【論】釋曰。佛悉知一切眾生所作所行六十二邪見等諸邪見九十八結使等諸煩惱。是故說佛知眾生心心數法出沒屈伸。 |
釈して曰く、仏は悉く、一切の衆生の作す所、行ずる所の六十二邪見等の諸の邪見と、九十八結使等の諸の煩悩を知りたまえば、是の故に説きたまわく、『仏は、衆生の心心数法の出、没、屈、伸を知る』、と。 |
釈す、
『仏』は、
悉く、
一切の、
『衆生』の、
『作す所であり!』、
『行う所である!』、
『六十二邪見』等の、
『九十八結使』等の、
是の故に、こう説かれた、――
『仏』は、
『衆生の心、心数法』の、
『出、没、屈、伸』を、
『知っている!』、と。
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在家者為愛等諸煩惱所沒名為沒。九十六種邪見。出家者名出。 |
在家の者は、愛等の煩悩の没する所と為れば、名づけて没と為し、九十六種の邪見の出家の者を出と名づく。 |
『在家の者』は、
『愛』等の、
諸の、
『煩悩』に、
『没される!』ので、
是れを、
『没』と、
『称し!』、
『出家の者』は、
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復次常著世樂故名為沒或知無常怖畏求道故名出。 |
復た次ぎに、常に世楽に著するが故に名づけて、没と為し、或は無常を知りて怖畏し、道を求むるが故に、出と名づく。 |
復た次ぎに、
常に、
『世間』の、
『楽』を、
『求める!』が故に、
是れを、
『没』と、
『称し!』、
或は、
『無常』を、
『知って!』、
『怖畏し!』、
『道を求める!』が故に、
『出』と、
『称する!』。
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復次受九十六種道法。不能得正道故還沒在世間。 |
復た次ぎに、九十六種の道法を受くるも、正道を得る能わざるが故に、亦た没して世間に在ればなり。 |
復た次ぎに、
『出家して!』、
『九十六種』の、
『道法を受ける!』ので、
是れを、
『出』と、
『称し!』、
『出家しても!』、
『正道を得られず!』、
還って、
『世間に没する!』ので、
是れを、
『没』と、
『称する!』。
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屈者不離欲界。伸者離欲界色界。離不離亦如是。如人立清池上見魚。或有常在水中。或有暫出還沒。或有出觀四方。或有出欲渡者近岸還沒。 |
屈とは、欲界を離れず、伸とは、欲界を離る。色界の離と不離も亦た是の如し。人の清池の上に立ちて、魚を見るが如し。或は常に水中に在る有り、或は暫く出でて還って没する有り、或は出でて四方を観る有り、或は出でて渡らんと欲する者の岸に近づきて、還って没する有り。 |
『屈』とは、
『欲界』を、
『離れないことであり!』、
『伸』とは、
『欲界』を、
『離れることである!』。
亦た、
『色界』も、
『是の通りである!』。
譬えば、
『人』が、
『清池の上に立って!』、
『魚』を、
『見ている!』と、
或は、
或は、
有る者は、
『暫く!』、
『水中より!』、
『出て!』、
『還た!』、
『水中に!』、
『没し!』、
或は、
有る者は、
『水中より出て!』、
『四方』を、
『観察しており!』、
或は、
有る者は、
『水中より出て!』、
『岸に!』、
『渡ろうとする!』が、
『岸に近づく!』と、
『還た!』、
『没する!』。
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佛亦如是。以佛眼觀十方六道眾生。有常著五欲諸煩惱覆心不求出者。或有好心能布施能持戒而以邪疑覆心故還沒。有人出五欲能得煖法頂法等。觀四諦未得實法故還沒。有人離五欲乃至無所有處。不得涅槃故還沒。 |
仏も亦た是の如く、仏眼を以って、十方の六道の衆生を観たもうに、常に五欲に著して、諸の煩悩に心を覆わるるも、出づるを求めざる者有り、或は好心にして、能く布施し、能く持戒するも、邪疑に心を覆わるるを以っての故に、還た没する有り、有る人は、五欲を出でて、煖法、頂法等を得て、四諦を観るも、未だ実法を得ざるが故に、還た没し、有る人は、五欲、乃至無所有処を離るるも、涅槃を得ざるが故に亦た没す。 |
『仏』も、
是のように、
『仏眼』で、
『十方』の、
『六道の衆生』を、
『観察される!』と、
或は、
有る者は、
常に、
『五欲に著して!』、
諸の、
『煩悩』に、
『心』を、
『覆われている!』のに、
『世間』を、
『出よう!』とは、
『求めない!』。
或は、
有る者は、
『好心』で、
『布施することもでき!』、
『持戒することもできる!』が、
『邪疑』に、
『心』を、
『覆われている!』が故に、
還た、
『世間』に、
『没している!』。
或は、
有る人は、
『五欲を出て!』、
『四諦を観ながら!』、
未だ、
『実法』を、
『得ない!』が故に、
還た、
『世間』に、
『没している!』。
或は、
有る人は、
『五欲、乃至無所有処』を、
『離れていながら!』、
『涅槃』を、
『得ていない!』が故に、
亦た、
『世間』に、
『没している!』。
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何等是出沒屈伸相。此中佛說所謂神及世間常。 |
何等か、是れ出、没、屈、伸の相なる。此の中に仏の説きたまわく、謂わゆる『神、及び世間の常なり』、と。 |
是の、
『出、没、屈、伸』の、
『相』とは、
何のようなものか?
此の中に、
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神者。凡夫人憶想分別隨我心取相故計有神。 |
神とは、凡夫人は、憶想、分別し、我心に随いて、相を取るが故に、神有るを計す。 |
『神( 霊魂/精神)』とは、
『凡夫人』は、
『憶想、分別し!』、
『我心に随って!』、
『相』を、
『取る!』が故に、
即ち、
『神が有る!』と、
『思い込むのである!』。
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計(け):梵語 pratii の訳、受入れる/容認する( to receive, accept )、容認する/認める/確信する/思い込む( to admit, recognize, be certain of, be convinced that )の義。『大智度論巻19上注:計』参照。 |
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外道說神有二種。一者常二者無常。若計神常者常修福德後受果報故。或由行道故。神得解脫。若謂神無常者為今世名利故有所作。 |
外道の説ける神には、二種有り、一には常、二には無常なり。若し神は常なりと計すれば、常に福徳を修めて、後に果報を受くるが故なり。或は道を行ずるに由りて、神は解脱を得ん。若し神は無常なりと謂えば、今世の名利の為の故に、作す所有り。 |
『外道の説く!』、
『神』には、
『二種有り!』、
一には、
『常』の、
『神であり!』、
二には、
『無常』の、
『神である!』。
若し、
若し、
『神』は、
『無常である!』と、
『謂えば!』、――
『今世』の、
『名利の為だけ!』の故に、
『作す!』所が、
『有るはずである!』。
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常無常者。有人謂神。有二種。一者細微常住。二者現有所作。現有所作者。身死時無常。細神是常。 |
常にして無常なりとは、有る人の謂わく、『神に二種有り、一には細微にして常住なり、二には現に所作有り。現に所作有る者は、身死する時には無常なるも、細なる神は是れ常なり』、と。 |
『常でもあり!』、
『無常でもある!』とは、
有る人は、こう謂う、――
『神』には、
『二種有り!』、
一には、
『微細である!』が、
『常住する者であり!』、
二には、
『所作(身、口、意業)』を、
『現に有する者である!』。
『所作を現に有する!』者は、
『身が死ぬ!』時には、
『共に滅して!』、
『無常である!』が、
『微細の神』は、
『身が死ぬ!』時にも、
『共に滅することなく!』、
『常である!』。
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所作(しょさ):梵語 kriyaa の訳、作用;活動/振舞い/行動/行為/動き( Activity ; behavior, deed, function, action )の義。『大智度論巻16上注:所作』参照。 |
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有人言神非常非無常。常無常中俱有過。若神無常即無罪福。若常亦無罪福。何以故若常則苦樂不異。譬如虛空雨不能濕風日不能乾。若無常則苦樂變異。譬如風雨在牛皮中則爛壞。以我心故說必有神。但非常非無常。 |
有る人の言わく、『神は常に非ず、無常に非ず。常、無常中には倶に過有り。若し神にして、無常なれば、即ち罪福無し。若し常なれば、亦た罪福無し。何を以っての故に、若し常なれば、則ち苦楽を異にせざればなり。譬えば虚空の雨も湿す能わず、風、日も乾かす能わざるが如し。若し無常なれば、則ち苦楽変異す。譬えば風雨、牛皮中に在れば、則ち爛壊するが如し。我心を以っての故に、必ず神有りと説けば、但だ常に非ず、無常に非ざるのみ』、と。 |
有る人は、こう言う、――
『神』は、
『常でもなく!』、
『無常でもない!』、
『常』でも、
『無常』でも、
『倶に!』、
『過が有る!』。
若し、
『神』が、
『無常ならば!』、
即ち、
『罪、福』が、
『無いことになり!』、
若し、
『神』が、
『常であっても!』、
亦た、
『罪、福』が、
『無いからである!』。
何故ならば、
若し、
『神』が、
『常ならば!』、
則ち、
『神の苦、楽』が、
『異なることはない!』。
譬えば、
『虚空』が、
『雨』にも、
『湿されず!』、
『風、日』にも、
『乾かされない!』のと、
『同じである!』。
若し、
『神』が、
『無常ならば!』、
則ち、
『苦、楽』が、
『変異(変化)することになる!』。
譬えば、
『風、雨』が、、
『牛皮中に有れば!』、
則ち、
『爛壊させる!』のと、
『同じである!』。
是の故に、
若し、
『神』は、
是の、
『神』は、
『常でもなく!』、
『無常でもない!』、
但だ、
『有得ない!』、
『神』が、
『有るだけである!』、と。
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佛言四種邪見皆緣五眾。但於五眾謬計為神。 |
仏の言わく、『四種の邪見は、皆五衆を縁じて、但だ五衆を謬計して神と為すのみ』、と。 |
『仏』は、
こう言われた、――
『四種の邪見( 神の有、無、有無、非有非無)』は、
皆、
但だ、
『五衆』を、
『誤解して!』、
『認識し!』、
之を、
『神だ!』と、
『思うのだ!』、と。
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神及世間者。世間有三種。一者五眾世間。二者眾生世間。三者國土世間。此中說二種世間。五眾世間國土世間。眾生世間即是神。 |
神、及び世間とは、世間には三種有り、一には五衆の世間、二には衆生の世間、三には国土の世間なり。此の中には、二種の世間を説き、五衆の世間、国土の世間なり。衆生の世間は、即ち是れ神なり。 |
『神』と、
『世間』とは、
『世間』には、
『三種有り!』、
一には、
『五衆の世間( paJca-skandha- dhaatu )』、
二には、
『衆生の世間( sattva- dhaatu )』、
三には、
『国土の世間( kSetra?- dhaatu )である!』が、
此の中の、
『五衆の世間、国土の世間の二種の世間』を、
『世間』と、
『説き!』、
『衆生の世間』は、
即ち、
『神なのである!』。
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於世間相中亦有四種邪見。 |
世間の相中に於いて、亦た四種の邪見有り。 |
『神のように!』、
『世間の相』中にも、
『四種の邪見』が、
『有る!』。
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問曰。神從本已來無故應錯。世間是有云何同神邪見。 |
問うて曰く、神は本より已来無きが故に、応に錯なるべし。世間は、是れ有り、云何が神と同じく邪見なる。 |
問い、
『神』は、
『本より!』、
『常に!』、
『無い!』ので、
故に、
『錯謬でなくてはならない!』が、
『世間』は、
『有るのに!』、
何故、
『神』と、
『同じように!』、
『邪見なのですか?』。
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答曰。但破於世間起常無常相不破世間。譬如無目人得蛇以為瓔珞有目人語是蛇非是瓔珞。 |
答えて曰く、但だ世間に於いて常無常の相を起すを破り、世間を破らず。譬えば無目の人、蛇を得て以って瓔珞と為すに、有目の人の是れ蛇にして、是れ瓔珞に非ずと語るが如し。 |
答え、
但だ、
『世間』に於いて、
『常無常の相を起す!』のを、
『破るだけであり!』、
『世間』を、
『破るのではない!』。
譬えば、
『無目の人』が、
『蛇』を、
『瓔珞だ!』と、
『思っている!』ので、
『有目の人』が、
是れは、
『蛇であり、瓔珞ではない!』と、
『語るだけで!』、
是の、
『蛇』を、
『殺さないようなものである!』。
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佛破世間常顛倒不破世間。何以故現見無常故亦不得言無無常。罪福不失故因過去事有所作故。常無常二俱有過故非常非無常。著世間過故。 |
仏は、世間の顛倒を破るも、世間を破らず。何を以っての故に、現に無常を見るが故に、亦た無常無しと言うを得ず、罪福の失われざるが故に、過去の事に因りて、所作有るが故に、常、無常の二は倶に過有るが故に、非常非無常は、世間の過に著するが故なり。 |
『仏』は、
『世間』の、
『常顛倒』を、
『破られた!』が、
『世間』を、
『破られたのではない!』。
何故ならば、
現に、
『世間』に於いて、
『無常』を、
『見る!』が故に、
亦た、
『無常が無い!』とは、
『言えないからである!』。
而し、
『罪、福が失われず!』、
『過去の事に因って!』、
『作す!』所が、
『有る!』ので、
故に、
『無常は無い!』と、
『言うこともできない!』。
即ち、
『常、無常の二』には、
『非常、非無常だとすれば!』、
『世間』の、
『過』に、
『著することになり!』、
故に、
『過』が、
『有る!』。
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世間有邊者。有人求世間根本不得其始。不得其始則無中無後。若無初中後則無世間。是故世間應有始始即是邊。 |
世間は有辺なりとは、有る人は、世間の根本を求むるも、其の始を得ず。其の始を得ざれば、則ち中無く、後無し。若し初、中、後無ければ、則ち世間無し。是の故に世間は、応に始有るべし。始は即ち是れ辺なり。 |
『世間』は、
『有辺である!』とは、――
有る人は、
『世間』の、
『根本』を、
『求めた!』が、
其の、
『始(始端)』が、
『得られない!』。
『世間』の、
『始』を、
『得られなければ!』、
則ち、
『世間』には、
『中、後』が、
『無いことになる!』。
若し
『世間』に、
『初、中、後』が、
『無ければ!』、
則ち、
『世間』は、
『無いことになる!』。
是の故に、
『世間』には、
当然、
『始』が
『有るはずである!』が、
是の、
『始』が、
『辺なのである!』。
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得禪者宿命智力乃見八萬劫事。過是已往不復能知。但見身始中陰識。而自思惟此識不應無因無緣必應有因緣。宿命智所不能知。 |
得禅の者は、宿命智力もて、乃ち八万劫の事を見るも、是れを過ぎて已往は、復た知る能わず。但だ身の始の中陰の識を見て、自ら思惟すらく、『此の識は、応に無因、無縁なるべからず、必ず応に因縁有るべきも、宿命智の知る能わざる所なり』、と。 |
『禅( 四禅)を得た!』者は、
『宿命智力』で、
ようやく、
『八万劫』の、
『事』が、
『見える!』が、
是れを過ぎてからは、
『もうそれ以上は!』、
『知ることができない!』ので、
但だ、
『身の始である!』、
『中陰の識』を、
『見て!』、
自ら、こう思惟するだけである、――
此の、
『識』には、
『因、縁』の、
『無いはずがない!』、
必ず、
『因、縁』が、
『有るはずだ!』が、
『宿命智』の、
『力では!』、
『知ることができないだけだ!』。
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但憶想分別有法名世性。非五情所知。極微細故於世性中初生覺。覺即是中陰識。從覺生我從我生五種微塵所謂色聲香味觸。 |
但だ憶想、分別して法有るを、世性と名づくるも、五情の所知に非ずして、極めて微細なるが故なり。世性中に於いて初めて覚を生じ、覚は即ち是れ中陰の識なり。覚より我を生じ、我より、五種の微塵を生ず、謂わゆる色声香味触なり。 |
但だ、
有る、
是れを、
『世間では!』、
『性( prakRti 数論派二十五諦の一:自性 )』と、
『呼んでいる!』が、
『極めて微細である!』が故に、
『五情』の、
『知る所ではない!』。
此の、
『世性』中に、
初めて、
『覚』を、
『生じる!』と、
是の、
『覚』が、
『中陰の識である!』。
『覚より!』、
『我』を、
『生じ!』、
『我より!』、
『五種の微塵!』、
謂わゆる、
『色、声、香、味、触』が、
『生じる!』。
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性(しょう):事物の本質にして変易しないもの。◯梵語 prakRti の訳、以前に/最初に造る/配置する( " making or placing
before or at first " )の義、事物の根源的/自然的な形態/状態( the original or natural
form or condition of anything )、根源的/原始的な実体( original or primary substance,
cause )、原因( original source )等の意。又◯梵語 sva- bhaava の訳、自己の存在/生起( one's own
existing, occurring )、存在に至る固有の条件/状況( own condition or state of being )の義、自然な状態/構成(
natural state or constitution )、生来/本来の性質( natural state or constitution
)、自然/行動の原因/自発性( innate or inherent disposition, nature, impulse, spontaneity
)等の意。◯"性"は、次のように解釈される――'肉体で包まれた/原因となる/変化しない'もの;又は'独立した/自立した'もの;表示、或いは表現に背後に存在する根源的本性(
The nature interpreted as embodied, causative, unchanging; also as independent
or self-dependent; fundamental nature behind the manifestation or expression
)。『大智度論巻20上注:性、巻22上注:数論、巻70上注:二十五諦』参照。
二十五諦(にじゅうごたい):梵語 paJcaviMzati- sattva の訳、真実の二十五部門( the twenty- five categories
of truth )の義、数論学派の概念を形づくる存在の原理に関する分類( A categorization of the principles
of existence (tattvas) that forms the framework of Sāṃkhya philosophy.
)の意。此の学派に於いては、存在に関する多種多様な存在に関する事物は、二種の基本的原理から成る( In this school, the myriad
things of existence are produced from the two basic principles of )、即ち、
- 神我 puruSa :精神的原理( the spiritual principle )、
- 自性 prakRti :物質的原理、又勝因とも呼ばれる( the material principle, also called pradhāna
)。
是れ(自性)は、明白な現象が生起されるような原理であるが故に、其れ自身は又不明確とも、非生起/非変異とも呼ばれる( Since this is
the principle from which manifest phenomena are generated, it is also called
the unmanifest, or undeveloped (Skt. avyākta 非變異). )、是れは三種の特質に分類される( This
is distinguished into the three qualities of )、即ち、純質 sattva :純粋/清浄( purity
)、激質 rajas :混乱( turbidity )、翳質 tamas :曖昧( obscuration )であり、
――総じて三徳 triguNa として知られる( known collectively as the three qualities. )。此の三種間のバランスが乱されると、転変/転移
pariNaama が起きる( When the balance between these three is disturbed, transformation
takes place, )、そして此等の基本的要素より、自性 prakRti が変化して産出物が現れる( and from these basic
elements the first product of evolution from prakṛti appears, )、即ち、
- 覚 buddhi :着想/思想/概念を形成し、維持する力( the power of forming and retaining conceptions
and general notions )、
- 心根 manas :精神/知性( mind, intelligence )である。
此の中から、次のものが現われる( From within this appears )、即ち、
- 我慢 ahaMkaara :自己認識の意識( sense of self- awareness )である。
そして、此れより、二部門の要素が現われる、( and from this, two categories of elements come forth.
)、即ち、其の一方は五種の感覚器官/五知根を含む、十種の器官である( On one hand are the ten organs, which
include the five sense organs )、即ち、
- 眼: eyes、
- 耳: ears、
- 鼻: nose、
- 舌: tongue、
- 身: 触覚器官 tactile sense と、
之に加えて五種の運動器官/五作根を伴う、( along with the five organs of activity, including
)、即ち、
- 発声器: the vocal apparatus、
- 手: hands、
- 足: legs、
- 排泄器: urino- organs and anus、
- 生殖器: genital- organs である。
一方、五種の微細な形態である肉体的要素/五根/唯 tanmaara と、純粋な潜在的能力/五大 mahat である( On the other
hand are the five subtle forms of the physical elements, which generate
the gross elements (pure potentiality). )、即ち、
- 声唯は: the voice tanmaatra は、
- 空大を生じさせる: produces space 、
- 触唯は: the tactile tanmaatra は、
- 風大を生じさせる: produces wind 、
- 色唯は: the color tanmaatra は、
- 火大を生じさせる: produces fire 、
- 味唯は: the flavor tanmaatra は、
- 水大を生じさせる: produces water 、
- 香唯は: the odor tanmaatra は、
- 地大を生じさせる: produces earth である。『大智度論巻22上注:数論』参照。
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從聲微塵生空大。從聲觸生風大。從色聲觸生火大。從色聲觸味生水大。從色聲觸味香生地大。從空生耳根。從風生身根。從火生眼根。從水生舌根。從地生鼻根。如是等漸漸從細至麤。 |
声、微塵より、空大を生じ、声、触より、風大を生じ、色、声、触より、火大を生じ、色、声、触、味より、水大を生じ、色、声、触、味、香より、地大を生じ、空より、耳根を生じ、風より、身根を生じ、火より、眼根を生じ、水より、舌根を生じ、地より、鼻根を生じて、是れ等の如く漸漸に細より、麁に至る。 |
『声、微塵より!』、
『空大を生じ!』、
『声、触より!』、
『風大を生じ!』、
『色、声、触より!』、
『火大を生じ!』、
『色、声、触、味より!』、
『水大を生じ!』、
『色、声、触、味、香より!』、
『地大を生じ!』、
『空より!』、
『耳根を生じ!』、
『風より!』、
『身根を生じ!』、
『火より!』、
『眼根を生じ!』、
『水より!』、
『舌根を生じ!』、
『地より!』、
『鼻根を生じて!』、
是れ等のように、
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世性者從世性已來至麤。從麤轉細還至世性。譬如泥丸中具有瓶盆等性以泥為瓶破瓶為盆如是轉變都無所失。世性亦如是。轉變為麤。世性是常法無所從來。如僧佉經廣說世性。 |
世性は、世性より已来、麁に至りて、麁より細に転じて、還って世性に至る。譬えば、泥丸中に具に瓶、盆等の性有り、泥を以って瓶と為し、瓶を破りて、盆と為し、是の如くして転変して都て失う所無きが如し。世性も亦た是の如く、転変して麁と為れば、世性は、是れ常法にして、従来する所無し。僧佉経に広く世性を説けるが如し。 |
『世性』は、
『世性( 単体の自性)より!』、
『麁より!』、
『細(精神)』に、
『転変し!』、
『還って!』、
『世性』に、
『至る!』。
譬えば、
『泥丸』中には、
具( つぶさ)に、
『瓶、盆』等の、
『性(自性)』が、
『有り!』、
『泥を用いて!』、
『瓶』を、
『造り!』、
『瓶を破って!』、
『盆』を、
『造ったとて!』、
是のように、
『転変しても!』、
『性より!』、
『失われる!』ものは、
『何も無い!』が、
『世性』も、
是のように、
『転変して!』、
『麁』と、
『為る!』が、
『世性』は、
『常法であって!』、
『何処から来るのでもない!』。
例えば、
『僧佉経』に、
『広く説かれた!』、
『世性など!』と、
『同じである!』。
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僧佉(そうぎゃ):梵語 saMkhiya- vada の訳、又数論学派と称す。外道の一派の名。『大智度論巻22上注:数論、同巻70上注:二十五諦』参照。
麁細(そさい):梵語 audaarika-suukSma の訳、粗大/粗雑と微細/精緻( coarse and subtle )の意。
麁(そ):梵語 audaarika の訳、魂を包む太った身体( the gross body which invests the soul )の義。
細(さい):梵語 suukSma の訳、微少/細小/精緻/薄い/狭い/短い/弱い/取るに足りない( minute, small, fine, thin, narrow, short, feeble, trifling, insignificant, unimportant )等の義。 |
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復次有人說。世間初邊名微塵。微塵常法不可破不可燒不可爛不可壞。以微細故但待罪福因緣和合故有身。若天若地獄等。以無父母故罪福因緣盡則散壞 |
復た次ぎに、有る人の説かく、『世間の初辺を微塵と名づく。微塵は常法にして、破るべからず、焼くべからず、爛るべからず、壊るべからず。微細を以っての故に、但だ罪福の因縁和合を待つが故に、身有り。若しは天、若しは地獄等は、父母無きを以っての故に、罪福の因縁尽くれば、則ち散壊す。 |
復た次ぎに、
有る人は、こう説いている、――
『世間』の、
是の、
『微塵』は、
『常法であり!』、
『破られることもなく!』、
『焼かれることもなく!』、
『爛れることもなく!』、
『壊られることもない!』。
『微塵』の故に、
但だ、
『罪福の因縁』の、
『和合する!』のを、
『待って!』、
故に、
『身』が、
『有るのである!』が、
若し、
『身』が、
『天』や、
『地獄』等ならば、
則ち、
『父、母』が、
『無い!』が故に、
『罪、福』の、
『因縁』が、
『尽きれば!』、
則ち、
『微塵となって!』、
『散壊することになる!』、と。
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有人以自然為世界始貧富貴賤非願行所得。 |
有る人は、自然を以って、世界の始と為し、貧富、貴賎は、願行の所得に非ず。 |
有る人は、こう言っている、――
『自然』が、
『世界』の、
『始であり!』、
『貧富、貴賎』は、
『願行』の、
『所得ではない!』、と。
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有人言天主即是世界始。造作吉凶禍福天地萬物。此法滅時天還攝取。如是邪因是世界邊。 |
有る人の言わく、『天主は即ち是れ世界の始にして、吉凶、禍福、天地、万物を造作し、此の法の滅する時には、天は還た摂取す』、と。是の如き邪因は、是れ世界の辺なり。 |
有る人は、こう言っている、――
『天主』が、
『世界の始であり!』、
『吉凶、禍福、天地、万物』を、
『造作する!』ので、
此の、
『法』が、
『滅する!』時には、
『天』が、
還た、
此の、
『法』を、
『摂取(吸収)するのである!』、と。
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摂取(しょうじゅ):吸収する/取り込む/写真を撮る( absorb, take in, take a photograph )。 |
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有人說眾生世世受苦樂盡自到邊。譬如山上投縷丸縷盡自止。受罪受福會歸於盡。精進懈怠無異。 |
有る人の説かく、『衆生は、世世に苦楽を受け尽くして、自ら辺に到る。譬えば山の上より、縷丸を投ずるに、縷尽くれば自ら止まるが如く、罪を受け、福を受くれば、会(かなら)ず、尽に帰して、精進も懈怠も異無し』、と。 |
有る人は、こう説いている、――
『衆生』は、
世世に、
『苦、楽』を、
『受け尽くして!』、
自ら、
『辺(辺際)』に、
『到る!』。
譬えば、
『山の上』より、
『縷の丸』を、
『投げても!』、
『縷が尽きれば!』、
『自ら!』、
『止まるように!』、
『罪、福』を、
『受ける!』ことも、
『結局は!』、
『尽きてしまう!』ので、
『精進しても!』、
『懈怠しても!』、
『異』が、
『無い!』、と。
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会(え):集める( to assemble )、会合する( meet together )、会合( a meeting )、組織/団体( an
organization )、理解する( to understand )、~を能くする/善くする( be able to )、機会/時機( a
chance, occasion, opportunity )、一定/必ず/応当( should be )。 |
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有人說國土世間八方有邊。唯上下無邊。 |
有る人の説かく、『国土世間は、八方に辺有り。唯上下のみ、辺無し』、と。 |
有る人は、こう説いている、――
『国土世間』は、
『八方』に、
『辺が有る!』が、
唯だ、
『上、下だけ』は、
『辺が無い!』、と。
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有人說下至十八地獄上至有頂。上下有邊八方無邊。如是種種說世界邊。 |
有る人の説かく、『下は十八地獄に至るまで、上は有頂に至るまで、上下には辺有るも、八方には辺無し』、と。是の如く種種に世界の辺を説く。 |
有る人は、こう説いている、――
『下』は、
『十八地獄』に、
『至り!』、
『上』は、
『有頂天』に、
『至る!』ので、
則ち、
『上、下』には、
『辺が有る!』が、
而し、
『八方』には、
『辺が無い!』、と。
是のように、
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有人說眾生世間有邊。如說神在體中如芥子如米。或言一寸。大人則神大小人則神小。說神是色法有分故言神有邊。 |
有る人の説かく、『衆生世間には辺有り、神は体中に在りて、芥子の如く、米の如しと説き、或は一寸、大人なれば、則ち神大にして、小人なれば、則ち神小なりと言い神は是れ色法にして、分有りと説くが如ければ、故に、神に辺有りと言えり』、と。 |
有る人は、こう説いている、――
例えば、
『神』は、
『体中に在って!』、
『芥子粒か、米粒のようだ!』と、
『説かれている!』し、
或は、
『一寸だ!』とか、
『大人ならば神も大であり、小人ならば神も小である!』とも、
『言われており!』、
或は、
『神』は、
『色法であり!』、
『色法の分が有る!』とも、
『説かれてている!』ので、
故に、
『神』には、
『辺が有る!』と、
『言うのだ!』、と。
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無邊者有人說神遍滿虛空無處不有。得身處能覺苦樂。是名神無邊。 |
無辺とは、有る人の説かく、『神は虚空に遍満し、処として有らざる無く、身に処を得れば、能く苦楽を覚る、是れを神に辺無しと名づく』、と。 |
『辺が無い!』とは、――
有る人は、こう説いている、――
『神』は、
『虚空』に、
『遍満しており!』、
『神の無い!』、
『処』が、
『無い!』。
若し、
『神』が、
『身』中に、
『処を得れば!』、
『苦、楽』を、
『覚ることができる!』ので、
是れを、
『神』には、
『辺が無い!』と、
『称する!』、と。
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有人言國土世間無始。若有始則無因緣。後亦無窮常受身。是則破涅槃是名無邊。 |
有る人の言わく、『国土世間には、始無し。若し始が有らば、則ち因縁無けん。後に亦た窮無く、常に身を受けん。是れ則ち涅槃を破る。是れを無辺と名づく』、と。 |
有る人は、こう言っている、――
『国土世間』には、
『始』が、
『無い!』。
若し、
『始が有れば!』、
則ち、
『最初の世間』には、
『因縁』が、
『無いことになり!』、
『後の世間』にも、
『窮(きわまり)』が、
『無く!』、
常に、
『身』を、
『受けることになる!』ので、
是れは、
則ち、
『涅槃』を、
『破ることになる!』。
是れを、
『無辺』と、
『称するのだ!』、と。
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復次說國土世間十方無邊。如是等說神世間國土世間無邊 |
復た次ぎに、説かく、『国土世間は十方に辺無し』、と。是れ等の如く、神世間、国土世間の無辺を説く。 |
復た次ぎに、
こう説く、――
『国土世間』は、
『十方』に、
『辺が無い!』、と。
是れ等のように、
『神世間( 衆生世間)』と、
『国土世間』との、
『無辺』を、
『説いている!』。
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有邊者。有人言。神世間無邊國土世間有邊。 |
有辺とは、有る人の言わく、『神世間は無辺なるも、国土世間は有辺なり』、と。 |
『有辺』とは、――
有る人は、こう言っている、――
『神世間』は、
『無辺である!』が、
『国土世間』は、
『有辺である!』、と。
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或言神世間有邊。國土世間無邊。如上說神是色故。 |
或は言わく、『神世間は有辺なり。国土世間は無辺なり。上に説くが如く、神は是れ色なるが故なり』、と。 |
或は、こう言う、――
『神世間』は、
『有辺である!』が、
『国土世間』は、
『無辺である!』、
何故ならば、
上に説かれたように、
『神』が、
『色だからである!』、と。
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或言上下有邊八方無邊。如是總上二法名為有邊無邊 |
或は言わく、『上下は有辺にして、八方は無辺なり』、と。是の如く上の二法を総ずるを名づけて、有辺無辺と為す。 |
或は、こう言う、――
『上、下』は、
『有辺である!』が、
而し、
『八方』は、
『無辺である!』、と。
是のように、
『上の二法』を、
『総じた!』ものを、
『有辺無辺』と、
『称する!』。
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世間。非有邊非無邊者。有人見世間有邊有過無邊亦有過故不說有邊不說無邊。著非有邊非無邊。以為世間實。 |
世間の非有辺非無辺とは、有る人は世間の有辺に過有り、無辺にも亦た過有るを見るが故に、有辺と説かず、無辺と説かずして、非有辺非無辺に著し、以って世間の実と為す。 |
『世間』は、
『有辺でもなく!』、
『無辺でもない!』とは、――
有る人は、
『世間』の、
『有辺』にも、
『過が有り!』、
亦た、
『世間』は、
『有辺である!』とも、
『説かず!』、
亦た、
『無辺である!』とも、
『説かずに!』、
即ち、
『有辺でもなく!』、
『無辺でもないという!』ことに、
『著し!』、
之を、
『世間』の、
『実だとしている!』。
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神即是身者。有人言身即是神。所以者何。分折此身求神不可得故。 |
神は即ち是れ身なりとは、有る人の言わく、『身は即ち是れ神なり。所以は何んとなれば、此の身を分析して、神を求むるも、不可得なるが故なり』、と。 |
『神』は、
即ち、
『身である!』とは、――
有る人は、こう言っている、――
『身』は、
即ち、
『神である!』。
何故ならば、
此の、
『身を分析して!』、
『神を求めても!』、
『得られないからだ!』、と。
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復次受好醜苦樂皆是身。是故言身即是神。 |
復た次ぎに、好醜、苦楽を受くるは、皆是れ身なり、是の故に言わく、『身は即ち是れ神なり』、と。 |
復た次ぎに、
『好醜』や、
『苦楽』を、
是の故に、こう言うのである、――
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身異神異者。有人言。神微細五情所不得。亦非凡夫人所見。攝心清淨得禪定人乃能得見。是故言身異神異。 |
身異なり、神異なるとは、有る人の言わく、『神は微細なれば、五情の得ざる所なり、亦た凡夫人の見る所にも非ず。心を摂して清浄なる禅定を得たる人にして、乃ち能く見るを得』、と。是の故に言わく、『身異なり、神異なり』、と。 |
『身』と、
『神』とは、
『異なる!』とは、――
有る人は、こう言っている、――
『神』は、
『微細であり!』、
『五情では!』、
『認識できない!』。
亦た、
『心』を、
『摂(おさ)めて!』、
『清浄な!』、
『禅定人だけが!』、
『ようやく!』、
『見ることができる!』、と。
是の故に、こう言うのである、――
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復次若身即是神。身滅神亦滅。是邪見說身異神異。身滅神常在。是邊見。 |
復た次ぎに、若し『身は、即ち是れ神なり』とせば、身滅すれば神も亦た滅せん。是れ邪見なり。『身異なり、神異なり』と説かば、身滅するも、神は常に在り。是れ辺見なり。 |
復た次ぎに、
若し、こう説けば、――
『身』が、
即ち、
『神である!』、と。
是の、
『身が滅すれば!』、
『神』も、
『滅することになり!』、
是れは、
『邪見である!』。
若し、こう説けば、――
『身』と、
『神』とは、
『異なる!』、と。
是の、
『身が滅しても!』、
常に、
『神が在り!』、
是の、
『神』は、
『無辺である!』が故に、
是れは、
『辺見である!』。
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死後有如去者。問曰。先說常無常等。即是後世或有或無。今何以別說如去四句。 |
死後に如去有りとは、問うて曰く、先には、常無常等は、即ち是れ後世の或は有り、或は無きを説き、今は何を以ってか、別に如去の四句を説く。 |
『死後』に、
『如( 実相thusness/何かそれらしい者something like as)』が、
『去るという!』ことは、
『有るのか?』とは、――
問い、
先には、
『常、無常』等を、
『説いた!』が、
是れは、
『後世』にも、
『神』が、
『有るか、無いかである!』。
今は、
何故、
別に、
『如の去る!』ことの、
『四句』を、
『説くのですか?』。
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如去(にょこ):梵語 tathaagata の訳、此のような特性/特質の状態に在ること( being in such a state or condition,
of such a quality or nature )の義、如 tathaa が去る/[或る状態に]陥る gata (gone, gone
to any state or condition, fallen into) と、去らない agata (not gone) との両義を基底とする。実相中に去る人/其のように去る[例えば:涅槃](
One who has gone to thusness, so-gone, i. e. into nirvāṇa. )、[諸仏が彼れに先んじたように]彼れは、同じ道を来て、又行く/釈迦牟尼仏(
" he who comes and goes in the same way [as the buddhas who preceded
him] ", gautama buddha Buddh. )の意。
如(にょ):梵語 tathaa の訳、似る/此のように/あたかも/同様/相似/のように見える( like, such as, as if, be
equal to, be like, to seem to be )の義、実相、実相:其の在るがままの真実( thusness, thusness:
reality as-it-is. )の意。 |
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答曰。上總說一切世間常非常。後世有無事要故別說。 |
答えて曰く、上には総じて、一切の世間の常、非常を説けば、後世の有無の事は要なるが故に別して説くべし。 |
答え、
上には、
一切の、
『世間の常、非常』を、
『総じて!』、
『説いた!』ので、
『後世の有、無』の、
『事』は、
『重要である!』が故に、
別に、
『説くのである!』。
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如去者如人來此間生。去至後世亦如是。 |
如去とは、人の此の間に来たりて生ずるが如く、去りて後世に至るも亦た是の如し。 |
『如』が、
『去る!』とは、――
『人』が、
此の、
『世間に来て!』、
『生まれるように!』、
後の、
『世間に去る!』のも、
『是の通りである!』。
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有人言先世無所從來。滅亦無所去。 |
有る人の言わく、『先世には、従来する所無く、滅しても亦た去る所無し』、と。 |
『如』が、
『去ることはない!』とは、―― 有る人は、こう言っている、――
『先世』には、
『来た!』所が、
『無く!』、
『滅しても!』、
『去る!』所が、
『無い!』、と。
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有人言身神和合為人。死後神去身不去。是名如去不如去。 |
有る人の言わく、『身と神と和合して、人と為り、死後に神去るも、身は去らず』、と。是れを如去不如去と名づく。 |
『如』は、
『去るものもあり!』、
『去らないものもある!』とは、
有る人は、こう言っている、――
『身』と、
『神』と、
『人』の、
『死後に!』、
『神は去るが!』、
『身は去らない!』、と。
是れを、
『如』は、
『去るものもあり、去らないものもある!』と、
『称する!』。
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非有如去非無如去者。見去不去有失故說非去非不去。是人不能捨神而著非去非不去。 |
如去有るに非ず、如去無きに非ずとは、去ると去らざるとに、失有るを見るが故に説かく、『去るに非ず、去らざるに非ず』、と。是の人は、神を捨つる能わずして、『去るに非ず、去らざるに非ず』、に著せり。 |
『如の去る!』ことは、
『有るでもなく!』、
『無いでもない!』とは、――
有る人は、
『去る!』ことにも、
『去らない!』ことにも、
『失が有る!』と、
『見る!』が故に、
こう説くのであるが、――
『去るでもなく!』、
『去らないでもない!』、と。
是の人は、
『神』を、
『捨てられない!』のに、
而も、
『去るでもなく、去らないでもない!』に、
『著しているのである!』。
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如是諸邪見煩惱等是名心出沒屈伸。所以者何。邪見者種種道求出不得故欲出而沒。邪見力多難解故說常無常等十四事。 |
是の如き諸の邪見、煩悩等、是れを心の出、没、屈、伸と名づく。所以は何んとなれば、邪見の者は、種種の道に出づるを求めて、得ざるが故に出でんと欲して没し、邪見の力には多く解し難きが故に、常、無常等の十四事を説けばなり。 |
是のような、
諸の、
『邪見、煩悩』等を、
『心の出、没、屈、伸』と、
『称する!』。
何故ならば、
『邪見の者』は、
種種の、
『道』に、
『出』を、
『求めても!』、
『得られない!』が故に、
『出』を、
『欲して!』、
『没し!』、
『邪見の力』には、
『多く!』が、
『解き難い!』が故に、
『常、無常』等の、
『十四事』を、
『説くからである!』。
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外道雖復種種憶想分別。佛言皆緣五眾依止五眾無神無常。佛知五眾空無相無作無戲論。但知五眾如不如凡夫虛誑顛倒見。 |
外道は、復た種種に憶想し、分別すと雖も、仏の言わく、『皆五衆を縁じて、五衆に依止すれば、神無く、常無し』、と。仏の知りたまわく、『五衆は空、無相、無作なれば、戯論無し。但だ五衆の如を知るのみ。如にあらざるを、凡夫は虚誑し、顛倒して見る』、と。 |
『外道』は、
『神、世間』を、
種種に、
『憶想して!』、
『分別している!』が、
『仏』は、こう言われた、――
皆、
是れ等の、
『神』や、
『世間』は、
『五衆』に、
『依止している!』が故に、
則ち、
『無く(存在せず)!』、
『無常である!』、と。
『仏』は、こう知っていられる、――
『五衆』は、
『空、無相、無作であり!』、
『戯論する!』所が、
『無い!』。
但だ、
『五衆という!』、
『如』を、
『知るだけだ!』。
『凡夫人』は、
『如でない!』、
『五衆』に、
『虚誑され!』、
『顛倒して!』、
『五衆』を、
『見ている!』、と。
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仏言(ぶつごん):◯梵語 buddha- vacana の訳、仏はこう言われた( the Buddha said )の意。又仏説とも訳す。◯梵語 bhagavaan aaha の訳、仏の言葉( The Buddha's words )の義。言 aaha は間投詞、或は叱責/意見等を伴う言葉の断片( a interjection or a particle implying reproof )の義。 |
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如五眾如一切法如亦如是。何以故二法攝一切法。所謂有為無為。五眾是有為法。五眾如即是無為法。 |
五衆の如の如く、一切法の如も亦た是の如し。何を以っての故に、二法に一切法を摂すればなり。謂わゆる有為、無為なり。五衆は、是れ有為法、五衆の如は、即ち是れ無為法なり。 |
『五衆の如のように!』、
一切の、
『法の如』も、
『是の通りである!』。
何故ならば、
謂わゆる、
『有為法』と、
『無為法』という、
『二法』に、
『一切の!』、
『法』を、
『摂(おさ)めるからである!』。
即ち、
『五衆』は、
『有為法であり!』、
『五衆の如』は、
即ち、
『無為法である!』。
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觀察籌量思惟五眾。能行六波羅蜜。是故說五眾如即是一切法如。一切法如即是六波羅蜜如。 |
寿量を観察し、五衆を思惟すれば、能く六波羅蜜を行ず。是の故に説かく、『五衆の如は、即ち是れ一切法の如なり。一切法の如は、即ち是れ六波羅蜜の如なり』、と。 |
若し、
『寿量を観察して!』、
『五衆』を、
『思惟すれば!』、
則ち、
『六波羅蜜』を、
『行うことができる!』ので、
是の故に、こう説かれた、――
『五衆』の、
『如』とは、
即ち、
『一切の法』の、
『如である!』。
『一切の法』の、
『如』とは、
即ち、
『六波羅蜜』の、
『如である!』、と。
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行六波羅蜜菩薩求實道。觀五眾無常空生三十七品八背捨九次第等。是聲聞道。知已直過行十八空十力等諸佛法。皆正觀五眾。五眾如無分別故。皆是一切諸法如。是故說善法如即是不善法如不善法如即是善法如。世間出世間法亦如是。 |
六波羅蜜を行じて、菩薩は実の道を求むるに、五衆の無常、空を観て、三十七品、八背捨、九次第等を生ず。是れ声聞道なりと、知り已りて、直ちに過ぎ、十八空、十力等の諸仏の法を行じて、皆正観すれば、五衆と五衆の如には、分別無きが故に、皆は、是れ一切の諸法の如なり。是の故に説かく、『善法の如は、即ち是れ不善法の如なり。不善法の如は、即ち是れ善法の如なり』、と。世間、出世間法も亦た是の如し。 |
『六波羅蜜を行いながら!』、
『菩薩』は、
『実の道を求めて!』、
『五衆の無常、空』を、
『観察する!』と、
乃ち、
『三十七品、八背捨、九次第定』等を、
『生じる!』が、
是れは、
皆、
『正観してしまえば!』、
『五衆』も、
『五衆の如』にも、
『分別』が、
『無い!』が故に、
皆、
是の故に、こう説かれた、――
『善法』の、
『如』とは、
即ち、
『不善法』の、
『如である!』。
『不善法』の、
『如』とは、
即ち、
『善法』の、
『如である!』、と。
『世間法』と、
『出世間法』も、
亦た、
『是の通りである!』。
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是以行者不得著善法。乃至阿耨多羅三藐三菩提。佛如相亦如是。皆是一如相不二不別。所以者何。求諸法實到畢竟空無復異。 |
是を以って、行者は善法に著するを得ず。乃至阿耨多羅三藐三菩提、仏の如相も亦た是の如く、皆、是れ一如相にして、不二不別なり。所以は何んとなれば、諸法の実を求めて、畢竟空に到れば、復た異無ければなり。 |
是の故に、
『行者』は、
『善法』に、
『著する!』のも、
『宜しくない!』。
乃至、
『阿耨多羅三藐三菩提』や、
『仏』の、
『如相』も、
『是の通りであり!』、
皆、
『一如相であって!』、
『不二不別である!』。
何故ならば、
諸の、
『法の実』を、
『求めて!』、
『畢竟空』に、
『到れば!』、
復た( もう)、
『異法』は、
『無いからである!』。
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如是等諸法如。佛因般若波羅蜜得。是故言般若波羅蜜能生諸佛能示世間相。 |
是れ等のごとき諸法の如を、仏は般若波羅蜜に因りて得たまえり。是の故に言わく、『般若波羅蜜は、能く諸仏を生じ、能く世間の相を示す』、と。 |
是れ等のように、
諸の、
『法の如』を、
『仏』は、
『般若波羅蜜』に、
『因って!』、
『得られた!』ので、
是の故に、こう言われた、――
『般若波羅蜜』は、
諸の、
『仏』を、
『世間』に、
『生じさせることができ!』、
諸の、
『仏』に、
『世間の相』を、
『示すことができる!』、と。
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須菩提。歎未曾有白佛言。世尊。一切諸法如甚深隨順。不相違。三世十方諸佛如即是諸法如。解是諸法如故為眾生種種說法。是甚深如難解難信。阿鞞跋致菩薩入法位受記者能信。 |
須菩提は、未曽有なりと歎じて、仏に白して言さく、『世尊、一切の諸法の如は、甚だ深く、随順して相違せず。三世十方の諸仏の如は、即ち是れ諸法の如なり。是の諸法の如を解したもうが故に、衆生の為に種種に法を説きたもう。是の甚だ深き如は、解し難く、信じ難し。阿鞞跋致の菩薩は、法位に入りて、記を受くる者なれば、能く信ぜん』、と。 |
『須菩提』は、
『未曽有を歎じ!』、
『仏』に白して、こう言った、――
世尊!
一切の、
諸の、
『法の如』は、
『甚だ深い!』が、
『随順しており!』、
『相違しません!』。
『三世、十方の諸仏』の、
『如』とは、
即ち、
『諸法』の、
『如であり!』、
是の、
『諸法』の、
『如』を、
『理解していられる!』が故に、
『衆生』の為に、
是の、
『甚だ深い!』、
『如』は、
『解し難く!』、
『信じ難い!』ので、
『阿鞞跋致』の、
『菩薩』で、
『法位に入り!』、
『記を受けた!』者だけが、
是のような、
『如』を、
『信じることができるのです!』、と。
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具足正見人者三道人。漏盡阿羅漢不受一切法故能信。其有信者近阿鞞跋致故皆攝在阿鞞跋致中故。不別說。 |
正見を具足する人とは、三道の人なり。漏尽の阿羅漢は、一切の法を受けざるが故に、能く信じ、其の有信の者は、阿鞞跋致に近きが故に、皆摂して、阿鞞跋致中に在り、故に別に説かず。 |
『正見を具足する!』、
『人』とは、
『三道(見道、修道、無学道)』の、
『人である!』。
『漏尽の阿羅漢』は、
一切の、
『法を受けない( 受容しない)!』が故に、
『信じる!』ことが、
『可能であり!』、
其の中の、
『信有る者』は、
『阿鞞跋致に近い!』が故に、
『阿鞞跋致』中に、
『摂め!』、
故に、
『別けて!』、
『説かない!』。
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佛語須菩提。一切法無盡故是如無盡。如無盡故得聖道者能信。無為法中差別故。有須陀洹諸道。聞自所得法故能信。凡夫人著虛誑顛倒法故不能信。 |
仏の須菩提に語りたまわく、『一切の法に尽無きが故に、是の如に尽無し。如は尽無きが故に、聖道を得る者は、能く信ず。無為法中に差別するが故に、有る須陀洹は諸道に、自ら所得の法を聞くが故に、能く信ず。凡夫人は、虚誑、顛倒の法に著するが故に、信ずる能わず』、と。 |
『仏』は、
『須菩提』に、こう語られた、――
一切の、
『法』には、
『尽きる!』ことが、
『無い!』が故に、
是の、
『如』も、
『尽きる!』ことが、
『無い!』。
『如』に、
『尽きる!』ことが、
『無い!』が故に、
『聖道』を、
『得た!』者は、
『信じることができる!』。
一切の、
『無為法』中には、
『差別が無い!』のに、
『差別する!』が故に、
有る、
『須陀洹』は、
諸の、
『道』に於いて、
自ら、
『所得の法(無為法)』を、
『聞く!』が故に、
其の、
『法』を、
『信じるができる!』が、
『凡夫人』は、
『虚誑、顛倒の法』に、
『著する!』が故に、
『信じることができない!』、と。
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佛告須菩提。諸佛得是諸法如故名為如來。名為一切智人。能教眾生令至涅槃 |
仏の須菩提に告げたまわく、『諸仏は、是の諸法の如を得るが故に、名づけて如来と為し、名づけて一切智人と為し、能く衆生を教えて、涅槃に至らしむ』、と。 |
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
諸の、
『仏』は、
是の、
諸の、
『法の如を得た!』が故に、
『如来』と、
『称され!』、
『一切智』の、
『人』と、
『称され!』、
『衆生を教えて!』、
『涅槃』に、
『至らせるのである!』、と。
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