巻第八十(上)
大智度論釋無盡方便品第六十七
1.【經】般若波羅蜜を尽くすことはできない
2.【論】般若波羅蜜を尽くすことはできない
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大智度論釋無盡方便品第六十七(卷八十)
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


【經】般若波羅蜜を尽くすことはできない

【經】爾時須菩提作是念。是諸佛阿耨多羅三藐三菩提甚深。我當問佛。作是念已白佛言。世尊。是般若波羅蜜不可盡。 爾の時、須菩提の是の念を作さく、『是の諸仏の阿耨多羅三藐三菩提は、甚だ深ければ、我れ当に仏に問うべし』、と。是の念を作し已りて、仏に白して言さく、『世尊、是の般若波羅蜜は、尽くすべからず』、と。
爾の時、
『須菩提』は、こう念じると、――
是の、
『諸仏』の、
『阿耨多羅三藐三菩提』は、
『甚だ深いので!』、
わたしは、
『仏』に、
『問わねばならない!』、と。
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
是の、
『般若波羅蜜』は、
『(知り)尽くすことができません!』、と。
佛言。虛空不可盡故。般若波羅蜜不可盡。世尊。云何應生般若波羅蜜。 仏の言わく、『虚空の尽くすべからざるが故に、般若波羅蜜は尽くすべからず』、と。『世尊、云何が、応に般若波羅蜜を生ずべき』。
『仏』は、こう言われた、――
『虚空は、尽くすことができない!』が故に、
『般若波羅蜜』は、
『尽くすことができないのである!』、と。
――
世尊!
何故、
『般若波羅蜜』を、
『生じねばならないのですか?』、と。
  (しょう)、(しゅつ):◯梵語 jaati の訳、出生/産出( birth, production )、出生に由って定まる[人、動物等の]存在としての形態( the form of existence (as man, animal, &c ) fixed by birth )、出生により与えられる地位/階級/カースト/家族/人種/血統( position assigned by birth, rank, caste, family, race, lineage )の義。◯梵語 utpaada の訳、出現/出生/産出( coming forth, birth, production )、伸びた足を持つこと/両足で立つこと( having the legs stretched out, standing on the legs )の義。生起/産出/生むこと/生まれること( arising, to produce, to bring forth, to beget, to be born )、生命/生活/産出/出現する( life, living; production; coming into existence )の意。◯梵語 abhinirhaara, abhinir√(hR) の訳、又引、引発と訳す、側に置く/個人的に貯蔵すること/獲得する( setting aside or accumulation of a private store, to obtain )の義。
  参考:『大般若経巻347』:『爾時具壽善現竊作是念。諸佛無上正等菩提最為甚深。如是般若波羅蜜多亦最甚深我當問佛。作是念已白佛言。世尊。甚深般若波羅蜜多為無盡不。佛言。如是甚深般若波羅蜜多實為無盡。猶如虛空不可盡故。具壽善現復白佛言。世尊。云何菩薩摩訶薩應引般若波羅蜜多。佛告善現。當知色無盡故菩薩摩訶薩應引般若波羅蜜多。受想行識無盡故菩薩摩訶薩應引般若波羅蜜多。善現當知。眼處無盡故菩薩摩訶薩應引般若波羅蜜多。耳鼻舌身意處無盡故菩薩摩訶薩應引般若波羅蜜多。善現當知。色處無盡故菩薩摩訶薩應引般若波羅蜜多。聲香味觸法處無盡故菩薩摩訶薩應引般若波羅蜜多。善現當知。眼界無盡故菩薩摩訶薩應引般若波羅蜜多。色界眼識界及眼觸眼觸為緣所生諸受無盡故菩薩摩訶薩應引般若波羅蜜多。善現當知。耳界無盡故菩薩摩訶薩應引般若波羅蜜多。聲界耳識界及耳觸耳觸為緣所生諸受無盡故菩薩摩訶薩應引般若波羅蜜多。善現當知。鼻界無盡故菩薩摩訶薩應引般若波羅蜜多。香界鼻識界及鼻觸鼻觸為緣所生諸受無盡故菩薩摩訶薩應引般若波羅蜜多。善現當知。舌界無盡故菩薩摩訶薩應引般若波羅蜜多。味界舌識界及舌觸舌觸為緣所生諸受無盡故菩薩摩訶薩應引般若波羅蜜多。善現當知。身界無盡故菩薩摩訶薩應引般若波羅蜜多。觸界身識界及身觸身觸為緣所生諸受無盡故菩薩摩訶薩應引般若波羅蜜多。善現當知。意界無盡故菩薩摩訶薩應引般若波羅蜜多。法界意識界及意觸意觸為緣所生諸受無盡故菩薩摩訶薩應引般若波羅蜜多。善現當知。地界無盡故菩薩摩訶薩應引般若波羅蜜多。水火風空識界無盡故菩薩摩訶薩應引般若波羅蜜多。善現當知。無明無盡故菩薩摩訶薩應引般若波羅蜜多。行識名色六處觸受愛取有生老死愁歎苦憂惱無盡故菩薩摩訶薩應引般若波羅蜜多』
佛言。色不可盡故。般若波羅蜜應生。受想行識不可盡故。般若波羅蜜應生。檀波羅蜜不可盡故。般若波羅蜜應生。尸羅波羅蜜羼提波羅蜜毘梨耶波羅蜜禪波羅蜜般若波羅蜜不可盡故。般若波羅蜜應生。乃至一切種智不可盡故。般若波羅蜜應生。 仏の言わく、『色は尽くすべからざるが故に、般若波羅蜜は、応に生ずべし。受想行識は尽くすべからざるが故に、般若波羅蜜は、応に生ずべし。檀波羅蜜は尽くすべからざるが故に、般若波羅蜜は、応に生ずべし。尸羅波羅蜜、羼提波羅蜜、毘梨耶波羅蜜、禅波羅蜜、般若波羅蜜は尽くすべからざるが故に、般若波羅蜜は、応に生ずべし。乃至一切種智は尽くすべからざるが故に、般若波羅蜜は、応に生ずべし。
『仏』は、こう言われた、――
『色や、受想行識は!』、
『尽くすことができない!』が故に、
『般若波羅蜜』が、
『生じなければならない!』。
『檀、尸羅、羼提、毘梨耶、禅、般若波羅蜜は!』、
『尽くすことができない!』が故に、
『般若波羅蜜』が、
『生じなければならない!』。
『乃至、一切種智は!』、
『尽くすことができない!』が故に、
『般若波羅蜜』が、
『生じなければならない!』。
復次須菩提。癡空不可盡故菩薩摩訶薩般若波羅蜜應生。行空不可盡故。菩薩般若波羅蜜應生。識空不可盡故。菩薩般若波羅蜜應生。名色空不可盡故。菩薩般若波羅蜜應生。六處空不可盡故。菩薩般若波羅蜜應生。六觸空不可盡故。菩薩般若波羅蜜應生。受空不可盡故。菩薩般若波羅蜜應生。愛空不可盡故。菩薩般若波羅蜜應生。取空不可盡故。菩薩般若波羅蜜應生。有空不可盡故。菩薩般若波羅蜜應生。生空不可盡故。菩薩般若波羅蜜應生。老死憂悲苦惱空不可盡故。菩薩般若波羅蜜應生。如是須菩提。菩薩摩訶薩般若波羅蜜應生。 復た次ぎに、須菩提、癡の空は尽くすべからざるが故に、菩薩摩訶薩の般若波羅蜜は応に生ずべし。行の空は尽くすべからざるが故に、菩薩の般若波羅蜜は応に生ずべし。識の空は尽くすべからざるが故に、菩薩の般若波羅蜜は応に生ずべし。名色の空は尽くすべからざるが故に、菩薩の般若波羅蜜は応に生ずべし。六処の空は尽くすべからざるが故に、菩薩の般若波羅蜜は応に生ずべし。六触の空は尽くすべからざるが故に、菩薩の般若波羅蜜は応に生ずべし。受の空は尽くすべからざるが故に、菩薩の般若波羅蜜は応に生ずべし。愛の空は尽くすべからざるが故に、菩薩の般若波羅蜜は応に生ずべし。取の空は尽くすべからざるが故に、菩薩の般若波羅蜜は応に生ずべし。有の空は尽くすべからざるが故に、菩薩の般若波羅蜜は応に生ずべし。生の空は尽くすべからざるが故に、菩薩の般若波羅蜜は応に生ずべし。老死の憂悲、苦悩の空は尽くすべからざるが故に、菩薩の般若波羅蜜は応に生ずべし。是の如く、須菩提、菩薩摩訶薩の般若波羅蜜は応に生ずべし。
復た次ぎに、
須菩提!
『癡という!』、
『空は、尽くすことができない!』が故に、
『菩薩摩訶薩の般若波羅蜜』は、
『生じなければならず!』、
『行という!』、
『空は、尽くすことができない!』が故に、
『菩薩の般若波羅蜜』は、
『生じなければならず!』、
『識という!』、
『空は、尽くすことができない!』が故に、
『菩薩の般若波羅蜜』は、
『生じなければならず!』、
『名色という!』、
『空は、尽くすことができない!』が故に、
『菩薩の般若波羅蜜』は、
『生じなければならず!』、
『六処という!』、
『空は、尽くすことができない!』が故に、
『菩薩の般若波羅蜜』は、
『生じなければならず!』、
『六触という!』、
『空は、尽くすことができない!』が故に、
『菩薩の般若波羅蜜』は、
『生じなければならず!』、
『受という!』、
『空は、尽くすことができない!』が故に、
『菩薩の般若波羅蜜』は、
『生じなければならない!』。
『愛という!』、
『空は、尽くすことができない!』が故に、
『菩薩の般若波羅蜜』は、
『生じなければならず!』、
『取という!』、
『空は、尽くすことができない!』が故に、
『菩薩の般若波羅蜜』は、
『生じなければならず!』、
『有という!』、
『空は、尽くすことができない!』が故に、
『菩薩の般若波羅蜜』は、
『生じなければならず!』、
『生という!』、
『空は、尽くすことができない!』が故に、
『菩薩の般若波羅蜜』は、
『生じなければならず!』、
『老死の憂悲、苦悩という!』、
『空は、尽くすことができない!』が故に、
『菩薩の般若波羅蜜』は、
『生じなければならない!』。
是のように、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』の、
『般若波羅蜜』は、
『生じなければならないのである!』。
  参考:『大般若経巻348』:『復次善現。菩薩摩訶薩觀無明如虛空無盡故應引般若波羅蜜多。菩薩摩訶薩觀行如虛空無盡故應引般若波羅蜜多。菩薩摩訶薩觀識如虛空無盡故應引般若波羅蜜多。菩薩摩訶薩觀名色如虛空無盡故應引般若波羅蜜多。菩薩摩訶薩觀六處如虛空無盡故應引般若波羅蜜多。菩薩摩訶薩觀觸如虛空無盡故應引般若波羅蜜多。菩薩摩訶薩觀受如虛空無盡故應引般若波羅蜜多。菩薩摩訶薩觀愛如虛空無盡故應引般若波羅蜜多。菩薩摩訶薩觀取如虛空無盡故應引般若波羅蜜多。菩薩摩訶薩觀有如虛空無盡故應引般若波羅蜜多。菩薩摩訶薩觀生如虛空無盡故應引般若波羅蜜多。菩薩摩訶薩觀老死愁歎苦憂惱如虛空無盡故應引般若波羅蜜多。如是善現。菩薩摩訶薩應引般若波羅蜜多。善現當知。諸菩薩摩訶薩如是觀察十二緣起遠離二邊。是諸菩薩不共妙觀。善現當知。諸菩薩摩訶薩處菩提座。如實觀察十二緣起。猶如虛空不可盡故。速能證得一切智智。善現當知。若菩薩摩訶薩以如虛空無盡行相行深般若波羅蜜多。如實觀察十二緣起不墮聲聞及獨覺地。當住無上正等菩提。善現。諸有住菩薩乘補特伽羅。若於無上正等菩提有退轉者。皆悉不依引發般若波羅蜜多善巧作意。由彼不了。云何菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多。能以如虛空無盡行相如實觀察十二緣起引發般若波羅蜜多。善現當知。諸有安住菩薩乘者。若於無上正等菩提而有退轉。皆由遠離引發般若波羅蜜多善巧方便。善現當知。若菩薩摩訶薩能於無上正等菩提不退轉者。皆依引發甚深般若波羅蜜多善巧方便。是菩薩摩訶薩由依如是善巧方便修行般若波羅蜜多。以如虛空無盡行相如實觀察十二緣起引發般若波羅蜜多。是菩薩摩訶薩由依如是善巧方便修行般若波羅蜜多。以如虛空無盡行相如實觀察甚深般若波羅蜜多。由此引發甚深般若波羅蜜多』
須菩提。是十二因緣是獨菩薩法。能除諸邊顛倒。坐道場時應如是觀。當得一切種智。 須菩提、是の十二因縁は、是れ独り菩薩法にして、能く諸の辺、顛倒を除き、道場に坐する時には、応に是の如く観ずべく、当に一切種智を得べし。
須菩提!
是の、
『十二因縁』は、
独り( only )、
『菩薩の為だけの!』、
『法であり!』、
諸の、
『辺( both ends )、顛倒』を、
『除くことができる!』ので、
『道場に坐る!』時には、
是のように、
『十二因縁を観るべきであり!』、
当然、
『一切種智』を、
『得ることになるだろう!』。
  (へん):梵語 anta の訳、端( end )の義。二辺 (梵 dvianta、英 both ends )の意。
須菩提。若有菩薩摩訶薩。以虛空不可盡法。行般若波羅蜜。觀十二因緣。不墮聲聞辟支佛地。住阿耨多羅三藐三菩提。 須菩提、若し有る菩薩摩訶薩、虚空の尽くすべからざる法を以って、般若波羅蜜を行じ、十二因縁を観ぜば、声聞、辟支仏の地に堕せずして、阿耨多羅三藐三菩提に住せん。
須菩提!
若し、
有る、
『菩薩摩訶薩』が、
『虚空は、尽くすことができない!』という、
『法を用いて!』、
『般若波羅蜜を行いながら!』、
『十二因縁』を、
『観察すれば!』、
『声聞、辟支仏の地に堕ちることなく!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』に、
『住するだろう!』。
須菩提。若求菩薩道而轉還者。皆離般若波羅蜜念故。是人不知云何行般若波羅蜜。以虛空不可盡法觀十二因緣。 須菩提、若し菩薩道を求めて、而も転還すれば、皆、般若波羅蜜を離れて念ずるが故なり。是の人は、云何が般若波羅蜜を行ずれば、虚空の尽くすべからざる法を以って、十二因縁を観ずるを知らざるなり。
須菩提!
若し、
『菩薩の道を求めながら!』、
『道』を、
『転換すれば!』、
皆、
『般若波羅蜜を離れて!』、
『道』を、
『念じるからである!』。
是の、
『人』は、
何故、
『般若波羅蜜を行えば!』、
『虚空は、尽くすことができない!』という、
『法を用いて!』、
『十二因縁を観ることになる!』と、
『知らないのである!』。
須菩提。若求菩薩道而轉還者。皆不得是方便力故。於阿耨多羅三藐三菩提而轉還。 須菩提、若し菩薩道を求めて、而も転還すれば、皆、是の方便の力を得ざるが故に、阿耨多羅三藐三菩提より、転還す。
須菩提!
若し、
『菩薩の道を求めながら!』、
『道を!』、
『転換すれば!』、
皆、
是の、
『方便という!』、
『力』を、
『得ないからであり!』、
是の故に、
『阿耨多羅三藐三菩提より!』、
『転換するのである!』。
須菩提。若菩薩摩訶薩於阿耨多羅三藐三菩提不轉還者。皆得是方便力故。 須菩提、若し菩薩摩訶薩、阿耨多羅三藐三菩提より転還せざれば、皆、是の方便の力を得るが故なり。
須菩提!
若し、
『菩薩摩訶薩』が、
『阿耨多羅三藐三菩提より!』、
『転換しなければ!』、
皆、
是の、
『方便の力』を、
『得たからなのである!』。
須菩提。菩薩摩訶薩應以虛空不可盡法觀般若波羅蜜。應以虛空不可盡法生般若波羅蜜。 須菩提、菩薩摩訶薩は、応に虚空の尽くすべからざる法を以って、般若波羅蜜を観るべく、応に虚空の尽くすべからざる法を以って、般若波羅蜜を生ずべし。
須菩提!
『菩薩摩訶薩』は、
当然、
『虚空は、尽くすことができない!』という、
『法を用いて!』、
『般若波羅蜜』を、
『観なければならず!』、
『虚空は、尽くすことができない!』という、
『法を用いて!』、
『般若波羅蜜』を、
『生じなければならない!』。
如是須菩提。菩薩摩訶薩觀十二因緣時。不見法無因緣生。不見法常不滅。不見法有我人壽者命者眾生知者見者。不見法無常。不見法苦。不見法無我。不見法寂滅非寂滅。如是須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。應如是觀十二因緣。 是の如く、須菩提、菩薩摩訶薩は、十二因縁を観ずる時、法の無因緣の生なるを見ず、法の常、不滅なるを見ず、法に我、人、寿者、命者、衆生、知者、見者有るを見ず、法の無常を見ず、法の苦を見ず、法の無我を見ず、法の寂滅、非寂滅を見ず。是の如く、須菩提、菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行ずれば、応に是の如く十二因縁を観ずべし。
是のように、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』は、
『十二因縁を観る!』時、
『法』は、
『無因緣の生である!』と、
『見ず!』、
『法』は、
『常、不滅である!』と、
『見ず!』、
『法』には、
『我、人、寿者、命者、衆生、知者、見者が有る!』と、
『見ることもなく!』、
『法』は、
『無常、苦、無我である!』と、
『見ることもなく!』、
『法』は、
『寂滅であるとも、非寂滅であるとも!』、
『見ない!』。
是のように、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』が、
『般若波羅蜜を行えば!』、
是のように、
『十二因縁』を、
『観るはずである!』。
  参考:『大般若経巻348』:『復次善現。若菩薩摩訶薩如是觀察緣起法時。不見有法無因而生。不見有法無因而滅。不見有法常住不滅。不見有法有我有情命者生者養者士夫補特伽羅意生儒童作者使作者起者使起者受者使受者知者使知者見者使見者。不見有法若常若無常若樂若苦若我若無我若淨若不淨若寂靜若不寂靜若遠離若不遠離。善現當知。諸菩薩摩訶薩欲行般若波羅蜜多。應當如是觀察緣起而行般若波羅蜜多。善現當知。若時菩薩摩訶薩行深般若波羅蜜多。是時菩薩摩訶薩不見色若常若無常若樂若苦若我若無我若淨若不淨若寂靜若不寂靜若遠離若不遠離。亦不見受想行識若常若無常若樂若苦若我若無我若淨若不淨若寂靜若不寂靜若遠離若不遠離。若時菩薩摩訶薩行深般若波羅蜜多。是時菩薩摩訶薩不見眼處若常若無常若樂若苦若我若無我若淨若不淨若寂靜若不寂靜若遠離若不遠離。亦不見耳鼻舌身意處若常若無常若樂若苦若我若無我若淨若不淨若寂靜若不寂靜若遠離若不遠離。』
須菩提。若菩薩摩訶薩能如是行般若波羅蜜。是時不見色若常若無常若苦若樂若我若無我若寂滅若非寂滅。受想行識亦如是。 須菩提、若し菩薩摩訶薩、能く是の如く般若波羅蜜を行ずれば、是の時、色の若しは常、若しは無常、若しは苦、若しは楽、若しは我、若しは無我、若しは寂滅、若しは非寂滅を見ず。受想行識も亦た是の如し。
須菩提!
若し、
『菩薩摩訶薩』が、
是のように、
『般若波羅蜜を行うことができれば!』、
是の時、
『色』が、
『常なのか、無常なのか?』、
『苦なのか、楽なのか?』、
『我なのか、無我なのか?』、
『寂滅なのか、非寂滅なのか?』を、
『見ることがない!』、
亦た、
『受想行識』も、
『是の通りである!』。
須菩提。菩薩摩訶薩是時亦不見般若波羅蜜。亦不見以是法見般若波羅蜜禪波羅蜜乃至阿耨多羅三藐三菩提。亦不見阿耨多羅三藐三菩提。亦不見以是法見阿耨多羅三藐三菩提。 須菩提、菩薩摩訶薩は、是の時、亦た般若波羅蜜を見ず、亦た是の法を以って般若波羅蜜を見るを見ず、禅波羅蜜、乃至阿耨多羅三藐三菩提まで、亦た阿耨多羅三藐三菩提を見ず、亦た是の法を以って阿耨多羅三藐三菩提を見るを見ず。
須菩提!
『菩薩摩訶薩』は、
是の時、
『般若波羅蜜』を、
『見ることもなく!』、
是の、
『法を用いれば!』、
『般若波羅蜜を見ることができる!』とも、
『見ないのであり!』、
亦た、
『禅波羅蜜、乃至阿耨多羅三藐三菩提まで!』、
亦た、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『見ることもなく!』、
是の、
『法を用いれば!』、
『阿耨多羅三藐三菩提を見ることができる!』とも、
『見ないのである!』。
  参考:『大般若経巻348』:『復次善現。若時菩薩摩訶薩行深般若波羅蜜多。是時菩薩摩訶薩雖行般若波羅蜜多。而不見有所行般若波羅蜜多。亦復不見有法能見所行般若波羅蜜多。若時菩薩摩訶薩行深般若波羅蜜多。是時菩薩摩訶薩雖行靜慮精進安忍淨戒布施波羅蜜多。而不見有所行靜慮乃至布施波羅蜜多。亦復不見有法能見所行靜慮乃至布施波羅蜜多。若時菩薩摩訶薩行深般若波羅蜜多。是時菩薩摩訶薩雖住內空而不見有所住內空。亦復不見有法能見所住內空。若時菩薩摩訶薩行深般若波羅蜜多。是時菩薩摩訶薩雖住外空內外空空空大空勝義空有為空無為空畢竟空無際空散空無變異空本性空自相空共相空一切法空不可得空無性空自性空無性自性空。而不見有所住外空乃至無性自性空。亦復不見有法能見所住外空乃至無性自性空。若時菩薩摩訶薩行深般若波羅蜜多。是時菩薩摩訶薩雖住真如而不見有所住真如。亦復不見有法能見所住真如。若時菩薩摩訶薩行深般若波羅蜜多。是時菩薩摩訶薩。雖住法界法性不虛妄性不變異性平等性離生性法定法住實際虛空界不思議界。而不見有所住法界乃至不思議界。亦復不見有法能見所住法界乃至不思議界。』
如是須菩提。一切法不可得故。是為應般若波羅蜜行。 是の如く、須菩提、一切の法は不可得なるが故に、是れを、般若波羅蜜に応じて行ずと為す。
是のように、
須菩提!
一切の、
『法』は、
『不可得である( be unrecognizable )!』が故に、
是の、
『法』を、
『般若波羅蜜に応じて!』、
『行うのである!』。
  参考:『大般若経巻348』:『善現當知。諸菩薩摩訶薩於一切法都無所得而為方便。應行如是甚深般若波羅蜜多。善現。若時菩薩摩訶薩於一切法以無所得而為方便。修行如是甚深般若波羅蜜多。是時惡魔生大憂惱如中毒箭。譬如有人新喪父母深生痛切。惡魔爾時見諸菩薩摩訶薩於一切法以無所得而為方便。修行如是甚深般若波羅蜜多。生大憂惱如中毒箭亦復如是。』
若菩薩行無所得般若波羅蜜時。惡魔愁毒如箭入心。譬如人新喪父母。如是須菩提。惡魔見菩薩行無所得般若波羅蜜時。便大愁毒如箭入心。 若し菩薩、無所得の般若波羅蜜を行ぜんに、時に悪魔の愁毒、箭の如く、心に入らん。譬えば人新たに父母を喪うが如し。是の如く、須菩提、悪魔は、菩薩の無所得の般若波羅蜜を行ずるを見る時、便ち大愁の毒となりて、箭の如く心に入るなり。
若し、
『菩薩』が、
『無所得( not to be attained )』の、
『般若波羅蜜』を、
『行えば!』、
その時、
『悪魔』は、
『愁毒( the pain of grief )』が、
『箭のように!』、
『心に、入るだろう!』。
譬えば、
『人』が、
新たに( recently )、
『父、母を喪う!』のと、
『同じである!』。
是のように、
須菩提!
『悪魔』は、
『菩薩』が、
『無所得の般若波羅蜜を行う!』のを、
『見る!』時、
便ち( immediately )、
『大愁毒』が、
『箭のように!』、
『心に、入るのである!』。
  愁毒(しゅうどく):憂愁の劇苦/劇しく愁う( the pain of grief, to grieve )。
須菩提白佛言。世尊。但一魔愁毒。三千大千世界中魔亦復愁毒。 須菩提の、仏に白して言さく、『世尊、但だ一魔のみ、愁の毒なりや、三千大千世界中の魔も、亦復た愁の毒たりや』、と。
『須菩提』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
但だ、
『一魔のみ!』が、
『愁毒する( to grieve )のですか?』、
亦た、
『三千大千世界中の魔』も、
復た、
『愁毒するのですか?』。
佛告須菩提。三千大千世界中諸惡魔。皆愁毒如箭入心。各於其坐不能自安。須菩提。菩薩摩訶薩能如是行般若波羅蜜。是時一切世間天及人阿修羅。不能得其便令其憂惱。 仏の須菩提に告げたまわく、『三千大千世界中の諸の悪魔は、皆愁毒、箭の如く心に入れば、各、其の坐に於いて、自ら安んずる能わず。須菩提、菩薩摩訶薩、能く是の如く般若波羅蜜を行ずれば、是の時、一切の世間の天、及び人、阿修羅は、其の便を得て、其れをして憂悩せしむる能わず。
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
『三千大千世界』中の、
『諸の悪魔』は、
皆、
『愁毒』が、
『箭のように!』、
『心に入り!』、
各は、
其の、
『坐』に於いて、
自ら、
『安んじることができない!』。
須菩提!
『菩薩摩訶薩』が、
是のように、
『般若波羅蜜』を、
『行うことができれば!』、
是の時、
『一切の世間の天や、人や、阿修羅』は、
其の、
『便( the chance )』を、
『得られず!』、
其の、
『菩薩』を、
『憂悩させることができないのである!』。
須菩提。以是故菩薩摩訶薩欲得阿耨多羅三藐三菩提。當行是般若波羅蜜。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。具足修檀波羅蜜尸羅波羅蜜羼提波羅蜜毘梨耶波羅蜜禪波羅蜜般若波羅蜜。 須菩提、是を以っての故に、菩薩摩訶薩は、阿耨多羅三藐三菩提を得んと欲せば、当に是の般若波羅蜜を行ずべし。菩薩摩訶薩の般若波羅蜜を行ずる時には、檀波羅蜜、尸羅波羅蜜、羼提波羅蜜、毘梨耶波羅蜜、禅波羅蜜、般若波羅蜜を具足して修すればなり。
須菩提!
是の故に、
『菩薩摩訶薩』が、
『阿耨多羅三藐三菩提を得ようとすれば!』、
是の、
『般若波羅蜜』を、
『行わねばならない!』。
『菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を行う!』時には、
『檀、尸羅、羼提、毘梨耶、禅、般若波羅蜜』を、
『具足して!』、
『修めることになるからである!』。
須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。具足諸波羅蜜。 須菩提、菩薩摩訶薩の般若波羅蜜を行ずる時には、諸の波羅蜜を具足す。
須菩提!
『菩薩摩訶薩』が、
『般若波羅蜜を行う!』時には、
『諸の波羅蜜』を、
『具足するのである!』。
須菩提白佛言。世尊。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。云何具足檀波羅蜜尸羅波羅蜜羼提波羅蜜毘梨耶波羅蜜禪波羅蜜般若波羅蜜。 須菩提の仏に白して言さく、『世尊、菩薩摩訶薩の般若波羅蜜を行ずる時、云何が、檀波羅蜜、尸羅波羅蜜、羼提波羅蜜、毘梨耶波羅蜜、禅波羅蜜、般若波羅蜜を具足する』、と。
『須菩提』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
『菩薩摩訶薩』が、
『般若波羅蜜を行う!』時、
何故、
『檀、尸羅、羼提、毘梨耶、禅、般若波羅蜜』を、
『具足するのですか?』。
佛告須菩提。菩薩摩訶薩所有布施皆迴向薩婆若。如是須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。具足檀波羅蜜。 仏の須菩提に告げたまわく、『菩薩摩訶薩の有らゆる布施は、皆薩婆若に迴向すれば、是の如く、須菩提、菩薩摩訶薩の般若波羅蜜を行ずる時には、檀波羅蜜を具足す。
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
『菩薩摩訶薩』の、
有らゆる、
『布施』は、
皆、
『薩婆若』に、
『迴向するのであり!』、
是のように、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』が、
『般若波羅蜜を行う!』時、
『檀波羅蜜』を、
『具足するのである!』。
須菩提。菩薩摩訶薩所有持戒皆迴向薩婆若。是為具足尸羅波羅蜜。菩薩摩訶薩所有忍辱皆迴向薩婆若。是為具足羼提波羅蜜。菩薩摩訶薩所有精進皆迴向薩婆若。是為具足毘梨耶波羅蜜。菩薩摩訶薩所有禪定皆迴向薩婆若。是為具足禪波羅蜜。菩薩摩訶薩所有智慧皆迴向薩婆若。是為具足般若波羅蜜。 須菩提、菩薩摩訶薩の有らゆる持戒は、皆薩婆若に迴向すれば、是れを尸羅波羅蜜を具足すと為し、菩薩摩訶薩の有らゆる忍辱は、皆薩婆若に迴向すれば、是れを羼提羅波羅蜜を具足すと為し、菩薩摩訶薩の有らゆる精進は、皆薩婆若に迴向すれば、是れを毘梨耶波羅蜜を具足すと為し、菩薩摩訶薩の有らゆる禅定は、皆薩婆若に迴向すれば、是れを禅波羅蜜を具足すと為し、菩薩摩訶薩の有らゆる智慧は、皆薩婆若に迴向すれば、是れを般若波羅蜜波羅蜜を具足すと為す。
須菩提!
『菩薩摩訶薩』の、
有らゆる、
『持戒』は、
皆、
『薩婆若』に、
『廻向するのであり!』、
是れが、
『尸羅波羅蜜』を、
『具足するということなのである!』。
『菩薩摩訶薩』の、
有らゆる、
『忍辱』は、
皆、
『薩婆若』に、
『廻向するのであり!』、
是れが、
『羼提波羅蜜』を、
『具足するということなのである!』。
『菩薩摩訶薩』の、
有らゆる、
『精進』は、
皆、
『薩婆若』に、
『廻向するのであり!』、
是れが、
『毘梨耶波羅蜜』を、
『具足するということなのである!』。
『菩薩摩訶薩』の、
有らゆる、
『禅定』は、
皆、
『薩婆若』に、
『廻向するのであり!』、
是れが、
『禅波羅蜜』を、
『具足するということなのである!』。
『菩薩摩訶薩』の、
有らゆる、
『智慧』は、
皆、
『薩婆若』に、
『廻向するのであり!』、
是れが、
『般若波羅蜜』を、
『具足するということなのである!』。
如是須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜具足六波羅蜜 是の如く、須菩提、菩薩摩訶薩、般若波羅蜜を行ずれば、六波羅蜜を具足するなり。
是のように、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』が、
『般若波羅蜜を行えば!』、
『六波羅蜜』を、
『具足することになるのである!』。



【論】般若波羅蜜を尽くすことはできない

【論】釋曰。須菩提從佛聞般若波羅蜜種種相。初聞畢竟空相。中聞囑累。如似有後還聞說空所謂般若義無量。名字句眾有量是時須菩提作是念。諸佛阿耨多羅三藐三菩提甚深。我當問佛所以甚深。佛說菩提少許分。但為破眾生顛倒故不具足說。所以者何。無能受者故。 釈して曰く、須菩提は、仏より般若波羅蜜の種種の相を聞くに、初め畢竟空の相を聞き、中に嘱累の如(も)しは有に似たるを聞き、後に還って、空を説くを聞く、謂わゆる般若の義は無量なるも、名字、句衆は有量なり、と。是の時、須菩提の是の念を作さく、『諸仏の阿耨多羅三藐三菩提は、甚だ深し。我れ当に仏に甚だ深き所以を問うべし。仏は、菩提の少許の分を説きたまえるも、但だ衆生の顛倒を破せんが為の故にして、具足して説きたまわず。所以は何んとなれば、能く受くる者の無きが故なり』、と。
釈す、
『須菩提』は、
『仏より!』、
『般若波羅蜜』の、
種種の、
『相』を、
『聞いたのである!』が、
初は、
『畢竟空の相である!』と、
『聞き!』、
中頃には、
『嘱累は如しは( as if )、有に似ている!』と、
『聞き!』、
後には、
還って、
『空である!』と、
『聞いた!』。
謂わゆる、
『般若波羅蜜の義は無量である!』が、
『名字、句衆は有量である!』と、
『聞いたのである!』。
是の時、
『須菩提』は、こう念じた、――
『諸仏』の
『阿耨多羅三藐三菩提』は、
『甚だ深い!』。
わたしは、
『仏』に、
『甚だ深い理由』を、
『問わねばならぬ!』。
『仏』は、
『阿耨多羅三藐三菩提』の、
『少分を、説かれた!』が、
但だ、
『衆生の、顛倒を破る!』為の故に、
『説かれたのであり!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『具足して!』、
『説かれたのではない!』。
何故ならば、
『衆生』には、
『受けることのできる!』者が、
『無いからである!』、と。
若人取如相。佛言如亦空。無生住滅故。若法無生住滅。是法即無。法性實際亦如是。若有取畢竟空者亦言非也。何以故。若畢竟空是定相可取。是非畢竟空。是故言甚深。我當更問佛。 若し、人、如相を取らば、仏の言わく、『如も亦た空なり。生住滅無きが故なり。若し法に生住滅無ければ、是の法は即ち無し。法性、実際も亦た是の如し』、と。若し畢竟空を取る者有らば、亦た言わく、『非なり。何を以っての故に、若し畢竟空の、是れ定相にして取るべくんば、是れ畢竟空に非ず』、と。是の故に言わく、『甚だ深し、我れは当に更に仏に問うべし』、と。
若し、
『人』が、
『如相( the mark as it is )』を、
『取れば!』、
『仏』は、こう言われるだろう、――
『如』も、
亦た、
『空である!』、
『如』には、
『生、住、滅の相』が、
『無いからである!』。
若し、
『法』に、
『生、住、滅』が、
『無ければ!』、
是の、
『法』は、
『無いことになる!』し、
『法性や、実際』も、
亦た、
『是の通りである!』、と。
若し、
有る者が、
『畢竟空の相』を、
『取れば!』、
亦た、こう言われるだろう、――
其の、
『相』は、
『畢竟空ではない!』。
何故ならば、
若し、
『畢竟空』が、
『定相であり!』、
『取ることができれば!』、
是れは、
『畢竟空ではない!』、と。
是の故に、
『須菩提』は、こう言ったのである、――
是の、
『法』は、
『甚だ深い!』。
わたしは、
更に、
『仏に問わねばならぬ!』、と。
須菩提作是念已。如佛自說。三世諸佛用般若波羅蜜得道。般若故不盡。已不盡今不盡當不盡。是故我今但問不盡義。 須菩提の是の念を作し已るらく、『仏の自ら説きたもうが如く、三世の諸仏は、般若波羅蜜を用いて道を得たもうも、般若は故(もと)より尽きず、已に尽きず、今尽きず、当に尽きず。是の故に、我れは今、但だ、尽きざる義を問わん』、と。
『須菩提が念じた!』のは、こうである、――
『仏が、自ら説かれたように!』、――
『三世の諸仏』は、
『般若波羅蜜を用いて!』、
『道』を、
『得られた!』が、
『般若波羅蜜』は、
故より( as it was befor )、
『尽きることはない!』。
『般若波羅蜜』は、
『已に、尽きたこともなく!』、
『今、尽きることもなく!』、
『未来に、尽きることもない!』。
是の故に、
わたしは、
今は、
但だ、
『般若波羅蜜の尽きない義だけ!』を、
『問おう!』、と。
佛答如虛空不盡故。般若亦不盡。如虛空無有法但有名字。般若波羅蜜亦如是。 仏の答えたまわく、『虚空の尽きざるが如し。故に、般若も亦た尽きず。虚空の法有ること無く、但だ名字のみ有るが如く、般若波羅蜜も亦た是の如し』、と。
『仏』は、こう答えられた、――
譬えば、
『虚空』が、
『尽きないようなものだ!』。
故に、
『般若波羅蜜』も、
『尽きないのである!』。
例えば、
『虚空』には、
『法が無く!』、
但だ、
『名字のみ!』が、
『有るように!』、
『般若波羅蜜』も、
亦た、
『是の通りなのである!』、と。
般若波羅蜜若如虛空無所有故不可盡。云何菩薩能生是般若波羅蜜能生者。菩薩云何心中生能行能得 般若波羅蜜、若し虚空の如く、無所有なるが故に尽くすべからざれば、云何が、菩薩は、能く生ずる。是の般若波羅蜜にして、能く生ずれば、菩薩は、云何が心中に、生じて、能く行じ、能く得る。
『般若波羅蜜』が、
若し、
『虚空のように!』、
『無所有である( nothing to obtain )!』が故に、
『尽くすことができなければ!』、
何故、
『菩薩』は、
是の、
『般若波羅蜜』を、
『生じさせることができるのか?』。
若し、
是の、
『般若波羅蜜』が、
『心』中に、
『生じるとすれば!』、
何故、
『菩薩の心中に生じた!』、
『般若波羅蜜』を、
『修行することができ!』、
『獲得することができるのか?』。
佛答色無盡故般若波羅蜜應生。如色初後中生不可得。色即生色不可得離色生色不可得。生不可得生生不可得如先破生中說。生不可得故色亦不可得。色不可得故色生不可得。二法不可得故。色如幻如夢但誑人眼。 仏の答えたまわく、『色に、尽無くんば、故に般若波羅蜜は応に生ずべきも、色の初、後、中の生の如きは、不可得なり』、と。色は即ち生色なるも、不可得なり。色を離るる生色も不可得なり。生は不可得なり、生生も不可得なり。先に生を破る中に説けるが如く、生の不可得なるが故に、色も亦た不可得なり。色の不可得なるが故に、色の生も不可得なり。二法不可得なるが故に、色は幻の如く、夢の如くして、但だ人の目を誑すのみ。
『仏』は、こう答えられた、――
『色』に、
『尽きるということ!』が、
『無ければ!』、
是の故に、
『般若波羅蜜』が、
『生じるはずである!』が、
『色』は、
『初にも、後にも、中にも!』、
『生』が、
『得られない( to be unrecognizable )!』、と。
即ち、
『色』が、
『即ち( that is )』、
『生相の色だとしても!』、
『得られない!』し、
『色』を、
『離れた!』、
『生相の色だとしても!』、
『得られない!』。
亦た、
『生』は、
『得られない!』し、
『生』の、
『生相』も、
『得られない!』。
例えば、
先に、
『生を破る!』中に、
『説いた通りである!』。
『生』が、
『得られない!』が故に、
『色』も、
『得られない!』し、
『色』が、
『得られない!』が故に、
『色の生』も、
『得られない!』、
『色、生の二法』が、
『得られない!』が故に、
『色』は、
『夢か、幻のように!』、
但だ、
『人の眼』を、
『誑すだけである!』。
若色有生必有盡。以無生故亦無盡。色真相即是般若波羅蜜相。是故說色不可盡。般若波羅蜜亦不可盡。受想行識檀波羅蜜乃至一切種智亦如是。 若し、色に生有らば、必ず、尽有らん。生無きを以っての故に、亦た尽も無し。色の真相は、即ち是れ般若波羅蜜の相なり。是の故に説かく、『色は、尽くすべからず。般若波羅蜜も、亦た尽くすべからず。受想行識、檀波羅蜜、乃至一切種智も亦た是の如し。
若し、
『色』に、
『生が有れば!』、
必ず、
『尽きること!』も、
『有るはずだ!』が、
『色』には、
『生が無い!』が故に、
亦た、
『尽きることも!』、
『無いのである!』。
即ち、
『色の真相』は、
『般若波羅蜜』の、
『相である!』。
是の故に、こう説くのである、――
『色』は、
『尽くすことができず!』、
亦た、
『般若波羅蜜』も、
『尽くすことができない!』。
亦た、
『受想行識や、檀波羅蜜、乃至一切種智も!』、
『是の通りである!』。
復次應生般若者。無明虛空不可盡故。若人但觀畢竟空多墮斷滅邊。若觀有多墮常邊。離是二邊故說十二因緣空。何以故。若法從因緣和合生。是法無有定性。若法無定性。即是畢竟空寂滅相。離二邊故假名為中道。是故說十二因緣。如虛空無法故不盡。癡亦從因緣和合生故無自相。無自相故畢竟空如虛空。 復た次ぎに、応に般若を生ずべしとは、無明虚空の尽くすべからざるが故なり。若し人、但だ畢竟空のみを観ぜば、多くは断滅の辺に堕せん。若し有を観ぜば、多くは常の辺に堕せん。是の二辺を離れんが故に、十二因縁の空を説く。何を以っての故に、若し法にして、因緣の和合より生ぜば、是の法には、定性有ること無けん。若し法に定性無くんば、即ち是れ畢竟空にして、寂滅の相なり。二辺を離れんが故に、仮に名づけて、中道と為す。是の故に説かく、『十二因縁は、虚空の如く、法無きが故に尽きず。癡も亦た因緣和合より生ずるが故に、自相無く、自相無きが故に畢竟空なること虚空の如し。
復た次ぎに、
『般若波羅蜜を生じなければならない!』のは、
『無明という!』、
『虚空』は、
『尽くすことができないからである!』。
若し、
『人』が、
但だ、
『畢竟空のみを観れば!』、
多くは、
『断滅の辺』に、
『堕ちるだろう!』、
若し、
『有を観れば!』、
多くは、
『常の辺』に、
『堕ちるだろう!』。
是の、
『二辺を離れる!』為の故に、
『十二因縁』が、
『空である!』と、
『説かれたのである!』。
何故ならば、
『法』が、
『因緣の和合より!』、
『生じれば!』、
是の、
『法』には、
『定性が無いことになる!』。
若し、
『法』に、
『定性が無ければ!』、
即ち、
『畢竟空であり!』、
『寂滅の相である!』。
是の、
『二辺を離れる!』為の故に、
是の、
『二辺を離れること!』を、
仮に、
『中道』と、
『称する!』が、
是の故に、こう説くのである、――
『十二因縁』は、
『虚空のように!』、
『法が無い!』が故に、
『尽くすことができない!』、と。
『癡』も、
『因緣の和合より!』、
『生じる!』ので、
是の故に、
『自相』が、
『無く!』、
『自相が無い!』が故に、
『虚空のように!』、
『畢竟空なのである!』。
復次因緣生故無實。如經中說因眼緣色生觸念。觸念從癡生。觸念不在眼中不在色中不在內不在外亦不在中間。亦不從十方三世來。是法定相不可得。何以故。一切法入如故。若得是無明定相。即是智慧。不名為癡。 復た次ぎに、因緣生の故に実無し。経中に説けるが如く、眼の色を縁ずるに因って、触の念を生ずれば、触の念は癡より生ず。触の念は、眼中に在らず、色中に在らず、内に在らず、外に在らず、亦た中間にも在らず、亦た十方、三世より来たらず。是の法の定相は不可得なり。何を以っての故に、一切法は、如に入るが故に、若し是の無明の定相を得れば、即ち是れ智慧にして、名づけて癡と為さざればなり。
復た次ぎに、
『十二因縁等の法』は、
『因緣の生である!』が故に、
『実』が、
『無い!』。
『経』中に、こう説く通りであるが、――
『眼』が、
『色』を、
『縁じる( to take as an object )こと!』に、
『因って( be caused )!』、
『触という!』、
『念』を、
『生じる!』、と。
『触という!』、
『念』は、
『癡より!』、
『生じる!』ので、
『触という!』、
『念』は、
『眼中にも、色中にも、内中にも、外中にも、中間にも!』、
『存在せず!』、
亦た、
『十方や、三世より!』、
『来るのでもない!』。
是の、
『触という!』、
『法の定相』は、
『得られないのである!』。
何故ならば、
『一切の法』は、
『如』に、
『入るので!』、
若し、
是の、
『無明( the ignorance )』に、
『定相』を、
『得たならば!』、
是れは、
即ち、
『智慧であり!』、
是れを、
『癡( a delusion )』と、
『呼ぶことはないからである!』。
是故癡相智慧相無異。癡實相即是智慧。取著智慧相即是癡是故癡實相畢竟清淨。如虛空無生無滅。是故說得是觀。故迴向阿耨多羅三藐三菩提。即名般若波羅蜜。 是の故に、癡の相は、智慧の相と異無く、癡の実相は、即ち是れ智慧なり。智慧の相を取著すれば、即ち是れ癡なり。是の故に、癡の実相は、畢竟清浄にして、虚空の如く無生無滅なり。是の故に説かく、『是の観を得るが故に、阿耨多羅三藐三菩提に迴向すれば、即ち般若波羅蜜と名づく』、と。
是の故に、
『癡の相と、智慧の相とは!』、
『異』が、
『無く!』、
『癡の実相』は、
即ち、
『智慧なのである!』。
若し、
『智慧の相』に、
『取著すれば!』、
是れは、
即ち、
『癡であり!』、
是の故に、
『癡の実相』は、
『畢竟清浄であり!』、
『虚空のように!』、
『生、滅が無い!』。
是の故に、こう説く、――
是の、
『観を獲得すれば!』、
是の故に、
『阿耨多羅三藐三菩提』に、
『廻向することになり!』、
是の、
『観を獲得すること!』を、
即ち、
『般若波羅蜜』と、
『称するのである!』、と。
問曰。若無無明亦無諸行等。云何說十二因緣。 問うて曰く、若し、無明無く、亦た諸行等無くんば、云何が、十二因縁を説く。
問い、
若し、
『無明も、諸行等も無ければ!』、
何故、
『十二因縁』を、
『説かれたのですか?』。
答曰。說十二因緣有三種。一者凡夫肉眼所見顛倒著我心。起諸煩惱業往來生死中。 答えて曰く、十二因縁を説くに、三種有り。一には凡夫は肉眼の所見に顛倒せる著我の心に諸煩悩、業を起して、生死中に往来す。
答え、
『十二因縁を説く!』には、
『三種有り!』、
一には、こう説く、――
『凡夫』は、
『肉眼の!』、
『所見に執して!』、
『顛倒した!』、
『著我の心に!』、
『諸の煩悩、業を起して!』、
『生、死』中に、
『往、来するのである!』、と。
二者賢聖以法眼分別諸法。老病死心厭欲出世間。求老死因緣由生故。是生由諸煩惱業因緣。何以故。無煩惱人則不生。是故知煩惱為生因。煩惱因緣是無明。無明故應捨而取。應取而捨。何者應捨。老病諸苦因緣煩惱應捨。以少顛倒樂因緣故而取。持戒禪定智慧諸善根本。是涅槃樂因緣。是事應取而捨。 二には、賢聖は、法眼を以って、諸法を分別し、老病死を心に厭うて、出世間を欲し、老死の因縁を求むるに、生に由るが故なり。是の生は、諸煩悩、業の因縁に由る。何を以っての故に、煩悩無くんば、人は、則ち生ぜざればなり。是の故に、煩悩を生の因と為すを知る。煩悩の因縁は、是れ無明なり。無明の故に、応に捨つべきを取り、応に取るべきを捨つ。何者か、応に捨つべき。老病、諸苦の因縁の煩悩は、応に捨つべきに、少しの顛倒せる楽の因緣を以っての故に取る。持戒、禅定、智慧は諸善の根本にして、是れ涅槃の楽の因縁なれば、是の事は応に取るべきに、捨つ。
二には、こう説く、――
『賢聖』は、
『法眼を用いて!』、
『諸法を分別し!』、
『老病死を、心に厭うて!』、
『世間』を、
『出ようとし!』、
『老、死の因緣を求めれば!』、
『生に由る!』が故に、
『老、死』が、
『有り!』、
是の、
『生』は、
『諸の煩悩、業の因縁』に、
『由る!』。
何故ならば、
『煩悩が無ければ!』、
『人』は、
『生じないからである!』。
是の故に、
『煩悩』が、
『生の因である!』と、
『知るのである!』。
『煩悩の因緣は無明であり!』、
『無明である!』が故に、
『捨てるべきを、取り!』、
『取るべきを、捨てることになる!』。
何を、
『捨てなくてはならないのか?』、――
『老、病、諸苦の因緣である!』、
『煩悩』は、
『捨てなくてはならない!』が、
『少しの顛倒した楽の因緣である!』が故に、
『煩悩』を、
『取るのである!』。
何を、
『取らなくてはならないのか?』、――
『持戒、禅定、智慧』は、
『諸善の根本であり!』、
『涅槃の楽の因緣である!』が故に、
是の、
『事』は、
『取らねばならぬのに!』、
『捨てているのである!』、と。
是中無有知者見者作者。何以故。是法無定相。但從虛誑因緣相續生。行者知是虛誑不實則不生戲論。是但滅苦故入於涅槃。不究盡求諸苦相。 是の中には、知者、見者、作者有ること無し。何を以っての故に、是の法は、定相無く、但だ虚誑の因緣の相続によりて生ずればなり。行者は、是の虚誑の不実なるを知れば、則ち戯論を生ぜず。是れ但だ苦を滅するが故に、涅槃に入るのみなれば、諸苦の相を究尽して求めず。
是の中には、
『知者も、見者も、作者も!』、
『無い!』。
何故ならば、
是の、
『知者、見者、作者』等の、
『法』には、
『定相が無く!』、
但だ、
『虚誑の因緣』が、
『相続するにより!』、
『生じるからである!』。
『行者』は、
是の、
『法が虚誑であり、不実である!』と、
『知れば!』、
則ち、
『戯論』を、
『生じることもなくなる!』が、
是れは、
但だ、
『苦を滅する!』が故に、
『涅槃』に、
『入るだけであり!』、
『諸の苦相』を、
『究尽して!』、
『求めるものではない!』。
三者諸菩薩摩訶薩大智人利根故。但求究盡十二因緣根本相。不以憂怖自沒。求時不得定相。 三には、諸の菩薩摩訶薩は大智人にして、利根なるが故に、但だ十二因縁の根本の相を求めて究尽し、憂怖を以って、自ら没せず、求むる時には、定相を得ず。
三には、こう説く、――
『諸の菩薩摩訶薩』は、
『大智人であり!』、
『利根である!』が故に、
但だ、
『十二因縁の根本の相』を、
『究尽して!』、
『求めるだけで!』、
自ら、
『憂怖』に、
『没することもなく!』、
『求める!』時にも、
『定相』を、
『得ることはない!』、と。
老法畢竟空。但從虛誑假名有。所以者何。分別諸法相者說老。是心不相應行。是相不可得。頭白等是色相非老相。二事不可得故無老相。 老法は、畢竟空にして、但だ虚誑により仮名有るのみ。所以は何んとなれば、諸法の相を分別する者は、老は、是れ心不相応行なりと説くも、是の相は、不可得なり。頭白等は、是れ色相にして、老相に非ず。二事不可得なるが故に、老相無し。
『老という!』、
『法は、畢竟空であり!』、
但だ、
『虚誑により!』、
『仮名が有るだけである!』。
何故ならば、
『諸法の相を分別する!』者は、
『老』とは、
『心不相応行である!』と、
『説く!』が、
是の、
『不相応行の相』は、
『不可得である!』。
『頭が白い!』等は、
『色の相である!』が、
『老の相ではなく!』、
『頭、白の二事が不可得である!』が故に、
『老の相』は、
『無い!』。
復次世人名老相髮白齒離面皺身曲羸瘦力薄諸根闇塞。如是等名老相。但是事不然。所以者何。髮白非唯老者。又年壯而白老年而黑者。羸瘦皺曲亦爾。有人老而諸根明利。少而闇塞者。又服還年藥雖老而壯。如是老無定相。無定相故諸法和合假名為老。又如假輪軸轅輻等為車。是假名非實。 復た次ぎに、世人は、老相を、髪白み、歯離れ、面皺み、身曲り、羸痩して、力薄く、諸根闇塞すと名づけ、是れ等の如きを老相と名づくるも、但だ是の事は然らず。所以は何んとなれば、髪の白きは、唯だ老者のみに非ずして、又年荘なるも白く、老年なるも黒き者あり。羸痩、皺、曲がれるも、亦た爾り。有る人は、老なるに、諸根明利なるも、少(わか)くして闇塞なる者あり。又還年の薬を服みて、老なりと雖も、荘なるあり。是の如く、老には定相無く、定相無きが故に、諸法の和合を仮に名づけて、老と為す。又輪、軸、轅、輻等を仮りて、車と為すが如きは、是れ仮名にして、実に非ず。
復た次ぎに、
『世人』は、
『老の相』は、
『髪が白く、歯が離れ、面が皺み、身が曲り、羸痩して、力が薄れ!』、
『諸根が闇塞することである!』と、
『言い!』、
是れ等を、
『老の相である!』と、
『称する!』が、
但だ、
是の、
『事』は、
『正しくない!』。
何故ならば、
『髪の白い!』のは、
但だ、
『老人だけでなく!』、
『壮年でありながら!』、
『白い!』者も、
『有り!』、
『老年でありながら!』、
『黒い!』者も、
『有る!』。
亦た、
『羸痩や、皺や、身が曲がる!』のも、
『是の通りである!』。
『人』には、
『老年でありながら!』、
『諸根が、明利である!』者も、
『有り!』、
『若少でありながら!』、
『諸根が闇塞している!』者も、
『有る!』。
又、
『還年の薬( the rejuvenator )を服めば!』、
『老年でありながら!』、
『強壮である!』。
是のように、
『老』には、
『定相』が、
『無く!』、
『定相が無い!』が故に、
『諸法の和合』を、
仮に、
『老』と、
『称するだけである!』。
又、
譬えば、
『輪、軸、轅、輻等を仮りて!』、
『車』と、
『呼ぶようなものであり!』、
是れは、
『仮名であり!』、
『実ではない!』。
  闇塞(あんそく):梵語 baala の訳、新たに生起した/若い( newly risen, young )、暗愚/閉塞して通達せず( foolish, fool, simpleton )の義。
復次有人言說果報五眾故相名為老。是亦不然。所以者何。一切有為法念念生滅不住。若不住則無相。無相則無老。一切有為法若有住則無無常。若無無常即是常。若常則無老。何況非常非無常。畢竟空中而有老。 復た次ぎに、有る人の言わく、『果報の五衆の故の相を説いて、名づけて老と為す』、と。是れも亦た然らず。所以は何んとなれば、一切の有為法は、念念に生滅して、住まらざればなり。若し住まらざれば、則ち無相なり。無相なれば、則ち老無し。一切の有為法は、若し住有れば、則ち無常無し。若し無常無ければ、即ち是れ常なり。若し常なれば、則ち老無し。何に況んや、非常非無常の畢竟空中に、老有るをや。
復た次ぎに、
有る人は、こう言っている、――
『果報の五衆である!』が故の、
『相を説いて!』、
『老』と、
『称するのである!』、と。
是れも、
亦た、
『正しくない!』。
何故ならば、
『五衆』等の、
『一切の有為法』は、
『 念念に( every moment )生、滅して住まらない!』ので、
『無相であり!』、
『無相ならば!』、
『老』は、
『無いからである!』。
『一切の有為法』に、
若し、
『住が有れば!』、
『無常』は、
『無いことになり!』、
若し、
『無常が無ければ!』、
則ち、
『常ということであり!』、
若し、
『常ならば!』、
『老』は、
『無いはずである!』。
況して、
『非常非無常の畢竟空』中に、
『老』の、
『有るはずがない!』。
復次諸法畢竟空中生相不可得何況有老。如是等種種因緣。求老法不可得。不可得故無相如虛空不可盡。如老乃至無明亦如是。破無明如上說。 復た次ぎに、諸法の畢竟空中に、生相は不可得なり。何に況んや、老有るをや。是れ等の如き種種の因緣に、老法を求むるも、不可得なり。不可得なるが故に無相にして、虚空の如く尽くすべからず。老の如く、乃至無明も亦た是の如し。無明を破すること、上に説けるが如し。
復た次ぎに、
『諸法という!』、
『畢竟空』中に、
『生という!』、
『相を求めても!』、
『得られない!』、
況して、
『老』は、
『有るはずがない!』。
是れ等のような、
種種の因緣で、
『老という!』、
『法を求めても!』、
『得られないのである!』が、
『得られない!』が故に、
『無相であり!』、
『虚空のように!』、
『尽くすことができない!』。
『老のように!』、
乃至、
『無明まで!』、
『是の通りである!』。
『無明を破る!』のは、
上に、
『説いた通りである!』。
菩薩觀諸法實相畢竟空。無所有無所得。亦不著是事故。於眾生中而生大悲。眾生愚癡故。於不實顛倒虛妄法中受諸苦惱。 菩薩は、諸法の実相の畢竟空にして、無所有、無所得なるを観ずるも、亦た是の事に著せざるが故に、衆生中に於いて、大悲を生ず。衆生は愚癡の故に、不実、顛倒、虚妄の法中に於いて、諸の苦悩を受く。
『菩薩』は、
『諸法の実相』は、
『畢竟空、無所有、無所得である!』と、
『観察しながら!』、
是の、
『事』に、
『著することがない!』ので、
是の故に、
『衆生』中に、
『大悲』を、
『生じるのである!』が、
『衆生』は、
『愚癡である!』が故に、
『不実、顛倒、虚妄の法』中に、
『諸の苦悩』を、
『受けるのである!』。
初十二因緣但是凡夫人故。於是中不求是非第二十二因緣。二乘人及未得無生忍法菩薩所觀。第三十二因緣從得無生忍法乃至坐道場菩薩所觀。是故說無明虛空不可盡乃至憂悲苦惱虛空不可盡故。菩薩行般若波羅蜜 初の十二因縁は、但だ是れ凡夫人の故なれば、是の中に是非を求めず。第二の十二因縁は、二乗の人、及び未だ無生忍法を得ざる菩薩の所観なり。第三の十二因縁は、無生忍法を得るより、乃至道場に坐するまでの菩薩の所観なり。是の故に説かく、『無明の虚空は尽くすべからず、乃至憂悲、苦悩の虚空は尽くすべからざるが故に、菩薩は、般若波羅蜜を行ず』、と。
『初の十二因縁』は、
但だ、
『凡夫人』の為の故に、
『説かれたものであり!』、
是の中に、
『是、非』を、
『求めることはしない!』。
『第二の十二因縁』は、
『二乗の人や、無生忍法を得ていない菩薩の!』、
『所観である!』。
『第三の十二因縁』は、
『無生忍法を得てから、道場に坐するまで!』の、
『菩薩』の、
『所観である!』。
是の故に、こう説く、――
『無明という!』、
『虚空』は、
『尽くすことができず!』、
『乃至憂悲、苦悩という!』、
『虚空』も、
『尽くすことができない!』ので、
是の故に、
『菩薩』は、
『般若波羅蜜を行うのである!』、と。
如是深觀因緣法。離諸邊顛倒者。邊名常邊斷滅邊有邊無邊實邊空邊世間有邊等。著諸邊顛倒者。無常中起常等諸顛倒煩惱。觀是十二因緣法。諸邊顛倒滅。 是の如く深く、因緣の法を観じて、諸の辺、顛倒を離るとは、辺を、常の辺、断滅の辺、有の辺、無の辺、実の辺、空の辺、世間の有の辺等を名づけ、諸辺に著するなり。顛倒とは、無常中に起す常等の、諸顛倒の煩悩なり。是の十二因縁の法を観れば、諸の辺、顛倒滅す。
是のように、
『因緣の法を、深く観察して!』、
『諸の辺や、顛倒を離れる!』とは、
『辺』とは、
『常、断滅、有、無、実、空の辺や!』、
『世間が有るか、無いか等の!』、
『諸の辺』に、
『著することであり!』、
『顛倒』とは、
『無常中に起す!』、
『常等の!』、
『諸の顛倒の煩悩である!』が、
是の、
『十二因縁の法を観察して!』、
諸の、
『辺や、顛倒を!』、
『滅するのである!』。
諸煩惱有二分。一者外道邪見人名為邊。二者餘眾生煩惱名為顛倒。觀十二因緣。是二種煩惱皆滅。 諸の煩悩には、二分有り、一には外道、邪見の人を名づけて、辺と為し、二には、餘の衆生の煩悩を名づけて、顛倒と為す。十二因縁を観ずれば、是の二種の煩悩は、皆滅するなり。
諸の、
『煩悩』には、
『二分有り!』、
一には、
『外道や、邪見の人の煩悩』を、
『辺』と、
『称し!』、
二には、
『餘の衆生の煩悩』を、
『顛倒』と、
『称する!』が、
『十二因縁を観察すれば!』、
是の、
『二種の煩悩』が、
皆、
『滅するのである!』。
是第三十二因緣觀甚深。唯諸菩薩坐道場者能觀。先雖能觀未能具足。如城譬喻經中說。佛言我本未得道。時如是思惟。眾生可愍深入嶮道。所謂數數生數數老數數死。往來世間不知出處。我即時復作是念。何因緣有老死。如是求覓時得實智慧生。因緣是老死等。是故知第三觀坐道場乃得。如經廣說。 是の第三の十二因縁は、観ること甚だ深くして、唯だ諸菩薩の道場に坐せる者のみ、能く観じ、先に能く観ずと雖も、未だ具足する能わず。城譬喩経中に説けるが如し、仏の言わく、『我れ本、未だ道を得ざる時、是の如く思惟すらく、衆生は愍れむべし、深く険道に入ればなり。謂わゆる数数(しばしば)生じ、数数老い、数数死して世間を往来するも、出処を知らず、と。我れは即時に、復た是の念を作さく、何なる因緣もて、老死有りや、と。是の如く求覓する時、実の智慧を得る、生の因緣は、是れ老死なり等、と。是の故に知るらく、第三の観は、道場に坐して、乃ち得ると。経に広説するが如し。
是の、
『第三の十二因縁の観は、甚だ深く!』、
唯だ、
『道場に坐した!』、
『菩薩だけ!』が、
『観ることができ!』、
『道場に坐す前』は、
『観ることができても!』、
『具足することはできない!』。
例えば、
『城譬喩経』に、こう説く通りである、――
『仏』は、こう言われた、――
わたしは、
本、
『道を得ない!』時、こう思惟した、――
『衆生は、愍れむべきだ!』、――
深く、
『険道』に、
『入っているのだから!』。
謂わゆる、
『数数( frequently )、生まれ!』、
『数数、老い!』、
『数数、死んで!』、
『世間』を、
『往来しながら!』、
『世間より!』、
『出る処』を、
『知らないのだ!』、と。
わたしは、
即時に、こう思惟した、――
何のような、
『因縁』の故に、
『老、死』が、
『有るのだろうか?』、と。
是のように、
『老、死の因緣を求覓して( to seek after )!』、
『実の智慧を得た!』、――
『生という!』、
『因縁』が、
『老、死なのだ!』等と。
是の故に、こう知る、――
『第三因縁の観』は、
『道場に坐して!』、
乃ち( only then )、
『得られるのである!』、と。
即ち、
『城譬喩経』中に、
『広く説かれた通りである!』。
  求覓(ぐみゃく):◯梵語 abhipraarthana の訳、望む/欲求/請求/懇願する( to wish, desire, request, entreaty )の義。◯梵語 gaveSaNa の訳、熱烈に求める( desiring ardently or fervently )、探し求める/探求する( seeking after, searching for )。
  参考:『仏説旧城喩経』:『爾時佛告諸苾芻言。苾芻。我於往昔未證阿耨多羅三藐三菩提時。獨止一處心生疑念。何因世間一切眾生受輪迴苦。謂生老死。滅已復生。由彼眾生不如實知。是故不能出離生老死苦。我今思念此老死苦從何因有。復從何緣有此老死。作是念已。離諸攀緣定心觀察。諦觀察已乃如實知。今此老死因生而有。復從生緣而有老死。知此法已。又復思惟。生何因有。復以何緣有此生法。作是念已。離諸攀緣定心觀察。諦觀察已乃如實知。生因有起。復從有緣起此生法。知此法已。又復思惟有因何起。復以何緣起此有法。作是念已。離諸攀緣定心觀察。諦觀察已乃如實知。有因取起。復從取緣起此有法。知此法已。又復思惟取何因有。復從何緣有此取法。作是念已。離諸攀緣定心觀察。諦觀察已乃如實知。取因愛有。復從愛緣有此取法。知此法已。又復思惟愛何因有。復以何緣有此愛法。作是念已。離諸攀緣定心觀察。諦觀察已乃如實知。愛因受有。復從受緣有此愛法。知此法已。又復思惟受何因有。復以何緣有此受法。作是念已。離諸攀緣定心觀察。諦觀察已乃如實知。受因觸有。復從觸緣有此受法。知此法已。又復思惟觸何因有。復以何緣有此觸法。作是念已。離諸攀緣定心觀察。諦觀察已乃如實知。觸因六處有。復從六處緣有此觸法。知此法已。又復思惟。今此六處何因而有。復從何緣有六處法。作是念已。離諸攀緣定心觀察。諦觀察已乃如實知。而彼六處因名色有。從名色緣有六處法。知此法已。又復思惟。今此名色何因而有。復從何緣有此名色。作是念已。離諸攀緣定心觀察。諦觀察已乃如實知。而彼名色因識而有。復從識緣有名色法。知此法已。又復思惟識何因有。復以何緣有此識法。作是念已。離諸攀緣定心觀察。諦觀察已乃如實知。如是識法因名色有。從名色緣有此識法。唯此識緣能生諸行。由是名色緣識。識緣名色。名色緣六處。六處緣觸。觸緣受。受緣愛。愛緣取。取緣有。有緣生。生緣老死憂悲苦惱。是故一大苦蘊集。知此法已。又復思惟。以何因故得無老死。何法滅已得老死滅。作是念已。離諸攀緣定心觀察。諦觀察已乃如實知。若無生法即無老死。生法滅已老死亦滅。知此法已。又復思惟。何法若無生法得無。何法滅已生法得滅。作是念已。離諸攀緣定心觀察。諦觀察已乃如實知。若無有法即無生法。有法若滅生法亦滅。知此法已。又復思惟。何法若無有法不起。何法滅已有法得滅作是念已。離諸攀緣定心觀察。諦觀察已乃如實知。若無取法有法即無。取法滅已有法亦滅。知此法已。又復思惟。何法若無取法得無。何法滅已取法得滅。作是念已。離諸攀緣定心觀察。諦觀察已乃如實知。若無愛法即無取法。愛法滅已取法亦滅。知此法已。又復思惟。何法若無得無愛法。何法滅已愛法得滅。作是念已。離諸攀緣定心觀察。諦觀察已乃如實知。受法若無愛法即無。受法滅已愛法亦滅。知此法已。又復思惟。何法若無受法得無。何法滅已受法得滅。作是念已。離諸攀緣定心觀察。諦觀察已乃如實知。觸法若無受法即無。觸法滅已受法亦滅。知此法已。又復思惟。何法若無觸法即無。何法滅已觸法得滅。作是念已。離諸攀緣定心觀察。諦觀察已乃如實知。六處若無觸法得無。六處滅已觸法亦滅。知此法已。又復思惟。何法若無六處得無。何法滅已六處亦滅。作是念已。離諸攀緣定心觀察。諦觀察已乃如實知。名色若無六處得無。名色滅已六處亦滅。知此法已。又復思惟。何法若無名色得無。何法滅已名色亦滅。作是念已。離諸攀緣定心觀察。諦觀察已乃如實知。識法若無名色即無。識法滅已名色亦滅。知此法已。又復思惟。何法若無識法得無。何法滅已識法亦滅。作是念已。離諸攀緣定心觀察。諦觀察已乃如實知。行法若無識法即無。行法若滅識法亦滅。知此法已。又復思惟。何法若無行法得無。何法滅已行法得滅。作是念已。離諸攀緣定心觀察。諦觀察已乃如實知。無明若無行法即無。無明滅已行法亦滅。由是無明滅則行滅。行滅則識滅。識滅則名色滅。名色滅則六處滅。六處滅則觸滅。觸滅則受滅。受滅則愛滅。愛滅則取滅。取滅則有滅。有滅則生滅。生滅則老死憂悲苦惱滅。由是一大苦蘊滅。一一了知如是法已。又復思惟。我今已履佛所行道。已被昔人所被之甲。已到昔人涅盤之城』
又復觀如是因緣法。過於二乘得一切種智。若有人於佛道退者。皆不得是甚深觀故。若得是觀則不退。何以故。深入畢竟空中則不見聲聞辟支佛地。不見故則不於是中住。 又復た、是の如き因緣の法を観れば、二乗を過ぎて、一切種智を得。若し有る人、仏道に於いて退かば、皆是の甚だ深き観を得ざるが故なり。若し是の観を得れば、則ち退かず。何を以っての故に、深く畢竟空中に入れば、則ち声聞、辟支仏の地を見ず、見ざるが故に、則ち是の中に住せざればなり。
又復た、
是のような、
『因緣の法を観れば!』、
『二乗を過ぎて!』、
『一切種智』を、
『得ることになる!』ので、
若し、
有る、
『人』が、
『仏道より、退けば!』、
皆、
是の、
『甚だ深い観』を、
『得ていないからであり!』、
若し、
是の、
『観を得ていれば!』、
則ち、
『仏道より!』、
『退くことがない!』。
何故ならば、
『畢竟空中に、深く入れば!』、
則ち、
『声聞、辟支仏の地』を、
『見ることなく!』、
『見ない!』が故に、
則ち、
『声聞、辟支仏の地』に、
『住しないからである!』。
復次能如是觀因緣法者。不見有一法定自在。無因緣而生。一切法不自在皆屬因緣生。有人雖見一切法從因緣生。謂為從邪因緣生。邪因緣者微塵世性等。是故說不見法無因緣生亦不見法從常因緣微塵世性生。如虛空常常故則無生。虛空亦不與物作因。以是故無有法從常因緣生。 復た次ぎに、能く是の如く因緣の法を観れば、一法として、定んで自在なる、無因緣にして生ずる有るを見ず。一切の法は、自在にあらずして、皆因緣の生に属すればなり。有る人は、一切法は、因緣より生ずと見ると雖も、謂いて、邪因緣より生ずと為す。邪因緣とは、微塵、世性等なり。是の故に説かく、『法の無因緣にして生ずるを見ず、亦た法の常因緣なる微塵、世性より生ずるを見ず』、と。虚空は、常にして、常なるが故に、則ち生無く、虚空は、亦た物の与(ため)に因と作らざるが如し。是を以っての故に、法の常因緣より生ずる有ること無し。
復た次ぎに、
是のような、
『因緣の法を観れば!』、
『一法として!』、
『定めて自在であり!』、
『因緣が無いのに、生じるような!』、
『法が有る!』と、
『見ることはない!』。
『一切の法』は、
『自在でなく!』、
皆、
『因緣の生』に、
『属するからである!』。
有る、
『人』は、
『一切の法』は、
『因縁より生じる!』と、
『見ながら!』、
『微塵や、世性等のような!』、
『邪因緣より生じる!』と、
『謂っている!』ので、
是の故に、こう説くのである、――
『因緣が無いのに、生じる!』、
『法』を、
『見ることがない!』し、
『常因緣の微塵や、世性より、生じる!』、
『法』を、
『見ることもない!』、と。
譬えば、
『虚空は、常である!』が、
『常である!』が故に、
『生じること!』が、
『無く!』、
亦た、
『虚空』は、
『物の与に( for anything )』、
『因』と、
『作ることもない!』。
是の故に、
『法』が、
『常の因緣より!』、
『生じること!』は、
『無いのである!』。
  微塵(みじん):梵語 aNu-rajas の訳、微小の塵埃( atomic dust )の義、粒子/原子/極小/見えないほど小さい( bit, atom, extremely tiny, too small to see )の意。
  世性(せしょう):梵語 prakRti の訳、原因/原料/起源( cause, original source, origin )、天性/性格/性質/気質/性癖( nature, character, constitution, temper, disposition )の義、六師外道中僧佉派の主張する世界の基本的物質的原因( Fundamental material cause of the world as postulated by the Sāṃkhyas )の意。
復次菩薩如是觀一切法屬因緣生不自在不自在故無我乃至無知者見者。 復た次ぎに、菩薩は、是の如く一切の法は、因緣生に属して、自在ならず、自在ならざるが故に、我無く、乃至知者、見者無しと観る。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
是のように、
『一切の法』は、
『因縁生に属して!』、
『自在ではない!』。
『法は自在でない!』が故に、
『我も、乃至知者、見者も無い!』と、
『観るのである!』。
爾時菩薩安住畢竟空十二因緣中。不見一切色等法。若有若無等。亦不見般若。亦不見用是法行般若乃至阿耨多羅三藐三菩提亦如是。是名菩薩無所得般若波羅蜜。得是無所得般若。於一切法中便得無所障礙般若。 爾の時、菩薩は、畢竟空の十二因縁中に安住し、一切の色等の法の、若しは有、若しは無等を見ず、亦た般若を見ず、亦た是の法を用いて、般若を行ずるを見ず、乃至阿耨多羅三藐三菩提も亦た是の如し。是れを菩薩の無所得の般若波羅蜜と名づけ、是の無所得の般若を得れば、一切法中に於いて、便ち障礙する所無き般若を得。
爾の時、
『菩薩』は、
『畢竟空の十二因縁中に、安住する!』ので、
『一切の色等の法』が、
『有であるとか、無である!』等を、
『見ることなく!』、
亦た、
是れが、
『般若波羅蜜である!』と、
『見ることもなく!』、
是の、
『法を用いて!』、
『般若波羅蜜を行う!』と、
『見ることもなく!』、
乃至、
『阿耨多羅三藐三菩提まで!』、
『是の通りである!』。
是れを、
『菩薩』の、
『無所得の般若波羅蜜』と、
『称し!』、
是の、
『無所得の般若波羅蜜を得れば!』、
『一切の法』中に於いて、
便ち( easily )、
『障礙されない般若波羅蜜』を、
『得るのである!』。
爾時諸魔極大愁毒。何以故。以是菩薩深入十二因緣畢竟空中。不著有無非有非無等六十二諸邪見魔網。我今無有法可得菩薩便。譬如捕魚人見一魚深入大水鉤網所不及則絕望憂愁。亦如新喪父母。 爾の時、諸魔は極大愁毒す。何を以っての故に、是の菩薩の深く十二因縁の畢竟空中に入るを以って、有、無、非有非無等の六十二の諸の邪見の魔網に著せざればなり。我れは、今、法の、菩薩を得べき便有ること無し。譬えば、捕魚人の、一魚の深く大水の鉤、網の及ばざる所に入るを見て、則ち絶望し、憂愁するが如く、亦た新たに父母を喪うが如し。
爾の時、
『諸の魔』の、
『愁憂』は、
『極大であった!』。
何故ならば、
是の、
『菩薩』が、
『深く!』、
『十二因縁の畢竟空』中に、
『入ってしまった!』ので、
『有、無や、非有非無等の!』、
『六十二の諸邪見の魔網』に、
『著さなくなったからである!』。
――
わたしは、
『菩薩を捉える!』為の、
『便( the chance )』は、
『一法すら!』、
『無くなった!』、と。
譬えば、
『捕魚人』が、
『一魚』が、
『深く!』、
『鉤や、網の及ばない!』、
『大水に入る!』のを、
『見て!』、
則ち、
『絶望し!』、
『憂愁するようなものであり!』、
亦た、
『新たに( recently )!』、
『父母』を、
『喪うようでもある!』。
復次菩薩能如是行無所得般若波羅蜜。則能具足檀波羅蜜等。何以故。行如是法。諸煩惱障般若法皆折薄。諸魔人民不能得便故。諸波羅蜜得具足。先來雖行六波羅蜜未能得如是具足。 復た次ぎに、菩薩は、能く是の如く、無所得の般若波羅蜜を行ずれば、則ち能く檀波羅蜜等を具足す。何を以っての故に、是の如き法を行ずれば、諸の煩悩の般若を障うる法は、皆折れて薄れ、諸の魔の人民、便を得ること能わざるが故に、諸の波羅蜜は具足するを得。先より来、六波羅蜜を行ずと雖も、未だ是の如く具足するを得る能わざればなり。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
是のように、
『無所得』の、
『般若波羅蜜』を、
『行うことができれば!』、
則ち、
『檀波羅蜜等』を、
『具足することができる!』。
何故ならば、
是のような、
『法を行えば!』、
『諸の煩悩のような!』、
『般若波羅蜜を障える!』、
『法』が、
皆、
『折れて!』、
『薄れ!』、
『諸の魔の人民』が、
『便を得られない!』が故に、
『諸の波羅蜜』が、
『具足することになる!』が、
先より以来、
『六波羅蜜を行っていても!』、
是のように、
『六波羅蜜』を、
『具足することはできないからである!』。
須菩提問。世尊。菩薩云何能行如是般若波羅蜜。能具足檀波羅蜜等諸波羅蜜。佛答。若菩薩所有布施皆迴向薩婆若者有二種人。軟根利根。 須菩提の、『世尊、菩薩は、云何が、能く是の如き般若波羅蜜を行ずれば、能く檀波羅蜜等の諸波羅蜜を具足する』、と問うに、仏の答えたまわく、『若し菩薩、有らゆる布施をして、皆薩婆若に迴向すれば、二種の人有りて、軟根と利根となり』、と。
『須菩提』が、こう問うと、――
世尊!
『菩薩』が、
是のような、
『般若波羅蜜を行うことができれば!』、
何故、
『檀波羅蜜等の諸波羅蜜』を、
『具足することができるのですか?』、と。
『仏』は、こう答えられたのである、――
若し、
『菩薩』が、
有らゆる、
『布施』を、
皆、
『薩婆若』に、
『迴向したとすれば!』、
是の、
『菩薩』には、
『軟根、利根の二種の人』が、
『有る!』、と。
軟根者少多布施皆取相。迴向阿耨多羅三藐三菩提。利根者破是取相而戲論。空法信力轉薄不用薩婆若。但求諸法實相。是二種人皆不能具足檀波羅蜜。一者以信力多慧力少。二者以慧力多信力少故。佛今說信力慧力等故能迴向薩婆若。念薩婆若者是信力。如薩婆若迴向者是智力。乃至般若波羅蜜亦如是 軟根の者は、少多の布施をして、皆相を取り、阿耨多羅三藐三菩提に迴向す。利根の者は、是の取相を破るも、空法を戯論し、信力転た薄れて、薩婆若を用いず、但だ諸法の実相を求む。是の二種の人は、皆、檀波羅蜜を具足する能わず。一には、信力多く、慧力少なきを以って、二には、慧力多く、信力少なきを以っての故なり。仏は、今説きたまわく、『信力と慧力と等しきが故に、能く薩婆若に迴向す』、と。薩婆若を念ずとは、是れ信力なり。薩婆若に迴向するが如きは、是れ智力なり。乃至般若波羅蜜も亦た是の如し。
『軟根の者』は、
『少多の布施をしながら!』、
皆、
『取相して!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』に、
『迴向するのである!』が、
『利根の者』は、
是の、
『取相を破りながら!』、
『空法』を、
『戯論する!』ので、
転た( increasingly )、
『信力が薄れて!』、
『薩婆若』を、
『用いず!』、
但だ、
『諸法の実相』を、
『求めるだけである!』。
是の、
『二種の人』は、
皆、
『檀波羅蜜』を、
『具足することができない!』。
何故ならば、
一には、
『信力が多くて!』、
『慧力』が、
『少ないからであり!』、
二には、
『慧力が多くて!』、
『信力』が、
『少ないからである!』。
『仏』は、
今、こう説かれた、――
『信力、慧力が等しい!』が故に、
『薩婆若』に、
『迴向することができるのだ!』、と。
即ち、
『薩婆若』を、
『念じる!』のが、
『信力であり!』、
『薩婆若など!』に、
『迴向する!』のが、
『智力である!』。
乃至、
『般若波羅蜜』も、
『是の通りである!』。


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