巻第七十八(下)
大智度論釋稱揚品第六十五
1.【經】真実の法と無真実の法
2.【論】真実の法と無真実の法
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大智度論釋稱揚品第六十五
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


【經】真実の法、無真実の法

【經】舍利弗語須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。為行真實法。為行無真實法。 舎利弗の須菩提に語らく、『菩薩摩訶薩の般若波羅蜜を行ずるを、真実の法を行ずと為すや、真実無き法を行ずと為すや』、と。
『舎利弗』は、
『須菩提』に、こう語った、――
『菩薩摩訶薩』が、
『般若波羅蜜を行う!』のは、
『真実( substantial )の法を行うのか?』、
『無真実( insubstantial )の法を行うのか?』、と。
  真実(しんじつ):何物かの正体( true form of something )。◯梵語 bhuuta, tathaatva, tattva の訳、真実の真実/現実/実在の/実在( truth, the way it is, real, riality )の義。◯梵語 paramaartha, uttama-artha, tathaatva の訳、最も高遠な真実( the lofty truth )の義。◯梵語 niSpanna の訳、実体のある/満ちた/完全な( substantial, full, complete )の義。◯梵語 pariniSpanna の訳、発生した/完全な/実存する/現実の/実体のある( developed, perfect, existing, real, substantial )の義。◯梵語 sthira の訳、堅固/堅実な/固定した/不動の/不変の/決然とした/信頼できる( firm, hard, solid, fixed, immovable, constant, resolute, faithful, trustworthy )の義。
  参考:『大般若経巻342』:『時舍利子問善現言。菩薩摩訶薩行深般若波羅蜜多時。為行堅實法。為行無堅實法耶。善現答言。菩薩摩訶薩行深般若波羅蜜多時。為行無堅實法。不為行堅實法。何以故。舍利子。般若波羅蜜多無堅實故。靜慮精進安忍淨戒布施波羅蜜多亦無堅實故。舍利子。內空無堅實故。外空內外空空空大空勝義空有為空無為空畢竟空無際空散空無變異空本性空自相空共相空一切法空不可得空無性空自性空無性自性空亦無堅實故。舍利子。真如無堅實故。法界法性不虛妄性不變異性平等性離生性法定法住實際虛空界不思議界亦無堅實故。舍利子。苦聖諦無堅實故。集滅道聖諦亦無堅實故。舍利子。四靜慮無堅實故。四無量四無色定亦無堅實故。舍利子。八解脫無堅實故。八勝處九次第定十遍處亦無堅實故。舍利子。四念住無堅實故。四正斷四神足五根五力七等覺支八聖道支亦無堅實故。舍利子。空解脫門無堅實故。無相無願解脫門亦無堅實故。舍利子。極喜地無堅實故。離垢地發光地焰慧地極難勝地現前地遠行地不動地善慧地法雲地亦無堅實故。舍利子。五眼無堅實故。六神通亦無堅實故。舍利子。佛十力無堅實故。四無所畏四無礙解大慈大悲大喜大捨十八佛不共法亦無堅實故。舍利子。無忘失法無堅實故。恒住捨性亦無堅實故。舍利子。一切智無堅實故。道相智一切相智亦無堅實故。舍利子。一切陀羅尼門無堅實故。一切三摩地門亦無堅實故。舍利子。一切菩薩摩訶薩行無堅實故。諸佛無上正等菩提亦無堅實故。舍利子。一切智智無堅實故』
須菩提報舍利弗。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。為行無真實法。何以故。是般若波羅蜜無真實。乃至一切種智無真實故。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。無真實不可得。何況真實。乃至行一切種智無真實法不可得。何況真實。 須菩提の舎利弗に報うらく、『菩薩摩訶薩の般若波羅蜜を行ずるを、無真実の法を行ずと為す。何を以っての故に、是の般若波羅蜜は無真実にして、乃至一切種智は無真実なるが故なり。菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずるに、無真実すら不可得なり。何に況んや真実をや。乃至一切種智を行ずるに、無真実すら不可得なり。何に況んや真実をや』、と。
『須菩提』は、
『舎利弗』に、こう答えた、――
『菩薩摩訶薩』が、
『般若波羅蜜を行う!』のは、
『無真実の法』を、
『行うのである!』。
何故ならば、
是の、
『般若波羅蜜、乃至一切種智』は、
『無真実だからである!』。
『菩薩摩訶薩の行う!』、
『般若波羅蜜』は、
『無真実の法すら!』、
『不可得である!』。
況して、
『真実の法』は、
『言うまでもない!』。
乃至、
『一切種智』は、
『無真実の法すら!』、
『不可得である!』。
況して、
『真実の法』は、
『言うまでもない!』、と。
爾時欲色界諸天子作是念。諸有善男子善女人。發阿耨多羅三藐三菩提意。如深般若波羅蜜所說義行。於等法不作實際證。不墮聲聞辟支佛地。應當為作禮。 爾の時、欲、色界の諸天子の、是の念を作さく、『諸の有らゆる善男子、善女人は、阿耨多羅三藐三菩提の意を発して、深き般若波羅蜜の所説の義の如く、等法を行じて、実際の証を作さず、声聞、辟支仏の地に堕せざれば、応当に為に礼を作すべし』、と。
爾の時、
『欲、色界の諸天子』は、こう念じた、――
諸の、
『阿耨多羅三藐三菩提の意を発して!』、
『深い般若波羅蜜に説かれた義のように!』、
『等法( the practice of equivalence )を行いながら!』、
『実際の証を作さず!』、
『声聞、辟支仏の地』に、
『堕ちないような!』、
有らゆる、
『善男子、善女人』には、
当然、
『礼』を、
『作さねばならない!』、と。
  参考:『大般若経巻342』:『爾時有無量欲色界天子。咸作是念。若善男子善女人等。能發無上正等覺心。如深般若波羅蜜多所說義行。不證實際平等法性。不墮聲聞及獨覺地。是菩薩摩訶薩由此因緣甚為希有能為難事。應當敬禮。具壽善現知諸天子心之所念。便告之言。是菩薩摩訶薩不證實際平等法性。不墮聲聞及獨覺地。未甚希有不足為難。若菩薩摩訶薩知一切法及諸有情皆不可得。而發無上正等覺心。擐功德鎧。為度無量無數無邊百千有情。令得究竟無餘涅槃。是菩薩摩訶薩乃甚希有能為難事。天子當知。是菩薩摩訶薩雖知有情都無所有。而發無上正等覺心。擐功德鎧。為欲調伏諸有情類。如有為欲調伏虛空。所以者何。諸天子。虛空離故。當知一切有情亦離。虛空空故。當知一切有情亦空。虛空不堅實故。當知一切有情亦不堅實。虛空無所有故。當知一切有情亦無所有。以是故諸天子。是菩薩摩訶薩甚為希有能為難事。天子當知。諸菩薩摩訶薩擐大悲鎧。為欲調伏一切有情。而諸有情都無所有。如有擐鎧與虛空戰。天子當知。諸菩薩摩訶薩擐大悲鎧。為欲利樂一切有情。而諸有情及大悲鎧俱不可得。所以者何。諸天子。有情離故。此大悲鎧當知亦離。有情空故。此大悲鎧當知亦空。有情不堅實故。此大悲鎧當知亦不堅實。有情無所有故。此大悲鎧當知亦無所有。天子當知。諸菩薩摩訶薩調伏利樂諸有情事亦不可得。所以者何。有情離故。此調伏利樂事當知亦離。有情空故。此調伏利樂事當知亦空。有情不堅實故。此調伏利樂事當知亦不堅實。有情無所有故。此調伏利樂事當知亦無所有。天子當知。諸菩薩摩訶薩亦無所有。所以者何。諸天子。有情離故。當知菩薩摩訶薩亦離。有情空故。當知菩薩摩訶薩亦空有情不堅實故。當知菩薩摩訶薩亦不堅實。有情無所有故。當知菩薩摩訶薩亦無所有。諸天子。若菩薩摩訶薩聞如是事。心不沈沒不驚不怖亦不憂悔。當知是菩薩摩訶薩行深般若波羅蜜多』
須菩提語諸天子。諸菩薩摩訶薩於等法不作證聲聞辟支佛地不為難。諸菩薩摩訶薩大誓莊嚴。我當度無量無邊阿僧祇眾生。知眾生畢竟不可得而度眾生。是乃為難。 須菩提の諸天子に語らく、『諸の菩薩摩訶薩は、等法に於いて証を作さざれば、声聞、辟支仏の地を、難と為さず。諸の菩薩摩訶薩は、『我れは当に無量、無辺、阿僧祇の衆生を度せん』、と大誓もて荘厳し、衆生は畢竟じて、不可得なりと知りて、而も衆生を度すれば、是れを乃ち難と為す。
『須菩提』は、
『諸天子』に、こう語った、――
諸の、
『菩薩摩訶薩』が、
『等法の証を作さずに!』、
『声聞、辟支仏の地』に、
『堕ちない!』のは、
即ち、
『難しいことではない!』が、
諸の、
『菩薩摩訶薩』が、
わたしは、
『無量、無辺、阿僧祇の衆生を度さねばならぬ!』と、
『大誓で!』、
『荘厳しながら!』、
『衆生』は、
『畢竟じて不可得である!』と、
『知り!』、
而も、
『衆生』を、
『度するとすれば!』、
是れは、
乃ち( indeed )、
『難しいことである!』。
諸天子。諸菩薩摩訶薩發阿耨多羅三藐三菩提心作是願。我當度一切眾生。眾生實不可得。是人欲度眾生。如欲度虛空。 諸天子、諸の菩薩摩訶薩は、阿耨多羅三藐三菩提の心を発して、『我れは、当に一切の衆生を度すべし』、と是の願を作すも、衆生は実に不可得なれば、是の人の衆生を度せんと欲するは、虚空を度せんと欲するが如し。
諸天子!
諸の、
『菩薩摩訶薩』が、
『阿耨多羅三藐三菩提の心を発して!』、
わたしは、
『一切の衆生を度さねばならない!』と、
是のように、
『願』を、
『作す!』が、
『衆生』は、
『実に不可得である!』が故に、
是の、
『人』が、
『衆生』を、
『度そうとする!』のは、
譬えば、
『虚空』を、
『度そうとするようなものである!』。
何以故。虛空離故。當知眾生亦離。虛空空故。當知眾生亦空。虛空無堅固。當知眾生亦無堅固。虛空虛誑。當知眾生亦虛誑。 何を以っての故に、虚空の離なるが故に、当に知るべし、衆生も亦た離なり。虚空の空なるが故に、当に知るべし、衆生も亦た空なり。虚空には堅固無ければ、当に知るべし、衆生も亦た堅固無し。虚空は虚誑なれば、当に知るべし、衆生も亦た虚誑なり。
何故ならば、
『虚空が離である( be separate from its own nature )!』が故に、
当然、こう知らねばならぬ、――
『衆生』も、
『離である!』、と。
『虚空が空である!』が故に、
当然、こう知らねばならぬ、――
『衆生』も、
『空である!』、と。
『虚空に堅固が無い!』が故に、
当然、こう知らねばならぬ、――
『衆生』にも、
『堅固が無い!』、と。
『虚空が虚誑である!』が故に、
当然、こう知らねばならぬ、――
『衆生』も、
『虚誑である!』、と。
諸天子。以是因緣故。當知菩薩所作為難。為利益無所有眾生故而大莊嚴。是人為眾生結誓。為欲與虛空共鬥。 諸天子、是の因縁を以っての故に、当に知るべし、菩薩の所作を難と為し、無所有の衆生を利益せんが為の故に大荘厳し、是の人は、衆生の為に誓を結び、欲の為に虚空と共に闘うなり。
諸天子!
是の、
『因縁』の故に、こう知らねばならぬ、――
『菩薩』の、
『所作( the work )が難しい!』のは、
『無所有の衆生を利益する!』為の故に、
『一切の衆生を度さねばならぬ!』と、
『大誓で!』、
『荘厳するのである!』が、
是の、
『人』は、
『衆生の為には!』、
『度さねばならぬ!』と、
『誓』を、
『結びながら!』、
『欲の為には!』、
『虚空という!』、
『武器と共に!』、
『闘うからである!』。
是菩薩結誓已。亦不得眾生。而為眾生結誓。何以故。眾生離故。當知大誓亦離。眾生虛誑故。當知大誓亦虛誑。若菩薩摩訶薩聞是法。心不驚不沒。當知是菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。 是の菩薩は、誓を結び已りても、亦た衆生を得ず、而も衆生の為に誓を結べり。何を以っての故に、衆生の離なるが故に、当に知るべし、大誓も亦た離なり。衆生の虚誑なるが故に、当に知るべし、大誓も亦た虚誑なり。若し菩薩摩訶薩、是の法を聞いて、心に驚かず、没せざれば、当に知るべし、是の菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行ずるなり。
是の、
『菩薩』は、
『誓を結びながら!』、
『衆生』を、
『認めるのでもなく!』、
而も、
『衆生の為に!』、
『誓』を、
『結ぶのである!』。
何故ならば、
『衆生は離である!』が故に、こう知らねばならぬ、――
『大誓』も、
『離なのであり!』、
『衆生は虚誑である!』が故に、こう知らねばならぬ、――
『大誓』も、
『虚誑だからである!』。
若し、
『菩薩摩訶薩』が、
是の、
『法を聞いても!』、
『心』に、
『驚くこともなく、没することもなければ!』、
当然、こう知らねばならぬ、――
是の、
『菩薩摩訶薩』は、
『般若波羅蜜』を、
『行っているのである!』。
何以故。色離即是眾生離。受想行識離即是眾生離。色離即是六波羅蜜離。受想行識離即是六波羅蜜離。乃至一切種智離即是六波羅蜜離。 何を以っての故に、色の離は、即ち是れ衆生の離なり。受想行識の離は、即ち是れ衆生の離なり。色の離は、即ち是れ六波羅蜜の離なり。受想行識の離は、即ち是れ六波羅蜜の離なり。乃至一切種智の離は、即ち是れ六波羅蜜の離なればなり。
何故ならば、
『色という( something which is called 'form' )!』、
『離( is that which is separate from its own nature )』は、
『衆生という!』、
『離であり!』、
『受想行識という!』、
『離』は、
『衆生という!』、
『離であり!』、
『色という!』、
『離』は、
『六波羅蜜という!』、
『離であり!』、
『受想行識という!』、
『離』は、
『六波羅蜜という!』、
『離であり!』、
乃至、
『一切種智という!』、
『離』は、
『六波羅蜜という!』、
『離だからである!』。
若菩薩摩訶薩聞是一切諸法離相。心不驚不沒不怖不畏。當知是菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。 若し菩薩摩訶薩、是の一切諸法の離相を聞いて、心に驚かず、没せず、怖れず、畏れざれば、当に知るべし、是の菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行ずるなり。
若し、
『菩薩摩訶薩』が、
是の、
『一切の諸法』は、
『離相であるということ!』を、
『聞いて1』、
『心』に、
『驚くこともなく!』、
『没することもなく!』、
『怖れることもなく!』、
『畏れることもなければ!』、
当然、こう知らねばならぬ、――
是の、
『菩薩摩訶薩』は、
『般若波羅蜜』を、
『行っているのである!』、と。
佛告須菩提。何因緣故。菩薩摩訶薩於深般若波羅蜜中心不沒。 仏の須菩提に告げたまわく、『何なる因縁の故にか、菩薩摩訶薩は、深き般若波羅蜜中に於いて心没せざる』、と。
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
何のような、
『因縁』の故に、
『菩薩摩訶薩』は、
『深い般若波羅蜜』中に於いて、
『心』が、
『没しないのか?』、と。
  参考:『大般若経巻346』:『爾時佛告具壽善現言。善現。何因緣故諸菩薩摩訶薩。於深般若波羅蜜多心不沈沒。具壽善現白佛言。世尊。以一切法皆非有故。諸菩薩摩訶薩於深般若波羅蜜多心不沈沒。世尊。以一切法皆遠離故。諸菩薩摩訶薩於深般若波羅蜜多心不沈沒。世尊。以一切法皆寂靜故。諸菩薩摩訶薩於深般若波羅蜜多心不沈沒。世尊。以一切法無所有故。諸菩薩摩訶薩於深般若波羅蜜多心不沈沒。世尊。以一切法無生滅故。諸菩薩摩訶薩於深般若波羅蜜多心不沈沒。世尊。由如是等種種因緣。諸菩薩摩訶薩於深般若波羅蜜多心不沈沒。何以故。世尊。諸菩薩摩訶薩於一切法。若能沈沒若所沈沒。若沈沒時若沈沒處。若沈沒者由此沈沒皆不可得。以一切法不可得故。世尊。若菩薩摩訶薩聞說是事。心不沈沒不驚不怖亦不憂悔。當知是菩薩摩訶薩行深般若波羅蜜多。所以者何。是菩薩摩訶薩觀一切法皆不可得不可施設。是能沈沒是所沈沒。是沈沒時是沈沒處。是沈沒者由此沈沒。由是因緣諸菩薩摩訶薩聞如是事。心不沈沒不驚不怖亦不憂悔』
須菩提白佛言。世尊。般若波羅蜜無所有故不沒。般若波羅蜜離故不沒。般若波羅蜜寂滅故不沒。世尊。以是因緣故。菩薩於深般若波羅蜜中心不沒。何以故。是菩薩不得沒者不得沒事不得沒處。是一切法皆不可得故。 須菩提の仏に白して言さく、『世尊、般若波羅蜜には所有無きが故に、没せず、般若波羅蜜は離なるが故に没せず、般若波羅蜜は寂滅なるが故に没せず。世尊、是の因縁を以っての故に、菩薩は、深き般若波羅蜜中に於いて、心没せざるなり。何を以っての故に、是の菩薩は、没する者を得ず、没する事を得ず、没する処を得ざればなり。是の一切法は皆、不可得なるが故なり。
『須菩提』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
『般若波羅蜜』は、
『無所有である( be insubstantial )!』が故に、
『没することなく!』、
『般若波羅蜜』は、
『離である!』が故に、
『没することなく!』、
『般若波羅蜜』は、
『寂滅である( be tranquil extinction )!』が故に、
『没することない!』ので、
世尊!
是の、
『因縁』の故に、
『菩薩』は、
『深い般若波羅蜜』中に於いて、
『心』が、
『没しないのです!』。
何故ならば、
是の、
『菩薩』は、
『没する者も、没するという事も、没する処も!』、
『認めないからです!』、
何故ならば、
是のような、
『一切の法』は、
皆、
『不可得( be unrecognizable )だからです!』。
世尊。若菩薩摩訶薩聞是法。心不驚不沒不怖不畏。當知是菩薩為行般若波羅蜜。何以故。沒者沒事沒處。是法皆不可得故。菩薩摩訶薩如是行般若波羅蜜。諸天及釋提桓因天梵天王天及世界主天皆為作禮。 世尊、若し菩薩摩訶薩、是の法を聞いて、心に驚かず、没せず、怖れず、畏れざれば、当に知るべし、是の菩薩は、般若波羅蜜を行ずと為す。何を以っての故に、没する者も、没する事も、没する処も、是の法は、皆不可得なるが故に、菩薩摩訶薩は、是の如く般若波羅蜜を行ずれば、諸天、及び釈提桓因天、梵天王天、及び世界主天は、皆、為に礼を作すなり。
世尊!
若し、
『菩薩摩訶薩』が、
是の、
『法を聞いて!』、
『心』に、
『驚くこともなく!』、
『没することもなく!』、
『怖れることもなく!』、
『畏れることもなければ!』、
当然、こう知らねばなりません、――
是の、
『菩薩摩訶薩』は、
『般若波羅蜜』を、
『行っているのだ!』、と。
何故ならば、
『没する者も、没するという事も、没する処も!』、
是のような、
『法』は、
皆、
『不可得だからである!』が故に、
若し、
『菩薩摩訶薩』が、
是のように、
『般若波羅蜜を行えば!』、
『諸天や、釈提桓因の天や、梵天王の天や、世界主の天たち』が、
皆、
是の、
『菩薩の為』に、
『礼を作すのです!』。
佛告須菩提。不但釋提桓因諸天梵王及諸天世界主及諸天禮是菩薩行般若波羅蜜者。過是上光音天遍淨天廣果天淨居天。皆為是菩薩摩訶薩作禮。 仏の須菩提に告げたまわく、『但だ釈提桓因の諸天、梵王、及び諸天、世界主、及び諸天のみが、是の菩薩の般若波羅蜜を行ずるを礼する者にあらず、是の上を過ぎて、光音天、遍浄天、広果天、浄居天も、皆、是の菩薩摩訶薩の為に礼を作すなり。
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
但だ、
『釈提桓因の諸天や!』、
『梵王の諸天や!』、
『世界主の諸天だけ!』が、
是の、
『般若波羅蜜を行う菩薩の為に!』、
『礼』を、
『作すのではない!』。
是の上を過ぎて、
『光音天や、遍浄天や、広果天や、浄居天も!』、
皆、
是の、
『菩薩摩訶薩の為に!』、
『礼』を、
『作すのである!』。
須菩提。今現在十方無量諸佛。亦念是行般若波羅蜜菩薩摩訶薩。當知是菩薩為如佛。 須菩提、今、現在の十方の無量の諸仏も亦た、是の般若波羅蜜を行ずる菩薩摩訶薩を念ずれば、当に知るべし、是の菩薩は仏の如しと為す。
須菩提!
『今、現在の十方』の、
『無量の諸仏』も、
是の、
『般若波羅蜜を行う!』、
『菩薩摩訶薩』を、
『念じているのである!』から、
当然、こう知らねばならぬ、――
是の、
『菩薩』は、
『仏』にも、
『等しいものである!』、と。
須菩提。若恒河沙等世界中眾生。悉使為魔。是一一魔復化作魔。如恒河沙等魔。是一切魔不能留難菩薩行般若波羅蜜 須菩提、若し恒河沙に等しき世界中の衆生を、悉く魔と為さしめ、是の一一の魔、復た魔の、恒河沙に等しきが如き魔を化作せんに、是の一切の魔すら、菩薩の般若波羅蜜を行ずるを留難する能わず。
須菩提!
若し、
『恒河沙に等しいほどの世界』中の、
『衆生』を、
悉く、
『魔にして!』、
是の、
『一一の魔』が、
復た、
『恒河沙に等しいほどの魔』を、
『化作したとして!』、
是の、
『一切の魔でも!』、
『菩薩』が、
『般若波羅蜜を行う!』のを、
『留難することはできないのである!』。
  留難(るなん):梵語 antaraaya-karaNa の訳、障礙に依って影響を及ぼす( effecting by impediments )の義、誰かの仕事を難しくする/誰かの道を妨害する( make things difficult for somebody., put obstacles in somebody's way )の意。



【論】真実の法と無真実の法

【論】釋曰。爾時舍利弗聞上無分別相法。心大歡喜問須菩提。若菩薩行般若波羅蜜。為行真實法為行無真實法。 釈して曰く、爾の時、舎利弗は、上の分別相無き法を聞き、心に大歓喜して、須菩提の問わく、『若し菩薩、般若波羅蜜を行ずれば、真実の法を行ずと為すや、無真実の法を行ずと為すや』、と。
釈す、
爾の時、
『舎利弗』は、
上の、
『分別相が無いという!』、
『法を聞いて!』、
『心』に、
『大歓喜する!』と、
『須菩提』に、こう問うた、――
若し、
『菩薩』が、
『般若波羅蜜を行えば!』、
是れは、
『真実の法を行ったのか?』、
『無真実の法を行ったのか?』、と。
真實法者審定不變異。即是可取可著。若不真實即是虛誑妄語。須菩提常樂行深空心無障礙故答。行般若者即是行無真實。何以故。般若波羅蜜空無定相無分別故。乃至一切種智亦如是。 真実の法とは、審に変異せずと定まれば、即ち是れ取るべく、著すべし。若し真実ならざれば、即ち是れ虚誑の妄語なり。須菩提は、常に楽しんで深空を行ずれば、心に障礙無きが故に答うらく、『般若を行ずれば、即ち是れ無真実を行ずるなり。何を以っての故に、般若波羅蜜は空にして、定相無く、分別無きが故なり。乃至一切種智も亦た是の如し』、と。
『真実( be substantial )の法ならば!』、
審に( really )、
『変異しない!』と、
『定まる!』ので、
即ち、
『取ることもできる!』し、
『著することもできる!』が、
若し、
『真実でなければ!』、
即ち、
『虚誑であり!』、
『妄語である!』。
『須菩提』は、
常に、
『楽しんで!』、
『深い空』を、
『行っており!』、
『心』に、
『障礙( any obstacle )』が、
『無い!』が故に、
こう答えた、――
『般若波羅蜜を行えば!』、
『無真実』を、
『行うことになる!』。
何故ならば、
『般若波羅蜜は空である!』が故に、
『定相も、分別も!』、
『無いからであり!』、
乃至、
『一切種智』も、
『是の通りである!』、と。
  (しん):<動詞>[本義]考察/考究( study )。知る/知悉する( know )、審査/検査する( check )、審問する( try )、尋問する( inquire )。<副詞>真実/確実に( really, certainly )、詳細/仔細に( in detail, carefully )。<形容詞>慎重な/用心深い( cautious )、明確な( definite )、正しい/偏向しない( right )、固定/安定した( fixed )。
菩薩行如是般若波羅蜜時。先來生死中所習所著虛誑有為法尚不可得。何況後來觀虛誑因緣生。般若波羅蜜非所著法而可得。是故菩薩觀一切世間不真實。亦不著是般若波羅蜜。世諦故說真實第一義中真實不可得。何況不真實。 菩薩は、是の如き般若波羅蜜を行ずる時、先に生死中に来たりて、習いし所、著せし所の虚誑の有為法すら、尚お不可得なり。何に況んや後に来たりて観れば、虚誑の因縁生の般若波羅蜜は、著する所の法にして、可得なるに非ず。是の故に菩薩は、一切の世間は、真実にあらざるを観て、亦た是の般若波羅蜜にも著せず。世諦の故に真実なりと説くも、第一義中の真実は不可得なり。何に況んや不真実をや。
『菩薩』が、
是のような、
『般若波羅蜜を行う!』時、
先に、
『生死中に来て!』、
『習い、著した!』所の、
『虚誑の有為法すら!』、
尚お、
『不可得である!』。
況して、
後に、
『来て観れば!』、
『般若波羅蜜という!』、
『所著の法』も、
『虚誑の因縁生であり!』、
『可得ではない!』。
是の故に、
『菩薩』は、
『一切の世間』は、
『不真実である!』と、
『観て!』、
亦た、
是の、
『般若波羅蜜』に、
『著することもない!』。
何故ならば、
『世諦』の故に、
『真実である!』と、
『説いても!』、
『第一義』中に、
『真実』は、
『不可得であり!』、
況して、
『不真実』は、
『言うまでもないからである!』。
爾時欲色界諸天子歡喜言。其有發菩薩心者皆應禮敬。能為難事能行第一深義而不作證故。第一義即是平等法。但以異名說。 爾の時、欲、色界の諸天子の歓喜して言わく、『其れ菩薩の心を発す者有らば、皆、応に礼敬すべし。能く難事を為し、能く第一深義を行じて、証を作さざるが故なり』、と。第一義とは、即ち是れ平等の法にして、但だ異名を以って説くのみ。
爾の時、
『欲、色界の諸天子は歓喜して!』、こう言った、――
其れ( if )、
『菩薩の心を発す者が有れば!』、
皆、
『礼敬せねばならない!』。
是れは、
『難事を為すことができ!』、
『第一深義(第一義)を行いながら!』、
『証』を、
『作さないからである!』、と。
『第一義』とは、
即ち、
『平等法である!』が、
但だ、
『異名』を、
『説いただけである!』。
須菩提語諸天子。菩薩於平等法不作證不為難。菩薩欲度無量眾生。眾生畢竟不可得。是則為難。何以故。欲度眾生者為欲度虛空。虛空離故眾生亦離。虛空虛誑不實故。眾生亦虛誑不實。 須菩提の諸天子に語らく、『菩薩は、平等法に於いて証を作さず、難しと為さず。菩薩は、無量の衆生を度せんと欲するも、衆生は畢竟じて不可得なり。是れを則ち難しと為す。何を以っての故に、衆生を度せんと欲するを、虚空を度せんと欲すと為す。虚空は離なるが故に衆生も亦た離なり。虚空は虚誑、不実なるが故に、衆生も亦た虚誑、不実なればなり』、と。
『須菩提』は、
『諸天子』に、こう語った、――
『菩薩』は、
『平等法』の、
『証』を、
『作すこともなく!』、
『平等法』を、
『難しい!』と、
『思うこともない!』。
『菩薩』は、
『無量の衆生を度そうとする!』が、
是の、
『衆生』は、
『畢竟じて不可得である!』。
是れが、
則ち、
『難しいのである!』。
何故ならば、
『衆生を度そうとする!』のは、
『虚空』を、
『度そうとすることであり!』、
『虚空が離である!』が故に、
『衆生』も、
『離であり!』、
『虚空が虚誑、不実である!』が故に、
『衆生』も、
『虚誑、不実だからである!』。
  (ご):<代名詞>彼れ/彼れの( he, his )、彼女/彼女の( she, her )、其れ/其の( it, its )、彼等/彼等の( they, their )、あの( that )、此の様な/此如き( such )。<副詞>大概/恐らく/ほとんど/多分( perhaps, probably, most likely )、要ず/将に~べし( should )、[詰問を示す]豈に/どうして( Does it mean....? Shouldn't it be? )、極めて/甚だ( very )。<接続詞>仮設( if )、多分/大概( perhaps )、それにも拘らず( still, yet, nevertheless )。<助詞>強調の辞/無意義の辞。
問曰。於平等法而不證。眾生畢竟空而度眾生。此二俱畢竟空。云何言一難一不難。 問うて曰く、平等法に於いて、証せざると、衆生は畢竟じて空なるに、衆生を度すとは、此の二は倶に畢竟じて空なり。云何が、一は難く、一は難からずと言う。
問い、
『平等という!』、
『法』を、
『証さないこと!』と、
『衆生は畢竟じて空なのに!』、
『衆生』を、
『度すること!』と、
此の、
『二』が、
倶に( all together )、
『畢竟じて空ならば!』、
何故、こう言うのですか?――
『一は難しい!』が、
『一』は、
『難しくない!』、と。
答曰。眾生虛誑假名故。是所著處平等法無為故。非所著處。眾生從有為法假名而生。無為法是第一義。於顛倒著處而能不著為難。於無著處不著是不為難。以是故如是說。眾生空故大莊嚴亦空。若大莊嚴空而能發心為難。 答えて曰く、衆生は虚誑、仮名なるが故に、是れ所著の処なり。平等法は無為なるが故に、所著の処に非ず。衆生は有為法の仮名より生じ、無為法は、是れ第一義なり。顛倒して著する処なるに、而も能く著せざるを、難しと為す。著処無くして著せざるは、是れを難しと為さず。是を以っての故に、是の如く説かく、『衆生は空なるが故に、大荘厳も亦た空なり。若し大荘厳の空なるに、能く発心すれば、難しと為す。
答え、
『衆生』は、
『虚誑、仮名である!』が故に、
『著すべき!』、
『処である!』が、
『平等法』は、
『無為である!』が故に、
『著すべき!』、
『処ではない!』。
亦た、
『衆生』は、
『有為法』の、
『仮名より!』、
『生じ!』、
『無為法』は、
『第一義である!』。
即ち、
『顛倒して!』、
『著する処』に、
『著さない!』のは、
『難しい!』が、
『著すべき!』、
『処が無い!』に、
『著さない!』のは、
『難しくない!』ので、
是の故に、こう説くのである、――
『衆生は空である!』が故に、
『大荘厳』も、
『空である!』。
若し、
『大荘厳が空である!』のに、
『発心したとすれば!』、
『難しいことである!』、と。
菩薩若聞是第一平等義。度眾生大莊嚴皆畢竟空。而心不驚不沒。 菩薩は若し是の第一平等義を聞いて、衆生を度すれば、大荘厳は皆畢竟じて空なるに、心驚かず、没せず。
『菩薩』が、
若し、
是の、
『第一平等義(第一義)を聞いて!』、
『衆生』を、
『度すことができれば!』、
『大荘厳は皆畢竟じて空であっても!』、
『心』に、
『驚くことなく、没することもない!』。
譬如調馬自見影不驚。何以故。自知影從身出故。菩薩亦如是。知畢竟空因有為和合虛妄法生故。菩薩聞是事不驚不沒。是為行般若波羅蜜。 譬えば、調馬は自ら影を見て驚かざるが如し。何を以っての故に、自ら影の身より出づるを知るが故なればなり。菩薩も亦た是の如く、畢竟空は、有為、和合、虚妄の法より生ずるを知るが故に、菩薩は、是の事を聞いて驚かず、没せず。是れを般若波羅蜜を行ずと為す。
譬えば、
『調馬( a trained horse )』は、
自らの、
『影を見ても!』、
『驚かない!』。
何故ならば、
自ら、
『影が身より出ること!』を、
『知るからである!』が、
『菩薩』も、
是のように、
『畢竟空』も、
『有為の和合の虚妄の法より!』、
『生じる!』と、
『知る!』が故に、
『菩薩』は、
是の、
『事を聞いても!』、
『驚くこともなく!』、
『没することもない!』、
是れが、
『般若波羅蜜』を、
『行うということである!』。
色等法離故眾生亦離。離名為空。若眾生空法不空應有怖畏。若法亦空無生怖畏處。 色等の法の離なるが故に、衆生も亦た離なり。離を名づけて、空と為す。若し衆生は空にして、法は不空ならば、応に怖畏有るべけん。若し法も亦た空なれば、怖畏を生ずる処無し。
『色』等の、
『法は離である!』が故に、
『衆生』も、
『離である!』。
『離』を、
『空と称すれば!』、
若し、
『衆生が空である!』のに、
『法』が、
『空でなければ!』、
当然、
『怖畏すること!』も、
『有るはずである!』が、
若し、
『法も空ならば!』、
『怖畏を生じる処』が、
『無いことになる!』。
若菩薩聞是一切法離相心不畏。是亦名菩薩行般若波羅蜜。上聞眾生空故不畏。今聞法空故不畏。若聞是二空不畏。是為真行般若。 若し、菩薩、是の一切法の離相を聞いて、心に畏れざれば、是れも亦た菩薩は般若波羅蜜を行ずと名づく。上に衆生の空を聞くが故に畏れず、今法の空を聞くが故に畏れざれば、若し是の二空を聞いて畏れざれば、是れを真に般若を行ずと為す。
若し、
『菩薩』が、
是の、
『一切法』は、
『離相である!』と、
『聞いて!』、
『心』に、
『畏れなければ!』、
是れも、
『菩薩』が、
『般若波羅蜜』を、
『行うということである!』。
上に、
『衆生は空である!』と、
『聞いて!』、
『畏れず!』、
今、
『法は空である!』と、
『聞いて!』、
『畏れなければ!』、
若し、
是の、
『二空を聞いても!』、
『畏れなければ!』、
是れが、
『真に!』、
『般若波羅蜜を行うということである!』。
佛問須菩提。何以故。菩薩心不沒者。問曰。佛是一切智人。何以問弟子心不驚不沒。 仏の須菩提に問いたまわく、『何を以っての故にか、菩薩の心没せざる』とは、問うて曰く、仏は是れ一切智人なり。何を以ってか、弟子に、『心驚かず、没せざる』、と問いたまえる。
『仏』は、
『須菩提』に、こう問われたのであるが、――
何故、
『菩薩の心』は、
『没しないのか?』、と。
問い、
『仏』は、
『一切智の人なのに!』、
何故、
『弟子』に、こう問われたのですか?――
『心』が、
『驚くこともなく、没することもないのか?』、と。
答曰。以眾會有疑敬難故不敢問。是以佛問。 答えて曰く、衆会疑有るも、難ずるを敬(つつし)むを以っての故に、敢て問わず。是を以って仏は問いたまえり。
答え、
『衆会』中には、
『疑が有った!』が、
『問難を敬遠した!』が故に、
敢て、
『問おうとしなかった!』ので、
是の故に、
『仏』が、
『問われたのである!』。
  (きょう):<動詞>[本義]敬い慎む( respectfully )。鄭重に/丁寧に/慎重に扱う( treat respectfully, carefully, attentively )、尊重/尊敬する( respect )。
復次是第一平等義甚深難得。深處應當沒而不沒故試問須菩提。 復た次ぎに、是れは第一平等義は甚だ深くして、深処の応当に没すべきに、没せざること得難きが故に、須菩提に試問したまえり。
復た次ぎに、
是の、
『第一平等義』は、
『甚だ深く!』、
当然、
『没するはず!』の、
『深処なのに!』、
『菩薩』が、
『没しない!』のは、
『理解し難いことである!』が故に、
『試みに!』、
『須菩提』に、
『問われたのである!』。
復次佛以須菩提為說法主。聽者法應問難。 復た次ぎに、仏は須菩提を以って、説法の主と為したまえば、聴者の法は、応に問難すべし。
復た次ぎに、
『仏』は、
『須菩提』を、
『説法の主とされた!』ので、
『聴者』の、
『法( the custom )』としては、
『問難すべきである!』。
問曰。佛為一切智。何以不自為說主而令須菩提說。 問うて曰く、仏を一切智と為すに、何を以ってか、自ら説主と為らず、而も須菩提をして説かしめたまえる。
問い、
『仏』は、
『一切智なのに!』、
何故、
『自らを、説法の主とせず!』、
『須菩提』に、
『説かせられたのですか?』。
答曰。眾中有人以佛智慧無量無邊我等智力有量。若心有所疑不敢發問。為是人故命須菩提說。 答えて曰く、衆中の有る人は、仏の智慧の無量、無辺なるに、我等の智力は有量なれば、若し心に疑う所有るも、敢て問いを発せざるを以って、是の人の為の故に、須菩提に命じて説かせたまえり。
答え、
『衆中の有る人』は、
『仏の智慧は無量、無辺である!』が、
『わたし達の智慧は、有量である!』と、
『思って!』、
若し、
『心』に、
『疑う所が有っても!』、
敢て、
『問い!』を、
『発しようとしない!』ので、
是の、
『人の為に!』、
『須菩提に命じて!』、
『法』を、
『説かせられたのである!』。
問曰。若爾者何以不令大菩薩說。 問うて曰く、若し爾らば、何を以ってか、大菩薩をして説かしめたまわざる。
問い、
若し、
『爾うならば!』、
何故、
『大菩薩』に、
『説かせられなかったのですか?』。
答曰。大菩薩智慧亦大不可思議。威德重故亦不敢問難。 答えて曰く、大菩薩の智慧も亦た大にして不可思議、威徳の重きが故に、亦た敢て問難せざらん。
答え、
『大菩薩』の、
『智慧』も、
『大であり!』、
『不可思議であり!』、
『威徳』も、
『重い!』が故に、
亦た、
敢て、
『問難しようとしないからである!』。
復次有人言。阿羅漢辟支佛佛三界繫無明永盡無餘故能如實說法。諸菩薩雖廣集福德漏未盡故或不可信。是故不命。 復た次ぎに、有る人の言わく、『阿羅漢、辟支仏、仏は三界繋の無明永く尽きて、余無きが故に、能く如実に説法するも、諸菩薩は、広く福徳を集むと雖も、漏の未だ尽きざるが故に或は信ずべからず。是の故に命じたまわず。
復た次ぎに、
有る人は、こう言っている、――
『阿羅漢、辟支仏、仏』は、
『三界繋の無明』が、
『永く尽きて!』、
『余が無い!』が故に、
『如実に!』、
『法』を、
『説くことができる!』が、
『諸菩薩」は、
広く、
『福徳』を、
『集めたとしても!』、
未だ、
『漏』が、
『尽きていない!』が故に、
或は、
『信じられない!』ので、
是の故に、
『菩薩』には、
『命じられなかった!』、と。
問曰。若爾者舍利弗智慧第一及餘大弟子何以不命。 問うて曰く、若し爾らば、舎利弗の智慧第一なる、及び余の大弟子には、何を以ってか、命じたまわざる。
問い、
若し、
爾うならば、
何故、
『智慧第一の舎利弗や、余の大弟子に!』、
『命じられなかったのですか?』。
答曰。是事先已答。所謂須菩提樂於空行偏善說空。般若波羅蜜多說空故令須菩提說。 答えて曰く、是の事は、先に已に答えたり。謂わゆる須菩提は、空行を楽しんで、偏に空を説くを善くし、般若波羅蜜には多く空を説くが故に、須菩提をして説かしめたまえり。
答え、
是の、
『事』は、
『先に説いた!』が、
謂わゆる、
『須菩提』は、
『空行を楽しんで!』、
偏に、
『空を説くこと!』を、
『善くし( be good at )!』、
『般若波羅蜜』には、
多く、
『空が説かれている!』が故に、
『須菩提』に、
『説かせられたのである!』。
須菩提白佛。一切法畢竟空無所有。無所有故自相離。離相故常寂滅。常寂滅故無憶想分別。是故菩薩不應驚不應沒。沒者沒處沒法皆不可得。若菩薩聞是事不驚不沒。是為行般若波羅蜜。須菩提答已白佛言。能如是行亦名為行般若波羅蜜。 須菩提の仏に白さく、『一切の法は畢竟じて空、無所有なれば、無所有なるが故に自相を離る。相を離るる故に常に寂滅なり。常に寂滅なるが故に憶想、分別無し。是の故に菩薩は、応に驚くべからず、応に没するべからず。没する者、没する処、没する法の皆不可得なればなり。若し菩薩、是の事を聞いて、驚かず、没せざれば、是れを般若波羅蜜を行ずと為す』、と。須菩提は答え已りて、仏に白して言さく、『能く是の如く行ずれば、亦た名づけて、般若波羅蜜を行ずと為す』、と。
『須菩提』は、
『仏』に、こう白した、――
『一切の法』は、
『畢竟じて空であり!』、
『所有』が、
『無いのである!』が、
『所有が無い!』が故に、
『自相』を、
『離れており!』、
『相を離れている!』が故に、
『常に!』、
『寂滅しており!』、
『常に寂滅している!』が故に、
『憶想も、分別も!』、
『無い!』ので、
是の故に、
『菩薩』は、
『驚くはずがなく!』、
『没するはずがない!』。
即ち、
『没する者も、没する処も、没する法も!』、
皆、
『不可得だからである!』。
若し、
『菩薩』が、
是の、
『事を聞いて!』、
『驚くこともなく!』、
『没することもなければ!』、
是れが、
『般若波羅蜜』を、
『行うということです!』、と。
『須菩提は答えてしまう!』と、
『仏に白して!』、こう言った、――
是のように、
『行うこと!』を、
『般若波羅蜜』を、
『行うというのです!』、と。
世尊菩薩能如是行。一切諸天帝釋及世界主禮菩薩者。地神虛空中神四天王忉利天帝釋為主。皆共禮是菩薩。 『世尊、菩薩、能く是の如く行ぜば、一切の諸天、帝釈、及び世界主は菩薩を礼せん』とは、地神、虚空中の神、四天王、忉利天は、帝釈を主と為し、皆共に、是の菩薩を礼するなり。
世尊!
『菩薩』が、
是のように、
『行うことができれば!』、
『一切の諸天、帝釈と、世界主』は、
『菩薩』を、
『礼するでしょう!』、とは、――
『地神、虚空中の神、四天王、忉利天』は、
『帝釈』を、
『主としている!』が、
皆が、
共に( all together )、
是の、
『菩薩』を、
『礼するのである!』。
梵天王初禪中梵世界眾生主。世界主者欲界餘天主。眾生多信有此天故。須菩提說言作禮。何以故。是菩薩捨自樂欲利益眾生。是三種天但自求樂故。 梵天王は、初禅中の梵世界の衆生の主なり。世界主とは、欲界の余の天の主なり。衆生は、多く此の天の有るを信ずるが故に、須菩提は、説いて、『礼を作す』、と言えり。何を以っての故に、是の菩薩は、自らの楽を捨てて、衆生を利益せんと欲するに、是の三種の天は、但だ自ら楽を求むるが故なり。
『梵天王』は、
『初禅』中の、
『梵世界の衆生』の、
『主であり!』、
『世界主』は、
『欲界』の、
『余の天(夜魔天、兜率陀天、化楽天、他化自在天)』の、
『主である!』。
『衆生』は、
多く、
此の、
『天が有る!』と、
『信じている!』が故に、
『須菩提は説いて!』、
『礼を作す!』と、
『言ったのである!』。
何故ならば、
是の、
『菩薩』は、
『自らの楽を捨てて!』、
『衆生』を、
『利益しようとする!』が、
是の、
『三種の天』は、
但だ、
『自らの楽』を、
『求めるからである!』。
佛語須菩提。非但是三種天作禮。光音天等清淨一心諸天皆亦作禮。欲界諸天著婬欲心多故禮不足為貴。初禪天有覺觀散亂亦不足為妙。上諸天心清淨以菩薩有大功德故作禮爾乃為難。 仏の須菩提に語りたまわく、『但だ是の三種の天のみ、礼を作すに非ず。光音天等の清浄の一心なる諸天も皆亦た礼を作す。欲界の諸天の婬欲に著する心多きが故に礼するは、貴しと為すに足らず。初禅天は、覚観の散乱すること有れば、亦た妙と為すに足らず。上の諸天の心は清浄なれば、菩薩に大功徳有るを以っての故に礼を作す。爾ることは乃ち難しと為すなり。
『仏』は、
『須菩提』に、こう語られた、――
但だ、
是の、
『三種の天だけ!』が、
『礼』を、
『作すのではない!』、
『光音天(第二禅の第三天)』等の、
『清浄一心』の、
『諸天(色界の第二禅天以上)』も、
皆、
『礼』を、
『作すのである!』。
『欲界の諸天』は、
『婬欲に著する心』が、
『多い!』が故に、
『礼したとしても!』、
『貴いとする!』には、
『不足である!』し、
『初禅天』は、
『覚観の散乱すること!』が、
『有る!』が故に、
亦た、
『妙とする!』には、
『不足である!』。
上の、
『諸天(第二禅天以上)』は、
『心が清浄であり!』、
『菩薩には大功徳が有る!』が故に、
『礼』を、
『作すので!』、
爾れが、
乃ち( really )、
『難しいのである!』。
須菩提。菩薩若能如是行般若。為十方無量諸佛所念。佛念因緣如先說。今佛說是菩薩諸佛念果報。所謂當知是菩薩為如佛。以其必至佛道不退故。所以者何。如恒河沙等魔。不能壞是菩薩。如經廣說
大智度論卷第七十八
須菩提、菩薩、若し能く是の如く般若波羅蜜を行ぜば、十方の無量の諸仏に念ぜらる。仏の念ずる因縁は、先に説けるが如し。今仏は、是の菩薩を諸仏の念の果報なりと説きたもう。謂わゆる当に知るべし、是の菩薩は仏の如しと為す。其の必ず仏道に至りて、退せざるを以っての故なり。所以は何んとなれば、恒河沙に等しきが如き魔すら、是の菩薩を壊る能わざること、経に広説するが如し。
大智度論巻第七十八
須菩提!
『菩薩』が、
若し、
是のように、
『般若波羅蜜』を、
『行うことができれば!』、
十方の、
『無量の諸仏』に、
『念じられることであろう!』。
『仏が念じられる!』、
『因縁』は、
『先に説いた通りである!』が、
今、
『仏』は、こう説かれた、――
是の、
『菩薩』は、
『諸仏の念の!』、
『果報である!』、と。
謂わゆる、
当然、こう知らねばならない、――
是の、
『菩薩』は、
『仏』と、
『同じである!』。
何故ならば、
其れは、
必ず、
『仏道を極めて!』、
『退かないからである!』。
何故ならば、
『恒河沙に等しいほど!』の、
『魔すら!』、
是の、
『菩薩』を、
『壊ることはできないからである!』、と。
即ち、
『経』に、
『広く説かれた通りである!』。

大智度論巻第七十八
  参考:『大品般若経巻21』:『以是故。須菩提。菩薩摩訶薩欲得阿耨多羅三藐三菩提。應學般若波羅蜜。是行般若波羅蜜菩薩為十方諸佛所念。須菩提白佛言。世尊。云何十方諸佛念是菩薩摩訶薩。佛告須菩提。菩薩摩訶薩行檀那波羅蜜時。十方諸佛皆念。行尸羅波羅蜜羼提波羅蜜毘梨耶波羅蜜禪那波羅蜜般若波羅蜜時。十方諸佛皆念。云何念。布施不可得。持戒忍辱精進禪定智慧不可得。乃至一切種智不可得。菩薩能如是不得諸法故。諸佛念是菩薩摩訶薩。復次須菩提。諸佛不以色故念。不以受想行識故念。乃至不以一切種智故念。』


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