂滅無戲論相。菩薩生大悲心。但欲拔出眾生離於顛倒故教化眾生。 仏は其の意を可としたまわく、『菩薩は、方便を以っての故に、衆生を実際に建立すればなり。如(も)し衆生と実際と異ならずんば、一も亦た不可得ならん。若し是れ一ならば、則ち実際の相を壊らん。所以は何んとなれば、是の一性を得るが故なり。菩薩は是の二法の不一、不二にして、亦不不一亦不不二にして、畢竟寂滅の無戯論相なるを知る。菩薩は大悲心を生じて、但だ衆生を抜き出して、顛倒より離れしめんと欲するが故に衆生を教化す』、と。
『仏』は、
『須菩提の意を可として!』、こう言われた、――
『菩薩は、方便力を用いる!』が故に、
『衆生』を、
『実際に建立する( to put onto the realm of reality )のである!』。
若し、
『衆生が、実際と異らなければ!』、
亦た、
『一』も、
『不可得となり!』、
若し、
是れが、
『一ならば!』、
『実際の相を壊ることになるだろう!』。
何故ならば、
是れが、
『一』は、
『一性だからである!』。
『菩薩』は、こう知るのである、――
是の、
『衆生、実際の二法』は、
『一でもなく、二でもなく、不一でも不二でもなく!』、
『畢竟寂滅であり、無戯論の相である!』、と。
『菩薩は、大悲心を生じ!』、
但だ、
『衆生を、苦より抜き出して!』、
『顛倒』を、
『離れさせようとする!』が故に、
是の、
『衆生』を、
『教化するのである!』。
又問。云何名方便。佛言。菩薩行般若波羅蜜時。以方便力故建立眾生於檀中說是檀。先際後際空中際亦爾。如經中廣說。 又問わく、『云何が、方便と名づく』、と。仏は、『菩薩は般若波羅蜜を行ずる時、方便力を以っての故に、衆生を檀中に建立す』、と言うも、『是の檀の先際、後際は空にして、中際も亦た爾り』、と説きたまえり。経中に広く説けるが如し。
又、こう問うた、――
何を、
『方便』と、
『称するのですか?』、と。
『仏』は、
こう言って、――
『菩薩は、般若波羅蜜を行じる!』時、
『方便力を用いる!』が故に、
『衆生』を、
『檀中に建立するのである!』、と。
こう説かれたのである、――
是の、
『檀』は、
『先際も、後際も、中際も!』、
『空である!』、と。
『経』中に、
『広く!』、
『説かれた通りである!』。
菩薩知實際者到眾生邊。如先檀品中說。眾生聞已發心。折薄煩惱深著布施。菩薩憐愍眾生。我從慳中拔出。今復著布施。眾生若受布施。福盡受諸苦惱。又受富貴因緣得作大罪則墮地獄。是故愍此眾生得少許時樂而受苦長久。 菩薩の実際を知る者の、衆生の辺に到りて、先に檀品中の如く説けるに、衆生聞き已りて、発心し、煩悩を折りて薄れしめ、深く布施に著す。菩薩の衆生を憐愍すらく、『我れ、慳中より抜き出せば、今復た布施に著せり。衆生は、若し布施の福を受くるも、尽くれば諸の苦悩を受け、又富貴を受くる因縁もて、大罪を作すを得て、則ち地獄に堕つ』、と。是の故に愍れむらく、『此の衆生は、少許りの時、楽を得るも、苦を受くること長久なり』、と。
『菩薩の、実際を知る!』者が、
『衆生の辺に到って!』、
『先の檀品』中に、
『説いたように!』、
『檀を説く!』と、
『衆生は聞いて、心を発し!』、
『煩悩を折って、薄くする!』が、
『深く!』、
『布施に著することになる!』。
『菩薩』は、
『衆生を憐愍して!』、こう言う、――
わたしが、
『慳』中より、
『抜き出す!』と、
今、復た、
『布施』に、
『著している!』。
『衆生』が、
若し、
『布施』の、
『福』を、
『受けたとしても!』、
『福が尽きれば!』、
『諸の苦悩』を、
『受けることになる!』。
又、
『富貴を受ける因縁』は、
『大罪』を、
『作すことになる!』ので、
則ち、
『地獄』に、
『堕ちるだろう!』、と。
是の故に、こう愍れむのである、――
此の、
『衆生』は、
『少許りの時!』、
『楽』を、
『受けるだけである!』が、
『長久に!』、
『苦』を、
『受けねばならない!』、と。
是故菩薩為說布施實相所謂畢竟空。作是言。是布施過去已滅。不可見不可得不可用但可憶念。如夢所見無異。未來未生故亦無所有畢竟空。是布施先後際無故中際亦無。 是の故に、菩薩は、為めに布施の実相、謂わゆる畢竟空を説いて、是の言を作さく、『是の布施は、過去已に滅して不可見、不可得、不可用にして、但だ憶念すべきのみ。夢の所見の如きに異無し。未来は未生なるが故に、亦た無所有、畢竟空なり。是の布施には先、後際無きが故に中際も亦た無し』、と。
是の故に、
『菩薩は、衆生の為めに!』、
『布施の実相、謂わゆる畢竟空を説いて!』、こう言う、――
是の、
『布施』は、
『過去の布施は、已に滅している!』が故に、
『不可見、不可得、不可用であり!』、
『但だ、憶想されるだけである!』ので、
譬えば、
『夢に見る!』所』と、
『異が無い!』。
『未来の布施は、未だ生じない!』が故に、
『無所有であり!』、
『畢竟空である!』。
是の、
『布施』には、
『先際、後際が無い!』が故に、
『中際』も、
『無いのである!』、と。
如破六塵中破色法中說。現在布施雖眼見。分分破析乃至微塵不可得。布施三世空。施者受者果報亦如是。 破六塵中の破色法中に説けるが如く、現在の布施は、眼に見ると雖も、分分に破析して、乃(すな)ち微塵に至れば、不可得なり。布施は三世に空にして、施者、受者、果報も亦た是の如し。
『破六塵中の破色法中に説いたように!』、――
『現在の布施』は、
『眼に見えたとしても!』、
『分分に破析して!』、
乃ち( and then )、
『微塵に至れば!』、
『不可得である!』が故に、
『布施』は、
『三世に!』、
『空であり!』、
亦た、
『施者、受者、果報』も、
『是の通りである!』、と。
菩薩語施者言。布施等法是初入佛法門。實際中實際相亦無。何況布施。汝莫念莫著布施等法。若不念不著如布施體相。如是布施者則得甘露味甘露果。甘露味者是八聖道分。甘露果者是涅槃。 菩薩の施者に語りて言わく、『布施等の法は、是れ初に仏法に入る門なり。実際中には実際の相すら亦た無し。何に況んや布施をや。汝は、布施等の法を念ずる莫かれ、著する莫かれ。若し、布施の体相の如きを念ぜず、著せざれば、是の如く布施すれば、則ち甘露味と甘露果を得ん。甘露味とは是れ八聖道分、甘露果とは是れ涅槃なり』、と。
『菩薩』は、
『施者に語って!』、こう言う、――
『布施等の法』は、
『仏法に入る!』、
『初門である!』。
『実際』中には、
『実際の相すら!』、
『無いのであり!』、
況して、
『布施』は、
『言うまでもない!』。
お前は、
『布施等の法』を、
『念じたり!』、
『著したりしてはならない!』。
若し、
『布施の体相など!』に、
『念じたり!』、
『著したりしなければ!』、
是のように、
『布施すれば!』、
『甘露味、甘露果』を、
『得ることになるだろう!』。
謂わゆる、
『甘露味とは、八聖道分であり!』、
『甘露果』とは、
『涅槃である!』、と。
菩薩雖住實際中。以方便力布施門度眾生。餘波羅蜜亦如是。如經中廣說。 菩薩は、実際中に住すと雖も、方便力の布施門を以って、衆生を度す。餘の波羅蜜も亦た是の如く、経中に広説するが如し。
『菩薩』は、
『実際中に住しながら!』、
『方便力の布施門を用いて!』、
『衆生』を、
『度すのであり!』、
亦た、
『餘の波羅蜜』も、
『是の通りである!』のは、
例えば、
『経』中に、
『広く説かれた通りである!』。
須菩提白佛言。世尊。若一切法性空性空中無法及非法亦無眾生。菩薩云何住是空中求一切種智。佛答。菩薩安立性空中故能行是布施等諸法。 須菩提の仏に白して言さく、『世尊、若し一切法は性空なれば、性空中には法、及び非法無く、亦た衆生無し。菩薩は云何が、是の空中に住して、一切種智を求むるや』、と。仏の答えたまわく、『菩薩は、性空中に安立するが故に、能く是の布施等の諸法を行ずるなり』、と。
『須菩提』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
若し、
『一切法が、性空ならば!』、
『性空』中には、
『法も、非法も、衆生も!』、
『無い!』のに、
『菩薩』は、
何のように、
是の、
『空中に住して!』、
『一切種智』を、
『求めるのですか?』、と。
『仏』は、こう答えられた、――
『菩薩』は、
『性空中に、安立する!』が故に、
是の、
『布施等の諸法』を、
『行じることができるのである!』、と。
又問。性空破一切法悉盡無餘。云何菩薩住性空中能行布施等諸善法。 又問わく、『性空もて、一切法を破り、悉く尽きて、餘無ければ、云何が菩薩は、性空中に住して、能く布施等の諸善法を行ずるや』、と。
又、こう問うた、――
『性空で、一切法を破り!』、
『法が、悉く尽きて!』、
『餘の法』が、
『無ければ!』、
何故、
『菩薩は、性空中に住しながら!』、
『布施等の諸法』を、
『行じることができるのですか?』、と。
佛可須菩提意而說因緣。菩薩知諸法實相住是中。能得阿耨多羅三藐三菩提。諸法實相者即是性空。若一切法性不空。菩薩不應住是諸法性空中得阿耨多羅三藐三菩提。已為眾生說性空法。所謂色性空受想行識性空。乃至為眾生說一切種智斷煩惱習性空法。 仏は須菩提の意を可とし、因縁を説きたまわく、『菩薩は、諸法の実相を知りて、是の中に住すれば、能く阿耨多羅三藐三菩提を得。諸法の実相とは、即ち是れ性空なり。若し一切法の性にして、空ならざれば、菩薩は、応に是の諸法の性空中に住して、阿耨多羅三藐三菩提を得已りて、衆生の為めに性空の法、謂わゆる色の性は空、受想行識の性は空なるを説いて、乃至衆生の為めに一切種智、断煩悩習、性空の法を説くべからず』。
『仏』は、
『須菩提の意を可として!』、
『因縁』を、こう説かれた、――
『菩薩』は、
『諸法の実相を知って!』、
是の、
『実相中に住すれば!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得ることができるのである!』が、
『諸法の実相』とは、
即ち、
『性空である!』。
若し、
『一切法の性が、空でなければ!』、
『菩薩』は、
是の、
『諸法の性空中に住し、阿耨多羅三藐三菩提を得て!』、
『衆生の為め!』に、
『性空の法』、
謂わゆる、
『色、受想行識は性空である!』と、
『説くはずがなく!』、
乃至、
『衆生の為め!』に、
『一切種智や、煩悩の習を断じることは性空の法である!』と、
『説くはずがない!』。
復次須菩提十八空。若性不空是為壞空體。何以故。十八空能令一切法空。若自不空則為虛誑。又若不空者則墮常邊著處。能生煩惱。性空無實住處。無所從來去無所至。是名常住法相。 復た次ぎに、須菩提、十八空にして、若し性、空ならざれば、是れを空の体を壊ると為す。何を以っての故に、十八空は、能く一切法をして、空ならしむるに、若し自ら空ならざれば、則ち虚誑と為せばなり。又若し空ならずんば、則ち常の辺の著処に堕して、能く煩悩を生ぜん。性空には、実の住処無く、従来する所無く、去るに至る所無し。是れを常住の法相と名づく。
復た次ぎに、
須菩提!
『十八空の性』が、
若し、
『空でなければ!』、
『空の体( the substance of empty )』を、
『壊ることになる!』。
何故ならば、
『十八空』は、
『一切法』を、
『空にするものである!』のに、
若し、
自ら、
『空でなければ!』、
『虚誑となるからである!』。
又、若し、
『空でなければ!』、
『常辺の著処に堕ちて
to fall down to the eternal realm to be attached )!』、
『煩悩』を、
『生じさせるからである!』。
『性空』には、
『実の、住処が無く!』、
『来た処も、去る処も!』、
『無い!』ので、
是れを、
『常住の法相』と、
『称するのである!』。
常住法相是性空之異名。亦名諸法實相。是相中無生無滅無增無減無垢無淨。菩薩住是中見一切法性空。於阿耨多羅三藐三菩提不退不疑不悔。何以故。不見諸法能障礙者。以方便力故度眾生。方便力者畢竟無法亦無眾生而度眾生。 常住の法相は、是れ性空の異名にして、亦た諸法の実相と名づく。是の相中は無生、無滅、無増、無減、無垢、無浄なり。菩薩は是の中に住して、一切法の性空を見れば、阿耨多羅三藐三菩提に於いて不退、不疑、不悔なり。何を以っての故に、諸法の能く障礙する者を見ず、方便力を以っての故に、衆生を度せばなり。方便力とは畢竟無法にして、亦た無衆生なるに、衆生を度すればなり。
『常住の法相』とは、
『性空の異名であり!』、
亦た、
『諸法の実相』とも、
『称する!』。
是の、
『相』中には、
『生、滅、増、減、垢、浄』が、
『無い!』が、
『菩薩』は、
是の、
『常住の法相中に住して!』、
『一切法は、性空である!』と、
『見る!』が故に、
則ち、
『阿耨多羅三藐三菩提』に於いて、
『不退、不疑、不悔である!』。
何故ならば、
『諸法』中に、
『障礙することのできる!』者を、
『見ることなく!』、
『方便力を用いて!』、
『衆生』を、
『度すからである!』。
『方便力』とは、
『畢竟じて無法、無衆生でありながら!』、
『衆生を度すことである!』。
問曰。若眾生及法從本已來無為。誰作方便為度脫誰。 問うて曰く、若し衆生、及び法にして、本より已来、無ければ、誰か方便を作すと為し、誰をか度脱すと為すや。
問い、
若し、
『衆生や法が本より、無ければ!』、
『誰が、方便を作し!』、
『誰を、度脱するのか?』。
答曰。性空名空性亦無。汝何以取是空性相作難。若有性空相應當作難。 答えて曰く、性空を空性も亦た作しと名づく。汝は何を以ってか、是の空性の相を取りて、難を作す。若し性空の相有れば、応当に難を作すべし。
答え、
『性空』とは、
亦た、
『空の性』も、
『無いということである!』。
お前は、
何故、
是の、
『空の性』に、
『相を取って!』、
『難を作すのか?』。
若し、
『性空』に、
『相が有れば!』、
『難を作すがよかろう!』。
復次得諸法實相者知是性空。是人則知諸法性空。無法無眾生。凡夫未得實相故種種憶想分別。如狂人妄有所見以為實有。為度凡夫狂人故言為眾生說狂法中有是諸法分別實法中則無。菩薩欲滿本願故。又不著性空故有度眾生。此中則不應難。 復た次ぎに、諸法の実相を得る者は、是れ性空なるを知れば、是の人は、則ち諸法の性空には、法無く、衆生無きを知る。凡夫は、未だ実相を得ざるが故に、種種に憶想、分別すること、狂人の妄に所見有りて、以って実有と為すが如し。凡夫の狂人を度せんが為めの故に言いて、『衆生は、狂法中に是の諸法有りと説いて、分別す』、と為すも、実法中には則ち無し。菩薩は、本願を満てんと欲するが故に、又性空に著せざるが故に、衆生を度すこと有るも、此の中には則ち、応に難ずべからず。
復た次ぎに、
『諸法の実相を得た!』者は、
是れが、
『性空である!』と、
『知る!』ので、
是の、
『人』は、
『諸法は性空であり、法も衆生も無い!』と、
『知ることになる!』が、
『凡夫は、未だ実相を得ない!』が故に、
『種種に憶想し、分別する!』ので、
譬えば、
『狂人』が、
『妄に、所見を有して( falsely having a view )!』、
是の、
『所見』を、
『実有とするようなものである!』。
『凡夫の狂人を度す為め!』の故に、
『衆生』は、
『狂法( false dharmas )』中に、
是の、
『諸法が有る、と説いて分別している!』と、
『言った!』が、
『実法( true dharmas )』中には、
是の、
『衆生も、諸法も!』、
『無いのである!』。
『菩薩』は、
『本願を満たそうとする!』が故に、
又、
『性空にも著さない!』が故に、
『衆生を度すこと!』が、
『有ったとしても!』、
此の中で、
『難じてはならないのである!』。
復次此經中佛自說因緣。性空中眾生不可得。知者見者亦不可得。乃至八十隨形好亦如是。而菩薩立是法。為眾生說是世諦故非是實。 復た次ぎに、此の経中に、仏の自ら因縁を説きたまわく、『性空中に衆生は不可得にして、知者、見者も亦た不可得、乃至八十随形好も亦た是の如し』、と。而るに菩薩は、是の法を立てて、衆生の為めに説くも、是れ世諦の故にして、是れ実に非ず。
復た次ぎに、
此の、
『経』中に、
『仏』は、
自ら、
『因縁』を、こう説かれている、――
『性空』中には、
『衆生』は、
『不可得であり!』、
亦た、
『知者、見者、乃至八十随形好』も、
『不可得である!』、と。
而し、
『菩薩』は、
是の、
『法を立てて( to establish this dharma )!』、
『衆生の為め!』に、
『説く!』が、
是れは、
『世諦の故に、説くのであって!』、
『実を、説くのではない!』。
此中佛說譬喻。如佛作化人。又化作四部眾而為說法。可有得道者不。須菩提言不也。所以者何。無定根本實事。何有得須陀洹乃至得佛者。菩薩說法度眾生亦如是。眾生無有定實。但欲於顛倒中拔出眾生著無顛倒中。 此の中に、仏の譬喻を説きたまわく、『仏、化人を作りて、又四部の衆を化作して、為めに法を説くが如きに、道を得る者有るべしや、不や』、と。須菩提の言わく、『不なり。所以は何んとなれば、定たる根本の実事無ければなり。何ぞ須陀洹を得、乃至仏を得る者有らんや』、と。菩薩の法を説いて、衆生を度するも亦た是の如し。衆生に定実有ること無く、但だ顛倒中に於いて、衆生を抜き出して、無顛倒中に著けんと欲するのみ。
此の中に、
『仏』は、
『譬喻』を、こう説かれた、――
若し、
『仏』が、
『化人を作り!』、
又、
『四部の衆』を、
『化作して!』、
是の、
『衆の為め!』に、
『法を説いたとすれば!』、
此の中に、
『道を得る!』者は、
『有るだろうか?』、と。
『須菩提』は、こう言った、――
『道を得る者は、有りません!』、
何故ならば、
此の中には、
『定った根本の実事』が、
『無いからです!』。
何うして、
『須陀洹を得たり、乃至仏を得る!』者が、
『有るのですか?』、と。
『菩薩』が、
『法を説いて!』、
『衆生』を、
『度すこと!』も、
是のように、
『衆生』には、
『定実の事』が、
『無い!』が、
但だ、
『衆生を、顛倒中より抜き出して!』、
『無顛倒』中に、
『著けよう( to put on )とするだけである!』。
無顛倒法亦無處所。是中無眾生乃至無知者見者。雖空性一相而顛倒多不顛倒少。是故貴是性空不顛倒法。菩薩住此中但破眾生妄想不破眾生。 無顛倒の法は、亦た処所無く、是の中に衆生無く、乃至知者、見者無し。空性は一相なりと雖も、顛倒多く、不顛倒少し。是の故に性空なる不顛倒の法を貴ぶ。菩薩は、此の中に住して、但だ衆生の妄想を破るも、衆生を破らず。
『無顛倒の法』には、
『処所( the staying place )』が、
『無く!』、
是の中には、
『衆生、乃至知者、見者も!』、
『無く!』、
即ち、
『空性の一相である!』のに、
是の中に、
『顛倒する者は多く!』、
『不顛倒も者は少い!』ので、
是の故に、
『性空、不顛倒の法』を、
『貴ぶのである!』。
『菩薩』は、
此の、
『不顛倒の法中に住する!』が故に、
但だ、
『衆生の妄想を破りながら!』、
『衆生』を、
『破ることはない!』。
  処所(しょしょ):梵語 pradeza, sthaana, sthaaniiya, adhiSThaana の訳、場所/止住する場所/場を占める/根拠( place, place of standing or staying, occupying the place of, basis )の義、在処( standing place )の意。
又無漏法乃至八聖道分。雖是無漏以生滅故不如第一義。須菩提是性空一切諸佛唯有是道更無異道。何以故。諸佛皆求實智。不壞不異法雖有十力四無所畏諸異法不名為一道。所以者何。此皆是有為法轉變無常故。 又無漏法は、乃至八聖道分まで是れ無漏なりと雖も、生滅するを以っての故に、第一義に如かず。『須菩提、是れ性空なり、一切諸仏には唯だ是の道有りて、更に異道無し』とは、何を以っての故に、諸仏は、皆実智の不壊、不異の法を求むれば、十力、四無所畏、諸の異法有りと雖も、名づけて一道と為さず。所以は何んとなれば、此れは皆、是れ有為法にして転変し、無常なるが故なり。
又、
『無漏法は、乃至八聖道分まで!』、
『無漏ではあるが、生滅する!』が故に、
『第一義』には、
『及ばない!』。
須菩提!
是の、
『第一義』が、
『性空なのであり!』、
『一切の諸仏』には、
是の、
『性空の道が有るだけで!』、
更に、
『異なる道』は、
『無い!』。
何故ならば、
『諸仏』は、
皆、
『実智の不壊、不異の法』を、
『求めるからであり!』、
設令、
『十力、四無所畏や、諸の異法が有ったとしても!』、
是れを、
『一道』を、
『称することはない!』。
何故ならば、
此れは、皆、
『有為法であり!』、
『転変して、無常だからである!』。
是性空中無眾生亦無色等諸法。菩薩不為菩薩道故求阿耨多羅三藐三菩提。但為性空故。 是の性空中には衆生無く、亦た色等の諸法無し。菩薩は、菩薩道の為めの故に、阿耨多羅三藐三菩提を求むるにあらず、但だ性空の為めの故なり。
是の、
『性空』には、
『衆生も、色等の諸法も!』、
『無いのである!』が、
『菩薩』は、
『菩薩道の為め( for the way of Bodhisattva )』の故に、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『求めるのではなく!』、
但だ、
『性空の為め( for the empty of nature )』の故に、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『求めるのである!』。
問曰。何等是性空何等是菩薩道。 問うて曰く、何等か、是れ性空、何等か、是れ菩薩道なる。
問い、
何が、
『性空であり!』、
何が、
『菩薩道ですか?』。
答曰。第一義中無分別。世諦中有分別。諸法實相名性空。餘布施等乃至八十隨形好是菩薩道。雖行是法不為此法為求性空故。是故說不為菩薩道故行 答えて曰く、第一義中には分別無きも、世諦中には分別有り。諸法の実相を性空と名づけ、餘の布施等は、乃至八十随形好まで、是れ菩薩道なり。是の法を行ずと雖も、此の法の為めにあらず、性空を求めんが為めの故なり。是の故に説かく、『菩薩道の為めの故に行ぜず』、と。
答え、
『性空、菩薩道』は、
『第一義』中には、
『分別( any differnce )』が、
『無い!』が、
『世諦』中には、
『分別( some differences )』が、
『有り!』、
『世諦』中には、
『諸法の実相』を、
『性空』と、
『称し!』、
『餘の布施等、乃至八十随形好』を、
『菩薩道』と、
『称する!』。
是の、
『菩薩道の法を行じる!』のは、
此の、
『菩薩道』を、
『求める為めではなく!』、
『性空を求める為め!』の故に、
『菩薩道』を、
『行じるのである!』。
是の故に、こう説く、――
『菩薩道の為め!』の故に、
『行じるのではない!』。
是性空。先亦性空中後亦性空。從本已來常空無有作者。非是福德力故使空。亦非智慧力故使空。但性自爾故。 是の性空は、先にも亦た性空、中、後も亦た性空なれば、本より已来、常に空にして、作者有ること無く、是れ福徳の力の故に空ならしむるに非ず、亦た智慧力の故に空ならしむるに非ず、但だ性として自ら爾るが故なり。
是の、
『性空』は、
『先も、中も、後も性空であり!』、
『本より常に空であって!』、
『作者』が、
『無く!』、
亦た、
『福徳の力』の故に、
『空にされたのでもなく!』、
亦た、
『智慧の力』の故に、
『空にされたのでもなく!』、
但だ、
『性として!』、
『自ら、空だからである!』。
諸佛賢聖以大福德智慧方便力故。破眾生心中顛倒令知性空。譬如虛空性常清淨不著垢闇。或時風雲闇翳。世人便言虛空不淨。更有猛風吹除風雲。便言虛空清淨。而虛空實無垢無淨。諸佛亦如是。以說法猛風吹卻顛倒雲翳令得清淨。而諸法性常自無垢無淨。 諸仏、賢聖は大福徳の智慧、方便力を以っての故に、衆生の心中の顛倒を破りて、性空を知らしむ。譬えば虚空の性の常に清浄にして、垢闇を著けず、或は時に風雲闇翳ありて、世人便ち『虚空は不浄なり』と言い、更に猛風有りて、風雲を吹き除けば、便ち『虚空は清浄なり』と言うも、虚空は実に無垢、無浄なるが如し。諸仏も亦た是の如く、説法の猛風を以って、顛倒の雲翳を吹き却けて、清浄なるを得しむるも、諸法の性は常に自ら無垢、無浄なり。
『諸仏、賢聖』は、
『大福徳の智慧、方便力を用いる!』が故に、
『衆生心中の顛倒を破って!』、
『性空』を、
『知らせられる!』が、
譬えば、
『虚空の性』は、
『常に、清浄であって!』、
『垢の闇』を、
『著けることはない!』のに、
或は時に、
『風雲の闇翳があれば!』、
『世人』は、
便ち( soon )、
『虚空は不浄である!』と、
『言い!』、
更に、
『猛風が有って、風雲を吹き除けば!』、
便ち、
『虚空は清浄である!』と、
『言う!』が、
実は、
『虚空』は、
『無垢無浄であるようなものである!』。
『諸仏』も、
是のように、
『説法の猛風を用いて!』、
『顛倒の雲翳を吹き却け!』、
『清浄』を、
『得させられる!』が、
而し、
『諸法の性』は、
『常に!』、
『自ら無垢、無浄なのである!』。
是菩薩知一切法性空故。能行一切種種道度眾生。具足一切道淨佛國土教化眾生。得阿耨多羅三藐三菩提時。隨意壽命。 是の菩薩は、一切法は、性空なるが故に、能く一切の種種の道を行ずれば、衆生を度すと知り、一切の道を具足して、仏国土を浄め、衆生を教化して、阿耨多羅三藐三菩提を得る時には、随意の寿命なり。
是の、
『菩薩』は、
『一切法は、性空である!』が故に、
『一切の種種の道を行じれば!』、
『衆生を度すことができる!』と、
『知り!』、
『一切の道を具足して!』、
『仏国土を浄め!』、
『衆生』を、
『教化する!』ので、
『阿耨多羅三藐三菩提を得る!』時には、
『寿命』は、
『随意である!』。
隨意壽命者。菩薩得無生忍法入如幻菩薩道。能一時變化作千億萬身。周遍十方具足行一切菩薩道。處處國土中隨眾生壽命長短而受其形。如釋迦牟尼佛於此國土壽命百年。於莊嚴佛國壽七百阿僧祇劫。佛法於五不可思議中。是第一不可思議。 随意の寿命とは、菩薩は無生法忍を得て、幻の如き菩薩道に入りて、能く一時に変化して、千億万の身を化作して、十方を周遍し、一切の菩薩道を行ずるを具足し、処処の国土中に衆生の寿命の長短に随いて、其の形を受くればなり。釈迦牟尼仏の如きは、此の国土に於いては、寿命百年にして、荘厳せる仏国に於いて、寿は七百阿僧祇劫であり、仏法は、五不可思議中の是れ第一の不可思議なり
『随意の寿命』とは、
『菩薩が、無生法忍を得て!』、
『幻のような!』、
『菩薩の道』に、
『入る!』と、
『一時に変化して!』、
『千億万の身』を、
『化作し!』、
『十方に周遍して!』、
『一切の菩薩道を行じること!』を、
『具足し!』、
『処処の国土』中に、
『衆生』の、
『寿命の長短』に、
『随って!』、
其の、
『形』を、
『受けるのである!』が、
例えば、
『釈迦牟尼仏など!』は、
此の、
『娑婆国土に於いて!』、
『寿命』は、
『百年である!』が、
『荘厳された仏国に於いて!』は、
『寿』は、
『七百阿僧祇劫である!』。
『仏法』は、
『五不可思議』中に於いて、
『第一の不可思議なのである!』。
  荘厳(しょうごん):梵語 vyuuha の訳、配置/配列( arrangement )の義、全体に於ける部分が整然と整えられること( orderly arrangement of the parts of a whole )の意。
  参考:『大智度論巻30』:『經說五事不可思議。所謂眾生多少業果報坐禪人力諸龍力諸佛力。於五不可思議中。佛力最不可思議。菩薩入深禪定。生不可思議神通故。一念中悉到十方諸佛世界。如說四種神通中。唯佛菩薩有如意疾遍神通。』
佛告須菩提。一切法性空是諸佛真法。若得是法則名為佛。若說此法名為度眾生。三世佛皆亦如是。離是性空則無道無果。道者八聖道分。果者七種果。所以者何。若離性空別有定法則取相生著。著故亦無離欲。無離欲故則無道果。若離性空雖行布施持戒行慈悲等。善法力故雖不墮惡道生天。果盡還墮惡道如本不異。 仏の須菩提に告げたまわく、『一切法の性空は、是れ諸仏の真法にして、若し是の法を得れば、則ち名づけて、仏と為し、若し此の法を説けば、名づけて衆生を度すと為す。三世の仏も皆、亦た是の如く、是の性空を離るれば、則ち道無く、果無し』、と。道とは八聖道分、果とは七種の果なり。所以は何んとなれば、若し性空を離れて、別に定法有れば、則ち相を取りて著を生じ、著するが故に亦た欲を離るる無く、欲を離るる無きが故に、則ち道果無けれなり。若し性空を離るれば、布施、持戒を行じ、慈悲等を行ずと雖も、善法の力の故に悪道に堕せずして、天に生ずと雖も、果尽くれば還って悪道に堕すれば、本の如きに異ならず。
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
『一切法は、性空であり!』、
是れが、
『諸仏』の、
『真法である!』。
若し、
是の、
『性空の法を得れば!』、
『仏』と、
『称され!』、
若し、
是の、
『性空の法を説けば!』、
『衆生を度す!』と、
『称される!』。
亦た、
『三世の仏』も、
『皆、是の通りである!』。
是の、
『性空を離れれば!』、
『道も、果も!』、
『無いのである!』、と。
『道とは、八聖道分であり!』、
『果』とは、
『七種の果である!』。
何故ならば、
若し、
『性空を離れて、別に定法が有れば!』、
『相を取って!』、
『著』を、
『生じ!』、
『著する!』が故に、
『欲を離れる!』者も、
『無く!』、
『欲を離れる者が無い!』が、
『道も、果も!』、
『無いからである!』。
若し、
『性空を離れれば!』、
若し、
『布施や、持戒や、慈悲等を行じたとしても!』、
若し、
『善法の力の故に、悪道に堕ちず!』、
『天』に、
『生じたとしても!』、
『果が尽きれば、還って!』、
『悪道』に、
『堕ちることになる!』ので、
則ち、
『本』と、
『異らないのである!』。
行性空法亦不著性空即是涅槃。行餘法生著心有退失。若行此法則無退失。 性空の法を行じて、亦た性空に著せざれば、即ち是れ涅槃なり。餘の法を行じて、著心を生ずれば、退失有るも、若し此の法を行ずれば、則ち退失無し。
『性空の法を行じながら!』、
亦た、
『性空』にも、
『著さなければ!』、
即ち、
是れが、
『涅槃である!』。
『餘の法を行じて!』、
『著心を生じれば!』、
即ち、
『退失』が、
『有る!』が、
若し此の、
『性空の法を行じれば!』、
則ち、
『退失』は、
『無い!』。
須菩提。歡喜白佛言。甚希有。菩薩行是性空法亦不壞性空相。佛答。若色等法與性空異。菩薩則不得阿耨多羅三藐三菩提。何以故。有空法則不可得離。 須菩提の歓喜して仏に白して言さく、『甚だ希有なり。菩薩は、是の性空の法を行ずるも、亦た性空の相を壊らざるなり』、と。仏の答えたまわく、『若し色等の法にして、性空と異なれば、菩薩は則ち阿耨多羅三藐三菩提を得ず。何を以っての故に、空法有れば、則ち離を得べからざればなり。
『須菩提は歓喜して!』、
『仏に白して!』、こう言った、――
甚だ希有です!
世尊!
『菩薩』は、
是の、
『性空』の、
『法』を、
『行じながら!』、
『性空』の、
『相』は、
『壊らないのですね!』、と。
『仏』は、こう答えられた、――
若し、
『色等の法が、性空と異なれば!』、
『菩薩』は、
『阿耨多羅三藐三菩提を得られないからである!』。
何故ならば、
『空法が有れば!』、
『離( the leaving )』を、
『得られないからである( should not obtain )!』。
須菩提今色等諸法實性空。菩薩知是法已得阿耨多羅三藐三菩提。所以者何。此中無有一法定是常。但凡夫生我心故著內外法。不得脫生老病死。是故菩薩行是性空和合六波羅蜜不壞色等諸法相。所謂若空若不空若空不空若非空非不空。不作如是示諸法相是名不壞。所以者何。色實相即是性空。性空云何自壞性空。乃至菩提亦如是。 須菩提、今、色等の諸法は、実に性空なり。菩薩は、是の法を知り已りて、阿耨多羅三藐三菩提を得るなり。所以は何んとなれば、此の中に一法として、定んで是れ常なる有ること無ければなり。但だ凡夫は我心を生ずるが故に、内外の法に著し、生老病死を脱るるを得ず。是の故に菩薩は、是の性空を行じて、六波羅蜜に和合すれば、色等の諸法の相を壊らず。謂わゆる若しは空、若しは不空、若しは空不空、若しは非空非不空にして、是の如く諸法の相を示すを作さざれば、是れを不壊と名づく。所以は何んとなれば、色の実相は、即ち是れ性空なれば、性空にして、云何が自ら性空を壊らんや。乃至菩提も亦た是の如し。
須菩提!
今、
『色等の諸法』は、
『実に!』、
『性空である!』が、
『菩薩』は、
是の、
『法を知りながら!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得るのである!』。
何故ならば、
此の中には、
『定んで常である法』は、
『一法すら!』、
『無いからである!』。
但だ、
『凡夫』は、
『我心を生じる!』が故に、
『内外の法』に、
『著して!』、
是の故に、
『生老病死』を、
『脱れられないのである!』。
是の故に、
『菩薩』は、
是の、
『性空を行じながら!』、
『六波羅蜜』に、
『和合する!』ので、
『色』等の、
『諸法の相』を、
『壊らない!』。
謂わゆる、
『空、不空、空不空、非空非不空である!』と、
『作さないのであり!』、
是のように、
『諸法の相』を、
『示せば!』、
是れを、
『諸法の相を壊らない!』と、
『称するのである!』。
何故ならば、
『色』の、
『実相』が、
『性空だからであり!』、
『性空』が、
何故、
『自ら!』、
『性空を、壊るのか?』。
此中佛說譬喻。如內虛空不壞外虛空以同體故。須菩提問。世尊。若諸法性空無別異。菩薩於何處得阿耨多羅三藐三菩提。 此の中に、仏の譬喻を説きたまわく、『内の虚空の、外の虚空を壊らざるが如し。同体なるを以っての故なり』、と。須菩提の問わく、『世尊、諸法、性空に、別異無ければ、菩薩は、何処に於いてか、阿耨多羅三藐三菩提を得るや』、と。
此の中に、
『仏』は、
『譬喻して!』、こう説かれた、――
譬えば、
『内の虚空』が、
『外の虚空』を、
『壊らないようなものである!』。
何故ならば、
『内、外の虚空』は、
『同体だからである!』、と。
『須菩提』は、こう問うた、――
世尊!
若し、
『諸法と、性空とに!』、
『別異( any difference )』が、
『無ければ!』、
『菩薩』は、
『諸法に於いてか、性空に於いてか?』、
何処に於いて、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得るのですか?』
佛可其意言如是。若分別有二相。則不得阿耨多羅三藐三菩提。阿耨多羅三藐三菩提名實智慧。於色法中不行。所謂不著不染。所以者何。是智慧不為取色故行。是故不行色中。 仏は、其の意を可として、言わく、『是の如し。若し分別して、二相有れば、則ち阿耨多羅三藐三菩提を得ず。阿耨多羅三藐三菩提を実の智慧と名づくるは、色法中に於いて、行ぜず、謂わゆる著せず、染まらざればなり。所以は何んとなれば、是の智慧は、色を取らんが為めの故に行ぜず。是の故に色中に行ぜざるなり。
『仏』は、
『須菩提の意を可として!』、こう言われた、――
その通りだ!
若し、
『分別して、二相が有れば!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得られないことになる!』。
『阿耨多羅三藐三菩提』が、
『実の智慧と称されるのは!』、
『色法』中に於いて、
『行じない!』、
謂わゆる、
『著すこともなく!』、
『染まることもないからである!』。
何故ならば、
是の、
『智慧』は、
『色法を取る為め!』の故に、
『行じない( should not contemplate )!』ので、
是の故に、
『色』中に、
『行じないからである!』。
須菩提復問。若菩提不取中行不捨中行當於何處行。取名實法捨名空法。取名著行捨名不著行。取名二行捨名不二行。如是等分別。 須菩提の復た問わく、『若し菩提を、取中に行ぜず、捨中に行ぜずんば、当に何処に於いてか、行ずべき』、と。取を実法と名づけ、捨を空法と名づく。取を著行と名づけ、捨を不著行と名づく。取を二行と名づけ、捨を不二行と名づく。是れ等の如く分別す。
『須菩提』が復た、こう問うた、――
若し、
『菩提( the perfect wisdom or knowledge )』が、
『取中にも、捨中にも!』、
『行じなければ!』、
何処に於いて、
『菩提』は、
『行じるのですか?』、と。
謂わゆる、
『取る!』とは、
『実法』を、
『取ることであり!』、
『捨てる!』とは、
『空法』を、
『捨てることである!』。
亦た、
『取る!』とは、
『著の行であり( a mental action of attaching )!』、
『捨てる!』とは、
『不著の行である!』。
亦た、
『取る!』とは、
『善悪、有無の二相』の、
『行であり!』、
『捨てる!』とは、
『不二相』の、
『行である!』。
是れ等のように、
『取、捨』を、
『分別するのである!』。
佛反問須菩提。於汝意云何。佛所化人為何處行。須菩提言。是化人無處行。化人無心無心數法故。菩提亦如是。 仏の須菩提に反って問いたまわく、『汝が意に於いて云何。仏の所化の人は、何処にか行ずと為すや』、と。須菩提の言わく、『是の化人には、処の行ずる無し。化人には心無く、心数法無きが故なり』、と。『菩提も亦た是の如し』。
『仏は反って!』、
『須菩提』に、こう問われた、――
お前の意には、何うなのか?――
『仏の所化の人』は、
何のような、
『処』で、
『行じる( to do a mental action )のか?』、と。
『須菩提』は、こう答えた、――
是の、
『化人』には、
『行じる処』が、
『無い!』。
『化人』には、
『心も、心数法も!』、
『無いからです!』、と。
――
亦た、
『菩提( the perfect knowledge )』も、
『是の通りである!』。
復問。於汝意云何。阿羅漢夢中菩提為在何處行須菩提言。阿羅漢尚不眠。何況夢中菩提有行處。 復た問わく、『汝が意に於いて云何。阿羅漢の夢中の菩提は、何処に在りてか行ずと為す』、と。須菩提の言わく、『阿羅漢は尚お眠らず、何に況んや、夢中の菩提に、行処有るをや』、と。
復た、こう問われた、――
お前の意には、何うなのか?――
『阿羅漢の夢』中に、
『菩提』は、
何のような、
『処に在って!』、
『行じるのか?』、と。
『須菩提』は、こう言った、――
『阿羅漢は、尚お眠らないのですから!』、
況して、
『夢中の菩提』に、
『行じる処など!』、
『有るはずがない!』、と。
問曰。菩提有三種。阿羅漢菩提辟支佛菩提佛菩提。阿羅漢菩提不在有漏心中無記心中行。但在無漏心中行。佛何以故問阿羅漢夢中菩提何處行。 問うて曰く、菩提には三種有り、阿羅漢の菩提、辟支仏の菩提、仏の菩提なり。阿羅漢の菩提は、有漏心中に、無記心中に在りて行ぜず、但だ無漏心中に在りて行ず。仏は何を以っての故にか、『阿羅漢の夢中の菩提は、何処にか行ずる』、と問いたまえる。
問い、
『菩提』には、
『三種有って!』、
『阿羅漢の菩提、辟支仏の菩提、仏の菩提である!』が、
『阿羅漢の菩提』は、
『有漏や、無記』の、
『心中に在る!』時には、
『行じず!』、
但だ、
『無漏心中に在る!』時にのみ、
『行じます!』。
『仏』は、何故、こう問われたのですか?――
『阿羅漢の夢中の菩提』は、
何のような、
『処に在る!』時、
『行じるのか?』、と。
答曰。阿羅漢是一切漏盡聖人則無夢。佛以必無處故。問欲明必無行法 答えて曰く、阿羅漢は、是れ一切漏尽の聖人なれば、則ち夢無し。仏は必ず無き処を以っての故に問うて、『必ず、行法無し』、と明らかにせんと欲したまえり。
答え、
『阿羅漢』は、
『一切の漏が尽きた!』、
『聖人であり!』、
則ち、
『夢みること!』が
『無い!』が、
『仏』は、
『行じる処』は、
『必ず無いのか?』と、
『問うことで!』、
『行じる法』は、
『必ず無い!』と、
『明かそうとされたのである!』。
問曰。乃至佛猶尚有眠。何以知之。佛嘗命阿難。汝四襞優多羅僧敷我欲小眠。汝為諸比丘說法。 問うて曰く、乃至仏すら、猶尚お眠ること有り。何を以ってか、之を知る。仏の嘗て、阿難に命じたまわく、『汝、優多羅僧を四襞して敷け。我れは小(しばら)く眠らんと欲す。汝は諸比丘の為めに法を説け』、と。
問い、
乃至、
『仏すら!』、
猶尚お、
『眠ること!』が、
『有る!』。
何故、知るのか?、――
『仏は、嘗て!』、
『阿難』に、こう命じられたからである、――
お前は、
『優多羅僧を四襞して!』、
『敷け!』。
わたしは、
『小く( for some time )!』、
『眠りたい!』。
お前は、
『諸比丘の為め!』に、
『法を説け!』、と。
  四襞(しひゃく):四つに畳む( to fold sth. in four )。
又薩遮尼乾問佛。佛自念晝日有眠不。佛言。春末夏初以時熱故小眠息。除食患故。薩遮尼乾白佛。餘人有言晝日眠是癡相。佛言汝置汝不別癡相。諸漏能生後身相續不斷者是名癡相。雖常不眠亦是癡。若是諸漏永滅無餘。雖眠不名癡。如是等經中處處說。須菩提。何以言阿羅漢尚不眠。 又薩遮尼乾の仏に問わく、『仏は自ら念じて、昼日に眠ること有りや不や』、と。仏の言わく、『春の末、夏の初は時の熱きを以っての故に、小く眠りて息む。食の患を除かんが故なり』、と。薩遮尼乾の仏に白さく、『餘人に、昼日に眠るは是れ癡相なり、と言う有り』、と。仏の言わく、『汝置け。汝は癡相を別たず。諸漏の能く後身を生ずること、相続して断ぜざる者、是れを癡相と名づく。常に眠らずと雖も、亦た是れも癡なり。若し是の諸漏永く滅して、餘無ければ、眠ると雖も癡と名づけず』、と。是れ等の如きは、経中の処処に説けるに、須菩提は、何を以ってか、『阿羅漢は、尚お眠らず』、と言える。
又、
『薩遮尼乾』が、
『仏』に、こう問うた、――
『仏』は、
『自ら、念じて( recalling yourself )!』、
『昼日に、眠ること!』が、
『有るのですか?』、と。
『仏』は、こう言われた、――
『春の末、夏の初は熱い時期である!』が故に
『小く眠って!』、
『息んでいる!』。
何故ならば、
『食の患』を、
『除く為めでである!』、と。
『薩遮尼乾』は、
『仏』に、こう白した、――
『餘人』には、
有るいは、
『昼日に眠るのは、癡相である!』と、
『言っているが!』、と。
『仏』は、こう言われた、――
お前は、
『置け( abandon that opinion )!』。
お前は、
『癡相』を、
『別けていないのだ( do not differentiate )!』。
『諸漏は、後身を生じさせて!』、
『相続するのに!』、
『断じなければ!』、
是れを、
『癡相』と、
『称するのであり!』、
亦た、
『常に、眠らなくても!』、
『癡相であり!』、
若し、
『諸漏が、永く滅して!』、
『餘』が、
『無ければ!』、
『眠ったとしても!』、
『癡』と、
『称することはない!』、と。
是れ等のように、
『経中に、処処に説かれている!』のに、
『須菩提』は、
何故、
『阿羅漢は、尚お眠らない!』と、
『言ったのですか?』。
  薩遮尼乾(さっしゃにけん):梵語 jJaati-nirgrantha の音訳、又尼乾子又は尼乾若提子(梵語 nirgrantha- jJaaniputra )に作る。六師外道の一。彼等は倮形の乞食者として修行しながら、灰で身を覆い、有らゆる束縛から脱れようと企てた( They practiced as naked mendicants, covering themselves with ashes, attempting to free themselves from all ties. )。『大智度論26下注:尼揵陀若提子』参照。
答曰。眠有二種。一者眠而夢。二者眠而不夢。阿羅漢非為安隱著樂故眠。但受四大身法。應有食息眠覺。是故少許時息名為眠。不為夢眠故。須菩提言。阿羅漢尚不眠。 答えて曰く、眠には二種有り、一には眠りて夢みる。二には眠りて夢みず。阿羅漢は安隠に楽に著せんが為めの故に眠るに非ず。但だ四大の身法を受くれば、応に食、息、眠、覚有るべし。是の故に小許の時、息むを名づけて眠ると為し、夢の為めに眠るにあらざるが故に、須菩提は、『阿羅漢は、尚お眠らず』、と言えり。
答え、
『眠には、二種有り!』、
一には、
『眠りながら!』、
『夢を見る!』、
二には、
『眠る!』が、
『夢を見ない!』。
『阿羅漢』は、
『安隠という!』、
『楽に著する為め!』の故に、
『眠るのではなく!』、
但だ、
『四大造』の、
『身法』を、
『受ければ!』、
当然、
『食、息、眠、覚』が、
『有るはずであり!』、
是の故に、
『少許り、息む!』のを、
『眠る!』と、
『称し!』、
『夢の為めに、眠るのではない!』が故に、
『阿羅漢は、尚お眠らない!』と、
『須菩提が、言ったのである!』。
有人言。離欲者得禪定。色界繫四大入身中。身心歡樂則無有眠。慧解脫阿羅漢。色界四大不入身中故有眠。是故須菩提言阿羅漢尚不眠。是故阿羅漢有眠有不眠。佛以方便力為度眾生。受人法故現眠 有る人の言わく、『離欲の者は、禅定を得れば、色界繋の四大、身中に入りて、身心歓楽すれば、則ち眠有ること無し。慧解脱の阿羅漢は、色界の四大、身中に入らざるが故に眠有り』、と。是の故に須菩提は、『阿羅漢は、尚お眠らず』、と言えるも、是の故に阿羅漢には、眠る有り、眠らざる有り。仏は方便力を以って、衆生を度せんが為めに、人法を受くるが故に、眠を現したまえり。
有る人は、こうい言っている、――
『離欲の者が禅定を得る(心解脱の阿羅漢)!』と、
『色界繋』の、
『四大』が、
『身中に入り!』、
『身心が歓楽する!』ので、
『眠ること!』が、
『無い!』が、
『慧解脱の阿羅漢』は、
『色界繋』の、
『四大』が、
『身中に入らない!』が故に、
則ち、
『眠ること!』が、
『有る!』、と。
是の故に、
『須菩提』は、
『阿羅漢は、尚お眠らない!』と、
『言ったのである!』が、
是の故に、
『阿羅漢』には、
『眠る者も、眠らない者も!』、
『有る!』が、
『仏』は、
『方便力を用いて!』、
『衆生を度す為め!』に、
『人法を受けられた!』が故に、
則ち、
『眠ること!』を、
『現されたのである!』。
須菩提復問。若不行者。云何菩薩從一地至十地。乃至得阿耨多羅三藐三菩提。 須菩提の、復た問わく、『若し行ぜざれば、云何が菩薩は、一地より十地に至りて、乃至阿耨多羅三藐三菩提を得るや』、と。
『須菩提は復た!』、こう問うた、――
若し、
『十地、乃至八十随形好を行じなければ!』
『何うして、菩薩が( how can that bodhisattva )』、
『一地より十地に至ることができたり!』、
乃至、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得られたりするのでしょうか?』、と。
佛可其意。菩提雖無處行未具足六波羅蜜。諸法終不得阿耨多羅三藐三菩提。是菩薩住色相乃至菩提相中住。得阿耨多羅三藐三菩提。不捨色等法亦不著菩提相。知色等法即是菩提。常寂滅無法。若增若減若垢若淨若得道若得果。但世諦故說菩薩得阿耨多羅三藐三菩提。第一義中無有色乃至菩提。 仏は、其の意を可としたまわく、『菩提は、行ずる処無しと雖も、未だ六波羅蜜の諸法を具足せざれば、終に阿耨多羅三藐三菩提を得ず。是の菩薩の色相に住し、乃至菩提相中に住して、阿耨多羅三藐三菩提を得るは、色等の法を捨てざるも、亦た菩提の相に著せず、『色等の法は、即ち是れ菩提にして、常に寂滅し、法の若しは増、若しは減、若しは垢、若しは浄、若しは得道、若しは得果無く、但だ世諦の故に、『菩薩は、阿耨多羅三藐三菩提を得』、と説くも、第一義中には、色乃至菩提有ること無し』、と知る。
『仏』は、
『須菩提の意を可として!』、こう言われた、――
『菩提の行じる!』、
『処』が、
『無くても!』、
『六波羅蜜の諸法を、具足しなければ!』、
終に、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得ることはない!』。
是の、
『菩薩』が、
『色相、乃至菩提相中に住しながら!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得られる!』のは、
『色等の法を捨てずして!』、
『菩提相』に、
『著することもなく!』、
而も、こう知るからである、――
『色等の法は、即ち菩提であり!』、
『常に寂滅して!』、
『増減したり、垢浄になったり、道や、果を得たりするような!』、
『法は無い!』、と。
但だ、
『世諦』の故に、
『菩薩は、阿耨多羅三藐三菩提を得る!』と、
『説いただけで!』、
『第一義』中には、
『色、乃至菩提』は、
『無いのである!』、と。
佛欲明是事故。反問須菩提。於汝意云何。汝斷煩惱得道時有所得不。所謂如夢等五眾。若道若道果決定一法不。須菩提言。不得也。所以者何。須菩提意。住無相門中入道云何取相。 仏は、是の事を明さんと欲したもうが故に反って、須菩提に問いたまわく、『汝が意に於いて云何。汝は煩悩を断ちて、道を得る時、所得有りや不や。謂わゆる夢等の如き五衆、若しは道、若しは道果は、一法を決定すや不や』、と。須菩提の言わく、『得ざるなり』、と。所以は何んとなれば、須菩提の意は、『無相門中に住して、道に入るに、云何が相を取らんや』、となり。
『仏』は、
是の、
『事』を、
『明かそうとして!』、
『須菩提に問を反して!』、こう言われた、――
お前の意には、何うなのか?――
お前が、
『煩悩を断って、道を得た!』時には、
『所得』が、
『有ったのか、どうか?』。
謂わゆる、
『夢のような五衆や、道や、道果』は、
『一法だろうが!』、
『決定したのか、どうか?』、と。
『須菩提』は、こう言った、――
『所得』は、
『得られません!』、と。
何故ならば、
『須菩提の意』は、こうだからである、――
『無相門に住して、道に入りながら!』、
何うして、
『相』を、
『取るのか?』、と。
佛言。汝若乃至不得微細少法。云何說汝為阿羅漢。須菩提言。世諦法故說言阿羅漢。凡夫顛倒法中有得有失有眾生有法。 仏の言わく、『汝、若し乃至微細の少法をすら得ざれば、云何が、汝を説いて、阿羅漢と為すや』、と。須菩提の言わく、『世諦の法の故に説いて、阿羅漢と言うも、凡夫の顛倒の法中には得有り、失有り、衆生有り、法有ればなり』、と。
『仏』は、こう言われた、――
お前が、
若し、
乃至、
『微細の少法すら!』、
『得られなければ!』、
何故
お前を、
『阿羅漢である!』と、
『説くのか?』、と。
『須菩提』は、こう言った、――
『世諦の法』の故に、わたしを説いて、――
『阿羅漢である!』と、
『言うのです!』。
『凡夫の顛倒法』中は、
『得も、失も、衆生も、法も!』、
『有るからです!』、と。
佛言。菩提亦如是。世諦法故說有菩薩。說有色等乃至菩提。菩提中無有定法。亦無眾生亦無菩提。菩薩觀是菩提法無有增無有減。所以者何。諸法性如是。菩薩亦不得是諸法性。何況有初發心乃至十地及六波羅蜜。三十七品乃至十八不共法。當有所得。無有是處。 仏の言さく、『菩提も亦た是の如く、世諦の法の故に、『菩薩有り』、と説き、『色等、乃至菩提有り』、と説くも、菩提中には定法有ること無く、亦た衆生も無く、亦た菩提も無し。菩薩は、是の菩提の法には増有ること無く、減有ること無しと観る。所以は何んとなれば、諸法の性は、是の如し。菩薩は、亦た是の諸法の性をも得ず。何に況んや、初発心乃至十地、及び六波羅蜜、三十七品乃至十八不共法有りて、当に所得有るべけんや。是の処有ること無し。
『仏』は、こう言われた、――
『菩提』も、
是のように、
『世諦の法』の故に、
『菩薩が有るとか、色等乃至菩提が有る!』と、
『説く!』が、
『菩提』中には、
『定法も、衆生も、菩提も!』、
『無いのである!』。
『菩薩』は、
是の、
『菩提の法は増、減することが無い!』と、
『観る!』。
何故ならば、
『諸法の性』が、
『是の通りだからである!』が、
『菩薩』は、
是の、
『諸法の性』を、
『得ることもない!』。
況して、
『初発心乃至十地や、六波羅蜜や、三十七品乃至十八不共法が有り!』、
『所得』が、
『有るはずだとすれば!』、
是の、
『処( such a reason )』は、
『無い!』。
所以者何。諸法性是一切法根本尚不可得。何況六波羅蜜等。是作法當有定實。如是菩薩行是諸法性得佛時。能大利益眾生
大智度論卷第九十
所以は何んとなれば、諸法の性は、是れ一切法の根本にして、尚お不可得なるに、何に況んや六波羅蜜等は、是れ作法なるに、当に定実有るべけんや。是の如く、菩薩は、是の諸法の性を行ずれば、仏を得る時、能く衆生を大利益するなり。
大智度論巻第九十
何故ならば、
『諸法の性は、一切法の根本でありながら!』、
尚お、
『不可得である!』のに、
況して、
『六波羅蜜等は、作法でしかなく!』、
『定実など、有るはずがない!』。
是のように、
『菩薩』が、
是の、
『諸法の性を行じれば!』、
『仏を得た!』時、
『衆生を、大利益することができるのである!』。

大智度論巻第九十


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