【論】問曰。上來已處處說諸法性空。云何分別有善不善。須菩提。何以從後已來。品品中義無異而作種種名問。 |
問うて曰く、上来、已に処処に、『諸法の性空なるに、云何が分別して、善、不善有らんや』、と説きたまえるに、須菩提は、何を以ってか、後より已来、品品中に義に異無くして、種種の名を作して、問える。 |
問い、
『上来』、
已に、処処に、
『諸法の性は空なのに、何故分別して、善や不善が有るのか?』と、
『説かれているのに!』、
『須菩提』は、
何故、
『説かれた後にも、品品中に!』、
『義には異が無い!』のに、
『種種の名を作して( mentioning various names )!』、
『問うたのか?』。
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答曰。是事上已答。復次眾生從無始生死已來著心深難解故。須菩提復作是重問。復次是般若波羅蜜欲說是空義要故數問。 |
答えて曰く、是の事は上に已に答えたり。復た次ぎに、衆生は無始の生死より已来、著心深くして解き難きが故に、須菩提は、復た是の重ねて問うを作せり。復た次ぎに、是の般若波羅蜜は、是の空義の要を説かんと欲するが故に、数(しばしば)問えり。 |
答え、
是の、
『事』は、
『上に、已に答えた!』が、
復た次ぎに、
『衆生』は、
『無始の生死より!』已来、
『著心が、深く!』、
『解脱することが、難しい!』が故に、
『須菩提』は、
復た、
是の、
『重問』を、
『作したのである!』。
復た次ぎに、
是の、
『般若波羅蜜( mahaprajna-paramita-sutra )』は、
是の、
『空義の要を説こうとする!』が故に、
『数( many times )、問うのである!』。
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復次佛在世時。眾生利根易悟。佛滅度五百年後。像法中眾生愛著佛法墮著法中。言若諸法皆空如夢如幻何以故有善不善。以是故須菩提憐愍未來眾生鈍根不解故重問世尊。若諸法皆空。云何分別有善不善等。 |
復た次ぎに、仏の在世の時、衆生は利根にして悟り易く、仏の滅度の五百年後の像法中には、衆生は仏法を愛著して、著法中に堕して言わく、『若し諸法にして皆空なること、夢の如く、幻の如くんば、何を以っての故にか、善、不善有る』、と。是を以っての故に、須菩提は未来の衆生の鈍根にして解せざるを憐愍するが故に重ねて問わく、『世尊、若し諸法にして、皆空なれば、云何が分別して、善、不善等有る』、と。 |
復た次ぎに、
『仏の在世』時の、
『衆生』は、
『利根であり!』、
『悟り易かった!』が、
『仏の滅度より、五百年後の像法』中の、
『衆生』は、
『仏法を愛著して!』、
『法に著する!』中に、
『堕ち!』、
こう言うようになった、――
若し、
『諸法が、皆空であり!』、
『夢か!』、
『幻のようならば!』、
何故、
『善や、不善』が、
『有るのか?』、と。
是の故に、
『須菩提』は、
『未来の衆生が、鈍根であり!』、
『空を解さない!』のを、
『憐愍して!』、
『重ねて!』、こう問うたのである、――
世尊!
若し、
『諸法』が、
『皆、空ならば!』、
何故、
『諸法を分別して!』、
『善や、不善が有るのですか?』、と。
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此中佛自說因緣。凡夫顛倒心故。於法皆作顛倒異見。乃至不見一法是實。凡夫於夢中著夢得夢見夢者。亦著夢中所見事。是人若不信罪福起三種不善業。若信罪福起三種善業。 |
此の中に、仏の自ら因縁を説きたまわく、『凡夫は、顛倒心の故に、法に於いて、皆顛倒を作して、見を異にし、乃至一法すら、是の実を見ず。凡夫は、夢中に於いて、夢に著して、夢と夢を見る者を得、亦た夢中の所見の事に著すれば、是の人、若し罪福を信ぜざれば、三種の不善業を起し、若し、罪福を信ずれば、三種の善業を起せばなり』、と。 |
此の中に、
『仏』は、
自ら、
『因縁』を、こう説かれた、――
『凡夫』は、
『顛倒の心』の故に、
『法』に於いて、
『皆、顛倒を作して!』、
『見を、異にする!』ので、
乃至、
『一法すら!』、
是の、
『法の実』を、
『見ない!』。
『凡夫』は、
『夢』中に於いて、
『夢に著して!』、
『夢や、夢を見る!』者を、
『得!』、
亦た、
『夢』中の、
『所見の事にも!』、
『著する!』ので、
是の、
『人』は、
若し、
『罪、福を信じなければ!』、
『三種(身、口、意)の不善業』を、
『起し!』、
若し、
『罪、福を信じれば!』、
『三種の善業』を、
『起すからである!』、と。
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不動(ふどう):梵語 aaniJjyana の訳、不動性( immovableness )の義。 |
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善不善不動。善名欲界中善法喜樂果報。不善名憂悲苦惱果報。不動名生色無色界因緣業。菩薩知是三種業皆是虛誑不實。住二空中為眾生說法。畢竟空破諸法。無始空破眾生相。住中道為眾生說法。所謂五眾十二入十八界。皆是空如夢如幻乃至如化。是法中無夢亦無見夢者。 |
善、不善、不動とは、善とは、欲界中の善法と、喜楽の果報と名づけ、不善を、憂悲と、苦悩の果報と名づけ、不動を、色、無色界に生ずる因縁の業と名づく。菩薩は、是の三種の業は、皆是れ虚誑、不実なるを知り、二空中に住して、衆生の為めに法を説き、畢竟空もて諸法を破り、無始空もて衆生相を破り、中道に住して、衆生の為めに法を説く。謂わゆる五衆、十二入、十八界は皆是れ空にして、夢の如く、幻の如く、乃至化の如し。是の法中には、夢無く、亦た夢を見る者も無し、と。 |
『善、不善、不動』とは、
『善』とは、
『欲界中の善法や!』、
『喜楽の果報であり!』、
『不善』とは、
『憂悲や!』、
『苦悩の果報であり!』、
『不動』は、
『色、無色界に生じる因縁』の、
『業である!』。
『菩薩』は、
是の、
『三種( 善、不善、不動)の業』は、
『皆、虚誑であり不実である!』と、
『知り!』、
『二空中に住して!』、
『衆生の為め!』に、
『法』を、
『説き!』、
『畢竟空を用いて!』、
『諸法』を、
『破り!』、
『無始空を用いて!』、
『衆生の相』を、
『破り!』、
『( 有、無)の中道に住して!』、
謂わゆる、――
『五衆、十二入、十八界』は、
『皆、空であり!』、
『夢、幻、乃至化のようであり!』、
是の、
『法』中には、
『夢も、夢を見る者も無い!』、と。
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菩薩語眾生。汝等於空法顛倒心故生諸著。如經中廣說。是菩薩方便力故。於顛倒中拔出眾生著破顛倒法中。 |
菩薩の衆生に語らく、『汝等は、空法に於いて、顛倒の心の故に、諸の著を生ず』、と。経中に広く説けるが如く、是の菩薩は方便の力の故に、顛倒中より抜き出すも、衆生は、顛倒を破る法中に著す。 |
『菩薩』は、
『衆生』に、こう語る、――
お前達は、
『顛倒心』の故に、
『空法』に於いて、
『諸の著』を、
『生じている!』、と
『経』中に、
『広く!』、
『説かれたように!』、――
是の、
『菩薩』が、
『方便の力』の故に、
『顛倒』中より、
『抜き出す!』と、
『衆生』は、
『顛倒を破る!』、
『法』中に、
『著することになる!』。
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譬如慳貪是顛倒。以布施破慳貪法。而眾生著是布施故。為說布施果報無常實空。從布施拔出眾生令持戒。持戒及持戒果報中拔出眾生。語眾生言。天福盡時無常苦惱。拔出眾生令離欲行禪定。而為說禪定及果報虛誑不實能令人墮顛倒中。 |
譬えば、慳貪は是れ顛倒なれば、布施を以って、慳貪の法を破るに、衆生は、是の布施に著するが故に、為めに、『布施の果報は、無常にして実に空なり』、と説いて、布施より衆生を抜き出して、持戒せしめ、持戒、及び持戒の果報中より、衆生を抜き出し、衆生に語りて、『天の福の尽きる時、無常にして苦悩あり』、と言い、衆生を抜き出して、離欲せしめ、禅定を行ぜしめ、為めに、『禅定、及び果報は虚誑、不実にして、能く人をして、顛倒中に堕せしむ』、と説く。 |
譬えば、
『慳貪が顛倒である!』ので、
『布施を用いて!』、
『慳貪の法』を、
『破る!』と、
是の、
『布施』に、
『衆生が著する!』が故に、
『衆生の為め!』に、
『布施の果報』は、
『無常であり、実空である!』と、
『説き!』、
『衆生』を、
『布施より、抜き出して!』、
『持戒させ!』、
『持戒や、持戒の果報』中より、
『衆生』を、
『抜き出す!』が故に、
『衆生に語って!』、こう言い、――
『天の福も尽きる!』時には、
『無常であり、苦悩である!』、と。
『持戒と、持戒の果報より、衆生を抜き出す!』と、
『離欲、禅定』を、
『行わせる!』が、
『衆生の為め!』に、こう説くのである、――
『禅定や、果報は虚誑、不実であり!』、
『人』を、
『顛倒中に墜ちさせる!』、と。
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種種因緣為說布施持戒禪定無常過失令住涅槃得涅槃方便。所謂四念處乃至十八不共法。令眾生住是法中。若布施持戒禪定是定實法。則不應令遠離。如布施持戒等破凡夫法。此則因顛倒而生。雖少時益眾生。久則變異能生苦惱故。亦教令捨離。 |
種種の因縁もて、為めに布施、持戒、禅定の無常にして、過失あるを説いて、涅槃に住せしめ、涅槃の方便、謂わゆる四念処、乃至十八不共法を得しめ、衆生をして、是の法中に住せしむ。若し布施、持戒、禅定は、是れ定実の法なれば、則ち応に遠離すべからず。布施、持戒等の如きは、凡夫法を破るも、此れ則ち顛倒に因って生ずれば、少時、衆生を益すと雖も、久しくすれば、則ち変異し、能く苦悩を生ずるが故に、亦た教えて捨離せしむ。 |
種種の、
『因縁を用いて!』、
『衆生の為め!』に、
『布施、持戒、禅定』は、
『無常であり、過失がある!』と、
『説いて!』、
『涅槃に住させ!』、
『涅槃の方便である、謂わゆる四念処、乃至十八不共法』を、
『得させ!』、
『衆生』を、
若し、
『布施、持戒、禅定』が、
『定実の法ならば!』、
『遠離させるべきではない!』が、
例えば、
『布施、持戒等は凡夫法を破る!』が、
此の、
『法』は、
『顛倒に因って!』、
『生じる!』ので、
『少時ならば!』、
『衆生』を、
『益する!』が、
『久しくすれば!』、
『変異して!』、
『苦悩を生じさせる!』が故に、
亦た、
『教えて!』、
『捨離させるのである!』。
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菩薩方便力故先教眾生捨罪。稱讚持戒布施福德。次復為說持戒布施亦未免無常苦惱。然後為說諸法空。但稱讚實法。所謂無餘涅槃 |
菩薩は、方便の力の故に先に、衆生に教えて、罪を捨てしめ、持戒、布施の福徳を称讃し、次に復た為めに持戒、布施を説くも、亦た未だ無常の苦悩を免れざれば、然る後に為めに諸法の空を説き、但だ実法、謂わゆる無餘涅槃を称讃す。 |
『菩薩』は、
『方便の力』の故に、
先に、
『衆生に教えて!』、
『罪』を、
『捨てさせ!』、
『持戒や、布施』の、
『福徳』を、
『称讃する!』が、
次に復た、
『衆生の為め!』に、
『持戒や、布施』を、
『説いても!』、
未だ、
『無常の苦悩』を、
『免れない!』ので、
その後、
『衆生の為め!』に、
『諸法の空』を、
『於いて!』、
但だ、
『実法、謂わゆる無餘涅槃のみ!』を、
『称讃する!』。
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是。時須菩提歡喜甚希有。菩薩能如是知是諸法實相。所謂畢竟空。而為眾生說法令至無餘涅槃。 |
是の時、須菩提の歓喜すらく、『甚だ希有なり。菩薩は、能く是の如く、此の諸法の実相、謂わゆる畢竟空を知り、而も衆生の為めに、法を説いて、無餘涅槃に至らしむ』、と。 |
是の時、
『須菩提は歓喜して!』、こう言った、――
甚だ希有です!
『菩薩』は、
是のように、
是の、
『諸法』の、
『実相、謂わゆる畢竟空』を、
『知りながら!』、
『衆生の為めに、法を説き!』、
『無餘涅槃』に、
『至らせることができるのです!』、と。
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佛言。是一種希有問。欲更知菩薩希有法。一切聲聞辟支佛。不能報是菩薩。何況餘人。須菩提問。何等是更有希有法。佛答如經中說。 |
仏の言わく、『是れ一種の希有の問にして、更に菩薩の希有の法を知らんと欲するも、一切の声聞、辟支仏の報う能わざる、是れ菩薩なり。何に況んや、餘人をや』、と。須菩提の問わく、『何等か、是れ更に希有の法有る』、と。仏の答は、経中に説けるが如し。 |
『仏』は、こう言われた、――
是れは、
『一種の希有の問である!』。
更に、
『菩薩』の、
『希有の法』を、
『知ろうとしたのである!』が、
『一切の声聞、辟支仏』には、
是の、
『菩薩の希有の法』を、
『報えることができない!』、
是れが、
『菩薩なのである!』。
況して、
『餘人』に、
『報えられるわけがない!』、と。
『須菩提』は、こう問うた、――
更に有る、
『希有の法』とは、
『何のようなものですか?』、と。
『仏の答』は、
『経』中に、
『説かれた通りである!』。
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問曰。經中教令布施持戒禪定。今復更說有何等異。 |
問うて曰く、経中に教えて、布施、持戒、禅定せしむるに、今、復た更に説けるは、何等の異か有る。 |
問い、
『経』中には、
『教えて!』、
『布施、持戒、禅定をさせている!』が、
今、復た、
『更に、説く!』のは、
何のような、
『異』が、
『有るからですか?』。
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答曰。先說生身菩薩。今說變化身。先說一國土。今說無量世界。如是等差別。 |
答えて曰く、先には、生身の菩薩を説き、今は、変化身を説く。先には、一国土を説き、今は、無量の世界を説く。是れ等の如き差別あり。 |
答え、
先には、
『生身の菩薩』を、
『説いた!』ので
今は、
『変化身』を、
『説いた!』。
先には、
『一国土』を、
『説いた!』ので、
今は、
『無量の世界』を、
『説いた!』。
是れ等のような、
『差別が有る!』。
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問曰。若菩薩知佛是福田眾生非福田。是非菩薩法。菩薩以何力故能令佛與畜生等。 |
問うて曰く、若し菩薩、『仏は是れ福田なるも、衆生は福田に非ず』、と知れば、是れ菩薩の法に非ざれば、菩薩は、何の力を以っての故に、能く仏をして、畜生と等しからしむ。 |
問い、
若し、
『菩薩』が、
『仏は福田であるが、衆生は福田でない!』と、
『知れば!』、
是れは、
『菩薩の法ではない!』とすれば、
『菩薩』は、
何のような、
『力を用いる!』が故に、
『仏』を、
『畜生と等しくさせられるのですか?』。
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答曰。菩薩以般若波羅蜜力故。一切法中修畢竟空心。是故於一切法無分別。如畜生五眾十二入十八界和合生名為畜生。佛亦如是。從諸善法和合假名為佛。 |
答えて曰く、菩薩は、般若波羅蜜の力を以っての故に、一切法中に畢竟空の心を修め、是の故に、一切法に於いて分別無し。畜生の五衆、十二入、十八界の和合生を名づけて、畜生と為すが如く、仏も亦た是の如く、諸善法の和合に従りて、仮に名づけて仏と為す。 |
答え、
『菩薩』は、
『般若波羅蜜の力』の故に、
『一切法』中に、
『畢竟空の心』を、
『修め!』、
是の故に、
『一切法』に於いて、
『分別すること!』が、
『無い!』ので、
譬えば、
『畜生』が、
『五衆、十二入、十八界の和合生』を、
『畜生』と、
『称するように!』、
『仏』も、
是のように、
『諸善法が和合するに従って!』、
仮に、
『仏』と、
『称するのである!』。
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若人憐愍眾生得無量福德。於佛著心起諸惡因緣得無量罪。是故知一切法畢竟空故。不輕畜生不著心貴佛。 |
若し人、衆生を憐愍して、無量の福徳を得るも、仏に於いて著心すれば、諸の悪因縁を起して、無量の罪を得。是の故に、一切法の畢竟空を知るが故に、畜生を軽んぜず、著心もて、仏を貴ばず。 |
若し、
『人』が、
『衆生を憐愍して!』、
『無量の福徳』を、
『得たとしても!』、
『仏に著心すれば!』、
『諸悪の因縁を起して!』、
『無量の罪を得る!』ので、
是の故に、
『一切法』は、
『畢竟空である!』と、
『知る!』が故に、
『畜生を軽んじることもなく!』、
『著心して!』、
『仏を貴ぶこともない!』。
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復次諸法實相是一切法無相。是無相中不分別是佛是畜生。若分別即是取相。是故等觀。 |
復た次ぎに、諸法の実相は、是れ一切法の無相なり。是の無相中には、是れ仏、是れ畜生なりと分別せず。若し分別すれば、即ち是れ取相なれば、是の故に等観す。 |
復た次ぎに、
『諸法の実相』とは、
『一切法』の、
『無相であり!』、
是の、
『無相』中には、
『是れは仏、是れは畜生である!』と、
『分別することはない!』。
若し、
『分別すれば!』、
『相』を、
『取ることになる!』ので、
是の故に、
『等しく( as equal )!』、
『観るのである!』。
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等観(とうかん):梵語 sama-darzin の訳、~を公平に見ること( looking impartially on )、有らゆる事物を公平に看ること(
regarding all things impartially )の義、有らゆる事物を等しいと観ること、例えば空のように、非現実/霊的な、或は都ての存在を区別せず、我が児のように観ること(
The beholding of all things as equal, e.g. as 空 unreal, or immaterial;
or of all beings without distinction, as one beholds one's child )の意。 |
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復次菩薩有二法門。一者畢竟空法門。二者分別好惡法門。入空法門則得等觀入分別法門。諸阿羅漢辟支佛尚不及佛。何況畜生。為其輕眾生不憐愍布施故教不分別。 |
復た次ぎに、菩薩には、二法門有りて、一には畢竟空の法門、二には好悪を分別する法門なり。空の法門に入れば、則ち等観を得、分別の法門に入れば、諸の阿羅漢、辟支仏すら、尚お仏に及ばず、何に況んや、畜生をや。為めに其の衆生を軽んじて、憐愍せず、布施するが故に、教えて分別せざらしむ。 |
復た次ぎに、
『菩薩』には、
『二法門が有り!』、
一には、
『畢竟空』の、
『法門であり!』、
二には、
『好、悪を分別する!』、
『法門である!』。
『空の法門に入れば!』、
『分別の法門に入れば!』、
諸の、
『阿羅漢、辟支仏すら!』、
『仏には及ばない!』。
況して、
『畜生』は、
『尚更である!』。
故に、
『衆生を軽んじて!』、
『憐愍せずに!』、
『布施する!』が故に、
『教えて!』、
『衆生』を、
『分別させないのである!』。
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問曰。菩薩身非木石。云何眾生來割截而不生異心。 |
問うて曰く、菩薩の身は木石に非ず。云何が衆生来たりて、割截するも、異心を生ぜざる。 |
問い、
『菩薩』の、
『身』は、
『木石でない!』のに、
何故、
『衆生が来て、割截しても!』、
『異心( another thinking )』を、
『生じないのですか?』。
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異心(いしん):梵語 anyena-cetasaa の訳、梵 anyena は,、別の( another )、梵 cetasaa は、有らゆる精神的活動[思考・感覚・意志]( all mental activities (thinking, feeling and willing) )の意。 |
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答曰。有人言。菩薩久修羼提波羅蜜故能不愁惱。如羼提仙人被截手足血皆為乳。 |
答えて曰く、有る人の言わく、『菩薩は、久しく羼提波羅蜜を修するが故に、能く愁悩せず。羼提仙人の手足を截らるるに、血は皆乳と為るが如し。 |
答え、
有る人は、こう言っている、――
『菩薩』は、
久しく、
『般若波羅蜜を修めた!』が故に、
『愁悩しないのである!』。
例えば、
『羼提仙人が、手足を截られる!』と、
『血』が、
『皆、乳と為ったようなものである!』、と。
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羼提仙人(せんだいせんにん):仙人の名。『大智度論巻14下注:忍辱仙』参照。 |
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有人言。菩薩無量世來深修大慈悲心故。雖有割截亦不愁憂。譬如草木無有瞋心。 |
有る人の言わく、『菩薩は、無量世より来、深く大慈悲の心を修するが故に、割截有りと雖も、亦た愁憂せず。譬えば草木に瞋心有ること無きが如し』、と。 |
有る人は、こう言っている、――
『菩薩』は、
『無量世より、深く!』、
『大慈悲の心』を、
『修めた!』ので、
『割截が有ったとしても!』、
亦た( yet )、
『愁憂しないのである!』。
譬えば、
『草木』に、
『瞋心』が、
『無いようなものである!』。
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有人言。菩薩深修般若波羅蜜。轉身得般若波羅蜜果報空心故了了知空。割截身時心亦不動。如外物不動。內亦如是。得般若果報。故於諸法中無所分別。 |
有る人の言わく、『菩薩は、深く般若波羅蜜を修すれば、身を転じて、般若波羅蜜の果報なる空心を得るが故に、了了に空を知り、身を割截せらるる時にも、心は亦た動かず。外物の動かざるが如く、内も亦た是の如く、般若の果報を得るが故に、諸法中に於いて、分別する所無し』、と。 |
有る人は、こう言っている、――
『菩薩』は、
『深く、般若波羅蜜を修めた!』ので、
『身を転じれば!』、
『般若波羅蜜の果報である!』、
『空心』を、
『得る!』が故に、
『了了に、空を知り!』、
譬えば、
『外物が動かなければ!』、
『般若の果報を得た!』が故に、
『諸法』中に於いても、
『分別する!』所が、
『無いのである!』。
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有人言。是菩薩非生死身。是出三界法性生身。住無漏聖心果報中故身如木石。而能慈念割截者。是菩薩能生如是心故。割截劫奪內外法時。其心不動。是為菩薩希有法。 |
有る人の言わく、『是の菩薩は、生死の身に非ず、是れ三界を出づる法性生身にして、無漏の聖心の果報中に住するが故に、身は木石の如くして、而も能く割截する者を慈念す。是の菩薩は、能く是の如き心を生ずるが故に、内外の法を割截し、劫奪する時、其の心動かざるなり。是れを菩薩の希有の法と為す』、と。 |
有る人は、こう言っている、――
是の、
『菩薩は、生死の身でなく!』、
『三界を出た!』、
『法性生身である!』。
『無漏の聖心の果報中に住する!』が故に、
『身は、木石のようであり!』、
而も、
『割截する!』者を、
『慈念することができるのである!』。
是の、
『菩薩』は、
是のような、
『心を、生じさせることができる!』が故に、
『内、外の法』を、
『割截、劫奪される!』時にも、
其の、
『心』が、
『動かないのである!』。
是れが、
『菩薩』の、
『希有の法である!』、と。
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復次希有法者。如經中說。我以佛眼見十方如恒河沙等世界中菩薩。入地獄中令火滅湯冷。以三事教化眾生。如經中說。 |
復た次ぎに、希有の法とは、経中に、『我れは、仏眼を以って、十方の恒河沙に等しきが如き、世界中の菩薩の地獄中に入りて、火を滅して、湯を冷めしむるを見る』、と説けるが如く、三事を以って、衆生を教化すること、経中に説けるが如し。 |
復た次ぎに、
『希有の法』とは、
『経』中に、こう説く通りであり、――
わたしは、
『仏眼を用いて!』、
『十方の恒河沙に等しいほどの世界』中の、
『菩薩が地獄中に入り、火を滅して湯を冷ます!』のを、
『見た!』、と。
『経』中に説かれたように、――
『三事( 神通、知他心、説法)を用いて!』、
『衆生』を、
『教化することである!』。
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問曰。若爾者不應有三惡道。 |
問うて曰く、若し爾らば、応に三悪道有るべからず。 |
問い、
若し、
『爾うならば!』、
『三悪道』は、
『有るはずがない!』。
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答曰。三惡道眾生無邊無量。菩薩雖無邊無量眾生倍多無量。菩薩隨眾生可度因緣。若於三惡道中有餘功德者菩薩則度。重罪者則不見菩薩。菩薩一相見無分別心故。不一一求覓眾生。譬如大赦及者得脫不及者則不蒙。 |
答えて曰く、三悪道の衆生は無辺、無量なるに、菩薩は無辺、無量なりと雖も、衆生は倍して多き無量なり。菩薩は衆生の度さるるべき因縁に随い、若し三悪道中に於いて、餘の功徳有る者を、菩薩は則ち度し、罪重き者は則ち菩薩を見ず。菩薩は一相を見て、無分別の心なるが故に、一一衆生を求覓せず。譬えば大赦の及ぶ者は、脱るるを得、及ばざる者は則ち蒙らざるが如し。 |
答え、
『三悪道の衆生は無辺、無量であり!』、
『菩薩も無辺、無量である!』が、
『衆生』は、
『倍して多い、無量なのである!』。
『菩薩』は、
『衆生の度される!』、
『因縁に随って!』、
『度す!』ので、
若し、
『三悪道』中に、
『餘の功徳( 因縁)を有する者が有れば!』、
『菩薩』に、
『度され!』、
『罪の重い!』者は、
『菩薩』を、
『見ることすらないのである!』。
『菩薩』は、
『空の一相を見るだけで!』、
『分別する、心が無い!』が故に、
『衆生』を、
『一一、求覓しない( not every one would be seeked for )!』、
譬えば、
『大赦』の、
『及ぶ!』者は、
『脱れられる!』が、
『及ばない!』者は、
『大赦』を、
『蒙らないようなものである!』。
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求覓(ぐみゃく):捜し求める( seek, seek for )。 |
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問曰。若眾生割截菩薩或食其肉。應當有罪。云何得度。 |
問うて曰く、若し衆生、菩薩を割截して、或は其の肉を食えば、応当に罪有るべし。云何が度を得る。 |
問い、
若し、
『衆生』が、
『菩薩を割截して!』、
或は、
『菩薩の肉』を、
『食えば!』、
当然、
『罪』が、
『有るはずである!』。
何故、
『度』を、
『得ることができるのか?』。
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答曰。此菩薩本願。若有眾生噉我肉者當令得度。如經中說。眾生食菩薩肉者則生慈心。譬如有色聲香觸人聞見則喜復有聞見則瞋。味亦如是。有瞋者有起慈心者。 |
答えて曰く、此の菩薩の本願は、『若し有る衆生、我が肉を噉わば、当に度を得せしむべし』、となり。経中に、『衆生、菩薩の肉を食わば、則ち慈心を生ず』、と説けるが如し。譬えば、有る色声香触を、人聞見して、則ち喜ぶも、復た有るいは聞見して、則ち瞋るが如く、味も亦た是の如く、瞋る者有り、慈心を起す者有り。 |
答え、
此の、
『菩薩の本願』は、こうである、――
若し、
『有る衆生が、わたしの肉を食えば!』、
『度』を、
『得させねばならぬ!』、と。
『経』中に、こう説かれたように――
『衆生』が、
『菩薩の肉を食えば!』、
則ち、
『慈心』を、
『生じることになるだろう!』、と。
譬えば、
有る、
『色、声、香、触』を、
復た、
『有る!』者は、
『聞見して!』、
『瞋るように!』、
『味』も、
是のように、
『瞋る者が有れば!』、
『慈心を起す!』者も、
『有るのである!』。
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如毘摩羅鞊經說。服食香飯七日得道者有不得者。非以噉肉故得度。以起發慈心故得免畜生。生善處值佛得度。 |
毘摩羅鞊経に、『香飯を服食すること七日にして、道を得る者と、得ざる者有り』、と説けるが如く、肉を噉うを以っての故に度を得るに非ず、慈心を起発するを以っての故に、畜生を免るるを得、善処に生じて、仏に値いて、度を得るなり。 |
『毘摩羅鞊経』に、こう説くように、――
『香飯を七日、服食して!』、
『度を得る者と、得ない者と!』が、
『有る!』、と。
『肉を噉う!』が故に、
『度を得るのではなく!』、
『慈心を起発する!』が故に、
『畜生』を、
『免れることができ!』、
『善処に生じて、仏に値い!』、
『度』を、
『得るのである!』。
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参考:『維摩経巻2』:『是時佛說法於奈氏之園。其場忽然廣博嚴事。一切眾會皆見金色。賢者阿難問佛言。世尊。是為誰先瑞應。而此場地廣博嚴事。一切眾會皆見金色。佛告阿難。是維摩詰文殊師利大眾欲來故先為此瑞應。於是維摩詰報文殊師利。吾欲詣如來。此諸大人可共見佛禮事供養。文殊師利言。善哉行矣宜知是時。是時維摩詰。即如其象而為神足。使一切眾立其右掌。并諸師子座共行詣佛。既到諸菩薩皆避坐而下。稽首佛足卻住一面。諸大弟子釋梵四天王。稽首佛足皆住一面。於是世尊問訊諸菩薩。使各復坐。即悉受教眾坐已定。佛語賢者舍利弗言。汝已見菩薩大士之所為乎。對曰唯然已見。佛言。以何等相而知其轉。對曰其轉不可念知。非意所圖非度所測。我睹其為不可思議。阿難問佛。今所聞香自昔未有。是為何香。佛言。是彼菩薩身毛孔之香也。舍利弗告賢者阿難我等一切諸毛孔亦得是香。阿難言。此所從出。曰是維摩詰從香積佛取飯。於舍食者一切毛孔皆香若此。阿難問曰是香氣轉能久如。維摩詰答言。至此飯消。曰此飯者幾時而消。答曰此飯住止至七日七夜。後乃消化而隨所語。若弟子行者。服食此飯不得道終不消。其食此飯而中止者則不消也。新行大道而服食此飯。不得法忍則亦不消。若得法忍而食此飯。至一生補處其飯乃消。譬如阿難。阿昏陀藥其香遍一室。皆作蜜香氣。悉消眾毒藥氣乃歇。此飯如是未孚即消。至諸垢毒一切除盡飯氣乃消。』 |
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有菩薩於無量阿僧祇劫深行慈心。外物給施眾生意猶不滿。并自以身布施。爾乃足滿。如法華經中。藥王菩薩外物珍寶供養佛。意猶不滿。以身為燈供養於佛。爾乃足滿。 |
有る菩薩は、無量阿僧祇劫に於いて、深く慈心を行じ、外物を衆生に給施するも、意を猶お満てず。併せて自ら身を以って布施して、爾して乃ち足満す。法華経中に、『薬王菩薩、外物の珍宝を仏に供養するも、意を猶お満てず。身を以って燈と為し、仏に供養し、爾して乃ち足満す』、となすが如し。 |
有る、
『菩薩』は、
『無量、阿僧祇劫』に於いて、
『深く、慈心を行じて!』、
『外物』を、
『衆生』に、
『給施した!』が、
猶お( yet )、
『意』を、
『満たすことができず!』、
併びに、
自ら、
『身』を、
『布施し!』、
爾のようにして、
乃ち( at last )、
『足満する( to be satisfied )のである!』。
例えば、
『法華経』中に、こう説かれた通りである、――
『薬王菩薩』は、
『外物の珍宝』を、
『仏』に、
『供養した!』が、
猶お、
『意』を、
『満たすことができず!』、
『身を燈と為して!』、
『仏』を、
『供養し!』、
爾のようにして、
乃ち、
『足満したのである!』。
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復次人得外物雖多不以為恩。所以者何。非所愛重故。得其身時乃能驚感。是故以身布施。 |
復た次ぎに、人の外物を得るに、多しと雖も、以って恩と為さず。所以は何んとなれば、愛重する所に非ざるが故なり。其の身を得る時、乃ち能く驚感すれば、是の故に身を以って布施す。 |
復た次ぎに、
『人』は、
『外物を得る!』時、
『多くても!』、
『恩と為すわけではない( being not always thankful )!』
何故ならば、
『愛重する!』所の、
『物ではないからであり!』、
其の、
『身を得た!』時に、
乃ち、
『驚き!』、
『感じることができるのである!』。
是の故に、
『身』を、
『布施するのである!』。
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菩薩又為天上諸天說法。如經中廣說。人以四事攝之。布施愛語利益同事。布施有二事。如經中廣說。 |
菩薩は、又天上の諸天の為めに法を説くこと、経中に広説するが如し。人は、四事を以って、之を摂す。布施、愛語、利益、同事なり。布施に二事有ること、経中に広説するが如し。 |
『菩薩』は、
又、
『天上の諸天の為め!』にも、
『法』を、
『説くのである!』が、
例えば、
『経』中に、
『広く説かれた通りである!』。
『人を摂する!』には、
『四事を用いることになる!』が、
『謂わゆる布施、愛語、利益、同事である!』。
『布施には、二事有る!』が、
『経』中に、
『広く説かれた通りである!』。
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問曰。何以略說餘四道。而廣說人道中法。 |
問うて曰く、何を以ってか、餘の四道を略説し、人道中の法を広説する。 |
問い、
何故、
『餘の四道( 地獄、畜生、餓鬼、天上)を、略説して!』、
『人道中の法』を、
『広説するのですか?』。
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答曰。三惡道中苦多故眾生少疑。若見菩薩大神通希有事。則直信愛著得度。諸天有天眼故自見罪福因緣。菩薩少現神足則解。人以肉眼不見罪福因緣果報。又多著外道邪師及邪見經書。 |
答えて曰く、三悪道中には苦多きが故に、衆生に疑少く、若し菩薩の大神通の希有の事を見れば、則ち直ちに信じ、愛著して、度を得るも、諸天は天眼有るが故に、自ら罪福の因縁を見れば、菩薩、少しく神足を現せば、則ち解し、人は肉眼を以って、罪福の因縁、果報を見ず、又外道の邪師、及び邪見の経書に著すること多ければなり。 |
答え、
『三悪道』中には、
『苦が多い!』が故に、
若し、
『菩薩』の、
『大神通の希有の事』を、
『見れば!』、
直ちに、
『信じ、愛著して!』、
『度を、得ることができる!』し、
『諸天』には、
『天眼が有る!』が故に、
自ら、
『罪、福の因縁』を、
『見ることができる!』ので、
『菩薩』が、
少しばかり、
『神足』を、
『現せば!』、
則ち、
『因縁』を、
『解すことができる!』が、
『人』は、
『肉眼』の故に、
『罪、福』の、
『因縁や、果報』を、
『見ることがなく!』、
又、
『外道の邪師や、邪見の経書』に、
『著すること!』が、
『多いからである!』。
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諸煩惱有二分。一者屬見。二者屬愛。若但有一事則不能成大罪。三毒人得邪見力。能盡作重惡。邪見人得貪欲瞋恚。能大作罪事。如須陀洹雖有三毒無邪見故。不作墮三惡道重罪。是故人中多有三毒邪見。又眼不見罪福因緣故難度。難度故多說。 |
諸の煩悩には、二分有り、一には見に属し、二には愛に属し、若し但だ、一事有るのみなれば、則ち大罪を成ずる能わず。三毒の人は、邪見の力を得て、能く尽して、重悪を作し、邪見の人は、貪欲、瞋恚を得れば、能く大いに罪事を作す。須陀洹の如きは、三毒有りと雖も、邪見無きが故に、三悪道に堕す重罪を作さず。是の故に人中には三毒、邪見有ること多く、又眼に罪福の因縁を見ざるが故に、度し難く、度し難きが故に多く説く。 |
『諸の煩悩』には、
『二分が有り!』、
一には、
『見に属し( belonging to view )!』、
二には、
『愛に属す( belonging to love )!』が、
若し、
『一事有るだけならば!』、
『大罪』を、
『成じさせることはない!』が、
『三毒の人』が、
『邪見の力を得れば!』、
『尽く!』、
『重悪を作すことができ!』、
『邪見の人』が、
『貪欲、瞋恚を得れば!』、
『大いに!』、
『罪事を作すことができ!』、
『須陀洹』などは、
『三毒が有っても!』、
『邪見』が、
『無い!』が故に、
『三悪道に堕ちるような!』、
『重罪を作すこと!』は、
『無い!』ので、
是の故に、
『人』中には、
『多く、三毒や邪見が有り!』、
又、
『眼に、罪福の因縁を見ない!』が故に、
『度し難く!』、
『度し難い!』が故に、
『多く!』、
『説かれたのである!』。
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問曰。若爾者於四事中何以多說布施。餘三略說。 |
問うて曰く、若し爾らば、四事中に、何を以ってか、多く布施を説き、餘の三は略して説く。 |
問い、
若し、爾うならば、
『四事』中に、
何故、
『多く!』、
『布施を説き!』、
餘の、
『三』を、
『略して説くのですか?』。
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答曰。布施中攝三事故。以財施法施教化眾生。則無所不攝。 |
答えて曰く、布施中に三事を摂するが故に、財施、法施を以って衆生を教化すれば、則ち摂せざる所無ければなり。 |
答え、
『布施』中には、
『三事』を、
『摂する!』が故に、
『財施、法施を用いて!』、
『衆生』を、
『教化すれば!』、
則ち、
『摂さない!』所が、
『無いからである!』。
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復次四事中初廣開布施。則知餘三亦如是。 |
復た次ぎに、四事中に初に布施を広く開けば、則ち餘の三も亦た是の如しと知ればなり。 |
復た次ぎに、
『四事』中に、
初に、
『布施』を、
『広く開けば( to expand and inspire )!』、
則ち、
『餘の三も是の通りだ!』と、
『知ることになるからである!』。
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問曰。若爾者何以略說財施而廣說法施。 |
問うて曰く、若し爾らば、何を以ってか、財施は略して説き、法施を広く説く。 |
問い、
若し、爾うならば、
何故、
『財施』を、
『略して説きながら!』、
而も、
『法施』を、
『広く説くのですか?』。
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答曰。財施少法施廣故。所以者何。財施有量果報。法施無量果報。財施欲界繫果報。法施亦三界繫果報。亦是出三界果報。財施能與三界富樂。法施能與涅槃常樂。又財施從法施生。聞法則能施故。 |
答えて曰く、財施は少く、法施は広きが故なり。所以は何んとなれば、財施には有量の果報なるも、法施は無量の果報なり。財施は欲界繋の果報なるも、法施は亦た三界繋の果報にして、亦た是れ三界を出づる果報なり。財施は能く三界の富楽を与うるも、法施は能く涅槃の常楽を与え、又財施は法施より生ず。法を聞けば、則ち能く施すが故なり。 |
答え、
『財施は少い!』が、
『法施』は、
『広いからである!』。
何故ならば、
『財施の果報は、有量である!』が、
『法施の果報』は、
『無量であり!』、
『財施の果報は、欲界繋である!』が、
『法施の果報』は、
『三界繋だからであり!』、
是の、
『法施の果報』は、
『三界を出るからであり!』、
『財施は、三界の富楽を与えることができる!』が、
『法施』は、
『涅槃の常楽を与えることができ!』、
又、
『財施は、法施より生じ!』、
『法を聞けば!』、
『財を施すことができるからである!』。
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復次財施果報但富樂無種種。法施亦有富樂亦有餘事。乃至佛道涅槃果報。以是等因緣故廣說法施。二施義如經中佛自廣說。 |
復た次ぎに、財施の果報は、但だ富楽にして、種種無く、法施も亦た富楽有るも、亦た餘事、乃至仏道、涅槃の果報有り。是れ等の因縁を以っての故に、広く法施を説く。二施の義は、経中に仏の自ら広説したもうが如し。 |
復た次ぎに、
『財施の果報』は、
但だ、
『富楽』が、
『有るだけで!』、
種種の、
『果報』は、
『無い!』が、
『法施』は、
亦た、
『富楽』も、
『有り!』、
亦た、
『餘事、乃至仏道、涅槃の果報も!』、
『有る!』。
是れ等のような、
『因縁』の故に、
『法施』を、
『広く説くのである!』。
『二施の義』は、
『経』中に、
『仏が、自ら広く説かれた通りである!』。
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問曰。經中須菩提何以故言菩薩得一切種智不。 |
問うて曰く、経中に須菩提は、何を以っての故にか、『菩薩は、一切種智を得や、不や』、と言う。 |
問い、
『経』中に、
『須菩提』は、何故、こう言うのですか?――
『菩薩』は、
『一切種智』を、
『得るのですか?』、と。
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答曰。須菩提意。若菩薩時得一切種智則不名菩薩。云何未得佛而能得一切種智。得一切種智故名為佛。若先作佛何用一切種智為。 |
答えて曰く、須菩提の意にすらく、『若し菩薩の時に、一切種智を得れば、則ち菩薩と名づけざるに、云何が、未だ仏を得ざるに、能く一切種智を得る。一切種智を得るが故に名づけて、仏と為すに、若し先に仏と作れば、何の為めにか、一切種智を用うる』、と。 |
答え、
『須菩提の意』は、こうである、――
若し、
『菩薩の時』に、
『一切種智を得れば!』、
『菩薩』と、
『呼ばれることはない!』のに、
未だ、
『仏を得ない!』のに、
『一切種智』を、
『得ることができるのか?』。
『一切種智を得る!』が故に、
『仏と呼ばれる!』のに、
若し、
『先に、仏と作れば!』、
何の為めに、
『一切種智』を、
『用いるのか?』、と。
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佛答。今得一切種智名為菩薩。已得一切種智名為佛。菩薩時具足佛因緣。生心欲得一切種智。得已名為佛。 |
仏の答えたまわく、『今、一切種智を得れば、名づけて菩薩と為し、已に一切種智を得れば、名づけて仏と為す。菩薩の時、仏の因縁を具足すれば、心を生じて、一切種智を得んと欲し、得已りて、名づけて仏と為す』、と。 |
『仏』は、こう答えられたが、――
今、
『一切種智を得れば!』、
『菩薩』と、
『呼ばれる!』が、
已に、
『一切種智を得れば!』、
『仏』と、
『称されるのである!』、と。
『菩薩の時』に、
『仏の因縁を具足する!』が故に、
『心を生じて!』、
『一切種智』を、
『得ようとし!』、
『一切種智を得て!』、
『仏』と、
『称されるのである!』。
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真實之言菩薩不得。佛亦不得。所以者何。菩薩未得佛。得已竟更不復得。世俗法故說菩薩今得佛得已竟。第一義中則無一切法。何況佛及菩薩。 |
真実を言えば、菩薩得ざれば、仏も亦た得ず。所以は何んとなれば、菩薩は未だ得ず、仏は得已竟(おわ)りて、更に復た得ざればなり。世俗の法の故に、『菩薩は今得、仏は得已竟る』、と説くも、第一義中には、則ち一切法無し。何に況んや、仏、及び菩薩をや。 |
『真実を言えば!』、――
『菩薩は得ていない!』が、
『仏』も、
『得ないのである!』。
何故ならば、
『菩薩は、未だ得ておらず!』、
『仏は、已に得ている!』ので、
更に、
『復た!』、
『得ることがないからである!』。
『世俗の法』の故に、こう説いたが、――
『菩薩は、今得て!』、
『仏』は、
『已に、得ている!』、と。
『第一義』中には、
『一切の法が無く!』、
況して、
『仏や、菩薩』は、
『尚更なのである!』。
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又經中言。佛心不異菩薩。菩薩不異佛心。次第相續不斷故有二心。如無異無分別故。 |
又経中に、『仏心は、菩薩と異ならず、菩薩は仏心と異ならず』、と言えるは、次第に相続して断ぜざるが故に二心有るも、異無く、分別無きが如きが故なり。 |
又、
『経』中に、こう言うのは、――
『仏心』は、
『菩薩』と、
『異ならず!』、
『菩薩』は、
『仏心』と、
『異らない!』、と。
『菩薩と仏の心』は、
『次第に相続して、断じない!』が故に、
『二心が有ったとしても!』、
『異が無く!』、
『分別が無いようなものだからである!』。
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問曰。九次第定三十二相八十隨形好。此是世間共有法。何以故。名為出世間不共法。 |
問うて曰く、九次第定、三十二相、八十随形好は、此れは是れ世間と共に有る法なり。何を以っての故にか、名づけて出世間の不共法と為す。 |
問い、
『九次第定や、三十二相、八十随形好』は、
『世間』と、
『共有する!』、
『法である!』。
何故、
『出世間の不共法』と、
『称するのですか?』。
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答曰。四禪四無色定滅受想名九次第。滅受定但聖人能得。四禪四無色定。從初禪起更不雜餘心而入二禪。從二禪乃至滅受定。念念中受不雜餘心名為次第。 |
答えて曰く、四禅、四無色定、滅受想を、九次第と名づけ、滅受定は但だ聖人のみ、能く得るに、四禅、四無色定は初禅より起てば、更に余心を雑えず、二禅に入り、二禅より、乃至滅受定まで、念念中に受けて、余心を雑えざれば、名づけて次第と為せばなり。 |
答え、
『四禅、四無色定、滅受想定』を、
『九次第定』と、
『称し!』、
『滅受想定』は、
『但だ、聖人のみ!』が、
『得ることができる!』が、
『四禅、四無色定』は、
『初禅より起つ!』と、
『更に、餘心を雑えずに!』、
『二禅』に、
『入り!』、
『二禅より、乃至滅受想定まで!』、
『念念中に受けながら!』、
『餘心』を、
『雑えない!』ので、
是れを、
『次第』と、
『称するからである!』。
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凡夫是罪人鈍根。云何能得三十二相。如轉輪聖王提婆達難陀所得相。名字雖同而威德具足。淨潔得處則不同於佛。如先分別轉輪聖王佛相不同中說。又是相聖無漏法果報故。自在隨意無量無邊。轉輪聖王等相。是福德業因緣不能自在有量有限。 |
凡夫は、是れ罪人の鈍根なり。云何が能く三十二相を得る。転輪聖王、提婆達、難陀の所得の相の如きは、名字同じと雖も、威徳具足して、浄潔の処を得ること、則ち仏と同じからず。先に転輪聖王と、仏相の不同を分別せし中に説けるが如し。又是の相は、聖無漏法の果報なるが故に、自在、随意にして無量、無辺なり。転輪聖王等の相は、是れ福徳の業因縁なれば、自在なる能わずして、有量、有眼なり。 |
『凡夫』は、
『罪人であり!』、
『鈍根である!』のに、
何故、
『三十二相』を、
『得るのか?』、――
例えば、
『転輪聖王や、提婆達、難陀の所得の相など!』は、
『名字』は、
『仏の相』と、
『同じである!』が、
『威徳の具足や、浄潔の処を得る!』のは、
『仏』と、
『同じでない!』。
先に、
『転輪聖王と仏の相』の、
『不同を分別した!』中に、
『説いた通りである!』。
又、
是の、
『三十二相』は、
『聖人の無漏法の果報である!』が故に、
『自在、随意であり!』、
『無量、無辺である!』が、
『転輪聖王等の相』は、
『福徳の業因縁の果報である!』が故に、
『自在であるはずがなく!』、
『有量、有眼である!』。
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復次提婆達難陀。有三十相無三十二相。轉輪聖王雖有三十二相無威德不具足。不得處與愛等煩惱俱。 |
復た次ぎに、提婆達、難陀には三十相有るも、三十二相は無し。転輪聖王には、三十二相有りと雖も、威徳無く、具足せずして、処を得ずして、愛等の煩悩と倶にす。 |
復た次ぎに、
『提婆達や、難陀』に、
『三十相は有る!』が、
『三十二相』は、
『無い!』し、
『転輪聖王』にも、
『三十二相が有る!』が、
『威徳が無く、具足せず!』、
『処』を、
『得ることがない!』ので、
『愛』等の、
『煩悩』と、
『倶にする( being together with )のである!』。
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八十隨形好具足。唯佛菩薩有之。餘人正可有少許。或指纖長或失腹。有如是等無威德之好不足言。是故說言出世間不共凡夫法無咎 |
八十随形好の具足は、唯だ仏、菩薩に之有るのみ。餘人には正に少許り有るべく、或は指の繊長なる、或は腹を失う。是れ等の如き無威徳の好有るも、言うに足りず。是の故に説いて、『出世間は、凡夫法と共にせず』、と言うも、咎無し。 |
『八十随形好が具足する!』のは、
唯だ、
『仏や、菩薩』に、
『有るだけである!』。
『餘人』にも、
正しく、
『少許りなら!』、
『有るだろう!』が、
或は、
『指』が、
『纖く長い!』とか、
或は、
『腹』を、
『失う( to miss or to do not seem to exist )!』とか、
是れ等のような、
『無威徳の好が有った!』としても、
『言う!』に、
『足らない!』ので、
是の故に、
『説いて!』、
『出世間の、凡夫と共にしない!』、
『法である!』と、
是のように、言ったとしても、――
『咎』は、
『無い!』。
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参考:『大品般若経巻24』:『云何三十二相。一者足下安平立平如奩底。二者足下千輻輞輪輪相具足。三者手足指長勝於餘人。四者手足柔軟勝餘身分。五者足跟廣具足滿好。六者手足指合縵網妙好勝於餘人。七者足趺高平好與跟相稱。八者伊泥延鹿腨腨纖好。如伊泥延鹿王。九者平住兩手摩膝。十者陰藏相如馬王象王。十一者身蹤廣等如尼俱盧樹。十二者一一孔一毛生。色青柔軟而右旋。十三者毛上向青色柔軟而右旋。十四者金色相其色微妙勝閻浮檀金。十五者身光面一丈。十六者皮薄細滑。不受塵垢不停蚊蚋。十七者七處滿。兩足下兩手中兩肩上項中。皆滿字相分明。十八者兩腋下滿。十九者上身如師子。二十者身廣端直。二十一者肩圓好。二十二者四十齒。二十三者齒白齊密而根深。二十四者四牙最白而大。二十五者方頰車如師子。二十六者味中得上味。咽中二處津液流出。二十七者舌大軟薄。能覆面至耳髮際。二十八者梵音深遠。如迦蘭頻伽聲。二十九者眼色如金精。三十者眼睫如牛王。三十一者眉間白毫相軟白如兜羅綿。三十二者頂髻肉骨成。是三十二相佛身成就。光明遍照三千大千國土。若欲廣照則遍滿十方無量阿僧祇國土。為眾生故受丈光。若放無量光明。則無日月時節歲數。佛音聲遍滿三千大千國土。若欲大聲則遍滿十方無量阿僧祇國土。隨眾生多少音聲遍至。云何為八十隨形好。一者無見頂。二者鼻直高好孔不現。三者眉如初生月紺琉璃色。四者耳輪埵成。五者身堅實如那羅延。六者骨際如鉤鎖。七者身一時迴如象王。八者行時足去地四寸而印文現。九者爪如赤銅色薄而潤澤。十者膝骨堅著圓好。十一者身淨潔。十二者身柔軟。十三者身不曲。十四者指長纖圓。十五者指文莊嚴。十六者脈深。十七者踝不現。十八者身潤澤。十九者身自持不逶迤。二十者身滿足。二十一者識滿足。二十二者容儀備足。二十三者住處安無能動者。二十四者威震一切。二十五者一切樂觀。二十六者面不大長。二十七者正容貌不撓色。二十八者面具足滿。二十九者脣赤如頻婆果色。三十者音響深。三十一者臍深圓好。三十二者毛右旋。三十三者手足滿。三十四者手足如意。三十五者手文明直。三十六者手文長。三十七者手文不斷。三十八者一切惡心眾生見者和悅。三十九者面廣姝好。四十者面淨滿如月。四十一者隨眾生意和悅與語。四十二者毛孔出香氣。四十三者口出無上香。四十四者儀容如師子。四十五者進止如象王。四十六者行法如鵝王。四十七者頭如摩陀那果。四十八者一切聲分具足。四十九者牙利。五十者舌色赤。五十一者舌薄。五十二者毛紅色。五十三者毛潔淨。五十四者廣長眼。五十五者孔門相具。五十六者手足赤白如蓮華色。五十七者臍不出。五十八者腹不現。五十九者細腹。六十者身不傾動。六十一者身持重。六十二者其身大。六十三者身長。六十四者手足潔淨軟澤。六十五者邊光各一丈。六十六者光照身而行。六十七者等視眾生。六十八者不輕眾生。六十九者隨眾生音聲不過不減。七十者說法不著。七十一者隨眾語言而為說法。七十二者一發音報眾聲。七十三者次第有因緣說法。七十四者一切眾生不能盡觀相。七十五者觀無厭足。七十六者髮長好。七十七者髮不亂。七十八者髮旋好。七十九者髮色如青珠。八十者手足有德相。須菩提。是為八十隨形好佛身成就。』 |
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問曰。從初來處處說諸法五眾乃至一切種智不說是三十二相八十隨形好。今經欲竟何以品品中說 |
問うて曰く、初より来、処処に諸法の五衆、乃至一切種智を説くも、是の三十二相、八十随形好を説かざるに、今経の竟らんと欲するに、何を以ってか、品品中に説く。 |
問い、
『経の初より!』、
『諸法の五衆、乃至一切種智』は
『処処に!』、
『説かれてきた!』が、
是の、
『三十二相、八十随形好』は、
『説かれなかった!』のに、
『今、経の竟ろうとする!』時、
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答曰。佛有二種身。法身生身。於二身中法身為大。法身大所益多故。上來廣說。今經欲訖故生身義應當說。是故今說。 |
答えて曰く、仏には二種の身の法身と生身と有り、二身中に於いて法身を大と為す。法身は大にして、益する所の多きが故に、上来広く説く。今、経は訖(おわ)ろうと欲するが故に、生身の義を応当に説くべく、是の故に今説くなり。 |
答え、
『仏』には、
『二種の身が有り!』、
『法身と!』、
『生身である!』が、
『二身』中には、
『法身』が、
『大である!』。
『法身』は、
『大であり、益する所が多い!』が故に、
『上より!』、
『広く説いてきた!』が、
『今、経は訖ろうとする!』が故に、
当然、
『生身の義』も、
『説かねばならない!』ので、
是の故に、
『今になって!』、
『説くのである!』。
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復次是生身相好莊嚴。是聖無漏法果報。今次第說。上雜諸波羅蜜說四念處等諸法義。如先說十力等。是佛法甚深義今當更略說 |
復た次ぎに、是の生身の相好の荘厳は、是れ聖無漏法の果報なれば、今次第に説く。上に、諸の波羅蜜に雑えて説ける四念処等の諸法の義は、先に説ける十力等の如く、是れ仏法の甚だ深き義なれば、今当に更に略して説くべし。 |
復た次ぎに、
是の、
『生身を荘厳する!』、
『相好』は、
『聖人の無漏法の果報である!』が故に、
今、
『次第に!』、
『説くのである!』。
上の、
『諸の波羅蜜に雑えて説く!』、
『四念処等の諸法の義』は、
『先に説いた十力等のように!』、
『仏法の甚だ深い義である!』が故に、
今、
『更に!』、
『略して説かねばならないのである!』。
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問曰。佛十力者若總相說則一力。所謂一切種智力。若別相說則千萬億種力。隨法為名。今何以但說十 |
問うて曰く、仏の十力とは、若し総相を説けば、則ち一力にして、謂わゆる一切種智の力なり。若し別相を説けば、則ち千万億種の力なり。法に随いて名を為すに、今は何を以ってか、但だ十と説く。 |
問い、
『仏の十力』とは、
若し、
『総相を説けば!』、
『一力であり!』、
『謂わゆる、一切種智の力である!』。
若し、
『別相を説けば!』、
『千万億種』の、
『力である!』が、
『法に随って、名を為しながら!』、
今は、
何故、但だ、
『十である!』と、
『説くのですか?』。
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答曰。佛實有無量智力。但以眾生不能得不能行故不說。是十力可度眾生事辦。 |
答えて曰く、仏には実に無量の智力有るも、但だ衆生の、得る能わず、行ずる能わざるが故に、説かざるのみ。是の十力は、度すべき衆生の事を辦ず。 |
答え、
『仏』には、
実に、
『無量の智力』が、
『有る!』が、
但だ、
『衆生には、得ることも行うこともできない!』が故に、
『説かない!』。
是の、
『十力』は、
『度すべき衆生の事』を、
『辦じる( to manage )からである!』。
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所以者何。佛用是處非處力。定知一切法中因果。所謂行惡業墮惡道。有是處。行惡業生天上無是處。善亦如是。不離五蓋不修七覺得道者。無有是處。離五蓋修七覺得道者有是處。餘九力盡入此力中。 |
所以は何んとなれば、仏は是処非処力を用いて、定んで一切法中の因果を知りたもう。謂わゆる悪業を行じて悪道に堕するは、是の処有るも、悪業を行じて天上に生ずるは、是の処無く、善も亦た是の如し。五蓋を離れず、七覚を修せずして、道を得れば、是の処有ること無く、五蓋を離れ、七覚を修して、道を得れば、是の処有り。餘の九力は、尽く此の力中に入るなり。 |
何故ならば、
『仏』は、
『是処非処力を用いて!』、
定んで、
『一切法中の因果』を、
『知られるからである!』。
謂わゆる、
『悪業を行じて、悪道に堕ちれば!』、
是の、
『処( reason )』が、
『有る!』が、
『悪業を行じて、天上に生じれば!』、
是の、
『処』が、
『無く!』、
亦た、
『善』も、
『是の通りである!』。
『五蓋を離れず、七覚を修めない!』のに、
『道を得れば!』、
是の、
『処』は、
『無く!』、
『五蓋を離れ、七覚を修めて!』、
『道を得れば!』、
是の、
『処』は、
『有るということである!』。
『餘の九力』は、
尽く、
此の、
『是処非処力』中に、
『入る!』。
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佛以此力籌量十方六道中眾生可度者不可度者。可度者以種種因緣神通變化而度脫之。不可度者於此人中修捨心。譬如良醫觀其病相審定知其可活則治之不可活者則捨之。 |
仏は、此の力を以って、十方の六道中の衆生の度すべき者と、度すべからざる者とを籌量し、度すべき者は、種種の因縁、神通、変化を以って、之を度脱し、度すべからざる者は、此の人中に於いて、捨心を修す。譬えば良医の、其の病相を観て、審に定んで、其の活くべきを知りて、則ち之を治し、活くべからざる者は、則ち之を捨つるが如し。 |
『仏』は、
此の、
『力を用いて!』、
『十方の六道中の衆生』を、
『度すべきか、度すべきでないか?』を、
『籌量し( mapping out the plan )!』、
『度すべき!』者は、
種種の、
『因縁、神通、変化を用いて!』、
『度脱し!』、
『度すべきでない!』者は、
此の、
『人』中に於いて、
『捨心を修められる!』。
譬えば、
『良医』が、
其の、
『病相を観て!』、
『審に!』、
『定めて知り!』、
其れを、
『活かすことができれば!』、
『治し!』、
其れを、
『活かすことができなければ!』、
『捨てるようなものである!』。
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度眾生方便者。所謂二力。業力定力。求其業因緣生處。人以業因緣故。受身縛著世間。禪定因緣故得解脫。行者必應求苦。從何而生由何而滅。是故用二力。 |
衆生を度する方便とは、謂わゆる二力にして、業力、定力なり。其の業因縁と生処を求むるに、人は業因縁を以っての故に、身を受けて世間に縛著し、禅定の因縁の故に解脱を得れば、行者は必ず応に苦は、何に従りてか生じ、何に由りてか滅するを求むべし。是の故に二力を用う。 |
『衆生を度す方便』とは、
謂わゆる、
『二力であり!』、
『業力、定力である!』。
其の、
『業の因縁と、果報の生処を求めれば!』、
『人』は、
『業の因縁』の故に、
『身を受けて!』、
『世間に縛著し!』、
『禅定の因縁』の故に、
『解脱』を、
『得る!』ので、
『行者』は、
必ず、
『苦』は、
『何に従りて生じ、何に由りて滅するのか?』を、
『求めねばならず!』、
是の故に、
『二力』を、
『用いるのである!』。
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業力有二分。一者淨業能斷惡業。二者垢業。淨業名禪定解脫諸三昧。不淨業者。能於三界中受身。 |
業力には二分有り、一には浄業は能く悪業を断じ、二には垢業なり。浄業を禅定、解脱、諸三昧と名づけ、不浄業は、能く三界中に身を受く。 |
『業力』には、
『二分が有り!』、
一には、
『浄業であって!』、
『悪業』を、
『断じさせ!』、
二には、
『垢業である!』。
『浄業』を、
『禅定、解脱、諸三昧』と、
『称し!』、
『不浄業』は、
『三界』中に、
『身を受けさせる!』。
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人有二種。鈍根為受身故作業。利根為滅身故作業。 |
人には、二種有り、鈍根は、身を受けんが為めの故に業を作し、利根は身を滅せんが為めの故に業を作す。 |
『人』には、
『二種有り!』、
『鈍根』は、
『身を受ける為め!』の故に、
『業』を、
『作り!』、
『利根』は、
『身を滅する為め!』の故に、
『業』を、
『作る!』。
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問曰。若爾者何以不皆令作淨業。 |
問うて曰く、若し爾らば、何を以ってか、皆に、浄業を作さしめざる。 |
問い、
若し、爾うならば、
何故、
『皆に!』、
『浄業を作らせないのですか?』。
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答曰。以眾生根有利鈍故。 |
答えて曰く、衆生の根には、利、鈍有るを以っての故なり。 |
答え、
『衆生の根』には、
『利、鈍』が、
『有るからである!』。
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問曰。眾生何因緣故有利鈍。 |
問うて曰く、衆生には、何の因縁の故にか、利、鈍有る。 |
問い、
『衆生』は、
何のような、
『因縁』の故に、
『利、鈍が有るのですか?』。
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答曰。以有種種欲力故。惡欲眾生常入惡故鈍。欲名嗜好。嗜好罪事生惡業故鈍。善欲者樂道修助道法故利。 |
答えて曰く、種種の欲力有るを以っての故なり。悪欲の衆生は、常に悪を入るるが故に鈍なり。欲を嗜好と名づけ、罪事を嗜好して悪業を生ずるが故に鈍なり。善欲の者は道を楽しみ、助道法を修するが故に利なり。 |
答え、
種種の、
『欲力』を、
『有するからである!』。
『悪欲の衆生』は、
常に、
『悪を入れる!』が故に、
『鈍である!』。
『欲とは、嗜好であり!』、
『罪事を嗜好すれば!』、
『悪業を生じさせる!』が故に、
『鈍である!』。
『善欲の者』は、
『道を楽しんで!』、
『助道法を修める!』が故に、
『利である!』。
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嗜好(しこう):愛好すること( have a liking for )。 |
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問曰。眾生何以不皆作善欲。 |
問うて曰く、衆生は何を以ってか、皆、善欲を作さざる。 |
問い、
『衆生』は、
何故、
『皆が!』、
『善欲を作さないのですか?』。
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答曰。是故佛說世間種種性惡性善性。惡性者惡欲。惡欲故根鈍。如火熱性水濕性。不應責其所以。 |
答えて曰く、是の故に仏は、世間の種種の性の悪性、善性を説きたまえり。悪性の者は悪欲にして、悪欲の故に根は鈍なり。火の熱性、水の湿生の如く、応に其の所以を責むべからず。 |
答え、
是の故に、
『仏』は、
『世間の種種の性の悪性や、善性』を、
『説かれたのである!』。
『悪性の者』は、
『悪欲であり!』、
『悪欲である!』が故に、
『根が鈍である!』。
譬えば、
『火の熱性や、水の湿生』の、
『所以( the reason )』を、
『責めるべきでないようなものである!』。
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問曰。惡欲即是惡性有何差別而作二力。 |
問うて曰く、悪欲にして、即ち是れ悪性なれば、何の差別有りてか、二力を作す。 |
問い、
『悪欲』が、
即ち、
『悪性ならば!』、
何のような、
『差別が有って!』、
『二力』を、
『作すのですか?』。
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答曰。性先有欲。得因緣而生。譬如先有瘡得觸因緣則血出。性在內欲在外。性重欲輕。性難除欲易捨。性深欲淺。用性作業必當受報。用欲作業不必受報。有如是等差別。 |
答えて曰く、性は先に有り、欲は因縁を得て生ず。譬えば、先に瘡有り、触の因縁を得て、則ち血出づるが如し。性は、内に在り、欲は外に在り。性は重く、欲は軽し。性は除き難く、欲は捨て易し。性は深く、欲は浅し。性を用いて、業を作せば、必ず当に報を受くべく、欲を用いて業を作せば、必ずしも報を受けず。是れ等の如き差別有り。 |
答え、
『性は、先に有る!』が、
譬えば、
『瘡が、先に有り!』、
『触の因縁を得て!』、
『血』が、
『出るようなものである!』。
『性は、内に在る!』が、
『欲』は、
『外に在る!』。
『性は、重い!』が、
『欲』は、
『軽い!』。
『性は、除き難い!』が、
『欲』は、
『捨て易い!』。
『性は、深い!』が、
『欲』は、
『浅い!』。
『性を用いて、業を作せば!』、
『必ず!』、
『報を受けることになる!』が、
『欲を用いて、業を作せば!』、
『必ずしも!』、
『報を受けるわけではない!』。
是れ等のような、
『差別』が、
『有る!』。
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復有人言。欲常習增長遂成為性。性亦能生欲。是人若今世若後世常習是欲。則成為性。住是性中作惡作善。若住善性則可度。若住惡性則不可度。 |
復た有る人の言わく、『欲を常に習いて、増長すれば、遂に成じて、性と為り、性も亦た能く欲を生ず。是の人、若しは今世、若しは後世に常に是の欲を習えば、則ち成じて性と作り、是の性中に住して、悪を作し、善を作す。若し善性に住すれば、則ち度すべく、若し悪性に住すれば、則ち度すべからず』、と。 |
復た、有る人は、こう言っている、――
『欲』を、
『常に習って、増長すれば!』、
遂には、
『性』と、
『作り!』、
『性』も、
是の、
『人』が、
『今世や、後世に常に!』、
是の、
『欲』を、
『習えば!』、
則ち、
『成じて!』、
『性と為り!』、
是の、
『性中に住して!』、
『悪や、善』を、
『作すのである!』。
若し、
『善性中に住すれば!』、
是の、
『人』を、
『度すことができる!』が、
若し、
『悪性中に住すれば!』、
則ち、
『度すことはできない!』、と。
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佛既知眾生二種性。已知其果報善道惡道種種差別。惡性者墮三惡道。善性者有四種道。人天阿修羅涅槃道。 |
仏は既に、衆生の二種の性を知り已りて、其の果報の善道、悪道の種種の差別を知る。悪性の者は、三悪道に堕ち、善性の者は四種の道の人、天、阿修羅、涅槃の道有り。 |
『仏』は、
既に、
其の、
『果報』の、
『善道や悪道の種種の差別』を、
『知っていられる!』。
即ち、
『悪性の者』は、
『三悪道』に、
『堕ち!』、
『善性の者』には、
『人、天、阿修羅、涅槃の四種の道』が、
『有る!』。
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問曰。一切到處道力與天眼力有何差別。 |
問うて曰く、一切の処に到る道の力と、天眼の力とには、何の差別か有る。 |
問い、
『一切の処に到る道を知る力』と、
『天眼の力』とには、
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答曰。天眼但見生死時此中未死時知。見因知果天眼。見現前罪福果報。是名一切到處道力。 |
答えて曰く、天眼は、但だ生死の時を見れば、此の中には、未だ死せざる時に知るのみ。因を見て果を知り、天眼もて、現前の罪福の果報を見れば、是れを一切の処に到る道の力と名づく。 |
答え、
『天眼』は、
此の中には、
未だ、
『死なない!』時に、
『知るのみである!』が、
『因を見て、果を知り!』、
『天眼を用いて!』、
『現前の罪福の果報』を、
『見れば!』、
是れを、
『一切の処に到る道の力』と、
『称するのである!』。
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問曰。聲聞辟支佛亦得涅槃。亦能化眾生。何以無是力。 |
問うて曰く、声聞、辟支仏も亦た涅槃を得、亦た能く衆生を化すに、何を以ってか、是の力無き。 |
問い、
『声聞、辟支仏』も、
亦た、
『涅槃』を、
『得ることができ!』、
亦た、
『衆生』を、
『化することができる!』のに、
何故、
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答曰。是故說後三力。三世中眾生事盡能通達遍知。以宿命力一切眾生過去事本末悉知。以天眼生死智力故。一切眾生未來世中無量事盡能遍知。作是知已知現世中眾生可度者。為說漏盡法。以是故但佛有此力二乘所無。 |
答えて曰く、是の故に、説きたまわく、『後の三力は、三世中の衆生の事を尽く、能く通達し、遍く知る』、と。宿命の力を以って、一切の衆生の過去の事の本末を悉く知り、天眼と生死智力を以っての故に、一切の衆生の未来世中の無量の事を尽く、能く遍く知り、是の知を作し已りて、現世中の衆生の度すべき者を知り、為めに漏尽の法を説く。是を以っての故に、但だ仏のみ、此の力有りて、二乗には無き所なり。 |
答え、
是の故に、こう説かれたのである、――
『後の三力』は、
『三世中の衆生の事』を、
『尽く通達し、遍く知る!』、と。
謂わゆる、
『宿命力を用いて!』、
『一切の衆生』の、
『過去の事を本末』を、
『悉く知り!』、
『天眼と、生死智力を用いる!』が故に、
『一切の衆生』の、
『未来世中の無量の事』を、
『尽く、遍く知り!』、
是れを、
『知ったならば!』、
『現世中の衆生の度すべき!』者を、
『知り!』、
是の、
『衆生の為め!』に、
『漏尽の法』を、
『説かれるのであり!』、
是の故に、
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如有一人即日應得阿羅漢。舍利弗日中時語言。汝無得道因緣捨而不度。晡時佛以宿命神通見。過去八萬劫前得道因緣今應成就。晡時說法即得阿羅漢道。 |
有る一人の、即日に応に阿羅漢を得べきに、舎利弗は日中の時に語りて、『汝には道を得る因縁無し』、と言い、捨てて度せず。晡時に、仏は宿命の神通を以って、過去の八万劫前に、道の因縁を得て、今応に成就するを見、晡時に法を説いて、即ち阿羅漢道を得たるが如し。 |
例えば、
有る、
『一人』は、
即日( in this day )、
『阿羅漢道』を、
『得るはずであった!』が、
『舎利弗』は、
日中( the midday )の時、
是の、
『人に語って!』、
『お前には、道を得る因縁が無い!』と、
『言い!』、
是の、
『人』を、
『捨てて!』、
『度そうとしなかった!』。
晡時( in the afternoon )、
『仏』は、
『宿命の神通を用いて!』、
是の、
『人が過去、八万劫前に作った!』、
『道を得る因縁が、今成就しようとしている!』のを、
『見て!』、
晡時に、
『法を説かれる!』と、
即ち、
『阿羅漢道』を、
『得たのである!』。
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晡時(ほじ):申の時、午後3時より、5時に至るまで。 |
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復次佛以初力知眾生可度不可度相。以第二力知眾生為三障所覆無覆者。以第三力知眾生禪定解脫淨不淨者。以第四力知眾生根有利有鈍能通法性不通者。以第五力知眾生利鈍根因緣善惡欲。以第六力知二欲因緣種種性。以第七力知眾生利鈍根善惡果報處七種道。以第八力知眾生宿世善惡業障不障。以第九力知眾生今世未可度未來世生處可度。以第十力知是人以空解脫門入涅槃無相無作門入涅槃。知是人於見諦道思惟道中念念中斷若干結使。 |
復た次ぎに、仏は初の力を以って、衆生の度すべきと、度すべからざる相を知り、第二の力を以って、衆生の三障の為めに覆わるると、覆わるる無き者とを知り、第三の力を以って、衆生の禅定、解脱の浄と、不浄の者とを知り、第四の力を以って、衆生の根の有るいは利、有るいは鈍にして、能く法性に通ずると、通ぜざる者とを知り、第五の力を以って、衆生の利鈍の根の因縁の善悪の欲を知り、第六の力を以って、二欲の因縁の種種の性を知り、第七の力を以って、衆生の利鈍の根と、善悪の果報の処なる七種の道を知り、第八の力を以って、衆生の宿世の善悪の業の障うると、障えざるとを知り、第九の力を以って、衆生の今世に、未だ度すべからざると、未来世の生処の度すべきとを知り、第十の力を以って、是の人の空解脱門を以って、涅槃に入ると、無相、無作門をもて涅槃に入るとを知り、是の人は、見諦道、思惟道中に於いて、念念中に若干の結使を断ずるを知る。 |
復た次ぎに、
『仏』は、
『初の力を用いて!』、
『衆生』が、
『度される相か、度されない相か?』を、
『知り!』、
『第二の力を用いて!』、
『衆生』が、
『三障(煩悩障、業障、異熟障)に覆われているのか、いないのか?』を、
『知り!』、
『第三の力を用いて!』、
『衆生』の、
『禅定、解脱は浄なのか、不浄なのか?』を、
『知り!』、
『第四の力を用いて!』、
『衆生』の、
『根は利なのか、鈍なのか、法性に通じているのか、通じていないのか?』を、
『知り!』、
『第五の力を用いて!』、
『衆生』の、
『利、鈍の根の因縁である、善、悪の欲』を、
『知り!』、
『第六の力を用いて!』、
『二欲の因縁である!』、
『種種の性』を、
『知り!』、
『第七の力を用いて!』、
『衆生の利、鈍の根』と、
『善、悪の果報の処である、七種の道(六道と涅槃道)』を、
『知り!』、
『第八の力を用いて!』、
『衆生の宿世』の、
『善、悪の業が障るか、障らないのか?』を、
『知り!』、
『第九の力を用いて!』、
『衆生が、今世には未だ度されず!』、
『未来世の生処に於いて、度されること!』を、
『知り!』、
『第十の力を用いて!』、
是の、
『人』は、
『空解脱門より、涅槃に入る!』と、
『知り!』、
是の、
『人』は、
『無相、無作門より、涅槃に入る!』と、
『知り!』、
是の、
『人』は、
『見諦道、思惟道中に於いて、念念中に若干の結使を断じる!』と、
『知る!』。
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以是十力籌量眾生。所應度緣而為說法。是故說法初無空言。 |
是の十力を以って、衆生の応に度すべき所の縁を籌量して、為めに法を説けば、是の故に法を説くも、初より、空言無し。 |
是の、
『十力を用いて!』、
『衆生を度すべき!』、
『縁』を、
『籌量し!』、
『衆生の為めに!』、
『法』を、
『説くので!』、
是の故に、
『法を説けば!』、
初より、
『空言( the vacant words )』が、
『無いのである!』。
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問曰。佛智慧無量身相亦應無量。又佛身勝諸天王。何以正與轉輪聖王同有三十二相。 |
問うて曰く、仏の智慧は無量にして、身相も亦た応に無量なるべし。又仏身は、諸の天王に勝るに、何を以ってか、正しく転輪聖王と同じく、三十二相有る。 |
問い、
『仏の智慧が、無量ならば!』、
当然、
『身相』も、
『無量でなければならない!』。
又、
『仏身は、諸の天王に勝る!』のに、
何故、
『転輪聖王と同じく!』、
『三十二相を有するのか?』。
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答曰。三十二相不多不少義如先說。復次有人言。佛菩薩相不定。如此中說。隨眾生所好可以引導其心者為現。 |
答えて曰く、三十二相の多からず、少からざる義は、先に説けるが如し。復た次ぎに、有る人の言わく、『仏、菩薩の相は、定らざること、此の中に、『衆生の好む所に随いて、以って其の心を引導すべき者の為めに現る』、と。 |
答え、
『三十二相が多くも、少くもない義』は、
『先に!』、
『説いた通りである!』。
復た次ぎに、
有る人は、こう言っている、――
『仏や、菩薩の相は定らず!』、
此の中に、こう説かれた通りである、――
『衆生の好む所に随う!』、
『相』を、
其の、
『心を引導すべき者の為め!』に、
『現す!』、と。
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又眾生不貴金而貴餘色琉璃頗梨金剛等。如是世界人。佛則不現金色。觀其所好則為現色。又眾生不貴纖長指及網縵。以長指利爪為羅刹相。以網縵為水鳥相。造事不便如著手衣。何用是為。 |
又、衆生金を貴ばずして、餘の色の琉璃、頗梨、金鋼等を貴べば、是の如き世界の人には、仏は則ち金色を現さず、其の好む所を観て、則ち為めに色を現す。又衆生繊長の指、及び網縵を貴ばず、長指利爪を以って、羅刹の相と為し、網縵を以って、水鳥の相と為せば、事を造るに、便ならざること、手に衣を著くるが如きに、何の為めにか、是れを用いん。 |
又、
『衆生が、金を貴ばず!』、
『餘の色の琉璃、頗梨、金鋼』等を、
『貴べば!』、
是のような、
『世界の人の為め!』に、
其の、
『好む所を観て!』、
『色』を、
『現されるのである!』。
又、
『衆生』が、
『繊長の指や、網縵を貴ばず!』、
『長指利爪』は、
『羅刹の相である!』と、
『言い!』、
『網縵』は、
『水鳥の相である!』と、
『言えば!』、
『事を造るに不便であり( being inconvenient to make something )!』、
『手に、衣を著けるようなのに!』、
是の、
『相』を、
『何の為めに用いるのか?』。
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如罽賓國彌帝隸力利菩薩。手網縵。其父惡以為怪。以刀割之言。我子何緣如鳥。有人不好肩圓大以為似腫。有以腹不現無腹如餓相。亦有人以青眼為不好。但好白黑分明。是故佛隨眾生所好而為現相好。如是等無有常定。 |
罽賓国の彌帝隸力利菩薩の手の網縵を、其の父悪みて、以って怪しと為し、刀を以って、之を割きて言わく、『我が子にして、何を縁じてか、鳥の如き』、と。有る人は肩の円大なるを好まずして、以って踵に似たりと為し、有るいは腹の現れず、腹無きを以って、餓相の如しとし、亦た有る人は、青眼を以って、好ましからずと為し、但だ白黒分明せるを好む。是の故に、仏は、衆生の好む所に随い、為めに相好を現したまえば、是れ等の如きには、常定有ること無し。 |
例えば、
『罽賓国の弥帝隷力利菩薩』の、
『手の網縵』を、
其の、
『父は悪み、怪しんで!』、
『刀を用いて!』、
『割き!』、
こう言った、――
『わたしの子』に、
何が、
『縁じて!』、
『鳥のようなのか?』、と。
有る、
『人』は、
『肩』が、
『円く、大きい!』のを、
『好まず!』に、
是れは、
『踵に似ている!』と、
『言い!』、
有るいは、
『腹が現れず、腹が無い!』のは、
『餓相のようだ!』と、
『言い!』、
有る、
『人』は、
『青眼を好まず!』、
但だ、
『白、黒が分明である!』のを、
『好む!』ので、
是の故に、
『仏』は、
『衆生の好む所に随い、衆生の為め!』に、
『相好』を、
『現されるのである!』。
是れ等のように、
『仏、菩薩の相』は、
『常に定るということ!』が、
『無いのである!』。
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有人言。此三十二相。實定以神通力變化身。隨眾生所好而為現相。 |
有る人の言わく、『此の三十二相は、実に定るも、神通力を以って、身を変化し、衆生の好む所に随いて、為めに相を現す』、と。 |
有る人は、こう言っている、――
此の、
『三十二相は、実に定る!』が、
『神通力を用いて!』、
『身』を、
『変化し!』、
『衆生の為めに!』、
其の、
『好む所に随って!』、
『相』を、
『現すのである!』、と。
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有人言。佛有時神通變化。有時隨世界處生。當生處不得言神通變化。 |
有る人の言わく、『仏は有る時には、神通変化し、有る時には世界に随って処し、当に生ずべき処に生ずれば、神通、変化と言うを得ず』、と。 |
有る人は、こう言っている、――
『仏』は、
有る時には、
『神通を用いて!』、
『身』を、
『変化される!』が、
有る時には、
『世界に随って、処しながら( to dwell adapting to the world )!』、
『生ずべき処』に、
『生じられる!』ので、
『神通を用いて!』、
『身を変化する!』と、
『言うことはできない!』、と。
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又於三千大千世界中。隨可度眾生處生則為現相。如密跡經中說。或現金色或現銀色。或日月星宿色。或長或短。隨可引導眾生則為現相。隨此間閻浮提中天竺國人所好。則為現三十二相。 |
又、三千大千世界中に於いて、度すべき衆生の処に随いて、生じたまえば、則ち為めに相を現したもう。『密迹経』中に説けるが如し、『或は金色を現し、或は銀色を現し、或は日月星宿の色を、或は長く、或は短く、引導すべき衆生に随いて、則ち為めに相を現し、此の間の閻浮提中の天竺国の人の好む所に随いて、則ち為めに三十二相を現しあたまえり。 |
又、
『三千大千世界』中に於いて、
『度すべき衆生』の、
『処に随って!』、
『生じられ!』、
則ち、
『衆生の為め!』に、
『身を現される!』。
例えば、
『密迹経』中に、こう説く通りである、――
或は、
『金色を現し!』、
或は、
『銀色を現し!』、
或は、
『日月星宿の色を現し!』、
或は、
『長身を現し!』、
或は、
『短身を現し!』、
『引導すべき!』、
『衆生に随い!』、
『相を現す!』、と。
此の、
『世間の閻浮提中の天竺国の人』の、
『好む所に随って!』、
『三十二相』を、
『現されるのである!』。
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参考:『勝天王般若波羅蜜経巻5』:『佛告勝天王言。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。示現色形無有定相。何以故。隨諸眾生心之所樂。即見菩薩色貌。如是或現金色。或現銀色。或頗梨色或琉璃色。或馬瑙色。或車磲色。或真珠色。青色黃色赤色白色。或日月色。火色。焰色。帝釋色。梵王色。霜色。雌黃色。朱色。薝蔔伽色。須摩那色。婆利師迦色。波頭摩色。拘勿頭色。分陀利色。功德天色。鵝色。孔雀色。珊瑚色。如意珠色。虛空色。天見是天人見是人。大王。十方恒河沙世界中。一切眾生色形相貌。菩薩摩訶薩悉現如是。何以故。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。不捨一眾生故遍能攝取。何以故。一切眾生心各不同。是故菩薩種種示現。何以故。菩薩摩訶薩。過去世中有大願力。隨諸眾生心所樂見而受化者。即為示現所欲見身。大王。如淨明鏡本無影像。隨諸外色若好若醜。種種悉現。亦不分別我體明淨能現眾色。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜亦復如是。無功用心隨眾生樂。種種示現悉令悅彼。而不分別我能現身。大王。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。於一座中隨諸聽眾。或見菩薩說法。或見佛說法。或見辟支佛說法。或見聲聞說法。或見帝釋。或見梵王。或見摩醯首羅。或見圍紐天。或見四天王。或見轉輪聖王。或見沙門。或見婆羅門。或見剎利。或見毘舍首陀。或見居士。或見長者。或見坐寶臺中。或見坐蓮華上。或見行在地上。或見飛騰虛空。或見說法。或入三昧。大王。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜為度眾生。無一形相及一威儀不示現者。大王。般若波羅蜜。無形無相。猶如虛空遍一切處。譬如虛空無諸戲論。般若波羅蜜亦復如是過諸語言。又如虛空世所受用。般若波羅蜜亦復如是。一切凡聖之所受用。又如虛空無有分別。般若波羅蜜亦復如是無分別心。譬如虛空容受眾色。般若波羅蜜亦能容受一切佛法。譬如虛空能現眾色。般若波羅蜜亦復能現一切佛法。譬如空中一切草木眾藥華果依之增長。般若波羅蜜亦復如是。一切善根依之增長。譬如虛空非常無常非言語法。般若波羅蜜亦復如是。非常無常悉離言語。』 |
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天竺國人于今故治肩髆。令厚大頭上皆以有髻為好。如人相中說五處長為好。眼鼻舌臂指髀手足相。若輪若蓮華若貝若日月。是故佛手足有千輻輪纖長指。鼻高好舌廣長而薄。如是等皆勝於先所貴者故。起恭敬心 |
天竺国の人は、今に于(お)いて故(ことさら)に肩の髆を治して、厚大ならしめ、頭上を皆、髻有るを以って、好と為し、人相中には、五処の長きを好と為すと説けるが如く、眼、鼻、舌、臂、指、髀、手、足の相は若しは輪、若しは蓮華、若しは貝、若しは日月なり。是の故に、仏の手足には、千輻輪有り、繊長なる指、鼻は高きが好もしく、舌は広長にして薄し。是れ等の如きは、皆先に貴ぶ所に勝る者なるが故に、恭敬心を起す。 |
『天竺国の人』は、
今、
故に( deliberately )、
『肩の髆を治して( to build their shoulder blades )!』、
『厚大にし!』、
『頭上』には、
『皆、髻を有する!』のを、
『好み!』、
『人相』中などには、こう説かれているので、――
『眼、鼻、舌、臂、指、髀、手、足の相』は、
『輪や、蓮華、貝、日月のようである!』のが、
『好ましい!』、と。
是の故に、
『仏』の、
『手、足には千輻輪が有り!』、
『指は繊長であり!』、
『鼻は高く、好ましく!』、
『舌は広く、長く、薄いのであり!』、
是れ等のような、
『相』は、
皆、
『先に貴ぶ!』所に、
『勝る!』ので、
是の故に、
『恭敬心』を、
『起すのである!』。
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髆(ほ):肩甲骨。
髀(ひ):大腿骨。 |
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有國土。佛為現千萬相。或無量阿僧祇相。或五六三四相。隨天竺所好故。現三十二相八十種隨形好 大智度論卷第八十八 |
有る国土に、仏は為めに千万の相、或は無量阿僧祇の相、或は五、六、三、四相を現すも、天竺の好む所に随うが故に、三十二相、八十種随形好を現したもう。
大智度論巻第八十八 |
有る、
『国土』には、
『仏』は、
『千万の相』を、
『現され!』、
或は、
『無量阿僧祇の相や、五、六、三、四相』を、
『現される!』が、
『天竺』では、
『人の好む所に随って!』、
『三十二相、八十種随形好』を、
『現されるのである!』。
大智度論巻第八十八 |
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