巻第八十七(上)
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大智度論釋次第學品第七十五之餘(卷八十七)
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


【經】次第の行、次第の学、次第の道

【經】須菩提言。世尊。若菩薩摩訶薩知諸法無所有性。因四禪五神通。得阿耨多羅三藐三菩提。世尊。新學菩薩摩訶薩云何於諸法無所有性中。次第行次第學次第道。以是次第行次第學次第道。得阿耨多羅三藐三菩提。 須菩提の言わく、『世尊、若し菩薩摩訶薩、諸法の無所有性を知らば、四禅、五神通に因りて、阿耨多羅三藐三菩提を得ん。世尊、新学の菩薩摩訶薩は、云何が諸法の無所有性中に於いて、次第に行じ、次第に学び、次第に道びき、是の次第の行、次第の学、次第の道を以って、阿耨多羅三藐三菩提を得んや』、と。
『須菩提』は、こう言った、――
世尊!
若し、
『菩薩摩訶薩が、諸法の無所有性を知れば!』、
『四禅や、五神通に因って!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得るでしょう!』。
世尊!
『新学の菩薩摩訶薩』は、
何のように、
『諸法の無所有性
all dharmas have not any characteristics )』中に於いて、
『次第に行じ( to practice gradually )!』、
『次第に学び( to study gradually )!』、
『次第に道びき( to lead gradually )!』、
是の、
『次第の行( the gradual practice )』、
『次第の学( the gradual study )』、
『次第の道( the gradual leadership )を用いて!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得るのですか?』、と。
  (どう):<名詞>[本義]道路( road, way, path )。道徳/道義/正義( morals )、線状の痕跡( line )、行程/旅程( journey )、方法/方式( way, method )、水路( course, river )、[学術/宗教的]教義/教理/法則( doctrine, reason, law )、宇宙の本体及び規律( law )、方向/志向( direction, ambition, aspiration )。<動詞>説く/講ずる( say, talk, speak )、表示する( express )、道を取る/経過する( via, by way of )、導く/引導する( guide, lead )、思う( think )。<介詞>従る/由る( by )。
  参考:『大般若経巻372』:『爾時具壽善現白佛言。世尊。若菩薩摩訶薩依無性為自性法。起四靜慮。發五神通。證得無上正等菩提。安立三聚有情差別。隨其所應方便教導。令獲殊勝利樂事者。云何菩薩摩訶薩。於無性為自性法中。有漸次業漸次學漸次行。由此漸次業漸次學漸次行故。證得無上正等菩提。佛言。善現。諸菩薩摩訶薩最初從佛世尊所聞。若從已多供養諸佛菩薩摩訶薩所聞。若從獨覺所聞。若從阿羅漢所聞。若從不還一來預流所聞。諸佛世尊以無性為自性。究竟證得以無性為自性法故名佛世尊。諸菩薩摩訶薩亦以無性為自性。漸次證得以無性為自性法故名菩薩摩訶薩。一切獨覺亦以無性為自性。漸次證得以無性為自性法故名為獨覺。諸阿羅漢亦以無性為自性。漸次證得以無性為自性法故名阿羅漢。一切不還一來預流亦以無性為自性。漸次證得以無性為自性法故名為不還一來預流。諸賢善士亦以無性為自性決定信解以無性為自性法故名賢善士。諸餘有情一切行一切法。皆以無性為自性。乃至無有如毛端量若行若法。實有自性而可得者。是菩薩摩訶薩聞此事已作是思惟。若一切有情。一切行一切法皆以無性為自性。證得信解以無性為自性法故名佛菩薩獨覺聲聞賢善士者。我於無上正等菩提。若當證得。若不證得。一切有情一切行一切法。常以無性為自性。故我定應發趣無上正等菩提。得菩提已。若諸有情行有想者。方便安立令住無想。善現。是菩薩摩訶薩既思惟已。發趣無上正等菩提。為普救度諸有情故。作漸次業修漸次學行漸次行。如過去世諸菩薩摩訶薩發趣無上正等菩提。先修漸次業學行故。證得無上正等菩提。是菩薩摩訶薩亦復如是。先應修行布施波羅蜜多。次應修行淨戒波羅蜜多。次應修行安忍波羅蜜多。次應修行精進波羅蜜多。次應修行靜慮波羅蜜多。後應修行般若波羅蜜多』
佛告須菩提。菩薩摩訶薩若初從諸佛聞。若從多供養諸佛菩薩聞。若諸阿羅漢。若諸阿那含。若諸斯陀含。若諸須陀洹所聞。得無所有故是佛。得無所有故。是阿羅漢阿那含斯陀含須陀洹。一切賢聖皆以得無所有故有名。一切有為作法無所有性。乃至無有如毫末許所有。 仏の須菩提に告げたまわく、『菩薩摩訶薩は、若しは初めて、諸仏より聞き、若しは諸仏を多く供養せる菩薩より聞き、若しは諸の阿羅漢、若しは諸の阿那含、若しは諸の斯陀含、若しは諸の須陀洹に聞かされ、無所有なるが故に是れ仏なりと得、無所有なるが故に是れ阿羅漢、阿那含、斯陀含、須陀洹なりと得。一切の賢聖は、皆、無所有を得るを以っての故に名有り。一切の有為の作法は、無所有性にして、乃至毫末許りの如きすら、所有有ること無し』。
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
『菩薩摩訶薩』は、
若しは、
『初めて、諸仏より聞き!』、
若しは、
『諸仏を多く供養した、菩薩より聞き!』、
若しは、
『諸の阿羅漢、阿那含、斯陀含、須陀洹に聞かされて!』、
『無所有である!』が故に、
『仏である!』と、
『得( to understand deeply )!』、
『無所有である!』が故に、
『阿羅漢、阿那含、斯陀含、須陀洹である!』と、
『得る!』。
『一切の賢聖』は、
皆、
『一切は、無所有であると得る!』が故に、
『賢聖の名』を、
『得るのである!』。
『一切の有為の作法』は、
『無所有性である!』が故に、
乃至、
『毫末ばかりほど!』の、
『所有すら( something existing )!』、
『無いのである!』。
是菩薩摩訶薩聞是已作是念。若一切法無所有性。得無所有故是佛。乃至得無所有故是須陀洹。我若當得阿耨多羅三藐三菩提。若不得一切法常無有性。我何以不發心得阿耨多羅三藐三菩提。得阿耨多羅三藐三菩提已。一切眾生行於有相。當令住無所有中。 『是の菩薩摩訶薩は、是れを聞き已りて、是の念を作さく、『若し一切法にして、無所有性なれば、無所有なるが故に是れ仏なりと得、乃至無所有なるが故に、乃至無所有なるが故に是れ須陀洹なりと得ん。我れ、若し当に、阿耨多羅三藐三菩提を得べくんば、若しは一切法は、常に性有ること無しとも得ざらん。我れは何を以ってか、発心して、阿耨多羅三藐三菩提を得ざらん。阿耨多羅三藐三菩提を得已らば、一切の衆生は、有相に於いて行ずれば、当に無所有中に住せしむべし』、と』。
是の、
『菩薩摩訶薩』は、
是れを、
『聞いて!』、こう念じるだろう、――
若し、
『一切法が、無所有性ならば!』、
『無所有である!』が故に、
『仏である!』と、
『得!』、
乃至、
『無所有である!』が故に、
『須陀洹である!』と、
『得るだろう!』。
わたしが、
若し当に( when )、
『阿耨多羅三藐三菩提を得た!』時には、
若しは、
『一切法には、常に性が無い!』と、
『得ることもないだろう!』。
わたしは、
何うして、
『発心して!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得ないことがあろうか?』。
『阿耨多羅三藐三菩提を得た!』時、
『一切の衆生』が、
『有相』を、
『行じていれば!』、
当然、
『無所有』中に、
『住させねばならない!』、と。
須菩提。菩薩摩訶薩如是思惟已。發阿耨多羅三藐三菩提心。為度一切眾生故。菩薩摩訶薩所行次第行次第學次第道者。如過去諸菩薩摩訶薩所行道。得阿耨多羅三藐三菩提。是新發意菩薩應學六波羅蜜。所謂檀波羅蜜尸羅波羅蜜羼提波羅蜜毘梨耶波羅蜜禪波羅蜜般若波羅蜜。 『須菩提、菩薩摩訶薩は、是の如く思惟し已りて、阿耨多羅三藐三菩提の心を発す、一切の衆生を度せんが為めの故なり。菩薩摩訶薩の所行の次第の行、次第の学、次第の道とは、過去の諸の菩薩摩訶薩の所行の如き道は、阿耨多羅三藐三菩提を得ればなり。是の新発意の菩薩も応に六波羅蜜を学ぶべし。謂わゆる檀波羅蜜、尸羅波羅蜜、羼提波羅蜜、毘梨耶波羅蜜、禅波羅蜜、般若波羅蜜なり』。
須菩提!
『菩薩摩訶薩』が、
是のように、
『思惟して!』、
『阿耨多羅三藐三菩提の心』を、
『発す!』のは、
『一切の!』、
『衆生』を、
『度そうとするからである!』。
『菩薩摩訶薩の所行である!』、
『次第の行、次第の学、次第の道』とは、
例えば、
『過去の諸の菩薩摩訶薩の行じたような!』、
『道』は、
『阿耨多羅三藐三菩提を得るのであるから!』、
是の、
『新発意の菩薩』は、
当然、
『六波羅蜜、謂わゆる檀、尸羅、羼提、毘梨耶、禅、般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』。
是菩薩摩訶薩若行檀波羅蜜時。自行布施亦教人行布施。讚歎行布施功德。歡喜讚歎行布施者。以是布施因緣故得大財富。是菩薩遠離慳心布施眾生。飲食衣服香華瓔珞房舍臥具燈燭種種資生所須盡給與之。 『是の菩薩摩訶薩は、若し檀波羅蜜を行ずる時に、自ら布施を行じ、亦た人に教えて、布施を行ぜしめ、布施を行ずる功徳を讃歎し、布施を行ずる者を歓喜して讃歎すれば、是の布施の因縁を以っての故に、大財富を得ん。是の菩薩は、慳心を遠離して、、衆生に飲食、衣服、香華、瓔珞、房舎、臥具、灯燭を布施して、種種の資生の所須を尽く、之に給与す』。
是の、
『菩薩摩訶薩』が、
若し、
『檀波羅蜜を行じる!』時、
自ら、
『布施を行じながら!』、
『人に教えて!』、
『布施を行じさせ!』、
『布施を行じる功徳を讃歎して!』、
『布施を行じる!』者を、
『歓喜して!』、
『讃歎すれば!』、
是の、
『布施の因縁』の故に、
『大財富』を、
『得るだろう!』。
是の、
『菩薩』は、
『慳心を遠離して!』、
『衆生』に、
『飲食、衣服、香華、瓔珞、房舎、臥具、灯燭』を、
『布施し!』、
『種種の資生の所須( every requied means of livelihood )』を、
尽く、
『衆生』に、
『給与するのである!』。
菩薩摩訶薩行是布施及持戒。生天人中得大尊貴。以是持戒布施故得禪定眾。以是布施持戒禪定故。得智慧眾解脫眾解脫知見眾。是菩薩因是布施持戒禪定眾智慧眾解脫眾解脫知見眾故。過聲聞辟支佛地入菩薩位。入菩薩位已得淨佛國土成就眾生。得一切種智。得一切種智已轉法輪。轉法輪已以三乘法度脫眾生生死。 『菩薩摩訶薩は、是の布施、及び持戒を行じて、天人中に生じ、大尊貴を得れば、是の持戒、布施を以っての故に、禅定衆を得、是の布施、持戒、禅定を以っての故に、智慧衆、解脱衆、解脱知見衆を得ん。是の菩薩は、是の布施、持戒、禅定衆、智慧衆、解脱衆、解脱知見衆に因るが故に、声聞、辟支仏の地を過ぎて、菩薩位に入り、菩薩位に入り已りて、仏国土を浄め、衆生を成就するを得、一切種智を得、一切種智を得已りて、法輪を転じ、法輪を転じ已りて、三乗の法を以って、衆生を生死より度脱す』。
『菩薩摩訶薩』は、
是の、
『布施と持戒を行じて!』、
『天、人中に生じ!』、
『大尊貴を得れば!』、
是の、
『持戒、布施を用いる!』が故に、
『禅定衆』を、
『得て!』、
是の、
『布施、持戒、禅定を用いる!』が故に、
『智慧衆、解脱衆、解脱知見衆』を、
『得るだろう!』。
是の、
『菩薩』は、
是の、
『布施、持戒、禅定衆、智慧衆、解脱衆、解脱知見衆に因る!』が故に、
『声聞、辟支仏の地を過ぎて!』、
『菩薩位に入り!』、
『菩薩位に入ったならば!』、
『仏国土を浄めて!』、
『衆生を成就し!』、
『一切種智を得ることになり!』、
『一切種智を得たならば!』、
『法輪』を、
『転じることになり!』、
『法輪を転じたならば!』、
『三乗の法を用いて!』、
『衆生』を、
『生死より度脱するだろう!』。
如是須菩提。菩薩以是布施。次第行次第學次第道。是皆不可得。何以故。自性無所有故。 『是の如く須菩提、菩薩は、是の布施を以って、次第に行じ、次第に学び、次第に道びくも、是れ皆不可得なり。何を以っての故に、自性にして無所有なるが故なり』。
是のように、
須菩提!
『菩薩』は、
是の、
『布施を用いて!』、
『次第に行じ!』、
『次第に学び!』、
『次第に道びく!』が、
是れは、
皆、
『不可得である!』。
何故ならば、
『自性が!』、
『無所有だからである!』。
復次須菩提。菩薩摩訶薩從初發意自行持戒教人持戒。讚歎持戒功德。歡喜讚歎行持戒者。持戒因緣故。生天人中得大尊貴。見貧窮者施以財物。不持戒者教令持戒。亂意者教令禪定。愚癡者教令智慧。無解脫者教令解脫。無解脫知見者教令解脫知見。 『復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は、初発意より、自ら持戒を行じ、人に教えて持戒せしめ、持戒の功徳を讃歎し、持戒を行ずる者を歓喜し、讃歎すれば、持戒の因縁の故に、天人中に生じ、大尊貴を得て、貧窮の者を見れば、施すに財物を以ってし、持戒せざる者には、教えて持戒せしめ、乱意の者には、教えて禅定ならしめ、愚癡の者には教えて智慧ならしめ、解脱無き者には教えて解脱せしめ、解脱知見無き者には、教えて解脱知見ならしむ』。
復た次ぎに、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』は、
『初発意より!』、
自ら、
『持戒を行じながら!』、
『人に教えて!』、
『持戒させ!』、
『持戒の功徳を讃歎して!』、
『持戒を行じる!』者を、
『歓喜、讃歎する!』ので、
『持戒の因縁』の故に、
『天、人中に生じて、大尊貴を得!』、
『貧窮の者を見れば!』、
『財物』を、
『施し!』、
『持戒しない者には!』、
『教えて!』、
『持戒させ!』、
『乱意の者には!』、
『教えて!』、
『禅定に入らせ!』、
『愚癡の者には!』、
『教えて!』、
『智慧を得させ!』、
『解脱の無い者には!』、
『教えて!』、
『解脱を得させ!』、
『解脱知見の無い者には!』、
『教えて!』、
『解脱知見を得させる!』。
以是持戒禪定智慧解脫解脫知見故。過聲聞辟支佛地入菩薩位。入菩薩位已得淨佛國土。淨佛國土已成就眾生。成就眾生已得一切種智。得一切種智已轉法輪。轉法輪已以三乘法度脫眾生。如是須菩提。菩薩以是持戒。次第行次第學次第道。是事皆不可得。何以故。一切法自性無所有故。 『是の持戒、禅定、智慧、解脱、解脱知見を以っての故に、声聞、辟支仏の地を過ぎて、菩薩位に入り、菩薩位に入り已りて仏国土を浄むるを得、仏国土を浄め已りて、衆生を成就し、衆生を成就し已りて、一切種智を得、一切種智を得已りて法輪を転じ、法輪を転じ已りて、三乗の法を以って衆生を度脱す。是の如く、須菩提、菩薩は、是の持戒を以って、次第に行じ、次第に学び、次第に道びくも、是の事は皆不可得なり。何を以っての故に、一切法の自性は無所有なるが故なり』。
是の、
『持戒、禅定、智慧、解脱、解脱知見(≒五分法身)を用いる!』が故に、
『声聞、辟支仏の地を過ぎて!』、
『菩薩位』に、
『入り!』、
『菩薩位に入ったならば!』、
『仏国土』を、
『浄めることができ!』、
『仏国土を浄めたならば!』、
『衆生』を、
『成就し!』、
『衆生を成就したならば!』、
『一切種智』を、
『得!』、
『一切種智を得たならば!』、
『法輪』を、
『転じ!』、
『法輪を転じたならば!』、
『三乗の法を用いて!』、
『衆生を度脱する!』。
是のように、
須菩提!
『菩薩』は、
是の、
『持戒を用いて!』、
『次第に行じ!』、
『次第に学び!』、
『次第に道びく!』が、
是の、
是の、
『事』は、
『皆、不可得である!』。
何故ならば、
『一切法』は、
『自性として!』、
『無所有だからである!』。
復次須菩提。菩薩摩訶薩從初以來。自行羼提波羅蜜。教人行羼提。讚歎羼提功德。歡喜讚歎行羼提者。行羼提波羅蜜時。布施眾生各令滿足。教令持戒教令禪定。乃至解脫知見。 『復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は、初より以来、自ら羼提波羅蜜を行じ、人に教えて、羼提を行ぜしめ、羼提の功徳を讃歎し、羼提を行ずる者を歓喜し讃歎すれば、羼提波羅蜜を行ずる時、衆生に布施して、各に満足ならしめ、教えて持戒せしめ、教えて禅定、乃至解脱知見ならしむ』。
復た次ぎに、
須菩提!
『菩薩摩訶薩は、初より!』、
自ら、
『羼提波羅蜜を行じながら!』、
『人に教えて!』、
『羼提を行じさせ!』、
『羼提の功徳を讃歎して!』、
『羼提を行じる!』者を、
『歓喜し、讃歎する!』ので
『羼提波羅蜜を行じる!』時には、
『衆生に布施して!』、
『各に!』、
『満足させ!』、
『衆生に教えて!』、
『持戒』を、
『行じさせ!』、
『衆生に教えて!』、
『禅定』に、
『入らせ!』、
乃至、
『解脱知見』を、
『得させるのである!』。
以是布施持戒禪定智慧因緣故。過阿羅漢辟支佛地入菩薩位中。入菩薩位中已得淨佛世界。淨佛世界。已成就眾生。成就眾生已得一切種智。得一切種智已轉法輪。轉法輪已以三乘法度脫眾生。 『是の布施、持戒、禅定、智慧の因縁を以っての故に、阿羅漢、辟支仏の地を過ぎて、菩薩位中に入り、菩薩位中に入り已りて、仏世界を浄むるを得、仏世界を浄め已りて、衆生を成就し、衆生を成就し已りて、一切種智を得、一切種智を得已りて法輪を転じ、法輪を転じ已りて、三乗の法を以って、衆生を度脱す』。
是の、
『布施、持戒、禅定、智慧の因縁』の故に、
『阿羅漢、辟支仏の地を過ぎて!』、
『菩薩位』中に、
『入るのである!』が、
『菩薩位中に入ったならば!』、
『仏世界』を、
『浄めることができ!』、
『仏世界を浄めたならば!』、
『衆生』を、
『成就し!』、
『衆生を成就したならば!』、
『一切種智』を、
『得!』、
『一切種智を得たならば!』、
『法輪』を、
『転じ!』、
『法輪を転じたならば!』、
『三乗の法を用いて!』、
『衆生を度脱する!』。
如是須菩提。菩薩以羼提波羅蜜。次第行次第學次第道。是事皆不可得。何以故。一切法自性無所有故。 『是の如く須菩提、菩薩は、羼提波羅蜜を以って、次第に行じ、次第に学び、次第に道びくも、是の事は皆不可得なり。何を以っての故に、一切法の自性は無所有なるが故なり』。
是のように、
須菩提!
『菩薩』は、
『羼提波羅蜜を用いて!』、
『次第に行じ!』、
『次第に学び!』、
『次第に道びく!』が、
是の、
『事』は、
『皆、不可得なのである!』。
何故ならば、
『一切法の自性』は、
『無所有だからである!』。
復次須菩提。菩薩摩訶薩從初以來。自行毘梨耶波羅蜜。教人行毘梨耶。讚歎行毘梨耶功德。歡喜讚歎行毘梨耶者。乃至是事不可得。自性無所有故。 『復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は、初より以来、自ら毘梨耶波羅蜜を行じ、人に教えて毘梨耶を行ぜしめ、毘梨耶を行ずる功徳を讃歎し、毘梨耶を行ずる者を歓喜し、讃歎するも、乃至是の事は不可得なるは、自性の無所有なるが故なり』。
復た次ぎに、
須菩提!
『菩薩摩訶薩は、初より!』
自ら、
『毘梨耶波羅蜜を行じながら!』、
『人に教えて!』、
『毘梨耶を行じさせ!』、
『毘梨耶を行じる功徳を讃歎して!』、
『毘梨耶を行じる!』者を、
『歓喜し、讃歎する!』が、
乃至、
是の、
『事が、不可得である!』のは、
『自性』が、
『無所有だからである!』。
復次須菩提。菩薩摩訶薩從初以來。自入禪入無量心入無色定。亦教人入禪入無量心入無色定。讚歎入禪入無量心入無色定功德。歡喜讚歎行禪無量心無色定者。 『復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は、初より以来、自ら禅に入り、無量心に入り、無色定に入り、亦た人に教えて、禅に入らしめ、無量心に入らしめ、無色定に入らしめ、禅に入り、無量心に入り、無色定に入る功徳を讃歎し、禅、無量心、無色定を行ずる者を歓喜し、讃歎す』。
復た次ぎに、
須菩提!
『菩薩摩訶薩は、初より!』、
自ら、
『禅、無量心、無色定に入りながら!』、
『人に教えて!』、
『禅、無量心、無色定に入らせ!』、
『禅、無量心、無色定に入る功徳を讃歎して!』、
『禅、無量心、無色定に入る!』者を、
『歓喜し、讃歎する!』。
是菩薩住諸禪定無量心。布施眾生各令滿足。教令持戒教令禪定智慧。以是布施禪定智慧解脫解脫知見因緣故。過阿羅漢辟支佛地入菩薩位。入菩薩位已淨佛世界。淨佛世界已成就眾生。成就眾生已得一切種智。得一切種智已轉法輪。轉法輪已以三乘法度脫一切眾生。乃至是事不可得。自性無所有故。 『是の菩薩は、諸の禅、定、無量心に住して、衆生に布施し、各に満足ならしめ、教えて持戒ならしめ、教えて禅定、智慧ならしむれば、是の布施、禅定、智慧、解脱、解脱知見の因縁を以っての故に、阿羅漢、辟支仏の地を過ぎて、菩薩位に入り、菩薩位に入り已りて、仏世界を浄め、仏世界を浄め已りて、衆生を成就し、衆生を成就し已りて、一切種智を得、一切種智を得已りて、法輪を転じ、法輪を転じ已りて、三乗の法を以って、一切の衆生を度脱するも、乃至是の事の不可得なるは、自性の無所有なるが故なり』。
是の、
『菩薩』は、
『諸の禅定、無量心に住しながら!』、
『衆生に布施して!』、
『各に!』、
『満足させ!』、
『衆生に教えて!』、
『持戒』を、
『行じさせ!』、
『衆生に教えて!』、
『禅定、智慧』を、
『得させるのである!』が、
是の、
『布施、禅定、智慧、解脱、解脱知見の因縁』の故に、
『阿羅漢、辟支仏の地を過ぎて!』、
『菩薩位』中に、
『入るのである!』が、
『菩薩位中に入ったならば!』、
『仏世界』を、
『浄め!』、
『仏世界を浄めたならば!』、
『衆生』を、
『成就し!』、
『衆生を成就したならば!』、
『一切種智』を、
『得!』、
『一切種智を得たならば!』、
『法輪』を、
『転じ!』、
『法輪を転じたならば!』、
『三乗の法を用いて!』、
『衆生を度脱する!』が、
乃至、
是の、
『事が不可得である!』のは、
『自性が無所有だからである!』。
復次須菩提。菩薩摩訶薩從初以來。行般若波羅蜜。布施眾生各令滿足。教令持戒禪定智慧解脫解脫知見。是菩薩行般若波羅蜜時。自行六波羅蜜。亦教他人令行六波羅蜜。讚歎六波羅蜜功德。歡喜讚歎行六波羅蜜者。 『復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は、初より以来、般若波羅蜜を行じて、衆生に布施して、各に満足ならしめ、教えて、持戒、禅定、智慧、解脱、解脱知見ならしむ。是の菩薩は、般若波羅蜜を行ずる時、自ら六波羅蜜を行じ、亦た他人に教えて、六波羅蜜を行ぜしめ、六波羅蜜の功徳を讃歎し、六波羅蜜を行ずる者を歓喜し、讃歎す』。
復た次ぎに、
須菩提!
『菩薩摩訶薩は、初より!』、
『般若波羅蜜を行じながら!』、
『衆生に布施して!』、
『各に!』、
『満足させ!』、
『衆生に教えて!』、
『持戒、禅定、智慧、解脱、解脱知見』を、
『得させる!』。
是の、
『菩薩は、般若波羅蜜を行じる!』時、
自ら、
『六波羅蜜を行じながら!』、
『他人に教えて!』、
『六波羅蜜を行じさせ!』、
『六波羅蜜の功徳を讃歎して!』、
『六波羅蜜を行じる!』者を、
『歓喜し、讃歎する!』。
是菩薩以是檀波羅蜜尸羅波羅蜜羼提波羅蜜毘梨耶波羅蜜禪波羅蜜般若波羅蜜因緣及方便力。過聲聞辟支佛地入菩薩位。乃至是事不可得。自性無所有故。須菩提。是名初發意菩薩摩訶薩次第行次第學次第道。 『是の菩薩は、檀波羅蜜、尸羅波羅蜜、羼提波羅蜜、毘梨耶波羅蜜、禅波羅蜜、般若波羅蜜の因縁、及び方便力を以って、声聞、辟支仏の地を過ぎて菩薩位に入るも、乃至是の事の不可得なるは、自性の無所有なるが故なり。須菩提、是れを初発意の菩薩摩訶薩の次第の行、次第の学、次第の道と名づく』。
是の、
『菩薩』は、
是の、
『檀、尸羅、羼提、毘梨耶、禅、般若波羅蜜』の、
『因縁と、方便の力』の故に、
『声聞、辟支仏の地を過ぎて!』、
『菩薩位』に、
『入りながら!』、
乃至、
是の、
『事が不可得である!』のは、
『自性』が、
『無所有だからである!』。
須菩提!
是れを、
『初発意の菩薩摩訶薩』の、
『次第の行、次第の学、次第の道』と、
『称する!』。
復次須菩提。菩薩摩訶薩次第行次第學次第道。菩薩摩訶薩從初以來。以一切種智相應心。信解諸法無所有性。修六念。所謂念佛念法念僧念戒念捨念天。 『復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は、次第に行じ、次第に学び、次第に道びくに、菩薩摩訶薩は初より以来、一切種智相応の心を以って、諸法の無所有性を信解して、六念を修む、謂わゆる念仏、念法、念僧、念戒、念捨、念天なり』。
復た次ぎに、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』は、
『次第に行じ!』、
『次第に学び!』、
『次第に道びきながら!』、
『菩薩摩訶薩は、初より!』、
『一切種智相応の心を用いて!』、
『諸法』の、
『無所有性』を、
『信解して!』、
『六念』、謂わゆる――
『念仏、念法、念僧、念戒、念捨、念天』を、
『修めるのである!』。
須菩提。云何菩薩摩訶薩修念佛。菩薩摩訶薩念佛不以色念。不以受想行識念。何以故。是色自性無。受想行識自性無。若法自性無。是為無所有。何以故。無憶故。是為念佛。 『須菩提、云何が、菩薩摩訶薩は念仏を修むる。菩薩摩訶薩の念仏は、色を以って念ぜず、受想行識を以って念ぜず。何を以っての故に、是の色の自性無く、受想行識の自性なければなり。若し法に自性無ければ、是れを無所有と為す。何を以ての故に、憶無きが故なり。是れを念仏と為す』。
須菩提!
何のように、
『菩薩摩訶薩』は、
『念仏』を、
『修めるのか?』、――
『菩薩摩訶薩の念仏』は、
『色を用いて!』、
『仏』を、
『念じるのでもなく!』、
『受想行識を用いて!』、
『仏』を、
『念じるのでもない!』。
何故ならば、
是の、
『色』には、
『自性』が、
『無く!』、
『受想行識』にも、
『自性』が、
『無い!』が、
若し、
『法に、自性が無ければ!』、
是の、
『法』は、
『無所有だからである!』。
何故ならば、
『憶( that which is remembered )』が、
『無いからであり!』、
是れが、
『念仏である!』。
  (おく):◯梵語 √(smR) の訳、想い出すこと( to remember )の義。◯梵語 smRti の訳、記憶( memory )の義。梵語 smRta の訳、記憶された/記憶( remenbered, remembrance )の義。
復次須菩提。菩薩摩訶薩念佛。不以三十二相念。亦不念金色身。不念丈光。不念八十隨形好。何以故。是佛身自性無故。若法無性是為無所有。何以故。無憶故。是為念佛。 『復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩の念仏は、三十二相を以って念ぜず、亦た金色身を念ぜず、丈光を念ぜず、八十随形好を念ぜず。何を以っての故に、是の仏身は自性無きが故なり。若し法にして無性なれば、是れを無所有と為す。何を以っての故に、憶無きが故なり。是れを念仏と為す』。
復た次ぎに、
須菩提!
『菩薩摩訶薩の念仏』は、
『三十二相を用いて!』、
『仏』を、
『念じるのでもなく!』、
亦た、
『金色身や、丈光や、八十随形好』を、
『念じるのでもない!』。
何故ならば、
是の、
『仏身』は、
『自性が無いからであり!』、
若し、
『法が無性ならば!』、
是の、
『法』は、
『無所有だからである!』。
何故ならば、
『憶』が、
『無いからであり!』、
是れが、
『念仏である!』。
復次須菩提。不應以戒眾念佛。不應以定眾智慧眾解脫眾解脫知見眾念佛。何以故。是眾無有自性。若法無自性。是為非法無所有。念是為念佛。 『復た次ぎに、須菩提、応に戒衆を以って、念仏すべからず。応に定衆、智慧衆、解脱衆、解脱知見衆を以って、念仏すべからず。何を以っての故に、是の衆は、自性有ること無ければなり。若し法に自性無ければ、是れを非法と為す。無所有の念は、是れを念仏と為す』。
復た次ぎに、
須菩提!
『戒衆を用いて!』、
『仏』を、
『念じてはならず!』、
『定衆、智慧衆、解脱衆、解脱知見衆を用いて!』、
『仏』を、
『念じてはならない!』。
何故ならば、
是の、
『衆』には、
『自性が無いからである!』。
若し、
『法に、自性が無ければ!』、
是の、
『法』は、
『法でない!』。
若し、
『無所有を念じれば!』、
是れが、
『仏』を、
『念じるということである!』。
復次須菩提。不應以十力念佛。不應以四無所畏四無礙智十八不共法念佛。不應以大慈大悲念佛。何以故。是諸法自性無。若法自性無。是為非法。無所念是為念佛。 『復た次ぎに、須菩提、応に十力を以って念仏すべからず。応に四無所畏、四無礙智、十八不共法を以って念仏すべかあず。応に大慈大悲を以って、念仏すべからず。何を以っての故に、是の諸法は自性無ければなり。若し法に自性無ければ、是れを非法と為す。所念無き、是れを念仏と為す』。
復た次ぎに、
須菩提!
『十力や、四無所畏、四無礙智、十八不共法、大慈大悲を用いて!』、
『仏』を、
『念じてはならない!』。
何故ならば、
是の、
『諸法』には、
『自性が無いからである!』。
若し、
『法に、自性が無ければ!』、
是の、
『法』は、
『法でない!』。
若し、
『所念が無ければ( there is nothing conceived )!』、
是れが、
『仏』を、
『念じるということである!』。
  (ねん):梵語 anu√(smR), smaraNa の訳、全てを押しのけてある事物をありありと想い出す( recalling some idea to the exclusion of all others )、心に思い起す行為( the act of remembering or calling to mind )の義。
復次須菩提。不應以十二因緣法念佛。何以故。是因緣法自性無。若法自性無是為非法。無所念是為念佛。如是須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時應念佛。是為菩薩初發意次第行次第學次第道。 復た次ぎに、須菩提、応に十二因縁の法を以って念仏すべからず。何を以っての故に、是の因縁の法は、自性無ければなり。若し法に自性無ければ、是れを非法と為す。所念無き、是れを念仏と為す。是の如く須菩提、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずる時、応に念仏すべし。是れを菩薩の初発意の次第の行、次第の学、次第の道と為す。
復た次ぎに、
須菩提!
『十二因縁の法を用いて!』、
『仏』を、
『念じてはならない!』。
何故ならば、
是の、
『因縁の法』には、
『自性が無いからである!』。
若し、
『法に、自性が無ければ!』、
是の、
『法』は、
『法でなく!』、
『所念が、無ければ!』、
是れが、
『仏』を、
『念じるということである!』。
是のように、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』は、
『般若波羅蜜を行じる!』時、
『仏』を、
『念じねばならないのであり!』、
是れが、
『菩薩の初発意』の、
『次第の行であり!』、
『次第の学であり!』、
『次第の道である!』。
是菩薩摩訶薩次第行次第學次第道中住。能具足四念處四正勤四如意足五根五力七覺分八聖道分。修行空三昧無相無作三昧乃至一切種智。諸法性無所有故。是菩薩知諸法性無所有。是中無有性無無性。 『是の菩薩摩訶薩は、次第の行、次第の学、次第の道中に住して、能く四念処、四正勤、四如意足、五根五力、七覚分、八聖道分を具足し、空三昧、無相、無作三昧を修行すれば、乃至一切種智まで、諸法の性は無所有なるが故に、是の菩薩の知るらく、『諸法の性は無所有にして、是の中には有性無く、無性無し』、と』。
是の、
『菩薩摩訶薩』は、
『次第の行、次第の学、次第の道中に住して!』、
『四念処、四正勤、四如意足、五根五力、七覚分、八聖道分を具足して!』、
『空、無相、無作三昧』を、
『修行すれば!』、
乃至、
『一切種智まで!』、
『諸法の性』は、
『無所有である!』が故に、
是の、
『菩薩』は、 こう知る、――
『諸法の性は、無所有であり!』、
是の中には、
『有性も、無性も!』、
『無い!』、と。
須菩提。云何菩薩摩訶薩應修念法。須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。不念善法。不念不善法。不念記法無記法。不念世間法。不念出世間法。不念淨法。不念不淨法。不念聖法。不念凡夫法。不念有漏法。不念無漏法。不念欲界繫法色界繫法無色界繫法不念有為法無為法。 『須菩提、云何が、菩薩摩訶薩は応に念法を修するべき。須菩提、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずる時、善法を念ぜず、不善法を念ぜず、記法、無記法を念ぜず、世間法を念ぜず、出世間法を念ぜず、浄法を念ぜず、不浄法を念ぜず、聖法を念ぜず、凡夫法を念ぜず、有漏法を念ぜず、無漏法を念ぜず、欲界繋法、色界繋法、無色界繋法を念ぜず、有為法、無為法を念ぜず』。
須菩提!
何のように、
『菩薩摩訶薩』は、
『念法』を、
『修めねばならないのか?』、――
須菩提!
『菩薩が、般若波羅蜜を行じる!』時には、
『善法や、不善法や!』、
『記法や、無記法を!』、
『念じることもなく!』、
『世間法や、出世間法や!』、
『浄法や、不浄法や!』、
『聖法や、凡夫法を!』
『念じることもなく!』、
『有漏法や、無漏法や!』、
『欲界繋法や、色界繋法や、無色界繋法や!』、
『有為法や、無為法を!』、
『念じることはない!』。
何以故。是諸法自性無。若法自性無是為非法。無所念是為念法。念法中學無所有性故。乃至當得一切種智。 『何を以っての故に、是の諸法は自性無ければなり。若し法に自性無ければ、是れを非法と為す。所念無き、是れを念法と為し、念法中に無所有性を学ぶが故に、乃至当に一切種智を得べし』。
何故ならば、
是の、
『諸法』には、
『自性が無いからである!』。
若し、
『法に自性が無ければ!』、
是の、
『法』は、
『法でなく!』、
『所念が無ければ!』、
是れが、
『法』を、
『念じるということである!』が、
『法を念じる!』中に、
『無所有性』を、
『学ぶ!』が故に、
乃至、
『一切種智まで!』、
『得られるのである!』。
是菩薩得阿耨多羅三藐三菩提時。得諸法無所有性。是無所有性中非有相非無相。如是須菩提。菩薩摩訶薩應修念法。於是法中乃至無少許念。何況念法。 是の菩薩は、阿耨多羅三藐三菩提を得る時、諸法の無所有性を得るも、是の無所有性中には、相有るに非ず、相無きに非ず。是の如く須菩提、菩薩摩訶薩は、応に念法を修するに、是の法中に於いて、乃至少しばかりの念すら無かるべし。何に況んや法を念ずるをや。
是の、
『菩薩が、阿耨多羅三藐三菩提を得た!』時には、
『諸法』の、
『無所有性』を、
『得る( to understand deeply )!』が、
是の、
『無所有性』中には、
『相が、有るのでもなく!』、
『相が、無いのでもない!』。
是のように、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』は、
『念法を修めながら!』、
是の、
『法』中には、
乃至、
『少しばかりの、念すら!』、
『無いのであり!』、
況して、
『法を念じるなど!』、
『言うまでもないのである!』。
須菩提。菩薩摩訶薩云何應修念僧。須菩提。菩薩摩訶薩念僧。無為法故分別有佛弟子眾。是中乃至無有少許念。何況念僧。如是菩薩摩訶薩應修念僧。 『須菩提、菩薩摩訶薩は、云何が応に念僧を修すべき。須菩提、菩薩摩訶薩の念僧は、無為法なるが故に、分別して仏弟子衆有るも、是の中には乃至少許りの念すら有ること無し。何に況んや僧を念ずるをや。是の如く菩薩摩訶薩は、応に念僧を修すべし』。
須菩提!
『菩薩摩訶薩』は、
何のように、
『念僧』を、
『修めねばならないのか?』、――
須菩提!
『菩薩摩訶薩』の、
『念僧は、無為法である!』が故に、
『仏弟子衆が有る!』と、
『分別しても!』、
是の、
『仏弟子』中には、
『少許りの念すら!』、
『無い!』、
況して、
『僧( all crowds of monks )を念じるなど!』、
『尚更である!』。
是のように、
『菩薩摩訶薩』は、
『念僧』を、
『修めねばならない!』。
須菩提。菩薩摩訶薩云何應修念戒須菩提。菩薩摩訶薩從初發意已來。應念聖戒無缺戒無隙戒無瑕戒無濁戒無著戒自在戒智者所讚戒具足戒隨定戒。應念是戒無所有性。乃至無少許念。何況念戒。 『須菩提、菩薩摩訶薩は、云何が応に念戒を修すべき。須菩提、菩薩摩訶薩は、初発意より已来、応に聖戒、無缺戒、無隙戒、無瑕戒、無濁戒、無著戒、自在戒、智者所讃の戒、具足戒、随定戒を念ずべく、是の戒の無所有性を念ずべくして、乃至少許りの念すら無し。何に況んや戒を念ずるをや』。
須菩提!
『菩薩摩訶薩』は、
何のように、
『念戒』を、
『修めねばならないのか?』、――
須菩提!
『菩薩摩訶薩』は、
『初発意より!』、
『聖戒、無缺戒、無隙戒、無瑕戒、無濁戒、無著戒、自在戒や!』、
『智者所讃の戒、具足戒、随定戒を!』、
『念じねばならず!』、
是の、
『戒』の、
『無所有性』を、
『念じねばならない!』が、
乃至、
『少許り!』の、
『念すら!』、
『無いのである!』。
況して、
『戒を念じるなど!』、
『言うまでもない!』。
須菩提。菩薩摩訶薩從初發意已來應念捨。若自念捨若念他捨。若捨財若捨法若捨煩惱觀是捨不可得故乃至無少許念。何況念捨。如是須菩提。菩薩摩訶薩應念捨。 『須菩提、菩薩摩訶薩は、初発意より已来、応に捨を念じて、若しは自ら捨を念じ、若しは他の捨を念じ、若しは財を捨し、若しは法を捨し、若しは煩悩を捨すべきも、是の捨の不可得を観るが故に、乃至少許りの念すら無し。何に況んや捨を念ずるをや。是の如く、須菩提、菩薩摩訶薩は、応に捨を念ずべし』。
須菩提!
『菩薩摩訶薩』は、
『初発意より!』、
『捨を念じて!』、
『自ら、捨を念じたり!』、
『他の、捨を念じたりして!』、
『財を捨てたり!』、
『法を捨てたり!』、
『煩悩を捨てたりせねばならない!』が、
是の、
『捨すら、不可得であると観る!』が故に、
乃至、
『少許りの念すら!』、
『無いのであり!』、
況して、
『捨を念じることなど!』、
『言うまでもない!』。
是のように、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』は、
『捨』を、
『念じねばならないのである!』。
須菩提。云何菩薩摩訶薩應念天。須菩提。菩薩作是念。四天王諸天所有信戒施聞慧。此間命終生彼天處。我亦有是信戒施聞慧。乃至他化自在天所有信戒施聞慧。此間命終生彼天處。我亦有是信戒施聞慧。 『須菩提、云何が、菩薩摩訶薩は応に天を念ずべき。須菩提、菩薩は、是の念を作さく、『四天王の諸天所有の信、戒、施、聞、慧は、此の間に命終りて、彼の天処に生ずれば、我れにも亦た是の信、戒、施、聞、慧有り。乃至他化自在天所有の信、戒、施、聞、慧は、此の間に命終りて、彼の天処に生ずれば、我れにも亦た是の信、戒、施、聞、慧有り』、と。
須菩提!
『菩薩摩訶薩』は、
何のように、
『天』を、
『念じねばならないのか?』、――
須菩提!
『菩薩』は、こう念じるだろう、――
『四天王の諸天に有る!』、
『信、戒、施、聞、慧』は、
『此の間に、命が終って!』、
『彼の天処』に、
『生じれば!』、
わたしにも、
是の、
『信、戒、施、聞、慧』が、
『有るだろう!』。
『乃至他化自在天に有る!』、
『信、戒、施、聞、慧』も、
『此の間に、命が終って!』、
『彼の天処』に、
『生じれば!』、
わたしにも、
是の、
『信、戒、施、聞、慧』が、
『有るだろう!』、と。
如是須菩提。菩薩摩訶薩應念是天。無所有性中尚無少許念。何況念天。須菩提。菩薩摩訶薩行是六念。是名次第行次第學次第道。 『是の如く、須菩提、菩薩摩訶薩は、応に是の天を念ずべくも、無所有性中には、尚お少許りの念すら無し。何に況んや、天を念ずるをや。須菩提、菩薩摩訶薩は、是の六念を行じて、是れを次第の行、次第の学、次第の道と名づく』。
是のように、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』は、
是の、
『天』を、
『念じねばならない!』が、
是の、
『無所有性』中には、
尚お、
『少許りの念すら!』、
『無いのであり!』、
況して、
『天を念じることなど!』、
『言うまでもない!』。
須菩提!
『菩薩摩訶薩』は、
是の、
『六念』を、
『行じるのである!』が、
是れを、
『次第の行、次第の学、次第の道』と、
『称するのである!』。
爾時須菩提白佛言。世尊。若一切法無所有性。所謂念色乃至識眼乃至意色乃至法。是無所有性。眼界乃至意識界。是無所有性。檀波羅蜜乃至般若波羅蜜。內空乃至無法有法空。四念處乃至八聖道分。佛十力乃至一切種智。是無所有性。世尊。若一切法無所有性者。是則無道無智無果。 爾の時、須菩提の仏に白して言さく、『世尊、若し一切法にして無所有性なれば、謂わゆる念ずらく、『色乃至識、眼乃至意、色乃至法は、是れ無所有性なり。眼界乃至意識界は、是れ無所有性なり。檀波羅蜜乃至般若波羅蜜、内空乃至無法有法空、四念処乃至八聖道分、仏の十力乃至一切種智は、是れ無所有性なり』、と。世尊、若し一切法にして、無所有性なれば、是れ則ち道無く、智無く、果無きなり』、と。
爾の時、
『須菩提』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
若し、
『一切法が、無所有性ならば!』、
謂わゆる、こう念じることになります、――
『色乃至識、眼乃至意、色乃至法』は、
『無所有性である!』とか、
『檀波羅蜜、乃至般若波羅蜜や!』、
『内空、乃至無法有法空や!』、
『四念処、乃至八聖道分や!』、
『仏の十力、乃至一切種智は!』、
『無所有性である!』、と。
世尊、
若し、
『一切法が、無所有性ならば!』、
則ち、
『道も、智も、果も!』、
『無いということなのです!』、と。
  参考:『大般若経巻373』:『爾時具壽善現白佛言。世尊。若一切法皆以無性為自性者。則應無色亦無受想行識。應無眼處亦無耳鼻舌身意處。應無色處亦無聲香味觸法處。應無眼界亦無耳鼻舌身意界。應無色界亦無聲香味觸法界。應無眼識界亦無耳鼻舌身意識界。應無眼觸亦無耳鼻舌身意觸。應無眼觸為緣所生諸受亦無耳鼻舌身意觸為緣所生諸受。應無地界亦無水火風空識界。應無因緣亦無等無間緣所緣緣增上緣。應無無明亦無行識名色六處觸受愛取有生老死愁歎苦憂惱。應無布施波羅蜜多亦無淨戒安忍精進靜慮般若波羅蜜多。應無內空亦無外空內外空空空大空勝義空有為空無為空畢竟空無際空散空無變異空本性空自相空共相空一切法空不可得空無性空自性空無性自性空。應無四念住亦無四正斷四神足五根五力七等覺支八聖道支。應無苦聖諦亦無集滅道聖諦。應無四靜慮亦無四無量四無色定。應無八解脫亦無八勝處九次第定十遍處。應無一切三摩地門亦無一切陀羅尼門。應無空解脫門亦無無相無願解脫門。應無極喜地亦無離垢地發光地焰慧地極難勝地現前地遠行地不動地善慧地法雲地。應無五眼亦無六神通。應無佛十力亦無四無所畏四無礙解十八佛不共法。應無大慈亦無大悲大喜大捨。應無無忘失法亦無恒住捨性。應無一切智亦無道相智一切相智。應無預流果亦無一來不還阿羅漢果獨覺菩提。應無一切菩薩摩訶薩行亦無諸佛無上正等菩提。應無佛亦無法僧。應無道亦無果。應無雜染亦無清淨。應無行亦無得無現觀。乃至一切法皆應是無。佛言。善現。於汝意云何。於一切法皆以無性為自性中有性無性為可得不。善現答言。不也世尊。不也善逝。於一切法皆以無性為自性中有性無性俱不可得。佛言。善現。若一切法。皆以無性為自性中有性無性俱不可得。云何汝今可為是問。若一切法皆以無性為自性者。則應無色亦無受想行識。應無眼處亦無耳鼻舌身意處。應無色處亦無聲香味觸法處。應無眼界亦無耳鼻舌身意界。應無色界亦無聲香味觸法界。應無眼識界亦無耳鼻舌身意識界。應無眼觸亦無耳鼻舌身意觸。應無眼觸為緣所生諸受亦無耳鼻舌身意觸為緣所生諸受。應無地界亦無水火風空識界。應無因緣亦無等無間緣所緣緣增上緣。應無無明亦無行識名色六處觸受愛取有生老死愁歎苦憂惱。應無布施波羅蜜多亦無淨戒安忍精進靜慮般若波羅蜜多。應無內空亦無外空內外空空空大空勝義空有為空無為空畢竟空無際空散空無變異空本性空自相空共相空一切法空不可得空無性空自性空無性自性空。應無四念住亦無四正斷四神足五根五力七等覺支八聖道支。應無苦聖諦亦無集滅道聖諦。應無四靜慮亦無四無量四無色定。應無八解脫亦無八勝處九次第定十遍處。應無一切三摩地門亦無一切陀羅尼門。應無空解脫門亦無無相無願解脫門。應無極喜地亦無離垢地發光地焰慧地極難勝地現前地遠行地不動地善慧地法雲地。應無五眼亦無六神通。應無佛十力亦無四無所畏四無礙解十八佛不共法。應無大慈亦無大悲大喜大捨。應無無忘失法亦無恒住捨性。應無一切智亦無道相智一切相智。應無預流果亦無一來不還阿羅漢果獨覺菩提。應無一切菩薩摩訶薩行亦無諸佛無上正等菩提。應無佛亦無法僧。應無道亦無果。應無雜染亦無清淨。應無行亦無得無現觀。乃至一切法皆應是無。時具壽善現白佛言。世尊。我於是法無惑無疑。然當來世有苾芻等或求聲聞乘。或求獨覺乘。或求菩薩摩訶薩乘。彼作是說。佛說一切法皆以無性為其自性。若一切法皆以無性為自性者。誰染誰淨。誰縛誰解。彼於染淨及於縛解不了知故。破戒破見破威儀破淨命。由破戒見威儀淨命當墮地獄傍生鬼界受諸劇苦。輪迴生死難得解脫。我觀未來當有如是可怖畏事。故問如來應正等覺如是深義。然我於此無惑無疑。佛言。善現。善哉善哉。如是如是如汝所說。於一切法皆以無性為自性中有性無性俱不可得。不應於此執有無性』
佛告須菩提。汝見是色性實有不。乃至一切種智實有不。須菩提言。不見也世尊。 仏の須菩提に告げたまわく、『汝は、是の色性を見るに、実に有りや、不や。乃至一切種智は実に有りや、不や』、と。須菩提の言わく、『見ざるなり、世尊』、と。
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
お前は、
是の、
『色は、実に有る!』と、
『見るのか?』。
乃至、
『一切種智は、実に有る!』と、
『見るのか?』、と。
『須菩提』は、こう言った、――
『見ません!』、
世尊!、と。
佛告須菩提。汝若不見諸法實有。云何作是問。 仏の須菩提に告げたまわく、『汝、若し諸法は実に有りと見ざれば、云何が、是の問を作せる』、と。
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
お前は、
若し、
『諸法は、実に有る!』と、
『見なければ!』、
何故、
是の、
『問』を、
『作したのか?』、と。
須菩提言。世尊。我於是法不敢有疑。但為當來世諸比丘求聲聞辟支佛道菩薩道者。是人當如是言。若一切法無所有性。誰垢誰淨誰縛誰解。是不知不解故。而破於戒破正見破威儀破淨命。是人破此事故。當墮三惡道。世尊。我畏當來世有如是事。以是故問佛。世尊。我於是法中信不疑不悔 須菩提の言わく、『世尊、我れは是の法に於いて、敢て疑有るにあらず。但だ、当来の世の諸比丘の声聞、辟支仏道、菩薩道を求むる者の為めなり。是の人は、当に是の如く言うべし、『若し一切法にして、無所有性なれば、誰か垢づき、誰か浄むる、誰か縛され、誰か解する』、と。是れは知らず、解せざるが故に、戒を破り、正見を破り、威儀を破り、浄命を破らん。是の人は、此の事を破るが故に、当に三悪道に堕すべし。世尊、我れは当来の世に、是の如き事有るを畏れ、是を以っての故に、仏に問えり。世尊、我れは是の法中に於いて信じて、疑わず、悔いざるなり』、と。
『須菩提』は、こう言った、――
世尊!
わたしは、
是の、
『法』を、
敢て、
『疑うようなこと!』は、
『有りません!』が、
但だ、
『当来の世』の、
『声聞、辟支仏道や、菩薩道を求める者の為めに!』、
『問うただけです!』。
是の、
『人』は、こう言うでしょう、――
若し、
『一切法が、無所有性ならば!』、
『誰が垢づき、誰が浄めるのか?』、
『誰が縛され、誰が解くのか?』、と。
是の、
『人』が、
『法を知らず、解せない!』が故に、
『戒や、正見や、威儀や、浄命』を、
『破ることになれば!』、
是の、
『人』は、
『此の事を破る!』が故に、
『三悪道』に、
『堕ちることになるのです!』。
世尊!
わたしは、
『当来の世』に、
是のような、
『事が有る!』のを、
『畏れて!』、
是の故に、
『仏に!』、
『問うたのです!』。
世尊!
わたしは、
是の、
『法中に信じており!』、
『疑うこともなく!』、
『悔やむこともないのです!』、と。



【論】次第の行、次第の学、次第の道

【論】釋曰。須菩提信受佛語。一切諸法雖空。而能起四禪神通。是大菩薩近成佛者能行。今未知新發意者云何行。是故疑問佛。世尊新發意菩薩摩訶薩。云何於諸法無所有性中。次第行次第學次第道。用是次第行得阿耨多羅三藐三菩提。 釈して曰く、須菩提の、仏の語を信受すらく、『一切の諸法は空なりと雖も、能く四禅、神通を起す』、と。是の大菩薩は、近く仏と成る者なれば、能く行ずるも、今の、未だ知らざる新発意の者は、云何が行ぜん。是の故に疑いて仏に問わく、『世尊、新発意の菩薩摩訶薩は、云何が諸法の無所有性中に於いて、次第に行じ、次第に学び、次第に道びき、是の次第の行を用いて、阿耨多羅三藐三菩提を得るや』、と。
釈す、
『須菩提』は、
『仏の語』を、こう信受した、――
『一切の諸法は、空である!』が、
『四禅や、神通』を、
『起させることができる!』、と。
『須菩提の意』は、こうである、――
是の、
『大菩薩』は、
『近く、仏と成る者であり!』、
『行うこともできよう!』が、
今の、
『諸法の無所有性を、未だ知らない!』、
『新発意の者』が、
何故、
『諸法の無所有性』を、
『行じることができるのか?』、と。
是の故に、
『仏語を疑い!』、こう問うた、――
世尊!
『新発意の菩薩摩訶薩』が、
何故、
『諸法の無所有性』中に於いて、
『次第に行じ!』、
『次第に学び!』、
『次第に道びきながら!』、
是の、
『次第の行を用いて!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得るのですか?』、と。
以次第行次第學次第道故。當知是新發意菩薩雖無量劫發意。未得諸法實相。皆名新學。 次第の行、次第の学、次第の道を以っての故に、当に知るべし、是の新発意の菩薩は、無量劫に発意すと雖も、未だ諸法の実相を得ず、皆、新学と名づくるなり。
『次第に行じ、次第に学び、次第に道びく
their practices, studyings and leadings are step by step )!』が故に、
当然、こう知らねばならない、――
是の、
『新発意の菩薩』は、
『無量劫に発意しながら!』、
未だ、
『諸法の実相』を、
『得ることなく!』、
皆、
『新学』と、
『呼ばれるのである!』。
問曰。若如是人是新學。但應教行布施持戒等。佛何以教令於諸法無所有畢竟空性中行。 問うて曰く、若し是の如き人にして、是れ新学ならば、但だ応に教えて、布施、持戒等を行ぜしむべし。仏は何を以ってか、教えて、諸法の無所有にして、畢竟空性中に於いて、行ぜしめたもう。
問い、
若し、
是のような、
『人が、新学ならば!』、
但だ、
『布施、持戒等を教えて!』、
『行じさせればよい!』のに、
何故、
『仏』は、
『諸法の無所有、畢竟空性中に、行じよ!』と、
『教えられたのですか?』。
答曰。今明始入無所有畢竟空法故。令行無所有。而是菩薩以無所有畢竟空。和合布施持戒等行。譬如小兒服藥。須蜜乃下。是故雖新發意亦觀深空無咎。 答えて曰く、今、始めて無所有、畢竟空に入る法を明さんが故に、無所有を行ぜしむればなり。是の菩薩は、無所有、畢竟空を以って、布施、持戒等と和合して行ず。譬えば小児の薬を服するに、蜜を須いて、乃ち下すが如し。是の故に、新発意なりと雖も、亦た深き空を観るも、咎無し。
答え、
今、
『始めて( at first )!』、
『無所有、畢竟空に入る!』、
『法』を、
『明そうとして!』、
是の故に、
『無所有』を、
『行じさせた!』ので、
是の、
『菩薩』は、
『無所有、畢竟空』を、
『布施、持戒等と和合して!』、
『行じるのである!』。
譬えば、
『小児が、薬を服()む!』のに、
『蜜を須いて!』、
『乃ち( at last/with difficulty )!』、
『服み下すようなものである!』。
佛答須菩提。菩薩若初從諸佛聞。若從多供養諸佛者聞。諸佛者若過去若現在。多供養諸佛者。遍吉觀世音得大勢菩薩文殊師利彌勒菩薩等。四種聲聞聖人義如先說。辟支佛不樂說法故不說。 仏の須菩提に答えたまわく、『菩薩は、若しは、初より諸仏より聞き、若しは諸仏を多く供養せし者より聞く』、と。諸仏とは、若しは過去、若しは現在なり。多く諸仏を供養せし者とは、遍吉、観世音、得大勢菩薩、文殊師利、弥勒菩薩等なり。四種の声聞の聖人の義は、先に説けるが如し。辟支仏は説法するを楽しまざるが故に説きたまわず。
『仏』は、
『須菩提』に、こう答えられた、――
『菩薩』は、
『初から( in the first time )!』、
『諸仏より!』、
『聞くか!』、
『多く!』、
『諸仏を供養した者より!』、
『聞くのである!』、と。
『諸仏』とは、
『過去や、現在の!』、
『諸仏であり!』、
『多く、諸仏を供養した!』者とは、
『遍吉菩薩、観世音菩薩、得大勢菩薩や!』、
『文殊師利菩薩、弥勒菩薩等である!』。
『阿羅漢、乃至須陀洹』の、
『四種の聖人の義』は、
『先に説いた通りである!』。
『辟支仏』は、
『説法を楽しまない!』ので、
『説かれなかった!』。
諸佛等聖人皆因無所有故有是分別。聖人雖有禪定等諸功德。皆為涅槃故。涅槃即是寂滅相無所有法。是故說諸聖人皆因涅槃有是差別。 『諸仏等の聖人は、皆無所有に因るが故に、是の分別有り』とは、聖人は、禅定等の諸功徳有りと雖も、皆涅槃の為めの故なり。涅槃とは、即ち是れ寂滅相にして、無所有の法なり。是の故に説かく、『諸聖人は、皆涅槃に因りて、是の差別有り』、と。
『諸仏等の聖人』は、
『皆、無所有に因る!』が故に、
是の、
『分別』が、
『有る!』とは、――
『聖人』には、
『禅定等の諸功徳が有りながら!』、
皆、
『涅槃の為めの!』、
『功徳だからである!』。
『涅槃』は、
即ち、
『寂滅の相であり!』、
『無所有の法である!』が、
是の故に、こう説かれたのである、――
『諸聖人』は、
皆、
『涅槃に因って!』、
是の、
『差別』が、
『有るのである!』、と。
一切有為作法從因緣和合生起故。有無有實定性乃至如毫末許所有。有為有二種。一者色二者無色。色法破壞分別乃至微塵無有定實。無色法中乃至無有一念定實。破義如上說。是菩薩從諸佛聖人聞是法。餘人多以著心說。諸聖人以無著心說。是故但從聖人聞。 一切の有為の作法は、因縁の和合より生起するが故に有れば、実定の性は、乃至毫末の如き許りも所有有ること無し。有為には二種有り、一には色、二には無色なり。色法は破壊して、分別すれば乃至微塵まで、定実有ること無く、無色法中には、乃至一念の定実すら在ること無し。破の義は、上に説けるが如し。是の菩薩の諸仏、聖人より、是の法を聞くは、餘人は多く、著心を以って説けば、諸聖人は、無著の心を以って説き、是の故に但だ聖人より聞く。
『一切の有為の作法』は、
『因縁の和合より!』、
『生起する!』が故に、
『有る( be existent )!』が、
『実定の性』は、
『乃至毫末許り!』も、
『無い!』。
『有為には、二種有り!』、
一には、
『色であり!』、
二には、
『無色である!』が、
『色法を破壊して、分別すれば!』、
『乃至微塵ほどの!』、
『定実すら!』、
『無く( be not existent )!』、
『無色法』中には、
『乃至一念すら!』、
『定実』が、
『無い!』。
『破壊の義』は、
『上に!』、
『説いた通りである!』。
是の、
『菩薩』は、
『諸聖人より!』、
是の、
『法』を、
『聞くのである!』が、
『世の人』は、
多くが、
『著心を用いて!』、
『説くのに!』、
『諸の聖人』は、
『無著の心を用いて!』、
『説く!』ので、
是の故に、
但だ、
『聖人より!』、
『聞くのである!』。
爾時次第學菩薩聞是法。以比智籌量決定知諸法究竟必空。皆入佛所得實相中。所謂寂滅無戲論相。我若得作佛。若不作佛。一等無異。 爾の時、次第に学ぶ菩薩の、是の法を聞き、比智、籌量、決定を以って、諸法の究竟じて必ず空なるを知れば、皆、仏の所得の実相中に入る。謂わゆる寂滅、無戯論の相なり。『我れは、若しは仏と作るを得、若しは仏と作らざるも、一等にして無異なり』。
爾の時、
『次第に学ぶ!』、
『菩薩』は、
是の、
『法を聞いて、比智し、籌量し!』、
『諸法は、究竟じて必ず空である!』と、
『決定して!』、
『知る!』ので、
皆、
『仏の所得である!』、
『実相』中に、
『入ることになる( to understand deeply )!』。
謂わゆる、
『寂滅の相であり!』、
『無戯論の相である!』。
即ち、こう言う、――
『わたしが、仏に作ったとしても!』、
『わたしが、仏に作らなかったとしても!』、
『諸法の実相』は、
『一等であり!』、
『無異である!』。
何以故。諸法實相不增不減。更無新法可得故法亦不失。若度眾生。眾生畢竟空本末不可得。我所願所作功德。及成佛時神通力。皆如夢如幻故無一定實相畢竟空。得不得雖同我何以不發心作佛。 『何を以っての故に、諸法の実相は不増、不減にして、更に新法の得べき無きが故に、法も亦た失われざればなり。若し衆生を度するも、衆生は畢竟空にして、本末不可得なり。我が所願、所作の功徳、及び仏と成らん時の神通力は、皆夢の如く、幻の如きなるが故に、一定実の相無く、畢竟じて空なれば、得るも、得ざるも、同じと雖も、我れは何を以ってか、発心して仏と作らざらんや』。
何故ならば、――
『諸法』は、
『実相』が、
『不増、不減である!』が故に、
更に、
『可得の新法』が、
『無く!』、
亦た、
『法』が、
『失われることもないからである!』。
若し、
『衆生を度したとしても!』、
『衆生』は、
『畢竟じて空であり!』、
『本、末が不可得である!』が故に、
わたしの、
『所願や、所作の功徳も!』、
『成仏した時の、神通力も!』、
『皆、夢か幻のようである!』が故に、
『一定実の相すら無く!』、
『畢竟じて空である!』。
『仏』を、
『得ようが、得まいが!』、
『同じであったとしても!』、
わたしが、
何故、
『発心して!』、
『仏と作らないはずがあろうか?』。
問曰。若知諸法畢竟空無所有者。云何復言。我何以不發心作佛。 問うて曰く、若し諸法の畢竟空にして、無所有なるを知れば、云何が復た言わく、『我れは何を以ってか、発心して仏と作らざる』、と。
問い、
若し、
『諸法』が、
『畢竟空であり、無所有である!』と、
『知っているならば!』、
何故、
復た、こう言うのですか?――
わたしが、
何故、
『発心して!』、
『仏と作らないのか?』、と。
答曰。畢竟空無所有無所障礙。何妨發心作佛。 答えて曰く、畢竟空、無所有なれば、障礙する所無し。何んが、発心して、仏と作るを妨ぐるや。
答え、
『畢竟空で、無所有ならば!』、
『障礙する!』所が、
『無いはずである!』。
何が、
『発心して、仏と作る!』のを、
『妨げるのか?』。
復次若說畢竟空滅諸戲論。云何障發心。若障即是有性。云何言無所有性。 復た次ぎに、若し、『畢竟空なれば、諸戯論を滅す』、と説かば、云何が、発心を障えんや。若し障うれば、即ち是れ性有り。云何が、無所有性と言う。
復た次ぎに、
若し、こう説くならば、――
『畢竟じて空ならば!』、
『諸の戯論』を、
『滅することになる!』、と。
何故、
『発心』が、
『障げられるのか?』。
若し、
『障げられれば!』、
即ち、
『性が有るはずである!』。
何故、
『無所有性である( they have not any characteristics )!』と、
『言うのか?』。
問曰。若不障發心亦應不障不發心。菩薩何不安住而發心受諸勤苦。 問うて曰く、若し発心を障えざれば、亦た応に不発心をも障えざるべし。菩薩は、何んが安住せずして、発心し諸の勤苦を受くるや。
問い、
若し、
『発心を障げなければ!』、
亦た、
『不発心をも!』、
『障げないはずである!』。
『菩薩』は、
何故、
『不発心に安住しない!』で、
『発心して!』、
『諸の勤苦を受けるのか?』。
答曰。有人言。是菩薩有種種因緣應發心。或以多諸親屬知識皆不聞不知。不得是諸法實相。是故今世後世受諸苦惱。我幸有力。能使是人得離眾苦。譬如人得好良藥。親里知識受諸病苦。云何不與。是故菩薩雖知諸法性無所有。因親里故而發心利益眾生。 答えて曰く、有る人の言わく、『是の菩薩は、種種の因縁有れば、応に発心すべし』、と。或は、多くの諸の親属、知識の、皆是の諸法の実相を聞かず、知らず、得ざるを以って、是の故に、今世、後世に諸の苦悩を受くれば、我れ幸いにも力有り、能く是の人をして、衆苦を離るるを得しめん。譬えば人の好良なる薬を得るに、親里、知識の諸の病苦を受くれば、云何が与えざるが如し。是の故に菩薩は、諸法の性の無所有なるを知ると雖も、親里に因るが故に、発心して衆生を利益す。
答え、
有る人は、こう言っている、――
是の、
『菩薩』には、
『種種の因縁が有る!』ので、
『発心せねばならないのである!』、と。
或は、
『多くの諸の親属、知識』は、
皆、
是の、
『諸法の実相』を、
『聞いたこともなく、知ることもなく、得ることもない!』ので、
是の故に、
『今世、後世の諸の苦悩』を、
『受けることになる!』ので、
即ち、こう言う、――
わたしには、
『幸いにも、力が有り!』、
是の、
『人』に、
『衆苦を離れさせることができる!』。
譬えば、
『人が、好良の薬を得ていながら!』、
『親里、知識』が、
『諸の病苦』を、
『受けているのに!』、
何故、
『薬』を、
『与えないことがあろうか?』
是の故に、
『菩薩』は、
『諸法の性』は、
『無所有である!』と、
『知りながら!』、
『親里に因る!』が故に、
『発心して!』、
『衆生を利益するのである!』。
菩薩復作是念。我雖聞諸法實相。心未深入未有禪定。智慧未熟。受諸苦惱。是故發心求阿耨多羅三藐三菩提。集諸功德。以無所有法作證。自為亦為他人。 菩薩は、復た是の念を作さく、『我れは、諸法の実相を聞くと雖も、心は、未だ深く入らず、未だ禅定有らずして、智慧未だ熟せれば、諸の苦悩を受く』、と。是の故に発心して、阿耨多羅三藐三菩提を求め、諸功徳を集むるも、無所有の法を以って、証と作すは、自らの為めに、亦た他人の為めなり。
『菩薩』は、
復た、こう念じる、――
わたしは、
『諸法の実相を聞いた!』が、
『心』は、
『未だ、深く実相に入ることもなく!』、
『未だ、禅定を有することもなく!』、
『未だ、智慧が熟すこともない!』ので、
是の故に、
『諸の苦悩』を、
『受けているのである!』、と。
是の故に、
『発心して!』、
『阿耨多羅三藐三菩提を求めながら!』、
『諸の功徳』を、
『集めるのである!』が、
『無所有の法を証を作す
to prove that they are non-existent dharmas )!』のは、
『自らの為めでもあり!』、
『他人の為めでもある!』。
  作証(さしょう):梵語 saakSi-bhuuta, saakSi-bhaavita の訳、証人と作る/証人によって証明される( being a witness, proved by a witness )の義。
是菩薩復聞大乘深義。住眾生等法等中。無別異心可得佛。雖復中人及怨。都無異心。所以者何。是菩薩以畢竟空心。煩惱微薄怨親平等。作是念。怨親無定。以因緣故。親或為怨。怨或為親。以此大因緣具足忍波羅蜜故得作佛。由何而得。由忍怨故。是以菩薩視怨如親。 是の菩薩は、復た大乗の深義を聞いて、衆生等、法等中に住し、別異の心の仏を得べき無く、復た中人、及び怨なりと雖も、都て異心無し。所以は何んとなれば、是の菩薩は、畢竟空の心を以って、煩悩微薄にして、怨親平等なれば、是の念を作さく、『怨親に定無く、因縁を以っての故に、親も或は怨と為り、怨も或は親と為る』、と。此の大因縁は、忍波羅蜜を具足するが故に、仏と作るを得。何に由りてか、得んや。怨を忍ぶに由るが故なり。是を以って、菩薩の怨を視ること親の如し。
是の、
『菩薩』は、
復た、
『大乗の深義を聞いて!』、
『衆生の等( the equality of all living beings )と!』、
『法の等( the equality of all dharmas )』中に、
『住する!』ので、
『仏を得るというような!』、
『別異の心( the especial mind )』が、
『無く!』、
復た、
『中人( the right people )にも!』、
『怨家( the enemy people )にも!』、
『都てに!』、
『異心が無い!』。
何故ならば、
是の、
『菩薩』は、
『畢竟空の心を用いて!』、
『煩悩が微薄であり!』、
『怨親』を、
『平等に視て!』、
こう念じるからである、――
『怨も、親も!』、
『定』が、
『無い!』。
『因縁』の故に、
『親』が、
或は、
『怨と為り!』、
『怨』が、
或は、
『親と為るのである!』、と。
此の、
『怨、親平等という!』、
『大因縁が、忍波羅蜜を具足する!』が故に、
『仏』と、
『作ることができる!』。
是の、
『因縁』は、
『何に由って!』、
『得るのか?』。
即ち、
『怨を忍ぶに、由って!』、
『得るのである!』。
是の故に、
『菩薩』は、
『怨であろうと!』、
『親のように!』、
『視るのである!』。
  衆生等(しゅじょうとう):梵語 sattva-saamya の訳、衆生の等性( the equality of all living beings )の義。
  法等(ほうとう):梵語 dharma-samataa の訳、法の等性( the equality of all dharmas )の義。
  中人(ちゅうにん):正中の人( a right people )。忠義の人( a honest man )。
譬如欲過嶮道。應當敬重頂戴導師。又如良醫雖賤為貴者所重。如是思惟籌量分別。中人怨家雖於我無用。而是佛道因緣。是故發阿耨多羅三藐三菩提心。是名一種次第行次第學次第道。是故以過去菩薩所行為證。 譬えば、険道を過ぎんと欲せば、応当に導師を敬重して、頂戴すべきが如く、又良医は、賎なりと雖も、貴者に重んぜらるるが如し。是の如く思惟、籌量して、中人と怨家を分別するは、我れに於いて、無用なりと雖も、是れ仏道の因縁なれば、是の故に阿耨多羅三藐三菩提の心を発せば、是れを一(ひとえ)に、次第の行、次第の学、次第の道を種うと名づけ、是の故に、過去の菩薩の所行を以って、証と為す。
譬えば、
『険道を過ぎようとすれば!』、
『導師』を、
『敬重し、頂戴せねばならない( be respectful and thankful )ように!』、
又、
『良医は、賎しくても!』、
『貴者』に、
『重んじられるようなものである!』と、
是のように、
『思惟し、籌量して!』、
『中人と、怨家を!』、
『分別する!』のは、
わたしには、
『無用の分別である!』が、
是れは、
『仏道を得る!』、
『因縁であり!』、
是の故に、
『阿耨多羅三藐三菩提の心』を、
『発させるものである!』ので、
是れは、
『一に!』、
『次第の行、次第の学、次第の道』を、
『種えるものであり!』、
是の故に、
『菩薩の過去の所行』を、
『証とするのである!』。
問曰。次第行次第學次第道。有何差別。 問うて曰く、次第の行、次第の学、次第の道には、何なる差別か有る。
問い、
『次第の行、次第の学、次第の道』には、
何のような、
『差別』が、
『有るのですか?』。
答曰。有人言。無差別。若行若學若道。義一而語異。 答えて曰く、有る人の言わく、『差別無し。若しは行、若しは学、若しは道の義は、一にして、語異なるのみ』、と。
答え、
有る人は、こう言っている、――
『差別は無い!』、
『行や、学や、道の義は一である!』が、
『語』が、
『異なるだけである!』、と。
有人言。初名行中名學後名道。行名布施學名持戒道名智慧。復次行名持戒學名禪定道名智慧。復次行名正語正業正命。學名正精進正念正定。道名正見正思惟。此八事雖名為道。然分別有三分。正見是道體。發起是道名。正思惟正語正業正命。助益正見故名為行。正精進正念正定。能成就正見使令牢固是名學。 有る人の言わく、『初を行と名づけ、中を学と名づけ、後を道と名づく。行を布施と名づけ、学を持戒と名づけ、道を智慧と名づく。復た次ぎに、行を持戒と名づけ、学を禅定と名づけ、道を智慧と名づく。復た次ぎに、行を正語、正業、正命と名づけ、学を正精進、正念、正定と名づけ、道を正見、正思惟と名づく。此の八事を名づけて、道と為すと雖も、然るに分別すれば三分有り、正見は是れ道の体なり。是の道を発起するを正思惟と名づけ、正語、正業、正命は正見を助益するが故に名づけて、行と為し、正精進、正念、正定は能く正見を成就して、牢固ならしむれば、是れを学と名づく』、と。
有る人は、こう言っている、――
『初は、行であり!』、
『中は、学であり!』、
『後』が、
『道である!』が、
『行とは、布施であり!』、
『学とは、持戒であり!』、
『道』とは、
『智慧である!』。
復た次ぎに、
『行とは、持戒であり!』、
『学とは、禅定であり!』、
『道』とは、
『智慧である!』。
復た次ぎに、
『行とは、正語、正業、正命であり!』、
『学とは、正精進、正念、正定であり!』、
『道』とは、
『正見、正思惟である!』。
此の、
『八事は、道である!』が、
『分別すれば、三分有り!』、
『正見は、道の体であり!』、
是の、
『道を発起する( to open the path )!』のが、
『正思惟であり!』、
『正語、正業、正命』は、
『正見を助益する( to assist the right view )!』が故に、
『行であり!』、
『正精進、正念、正定』は、
『正見を成就し、牢固にする
to accomplish and harden the right view )!』が故に、
『学である!』、と。
復次有人言。檀波羅蜜毘梨耶波羅蜜名為行。初入道故。尸羅波羅蜜名為學。人心常隨五欲難禁難制。無須臾停息。漸以尸羅波羅蜜禪波羅蜜制伏其心。是故名學。羼提波羅蜜般若波羅蜜名為道。何以故。忍為善般若為智慧。善智具足故名道。譬如人有眼有足隨意所至。如是等名為三事差別。 復た次ぎに、有る人の言わく、『檀波羅蜜、毘梨耶波羅蜜を名づけて行と為す、初めて道に入るが故なり。尸羅波羅蜜を名づけて学と為す、人心は常に五欲に随いて禁じ難く、制し難く、須臾にも停息すること無く、漸く尸羅波羅蜜、禅波羅蜜を以って、其の心を制伏すれば、是の故に学と名づく。羼提波羅蜜、般若波羅蜜を名づけて、道と為す。何を以っての故に、忍を善と為し、般若を智慧と為し、善、智具足するが故に道と名づく。譬えば人に眼有り、足有りて至る所を意のままにするが如し』、と。是れ等の如きを名づけて、三事の差別と為す。
復た次ぎに、
有る人は、こう言っている、――
『檀波羅蜜、毘梨耶波羅蜜は、行である!』、
何故ならば、
『初めて!』、
『道に入るからである!』。
『尸羅波羅蜜は、学である!』、
何故ならば、
『人心』は、
常に、
『五欲に随って禁じ難く、制し難く!』、
『須臾にも( for some moments )!』、
『停息することがない( not to stop )!』が、
漸く( gradually )、
『尸羅波羅蜜、禅波羅蜜を用いれば!』、
其の、
『心』を、
『制伏することができる!』ので、
是の故に、
『学』と、
『称するのである!』。
『羼提波羅蜜、般若波羅蜜は、道である!』、
何故ならば、
『忍とは、善であり!』、
『般若』とは、
『智慧である!』が、
『善と智慧とが、具足している!』が故に、
『道』と、
『称するのである!』。
譬えば、
『人に、眼と足が有れば!』、
『至る!』所が、
『意のままであるようなものである!』、と。
是れ等が、
『行、学、道という!』、
『三事』の、
『差別である!』。
問曰。何以名次第。 問うて曰く、何を以ってか、次第と名づくる。
問い、
何故、
『次第( gradually )』と、
『称するのですか?』。
答曰。以須菩提意。若一切法無所有。初發心菩薩於是空法中。云何能漸次第學。以是故說次第。諸法雖空難解。次第行得力故能得成就。譬如緣梯從一初桄漸上上處。雖高雖難亦能得至。 答えて曰く、須菩提の意を以ってすらく、『若し一切法にして、無所有なれば、初発心の菩薩は、是の空法中に於いて、云何が能く漸く次第に学ぶや』、と。是を以っての故に、次第を説きたまわく、『諸法は空にして解し難しと雖も、次第に行ずれば、力を得るが故に能く成就するを得』、と。譬えば梯を縁(よぢ)のぼるに、一初桄より、漸く上処に上れば、高しと雖も、難しと雖も、亦た能く至るを得るが如し。
答え、
『須菩提の意』は、こうであったので、――
若し、
『一切法が、無所有ならば!』、
『初発心の菩薩』は、
是の、
『空法』中に於いて、
何のようにして、
『漸く( step by step )!』、
『次第に学ぶ( to study gradually )のか?』、と。
是の故に、
『次第』を、こう説かれたのである、――
『諸法は空であり、解し難い!』が、
『次第に行ずれば!』、
『力を得る!』が故に、
『空に入ること!』を、
『成就することができる!』、と。
譬えば、
『梯を縁のぼる( climbing up a ladder )!』のに、
『一初桄( the first step )より!』、
漸く( gradually )、
『上処( the upper step )』に、
『上れば( to climb up )!』、
『高くても、難しくても!』、
『至る!』所に、
『至ることができるようなものである!』。
  (こう):梯の横木( step of a ladder )。
次第行者。四種行六波羅蜜。如經中說。自行檀教人行檀。讚檀功德歡喜讚行檀者。善拔慳貪根深愛檀波羅蜜。慈悲於眾生。通達諸法實相。以此因緣故。能四種行檀波羅蜜。 次第行とは、四種に六波羅蜜を行ずること、経中に説けるが如く、自ら檀を行じ、人に教えて檀を行ぜしめ、檀の功徳を三事、檀を行ずる者を歓喜して讃ずるなり。善く慳貪の根を抜きて、檀波羅蜜を深く愛し、衆生を慈悲して、諸法の実相に通達すれば、此の因縁を以っての故に、能く四種に檀波羅蜜を行ず。
『次第の行』とは、
『四種に!』、
『六波羅蜜を行じることであり!』、
『経』中に、こう説かれた通りである、――
『自ら、檀を行じ!』、
『人に教えて、檀を行じさせ!』、
『檀の功徳を讃じて!』、
『檀を行ずる者を歓喜して、讃じる!』、と。
即ち、
『善く、慳貪の根を抜き!』、
『深く、檀波羅蜜を愛して!』、
『衆生を慈悲し!』、
『諸法の実相に通達すれば!』、
此の、
『因縁』の故に、
『四種に!』、
『檀波羅蜜を行じることができる!』。
或有人自行布施。不能教人布施。或畏他瞋或畏為己教布施以之為恩。如是等因緣故不能教人。或有人教人布施自不能施。或有人種種讚歎布施之德勸人令施。而不能自行。有人自行布施。亦教人布施。稱讚布施之德。而見人布施不能歡喜。所以者何。或有破戒惡人。行施而不喜見。有人。喜見施主而不讚歎。以其邪見不識施果故。如是各各不能具足。 或は、有る人は自ら、布施を行ずるも、人に教えて布施せしむる能わず。或は他の瞋を畏れ、或は己れの為めに布施を教え、之を以って恩と為すを畏るれば、是れ等の如き因縁の故に、人に教うる能わず。或は有る人は、人に教えて布施せしむるも、自らは施す能わず。或は有る人は、種種に布施の徳を讃歎して、人に勧めて施さしむるも、自ら行ずる能わず。有る人は、自ら布施を行じて、亦た人にも教えて布施せしめ、布施の徳を称讃するも、人の布施を見て、歓喜する能わず。所以は何んとなれば、或は有る破戒の悪人、施を行ずれば、見て喜ばず。有る人は施主を見るを喜ぶも、讃歎せず。其の邪見の施の果を識らざるを以っての故なり。是の如く各各具足する能わず。
或は、
有る人は、
『自ら、布施を行じながら!』、
『人に教えて!』、
『布施させることができない!』。
或は、
『他に教えて!』、
『他の瞋る!』のを、
『畏れ!』、
或は、
『己れの為めに、布施を教えて!』、
『恩人と為るのではないか?』と、
『畏れ!』、
是れ等のような、
『因縁』の故に、
『人に!』、
『教えることができない!』。
或は、
有る人は、
『人に教えて、布施させながら!』、
『自ら!』、
『施すことができず!』、
或は、
有る人は、
『種種に、布施の徳を讃歎して!』、
『人に勧めて、施させながら!』、
『自ら、行じることはできない!』。
有る人は、
『自ら、布施を行じて!』、
『人にも教えて、布施させ!』、
『布施の徳を称讃しながら!』、
『人が、布施する!』のを、
『見ても!』、
『歓喜することができない!』。
何故ならば、
或は、
有る、
『破戒の悪人が、布施していた!』ので、
『喜んで、見なかったのである!』。
有る人は、
『施主を喜んで見ながら!』、
『施主』を、
『讃歎することはない!』。
何故ならば、
『邪見である!』が故に、
『施の果』を、
『識らないからである!』。
是のように、
各各を、
『具足することができないのである!』。
菩薩大悲心深愛善法故。能行四事如上說。菩薩若但自布施不教他人。但能今世少許利益是眾生。隨業因緣墮貧窮處。是故菩薩教眾生言。我不惜財物。我雖多施汝。汝亦不得持至後世。汝今當自作後當自得。以布施實功德。種種因緣教眾生行施。見行施者。雖是破戒惡人。但念其好心布施之德。不念其惡。是故歡喜讚歎。 菩薩の大悲心は、深く善法を愛するが故に、能く四事を行ず。上に説けるが如し。菩薩は、若し但だ自ら布施して、他人に教えざれば、但だ能く今世の少許り、是の衆生を利益するも、業因縁に随いて、貧窮の処に堕す。是の故に菩薩は、衆生に教えて言わく、『我れは、財物を惜まず。我れ多く汝に施すと雖も、汝、亦た持ちて、後世に至るを得ず。汝は、今当に自ら作すべく、後に当に自ら得べし』、と。布施の実功徳の種種の因縁を以って、衆生に教えて施を行ぜしめ、施を行ずる者を見て、是れ破戒の悪人なりと雖も、但だ、其の好心と布施の徳を念じて、其の悪を念ぜず。是の故に歓喜、讃歎す。
『菩薩の大悲心』は、
『深く、善法を愛する!』が故に、
『四事』を、
『行じることができる!』。
例えば、
『上に!』、
『説かれた通りである!』。
若し、
『菩薩』が、
『但だ、自ら布施するだけ!』で、
『他人に!』、
『教えることがなければ!』、
『但だ、今世に少許り!』、
是の、
『衆生』に、
『利益することができるだけであり!』、
是の、
『衆生は、業因縁に随って!』、
『貧窮の処』に、
『堕ちるのである!』。
是の故に、
『菩薩』は、
『衆生に教えて!』、こう言うのである、――
わたしは、
『財物』を、
『惜むわけではない!』。
わたしが、
『多く!』、
『お前に、施したとしても!』、
お前は、
『後世にまで!』、
『持って、至ることはできないからである!』。
お前は、
今、
『自ら!』、
『布施を作さねばならず!』、
後に、
『自ら!』、
『果報を得ねばならない!』、と。
『布施の実功徳』の、
『種種の因縁を用いて!』、
『布施を行じること!』を、
『衆生』に、
『教え!』、
『施を行じる者を見れば!』、
是れが、
『破戒の悪人であっても!』、
其の、
『好心と、布施の徳だけ!』を、
『念じて!』、
其の、
『悪』を、
『念じない!』ので、
是の故に、
『歓喜し!』、
『讃歎するのである!』。
復次見三寶無盡福田中施故施福不盡必至佛道。觀其未來無盡功德故。歡喜行是四種布施。世世財富。是菩薩雖不為財富布施。未具足阿耨多羅三藐三菩提六波羅蜜等法。中間而財富自至。譬如人為穀故種禾而稾草自至。菩薩得財物報時。離慳貪心隨眾生意布施。須食與食等。 復た次ぎに、三宝を見て、無尽の福田中に施すが故に施福尽きずして、必ず仏道に至る。其の未来の無尽の功徳を観るが故に、歓喜して、是の四種の布施を行ずれば、世世に財富なるも、是の菩薩は、財富の為めに布施せずと雖も、未だ阿耨多羅三藐三菩提、六波羅蜜等を具足せざれば、中間にも財富は自ら至る。譬えば人の穀の為めの故に、禾(いね)を種うれば、稾草は自ら至るが如し。菩薩は、財物の報を得る時、慳貪心を離れて、衆生の意に随いて布施すること、食を須むれば、食を与うる等なり。
復た次ぎに、
『三宝を見て!』、
『無尽の福田中に施す!』が故に、
『施福は尽きることなく!』、
必ず、
『仏道』に、
『至るのである!』が、
其の、
『未来の無尽の功徳を観る!』が故に、
『歓喜して!』、
是の、
『四種の布施を行じる!』ので、
『世世に!』、
『財富なのである!』。
是の、
『菩薩』は、
『財富の為めに、布施するのではない!』が、
未だ、
『阿耨多羅三藐三菩提、六波羅蜜等の法』を、
『具足しなくても!』、
『阿耨多羅三藐三菩提を得るまで!』の、
『中間』に於いて、
『財富』が、
『自ら至るのである!』。
譬えば、
『人』が、
『穀の為め!』の故に、
『禾(水稲)』を、
『種えれば!』、
『稾草(稲)』が、
『自ら!』、
『至るようなものである!』。
『菩薩』は、
『財物の報を得る!』時、
『慳貪心を離れて!』、
『衆生の意のままに!』、
『布施するのである!』が、
例えば、
『食を須める!』者には、
『食を与える等である!』。
  稾草(こうそう):稲/穀物の茎( stalks of grain )。
問曰。是菩薩布施時。先施何等人。 問うて曰く、是の菩薩の布施する時、先に何等の人にか、施す。
問い、
是の、
『菩薩は布施する!』時、
何のような、
『人』に、
『先に施すのですか?』。
答曰。是菩薩雖因眾生起大悲心。而菩薩布施必先供養諸佛大菩薩辟支佛阿羅漢及諸聖人。若無聖人。次第施持戒精進禪定智慧離欲人。若無此人。施一切出家佛弟子。若無是人。次施持五戒行十善道及持一日戒三歸。若無此人。次施中人非正非邪者。若無此人。次施五逆惡人。及諸畜生不可不與。菩薩以施攝一切眾生故。 答えて曰く、是の菩薩は、衆生に因って大悲心を起すと雖も、菩薩の布施は、必ず先に諸仏、大菩薩、辟支仏、阿羅漢、及び諸聖人に供養す。若し聖人無くんば、次第に持戒、精進、禅定、智慧、離欲の人に施し、若し、此の人無くんば、一切の出家の仏弟子に施し、若し是の人無くんば、五戒を持して、十善道を行じ、及び一日戒と三帰を持するものに施し、若し此の人無くんば、次いで中人の非正、非邪の者に施し、若し此の人無くんば、次いで五逆の悪人、及び諸畜生の与えざる可からざるに施す。菩薩は、施を以って、一切の衆生を摂するが故なり。
答え、
是の、
『菩薩』は、
『衆生に因って!』、
『大悲心』を、
『起しながらも!』、
『菩薩の布施』は、
必ず、
『諸仏、大菩薩、辟支仏、阿羅漢、及び諸聖人』を、
『先に、供養し!』、
若し、
『聖人が無ければ!』、
次第に、
『持戒、精進、禅定、智慧、離欲の人』に、
『施し!』、
若し、
『持戒、乃至離欲の人が無ければ! 」、
『一切の出家の仏弟子』に、
『施し!』、
若し、
『出家の仏弟子が無ければ!』、
次いで、
『五戒を持して、十善道を行じ、及び一日戒と三帰を持する!』者に、
『施し!』、
若し、
『五戒、乃至三帰の人が無ければ!』、
次いで、
『非正、非邪の中人』に、
『施し!』、
若し、
『中人が無ければ!』、
次いで、
『五逆の悪人や、与えられなくてはならない諸の畜生』に、
『施す!』。
『菩薩』は、
『施を用いて!』、
『一切の衆生』を、
『摂する( to grasp )からである!』。
有人言。應先布施五逆罪人斷善根者貧窮老病下賤乞丐者乃至畜生。譬如慈母多有眾子先念羸病給其所須。又如菩薩為餓虎欲食子故以身施之。 有る人の言わく、『応に先に五逆の罪人、善根を断じたる者、貧窮、老病、下賎、乞丐の者、乃至畜生に布施すべし。譬えば慈母に多く衆子有れば、先に羸病を念じて、其の所須を給するが如く、又菩薩の餓虎の子を食わんと欲するが為めの故に、身を以って之に施すが如し』、と。
有る人は、こう言っている、――
先に、
『五逆の罪人、善根を断じたる者、貧窮、老病、下賎、乞丐の者、乃至畜生』に、
『布施すべきである!』。
譬えば、
『慈母に、多く衆子が有れば!』、
先に、
『羸病( weak and sick )の者を念じて!』、
其の、
『所須( that which is needed )』を、
『給するようなものであり!』、
又、
『菩薩』が、
『子を食おうとしている!』、
『餓えた虎の為めに!』、
『身』を、
『施すようなものである!』、と。
問曰。如是種種應先施何者。 問うて曰く、是の如き種種は、応に先に、何者をか施すべき。
問い、
是のような、
『種種の人』には、
『先に!』、
『何を施すのですか?』。
答曰一切眾生皆是菩薩福田。能生大悲故。菩薩常欲以阿耨多羅三藐三菩提施眾生。何況衣食等而有分別。 答えて曰く、一切の衆生は、皆、是れ菩薩の福田にして、能く大悲を生ぜしむるが故に、菩薩は、常に阿耨多羅三藐三菩提を以って、衆生に施さんと欲す。何に況んや、衣食等の分別有らんや。
答え、
『一切の衆生』は、
『皆、菩薩の福田であり!』、
『菩薩の大悲』を、
『生じさせることができる!』が故に、
『菩薩』は、
『常に、阿耨多羅三藐三菩提を用いて!』、
『衆生』に、
『施そうとするのである!』。
況して、
『衣、食』等を、
『分別すること!』が、
『有ろうか?』。
又菩薩得無生忍法平等無差。未得無生忍者。或慈悲心多或分別心多。此二心不得俱行。悲心多者先施貧窮惡人。作是念種福田中果報雖大。憐愍眾生故先利貧者。如是田雖不良。以慈悲心得大果報。 又、菩薩は、無生忍法の平等を得れば、差無し。未だ無生忍を得ざる者は、或は慈悲心多く、或は分別心多し。此の二心は、倶に行ずるを得ず。悲心多ければ、先に貧窮の悪人に施し、是の念を作さく、『福田中に種うる果報は大なりと雖も、衆生を憐愍するが故に、先に貧者を利せん』、と。是の如き田は不良なりと雖も、慈悲心を以ってすれば、大果報を得ん。
又、
『菩薩』が、
『無生忍法という!』、
『平等を得ていれば!』、
『差が無い!』が、
『未だ、無生忍を得ていなければ!』、
或は、
『慈悲心』が、
『多く!』、
或は、
『分別心』が、
『多い!』が、
此の、
『二心』は、
『倶に行じることはない( not to arise together )!』。
若し、
『悲心が多ければ!』、
先に、
『貧窮の悪人』に、
『施して!』、
こう念じるだろう、――
『諸仏等の福田中に種えれば!』、
『果報』は、
『大である!』が、
『衆生を憐愍する!』が故に、
『貧者』を、
『先に利することにしよう!』、と。
是のような、
『田は不良ではある!』が、
『慈悲心を用いて!』、
『大果報を得ることになる!』。
分別心多者作是念。諸佛有無量功德故應先供養。以分別諸法取著佛身故心小。其心雖小福田良故功德亦大。 分別心多ければ、是の念を作さく、『諸仏は、無量の功徳有るが故に、応に先に供養すべし』、と。諸法を分別して、仏身を取って著するを以っての故に、心は小なり。其の心は、小なりと雖も、福田の良なるが故に、功徳も亦た大なり。
『分別心が多ければ!』、こう念じることになる、――
『諸仏には、無量の功徳が有る!』が故に、
『先に!』、
『供養せねばならない!』、と。
是の故に、
『諸法を分別して相を取り!』、
『仏心に著する!』が故に、
其の、
『心』は、
『小である!』。
『心が小であっても!』、
『福田が良である!』が故に、
『功徳』も、
『大なのである!』。
若得諸法實相。入般若波羅蜜方便力中。心得自在二事俱行慈愍眾生。又視皆如佛。如是等菩薩隨因緣行布施。 若し諸法の実相を得て、般若波羅蜜の方便力中に入れば、心に自在を得て、二事倶に行じ、衆生を慈愍して、又皆仏の如しと視る。是れ等の如く、菩薩は、因縁に随って、布施を行ず。
若し、
『諸法の実相を得て!』、
『般若波羅蜜の方便力中に入れば!』、
『心に、自在を得て!』、
『二事』を、
『倶に、行じる!』が故に、
『衆生を憐愍しながら!』、
『皆、仏のようである!』と、
『視ることになる!』。
是れ等のように、
『菩薩』は、
『因縁に随いながら!』、
『布施』を、
『行じるのである!』。
問曰。經何以不言與衣食等。而言須食與食。 問うて曰く、経には、何を以ってか、衣食等を与うと言わずして、食を須(もと)むれば、食を与うと言う。
問い、
『経』には、
何故、
『衣、食等を与える!』と、
『言わずに!』、
而も、
『食を須めれば、食を与える!』と、
『言うのですか?』。
答曰。有人須食與飲。須飲與衣以不稱受者意故福德少。是故言須食與食。 答えて曰く、有る人は、食を須むるに飲を与え、飲を須むるに衣を与うれば、受者の意に称(かな)わざるを以っての故に、福徳少し。是の故に、食を須むれば、食を与うと言う。
答え、
有る人は、
『食を須めれば、飲を与え!』、
『飲を、須めれば!』、
『衣を、与える!』が、
『受者の意に、称わない!』が故に、
『福徳』が、
『少い!』。
是の故に、こう言うのである、――
『食を須めれば!』、
『食』を、
『与える!』、と。
問曰。有人若羞若怖。雖有所須不能發言。云何知其所須。 問うて曰く、有る人は若しは羞(は)じ、若しは怖れて、所須有りと雖も、言を発する能わず。云何が、其の所須を知る。
問い、
有る人は、
『羞かしかったり、怖れたりして!』、
『所須が有っても!』、
『言』を、
『発することができない!』が、
何のようにして、
此の、
『人の所須』を、
『知るのですか?』。
答曰。菩薩觀其相貌。隨時所須土地所宜。或有知他心者。資生之具隨意而與。是人因是布施得成戒眾。復作是念。我憐愍眾生。以衣食布施。所益甚少不如持戒。常以無惱無畏施於眾生。菩薩住是持戒中。為守護戒故生禪定心。不散清淨故得成慧眾無戲論。捨諸著是慧相。 答えて曰く、菩薩は、其の相貌に随時の須むる所と、土地の宜しき所とを観、或は知他心有りて、資生の具を意のままに、与う。是の人は、是の布施に因りて、戒衆を成ずるを得、復た是の念を作さく、『我れは、衆生を憐愍して、衣食を以って布施するも、益する所は甚だ少く、持戒して、常に無悩、無畏を以って衆生に施すに如かず』、と。菩薩は、是の持戒中に住して、戒を守護せんが為めの故に、禅定を生じ、心散ぜずして、清浄なるが故に慧衆を成ずるを得て、戯論無く、諸の著を捨つれば、是れ慧の相なり。
答え、
『菩薩』は、
是の、
『人の相貌を観て!』、
『随時の須める所や( that is needed on that time )!』、
『土地の宜しき所( that is good for nature of the locality )』を、
『知り!』、
或は、
『知他心智が有って!』、
『資生の具( some means of livelihood )』を、
『意のままに!』、
『与える!』。
是の、
『人』は、
是の、
『布施に因って!』、
『戒衆』を、
『成じることになり!』、
復た、こう念じる、――
わたしは、
『衆生を憐愍し!』、
『衣食を布施している!』が、
『益する!』所は、
『甚だ少く!』、
『持戒して!』、
常に、
『無悩や、無畏』を、
『衆生に施す!』には、
『及ばない!』、と。
『菩薩』は、
是の、
『持戒中に住して!』、
『戒を守護する為め!』の故に、
『禅定』を、
『生じ!』、
『心が散乱せず、清浄である!』が故に、
『慧衆』を、
『成ずることになる!』。
『戯論すること無く!』、
『諸の著を捨てる!』のが、
『慧の相である!』。
以是慧破諸煩惱縛得解脫眾。了了知見證解脫故。名解脫知見眾。是人先行布施及五眾因緣故。過聲聞辟支佛地入菩薩位。 是の慧を以って、諸煩悩の縛を破り、解脱衆を得れば、了了に知見して、解脱を証するが故に、解脱知見衆と名づく。是の人は、先に布施、五衆の因縁を行ずるが故に、声聞、辟支仏の地を過ぎて、菩薩位に入る。
是の、
『慧を用いて!』、
『諸煩悩の縛を破り!』、
『解脱衆』を、
『得れば!』、
『了了に知見することになり!』、
『解脱』を、
『証する!』が故に、
是れを、
『解脱知見衆』と、
『称する!』。
是の、
『人』は、
先に、
『布施を行じて!』、
『五衆の因縁』を、
『行じた!』が故に、
『声聞、辟支仏の地を過ぎて!』、
『菩薩位』に、
『入るのである!』。
問曰菩薩應行六波羅蜜入菩薩位。此中何以說五眾。 問うて曰く、菩薩は、応に六波羅蜜を行じて、菩薩位に入るべし。此の中には、何を以ってか、五衆を説く。
問い、
『菩薩』は、
『六波羅蜜を行じて!』、
『菩薩位に!』、
『入るはずである!』が、
此の中には、
何故、
『五衆』を、
『説くのですか?』。
答曰法雖一以種種異名說。是故說五眾無咎。是人從一波羅蜜中欲起諸波羅蜜。布施為主。已先說持戒眾名尸羅波羅蜜。定眾解脫眾名禪波羅蜜。慧眾解脫知見眾是般若波羅蜜。行諸波羅蜜時能忍諸惡事。是名羼提波羅蜜。能起諸波羅蜜不休不息。是名毘梨耶波羅蜜。 答えて曰く、法は、一なりと雖も、種種の異名を以って説く。是の故に五衆を説いて、咎無し。『是の人は、一波羅蜜中より、諸波羅蜜を起さんと欲すれば、布施を主と為す』、と已に先に説けり。持戒衆を尸羅波羅蜜と名づけ、定衆と解脱衆を禅波羅蜜と名づけ、慧衆、解脱知見衆は、是れ般若波羅蜜なり。諸波羅蜜を行ずる時、能く諸の悪事を忍ぶ、是れを羼提波羅蜜と名づけ、能く諸波羅蜜を起して、不休不息なれば、是れを毘梨耶波羅蜜と名づく。
答え、
『法は、一である!』が、
『種種の異名』を、
『説いただけであり!』、
是の故に、
『五衆を説いても!』、
『咎は無い!』。
是の、
『人』は、
『一波羅蜜中より!』、
『諸の波羅蜜を、起そうとする!』ので、
『布施(檀波羅蜜)』を、
『主と為す!』と、
已に、
『先に!』、
『説いた!』。
『持戒衆』は、
『尸羅波羅蜜であり!』、
『定衆と!』、
『解脱衆』は、
『禅波羅蜜であり!』、
『慧衆と!』、
『解脱知見衆』は、
『般若波羅蜜である!』。
『諸の波羅蜜を行じる!』時、
『諸の悪事を忍ぶことになる!』が、
是れを、
『羼提波羅蜜』と、
『称し!』、
『諸の波羅蜜を起して!』、
『休息することがなければ!』、
是れを、
『毘梨耶波羅蜜』と、
『称する!』。
問曰若爾者何以不但說諸波羅蜜名而說五眾。 問うて曰く、若し爾らば、何を以ってか、但だ、諸波羅蜜の名を説かずして、五衆を説く。
問い、
若し、爾うならば、――
何故、
但だ、
『諸波羅蜜の名』を、
『説くだけでなく!』、
而も、
『五衆』を、
『説くのですか?』。
答曰是人欲入菩薩位。此中不但以持戒禪定得和合眾戒清淨戒無盡戒。以要言之攝一切戒名為戒眾。能破煩惱過二乘入菩薩位。譬如一人二人不名為軍和合多人乃成為軍能破怨敵。餘眾亦如是。 答えて曰く、是の人は、菩薩位に入らんと欲すればなり。此の中に、但だ持戒、禅定を以って、和合衆戒を得るにあらず。清浄戒、無尽戒、要を以って、之を言えば、一切戒を摂するを、名づけて戒衆と為し、能く煩悩を破りて、二乗を過ぎ、菩薩位に入るなり。譬えば、一人、二人を、名づけて軍を為さず、多人を和合すれば、乃ち成じて軍と為し、能く怨敵を破るが如し。餘の衆も亦た是の如し。
答え、
是の、
『人』は、
『菩薩位』に、
『入ろうとするからである!』。
此の中の、
『戒衆』とは、
但だ、
『持戒、禅定を用いて!』、
『和合衆戒(≒和合僧の戒≒比丘、比丘尼戒≒具足戒)』を、
『得るだけでなく!』、
『清浄戒や、無尽戒のような!』、
要するに、
『一切の戒を摂して!』、
『得る!』のが、
『戒衆であり!』、
『煩悩を破って、二乗を過ぎさせ!』、
『菩薩位に!』、
『入らせるものである!』。
譬えば、
『一人や、二人を軍と称することはない!』が、
『多人を和合して!』、
乃ち、
『軍を、成じさせ( to make up an army )!』、
『怨敵』を、
『破ることができるようなものである!』。
『餘の衆』も、
亦た、
『是の通りである!』。
菩薩自得禪定等眾。亦令眾生得。是名菩薩教化眾生。教化眾生已持自功德及眾生功德。盡迴向淨佛國。具此二法即得一切種智轉法輪以三乘度眾生。是名菩薩次第行次第學次第道。先麤後細先易後難。漸漸習學名為次第。餘五波羅蜜亦應隨義分別。諸法性雖無所有。而隨世諦行為破顛倒故。 菩薩は、自ら禅定等の衆を得て、亦た衆生をして得せしむ。是れを菩薩は衆生を教化すと名づけ、衆生を教化し已りて、自ら功徳、及び衆生の功徳を持して、尽く仏国を浄むるに迴向し、此の二法を具すれば、即ち一切種智を得て、法輪を転じ、三乗を以って衆生を度す、是れを菩薩の次第の行、次第の学、次第の道と名づけ、先に麁、後に細となり、先に易、後に難となり、漸漸に習学するを、名づけて次第と為す。餘の五波羅蜜も亦た応に義に随いて、分別すべし。諸法の性は、無所有なりと雖も、世諦に随って行ずるは、顛倒を破せんが為めの故なり。
『菩薩』は、
自ら、
『禅定等の衆』を、
『得て!』、
亦た、
『衆生にも!』、
『得させるのである!』が、
是れを、
『菩薩』が、
『衆生を教化する!』と、
『称し!』、
『衆生を教化したならば!』、
『自らの功徳と、衆生の功徳を持して!』、
尽くを、
『仏国を浄めること!』に、
『迴向するのである!』が、
此の、
『自らの功徳と、衆生の功徳という!』、
『二法』を、
『具足すれば!』、
即ち、
『一切種智を得ることになり!』、
『法輪を転じながら!』、
『三乗を用いて!』、
『衆生を度すのである!』、
是れを、
『菩薩』の、
『次第の行、次第の学、次第の道』と、
『称する!』が、
先に、
『麁、易』の、
『行、学、道であり!』、
後に、
『細、難』の、
『行、学、道であり!』、
漸漸に( step by step )、
『習学するので!』、
『次第と称するのである!』。
餘の、
『五波羅蜜』も、
『義に随って!』、
『分別すべきである!』が、
『諸法の性は、無所有でありながら!』、
『世諦に随って、行じる!』のは、
『顛倒』を、
『破る為めである!』。
復次念佛等六念。是初次第行。以易行易得故。 復た次ぎに、念仏等の六念は、是れ初の次第の行なり、行じ易く、得易きを以っての故なり。
復た次ぎに、
『念仏等の六念』は、
『初の!』、
『次第の行である!』。
何故ならば、
『行い易く!』、
『得易いからである!』。
問曰六念中亦言。不以色念佛云何言易。 問うて曰く、六念中にも亦た、『色を以って仏を念ぜず』、と言う。何を以ってか、『易し』、と言う。
問い、
『六念』中にも、
『色を用いて、仏を念じるな!』と、
『言っている!』が、
何故、
『易しい!』と、
『言うのですか?』。
答曰有法共行故名為易。譬如服苦藥以蜜下之則易。六念義如初品中廣說。六波羅蜜六念等。柔軟易行不生邪見。是菩薩次第學法。餘三解脫門等。思惟籌量或生邪見故不說 答えて曰く、有る法を共に行ずる故に、名づけて易しと為す。譬えば苦薬を服するに、蜜を以って、之を下せば、則ち易きが如し。六念の義は、初品中に広説するが如し。六波羅蜜、六念等は、柔軟にして行じ易く、邪見を生ぜざれば、是れ菩薩の次第の学の法なり。餘の三解脱門等は、思惟、籌量して、或は邪見を生ずるが故に説かず。
答え、
有る、
『法を、共に行じる!』が故に、
『易しい!』と、
『称するのである!』。
譬えば、
『苦薬を服する!』のに、
『蜜を用いて、飲み下せば!』、
『易しいようなものである!』。
『六念の義』は、
『初品』中に、
『広説した通りである!』。
『六波羅蜜や、六念』等は、
『柔軟であり、行じ易い!』が、
『邪見』を、
『生じない!』ので、
是れは、
『菩薩の次第に学ぶ!』、
『法であり!』、
『餘の三解脱門』等は、
『思惟、籌量して!』、
或は、
『邪見を生じる!』ので、
『説かれなかった!』。
此中。須菩提難。世尊若實無所有。云何有次第行等。佛反問須菩提。汝以聲聞智慧見色等法。是一定實法不。答言不見色等一切法。但從因緣和合假有其名。無有定實云何言有。佛語須菩提。汝若不見實定有。云何以次第等。難空而次第法不離於空。 此の中に、須菩提の難ずらく、『世尊、若し実に無所有なれば、云何が次第の行等有る』、と。仏は反って、須菩提に問いたまわく、『汝は、声聞の智慧を以って、色等の法は、是れ一定実の法なりと見るや不や』、と。答えて言わく、『色等の一切の法を見ず。但だ因縁和合より、仮に其の名有るも、定実有ること無きに、云何が有りと言わん』、と。仏の須菩提に語りたまわく、『汝は、若し実定有りと見ざれば、云何が次第等を以って、空を難ずるや。而も次第の法は、空を離れざるなり』、と。
此の中に、
『須菩提』は、こう難じた、――
世尊!
若し、
『実に、無所有ならば!』、
何故、
『次第の行』等が、
『有るのですか?』、と。
『仏は反って!』、
『須菩提』に、こう問われた、――
お前は、
『声聞の智慧を用いて!』、
『色等の法は、一定実の法である!』と、
『見るのか?』、と。
『答えて!』、こう言った、――
『色』等の、
『一切の法』を、
『見ません!』。
但だ、
『因縁の和合により!』、
仮に、
『色等の名が有るだけで!』、
『定実』が、
『無い!』のに、
何故、
『有る!』と、
『言うのですか?』。
『仏』は、
『須菩提』に、こう語られた、――
お前が、
若し、
『定実が有る、と見なければ!』、
何故、
『次第等を用いて!』、
『空』を、
『難じるのか?』。
而も、
『次第という!』、
『法』は、
『空を離れないのに!』、と。
爾時須菩提受解了了。是故說我無所疑為當來世求三乘人。聞佛說空無所有性。以罪重智鈍故取空相。便言誰垢誰淨。凡夫惡人何以名垢。出家得道人何以名淨。 爾の時、須菩提は、受解すること了了なり。是の故に説かく、『我れには、所礙無けれど、当来の世の三乗を求むる人、仏の、空無所有性を説きたもうを聞いて、罪重く、智鈍なるを以っての故に、空相を取りて、便ち、『誰か垢なる、誰か浄なる。凡夫、悪人を何を以ってか、垢と名づけ、出家の得道の人を、何を以ってか、浄と名づくる』、と言わんが為めなり』。
爾の時、
『須菩提』は、
『了了と受、解した!』ので、
是の故に、こう説いた、――
わたしには、
『所礙は無い!』が、
『当来の、三乗を求める人』が、
『仏』が、
『空、無所有である、と説かれる!』のを、
『聞けば!』、
『罪が重く、智が鈍である!』が故に、
『空相』を、
『取って!』、
便ち、こう言うからです、――
『誰が垢であり、誰が浄なのか?』。
『凡夫の悪人ならば!』、
何故、
『垢』と、
『呼ばれるのか?』。
『出家の得道の人ならば!』、
何故、
『浄』と、
『称するのか?』、と。
是人不解佛語深義。以何事而說。著是空故言何用持戒等。為以是因緣即生邪見破正見破正見故。以少因緣而破戒及威儀無所畏忌。 『是の人は、仏の深義を語りたもうに、何事を以ってか説きたもうやを解せざれば、是の空に著するが故に言わく、『持戒等を用いて、何を為さんや』、と。是の因縁を以って、即ち邪見を生じ、正見を破るも、正見を破るが故に、少因縁を以って、戒、及び威儀を破りて、畏忌する所無し』。
是の、
『人』は、
『仏が、深義を語られても!』、
何のような、
『事を意図されて、説かれたのか?』を、
『解せず!』、
是の、
『空に著する!』が故に、
『持戒等を用いて、何を為そうとするのか?』と、
『言う!』ので、
是の、
『因縁』の故に、
即ち、
『邪見を生じて!』、
『正見』を、
『破り!』、
『正見を破る!』が故に、
『少しの因縁』の故に、
『戒や、威儀を破っても!』、
『畏忌する所が無い( being without fear nor scruple )!』。
出家人資仰白衣。便妄語求利衣食等。破於正命等。種此罪故墮三惡道。或重於白衣。見有是失故問佛。我已得道於諸法無所受。又常聞佛說空法。云何戲論生疑。又我常修無諍三昧憐愍眾生是故問佛 『出家人は、白衣を資仰し、便ち妄語して利と、衣食等を求め、正命等を破り、此の罪を種うるが故に三悪道に堕し、或は白衣を重んずれば、是の失有るを見るが故に、仏に問えり。我れは、已に道を得て、諸法に於いて、受くる所無く、又常に仏の空法を説きたまえるを聞けり。何んが戯論して、疑を生ぜんや。又我れは常に無浄三昧を修して、衆生を憐愍すれば、是の故に仏に問えり』、と。
『出家人』は、
『白衣を資仰して( venerating layman )!』、
便ち( then )、
『妄語して!』、
『利や、衣食等を求めて!』、
『正命』等を、
『破り!』、
此の、
『罪を種える!』が故に、
『三悪道』に、
『堕ちたり!』、
或は、
『白衣』を、
『重んじる!』ので、
是のような、
『失が有ると、見えた!』ので、
わたしは、
『仏』に、
『問うたのです!』。
わたしは、
『已に、道を得て!』、
『諸法』に於いて、
『受ける!』所が、
『無く!』、
又、
『常に、仏が空法を説かれるのを、聞いている!』のに、
何故、
『戯論したり!』、
『疑を生じたりするのですか?』。
又、
わたしは、
『常に、無浄三昧を修めて!』、
『衆生』を、
『憐愍している!』ので、
是の故に、
『仏』に、
『問うたのです!』、と。
  資仰(しぎょう):敬重仰慕( venerate )。
  白衣(びゃくえ):梵語 avadaata-vasana の訳、白衣を着けた者( closed in white )の義、俗人の( laical )の意。


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