巻第八十(下)
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大智度論釋六度相攝品第六十八
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


【經】檀、尸羅波羅蜜に住して、餘の五波羅蜜を取る

【經】須菩提白佛言。世尊。云何菩薩摩訶薩住檀波羅蜜取尸羅波羅蜜。 須菩提の仏に白して言さく、『世尊、云何が菩薩摩訶薩は、檀波羅蜜に住して、尸羅波羅蜜を取る』、と。
『須菩提』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
『菩薩摩訶薩』は、
『檀波羅蜜に住しながら!』、
何のように、
『尸羅波羅蜜』を、
『取る( to obtain )のですか?』、と。
  参考:『大般若経巻349』:『爾時具壽善現白佛言。世尊。云何菩薩摩訶薩安住布施波羅蜜多引攝淨戒波羅蜜多。佛言。善現。若菩薩摩訶薩以無攝受無慳吝心修布施時。持是布施與諸有情平等共有迴向無上正等菩提。於諸有情住慈身業。住慈語業。住慈意業。善現。是為菩薩摩訶薩安住布施波羅蜜多引攝淨戒波羅蜜多。具壽善現復白佛言。世尊。云何菩薩摩訶薩安住布施波羅蜜多引攝安忍波羅蜜多。佛言。善現。若菩薩摩訶薩以無攝受無慳吝心修布施時。持是布施與諸有情平等共有迴向無上正等菩提。設有受者非理毀罵加害凌辱。菩薩於彼不起變異瞋毒害心。唯生怜愍慈悲之心。善現。是為菩薩摩訶薩安住布施波羅蜜多引攝安忍波羅蜜多。具壽善現復白佛言。世尊。云何菩薩摩訶薩安住布施波羅蜜多引攝精進波羅蜜多。佛言。善現。若菩薩摩訶薩以無攝受無慳吝心修布施時。持是布施與諸有情平等共有迴向無上正等菩提。設有受者非理毀罵加害凌辱。爾時菩薩便作是念。諸有造作如是類業。還自感得如是類果。我今不應計彼所作廢修自業。復作是念。我應於彼及餘有情。倍更增長捨心施心無所顧惜。作是念已。發起增上身心精進惠捨不息。善現。是為菩薩摩訶薩安住布施波羅蜜多引攝精進波羅蜜多。具壽善現復白佛言。世尊。云何菩薩摩訶薩安住布施波羅蜜多引攝靜慮波羅蜜多。佛言。善現。若菩薩摩訶薩以無攝受無慳吝心修布施時。持是布施與諸有情平等共有迴向無上正等菩提。菩薩爾時心無散亂。終不迴求諸妙欲境。亦不迴求欲有色有及無色有。亦不迴求聲聞獨覺所住之地。但與有情平等共有迴求無上正等菩提。如是之心流注不散。善現。是為菩薩摩訶薩安住布施波羅蜜多引攝靜慮波羅蜜多。』
佛告須菩提。菩薩摩訶薩布施時。持是布施迴向薩婆若。於眾生中住慈身口意業。是為菩薩住檀波羅蜜取尸羅波羅蜜。世尊。云何菩薩住檀波羅蜜取羼提波羅蜜。 仏の須菩提に告げたまわく、『菩薩摩訶薩は、布施する時、是の布施を持して、薩婆若に迴向し、衆生中に於いて、慈の身口意の業に住す。是れを菩薩、檀波羅蜜に住して、尸羅波羅蜜を取ると為す』、と。『世尊、云何が、菩薩は檀波羅蜜に住して、羼提波羅蜜を取る!』。
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
『菩薩摩訶薩』は、
『布施する!』時、
是の、
『布施』を、
『薩婆若』に、
『迴向し!』、
『衆生』中に於いて、
『慈の身、口、意業』に、
『住す!』。
是れを、
『菩薩が、檀波羅蜜に住しながら!』、
『尸羅波羅蜜』を、
『取るというのである!』。
――
世尊!
『菩薩』は、
『檀波羅蜜に住しながら!』、
何のように、
『羼提波羅蜜』を、
『取るのですか?』。
佛告須菩提。菩薩布施時。受者嗔恚罵辱惡言加之。是時菩薩忍辱不生瞋心。是為菩薩住檀波羅蜜取羼提波羅蜜。世尊。云何菩薩住檀波羅蜜取毘梨耶波羅蜜。 仏の須菩提に告げたまわく、『菩薩は、布施する時、受者瞋恚して、罵詈し、悪言を之に加うるも、是の時、菩薩は忍辱して、瞋心を生ぜず。是れを菩薩は、檀波羅蜜に住して、羼提波羅蜜を取ると為す』、と。『世尊、云何が菩薩は、檀波羅蜜に住して、毘梨耶波羅蜜を取る』。
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
『菩薩』は、
『布施する!』時、
『受者が瞋恚して!』、
『罵辱、悪言』を、
『加えたとしても!』、
是の時、
『菩薩は忍辱して!』、
『瞋心』を、
『生じない!』。
是れを、
『菩薩が、檀波羅蜜に住しながら!』、
『羼提波羅蜜』を、
『取るというのである!』。
――
世尊!
『菩薩』は、
『檀波羅蜜に住しながら!』、
何のように、
『毘梨耶波羅蜜』を、
『取るのですか?』。
佛言。菩薩布施時。受者瞋恚罵辱惡言加之。菩薩增益布施心作是念。我應當施不應有所惜。即時生身精進心精進。是為菩薩住檀波羅蜜取毘梨耶波羅蜜。世尊。云何菩薩摩訶薩住檀波羅蜜取禪波羅蜜。 仏の言わく、『菩薩は、布施する時、受者瞋恚して、罵詈し、悪言を之に加うるも、菩薩は増益して布施し、心に是の念を作さく、我れ応当に施すべくして、応に惜む所有るべからず、と。即時に身の精進と心の精進を生ず。是れを菩薩は、檀波羅蜜に住して、毘梨耶波羅蜜を取ると為す』、と。『世尊、云何が菩薩摩訶薩は、檀波羅蜜に住して、禅波羅蜜を取る』。
『仏』は、 こう言われた、――
『菩薩』が、
『布施する!』時には、
『受者が瞋恚して!』、
『罵辱、悪言』を、
『加えたとしても!』、
『菩薩は、益々布施しながら!』
わたしは、
『布施すべきであり!』、
『惜む所が、有ってはならない!』と、
『念じて!』、
即時に、
『身の精進と、心の精進』を、
『生じる!』。
是れを、
『菩薩が、檀波羅蜜に住しながら!』、
『毘梨耶波羅蜜』を、
『取るというのである!』。
――
世尊!
『菩薩摩訶薩』は、
『檀波羅蜜に住しながら!』、
何のように、
『禅波羅蜜』を、
『取るのですか?』。
佛言。菩薩布施時。迴向薩婆若不趣聲聞辟支佛地。但一心念薩婆若。是為菩薩住檀波羅蜜取禪波羅蜜。世尊。云何菩薩摩訶薩住檀波羅蜜取般若波羅蜜。 仏の言わく、『菩薩は、布施する時、薩婆若に迴向して、声聞、辟支仏の地に趣かず、但だ一心に薩婆若を念ず。是れを菩薩は、檀波羅蜜に住して、禅波羅蜜を取ると為す』、と。『世尊、云何が菩薩摩訶薩は、檀波羅蜜に住して、般若波羅蜜を取る』。
『仏』は、 こう言われた、――
『菩薩』が、
『布施する!』時には、
『薩婆若に迴向して!』、
『声聞、辟支仏の地』に、
『趣向せず!』、
但だ、
『一心に!』、
『薩婆若を念じる!』。
是れを、
『菩薩が、檀波羅蜜に住しながら!』、
『禅波羅蜜』を、
『取るというのである!』。
――
世尊!
『菩薩摩訶薩』は、
『檀波羅蜜に住しながら!』、
何のように、
『般若波羅蜜』を、
『取るのですか?』。
佛言。菩薩布施時。知布施空如幻。不見為眾生布施有益無益。是為菩薩住檀波羅蜜取般若波羅蜜。 仏の言わく、『菩薩は、布施する時、布施の空なること、幻の如きを知るも、衆生の為に、布施に益有る、益無きを見ず。是れを菩薩は、檀波羅蜜に住して、般若波羅蜜を取ると為す』、と。
『仏』は、 こう言われた、――
『菩薩』が、
『布施する!』時には、
『布施』は、
『空であり、幻のようだ!』と、
『知りながら!』、
『衆生の為に!』、
『布施が有益か、無益か!』を、
『見ることはない!』。
是れを、
『菩薩が、檀波羅蜜に住しながら!』、
『般若波羅蜜』を、
『取るというのである!』。
須菩提白佛言。世尊。云何菩薩摩訶薩住尸羅波羅蜜取檀波羅蜜羼提波羅蜜毘梨耶波羅蜜禪波羅蜜般若波羅蜜。 須菩提の仏に白して言さく、『世尊、云何が菩薩摩訶薩は、尸羅波羅蜜に住して、檀波羅蜜、羼提波羅蜜、毘梨耶波羅蜜、禅波羅蜜、般若波羅蜜を取る!』、と。
『須菩提』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
『菩薩摩訶薩』は、
『尸羅波羅蜜に住しながら!』、
何のように、
『檀、羼提、毘梨耶、禅、般若波羅蜜』を、
『取るのですか?』、と。
  参考:『大般若経巻349』:『具壽善現復白佛言。世尊。云何菩薩摩訶薩安住布施波羅蜜多引攝般若波羅蜜多。佛言。善現。若菩薩摩訶薩以無攝受無慳吝心修布施時。持是布施與諸有情平等共有迴向無上正等菩提。菩薩爾時觀諸受者施者施物皆如幻事。不見此施於諸有情有益有損。勝義空故。善現。是為菩薩摩訶薩安住布施波羅蜜多引攝般若波羅蜜多爾時具壽善現白佛言。世尊。云何菩薩摩訶薩安住淨戒波羅蜜多引攝布施波羅蜜多。佛言。善現。若菩薩摩訶薩安住淨戒波羅蜜多。具身律儀。具語律儀。具意律儀。造諸福業。由具律儀造福業故。離斷生命。離不與取。離欲邪行。離虛誑語。離麤惡語離離間語。離雜穢語。離貪欲。離瞋恚。離邪見。菩薩如是安住淨戒波羅蜜多。不求聲聞獨覺等地。唯求無上正等菩提。如是菩薩安住淨戒波羅蜜多。廣行惠施隨諸有情。須食與食須飲與飲。須乘與乘須衣與衣。須香與香須鬘與鬘。須瓔珞與瓔珞。須塗香與塗香。須臥具與臥具。須房舍與房舍。須燈燭與燈燭。須珍財與珍財。須資具與資具。隨諸所須悉皆施與。復持如是布施善根。與諸有情平等共有迴向無上正等菩提。不求聲聞獨覺等地。善現。是為菩薩摩訶薩安住淨戒波羅蜜多引攝布施波羅蜜多。具壽善現復白佛言。世尊。云何菩薩摩訶薩安住淨戒波羅蜜多。引攝安忍波羅蜜多。佛言。善現。若菩薩摩訶薩安住淨戒波羅蜜多。設諸有情競來分解菩薩支節各取持去。菩薩於彼不生一念瞋恨之心。但作是念我今獲得廣大善利。謂諸有情斷我支節隨意持去。我因彼故具足安忍波羅蜜多。今我此身不淨危脆。由捨此故獲得如來清淨堅固金剛之身。善現。是為菩薩摩訶薩安住淨戒波羅蜜多引攝安忍波羅蜜多。具壽善現復白佛言。世尊。云何菩薩摩訶薩安住淨戒波羅蜜多引攝精進波羅蜜多。佛言。善現。若菩薩摩訶薩安住淨戒波羅蜜多。身心精進常無懈息。擐大悲鎧作是念言。一切有情沈淪可畏暴惡難出生死大海。我當拔置安隱甘露涅槃界中。善現。是為菩薩摩訶薩安住淨戒波羅蜜多引攝精進波羅蜜多。具壽善現復白佛言。世尊。云何菩薩摩訶薩安住淨戒波羅蜜多引攝靜慮波羅蜜多。佛言。善現。若菩薩摩訶薩安住淨戒波羅蜜多。雖入初靜慮。或入第二第三第四靜慮。或入空無邊處。或入識無邊處無所有處非想非非想處。或入滅定。而不墮聲聞獨覺等地。亦不證實際。由本願力所任持故。作是念言諸有情類沒在可畏暴惡難出生死大海。我今遊履清淨靜慮波羅蜜多。方便拔濟安置常樂涅槃界中。善現。是為菩薩摩訶薩安住淨戒波羅蜜多引攝靜慮波羅蜜多。具壽善現復白佛言。世尊。云何菩薩摩訶薩安住淨戒波羅蜜多引攝般若波羅蜜多。佛言。善現。若菩薩摩訶薩安住淨戒波羅蜜多。不見有法若善若不善若無記。不見有法若有漏若無漏。不見有法若墮世間若出世間。不見有法若有為若無為。不見有法若墮有數若墮無數。不見有法若墮有相若墮無相。亦不見法若有若無。唯觀諸法不離真如法界而轉。由此般若波羅蜜多方便善巧。不墮聲聞獨覺等地。專求無上正等菩提。善現。是為菩薩摩訶薩安住淨戒波羅蜜多引攝般若波羅蜜多。』
佛告須菩提。菩薩摩訶薩住尸羅波羅蜜中。身口意生布施福德。助阿耨多羅三藐三菩提。持是功德不取聲聞辟支佛地。住尸羅波羅蜜中不奪他命。不劫奪他物。不行邪婬。不妄語不兩舌不惡口不綺語。不貪嫉不瞋恚不邪見。所有布施。飢者與食。渴者與飲。須乘與乘。須衣與衣。須香與香。須瓔珞與瓔珞。塗香臥具房舍燈燭資生所須盡給與之。持是布施與眾生共之。迴向阿耨多羅三藐三菩提。如是迴向不墮聲聞辟支佛地。 仏の須菩提に告げたまわく、『菩薩摩訶薩は、尸羅波羅蜜中に住して、身、口、意に布施の福徳を生じて、阿耨多羅三藐三菩提を助け、是の功徳を持するも、声聞、辟支仏地を取らず、尸羅波羅蜜中に住して、他の命を奪わず、他の物を劫奪せず、邪淫を行ぜず、妄語せず、両舌せず、悪口せず、綺語せず、貪嫉せず、瞋恚せず、邪見せず、有る所を布施し、飢うる者には食を与え、渇く者には飲を与え、乗を須むれば乗を与え、衣を須むれば衣を与え、香を須むれば香を与え、瓔珞を須むれば瓔珞を与え、塗香、臥具、房舎、灯燭、資生の須むる所を、尽く、之を給与し、是の布施を持して、衆生と之を共にして、阿耨多羅三藐三菩提に迴向し、是の如く迴向するも、声聞、辟支仏の地に堕せず。
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
『菩薩摩訶薩』は、
『尸羅波羅蜜中に住しながら!』、
『身、口、意』に、
『布施の福徳を生じながら!』、
『阿耨多羅三藐三菩提を得ること!』を、
『助けるだけで!』、
是の、
『布施の功徳を持って!』、
『声聞、辟支仏の地』を、
『取ることなく!』、
『尸羅波羅蜜中に住しながら!』、
『他の命を奪わず、他の物を劫奪せず、邪婬を行わず!』、
『妄語、両舌、悪口、綺語せず!』、
『貪嫉、瞋恚、邪見せず!』、
『所有を布施しながら!』、
『飢える!』者には、
『食』を、
『与え!』、
『渇く!』者には、
『飲』を、
『与え!』、
『乗を須める( to need a vehicle )!』者には、
『乗』を、
『与え!』、
『衣を須める!』者には、
『衣』を、
『与え!』、
『香を須める!』者には、
『香』を、
『与え!』、
『瓔珞を須める!』者には、
『瓔珞』を、
『与え!』、
『塗香、臥具、房舎、灯燭、資生の所須( living necessities )』を、
『尽く!』、
『給与し!』、
是の、
『布施の功徳を持って!』、
『衆生と共に!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』に、
『迴向する!』。
是のように、
『布施の功徳』を、
『阿耨多羅三藐三菩提に迴向する!』ので、
『声聞、辟支仏の地』に、
『堕ちない!』。
須菩提。是為菩薩摩訶薩住尸羅波羅蜜取檀波羅蜜。世尊。云何菩薩摩訶薩住尸羅波羅蜜取羼提波羅蜜。 『須菩提、是れを菩薩摩訶薩は尸羅波羅蜜に住して、檀波羅蜜を取ると為す』。『世尊、云何が菩薩摩訶薩は尸羅波羅蜜に住して、羼提波羅蜜を取る』。
須菩提!
是れを、
『菩薩摩訶薩』が、
『尸羅波羅蜜に住しながら!』、
『檀波羅蜜』を、
『取るというのである!』。
世尊!
何のように、
『菩薩摩訶薩』は、
『尸羅波羅蜜に住しながら!』、
『羼提波羅蜜』を、
『取るのですか?』。
佛言。菩薩摩訶薩住尸羅波羅蜜中。若有眾生來節節支解。菩薩於是中不生瞋恚心乃至一念。作是言我得大利。眾生來取我支節用。我無一念瞋恚。是為菩薩住尸羅波羅蜜中取羼提波羅蜜。世尊。云何菩薩摩訶薩住尸羅波羅蜜取毘梨耶波羅蜜。 仏の言わく、『菩薩摩訶薩、尸羅波羅蜜中に住するに、若し有る衆生来たりて、節節、支を解くも、菩薩は、是の中に於いて、瞋恚の心を、乃至一念すら生ぜずして、是の言を作さく、我れは大利を得たり。衆生来たりて、我が支節を取りて用うるも、我れには一念すら瞋恚すること無し、と。是れを菩薩は、尸羅波羅蜜中に住して、羼提波羅蜜を取ると為す』、と。『世尊、云何が菩薩摩訶薩は、尸羅波羅蜜に住して、毘梨耶波羅蜜を取る』。
『仏』は、こう言われた、――
『菩薩摩訶薩』が、
『尸羅波羅蜜中に住すれば!』、
若し、
『有る衆生が来て!』、
『節節や四肢( joints and limbs )』を、
『解いたとしても!』、
『菩薩』は、
是の、
『衆生』中に於いて、
『一念の瞋恚すら!』、
『生じず!』、
こう言うのである、――
わたしは、
『大利を得た!』、
『衆生が来て!』、
わたしの、
『支節を取って!』、
『用いても!』、
わたしには、
『一念の瞋恚すら!』、
『無いのだ!』、と。
是れを、
『菩薩』、
『尸羅波羅蜜中に住して!』、
『羼提波羅蜜』を、
『取るというのである!』。
世尊!
『菩薩摩訶薩』は、
何のようにして、
『尸羅波羅蜜中に住しながら!』、
『毘梨耶波羅蜜』を、
『取るのですか?』。
佛言若菩薩摩訶薩身精進心精進常不捨。作是念一切眾生在生死中。我當拔著甘露地。是為菩薩住尸羅波羅蜜中取毘梨耶波羅蜜。世尊。云何菩薩摩訶薩住尸羅波羅蜜取禪波羅蜜。 仏の言わく、『若し菩薩摩訶薩、身の精進、心の精進を常に捨てず、是の念を作せば、一切の衆生は、生死中に在れば、我れは当に抜いて、甘露の地に著くべし、と。是れを菩薩、尸羅波羅蜜中に住して、毘梨耶波羅蜜を取ると為す』、と。『世尊、云何が菩薩摩訶薩は、尸羅波羅蜜に住して、禅波羅蜜を取る』。
『仏』は、こう言われた、――
若し、
『菩薩摩訶薩』が、
『身の精進、心の精進』を、
『常に!』、
『捨てることなく!』、
こう念じれば、――
一切の、
『衆生』は、
『生、死中に在る!』が、
わたしは、
『生、死中より抜いて!』、
『甘露の地』に、
『著けなくてはならない( must put them in )!』、と。
是れを、
『菩薩』、
『尸羅波羅蜜中に住して!』、
『毘梨耶波羅蜜』を、
『取るというのである!』。
世尊!
『菩薩摩訶薩』は、
何のようにして、
『尸羅波羅蜜中に住しながら!』、
『禅波羅蜜』を、
『取るのですか?』。
佛言。菩薩入初禪第二第三第四禪。不貪聲聞辟支佛地。作是念我當住禪波羅蜜中度一切眾生生死。是為菩薩住尸羅波羅蜜取禪波羅蜜。世尊。云何菩薩摩訶薩住尸羅波羅蜜取般若波羅蜜。 仏の言わく、『菩薩は、初禅、第二第三第四禅に入れば、声聞、辟支仏の地を貪らず、是の念を作さく、我れは当に禅波羅蜜中に住して、一切の衆生を、生死より度すべし、と。是れを菩薩、尸羅波羅蜜に住して、禅波羅蜜を取ると為す』、と。『世尊、云何が菩薩摩訶薩は、尸羅波羅蜜に住して、般若波羅蜜を取る』。
『仏』は、こう言われた、――
『菩薩摩訶薩』が、
『初禅、二禅、三禅、第四禅に入って!』、
『声聞、辟支仏の地』を、
『貪らることなく!』、
こう念じれば、――
わたしは、
『禅波羅蜜中に住して!』、
『一切の衆生』を、
『生、死より!』、
『度さねばならない!』、と。
是れを、
『菩薩』、
『尸羅波羅蜜中に住して!』、
『禅波羅蜜』を、
『取るというのである!』。
世尊!
『菩薩摩訶薩』は、
何のようにして、
『尸羅波羅蜜中に住しながら!』、
『般若波羅蜜』を、
『取るのですか?』。
佛言。菩薩住尸羅波羅蜜中。無有法可見。若作法若有為法若數法若相法若有若無。但見諸法不過如相。以般若波羅蜜漚和拘舍羅力故。不墮聲聞辟支佛地。是為菩薩住尸羅波羅蜜取般若波羅蜜 仏の言わく、『菩薩は、尸羅波羅蜜中に住すれば、法の可見なる、若しは作法、若しは有為法、若しは数法、若しは相法、若しは有、若しは無有ること無く、但だ諸法の如法に過ぎざるを見るも、般若波羅蜜の漚和俱舍羅の力を以っての故に、声聞、辟支仏の地に堕ちず。是れを菩薩は尸羅波羅蜜に住して、般若波羅蜜を取ると為す。
『仏』は、こう言われた、――
『菩薩摩訶薩』が、
『尸羅波羅蜜中に住すれば!』、
『可見の法も!』、
『作法や、有為法や、数法や、相法も!』、
『有や、無も!』、
『無くなり!』、
但だ、
『諸法』は、
『如相に過ぎない!』と、
『見る!』が、
『般若波羅蜜という!』、
『漚和俱舍羅(方便)の力』の故に、
『声聞、辟支仏の地』に、
『堕ちない!』。
是れを、
『菩薩』が、
『尸羅波羅蜜中に住して!』、
『般若波羅蜜』を、
『取るというのである!』。
  漚和俱舍羅(うわくしゃら):梵語 upaaya-kauzalya の音訳、方便、方便力、或いは善巧方便と意訳す、手段の選択に於ける伎術( skill in the choice of means )の義。



【論】檀、尸羅波羅蜜に住して、餘の五波羅蜜を取る

【論】釋曰。上品末說。云何菩薩行般若波羅蜜時具足六波羅蜜。佛一一答。此品中須菩提問。云何菩薩行一波羅蜜攝五波羅蜜。 釈して曰く、上の品の末に説かく、『云何が菩薩は、般若波羅蜜を行ずる時、六波羅蜜を具足する。仏は一一答えたまえり』、と。此の品中に、須菩提の問わく、『云何が、菩薩は、一波羅蜜を行じて、五波羅蜜を摂する』、と。
釈す、
『上品の末』には、こう説かれているが、――
何のように、
『菩薩』は、
『般若波羅蜜を行う!』時、
『六波羅蜜』を、
『具足するのか?』。
『仏』は、
『一一!』、
『答えられた!』、と。
『此の品』中には、
『須菩提』が、こう問うたのである、――
『菩薩』は、
何のように、
『一波羅蜜を行いながら!』、
『五波羅蜜』を、
『摂するのか( to take )?』、と。
問曰六波羅蜜各各異相。云何行一波羅蜜攝五波羅蜜。 問うて曰く、六波羅蜜は、各各相を異にす。云何が、一波羅蜜を行じて、五波羅蜜を摂する。
問い、
『六波羅蜜』は、
各各、
『相』が、
『異なる!』が、
『一波羅蜜を行って!』、
何故、
『五波羅蜜』を、
『摂することになるのか?』。
答曰。菩薩以方便力故。行一波羅蜜能攝五波羅蜜。 答えて曰く、菩薩は、方便力を以っての故に、一波羅蜜を行ずれば、能く五波羅蜜を摂す。
答え、
『菩薩』は、
『方便という!』、
『力を有する!』が故に、
『一波羅蜜を行えば!』、
『五波羅蜜』を、
『摂することができるのである!』。
復次有為法因緣果報相續故相成善法。善法因緣故。是波羅蜜皆是善法故。行一則攝五。以一波羅蜜為主餘波羅蜜有分。 復た次ぎに、有為法は、因緣果報の相続の故に相成ずれば、善法は、善法の因緣の故なり。是の波羅蜜は、皆是れ善法なるが故に、一を行ずれば、則ち五を摂し。一波羅蜜を以って主と為すも、餘の波羅蜜も分有り。
復た次ぎに、
『有為法』は、
『因緣、果報が相続する!』が故に、
是の、
『有為法』が、
『成じるのであり!』、
『善法』は、
『善法の因緣』の故に、
是の、
『善法』が、
『成じるのである!』。
是の、
『波羅蜜』は、
皆、
『善法である!』が故に、
『一を行えば!』、
『五』を、
『摂することになる!』。
是の、
『行』中には、
『一波羅蜜』を、
『主としながら!』、
『餘の波羅蜜』の、
『分』も、
『有るのである!』。
有菩薩摩訶薩深行檀波羅蜜。安住檀波羅蜜中布施眾生時得慈心。從慈能起慈身口業。是時菩薩即取尸羅波羅蜜。何以故。慈業是三善道。尸羅波羅蜜根本。所謂不貪不瞋正見。是三慈業能生三種身業四種口業。慈即是善業。為利益眾生故名為慈。 有る菩薩摩訶薩は、深く檀波羅蜜を行じて、檀波羅蜜中に安住すれば、衆生に布施する時、慈心を得、慈に従って、能く慈の身、口の業を起す。是の時、菩薩は、即ち尸羅波羅蜜を取る。何を以っての故に、慈の業は、是れ三善道にして、尸羅波羅蜜の根本なり。謂わゆる不貪、不瞋、正見なり。是の三慈業は、能く三種の身業と、四種の口業を生ず。慈とは、即ち是れ善業にして、衆生を利益するが為の故に、名づけて慈と為す。
有る、
『菩薩摩訶薩』は、
『深く、檀波羅蜜を行い!』、
『檀波羅蜜』中に、
『安住している!』ので、
『衆生に布施する!』時、
『慈心』を、
『得ることになり!』、
『慈に従って!』、
『慈の身、口業』が、
『起される!』が、
是の時、
『菩薩』は、
即ち( immediately )、
『尸羅波羅蜜』を、
『取る( to obtain )のである!』。
何故ならば、
『慈の業』は、
『三善道であり!』、
『尸羅波羅蜜』の、
『根本だからである!』。
謂わゆる、
『善の三意業であり!』、
『不貪、不瞋、正見である!』が、
是の、
『三慈業』は、
『三種の身業(不殺、不盗、不邪婬)』と、
『四種の口業(不妄語、不両舌、不悪口、不綺語)』を、
『生じさせる!』ので、
『慈』が、
即ち、
『善業(十善)であり!』、
是の、
『善業は、衆生を利益する!』が故に、
『慈( taking pity )』と、
『称されるのである!』。
取羼提波羅蜜者。菩薩為一切智慧故布施受者瞋。若施主唱言我能一切施。受者不得稱意。便作是言。誰使汝請我而不隨我意。瞋者是心惡業。罵者是口惡業。打害者是身惡業。瞋有上中下上者害殺。中者罵詈。下者心瞋。 羼提波羅蜜を取るとは、菩薩は、一切の智慧の為の故に布施するも、受者瞋らん。若し施主、『我れは能く、一切を施す』、と唱言するも、受者、意に称(かな)うを得ずして、便ち是の言を作さん、『誰か、汝をして、我れを請ぜしむ。而も我が意に随わず』、と。瞋は、是れ心の悪業なり。罵は、是れ口の悪業なり。打害は、是れ身の悪業なり。瞋に上中下有り、上は害殺し、中は罵詈し、下は心に瞋る。
『羼提波羅蜜を取る!』とは、
『菩薩』は、
一切の、
『智慧を得る!』為の故に、
『布施しても!』、
『受者は瞋って!』、
若し、
『施主』が、
『わたしは、一切を施すことができる!』と、
『唱言しても( to cry out )!』、
『受者』の、
『意』に、
『称う( to satisfy )ことができず!』、
『受者』は、
便ち( as soon as )、こう言うからである、――
誰が、
お前に、請わせたのか?――
わたしに、
『布施を受けよ!』、と。
而し、
わたしの、
『意』に、
『随うことはないのだ!』、と。
『瞋』とは、
『心』の、
『悪業であり!』、
『罵』とは、
『口』の、
『悪業であり!』、
『打害』とは、
『身』の、
『悪業である!』が、
『瞋には上、中、下が有り!』、
『上』は、
『瞋って!』、
『殺害し!』、
『中』は、
『瞋って!』、
『罵詈し!』、
『下』は、
『心』で、
『瞋るだけである!』。
  唱言(しょうごん):梵語 udaanam udaanayati, ukta, ut√(kruz) の訳、声を出す/話す/歌う/大声で叫ぶ( to utter, say, chant, cry out, call out )の義。
爾時菩薩不生三種惡業。意業是根本故但說意業。作是念是我之罪。我請彼人而不能得稱意。由我薄福不能具足施與。我若瞋者既失財物又失福德。是故不應瞋。 爾の時、菩薩は、三種の悪業を生ぜず。意業は、是れ根本なるが故に、但だ意業を説く。是の念を作さく、『是れ我が罪なり。我れ彼の人に請うも、意に称うを得ること能わず。我が薄福に由りて、具足して施与する能わず。我れ若し瞋らば、既に財物を失い、又福徳をも失う。是の故に、応に瞋るべからず』、と。
爾の時、
『菩薩』は、
『三種の悪業』を、
『生じない!』。
『意業は、根本である!』が故に、
但だ、
『意業のみ!』を、
『説けば!』、
『菩薩』は、こう念じるのである、――
是れは、
わたしの、
『罪である!』。
わたしは、
『彼の人に請うて!』、
『布施』を、
『受けさせようとした!』が、
『彼の人』の、
『意』に、
『称うことはできなかった!』。
わたしは
『福が薄い!』が故に、
『具足して!』、
『施与することができないのだ!』。
わたしが、
若し、
『瞋れば!』、
既に、
『財物』を、
『失っているのに!』、
又、
『福徳までも!』、
『失うことになろう!』。
是の故に、
『瞋るべきではないのだ!』、と。
取毘梨耶波羅蜜者。若菩薩布施時受者打害。心不沒不捨。布施如先說。為布施故身心勤精進。作是念我先世不強意布施故。今不能得稱受者意。但當勤布施不應計餘小事。 毘梨耶波羅蜜を取るとは、若し菩薩、布施する時、受者打害するも、心没せず、布施を捨てざること、先に説けるが如し。布施せんが為の故に、身心勤めて精進し、是の念を作さく、『我れは、先世に意を強いて、布施せざるが故に、今、受者の意に称うを得る能わず、但だ当に勤めて布施すべく、応に餘の小事を計すべからず』、と。
『毘梨耶波羅蜜を取る!』とは、
若し、
『菩薩が布施する!』時、
『受者が打害しても!』、
『心』が、
『没することもなく!』、
『先に説いたように!』、
『布施』を、
『捨てることもない!』。
『菩薩』は、
『布施する!』為の故に、
勤めて、
『身に、心に!』、
『精進しながら!』、
こう念じる、――
わたしは、
先世に、
『意を強いて!』、
『布施しなかった!』が故に、
今、
『受者の意』に、
『称うことができないのだ!』。
但だ、
『布施だけに!』、、
『勤めて!』、
餘の、
『小事』を、
『計る( to consider )べきではない!』、と。
取禪波羅蜜者。菩薩布施不求今世福樂。亦不求後世轉輪聖王天王人王。亦不求世間禪定樂為眾生故不求涅槃樂。但攝是諸意在一切種智中不令散亂。 禅波羅蜜を取るとは、菩薩は、布施するに、今世の福楽を求めず、亦た後世の転輪聖王、天王、人王をも求めず、亦た世間の禅定の楽を求めずして、衆生の為の故に涅槃の楽を求めず、但だ是の諸の意を摂して、一切種智中に在(お)き、散乱せしめず。
『禅波羅蜜を取る!』とは、
『菩薩』は、
『布施しても!』、
『今世』の、
『福楽』を、
『求めることもなく!』、
亦た、
『後世』の、
『転輪聖王や、天王、人王の楽』を、
『求めることもなく!』、
亦た、
『世間』の、
『禅定の楽』を、
『求めることもなく!』、
『衆生の為に!』、
『涅槃の楽』を、
『求めることもなく!』、
但だ、
是の、
『諸の意を摂して( to control these wishes )!』、
『一切種智中より!』、
『散乱させないのである!』。
取般若波羅蜜者。菩薩布施時常觀一切有為作法虛誑不堅固如幻如夢。施眾生時不見有益無益。何以故。是布施物非定是樂因緣。或時得食腹脹而死。或時得財為賊所害。亦以得財物故生慳貪心而墮餓鬼中。又此財物有為相故。念念生滅無常生苦因緣。 般若波羅蜜を取るとは、菩薩は、布施する時、常に一切の有為の作法は、虚誑にして堅固ならざること幻の如く、夢の如しと観じ、衆生に施す時、有益、無益を見ず。何を以っての故に、是の布施の物は、定んで是れ楽の因縁に非ず。或いは時に食に得るも、腹脹れて死し、或いは時に財を得るも賊の為に害せられ、亦た財物を得るを以っての故に、慳貪の心を生じ、餓鬼中に堕し、又此の財物は有為の相なるが故に、念念生滅して、無常なれば、苦を生ずる因縁なればなり。
『般若波羅蜜を取る!』とは、
『菩薩』は、
『布施する!』時、
常に、
『一切の有為法や、作法』は、
『虚誑であり、堅固でなく!』、
『幻や、夢のようだ!』と、
『観て!』、
『衆生に施す!』時、
是の、
『布施』に、
『益が有るのか、無いのか!』を、
『見ることがない!』、
何故ならば、
是の、
『布施の物』は、
『楽の因緣』と、
『定まらないので!』、
或る時には、
『食を得た!』が故に、
『腹が脹れて!』、
『死に!』、
或る時には、
『財を得た!』が故に、
『賊』に、
『害され!』、
亦た、
『財物を得た!』が故に、
『慳貪の心が生じて!』、
『餓鬼』中に、
『堕ちるからであり!』、
又、
此の、
『財物』は、
『有為の相である!』が故に、
念念に、
『生、滅して無常であり!』、
『苦を生じる!』、
『因緣だからである!』。
復次此財物入諸法實相畢竟空中不分別有利無利。是故菩薩於受者不求恩分。於布施不望果報。設求報若彼不報則生怨恨。菩薩作是念。諸法畢竟空故。我無所與。若求果報當求畢竟空阿耨多羅三藐三菩提。如布施相。是故不見有益。以畢竟空故亦不見無益。如是於檀波羅蜜邊取五波羅蜜。 復た次ぎに、此の財物は、諸法の実相なる、畢竟空中に入れば、利有り、利無きを分別せず。是の故に、菩薩は、受者に於いて恩分を求めず、布施に於いては果報を望まず。設(たと)い報を求むるも、若し彼れ報いずんば、則ち怨恨を生ず。菩薩の是の念を作さく、『諸法は畢竟空なるが故に、我れに与うる所無し』、と。若し果報を求むれば、当に畢竟空なる阿耨多羅三藐三菩提を求むべきこと、布施の相の如し。是の故に益有るを見ず。畢竟空を以っての故に、亦た益無きを見ず。是の如く檀波羅蜜の辺に於いて、五波羅蜜を取る。
復た次ぎに、
此の、
『財物』は、
『諸法の実相という!』、
『畢竟空中に入れば!』、
『利が有るとか、無いとか!』、
『分別することはない!』。
是の故に、
『菩薩』は、
『受者』に、
『恩分( a return favor )』を、
『求めることもなく!』、
『布施』の、
『果報』を、
『望むこともない!』。
設い( even if )、
『報を求めても!』、
『彼の受者』が、
『報いなければ!』、
則ち、
『怨恨』を、
『生じることになる!』ので、
『菩薩』は、こう念じる、――
『諸法』は、
『畢竟空である!』が故に、
わたしには、
『与える!』所が、
『無い!』、と。
若し、
『果報を求めれば!』、
『畢竟空である!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『求めるべきである!』が、
例えば、
『布施の相』と、
『同じであり!』、
是の故に、
『益が有る!』と、
『見ることもなく!』、
『畢竟空である!』が故に、
『益が無い!』と、
『見ることもない!』。
是のように、
『檀波羅蜜の辺』に、
『五波羅蜜』を、
『取るのである!』。
  恩分(おんぶん):梵語 pratyupakaara の訳、親切に対する報酬/功労、或いは親切に報いること/謝意( requital of kindness, returning a service or favor, gratitude )の義。
菩薩以尸羅波羅蜜為主。所有身口意善業。布施多聞思惟持戒等助阿耨多羅三藐三菩提。持戒力大故總名尸羅波羅蜜。何以故。欲界中持戒為上餘布施聞思修慧等以欲界心散亂故得力微薄。如阿毘曇中說出法名。欲界繫戒色無色界繫淨禪定學無學法及涅槃。 菩薩の尸羅波羅蜜を以って、主と為すは、有らゆる身、口、意の善業、布施、多聞、思惟、持戒等は、阿耨多羅三藐三菩提を助くるも、持戒の力大なるが故に、総じて尸羅波羅蜜と名づく。何を以っての故に、欲界中には持戒を上と為し、餘の布施、聞、思、修慧等は、欲界の心の散乱するを以っての故に、力を得るも微薄なり。阿毘曇中に説けるが如く、『出法を欲界繋の戒と、色、無色界繋の浄禅定と、学と無学の法、及び涅槃と名づく。
『菩薩』が、
『尸羅波羅蜜を主とする!』のは、
有らゆる、
『身、口、意の善業や、布施、多聞、思惟、持戒』等は、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『助ける!』が、
『持戒は、力が大である!』が故に、
有らゆる、
『善業、乃至智慧』を、
総じて、
『尸羅波羅蜜』と、
『称するのである!』。
何故ならば、
『欲界』中には、
『持戒』が、
『上であり!』、
『餘の布施、多聞、思惟、修慧等』は、
『欲界の心は、散乱する!』が故に、
『力を得ても!』、
『微薄だからである!』。
例えば、
『阿毘曇』中に、こう説く通りである、――
『出世間の法』とは、
『欲界繋の戒と!』、
『色、無色界繋の浄禅定と!』、
『学、無学の法と!』、
『涅槃である!』、と。
菩薩以是持戒等法不趣聲聞辟支佛地。但安住尸羅波羅蜜中不奪眾生命。乃至不為邪見住。是助道戒。具足十善道戒。 菩薩は、是の持戒等の法を以って、声聞、辟支仏の地に趣かず、但だ尸羅波羅蜜中に安住して、衆生の命を奪わず、乃至邪見を為さず。是の助道の戒に住して、十善道の戒を具足す。
『菩薩』は、
是の、
『持戒等の法を用いる!』が故に、
『声聞、辟支仏の地に趣かず!』、
但だ、
『尸羅波羅蜜中に安住して!』、
『衆生の命』を、
『奪わず!』、
乃至、
『邪見』を、
『為さず!』、
是の、
『道を助ける!』、
『戒に住して!』、
『十善道という!』、
『戒』を、
『具足するのである!』。
菩薩住是二種戒中布施眾生。須食與食。食等義如初品中說。皆以此福迴向佛道不趣二乘。何以故。菩薩有二種破戒。一者十不善道。二者向聲聞辟支佛地。與此相違則是二種持戒。 菩薩は、是の二種の戒中に住して、衆生に布施し、食を須むれば食を与う。食等の義は、初品中に説けるが如し。皆、此の福を以って、仏道に廻向して、二乗に趣かず。何を以っての故に、菩薩には二種の破戒有り、一には十不善道、二には声聞、辟支仏の地に向かう。此れと相違すれば、則ち是れ二種の持戒なり。
『菩薩』は、
是の、
『二種の戒中に住して!』、
『衆生に布施し!』、
『食を須める!』者には、
『食』を、
『与えるのである!』が、
『食等の義』は、
『初品』中に、
『説いた通りである!』。
皆、
此の、
『布施の福を用いて!』、
『仏道に廻向し!』、
『二乗』に、
『趣かない!』。
何故ならば、
『菩薩』には、
『二種の破戒が有り!』、
一には、
『十不善道であり!』、
二には、
『声聞、辟支仏の地』に、
『向かうことであり!』、
此の、
『破戒に相違する!』者が、
『二種の!』、
『持戒だからである!』。
  参考:『大智度論巻30』:『飲食者略說麤細二種。餅飯等百味之食。經雖說四食眾生久住。而此但說揣食。餘者無色不可相與。若施揣食則與三食。何以故因揣食故增益三食。如經所說。檀越施食則與受者五事利益。飲總說二種。一者草木酒。所謂蒲桃甘蔗等及諸穀酒。二者草木漿。甘蔗漿蒲桃漿石蜜漿安石榴漿梨奈漿波盧沙果漿等及諸穀漿。如是和合人中飲食及天飲食。所謂修陀甘露味天果食等。摩頭摩陀婆漿等。眾生各各所食。或食穀者或食肉者或食淨者不淨者來皆飽滿。』
取羼提波羅蜜者。菩薩住尸羅波羅蜜。欲具足忍辱波羅蜜。若眾生來節節支解持去。乃至不生一念瞋心。何況起身口惡業。 羼提波羅蜜を取るとは、菩薩は、尸羅波羅蜜に住して、忍辱波羅蜜を具足せんと欲すれば、若し衆生来たりて、節節、支解して持ち去るも、乃至一念の瞋心すら生ぜず。何に況んや、身口の悪業を起すをや。
『羼提波羅蜜を取る!』とは、
『菩薩』は、
『尸羅波羅蜜に住して!』、
『忍辱波羅蜜』を、
『具足しようとする!』ので、
若し、
『衆生が来て!』、
『節節、四肢を解いて!』、
『持ち去っても!』、
乃至、
『一念の瞋心すら!』、
『生じさせない!』。
況して、
『身、口の悪業を!』、
『起すはずがない!』。
問曰。忍辱名一切侵奪能忍。何以但說割截身體。 問うて曰く、忍辱を一切の侵奪を能く忍ぶと名づく。何を以ってか、但だ身体を割截するを説く。
問い、
『忍辱』とは、
『一切の侵奪』を、
『忍ぶことである!』。
何故、
但だ、
『身体を割截することのみ!』を、
『説くのですか?』。
答曰。所著物有內外。內名自身。頭目髓腦等。外名妻子珍寶等。雖俱是著處內著最深。 答えて曰く、所著の物には、内外有り。内を、自らの身、頭目、髄脳等と名づけ、外を妻子、珍宝等と名づく。倶に是れ著処なりと雖も、内の著は最も深し。
答え、
『著する物』には、
『内、外が有り!』、
『内』とは、
『自らの!』、
『身体、頭目、髄脳等であり!』、
『外』とは、
『妻子や、珍宝等である!』。
是の、
『内、外』は、
倶に、
『著する処である!』が、
『内』に、
『著すること!』が、
『最も深いからである!』。
復次或有人雖隨逐財物而死。亦是為身故。又復人多惜身時有惜財。惜財者少故不說。 復た次ぎに、或いは有る人は、財物を随逐して死すと雖も、亦た是れ身の為の故なり。又復た人は、多く身を惜しむ。時に財を惜むもの有るも、財を惜む者は少なきが故に説かず。
復た次ぎに、
或いは、
有る、
『人』は、
『財物』を、
『随逐して( to pursue )!』、
『死ぬ!』が、
是れも、
『身の為!』の故に、
『死ぬのである!』し、
又復た、
『人』は、
『身を惜む!』者が、
『多く!』、
時に、
『財を惜む!』者が、
『有っても!』、
『財を惜む!』者は、
『少ない!』が故に、
『説かないのである!』。
復次是人尚不惜身。何況餘物。是故但說大因緣。當知已攝小者。 復た次ぎに、是の人は、尚お身を惜まず、何に況んや、餘の物をや。是の故に但だ、大因縁を説けば、当に知るべし、已に小を摂するを。
復た次ぎに、
是の、
『人』は、
尚お、
『身すら!』、
『惜まないのであるから!』、
況して、
『餘の物』を、
『惜むはずがない!』。
是の故に、
但だ、
『大因縁を説けば!』、こう知らねばならない、――
已に、
『小因縁』を、
『摂している( to be contained )!』、と。
問曰。乃至不生一念瞋心者。為是變化身。為是父母生身。若是變化身則不足為奇。若是父母生身未斷結人。云何能不生一念瞋心。 問うて曰く、乃至一念の瞋心すら生ぜずとは、是れ変化身と為すや、是れ父母生の身と為すや。若し、是れ変化身なれば、則ち奇と為すに足らず。若し是れ父母生の身なれば、未だ結を断ぜざる人にして、云何が能く、一念の瞋心すら生ぜざる。
問い、
乃至、
『一念の瞋心すら、生じない!』とは、
是れは、
『変化の身ですか?』、
『父母生の身ですか?』。
若し、
是れが、
『変化の身ならば!』、
『奇とする( be marvellous )!』には、
『足りません!』。
若し、
是れが、
『父母生の身ならば!』、
未だ、
『結を断じていない!』、
『人なのに!』、
何故、
『一念の瞋心すら!』、
『生じさせないことができるのですか?』。
答曰。有人言。煩惱業因緣生身。是菩薩於無量劫為眾生修集慈心故。雖有割截不生瞋心。如慈母養育嬰兒。雖復屎尿污身。以深愛故而不生瞋。又愍其無知。菩薩於眾生亦如是。未得聖道者皆如小兒。我為菩薩應生慈心當如父母。眾生雖復加惡於我我不應瞋。何以故。眾生不自在煩惱所使故。 答えて曰く、有る人の言わく、『煩悩業の因縁生の身なり。是の菩薩は、無量劫に於いて、衆生の為に、慈心を修集せるが故に、割截せらるること有りと雖も、瞋心を生ぜざること、慈母の嬰児を養育するに、復た屎尿、身を汚すと雖も、深き愛を以っての故に瞋を生ぜず、又其の無知を愍れむが如し。菩薩も衆生に於いて、亦た是の如く、未だ聖道を得ざる者は、皆小児の如し。我れは菩薩と為れば、応に慈心を生ずべく、当に父母の如くなるべし。衆生、復た我れに於いて、悪を加うと雖も、我れは応に瞋るべからず。何を以っての故に、衆生は、自在ならずして、煩悩に使わるるが故なり』、と。
答え、
有る人は、こう言っている、――
『煩悩の業という!』、
『因縁より生じた!』、
『身である!』。
是の、
『菩薩』は、
『無量劫』に於いて、
『衆生の為に!』、
『慈心』を、
『修集した!』が故に、
有るいは、
『割截されても!』、
『瞋心』を、
『生じない!』。
譬えば、
『慈母』が、
『嬰児を養育する!』時、
復た( retaliatingly )、
『屎尿』に、
『身を汚されても!』、
『深く愛する!』が故に、
『瞋心』を、
『生じず!』、
其の、
『無知すら!』、
『愍れむように!』、
『菩薩』は、
『衆生』に於いて、
是のように、
未だ、
『聖道を得ていない!』者は、
皆、
『小児のように!』、
『見て!』、
こう言うのである、――
わたしは、
『菩薩である!』が故に、、
当然、
『慈心』を、
『生じなければならない!』。
『父母のように!』、
『衆生』が、
わたしに、
復た、
『悪』を、
『加えたとしても!』、
わたしは、
是の、
『衆生』を、
『瞋るべきではない!』。
何故ならば、
『衆生』は、
『自在でなく!』、
『煩悩に!』、
『使われているからだ!』、と。
復次菩薩無量劫來常修畢竟空法。不見割者罵者。亦不見善者惡者。皆如幻如夢。諸瞋恚者皆愚癡。若我報彼與彼無異。 復た次ぎに、菩薩は、無量劫より来、常に畢竟空の法を修し、割者、罵者を見ず、亦た善者、悪者を見ざれば、皆幻の如く、夢の如し。諸の瞋恚する者は、皆愚癡なり。若し我れ彼れに報ゆれば、彼と異無し。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
『無量劫以来!』、
常に、
『畢竟空の法を修めている!』ので、
『割截する者も、罵詈する者も!』、
『見ず!』、
亦た、
『善の者も、悪の者も!』、
『見ず!』、
皆、
『幻か、夢のようだ!』と、
『見る!』ので、
こう言うのである、――
諸の、
『瞋恚する!』者は、
皆、
『愚癡である!』。
若し、
わたしが、
『彼れに!』、
『報いれば!』、
わたしは、
『彼れと!』、
『異が無くなってしまう!』、と。
復次菩薩作是念。我應瞋處而不瞋則為大利。 復た次ぎに、菩薩は、是の念を作さく、『我れは、応に瞋るべき処に、瞋らざれば、則ち大利と為す』、と。
復た次ぎに、
『菩薩』は、こう念じる、――
わたしが、
『瞋るべき!』、
『処』を、
『瞋らなければ!』、
則ち、
『大きな!』、
『利を得ることになるだろう!』、と。
取毘梨耶波羅蜜者。住尸羅波羅蜜。多是出家人。時有在家者。一切出家人得無量戒律儀。具足四十種善道。深入諸法實相過聲聞辟支佛地。是三種戒名尸羅波羅蜜。在家者無無量戒律儀。是故不具足住尸羅波羅蜜。 毘梨耶波羅蜜を取るとは、尸羅波羅蜜に住するもの、多くは是れ出家人にして、時に在家の者有り。一切の出家人は、無量の戒、律儀を得て、四十種の善道を具足し、深く諸法の実相に入りて、声聞、辟支仏の地に過ぐ。是の三種の戒を、尸羅波羅蜜と名づく。在家の者は、無量の戒、律儀無く、是の故に、尸羅波羅蜜に住すること具足せず。
『毘梨耶波羅蜜を取る!』とは、
『尸羅波羅蜜に住する!』のは、
『多く!』が、
『出家人であり!』、
時に、
『在家の者』が、
『有るだけである!』。
『一切の出家人』は、
『無量』の、
『戒、律儀』を、
『得て!』、
『四十種』の、
『善道』を、
『具足し!』、
『深く!』、
『諸法の実相』に、
『入る!』ので、
則ち、
『声聞、辟支仏の地』を、
『過ぎている!』。
是の、
『三種の戒(無量の戒律儀、四十種の善道、諸法の実相)』を、
『尸羅波羅蜜』と、
『称する!』が、
『在家の者』には、
是の、
『無量の戒、律儀』が、
『無い!』ので、
是の故に、
『尸羅波羅蜜に住すること!』を、
『具足しない( be incomplete )!』。
菩薩作是念。我今捨世樂入道不可但住持戒。持戒是餘功德住處。若但得住處不得餘功德者得利甚薄。譬如人在寶洲。但得水精珠則所利益薄。是故菩薩欲具足五波羅蜜故。身心勤精進。 菩薩の是の念を作さく、『我れ今、世楽を捨てて、道に入るも、但だ持戒に住すべからず。持戒は、是れ餘の功徳の住処なり。若し但だ住処を得て、餘の功徳を得ずんば、利を得るも甚だ薄し。譬えば人、宝の洲に在るも、但だ水精の珠を得れば、則ち利益する所薄きが如し』、と。是の故に、菩薩は、五波羅蜜を具足せんと欲するが故に、身心に精進を勤む。
『菩薩』は、こう念じる、――
わたしは、
今、
『世間の楽を捨てて!』、
『道に入った!』が、
但だ、
『持戒』に、
『住すべきではない( should not be resting )!』。
何故ならば、
『持戒』とは、
『餘の功徳』の、
『住処( a standing place )だからである!』。
若し、
但だ、
『住処を得ただけで!』、
『餘の功徳』を、
『得られなければ!』、
『甚だ薄い!』、
『利しか!』、
『得られないだろう!』。
譬えば、
『人』が、
『宝の洲に在りながら!』、
但だ、
『水精の珠だけ!』を、
『得たならば!』、
則ち、
『利益する!』所が、
『薄いようなものである!』。
是の故に、
『菩薩』は、
『五波羅蜜を具足しようとして!』、
『身、心の精進』に、
『勤めるのである!』。
身精進者。如法致財以用布施等。心精進者。慳貪等諸惡心來破六波羅蜜者不令得入。得此二種精進已應作是念。一切眾生沈沒生死。我應拯濟著甘露地。聲聞人但度自身尚不應懈怠。何況菩薩自度及為一切眾生而當懈怠。以是事故我不應懈廢。雖身疲苦心不應息。所以者何。此大乘法若不運用則為敗壞。 身の精進とは、如法に財を致して、以って布施等に用うなり。心の精進とは、慳貪等の諸の悪心来たりて、六波羅蜜を破る者をして、入るを得しめず。此の二種の精進を得已れば、応に是の念を作すべし、『一切の衆生は、生死に沈没す。我れは応に拯済して、甘露の地に著くべし。声聞人の、但だ自ら身を度すものすら、尚お応に懈怠すべからず。何に況んや、菩薩は、自ら度して、一切の衆生の為に及ぶに、当に懈怠すべきをや。是の事を以っての故に、我れは応に懈廃すべからず。身は疲苦すと雖も、心は応に息むべからず。所以は何んとなれば、此の大乗の法は、若し運用せざれば、則ち敗壊すと為せばなり。
『身の精進』とは、
『如法』に、
『財を致して( to create )!』、
『布施等に!』、
『用いることであり!』、
『心の精進』とは、
『六波羅蜜を破ろうとして!』、
『慳貪等の諸の悪心』が、
『来ても!』、
『入らせないことである!』。
此の、
『二種の精進を得れば!』、こう念じるはずである、――
一切の、
『衆生』は、
『生、死』中に、
『沈没している!』。
わたしは、
『拯済して( to salvage )!』、
『甘露の地』に、
『著けなければならない( shoud put them upon )!』、と。
『声聞人』は、
但だ、
『自らの身』を、
『度すだけなのに!』、
尚お、
『懈怠すべきではない!』。
況して、
『菩薩』は、
『自らの身を度すばかりか!』、
『一切の衆生を、度させねばならぬのに!』、
『懈怠していてもいいのか?』。
是の、
『事』の故に、
わたしは、
『懈怠、廃退してはならない!』、
『身が疲れて、苦しくとも!』、
『心』は、
『息むべきでない!』。
何故ならば、
此の、
『大乗の法』は、
『運用しなければ( be not put to use )!』、
『敗壊することになるからである!』。
取禪波羅蜜者。菩薩住尸羅波羅蜜。或未得無生忍法故。諸煩惱風吹動願樹。欲壞其尸羅波羅蜜。爾時應求禪定樂除去五欲樂。五欲樂除故戒德清淨。煩惱雖未斷已折伏故不能生亂。譬如毒蛇以咒術力故毒不得螫。 禅波羅蜜を取るとは、菩薩は、尸羅波羅蜜に住するに、或いは未だ無生法忍を得ざるが故に、諸の煩悩の風吹きて、願樹を動かし、其の尸羅波羅蜜を壊らんと欲す。爾の時、応に禅定の楽を求めて、五欲の楽を除去すべし。五欲の楽除こるが故に戒徳清浄となり、煩悩、未だ断ぜずと雖も、已に折伏せらるるが故に、乱を生ずる能わず。譬えば毒蛇の、咒術の力を以っての故に、毒、螫(さ)すを得ざるが如し。
『禅波羅蜜を取る!』とは、
『菩薩』は、
『尸羅波羅蜜に住する!』時、
或いは、
『未だ、無生法忍を得ていない!』が故に、
諸の、
『煩悩の風が吹いて!』、
『願の樹』を、
『動かし!』、
其の、
『尸羅波羅蜜』を、
『壊ろうとする!』が、
爾の時には、
『禅定の楽を求めて!』、
『五欲の楽』を、
『除去せねばならない!』。
『五欲の楽が除かれる!』が故に、
『戒の功徳』が、
『清浄となる!』ので、
『煩悩が、未だ断じていなくても!』、
『已に、折伏されている!』が故に、
『乱を、生じさせることができない!』。
譬えば、
『毒蛇の毒』が、
『咒術の力を用いる!』が故に、
『螫す( to sting )ことができないようなものである!』。
禪者四禪四無色定四無量心等諸禪定。菩薩得禪心雖柔軟安住尸羅波羅蜜。故亦不取聲聞辟支佛地。是菩薩但作是念。我應行禪波羅蜜。不為小乘涅槃。亦不為果報。但為度一切眾生故說諸法實相。 禅とは、四禅、四無色定、四無量心等の諸の禅定なり。菩薩は、禅を得て、心柔軟なりと雖も、尸羅波羅蜜に安住するが故に、亦た声聞、辟支仏の地を取らず。是の菩薩は、但だ是の念を作さく、『我れは応に禅波羅蜜を行じて、小乗涅槃の為にあらず、亦た果報の為にもあらず、但だ一切の衆生を度せんが為なるが故に諸法の実相を説くべし』、と。
『禅』とは、
『四禅、四無色定、四無量心』等の、
『諸の禅定である!』。
『菩薩』は、
『禅を得て、心が柔軟である!』が、
『尸羅波羅蜜に安住する!』が故に、
亦た( after all )、
『声聞、辟支仏の地』を、
『取らない!』。
是の、
『菩薩』は、
但だ、こう念じるだけである、――
わたしは、
『禅波羅蜜を行って!』、
『小乗涅槃や、果報の!』、
『為でなく( do not aim to )!』、
但だ、
『一切の衆生を度す!』、
『為に( to aim to )!』、
是の故に、
『諸法の実相』を、
『説かねばならない!』、と。
是實智從禪定生。是心不為覺觀所動。亦不為貪欲瞋恚所濁。繫心一處清淨柔軟則能生實智。如水澄靜照鑒分明。菩薩住尸羅波羅蜜得是禪。得禪故心清淨。心清淨故知諸法如實。 是の実の智は、禅定より生ず、是の心は覚観の為に動かせられず、亦た貪欲、瞋恚の為に濁されず、心を一処に繋けて清浄、柔軟なれば、則ち能く実の智生ず。水、澄静なれば、照鑑すること分明なるが如し。菩薩は、尸羅波羅蜜に住して、是の禅を得、禅を得るが故に心清浄となり、心清浄なるが故に、諸法を如実に知る。
是の、
『実の智』は、
『禅定より!』、
『生じる!』。
是の、
『禅定の心』は、
『覚、観に動かされず!』、
『貪欲、瞋恚』に、
『濁されることもなく!』、
『心を、一処に繋けて!』、
『清浄であり!』、
『柔軟である!』が故に、
則ち、
『実の智』を、
『生じさせるのである!』。
譬えば、
『水が澄んで、静かならば!』、
『照鑑( the reflection )』が、
『分明であるようなものである!』。
『菩薩』は、
『尸羅波羅蜜に住して!』、
是の、
『禅』を、
『得る!』と、
『禅を得る!』が故に、
『心』が、
『清浄になり!』、
『心が清浄である!』が故に、
『諸法』を、
『如実に知るのである!』。
  照鑑(しょうかん):反射する( reflect )。
有為法從因緣和合生虛誑。菩薩以慧眼觀。不見是有為法。實有為法有種種名。所謂作法有為數法相法。若有若無。以有為故可說無為。有為相尚不可得。何況無為。 有為法は、因縁和合より生じ、虚誑なれば、菩薩、慧眼を以って観るに、是の有為法は実なりと見ず。有為法には種種の名有りて、謂わゆる作法、有為、数法、相法、若しは有、若しは無なり。有為を以っての故に無為を説くべし。有為の相すら尚お不可得なり。何に況んや無為をや。
『有為法』は、
『因縁和合の生であり!』、
『虚誑である!』。
『菩薩』は、
『慧眼で観る!』ので、
是の、
『有為法』を、
『実である!』と、
『見ることはない!』。
『有為法』には、
種種の、
『名』が、
『有る!』。
謂わゆる、
『作法とか、有為とか、数法とか、相法とか!』、
『有とか、無とかである!』。
是れが、
『有為である!』と、
『説く!』が故に、
則ち、
『無為』を、
『説くことができる!』が、
『有為の相すら!』、
尚お、
『不可得である( be unrecognizable )!』、
況して、
『無為』は、
『言うまでもない!』。
問曰。有為法是有相。無為法是無相。今何以有為相中說無相。 問うて曰く、有為法は、是れ有相なり。無為法は、是れ無相なり。今何を以ってか、有為相中に無相を説く。
問い、
『有為法』は、
『有』の、
『相であり!』。
『無為法』は、
『無』の、
『相である!』。
今は、
何故、
『有為の相を説く!』中に、
『無の相』を、
『説くのですか?』。
答曰。無為有二種。一者無相。寂滅無戲論如涅槃。二者相待。無因有而生。如廟堂上無馬能生無心。此無心是生諸煩惱因緣。云何是無為法。是菩薩不見此有無等法。但見諸法如法性實際。 答えて曰く、無為には二種有り、一には無の相にして、寂滅、無戯論なること涅槃の如し。二には相待の無にして、有に因りて生ず。廟堂上の馬無きも、能く無の心生ずるが如し。此の無の心は、是れ諸の煩悩を生ずる因縁なれば、云何が是れ無為法なる。是の菩薩は、此の有、無等の法を見ずして、但だ諸法の如、法性、実際を見る。
答え、
『無為』には、
『二種有り!』、
一には、
『無の相であり!』、
『涅槃のように!』、
『寂滅、無戯論である!』。
二には、
『相待の無であり!』、
『有に因って!』、
『生じる!』、
『無である!』。
譬えば、
『廟堂( a temple )上に!』、
『馬』が、
『無くても!』、
『馬が無いという!』、
『心』を、
『生じさせるようなものであり!』、
是の、
『無という!』、
『心』は、
『諸の煩悩を生じる!』、
『因縁である!』が故に、
何故、
是れが、
『無為法なのか?』。
是の、
『菩薩』は、
此の、
『有、無』等の、
『法』を、
『見ずに!』、
但だ、
『諸法』の、
『如、法性、実際』を、
『見るだけである!』。
  廟堂(びょうどう):廟宇( temple )、朝廷( imperial court )。
問曰。汝先言離有則無無。今云何見如法性實際。 問うて曰く、汝は、先に、『有を離るれば、則ち無無し』、と言えるに、今は云何が、如、法性、実際を見る。
問い、
お前は、
先に、こう言った、――
『有を離れれば!』、
『無も!』、
『無くなる!』、と。
今は、
何故、
『有為を離れた!』、
『無為の如、法性、実際』を、
『見るのですか?』。
答曰。不見有為法若常樂我淨等。是虛誑法若無。即是諸法實見。無生法故能離有生法。是無生法無定實相可取。但能令人離虛誑有生法故名無生。 答えて曰く、有為法の若しは常、楽、我、浄等を見ざればなり。是の虚誑の法、若し無ければ、即ち是れ諸法の実なり。無生の法を見るが故に、能く有生の法を離る。是の無生の法には、定実の相の取るべき無く、但だ能く人をして、虚誑の有生の法を離れしむるが故に、無生と名づく。
答え、
『有為法』に、
『常とか、楽とか、我とか、浄等を!』、
『見ないからである!』。
是の、
『有為法という!』、
『虚誑の法』が、
『無ければ!』、
即ち、
是れが、
『諸法の実なのである!』。
『無生の法』を、
『見る!』が故に、
『有生の法』を、
『離れることができる!』が、
是の、
『無生の法』にも、
『取ることのできる!』、
『定実の相』は、
『無いのである!』が、
但だ、
『虚誑の有生の法より!』、
『人を!』、
『離れさせることができる!』が故に、
是れを、
『無生』と、
『呼ぶのである!』。
若得如是智慧。以方便力本願悲心故。不取二乘證直至阿耨多羅三藐三菩提。是名菩薩住尸羅波羅蜜取五波羅蜜
大智度論卷第八十
若し是の如き智慧を得れば、方便の力と、本願の悲心を以っての故に、二乗の証を取らずして、直ちに阿耨多羅三藐三菩提に至れば、是れを菩薩は、尸羅波羅蜜に住して、五波羅蜜を取ると名づくるなり。

大智度論巻第八十
若し、
是のような、
『智慧を得れば!』、
『方便の力と、本願の悲心』の故に、
『二乗の証を!』、
『取ることなく!』、
直ちに、
『阿耨多羅三藐三菩提に!』、
『至るので!』、
是れを、
『菩薩』は、
『尸羅波羅蜜に住しながら!』、
『五波羅蜜を取る!』と、
『称するのである!』。

大智度論巻第八十


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