【論】釋曰。佛說菩薩行六波羅蜜不受世間果報。須菩提歎未曾有。白佛言。世尊。是菩薩大智慧成就。行是深法能作因而不受果。是菩薩為大利故不受小報。佛可其意已更自說因緣。所謂菩薩於諸法性中不動。諸法性者無所有畢竟空如法性實際。菩薩定心安住是中不動。 |
釈して曰く、仏の説きたまわく、『菩薩は、六波羅蜜を行ずるも、世間の果報を受けず』、と。須菩提の未曽有を歎じて、仏に白して言さく、『世尊、是の菩薩は大智慧成就して、是の深き法を行ずれば、能く因を作すも、果を受けず。是の菩薩は、大利の為めの故に、小報を受けざるなり』、と。仏は、其の意を可とし已りて、更に自ら因縁を説きたまえり。謂わゆる、『菩薩は、諸法の性中に於いて、動ぜざればなり』、と。諸法の性とは、無所有、畢竟空、如、法性、実際なり。菩薩は、心を定めて、是の中に安住すれば動ぜざるなり。 |
釈す、
『仏』が、こう説かれると、――
『菩薩』は、
『六波羅蜜を行じながら!』、
『世間の果報』を、
『受けることはない!』、と。
『須菩提』は、
『未曽有を歎じながら!』、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
是の、
『菩薩』は、
『大智慧が成就して!』、
是の、
『深い法』を、
『行じている!』ので、
『因を作しながら!』、
『果』を、
『受けることがないのです!』。
是の、
『菩薩』は、
『大利の為め!』の故に、
『小報』を、
『受けないのです!』、と。
『仏』は、
『須菩提の意を可とされる!』と、
更に、
自ら、
『因縁』を、
『説かれた!』。
謂わゆる、――
『菩薩』は、
『諸法の性』中に於いて、
『動じないからである!』、と。
『諸法の性』とは、
『無所有や、畢竟空、如、法性、実際であり!』、
『菩薩』は、
『心を定めて!』、
是の、
『無所有、乃至実際中に安住している!』ので、
『動じないのである!』。
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須菩提問世尊。何等性中不動。佛答。色性中不動。乃至大慈悲等性中不動。何以故。是諸法性眾因緣生故。不自在無定相。無定相故無所有。諸法者所謂色等法。因是色等法故說無為。是故無為法。亦無所有。何以故。不可以無所有法得所有法。 |
須菩提の問わく、『世尊、何等の性中にか、動かざる』、と。仏の答えたまわく、『色の性中に動ぜず、乃至大慈悲等の性中に動ぜず』、と。何を以っての故に、是の諸法の性は、衆因縁の生なるが故に、自在ならざれば、定相無し。定相無きが故に無所有なり。諸法とは、謂わゆる色等の法にして、是の色等の法に因るが故に、無為を説けば、是の故に、無為法も亦た無所有なり。何を以っての故に、無所有の法を以っては、所有の法を得る可からざればなり。 |
『須菩提』は、こう問うた、――
世尊!
何のような、
『性』中に、
『動じないのですか?』、と。
『仏』は、こう答えられた、――
『色の性、乃至大慈悲等の性』中に、
『動じることはない!』、と。
何故ならば、
是の、
『諸法の性』は、
『衆因縁の生である!』が故に、
『自在でなく!』、
『定相』が、
『無い!』が、
『定相が無い!』が故に、
『所有』も、
『無いからである!』。
『諸法』とは、
謂わゆる、
『色等の法である!』が、
是の、
『色等の法に因る!』が故に、
『無為が説かれる!』ので、
是の故に、
『無為法も!』、
『無所有( non-existing )である!』。
何故ならば、
『無所有の法を用いて!』、
『所有の法( the existing dharma )』を、
『得ることはできないからである!』。
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須菩提言。若無所有不能得所有者。豈可以所有法得所有法耶。佛答不。何以故。無所有法一切聖人所稱讚。所住處尚不能有所得。何況所有法。所有法得無所有不。佛言不。何以故。所有無所有二俱有過故言不。可以無所有得無所有不。佛言不。何以故。所有法有生相住相。以虛誑故尚無所得。何況無所有。從本已來畢竟空而有所得。 |
須菩提の言わく、『若し無所有にして、所有を得る能わざれば、豈に所有の法を以って、所有の法を得べしや』、と。仏の答えたまわく、『不なり。何を以っての故に、無所有の法は、一切の聖人の称讃する所、所住の処なるも、尚お所得有る能わず。何に況んや所有の法をや』、と。『所有の法は、無所有を得や、不や』。仏の言わく、『不なり』、と。何を以っての故に、所有と、無所有の二は倶に過有るが故に、『不なり』、と言えり。『無所有を以って、無所有を得べしや不や』。『仏の言わく、『不なり』、と。何を以っての故に、所有の法には生相、住相有るも、虚誑なるを以っての故に、尚お無所得なり。何に況んや、無所有は、本より已来、畢竟空なるに、所得有るをや。 |
『須菩提』は、こう言った、――
若し、
『無所有』が、
『所有』を、
『得られなければ!』、
豈に( how )、
『所有の法を用いて!』、
『所有の法』を、
『得られるのですか?』、と。
『仏』は、こう答えられた、――
『所有の法を用いて!』、
『所有の法』を、
『得ることはない!』、と。
何故ならば、
『無所有の法』は、
『一切の聖人』の、
『称讃する所であり!』、
『所住の処である!』のに、
尚お、
『所得( anything recognized )』を、
『有することはない!』、
況して、
『所有の法』が、
『有するはずがない!』。
――
『所有の法』は、
『無所有の法』を、
『得られるのですか?』。
『仏』は、こう言われた、――
『得ることはない!』、と。
何故ならば、
『所有の法も、無所有の法』も、
『二』は、
『倶に、過が有る!』が故に、
『仏』は、こう言われた、――
『得ることはない!』、と。
――
『無所有の法を用いて!』、
『無所有の法』を、
『得られるのですか?』。
『仏』は、こう言われた、――
『得ることはない!』、と。
何故ならば、
『所有の法』には、
『生相や、住相が有りながら!』、
『虚誑の相である!』が故に、
尚お、
『所得』が、
『無いからである!』。
況して、
『無所有の法』は、
『本より、畢竟空である!』のに、
『所得』が、
『有るだろうか!』。
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此中須菩提更問世尊。若以四句皆不得。將無道無得果耶。佛答。實有得道法。但不以是四句。何以故。四句有如上失故。若離是四句戲論即是道。 |
此の中に、須菩提は、更に問わく、『世尊、若し四句を以って、皆得ざれば、将(は)た道無く、果を得る無しや』、と。仏の答えたまわく、『実に道を得る法有るも、但だ是の四句を以(もち)いず』、と。何を以っての故に、四句には、上の如き失有るが故に、若し、是の四句の戯論を離るれば、即ち、是れ道なればなり。 |
此の中に、
『須菩提』は、更に問うた、――
世尊!
若し、
『四句を用いても!』、
皆、
『得られなければ!』、
将た( really )、
『道が無く!』、
『果を得ること!』も、
『無いのですか?』、、と。
『仏』は、こう答えられた、――
実に、
『道を得る法』は、
『有る!』が、
但だ、
『四句を用いて!』、
『得られるものではない!』、と。
何故ならば、
『四句』には、
上のような、
『過失』が、
『有るからである!』。
若し、
是の、
『四句という!』、
『戯論』を、
『離れることができれば!』、
即ち、
是れが、
『道なのである!』。
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復問。世尊何等是菩薩戲論相。佛答色等若常若無常是菩薩戲論。何以故。若常則不生不滅。無罪福好醜。無常亦不然。何以故。因常說無常。常既不可得。何況無常。 |
復た問わく、『世尊、何等か、是れ菩薩の戯論の相なる』、と。仏の答えたまわく、『色等の若しは常、若しは無常は是れ菩薩の戯論なり』、と。何を以っての故に、若し常なれば、則ち不生、不滅にして、罪福、好醜無ければなり。無常も亦た然らず。何を以っての故に、常に因りて、無常を説けば、常、既に不可得なるに、何に況んや無常をや。 |
『須菩提』は、復た問うた、――
世尊!
何のような、
『相』が、
『菩薩の戯論の相ですか?』、と。
『仏』は、こう答えられた、――
『色』等が、
『常であるとか!』、
『無常であるとか!』は、
是れが、
『菩薩』の、
『戯論である!』、と。
何故ならば、
若し、
『色等が常ならば!』、
則ち、
『不生、不滅であり!』、
『罪福も、好醜も無いからである!』が、
亦た、
『色等の法』が、
『無常である!』のも、
『間違っている!』。
何故ならば、
『常に因って( by permanence )!』、
『無常( impermanence )』を、
『説くのである!』が、
『常が、既に不可得である!』が故に、
況して、
『無常』は、
『言うまでもないからである!』。
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復次若無常定是色等實相。亦不應有業因緣果報。何以故。色等諸法念念滅失故。若業因緣果報滅則不名無常相。如是等種種因緣故。無常非是色等實相。如先破無常中說。 |
復た次ぎに、若し無常、定めて是れ色等の実相ならば、亦た応に業因縁の果報有るべからず。何を以っての故に、色等の諸法は、念念に滅失するが故に、若し業因縁の果報滅すれば、則ち無常の相と名づけざればなり。是れ等の如き、種種の因縁の故に、無常は、是れ色等の実相に非ず。先に無常を破する中に説けるが如し。 |
復た次ぎに、
若し、
『無常』が、
『色等の実相である!』と、
『定まれば!』、
亦た、
『業因縁の果報など!』、
『有るはずがない!』。
何故ならば、
『色等の諸法』は、
『念念に!』、
『滅失する!』が故に、
若し、
『業因縁の果報』が、
『滅するならば!』、
則ち( this is )、
『無常の相』と、
『呼ばれることはないからである!』。
是れ等のような、
『種種の因縁』の故に、
『無常』は、
『色等の実相ではない!』。
例えば、
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乃至作是念。我當斷一切煩惱習。是為戲論。色等諸法不可戲論。而凡夫人戲論諸法。菩薩於不可戲論隨法不戲論。何以故。自性不能戲論自性。所以者何。性從因緣生故但有假名。云何能戲論。若性不能戲論。何況無性離性。無性更無第三法可戲論。所謂戲論者戲論法戲論處。是法皆不可得。須菩提。色等法是不可戲論相。如是菩薩應行無戲論般若波羅蜜。 |
乃至、『我れは、当に一切の煩悩の習を断ずべし』、と是の念を作すまで、是れを戯論と為す。色等の諸法は、戯論すべからざるに、凡夫人は諸法を戯論す。菩薩は戯論すべからざるに於いて、法に随うも戯論せず。何を以っての故に、自性は、自性を戯論する能わざればなり。所以は何んとなれば、性は、因縁より生ずるが故に但だ、仮名のみ有り。云何が能く戯論せん。若し性にして、戯論すること能わざれば、何に況んや無性をや。性無性を離れて、更に第三の法にして、戯論すべき無し。謂わゆる戯論する者、戯論の法、戯論の処、是の法は、皆不可得なり。須菩提、色等の法は、是れ戯論すべからざる相なり。是の如く菩薩は、応に無戯論の般若波羅蜜を行ずべし。 |
乃至、
『わたしは、一切の煩悩の習を断たねばならない!』と、
是のような、
『念すら!』、
『作したならば!』、
是れが、
『戯論である!』。
『色等の諸法は、戯論すべきでない!』のに、
『凡夫人』は、
『諸法』を、
『戯論している!』。
『菩薩』は、
『戯論すべきでない法』に於いて、
『法に随いながら!』、
『法を戯論しないのである!』。
何故ならば、
『自性』が、
『自性』を、
『戯論できないからである!』。
何故ならば、
『性は、因縁より生じて!』、
但だ、
『仮名』が、
『有るだけなのに!』、
何故、
『戯論できるのか?』。
若し、
『性が、戯論できなければ!』、
況して、
『無性』が、
『戯論できるはずがない!』。
『性、無性を離れれば!』、
更に、
『第三の戯論すべき法』は、
『無い!』。
謂わゆる、
『戯論する者( one who idly discusses )も!』、
『戯論の法( the means of the idle discourse )も!』、
『戯論の処( the objects of the idle discourse )も!』、
是のような、
『法』は、
『皆、不可得だからである!』。
須菩提!
『色等の法』は、
『戯論すべきでないという!』、
『相であり!』、
是のように、
『菩薩』は、
『無戯論という!』、
『般若波羅蜜を行じなければならない!』。
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復次佛自說不可戲論因緣。色等法無性。若法無性即是不可戲論。若菩薩能行是不可戲論般若。便得入菩薩位。 |
復た次ぎに、仏は自ら、戯論すべからざる因縁を説きたまわく、『色等の法は、無性なり。若し法にして、無性なれば、即ち是れ戯論すべからず。若し菩薩、能く是の戯論すべからざる般若を行ずれば、便ち、菩薩位に入るを得』、と。 |
復た次ぎに、
『仏』は、
自ら、
『戯論すべきでない因縁』を、こう説かれた、――
『色等の法は、無性である!』が、
若し、
『法が無性ならば!』、
即ち、
『戯論すべきでない!』。
若し、
『菩薩』が、
是の、
『戯論すべきでないという!』、
『般若』を、
『行じることができれば!』、
便ち( easily )、
『菩薩位』に、
『入ることができるだろう!』、と。
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須菩提。意無戲論是三乘道。菩薩以何道入無戲論菩薩位。佛答皆言不。何以故。菩薩大乘人故不應用二乘道。六波羅蜜未具足故不能用佛道。 |
須菩提の意にすらく、『無戯論は、是れ三乗の道なるに、菩薩は、何なる道を以ってか、無戯論の菩薩位に入る』、と。仏は答えて、皆、『不なり』、と言えり。何を以っての故に、菩薩は大乗の人なるが故に、応に二乗の道を用うべからざるも、六波羅蜜の未だ具足せざるが故に、仏道を用うる能わざればなり。 |
『須菩提の意』は、こうである、――
『無戯論は、三乗の道である!』が、
『菩薩』は、
何のような、
『道を用いて!』、
『無戯論の菩薩位』に、
『入るのか?』、と。
『仏は答えて!』、
皆、
『そうでない!』と、
『言われた!』。
何故ならば、
『菩薩は、大乗の人である!』が故に、
『二乗の道を用いるはずがない!』が、
未だ、
『六波羅蜜を具足してない!』が故に、
『仏道を用いられないからである!』。
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此中佛自說因緣。菩薩應遍學諸道入菩薩位。此中說譬喻。如見諦道中八人先時遍學諸道入正位而未得須陀洹果。菩薩亦如是。先遍學諸道入菩薩位。而未得一切種智果。若菩薩住金剛三昧。以一念相應慧得一切種智果。 |
此の中に、仏は自ら、因縁を説きたまわく、『菩薩は、応に遍く、諸道を学びて、菩薩位に入るべし』、と。此の中に、譬喻を説きたまわく、『見諦道中の八人は、先の時に、遍く諸道を学びて正位に入るも、未だ須陀洹果を得ざるが如く、菩薩も亦た是の如く、先に遍く諸道を学びて菩薩位に入るも、未だ一切種智の果を得ず。若し菩薩、金剛三昧に住すれば、一念相応の慧を以って、一切種智の果を得』、と。 |
此の中に、
『仏』は、
自ら、
『因縁』を、こう説かれ、――
『菩薩』は、
『遍く、諸道を学んで!』、
『菩薩位』に、
『入らねばならない!』、と。
此の中に、
『譬喻』を、こう説かれた、――
『見諦道中の八人』が、
先の時には、
遍く、
『諸道を学んで!』、
『正位に入りながら!』、
未だ、
『須陀洹果』を、
『得ていないように!』、
『菩薩』も、
亦た、
是のように、
先に、
遍く、
『諸道を学んで!』、
『菩薩位に入りながら!』、
未だ、
『一切種智の果』を、
『得ることはない!』が、
若し、
『菩薩が、金鋼三昧に住しておれば!』、
『一念相応の慧を用いて!』、
『一切種智の果』を、
『得られるのである!』、と。
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須菩提問世尊。若菩薩遍學諸道。然後入菩薩位。是諸道各各異。若菩薩遍學是諸道。若生八道即是八人。乃至生辟支佛道即是辟支佛。世尊。若菩薩作八人。乃至作辟支佛。然後入菩薩位。無有是處。若不入菩薩位。得一切種智。亦無有是處。我當云何知菩薩遍學諸道入菩薩位。 |
須菩提の問わく、『世尊、若し菩薩、遍く諸道を学びて、然る後に菩薩位に入れば、是の諸道は各各異るに、若し菩薩、遍く是の諸道を学ぶに、若し八道を生ずれば、即ち是れ八人、乃至辟支仏道を生ずれば、即ち是れ辟支仏なり。世尊、若し菩薩、八人と作り、乃至辟支仏と作りて、然る後に菩薩位に入れば、是の処有ること無し。若し菩薩位に入らずして、一切種智を得れば、亦た是の処有ること無し。我れは、当に云何が、菩薩は、遍く諸道を学びて、菩薩位に入ることを知るべき』、と。 |
『須菩提』は、こう問うた、――
世尊!
若し、
『菩薩が、遍く諸道を学んで!』、
その後、
『菩薩位』に、
『入るとすれば!』、
是の、
若し、
『菩薩』が、
是の、
『諸道』を、
『遍く、学んで!』、
若し、
『八道を生じれば!』、
即ち、
『八人であり!』、
乃至、
『辟支仏道を生じれば!』、
即ち、
『辟支仏である!』。
世尊!
若し、
『菩薩』が、
『八人、乃至辟支仏と作って!』、
その後、
『菩薩位』に、
『入るとすれば!』、
是の、
『処』は、
『無く!』、
若し、
『菩薩位に入らずに!』、
『一切種智』を、
『得たとすれば!』、
是の、
『処』も、
『無いのです!』。
わたしは、
何のようにして、こう知ることになるのですか?――
『菩薩』は、
遍く、
『諸道を学んでから!』、
『菩薩位に入る!』、と。
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佛可其意已更自說因緣。菩薩初發意行六波羅蜜時。以智見觀入八地直過。如人親親繫獄故入而看之亦不與同著杻械。菩薩欲具足道種智故入菩薩位。遍觀諸道入菩薩位。入菩薩位已。得一切種智斷煩惱習。 |
仏は、其の意を可とし已りて、更に自ら、因縁を説きたまわく、『菩薩の初発意より、六波羅蜜を行ずる時、智を以って、八地に入るを見観するも、直ちに過ぐること、人の親親の獄に繋がるるが故に入るも、之を看て亦た与に、杻械に著くを同じうせざるが如し。菩薩は、道種智を具足せんと欲するが故に、菩薩位に入るも、遍く諸道を観て、菩薩位に入れば、菩薩位に入り已りて、一切種智を得、煩悩の習を断ず。 |
『仏』は、
『須菩提の意を可とされる!』と、
更に、
自ら、
『因縁』を、こう説かれた、――
『菩薩』が、
『初発意より、六波羅蜜を行じる!』時には、
『智を用いて、見観しながら!』、
『八地に入って!』、
『直ちに過ぎる!』のは、
譬えば、
『人』が、
『親親( 親戚)』が、
『獄に繋がれた!』が故に、
『獄に入ったとしても!』、
『親親を看てしまえば!』、
『親親に同じく!』を、
『杻械を著けないようなものである!』。
『菩薩』は、
『道種智を具足しようとする!』が故に、
『菩薩位』に、
『入るのである!』が、
『遍く、諸道を観てから!』、
『菩薩位』に、
『入るので!』、
『菩薩位に入って、一切種智を得たならば!』、
『煩悩の習』を、
『断じるのである!』。
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佛示須菩提。二乘人於諸佛菩薩智慧得少氣分。是故八人若智若斷。乃至辟支佛若智若斷。皆是菩薩無生法忍智。名學人八智。無學或九或十斷。名斷十種結使。所謂上下分十結。須陀洹斯陀含略說斷三結。廣說斷八十八結。阿那含略說斷五下分結。廣說斷九十二。阿羅漢略說三漏盡。廣說斷一切煩惱。是名智斷。 |
仏の須菩提に示したまわく、『二乗の人は、諸仏、菩薩の智慧に於いて、少しの気分を得。是の故に、八人の若しは智、若しは断、乃至辟支仏の若しは智、若しは断は、皆是れ菩薩の無生法忍なり』、と。智を、学人の八智と名づけ、無学の或は九、或は十なり。断を十種の結使を断ずと名づけ、謂わゆる上下分の十結なり。須陀洹、斯陀含を略説すれば、三結を断じ、広説すれば、八十八の結を断ず。阿那含を略説すれば、五下分結を断じ、広説すれば九十二を断ず。阿羅漢を略説すれば、三漏尽き、広説すれば、一切の煩悩を断ず。是れを智、断と名づく。 |
『仏』は、
『須菩提』に、こう示された、――
『二乗の人』は、
『諸仏、菩薩の智慧』の、
『少しの気分』を、
『得ただけであり!』、
是の故に、
『八人、乃至辟支仏』の、
『智や、断』は、
皆、
『菩薩』の、
『無生法忍なのである!』、と。
『智』とは、
『学人の八智か!』、
『無学の九智か、十智である!』。
『断』とは、
『十種の結使を断じることであり!』、
謂わゆる、
『上、下分』の、
『十結である!』。
『須陀洹、斯陀含』は、
略説すれば、
『三結』を、
『断じており!』、
広説すれば、
『八十八の結』を、
『断じている!』。
『阿那含』は、
略説すれば、
『五下分結』を、
『断じており!』、
広説すれば、
『九十二の結』を、
『断じている!』。
『阿羅漢』は、
略説すれば、
『三漏』が、
『尽きており!』、
広説すれば、
『一切の煩悩』を、
『断じている!』、
是れが、
『智、断である!』。
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参考:『大智度論巻23』:『【論】法智者。欲界繫法中無漏智。欲界繫因中無漏智。欲界繫法滅中無漏智。為斷欲界繫法道中無漏智。及法智品中無漏智。比智者。於色無色界中無漏智亦如是。他心智者。知欲界色界繫現在他心心數法及無漏心心數法少分。世智者諸有漏智慧。苦智者五受眾無常苦空無我觀時。得無漏智。集智者。有漏法因。因集生緣觀時無漏智。滅智者。滅止妙出觀時無漏智。道智者。道正行達觀時無漏智。盡智者。我見苦已斷集已盡證已修道已。如是念時無漏智慧見明覺。無生智者。我見苦已不復更見。斷集已不復更斷。盡證已不復更證。修道已不復更修。如是念時無漏智慧見明覺。如實智者。一切法總相別相。如實正知無有罣礙。是法智緣欲界繫法及欲界繫法因欲界繫法滅。為斷欲界繫法道比智亦如是。世智緣一切法。他心智緣他心有漏無漏心心數法。苦智集智緣五受眾滅智緣盡。道智緣無漏五眾。盡智無生智俱緣四諦。十智一有漏八無漏一當分別。他心智緣有漏心。是有漏緣無漏心。是無漏法智。攝法智及他心智苦智集智滅智道智盡智無生智少分。比智亦如是。世智攝世智及他心智少分。他心智攝他心智及法智比智世智道智盡智無生智少分。苦智攝苦智及法智比智盡智無生智少分。集智滅智亦如是。道智攝道智及法智比智他心智盡智無生智少分。盡智攝盡智及法智比智他心智苦智集智滅智道智少分。無生智亦如是。九智八根相應。除慧根憂根苦根。世智十根相應除慧根。法智比智苦智。空三昧相應。法智比智滅智盡智無生智。無相三昧相應。法智比智他心智苦智集智道智盡智無生智。無作三昧相應。法智比智世智苦智盡智無生智。無常想苦想無我想相應。世智中四想相應。法智比智滅智盡智無生智。後三想相應。有人言。世智或與離想相應。法智緣九智除比智。比智亦如是。世智他心智盡智無生智緣十智。苦智集智緣世智及有漏他心智。滅智不緣智道智。緣九智除世智。法智比智十六相。他心智四相。苦集滅道各各四相。盡智無生智俱十四相。除空相無我相。煖法頂法忍法中世智十六相。世間第一法中世智四相除無相。(轉相觀相也舊言十六聖行)初入無漏心成就一世智。第二心增苦智法智。第四心增比智。第六心增集智。第十心增滅智。第十四心增道智。若離欲者增他心智。無學道增盡智。得不壞解脫增無生智。初無漏心中不修智。第二心中現在未來修二智。第四心中現在修二智未來修三智。第六心中現在未來修二智。第八心中現在修二智。未來修三智。第十心中現在未來修二智。第十二心中現在修二智。未來修三智。第十四心中現在未來修二智第十六心中現在修二智。未來修六智。若離欲修七智。須陀洹欲離欲界結使。十七心中修七智。除他心智盡智無生智。第九解脫心中修八智。除盡智無生智。信解脫人轉作見得。雙道中修六智。除他心智世智盡智無生智。離七地欲時。無礙道中修七智除他心智盡智無生智。解脫道中修八智除盡智無生智。離有頂欲時無礙道中修六智。除他心智世智盡智無生智。八解脫道中修七智。除世智盡智無生智。無學初心第九解脫不時解脫人修十智及一切有漏無漏善根。若時解脫人修九智及一切有漏無漏善根。如是等種種以阿毘曇門廣分別。』 |
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智斷皆是菩薩忍。聲聞人以四諦得道。菩薩以一諦入道。佛說是四諦皆是一諦。分別故有四。是四諦二乘智斷皆在一諦中。菩薩先住柔順忍中。學無生無滅。亦非無生非無滅。離有見無見有無見非有非無見等。滅諸戲論得無生忍。無生忍者佛後品中自說。乃至作佛常不生惡心。是故名無生忍。 |
智、断は、皆是れ菩薩の忍なれば、声聞人は、四諦を以って、道を得るも、菩薩は一諦を以って道に入る。仏の説きたまわく、『是の四諦は、皆是れ一諦にして、分別するが故に四有り』、と。是の四諦は、二乗の智、断にして、皆一諦中に在り。菩薩は先に柔順忍中に住して、無生無滅、亦非無生非無滅を学んで、有見、無見、有無見、非有非無見等を離れて、諸の戯論を滅して無生忍を得。無生忍とは、仏の後品中に自ら説きたまわく、『乃至仏と作るまで、常に悪心を生ぜず。是の故に無生忍と名づく』、と。 |
『智や、断』は、
『皆、菩薩の忍であり!』、
『声聞人』は、
『四諦を用いて!』、
『道を得る!』が、
『菩薩』は、
『一諦を用いて!』、
『道に入る!』ので、
『仏』は、こう説かれた、――
是の、
『四諦』は、
皆、
『菩薩の一諦であり!』、
『分別する!』が故に、
『四諦』が、
『有る!』、と。
是の、
『四諦』は、
『二乗には!』、
『智と、断であり!』、
皆、
『一諦』中に、
『在る!』。
『菩薩』は、
先に、
『柔順忍中に住し!』、
『無生無滅、亦非無生非無滅を学んで!』、
『有見、無見、有無見、非有非無見』等を、
『離れ!』、
『諸の戯論を滅して!』、
『無生忍』を、
『得るのである!』。
『無生忍』とは、
『仏』は、
『後の品』中に、自ら説かれている、――
乃至、
『仏と作るまで!』、
『常に!』、
『悪心を生じなければ!』、
是の故に、
『無生忍』と、
『称するのである!』、と。
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論者言得是忍觀一切法畢竟空。斷緣心心數不生。是名無生忍。又復言能過聲聞辟支佛智慧名無生忍。聲聞辟支佛智慧。觀色等五眾生。滅心厭離欲得解脫。 |
論者の言わく、『是の忍を得て、一切法の畢竟空を観れば、縁を断じて、心心数法生ぜず、是れを無生忍と名づく』、と。又復た言わく、『能く声聞、辟支仏の智慧を過ぐれば、無生忍と名づく。声聞、辟支仏の智慧は、色等の五衆の生、滅を観るに、心に欲を厭離して、解脱を得』、と。 |
論者は、こう言う、――
是の、
『忍を得て!』、
『一切法は畢竟空である!』と、
『観れば!』、
『縁を断じることになり!』、
『心、心数法』が、
『生じない!』ので、
是れを、
『無生忍』と、
『称する!』、と。
又復た、こう言う、――
『声聞、辟支仏の智慧を過ぎれば!』、
『無生忍』と、
『称する!』。
『声聞、辟支仏の智慧』は、
『色等の五衆』の、
『生、滅』を、
『観て!』、
『心に、欲を厭離して!』、
『解脱』を、
『得るものである!』、と。
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菩薩以大福德智慧觀生滅時。心不怖畏如小乘人。菩薩以慧眼求生滅。實定相不可得。如先破生品中說。但以肉眼麤心見有無常生滅。凡夫人於諸法中著常見。是所著法還歸無常。眾生得憂悲苦惱。是故佛說欲離憂苦莫觀常相。是無常破常顛倒故。不為著無常故說。是故菩薩捨生滅觀。入不生不滅中。 |
菩薩は、大福徳の智慧を以って、生滅を観る時、心に怖畏せざること、小乗の人の如し。菩薩は、慧眼を以って、生滅に実定の相を求むるも不可得なること、先の破生品中に説けるが如く、但だ肉眼の麁心を以って、無常、生滅有るを見る。凡夫人は、諸法中に於いて、常見に著するも、是の所著の法は、還って無常に帰すれば、衆生は憂悲の苦悩を得。是の故に仏の説きたまわく、『憂苦を離れんと欲すれば、常相を観る莫れ』、と。是の無常は、常顛倒を破るが故にして、無常に著せんが為めの故には説かず。是の故に菩薩は、生滅の観を捨てて、不生不滅中に入る。 |
『菩薩』が、
『大福徳の智慧を用いて!』、
『生滅を観る!』時、
『心』は、
『小乗人のように!』、
『怖畏しない!』し、
『菩薩』が、
『慧眼を用いて!』、
『生、滅』中に、
『実定の相を求めても!』、
『不可得である!』のは、
先に、
『破生品』中に、
『説いた通りである!』。
但だ、
『肉眼や、麁心を用いれば!』、
『無常や、生滅が有る!』と、
『見るだけである!』、
『凡夫人』は、
『諸法』中に於いて、
『常見』に、
『著するものである!』が、
是の、
『所著の法』が、
還って、
『無常』に、
『帰する!』ので、
『衆生』は、
『憂悲や、苦悩』を、
『得ることになる!』。
是の故に、
『仏』は、こう説かれた、――
『憂苦を離れようとすれば!』、
『常相』を、
『観てはならない!』、と。
是の、
『無常』は、
『常の顛倒を破る為め!』の故に、
『無常である!』と、
『説かれたのであり!』、
『無常に著させようとする!』が故に、
『無常』を、
『説かれたのではない!』。
是の故に、
『菩薩』は、
『生、滅の観を捨てて!』、
『不生不滅』中に、
『入るのである!』。
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問曰。若入不生不滅。不生不滅即復是常。云何得離常顛倒。 |
問うて曰く、若し不生不滅に入らば、不生不滅は、即ち復た是れ常なり。云何が、常顛倒を離るるを得んや。 |
問い、
若し、
『不生不滅に入れば!』、
『不生不滅』とは、
即ち復た( this is also )、
『常である!』。
何故、
『常顛倒』を、
『離れられるのですか?』。
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答曰如無常有二種。一者破常顛到不著無常。二者著無常生戲論。無生忍亦如是。一者雖破生滅不著無生無滅故不墮常顛倒。二者著不生滅故墮常顛倒。真無生者滅諸觀語言道斷。觀一切法如涅槃相。從本已來常自無生。非以智慧觀故令無生得是無生無滅畢竟清淨。無常觀尚不取。何況生滅。如是等相名無生法忍。 |
答えて曰く、無常には二種有りて、一には常顛倒を破りて、無常に著せず、二には無常に著して戯論を生ずるが如く、無生忍も亦た是の如く、一には生滅を破ると雖も、無生無滅に著せざるが故に、常顛倒に堕せず、二には不生滅に著するが故に常顛倒に堕す。真の無生とは、諸観を滅して、語言の道断じ、一切法を観ること、涅槃の相の如く、本より已来、常に自ら無生なれば、智慧を以って観るが故に、無生ならしむるに非ず。是の無生無滅を得て、畢竟清浄なれば、無常の観すら、尚お取らず。何に況んや、生滅をや。是れ等の如き相を、無生法忍と名づく。 |
答え、
『無常には、二種有って!』、
一には、
『常顛倒を破りながら!』、
『無常』に、
『著さず!』、
二には、
『無常に著して!』、
『戯論』を、
『生じるように!』、
『無生忍にも、二種有って!』、
一には、
『生滅を破りながら、無生無滅にも著さない!』が故に、
『常顛倒』に、
『堕ちず!』、
二には、
『不生不滅に著する!』が故に、
『常顛倒』に、
『堕ちるのである!』。
『真の無生』とは、
『諸観を滅して、語言の道が断じられる!』と、
『一切法を観れば!』、
『涅槃の相のように!』、
『本より、常に!』、
『自ら、無生であり!』、
『智慧を用いて、観る!』が故に、
『一切法』を、
『無生にするのではない!』。
是の、
『無生無滅を得れば!』、
『畢竟清浄となる!』ので、
『無常観すら!』、
『尚お、取らず!』、
況して、
『生滅観』を、
『取るはずがない!』。
是れ等のような、
『相』が、
『無生法忍である!』。
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得是無生忍故即入菩薩位。入菩薩位已以一切種智斷煩惱及習。種種因緣度一切眾生。如好果樹多所饒益。 |
是の無生忍を得るが故に、即ち菩薩位に入り、菩薩位に入り已りて、一切種智を以って、煩悩、及び習を断じ、種種の因縁もて、一切の衆生を度すこと、好もしき果樹の如く、饒益する所多し。 |
是の、
『無生法忍を得る!』が故に、
即ち、
『菩薩位』に、
『入り!』、
『菩薩位に入れば!』、
『一切種智を用いて!』、
『煩悩と習』を、
『断じ!』、
『種種の因縁で!』、
『一切の衆生』を、
『度する!』ので、
『好もしい果樹のように!』、
『饒益する!』所が、
『多い!』。
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須菩提白佛言。世尊。何等是菩薩道種智。佛答。菩薩住無生忍法得諸法實相。從實相起取諸法名相語言。既自善解為眾生說令得開悟。 |
須菩提の仏に白して言さく、『世尊、何等か、是れ菩薩の道種智なる』、と。仏の答えたまわく、『菩薩は、無生忍法に住して、諸法の実相を得、実相より起ちて、諸法の名相、語言を取り、既に自ら善く解すれば、衆生の為めに説いて、開悟を得しむ』、と。 |
『須菩提』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
何のようなものが、
『菩薩』の、
『道種智ですか?』、と。
『仏』は、こう答えられた、――
『菩薩』は、
『無生忍法に住して!』、
『諸法の実相』を、
『得る!』と、
『実相より起って!』、
『諸法の名相、語言を取り
( to obtain the name, form and words of dharmas )!』、
既に、
『自ら!』、
『善く!』、
『理解したならば!』、
『衆生の為めに!』、
『説いて!』、
『開悟を得させるのだ( to uncover enlightenment )!』、と。
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語言(ごごん):梵語 nirukti- vyavahaara の訳、説明の為の行為( the action of explanation )の義。
開悟(かいご):梵語 prativedayati, prativibuddha の訳、悟りの体験( to experience of enlightenment
)の義、悟りを開く( to uncover enlightenment )の意。 |
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菩薩福德因緣故。解一切眾生音聲語言。以是音聲遍三千大千世界亦不著是聲。知如響相是音聲即是梵音相。以是故菩薩應知一切道。遍觀眾生心知其本末。以善法利益遮不善法。如經中廣說。 |
菩薩は、福徳の因縁の故に、一切の衆生の音声、語言を解し、是の音声を以って、三千大千世界に遍くするも、亦た是の声に著せずして、響の相の如しと知る。是の音声は、即ち是れ梵音の相なり。是を以っての故に、菩薩の、応に一切の道を知りて、遍く衆生の心を観、其の本末を知り、善法を以って利益し、不善法を遮うべきこと、経中に広説せるが如し。 |
『菩薩』は、
『福徳の因縁』の故に、
『一切衆生の音声、語言( the cries and languages of all living beings )』を、
『解し!』、
是の、
『音声を用いて!』、
『三千大千世界』に、
『遍くする!』が、
是の、
『音声』に、
『著することもなく!』、
譬えば、
『響の相である!』と、
『知る!』。
是の、
是の故に、
『菩薩』は、
『一切の道を知り!』、
遍く、
『衆生の心』を、
『観て!』、
其の、
『心の本、末』を、
『知り!』、
『善法を用いて、利益しながら!』、
『不善法』を、
『遮らねばならない!』が、
例えば、
『経』中に、
『広説された通りである!』。
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菩薩先知諸法實相故。於二乘道入出自在。觀已直過入菩薩位為度眾生故起道慧。欲為眾生說法。解一切眾生語言音聲。以梵音聲說法。所謂遮惡道開善道。 |
菩薩は、先に諸法の実相を知るが故に、二乗の道に於いて、入出自在にして、観已れば、直ちに過ぎて、菩薩位に入り、衆生を度せんが為の故に、道慧を起し、衆生の為めに説法せんと欲し、一切の衆生の語言、音声を解し、梵音声を以って説法す。謂わゆる悪道を遮えて、善道を開くなり。 |
『菩薩』は、
先に、
『諸法の実相を知る!』が故に、
『二乗道』に於いて、
『入、出』が、
『自在である!』が、
『二乗道を観たならば、直ちに過ぎて!』、
『菩薩位に入り!』、
『衆生を度す!』為の故に、
『道慧』を、
『起し!』、
『衆生の為めに、説法しようとする!』が故に、
『一切の衆生の語言、音声を解し!』、
謂わゆる、
『悪道を遮って!』、
『善道』を、
『開くのである!』。
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惡道者三惡道。善道者三善道。人天阿修羅。種種因緣呵惡道讚善道。遮惡道者所謂地獄道地獄因地獄果。 |
悪道とは、三悪道なり。善道とは、三善道の人、天、阿修羅なり。種種の因縁は悪道を呵して、善道を讃ずるなり。悪道を遮うとは、謂わゆる地獄の道、地獄の因、地獄の果なり。 |
『悪道』とは、
『地獄、畜生、餓鬼』の、
『三悪道であり!』、
『善道』とは、
『人、天、阿修羅』の、
『三善道である!』が、
『種種の因縁』は、
『悪道を呵して!』、
『善道』を、
『讃じるものである!』。
『悪道を遮る!』とは、
謂わゆる、
『地獄の道、因、果』を、
『遮ることである!』。
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地獄如先說。地獄道者三不善道。地獄因者三毒。貪欲增長起貪嫉不善道。瞋恚增長起恚惱不善道。愚癡增長起邪見不善道。三毒三不善道因。三不善道是七不善道因。地獄果者以是因故受地獄身。身心受種種苦惱是名果。菩薩應示眾生地獄果。然後為說法令斷地獄道及因果。 |
地獄は、先に説けるが如し。地獄の道とは、上の不善道なり。地獄の因とは三毒なり。貪欲増長すれば、貪嫉の不善道を起し、瞋恚増長すれば、恚悩不善道を起し、愚癡増長すれば、邪見不善道を起す。三毒は、三不善道の因にして、三不善道は、是れ七不善道の因なり。地獄の果とは、是の因を以っての故に、地獄の身を受け、身心に種種の苦悩を受くれば、是れを果と名づく。菩薩は、応に衆生に地獄の果を示して、然る後に為に説法して、地獄の道、及び因、果を断ぜしむべし。 |
『地獄』とは、
先に、
『説いた通りである!』。
『地獄の道』とは、
上の、
『不善道(地獄道)であり!』、
『地獄の因』とは、
『三毒であり!』、
『貪欲が増長すれば!』、
『貪嫉という!』、
『不善道を起し!』、
『瞋恚が増長すれば!』、
『恚悩という!』、
『不善道を起し!』、
『愚癡が増長すれば!』、
『邪見という!』、
『不善道を起す!』ので、
『三毒』は、
『三不善道(貪嫉、恚悩、邪見)』の、
『因であり!』、
『三不善道』は、
『七不善道(殺生、偷盗、邪淫、妄語、両舌、悪口、綺語)』の、
『因である!』。
『地獄の果』とは、
是の、
『因』の故に、
『地獄の身を受け!』、
『身心』に、
『種種の苦悩を受ける!』ので、
是れを、
『果』と、
『称するのである!』。
『菩薩』は、
当然、
『衆生』に、
『地獄の果』を、
『示さねばならず!』、
その後、
『衆生の為に、法を説いて!』、
『地獄の道、因、果』を、
『断たせねばならない!』。
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七不善道(しちふぜんどう):破戒者の趣く七種の不善の道。即ち身口の悪行、謂わゆる殺生、偷盗、邪淫、妄語、両舌、悪口、綺語である。『大智度論巻77下』参照。 |
参考:『大智度論巻77』:『復次菩薩如是學者。常有慈悲憐愍心。不惱眾生故不墮地獄。常觀因緣諸法實相。不生愚癡故不墮畜生。常行布施破慳貪心故不生餓鬼中。佛所說十二部經八萬四千法聚。常不吝惜故不生邊地。常供養尊長善人破憍慢故不生旃陀羅等下賤人中。深心愛眾生。具足行利益事故受身完具。以善法多化眾生故。眷屬成就終不孤窮。深愛樂尸羅波羅蜜故。不行十惡道及以邪命無有我心。但利益眾生不自為身故。不攝惡人及破戒者。惡人名心惡。破戒者名身口惡。復次行三不善道名惡人。行七不善道名破戒。』 |
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十不善道有上中下。上者地獄中者畜生下者餓鬼。十善道亦有上中下。上者天中者人下者鬼神。住十善道能離欲生色界。離色生無色界。三惡道中常受苦故。言應知應遮。天人中有得道因緣。為涅槃故或時應遮以不定故。不說餘助道法故。不應說遮 |
十不善道には、上中下有り。上の者は地獄、中の者は畜生、下の者は餓鬼なり。十善道にも亦た上中下有り。上の者は天、中の者は人、下の者は鬼神なり。十善道に住すれば、能く欲を離れて色界に生じ、色を離れて無色界に生ず。三悪道中には常に苦を受くるが故に言わく、『応に知るべく、応に遮すべし』、と。天、人中には得道の因縁有り。涅槃の為の故に、或は時に応に遮すべきも、不定なるを以っての故に説かず。餘は助道法なるが故に、応に遮するを説くべからず。 |
『十不善道』には、
『上、中、下が有り!』、
『上は、地獄であり!』、
『中は、畜生であり!』、
『下は、餓鬼である!』が、
『十善道』にも、
『上、中、下が有り!』、
『上は、天であり!』、
『中は、人であり!』、
『下は、鬼神である!』。
『十善道に住すれば!』、
『欲を離れて!』、
『色界』に、
『生じ!』、
『色を離れて!』、
『無色界』に、
『生じることができる!』が、
『三悪道』中には、
『常に、苦を受ける!』が故に、
『知らねばならぬ、遮せねばならぬ!』と、
『言うのである!』。
『天、人』中には、
有るいは、
『得道の因縁を得られる!』が、
『涅槃を得る為め!』の、
『因縁』は、
『或は時に!』、
『遮すべきである!』が、
是の、
『因縁』は、
『不定である!』が故に、
『説かないだけである!』。
餘の、
『因縁は助道法である!』が故に、
『遮すように!』、
『説くべきではない!』。
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乃至阿耨多羅三藐三菩提。菩薩能如是分別已。知眾生應以小乘法度者。以小乘法而度之。應以大乘法度者。以大乘法而度之。是菩薩知眾生深心數事及宿命業因緣。又知未來世果報因緣。又知眾生可化時節。及知處所。諸餘可度因緣盡皆知之。是故所說不虛。如是道種慧及諸助道法。皆攝在般若中。是故菩薩當行道慧般若。 |
乃至阿耨多羅三藐三菩提まで、菩薩は能く是の如く分別し已りて、衆生を知り、応に小乗法を以って度すべき者は、小乗法を以って、之を度し、応に大乗法を以って度すべき者は、大乗法を以って、之を度す。是の菩薩は、衆生の深い心数、事、及び宿命の業因縁を知り、又未来世の果報の因縁を知り、又衆生の化すべき時節を知り、及び処する所を知り、諸余の度すべき因縁を、尽く皆、之を知る。是の故に、説く所は虚しからず。是の如き道種慧、及び諸の助道法は、皆般若中に摂して在り。是の故に菩薩は、当に道慧の般若を行ずべし。 |
『菩薩』は、
乃至、
『阿耨多羅三藐三菩提を得るまで!』、
是のように、
『分別することができれば!』、
『衆生を知ることになり!』、
『小乗の法を用いて、度さねばならぬ!』者には、
『小乗の法を用いて!』、
『度し!』、
『大乗の法を用いて、度さねばならぬ!』者には、
『大乗の法を用いて!』、
『度す!』ので、
是の、
『菩薩』は、
『衆生』の、
『深い心数法や、事や、宿命の業因縁』を、
『知り!』、
又、
『未来世の果報の因縁』を、
『知り!』、
又、
『衆生を化すべき時節』を、
『知り!』、
及び、
『衆生の処する!』所を、
『知り!』、
諸余の、
『度すべき因縁』を、
『尽く、皆知る!』ので、
是の故に、
是のような、
『道種慧や、諸の助道法』は、
皆、
『般若』中に、
『摂されている!』ので、
是の故に、
『菩薩』は、
当然、
『道慧という!』、
『般若を行じねばならない!』。
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須菩提白佛言。若助道法菩提是法。皆不合不散無色無形無對一相。所謂無相。是助道法皆空。云何能取阿耨多羅三藐三菩提。空無所有法。應無取無捨。譬如虛空無法故無取無捨。 |
須菩提の仏に白して言さく、『若し助道法も、菩提も、是の法は皆、不合不散、無色無形無対の一相、謂わゆる無相なれば、是の助道法は、皆空なるに、云何が能く阿耨多羅三藐三菩提を取る。空、無所有の法は、応に取無く、捨無かるべし。譬えば虚空には、法無きが故に、取無く、捨無きが如し』、と。 |
『須菩提』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
若し、
『助道法や、菩提のような!』、
『法』が、
皆、
『不合不散、無色無形無対の一相であり!』、
謂わゆる、
『無相ならば!』、
是の、
『助道法』は、
皆、
『空であるはずなのに!』、
何故、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『取ることができるのですか?』。
『空、無所有の法』には、
『取も、捨も!』、
『無いはずであり!』、
『虚空には、法が無い!』が故に、
『取も、捨も!』、
『無いようなものだからです!』、と。
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須菩提所說真實無著心故。佛可言如是如是。更說因緣。有眾生不知如是諸法自相空故。為分別是助道法。能得阿耨多羅三藐三菩提。須菩提非但三十七品空不合不散。所有色等乃至一切種智。於聖法中亦自相空不合不散。 |
須菩提の所説は真実にして、著心無きが故に、仏は可として、『是の如し、是の如し』、と言い、更に因縁を説きたまわく、『有る衆生は、是の如き諸法の自相空を知らざるが故に、為に是の助道法は、能く阿耨多羅三藐三菩提を得と分別するも、須菩提、但だ三十七品のみ空にして、不合不散なるに非ず。有らゆる色等、乃至一切種智も、聖法中に於いては、亦た自相空にして、不合不散なり』、と。 |
『須菩提の所説』は、
『真実であり!』、
『著心』が、
『無い!』が故に、
『仏』は、
『可として( agreeing )!』、
『その通りだ、その通りだ!』と、
『言い!』、
更に、
『因縁』を、
『説かれた!』、――
有る、
『衆生』は、
是のような、
『諸法の自相空』を、
『知らない!』が故に、
是の、
『衆生の為めに!』、
是の、
『助道法は、阿耨多羅三藐三菩提を得ることができる!』と、
『分別した!』が、
須菩提!
但だ、
『三十七品のみ!』が、
『空であり!』、
『不合不散なのではない!』、
有らゆる、
『色等、乃至一切種智も、聖法中に於いては!』、
『自相空であり!』、
『不合不散なのだ!』、と。
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不合不散者是畢竟空義。如此中說一相所謂無相。是法雖空以世諦故。為眾生說欲令得入聖法。非第一義。是中菩薩皆應以知見學是法。初知名知後深入名見。知名未了見名已了。 |
不合不散とは、是れ畢竟空の義にして、此の中に、『一相、謂わゆる無相なり』、と説くが如し。是の法は、空なりと雖も、世諦を以っての故に、衆生の為めに説いて、聖法に入るを得しめんと欲するも、第一義に非ず。是の中に、菩薩は、皆応に知見を以って、是の法を学ぶべし。初に知るを知と名づけ、後に深く入るを見と名づく。知を未だ了せずと名づけ、見を已に了すと名づく。 |
『不合不散』とは、
『畢竟空という!』、
『義である!』が、
此の中には、
『一相、謂わゆる無相である!』と、
『説くようなものである!』。
是の、
『法は、空ではある!』が、
『世諦である!』が故に、
『衆生の為めに!』、
『聖法に入らせようとして!』、
『説くものであり!』、
是の、
『不合不散』が、
『第一義だというのではない!』。
是の中に、
『菩薩』は、
皆、
『知見を用いて!』、
是の、
『法』を、
『学ばねばならない!』。
『知見』とは、
『初めて知ること!』を、
『知』と、
『称し!』、
『後に、深く入る( deeply understanding )!』を、
『見』と、
『称するのであり!』
『知』は、
未だ、
『了しない( not being clear )!』が、
『見』は、
已に、
『了したということである!』。
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問曰。知見有何差別。 |
問うて曰く、知と見とに、何なる差別か有る。 |
問い、
『知、見には!』、
何のような、
『差別( difference )』が、
『有るのですか?』。
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答曰。有人言。有知非見有見非知。有亦知亦見。有非知非見。有知非見者。盡智無生智。除世間正見及五見。餘慧皆名知。是慧非見。見非知者。五見世間正見。見諦道中八忍。是見非知。餘無漏慧亦名知亦名見。離是見知餘法非見非知。 |
答えて曰く、有る人の言わく、『有るいは知にして見に非ず。有るいは見にして知に非ず。有るいは亦た知にして亦た見なり。有るいは知に非ずして見に非ず。有るいは知にして見に非ずとは、尽智、無生智、世間の正見、及び五見を除く、餘の慧を皆知と名づけ、是の慧は見に非ず。見にして知に非ずとは、五見と世間の正見、見諦道中の八忍、是れは見にして知に非ず。餘の無漏の慧は、亦た知と名づけ、亦た見と名づく。是の見、知を離れて、餘の法は見に非ず、知に非ず』、と。 |
答え、
有る人は、こう言っている、――
有るいは、
『知である!』が、
『見ではなく!』、
有るいは、
『見である!』が、
『知ではなく!』、
有るいは、
『知でもあり!』、
『見でもあり!』、
有るいは、
『知でもなく!』、
『見でもない!』。
有るいは、
『知であるが、見ではない!』とは、――
『尽智と、無生智と!』、
『世間の正見と、五見( 五邪見)を除いた、餘の慧は!』、
皆、
『知であり!』、
是の、
『慧』は、
『見ではない!』。
『見であるが、知ではない!』とは、――
『五見と、世間の正見と!』、
『見諦道中の、八忍とは!』、
『見である!』が、
『知ではない!』。
『知でもあり、見でもある!』とは、――
『餘の無漏の慧』は、
『知でもあり!』、
『見でもある!』。
『知でもなく、見でもない!』とは、――
是の、
『知、見を離れた!』、
『餘の法である!』、と。
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復次有人言。定心名為見。定未定通名為知。如轉法輪經中說。苦諦知已應見。知已分別知是法應見是苦諦。是法應斷是集諦。是法應證是滅諦。是法應修是道諦。或知煩惱斷名為見。如九斷知。 |
復た次ぎに、有る人の言わく、『定心を名づけて、見と為し、定と未定とを通じて名づけて、知と為す』、と。転法輪経中に説けるが如きは、『苦諦を知り已れば、応に見るべし。知り已りて、是の法を分別し、応に見るべしと知れば、是れ苦諦なり。是の法は応に断ずべしとは、是れ集諦なり。是の法は応に証すべしとは、是れ滅諦なり。是の法は応に修すべしとは、是れ道諦なり』、となり。或は煩悩の断じたるを知れば、名づけて見と為すこと、九断を知るが如し。 |
復た次ぎに、
有る人は、こう言っている、――
『定心』を、
『見』と、
『称し!』、
『定、未定を通じて!』、
『知』と、
『称する!』、と。
『転法輪経』中には、こう説かれている、――
『苦諦』に於いて、
『見るべきもの!』を、
『知り!』、
『知ったならば!』、
是の、
『法は、見なくてはならない!』と、
『分別して!』、
『知る!』ので、
是れが、
『苦諦である!』。
是の、
『法』は、
『断じなくてはならない!』と、
『知れば!』、
是れが、
『集諦であり!』、
是の、
『法』は、
『証さねばならない!』と、
『知れば!』、
是れが、
『滅諦であり!』、
是の、
『法』は、
『修めねばならない!』と、
『知れば!』、
是れが、
『道諦である!』、と。
或は、
『煩悩を知って!』、
『断じれば!』、
『見』と、
『称するのである!』が、
例えば、
『九断知のようなものである!』。
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断知・断智(だんち):梵語 prahaaNa- parijJaa の訳、見捨てる智慧( abandoning knowledge )の義、除去する智慧(
eliminating wisdom )の意。
九断智(くだんち):一切の断に、九種の別有るを云う。即ち一に欲界中の苦諦、集諦の所断の結尽き、二には色、無色界の苦諦、集諦の所断の結尽き、三には欲界の滅諦所断の結尽き、四には色無色界の滅諦の所断の結尽き、五には欲界の道諦の所断の結尽き、六には色無色界の道諦の所断の結尽き、七には五下分結尽き、八には色愛尽き、九には一切の結尽く。 |
参考:『阿毘曇八揵度論巻5』:『九斷智。欲界中苦諦習諦所斷結盡一斷智。色無色界苦諦習諦所斷結盡二斷智。欲界盡諦所斷結盡三斷智。色無色界盡諦所斷結盡四斷智。欲界道諦所斷結盡五斷智。色無色界道諦所斷結盡六斷智。五下分結盡七斷智。色愛盡八斷智。一切結盡九斷智。九斷智為攝一切斷智。一切斷智為攝九斷智。八人趣須陀洹證得須陀洹。趣斯陀含證得斯陀含。趣阿那含證得阿那含。趣阿羅漢證得阿羅漢。向須阿洹證於九斷智。成就幾智。不成就幾智。乃至向阿羅漢證阿羅漢。於九斷智成就幾智不成就幾智。』 |
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須菩提聞般若異名字。所謂聖法故問。何等是聖法。佛答。聖法中諸賢聖若佛若辟支佛聲聞等。以欲等諸法不合不散。不合者一切煩惱名顛倒。顛倒即無所有。若無所有云何可合。若不合云何有散。不合故不輕凡人。不散故不自高。於一切眾生不憎不愛。 |
須菩提は、般若の異なる名字、謂わゆる聖法を聞くが故に問わく、『何等か、是れ聖法なる』、と。仏の答えたまわく、『聖法中に諸賢聖の若しは仏、若しは辟支仏、声聞等は、欲等の諸法を以って不合、不散なり』、と。不合とは、一切の煩悩を顛倒と名づけ、顛倒なれば、即ち無所有、若し無所有なれば、云何が合すべき。若し不合なれば、云何が散有らん。不合なるが故に、凡人を軽んぜず、不散なるが故に自高せず、一切の衆生に於いて、悪まず、愛せず。 |
『須菩提』は、
『般若の異名』、
謂わゆる、
『聖法』を、
『聞いた!』が故に、
こう問うた、――
何のようなものが、
『聖法ですか?』、と。
『仏』は、こう答えられた、――
『聖法』中には、
『諸の賢聖は仏だろうが、辟支仏、声聞等だろうが!』、
『欲等の諸法』を、
『合することもなく( not to unit any scattered parts )!』、
『散じることもない
( not to break apart what was previously one piece )!』、と。
『合しない!』とは、
『一切の煩悩は、顛倒であり!』、
『顛倒ならば!』、
即ち、
『無所有だからである!』。
若し、
『無所有ならば!』、
何のようにして、
『合すればよいのか?』。
若し、
『合しなければ!』、
何故、
『散』が、
『有るのか?』。
『諸法は合しない!』が故に、
『五衆の和合である!』、
『凡人』を、
『軽んじず!』、
『衆生は、五衆に散じない!』が故に、
『因縁和合の生である!』、
『自ら!』を、
『高くすることはない!』ので、
『聖法』中には、
『一切の衆生』を、
『憎むこともなく!』、
『愛することもないのである!』。
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又復此中佛自說不合不散因緣。所謂是法皆無色無形無對一相。所謂無相。無色與無色法。不合不散乃至無相法與無相法不合不散。何以故。是法皆一性故。自性不與自性合。是名一相無相。般若波羅蜜菩薩應學。學已無法可得相。 |
又復た、此の中に仏は、自ら、不合不散の因縁を説きたまえり。謂わゆる、『是の法は、皆無色、無形、無対の一相、謂わゆる無相なり。無色は、無色の法と不合、不散なり。乃至無相の法は、無相の法と不合、不散なり。何を以っての故に、是の法は、皆一性なるが故に、自性は、自性と合せざれば、是れを一相、無相の般若波羅蜜と名づく。菩薩は、応に学ぶべく、学び已れば、法にして可得の相無し、と。 |
又復た、
此の中に、
『仏』は、
自ら、
『不合、不散の因縁』を、
『説かれている!』。
謂わゆる、
是の、
『法』は、
『無色、無形、無対の一相であり!』、
『謂わゆる、無相である!』。
『無色の法』は、
『無色の法』と、
『合することもなく、散じることもなく!』、
乃至、
『無相の法』は、
『無相の法』と、
『合することもなく、散じることもない!』。
何故ならば、
是の、
『法は、皆一性である!』が故に、
『自性』は、
『自性と合しないからである!』。
是れを、
『一相、無相という!』、
『般若波羅蜜』と、
『称し!』、
是の、
『法』を、
『菩薩』は、
『学ぶべきであり!』、
『学んだならば!』、
『相を取ることのできる法』は、
『無くなるのである!』、と。
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須菩提白佛言。世尊。菩薩不學色相耶。乃至不學有為無為相耶。世尊。若不學是諸法相。云何經中說菩薩先學諸法相後過聲聞辟支佛地。若不過聲聞辟支佛地。云何入菩薩位。如此中廣說。 |
須菩提の仏に白して言さく、『世尊、菩薩は、色相を学ばずや。乃至有為、無為の相を学ばずや。世尊、若し、是の諸法の相を学ばずんば、云何が、経中に説きたまわく、菩薩は、先に諸法の相を学びて、後に声聞、辟支仏の地を過ぐ、と。若し声聞、辟支仏の地を過ぎざれば、云何が菩薩位に入る』、と。此の中に広説せるが如し。 |
『須菩提』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
『菩薩』は、
『色相、乃至有為、無為の相』を、
『学ばないのですか?』。
世尊!
若し、
何故、
『経』中には、こう説かれているのですか?――
『菩薩』は、
先に、
『諸法の相』を、
『学べば!』、
後に、
『声聞、辟支仏の地』を、
『過ぎるだろう!』、と。
若し、
『声聞、辟支仏の地を過ぎなければ!』、
何故、
『菩薩位』に、
『入るのですか?』、と。
此の、
『経』中に、
『広説する通りである!』。
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佛告須菩提。若諸法實有相應當學是相。須菩提。一切法實無相。是故菩薩不應學相。無相亦不應學。以取相故破相事。如問相品中說。有佛無佛諸法常住一相所謂無相。 |
仏の須菩提に告げたまわく、『若し諸法にして、実に相有らば、応当に是の相を学ぶべきも、須菩提、一切の法は実に無相なり。是の故に菩薩は、応に相を学ぶべからず、無相も亦た応に学ぶべからず。相を取るを以っての故なり』、と。破相の事は、問相品中に説けるが如し、『有仏なるも、無仏なるも、諸法は常住の一相にして、謂わゆる無相なり』、と。 |
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
若し、
『諸法』に、
『実に!』、
『相が有れば!』、
是の、
『相』を、
『学ばねばならぬ!』が、
須菩提!
『一切の法』は、
『実に!』、
『無相なのである!』。
是の故に、
『菩薩』は、
『相』を、
『学ぶべきでなく!』、
亦た、
『無相』をも、
『学ぶべきでない!』。
何故ならば、
『無相の相』を、
『取るからである!』、と。
『破相の事』は、
『問相品』中に、説かれた通りである、――
『仏が有ろうが、無かろうが!』、
『諸法は、常住の一相であり!』、
謂わゆる、
『無相である!』、と。
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須菩提從佛聞一切法無相。今還問佛。世尊。若一切法非有相非無相。云何菩薩修般若。若有無相因無相可修般若。今相以無相皆無。因何事得修般若。若不修般若不能得過聲聞辟支佛地。乃至不能安立於三福田。 |
須菩提は、仏より一切法の無相なるを聞いて、今還って、仏に問わく、『世尊、若し一切法にして、非有相非無相なれば、云何が菩薩は般若を修するや。若し無相有らば、無相に因りて、般若を修すべし。今、相は、無相なるを以って、皆無ければ、何事に因りてか、般若を修するを得んや。若し般若を修せずんば、声聞、辟支仏の地を過ぐるを得る能わずして、乃至三福田を安立せしむる能わず。 |
『須菩提』は、
『仏より!』、
『一切法は、無相である!』と、
『聞いた!』ので、
今還って、
『仏』に、こう問うた、――
世尊!
若し、
『一切法が、非有相非無相ならば!』、
何のように、
『菩薩』は、
『般若を修めるのですか?』。
若し、
『無相が有れば!』、
『無相に因って!』、
『般若を修めることができる!』が、
今、
『相』が、
『無相である!』が故に、
『皆、無ければ!』、
何のような、
『事に因って!』、
『般若を修めることができるのですか?』。
若し、
『般若を修めなければ!』、
『声聞、辟支仏の地』を、
『過ぎられず!』、
乃至、
『三福田』を、
『安立することもできません!』、と。
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佛可其言如是如是。而更說修般若因緣。所謂菩薩不以修相故是修般若。修無相故是修般若。 |
仏は、其の言を、『是の如し、是の如し』、と可として、更に、般若を修する因縁を説きたまえり。謂わゆる、『菩薩は、相を修するを以って故に、是れ般若を修すとせず。無相を修するが故に、是れ般若を修するなり』、と。 |
『仏』は、
『須菩提の言』を、
『その通りだ、その通りだ!』と、
『可として!』、
更に、
『般若を修める因縁』を、
『説かれた!』。
謂わゆる、
『菩薩』は、
『相を修める!』が故に、
『般若』を、
『修めるのではなく!』、
『無相を修める!』が故に、
『般若』を、
『修めるのである!』、と。
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復問。世尊。云何修無相是修般若。若無相云何可修。佛答修諸法壞是修般若。以諸法壞故無相相亦壞。譬如車分壞故車相亦滅。又如輪分壞故輪相亦滅。如是乃至微塵。 |
復た問わく、『世尊、云何が無相を修すれば、是れ般若を修する。若し無相なれば、云何が修すべき』、と。仏の答えたまわく、『諸法の壊を修する、是れ般若を修するなり。諸法の壊を以っての故に、無相の相も亦た壊なり。譬えば車の分壊するが故に、車の相も亦た滅するが如く、又輪の分壊するが故に、輪相も亦た滅するが如く、是の如く乃至微塵なり』、と。 |
復た、こう問うた、――
世尊!
何故、
『無相を修めれば!』、
『般若』を、
『修めることになるのですか?』。
若し、
『無相ならば!』、
何故、
『修めることができるのですか?』、と。
『仏』は、こう答えられた、――
『諸法は壊である( all dharmas are broken )!』と、
『修めれば!』、
『般若』を、
『修めることになる!』が、
『諸法は壊である!』が故に、
『無相という!』、
『相』も、
『壊なのである!』。
譬えば、
『車の分』が、
『壊である!』が故に、
『車の相』も、
『滅することになり!』、
『車輪の分』が、
『壊である!』が故に、
『車輪の相』も、
『滅して!』、
乃至、
『微塵の分が壊である!』が故に、
『微塵の相』も、
『滅するようなものである!』。
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世尊。何等是諸法可破壞者。佛答修色法壞即是修般若波羅蜜。乃至修斷一切煩惱習壞。即是修般若波羅蜜。 |
『世尊、何等か、是れ諸法の破壊すべき者なる』。仏の答えたまわく、『色法の壊を修すれば、即ち是れ般若波羅蜜を修するなり。乃至一切の煩悩と習を断ずることの壊を修すれば、即ち、是れ般若波羅蜜を修するなり』、と。 |
――
世尊!
何のような者が、
『破壊するはず!』の、
『諸法ですか?』。
『仏』は、こう答えられた、――
『色法は壊である!』と、
『修めれば!』、
『般若波羅蜜』を、
『修めることになり!』、
乃至、
『一切の煩悩、習を断じること!』は、
『壊であると、修めれば!』、
『般若波羅蜜』を、
『修めることになる!』、と。
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須菩提白佛。云何修色壞。乃至修斷一切煩惱習壞是修般若。佛答。菩薩一心念薩婆若。憐愍眾生欲得正行般若波羅蜜。不念色是有法。如是修是修般若。以色是定實有相過故。 |
須菩提の仏に白さく、『云何が、色の壊を修し、乃至一切の煩悩、習を断ずることの壊を修すれば、是れ般若を修するなる』、と。仏の答えたまわく、『菩薩、一心に薩婆若を念じて、衆生を憐愍し、般若波羅蜜を正しく行ずるを得んと欲して、色は、是れ有法なりと念ぜざれば、是の如き修は、是れ般若を修するなり。色は、是れ定実にして、有相なる過を以っての故なり』、と。 |
『須菩提』は、
『仏』に、こう白した、――
何故、
『色、乃至一切の煩悩、習を断じること!』が、
『壊である!』と、
『修めれば!』、
是れが、
『般若』を、
『修めることになるのですか?』、と。
『仏』は、こう答えられた、――
『菩薩』が、
『一心に、薩婆若を念じて!』、
『衆生を憐愍しながら!』、
『般若波羅蜜』を、
『正しく、行じよう!』と、
『思いながら!』、
『色』等が、
『有法である!』と、
『念じなければ!』、
是のような、
『修( practices )』が、
『般若』を、
『修めることになる!』のは、
『色が定実ならば!』、
『有相という!』、
『過だからである!』、と。
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所以者何。佛此中自說因緣。有相者不修般若。般若中無法尚無。何況有法。是人不修般若波羅蜜。亦不修五波羅蜜。是人著有法戲論。不修布施等。如是著者無有解脫。無道無涅槃無三解脫門故。言無解脫無聖人。空法故言無道。無道故言無涅槃。 |
所以は何んとなれば、仏は、此の中に自ら、因縁を説きたまわく、『有相ならば、般若を修せず。般若中には無法すら、尚お無し。何に況んや、有法をや。是の人は、般若波羅蜜を修せず、亦た五波羅蜜を修せず。是の人は、有法に著して、戯論すれば、布施等を修せざるなり。是の如き著者には解脱有ること無く、道無く、涅槃無く、三解脱門無きが故に、『解脱無く、聖人無し』、と言う。法を空しくするが故に、『道無し』、と言い、道無きが故に、『涅槃無し』、と言う。 |
何故ならば、
『仏』は、
此の中に、
自ら、
『因縁』を、
『説かれている!』。
――
『有相ならば!』、
『般若』を、
『修めたことにならない!』。
『般若』中には、
『無法すら!』、
尚お、
『無いのであり!』、
況して、
『有法』は、
『言うまでもない!』。
是の、
『人』は、
『般若波羅蜜を修めることなく!』、
亦た、
『五波羅蜜』を、
『修めるのでもない!』。
是の、
『人』は、
『有法に著して、戯論するばかりで!』、
『布施』等を、
『修めることはないのだ!』。
是のような、
『著する!』者には、
『解脱が無く!』、
『解脱の道も、涅槃も無い!』、
『三解脱門が無い!』が故に、
『解脱も無く、聖人も無い!』と、
『言うのであり!』、
『法を空しくする!』が故に、
『道が無い!』と、
『言い!』、
『道が無い!』が故に、
『涅槃が無い!』と、
『言うのである!』。
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問曰。何以故無道。 |
問うて曰く、何を以っての故にか、道無き。 |
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答曰。是人戲論諸法不厭老病死。著法故生邪見。邪見故不能如實觀身不淨等。不能觀身故不修身念處。不修身念處故不能修受心法念處。不修四念處故不能修乃至一切種智。何以故著有法故。 |
答えて曰く、是の人は、諸法を戯論するも、老病死を厭わず、法に著するが故に、邪見を生じ、邪見の故に、如実に身の不浄等を観る能わず、身を観る能わざるが故に、身念処を修せず、身念処を修せざるが故に、受、心、法念処を修する能わず、四念処を修せざるが故に、乃至一切種智を修する能わず。何を以っての故に、有法に著するが故なり。 |
答え、
是の、
『人』は、
『諸法を戯論しながら!』、
『老病死を厭わず!』、
『法に著する!』が故に、
『邪見』を、
『生じる!』が、
『邪見である!』が故に、
『如実に!』、
『身の不浄』等を、
『観ることができず!』、
『身を観ることができない!』が故に、
『身念処』を、
『修めることなく!』、
『身念処を修めない!』が故に、
『受、心、法念処』を、
『修めることができず!』、
乃至、
『一切種智』を、
『修めることができない!』、
何故ならば、
『有法』に、
『著するからである!』。
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須菩提問佛。世尊何等是有法何等是無法。凡人或於有法中生無想。無法中生有想。欲分別是事故問。佛答。二相是有。不二相是無。復問何等是二相。佛答取色相即是二。 |
須菩提の仏に問わく、『世尊、何等か是れ有法にして、何等か是れ無法なる』、と。凡人は、或は有法中に於いて、無想を生じ、無法中に有想を生ずれば、是の事を分別せんと欲するが故に問えり。仏の答えたまわく、『二相は是れ有、不二の相は是れ無なり』、と。復た問わく、『何等か、是れ二相なる』、と。仏の答えたまわく、『色相を取れば、即ち是れ二なり』、と。 |
『須菩提』は、
『仏』に、こう問うた、――
世尊!
『有法とか、無法とは!』、
『何のようなものですか?』、と。
『凡人』は、
或は、
『有法』中に、
『無想( the image of nothing )』を、
『生じ!』、
『無法』中に、
『有想( the image of existing )』を、
『生じる!』ので、
是の、
『事』を、
『分別しようとした!』が故に、
『問うたのである!』。
『仏』は、こう答えられた、――
『二相は有であり!』、
『不二の相』は、
『無である!』、と。
復た、問うた、――
是の、
『二相』とは、
『何のようなものですか?』、と。
『仏』は、こう答えられた、――
『色』に、
『相』を、
『取れば!』、
即ち、
是れが、
『二である!』、と。
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如先品中說。離色無眼離眼無色。乃至有為無為性。何以故。離有為不得說無為。離無為不得說有為實相。是故是二法不得相離。凡人謂此為二。是故顛倒。 |
先の品中に説けるが如く、色を離れて眼無く、眼離れて色無く、乃至有為無為性なり。何を以っての故に、有為を離れて無為を説くを得ず、無為を離れて有為の実相を説くを得ざればなり。是の故に、是の二法は、相離るるを得ず。凡人は、此れを謂いて二と為せば、是の故に顛倒す。 |
先の、
『三慧品中に説いたように!』、――
『色を離れて!』、
『眼』は、
『無く!』、
『眼を離れて!』、
『色』は、
『無いのであり!』、
乃至、
『有為、無為の性』も、
『是の通りである!』、と。
何故ならば、
『有為を離れて!』、
『無為』を、
『説くことはできず!』、
『無為を離れて!』、
『有為法の実相』を、
『説くことはできないからである!』。
是の故に、
是の、
『二法は、相離れることができない!』が、
『凡人』は、
『此れは、二である!』と、
『謂う!』ので、
是の故に、
『顛倒するのである!』。
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佛略說二相。一切法中取相皆是二。一切二皆是有。適有便有生死。何以故。有中生著心。著心因緣生諸煩惱。煩惱因緣往來生死。生死因緣憂悲苦惱。是故說適有法便有生死有生死不得免老病憂苦。 |
仏の二相を略説したまわく、『一切法中に相を取れば、皆是れ二なり。一切の二は、皆是れ有なり。適(たまた)有るに、便ち生死有り。何を以っての故に、有中に著心を生ずれば、著心は、諸煩悩を生ずる因縁となり、煩悩は生死を往来する因縁となり、生死は憂悲苦悩の因縁となる。是の故に説きたまわく、『適ま法有れば、便ち生死有り、生死有れば、老病の憂苦を免るるを得ず』。 |
『仏』は、
『二相』を、こう略説された、――
『一切法』中に、
『相を取れば!』、
皆、
『二であり!』、
『一切の二』は、
皆、
『有である!』。
『適ま有れば( occasionally existing )!』、
便ち( conveniently )、
『生死』が、
『有る!』。
何故ならば、
『有中に、著心を生じれば!』、
『著心』は、
『諸煩悩を生じる!』、
『因縁となり!』、
『煩悩』は、
『生死を往来する!』、
『因縁となり!』、
『生死』は、
『憂悲、苦悩』の、
『因縁となる!』ので、
是の故に、こう説かれたのである、――
『適ま、法が有れば!』、
『便ち!』、
『生死が有り!』、
『生死が有れば!』、
『老病の憂苦』を、
『免れることができない!』。
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須菩提以是當知二相人無有檀波羅蜜。乃至無有順忍。何況見色實相。乃至見一切種智實相。是人若不見色等諸法實相則無修道。云何有須陀洹果乃至斷一切煩惱習。 |
『須菩提、是を以って当に知るべし、二相の人は、檀波羅蜜有ること無く、乃至順忍有ること無し。何に況んや色の実相を見て、乃至一切種智の実相を見るをや。是の人は、若し色等の諸法の実相を見ざれば、則ち修道無し。云何が須陀洹果有りて、乃至一切の煩悩の習を断ぜんや』、と。 |
須菩提!
是の故に、こう知らねばならない、――
『二相の人』には、
『檀波羅蜜が無く!』、
乃至、
『順忍』も、
『無い!』。
況して、
『色の実相』を、
『見るはずがなく!』、
乃至、
『一切種智の実相』を、
『見るはずがない!』。
是の、
『人』が、
若し、
『色等の諸法の実相を見なければ!』、
則ち、
『道を修めること!』が、
『無いのである!』。
何故、
『須陀洹果』が、
『有ったり!』、
乃至、
『一切の煩悩の習』を、
『断じられるのか?』。
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六波羅蜜有二種。世間出世間。此人無有出世間六波羅蜜故。是故說是有相人無有六波羅蜜。若有者。但有世間波羅蜜。此中不說世間波羅蜜。聲聞道果尚無。何況有佛道。 |
六波羅蜜には、二種有り、世間と出世間なり。此の人は、出世間の六波羅蜜有ること無きが故に、是の故に説きたまわく、『是の有相の人は、六波羅蜜有ること無し』、と。若し有らば、但だ世間の波羅蜜有るも、此の中には世間の波羅蜜を説かず。声聞道の果すら、尚お無し。何に況んや、仏道有るをや。 |
『六波羅蜜には、二種有り!』、
『世間の六波羅蜜と!』、
『出世間の六波羅蜜である!』が、
此の、
『人』には、
『出世間の六波羅蜜』が、
『無い!』が故に、
是の故に、こう説くのである、――
是の、
『有相の人』には、
『六波羅蜜』が、
『無い!』、と。
若し、
『有れば!』、
『世間の六波羅蜜』が、
『有るのである!』が、
此の中には、
『世間の波羅蜜』を、
『説かれていない!』。
『世間の波羅蜜』には、
『声聞道の果すら!』、
尚お、
『無いのであり!』、
況して、
『仏道など!』は、
『有るはずがない!』。
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問曰。順忍是何等順忍。 |
問うて曰く、順忍とは、是れ何等かの順忍なる。 |
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答曰。是小乘順忍。小乘順忍尚無。何況大乘。 |
答えて曰く、是れ小乗の順忍なり。小乗の順忍すら、尚お無し。何に況んや、大乗をや。 |
答え、
是れは、
『小乗の順忍である!』、
『小乗の順忍すら!』、
尚お、
『無いのである!』から、
況して、
『大乗』は、
『言うまでもない!』。
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問曰。頂法已能不退。何以說乃至忍法。 |
問うて曰く、頂法にして、已に能く不退なり。何を以ってか、乃至忍法を説く。 |
問い、
『頂法に入れば!』、
已に、
『不退である!』のに、
何故、
『乃至忍法』と、
『説くのですか?』。
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頂法(ちょうぼう)・忍法(にんぽう):四善根位の第二、及び第三。『大智度論巻18上注:四善根位』参照。 |
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答曰。聲聞法中亦說頂墮。摩訶衍亦說頂墮。汝何以故言頂法不墮。 |
答えて曰く、声聞法中にも亦た、頂より堕するを説く。摩訶衍も亦た頂より堕するを説く。汝は何を以っての故にか、『頂法は堕せず』、と言う。 |
答え、
『声聞法』中にも、
『頂より堕ちる!』と、
『説かれている!』し、
『摩訶衍』にも、
『頂より堕ちる!』と、
『説いている!』。
お前は、何故、こう言うのか?――
『頂法』は、
『堕ちない!』、と。
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有人言。雖頂法不墮不牢固。不能一定故不說忍。是久住已入正定。雖未得無漏而與無漏同。以隨順苦法忍故名為忍。未曾見是法故見便能忍。是故名忍。是人於諸佛聖人為小。於凡夫為大。 |
有る人の言わく、『頂法は堕せずと雖も、牢固ならざれば、一定なる能わざるが故に説かず』、と。忍は、是れ久住にして、已に正定に入れば、未だ無漏を得ずと雖も、無漏と同く、苦法忍に随順するを以っての故に、名づけて忍と為す。未だ曽て、是の法を見ざるが故に、見て便ち能く忍べば、是の故に忍と名づく。是の人は、諸仏、聖人に於いては小と為すも、凡夫に於いては大と為す。 |
有る人は、こう言っている、――
『頂法』は、
『堕ちないとはいうが!』、
『牢固ではなく!』、
『一定でない!』が故に、
『忍』と、
『説くことはない!』。
『忍法』は、
『已に、正定に入って!』、
『正定に、久住する!』が故に、
未だ、
『無漏を得ていないとしても!』、
『無漏と同じように!』、
『苦法忍』に、
『随順しており!』、
是の故に、
『忍』と、
『称される!』。
是の、
『法( the target )』を、
『未だ曽て見なかった!』者が、
『頂法』に於いて、
『見えるようになる!』と、
便ち、
『道』を、
『忍ぶことができる!』ので、
是の故に、
『忍』と、
『称するのである!』。
是の、
『人』は、
『諸仏、聖人より!』は、
『小である!』が、
而し、
『凡夫より!』は、
『大なのである!』。
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見色有二種。一者見色實相了了。二者斷繫諸色煩惱故名為見。如色乃至一切種智一切煩惱習事亦如是。若人見色修道尚無。何況能得修須陀洹果乃至斷煩惱習 |
色を見るに二種有り、一には色の実相を見ること、了了たり。二には諸色に繋する煩悩を断ずるが故に名づけて、見ると為す。色、乃至一切種智の如く、一切の煩悩の習の事も亦た是の如し。若し人、色を見れば、修する道すら尚お無し。何に況んや能く須陀洹果を修するを得て、乃至煩悩の習を断ずるをや。 |
『色を見る!』には、
『二種有って!』、
一には、
『色の実相』を、
『了了として( very clearly )!』、
『見て!』、
二には、
『諸色( 色界四禅天処)に繋する!』、
『煩悩( ≒五上分結 )』を、
『断じる!』が故に、
是れを、
『見る!』と、
『称するのである!』。
『色、乃至一切種智を見るように!』、
亦た、
『一切の煩悩の習を見る!』、
『事』も、
『是の通りである!』。
若し、
『人』が、
『色を見れば!』、
『修める道すら!』、
『尚お、無い!』。
況して、
『須陀洹果を修めることができたり!』、
乃至、
『煩悩の習』を、
『断じたりできるものだろうか?』。
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