巻第八十八(下)
大智度論釋四攝品第七十八
1.【經】布施を用いて衆生を摂取する
2.【論】布施を用いて衆生を摂取する
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大智度論釋四攝品第七十八
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


【經】布施を用いて衆生を摂取する

【經】須菩提白佛言。世尊若諸法如夢如響如影如焰如幻如化無有實事。無所有性自相空者。云何分別是善法是不善法是世間法是出世間法是有漏法是無漏法是有為法是無為法。是法能得須陀洹果。能得斯陀含果阿那含果阿羅漢果。能得辟支佛道。能得阿耨多羅三藐三菩提。 須菩提の仏に白して言さく、『世尊、若し諸法にして夢の如く、響の如く、影の如く、焔の如く、幻の如く、化の如く実事有ること無く、無所有の性にして自相空なれば、云何が、是れ善法、是れ不善法、是れ世間法、是れ出世間法、是れ有漏法、是れ無漏法、是れ有為法、是れ無為法なり、是の法は能く須陀洹果を得、能く斯陀含果、阿那含果、阿羅漢果を得、能く辟支仏道を得、能く阿耨多羅三藐三菩提を得と分別する』、と。
『須菩提』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
若し、
『諸法』が、
『夢、響、影、焔、幻、化のように!』、
『実事が無く!』、
『無所有の性であり!』、
『自相が空ならば!』、
何故、こう分別するのですか?――
『是れは善法であり、是れは不善法である!』、
『是れは世間法であり、是れは出世間法である!』、
『是れは有漏法であり、是れは無漏法である!』、
『是れは有為法であり、是れは無為法である!』、
『是の法は、須陀洹果を得させる!』、
『是の法は、斯陀含果、阿那含果、阿羅漢果を得させる!』、
『是の法は、辟支仏道を得させる!』、
『是の法は、阿耨多羅三藐三菩提を得させる!』、と。
  参考:『大般若経巻379』:『爾時具壽善現白佛言。世尊。云何如夢如響如像如光影如陽焰如幻事如尋香城如變化事諸法都無實事。皆以無性而為自性。自相皆空而可安立。是善是非善。是有漏是無漏。是世間是出世間。是有為是無為。如是乃至是預流果是能證預流果。是一來果是能證一來果。是不還果是能證不還果。是阿羅漢果是能證阿羅漢果。是獨覺菩提是能證獨覺菩提。是諸佛無上正等菩提是能證諸佛無上正等菩提耶。佛告善現。世間愚夫無聞異生。得夢得見夢者。得響得聞響者。得像得見像者。得光影得見光影者。得陽焰得見陽焰者。得幻事得見幻事者。得尋香城得見尋香城者。得變化事得見變化事者。是諸愚夫無聞異生。得夢得見夢者已。得響得聞響者已。得像得見像者已。得光影得見光影者已。得陽焰得見陽焰者已。得幻事得見幻事者已。得尋香城得見尋香城者已。得變化事得見變化事者已。顛倒執著造身語意善行不善行。或造身語意福行非福行不動行。由諸行故往來生死流轉無窮。諸菩薩摩訶薩行深般若波羅蜜多。觀察畢竟無際二空。安住畢竟無際二空。為彼有情宣說正法。謂作是言。汝等當知色是空無我我所。受想行識是空無我我所。眼處是空無我我所。耳鼻舌身意處是空無我我所。色處是空無我我所。聲香味觸法處是空無我我所。眼界是空無我我所。耳鼻舌身意界是空無我我所。』
佛告須菩提。凡夫愚人得夢得見夢者。乃至得化得見化者。起身口意善業不善業無記業起福業。若起罪業作不動業。 仏の須菩提に告げたまわく、『凡夫、愚人は夢を得、夢を見る者を得、乃至化を得、化を見る者を得て、身、口、意の善業、不善業、無記業を起し、福業を起し、若しは罪業を起し、不動の業を作す。
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
『凡夫、愚人』は、
『夢や、夢を見る者』を、
『得たり!』、
乃至、
『化や、化を見る者』を、
『得て!』、
是の故に、
『身、口、意の善、不善、無記の三業を起して!』、
『福処に生じる!』、
『業』を、
『起したり!』、
『罪処に生じる!』、
『業』を、
『起したり!』、
『罪、福の処に動かすことのない!』、
『業』を、
『作したりするのである!』。
  不動業(ふどうごう):梵語 aaniJjyaM karma の訳、推進することのない行為( nonpropelling activity )の義、善悪何ちらでもない行為( karma )、否定的でも、肯定的でもない行為( Activity, which is neither negative nor positive )の意。福でも罪でもない業であるが、単なる中立的であるということでもない。ほとんどの場合、業のより洗練された機能である、何故ならば善悪の二形態は欲界に起こるに反し、無為業は色、無色の上二界に存在することに従る結果だからである( Karma which is neither felicitous nor harmful, but it is also not simply a matter of being 'neutral'. In most cases it is a more refined function of karma, since both the good and bad forms occur within the desire realm, while 'inactive karma' is a result that is related to existstence in the two upper realms of form and formlessness. )。無為業、或は無記業の如し。
是菩薩摩訶薩行般若波羅蜜住二空中。畢竟空無始空。為眾生說法作是言。諸眾生是色空無所有。受想行識空無所有。十二入十八界空無所有。 是の菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行じて、二空中に住して、畢竟空、無始空なる衆生の為めに法を説いて、是の言を作さく、『諸の衆生の是の色は空にして無所有、受想行識な空にして無所有、十二入、十八界は空にして無所有なり。
是の、
『菩薩摩訶薩』は、
『般若波羅蜜を行じて!』、
『畢竟空、無始空という!』、
『二空』中に、
『住しながら!』、
『畢竟空、無始空である!』、
『衆生の為めに!』、
『法を説いて!』、
こう言うだろう、――
『諸の衆生』とは、
是の、
『色』は、
『空であって!』、
『無所有であり!』、
『受想行識』は、
『空であって!』、
『無所有であり!』、
『十二入、十八界』は、
『空であって!』、
『無所有である!』。
色是夢。受想行識是夢。十二入十八界是夢。色是響是影是焰是幻是化。受想行識亦如是。十二入十八界是夢是響是影是焰是幻是化。是中無陰入界。無夢亦無見夢者。無響亦無聞響者。無影亦無見影者。無焰亦無見焰者。無幻亦無見幻者。無化亦無見化者。 色は是れ夢、受想行識は是れ夢、十二入、十八界は是れ夢なり。色は是れ響、是れ影、是れ焔、是れ幻、是れ化にして、受想行識も亦た是の如し。十二入十八界は是れ夢、是れ響、是れ影、是れ焔、是れ幻、是れ化なり。是の中には陰、入、界なく、夢無く亦た夢を見る者も無く、響無く亦た響を聞く者も無く、影無く亦た影を見る者も無く、焔無く亦た焔を見る者も無く、幻無く亦た幻を見る者も無く、化無く亦た化を見る者も無し。
是の、
『色も、受想行識も、十二入、十八界も!』、
『夢である!』。
是の、
『色も、受想行識も、十二入、十八界も!』、
『響、影、焔、幻、化であり!』、
是の中には、
『五陰も、十二入も、十八界も!』、
『無く!』、
亦た、
『夢や!』、
『夢を見る!』者も、
『無く!』、
『響や!』、
『響を聞く!』者も、
『無く!』、
『影、焔、幻、化や!』、
『影、乃至幻を見る!』者も、
『無い!』。
一切法無根本實性無所有。汝等於無陰中見有陰。無入見有入。無界見有界。是一切法皆從因緣和合生以顛倒心起屬業果報。汝等何以故。於諸法空無根本中而取根本相。 一切法は根本の実性無く、無所有なるに、汝等は、陰無き中に陰有るを見、入無きに入有るを見、界無きに界有るを見るも、是の一切法は、皆因縁和合より生ずるに、顛倒心を以って、属業の果報を起す。汝等は、何を以っての故にか、諸法の空、無根本中に於いて、根本の相を取る』、と。
『一切の法』には、
『根本の実性が無く!』、
『無所有である!』のに、
お前達は、
『陰の無い!』中に、
『陰が有る!』と、
『見!』、
『入の無い!』中に、
『入が有る!』と、
『見!』、
『界の無い!』中に、
『界が有る!』と、
『見る!』が、
是の、
『一切法』は、
皆、
『因縁の和合より!』、
『生じる!』のに、
『顛倒の心を用いて!』、
『業に属した!』、
『果報』を、
『起すのである!』。
お前達は、何故、――
『諸法の空という!』、
『無根本』中に於いて、
『根本の相』を、
『取るのか?』、と。
是時菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。以方便力故於慳法中拔出眾生。教行檀波羅蜜持是布施功德得大福報。從大福報拔出教令持戒。持戒功德生天上尊貴處。復拔出令住初禪。初禪功德生梵天處。二禪三禪四禪無邊空處無邊識處無所有處非有想非無想處亦如是。 是の時、菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行じ、方便力を以っての故に、慳法中より、衆生を抜き出し、教えて檀波羅蜜を行ぜしめ、是の布施の功徳を持して、大福報を得しめ、大福報より抜き出し、教えて持戒せしめ、持戒の功徳もて天上の尊貴の処に生ぜしめ、復た抜き出し、初禅に住せしめ、初禅の功徳もて梵天処に生ぜしめ、二禅、三禅、四禅、無辺空処、無辺識処、無所有処、非有相非無想処も亦た是の如し。
是の時、
『菩薩摩訶薩』は、
『般若波羅蜜を行じながら!』、
『方便力を用いる!』が故に、
『衆生』を、
『慳貪の法』中より、
『抜き出す!』と、
『教えて!』、
『檀波羅蜜』を、
『行じさせ!』、
是の、
『布施の功徳』で、
『大福の果報』を、
『得させ!』、
『大福』の、
『果報』より、
『抜き出す!』と、
『教えて!』、
『持戒』を、
『行じさせ!』、
是の、
『持戒の功徳』で、
『天上の尊貴の処』に、
『生じさせ!』、
復た、
『抜き出して!』、
『初禅』に、
『住させ!』、
『初禅の功徳』で、
『梵天の処』に、
『生じさせ!』、
亦た、
『二禅、乃至非有相非無想処まで!』、
『是の通りである!』。
眾生行是布施及布施果報。持戒及持戒果報。禪定及禪定果報。種種因緣拔出安置無餘涅槃及涅槃道中。所謂四念處四正勤四如意足五根五力七覺分八聖道分空解脫門無相無作解脫門八背捨九次第定佛十力四無所畏四無礙智十八不共法。安隱眾生令住聖無漏法無色無形無對法中。 衆生は、是の布施を行じて、布施の果報に及び、持戒して、持戒の果報に及び、禅定して、禅定の果報に及ぶに、種種の因縁もて抜き出だして無餘涅槃に安置し、涅槃道中に及ばしむ。謂わゆる四念処、四正勤、四如意足、五根五力、七覚分、八聖道分、空解脱門、無相、無作解脱門、八背捨、九次第定、仏の十力、四無所畏、四無礙智、十八不共法は衆生を安隠ならしめて、聖無漏法、無色、無形、無対の法中に住せしむ。
『衆生』が、
是の、
『布施を行じながら!』、
『布施の果報』に、
『及び( to attain )!』、
『持戒を行じながら!』、
『持戒の果報』に、
『及び!』、
『禅定を行じながら!』、
『禅定の果報』に、
『及ぶ!』と、
種種の、
『因縁を用いて!』、
『果報の処より!』、
『抜け出させ!』、
『無餘涅槃に安置して!』、
『涅槃道』中に、
『及ばせる!』。
謂わゆる、
『四念処、乃至八聖道分、空、無相、無作解脱門、八背捨、九次第定や!』、
『仏の十力、乃至十八不共法』等の、
『涅槃道』中に、
『衆生』を、
『安置し!』、
『衆生を安隠にして!』、
『聖人の無漏法や、無色、無形、無対の法』中に、
『住させるのである!』。
  参考:『大般若経巻379』:『是菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多方便善巧。成就無色無見無對真無漏法安住其中。若諸有情應得預流果者。方便濟拔令住預流果。若諸有情應得一來果者。方便濟拔令住一來果。若諸有情應得不還果者。方便濟拔令住不還果。若諸有情應得阿羅漢果者。方便濟拔令住阿羅漢果。若諸有情應得獨覺菩提者。方便濟拔令住獨覺菩提。若諸有情應得無上正等菩提者。方便濟拔為說種種大菩提道。示現勸導讚勵慶喜。令住無上正等菩提。如是善現。諸菩薩摩訶薩行深般若波羅蜜多。觀察畢竟無際二空。安住畢竟無際二空。雖知諸法如夢如響如像如光影如陽焰如幻事如尋香城如變化事都非實有皆以無性而為自性自相皆空。而能安立是善是非善。是有漏是無漏。是世間是出世間。是有為是無為。是預流果。是能證預流果。是一來果。是能證一來果。是不還果。是能證不還果。是阿羅漢果。是能證阿羅漢果。是獨覺菩提。是能證獨覺菩提。是諸佛無上正等菩提。是能證諸佛無上正等菩提。皆無雜亂。』
有可得須陀洹果者。安隱教化令住須陀洹果。可得斯陀含果阿那含果阿羅漢果辟支佛道者。令住斯陀含果阿那含果阿羅漢果辟支佛道。可得阿耨多羅三藐三菩提者。亦安隱教化令住阿耨多羅三藐三菩提中。 有るいは須陀洹果を得べき者には、安隠にし、教化して須陀洹果に住せしめ、斯陀含果、阿那含果、阿羅漢果、辟支仏道を得べき者には、斯陀含果、阿那含果、阿羅漢果、辟支仏道に住せしめ、阿耨多羅三藐三菩提を得べき者には、亦た安隠にし、教化して阿耨多羅三藐三菩提中に住せしむ。
有るいは、
『須陀洹果を得られる!』者には、
『安隠にして、教化しながら!』、
『須陀洹果』に、
『住させ!』、
『斯陀含果、阿那含果、阿羅漢果、辟支仏道を得られる!』者には、
『教えて!』、
『斯陀含果、阿那含果、阿羅漢果、辟支仏道』に、
『住させ!』、
『阿耨多羅三藐三菩提を得られる!』者には、
『安隠にして、教化しながら!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』中に、
『住させる!』。
  安隠(あんのん):梵語 kSema の訳、休息・安心・安全を与えること( giving rest or ease or security )の義。
須菩提白佛言。世尊。諸菩薩摩訶薩甚希有難及。能行是深般若波羅蜜。諸法無所有性畢竟空無始空。而分別諸法是善是不善是有漏是無漏乃至是有為是無為。 須菩提の仏に白して言さく、『世尊、諸の菩薩摩訶薩の甚だ希有にして及び難きは、能く是の深き般若波羅蜜を行じて、諸法は無所有性にして畢竟空、無始空なるに、諸法を是れ善、是れ不善、是れ有漏、是れ無漏、乃至是れ有為、是れ無為なりと分別す』、と。
『須菩提』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
『諸の菩薩摩訶薩』は、
『甚だ希有であり!』、
『及び難い!』のは、
是の、
『深い般若波羅蜜を行じて!』、
『諸法』は、
『無所有性であり!』、
『畢竟空、無始空である!』のに、
『諸法』を、
『是れは善、是れは不善である!』、
『是れは有漏、是れは無漏である!』とか、
乃至、
『是れは有為、是れは無為である!』と、
『分別することができるからです!』、と。
  参考:『大般若経巻379』:『爾時具壽善現白佛言。世尊。諸菩薩摩訶薩甚奇希有。行深般若波羅蜜多。觀察畢竟無際二空。安住畢竟無際二空。雖知諸法如夢如響如像如光影如陽焰如幻事如尋香城如變化事都非實有皆以無性而為自性自相皆空。而能安立是善是非善。是有漏是無漏。是世間是出世間。是有為是無為等。皆無雜亂。佛言。善現。如是如是如汝所說。諸菩薩摩訶薩甚奇希有。行深般若波羅蜜多。雖知諸法皆是畢竟無際空性。而能安立善非善等不相雜亂。善現。汝等若知諸菩薩摩訶薩行深般若波羅蜜多時所有甚奇希有之法聲聞獨覺皆所非有不能測量。汝等一切聲聞獨覺。於諸菩薩摩訶薩辯尚不能報。況餘有情而能酬對』
佛告須菩提。如是如是。諸菩薩摩訶薩甚希有難及。能行是深般若波羅蜜。諸法無所有性畢竟空無始空而分別諸法。須菩提。汝等若知是菩薩摩訶薩希有難及法。則知一切聲聞辟支佛不能報。何況餘人。 仏の須菩提に告げたまわく、『是の如し、是の如し。諸の菩薩摩訶薩は希有にして及び難く、能く是の深き般若波羅蜜を行ずれば、諸法は無所有性にして、畢竟空、無始空なるに、諸法を分別す。須菩提、汝等、若し是の菩薩摩訶薩の希有にして及び難き法を知れば、則ち一切の声聞、辟支仏の報ゆる能わざるを知る。何に況んや、餘人をや』、と。
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
その通りだ!
その通りだ!
『諸の菩薩摩訶薩』は、
『甚だ希有であり!』、
『及び難い!』のは、
是の、
『深い般若波羅蜜を行じれば!』、
『諸法』は、
『無所有性であり!』、
『畢竟空、無始空である!』のに、
而も、
『諸法』を、
『分別することができるのである!』。
須菩提!
お前達が、
若し、
是の、
『菩薩摩訶薩』の、
『希有であり、及び難い法』を、
『知れば!』、
則ち、
『一切の声聞や、辟支仏』には、
『報いることができない( cannot answer )!』と、
『知ることになる!』。
況して、
『餘人』は、
『言うまでもない!』、と。
須菩提白佛言。世尊。何等是菩薩摩訶薩希有難及法。諸聲聞辟支佛所無有。 須菩提の仏に白して言さく、『世尊、何等か、是れ菩薩摩訶薩の希有にして、及び難き法にして、諸の声聞、辟支仏の有することの無き所なる』、と。
『須菩提』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
何のようなものが、
『菩薩摩訶薩』の、
『希有であって、及び難い!』、
『法であり!』、
『諸の声聞、辟支仏』の、
『所有することのない!』、
『法なのですか?』、と。
  参考:『大般若経巻380』:『時具壽善現白佛言。世尊。何等名為菩薩摩訶薩行深般若波羅蜜多時所有甚奇希有之法聲聞獨覺皆所非有。佛告善現。諦聽諦聽。善思念之。吾當為汝分別解說。菩薩摩訶薩行深般若波羅蜜多時所有甚奇希有之法。善現。菩薩摩訶薩行深般若波羅蜜多時。住異熟生布施淨戒安忍精進靜慮般若波羅蜜多。五妙神通。三十七種菩提分法。陀羅尼門三摩地門。四靜慮四無量四無色定。四無礙解八解脫八勝處九次第定十遍處。空無相無願三摩地等無量功德往十方界。若諸有情應以布施而攝益者。則以布施而攝益之。』
佛告須菩提。一心諦聽。有菩薩摩訶薩。行般若波羅蜜住報得六波羅蜜中。及住報得五神通三十七助道法。住諸陀羅尼諸無礙智。到十方世界可以布施度者以布施攝之。可以持戒度者以持戒攝之。可以忍辱精進禪定智慧度者。隨其所應而攝取之。 仏の須菩提に告げたまわく、『一心に諦聴せよ。有る菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行じて、報得の六波羅蜜中に住し、及び報得の五神通、三十七助道法に住し、諸の陀羅尼、諸の無礙智に住して、十方の世界に到りて、布施を以って度すべき者には、布施を以って、之を摂し、忍辱、精進、禅定、智慧を以って度すべき者には、其の所応に随いて、之を摂取す。
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
一心に、諦聴せよ( Listen clearly with your whole soul )!
有る、
『菩薩摩訶薩』は、
『般若波羅蜜を行じて!』、
『報得』の、
『六波羅蜜』中に、
『住しながら!』、
『報得』の、
『五神通、三十七助道法』に、
『住し!』、
『諸の陀羅尼、諸の無礙智に住して!』、
『十方の世界に到り!』、
『布施を用いて、度さねばならぬ!』者は、
『布施を用いて!』、
『之を摂し( to hold them )!』、
『持戒を用いて、度さねばならぬ!』者は、
『持戒を用いて!』、
『摂し!』、
『忍辱、精進、禅定、智慧を用いて、度さねばならぬ!』者は、
其の、
『所応に随って( with the proper means )!』、
『之を摂取する( to attract them )!』。
可以初禪度者以初禪攝取之。可以二禪三禪四禪無邊空處無邊識處無所有處非有想非無想處度者。隨其所應而攝取之。可以慈悲喜捨心度者。以慈悲喜捨心攝取之。可以四念處四正勤四如意足五根五力七覺分八聖道分空三昧無相無作三昧度者隨而攝之。 初禅を以って度すべき者は初禅を以って、之を摂し、二禅、三禅、四禅、無辺空処、無辺識処、無所有処、非有相非無想処を以って度すべき者は、其の所応に随って、之を摂取し、慈悲喜捨の心を以って度すべき者は、慈悲喜捨の心を以って、之を摂取し、四念処、四正勤、四如意足、五根五力、七覚分、八聖道分、空三昧、無相、無作三昧を以って度すべき者は、随って、之を摂す。
『初禅を用いて、度さねばならぬ!』者は、
『初禅を用いて!』、
『之を摂し!』、
『二禅、乃至非有相非無想処を用いて、度さねばならぬ!』者は、
其の、
『所応に随って!』、
『之を摂取し!』、
『慈、悲、喜、捨の心を用いて、度さねばならぬ!』者は、
『慈、悲、喜、捨の心を用いて!』、
『之を摂取し!』、
『四念処、乃至八聖道分、空、無相、無作三昧を用いて、度さねばならぬ!』者は、
其の、
『所応に随って!』、
『之を摂するのである!』。
世尊。菩薩摩訶薩云何以布施饒益眾生。須菩提。菩薩行般若波羅蜜時。布施隨其所須。飲食衣服車馬香華瓔珞種種所須。盡給與之。 『世尊、菩薩摩訶薩は、云何が布施を以って、衆生を饒益する』。『須菩提、菩薩は般若波羅蜜を行ずる時、布施は、其の須むる所に随い、飲食、衣服、車馬、香華、瓔珞、種種の須むる所は、尽く之を給与す。
――
世尊!
『菩薩摩訶薩』は、
何のように、
『布施を用いて!』、
『衆生』を、
『饒益する( causing there profit )のですか?』。
――
須菩提!
『菩薩』は、
『般若波羅蜜を行じる!』時、
『布施』は、
其の、
『須める!』所に、
『随い!』、
『飲食、衣服、車馬、香華、瓔珞のような!』、
種種の、
『須める!』所を、
『尽く、給与するのである!』。
  饒益(にょうやく):梵語 artha-kRt の訳、財産に資すること( causing profit )の義。
  参考:『大般若経巻380』:『具壽善現白佛言。世尊。云何菩薩摩訶薩行深般若波羅蜜多時。住異熟生布施淨戒安忍精進靜慮般若波羅蜜多。五妙神通。三十七種菩提分法。陀羅尼門。三摩地門。四靜慮四無量四無色定。四無礙解。八解脫八勝處九次第定十遍處。空無相無願三摩地等無量功德。以布施等攝益有情。佛言。善現。菩薩摩訶薩行深般若波羅蜜多時。施諸有情所須之物。須食與食。須飲與飲。須衣服與衣服。須車乘與車乘。須香花與香花。須幢幡蓋與幢幡蓋。須坐臥具與坐臥具。須瓔珞等諸莊嚴具與瓔珞等諸莊嚴具。須舍宅與舍宅。須燈明與燈明。須伎樂與伎樂。須醫藥與醫藥。隨諸所須種種資具。悉皆施與令無匱乏。如施如來應正等覺諸供養具。施諸獨覺亦復如是。如施獨覺諸供養具。施阿羅漢亦復如是。如施阿羅漢諸供養具。施諸不還亦復如是。如施不還諸供養具。施諸一來亦復如是。如施一來諸供養具。施諸預流亦復如是。如施預流諸供養具。施諸正至正行亦復如是。如施正至正行諸供養具。施持戒者亦復如是。如施持戒者諸供養具。施犯戒者亦復如是。』
若供養佛辟支佛阿羅漢阿那含斯陀含須陀洹等無有異。若施入正道中人及凡人。下至禽獸皆無分別等一布施。何以故。一切法不異不分別故。 若し仏、辟支仏、阿羅漢、阿那含、斯陀含、須陀洹に供養すれば、等しくして異有ること無し。若し正道中に入れる人、及び凡人に施せば、下は禽獣に至るまで、皆分別無く、等一に布施す。何を以っての故に、一切法を異にせず、分別せざるが故なり。
若し、
『仏、辟支仏、阿羅漢、乃至須陀洹に供養すれば!』、
皆、
『等しく!』、
『異が無い!』。
若し、
『正道中に入った人や、凡人に施せば!』、
下は、
『禽獣』に、
『至るまで!』、
皆、
『分別すること無く!』、
『等一に布施するのである!』。
何故ならば、
『一切法』を、
『異にせず!』、
『分別しないからである!』。
是菩薩無異無別布施已當得無分別法報。所謂一切種智。須菩提。若菩薩摩訶薩見乞匈者若生是心。佛是福田我應供養禽獸非福田不應供養。是非菩薩法。 是の菩薩は、無異、無別の布施し已れば、当に無分別の法の報、謂わゆる一切種智を得べし。須菩提、若し菩薩摩訶薩にして、乞匃を見るに、若しは、『仏は是れ福田なれば、我れ応に供養すべし。禽獣は福田に非ざれば、応に供養すべからず』と、是の心を生ずれば、是れは菩薩の法に非ず。
是の、
『菩薩』が、
『無異、無別の布施をすれば!』、
『無分別の法』の、
『報( the ripened fruit )』を、
『得るはずであり!』、
謂わゆる、
『一切種智』を、
『得るのである!』。
須菩提!
若し、
『菩薩摩訶薩』が、
『乞匃を見て( seeing a begger )!』、
『仏は福田である!』が故に、
わたしは、
『供養せねばならない!』が、
『禽獣は福田でない!』が故に、
わたしは、
『供養すべきではない!』と、
是のような、
『心』を、
『生じれば!』、
是れは、
『菩薩の法ではない!』。
  乞匃(こつかい):乞食( begger )。
何以故。菩薩摩訶薩發阿耨多羅三藐三菩提心不作是念是眾生應以布施饒益。是不應布施是眾生。布施因緣故應生刹利大姓婆羅門大姓居士大家。乃至以是布施因緣以三乘法度之。令入無餘涅槃。 何を以っての故に、菩薩摩訶薩は阿耨多羅三藐三菩提の心を発せば、『是の衆生は、応に布施を以って饒益すべし。是れは応に布施すべからず。是の衆生は、布施の因縁の故に、応に刹利の大姓、婆羅門の大姓、居士の大家に生ずべし。乃至是の布施の因縁を以って、三乗の法を以って、之を度し、無餘涅槃に入らしめん』と、是の念を作さざればなり。
何故ならば、
『菩薩摩訶薩』は、
『阿耨多羅三藐三菩提の心』を、
『発しながら!』、
こう念じることはないからである、――
是の、
『衆生』は、
『布施を用いて!』、
『饒益せねばならない!』。
是の、
『衆生』には、
『布施すべきではない!』。
是の、
『衆生』は、
『布施の因縁』の故に、
『刹利の大姓、婆羅門の大姓、居士の大家』に、
『生じるはずである!』。
乃至、
是の、
『布施の因縁を用いて!』、
『三乗の法で、之を度し!』、
『無餘涅槃』に、
『入らせよう!』、と。
若眾生來從菩薩乞。亦不生異心分別應與是不應與是。何以故。是菩薩為是眾生故發阿耨多羅三藐三菩提心。若分別簡擇便墮諸佛菩薩辟支佛學無學人一切世間天及人訶責處。誰請汝救一切眾生。汝為一切眾生舍一切眾生護一切眾生依。而分別簡擇應與不應與。 若し、衆生来たりて、菩薩より乞うも、亦た異心を生じて、『応に是れに与うべし。応に是れに与うべからず』、と分別せず。何を以っての故に、是の菩薩は、是の衆生の為めの故に、阿耨多羅三藐三菩提の心を発せばなり。若し分別し、簡択すれば、便ち諸仏、菩薩、辟支仏、学、無学人、一切の世間の天、及び人の、『誰か、汝に、一切の衆生を救えと請えるや。汝は、一切の衆生の舎、一切の衆生の護、一切の衆生の依たるに、而も応に与うべし、応に与うべからず、と分別し簡択するや』、と訶責する処に堕せん。
若し、
『衆生が来て!』、
『菩薩に乞うても!』、
亦た、
『異心を生じて!』、
『是れには与えねばならない。是れには与えてはならない!』と、
『分別しない!』。
何故ならば、
是の、
『菩薩』は、
是の、
『衆生の為め!』の故に、
『阿耨多羅三藐三菩提の心』を、
『発したからである!』。
若し、
『分別し、簡択すれば!』、
便ち( therefor )、
『諸の仏、菩薩、辟支仏、学人、無学人、一切の世間の天や、人』の、
『訶責する処』に、
『堕ちるだろう!』、
謂わゆる、
誰が、
お前に、
『一切の衆生を救え!』と、
『請うたのか?』。
お前は、
『一切の衆生の為め!』の、
『舎であり( the dwelling )!』、
『護であり( the guard )!』、
『依である( the support )!』のに、
『衆生を分別して!』、
『是れには与えねばならぬ、是れには与えてならぬ!』と、
『簡択する( to select )のか?』。
復次若菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。若人若非人來欲求乞菩薩身體支節。是時不應生二心。若與若不與。何以故。是菩薩摩訶薩為眾生故受身。眾生來取何可不與。我以饒益眾生故受是身。眾生不乞自應與之。何況乞而不與。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜應如是學。 復た次ぎに、若し菩薩摩訶薩、般若波羅蜜を行ずる時、若しは人、若しは非人来たりて、菩薩に乞うて、身体、支節をを求めんと欲せば、是の時、応に二心の若しは与う、若しは与えざるを生ずべからず。何を以っての故に、是の菩薩摩訶薩は、衆生の為めの故に身を受くれば、衆生来たりて取らんとするに、何ぞ与えざるべけんや。『我れは、衆生を饒益するを以っての故に、是の身を受くれば、衆生乞わざるとも、自ら応に之を与うべし。何に況んや乞うて、与えざらんや』と、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行じて、応に是の如く学ぶべし。
復た次ぎに、
若し、
『菩薩摩訶薩』は、
『般若波羅蜜を行じる!』時、
『人や、非人が来て!』、
『菩薩に乞い!』、
『身体や、支節』を、
『求めようとすれば!』、
是の時、
『与えるとか、与えないとか!』の、
『二心』を、
『生じるはずがない!』。
何故ならば、
是の、
『菩薩摩訶薩』は、
『衆生の為め!』の故に、
『身』を、
『受けたのであるから!』、
『衆生が来て、取ろうとする!』のに、
何故、
『与えないはずがあろうか?』。
わたしは、
『衆生を饒益しようとした!』が故に、
是の、
『身』を、
『受けたのであり!』、
『衆生に乞われなくても!』、
自ら、
之を、
『与えねばならぬ!』。
況して、
『乞われて!』、
『与えないことがあろうか?』と、
是のように、
『菩薩摩訶薩』は、
『般若波羅蜜を行じること!』を、
『学ばねばならぬのである!』。
復次須菩提。菩薩摩訶薩見有乞者應生是念。是中誰與誰受所施何物。是一切法自性皆不可得。以畢竟空故空相法無與無奪。何以故。畢竟空故。內空故。外空內外空大空第一義空自相空故。住是諸空布施。是時具足檀波羅蜜。具足檀波羅蜜故。若斷內外法。時作是念。截我者誰割我者誰。 復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は、有る乞者を見るに、応に是の念を生ずべし、『是の中の誰か与え、誰か受け、施す所は何物ぞ』。是の一切法の自性は、皆不可得なれば、畢竟空を以っての故に、空相の法には、与うる無く、奪う無ければなり。何を以っての故に、畢竟空の故に、内空の故に、外空、内外空、大空、第一義空、自相空の故に、是の諸空に住して布施すれば、是の時、檀波羅蜜を具足し、檀波羅蜜を具足するが故に、若し内外の法を断ずる時、『我れを截る者は誰ぞ、我れを割く者は誰ぞ』と、是の念を作せばなり。
復た次ぎに、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』が、
有る、
『乞者』を、
『見れば!』、
是の中に、
『誰が与えるのか?』、
『誰が受けるのか?』、
『何物が施されるのか?』と、
是の、
『念』を、
『生じるはずである!』。
是の、
『一切法』は、
『自性』が、
『皆、不可得であり!』、
『畢竟空である!』が故に、
『空相の法』には、
『与えることも無く、奪うことも無いからである!』。
何故ならば、
『畢竟空である!』が故に、
『内空である!』が故に、
『外空、内外空、大空、第一義空有、自相空だからである!』。
是の、
『諸の空に住して!』、
『布施すれば!』、
是の時、
『檀波羅蜜』を、
『具足し!』、
『檀波羅蜜を具足する!』が故に、
若し、
『内、外の法(身体支節、妻子城邑)を断じる!』時にも、
『わたしを截る者とは、誰なのか?』、
『わたしを割く者とは、誰なのか?』と、
是の、
『念』を、
『作すのである!』。
  参考:『大般若経巻380』:『復次善現。若菩薩摩訶薩見有乞者便作是念。今於此中誰施誰受。所施何物。由何而施。為何而施。云何而施。諸法自性皆不可得。所以者何。如是諸法皆畢竟空。非空法中有與有奪。善現。菩薩摩訶薩行深般若波羅蜜多時應如是學。諸法皆空。謂或由內空故空。或由外空故空。或由內外空故空。或由空空故空。或由大空故空。或由勝義空故空。或由有為空故空。或由無為空故空。或由畢竟空故空。或由無際空故空。或由散空故空。或由無變異空故空。或由本性空故空。或由自相空故空。或由共相空故空。或由一切法空故空。或由不可得空故空。或由無性空故空。或由自性空故空。或由無性自性空故空。是菩薩摩訶薩住此空中而行布施恒時無間。圓滿布施波羅蜜多。由布施波羅蜜多得圓滿故為他割截內外物時。其心都無瞋恨分別。但作是念。有情及法一切皆空。誰割截我。誰受割截。誰復觀空』
復次須菩提。我以佛眼見東方如恒河沙等諸菩薩摩訶薩。入大地獄令火滅湯冷。以三事教化。一者神通。二者知他心。三者說法。是菩薩以神通力令大地獄火滅湯冷。知他心以慈悲喜捨隨意說法。是眾生於菩薩生清淨心。從地獄得脫漸以三乘法得盡苦際。南西北方四維上下亦如是。 復た次ぎに、須菩提、我れは仏眼を以って東方を見るに、恒河沙に等しきが如き諸の菩薩摩訶薩は、大地獄に入りて、火を滅せしめ、湯を冷めしめ、三事を以って教化す。一には神通、二には他心を知り、三には法を説く。是の菩薩は、神通力を以って、大地獄の火を滅せしめ、湯を冷めしめ、他心を知りて、慈悲喜捨を以って、随意に説法すれば、是の衆生は、菩薩に於いて、清浄心を生じ、地獄より脱るるを得て、漸く三乗の法を以って、苦際を尽すを得。南西北方、四維上下も亦た是の如し。
復た次ぎに、
須菩提!
わたしは、
『仏眼を用いて!』、
『東方を見てみる!』と、――
『恒河沙に等しいほど!』の、
『諸の菩薩摩訶薩』が、
『大地獄に入り!』、
『火を、滅したり!』、
『湯を、冷ましたりしながら!』、
『三事を用いて!』、
『衆生』を、
『教化している!』、――
謂わゆる、
一には、
『神通を用い!』、
二には、
『他心を知り!』、
三には、
『法を説いて!』、
『教化するのである!』。
是の、
『菩薩』は、
『神通力を用いて!』、
『大地獄の火を滅し!』、
『湯を冷まし!』、
『他心を知り!』、
『慈、悲、喜、捨を用いて!』、
『意のままに、法を説く!』ので、
是の、
『衆生』は、
『菩薩』に於いて、
『清浄の信心』を、
『生じ!』、
『地獄を脱れることができて!』、
漸く( gradually )、
『三乗の法を用いて!』、
『苦際』を、
『尽すことができるのである!』。
亦た、
『南西、北方、四維、上下』も、
『是の通りである!』。
  参考:『大般若経巻380』:『復次善現。我以佛眼遍觀十方無量殑伽沙等世界。諸菩薩摩訶薩為欲利樂諸有情類。以故思願入大地獄。入已發起三種示導。何等為三。一者神變示導。二者記說示導。三者教誡示導。是菩薩摩訶薩以神變示導。滅除地獄湯火刀等種種苦具。以記說示導記彼有情心之所念而為說法。以教誡示導於彼發起大慈大悲大喜大捨而為說法。令彼地獄諸有情類於菩薩所生淨信心。由此因緣從地獄出。得生天上或生人中。漸依三乘作苦邊際』
復次須菩提。我以佛眼觀十方世界。見如恒河沙等國土中諸菩薩。為諸佛給使供養。諸佛隨意愛樂恭敬。若諸佛所說盡能受持。乃至阿耨多羅三藐三菩提終不忘失。 復た次ぎに、須菩提、我れは仏眼を以って、十方の世界を観て、恒河沙に等しきが如き国土中の諸菩薩を見るに、諸仏の給使と為り、諸仏を供養して、随意に愛楽し、恭敬して、若しは諸仏の所説の尽くを能く受持し、乃至阿耨多羅三藐三菩提まで、終に亡失せず。
復た次ぎに、
須菩提!
わたしが、
『仏眼を用いて、十方の世界を観る!』と、
『恒河沙にも等しいほどの国土中の諸菩薩が見え!』、
『諸仏の給使と為って!』、
『諸仏』を、
『供養したり!』、
『随意に!』、
『諸仏』を、
『愛楽、恭敬しており!』、
若しは、
『諸仏の所説』を、
皆、
『尽くを!』、
『受持することができて!』、
乃至、
『阿耨多羅三藐三菩提を得る!』まで、
『終に、忘失することがないのである!』。
  参考:『大般若経巻380』:『復次善現。我以佛眼遍觀十方無量殑伽沙等世界。諸菩薩摩訶薩承事供養諸佛世尊。是菩薩摩訶薩承事供養佛世尊時。深心歡喜非不歡喜。深心愛樂非不愛樂。深心恭敬非不恭敬。是菩薩摩訶薩於諸如來應正等覺所說正法。恭敬聽聞受持讀誦。乃至無上正等菩提終不忘失。隨所聞法能為有情無倒解說。令獲殊勝利益安樂。乃至無上正等菩提常無懈廢』
復次須菩提。我以佛眼觀十方如恒河沙等國土中諸菩薩摩訶薩。為畜生故捨其壽命割截身體分散諸方。諸有眾生食是諸菩薩摩訶薩肉。皆愛敬菩薩。以愛敬故即得離畜生道值遇諸佛。聞佛說法如說修行。漸以三乘聲聞辟支佛佛法。於無餘涅槃而般涅槃。如是須菩提。諸菩薩摩訶薩所益甚多。教化眾生令發阿耨多羅三藐三菩提心。如說修行乃至於無餘涅槃而般涅槃。 復た次ぎに、須菩提、我れは、仏眼を以って、十方を観るに、恒河沙に等しきが如き国土中の、諸の菩薩摩訶薩は、畜生の為めの故に、其の寿命を捨て、身体を割截して、諸方に分散す。諸の有らゆる衆生の、是の諸の菩薩摩訶薩の肉を食い、皆菩薩を愛敬し、愛敬するを以っての故に、即ち畜生道を離るるを得、諸仏に値遇して、仏の説法を聞き、説の如く修行して、漸く三乗の声聞、辟支仏、仏法を以って、無餘涅槃に於いて、般涅槃す。是の如し、須菩提、諸の菩薩摩訶薩の益する所は甚だ多く、衆生を教化して、阿耨多羅三藐三菩提の心を発せしめ、説の如く修行して、乃至無餘涅槃に於いて、般涅槃せしむ。
復た次ぎに、
須菩提!
わたしは、
『仏眼を用いて、十方を観る!』と、
『恒河沙に等しいほどの国土』中の、
『諸菩薩摩訶薩』が、
『畜生の為め!』の故に、
其の、
『寿命を捨て!』、
『身体を割截して!』、
『諸方』に、
『分散しており!』、
『諸の有らゆる衆生』が、
是の、
『菩薩摩訶薩』の、
『肉を食いながら!』、
皆、
『菩薩』を、
『愛敬し!』、
『愛敬する!』が故に、
即ち、
『畜生道』を、
『離れることができ!』、
『諸仏に値遇して!』、
『仏の説法を聞き!』、
『説の通りに!』、
『修行して!』、
漸く、
『声聞、辟支仏、仏法の三乗を用いて!』、
『無餘涅槃しながら!』、
『般涅槃するのである!』。
是のように、
須菩提!
『諸の菩薩摩訶薩』の、
『益する所は、甚だ多く!』、
『衆生を教化して!』、
『阿耨多羅三藐三菩提の心』を、
『発させ!』、
『説の通りに修行させ!』、
乃至、
『無餘涅槃させながら!』、
『般涅槃させるのである!』。
  無餘涅槃(むよねはん):梵語 anupadhi-zeSa nirvaaNa の訳、残餘無き涅槃( Nirvana without remainder )の義、身心共に解脱せる状態( the state of total liberation from all physical and mental conditions. )の意。即ち小乗の涅槃。
  般涅槃(はつねはん):梵語 parinirvaaNa の訳、完全な涅槃( complete Nirvana )の義、完全な再生の中止( entire cessation of rebirths )の意。即ち大乗の涅槃。
  参考:『大般若経巻380』:『復次善現。我以佛眼遍觀十方無量殑伽沙等世界。諸菩薩摩訶薩為欲饒益傍生趣中諸有情故自捨身命。是菩薩摩訶薩見諸傍生饑火所逼欲相殘害起慈愍心。自割身分斷諸支節散擲十方恣令食噉。諸傍生類得此菩薩身肉食者。皆於菩薩深起愛敬慚愧之心。由此因緣脫傍生趣。得生天上或生人中。值遇如來應正等覺。聞說正法如理修行。漸依三乘而得度脫。謂隨證入聲聞獨覺及無上乘三無餘依般涅槃界。如是善現。諸菩薩摩訶薩能為世間作難作事多所饒益。謂為利樂諸有情故。自發無上正等覺心亦令他發。厭離生死求菩提心。自行種種如實正行亦令他行。漸入三乘般涅槃界』
復次須菩提。我以佛眼見十方如恒河沙等國土中諸菩薩摩訶薩。除諸餓鬼飢渴苦。是諸餓鬼皆愛敬菩薩。以愛敬故得離餓鬼道值遇諸佛。聞諸佛說法如說修行。漸以三乘聲聞辟支佛佛法而般涅槃。乃至無餘涅槃。如是須菩提。菩薩摩訶薩為度眾生故行大悲心。 復た次ぎに、須菩提、我れは仏眼を以って、十方を見るに、恒河沙に等しきが如き国土中の、諸菩薩摩訶薩は、諸の餓鬼の飢渇の苦を除けば、是の諸の餓鬼は、皆菩薩を愛敬し、愛敬するを以っての故に、餓鬼道を離るるを得て、諸仏に値遇し、諸仏の説法を聞いて、説の如く修行し、漸く三乗の声聞、辟支仏、仏法を以って、般涅槃、乃至無餘涅槃す。是の如く、須菩提、菩薩摩訶薩は、衆生を度せんが為めの故に、大悲心を行ず。
復た次ぎに、
須菩提!
わたしが、
『仏眼を用いて、十方を見る!』と、
『恒河沙に等しいほどの国土』中の、
『諸の菩薩摩訶薩』が、
『諸の餓鬼』の、
『飢渇の苦』を、
『除いており!』、
是の、
『諸の餓鬼』は、
皆、
『菩薩』を、
『愛敬し!』、
『愛敬する!』が故に、
『餓鬼道を離れることができて!』、
『諸仏』に、
『値遇し!』、
『諸仏の説法を聞いて!』、
『説の通りに修行し!』、
漸く、
『声聞、辟支仏、仏法の三乗を用いて!』、
『般涅槃、乃至無餘涅槃するのである!』。
是のように、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』は、
『衆生を度す為め!』の故に、
『大悲心』を、
『行じるのである!』。
  参考:『大般若経巻380』:『復次善現。我以佛眼遍觀十方無量殑伽沙等世界。諸菩薩摩訶薩為欲饒益餓鬼界中諸有情類。以故思願往彼界中。方便息除饑渴等苦。彼諸餓鬼眾苦既息。於此菩薩深起愛敬慚愧之心。乘此善根脫餓鬼趣。得生天上或生人中。常遇如來應正等覺。恭敬供養聞正法音。漸次修行三乘正行。乃至得入三無餘依般涅槃界。如是善現。諸菩薩摩訶薩於有情類。安住大悲發起無邊方便善巧。拔濟令入三乘涅槃畢竟安樂』
復次須菩提。我以佛眼見諸菩薩摩訶薩。在四天王天上說法。在三十三天夜摩天兜率陀天化樂天他化自在天上說法。諸天聞菩薩說法漸以三乘而得滅度。須菩提。是諸天眾中有貪著五欲者。是菩薩示現火起燒其宮殿而為說法作是言。諸天。一切有為法悉皆無常誰得安者。 復た次ぎに、須菩提、我れは仏眼を以って見るに、諸の菩薩摩訶薩は、四天王天上に在りて、法を説き、三十三天、夜魔天、兜率陀天、化楽天、他化自在天上に在りて法を説くに、諸天は菩薩の説法を聞いて、漸く三乗を以って滅度を得。須菩提、是の諸の天衆中に、五欲に貪著する者有れば、是の菩薩は、火起りて、其の宮殿を焼くを示現し、為めに法を説きて、是の言を作す、『諸天、一切の有為法は、悉く皆無常なり。誰か安きを得る者ならんや』、と。
復た次ぎに、
須菩提!
わたしが、
『仏眼を用いて、見る!』と、
『諸の菩薩摩訶薩』が、
『四天王天や!』、
『三十三天、夜魔天、兜率陀天、化楽天、他化自在天』上に、
『法』を、
『説いており!』、
『諸の天』は、
『菩薩の説く!』、
『法』を、
『聞いて!』、
漸く、
『三乗を用いて!』、
『滅度を得るのである!』。
須菩提!
是の、
『諸の天衆』中に、
『五欲に貪著する!』者が、
『有れば!』、
是の、
『菩薩』は、
『火が起こり!』、
其の、
『宮殿を焼く!』のを、
『示現し!』、
『諸天の為め!』に、
『法を説いて!』、こう言うのである、――
諸天!
『一切の有為法』は、
『悉く、皆!』、
『無常である!』のに、
誰が、
『安を得られる( can be peaceful )のか?』、と。
  参考:『大般若経巻380』:『復次善現。我以佛眼遍觀十方無量殑伽沙等世界。諸菩薩摩訶薩或為四大王眾天宣說正法。或為三十三天宣說正法。或為夜摩天宣說正法。或為睹史多天宣說正法。或為樂變化天宣說正法。或為他化自在天宣說正法。是諸天眾於菩薩所聞正法已。漸依三乘勤修正行。隨應趣入三無餘依般涅槃界。善現。彼天眾中有諸天子。耽著天上五妙欲樂及所居止眾寶宮殿。是菩薩摩訶薩示現火起。燒其宮殿令生厭怖。因為說法作是言。諸天子。應審觀察諸行無常苦空非我不可保信。誰有智者於斯樂著。時諸天子聞此法音。皆於五欲深生厭離。自觀身命虛偽無常。猶如芭蕉電光陽焰。觀諸宮殿譬如牢獄。作是觀已漸依三乘。勤修正行而取滅度。復次善現。我以無障清淨佛眼。遍觀十方無量殑伽沙等世界。諸菩薩摩訶薩見諸梵天著諸見趣。方便化導令其遠離。告言。天仙。汝等云何於空無相虛妄不實一切法中。發起如是諸惡見趣。當疾捨之信受正法。令汝獲得無上甘露。如是善現。諸菩薩摩訶薩安住大悲。為諸有情宣說正法。善現。是為菩薩摩訶薩所有甚奇希有之法』
復次須菩提。我以佛眼觀十方世界。見如恒河沙等國土中諸梵天著於邪見。諸菩薩摩訶薩教令遠離邪見作是言。汝等云何於空相虛妄諸法中而生邪見。如是須菩提。菩薩摩訶薩住大慈心為眾生說法。須菩提。是為諸菩薩希有難及法。 復た次ぎに、須菩提、我れは、仏眼を以って、十方の世界を観て、恒河沙に等しきが如き国土中を見るに、諸の梵天、邪見に著すれば、諸の菩薩摩訶薩は教えて、邪見を遠離せしめ、是の言を作す、『汝等は、云何が、空相の虚妄の諸法中に於いて、邪見を生ずるや』、と。是の如く、須菩提、菩薩摩訶薩は、大慈心に住して、衆生の為めに法を説く。須菩提、是れを諸菩薩の希有にして、及び難き法と為す。
復た次ぎに、
須菩提!
わたしが、
『仏眼を用いて、十方の世界を観る!』と、
『恒河沙にも等しいほどの国土の諸の梵天』が、
『邪見』に、
『著する!』ので、
『諸の菩薩摩訶薩が教えて!』、
『邪見を遠離させようとして、こう言う!』のが、
『見える!』、――
お前達は、
何故、
『空相の虚妄の諸法』中に、
『邪見』を、
『生じるのか?』、と。
是のように、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』は、
『大慈心に住して!』、
『衆生の為め!』に、
『法』を、
『説くのであり!』、
須菩提!
是れが、
『諸菩薩』の、
『希有であり、及び難い!』、
『法なのである!』。
復次須菩提。我以佛眼觀十方世界如恒河沙等國土中諸菩薩摩訶薩。以四事攝取眾生。何等為四。布施愛語利益同事。 復た次ぎに、須菩提、我れは、仏眼を以って、十方の世界を観るに、恒河沙に等しきが如き、国土中の諸の菩薩摩訶薩は、四事を以って衆生を摂取す。何等をか四と為す。布施、愛語、利益、同事なり。
復た次ぎに、
須菩提!
わたしが、
『仏眼を用いて、十方の世界を観る!』と、
『恒河沙に等しいほどの国土』中の、
『諸の菩薩摩訶薩』は、
『四事を用いて!』、
『衆生を摂取している( to draw together the people )!』。
何のような、
『四事か?』、――
『布施( charitable offerings )と!』、
『愛語( loving words )と!』、
『利益( beneficial conduct )と!』、
『同事( equality of birth, rank or work )である!』。
  四事(しじ):菩薩が衆生を摂取する、四種の手段。『大智度論巻66下注:四摂法』参照。
云何菩薩以布施攝取眾生。須菩提。菩薩以二種施攝取眾生。財施法施。 云何が、菩薩は布施を以って衆生を摂取する。須菩提、菩薩は二種の施を以って、衆生を摂取す。財施、法施なり。
何のように、
『菩薩』は、
『布施を用いて!』、
『衆生』を、
『摂取するのか?』。
須菩提!
『菩薩』は、
『二種の施を用いて!』、
『衆生』を、
『摂取する!』。
謂わゆる、
『財施と!』、
『法施である!』。
何等財施攝取眾生。須菩提。菩薩摩訶薩以金銀琉璃頗梨真珠珂貝珊瑚等諸寶物。或以飲食衣服臥具房舍燈燭華香瓔珞。若男若女若牛羊象馬車乘。若以己身給施眾生。語眾生言。汝等若有所須各來取之。如取己物莫得疑難。 何等の財をか、施して衆生を摂取する。須菩提、菩薩摩訶薩は、金銀、琉璃、梁、真珠、珂貝、珊瑚等の諸の宝物を以って、或は飲食、衣服、臥具、房舎、灯燭、華香、瓔珞、若しは男、若しは女、若しは牛羊、象馬、車乗を以って、若しは己身を以って、衆生に給施し、衆生に語りて言わく、『汝等は、若し所須有らば、各来たりて之を取れ。己れの物を取るが如く、疑難を得ること莫れ』、と。
何のような、
『財を施して!』、
『衆生』を、
『摂取するのか?』。
須菩提!
『菩薩摩訶薩』は、
『金銀、琉璃、頗棃、真珠、珂貝、珊瑚等の諸の宝物や!』、
『飲食、衣服、臥具、房舎、灯燭、華香、瓔珞や!』、
『男や、女や、牛羊、象馬、車乗や!』、
『己れの身!』を、
『衆生』に、
『給施し!』、
『衆生に語って!』、こう言うのである、――
お前達に、
若し、
『所須が有れば( if you need )!』、
各、
之を、
『取りに来い!』。
譬えば、
『己れの物を取るように!』、
『疑難を得てはならない( do not have any doubt )!』、と。
  疑難(ぎなん):疑惑難解な( difficult )、疑惑難解の道理、或は問題( problem )。莫得疑難( no doubt, no problem )。
是菩薩施已教三歸依。歸依佛歸依法歸依僧。或教受五戒。或教一日戒。或教初禪。乃至教非有想非無想定。或教慈悲喜捨。或教念佛念法念僧念戒念捨念天。或教不淨觀。或教安那般那觀。或相或觸。或教四念處四正勤四如意足五根五力七覺分八聖道分空三昧無相無作三昧八背捨九次第定佛十力四無所畏四無礙智十八不共法大慈大悲三十二相八十隨形好。或教須陀洹果斯陀含果阿那含果阿羅漢果。或教辟支佛道。或教阿耨多羅三藐三菩提。 是の菩薩は施し已りて、三帰依の仏に帰依し、法に帰依し、僧に帰依するを教え、或は五戒を受くることを教え、或は一日戒を教え、或は初禅を教え、乃至非有想非無想定を教え、或は慈悲喜捨を教え、或は念仏、念法、念僧、念戒、念捨、念天を教え、或は不浄観を教え、或は安那般那観、或は相、或は触を教え、或は四念処、四正勤、四如意足、五根五力、七覚分、八聖道分、空三昧、無相、無作三昧、八背捨、九次第定、仏の十力、四無所畏、四無礙智、十八不共法、大慈大悲、三十二相、八十随形好を教え、或は須陀洹果、斯陀含果、阿那含果、阿羅漢果を教え、或は辟支仏道を教え、或は阿耨多羅三藐三菩提を教う。
是の、
『菩薩は施してから!』、
『三帰依を教えて!』、
『仏、法、僧に帰依させ!』、
或は、
『五戒を受けること!』を、
『教え!』、
或は、
『一日戒』を、
『教え!』、
或は、
『初禅、乃至非有想非無想定』を、
『教え!』、
或は、
『慈、悲、喜、捨』を、
『教え!』、
或は、
『念仏、念法、念僧、念戒、念捨、念天』を、
『教え!』、
或は、
『不浄観、安那般那観、相観、触観』を、
『教え!』、
或は、
『四念処、四正勤、四如意足、五根五力、七覚分、八聖道分や!』、
『空、無相、無作三昧、八背捨、九次第定や!』、
『仏の十力、乃至大慈大悲、三十二相、八十随形好や!』、
『須陀洹果、乃至阿羅漢果、辟支仏道』を、
『教え!』、
或は、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『教える!』。
  安那般那(あんなぱんな):梵語 aana-apaana の訳、数息と訳す。出入する息を数えて心に定を得ること。『大智度論巻17下注:数息観』参照。
  参考:『大般若経巻380』:『是菩薩摩訶薩施諸有情所須物已。復勸歸依佛法僧寶。或勸受持近事五戒。或勸受持近住八戒。或勸受持十善業道。或勸修行初靜慮。或勸修行第二第三第四靜慮。或勸修行慈無量。或勸修行悲喜捨無量。或勸修行空無邊處定。或勸修行識無邊處無所有處非想非非想處定。或勸修行佛隨念。或勸修行法隨念僧隨念戒隨念捨隨念天隨念。或勸修行不淨觀。或勸修行持息念。或勸修行無常想。或勸修行無常苦想苦無我想不淨想厭食想一切世間不可樂想死想斷想離想滅想。或勸修行四念住。或勸修行四正斷四神足五根五力七等覺支八聖道支。或勸修行空三摩地。或勸修行無相無願三摩地。或勸修行空解脫門。或勸修行無相無願解脫門。或勸修行八解脫。或勸修行八勝處九次第定十遍處。或勸修行布施波羅蜜多。或勸修行淨戒安忍精進靜慮般若方便善巧願力智波羅蜜多。或勸安住苦聖諦。或勸安住集滅道聖諦。或勸安住內空。或勸安住外空內外空空空大空勝義空有為空無為空畢竟空無際空散空無變異空本性空自相空共相空一切法空不可得空無性空自性空無性自性空。或勸安住真如。或勸安住法界法性不虛妄性不變異性平等性離生性法定法住實際虛空界不思議界。或勸修行一切陀羅尼門。或勸修行一切三摩地門。或勸修行極喜地。或勸修行離垢地發光地焰慧地極難勝地現前地遠行地不動地善慧地法雲地。或勸修行五眼。或勸修行六神通。或勸修行如來十力。或勸修行四無所畏四無礙解十八佛不共法。或勸修行大慈。或勸修行大悲大喜大捨。或勸修行無忘失法。或勸修行恒住捨性。或勸修行一切智。或勸修行道相智一切相智。或勸修行三十二大士相。或勸修行八十隨好。或勸修行預流果。或勸修行一來不還阿羅漢果獨覺菩提。或勸修行一切菩薩摩訶薩行。或勸修行諸佛無上正等菩提。如是善現。諸菩薩摩訶薩行深般若波羅蜜多方便善巧。於諸有情行財施已。復善安立諸有情類。令住無上安隱法中。乃至令得一切智智。善現。是為菩薩摩訶薩行深般若波羅蜜多所有甚奇希有之法』
如是須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。以方便力教眾生財施已後。教令得無上安隱涅槃。須菩提。是名菩薩摩訶薩希有難及法。 是の如く、須菩提、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行じて、方便力を以って、衆生に財施を教え已りて、後に教えて、無上安隠の涅槃を得しむ。須菩提、是れを菩薩摩訶薩の希有にして、及び難き法と名づく。
是のように、
須菩提!
『菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行じて!』、
『方便力を用いながら!』、
『衆生』に、
『財施』を、
『教えた!』後、
『教えて!』、
『無上安隠の涅槃』を、
『得させるので!』、
須菩提!
是れを、
『菩薩摩訶薩』の、
『希有にして、及び難い法』と、
『称するのである!』。
須菩提。菩薩云何以法施攝取眾生。須菩提。法施有二種。一者世間。二者出世間。何等為世間法施。敷演顯示世間法。所謂不淨觀安那般那念四禪四無量心四無色定。如是等世間法。及諸餘共凡夫所行法是名世間法施。 須菩提、菩薩は、云何が、法施を以って、衆生を摂取する。須菩提、法施には二種有りて、一には世間、二には出世間なり。何等をか、世間の法施と為す。世間法、謂わゆる不浄観、安那般那、四禅、四無量心、四無色定を念ずることを、是れ等の如き世間法、及び諸余の凡夫と共にする所行の法を敷演して、顕示すれば、是れを世間の法施と名づく。
須菩提!
『菩薩』は、
何のように、
『法施を用いて!』、
『衆生』を、
『摂取するのか?』。
須菩提!
『法施には、二種有り!』、
一には、
『世間』の、
『法施であり!』、
二には、
『出世間』の、
『法施である!』。
何のようなものが、
『世間の法施なのか?』、
『世間の法』とは、
謂わゆる、
『不浄観や、安那般那や!』、
『四禅、四無量心、四無色定を念じることであり!』、
是れ等のような、
『世間法や、凡夫と共に行う法』を、
『敷演して( to expatiate )!』、
『顕示する( and manifest )!』こと、
是れを、
『世間の法施』と、
『称する!』。
是菩薩如是世間法施已。以種種因緣教化令遠離世間法。遠離世間法已。以方便力令得聖無漏法及聖無漏法果。何等是聖無漏法。何等是聖無漏法果。聖無漏法者。三十七助道法三解脫門。聖無漏法果者。須陀洹果乃至阿羅漢果辟支佛道阿耨多羅三藐三菩提。 是の菩薩は、是の如き世間法を施し已りて、種種の因縁を以って、教化し、世間法を遠離せしめ、世間法を遠離し已れば、方便力を以って、聖の無漏法、及び聖の無漏法の果を得しむ。何等か、是れ聖の無漏法なる。何等か、是れ聖の無漏法の果なる。聖の無漏法とは、三十七助道法と三解脱門なり。聖の無漏法の果とは、須陀洹果、乃至阿羅漢果、辟支仏道、阿耨多羅三藐三菩提なり。
是の、
『菩薩』は、
是のように、
『世間法を施したならば!』、
種種の、
『因縁を用いて!』、
『衆生を教化し!』、
『世間法』を、
『遠離させ!』、
『世間法を遠離したならば!』、
『方便力を用いて!』、
『聖無漏法と、聖無漏法の果』を、
『得させる!』。
何のようなものが、
『聖なる!』、
『無漏法であり!』、
『無漏法の果なのか?』。
『聖無漏法』とは、
『三十七の助道法』と、
『三解脱門であり!』、
『聖無漏法の果』とは、
『須陀洹果、乃至阿羅漢果、辟支仏道や!』、
『阿耨多羅三藐三菩提である!』。
復次須菩提。菩薩摩訶薩聖無漏法。須陀洹果中智慧。乃至阿羅漢果中智慧。辟支佛道中智慧。三十七助道法中智慧。六波羅蜜中智慧。乃至大慈大悲中智慧。如是等一切法若世間若出世間智慧。若有漏若無漏若有為若無為是法中一切種智。是名菩薩摩訶薩聖無漏法。 復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩の聖無漏法とは、須陀洹果中の智慧、乃至阿羅漢果中の智慧、辟支仏道中の智慧、三十七助道法中の智慧、六波羅蜜中の智慧、乃至大慈大悲中の智慧にして、是れ等の如き一切法の若しは世間、若しは出世間の智慧と、若しは有漏、若しは無漏、若しは有為、若しは無為の是の法中の一切種の智、是れを菩薩摩訶薩の聖無漏法と名づく。
復た次ぎに、
須菩提!
『菩薩摩訶薩の聖無漏法』とは、
『須陀洹果、乃至阿羅漢果、辟支仏道中の智慧や!』、
『三十七の助道法、六波羅蜜、乃至大慈大悲中の智慧であり!』、
是れ等のような、
『一切の法』の、
『世間や、出世間』の、
『智慧』と、
『有漏法や、無漏法や、有為法や、無為法』の、
是の、
『法』中の、
『一切種』の、
『智であり!』、
是れを、
『菩薩摩訶薩の聖無漏法』と、
『称するのである!』。
何等為聖無漏法果。斷一切煩惱習。是名聖無漏法果。須菩提白佛言。世尊。菩薩摩訶薩得一切種智不。佛言。如是如是。須菩提。菩薩摩訶薩得一切種智。 何等をか、聖無漏法の果と為す。一切の煩悩の習を断ずれば、是れを聖無漏法の果と名づく。須菩提の仏に白して言さく、『世尊、菩薩摩訶薩は一切種智を得や、不や』、と。仏の言わく、『是の如し、是の如し、須菩提、菩薩摩訶薩は一切種智を得るなり』、と。
何のようなものが、
『聖無漏法の果なのか?』、――
『一切の煩悩の習』を、
『断じれば!』、
是れを、
『聖無漏法の果』と、
『称する!』。
『須菩提』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
『菩薩摩訶薩』は、
『一切種智』を、
『得るのですか?』、と。
『仏』は、こう言われた、――
その通りだ!
その通りだ!
須菩提!
『菩薩摩訶薩』は、
『一切種智』を、
『得るのである!』、と。
須菩提言。菩薩與佛有何等異。佛言。有異。菩薩摩訶薩得一切種智。是名為佛。所以者何。菩薩心與佛心無有異。菩薩住是一切種智中。於一切法無不照明。是名菩薩摩訶薩世間法施。 須菩提の言わく、『菩薩は仏と何等の異か有る』、と。仏の言わく、『異有り。菩薩摩訶薩にして、一切種智を得れば、是れを名づけて、仏と為す。所以は何んとなれば、菩薩の心は仏の心と異有ること無ければなり。菩薩は、是の一切種智中に住すれば、一切法を照明せざる無し。是れを菩薩摩訶薩の世間の法施と名づく。
『須菩提』は、こう言った、――
『菩薩と仏と!』は、
何のような、
『異』が、
『有るのですか?』。
『仏』は、こう言われた、――
『異は有り!』、
『菩薩摩訶薩が、一切種智を得れば!』、
是れを、
『仏』と、
『称するのである!』。
何故ならば、
『菩薩の心と仏の心と!』には、
『異』が、
『無いからである!』。
『菩薩』が、
是の、
『一切種智中に住すれば!』、
『一切の法』は、
『照明されないということ!』が、
『無い!』ので、
是れを、
『菩薩摩訶薩』の、
『世間の法施』と、
『称するのである!』。
須菩提。菩薩摩訶薩因世間法施得出世間法施。如是須菩提。菩薩摩訶薩教眾生令得世間法已。以方便力教令得出世間法。 須菩提、菩薩摩訶薩は世間の法施に因って、出世間の法施を得。是の如く、須菩提、菩薩摩訶薩は衆生に教えて、世間法を得しめ已りて、方便力を以って、教えて出世間法を得しむ。
須菩提!
『菩薩摩訶薩』は、
『世間法を施すことに因って!』、
『出世間の法を!』、
『施すことができるのである!』。
是のように、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』は、
『衆生に教えて!』、
『世間の法』を、
『得させてから!』、
『方便力を用いて、教えながら!』、
『出世間の法』を、
『得させるのである!』。
須菩提。何等是菩薩出世間法。不共凡夫法同。所謂四念處四正勤四如意足五根五力七覺分八聖道分三解脫門八背捨九次第定佛十力四無所畏四無礙智十八不共法三十二相八十隨形好五百陀羅尼門。是名出世間法。 須菩提、何等か、是れ菩薩の出世間の法にして、凡夫法と共に同じうせざる。謂わゆる四念処、四正勤、四如意足、五根五力、七覚分、八聖道分、三解脱門、八背捨、九次第定、仏の十力、四無所畏、四無礙智、十八不共法、三十二相、八十随形好、五百陀羅尼門にして、是れを出世間の法と名づく。
須菩提!
何のようなものが、
『菩薩の出世間法であり!』、
『凡夫の法』と、
『共に同じくしない( be incompatible )のか?』。
謂わゆる、
『四念処乃至八聖道分、三解脱門、八背捨、九次第定や!』、
『仏の十力、乃至十八不共法、三十二相、八十随形好、五百陀羅尼門であり!』、
是れを、
『出世間の法』と、
『称するのである!』。
  参考:『大般若経巻380』:『善現。何等名為出世聖法。諸菩薩摩訶薩為諸有情。宣說開示分別顯了。說名法施。善現。一切不共異生善法。若正修習令諸有情超出世間安隱而住。故名出世。謂四念住四正斷四神足五根五力七等覺支八聖道支。三解脫門。八解脫。九次第定。四聖諦智。波羅蜜多諸空等智。菩薩十地。五眼六神通。如來十力四無所畏四無礙解十八佛不共法大慈大悲大喜大捨。三十二大士相。八十隨好。一切陀羅尼門一切三摩地門。諸如是等無漏善法一切皆名出世聖法。』
須菩提。云何為四念處。菩薩摩訶薩觀內身循身觀。觀外身循身觀。觀內外身循身觀。勤精進以一心智慧觀身觀身集因緣觀身滅。觀身集生滅。行是道無所依。於世間無所愛。受心法念處亦如是。 須菩提、云何が、四念処と為す。菩薩摩訶薩は内身を観るに、身を循(めぐ)りて観、外身を観るに、身を循りて観、内外身を観るに、身を循りて観、精進を勤めて、一心、智慧を以って身を観、身の集る因縁を身、身の滅するを身、身の生滅を集むるを身、是の道を行ずるも、所依無く、世間に於いて所愛無し。受、心、法念処も亦た是の如し。
須菩提!
『四念処』とは、何か?――
『菩薩摩訶薩』が、
『内身を観る!』には、
『身を循って( touring his body )!』、
『観!』、
『外身を観る!』には、
『身を循って!』、
『観!』、
『内外身を観る!』には、
『身を循って!』、
『観!』、
『精進を勤めながら!』、
『一心と智慧とを用いて!』、
『身や、身の集る因縁や、身の滅する因縁や、身の集める生滅』を、
『観るのであり!』、
是の、
『道を行じながら!』、
『依る!』所が、
『無く!』、
『世間に慈を行じながら!』、
『愛する!』所が、
『無い!』。
亦た、
『受、心、法念処』も、
『是の通りである!』。
  (じゅん):沿って( along )、従う/依る( according to )、巡視する( tour )。
  参考:『大般若経巻380』:『善現。云何名四念住。善現。謂於內身住循身觀。於外身住循身觀。於內外身住循身觀。具足正勤正知正念除世貪憂。住身集觀。住身滅觀。由彼於身住循身觀。住身集觀。住身滅觀。無所依止。於諸世間無所執受。是為第一。於內受住循受觀。於外受住循受觀。於內外受住循受觀。具足正勤正知正念除世貪憂。住受集觀。住受滅觀。由彼於受住循受觀。住受集觀。住受滅觀。無所依止。於諸世間無所執受。是為第二。於內心住循心觀。於外心住循心觀。於內外心住循心觀。具足正勤正知正念除世貪憂。住心集觀。住心滅觀。由彼於心住循心觀。住心集觀。住心滅觀。無所依止。於諸世間無所執受。是為第三。於內法住循法觀。於外法住循法觀。於內外法住循法觀。具足正勤正知正念除世貪憂。住法集觀。住法滅觀。由彼於法住循法觀。住法集觀。住法滅觀。無所依止。於諸世間無所執受。是為第四。善現。是名四念住。』
須菩提。云何為四正勤。未生惡不善法為不生故。勤生欲精進。已生惡不善法為斷故。勤生欲精進。未生善法為生故。勤生欲精進。已生諸善法為增長修具足故。勤生欲精進。是名四正勤。 須菩提、云何が四正勤と為す。未生の悪、不善法を生ぜざらしめんが為めの故に、勤めて欲を生じて精進し、已生の悪、不善法を断ぜんが為めの故に、勤めて欲を生じて精進し、未生の善法を生ぜしめんが為めの故に、勤めて欲を生じて精進し、已生の諸の善法を増長せしめ、修めて具足せしめんが為めの故に、勤めて欲を生じて精進す。是れを四正勤と名づく。
須菩提!
『四正勤』とは、何か?――
『未生の悪、不善法を生じさせない為め!』の故に、
『勤めて、欲を生じて!』、
『精進し!』、
『已生の悪、不善法を断じさせる為め!』の故に、
『勤めて、欲を生じて!』、
『精進し!』、
『未生の善法を生じさせる為め!』の故に、
『勤めて、欲を生じて!』、
『精進し!』、
『已生の諸善法を増長させ、修めて具足する為め!』の故に、
『勤めて、欲を生じて!』、
『精進する!』、
是れを、
『四正勤』と、
『称するのである!』。
  参考:『大般若経巻380』:『善現。云何名四正斷。善現。為令未生惡不善法不生故。起欲發勤精進策心持心。是為第一。為令已生惡不善法斷故。起欲發勤精進策心持心。是為第二。為令未生善法生故。起欲發勤精進策心持心。是為第三。為令已生善法堅住不忘修滿倍增廣大智作證故。起欲發勤精進策心持心。是為第四。善現。是名四正斷。』
須菩提。云何為四如意足。欲三昧斷行成就初如意足。精進三昧心三昧思惟三昧斷行成就如意足。 須菩提、云何が、四如意足と為す。欲三昧の断、行成就すれば、初の如意足なり。精進三昧、心三昧、思惟三昧の断、行成就すれば、如意足なり。
須菩提!
『四如意足』とは、何か?――
『欲三昧( the concentrated mind with desire )』の、
『断、行( abanadoning and practicing )が成就すれば!』、
是れが、
『初の如意足(欲如意足)であり!』、
『精進三昧( the concentrated mind with effort )』の、
『断、行が成就すれば!』、
是れが、
『第二の如意足(精進如意足)であり!』、
『心三昧( the concentrated mind with thought )』の、
『断、行が成就すれば!』、
是れが、
『第三の如意足(念如意足)であり!』、
『思惟三昧( the concentrated mind with profound thought )』の、
『断、行が成就すれば!』、
是れが、
『第四の如意足(慧如意足)である!』。
  四如意足(しにょいそく):四種の超越した力( four supernormal powers )。四神足とも云う。
  1. 欲如意足/欲神足:熱意の力( the power of zeal )、梵語 chand- Rddhi- paada の訳、三昧を得る為めの欲望( the desire to gain excellent meditation )、
  2. 精進如意足/勤神足:努力の力( the power of effort )、梵語 viirya- Rddhi- paada の訳、三昧を得る為めの努力( the effort to gain excellent meditation )、
  3. 念如意足/心神足:集中する力( the power of concentration )、梵語 citta- Rddhi- paada の訳、思念の制御を獲得すること( the gaining of control over thoughts )、
  4. 慧如意足/観神足:智慧の力( the power of wisdom )、梵語 miimaaMsa- Rddhi- paada の訳、分析的三昧の良好な機能( the good function of analytical meditation )。
  参考:『大般若経巻380』:『善現。云何名四神足。善現。欲三摩地。斷行成就。修習神足。依止厭依止離依止滅。迴向於捨。是為第一。勤三摩地。斷行成就。修習神足。依止厭依止離依止滅。迴向於捨。是為第二。心三摩地。斷行成就。修習神足。依止厭依止離依止滅。迴向於捨。是為第三。觀三摩地。斷行成就。修習神足。依止厭依止離依止滅。迴向於捨。是為第四。善現。是名四神足。』
云何為五根。信根精進根念根定根慧根。云何為五力。信力精進力念力定力慧力。云何為七覺分。念覺分擇法覺分精進覺分喜覺分除息覺分定覺分捨覺分。云何為八聖道分。正見正思惟正語正業正命正精進正念正定。 云何が、五根と為す、信根、精進根、念根、定根、慧根なり。云何が、五力と為す、信力、精進力、念力、定力、慧力なり。云何が、七覚分と為す、念覚分、択法覚分、精進覚分、喜覚分、除息覚分、定覚分、捨覚分なり。云何が、八聖道分と為す、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定なり。
『五根』とは、何か?――
『信、精進、念、定、慧という!』、
『根( roots )である!』。
『五力』とは、何か?
『信、精進、念、定、慧という!』、
『力( powers )である!』。
『七覚分』とは、何か?
『念、択法、精進、喜、除息(軽安)、定、捨という!』、
『覚分( factors of enlightenment )である!』。
『八聖道分』とは、何か?
『正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定という!』、
『聖道分( factors of right behaviour )である!』。
  七覚分(しちかくぶん):梵語 sapta-bdhy-aGgaani の訳、菩提の七種の要素( the seven factors of enlightenment )の義、即ち、
  1. 念覚分:梵語 smRti-saMbodyaGga の訳、記憶( the remembrance-factor )
  2. 択法覚分:梵語 dharma-pravicaya-s.a. の訳、選択( the evaluation-factor )
  3. 精進覚分:梵語 viirya-s.a. の訳、精進( the effort-factor )
  4. 喜覚分:梵語 priiti-s.a. a の訳、歓喜( the rejoicing-factor )
  5. 軽安覚分:梵語 prazrabdhi-s.a. の訳、柔軟/信頼( the reliance-factor )
  6. 定覚分:梵語 samaadhi-s.a. の訳、集中力( the concentration-factor )
  7. 捨覚分:梵語 upekSaa-s.a. a の訳、無視( the disregard-factor )。
  参考:『大般若経巻380』:『善現。云何名五根。善現。信根精進根念根定根慧根。善現。是名五根。善現。云何名五力。善現。信力精進力念力定力慧力。善現。是名五力。善現。云何名七等覺支。善現。念等覺支擇法等覺支精進等覺支喜等覺支輕安等覺支定等覺支捨等覺支。善現。是名七等覺支。善現。云何名八聖道支。善現。正見正思惟正語正業正命正精進正念正定。善現。是名八聖道支。』
云何為三三昧。空三昧門無相無作三昧門。云何為空三昧。以空行無我行攝心是名空三昧。云何為無相三昧。以寂滅行離行攝心是為無相三昧。云何為無作三昧。無常行苦行攝心是為無作三昧。 云何が、三三昧と為す、空三昧、無相、無作三昧なり。云何が、空三昧と為す、空行、無我行を以って、心を摂すれば、是れを空三昧と名づく。云何が、無相三昧と為す、寂滅行、離行を以って、心を摂すれば、是れを無相三昧と為す。云何が、無作三昧と為す、無常行、苦行もて、心を摂すれば、是れを無作三昧と為す。
『三三昧』とは、何か?――
『空三昧、無相三昧、無作三昧である!』。
『空三昧』とは、何か?――
『空行、無我行を用いて
thinking that they are empty and selfless )!』、
『心』を、
『摂すれば!』、
是れを、
『空三昧』と、
『称する!』。
『無相三昧』とは、何か?――
『寂滅行、離行を用いて
thinking that they are tranquil and markless )!』、
『心』を、
『摂すれば!』、
是れが、
『無相三昧である!』。
『無作三昧』とは、何か?――
『無常行、苦行を用いて
thinking that they are impermanent and suffering )!』、
『心』を、
『摂すれば!』、
是れが、
『無作三昧である!』。
  参考:『大般若経巻380』:『善現。云何名三解脫門。善現。空解脫門無相解脫門無願解脫門。善現。是名三解脫門。善現。云何名空解脫門。善現。若空行相無我行相虛偽行相無自性行相心一境性。善現。是名空解脫門。善現。云何名無相解脫門。善現。若滅行相寂靜行相遠離行相心一境性。善現。是名無相解脫門。善現。云何名無願解脫門。善現。若苦行相無常行相顛倒行相心一境性。善現。是名無願解脫門。』
云何為八背捨。內色相外觀色是初背捨。內無色相外觀色。是二背捨。淨背捨是三背捨。過一切色相滅一切對相。不念一切異相故。觀無邊虛空入無邊空處。乃至過一切非有想非無想處。入滅受想背捨是名八背捨。 云何が、八背捨と為す、内の色相もて、外に色を観ずれば、是れ初の背捨なり。内に色相無く、外に色を観ずれば、是れ二背捨なり。浄なる背捨は、是れ三背捨なり。一切の色相を過ぎて、一切の対相を滅すれば、一切の異相を念ぜざるが故に、無辺の虚空を観じて、無辺空処に入り、乃至一切の非有相非無想処を過ぎて、滅受想に入る背捨は、是れを八背捨と名づく。
『八背捨』とは、何か?――
『内の色相』で、
『外に!』、
『色』を、
『観れば!』、
是れが、
『初の背捨である!』。
『内に色相無く!』、
『外に!』、
『色』を、
『観れば!』、
是れが、
『第二の背捨である!』。
『浄( the status of freedom from all desire )を用いて!』、
『背捨すれば( to gain liberation )!』、
是れが、
『第三の背捨である!』。
『一切の色相を過ぎ、一切の対相を滅して!』、
『一切の異相を念じない
do not think all deffarentiated marks )!』が故に、
『無辺の虚空を観て、
observing endless emptiness in all things )!』
『無辺空処』に、
『入る!』、
乃至、
『一切の非有相非無想処を過ぎて!』、
『滅受想に入るまで!』の、
『背捨!』、
是れを、
『八背捨』と、
『称する!』。
  参考:『大般若経巻380』:『善現。云何名八解脫。善現。有色觀諸色。是為第一解脫。內無色想觀外諸色。是為第二解脫。淨勝解身作證。是為第三解脫。超一切色想。滅有對想。不思惟種種想。入無邊空空無邊處定具足住。是為第四解脫。超一切空無邊處。入無邊識識無邊處定具足住。是為第五解脫。超一切識無邊處。入無少所有無所有處定具足住。是為第六解脫。超一切無所有處。入非想非非想處定具足住。是為第七解脫。超一切非想非非想處。入想受滅定具足住。是為第八解脫。善現。是名八解脫。』
云何九次第定。行者離欲惡不善法。有覺有觀離生喜樂入初禪。第二第三第四禪。乃至過非有想非無想處入滅受想定。是名九次第定。 云何が、九次第定なる。行者は、欲、悪、不善法を離れ、有覚有観の離生喜楽なれば、初禅に入り、第二、第三、第四禅より、乃至非有想非無想処を過ぎて、滅受想定に入れば、是れを九次第定と名づく。
『九次第定』とは、何か?――
『行者』が、
『欲、悪、不善法を離れて!』、
『有覚有観、離生喜楽』の、
『初禅』に、
『入り!』、
次第に、
『第二、第三、第四禅』に、
『入り!』、
乃至、
『非有相非無想処を過ぎて!』、
『滅受想定』に、
『入れば!』、
是れを、
『九次第定』と、
『称する!』。
  参考:『大般若経巻380』:『善現。云何名為九次第定。善現。謂有一類。離欲惡不善法有尋有伺離生喜樂。初靜慮具足住。是為第一。復有一類。尋伺寂靜。內等淨心一趣性。無尋無伺定生喜樂。第二靜慮具足住。是為第二。復有一類。離喜住捨正念正知身受樂。唯諸聖者能說應捨具念樂住。第三靜慮具足住。是為第三。復有一類。斷樂斷苦先喜憂沒不苦不樂捨念清淨。第四靜慮具足住。是為第四。復有一類。超一切色想滅有對想不思惟種種想。入無邊空空無邊處定具足住。是為第五。復有一類。超一切空無邊處。入無邊識識無邊處定具足住。是為第六。復有一類。超一切識無邊處。入無少所有無所有處定具足住。是為第七。復有一類。超一切無所有處。入非想非非想處定具足住。是為第八。復有一類。超一切非想非非想處。入想受滅定具足住。是為第九。善現。是名九次第定。』
云何為佛十力。是處不是處如實知。知眾生過去未來現在諸業諸受法。知造業處。知因緣知報。諸禪定解脫三昧定垢淨分別相如實知。知他眾生諸根上下相。知他眾生種種欲解。知一切世間種種無數性知一切到道相。知種種宿命一世乃至無量劫。如實知。天眼見眾生乃至生善惡道。漏盡故無漏心解脫如實知。是為佛十力。 云何が、仏の十力と為す、是処、不是処を如実に知り、衆生の過去、未来、現在の諸業、諸受法を知り、造業の処を知り、因縁を知り、報を知り、諸の禅定、解脱、三昧、定の垢、浄の相を分別して、如実に知り、他の衆生の諸根の上、下相を知り、他の衆生の種種の欲と解とを知り、一切の世間の種種の無数の性を知り、一切に到る道の相を知り、種種の宿命を知り、一世、乃至無量劫を如実に知りて、天眼もて衆生の乃至善悪の道を生ずるを見、漏尽なるが故に無漏心の解脱するを、如実に知れば、是れを仏の十力と為す。
『仏の十力』とは、何か?――
『是処、不是処( the right place and the wrong place )』を、
『如実に!』、
『知り!』、
『衆生』の、
『過去、未来、現在の諸業、諸受法や、造業の処、因縁、果報』を、
『知り!』、
『諸の禅定、解脱、三昧、定』の、
『垢、浄の相を分別して!』、
『如実に知り!』、
『他の衆生』の、
『諸根の上、下の相』を、
『知り!』、
『他の衆生』の、
『種種の欲望と、解脱』を、
『知り!』、
『一切の世間( all worlds )』の、
『種種、無数の性』を、
『知り!』、
『一切に到る( leading every place )!』、
『道の相』を、
『知り!』、
『種種の宿命』を、
『一世、乃至無量劫まで!』、
『知り!』、
『如実に、衆生の宿命を知って!』、
『天眼』で、
『衆生と、乃至衆生の生じる善、悪の道』を、
『見!』、
『衆生の漏が尽きた!』が故に、
『無漏心が解脱する!』のを、
『如実に知る!』。
是れが、
『仏の十力である!』。
  参考:『大般若経巻380』:『善現。云何名為如來十力。善現。一切如來應正等覺。是處如實知是處。非處如實知非處。是為第一。一切如來應正等覺。於諸有情過去未來現在諸業及諸法受處因異熟皆如實知。是為第二。一切如來應正等覺。於諸世間非一界種種界皆如實知。是為第三。一切如來應正等覺。於諸世間非一勝解種種勝解皆如實知。是為第四。一切如來應正等覺。於諸有情補特伽羅諸根勝劣。皆如實知。是為第五。一切如來應正等覺。於一切遍趣行皆如實知。是為第六。一切如來應正等覺。於諸根力覺支道支靜慮解脫等持等至雜染清淨皆如實知。是為第七。一切如來應正等覺。以淨天眼超過於人。見諸有情死時生時諸善惡事。如是有情因身語意三種惡行。因諸邪見因謗賢聖。墮諸惡趣。如是有情因身語意三種妙行因諸正見。因讚賢聖。昇諸善趣生諸天中。復以天眼清淨過人。見諸有情死時生時好色惡色。從此復生善趣惡趣。於諸有情隨業勢力生善惡趣。皆如實知。是為第八。一切如來應正等覺。於諸有情過去無量諸宿住事。或一生或百生或千生或百千生。或一俱胝生。或百俱胝生。或千俱胝生。或百千俱胝那庾多生。或一劫。或百劫。或千劫。或百千劫。或一俱胝劫。或百俱胝劫。或百千俱胝劫。或百千俱胝那庾多劫。乃至前際所有諸行諸說諸相。皆如實知。是為第九。一切如來應正等覺。於諸漏盡無漏心解脫無漏慧解脫。皆如實知。於自漏盡真解脫法自證通慧具足而住如實覺受。我生已盡。梵行已立。所作已辦不受後有。是為第十。善現。是名如來十力』
云何為佛四無所畏。佛作誠言。我是一切正智人。若有沙門婆羅門若天若魔若梵若復餘眾。如實言是法不知。乃至不見是微畏相。以是故我得安隱得無所畏。安住聖主處。在大眾中師子吼能轉梵輪。諸沙門婆羅門若天若魔若梵若復餘眾實不能轉。一無畏也。 云何が、仏の四無所畏と為す、仏の誠言を作したまわく、『我れは、是れ一切正智の人なり。若し沙門、婆羅門、若しは天、若しは魔、若しは梵、若しは復た餘の衆有りて、如実に、是の法は知らざらんと言うも、乃至是に微なる畏相すら見せず。是の故に、我れは安隠を得て、無所畏を得、聖主の処に安住し、大衆中に在りて師子吼し、能く梵輪を転ずるも、諸の沙門、婆羅門、若しは天、若しは魔、若しは梵、若しは復た餘の衆は実に転ずる能わず』、と。一の無畏なり。
『仏の四無所畏』とは、何か?――
『仏』は、
『誠に( sincerely )!』、こう言われる、――
わたしは、
『一切正智の人である!』。
若し、
『沙門、婆羅門、天、魔、梵や、餘の衆が有り!』、
『如実』に、
『是の法は、知らないだろう!』と、
『言ったとしても!』、
乃至、
『微かな畏相すら( that I am afraid )!』、
『見せることはないだろう( they never see )!』。
是の故に、
わたしは、
『安隠を得て!』、
『無所畏を得!』、
『聖主の処』に、
『安住し!』、
『大衆中に、師子吼して!』、
『梵輪』を、
『転じられるのである!』が、
『諸の沙門、婆羅門、天、魔、梵、餘の衆』には、
『実に!』、
是の、
『梵輪』を、
『転じることはできないのである!』、と。
是れが、
『第一の無畏である!』。
  参考:『大般若経巻381』:『善現。云何名為四無所畏。善現。一切如來應正等覺。自稱我是正等覺者。設有沙門若婆羅門。若天魔梵若餘世間。依法立難或令憶念。佛於是法非正等覺。我於彼難正見無緣。以於彼難正見無緣。得安隱住無怖無畏。自稱我處大仙尊位。於大眾中正師子吼轉大梵輪。一切沙門若婆羅門。若天魔梵若餘世間。決定無能如法轉者。是為第一。一切如來應正等覺。自稱我已永盡諸漏。設有沙門若婆羅門。若天魔梵若餘世間。依法立難或令憶念。佛於是漏未得永盡。我於彼難正見無緣。以於彼難正見無緣。得安隱住無怖無畏。自稱我處大仙尊位。於大眾中正師子吼轉大梵輪。一切沙門若婆羅門。若天魔梵若餘世間。決定無能如法轉者。是為第二。一切如來應正等覺。自稱我為諸弟子眾。說能障法染必為障。設有沙門若婆羅門。若天魔梵若餘世間。依法立難或令憶念。有染此法不能為障。我於彼難正見無緣。以於彼難正見無緣。得安隱住無怖無畏。自稱我處大仙尊位。於大眾中正師子吼轉大梵輪。一切沙門若婆羅門。若天魔梵若餘世間。決定無能如法轉者。是為第三。一切如來應正等覺。自稱我為諸弟子眾。說出離道諸聖修習。決定出離決定通達。正盡眾苦作苦邊際。設有沙門若婆羅門。若天魔梵若餘世間。依法立難或令憶念。有修此道非正出離非正通達。非正盡苦非作苦邊。我於彼難正見無緣。以於彼難正見無緣。得安隱住無怖無畏。自稱我處大仙尊位。於大眾中正師子吼轉大梵輪。一切沙門若婆羅門。若天魔梵若餘世間。決定無能如法轉者。是為第四。善現。是名四無所畏』
佛作誠言。我一切漏盡。若有沙門婆羅門若天若魔若梵若復餘眾。如實言是漏不盡。乃至不見是微畏相。以是故我得安隱得無所畏。安住聖主處。在大眾中作師子吼能轉梵輪。諸沙門婆羅門若天若魔若梵若復餘眾實不能轉。二無畏也。 仏は誠言を作したまわく、『我れは一切の漏尽きたり。若し沙門、婆羅門、若しは天、若しは魔、若しは梵、若しは復た餘の衆有りて、如実に、是の漏は尽きざらん、と言うも、乃至是に微かな畏相すら見せず。是を以っての故に、我れは安隠を得て、無所畏を得、聖主の処に安住して、大衆中に在りて、師子吼を作し、能く梵輪を転ずるも、諸の沙門、婆羅門、若しは天、若しは魔、若しは梵、若しは復た餘の衆は、実に転ずる能わず』、と。二の無畏なり。
『仏』は、
『誠に!』、こう言われる、――
わたしは、
『一切の漏が尽きている!』。
若し、
『沙門、婆羅門、天、魔、梵や、餘の衆が有り!』、
『如実』に、
『是の漏は、尽きていないだろう!』と、
『言ったとしても!』、
乃至、
『微かな畏相すら!』、
『見せることはないだろう!』。
是の故に、
わたしは、
『安隠を得て!』、
『無所畏を得!』、
『聖主の処』に、
『安住し!』、
『大衆中に、師子吼して!』、
『梵輪』を、
『転じられるのである!』が、
『諸の沙門、婆羅門、天、魔、梵、餘の衆』には、
『実に!』、
是の、
『梵輪』を、
『転じることはできないのである!』、と。
是れが、
『第二の無畏である!』。
佛作誠言我說障法。若有沙門婆羅門若天若魔若梵若復餘眾。如實言受是法不障道。乃至不見是微畏相。以是故我得安隱得無所畏。安住聖主處。在大眾中師子吼能轉梵輪。諸沙門婆羅門若天若魔若梵若復餘眾實不能轉。三無畏也。 仏は誠言を作したまわく、『我れは、障法を説けり。若し沙門、婆羅門、若しは天、若しは魔、若しは梵、若しは復た餘の衆有りて、如実に、是の法を受くるも、道を障えざらん、と言うも、乃至是に微かな畏相すら見せず。是を以っての故に、我れは安隠を得て、無所畏を得、聖主の処に安住して、大衆中に在りて、師子吼を作し、能く梵輪を転ずるも、諸の沙門、婆羅門、若しは天、若しは魔、若しは梵、若しは復た餘の衆は、実に転ずる能わず』、と。三の無畏なり。
『仏』は、
『誠に!』、こう言われる、――
わたしは、
『障法( the obstacle-dharma )を、説いた!』。
若し、
『沙門、婆羅門、天、魔、梵や、餘の衆が有り!』、
『如実』に、
『是の法を受けても、道を障えないだろう!』と、
『言ったとしても!』、
乃至、
『微かな畏相すら!』、
『見せることはないだろう!』。
是の故に、
わたしは、
『安隠を得て!』、
『無所畏を得!』、
『聖主の処』に、
『安住し!』、
『大衆中に、師子吼して!』、
『梵輪』を、
『転じられるのである!』が、
『諸の沙門、婆羅門、天、魔、梵、餘の衆』には、
『実に!』、
是の、
『梵輪』を、
『転じることはできないのである!』、と。
是れが、
『第三の無畏である!』。
佛作誠言。我所說聖道能出世間。隨是行能盡苦。若有沙門婆羅門若天若魔若梵若復餘眾。如實言行是道不能出世間不能盡苦。乃至不見是微畏相。以是故我得安隱得無所畏。安住聖主處。在大眾中師子吼能轉梵輪。諸沙門婆羅門若天若魔若梵若復餘眾實不能轉。四無畏也。 仏は誠言を作したまわく、『我が所説の聖道は、能く世間を出でしめ、是の行に随えば、能く苦を尽さしむ。若し沙門、婆羅門、若しは天、若しは魔、若しは梵、若しは復た餘の衆有りて、如実に、是の道を行ずるも、世間を出づる能わず、苦を尽す能わず、と言うも、乃至是に微かな畏相すら見せず。是を以っての故に、我れは安隠を得て、無所畏を得、聖主の処に安住して、大衆中に在りて、師子吼を作し、能く梵輪を転ずるも、諸の沙門、婆羅門、若しは天、若しは魔、若しは梵、若しは復た餘の衆は、実に転ずる能わず』、と。四の無畏なり。
『仏』は、
『誠に!』、こう言われる、――
わたしの、
『所説の聖道』は、
『世間』を、
『出ることができ!』、
是の
『行に随えば!』、
『苦を尽すことができる!』。
若し、
『沙門、婆羅門、天、魔、梵や、餘の衆が有り!』、
『如実』に、
『是の道を行じても!』、
『世間を出られず、苦を尽すこともできない!』と、
『言ったとしても!』、
乃至、
『微かな畏相すら!』、
『見せることはないだろう!』。
是の故に、
わたしは、
『安隠を得て!』、
『無所畏を得!』、
『聖主の処』に、
『安住し!』、
『大衆中に、師子吼して!』、
『梵輪』を、
『転じられるのである!』が、
『諸の沙門、婆羅門、天、魔、梵、餘の衆』には、
『実に!』、
是の、
『梵輪』を、
『転じることはできないのである!』、と。
是れが、
『第四の無畏である!』。
云何為四無礙智。一者義無礙智。二者法無礙智。三者辭無礙智。四者樂說無礙智。云何為義無礙智。緣義智慧。是為義無礙智。云何為法無礙智。緣法智慧。是為法無礙智。云何為辭無礙智。緣辭智慧。是為辭無礙智。云何為樂說無礙智。緣樂說智慧。是為樂說無礙智。 云何が、四無礙智と為す、一には義無礙智、二には法無礙智、三には辞無礙智、四には楽説無礙智なり。云何が義無礙智と為す、義を縁ずる智慧、是れを義無礙智と為す。云何が法無礙智と為す、法を縁ずる智慧、是れを法無礙智と為す。云何が辞無礙智と為す、辞を縁ずる智慧、是れを辞無礙智と為す。云何が楽説無礙智と為す、楽説を縁ずる智慧、是れを楽説無礙智と為す。
『四無礙智』とは、何か?――
一には、
『義無礙智!』、
二には、
『法無礙智!』、
三には、
『辞無礙智!』、
四には、
『楽説無礙智である!』。
『義無礙智』とは、何か?――
『義を縁じる智慧( the wisdom to perceive meaning )!』、
是れが、
『義無礙智である!』。
『法無礙智』とは、何か?――
『法を縁じる智慧』、
是れが、
『法無礙智である!』。
『辞無礙智』とは、何か?――
『辞を縁じる智慧』、
是れが、
『辞無礙智である!』。
『楽説無礙智』とは、何か?――
『楽説を縁じる智慧』、
是れが、
『楽説無礙智である!』。
  参考:『大般若経巻381』:『善現。云何名為四無礙解。善現。義無礙解。法無礙解。詞無礙解。辯無礙解。善現。是名四無礙解。善現。云何義無礙解。謂緣義無礙智。善現。云何法無礙解。謂緣法無礙智。善現。云何詞無礙解。謂緣詞無礙智。善現。云何辯無礙解。謂緣辯無礙智。』
云何為十八不共法。一者諸佛身無失。二者口無失。三念無失。四無異想。五無不定心。六無不知已捨心。七欲無減。八精進無減。九念無減。十慧無減。十一解脫無減。十二解脫知見無減。十三一切身業隨智慧行。十四一切口業隨智慧行。十五一切意業隨智慧行。十六智慧知過去世無礙。十七智慧知未來世無礙。十八智慧知現在世無礙。 云何が、十八不共法と為す、一には諸仏は、身に失無く、二には口に失無く、三には念に失無く、四には異想無く、五には不定心無く、六には知り已らざるに、捨つる心無く、七には欲の減ずる無く、八には精進の減ずる無く、九には念の減ずる無く、十二は慧の減ずる無く、十一には解脱の減ずる無く、十二には解脱知見の減ずる無く、十三には一切の身業は、智慧に随うて行じ、十四には一切の口業は、智慧に随って行じ、十五には一切の意業は、智慧に随って行じ、十六には智慧は、過去世を知って礙無く、十七には智慧は、未来世を知って礙無く、十八には智慧は、現在世を知って礙無し。
『十八不共法』とは、何か?――
『諸仏』は、
一には、
『身( in the body )』に、
『失が無く( there is not any false )!』、
二には、
『口』に、
『失が無く!』、
三には、
『念( in the thought )』に、
『失が無く!』、
四には、
『異想( unequal or variational consciousness )』が、
『無く!』、
五には、
『不定心( uncontrolled mind )』が、
『無く!』、
六には、
『知らずに、捨てる心』が、
『無く!』、
七には、
『欲の減じること!』が、
『無く!』、
八には、
『精進の減じること!』が、
『無く!』、
九には、
『念の減じること!』が、
『無く!』、
十には、
『慧の減じること!』が、
『無く!』、
十一には、
『解脱の減じること!』が、
『無く!』、
十二には、
『解脱知見の減じること!』が、
『無く!』、
十三には、
『一切の身業』は、
『智慧に随って行じ!』、
十四には、
『一切の口業』は、
『智慧に随って行じ!』、
十五には、
『一切の意業』は、
『智慧に随って行じ!』、
十六には、
『過去世を知る智慧』には、
『礙が無く!』、
十七には、
『未来世を知る智慧』には、
『礙が無く!』、
十八には、
『現在世を知る智慧』には、
『礙が無い!』。
  異想(いそう):梵語 naanaatvasaMjJaa の訳( the variational consciousness )の義、衆生に対する不平等な意識( the consciousness of unequaity toward all beings )の意。
  参考:『大般若経巻381』:『善現。云何名為十八佛不共法。善現。一切如來應正等覺終無誤失。是為第一佛不共法。一切如來應正等覺無卒暴音。是為第二佛不共法。一切如來應正等覺無忘失念。是為第三佛不共法。一切如來應正等覺無不定心。是為第四佛不共法。一切如來應正等覺無種種想。是為第五佛不共法。一切如來應正等覺無不擇捨。是為第六佛不共法。一切如來應正等覺志欲無退。是為第七佛不共法。一切如來應正等覺精進無退。是為第八佛不共法。一切如來應正等覺憶念無退。是為第九佛不共法。一切如來應正等覺般若無退。是為第十佛不共法。一切如來應正等覺解脫無退。是第十一佛不共法。一切如來應正等覺解脫智見無退。是第十二佛不共法。一切如來應正等覺若智若見。於過去世無著無礙。是第十三佛不共法。一切如來應正等覺若智若見。於現在世無著無礙。是第十四佛不共法。一切如來應正等覺若智若見。於未來世無著無礙。是第十五佛不共法。一切如來應正等覺一切身業。智為前導隨智而轉。是第十六佛不共法。一切如來應正等覺一切語業。智為前導隨智而轉。是第十七佛不共法。一切如來應正等覺一切意業。智為前導隨智而轉。是第十八佛不共法。善現。是名十八佛不共法』
云何三十二相。一者足下安平立平如奩底。二者足下千輻輞輪輪相具足。三者手足指長勝於餘人。四者手足柔軟勝餘身分。五者足跟廣具足滿好。六者手足指合縵網勝於餘人。七者足趺高平好與跟相稱。八者伊泥延鹿腨腨纖好如伊泥延鹿王。 云何が三十二相なる、一には足下安平にして、平らなること奩底の如きに立ち、二には足下には、千輻輞輪の輪相具足し、三には手足の指長くして、餘人に勝り、四には手足の柔軟なること、餘の身分にも勝り、五には足跟は広く具足して、好もしく満ち、六には手足の指合して、縵網は餘人に勝り、七には足趺高平にして好もしきこと、跟と相称(かな)い、八には伊尼延鹿の腨腨は纖(ほそ)くして、好もしきこと伊尼延鹿王の如し。
『三十二相』とは、何か?――
一には、
『足下は安平であり!』、
『奩底( the bottom of a box )のように!』、
『平らに立ち!』、
二には、
『足下』には、
『千輻輞輪の輪相』が、
『具足し!』、
三には、
『手足の指が長く!』、
『餘人』に、
『勝り!』、
四には、
『手足は柔軟であり!』、
『餘の身分』に、
『勝り!』、
五には、
『足跟( the heel )は広く、具足して!』、
『満ちて!』、
『好もしく!』、
六には、
『手足の指は合しており!』、
『縵網』は、
『餘人に勝り!』、
七には、
『足趺( the instep )は高く、平らで!』、
『跟と相称って( being balanced with the heel )!』、
『好もしく!』、
八には、
『伊尼延鹿の腨腨( the deerlike legs )』は、
『纖く、好もしく( graceful and lovely )!』、
『伊尼延鹿の王のようである!』。
  (れん):鏡篋、箱( box )。
  (せん):はぎ/膞( leg, thigh, limb )。
  伊尼延(いにえん):梵語 eNa, eNii の音訳、鹿の類( a species of deer or antelope )。
  参考:『大般若経巻381』:『善現。云何如來應正等覺三十二大士相。善現。世尊足下有平滿相。妙善安住猶如奩底。地雖高下隨足所蹈皆悉坦然無不等觸。是為第一。世尊足下千輻輪文輞轂眾相無不圓滿。是為第二。世尊手足皆悉柔軟。如睹羅綿勝過一切。是為第三。世尊手足一一指間。猶如鴈王咸有鞔網。金色交絡文同綺畫。是為第四。世尊手足所有諸指。圓滿纖長甚可愛樂。是為第五。世尊足跟廣長圓滿。與趺相稱勝餘有情。是為第六。世尊足趺脩高充滿。柔軟妙好與跟相稱。是為第七。世尊雙腨漸次纖圓。如瑿泥邪仙鹿王腨。是為第八。世尊雙臂脩直傭圓。如象王鼻平立摩膝。是為第九。世尊陰相勢峰藏密。其猶龍馬亦如象王。是為第十。世尊毛孔各一毛生。柔潤紺青右旋宛轉。是第十一。世尊髮毛端皆上靡。右旋宛轉柔潤紺青。嚴金色身甚可愛樂。是第十二。世尊身皮細薄潤滑。塵垢水等皆所不住。是第十三。世尊身皮皆真金色。光潔晃曜如妙金臺。眾寶莊嚴眾所樂見。是第十四。世尊兩足二手掌中頸及雙肩七處充滿。是第十五。世尊肩項圓滿殊妙。是第十六。世尊髆腋悉皆充實。是第十七。世尊容儀圓滿端直。是第十八。世尊身相脩廣端嚴。是第十九。世尊體相縱廣量等。周匝圓滿如諾瞿陀。是第二十。世尊頷臆并身上半。威容廣大如師子王。是二十一。世尊常光面各一尋。是二十二。世尊齒相四十齊平。淨密根深白逾珂雪。是二十三。世尊四牙鮮白鋒利。是二十四。世尊常得味中上味。喉脈直故能引身中諸支節脈所有上味。風熱痰病不能為雜。由彼不雜脈離沈浮延縮壞損癰曲等過。能正吞咽津液通流故。身心適悅常得上味。是二十五。世尊舌相薄淨廣長。能覆面輪至耳髮際。是二十六。世尊梵音詞韻弘雅。隨眾多少無不等聞。其聲洪震猶如天鼓。發言婉約如頻迦音。是二十七。世尊眼睫猶若牛王。紺青齊整不相雜亂。是二十八。世尊眼睛紺青鮮白。紅環間飾皎潔分明。是二十九。世尊面輪其猶滿月。眉相皎淨如天帝弓。是第三十。世尊眉間有白毫相。右旋柔軟如睹羅綿。鮮白光淨逾珂雪等。是三十一。世尊頂上烏瑟膩沙高顯周圓。猶如天蓋。是三十二。善現。是名三十二大士相』
九者平住兩手摩膝。十者陰藏相如馬王象王。十一者身縱廣等如尼俱盧樹。十二者一一孔一毛生色青柔軟右旋。十三者毛上向青色柔軟右旋。十四者金色相其色微妙勝閻浮檀金。十五者身光面一丈。十六者皮薄細滑不受塵垢不停蚊蚋。 九には平らに住して、両手膝を摩で、十二は陰蔵相は馬王、象王の如く、十一には身の縦、広等しくして、尼倶盧樹の如く、十二には一一の孔より一毛生じ、色青く柔軟にして、右旋し、十三には毛は上を向き青色、柔軟にして、右旋し、十四には金色相は、其の色微妙にして閻浮檀金に勝り、十五には身光の面は一丈にして、十六には皮薄く、細滑にして塵垢を受けず、蚊蚋を停めず。
九には、
『平らに住して( standing without leaning )!』、
『両手』は、
『膝を摩で!』、
十には、
『陰蔵相』は、
『馬王や!』、
『象王のようであり!』、
十一には、
『身』は、
『縦、広等しく!』、
『尼倶盧樹のようであり!』、
十二には、
『一一の孔より、一毛生じて!』、
『青色、柔軟であり!』、
『右旋し!』、
十三には、
『毛は、上に向き!』、
『青色、柔軟であり!』、
『右旋し!』、
十四には、
『金色相の色は微妙であり!』、
『閻浮檀金』に、
『勝り!』、
十五には、
『身光の面( the surface of the body halo )』は、
『身より!』、
『一丈であり!』、
十六には、
『皮膚は薄く、細滑であり!』、
『塵垢を、受けず!』、
『蚊蚋を、停めない!』。
十七者七處滿兩足下兩手中兩肩上項中皆滿字相分明。十八者兩腋下滿。十九者上身如師子。二十者身廣端直。二十一者肩圓好。二十二者四十齒。二十三者齒白齊密而根深。二十四者四牙最白而大。 十七には七処満ちて、両足下、両手中、両肩上、項の中、皆満字の相分明にして、十八には両腋下満ち、十九には上身は師子の如く、二十には身広く、端直にして、二十一には肩円くして、好もしく、二十二には四十の歯あり、二十三には歯白く、斉しく、密にして、根深く、二十四には四牙は最も白くして、大なり。
十七には、
『七処が満ちて!』、
『両足下、両手中、両肩上、項中』が、
皆、
『満字の相』が、
『分明であり( very clear )!』、
十八には、
『両腋下』が、
『満ち!』、
十九には、
『上身』は、
『師子のようであり!』、
二十には、
『身』は、
『広く!』、
『端直であり( being straight )!』、
二十一には、
『肩』は、
『円く!』、
『好もしく!』、
二十二には、
『四十の歯があり!』、
二十三には、
『歯』は、
『白く斉(そろ)って、密であり!』、
『根が深く!』、
二十四には、
『四牙』は、
『最も白く!』、
『大きい!』。
二十五者方頰車如師子。二十六者味中得上味咽中二處津液流出。二十七者舌大軟薄能覆面至耳髮際。二十八者梵音深遠如迦蘭頻伽聲。二十九者眼色如金精。三十者眼睫如牛王。三十一者眉間白毫相軟白如兜羅綿。三十二者頂髻肉成。 二十五には方なる頰車は師子の如く、二十六には味中に上味を得て、咽中の二処より津液流出し、二十七には舌は、大、軟、薄にして、能く面を覆うて耳、髪の際に至り、二十八には梵音は深遠にして、迦蘭頻伽の声の如く、二十九には眼の色は金精の如く、三十には、眼の睫は牛王の如く、三十一には眉間の白毫相は軟白にして、兜羅綿の如く、三十二には頂には髻肉成ず。
二十五には、
『方形の頰車( the square cheek )』は、
『師子のようであり!』、
二十六には、
『味中に上味を得て( gaining a good taste in the foods )!』、
『咽中の二処』に、
『津液が流出すし!』、
二十七には、
『舌は大きく、軟かく、薄く!』、
『面を覆って!』、
『耳、髪の際に至り!』、
二十八には、
『梵音は深遠であり!』、
『迦蘭頻伽』の、
『声のようであり!』、
二十九には、
『眼の色』は、
『金精( the yellow crystal )のようであり!』、
三十には、
『眼の睫』は、
『牛王のようであり!』、
三十一には、
『眉間の白毫相』は、
『軟かく、白く!』、
『兜羅綿( the cotton fiber )のようであり!』、
三十二には、
『頂』には、
『肉髻』が、
『成じている!』。
是三十二相佛身成就。光明遍照三千大千世界。若欲廣照則遍滿十方無量阿僧祇世界。為眾生故受丈光。若放無量光明則無日月時節歲數。佛音聲遍滿三千大千世界。若欲大聲則遍滿十方無量阿僧祇世界。隨眾多少音聲遍至 是の三十二相の仏身成就して、光明遍く三千大千世界を照し、若し広く照さんと欲せば、則ち遍く十方の無量阿僧祇の世界に満ち、衆生の為めの故に丈光を受くるも、若し無量の光明を放てば、則ち日月、時節、歳数なし。仏の音声は遍く三千大千世界に満ち、若し大声ならんと欲すれば、則ち遍く十方の無量、阿僧祇の世界に満つるも、衆の多少に随いて、音声は遍く至る。
是の、
『三十二相』が、
『仏身』には、
『成就しており!』、
『光明』は、
『三千大千世界』を、
『遍く照し( to illumine throughout )!』、
若し、
『広く、照そうとすれば!』、
『十方の無量、阿僧祇の世界』に、
『遍く満ちるのである( to fulfill throughout )!』が、
『衆生の為め!』の故に、
『丈光』を、
『受けるのであり( to take )!』、
若し、
『無量の光明を放てば!』、
『日月、時節、歳数』は、
『無量である!』。
『仏の音声』は、
『三千大千世界』に、
『遍く満ち!』、
若し、
『大声にしようと思えば!』、
『十方の無量阿僧祇の世界』に、
『遍く満ちる!』が、
『衆の多、少に随って!』、
『音声』は、
『遍く至るのである!』。
  (じゅ):◯梵語 apaadaana の訳、受ける/抱え込む( incurring, taking upon one's self )の義。容認/受容する( to accept )の意。◯梵語 vedanaa の訳、感受/感覚( sensation, feeling )の義。◯梵語 pratigrah, pratigraha の訳、( to take hold of, grasp, seize )、所有する/着服する/受け取る/受け入れる( to take (as a present or into possession), appropriate, receive, accepte )、獲得する( to gain, win over )、[吉報や、吉兆のような]嬉しいことを受け取る( to receive (anything agreeable as a good word or omen) )、容認/承認する( to acquiesce in, approve )の義。◯梵語 phala の訳、結果/報い/帰結/[善、悪の]結果/得、失/賞、罰/利益、損失( consequence, effect, result, retribution (good or bad), gain or loss, reward or punishment, advantage or disadvantage )の義。



【論】布施を用いて衆生を摂取する

【論】問曰。上來已處處說諸法性空。云何分別有善不善。須菩提。何以從後已來。品品中義無異而作種種名問。 問うて曰く、上来、已に処処に、『諸法の性空なるに、云何が分別して、善、不善有らんや』、と説きたまえるに、須菩提は、何を以ってか、後より已来、品品中に義に異無くして、種種の名を作して、問える。
問い、
『上来』、
已に、処処に、
『諸法の性は空なのに、何故分別して、善や不善が有るのか?』と、
『説かれているのに!』、
『須菩提』は、
何故、
『説かれた後にも、品品中に!』、
『義には異が無い!』のに、
『種種の名を作して( mentioning various names )!』、
『問うたのか?』。
答曰。是事上已答。復次眾生從無始生死已來著心深難解故。須菩提復作是重問。復次是般若波羅蜜欲說是空義要故數問。 答えて曰く、是の事は上に已に答えたり。復た次ぎに、衆生は無始の生死より已来、著心深くして解き難きが故に、須菩提は、復た是の重ねて問うを作せり。復た次ぎに、是の般若波羅蜜は、是の空義の要を説かんと欲するが故に、数(しばしば)問えり。
答え、
是の、
『事』は、
『上に、已に答えた!』が、
復た次ぎに、
『衆生』は、
『無始の生死より!』已来、
『著心が、深く!』、
『解脱することが、難しい!』が故に、
『須菩提』は、
復た、
是の、
『重問』を、
『作したのである!』。
復た次ぎに、
是の、
『般若波羅蜜( mahaprajna-paramita-sutra )』は、
是の、
『空義の要を説こうとする!』が故に、
『数( many times )、問うのである!』。
復次佛在世時。眾生利根易悟。佛滅度五百年後。像法中眾生愛著佛法墮著法中。言若諸法皆空如夢如幻何以故有善不善。以是故須菩提憐愍未來眾生鈍根不解故重問世尊。若諸法皆空。云何分別有善不善等。 復た次ぎに、仏の在世の時、衆生は利根にして悟り易く、仏の滅度の五百年後の像法中には、衆生は仏法を愛著して、著法中に堕して言わく、『若し諸法にして皆空なること、夢の如く、幻の如くんば、何を以っての故にか、善、不善有る』、と。是を以っての故に、須菩提は未来の衆生の鈍根にして解せざるを憐愍するが故に重ねて問わく、『世尊、若し諸法にして、皆空なれば、云何が分別して、善、不善等有る』、と。
復た次ぎに、
『仏の在世』時の、
『衆生』は、
『利根であり!』、
『悟り易かった!』が、
『仏の滅度より、五百年後の像法』中の、
『衆生』は、
『仏法を愛著して!』、
『法に著する!』中に、
『堕ち!』、
こう言うようになった、――
若し、
『諸法が、皆空であり!』、
『夢か!』、
『幻のようならば!』、
何故、
『善や、不善』が、
『有るのか?』、と。
是の故に、
『須菩提』は、
『未来の衆生が、鈍根であり!』、
『空を解さない!』のを、
『憐愍して!』、
『重ねて!』、こう問うたのである、――
世尊!
若し、
『諸法』が、
『皆、空ならば!』、
何故、
『諸法を分別して!』、
『善や、不善が有るのですか?』、と。
此中佛自說因緣。凡夫顛倒心故。於法皆作顛倒異見。乃至不見一法是實。凡夫於夢中著夢得夢見夢者。亦著夢中所見事。是人若不信罪福起三種不善業。若信罪福起三種善業。 此の中に、仏の自ら因縁を説きたまわく、『凡夫は、顛倒心の故に、法に於いて、皆顛倒を作して、見を異にし、乃至一法すら、是の実を見ず。凡夫は、夢中に於いて、夢に著して、夢と夢を見る者を得、亦た夢中の所見の事に著すれば、是の人、若し罪福を信ぜざれば、三種の不善業を起し、若し、罪福を信ずれば、三種の善業を起せばなり』、と。
此の中に、
『仏』は、
自ら、
『因縁』を、こう説かれた、――
『凡夫』は、
『顛倒の心』の故に、
『法』に於いて、
『皆、顛倒を作して!』、
『見を、異にする!』ので、
乃至、
『一法すら!』、
是の、
『法の実』を、
『見ない!』。
『凡夫』は、
『夢』中に於いて、
『夢に著して!』、
『夢や、夢を見る!』者を、
『得!』、
亦た、
『夢』中の、
『所見の事にも!』、
『著する!』ので、
是の、
『人』は、
若し、
『罪、福を信じなければ!』、
『三種(身、口、意)の不善業』を、
『起し!』、
若し、
『罪、福を信じれば!』、
『三種の善業』を、
『起すからである!』、と。
  不動(ふどう):梵語 aaniJjyana の訳、不動性( immovableness )の義。
善不善不動。善名欲界中善法喜樂果報。不善名憂悲苦惱果報。不動名生色無色界因緣業。菩薩知是三種業皆是虛誑不實。住二空中為眾生說法。畢竟空破諸法。無始空破眾生相。住中道為眾生說法。所謂五眾十二入十八界。皆是空如夢如幻乃至如化。是法中無夢亦無見夢者。 善、不善、不動とは、善とは、欲界中の善法と、喜楽の果報と名づけ、不善を、憂悲と、苦悩の果報と名づけ、不動を、色、無色界に生ずる因縁の業と名づく。菩薩は、是の三種の業は、皆是れ虚誑、不実なるを知り、二空中に住して、衆生の為めに法を説き、畢竟空もて諸法を破り、無始空もて衆生相を破り、中道に住して、衆生の為めに法を説く。謂わゆる五衆、十二入、十八界は皆是れ空にして、夢の如く、幻の如く、乃至化の如し。是の法中には、夢無く、亦た夢を見る者も無し、と。
『善、不善、不動』とは、
『善』とは、
『欲界中の善法や!』、
『喜楽の果報であり!』、
『不善』とは、
『憂悲や!』、
『苦悩の果報であり!』、
『不動』は、
『色、無色界に生じる因縁』の、
『業である!』。
『菩薩』は、
是の、
『三種(善、不善、不動)の業』は、
『皆、虚誑であり不実である!』と、
『知り!』、
『二空中に住して!』、
『衆生の為め!』に、
『法』を、
『説き!』、
『畢竟空を用いて!』、
『諸法』を、
『破り!』、
『無始空を用いて!』、
『衆生の相』を、
『破り!』、
『(有、無)の中道に住して!』、
『衆生の為め!』に、
『法』を、
『説く!』、
謂わゆる、――
『五衆、十二入、十八界』は、
『皆、空であり!』、
『夢、幻、乃至化のようであり!』、
是の、
『法』中には、
『夢も、夢を見る者も無い!』、と。
菩薩語眾生。汝等於空法顛倒心故生諸著。如經中廣說。是菩薩方便力故。於顛倒中拔出眾生著破顛倒法中。 菩薩の衆生に語らく、『汝等は、空法に於いて、顛倒の心の故に、諸の著を生ず』、と。経中に広く説けるが如く、是の菩薩は方便の力の故に、顛倒中より抜き出すも、衆生は、顛倒を破る法中に著す。
『菩薩』は、
『衆生』に、こう語る、――
お前達は、
『顛倒心』の故に、
『空法』に於いて、
『諸の著』を、
『生じている!』、と
『経』中に、
『広く!』、
『説かれたように!』、――
是の、
『菩薩』が、
『方便の力』の故に、
『顛倒』中より、
『抜き出す!』と、
『衆生』は、
『顛倒を破る!』、
『法』中に、
『著することになる!』。
譬如慳貪是顛倒。以布施破慳貪法。而眾生著是布施故。為說布施果報無常實空。從布施拔出眾生令持戒。持戒及持戒果報中拔出眾生。語眾生言。天福盡時無常苦惱。拔出眾生令離欲行禪定。而為說禪定及果報虛誑不實能令人墮顛倒中。 譬えば、慳貪は是れ顛倒なれば、布施を以って、慳貪の法を破るに、衆生は、是の布施に著するが故に、為めに、『布施の果報は、無常にして実に空なり』、と説いて、布施より衆生を抜き出して、持戒せしめ、持戒、及び持戒の果報中より、衆生を抜き出し、衆生に語りて、『天の福の尽きる時、無常にして苦悩あり』、と言い、衆生を抜き出して、離欲せしめ、禅定を行ぜしめ、為めに、『禅定、及び果報は虚誑、不実にして、能く人をして、顛倒中に堕せしむ』、と説く。
譬えば、
『慳貪が顛倒である!』ので、
『布施を用いて!』、
『慳貪の法』を、
『破る!』と、
是の、
『布施』に、
『衆生が著する!』が故に、
『衆生の為め!』に、
『布施の果報』は、
『無常であり、実空である!』と、
『説き!』、
『衆生』を、
『布施より、抜き出して!』、
『持戒させ!』、
『持戒や、持戒の果報』中より、
『衆生』を、
『抜き出す!』が故に、
『衆生に語って!』、こう言い、――
『天の福も尽きる!』時には、
『無常であり、苦悩である!』、と。
『持戒と、持戒の果報より、衆生を抜き出す!』と、
『離欲、禅定』を、
『行わせる!』が、
『衆生の為め!』に、こう説くのである、――
『禅定や、果報は虚誑、不実であり!』、
『人』を、
『顛倒中に墜ちさせる!』、と。
種種因緣為說布施持戒禪定無常過失令住涅槃得涅槃方便。所謂四念處乃至十八不共法。令眾生住是法中。若布施持戒禪定是定實法。則不應令遠離。如布施持戒等破凡夫法。此則因顛倒而生。雖少時益眾生。久則變異能生苦惱故。亦教令捨離。 種種の因縁もて、為めに布施、持戒、禅定の無常にして、過失あるを説いて、涅槃に住せしめ、涅槃の方便、謂わゆる四念処、乃至十八不共法を得しめ、衆生をして、是の法中に住せしむ。若し布施、持戒、禅定は、是れ定実の法なれば、則ち応に遠離すべからず。布施、持戒等の如きは、凡夫法を破るも、此れ則ち顛倒に因って生ずれば、少時、衆生を益すと雖も、久しくすれば、則ち変異し、能く苦悩を生ずるが故に、亦た教えて捨離せしむ。
種種の、
『因縁を用いて!』、
『衆生の為め!』に、
『布施、持戒、禅定』は、
『無常であり、過失がある!』と、
『説いて!』、
『涅槃に住させ!』、
『涅槃の方便である、謂わゆる四念処、乃至十八不共法』を、
『得させ!』、
『衆生』を、
是の、
『法』中に、
『住させるのである!』が、
若し、
『布施、持戒、禅定』が、
『定実の法ならば!』、
『遠離させるべきではない!』が、
例えば、
『布施、持戒等は凡夫法を破る!』が、
此の、
『法』は、
『顛倒に因って!』、
『生じる!』ので、
『少時ならば!』、
『衆生』を、
『益する!』が、
『久しくすれば!』、
『変異して!』、
『苦悩を生じさせる!』が故に、
亦た、
『教えて!』、
『捨離させるのである!』。
菩薩方便力故先教眾生捨罪。稱讚持戒布施福德。次復為說持戒布施亦未免無常苦惱。然後為說諸法空。但稱讚實法。所謂無餘涅槃 菩薩は、方便の力の故に先に、衆生に教えて、罪を捨てしめ、持戒、布施の福徳を称讃し、次に復た為めに持戒、布施を説くも、亦た未だ無常の苦悩を免れざれば、然る後に為めに諸法の空を説き、但だ実法、謂わゆる無餘涅槃を称讃す。
『菩薩』は、
『方便の力』の故に、
先に、
『衆生に教えて!』、
『罪』を、
『捨てさせ!』、
『持戒や、布施』の、
『福徳』を、
『称讃する!』が、
次に復た、
『衆生の為め!』に、
『持戒や、布施』を、
『説いても!』、
未だ、
『無常の苦悩』を、
『免れない!』ので、
その後、
『衆生の為め!』に、
『諸法の空』を、
『於いて!』、
但だ、
『実法、謂わゆる無餘涅槃のみ!』を、
『称讃する!』。
是。時須菩提歡喜甚希有。菩薩能如是知是諸法實相。所謂畢竟空。而為眾生說法令至無餘涅槃。 是の時、須菩提の歓喜すらく、『甚だ希有なり。菩薩は、能く是の如く、此の諸法の実相、謂わゆる畢竟空を知り、而も衆生の為めに、法を説いて、無餘涅槃に至らしむ』、と。
是の時、
『須菩提は歓喜して!』、こう言った、――
甚だ希有です!
『菩薩』は、
是のように、
是の、
『諸法』の、
『実相、謂わゆる畢竟空』を、
『知りながら!』、
『衆生の為めに、法を説き!』、
『無餘涅槃』に、
『至らせることができるのです!』、と。
佛言。是一種希有問。欲更知菩薩希有法。一切聲聞辟支佛。不能報是菩薩。何況餘人。須菩提問。何等是更有希有法。佛答如經中說。 仏の言わく、『是れ一種の希有の問にして、更に菩薩の希有の法を知らんと欲するも、一切の声聞、辟支仏の報う能わざる、是れ菩薩なり。何に況んや、餘人をや』、と。須菩提の問わく、『何等か、是れ更に希有の法有る』、と。仏の答は、経中に説けるが如し。
『仏』は、こう言われた、――
是れは、
『一種の希有の問である!』。
更に、
『菩薩』の、
『希有の法』を、
『知ろうとしたのである!』が、
『一切の声聞、辟支仏』には、
是の、
『菩薩の希有の法』を、
『報えることができない!』、
是れが、
『菩薩なのである!』。
況して、
『餘人』に、
『報えられるわけがない!』、と。
『須菩提』は、こう問うた、――
更に有る、
『希有の法』とは、
『何のようなものですか?』、と。
『仏の答』は、
『経』中に、
『説かれた通りである!』。
問曰。經中教令布施持戒禪定。今復更說有何等異。 問うて曰く、経中に教えて、布施、持戒、禅定せしむるに、今、復た更に説けるは、何等の異か有る。
問い、
『経』中には、
『教えて!』、
『布施、持戒、禅定をさせている!』が、
今、復た、
『更に、説く!』のは、
何のような、
『異』が、
『有るからですか?』。
答曰。先說生身菩薩。今說變化身。先說一國土。今說無量世界。如是等差別。 答えて曰く、先には、生身の菩薩を説き、今は、変化身を説く。先には、一国土を説き、今は、無量の世界を説く。是れ等の如き差別あり。
答え、
先には、
『生身の菩薩』を、
『説いた!』ので
今は、
『変化身』を、
『説いた!』。
先には、
『一国土』を、
『説いた!』ので、
今は、
『無量の世界』を、
『説いた!』。
是れ等のような、
『差別が有る!』。
問曰。若菩薩知佛是福田眾生非福田。是非菩薩法。菩薩以何力故能令佛與畜生等。 問うて曰く、若し菩薩、『仏は是れ福田なるも、衆生は福田に非ず』、と知れば、是れ菩薩の法に非ざれば、菩薩は、何の力を以っての故に、能く仏をして、畜生と等しからしむ。
問い、
若し、
『菩薩』が、
『仏は福田であるが、衆生は福田でない!』と、
『知れば!』、
是れは、
『菩薩の法ではない!』とすれば、
『菩薩』は、
何のような、
『力を用いる!』が故に、
『仏』を、
『畜生と等しくさせられるのですか?』。
答曰。菩薩以般若波羅蜜力故。一切法中修畢竟空心。是故於一切法無分別。如畜生五眾十二入十八界和合生名為畜生。佛亦如是。從諸善法和合假名為佛。 答えて曰く、菩薩は、般若波羅蜜の力を以っての故に、一切法中に畢竟空の心を修め、是の故に、一切法に於いて分別無し。畜生の五衆、十二入、十八界の和合生を名づけて、畜生と為すが如く、仏も亦た是の如く、諸善法の和合に従りて、仮に名づけて仏と為す。
答え、
『菩薩』は、
『般若波羅蜜の力』の故に、
『一切法』中に、
『畢竟空の心』を、
『修め!』、
是の故に、
『一切法』に於いて、
『分別すること!』が、
『無い!』ので、
譬えば、
『畜生』が、
『五衆、十二入、十八界の和合生』を、
『畜生』と、
『称するように!』、
『仏』も、
是のように、
『諸善法が和合するに従って!』、
仮に、
『仏』と、
『称するのである!』。
若人憐愍眾生得無量福德。於佛著心起諸惡因緣得無量罪。是故知一切法畢竟空故。不輕畜生不著心貴佛。 若し人、衆生を憐愍して、無量の福徳を得るも、仏に於いて著心すれば、諸の悪因縁を起して、無量の罪を得。是の故に、一切法の畢竟空を知るが故に、畜生を軽んぜず、著心もて、仏を貴ばず。
若し、
『人』が、
『衆生を憐愍して!』、
『無量の福徳』を、
『得たとしても!』、
『仏に著心すれば!』、
『諸悪の因縁を起して!』、
『無量の罪を得る!』ので、
是の故に、
『一切法』は、
『畢竟空である!』と、
『知る!』が故に、
『畜生を軽んじることもなく!』、
『著心して!』、
『仏を貴ぶこともない!』。
復次諸法實相是一切法無相。是無相中不分別是佛是畜生。若分別即是取相。是故等觀。 復た次ぎに、諸法の実相は、是れ一切法の無相なり。是の無相中には、是れ仏、是れ畜生なりと分別せず。若し分別すれば、即ち是れ取相なれば、是の故に等観す。
復た次ぎに、
『諸法の実相』とは、
『一切法』の、
『無相であり!』、
是の、
『無相』中には、
『是れは仏、是れは畜生である!』と、
『分別することはない!』。
若し、
『分別すれば!』、
『相』を、
『取ることになる!』ので、
是の故に、
『等しく( as equal )!』、
『観るのである!』。
  等観(とうかん):梵語 sama-darzin の訳、~を公平に見ること( looking impartially on )、有らゆる事物を公平に看ること( regarding all things impartially )の義、有らゆる事物を等しいと観ること、例えば空のように、非現実/霊的な、或は都ての存在を区別せず、我が児のように観ること( The beholding of all things as equal, e.g. as 空 unreal, or immaterial; or of all beings without distinction, as one beholds one's child )の意。
復次菩薩有二法門。一者畢竟空法門。二者分別好惡法門。入空法門則得等觀入分別法門。諸阿羅漢辟支佛尚不及佛。何況畜生。為其輕眾生不憐愍布施故教不分別。 復た次ぎに、菩薩には、二法門有りて、一には畢竟空の法門、二には好悪を分別する法門なり。空の法門に入れば、則ち等観を得、分別の法門に入れば、諸の阿羅漢、辟支仏すら、尚お仏に及ばず、何に況んや、畜生をや。為めに其の衆生を軽んじて、憐愍せず、布施するが故に、教えて分別せざらしむ。
復た次ぎに、
『菩薩』には、
『二法門が有り!』、
一には、
『畢竟空』の、
『法門であり!』、
二には、
『好、悪を分別する!』、
『法門である!』。
『空の法門に入れば!』、
則ち、
『等観』を、
『得ることになる!』が、
『分別の法門に入れば!』、
諸の、
『阿羅漢、辟支仏すら!』、
『仏には及ばない!』。
況して、
『畜生』は、
『尚更である!』。
故に、
『衆生を軽んじて!』、
『憐愍せずに!』、
『布施する!』が故に、
『教えて!』、
『衆生』を、
『分別させないのである!』。
問曰。菩薩身非木石。云何眾生來割截而不生異心。 問うて曰く、菩薩の身は木石に非ず。云何が衆生来たりて、割截するも、異心を生ぜざる。
問い、
『菩薩』の、
『身』は、
『木石でない!』のに、
何故、
『衆生が来て、割截しても!』、
『異心( another thinking )』を、
『生じないのですか?』。
  異心(いしん):梵語 anyena-cetasaa の訳、梵 anyena は,、別の( another )、梵 cetasaa は、有らゆる精神的活動[思考・感覚・意志]( all mental activities (thinking, feeling and willing) )の意。
答曰。有人言。菩薩久修羼提波羅蜜故能不愁惱。如羼提仙人被截手足血皆為乳。 答えて曰く、有る人の言わく、『菩薩は、久しく羼提波羅蜜を修するが故に、能く愁悩せず。羼提仙人の手足を截らるるに、血は皆乳と為るが如し。
答え、
有る人は、こう言っている、――
『菩薩』は、
久しく、
『般若波羅蜜を修めた!』が故に、
『愁悩しないのである!』。
例えば、
『羼提仙人が、手足を截られる!』と、
『血』が、
『皆、乳と為ったようなものである!』、と。
  羼提仙人(せんだいせんにん):仙人の名。『大智度論巻14下注:忍辱仙』参照。
有人言。菩薩無量世來深修大慈悲心故。雖有割截亦不愁憂。譬如草木無有瞋心。 有る人の言わく、『菩薩は、無量世より来、深く大慈悲の心を修するが故に、割截有りと雖も、亦た愁憂せず。譬えば草木に瞋心有ること無きが如し』、と。
有る人は、こう言っている、――
『菩薩』は、
『無量世より、深く!』、
『大慈悲の心』を、
『修めた!』ので、
『割截が有ったとしても!』、
亦た( yet )、
『愁憂しないのである!』。
譬えば、
『草木』に、
『瞋心』が、
『無いようなものである!』。
有人言。菩薩深修般若波羅蜜。轉身得般若波羅蜜果報空心故了了知空。割截身時心亦不動。如外物不動。內亦如是。得般若果報。故於諸法中無所分別。 有る人の言わく、『菩薩は、深く般若波羅蜜を修すれば、身を転じて、般若波羅蜜の果報なる空心を得るが故に、了了に空を知り、身を割截せらるる時にも、心は亦た動かず。外物の動かざるが如く、内も亦た是の如く、般若の果報を得るが故に、諸法中に於いて、分別する所無し』、と。
有る人は、こう言っている、――
『菩薩』は、
『深く、般若波羅蜜を修めた!』ので、
『身を転じれば!』、
『般若波羅蜜の果報である!』、
『空心』を、
『得る!』が故に、
『了了に、空を知り!』、
『身を割截された!』時にも、
亦た、
『心』は、
『動かないのである!』。
譬えば、
『外物が動かなければ!』、
亦た、
『内』も、
『是の通りであるように!』、
『般若の果報を得た!』が故に、
『諸法』中に於いても、
『分別する!』所が、
『無いのである!』。
有人言。是菩薩非生死身。是出三界法性生身。住無漏聖心果報中故身如木石。而能慈念割截者。是菩薩能生如是心故。割截劫奪內外法時。其心不動。是為菩薩希有法。 有る人の言わく、『是の菩薩は、生死の身に非ず、是れ三界を出づる法性生身にして、無漏の聖心の果報中に住するが故に、身は木石の如くして、而も能く割截する者を慈念す。是の菩薩は、能く是の如き心を生ずるが故に、内外の法を割截し、劫奪する時、其の心動かざるなり。是れを菩薩の希有の法と為す』、と。
有る人は、こう言っている、――
是の、
『菩薩は、生死の身でなく!』、
『三界を出た!』、
『法性生身である!』。
『無漏の聖心の果報中に住する!』が故に、
『身は、木石のようであり!』、
而も、
『割截する!』者を、
『慈念することができるのである!』。
是の、
『菩薩』は、
是のような、
『心を、生じさせることができる!』が故に、
『内、外の法』を、
『割截、劫奪される!』時にも、
其の、
『心』が、
『動かないのである!』。
是れが、
『菩薩』の、
『希有の法である!』、と。
復次希有法者。如經中說。我以佛眼見十方如恒河沙等世界中菩薩。入地獄中令火滅湯冷。以三事教化眾生。如經中說。 復た次ぎに、希有の法とは、経中に、『我れは、仏眼を以って、十方の恒河沙に等しきが如き、世界中の菩薩の地獄中に入りて、火を滅して、湯を冷めしむるを見る』、と説けるが如く、三事を以って、衆生を教化すること、経中に説けるが如し。
復た次ぎに、
『希有の法』とは、
『経』中に、こう説く通りであり、――
わたしは、
『仏眼を用いて!』、
『十方の恒河沙に等しいほどの世界』中の、
『菩薩が地獄中に入り、火を滅して湯を冷ます!』のを、
『見た!』、と。
『経』中に説かれたように、――
『三事(神通、知他心、説法)を用いて!』、
『衆生』を、
『教化することである!』。
問曰。若爾者不應有三惡道。 問うて曰く、若し爾らば、応に三悪道有るべからず。
問い、
若し、
『爾うならば!』、
『三悪道』は、
『有るはずがない!』。
答曰。三惡道眾生無邊無量。菩薩雖無邊無量眾生倍多無量。菩薩隨眾生可度因緣。若於三惡道中有餘功德者菩薩則度。重罪者則不見菩薩。菩薩一相見無分別心故。不一一求覓眾生。譬如大赦及者得脫不及者則不蒙。 答えて曰く、三悪道の衆生は無辺、無量なるに、菩薩は無辺、無量なりと雖も、衆生は倍して多き無量なり。菩薩は衆生の度さるるべき因縁に随い、若し三悪道中に於いて、餘の功徳有る者を、菩薩は則ち度し、罪重き者は則ち菩薩を見ず。菩薩は一相を見て、無分別の心なるが故に、一一衆生を求覓せず。譬えば大赦の及ぶ者は、脱るるを得、及ばざる者は則ち蒙らざるが如し。
答え、
『三悪道の衆生は無辺、無量であり!』、
『菩薩も無辺、無量である!』が、
『衆生』は、
『倍して多い、無量なのである!』。
『菩薩』は、
『衆生の度される!』、
『因縁に随って!』、
『度す!』ので、
若し、
『三悪道』中に、
『餘の功徳(因縁)を有する者が有れば!』、
『菩薩』に、
『度され!』、
『罪の重い!』者は、
『菩薩』を、
『見ることすらないのである!』。
『菩薩』は、
『空の一相を見るだけで!』、
『分別する、心が無い!』が故に、
『衆生』を、
『一一、求覓しない( not every one would be seeked for )!』、
譬えば、
『大赦』の、
『及ぶ!』者は、
『脱れられる!』が、
『及ばない!』者は、
『大赦』を、
『蒙らないようなものである!』。
  求覓(ぐみゃく):捜し求める( seek, seek for )。
問曰。若眾生割截菩薩或食其肉。應當有罪。云何得度。 問うて曰く、若し衆生、菩薩を割截して、或は其の肉を食えば、応当に罪有るべし。云何が度を得る。
問い、
若し、
『衆生』が、
『菩薩を割截して!』、
或は、
『菩薩の肉』を、
『食えば!』、
当然、
『罪』が、
『有るはずである!』。
何故、
『度』を、
『得ることができるのか?』。
答曰。此菩薩本願。若有眾生噉我肉者當令得度。如經中說。眾生食菩薩肉者則生慈心。譬如有色聲香觸人聞見則喜復有聞見則瞋。味亦如是。有瞋者有起慈心者。 答えて曰く、此の菩薩の本願は、『若し有る衆生、我が肉を噉わば、当に度を得せしむべし』、となり。経中に、『衆生、菩薩の肉を食わば、則ち慈心を生ず』、と説けるが如し。譬えば、有る色声香触を、人聞見して、則ち喜ぶも、復た有るいは聞見して、則ち瞋るが如く、味も亦た是の如く、瞋る者有り、慈心を起す者有り。
答え、
此の、
『菩薩の本願』は、こうである、――
若し、
『有る衆生が、わたしの肉を食えば!』、
『度』を、
『得させねばならぬ!』、と。
『経』中に、こう説かれたように――
『衆生』が、
『菩薩の肉を食えば!』、
則ち、
『慈心』を、
『生じることになるだろう!』、と。
譬えば、
有る、
『色、声、香、触』を、
『人』は、
『聞見して!』、
『喜ぶ!』が、
復た、
『有る!』者は、
『聞見して!』、
『瞋るように!』、
『味』も、
是のように、
『瞋る者が有れば!』、
『慈心を起す!』者も、
『有るのである!』。
如毘摩羅鞊經說。服食香飯七日得道者有不得者。非以噉肉故得度。以起發慈心故得免畜生。生善處值佛得度。 毘摩羅鞊経に、『香飯を服食すること七日にして、道を得る者と、得ざる者有り』、と説けるが如く、肉を噉うを以っての故に度を得るに非ず、慈心を起発するを以っての故に、畜生を免るるを得、善処に生じて、仏に値いて、度を得るなり。
『毘摩羅鞊経』に、こう説くように、――
『香飯を七日、服食して!』、
『度を得る者と、得ない者と!』が、
『有る!』、と。
『肉を噉う!』が故に、
『度を得るのではなく!』、
『慈心を起発する!』が故に、
『畜生』を、
『免れることができ!』、
『善処に生じて、仏に値い!』、
『度』を、
『得るのである!』。
  参考:『維摩経巻2』:『是時佛說法於奈氏之園。其場忽然廣博嚴事。一切眾會皆見金色。賢者阿難問佛言。世尊。是為誰先瑞應。而此場地廣博嚴事。一切眾會皆見金色。佛告阿難。是維摩詰文殊師利大眾欲來故先為此瑞應。於是維摩詰報文殊師利。吾欲詣如來。此諸大人可共見佛禮事供養。文殊師利言。善哉行矣宜知是時。是時維摩詰。即如其象而為神足。使一切眾立其右掌。并諸師子座共行詣佛。既到諸菩薩皆避坐而下。稽首佛足卻住一面。諸大弟子釋梵四天王。稽首佛足皆住一面。於是世尊問訊諸菩薩。使各復坐。即悉受教眾坐已定。佛語賢者舍利弗言。汝已見菩薩大士之所為乎。對曰唯然已見。佛言。以何等相而知其轉。對曰其轉不可念知。非意所圖非度所測。我睹其為不可思議。阿難問佛。今所聞香自昔未有。是為何香。佛言。是彼菩薩身毛孔之香也。舍利弗告賢者阿難我等一切諸毛孔亦得是香。阿難言。此所從出。曰是維摩詰從香積佛取飯。於舍食者一切毛孔皆香若此。阿難問曰是香氣轉能久如。維摩詰答言。至此飯消。曰此飯者幾時而消。答曰此飯住止至七日七夜。後乃消化而隨所語。若弟子行者。服食此飯不得道終不消。其食此飯而中止者則不消也。新行大道而服食此飯。不得法忍則亦不消。若得法忍而食此飯。至一生補處其飯乃消。譬如阿難。阿昏陀藥其香遍一室。皆作蜜香氣。悉消眾毒藥氣乃歇。此飯如是未孚即消。至諸垢毒一切除盡飯氣乃消。』
有菩薩於無量阿僧祇劫深行慈心。外物給施眾生意猶不滿。并自以身布施。爾乃足滿。如法華經中。藥王菩薩外物珍寶供養佛。意猶不滿。以身為燈供養於佛。爾乃足滿。 有る菩薩は、無量阿僧祇劫に於いて、深く慈心を行じ、外物を衆生に給施するも、意を猶お満てず。併せて自ら身を以って布施して、爾して乃ち足満す。法華経中に、『薬王菩薩、外物の珍宝を仏に供養するも、意を猶お満てず。身を以って燈と為し、仏に供養し、爾して乃ち足満す』、となすが如し。
有る、
『菩薩』は、
『無量、阿僧祇劫』に於いて、
『深く、慈心を行じて!』、
『外物』を、
『衆生』に、
『給施した!』が、
猶お( yet )、
『意』を、
『満たすことができず!』、
併びに、
自ら、
『身』を、
『布施し!』、
爾のようにして、
乃ち( at last )、
『足満する( to be satisfied )のである!』。
例えば、
『法華経』中に、こう説かれた通りである、――
『薬王菩薩』は、
『外物の珍宝』を、
『仏』に、
『供養した!』が、
猶お、
『意』を、
『満たすことができず!』、
『身を燈と為して!』、
『仏』を、
『供養し!』、
爾のようにして、
乃ち、
『足満したのである!』。
復次人得外物雖多不以為恩。所以者何。非所愛重故。得其身時乃能驚感。是故以身布施。 復た次ぎに、人の外物を得るに、多しと雖も、以って恩と為さず。所以は何んとなれば、愛重する所に非ざるが故なり。其の身を得る時、乃ち能く驚感すれば、是の故に身を以って布施す。
復た次ぎに、
『人』は、
『外物を得る!』時、
『多くても!』、
『恩と為すわけではない( being not always thankful )!』
何故ならば、
『愛重する!』所の、
『物ではないからであり!』、
其の、
『身を得た!』時に、
乃ち、
『驚き!』、
『感じることができるのである!』。
是の故に、
『身』を、
『布施するのである!』。
菩薩又為天上諸天說法。如經中廣說。人以四事攝之。布施愛語利益同事。布施有二事。如經中廣說。 菩薩は、又天上の諸天の為めに法を説くこと、経中に広説するが如し。人は、四事を以って、之を摂す。布施、愛語、利益、同事なり。布施に二事有ること、経中に広説するが如し。
『菩薩』は、
又、
『天上の諸天の為め!』にも、
『法』を、
『説くのである!』が、
例えば、
『経』中に、
『広く説かれた通りである!』。
『人を摂する!』には、
『四事を用いることになる!』が、
『謂わゆる布施、愛語、利益、同事である!』。
『布施には、二事有る!』が、
『経』中に、
『広く説かれた通りである!』。
問曰。何以略說餘四道。而廣說人道中法。 問うて曰く、何を以ってか、餘の四道を略説し、人道中の法を広説する。
問い、
何故、
『餘の四道(地獄、畜生、餓鬼、天上)を、略説して!』、
『人道中の法』を、
『広説するのですか?』。
答曰。三惡道中苦多故眾生少疑。若見菩薩大神通希有事。則直信愛著得度。諸天有天眼故自見罪福因緣。菩薩少現神足則解。人以肉眼不見罪福因緣果報。又多著外道邪師及邪見經書。 答えて曰く、三悪道中には苦多きが故に、衆生に疑少く、若し菩薩の大神通の希有の事を見れば、則ち直ちに信じ、愛著して、度を得るも、諸天は天眼有るが故に、自ら罪福の因縁を見れば、菩薩、少しく神足を現せば、則ち解し、人は肉眼を以って、罪福の因縁、果報を見ず、又外道の邪師、及び邪見の経書に著すること多ければなり。
答え、
『三悪道』中には、
『苦が多い!』が故に、
『衆生』には、
『疑うこと!』が、
『少く!』、
若し、
『菩薩』の、
『大神通の希有の事』を、
『見れば!』、
直ちに、
『信じ、愛著して!』、
『度を、得ることができる!』し、
『諸天』には、
『天眼が有る!』が故に、
自ら、
『罪、福の因縁』を、
『見ることができる!』ので、
『菩薩』が、
少しばかり、
『神足』を、
『現せば!』、
則ち、
『因縁』を、
『解すことができる!』が、
『人』は、
『肉眼』の故に、
『罪、福』の、
『因縁や、果報』を、
『見ることがなく!』、
又、
『外道の邪師や、邪見の経書』に、
『著すること!』が、
『多いからである!』。
諸煩惱有二分。一者屬見。二者屬愛。若但有一事則不能成大罪。三毒人得邪見力。能盡作重惡。邪見人得貪欲瞋恚。能大作罪事。如須陀洹雖有三毒無邪見故。不作墮三惡道重罪。是故人中多有三毒邪見。又眼不見罪福因緣故難度。難度故多說。 諸の煩悩には、二分有り、一には見に属し、二には愛に属し、若し但だ、一事有るのみなれば、則ち大罪を成ずる能わず。三毒の人は、邪見の力を得て、能く尽して、重悪を作し、邪見の人は、貪欲、瞋恚を得れば、能く大いに罪事を作す。須陀洹の如きは、三毒有りと雖も、邪見無きが故に、三悪道に堕す重罪を作さず。是の故に人中には三毒、邪見有ること多く、又眼に罪福の因縁を見ざるが故に、度し難く、度し難きが故に多く説く。
『諸の煩悩』には、
『二分が有り!』、
一には、
『見に属し( belonging to view )!』、
二には、
『愛に属す( belonging to love )!』が、
若し、
『一事有るだけならば!』、
『大罪』を、
『成じさせることはない!』が、
『三毒の人』が、
『邪見の力を得れば!』、
『尽く!』、
『重悪を作すことができ!』、
『邪見の人』が、
『貪欲、瞋恚を得れば!』、
『大いに!』、
『罪事を作すことができ!』、
『須陀洹』などは、
『三毒が有っても!』、
『邪見』が、
『無い!』が故に、
『三悪道に堕ちるような!』、
『重罪を作すこと!』は、
『無い!』ので、
是の故に、
『人』中には、
『多く、三毒や邪見が有り!』、
又、
『眼に、罪福の因縁を見ない!』が故に、
『度し難く!』、
『度し難い!』が故に、
『多く!』、
『説かれたのである!』。
問曰。若爾者於四事中何以多說布施。餘三略說。 問うて曰く、若し爾らば、四事中に、何を以ってか、多く布施を説き、餘の三は略して説く。
問い、
若し、爾うならば、
『四事』中に、
何故、
『多く!』、
『布施を説き!』、
餘の、
『三』を、
『略して説くのですか?』。
答曰。布施中攝三事故。以財施法施教化眾生。則無所不攝。 答えて曰く、布施中に三事を摂するが故に、財施、法施を以って衆生を教化すれば、則ち摂せざる所無ければなり。
答え、
『布施』中には、
『三事』を、
『摂する!』が故に、
『財施、法施を用いて!』、
『衆生』を、
『教化すれば!』、
則ち、
『摂さない!』所が、
『無いからである!』。
復次四事中初廣開布施。則知餘三亦如是。 復た次ぎに、四事中に初に布施を広く開けば、則ち餘の三も亦た是の如しと知ればなり。
復た次ぎに、
『四事』中に、
初に、
『布施』を、
『広く開けば( to expand and inspire )!』、
則ち、
『餘の三も是の通りだ!』と、
『知ることになるからである!』。
問曰。若爾者何以略說財施而廣說法施。 問うて曰く、若し爾らば、何を以ってか、財施は略して説き、法施を広く説く。
問い、
若し、爾うならば、
何故、
『財施』を、
『略して説きながら!』、
而も、
『法施』を、
『広く説くのですか?』。
答曰。財施少法施廣故。所以者何。財施有量果報。法施無量果報。財施欲界繫果報。法施亦三界繫果報。亦是出三界果報。財施能與三界富樂。法施能與涅槃常樂。又財施從法施生。聞法則能施故。 答えて曰く、財施は少く、法施は広きが故なり。所以は何んとなれば、財施には有量の果報なるも、法施は無量の果報なり。財施は欲界繋の果報なるも、法施は亦た三界繋の果報にして、亦た是れ三界を出づる果報なり。財施は能く三界の富楽を与うるも、法施は能く涅槃の常楽を与え、又財施は法施より生ず。法を聞けば、則ち能く施すが故なり。
答え、
『財施は少い!』が、
『法施』は、
『広いからである!』。
何故ならば、
『財施の果報は、有量である!』が、
『法施の果報』は、
『無量であり!』、
『財施の果報は、欲界繋である!』が、
『法施の果報』は、
『三界繋だからであり!』、
是の、
『法施の果報』は、
『三界を出るからであり!』、
『財施は、三界の富楽を与えることができる!』が、
『法施』は、
『涅槃の常楽を与えることができ!』、
又、
『財施は、法施より生じ!』、
『法を聞けば!』、
『財を施すことができるからである!』。
復次財施果報但富樂無種種。法施亦有富樂亦有餘事。乃至佛道涅槃果報。以是等因緣故廣說法施。二施義如經中佛自廣說。 復た次ぎに、財施の果報は、但だ富楽にして、種種無く、法施も亦た富楽有るも、亦た餘事、乃至仏道、涅槃の果報有り。是れ等の因縁を以っての故に、広く法施を説く。二施の義は、経中に仏の自ら広説したもうが如し。
復た次ぎに、
『財施の果報』は、
但だ、
『富楽』が、
『有るだけで!』、
種種の、
『果報』は、
『無い!』が、
『法施』は、
亦た、
『富楽』も、
『有り!』、
亦た、
『餘事、乃至仏道、涅槃の果報も!』、
『有る!』。
是れ等のような、
『因縁』の故に、
『法施』を、
『広く説くのである!』。
『二施の義』は、
『経』中に、
『仏が、自ら広く説かれた通りである!』。
問曰。經中須菩提何以故言菩薩得一切種智不。 問うて曰く、経中に須菩提は、何を以っての故にか、『菩薩は、一切種智を得や、不や』、と言う。
問い、
『経』中に、
『須菩提』は、何故、こう言うのですか?――
『菩薩』は、
『一切種智』を、
『得るのですか?』、と。
答曰。須菩提意。若菩薩時得一切種智則不名菩薩。云何未得佛而能得一切種智。得一切種智故名為佛。若先作佛何用一切種智為。 答えて曰く、須菩提の意にすらく、『若し菩薩の時に、一切種智を得れば、則ち菩薩と名づけざるに、云何が、未だ仏を得ざるに、能く一切種智を得る。一切種智を得るが故に名づけて、仏と為すに、若し先に仏と作れば、何の為めにか、一切種智を用うる』、と。
答え、
『須菩提の意』は、こうである、――
若し、
『菩薩の時』に、
『一切種智を得れば!』、
『菩薩』と、
『呼ばれることはない!』のに、
未だ、
『仏を得ない!』のに、
『一切種智』を、
『得ることができるのか?』。
『一切種智を得る!』が故に、
『仏と呼ばれる!』のに、
若し、
『先に、仏と作れば!』、
何の為めに、
『一切種智』を、
『用いるのか?』、と。
佛答。今得一切種智名為菩薩。已得一切種智名為佛。菩薩時具足佛因緣。生心欲得一切種智。得已名為佛。 仏の答えたまわく、『今、一切種智を得れば、名づけて菩薩と為し、已に一切種智を得れば、名づけて仏と為す。菩薩の時、仏の因縁を具足すれば、心を生じて、一切種智を得んと欲し、得已りて、名づけて仏と為す』、と。
『仏』は、こう答えられたが、――
今、
『一切種智を得れば!』、
『菩薩』と、
『呼ばれる!』が、
已に、
『一切種智を得れば!』、
『仏』と、
『称されるのである!』、と。
『菩薩の時』に、
『仏の因縁を具足する!』が故に、
『心を生じて!』、
『一切種智』を、
『得ようとし!』、
『一切種智を得て!』、
『仏』と、
『称されるのである!』。
真實之言菩薩不得。佛亦不得。所以者何。菩薩未得佛。得已竟更不復得。世俗法故說菩薩今得佛得已竟。第一義中則無一切法。何況佛及菩薩。 真実を言えば、菩薩得ざれば、仏も亦た得ず。所以は何んとなれば、菩薩は未だ得ず、仏は得已竟(おわ)りて、更に復た得ざればなり。世俗の法の故に、『菩薩は今得、仏は得已竟る』、と説くも、第一義中には、則ち一切法無し。何に況んや、仏、及び菩薩をや。
『真実を言えば!』、――
『菩薩は得ていない!』が、
『仏』も、
『得ないのである!』。
何故ならば、
『菩薩は、未だ得ておらず!』、
『仏は、已に得ている!』ので、
更に、
『復た!』、
『得ることがないからである!』。
『世俗の法』の故に、こう説いたが、――
『菩薩は、今得て!』、
『仏』は、
『已に、得ている!』、と。
『第一義』中には、
『一切の法が無く!』、
況して、
『仏や、菩薩』は、
『尚更なのである!』。
又經中言。佛心不異菩薩。菩薩不異佛心。次第相續不斷故有二心。如無異無分別故。 又経中に、『仏心は、菩薩と異ならず、菩薩は仏心と異ならず』、と言えるは、次第に相続して断ぜざるが故に二心有るも、異無く、分別無きが如きが故なり。
又、
『経』中に、こう言うのは、――
『仏心』は、
『菩薩』と、
『異ならず!』、
『菩薩』は、
『仏心』と、
『異らない!』、と。
『菩薩と仏の心』は、
『次第に相続して、断じない!』が故に、
『二心が有ったとしても!』、
『異が無く!』、
『分別が無いようなものだからである!』。
問曰。九次第定三十二相八十隨形好。此是世間共有法。何以故。名為出世間不共法。 問うて曰く、九次第定、三十二相、八十随形好は、此れは是れ世間と共に有る法なり。何を以っての故にか、名づけて出世間の不共法と為す。
問い、
『九次第定や、三十二相、八十随形好』は、
『世間』と、
『共有する!』、
『法である!』。
何故、
『出世間の不共法』と、
『称するのですか?』。
答曰。四禪四無色定滅受想名九次第。滅受定但聖人能得。四禪四無色定。從初禪起更不雜餘心而入二禪。從二禪乃至滅受定。念念中受不雜餘心名為次第。 答えて曰く、四禅、四無色定、滅受想を、九次第と名づけ、滅受定は但だ聖人のみ、能く得るに、四禅、四無色定は初禅より起てば、更に余心を雑えず、二禅に入り、二禅より、乃至滅受定まで、念念中に受けて、余心を雑えざれば、名づけて次第と為せばなり。
答え、
『四禅、四無色定、滅受想定』を、
『九次第定』と、
『称し!』、
『滅受想定』は、
『但だ、聖人のみ!』が、
『得ることができる!』が、
『四禅、四無色定』は、
『初禅より起つ!』と、
『更に、餘心を雑えずに!』、
『二禅』に、
『入り!』、
『二禅より、乃至滅受想定まで!』、
『念念中に受けながら!』、
『餘心』を、
『雑えない!』ので、
是れを、
『次第』と、
『称するからである!』。
凡夫是罪人鈍根。云何能得三十二相。如轉輪聖王提婆達難陀所得相。名字雖同而威德具足。淨潔得處則不同於佛。如先分別轉輪聖王佛相不同中說。又是相聖無漏法果報故。自在隨意無量無邊。轉輪聖王等相。是福德業因緣不能自在有量有限。 凡夫は、是れ罪人の鈍根なり。云何が能く三十二相を得る。転輪聖王、提婆達、難陀の所得の相の如きは、名字同じと雖も、威徳具足して、浄潔の処を得ること、則ち仏と同じからず。先に転輪聖王と、仏相の不同を分別せし中に説けるが如し。又是の相は、聖無漏法の果報なるが故に、自在、随意にして無量、無辺なり。転輪聖王等の相は、是れ福徳の業因縁なれば、自在なる能わずして、有量、有眼なり。
『凡夫』は、
『罪人であり!』、
『鈍根である!』のに、
何故、
『三十二相』を、
『得るのか?』、――
例えば、
『転輪聖王や、提婆達、難陀の所得の相など!』は、
『名字』は、
『仏の相』と、
『同じである!』が、
『威徳の具足や、浄潔の処を得る!』のは、
『仏』と、
『同じでない!』。
先に、
『転輪聖王と仏の相』の、
『不同を分別した!』中に、
『説いた通りである!』。
又、
是の、
『三十二相』は、
『聖人の無漏法の果報である!』が故に、
『自在、随意であり!』、
『無量、無辺である!』が、
『転輪聖王等の相』は、
『福徳の業因縁の果報である!』が故に、
『自在であるはずがなく!』、
『有量、有眼である!』。
復次提婆達難陀。有三十相無三十二相。轉輪聖王雖有三十二相無威德不具足。不得處與愛等煩惱俱。 復た次ぎに、提婆達、難陀には三十相有るも、三十二相は無し。転輪聖王には、三十二相有りと雖も、威徳無く、具足せずして、処を得ずして、愛等の煩悩と倶にす。
復た次ぎに、
『提婆達や、難陀』に、
『三十相は有る!』が、
『三十二相』は、
『無い!』し、
『転輪聖王』にも、
『三十二相が有る!』が、
『威徳が無く、具足せず!』、
『処』を、
『得ることがない!』ので、
『愛』等の、
『煩悩』と、
『倶にする( being together with )のである!』。
八十隨形好具足。唯佛菩薩有之。餘人正可有少許。或指纖長或失腹。有如是等無威德之好不足言。是故說言出世間不共凡夫法無咎 八十随形好の具足は、唯だ仏、菩薩に之有るのみ。餘人には正に少許り有るべく、或は指の繊長なる、或は腹を失う。是れ等の如き無威徳の好有るも、言うに足りず。是の故に説いて、『出世間は、凡夫法と共にせず』、と言うも、咎無し。
『八十随形好が具足する!』のは、
唯だ、
『仏や、菩薩』に、
『有るだけである!』。
『餘人』にも、
正しく、
『少許りなら!』、
『有るだろう!』が、
或は、
『指』が、
『纖く長い!』とか、
或は、
『腹』を、
『失う( to miss or to do not seem to exist )!』とか、
是れ等のような、
『無威徳の好が有った!』としても、
『言う!』に、
『足らない!』ので、
是の故に、
『説いて!』、
『出世間の、凡夫と共にしない!』、
『法である!』と、
是のように、言ったとしても、――
『咎』は、
『無い!』。
  参考:『大品般若経巻24』:『云何三十二相。一者足下安平立平如奩底。二者足下千輻輞輪輪相具足。三者手足指長勝於餘人。四者手足柔軟勝餘身分。五者足跟廣具足滿好。六者手足指合縵網妙好勝於餘人。七者足趺高平好與跟相稱。八者伊泥延鹿腨腨纖好。如伊泥延鹿王。九者平住兩手摩膝。十者陰藏相如馬王象王。十一者身蹤廣等如尼俱盧樹。十二者一一孔一毛生。色青柔軟而右旋。十三者毛上向青色柔軟而右旋。十四者金色相其色微妙勝閻浮檀金。十五者身光面一丈。十六者皮薄細滑。不受塵垢不停蚊蚋。十七者七處滿。兩足下兩手中兩肩上項中。皆滿字相分明。十八者兩腋下滿。十九者上身如師子。二十者身廣端直。二十一者肩圓好。二十二者四十齒。二十三者齒白齊密而根深。二十四者四牙最白而大。二十五者方頰車如師子。二十六者味中得上味。咽中二處津液流出。二十七者舌大軟薄。能覆面至耳髮際。二十八者梵音深遠。如迦蘭頻伽聲。二十九者眼色如金精。三十者眼睫如牛王。三十一者眉間白毫相軟白如兜羅綿。三十二者頂髻肉骨成。是三十二相佛身成就。光明遍照三千大千國土。若欲廣照則遍滿十方無量阿僧祇國土。為眾生故受丈光。若放無量光明。則無日月時節歲數。佛音聲遍滿三千大千國土。若欲大聲則遍滿十方無量阿僧祇國土。隨眾生多少音聲遍至。云何為八十隨形好。一者無見頂。二者鼻直高好孔不現。三者眉如初生月紺琉璃色。四者耳輪埵成。五者身堅實如那羅延。六者骨際如鉤鎖。七者身一時迴如象王。八者行時足去地四寸而印文現。九者爪如赤銅色薄而潤澤。十者膝骨堅著圓好。十一者身淨潔。十二者身柔軟。十三者身不曲。十四者指長纖圓。十五者指文莊嚴。十六者脈深。十七者踝不現。十八者身潤澤。十九者身自持不逶迤。二十者身滿足。二十一者識滿足。二十二者容儀備足。二十三者住處安無能動者。二十四者威震一切。二十五者一切樂觀。二十六者面不大長。二十七者正容貌不撓色。二十八者面具足滿。二十九者脣赤如頻婆果色。三十者音響深。三十一者臍深圓好。三十二者毛右旋。三十三者手足滿。三十四者手足如意。三十五者手文明直。三十六者手文長。三十七者手文不斷。三十八者一切惡心眾生見者和悅。三十九者面廣姝好。四十者面淨滿如月。四十一者隨眾生意和悅與語。四十二者毛孔出香氣。四十三者口出無上香。四十四者儀容如師子。四十五者進止如象王。四十六者行法如鵝王。四十七者頭如摩陀那果。四十八者一切聲分具足。四十九者牙利。五十者舌色赤。五十一者舌薄。五十二者毛紅色。五十三者毛潔淨。五十四者廣長眼。五十五者孔門相具。五十六者手足赤白如蓮華色。五十七者臍不出。五十八者腹不現。五十九者細腹。六十者身不傾動。六十一者身持重。六十二者其身大。六十三者身長。六十四者手足潔淨軟澤。六十五者邊光各一丈。六十六者光照身而行。六十七者等視眾生。六十八者不輕眾生。六十九者隨眾生音聲不過不減。七十者說法不著。七十一者隨眾語言而為說法。七十二者一發音報眾聲。七十三者次第有因緣說法。七十四者一切眾生不能盡觀相。七十五者觀無厭足。七十六者髮長好。七十七者髮不亂。七十八者髮旋好。七十九者髮色如青珠。八十者手足有德相。須菩提。是為八十隨形好佛身成就。』
問曰。從初來處處說諸法五眾乃至一切種智不說是三十二相八十隨形好。今經欲竟何以品品中說 問うて曰く、初より来、処処に諸法の五衆、乃至一切種智を説くも、是の三十二相、八十随形好を説かざるに、今経の竟らんと欲するに、何を以ってか、品品中に説く。
問い、
『経の初より!』、
『諸法の五衆、乃至一切種智』は
『処処に!』、
『説かれてきた!』が、
是の、
『三十二相、八十随形好』は、
『説かれなかった!』のに、
『今、経の竟ろうとする!』時、
何故、
『品品』中に、
『説くのですか?』。
答曰。佛有二種身。法身生身。於二身中法身為大。法身大所益多故。上來廣說。今經欲訖故生身義應當說。是故今說。 答えて曰く、仏には二種の身の法身と生身と有り、二身中に於いて法身を大と為す。法身は大にして、益する所の多きが故に、上来広く説く。今、経は訖(おわ)ろうと欲するが故に、生身の義を応当に説くべく、是の故に今説くなり。
答え、
『仏』には、
『二種の身が有り!』、
『法身と!』、
『生身である!』が、
『二身』中には、
『法身』が、
『大である!』。
『法身』は、
『大であり、益する所が多い!』が故に、
『上より!』、
『広く説いてきた!』が、
『今、経は訖ろうとする!』が故に、
当然、
『生身の義』も、
『説かねばならない!』ので、
是の故に、
『今になって!』、
『説くのである!』。
復次是生身相好莊嚴。是聖無漏法果報。今次第說。上雜諸波羅蜜說四念處等諸法義。如先說十力等。是佛法甚深義今當更略說 復た次ぎに、是の生身の相好の荘厳は、是れ聖無漏法の果報なれば、今次第に説く。上に、諸の波羅蜜に雑えて説ける四念処等の諸法の義は、先に説ける十力等の如く、是れ仏法の甚だ深き義なれば、今当に更に略して説くべし。
復た次ぎに、
是の、
『生身を荘厳する!』、
『相好』は、
『聖人の無漏法の果報である!』が故に、
今、
『次第に!』、
『説くのである!』。
上の、
『諸の波羅蜜に雑えて説く!』、
『四念処等の諸法の義』は、
『先に説いた十力等のように!』、
『仏法の甚だ深い義である!』が故に、
今、
『更に!』、
『略して説かねばならないのである!』。
問曰。佛十力者若總相說則一力。所謂一切種智力。若別相說則千萬億種力。隨法為名。今何以但說十 問うて曰く、仏の十力とは、若し総相を説けば、則ち一力にして、謂わゆる一切種智の力なり。若し別相を説けば、則ち千万億種の力なり。法に随いて名を為すに、今は何を以ってか、但だ十と説く。
問い、
『仏の十力』とは、
若し、
『総相を説けば!』、
『一力であり!』、
『謂わゆる、一切種智の力である!』。
若し、
『別相を説けば!』、
『千万億種』の、
『力である!』が、
『法に随って、名を為しながら!』、
今は、
何故、但だ、
『十である!』と、
『説くのですか?』。
答曰。佛實有無量智力。但以眾生不能得不能行故不說。是十力可度眾生事辦。 答えて曰く、仏には実に無量の智力有るも、但だ衆生の、得る能わず、行ずる能わざるが故に、説かざるのみ。是の十力は、度すべき衆生の事を辦ず。
答え、
『仏』には、
実に、
『無量の智力』が、
『有る!』が、
但だ、
『衆生には、得ることも行うこともできない!』が故に、
『説かない!』。
是の、
『十力』は、
『度すべき衆生の事』を、
『辦じる( to manage )からである!』。
所以者何。佛用是處非處力。定知一切法中因果。所謂行惡業墮惡道。有是處。行惡業生天上無是處。善亦如是。不離五蓋不修七覺得道者。無有是處。離五蓋修七覺得道者有是處。餘九力盡入此力中。 所以は何んとなれば、仏は是処非処力を用いて、定んで一切法中の因果を知りたもう。謂わゆる悪業を行じて悪道に堕するは、是の処有るも、悪業を行じて天上に生ずるは、是の処無く、善も亦た是の如し。五蓋を離れず、七覚を修せずして、道を得れば、是の処有ること無く、五蓋を離れ、七覚を修して、道を得れば、是の処有り。餘の九力は、尽く此の力中に入るなり。
何故ならば、
『仏』は、
『是処非処力を用いて!』、
定んで、
『一切法中の因果』を、
『知られるからである!』。
謂わゆる、
『悪業を行じて、悪道に堕ちれば!』、
是の、
『処( reason )』が、
『有る!』が、
『悪業を行じて、天上に生じれば!』、
是の、
『処』が、
『無く!』、
亦た、
『善』も、
『是の通りである!』。
『五蓋を離れず、七覚を修めない!』のに、
『道を得れば!』、
是の、
『処』は、
『無く!』、
『五蓋を離れ、七覚を修めて!』、
『道を得れば!』、
是の、
『処』は、
『有るということである!』。
『餘の九力』は、
尽く、
此の、
『是処非処力』中に、
『入る!』。
佛以此力籌量十方六道中眾生可度者不可度者。可度者以種種因緣神通變化而度脫之。不可度者於此人中修捨心。譬如良醫觀其病相審定知其可活則治之不可活者則捨之。 仏は、此の力を以って、十方の六道中の衆生の度すべき者と、度すべからざる者とを籌量し、度すべき者は、種種の因縁、神通、変化を以って、之を度脱し、度すべからざる者は、此の人中に於いて、捨心を修す。譬えば良医の、其の病相を観て、審に定んで、其の活くべきを知りて、則ち之を治し、活くべからざる者は、則ち之を捨つるが如し。
『仏』は、
此の、
『力を用いて!』、
『十方の六道中の衆生』を、
『度すべきか、度すべきでないか?』を、
『籌量し( mapping out the plan )!』、
『度すべき!』者は、
種種の、
『因縁、神通、変化を用いて!』、
『度脱し!』、
『度すべきでない!』者は、
此の、
『人』中に於いて、
『捨心を修められる!』。
譬えば、
『良医』が、
其の、
『病相を観て!』、
『審に!』、
『定めて知り!』、
其れを、
『活かすことができれば!』、
『治し!』、
其れを、
『活かすことができなければ!』、
『捨てるようなものである!』。
度眾生方便者。所謂二力。業力定力。求其業因緣生處。人以業因緣故。受身縛著世間。禪定因緣故得解脫。行者必應求苦。從何而生由何而滅。是故用二力。 衆生を度する方便とは、謂わゆる二力にして、業力、定力なり。其の業因縁と生処を求むるに、人は業因縁を以っての故に、身を受けて世間に縛著し、禅定の因縁の故に解脱を得れば、行者は必ず応に苦は、何に従りてか生じ、何に由りてか滅するを求むべし。是の故に二力を用う。
『衆生を度す方便』とは、
謂わゆる、
『二力であり!』、
『業力、定力である!』。
其の、
『業の因縁と、果報の生処を求めれば!』、
『人』は、
『業の因縁』の故に、
『身を受けて!』、
『世間に縛著し!』、
『禅定の因縁』の故に、
『解脱』を、
『得る!』ので、
『行者』は、
必ず、
『苦』は、
『何に従りて生じ、何に由りて滅するのか?』を、
『求めねばならず!』、
是の故に、
『二力』を、
『用いるのである!』。
業力有二分。一者淨業能斷惡業。二者垢業。淨業名禪定解脫諸三昧。不淨業者。能於三界中受身。 業力には二分有り、一には浄業は能く悪業を断じ、二には垢業なり。浄業を禅定、解脱、諸三昧と名づけ、不浄業は、能く三界中に身を受く。
『業力』には、
『二分が有り!』、
一には、
『浄業であって!』、
『悪業』を、
『断じさせ!』、
二には、
『垢業である!』。
『浄業』を、
『禅定、解脱、諸三昧』と、
『称し!』、
『不浄業』は、
『三界』中に、
『身を受けさせる!』。
人有二種。鈍根為受身故作業。利根為滅身故作業。 人には、二種有り、鈍根は、身を受けんが為めの故に業を作し、利根は身を滅せんが為めの故に業を作す。
『人』には、
『二種有り!』、
『鈍根』は、
『身を受ける為め!』の故に、
『業』を、
『作り!』、
『利根』は、
『身を滅する為め!』の故に、
『業』を、
『作る!』。
問曰。若爾者何以不皆令作淨業。 問うて曰く、若し爾らば、何を以ってか、皆に、浄業を作さしめざる。
問い、
若し、爾うならば、
何故、
『皆に!』、
『浄業を作らせないのですか?』。
答曰。以眾生根有利鈍故。 答えて曰く、衆生の根には、利、鈍有るを以っての故なり。
答え、
『衆生の根』には、
『利、鈍』が、
『有るからである!』。
問曰。眾生何因緣故有利鈍。 問うて曰く、衆生には、何の因縁の故にか、利、鈍有る。
問い、
『衆生』は、
何のような、
『因縁』の故に、
『利、鈍が有るのですか?』。
答曰。以有種種欲力故。惡欲眾生常入惡故鈍。欲名嗜好。嗜好罪事生惡業故鈍。善欲者樂道修助道法故利。 答えて曰く、種種の欲力有るを以っての故なり。悪欲の衆生は、常に悪を入るるが故に鈍なり。欲を嗜好と名づけ、罪事を嗜好して悪業を生ずるが故に鈍なり。善欲の者は道を楽しみ、助道法を修するが故に利なり。
答え、
種種の、
『欲力』を、
『有するからである!』。
『悪欲の衆生』は、
常に、
『悪を入れる!』が故に、
『鈍である!』。
『欲とは、嗜好であり!』、
『罪事を嗜好すれば!』、
『悪業を生じさせる!』が故に、
『鈍である!』。
『善欲の者』は、
『道を楽しんで!』、
『助道法を修める!』が故に、
『利である!』。
  嗜好(しこう):愛好すること( have a liking for )。
問曰。眾生何以不皆作善欲。 問うて曰く、衆生は何を以ってか、皆、善欲を作さざる。
問い、
『衆生』は、
何故、
『皆が!』、
『善欲を作さないのですか?』。
答曰。是故佛說世間種種性惡性善性。惡性者惡欲。惡欲故根鈍。如火熱性水濕性。不應責其所以。 答えて曰く、是の故に仏は、世間の種種の性の悪性、善性を説きたまえり。悪性の者は悪欲にして、悪欲の故に根は鈍なり。火の熱性、水の湿生の如く、応に其の所以を責むべからず。
答え、
是の故に、
『仏』は、
『世間の種種の性の悪性や、善性』を、
『説かれたのである!』。
『悪性の者』は、
『悪欲であり!』、
『悪欲である!』が故に、
『根が鈍である!』。
譬えば、
『火の熱性や、水の湿生』の、
『所以( the reason )』を、
『責めるべきでないようなものである!』。
問曰。惡欲即是惡性有何差別而作二力。 問うて曰く、悪欲にして、即ち是れ悪性なれば、何の差別有りてか、二力を作す。
問い、
『悪欲』が、
即ち、
『悪性ならば!』、
何のような、
『差別が有って!』、
『二力』を、
『作すのですか?』。
答曰。性先有欲。得因緣而生。譬如先有瘡得觸因緣則血出。性在內欲在外。性重欲輕。性難除欲易捨。性深欲淺。用性作業必當受報。用欲作業不必受報。有如是等差別。 答えて曰く、性は先に有り、欲は因縁を得て生ず。譬えば、先に瘡有り、触の因縁を得て、則ち血出づるが如し。性は、内に在り、欲は外に在り。性は重く、欲は軽し。性は除き難く、欲は捨て易し。性は深く、欲は浅し。性を用いて、業を作せば、必ず当に報を受くべく、欲を用いて業を作せば、必ずしも報を受けず。是れ等の如き差別有り。
答え、
『性は、先に有る!』が、
『欲』は、
『因縁を得て!』、
『生じる!』。
譬えば、
『瘡が、先に有り!』、
『触の因縁を得て!』、
『血』が、
『出るようなものである!』。
『性は、内に在る!』が、
『欲』は、
『外に在る!』。
『性は、重い!』が、
『欲』は、
『軽い!』。
『性は、除き難い!』が、
『欲』は、
『捨て易い!』。
『性は、深い!』が、
『欲』は、
『浅い!』。
『性を用いて、業を作せば!』、
『必ず!』、
『報を受けることになる!』が、
『欲を用いて、業を作せば!』、
『必ずしも!』、
『報を受けるわけではない!』。
是れ等のような、
『差別』が、
『有る!』。
復有人言。欲常習增長遂成為性。性亦能生欲。是人若今世若後世常習是欲。則成為性。住是性中作惡作善。若住善性則可度。若住惡性則不可度。 復た有る人の言わく、『欲を常に習いて、増長すれば、遂に成じて、性と為り、性も亦た能く欲を生ず。是の人、若しは今世、若しは後世に常に是の欲を習えば、則ち成じて性と作り、是の性中に住して、悪を作し、善を作す。若し善性に住すれば、則ち度すべく、若し悪性に住すれば、則ち度すべからず』、と。
復た、有る人は、こう言っている、――
『欲』を、
『常に習って、増長すれば!』、
遂には、
『性』と、
『作り!』、
『性』も、
亦た、
『欲』を、
『生じさせるのである!』。
是の、
『人』が、
『今世や、後世に常に!』、
是の、
『欲』を、
『習えば!』、
則ち、
『成じて!』、
『性と為り!』、
是の、
『性中に住して!』、
『悪や、善』を、
『作すのである!』。
若し、
『善性中に住すれば!』、
是の、
『人』を、
『度すことができる!』が、
若し、
『悪性中に住すれば!』、
則ち、
『度すことはできない!』、と。
佛既知眾生二種性。已知其果報善道惡道種種差別。惡性者墮三惡道。善性者有四種道。人天阿修羅涅槃道。 仏は既に、衆生の二種の性を知り已りて、其の果報の善道、悪道の種種の差別を知る。悪性の者は、三悪道に堕ち、善性の者は四種の道の人、天、阿修羅、涅槃の道有り。
『仏』は、
既に、
『衆生』の、
『二種の性』を、
『知り!』、
其の、
『果報』の、
『善道や悪道の種種の差別』を、
『知っていられる!』。
即ち、
『悪性の者』は、
『三悪道』に、
『堕ち!』、
『善性の者』には、
『人、天、阿修羅、涅槃の四種の道』が、
『有る!』。
問曰。一切到處道力與天眼力有何差別。 問うて曰く、一切の処に到る道の力と、天眼の力とには、何の差別か有る。
問い、
『一切の処に到る道を知る力』と、
『天眼の力』とには、
何のような、
『差別』が、
『有るのですか?』。
答曰。天眼但見生死時此中未死時知。見因知果天眼。見現前罪福果報。是名一切到處道力。 答えて曰く、天眼は、但だ生死の時を見れば、此の中には、未だ死せざる時に知るのみ。因を見て果を知り、天眼もて、現前の罪福の果報を見れば、是れを一切の処に到る道の力と名づく。
答え、
『天眼』は、
但だ、
『生、死の時』を、
『見る!』ので、
此の中には、
未だ、
『死なない!』時に、
『知るのみである!』が、
『因を見て、果を知り!』、
『天眼を用いて!』、
『現前の罪福の果報』を、
『見れば!』、
是れを、
『一切の処に到る道の力』と、
『称するのである!』。
問曰。聲聞辟支佛亦得涅槃。亦能化眾生。何以無是力。 問うて曰く、声聞、辟支仏も亦た涅槃を得、亦た能く衆生を化すに、何を以ってか、是の力無き。
問い、
『声聞、辟支仏』も、
亦た、
『涅槃』を、
『得ることができ!』、
亦た、
『衆生』を、
『化することができる!』のに、
何故、
是の、
『力』が、
『無いのですか?』。
答曰。是故說後三力。三世中眾生事盡能通達遍知。以宿命力一切眾生過去事本末悉知。以天眼生死智力故。一切眾生未來世中無量事盡能遍知。作是知已知現世中眾生可度者。為說漏盡法。以是故但佛有此力二乘所無。 答えて曰く、是の故に、説きたまわく、『後の三力は、三世中の衆生の事を尽く、能く通達し、遍く知る』、と。宿命の力を以って、一切の衆生の過去の事の本末を悉く知り、天眼と生死智力を以っての故に、一切の衆生の未来世中の無量の事を尽く、能く遍く知り、是の知を作し已りて、現世中の衆生の度すべき者を知り、為めに漏尽の法を説く。是を以っての故に、但だ仏のみ、此の力有りて、二乗には無き所なり。
答え、
是の故に、こう説かれたのである、――
『後の三力』は、
『三世中の衆生の事』を、
『尽く通達し、遍く知る!』、と。
謂わゆる、
『宿命力を用いて!』、
『一切の衆生』の、
『過去の事を本末』を、
『悉く知り!』、
『天眼と、生死智力を用いる!』が故に、
『一切の衆生』の、
『未来世中の無量の事』を、
『尽く、遍く知り!』、
是れを、
『知ったならば!』、
『現世中の衆生の度すべき!』者を、
『知り!』、
是の、
『衆生の為め!』に、
『漏尽の法』を、
『説かれるのであり!』、
是の故に、
但だ、
『仏にのみ!』、
此の、
『力』が、
『有り!』、
『二乗』には、
即ち、
『無い!』所の、
『力なのである!』。
如有一人即日應得阿羅漢。舍利弗日中時語言。汝無得道因緣捨而不度。晡時佛以宿命神通見。過去八萬劫前得道因緣今應成就。晡時說法即得阿羅漢道。 有る一人の、即日に応に阿羅漢を得べきに、舎利弗は日中の時に語りて、『汝には道を得る因縁無し』、と言い、捨てて度せず。晡時に、仏は宿命の神通を以って、過去の八万劫前に、道の因縁を得て、今応に成就するを見、晡時に法を説いて、即ち阿羅漢道を得たるが如し。
例えば、
有る、
『一人』は、
即日( in this day )、
『阿羅漢道』を、
『得るはずであった!』が、
『舎利弗』は、
日中( the midday )の時、
是の、
『人に語って!』、
『お前には、道を得る因縁が無い!』と、
『言い!』、
是の、
『人』を、
『捨てて!』、
『度そうとしなかった!』。
晡時( in the afternoon )、
『仏』は、
『宿命の神通を用いて!』、
是の、
『人が過去、八万劫前に作った!』、
『道を得る因縁が、今成就しようとしている!』のを、
『見て!』、
晡時に、
『法を説かれる!』と、
即ち、
『阿羅漢道』を、
『得たのである!』。
  晡時(ほじ):申の時、午後3時より、5時に至るまで。
復次佛以初力知眾生可度不可度相。以第二力知眾生為三障所覆無覆者。以第三力知眾生禪定解脫淨不淨者。以第四力知眾生根有利有鈍能通法性不通者。以第五力知眾生利鈍根因緣善惡欲。以第六力知二欲因緣種種性。以第七力知眾生利鈍根善惡果報處七種道。以第八力知眾生宿世善惡業障不障。以第九力知眾生今世未可度未來世生處可度。以第十力知是人以空解脫門入涅槃無相無作門入涅槃。知是人於見諦道思惟道中念念中斷若干結使。 復た次ぎに、仏は初の力を以って、衆生の度すべきと、度すべからざる相を知り、第二の力を以って、衆生の三障の為めに覆わるると、覆わるる無き者とを知り、第三の力を以って、衆生の禅定、解脱の浄と、不浄の者とを知り、第四の力を以って、衆生の根の有るいは利、有るいは鈍にして、能く法性に通ずると、通ぜざる者とを知り、第五の力を以って、衆生の利鈍の根の因縁の善悪の欲を知り、第六の力を以って、二欲の因縁の種種の性を知り、第七の力を以って、衆生の利鈍の根と、善悪の果報の処なる七種の道を知り、第八の力を以って、衆生の宿世の善悪の業の障うると、障えざるとを知り、第九の力を以って、衆生の今世に、未だ度すべからざると、未来世の生処の度すべきとを知り、第十の力を以って、是の人の空解脱門を以って、涅槃に入ると、無相、無作門をもて涅槃に入るとを知り、是の人は、見諦道、思惟道中に於いて、念念中に若干の結使を断ずるを知る。
復た次ぎに、
『仏』は、
『初の力を用いて!』、
『衆生』が、
『度される相か、度されない相か?』を、
『知り!』、
『第二の力を用いて!』、
『衆生』が、
『三障(煩悩障、業障、異熟障)に覆われているのか、いないのか?』を、
『知り!』、
『第三の力を用いて!』、
『衆生』の、
『禅定、解脱は浄なのか、不浄なのか?』を、
『知り!』、
『第四の力を用いて!』、
『衆生』の、
『根は利なのか、鈍なのか、法性に通じているのか、通じていないのか?』を、
『知り!』、
『第五の力を用いて!』、
『衆生』の、
『利、鈍の根の因縁である、善、悪の欲』を、
『知り!』、
『第六の力を用いて!』、
『二欲の因縁である!』、
『種種の性』を、
『知り!』、
『第七の力を用いて!』、
『衆生の利、鈍の根』と、
『善、悪の果報の処である、七種の道(六道と涅槃道)』を、
『知り!』、
『第八の力を用いて!』、
『衆生の宿世』の、
『善、悪の業が障るか、障らないのか?』を、
『知り!』、
『第九の力を用いて!』、
『衆生が、今世には未だ度されず!』、
『未来世の生処に於いて、度されること!』を、
『知り!』、
『第十の力を用いて!』、
是の、
『人』は、
『空解脱門より、涅槃に入る!』と、
『知り!』、
是の、
『人』は、
『無相、無作門より、涅槃に入る!』と、
『知り!』、
是の、
『人』は、
『見諦道、思惟道中に於いて、念念中に若干の結使を断じる!』と、
『知る!』。
以是十力籌量眾生。所應度緣而為說法。是故說法初無空言。 是の十力を以って、衆生の応に度すべき所の縁を籌量して、為めに法を説けば、是の故に法を説くも、初より、空言無し。
是の、
『十力を用いて!』、
『衆生を度すべき!』、
『縁』を、
『籌量し!』、
『衆生の為めに!』、
『法』を、
『説くので!』、
是の故に、
『法を説けば!』、
初より、
『空言( the vacant words )』が、
『無いのである!』。
問曰。佛智慧無量身相亦應無量。又佛身勝諸天王。何以正與轉輪聖王同有三十二相。 問うて曰く、仏の智慧は無量にして、身相も亦た応に無量なるべし。又仏身は、諸の天王に勝るに、何を以ってか、正しく転輪聖王と同じく、三十二相有る。
問い、
『仏の智慧が、無量ならば!』、
当然、
『身相』も、
『無量でなければならない!』。
又、
『仏身は、諸の天王に勝る!』のに、
何故、
『転輪聖王と同じく!』、
『三十二相を有するのか?』。
答曰。三十二相不多不少義如先說。復次有人言。佛菩薩相不定。如此中說。隨眾生所好可以引導其心者為現。 答えて曰く、三十二相の多からず、少からざる義は、先に説けるが如し。復た次ぎに、有る人の言わく、『仏、菩薩の相は、定らざること、此の中に、『衆生の好む所に随いて、以って其の心を引導すべき者の為めに現る』、と。
答え、
『三十二相が多くも、少くもない義』は、
『先に!』、
『説いた通りである!』。
復た次ぎに、
有る人は、こう言っている、――
『仏や、菩薩の相は定らず!』、
此の中に、こう説かれた通りである、――
『衆生の好む所に随う!』、
『相』を、
其の、
『心を引導すべき者の為め!』に、
『現す!』、と。
又眾生不貴金而貴餘色琉璃頗梨金剛等。如是世界人。佛則不現金色。觀其所好則為現色。又眾生不貴纖長指及網縵。以長指利爪為羅刹相。以網縵為水鳥相。造事不便如著手衣。何用是為。 又、衆生金を貴ばずして、餘の色の琉璃、頗梨、金鋼等を貴べば、是の如き世界の人には、仏は則ち金色を現さず、其の好む所を観て、則ち為めに色を現す。又衆生繊長の指、及び網縵を貴ばず、長指利爪を以って、羅刹の相と為し、網縵を以って、水鳥の相と為せば、事を造るに、便ならざること、手に衣を著くるが如きに、何の為めにか、是れを用いん。
又、
『衆生が、金を貴ばず!』、
『餘の色の琉璃、頗梨、金鋼』等を、
『貴べば!』、
是のような、
『世界の人の為め!』に、
『仏』は、
『金色』を、
『現さず!』、
其の、
『好む所を観て!』、
『色』を、
『現されるのである!』。
又、
『衆生』が、
『繊長の指や、網縵を貴ばず!』、
『長指利爪』は、
『羅刹の相である!』と、
『言い!』、
『網縵』は、
『水鳥の相である!』と、
『言えば!』、
『事を造るに不便であり( being inconvenient to make something )!』、
『手に、衣を著けるようなのに!』、
是の、
『相』を、
『何の為めに用いるのか?』。
如罽賓國彌帝隸力利菩薩。手網縵。其父惡以為怪。以刀割之言。我子何緣如鳥。有人不好肩圓大以為似腫。有以腹不現無腹如餓相。亦有人以青眼為不好。但好白黑分明。是故佛隨眾生所好而為現相好。如是等無有常定。 罽賓国の彌帝隸力利菩薩の手の網縵を、其の父悪みて、以って怪しと為し、刀を以って、之を割きて言わく、『我が子にして、何を縁じてか、鳥の如き』、と。有る人は肩の円大なるを好まずして、以って踵に似たりと為し、有るいは腹の現れず、腹無きを以って、餓相の如しとし、亦た有る人は、青眼を以って、好ましからずと為し、但だ白黒分明せるを好む。是の故に、仏は、衆生の好む所に随い、為めに相好を現したまえば、是れ等の如きには、常定有ること無し。
例えば、
『罽賓国の弥帝隷力利菩薩』の、
『手の網縵』を、
其の、
『父は悪み、怪しんで!』、
『刀を用いて!』、
『割き!』、
こう言った、――
『わたしの子』に、
何が、
『縁じて!』、
『鳥のようなのか?』、と。
有る、
『人』は、
『肩』が、
『円く、大きい!』のを、
『好まず!』に、
是れは、
『踵に似ている!』と、
『言い!』、
有るいは、
『腹が現れず、腹が無い!』のは、
『餓相のようだ!』と、
『言い!』、
有る、
『人』は、
『青眼を好まず!』、
但だ、
『白、黒が分明である!』のを、
『好む!』ので、
是の故に、
『仏』は、
『衆生の好む所に随い、衆生の為め!』に、
『相好』を、
『現されるのである!』。
是れ等のように、
『仏、菩薩の相』は、
『常に定るということ!』が、
『無いのである!』。
有人言。此三十二相。實定以神通力變化身。隨眾生所好而為現相。 有る人の言わく、『此の三十二相は、実に定るも、神通力を以って、身を変化し、衆生の好む所に随いて、為めに相を現す』、と。
有る人は、こう言っている、――
此の、
『三十二相は、実に定る!』が、
『神通力を用いて!』、
『身』を、
『変化し!』、
『衆生の為めに!』、
其の、
『好む所に随って!』、
『相』を、
『現すのである!』、と。
有人言。佛有時神通變化。有時隨世界處生。當生處不得言神通變化。 有る人の言わく、『仏は有る時には、神通変化し、有る時には世界に随って処し、当に生ずべき処に生ずれば、神通、変化と言うを得ず』、と。
有る人は、こう言っている、――
『仏』は、
有る時には、
『神通を用いて!』、
『身』を、
『変化される!』が、
有る時には、
『世界に随って、処しながら( to dwell adapting to the world )!』、
『生ずべき処』に、
『生じられる!』ので、
『神通を用いて!』、
『身を変化する!』と、
『言うことはできない!』、と。
又於三千大千世界中。隨可度眾生處生則為現相。如密跡經中說。或現金色或現銀色。或日月星宿色。或長或短。隨可引導眾生則為現相。隨此間閻浮提中天竺國人所好。則為現三十二相。 又、三千大千世界中に於いて、度すべき衆生の処に随いて、生じたまえば、則ち為めに相を現したもう。『密迹経』中に説けるが如し、『或は金色を現し、或は銀色を現し、或は日月星宿の色を、或は長く、或は短く、引導すべき衆生に随いて、則ち為めに相を現し、此の間の閻浮提中の天竺国の人の好む所に随いて、則ち為めに三十二相を現しあたまえり。
又、
『三千大千世界』中に於いて、
『度すべき衆生』の、
『処に随って!』、
『生じられ!』、
則ち、
『衆生の為め!』に、
『身を現される!』。
例えば、
『密迹経』中に、こう説く通りである、――
或は、
『金色を現し!』、
或は、
『銀色を現し!』、
或は、
『日月星宿の色を現し!』、
或は、
『長身を現し!』、
或は、
『短身を現し!』、
『引導すべき!』、
『衆生に随い!』、
『相を現す!』、と。
此の、
『世間の閻浮提中の天竺国の人』の、
『好む所に随って!』、
『三十二相』を、
『現されるのである!』。
  参考:『勝天王般若波羅蜜経巻5』:『佛告勝天王言。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。示現色形無有定相。何以故。隨諸眾生心之所樂。即見菩薩色貌。如是或現金色。或現銀色。或頗梨色或琉璃色。或馬瑙色。或車磲色。或真珠色。青色黃色赤色白色。或日月色。火色。焰色。帝釋色。梵王色。霜色。雌黃色。朱色。薝蔔伽色。須摩那色。婆利師迦色。波頭摩色。拘勿頭色。分陀利色。功德天色。鵝色。孔雀色。珊瑚色。如意珠色。虛空色。天見是天人見是人。大王。十方恒河沙世界中。一切眾生色形相貌。菩薩摩訶薩悉現如是。何以故。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。不捨一眾生故遍能攝取。何以故。一切眾生心各不同。是故菩薩種種示現。何以故。菩薩摩訶薩。過去世中有大願力。隨諸眾生心所樂見而受化者。即為示現所欲見身。大王。如淨明鏡本無影像。隨諸外色若好若醜。種種悉現。亦不分別我體明淨能現眾色。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜亦復如是。無功用心隨眾生樂。種種示現悉令悅彼。而不分別我能現身。大王。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。於一座中隨諸聽眾。或見菩薩說法。或見佛說法。或見辟支佛說法。或見聲聞說法。或見帝釋。或見梵王。或見摩醯首羅。或見圍紐天。或見四天王。或見轉輪聖王。或見沙門。或見婆羅門。或見剎利。或見毘舍首陀。或見居士。或見長者。或見坐寶臺中。或見坐蓮華上。或見行在地上。或見飛騰虛空。或見說法。或入三昧。大王。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜為度眾生。無一形相及一威儀不示現者。大王。般若波羅蜜。無形無相。猶如虛空遍一切處。譬如虛空無諸戲論。般若波羅蜜亦復如是過諸語言。又如虛空世所受用。般若波羅蜜亦復如是。一切凡聖之所受用。又如虛空無有分別。般若波羅蜜亦復如是無分別心。譬如虛空容受眾色。般若波羅蜜亦能容受一切佛法。譬如虛空能現眾色。般若波羅蜜亦復能現一切佛法。譬如空中一切草木眾藥華果依之增長。般若波羅蜜亦復如是。一切善根依之增長。譬如虛空非常無常非言語法。般若波羅蜜亦復如是。非常無常悉離言語。』
天竺國人于今故治肩髆。令厚大頭上皆以有髻為好。如人相中說五處長為好。眼鼻舌臂指髀手足相。若輪若蓮華若貝若日月。是故佛手足有千輻輪纖長指。鼻高好舌廣長而薄。如是等皆勝於先所貴者故。起恭敬心 天竺国の人は、今に于(お)いて故(ことさら)に肩の髆を治して、厚大ならしめ、頭上を皆、髻有るを以って、好と為し、人相中には、五処の長きを好と為すと説けるが如く、眼、鼻、舌、臂、指、髀、手、足の相は若しは輪、若しは蓮華、若しは貝、若しは日月なり。是の故に、仏の手足には、千輻輪有り、繊長なる指、鼻は高きが好もしく、舌は広長にして薄し。是れ等の如きは、皆先に貴ぶ所に勝る者なるが故に、恭敬心を起す。
『天竺国の人』は、
今、
故に( deliberately )、
『肩の髆を治して( to build their shoulder blades )!』、
『厚大にし!』、
『頭上』には、
『皆、髻を有する!』のを、
『好み!』、
『人相』中などには、こう説かれているので、――
『五処』は、
『長い!』のが、
『好ましく!』、
『眼、鼻、舌、臂、指、髀、手、足の相』は、
『輪や、蓮華、貝、日月のようである!』のが、
『好ましい!』、と。
是の故に、
『仏』の、
『手、足には千輻輪が有り!』、
『指は繊長であり!』、
『鼻は高く、好ましく!』、
『舌は広く、長く、薄いのであり!』、
是れ等のような、
『相』は、
皆、
『先に貴ぶ!』所に、
『勝る!』ので、
是の故に、
『恭敬心』を、
『起すのである!』。
  (ほ):肩甲骨。
  (ひ):大腿骨。
有國土。佛為現千萬相。或無量阿僧祇相。或五六三四相。隨天竺所好故。現三十二相八十種隨形好
大智度論卷第八十八
有る国土に、仏は為めに千万の相、或は無量阿僧祇の相、或は五、六、三、四相を現すも、天竺の好む所に随うが故に、三十二相、八十種随形好を現したもう。
大智度論巻第八十八
有る、
『国土』には、
『仏』は、
『千万の相』を、
『現され!』、
或は、
『無量阿僧祇の相や、五、六、三、四相』を、
『現される!』が、
『天竺』では、
『人の好む所に随って!』、
『三十二相、八十種随形好』を、
『現されるのである!』。

大智度論巻第八十八


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