【論】釋曰。須菩提意以四種門雖安隱。以甚深故利根者乃得入。佛答無不入者。須菩提明智慧利根者能入。佛意但一心精進欲學者可入。譬如熱時清涼池有目有足皆可入。雖近不欲入者則不入四門般若波羅蜜池亦如是。四方眾生無有遮者。不懈怠者是正精進。不妄念者是正念。不亂心者是正定。如等四門是正見。正見等安住是戒行。此八聖道能得般若波羅蜜。 |
釈して曰く、須菩提の意に以(おも)えらく、『四種の門は、安隠なりと雖も、甚だ深きを以っての故に、利根の者にして、乃ち入るを得ん』、と。仏の答えたまわく、『入らざる者無し』、と。須菩提は、『智慧の利根なる者は、能く入る』、と明かし、仏の意は、『但だ一心に精進して、学ばんと欲する者は、入るべし。譬えば、熱時に清涼の池あり、目有り、足有れば、皆入るべきも、近しと雖も、入らんと欲せざる者は、則ち入らざるが如し。四門、般若波羅蜜の池も亦た是の如く、四方の衆生に、遮る者有ること無し』、となり。不懈怠とは、是れ正精進なり。不忘念とは、是れ正念なり。不乱心とは、是れ正定なり。如等の四門は、是れ正見なり。正見等に安住せしむるは、是れ戒行なり。此の八聖道は、能く般若波羅蜜を得しむ。 |
釈す、
『須菩提』は、
『意』に、こう以った( to consider as )、――
『四種( 如、法性、実際、不合不散)の門』は、
『安隠である!』が、
『甚だ深い!』が故に、
『利根の者だけが!』、
『乃ち、入ることができる( can barely enter )!』、と。
『仏』は、こう答えられた、――
『須菩提』は、こう明かしたのであるが、――
『智慧』が、
『利根であれば!』、
『入ることができる!』、と。
『仏の意』は、こうであった、――
但だ、
『一心に精進して!』、
『学ぼうとする者だけ!』が、
『入れるのだ!』。
譬えば、
『熱時( in the hot season )の!』、
『清涼の池は!』、
『目と、足が有れば!』、
皆、
『入ることができる!』が、
『近くても!』、
『入ろうとしなければ!』、
『入ることがないように!』、
『四門や、般若波羅蜜という!』、
『池』も、
是のように、
『四方の衆生』には、
『遮る!』者が、
『無いのである!』、と。
『不懈怠』とは、
『正精進であり!』、
『不忘念』とは、
『正念であり!』、
『不乱心』とは、
『正定であり!』、
『如等の四門』は、
『正見である!』。
『正見等の住( the abode as the right insight etc. )』を、
『安隠にする!』者は、
『戒行(正命、正業、正語、正思惟)であり!』、
此の、
『八聖道』が、
『般若波羅蜜』を、
『得させるのである!』。
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熱時(ねつじ):梵語 griiSma の訳、夏/熱い季節( the summer, hot season )の義。 |
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須菩提小乘智短故。但說利根者能入。佛大乘大智故。說雖中根鈍根八法和合故能入是四門。佛此中以大悲氣故說中根鈍根皆可得入。若菩薩能如般若所說六波羅蜜學。不久當得薩婆若。如聲聞法中不但以正見得道。以八分合行故。大乘法亦如是。不但學般若故得。薩婆若與五波羅蜜合故得。是故說。菩薩如所說般若波羅蜜當學得一切智。 |
須菩提の小乗の智は、短なるが故に、但だ、『利根の者のみ、能く入る』、と説けるも、仏の大乗は大智なるが故に、『中根、鈍根なりと雖も、八法の和合するが故に、能く是の四門に入る』、と。仏は、此の中に、大悲の気を以っての故に説きたまわく、『中根、鈍根も皆、入るを得べし。若し菩薩、能く般若の所説の如く、六波羅蜜を学べば、久しからずして、当に薩婆若を得べし』、と。声聞法中の如きは、但だ正見を以ってしては、道を得ず。八分を合して行ずるを以っての故なり。大乗の法も亦た是の如く、但だ般若を学ぶが故に薩婆若を得ず、五波羅蜜と合するが故に得。是の故に説かく、『菩薩は、所説の如き般若波羅蜜を、当に学びて、一切智を得べし』、と。 |
『須菩提』は、
『小乗の智が、短小である!』が故に、こう説いたが、――
但だ、
『利根の者だけ!』が、
『入ることができる!』と。
『仏』は、
『大乗の大智である!』が故に、こう説かれた、――
『中根や、鈍根であっても!』、
『正見等の八法が和合する!』が故に、
是の、
『四門』に、
『入ることができる!』、と。
『仏』は、
此の中に、
『大悲という!』、
『気分を用いる!』が故に、こう説かれた、――
『中根や、鈍根でも!』、
皆、
『入ることができる!』。
若し、
『菩薩』が、
『般若に説かれたように!』、
『六波羅蜜』を、
『学ぶことができれば!』、
久しからずして、
『薩婆若』を、
『得ることになる!』、と。
『声聞法』中には、
但だ、
『正見だけでは!』、
『道』を、
『得ることができず!』、
『正見、正語等の八分を合して!』、
『行う!』が故に、
『得ることができるように!』、
『大乗法』も、
是のように、
但だ、
『般若を学ぶ!』が故に、
『薩婆若』を、
『得るのではなく!』、
『五波羅蜜と合する!』が故に、
『薩婆若』を、
『得るのである!』。
是の故に、こう説く、――
『菩薩』が、
『説かれた通りに!』、
『般若波羅蜜を学べば!』、
『一切智』を、
『得ることになる!』、と。
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問曰。上說但般若能至一切種智。今何以言與五波羅蜜合故得至。 |
問うて曰く、上に説かく、『但だ般若のみ、能く一切種智に至らしむ』、と。今は、何を以ってか、『五波羅蜜と合するが故に、至るを得』、と言える。 |
問い、
上には、こう説いたのに、――
但だ、
『般若だけ!』が、
『一切種智』に、
『至らせることができる!』、と。
今は、
何故、こう言うのですか?――
『五波羅蜜と合する!』が故に、
『一切種智』に、
『至ることができる!』、と。
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答曰。常說與六波羅蜜合故得至。或時有清淨佛國。但聞實相得至薩婆若。不用次第行諸波羅蜜。此中說菩薩得薩婆若則般若功報已足。今但讚行般若人力勢。如經中說是菩薩行般若。所有魔事起即滅。 |
答えて曰く、常に、『六波羅蜜と合するが故に、至るを得』、と説くも、或いは時に、有る清浄の仏国は、但だ実相を聞いて、薩婆若に至るを得れば、次第に諸波羅蜜を行ずるを用いず。此の中には、『菩薩、薩婆若を得』、と説けば、則ち般若の功報、已に足れば、今は但だ、般若を行ずる人の、力勢を讃ず。経中に、『是の菩薩は、般若を行ずれば、有らゆる魔事は起きて、即ち滅す』、と説くが如し。 |
答え、
常には( usually )、
『六波羅蜜と合する!』が故に、
『薩婆若に至ることができる!』と、
『説く!』が、
或いは、時に、
有る、
『清浄の仏国』では、
但だ、
『実相を聞けば!』、
『薩婆若』に、
『至ることができ!』、
次第に( by proper sequence )、
『諸の波羅蜜を行う!』、
『必要がない!』。
此の中には、
『菩薩』が、
『薩婆若を得る!』と、
『説くだけで!』、
則ち、
『般若の功報( the work of Prajna )』は、
『已に、足りている!』ので、
今は、
但だ、
『般若を行う人の力勢』を、
『讃じるのである!』。
例えば、
『経』中に、こう説く通りである、――
是の、
『菩薩が、般若を行えば!』、
有らゆる、
『魔事が、起きても!』、
『即ち、滅する!』、と。
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次第(しだい):梵語 kramaat の訳、適切な順で/段階的に/継続的に( by proper sequence, gradually, in succession )の義。
功報(くほう):梵語 karman の訳、業、事業、業因等にも訳す、行為/行動/執行/仕事( act, action, performance,
buisiness, work, ocupation )の義。 |
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從上諸佛所念來至此。皆是讚菩薩行般若功德乃至分別善知三乘善知字門者。如文字陀羅尼中說。非字名如法性實際。此中無文字。 |
上の諸仏の念じたもう所より、此に来たりて至るまでは、皆是れ菩薩の般若を行ずる功徳、乃至三乗を分別して善く知るを讃ず。字門を善く知るとは、文字陀羅尼中に説けるが如く、非字とは、如、法性、実際と名づけて、此の中に文字無し。 |
上の、
『諸仏に念じられる!』より、
『此に至るまで!』は、
皆、
『菩薩が般若を行う功徳や!』、
乃至、
『三乗を分別して、善知すること!』を、
『讃じている!』。
『善く、字門を知る!』とは、
例えば、
『文字陀羅尼』中に、
『説く通りである!』。
『非字』とは、
『如、法性、実際をいい!』、
此の中には、
『文字』が、
『無いからである!』。
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略說義是菩薩無量福德力故。善知二法世間及涅槃。若厭世苦則念涅槃。若欲沒涅槃還念世間。集諸福德道故善知字。破福德中顛倒故善知無字。語不語亦如是。 |
義を略説すれば、是の菩薩は無量の福徳の力の故に、善く二法の世間、及び涅槃を知り、若し世苦を厭えば、則ち涅槃を念じ、若し涅槃に没せんと欲すれば、還って世間を念じて、諸の福徳の道を集むるが故に、善く字を知り、福徳中の顛倒を破せるが故に、善く無字を知る。語と、不語も亦た是の如し。 |
『字、非字の義を略説すれば!』、――
是の、
『菩薩』は、
『無量の福徳の力』の故に、
『善く!』、
『世間や、涅槃という!』、
『二法』を、
『知る!』ので、
若し、
『世間の苦を厭えば!』、
則ち、
『涅槃』を、
『念じることになり!』、
若し、
『涅槃の楽に没しようとすれば!』、
還って、
『世間』を、
『念じ!』、
諸の、
『福徳の道を集める!』が故に、
『福徳中の顛倒を破った!』が故に、
『語と、不語』も、
亦た、
『是の通りである!』。
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一語者以是一語能分別多少淨語不淨語一語二語多語男語女語等音聲各異。菩薩善知是事故。能伏諸邪道及諸豪勝。 |
一語とは、是の一語を以って、能く多少の浄語、不浄語を分別す。一語、二語、多語、男語、女語等は、音声を各異にすれど、菩薩は、善く是の事を知るが故に、能く諸の邪道、及び諸の豪勝を伏す。 |
『一語』とは、
是の、
『一語を用いれば!』、
『多少の浄語や、不浄語( some pure and impure words )』を、
『分別することができるからである!』。
『一語や、二語や、多語や、男語、女語』等も、
『音声は、各異なる!』が、
『菩薩』は、
是の、
『事を、善く知る!』が故に、
『諸の邪道や、諸の豪勝( an aristocracy of wealth )』を、
『伏することができる!』。
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善知色乃至識二種相若常若無常。如先說善知捨道者。菩薩從一地至一地。捨下地不憂得上地。不貪不捨道者。住是地中邪見。次世間正見。一切見學無學等諸見。行者十六行。善知須陀洹者人也。須陀洹道者見諦道也。須陀洹果第十六心心數法及無漏戒等諸法。乃至佛亦如是。 |
善く色、乃至識の二種の相なる、若しは常、若しは無常を知ること、先に説けるが如し。善く捨道を知るとは、菩薩は、一地より、一地に至るに、下地を捨てて憂えず、上地を得て貪らず。不捨の道とは、是の地中に住す。邪見は、世間の正見に次ぐ。一切見とは、学、無学等の諸見なり。行とは、十六行なり。善く須陀洹を知るとは、人なり。須陀洹の道とは、見諦の道なり。須陀洹果とは、第十六心の心数法、及び無漏戒等の諸法なり。乃至仏も亦た是の如し。 |
『善く、色、乃至識を知る!』とは、
『色等の常、無常』の、
『二種の相』を、
『知ることであり!』、
先に、
『説いた通りである!』。
『善く、捨道を知る!』とは、
『菩薩』は、
『一地より、一地に至る!』時、
『下地』を、
『捨てて!』、
『憂えず!』、
『上地』を、
『得て!』、
『貪らないからである!』。
『不捨道を知る!』とは、
『邪見』は、
『世間の正見』に、
『次ぐものであり!』、
『一切見』は、
『学、無学』等の、
『諸の見である!』。
『行』とは、
『十六行である!』。
『善く、須陀洹を知る!』とは、
『須陀洹』は、
『人である!』。
『須陀洹の道』とは、
『見諦という!』、
『道である!』。
『須陀洹の果』とは、
『第十六心の心数法』と、
『無漏戒等の諸法である!』。
乃至、
『仏』も、
『是の通りである!』。
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善知諸根者。善分別二十二根。有人言觀可度眾生根有利鈍。具足者可度。不具足者未可度。又菩薩亦自知善根具足不具足。如鳥子自知毛羽具足爾乃可飛。 |
善く諸根を知るとは、善く二十二根を分別すればなり。有る人の言わく、『度すべき衆生の根には、利鈍有るを観ればなり。具足とは、度すべければなり。不具足なれば、未だ度すべからず』、と。又菩薩も亦た自ら、善根の具足と、不具足を知ること、鳥の子の、自ら毛羽の具足すれば、爾して乃ち飛ぶべきを知るが如し。 |
『善く、諸根を知る!』とは、
『善く!』、
『二十二根』を、
『分別するからである!』。
有る人は、こう言っている、――
『度される!』、
『衆生を観れば!』、
『根』に、
『利、鈍が有るからである!』。
『根』が、
『具足していれば!』、
『度すことができる!』が、
『根』が、
『具足していなければ!』、
『未だ、度すべきでないからである!』、と。
又、
『菩薩』も、
自ら、
『善根が具足しているのか、具足していないのか?』を、
『知っている!』。
譬えば、
『鳥の子』が、
自ら、
『毛羽が具足したので!』、
乃ち( only then )、
『飛ぶことができる!』と、
『知るようなものである!』。
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慧者一切智慧總相。疾慧者速知諸法。有人雖疾而智力不強。如馬雖疾而力弱。有人雖有強智力而不利。譬如鈍斧雖有大力不能破物。出慧者於種種難中能自拔出。亦能於諸煩惱中自拔出三界入涅槃。達慧者究盡通達於佛法中。乃至漏盡得涅槃。破壞諸法到法性中。廣慧者道俗種種經書論議。於佛法中有無無不悉知。深慧者觀一切法無礙無相不可思議世間深智慧者能知久遠事。利中有衰衰中有利。 |
慧とは、一切の智慧の総相なり。疾かなる慧とは、速かに諸法を知ればなり。有る人は、疾かなりと雖も、智力強からず。馬の疾しと雖も、力弱きが如し。有る人は、強き智力有りと雖も、利ならず。譬えば、鈍斧に大力有りと雖も、物を破る能わざるが如し。出の慧とは、種種の難中に於いて、能く自ら抜き出し、亦た能く諸煩悩中に於いて、自ら三界より抜き出して、涅槃に入ればなり。達慧とは、仏法中に於いて、窮尽し、通達し、乃至漏尽きて、涅槃を得、諸法を破壊して、法性中に到ればなり。広き慧とは、道俗の種種の経書、論議は、仏法中の有、無に於いて、悉く知らざる無し。深慧とは、一切の法の無礙、無相、不可思議なるを観ればなり。世間の深き智慧は、能く久遠の事を知るも、利中に衰有り、衰中に利有り。 |
『慧』とは、
『一切の智慧』の、
『総相である!』。
『疾い慧』とは、
速かに、
『諸法』を、
『知るからである!』。
有る人は、
『疾い( be speedy )!』が、
『智力』が、
『強くない( be not powerful )!』。
譬えば、
『疾い馬だが!』、
『力』が、
『弱いようなものである!』。
有る人は、
『強い!』、
『智力が有りながら!』、
『利くない!』。
譬えば、
『鈍斧は、大力が有りながら!』、
『物』を、
『破ることができないようなものである!』。
『出る慧』とは、
種種の、
『難』中より、
『自ら!』、
『抜き出すことができ!』、
亦た、
『諸の煩悩』中に於いて、
『自ら!』、
『三界より!』、
『抜き出して!』、
亦た、
『涅槃』に、
『入れることができるからである!』。
『達する慧』とは、
『仏法中に窮尽し、通達して!』、
乃至、
『漏が尽きて、涅槃を得れば!』、
『諸法を破壊して!』、
『法性』中に、
『到るからである!』。
『広い慧』とは、
『道、俗の種種の経書、論議』は、
『仏法中に有る者も、無い者も!』、
悉く、
『知らない!』者が、
『無いからである!』。
『深い慧』とは、
『一切の法』は、
『無礙、無相、不可思議である!』と、
『観るからである!』。
『世間の深い智慧』は、
『久遠の事を知りながら!』、
『利い智慧』中に、
『衰え!』が、
『有り!』、
『衰える智慧』中に、
『利さ!』が、
『有る!』。
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利(り):梵語 tiikSNa の訳、鋭利( sharp, keen )の義。 |
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大慧者總具上諸慧名為大。又復一切眾生中佛為大。諸法中般若為大。知佛信法與大法和合故名為大。 |
大慧とは、上の諸慧を総べて具するを、名づけて大と為せばなり。又復た一切の衆生中に仏を大と為し、諸法中に般若を大と為すに、仏を知りて法を信ずれば、大法と和合するが故に、名づけて大と為す。 |
『大慧』とは、
総じて、
『上の諸慧を具える!』が故に、
『大』と、
『称するのである!』が、
又復た、
『一切の衆生』中には、
『仏が大であり!』、
『諸の法』中には、
『般若が大である!』が故に、
『仏を知って!』、
『法を信じれば!』、
是の、
『慧』は、
『大法』と、
『和合する!』が故に、
是れを、
『大』と、
『称するのである!』。
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無等慧者於般若中不著般若。能如是深入更無異法可喻。復次菩薩漸漸行道到不可思議性中。無有與等者故名無等。 |
無等の慧とは、般若中に於いて、般若に著せざればなり。能く是の如く深く入れば、更に異法の喻うべき無し。復た次ぎに、菩薩は漸漸に道を行い、不可思議性中に到れば、与(とも)に等しき者無きが故に、無等と名づく。 |
『無等の慧』とは、
『般若』中に於いては、
『般若にすら!』、
『著することはないからである!』。
是のように、
『深く!』、
『般若』に、
『入れば!』、
更に、
『喻えられるような!』、
『異法』は、
『無い!』が故に、
是の、
復た次ぎに、
『菩薩』は、
漸漸に( gradually )、
『道を行きながら!』、
『不可思議性』中に、
『到れば!』、
『等しい者が無い!』が故に、
『無等』と、
『称するのである!』。
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寶慧者如如意寶自無定色隨前物而變。般若亦如是。自無定相隨諸法行。又如如意珠隨願皆得。般若亦如是。有人行者能得佛願何況餘者。 |
実慧とは、如意宝の自ら定色無くして、前の物に随いて、変ずるが如く、般若も亦た是の如く、自ら定相無くして、諸法に随いて行じ、又如意珠の願に随いて、皆得るが如く、般若も亦た是の如く、有る人行ずれば、能く仏の願を得。何に況んや餘の者をや。 |
『実の慧』とは、
『如意宝』が、
『自ら、定色が無く!』、
『前の物に随って!』、
『色』を、
『変じるように!』、
『般若』も、
是のように、
『自ら、定相が無く!』、
『諸法に随って!』、
『慧( the wisdom of Prajna )』を、
『行う( to use )からであり!』、
又、
『如意珠』が、
『願うがままに!』、
『皆』、
『得られるように!』、
『般若』も、
是のように、
有る人が、
『般若を行えば!』、
『仏の願』を、
『得ることができるからである!』。
況して、
『餘の願』は、
『言うまでもない!』。
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過去已滅未來未起。不得言有不得言無。於是中能行實相是名善知。現在法念念生滅故不可知而能通達是名善知。現在世 |
過去は已に滅し、未来は未だ起らざれば、『有り』、と言うを得ず、『無し』、と言うを得ず。是の中に於いて、能く実相を行ずれば、是れを『善く知る』と名づく。現在の法は念念に生滅するが故に、知るべからざるも、能く通達すれば、是れを現在世を善く知ると名づく。 |
『過去は、已に滅し!』、
『未来は、未だ起らない!』が故に、
『過去や、未来の事』は、
『有るとも、無いとも!』、
『言うことができない!』が、
是の中に於いて、
『実相を行う( to understand the reality )!』が故に、
『善く知る!』と、
『称し!』、
『現在の法』は、
『念念に( at successive moments )!』、
『生滅する( being born and extinct )!』が故に、
『知ることができない!』が、
『通達することができる!』ので、
是れを、
『現在世を、善く知る!』と、
『称するのである!』。
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方便名欲成辦其事能具足因緣多少得所。於中不令有失。如菩薩雖行空不證實際雖行福德亦復不著。 |
方便を、其の事を成辦せんと欲するに、能く因縁の多少を具足して、所を得しめ、中に於いて失有らしめずと名づく。菩薩は、空を行ずと言えども、実際を証せざるが如く、福徳を行ずと雖も、亦復た著せず。 |
『方便』とは、
其の、
『事を成辦したい( to accomplish one's work )!』と、
『思えば!』、
『因縁』を、
『多少にかかわらず!』、
『具足させ!』、
『所を得る( to get the result )まで!』、
『中間』に於いて、
『失( leaving out by mistake )』を、
『有らせない!』。
譬えば、
『菩薩』が、
『空を行いながら( to practise emptiness )!』、
『実際』を、
『証することがないように!』、
亦復た、
『福業を行いながら!』、
『福徳』に、
『著することはないのである!』。
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行空(ぎょうくう):◯梵語 khaga の訳、( moving in air )の義。◯梵語 pracarita-zuunyataa の訳、実践された空虚(
practiced emptiness )の義。空を熟考すること( to contemplate emptiness )の意。 |
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待眾生者。如估客大將雖乘駃馬能疾到所止故待眾人。菩薩亦如是乘智慧駃馬雖能疾入涅槃。亦待眾生故不入。善知眾生種種善惡心。 |
衆生を待つとは、估客の大将は、駃馬に乗ると雖も、能く疾かに止まる所に到るが故に、衆人を待つが如し。菩薩も亦た是の如く、智慧の駃馬に乗れば、能く疾かに涅槃に入ると雖も、亦た衆生を待つが故に入らず。善く衆生の種種の善、悪の心を知る。 |
『衆生を待つ!』とは、
譬えば、
『估客の大将( the leader of a caravan )』が、
『駃馬に乗りながら!』、
『疾かに、止まる所に到る!』が故に、
『衆人』を、
『待つことになるようなものである!』。
『菩薩』も、
是のように、
『智慧という!』、
『駃馬に乗る!』が故に、
『疾かに!』、
『涅槃に入ることができる!』が、
亦た、
『衆生を待つ!』が故に、
『涅槃に!』、
『入らないのである!』。
『善く、衆生の心を知る!』とは、
『衆生』の、
『種種の善、悪の心』を、
『知るからである!』。
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駃馬(かいめ):駿馬( a swift horse )。 |
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深心者現在雖惡其本則好。如父母撾子外惡內善。如佛度鴦崛魔羅。知其淺心雖惡深心實善。菩薩觀眾生信等五善根從深心中來。是時可度義者有二。亦法亦名。語者語言以名字名物。得義無礙法無礙故。名善知義辭無礙。樂說無礙故名善知語。菩薩住是二善知中。能以三乘度眾生。是名善知分別三乘。如是難解故解說。易解者不說。 |
深心とは、現在、悪なりと雖も、其の本は、則ち好し。父母の子を撾(う)つは、外に悪しく、内に善きが如し。仏の鴦崛魔羅を度したもうに、其の浅心は、悪なりと雖も、深心は実に善なりと知りたもうが如く、菩薩は、衆生の信等の五善根は、深心中より来たれば、是の時度すべし、と観る。義には、二有りて、亦たは法、亦たは名なり。語とは、名字を以って、物に名づく。義無礙と、法無礙とを得るが故に、善く義を知ると名づく。辞無礙と、楽説無礙の故に、善く語を知ると名づく。菩薩は、是の二善知中に住して、能く三乗を以って、衆生を度すれば、是れを善く、三乗を分別するを知ると名づく。是の如く解し難き故に解説し、解し易きは、説かず。 |
『深心』とは、
『現在は、悪であっても!』、
譬えば、
『父母が、子を撾てば( to beat their child )!』、
『外は、悪であっても!』、
『内』は、
『善であるようなものである!』。
例えば、
『仏は、鴦崛魔羅を度された!』が、
其の、
『浅心は、悪であったとしても!』、
『深心は、実に善である!』と、
『知っていられたように!』、
『菩薩』は、
『衆生』の、
『信、精進、念、定、慧の五善根』が、
『深心中より、来たものであり!』、
是の時、
『度さねばならぬ!』と、
『観るのである!』。
『義』には、
『二種有り!』、
『法義( the meaning of a dharma )と!』、
『名義( the meaning of a term )である!』。
『語』とは、
『語言であり( language )!』、
『名字を用いて( using a term or some terms )!』、
『物』を、
『称する!』。
『善く、義を知る!』とは、
『義無礙と、法無礙』を、
『得るからである!』。
『善く、語を知る!』とは、
『辞無礙と、楽説無礙』を、
『得るからである!』。
『菩薩』は、
是の、
『二善知中に、住すれば!』、
『三乗を用いて!』、
『衆生』を、
『度することができる!』ので、
是れを、
『善く、三乗を分別して知る!』と、
『称するのである!』。
是のように、
『解し難いが故に、解説して!』、
『解し易い!』者は、
『説かなかった!』。
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義(ぎ):梵語 artha の訳、目的/意図/原因/動機/理由/利益/利用法/実利( aim, purpose, cause, motive,
reason, advantage, use, utility )、実体/財産/資産( substance, wealth, property
)、意味/意向/観念( sense, meaning, notion )の義。
法義(ほうぎ):梵語 dharmaartha の訳、法の意味( the meaning of a dharma )の義。
名義(みょうぎ):梵語 naamaartha の訳、名の意味( the meaning of a name or term )の義。 |
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問曰。何以故。先說善知色乃至識。後說知眾界入。何以先說善知緣。後說因次第緣增上。 |
問うて曰く、何を以っての故にか、先に色、乃至識を善く知ると説き、後に衆界入を知ると説く。何を以ってか、先に縁を善く知ると説き、後に因、次第、縁、増上を説く。 |
問い、
何故、
先に、
『善く、色乃至識を知る!』と、
『説き!』、
後に、
『衆、界、入を知る!』と、
『説くのですか?』。
何故、
先に、
『善く、縁を知る!』と、
『説き!』、
後に、
『因縁、次第縁、縁縁、増上縁』を、
『説くのですか?』。
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答曰。先廣說後略說。復有人言先五眾有三種善不善無記。戒眾等五亦名為五眾緣。先略說後廣說 |
答えて曰く、先には、広説し、後には、略説す。復た有る人の言わく、『先の五衆には、三種有りて、善、不善、無記なり。戒衆等の五も亦た名づけて、五衆と為す。縁は、先に略説し、後に広説す』、と。 |
答え、
『先に、広説して!』、
『後に!』、
『略説したからである!』。
復た、有る人は、こう言っている、――
先の、
『五衆』には、
『善、不善、無記の三種』が、
『有り!』、
亦た、
『戒衆、定、慧、解脱、解脱知見衆の五種』も、
『五衆』と、
『呼ばれるからである!』。
『縁』は、
『先に、略説して!』、
『後に!』、
『広説したものである!』。
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