巻第六十六(下)
大智度論釋歎信行品第四十五
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大智度論釋歎信行品第四十五
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


【經】受記の先相

【經】釋提桓因問舍利弗。頗有未受記菩薩摩訶薩。聞是深般若波羅蜜不驚不怖者不。 釈提桓因の舎利弗に問わく、『頗る、未だ受記せざる菩薩摩訶薩にして、是の深般若波羅蜜を聞いて驚かず、怖れざる者有りや、不や』、と。
『釈提桓因』は、
『舎利弗』に、こう問うた、――
『未だ、受記しない!』、
『菩薩摩訶薩でありながら!』、
是の、
『深い、般若波羅蜜を聞いても!』、
『驚いたり、怖れたりしない!』者が、
『頗る、有るのか( it is often that )?』、と。
  参考:『大般若経巻299』:『爾時天帝釋復問具壽舍利子言。大德。頗有未受記菩薩摩訶薩。聞說如是甚深般若波羅蜜多。不驚不恐不怖者不。舍利子言有。憍尸迦。是菩薩摩訶薩不久當受大菩提記。憍尸迦。若菩薩摩訶薩聞說如是甚深般若波羅蜜多。其心不驚不恐不怖。當知是菩薩摩訶薩已受無上大菩提記。設未受者不過一佛或二佛所。定當得受大菩提記。爾時佛告舍利子言。如是如是如汝所說。舍利子。若菩薩摩訶薩久學大乘。久發大願。久修六種波羅蜜多。久供養諸佛。久事諸善友。聞說如是甚深般若波羅蜜多。其心不驚不恐不怖。聞已信解受持讀誦。如理思惟為他演說。或如所說隨力修行』
舍利弗言。如是憍尸迦。若有菩薩摩訶薩聞是深般若波羅蜜不驚不怖。當知是菩薩受阿耨多羅三藐三菩提記不久。不過一佛兩佛。 舎利弗の言わく、『是の如し、憍尸迦、若し有る菩薩摩訶薩、是の深般若波羅蜜聞いて驚かず、怖れざれば、当に知るべし、是の菩薩は、阿耨多羅三藐三菩提の記を受くること、久しからずして、一仏、両仏を過ぎず』。
『舎利弗』は、こう言った、――
その通りだ!
憍尸迦!
若し、
有る、
『菩薩摩訶薩』が、
是の、
『深い、般若波羅蜜を聞いても!』、
『驚いたり、怖れたりしなければ!』、
是の、
『菩薩が、阿耨多羅三藐三菩提の記を受けるのは、久しくなく!』、
『一、二の仏を、やり過ごすことはない
to pass through one Buddha or two Buddhas )!』と、
『知らねばならない!』、と。
  (か):<動詞>[本義]横切る/通過する( go across, pass through )。超過/超出/勝過する/抜き出る( exceed, go beyond )、過去る( pass by, go over )、[婉曲]世を去る( pass away )、与える( give )、渡る( cross )、時を過ごす( spend the time, pass the time )、来訪する( visit )、交際する( associate, contact )、談を交える( talk with each other, converse )、錯つ( mistake )、失念する( lose )、責める( censure )。<名詞>[無意識にして犯す]犯罪/錯誤( fault, mistake )、災難( disaster, adversity )。<形容詞>過分/過度/甚だしい( excessive )。
佛告舍利弗。如是如是。是菩薩摩訶薩久發意行六波羅蜜。多供養諸佛。聞是深般若波羅蜜不驚不怖不畏。聞即受持如般若波羅蜜中所說行。 仏の舎利弗に告げたまわく、『是の如し、是の如し、是の菩薩摩訶薩は、久しく発意して、六波羅蜜を行じ、多く諸仏を供養すれば、是の深般若波羅蜜を聞いて驚かず、怖れず、畏れずして、聞けば即ち受持して、般若波羅蜜中の所説の如く行ずるなり』、と。
『仏』は、
『舎利弗』に、こう告げられた、――
その通りだ!
その通りだ!
是の、
『菩薩摩訶薩は、久しく!』、
『発意して、六波羅蜜を行じながら!』、
『多く!』、
『諸仏を供養した!』ので、
是の、
『深い、般若波羅蜜を聞いても!』、
『驚くこともなく!』、
『怖れたり、畏れることもなく!』、
『聞けば、即ち受持して
to remember and do not forget as soon as listen it )!』、
『般若波羅蜜中に説かれたように!』、
『行じるのである!』、と。
爾時舍利弗白佛言。世尊。我欲說譬喻。如求菩薩道善男子善女人夢中修行般若波羅蜜入禪定。勤精進具足忍辱。守護於戒行布施。修行內空外空。乃至坐於道場。當知是善男子善女人近阿耨多羅三藐三菩提。 爾の時、舎利弗の仏に白して言さく、『世尊、我れは譬喩を説かんと欲す。菩薩道を求むる善男子、善女人の夢中に般若波羅蜜を修行して禅定に入り、精進を勤めて忍辱を具足し、戒を守護して、布施を行じ、内空、外空を修行して、乃至道場に坐するが如き、当に知るべし、是の善男子、善女人は阿耨多羅三藐三菩提に近し。
爾の時、
『舎利弗』は、
『仏』に白して、こう言った、――
世尊!
わたしは、
『譬喩』を、
『説きましょう!』、――
『菩薩道を求める!』、
『善男子、善女人』が、
『夢中に、乃至道場に坐すまで!』、
『般若波羅蜜を修行して!』、
『禅定に入り!』、
『精進を勤め!』、
『忍辱を具足し!』、
『戒を守護し!』、
『布施を行じながら!』、
『内空、外空を修行すれば!』、
是の、
『善男子、善女人』は、
『阿耨多羅三藐三菩提に、近づいた!』と、
『知らねばなりません!』。
  参考:『大般若経巻300』:『爾時舍利子。白佛言。世尊。我今樂說菩薩譬喻。佛言。舍利子。隨汝意說。舍利子言。世尊。如住大乘諸善男子善女人等。夢中修行般若靜慮精進安忍淨戒布施波羅蜜多。坐於道場證無上覺。當知是善男子善女人等尚近無上正等菩提。何況菩薩摩訶薩為求無上正等菩提覺時。修行般若靜慮精進安忍淨戒布施波羅蜜多。而不速成無上正覺。世尊。是菩薩摩訶薩不久當坐菩提樹下證得無上正等菩提。轉妙法輪度無量眾。世尊。若善男子善女人等。得聞如是甚深般若波羅蜜多。受持讀誦如教修行。當知是善男子善女人等。久學大乘善根成熟。多供養諸佛多事諸善友。植眾德本能成是事。世尊。若善男子善女人等。得聞如是甚深般若波羅蜜多。信解受持讀誦修習。如理思惟為他演說。是善男子善女人等。或已得受大菩提記。或近當受大菩提記。世尊。是善男子善女人等。如住不退位菩薩摩訶薩。疾得無上正等菩提。由此得聞甚深般若波羅蜜多。能深信解受持讀誦。如理思惟隨教修行為他演說世尊。譬如有人遊涉曠野經過險路。百踰繕那或二或三或四五百。見諸城邑王都前相。謂放牧人園林田等。見諸相已便作是念。城邑王都去此非遠。作是念已身意泰然不畏惡獸惡賊飢渴。世尊。諸菩薩摩訶薩亦復如是。若得聞此甚深般若波羅蜜多。受持讀誦如理思惟深生信解。應知不久當得受記或已得受。速證無上正等菩提。是菩薩摩訶薩無墮聲聞獨覺地畏。何以故。是菩薩摩訶薩已得見聞恭敬供養甚深般若波羅蜜多無上菩提之前相故。爾時佛告舍利子言。如是如是如汝所說。汝承佛力當復說之』
何況菩薩摩訶薩欲得阿耨多羅三藐三菩提。覺時修行般若波羅蜜入禪定。勤精進具足忍辱。守護於戒行布施。而不疾成阿耨多羅三藐三菩提坐於道場。 何に況んや、菩薩摩訶薩の阿耨多羅三藐三菩提を得んと欲して、覚時に般若波羅蜜を修行し、禅定に入り、精進を勤め、忍辱を具足し、戒を守護し、布施を行じて、疾かに道場に坐して、阿耨多羅三藐三菩提を成ぜざらんをや。
況して、
『菩薩摩訶薩が、阿耨多羅三藐三菩提を得ようとして!』、
『覚めた!』時に、
『般若波羅蜜を修行し!』、
『禅定に入り!』、
『精進を勤め!』、
『忍辱を具足し!』、
『戒を守護し!』、
『布施を行じながら!』、
『疾かに、道場に坐して!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『成じないことがあるでしょうか?』。
世尊。善男子善女人善根成就。得聞般若波羅蜜。受持乃至如說行。當知是菩薩摩訶薩久發意種善根。多供養諸佛與善知識相隨。是人能受持般若波羅蜜乃至正憶念。當知是人近受阿耨多羅三藐三菩提記。 世尊、善男子、善女人、善根成就して、般若波羅蜜を聞くを得て、受持乃至如説に行ずれば、当に知るべし、是の菩薩摩訶薩は、久しく発意して善根を種え、多く諸仏を供養して、善知識と相随いたればなり。是の人、能く般若波羅蜜を受持し、乃至正憶念すれば、当に知るべし、是の人は、近く阿耨多羅三藐三菩提の記を受けん。
世尊!
『善男子、善女人』が、
『善根を、成就して!』、
『般若波羅蜜を聞くことができ!』、
『受持し!』、
『乃至如説に行ずれば!』、
当然、こう知るべきです、――
是の、
『菩薩摩訶薩は久しく、発意して!』
『善根を種えながら!』、
『多く、諸仏を供養して!』、
『善知識に、相随った
be connected closely with good friends )!』ので、
是の、
『人』は、
『般若波羅蜜を、受持して!』、
乃至、
『正しく、憶念することができるのである!』、と。
当然、こう知るべきです、――
是の、
『人』は、
『近く!』、
『阿耨多羅三藐三菩提の記を受けるだろう!』、と。
  相随(そうずい):梵語 anuSakta の訳、~と密接に関係する( closely connected with )の義。
當知是善男子善女人如阿鞞跋致菩薩摩訶薩。於阿耨多羅三藐三菩提不動轉。能得深般若波羅蜜。得已能受持讀誦乃至正憶念。 当に知るべし、是の善男子、善女人は、阿鞞跋致の菩薩摩訶薩の如く、阿耨多羅三藐三菩提に於いて、動転せず、能く深般若波羅蜜を得て、得已りて、能く受持し、読誦乃至正憶念す。
当然、こう知るべきです、――
是の、
『善男子、善女人』は、
『阿鞞跋致の菩薩摩訶薩のように!』、
『阿耨多羅三藐三菩提より、動転することなく
do not turn from getting the wisdom of Buddha )!』、
『深い、般若波羅蜜を得ることができ!』、
『得たならば!』、
『受持して!』、
『読誦、乃至正しく憶念することができるのである!』。
  動転(どうてん):梵語 pratyudaa√(vraj) の訳、逆方向に行く( to go in a contrary direction )の義。退転に同じ。
世尊。譬如人欲過百由旬若二百三百四百由旬。曠野嶮道先見諸相。若放牧者若疆界若園林。如是等諸相故知近城邑聚落。是人見是相已作如是念。如我所見相當知城邑聚落不遠。心得安隱不畏賊難惡蟲飢渴。 世尊、譬えば人の、百由旬、若しは二百、三百、四百由旬の曠野を過ぎんと欲し、険道の先に諸相を見て、若しは放牧者、若しは疆界、若しは園林の、是れ等の如き諸相の故に、城邑、聚落に近きを知り、是の人は、是の相を見已りて、是の如き念を作さく、『我が所見の相の如きは、当に知るべし、城邑、聚落は遠からず』、と。心に安隠を得て、賊難、悪虫、飢渴を畏れず。
世尊!
譬えば、こうです、――
『人』が、
『百由旬か、二百か、三百か、四百由旬 の曠野を過ぎようとする!』時、
『険道の先に!』、
『放牧者や、疆界や、園林など!』の、
『諸相』が、
『見えた!』。
是れ等のような、
『諸相を見た!』が故に、
『城邑や、聚落に近づいた!』と、
『知った!』が、
是の、
『人』は、
是の、
『相を見る!』と、――
『わたしの見た!』所の、
『相によれば( by a view such as what )!』、
『城邑や、聚落は遠くない、と知らねばならぬ!』と、
『念じて!』、
『心に、安隠を得て!』、
『賊難、悪虫、飢渇』を、
『畏れなかった!』。
  疆界(きょうかい):国境/境界( border, boundary )。
世尊。菩薩摩訶薩亦如是。若得是深般若波羅蜜受持讀誦乃至正憶念。當知近受得阿耨多羅三藐三菩提記不久。當知是菩薩摩訶薩不應畏墮聲聞辟支佛地。是諸先相所謂甚深般若波羅蜜得聞得見得受。乃至正憶念故。 世尊、菩薩摩訶薩も亦た是の如く、若し是の深般若波羅蜜を得て、受持し、読誦し、乃至正憶念すれば、当に近く、阿耨多羅三藐三菩提の記を受得して、久しからざるを知るべし。当に知るべし、是の菩薩摩訶薩は、応に声聞、辟支仏の地に堕つるを畏れざるべし。是の諸の先の相とは、謂わゆる甚深の般若波羅蜜を聞くを得て、見るを得て、受くるを得て、乃至正憶念するが故なり。
世尊!
『菩薩摩訶薩』も、
是のように、
是の、
『深い、般若波羅蜜を得て!』、
『受持し!』、
『読誦、乃至正しく憶念すれば!』、
『阿耨多羅三藐三菩提の記を受得する、に近づいており!』、
『遠くないはずだ!』と、
『知ることになります!』ので、
是の、
『菩薩摩訶薩』は、
『声聞、辟支仏の地に堕ちる、のを畏れるはずがない!』と、
『知らねばならないのです!』。
是の、
『諸の先相( the signs )!』、
謂わゆる、
『甚だ深い、般若波羅蜜』を、
『聞いたり、見たり、受けたりすることができ!』、
『乃至、正しく憶念することができるからである!』。
  先相(せんそう):梵語 puNDa, puurva- nimitta の訳、先立つ相( former mark )、予兆/前兆( indication, sign, omen, forerunner )。又前相に作る。
佛告舍利弗。如是如是。汝復樂說者便說。 仏の舎利弗に告げたまわく、『是の如し、是の如し、汝、復た説くを楽(ねが)わば、便(すなわ)ち説け』、と。
『仏』は、
『舎利弗』に、こう告げられた、――
その通りだ!
その通りだ!
お前が、
『復た、楽説したければ( to want to explain more again )!』、
『便ち、説け( Do explain without hesitation )!』、と。
  楽説(ぎょうせつ):梵語 pratibhaana の訳、明瞭さ/明瞭になること/辯才( obviousness, becoming clear or visible, eloquence )の義、無礙の辯才/無礙の修辞的伎術( unimpeded eloquence, unimpeded rhetorical skill )の意、又仏の無礙安隠なる説法の能力の一種/楽説無礙( A description of the buddhas' unhindered and relaxed ability to expound the Dharma )。
世尊。譬如人欲見大海發心往趣。不見樹相不見山相。是人雖未見大海知大海不遠。何以故。大海處平無樹相無山相故。 世尊、譬えば人の大海を見んと欲して、心を発し往趣するに、樹相を見ず、山相を見ざれば、是の人は、未だ大海を見ずと雖も、大海の遠からざるを知るが如し。何を以っての故に、大海の処は平らにして、樹相無く、山相無きが故なり。
世尊!
譬えば、こういうことです、――
『人が、大海を見ようという!』、
『心を発して!』、
『往趣( to go toward )した!』が、
『樹相も、山相も見えない!』ので、
是の、
『人は、未だ大海を見ていない!』のに、
『大海は、遠くない!』と、
『知った!』。
何故ならば、
『大海の処は平らであり!』、
『樹相も、山相も!』、
『無いからです!』。
  往趣(おうしゅ):急いで目的地に向う。
如是世尊。菩薩摩訶薩聞是深般若波羅蜜。受持乃至正憶念時。雖未佛前受劫數之記。若百劫千劫萬劫百千萬億劫。是菩薩自知近受阿耨多羅三藐三菩提記不久。何以故。我得聞是深般若波羅蜜。受持讀誦乃至正憶念故。 是の如く、世尊、菩薩摩訶薩は、是の深般若波羅蜜を聞いて、受持し、乃至正憶念する時、未だ仏前に劫数の記を受けずと雖も、若しは百劫、千劫、万劫、百千万億劫なるも、是の菩薩は、自ら近く、阿耨多羅三藐三菩提の記を受けて、久しからざるを知る。何を以っての故に、我れは、是の深般若波羅蜜を聞くを得て、受持し、読誦し、乃至正憶念するが故なり。
是のように、
世尊!
『菩薩摩訶薩』が、
是の、
『深い、般若波羅蜜を聞いて!』、
『受持し!』、
『乃至正しく憶念する!』時には、
『未だ、仏前に劫数の記』を、
『百劫とか、千劫、万劫、百千万億劫である!』と、
『受けなくても!』、
是の、
『菩薩』は、
自ら、こう知るのです、――
『阿耨多羅三藐三菩提の記を、近く受けるはずであり!』、
『久しくはない!』。
何故ならば、
わたしは、
是の、
『深い、般若波羅蜜を聞いて!』、
『受持、読誦乃至正しく憶念しているからである!』、と。
世尊。譬如初春諸樹陳葉已墮。當知此樹新葉華果出在不久。何以故。見是諸樹先相故。知今不久葉華果出。是時閻浮提人見樹先相皆大歡喜。 世尊、譬えば初春の諸樹の陳(ふる)き葉已に堕つれば、当に知るべし、此の樹の新しき葉、華、果の出づることの久しからずを。何を以っての故に、此の諸樹の先の相を見るが故に、今、葉、華、果の出づることの久しからざるを知る。是の時、閻浮提の人は、樹の先の相を見て、皆、大いに歓喜するなり。
世尊!
譬えば、こういうことです、――
『初春の諸樹』の、
『陳葉が、已に堕ちれば( the old leaves have been falling down )!』、
此の、
『樹の新しい葉、華、果が出るのも、久しくない!』と、
『知らねばならないようなものです!』。
何故ならば、
此の、
『諸樹の先相を見る!』が故に、
『今にも葉、華、果が出て、久しくない!』と、
『知り!』、
是の時、
『閻浮提の人』は、
『樹の、先相を見て!』、
『皆、大歓喜するからです!』、と。
世尊。菩薩摩訶薩得聞是深般若波羅蜜。受持讀誦乃至正憶念如說行。當知是菩薩善根成就多供養諸佛。是菩薩應作是念。先世善根所追趣阿耨多羅三藐三菩提。以是因緣故得見得聞是深般若波羅蜜。受持讀誦乃至正憶念如說行。 世尊、菩薩摩訶薩は、是の深般若波羅蜜を聞くを得て、受持し読誦し乃至正憶念して、如説に行ずれば、当に知るべし、是の菩薩は善根成就して、多く諸仏を供養せりと。是の菩薩は、応に是の念を作すべし、『先世の善根の追趣する所は、阿耨多羅三藐三菩提なり。是の因縁を以っての故に、是の深般若波羅蜜を見るを得、聞くを得て、受持し、読誦し、乃至正憶念して、如説に行ぜり』、と。
世尊!
『菩薩摩訶薩』が、
是の、
『深い、般若波羅蜜を聞いて!』、
『受持、読誦し、乃至正しく憶念して!』、
『如説に、修行することができれば!』、
是の、
『菩薩は、善根は成就しており!』、
『多く、諸仏を供養したのだ!』と、
『知ることになります!』が、
是の、
『菩薩』は、こう念じるはずです、――
『先世の善根( by the good deeds of my previous lives )』の、
『追趣する( what is pursued )!』所は、
『阿耨多羅三藐三菩提であり!』、
是の、
『因緣』の故に、
是の、
『深い、般若波羅蜜を見ることができ、聞くことができ!』、
『受持、読誦、乃至正しく憶念して!』、
『如説に行うことができるのである!』、と。
  追趣(ついしゅ):梵語 samanudhaavati の訳、追跡/追求する( to run after together, follow, pursue )の義。
是中諸天子曾見佛者歡喜踊躍作是念言。先諸菩薩摩訶薩亦有如是受記先相。今是菩薩摩訶薩受阿耨多羅三藐三菩提記亦不久。 是の中の諸天子の、曽て仏を見し者は、歓喜、踊躍して是の念を作して言わく、『先の諸菩薩摩訶薩も亦た、是の如き受記の先相有り、今是の菩薩摩訶薩は、阿耨多羅三藐三菩提の記を受くること、亦た久しからざらん』、と。
是の中の、
『諸天子の、曽て仏を見た!』者は、
『歓喜、踊躍して!』、こう念じた、――
先の、
『諸の菩薩摩訶薩』にも、
是のような、
『受記の先相』が、
『有ったのだろう!』。
今、
『是の菩薩摩訶薩』が、
『阿耨多羅三藐三菩提の記を受ける!』のも、
『久しくはないだろう!』、と。
世尊。譬如母人懷妊身體苦重。行步不便坐起不安。眠食轉少不喜言語。厭本所習受苦痛故。有異母人見其先相。當知產生不久。 世尊、譬えば、母人懐妊して、身体苦重にして、行歩便ぜず、坐起安らかならず、眠、食転た少なく、言語を喜ばず、本の習いし所を厭うて、苦痛を受くるが故に、有る異なる母人、其の先相を見て、当に産生の久しからざるを知るべきが如し。
世尊!
譬えば、こういうことです、――
『母人が、懐妊して!』、
『身体が苦しく、重く!』、
『行歩が便でなく( walking is not smooth )!』、
『坐ることも、起きることも!』、
『安易でなく( uneasy )!』、
『眠、食が転た少くなって
sleeping and eating are gradually slight )!』
『言語( talking )』を、
『喜ばず!』、
『本の習う所を厭うて( to dislike what was usual )!』、
『苦痛』を、
『受ける!』が故に、
有る、
『異なる母人』が、
其の、
『先相を見れば!』、
『産生は、久しくない!』と、
『知るようなものです!』。
菩薩摩訶薩亦如是。種善根多供養諸佛。久行六波羅蜜。與善知識相隨。善根成就得聞深般若波羅蜜。受持讀誦乃至正憶念如說行。諸菩薩亦知是菩薩摩訶薩得阿耨多羅三藐三菩提記不久。 菩薩摩訶薩も亦た是の如く、善根を種えて、多く諸仏を供養し、久しく六波羅蜜を行じて、善知識に相随うに、善根成就して深き般若波羅蜜を聞くを得、受持、読誦、乃至正憶念して如説に行ずれば、諸の菩薩も亦た、是の菩薩摩訶薩の阿耨多羅三藐三菩提の記を得ることの久しからざるを知るなり。
『菩薩摩訶薩』も、
是のように、
『善根を種えながら!』、
『多く!』、
『諸仏を供養し!』、
『久しく、六波羅蜜を行じて!』、
『善知識』と、
『相随い!』、
『善根が成就して!』、
『深い、般若波羅蜜』を、
『聞くことができ!』、
『受持、読誦乃至正しく憶念して!』、
『如説』に、
『行じることができる!』ので、
『諸の菩薩』も、
是の、
『菩薩摩訶薩が、阿耨多羅三藐三菩提の記を得る!』のも、
『久しいことではない!』と、
『知るのです!』。
佛告舍利弗。善哉善哉。汝所樂說皆是佛力。 仏の舎利弗に告げたまわく、『善い哉、善い哉、汝が楽説する所、皆、是れ仏力なり』、と。
『仏』は、
『舎利弗』に、こう告げられた、――
善いぞ!
善いぞ!
『お前の楽説する所( your eloquence )』は、
『仏の力である!』。
  参考:『大般若経巻300』:『爾時佛讚舍利子言。善哉善哉。汝善能說得聞如是甚深般若波羅蜜多菩薩譬喻。當知皆是佛威神力。爾時具壽善現白佛言。世尊。一切如來應正等覺甚奇希有。善能付囑諸菩薩摩訶薩。善能攝受諸菩薩摩訶薩。佛言。善現。如是如是。何以故。善現諸菩薩摩訶薩求趣無上正等菩提。為多有情得利樂故。憐愍饒益諸天人故。是諸菩薩摩訶薩行菩薩道時。為欲饒益無量百千俱胝那庾多諸有情類故。以四攝事而攝受之。何等為四。一者布施二者愛語。三者利行。四者同事。亦安立彼令勤修習十善業道。善現。是諸菩薩摩訶薩自行四靜慮亦教他行四靜慮。自行四無量亦教他行四無量。自行四無色定亦教他行四無色定。自行六波羅蜜多亦教他行六波羅蜜多。善現。是諸菩薩摩訶薩。依止般若波羅蜜多巧方便力。雖教有情證預流果而自不證。雖教有情證一來不還阿羅漢果而自不證。雖教有情證獨覺菩提而自不證。善現。是諸菩薩摩訶薩。自修布施淨戒安忍精進靜慮般若波羅蜜多。亦勸無量百千俱胝那庾多菩薩摩訶薩。修布施淨戒安忍精進靜慮般若波羅蜜多。自住不退轉地亦勸彼住不退轉地。自嚴淨佛土亦勸彼嚴淨佛土。自成熟有情亦勸彼成熟有情。自起菩薩神通亦勸彼起菩薩神通。自修陀羅尼門亦勸彼修陀羅尼門。自修三摩地門亦勸彼修三摩地門。自具無礙辯亦勸彼具無礙辯。自具妙色身亦勸彼具妙色身。自具諸相好亦勸彼具諸相好。自具童真行亦勸彼具童真行。自修四念住亦教彼修四念住。自修四正斷亦教彼修四正斷。自修四神足亦教彼修四神足。自修五根亦教彼修五根。自修五力亦教彼修五力。自修七等覺支亦教彼修七等覺支。自修八聖道支亦教彼修八聖道支。自住內空亦教彼住內空。自住外空內外空空空大空勝義空有為空無為空畢竟空無際空散空無變異空本性空自相空共相空一切法空不可得空無性空自性空無性自性空亦教彼住外空乃至無性自性空。自住真如亦教彼住真如。自住法界法性不虛妄性不變異性平等性離生性法定法住實際虛空界不思議界亦教彼住法界乃至不思議界。自住苦聖諦亦教彼住苦聖諦。自住集滅道聖諦亦教彼住集滅道聖諦。自修四靜慮亦教彼修四靜慮。自修四無量亦教彼修四無量。自修四無色定亦教彼修四無色定。自修八解脫亦教彼修八解脫。自修八勝處亦教彼修八勝處。自修九次第定亦教彼修九次第定。自修十遍處亦教彼修十遍處。自修三解脫門亦教彼修三解脫門。自修菩薩十地亦教彼修菩薩十地。自修五眼亦教彼修五眼。自修六神通亦教彼修六神通。自修一切陀羅尼門亦教彼修一切陀羅尼門。自修一切三摩地門亦教彼修一切三摩地門。自修佛十力亦教彼修佛十力。自修四無礙解亦教彼修四無礙解。自修大慈大悲大喜大捨亦教彼修大慈大悲大喜大捨。自修十八佛不共法亦教彼修十八佛不共法。自修一切智亦教彼修一切智。自修道相智一切相智亦教彼修道相智一切相智。自修無忘失法恒住捨性亦教彼修無忘失法恒住捨性。自斷一切煩惱習氣亦教彼斷一切煩惱習氣。自證無上正等菩提轉妙法輪度無量眾亦教彼證無上正等菩提轉妙法輪度無量眾』
爾時須菩提白佛言。希有世尊。諸多陀阿伽度阿羅呵三藐三佛陀。善付諸菩薩摩訶薩事。 爾の時、須菩提の仏に白して言さく、『希有なり、世尊、諸の多陀阿伽度、阿羅呵、三藐三仏陀は、善く諸の菩薩摩訶薩の事を付したまえり』、と。
爾の時、
『須菩提』は、
『仏』に白して、こう言った、――
希有です!
世尊!
『諸多陀阿伽度、阿羅呵、三藐三仏陀』は、
『諸菩薩摩訶薩の事』を、
『善付されました( to entrust it well to Sariputra )!』、と。
  善付(ぜんぷ):梵語 pratinidhaa? の訳、命じる/代理させる( to order, substitute )の義、善く付属/付託/委託する( to entrust well )の意。
佛告須菩提。是諸菩薩摩訶薩發阿耨多羅三藐三菩提心。安隱多眾生。令無量眾生得樂。憐愍安樂饒益諸天人故。是諸菩薩行菩薩道時。以四事攝無量百千眾生。所謂布施愛語利益同事。亦以十善道成就眾生。 仏の須菩提に告げたまわく、『是の諸の菩薩摩訶薩は、阿耨多羅三藐三菩提の心を発して、多くの衆生を安隠ならしめ、無量の衆生をして楽を得しめ、諸の天、人を憐愍し、安楽ならしめ、饒益せしが故に、是の諸の菩薩は、菩薩の道を行ずる時、四事を以って、無量百千の衆生を摂す、謂わゆる布施、愛語、利益、同事なり。亦た十善道を以って、衆生を成就す。
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
是の、
『諸の菩薩摩訶薩は、阿耨多羅三藐三菩提の心を発す!』と、
『多くの衆生を安隠にし、無量の衆生に楽を得させ!』、
『諸の天、人を憐愍して!』、
『安楽にし、饒益する為め!』の故に、
是の、
『諸の菩薩は、菩薩道を行じる!』時、
『四事、謂わゆる布施、愛語、利益、同事を用いて!』、
『無量百千の衆生』を、
『摂し( to attract )!』、
『十善道を以いて!』、
『衆生』を、
『成就するのである!』。
  四摂法(ししょうぼう):人を説得して引き入れる四種の方法( four methods of winning (people) over )、梵語 catuH- saMgraha- vastu の訳、菩薩が人々に近づいて救うために用いる四種の方法( The four methods that bodhisattvas employ to approach and save people )の意。即ち、
  1. 布施 daana :慈悲深い贈物( Charitable offerings )、此れは物質でも、例えば説法のような非物質でもよく、真実を愛して受容れるよう導く為に、相手の欲しいものを与える( These can be either material or non-material, such as preaching the Dharma; giving what others like, in order to lead them to love and receive the truth. )
  2. 愛語 priyavacana :情のこもった言葉( loving words )、人を導く為に親切な言葉を使用すること( using kind words to guide people. )
  3. 利行 arthakRtya :有益な行じ( beneficial conduct )、身口意の行為を通して、衆生を利益すること( benefiting sentient beings through one's acts of body, speech, and mind. )
  4. 同事 samaanaarthataa :家柄や地位・階級が等しいこと/仕事が等しいこと( equality of birth or rank, equality of work )、自分自身を相手と同じレベルに置いて、彼等の活動に一緒に参加すること、菩薩にとっては、故に、救われるべき衆生と同じ形を採用することを意味するとも考えられる( putting one's self on the same level as others and participating alongside them in activities; for a bodhisattva, therefore, it can mean assuming the same form as the sentient beings to be saved. )
自行初禪。亦教他人令行初禪。乃至自行非有想非無想處。亦教他人令行乃至非有想非無想處。 自ら初禅を行じて、亦た他人に教えて、初禅を行ぜしめ、乃至自ら非有想非無想処を行じて、亦た他人に教えて、乃至非有想非無想処を行ぜしむ。
自ら、
『初禅を行じながら!』、
『他人に教えて!』、
『初禅を行じさせ!』、
乃至、
自ら、
『非有想非無想処を行じながら!』、
『他人に教えて!』、
『非有想非無想処を行じさせる!』。
自行檀波羅蜜。亦教他人令行檀波羅蜜。自行尸羅波羅蜜。亦教他人令行尸羅波羅蜜。自行羼提波羅蜜。亦教他人令行羼提波羅蜜。自行毘梨耶波羅蜜。亦教他人令行毘梨耶波羅蜜。自行禪波羅蜜。亦教他人令行禪波羅蜜。自行般若波羅蜜。亦教他人令行般若波羅蜜。 自ら檀波羅蜜を行じて、亦た他人に教えて、檀波羅蜜を行ぜしめ、自ら尸羅波羅蜜を行じて、亦た他人に教えて、尸羅波羅蜜を行ぜしめ、自ら羼提波羅蜜を行じて、亦た他人に教えて、羼提波羅蜜を行ぜしめ、自ら毘梨耶波羅蜜を行じて、亦た他人に教えて、毘梨耶波羅蜜を行ぜしめ、自ら禅波羅蜜を行じて、亦た他人に教えて、禅波羅蜜を行ぜしめ、自ら般若波羅蜜を行じて、亦た他人に教えて、般若波羅蜜を行ぜしむ。
自ら、
『檀波羅蜜を行じながら!』、
『他人に教えて!』、
『檀波羅蜜を行じさせ!』、
自ら、
『尸羅波羅蜜を行じながら!』、
『他人に教えて!』、
『尸羅波羅蜜を行じさせ!』、
自ら、
『羼提波羅蜜を行じながら!』、
『他人に教えて!』、
『羼提波羅蜜を行じさせ!』、
自ら、
『毘梨耶波羅蜜を行じながら!』、
『他人に教えて!』、
『毘梨耶波羅蜜を行じさせ!』、
自ら、
『禅波羅蜜を行じながら!』、
『他人に教えて!』、
『禅波羅蜜を行じさせ!』、
自ら、
『般若波羅蜜を行じながら!』、
『他人に教えて!』、
『般若波羅蜜を行じさせる!』。
是菩薩得般若波羅蜜。以方便力教眾生令得須陀洹果。自於內不證。教眾生令得斯陀含果阿那含果阿羅漢果。自於內不證。教眾生令得辟支佛道。自於內不證。 是の菩薩は、般若波羅蜜を得て、方便力を以って衆生を教え、須陀洹果を得しむるも、自らは内に於いて証せず、衆生を教えて、斯陀含果、阿那含果、阿羅漢果を得しむるも、自らは内に於いて証せず、衆生を教えて、辟支仏道を得しむるも、自らは内に於いて証せず。
是の、
『菩薩は、般若波羅蜜を得て!』、
『方便力を用いる!』が故に、
『衆生に教えて!』、
『須陀洹果を得させる!』が、
『内』には、
『自ら、証することなく( do not self-realize )!』、
『衆生に教えて!』、
『斯陀含果、阿那含果、阿羅漢果を得させる!』が、
『内』には、
『自ら、証することなく!』、
『衆生に教えて!』、
『辟支仏道を得させる!』が、
『内』には、
『自ら、証することがない!』。
自行六波羅蜜。亦教無量百千萬諸菩薩令行六波羅蜜。自住阿鞞跋致地。亦教他人住阿鞞跋致地。自淨佛世界。亦教他人淨佛世界。自成就眾生。亦教他人成就眾生。 自ら六波羅蜜を行じて、亦た無量百千万の諸の菩薩を教えて、六波羅蜜を行ぜしめ、自ら阿鞞跋致地に住して、亦た他人を教えて、阿鞞跋致地に住せしめ、自ら仏世界を浄めて、亦た他人を教えて、仏世界を浄めしめ、自ら衆生を成就して、亦た他人を教えて、衆生を成就せしむ。
自ら、
『六波羅蜜を行じながら!』、
『無量百千万の諸菩薩に教えて!』、
『六波羅蜜を行じさせ!』、
自ら、
『阿毘跋致の地に住しながら!』、
『他人に教えて!』、
『阿毘跋致の地に住しさせ!』、
自ら、
『仏世界を浄めながら!』、
『他人に教えて!』、
『仏世界を浄めさせ!』、
自ら、
『衆生を成就しながら!』、
『他人に教えて!』、
『衆生を成就させる!』。
自得菩薩神通。亦教他人令得菩薩神通。自淨陀羅尼門。亦教他人淨陀羅尼門。自具足樂說辯才。亦教他人具足樂說辯才。 自ら菩薩の神通を得て、亦た他人を教えて菩薩の神通を得しめ、自ら陀羅尼門を浄め、亦た他人を教えて、陀羅尼門を浄めしめ、自ら楽説の辯才を具足し、亦た他人を教えて、楽説の辯才を具足せしむ。
自ら、
『菩薩の神通を得て!』、
『他人に教えて!』、
『菩薩の神通を得させ!』、
自ら、
『陀羅尼門を浄めながら!』、
『他人に教えて!』、
『陀羅尼門を浄めさせ!』、
自ら、
『楽説辯才を具足しながら!』、
『他人に教えて!』、
『楽説辯才を具足させる!』。
自受色成就。亦教他人令受色成就。自成就三十二相。亦教他人成就三十二相。自成就童真地。亦教他人成就童真地。自成就佛十力。亦教他人令成就佛十力。自行四無所畏。亦教他人行四無所畏。自行十八不共法。亦教他人行十八不共法。 自ら色を受けて成就し、亦た他人を教えて、色を受けて成就せしめ、自ら三十二相を成就し、亦た他人を教えて、三十二相を成就せしめ、自ら童真地を成就し、亦た他人を教えて童真地を成就せしめ、自ら仏の十力を成就し、亦た他人を教えて仏の十力を成就せしめ、自ら四無所畏を行じ、亦た他人を教えて、四無所畏を行ぜしめ、自ら十八不共法を行じ、亦た他人を教えて、十八不共法を行ぜしむ。
自ら、
『受色を成就し!』、
『他人に教えて!』、
『受色を成就させ!』、
自ら、
『三十二相を成就し!』、
『他人に教えて!』、
『三十二相を成就させ!』、
自ら、
『童真地を成就し!』、
『他人に教えて!』、
『童真地を成就させ!』、
自ら、
『仏の十力を成就し!』、
『他人に教えて!』、
『仏の十力を成就させ!』、
自ら、
『四無所畏を行じ!』、
『他人に教えて!』、
『四無所畏を行じさせ!』、
自ら、
『十八不共法を行じ!』、
『他人に教えて!』、
『十八不共法を行じさせる!』。
  受色(じゅしき):梵語 ruupa-pratisaMvedin の訳、事物を意識すること( being conscious of something )の義。
  童真地(どうしんじ):青年の段階( youthful stage )、梵語 kumaara- bhuuta の訳、少年としての存在( existence as a child )の義、又法王子とも訳す。法王の子( son of the Dharma- king )の意。特に文殊尸利法王子 maJjuzrii- kumaara- bhuuta を指すことが多い。
  童真(どうしん):梵語 kumaaraの訳、子供/少年/青年( a child, boy, youth )の義、又梵 kumaara- raaja と云うに同じ、太子、或は王子/王国に於いて現在の君主の地位を引き継ぐべき確定的後継者( a prince, heir-apparent associated in the kingdom with the reigning monarch (especially in theatrical language) )の義。
自行大慈大悲。亦教他人令行大慈大悲。自得一切種智。亦教他人令得一切種智。自離一切結使及習。亦教他人令離一切結使及習。自轉法輪。亦教他人轉法輪 自ら大慈大悲を行じて、亦た他人にも教えて、大慈大悲を行ぜしめ、自ら一切種智を得て、亦た他人にも教えて、一切種智を得しめ、自ら一切の結使、及び習を離れ、亦た他人にも教えて、一切の結使、及び習を離れしめ、自ら法輪を転じ、亦た他人にも教えて法輪を転ぜしむ。
自ら、
『大慈大悲を行じ!』、
『他人に教えて!』、
『大慈大悲を行じさせ!』、
自ら、
『一切種智を得!』、
『他人に教えて!』、
『一切種智を得させ!』、
自ら、
『一切の結使と習を離れ!』、
『他人に教えて!』、
『一切の結使と習を離れさせ!』、
自ら、
『法輪を転じ!』、
『他人に教えて!』、
『法輪を転じさせる!』。



【論】受記の先相

【論】釋曰。爾時帝釋問舍利弗。頗有未受記菩薩聞是深般若不驚不怖者不。舍利弗言。無有不受記聞般若能信者。若或時能信者。當知垂欲受記不過見一佛二佛。便得受記。佛可舍利弗語。 釋して曰く、爾の時、帝釈の舎利弗に問わく、『頗(すこぶ)る未だ受記せざる菩薩の、是の深般若を聞きて、驚かず、怖れざる者有りや不や』、と。舎利弗の言わく、『受記せざるに、般若を聞きて能く信ずる者の有ること無し。若しは或は時に能く信ずる者なれば、当に知るべし、垂(なんな)んとして、受記せんと欲し、一仏、二仏を見るを過ぎずして、便(すなわ)ち受記を得』、と。仏は、舎利弗の語を可としたまえり。
釈す、
爾の時、
『帝釈』が、
『舎利弗』に、こう問うた、――
『未だ、受記しない菩薩』で、
是の、
『深い、般若波羅蜜を聞きながら!』、
『驚きも、怖れもしない!』者が、
『頗る、有るのか( Is there often )?』、と。
『舎利弗』は、こう言った、――
『受記を受けずに、般若波羅蜜を聞いて!』、
『信じることのできる!』者は、
『無い!』。
若し、或は時に、
『信じることができれば!』、
『垂として、受記しようとする者であり
he is going to be assured in the near future )!』、
『一仏か、二仏を見過ごすことなく!』、
『便ち、受記を得る( will be assured soon )!』と、
『知らねばならぬ!』、と。
『仏』は、
『舎利弗の語』を、
『可とされた( to agree )!』。
舍利弗聞佛可其所說心生歡喜。復欲分明了了是事故說譬喻作是言。夢中心為睡所覆故非真心所作。若善男子善女人於夢中發意行六波羅蜜。乃至坐於道場。當知是人福德輕微近於受阿耨多羅三藐三菩提記。何況菩薩摩訶薩覺時實心發阿耨多羅三藐三菩提行六波羅蜜而不近受記。 舎利弗の仏の、其の所説を可としたまいしを聞き、心に歓喜を生じ、復た是の事を、分明に了了せんと欲するが故に、譬喩を説いて、是の言を作さく、『夢中の心は、睡に覆わるるが故に、真の心の所作に非ず。若し善男子、善女人、夢中に発意して、六波羅蜜を行じ、乃至道場に坐すれば、当に知るべし、是の人は、福徳軽微なりとも、阿耨多羅三藐三菩提の記を受くるに於いて近し。何に況んや、菩薩摩訶薩の覚むる時に、実の心に阿耨多羅三藐三菩提を発して、六波羅蜜を行ずるに、受記の近からざるをや』。
『舎利弗』は、
『仏』が、
『舎利弗の所説を可とされた!』のを、
『聞いて!』、
『心』に、
『歓喜』を、
『生じた!』ので、
復た、
是の、
『事を、分明了了にしようとする!』が故に、
『譬喻』を、
『説いて!』、
こう言った、――
『夢中の心は、睡に覆われる!』が故に、
真の、
『心』の、
『所作ではない!』が、
若し、
『善男子、善女人』が、
『夢中に、意を発して!』、
『六波羅蜜を行じながら!』、
『乃至、道場に坐すならば!』、
是の、
『人の福徳は、軽微である!』が、
『近く、阿耨多羅三藐三菩提の記を受けるだろう!』と、
『知らねばならぬ!』。
況して、
『菩薩摩訶薩』が、
『覚時に、実に阿耨多羅三藐三菩提の心を発して!』、
『六波羅蜜を行じれば!』、
『受記に近くないはずがない!』。
  分明(ぶんみょう):明白に( clearly, plainly )、限界の明らかなさま( clearly demarcated )。
  了了(りょうりょう):理解する( know clearly, understand )。
世尊若人往來六道生死中。或時得聞般若波羅蜜。受持讀誦正憶念。必知是人不久得阿耨多羅三藐三菩提。如吞鉤之魚雖復遊戲池中當知出在不久。行者亦如是。深信樂般若波羅蜜。不久住於生死。 世尊、若し人、六道の生死中を往来して、或は時に般若波羅蜜を聞くを得て、受持し、読誦し、正憶念すれば、必ず知るべし、是の人は、久しからずして阿耨多羅三藐三菩提を得んと。鉤を呑める魚は、復た池中に遊戯すと雖も、当に知るべし、出づること久しからずと。行者も亦た是の如く、深く般若波羅蜜を信楽すれば、久しく生死に住せず。
世尊!
若し、
『人が、六道の生死中を往来しながら!』、
或は時に、
『般若波羅蜜を聞くことができ!』、
『受持、読誦して!』、
『正しく憶念するならば!』、
必ず、こう知らねばなりません( we must know that )、――
是の、
『人』は、
『久しからずして!』、
『阿耨多羅三藐三菩提を得る!』、と。
譬えば、
『鉤を呑んだ魚』が、
復た( again )、
『池』中に、
『遊戯していたとしても!』、
こう知らねばなりません、――
『池より出るのも!』、
『久しくはない!』、と。
『行者』も、
是のように、
『深く、般若波羅蜜を信楽すれば!』、
『生死に住すること!』も、
『久しくはないのです!』。
此中舍利弗自說譬喻。若人欲過險道。險道者即是世間。百由旬者是欲界。二百由旬者是色界。三百由旬者是無色界。四百由旬者是聲聞辟支佛道。復次四百由旬是欲界。三百由旬是色界。二百由旬是無色界。百由旬是聲聞辟支佛。 此の中に、舎利弗の自ら譬喩を説かく、『若し人、険道を過ぎんと欲す』、と。険道とは、即ち是れ世間なり。百由旬とは、是れ欲界なり。二百由旬とは、是れ色界なり。三百由旬とは、是れ無色界なり。四百由旬とは、是れ声聞、辟支仏の道なり。復た次ぎに、四百由旬とは、是れ欲界なり。三百由旬とは、是れ色界なり。二百由旬とは、是れ無色界なり。百由旬とは、是れ声聞、辟支仏なり。
此の中に、
『舎利弗』は、
自ら、
『譬喩』を、こう説いたが、――
若し、
『人』が、
『険道を過ぎようとすれば!』、と。
謂わゆる、
『険道とは、世間であり!』、
『百由旬とは、欲界であり!』、
『二百由旬とは、色界であり!』、
『三百由旬とは、無色界であり!』、
『四百由旬とは、声聞、辟支仏道である!』。
復た次ぎに、
『四百由旬とは、欲界であり!』、
『三百由旬とは、色界であり!』、
『二百由旬とは、無色界であり!』、
『百由旬とは、声聞、辟支仏である!』。
欲出者是信受行般若波羅蜜人。先見諸法相者。見大菩薩捨世間欲樂深心樂般若波羅蜜。 出でんと欲すとは、是れ般若波羅蜜を信受し、行ずる人なり。先に諸法の相を見るとは、大菩薩の世間の欲楽を捨てて、深心に般若波羅蜜を楽しむを見るなり。
『出ようとする!』とは、――
『般若波羅蜜を信、受して行う!』、
『人である!』。
『先に、 諸法の相を見る!』とは、――
『大菩薩が世間の欲楽を捨てて、深心に般若波羅蜜を楽しむ!』のを、
『見ることである!』。
疆界者分別諸法。是聲聞法是辟支佛法是大乘法。如是小利是聲聞。大利是菩薩。魔界是生死。佛界是般若波羅蜜甘露法味不死之處。 疆界とは、諸法を分別すらく、『是れ声聞の法なり、是れ辟支仏の法なり、是れ大乗の法なり、是の如き小利は、是れ声聞なり、大利は是れ菩薩なり、魔界は是れ生死なり、仏界は是れ般若波羅蜜、甘露の法味、不死の処なり』、と。
『疆界( the boundary )』とは、
『諸法』を、
『分別することである!』。
謂わゆる、
『是れは、声聞法である!』、
『是れは、辟支仏法である!』、
『是れは、大乗法である!』、
『是のような小利は声聞であり、大利は菩薩である!』、
『魔界とは、生死である!』、
『仏界とは、般若波羅蜜であり、甘露の法味であり、不死の処である!』、と。
園林者隨佛道禪定智慧等樂。如是等無量善法相。 園林とは、仏道に随う禅定、智慧等の楽にして、是れ等の如き無量の善法の相なり。
『園林』とは、――
『仏道に随う!』、
『禅定、智慧等の楽であり!』、
是れ等のような
『無量の善法』の、
『相である!』。
聚落者是柔順法忍。邑是無生法忍。城是阿耨多羅三藐三菩提。得安穩者菩薩聞是法思惟籌量行。我得是法心安穩當得阿耨多羅三藐三菩提。 聚落とは、是れ柔順法忍なり。邑とは、是れ無生法忍なり。城とは、是れ阿耨多羅三藐三菩提なり。安隠を得とは、菩薩は、是の法を聞いて思惟し、籌量して行ずらく、『我れは、是の法を得て、心安隠なれば、当に阿耨多羅三藐三菩提を得べし』、と。
『聚落とは、柔順法忍であり!』、
『邑は、無生法忍であり!』、
『城は、阿耨多羅三藐三菩提であり!』、
『安隠を得る!』とは、
『菩薩が、是の法を聞いて思惟し、籌量して行じながら!』、
『わたしは、是の法を得た!』ので、
『阿耨多羅三藐三菩提を得ることになるだろう!』と、
『心』が、
『安隠になることである!』。
  柔順法忍(にゅうじゅんほうにん):梵語 anulomikii- dharma- kSaanti の訳、自然な帰結を堪え忍ぶこと( resignation to natural consequences )の義、柔軟性という忍耐/真実と調和すること( The patience of flexibility; to accord with the truth. )の意。
  無生法忍(むしょうほうにん):梵語 anutpattika- dharma- kSaanti の訳、未だ生起せずという帰結を堪え忍ぶこと( resignation to consequences which have not yet arisen )の義、現象の非生起性を自覚することに基づく受容( patient acceptance based on awareness of the nonarising of phenomena )、有らゆる存在の本性の不生性を明白に認識することに基づく忍耐、即ち有らゆる事物は生死を超えたものであると悟ること( Patience (tolerance, acceptance) that is based on the clear cognition of the fact that the nature of any existences is not produced; to realize that all things are beyond birth and decay. )の意。
賊者是我等六十二邪見。惡蟲者是愛恚等諸煩惱。不畏賊者人不得便。不畏惡蟲者非人不得便。不畏飢者不畏不能得聖人真智慧。不畏渴者不畏不能得禪定解脫等法樂味。 賊とは、是れ我等の六十二邪見なり。悪虫とは、是れ愛恚等の諸煩悩なり。賊を畏れずとは、人の便を得ざればなり。悪虫を畏れずとは、非人の便を得ざればなり。飢を畏れずとは、聖人の真の智慧を得る能わざるを畏れざるなり。渇を畏れずとは、禅定、解脱等の法楽の味を得る能わざるを畏れざるなり。
『賊』とは、
『我』等の、
『六十二の邪見であり!』、
『悪虫』とは、
『愛恚』等の、
『諸の煩悩であり!』、
『賊を畏れない!』とは、
『人』が、
『便を得ない( get no chance to harm that bodhisattva )からであり!』、
『悪虫を畏れない!』とは、
『非人』が、
『便を得ないからであり!』、
『飢を畏れない!』とは、
『聖人の真の智慧を得られないこと!』を、
『畏れないからであり!』、
『渇を畏れない!』とは、
『禅定、解脱等の法の楽味を得られないこと!』を、
『畏れないからである!』。
此中自說因緣。菩薩摩訶薩得先相者。不久當得阿耨多羅三藐三菩提。不畏墮惡道中。飢餓死者不畏墮聲聞辟支佛地。佛然可其喻。 此の中に自ら因縁を説かく、『菩薩摩訶薩の先相を得る者は、久しからずして、当に阿耨多羅三藐三菩提を得べければ、悪道中に堕すること、飢餓、死を畏れざる者は、声聞、辟支仏の地に堕つるを畏れざればなり』、と。仏は其の喻を然可したまえり。
『舎利弗』は、
此の中に、
自ら、
『渇を畏れない因縁』を、こう説いた、――
『菩薩摩訶薩が、先相を得れば!』、
『久しからずして!』、
『阿耨多羅三藐三菩提を得る!』が故に、
『悪道中に堕ちることや、飢餓や死を畏れない!』者は、
『声聞や、辟支仏地に堕ちること!』を、
『畏れないからである!』、と。
『仏』は、
『舎利弗の喻』を、
『可とされた!』。
以麤喻細以世間喻出世間。餘三譬喻亦應如上分別說。大海水是無上道。平地無樹無山是般若波羅蜜經卷等。樹果是無上道。樹華是阿鞞跋致地。春時陳葉落更生新葉。是諸煩惱邪見疑等滅能得般若波羅蜜經卷等。 麁を以って細を喻え、世間を以って出世間を喻うるに、余の三譬喩も亦た、応に上の如く分別して説くべし。大海水は、是れ無上道なり。平地の樹無く山無きは、是れ般若波羅蜜の経巻等なり。樹の果は、是れ無上道なり。樹の華は是れ阿鞞跋致地なり。春時に陳(ふる)き葉落ちて、更に新しき葉を生ず。是れ諸の煩悩、邪見、疑等滅すれば、能く般若波羅蜜の経巻等を得ればなり。
『上の譬喻』は、
『麁を用いて!』、
『細』に、
『喻え!』、
『世間を用いて!』、
『出世間』に、
『喻えたものである!』が、
『餘の三譬喻』も、上のように分別して説けば、――
『大海水とは、無上道である!』が、
『平地であり、樹も山も無い!』のは、
『般若波羅蜜の経巻等である!』。
『樹果とは、無上道であり!』、
『樹華』は、
『阿毘跋致の地であり!』、
『春時に陳い葉が落ちて、更に新しい葉が生じる!』とは、
『諸の煩悩、邪見、疑等が滅すれば!』、
『般若波羅蜜の経巻等を得られるからである!』。
母人是行者。所任身是無上道。欲產相是菩薩久習行般若波羅蜜。厭本所習是患世間婬欲樂不復喜著。佛讚其所說善哉。 母人は、是れ行者なり。任(た)うる所の身は、是れ無上道なり。欲産の相は、是れ菩薩の久しく般若波羅蜜を習行すればなり。本の習う所を厭うとは、世間の婬欲の楽を患いて、復た喜著せざればなり。仏は其の所説を善い哉と讃じたまえり。
『母人とは、行者であり!』、
『妊まれた身とは、無上道であり!』、
『産もうとする相』が、
『菩薩』が、
『久しく、般若波羅蜜を習行する相であり!』、
『本習う所を厭う!』とは、
『世間の婬欲』の、
『楽を患って( to detest the delight )!』、
『復た、喜著しないからである( be nomore attached with delight )!』。
『仏』は、
『舎利弗の所説』を、
『善いぞ!』と、
『讃じられた!』。
  (にん):妊に同じ。
爾時須菩提聞佛然舍利弗所說讚其善哉。知佛意深敬念是菩薩。是故白佛言。世尊。甚為希有。善付菩薩事。 爾の時、須菩提は、仏の舎利弗の所説を然りとして、其れを善い哉と讃じたまえるを聞き、仏意の深く敬念したもうは、是の菩薩なるを知れば、是の故に仏に白して言さく、『世尊、甚だ希有と為す。善く菩薩の事を付したまえり』、と。
爾の時、
『須菩提』は、
『仏』が、
『舎利弗の所説を然りとされ( to agree the Sariputra's opinion )!』、
其れを、
『善いぞ、と讃じられた!』のを、
『聞き!』、
『仏』が、
是のような、
『菩薩を深く敬い念じられている!』のを、
『知り!』、
是の故に、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
甚だ希有です!
『仏は、善く!』、
『菩薩の事』を、
『舎利弗に付せられました!』、と。
菩薩事者空道福德道。亦如佛種種總相別相說以寄付阿難彌勒等。入無餘涅槃後好自奉行。教示利益眾生無令謬錯。 菩薩の事とは、空道、福徳道なり。亦た仏の種種の総相、別相の説を以って、阿難、弥勒等に寄付したもうが如きを、無余涅槃に入りたまいし後、好く自ら奉行して、衆生を教示し利益して、謬錯せしむること無からしむるなり。
『菩薩の事( the matter of bodhisattva )』とは、
『空の道であり!』、
『福徳の道であり!』、
亦た、
『阿難、弥勒等に寄付されたような( to entrust )!』、
『仏の種種の総相、別相』の、
『説』を、
『仏が、無余涅槃に入られた!』後にも、
『好んで、自ら奉行しながら!』、
『衆生に教示し、利益して!』、
『謬錯させないようにすることである!』。
  寄付(きふ):梵語 pratinidhaa? の訳、命じる/代理させる( to order, substitute )の義、付属/付託/委託する( to entrust )の意。
佛說善付因緣。諸菩薩發阿耨多羅三藐三菩提心 仏の善付の因縁を説きたまわわく、『諸の菩薩は、阿耨多羅三藐三菩提の心を発せばなり』、と。
『仏』は、
『善付の因縁( the reason of entrusting )』を、こう説かれている、――
『諸の菩薩』が、
『阿耨多羅三藐三菩提の心を発すからである!』、と。
安穩多眾生者。一切眾生中無量無邊阿僧祇。除佛無能計知者。從佛得利益者不可數故名多。 多くの衆生を安隠にすとは、一切の衆生中に、無量無辺阿僧祇にして、仏を除いて能く計知する者無く、仏より利益を得る者の数うべからざるが故に、多しと名づく。
『多くの衆生を安隠にする!』とは、 ――
『一切の衆生』中の、
『無量、無辺、阿僧祇の仏を除いて計り知る者の無い!』、
『衆生』が、
『仏より!』、
『利益を得る!』が、
『数えられない!』が故に、
『多い!』と、
『称するのである!』。
安穩者眾生著常教無常。著樂者教苦。著實者教空。著我者教無我。如是等名安穩。 安隠とは、衆生が、常に著すれば、無常を教え、楽に著すれば、苦を教え、実に著すれば、空を教え、我に著すれば、無我を教う。是れ等の如きを安隠と名づく。
『安隠』とは、 ――
『衆生』が、
『常に著すれば!』、
『無常である!』と、
『教え!』、
『楽に著すれば!』、
『苦である!』と、
『教え!』、
『実に著すれば!』、
『空である!』と、
『教え!』、
『我に著すれば!』、
『無我である!』と、
『教え!』、
是れ等のようなものを、
『安隠』と、
『称するのである!』。
凡夫人聞是當時雖不喜樂。久久滅諸煩惱得安穩樂。如服苦藥當時雖苦後得除患。無量眾生得樂者。菩薩求般若波羅蜜未得成就時。以今世後世樂利益眾生。 凡夫人は、是れを聞きて、当時は喜楽せずと雖も、久久にして諸煩悩を滅すれば、安隠の楽を得。苦薬を服して、当時は苦しと雖も、後には患を除くを得るが如し。無量の衆生は楽を得とは、菩薩は、般若波羅蜜を求めて、未だ成就するを得ざる時、今世、後世の楽を以って衆生を利益す。
『凡夫人』は、
是れを、
『聞いた当時は、喜楽しない
when they listen it they will not delight )!』が、
『久久にして、諸煩悩を滅すれば!』、
『安隠の楽を得るのである!』。
譬えば、
『苦薬を服した当時は、苦い!』が、
『後には!』、
『患を除くことができるようなものである!』。
『無量の衆生が、楽を得る!』とは、――
『菩薩が、般若波羅蜜を求めながら!』、
『未だ、成就しない!』時、
『今世、後世の楽を用いて!』、
『衆生を利益するからである!』。
如菩薩本生經說。若得般若波羅蜜已斷諸煩惱。亦以世間樂出世間樂利益眾生。若得無上道時但以出世間樂利益眾生。 菩薩本生経の説の如し、若し般若波羅蜜を得已れば、諸の煩悩を断ちて、亦た世間の楽、出世間の楽を以って、衆生を利益す。若し無上道を得たる時には、但だ出世間の楽を以って、衆生を利益すと。
例えば、
『菩薩本生経』には、こう説かれている、――
若し、
『般若波羅蜜を得たならば!』、
『諸の煩悩を断ちながら!』、
『世間の楽、出世間の楽を用いて!』、
『衆生を利益し!』、
若し、
『無上道を得た!』時には、
但だ、
『出世間の楽だけを用いて!』、
『衆生を利益する!』、と。
安樂饒益者但以憐愍心故安樂饒益。饒者多利益天人。餘道中饒益少故不說。 安楽にして饒益すとは、但だ憐愍の心を以っての故に、安楽にして饒益するなり。饒とは、多く天人を利益す。余道中には饒益すること少なきが故に説かず。
『安楽、饒益する!』とは、――
但だ、
『衆生』を、
『憐愍する心』の故に、
『安楽にし、饒益するのであり!』、
『饒益』とは、
『多く!』が、
『天、人を利益することであり!』、
『餘道』中は、
『饒益することが少い!』が故に、
『説かれない!』。
  饒益(にょうやく):富有豊足。富を豊かに足らせる。
利益事者。所謂四攝法。以財施法施二種攝取眾生。 利益の事とは、謂わゆる四摂法なり。財施と法施とを以って、二種に衆生を摂取するなり。
『利益の事』とは、
謂わゆる、
『四摂法である!』。
『布施』とは、
『財施、法施の二種を用いて!』、
『衆生を摂取する( to hold the people )ことである!』。
  摂取(しょうしゅ):梵語 saMgraha の訳、束ねて保持する/把む/握る/捕える/受容れる/獲得すること( holding together, seizing, grasping, taking, reception, obtainment )の義。
愛語有二種。一者隨意愛語。二者隨其所愛法為說。是菩薩未得道。憐愍眾生自破憍慢。隨意說法。若得道隨所應度法為說。高心富人為讚布施。是人能得他物利名聲福德故。若為讚持戒毀呰破戒則心不喜樂。如是等隨其所應而為說法。 愛語には二種有り、一には意に随う愛語、二には其の所愛の法に随いて、為に説く。是の菩薩、未だ道を得ざれば、衆生を憐愍し、自ら憍慢を破りて、意に随うて法を説き、若し道を得れば、所応の度法に随いて、為に説く。高心の富人なれば、為に布施を讃ず。是の人は、能く他物、利、名声、福徳を得るが故なり。若し為に持戒を讃じて、破戒を毀呰すれば、則ち心に喜楽せざればなり。是の如き等、其の所応に随いて、為に法を説く。
『愛語には、二種有り!』、――
一には、
『菩薩の意に随う!』、
『愛語であり!』、
二には、
『衆生が愛する!』、
『法に随って!』、
『衆生の為めに説くことである!』。
是の、
『菩薩』が、
『未だ、道を得ていなければ!』、
『衆生を憐愍する!』が故に、
『自ら、憍慢を破って!』、
『意のままに、法を説くのである!』が、
若し、
『已に、道を得ていれば!』、
『衆生が、度に応じるような!』、
『法に随って!』、
『衆生の為めに説くのである!』。
即ち、
『高心の富人の為め!』には、
『布施』を、
『讃じる!』。
是の、
『人』は
『他人の物、利、名声、福徳』を、
『得ていた!』が故に、
若し、
『持戒を讃じて、破戒を毀呰すれば!』、
『心が、喜楽しないからである!』。
是れ等のようなものを、
『衆生の応じる!』所の、
『法に随って、法を説く!』と、
『称する!』。
  高心(こうしん):梵語 maana, adhimaanin の訳、うぬぼれ/尊大/高慢( self-conceit, arrogance, pride )の義。
利益亦有二種。一者今世利後世利為說法。以法治生勤修利事。二者未信教令信。破戒令持戒。寡識令多聞。不施者令布施。癡者教智慧。如是等以善法利益眾生。 利益にも亦た二種有り、一には今世の利、後世の利もて為に法を説けば、法を以って治生し、利事を勤修すればなり。二には未信なれば、教えて信ぜしめ、破戒なれば、持戒せしめ、寡識なれば、多聞ならしめ、施さざる者なれば、布施せしめ、癡者なれば、智慧を教う。是れ等の如き善法を以って、衆生を利益す。
『利益にも、二種有り!』、――
一には、
『今世の利と、後世の利の法』を、
『衆生の為め!』に、
『説けば!』、
『法を用いて、治生し!』、
『利事』を、
『勤修するからである!』。
二には、
『未だ、信じない者を教えて、信じさせることであり!』、
『破戒の者には、持戒させ!』、
『寡識の者には、多聞にならせ!』、
『施さない者には、布施をさせ!』、
『癡者には、智慧を教える!』、
是れ等のように、
『善法を用いて!』、
『衆生を利益するのである!』。
  治生(じしょう):自ら生計を営む。
同事者菩薩教化眾生令行善法同其所行。菩薩善心眾生惡心。能化其惡令同己善。 同事とは、菩薩は、衆生を教化して、善法を行ぜしめ、其の所行を同ぜしむ。菩薩の善心とは、衆生の悪心の、能く其の悪を化して、己の善に同ぜしむるなり。
『同事』とは、――
『菩薩』が、
『衆生を教化して!』、
『善法』を、
『行じさせて!』、
『衆生の行じる!』所を、
『菩薩』と、
『同じにすることであり!』、
『菩薩の善心』とは、
『衆生の悪心』が、
其の、
『悪』を、
『化して!』、
己れの、
『善』に、
『同じさせたものである!』、
是菩薩以四種攝眾生令住十善道。是廣說四攝義。於二施中法施隨其所樂而為說法。是愛語中第一。眾生愛惜壽命令行十善道則得久壽。利益於一切寶物利中法利最勝。是為利益。同事中同行善法為勝。是菩薩自行十善。亦以教人。 是の菩薩は、四種を以って、衆生を摂し、十善道に住せしむ。是に四摂の義を広説すれば、二施中に於いて、法施は、其の楽しむ所に随いて、而も為に法を説く、是れ愛語中の第一なり、衆生は、寿命を愛惜すれば、十善道を行ぜしめて、則ち久寿の利益を得しむれば、一切の宝物の利中に於いて、法利は最勝なれば、是れを利益と為す。同事中には、善法を行ずるに同ずるを、勝ると為せば、是の菩薩は、自ら十善を行じて、亦た以って人に教うるなり。
是の、
『菩薩は、四種の法を用いて!』、
『衆生を摂し!』、
『十善道』に、
『住させる!』が、
是に( then )、
『四摂の義を広説すれば!』、――
『二施中の法施として!』、
『衆生の楽しむ所に随って!』、
『衆生の為め!』に、
『法を説けば!』、
是れは、
『愛語』中の、
『第一であり!』、
『衆生は、寿命を愛惜する!』が故に、
『十善道を行じさせて!』、
『久寿の利益』を、
『得させれば!』、
『一切の宝物の利』中に、
『法利』が、
『最勝であり!』、
是れが、
『利益である!』、
『同事中には、善法を同行するのが勝れる!』が故に、
是の、
『菩薩は、自ら十善を行じながら!』、
『人にも!』、
『教えるのである!』。
有人言。後自行十善等是第四同義。是故說自行十善亦教人行。 有る人の言わく、『後の自ら十善等を行ずるは、是れ第四の同義なり。是の故に説かく、自ら十善を行じ、亦た人に教えて行ぜしむ』、と。
有る人は、こう言っている、――
『四事の後』の、
『自ら、十善等を行じる!』のは、
『第四の同事』と、
『同義である!』ので、
是の故に、
『自ら、十善を行じながら!』、
『人に教えて、行じさせる!』と、
『説くのである!』、と。
自行初禪亦教他行。初禪等同離欲同持戒。是故名相攝。相攝故漸漸能以三乘法度。乃至非有想非無想處亦如是。 自ら初禅を行じて、亦た他を教えて行ぜしむ。初禅等は、離欲に同じ、持戒に同じうして、是の故に相摂すと名づく。相摂するが故に、漸漸にして能く三乗の法を以って度す。乃至非有想非無想処も亦た是の如し。
『自ら、初禅を行じながら!』、
『他に教えて!』、
『行じさせる!』とは、――
『初禅』等は、
『離欲や、持戒と同じであり!』、
是の故に、
『相摂する( to control them )!』と、
『称するのであり!』、
『相摂する!』が故に、
『漸漸に( gradually )!』、
『三乗の法を用いて、度すのであり!』、
乃至、
『非有想非無想処』も、
『是の通りなのである!』。
自行六波羅蜜亦以教他。因般若故令眾生得般若分。所謂得須陀洹等方便力故自不證。 自ら六波羅蜜を行じ、亦た以って他を教う。般若に因るが故に、衆生をして、般若の分を得しむ。謂わゆる須陀洹等を得るも、方便力の故に、自ら証せず。
『自ら、六波羅蜜を行じながら!』、
『他人にも!』、
『教える!』とは、――
『般若に因る!』が故に、
『衆生』に、
『般若波羅蜜の分、謂わゆる須陀洹等を!』、
『得させながら!』、
『方便力』の故に、
『自ら!』、
『証することはない( do not confirm it )!』。
是人福德智慧力增益故。教無量阿僧祇菩薩令住六波羅蜜。自住阿鞞跋致地等亦以教他。乃至自轉法輪亦教他轉法輪。是故我以慈悲心故善付是菩薩事。不以愛著故
大智度論卷第六十六
是の人は、福徳の智慧の力の増益するが故に、無量阿僧祇の菩薩を教えて、六波羅蜜に住せしめ、自ら阿鞞跋致地等に住して、亦た以って他を教え、乃至自ら法輪を転じて、亦た他を教えて法輪を転ぜしむ。是の故に、我れは、慈悲心を以っての故に、善く是の菩薩事を付するも、愛著するを以っての故にあらず。
大智度論巻第六十六
是の、
『人』は、
『福徳』の
『智慧の力』が、
『増益する!』が故に、
『無量阿僧祇』の、
『菩薩を教えて!』、
『六波羅蜜』に、
『住させ!』、
『自ら、阿毘跋致の地等に住しながら!』、
『他人にも教えて!』、
『阿毘跋致の地』等に、
『住させ!』、
乃至、
『自ら、法輪を転じながら!』、
『他人にも教えて!』、
『法輪』を、
『転じさせる!』ので、
是の故に、こう説かれたのである、――
わたしは、
『慈悲心』の故に、
是の、
『菩薩の事』を、
『善付した!』が、
是れに、
『愛著する!』が故に、
『善付するのではない!』、と。

大智度論巻第六十六


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