【論】釋曰。須菩提問。菩薩欲成無上道者云何應行。佛答應起等心。於一切眾生無有偏黨。五眾和合假名眾生如車如林。 |
釈して曰く、須菩提の問わく、『菩薩は、無上道を成ぜんと欲せば、云何が応に行ずべき』、と。仏の答えたまわく、『応に等心を起すべし。一切の衆生に於いて、偏党する有ること無かれ。五衆の和合を衆生と仮名すれば、車の如く、林の如ければなり』、と。 |
釈す、
『須菩提』は、こう問うた、――
『無上道』を、
『成就しよう!』と、
『思えば!』、
何のように、
『行うべきですか?』、と。
『仏』は、こう答えられた、――
当然、
『等心』を、
『起さねばならぬ!』、
一切の、
『衆生』に於いて、
『偏党するような!』ことが、
『有ってはならぬ!』。
一切の、
『衆生』は、
『五衆の和合』を、
仮りに、
『衆生』と、
『呼ぶだけであり!』、
譬えば、
『車』や、
『林』等と、
『同じだからである!』、と。
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一切眾生者盡舉十方六道無有遺餘。一切眾生法各行三分。怨親中人。佛今教菩薩等心。一切眾生皆有親愛想莫生怨心。莫生中人心。 |
一切の衆生とは、尽く、十方の六道を挙げて、遺余有ること無し。一切の衆生法は、各三分を行じ、怨、親、中の人なり。仏は、今菩薩に等心を教えたまわく、『一切の衆生に、皆親愛想有れば、怨心を生ずる莫かれ。中人の心を生ずる莫れ』、と。 |
『一切の衆生』とは、――
尽く、
『十方、六道の衆生を挙げて!』、
『遺余する!』所が、
『無いことである!』。
『一切の衆生』の、
『法( truth )』は、
『衆生』の、
各の、
『行(思い!)』で、
『三分され!』、
謂わゆる、
『怨む人か!』、
『親しむ人か!』、
『中ぐらいの人である!』が、
今、
『仏』は、
『菩薩』に、
『等心』を、こう教えられた、――
『一切の衆生』は、
皆、
『親愛の想』を、
『有する!』が故に、
『怨む人』の、
『心』を、
『生じてはならず!』、
『中ぐらいの人』の、
『心』も、
『生じてはならない!』、と。
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復次眾生有二種愛及憎。佛言。於一切眾生離是二心莫生憎愛。愛者貪欲煩惱心不應行。當行慈愛心。世間法愛念妻子牛馬等。憎惡怨賊等。菩薩轉此世間法。但行慈愛心於一切眾生。 |
復た次ぎに、衆生に、二種有りて、愛及び憎なり。仏の言わく、『一切の衆生に於いて、是の二心を離れて、憎愛を生ずる莫れ。愛とは、貪欲の煩悩心なれば、応に行ずべからず。当に慈愛心を行ずべし。世間の法に、妻子、牛馬等を愛念して、怨賊等を憎悪するも、菩薩は、此の世間の法を転じて、但だ慈愛心を、一切の衆生に於いて行ぜよ。 |
復た次ぎに、
『衆生の心』には、
『二種有り!』、
『愛と!』、
『憎である!』が、
『仏』は、こう言われている、――
一切の、
『衆生』に於いて、
是の、
『愛、憎』の、
『二心』を、
『離れよ!』、
『心』に、
『愛、憎』を、
『生じてはならない!』、と。
『愛』は、
『貪欲』の、
『煩悩心ならば!』、
『行うべきでなく!』、
『慈愛』の、
『心ならば!』、
『行うべきである!』。
『世間』の、
『法( principal )では!』、
『妻子』や、
『牛馬』等を、
『愛念して!』、
『怨賊』等を、
『憎悪するのである!』が、
『菩薩』は、
此の、
但だ、
『慈愛心のみ!』を、
『一切の衆生』に於いて、
『行わねばならない!』。
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復次等心者菩薩生法喜。於一切眾生欲令皆至佛道。菩薩自捨憎愛心。亦捨眾生憎愛心加己。世間有三種人。惡大惡惡中惡。善大善善中善。 |
復た次ぎに、等心とは、菩薩は法喜を生じて、一切の衆生に於いて、皆、仏道に至らしめんと欲す。菩薩は、自ら憎愛の心を捨てて、亦た衆生の己に加うる憎愛の心を捨つ。世間には、三種の人有り、悪、大悪、悪中悪、善、大善、善中善なり。 |
復た次ぎに、
『等心』とは、――
『菩薩』が、
『法』に於いて、
『喜び!』を、
『生じ!』、
『一切の衆生』をして、
皆、
『仏道に至らせよう!』と、
『思う!』ことと、
『菩薩』が、
自ら、
亦た、
『衆生』が、
『己に加える憎、愛』を、
『捨てることである!』。
『世間』には、
『善、悪』に、
各、
『三種の人』が、
『有る!』が、
謂わゆる、
『悪』に於いては、
『悪』と、
『大悪』と、
『悪中の悪であり!』、
『善』に於いては、
『善』と、
『大善』と、
『善中の善である!』。
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惡者如人以惡事加己還報之以惡事。諸佛法於一切眾生平等心。不應起惡念。何況起身行口行。 |
悪とは、人の悪事を以って己に加うるに、還って之に報ずるに、悪事を以ってするが如し。諸仏の法は、一切の衆生に於いて、平等の心なれば、応に悪念を起すべからず。何に況んや、身行、口行を起すをや。 |
『悪』とは、――
例えば、
『人』が、
『悪事』を、
『己に加えれば!』、
還って、
『悪事』を、
『報じることである!』が、
『諸仏』の、
『法』は、
『一切の衆生』に於いて、
『心』が、
『平等である!』が故に、
当然、
『悪念』を、
『起すはずがなく!』、
況して、
『悪の身行、口行』を、
『起すはずがない!』。
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大惡者如無人侵己而以惡加人。惡中惡者如人以好心供給慈念而反以惡心毀害。如是等惡名惡中惡。 |
大悪とは、人の己を侵すこと無きに、而も悪を以って人に加うるが如し。悪中の悪とは、人の好心を以って、供給し、慈念するに、而も反って、悪心を以って毀害するが如し。是れ等の如き悪を悪中の悪と名づく。 |
『大悪』とは、――
例えば、
『人』が、
『己』を、
『侵さない!』のに、
『悪』を、
『人』に、
『加えることである!』。
『悪中の悪』とは、――
例えば、
『人』が、
『好心』で、
『供給し』、
『慈念している!』のに、
反って、
『悪心』で、
『毀害することであり!』、
是れ等のような、
『悪』を、
『悪中の悪』と、
『称するのである!』。
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善者如人以好事於己還以善報。大善者如人於己無善而以善事利益。善中善者如人以惡事害於己而以善事乃至身命供養。是名善中善。菩薩捨是三惡。過是二種善行。第六心於一切眾生。 |
善とは、人、己に好事を以ってすれば、還って善を以って報ゆるが如し。大善とは、人の己に於いて善無くとも、而も善事を以って、利益するが如し。善中の善とは、人の悪事を以って、己を害するに、而も善事を以って、乃至身命を供養するが如き、是れを善中の善と名づく。菩薩は、是の三悪を捨てて、是の二種の善を過ぎ、第六心を一切の衆生に於いて行ず。 |
『善』とは、――
例えば、
『人』が、
『己に!』、
『好事』を、
『用いた!』ならば、
『還って!』、
『善』を、
『報いることである!』。
『大善』とは、――
例えば、
『人』が、
『己に!』、
『善事』を、
『用いなくても!』、
『善事』を、
『報いて!』、
『利益することである!』。
『善中の善』とは、――
例えば、
『人』が、
『悪事』で、
『己を!』、
『害したとしても!』、
『善事を報いて!』、
『乃至身命すら!』、
『供養するようなことであり!』、
是れを、
『善中の善』と、
『称する!』。
『菩薩』は、
是の、
『三悪を捨てて!』、
是の、
『二種の善』を、
『過ぎ!』、
『一切の衆生』に於いて、
『第六の心』を、
『行わねばならない!』。
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問曰。是菩薩未得法身。云何能行是心。 |
問うて曰く、是の菩薩は、未だ法身を得ざるに、云何が、能く是の心を行ずる。 |
問い、
是の、
『菩薩』は、
何故、
是の、
『心』を、
『行うことができるのですか?』。
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答曰。是菩薩求無上道。應行無上法。受如是難為苦行乃成無上道。譬如估客於險道中備受諸苦乃得大利。 |
答えて曰く、是の菩薩は、無上道を求むれば、応に無上法を行じて、是の如き難を受くるを、苦行を為し、乃ち無上道を成ずればなり。譬えば估客、険道中に於いて、諸苦を受くるに備うれば、乃ち大利を得るが如し。 |
答え、
是の、
『菩薩』は、
『無上道を求めるならば!』、
当然、
是のような、
『難を受けて!』、
『苦行』を、
『為しながら!』、
やがて、
『無上道』を、
『成就するのである!』。
譬えば、
『估客』が、
『険道中に受ける!』、
『諸苦に備えれば!』、
やがて、
『大利』を、
『得るようなものである!』。
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復次是菩薩聞佛法正體。所謂畢竟空無我無我所。無一定實法。所見所聞所知皆是虛誑如幻如夢。深信是法故能以身命供養怨賊。 |
復た次ぎに、是の菩薩は、仏法の正体を聞けばなり。謂わゆる畢竟空、無我、無我所にして、一定実の法無く、所見、所聞、所知は皆、是れ虚誑にして、幻の如く、夢の如し、と。是の法を深信するが故に、能く身命を以って、怨賊に供養す。 |
復た次ぎに、
是の、
『菩薩』は、
『仏法』の、
『正体』を、
『聞いたからである!』。
謂わゆる、
『諸法』は、
『畢竟空、無我、無我所であり!』、
『一定実の法も無く!』、
『所見、所聞、所知』は、
皆、
『虚誑であり!』、
『夢、幻のようである!』、と。
是の、
『法を聞いて!』、
『深く!』、
『信じる!』が故に、
『身命』を、
『怨賊に!』、
『供養することができるのである!』。
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復次菩薩知此身從罪業煩惱顛倒因緣生所見所聞皆是虛誑罪垢之本。若有人來欲加害於我。我宜歡喜受之。以此弊身而得無上道利何為不與。 |
復た次ぎに、菩薩は、此の身は、罪業の煩悩、顛倒の因縁より生ずれば、所見、所聞は、皆是れ虚誑にして、罪垢の本なりと知れば、若し有る人来たりて、我れを加害せんと欲すれば、我れ宜しく歓喜して、是れを受けん。此の弊身を以って、無上道の利を得るに、何の為にか、与えざる。 |
復た次ぎに、
『菩薩』は、
此の、
『身』を、こう知るので、――
『罪業の煩悩』と、
『顛倒の因縁より!』、
『生じた!』が故に、
『所見、所聞』は、
皆、
『虚誑であり!』、
『罪垢の本である!』。
若し、
有る、
『人が来て!』、
わたしは、
宜しく( certainly )、
之を、
『歓喜して!』、
『受けるだろう!』。
此の、
『弊身を用いて!』、
『無上道』の、
『利』を、
『得られるというのに!』、
『与えずに!』、
何を、
『為そうというのか?』。
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復次菩薩發心深愛眾生。欲利益故。自以己身供養怨賊。欲令眾生效己所行。以有眾生說法教者不必肯受。故以身教令其信受。 |
復た次ぎに、菩薩、発心して、深く衆生を愛し、利益せんと欲するが故に、自ら己の身を以って、怨賊にすら供養し、衆生をして、己の所行を效(なら)わしめんと欲すればなり。有る衆生は、法を説いて教うるも、必ずしも肯て受けざるを以っての故に、身を以って教えて、其れをして、信受せしむ。 |
復た次ぎに、
『菩薩』は、
『発心して!』、
深く、
『衆生を愛し!』、
『利益したい!』と、
『思う!』が故に、
自ら、
『己の身』を、
『怨賊』に、
『供養して!』、
『衆生』が、
『己の所行』を、
『見習うようにさせたい!』と、
『思うからである!』。
或は、
有る、
『衆生』は、
『法』を、
『説いて!』、
『教えても!』、
必ずしも、
『喜んで!』、
『受けるのではない!』が故に、
『身を以って教えて!』、
其れに、
『信受させるのである!』。
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復次多有人發言求無上道而身行不稱。亦以是故菩薩以身教之。令堅心行此難事。欲求無上道當行善中善法。為此難事爾乃可得。如是等無量因緣自以身命供養怨賊。 |
復た次ぎに、多く、人の言を発して、無上道を求むるも、而も身行の称(かな)わざる有れば、亦た是を以っての故に、菩薩は、身を以って之を教え、心を堅めて、此の難事を行ぜしむ。無上道を求めんと欲すれば、当に善中の善法を行ずべし。此の難事を為せば、爾して乃ち得べし。是れ等の如き無量の因縁もて、自ら身命を以って怨賊を供養す。 |
復た次ぎに、
『多くの人』が、――
『無上道を求める!』と、
『言』を、
『発しながらも!』、
『身』の、
『行』が、
『称わない( unmatch )!』ので、
是の故に、
『菩薩』は、
『身』を、
『用いて!』、
『教えて!』、
之の、
『心を堅固にし!』、
此の、
『難事』を、
『行わせるのである!』。
『無上道』を、
『求めようとすれば!』、
当然、
『善中の善』の、
『法』を、
『行わねばならず!』、
此の、
『難事を為して!』、
ようやく、
『無上道』を、
『得られるのであり!』、
是れ等のような、
『無量の因縁』の故に、
自ら、
『身命を用いて!』、
『怨賊』を、
『供養するのである!』。
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問曰。等心慈心有何等異。 |
問うて曰く、等心と慈心とに、何等の異か有る。 |
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答曰。等心者是四無量心。慈心者是一無量。有人言初捨怨親是等心。後加愍念是慈心。 |
答えて曰く、等心とは、是れ四無量心なり。慈心とは、是れ一無量なり。有る人の言わく、『初めて怨、親を捨つる、是れ等心なり。後に愍念を加う、是れ慈心なり』、と。 |
答え、
『等心』とは、
『無量』の、
『慈、悲、喜、捨』の、
『心であり!』、
謂わゆる、
『四無量心である!』が、
『慈心』は、
有る人は、こう言っている、――
初めて、
『怨、親』の、
『心』を、
『捨てれば!』、
是れが、
『等心であり!』、
後に、
『慈愍( compassion )』の、
『念』を、
『加えれば!』、
是れが、
『慈心である!』、と。
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復次有人言等心者觀眾生如如實際法性。是法皆無為無量故。等愛念眾生是名慈心。 |
復た次ぎに、有る人の言わく、『衆生の如如、実際、法性を観るに、是の法は、皆無為にして、無量なるが故に、等しく、衆生を愛念すれば、是れを慈心と名づく。 |
復た次ぎに、
有る人は、こう言っている、――
『等心』とは、
『衆生』の、
『如如(如)、実際、法性』を、
『観察することである!』が、
是の、
『法』は、
皆、
『無為であり!』、
『無量である!』が故に、
『等しく!』、
『衆生』を、
『愛念することになる!』ので、
是れを、
『慈心』と、
『称する!』。
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所以不說悲心者悲心或憂念眾生。積集此心心則退沒。或有眾生不受菩薩悲念言。汝何以不自憂其身而念他人。慈心無如是事。易攝眾生故但說慈心。 |
悲心を説かざる所以は、悲心は或は衆生を憂念して、此の心を積集すれば、心は則ち退没すればなり。或は有る衆生は、菩薩の悲念を受けずして言わく、『汝は、何を以ってか、自ら其の身を憂えずして、他人を念ずる』、と。慈心には、是の如き事無く、衆生を摂し易きが故に、但だ慈心を説くなり』、と。 |
『悲心を説かない!』、
『理由』は、――
『悲心』は、
或は、
『衆生』を、
『憂いて!』、
『念じる!』ので、
此の、
『心が積集すれば!』、
則ち、
『心』が、
『退没するからである!』。
或は、
有る、
『衆生』は、
『菩薩』の、
『慈悲の念』を、
『受けず!』に、
こう言う、――
お前は、
何故、
自らの、
『身』を、
『憂えず!』に、
他の、
『人』を、
『念じるのか?』、と。
『慈心』には、
是のような、
『事が無い!』ので、
『衆生』を、
『摂受する( accept )!』ことが、
『容易である!』が故に、
但だ、
『慈心のみ!』を、
『説くのである!』、と。
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問曰。若眾生有三種上中下。菩薩福德智慧積集故應是大人。云何言於一切眾生中起下意。 |
問うて曰く、若し衆生に、三種の上、中、下有らば、菩薩は、福徳、智慧積集するが故に、応に是れ大人なるべし。云何が、『一切の衆生中に於いて、下意を起す』、と言う。 |
問い、
若し、
『衆生』に、
『上、中、下の三種』が、
『有るとすれば!』、
『菩薩』は、
『福徳、智慧が積集する!』が故に、
『大人でなくてはならない!』。
何故、こう言うのですか?――
『菩薩』は、
『一切の衆生』中に於いて、
『下意(謙譲の意)』を、
『起す!』、と。
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答曰。菩薩作是念。一切法無常一切眾生上中下皆歸磨滅。是中何者是大何者是小。人以世法故有大小。 |
答えて曰く、菩薩の是の念を作さく、『一切の法は、無常なれば、一切の衆生は上、中、下皆、磨滅に帰す。是の中に何者か是れ大なる、何者か是れ小なる。人には、世法を以っての故に大、小有るのみ』、と。 |
答え、
『菩薩』は、
是の念を作すのである、――
一切の、
『法』は、
『無常であり!』、
一切の、
『衆生』は、
『上も、中も、下も!』、
皆が、
『磨滅』に、
『帰すのである!』。
是の中の、
何者が、
『大なのか?』、
何者が、
『小なのか?』。
『人』は、
『世法』の故に、
『大、小』が、
『有るのだ!』、と。
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復次大小不定。此國以為大餘國以為小。於此為大於彼為小。如今世卑賤後世為天王。如是業因緣在世間輪轉。貴賤大小無定。如水火貴賤隨時用捨無定。 |
復た次ぎに、大、小は定まらざればなり。此の国を、大と為すを以っての故に、余の国を以って小と為し、此に於いて大と為し、彼に於いて小と為す。今世に卑賎なるも、後世に天王と為るが如く、是の如く、業の因縁もて、世間に在りて輪転すれば、貴、賎、大、小に定まり無きこと、水、火の貴、賎は時に随いて、用、捨して定まり無きが如し。 |
復た次ぎに、
『大、小』は、
『定まらないからである!』。
譬えば、
『此の国』を、
『大だ!』と、
『思う!』が故に、
『余の国』を、
『小だ!』と、
『思うのであり!』、
『此れ』を、
『大だ!』と、
『思う!』が故に、
『彼れ』を、
『小だ!』と、
『思うのである!』。
譬えば、
『今世』には、
『卑賎であっても!』、
『後世』には、
『天王』に、
『為るように!』、
是のように、
『業の因縁』の故に、
『世間』に、
『在りながら!』、
『輪転する!』ので、
『貴、賎』も、
『大、小』も、
『定まる!』ことが、
『無いのであり!』、
譬えば、
『水、火』が、
『貴ばれたり!』、
『賎しまれる!』のは、
『時に随って!』、
『用いられたり!』、
『捨てられられたりするように!』、
『貴、賎』や、
『大、小』には、
『定まり!』が、
『無いからである!』。
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復次菩薩雖有功德知是功德畢竟空。如幻如夢不著此功德。不有是大小。 |
復た次ぎに、菩薩は、功徳有ると雖も、是の功徳の畢竟空なること、幻の如く、夢の如しと知り、此の功徳に著せざれば、是の大、小有らず。 |
復た次ぎに、
『菩薩』は、
『功徳が有っても!』、
是の、
『功徳』は、
『畢竟空であり!』、
譬えば、
『夢、幻のようである!』と、
『知り!』、
是の、
『功徳』に、
『著さない!』が故に、
是れには、
『大、小』が、
『無いのである!』。
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復次一切眾生中有佛道因緣者。唯佛能知。菩薩作是念若我以眾生形貌才能。以此事輕者則為輕未來佛。若輕佛則為永了。 |
復た次ぎに、一切の衆生中に、仏道の因縁有る者は、唯だ仏のみ、能く知りたまえば、菩薩は、是の念を作さく、『若し我れ、衆生の形貌、才能を以って、此の事を以って軽んぜば、則ち未来の仏を軽んずと為す。若し仏を軽んぜば、則ち永く了れりと為す』、と。 |
復た次ぎに、
一切の、
『衆生』中に、
『仏道』の、
『因縁』が、
『有るかどうか?』は、
唯だ、
『仏のみ!』が、
『知っていられる!』ので、
『菩薩』は、
是の念を作すのである、――
若し、
わたしが、
『衆生』の、
『形貌や、才能』を、
『用いて!』、
是の、
『事』の故に、
『衆生』を、
『軽んじれば!』、
則ち、
『未来の仏』を、
『軽んじたことになる!』。
若し、
『仏を軽んじれば!』、
則ち、
『永久に!』、
『了ったことになろう!』、と。
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復次菩薩作是念。我誓度一切眾生。若眾生無所得。我則孤負眾生。譬如主人請客則應敬客而自卑。若無所供設是則負愧於客。 |
復た次ぎに、菩薩の是の念を作さく、『我れは、一切の衆生を度せんと誓えり。若し、衆生に所得無くんば、我れは則ち衆生を孤負せり。譬えば主人、客を請えば、則ち応に客を敬いて、自ら卑しむべし。若し供設する所無くんば、是れ則ち客に於いて、負愧せん。 |
復た次ぎに、
『菩薩』は、是の念を作すだろう、――
わたしは、
一切の、
『衆生を度そう!』と、
『誓った!』のに、
若し、
『衆生』に、
『所得(利得)』が、
『無ければ!』、
わたしは、
『衆生』を、
『裏切ることになる!』。
譬えば、
『主人』が、
『客』を、
『招待すれば!』、
『客を敬って!』、
『自ら!』を、
『卑下せねばならぬようなものだ!』。
若し、
何も、
『提供できなければ!』、
則ち、
『客』を、
『裏切って!』、
『恥じねばならない!』、と。
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孤負(こふ):人の好意に背く/裏切る( let somebody down )。
供設(くせつ):供応施設/完全に供応する。 設は成し遂げる( carry out )の義。
負愧(ふき):裏切って恥じる。 |
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復次以自大心故則喜生瞋恚。憍慢是瞋之本。瞋是一切重罪之根。若菩薩於眾生起下心。眾生若罵若打則無恚恨。譬如大家打奴奴不敢瞋恨。 |
復た次ぎに、自大の心を以っての故に、喜んで瞋恚を生ず。憍慢は、是れ瞋の本なり。瞋は、是れ一切の重罪の根なり。若し菩薩、衆生に於いて下心を起さば、衆生、若しは罵り、若しは打たんとも、則ち恚恨無けん。譬えば大家、奴を打つに、奴は敢て瞋恨せざるが如し。 |
復た次ぎに、
『自大の心』の故に、
『喜んで!』、
『瞋恚』を、
『生じるのである!』が、
『憍慢』は、
『瞋恚』の、
『本であり!』、
『瞋恚』は、
『一切の重罪』の、
『根である!』。
若し、
『菩薩』が、
『衆生』に、
『下意』を、
『起せば!』、
『衆生』が、
『罵ろうが!』、
『打とうが!』、
則ち、
『恚恨』は、
『無いはずである!』。
譬えば、
『大家』が、
『奴僕』を、
『打ったとしても!』、
『奴僕』は、
『瞋恨』を、
『敢てしないようなものである!』。
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若菩薩自高意下眾生者。眾生侵害忿然生怒。如奴打大家則起瞋怒。下意有如是等種種利益。故菩薩應當行 |
若し、菩薩、自高して、意に衆生を下(ひく)くすれば、衆生は侵害し、忿然として、怒を生ぜん。奴、大家を打てば、則ち瞋怒を起すが如し。下意には、是れ等の如き、種種の利益有るが故に、菩薩は、応当に行ずべし。 |
若し、
『菩薩』が、
『自高して!』、
『意』に、
『衆生』を、
『下(さげす)めば!』、
『衆生』は、
『侵害し!』、
『忿然として!』、
『怒』を、
『生じるだろう!』。
譬えば、
『奴』が、
『大家』を、
『打てば!』、
則ち、
『瞋怒』を、
『引き起こすようなものである!』。
『下意』には、
是れ等のような、
種種の、
『利益』が、
『有る!』が故に、
当然、
『菩薩』は、
『行わねばならない!』。
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安隱心者。與今世後世究竟樂。非如父母知識與現世樂。 |
安隠なる心は、今世、後世の究竟の楽を与う。父母、知識の現世の楽を与うるが如きに非ず。 |
『安隠な心』は、
『今世』と、
『後世』に、
『究竟の楽』を、
『与える!』ので、
例えば、
『父母、知識の与える!』、
『現世の楽』と、
『同じではない!』。
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菩薩若以等心慈心下心利益眾生時。若有不知恩人來惱菩薩。不信所行謂為欺誑為求名故無有實事。又為魔所使來惱菩薩。惡中之惡不識恩分。菩薩等心於此通達無礙。 |
菩薩は、若しは等心、慈心、下心を以って、衆生を利益する時、若しは有る恩を知らざる人来たりて、菩薩を悩まし、所行を信ぜずして、謂いて欺誑と為し、名を求むるが故に実事有ること無しと為す。又、魔の使う所と為りて、来たりて菩薩を悩ます。悪中の悪は、恩分を識らざるも、菩薩の等心は、此に於いて通達無礙なり。 |
『菩薩』が、
『等心』や、
『慈心』や、
『下心』を、
若しは、
有る、
『恩を知らない!』、
『人が来て!』、
『菩薩』を、
『悩まし!』、
『菩薩』の、
『所行』を、
『信じずに!』、
こう謂うだろう、――
『人』を、
『欺誑する!』為に、
『行うのだ!』、
『名』を、
『求める!』為に、
『行うだけで!』、
『実の事』は、
『無いのだ!』、と。
又、
『魔に使われた!』、
『人が来て!』、
『菩薩』を、
『悩ますだろう!』。
『悪中の悪』は、
『菩薩』の、
『恩分』を、
『認識しないものである!』が、
『菩薩の等心』は、
此の、
『悪中の悪』に於いても、
『通達、無礙である!』。
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得是無礙心已眾生雖有大罪大過。但欲利益不生惱心。慈心安隱無礙不惱心。譬如孝子愛敬父母。如兄如弟如姊妹。如兒女無婬欲心而生愛敬慈念。 |
是の無礙心を得已れば、衆生に大罪、大過有りと雖も、但だ利益せんと欲して、悩心を生ぜず。慈心は、安隠、無礙にして、悩さざる心なり。譬えば孝子の父母を愛敬するが如く、兄の如く、弟の如く、姉妹の如く、児女の如く、婬欲無き心にして、愛敬、慈念を生ず。 |
『菩薩』が、
是の、
『無礙の心を得れば!』、
『衆生』に、
『大罪、大過』が、
『有っても!』、
但だ、
『利益しよう!』と、
『思うだけで!』、
『悩ます!』、
『心』を、
『生じない!』。
『慈心』は、
『安隠であり!』、
『無礙であり!』、
『衆生』を、
『悩まさない!』、
『心である!』。
譬えば、
『孝子』が、
『父母を愛敬する!』のと、
『同じであり!』、
『兄弟、姉妹、児女のように!』、
『婬欲の無い!』、
『心であり!』、
而も、
『愛敬、慈念を生じる!』、
『心である!』。
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世人但能愛敬所親。菩薩普及一切。得是柔軟清淨好心名眾生忍。是法忍初門。 |
世人は、但だ能く親しむ所を愛敬するも、菩薩は、普く一切に及ぶ。是の柔軟、清浄なる好心を得るを、衆生忍と名づけ、是れ法忍の初門なり。 |
『世間の人』は、
但だ、
『親しむ!』所を、
『愛敬するだけである!』が、
『菩薩』は、
普く、
『一切の衆生』に、
『及ぶのであり!』、
是の、
『柔軟、清浄な!』、
『好心』を、
『得る!』が故に、
是れを、
『衆生忍』と、
『称し!』、
是れは、
『法忍』の、
『初門なのである!』。
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次行十善道。十善道有佛無佛世間常有是善法教。 |
次に十善道を行ず。十善道は有仏、無仏の世間には常に、是の善法の教有り。 |
次に、
『菩薩』は、
『十善道』を、
『行うのである!』が、
『十善道』は、
『仏』が、
『有ろうと!』、
『無かろうと!』、
『世間』には、
常に、
是の、
『善法の教(能教+所教)』が、
『有る!』。
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菩薩先以四十種行行是十善道。何以故。是菩薩深念善法心慈眾生故。 |
菩薩は、先に四十種の行を以って、是の十善道を行ず。何を以っての故に、是の菩薩は深く善法を念じて、心に衆生を慈しむが故なり。 |
『菩薩』は、
先に、
『四十種の行( 十善×自行、教他行、讃歎善法、讃歎行善人)』で、
是の、
『十善道』を、
『行ったのである!』。
何故ならば、
是の、
『菩薩』は、
『善法』を、
『深く!』、
『念じており!』、
『心』が、
『衆生』を、
『慈しむからである!』。
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離欲凡夫法有十二事。亦以四十八種行 |
離欲の凡夫法には、十二事有り、亦た四十八種の行を以ってす。 |
『離欲の凡夫法』には、
『十二事(四禅、四無量心、四無色定)』が、
『有り!』、
亦た、
『四十八種の行(十二事×自行、教他行、讃歎善法、讃歎行善人)』を、
『用いる!』。
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六波羅蜜乃至法住。是客法。有佛說則有菩薩行。 |
六波羅蜜、乃至法住は、是れ客法なり。仏有りて説きたまえば、則ち菩薩の行ずる有り。 |
『六波羅蜜、乃至法住』は、
『客( added )法であり!』、
若し、
有る、
『仏』が、
『説かれれば!』、
有る、
『菩薩』が、
『行うことになる!』。
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上來舊法客法本末具足。今世得善法智慧無礙。捨身得法身無礙。隨意至十方教化眾生。於十方佛前修集善法。 |
上来の旧法、客法の本、末具足すれば、今世には善法の智慧の無礙なるを得、身を捨つれば、法身の無礙なるを得て、随意に十方に至りて、衆生を教化し、十方の仏前に於いて、善法を修集す。 |
上来の、
『旧法( 十善道)』と、
『客法( 六波羅蜜、乃至法住)』とが、
『本より!』、
『末まで!』、
『具足すれば!』、
『今世には!』、
『無礙の智慧という!』、
『善法』を、
『得られ!』、
『身を捨てれば!』、
『無礙』の、
『法身』を、
『得て!』、
『意のままに!』、
『十方に至って!』、
『衆生』を、
『教化し!』、
『十方の仏前』に於いて、
『善法』を、
『修集することになる!』。
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聞是法時二千菩薩得無生法忍者。是品說如微妙深法。亦說有行善門智門二行具足。但說如法所利少。若說有法所利亦少。今說有無二法具足故得無生法忍。 |
是の法を聞く時、二千の菩薩は、無生法忍を得たりとは、是の品には、如の微妙なる深法を説き、亦た善門、智門を行ずる有りて、二行の具足を説くも、但だ『如法の利する所は、少なし』、と説き、若しは、『有法の利する所も亦た少なし』、と説く。今は、『有、無の二法具足するが故に、無生法忍を得』、と説く。 |
是の、
『法を聞く!』時、
『二千菩薩』が、
『無生法忍』と、
『得た!』とは、――
是の、
『品』中には、こう説かれており、――
亦た、こう説かれているが、――
『善門、智門を行って!』、
『二行が具足する!』者が、
『有る!』、と。
但だ、
『如法の利する!』所』は、
『少ない!』と、
『説き!』、
若しくは、
『有法の利する!』所も、
『少ない!』と、
『説いたのであり!』、
今は、こう説くのである、――
『有、無の二法を具足する!』が故に、
『無生法忍』を、
『得るのである!』、と。
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譬如二輪具足故能有所至。此中善說二諦故二千菩薩得無生法忍
大智度論卷第七十二 |
譬えば二輪具足するが故に、能く至る所有るが如く、此の中には、善く二諦を説けるが故に、二千の菩薩は無生法忍を得るなり。
大智度論巻第七十二 |
譬えば、
『車』は、
『二輪が具足する!』が故に、
『到達できる!』所が、
『有るように!』、
此の中には、
『善く!』、
『二諦を説いた!』が故に、
『二千の菩薩』が、
『無生法忍を得たのである!』。
大智度論巻第七十二 |
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