巻第六十五(上)
大智度論釋無作實相品第四十三之餘
1.【經】大珍宝波羅蜜
2.【論】大珍宝波羅蜜
3.【經】第二の法輪が転じられた
4.【論】第二の法輪が転じられた
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大智度論釋無作實相品第四十三之餘
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


【經】大珍宝波羅蜜

【經】須菩提白佛言。世尊。若善男子善女人。受持是般若波羅蜜。親近正憶念者。終不病眼耳鼻舌身。亦終不病身無刑殘。亦不衰耄。終不橫死。無數百千萬諸天四天王天。乃至淨居諸天皆悉隨從聽受。六齋日。月八日二十三日十四日二十九日十五日三十日諸天眾會。善男子為法師者。在所說般若波羅蜜處。皆悉來集。是善男子善女人。在大眾中說是般若波羅蜜。得無量無邊阿僧祇不可思議不可稱量福德 須菩提の仏に白して言さく、『世尊、若し善男子、善女人、是の般若波羅蜜を受持して、親近し正憶念せば、終に眼、耳、鼻、舌、身を病まず、亦た終に病むことなく、身に刑残無く、亦た衰耄せず、終に横死せず、無数百千万の諸天、四天王天、乃至浄居の諸天、皆悉く随従して聴受せん。六斎日の月の八日と二十三日、十四日と二十九日、十五日と三十日の諸天の衆会に、善男子、法師と為らば、所説の般若波羅蜜の処に在りて、皆悉く来集せん。是の善男子、善女人は、大衆中に在りて、是の般若波羅蜜を説くとき、無量無辺阿僧祇不可思議不可称量の福徳を得ん。
『須菩提』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
若し、
『善男子、善女人』が、
是の、
『般若波羅蜜』を、
『受持し、親近して!』、
『正しく!』、
『憶念すれば!』、
終に、
『眼、耳、鼻、舌、身』を、
『病むこともなく!』、
終に、
『病むこともなく!』、
『身には刑残も無く!』、
『衰耄することもなく!』、
終に、
『横死することもなく!』、
『無数百千万の諸天、四天王天、乃至浄居の諸天』が、
皆、悉く随従して、
『般若波羅蜜』を、
『聴受する!』ので、
『六斎日である!』、
『月』の、
『八日と二十三日』と、
『十四日と二十九日』と、
『十五日と三十日』との、
『諸天の衆会』に、
『善男子が法師と為って!』、
『般若波羅蜜』を、
『説けば!』、
『般若波羅蜜の所説の処』には、
『諸天』が、
皆、
『悉く来て!』、
『集るので!』、
是の、
『善男子、善女人』が、
『大衆』中に於いて、
是の、
『般若波羅蜜』を、
『説けば!』、
『無量、無辺、阿僧祇、不可思議、不可称量』の、
『福徳』を、
『得られるでしょう!』、と。
  刑残(ぎょうざん):身に刑罰を受けること。一本には形残に作る。
  衰耄(すいもう):老衰。
  参考:『大般若経巻296』:『爾時具壽善現白佛言。世尊。若善男子善女人等。於此般若波羅蜜多。受持讀誦如理思惟為他演說。是善男子善女人等六根無患支體具足身不衰朽亦無夭壽。常為無量百千天神。恭敬圍遶隨逐護念。是善男子善女人等。於黑白月各第八日第十四日第十五日。讀誦宣說如是般若波羅蜜多。是時四大王眾天三十三天夜摩天睹史多天樂變化天他化自在天梵眾天梵輔天梵會天大梵天光天少光天無量光天極光淨天淨天少淨天無量淨天遍淨天廣天少廣天無量廣天廣果天無繁天無熱天善現天善見天色究竟天是諸天眾。俱來集會此法師所。聽受般若波羅蜜多。是善男子善女人等。由於無量大集會中。讀誦宣說甚深般若波羅蜜多。便獲無量無數無邊不可思議不可稱量殊勝功德。』
佛告須菩提。如是如是。是善男子善女人。若六齋日。月八日二十三日十四日二十九日十五日三十日。在諸天眾前。說是般若波羅蜜。是善男子善女人。得無量無邊阿僧祇不可思議不可稱量福德。 仏の須菩提に告げたまわく、『是の如し、是の如し、是の善男子、善女人、若し六斎日、月の八日と二十三日、十四日と二十九日、十五日と三十日に、諸天衆の前に在りて、是の般若波羅蜜を説かば、是の善男子、善女人は、無量無辺阿僧祇不可思議不可称量の福徳を得ん。
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
その通りだ!
その通りだ!
是の、
『善男子、善女人』が、
若し、
『六斎日である!』、
『月』の、
『八日と二十三日』と、
『十四日と二十九日』と、
『十五日と三十日』とに、
諸の、
『天衆の前』に於いて、
是の、
『般若波羅蜜』を、
『説けば!』、
是の、
『善男子、善女人の得る!』、
『福徳』は、
『無量、無辺、阿僧祇、不可思議、不可称量である!』。
  参考:『大般若経巻296』:『佛言。善現。如是如是。如汝所說。若善男子善女人等。於此般若波羅蜜多。受持讀誦如理思惟為他演說。是善男子善女人等六根無患支體具足。身不衰朽亦無夭壽。常為無量百千天神恭敬圍遶。隨逐護念。是善男子善女人等。於黑白月各第八日第十四日第十五日。讀誦宣說如是般若波羅蜜多。是時四大王眾天乃至色究竟天。俱來集會此法師所。聽受般若波羅蜜多。是善男子善女人等。由於無量大集會中。讀誦宣說甚深般若波羅蜜多。便獲無量無數無邊不可思議不可稱量殊勝功德』
何以故。須菩提。般若波羅蜜是大珍寶。何等是大珍寶。是般若波羅蜜。能拔地獄畜生餓鬼及人中貧窮。能與刹利婆羅門大姓居士大家。能與四天王天處乃至非有想非無想處。能與須陀洹果斯陀含果阿那含果阿羅漢果辟支佛道阿耨多羅三藐三菩提。 何を以っての故に、須菩提、般若波羅蜜は、是れ大珍宝なればなり。何等か、是れ大珍宝なる。是の般若波羅蜜は、能く地獄、畜生、餓鬼、及び人中の貧窮を抜き、能く刹利、婆羅門の大姓、居士の大家を与え、能く四天王天処、乃至非有想非無想処を与え、能く須陀洹果、斯陀含果、阿那含果、阿羅漢果、辟支仏道、阿耨多羅三藐三菩提を与う。
何故ならば、
須菩提!
『般若波羅蜜』は、
『大珍宝だからである!』。
何のような、
『大珍宝だろうか?』、――
是の、
『般若波羅蜜』は、
『地獄、畜生、餓鬼と、人中の貧窮』より、
『衆生』を、
『抜くことができ!』、
『刹利、婆羅門の大姓や、居士の大家』を、
『衆生』に、
『与えることができ!』、
『四天王天、乃至非有想非無想の処』を、
『衆生』に、
『与えることができ!』、
『須陀洹果、乃至阿羅漢果、辟支仏道や!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『衆生』に、
『与えることができる!』。
  参考:『大般若経巻296』:『何以故。善現。如是般若波羅蜜多是大寶藏。由此般若波羅蜜多大寶藏故。能脫無量無邊有情地獄傍生鬼界人天等趣貧窮大苦。能與無量無邊有情刹帝利大族婆羅門大族長者大族居士大族富貴快樂。能與無量無邊有情四大王眾天三十三天夜摩天睹史多天樂變化天他化自在天富貴快樂。能與無量無邊有情梵眾天梵輔天梵會天大梵天光天少光天無量光天極光淨天淨天少淨天無量淨天遍淨天廣天少廣天無量廣天廣果天無繁天無熱天善現天善見天色究竟天富貴快樂。能與無量無邊有情空無邊處天識無邊處天無所有處天非想非非想處天富貴快樂。能與無量無邊有情預流果一來果不還果阿羅漢果獨覺菩提富貴安樂。能與無量無邊有情無上正等菩提富貴安樂。所以者何。如是般若波羅蜜多大寶藏中。廣說開示十善業道四靜慮四無量四無色定。廣說開示四念住四正斷四神足五根五力七等覺支八聖道支三解脫門八解脫八勝處九次第定十遍處四聖諦佛法僧寶。廣說開示布施淨戒安忍精進靜慮般若巧願力智波羅蜜多菩薩十地一切菩薩摩訶薩行內空外空內外空空空大空勝義空有為空無為空畢竟空無際空散空無變異空本性空自相空共相空一切法空不可得空無性空自性空無性自性空真如法界法性不虛妄性不變異性平等性離生性法定法住實際虛空界不思議界。』
何以故。是般若波羅蜜中。廣說十善道四禪四無量心四無色定四念處乃至八聖道分檀波羅蜜尸羅波羅蜜羼提波羅蜜毘梨耶波羅蜜禪波羅蜜般若波羅蜜。廣說內空乃至無法有法空。廣說佛十力乃至一切智。 何を以っての故に、是の般若波羅蜜中には、広く十善道、四禅、四無量心、四無色定、四念処、乃至八聖道分、檀波羅蜜、尸羅波羅蜜、羼提波羅蜜、毘梨耶波羅蜜、禅波羅蜜、般若波羅蜜を説き、広く内空、乃至無法有法空を説き、広く仏の十力、乃至一切智を説けばなり。
何故ならば、
是の、
『般若波羅蜜』中には、
『十善道、四禅、四無量心、四無色定や!』、
『四念処、乃至八聖道分や』、
『檀、尸羅、羼提、毘梨耶、禅、般若波羅蜜や!』、
『内空、乃至無法有法空や!』、
『仏の十力、乃至一切智』が、
『広説されているからである!』。
從是中學。出生刹利大姓婆羅門大姓居士大家。出生四天王天三十三天夜摩天兜率陀天化樂天他化自在天。梵身天梵輔天梵眾天大梵天光天少光天無量光天光音天淨天少淨天無量淨天遍淨天阿那婆伽天得福天廣果天無想天阿浮呵那天不熱天快見天妙見天阿迦尼吒天。虛空無邊處天識無邊處天無所有處天非有想非無想處天。 是の中により学びて、刹利の大姓、婆羅門の大姓、居士の大家を出生し、四天王天、三十三天、夜摩天、兜率陀天、化楽天、他化自在天、梵身天、梵輔天、梵衆天、大梵天、光天、少光天、無量光天、光音天、浄天、少浄天、無量浄天、遍浄天、阿那婆伽天、得福天、広果天、無想天、阿浮呵那天、不熱天、快見天、妙見天、阿迦尼吒天、虚空無辺処天、識無辺処天、無所有処天、非有想非無想処天を出生す。
是の中に、
『学ぶことにより!』、
『刹利、婆羅門の大姓、居士の大家や!』、
『四天王天、三十三天』、
『夜摩天、兜率陀天、化楽天、他化自在天』、
『梵身天、梵輔天、梵衆天、大梵天』、
『光天、少光天、無量光天、光音天』、
『浄天、少浄天、無量浄天、遍浄天』、
『阿那婆伽天、得福天、広果天、無想天』、
『阿浮呵那天、不熱天、快見天、妙見天、阿迦尼吒天』、
『虚空無辺処天、識無辺処天、無所有処天、非有想非無想処天』が、
『出生されるのである!』。
是法中學。得須陀洹果斯陀含果阿那含果阿羅漢果。得辟支佛道。得阿耨多羅三藐三菩提。以是故。須菩提。般若波羅蜜名為大珍寶。 是の法中に学びて、須陀洹果、斯陀含果、阿那含果、阿羅漢果を得、辟支仏道を得、阿耨多羅三藐三菩提を得。是を以っての故に、須菩提、般若波羅蜜を名づけて、大珍宝と為す。
是の、
『法中に学んで!』、
『須陀洹果、乃至阿羅漢果、辟支仏道、阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得る!』ので、
是の故に、
須菩提!
『般若波羅蜜』を、
『大珍宝』と、
『称するのである!』。
珍寶波羅蜜中。無有法可得。若生若滅若垢若淨若取若捨。珍寶波羅蜜亦無有法。若善若不善若世間若出世間若有漏若無漏若有為若無為。以是故。須菩提。是名無所得珍寶波羅蜜。 珍宝の波羅蜜中には、法の得べきものの、若しは生、若しは滅、若しは垢、若しは浄、若しは取、若しは捨有ること無し。珍宝波羅蜜は、亦た法の、若しは善、若しは不善、若しは世間、若しは出世間、若しは有漏、若しは無漏、若しは有為、若しは無為有ること無し。是を以っての故に、須菩提、是れを無所得の珍宝波羅蜜と名づく。
『珍宝の波羅蜜』中には、
『生、滅、垢、浄、取、捨である!』と、
『得られる( to be recognized )!』、
『法』は、
『無いのであり!』、
『珍宝の波羅蜜』中には、
『善、不善、世間、出世間、有漏、無漏、有為、無為という!』、
『法』も、
亦た、
『無いのである!』。
是の故に、
須菩提!
是れを、
『無所得( Unrecognizable )』の、
『珍宝波羅蜜』と、
『称するのである!』。
須菩提。是珍寶波羅蜜。無有法能染污。何以故。所用染法不可得故。須菩提。以是故名無染珍寶波羅蜜。 須菩提、是の珍宝波羅蜜には、法の能く染汚するもの有ること無し。何を以っての故に、染法を用うる所の不可得なるが故なり。須菩提、是を以っての故に、無染の珍宝波羅蜜と名づく。
須菩提!
是の、
『珍宝波羅蜜』を、
『染汚させる!』
『法』は、
『無い!』。
何故ならば、
『染法を用いる所( something to be defiled )!』が
『不可得だからである( cannot be recognized )!』。
須菩提!
是の故に、
『無染の珍宝波羅蜜』と、
『称する!』。
須菩提。若菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。亦如是不知。亦如是不分別。亦如是不得。亦如是不戲論。是為能修行般若波羅蜜。亦能禮覲諸佛。從一佛國至一佛國。供養恭敬尊重讚歎諸佛。遊諸佛刹成就眾生淨佛國土。 須菩提、若し菩薩摩訶薩、般若波羅蜜を行ずる時、亦た是の如く知らず、亦た是の如く分別せず、亦た是の如く得ず、亦た是の如く戯論せざれば、是れを能く般若波羅蜜を修行し、亦た能く諸仏を礼覲して、一仏国より一仏国に至りて諸仏を供養、恭敬、尊重、讃歎し、諸の仏刹に遊びて、衆生を成就し、仏国土を浄むと為す。
須菩提!
若し、
『菩薩摩訶薩』が、
『般若波羅蜜を行じる!』時、
亦た、
是のように、
『知ることもなく!』、
亦た、
是のように、
『分別することもなく!』、
亦た、
是のように、
『得ることもなく!』、
亦た、
是のように、
『戯論することもなければ!』、
是れが、
『般若波羅蜜』を、
『修行したということであり!』、
亦た、
『諸仏を礼覲して( to meet many Buddhas )!』、
『一仏国より、一仏国に至りながら!』、
『諸仏』を、
『供養、恭敬、尊重、讃歎し!』、
『諸仏の刹に遊びながら!』、
『衆生を成就して!』、
『仏国土を浄めることができるのである!』。
  礼覲(らいぎん):礼拜して謁見する。覲:謁見/朝見( to have an imperial audience )。
須菩提。是般若波羅蜜。於諸法無有力無非力。亦無受亦無與。不生不滅不垢不淨不增不減。是波羅蜜亦非過去非未來非現在。不捨欲界不住欲界。不捨色界不住色界。不捨無色界不住無色界。 須菩提、是の般若波羅蜜は、諸法に於いて、力有ること無く、非力なること無く、亦た受くる無く、亦た与うる無く、不生不滅、不垢不浄、不増不減なり。是の波羅蜜は、亦た過去に非ず、亦た未来に非ず、現在に非ず、欲界を捨てずして欲界に住せず、色界を捨てずして色界に住せず、無色界を捨てずして無色界に住せず。
須菩提!
是の、
『般若波羅蜜』は、
『諸法』に於いて、
『力も、非力も無く!』、
『受けることも、与えることも無く!』、
『不生不滅、不垢不浄、不増不減なのである!』。
是の、
『波羅蜜』は、
亦た、
『過去でも、未来でも、現在でもなく!』、
『欲界を捨てることもなく、欲界に住することもなく!』、
『色界を捨てることもなく、色界に住することもなく!』、
『無色界を捨てることもなく、無色界に住することもない!』。
是般若波羅蜜不與檀波羅蜜亦不捨。不與尸波羅蜜亦不捨。不與羼提波羅蜜亦不捨。不與毘梨耶波羅蜜亦不捨。不與禪波羅蜜亦不捨。不與般若波羅蜜亦不捨。不與內空亦不捨。乃至不與無法有法空亦不捨。不與四念處亦不捨。乃至不與八聖道分亦不捨。不與佛十力亦不捨。乃至不與十八不共法亦不捨。不與須陀洹果亦不捨。乃至不與阿羅漢果亦不捨。不與辟支佛道亦不捨。乃至不與一切智亦不捨。 是の般若波羅蜜は、檀波羅蜜を与えずして、亦た捨てず、檀波羅蜜を与えずして、亦た捨てず、尸羅波羅蜜を与えずして、亦た捨てず、羼提波羅蜜を与えずして、亦た捨てず、毘梨耶波羅蜜を与えずして、亦た捨てず、禅檀波羅蜜を与えずして、亦た捨てず、般若波羅蜜を与えずして、亦た捨てず、内空を与えずして、亦た捨てず、乃至無法有法空を与えずして、亦た捨てず、四念処を与えずして、亦た捨てず、乃至八聖道分を与えずして、亦た捨てず、仏の十力を与えずして、亦た捨てず、乃至十八不共法を与えずして、亦た捨てず、須陀洹果を与えずして、亦た捨てず、乃至阿羅漢果を与えずして、亦た捨てず、辟支仏道を与えずして、亦た捨てず、乃至一切智を与えずして、亦た捨てず。
是の、
『般若波羅蜜』は、
『檀、尸羅、羼提、毘梨耶、禅、般若波羅蜜』を、
『与えることもなく!』、
『捨てることもなく!』、
『内空、乃至無法有法空』を、
『与えることもなく!』、
『捨てることもなく!』、
『四念処、乃至八聖道分』を、
『与えることもなく!』、
『捨てることもなく!』、
『仏の十力、乃至十八不共法』を、
『与えることもなく!』、
『捨てることもなく!』、
『須陀洹果、乃至阿羅漢果、辟支仏道、乃至一切智』を、
『与えることもなく!』、
『捨てることもない!』。
是般若波羅蜜不與阿羅漢法。不捨凡人法。不與辟支佛法。不捨阿羅漢法。不與佛法。不捨辟支佛法。是般若波羅蜜。亦不與無為法。不捨有為法。 是の般若波羅蜜は阿羅漢の法を与えざるも、凡人の法を捨てず、辟支仏の法を与えざるも、阿羅漢の法を捨てず、仏の法を与えざるも、辟支仏の法を捨てず。是の般若波羅蜜は、亦た無為法を与えざるも、有為法を捨てず。
是の、
『般若波羅蜜』は、
『阿羅漢』の、
『法』を、
『与えるのでもなく!』、
『凡人』の、
『法』を、
『捨てるのでもない!』。
『辟支仏』の、
『法』を、
『与えるのでもなく!』、
『阿羅漢』の、
『法』を、
『捨てるのでもない!』。
『仏』の、
『法』を、
『与えるのでもなく!』、
『辟支仏』の、
『法』を、
『捨てるのでもない!』。
是の、
『般若波羅蜜』は、
『無為』の、
『法』を、
『与えることもなく!』、
『有為』の、
『法』を、
『捨てることもない!』。
何以故。若有諸佛若無諸佛。是諸法相常住不異。法相法住法位常住。不謬不失故 何を以っての故に、若しは諸仏有るも、若しは諸仏無きも、是の諸法の相の常住にして不異なるは、法相、法住、法位の常住にして、不謬不失なるが故なり。
何故ならば、
『諸仏』が、
『有ろうと!』、
『無かろうと!』、
是の、
『諸法の相』は、
『常住であり!』、
『不異である( being unchangeable )!』のは、
『法相、法住、法位』が、
『常住であり!』、
『不謬不失からである( not being destructed of changed )!』。
  法住(ほうじゅう):法の永続( dharma abiding )、梵語 dharma- sthiti の訳、真如の異名。 sthiti は、真直ぐ/堅固に立って、倒れないこと( standing upright or firmly, not falling )、立つ/住まる/残留する/我慢する/滞留/住処/~に滞在する( standing, staying, remaining, abiding, stay, residence, sojourn in or on or at )、如何なる状態/状況であろうと住まる/残留する/存在する( staying or remaining or being in any state or condition )、存在の継続( continuance in being )の義。有らゆる事物中に於ける如の滞留、或いは有らゆる事物の住居としての如( Thusness abiding in all things. Or, thusness as the abode of all things. )の意。法住の定義を、正確に原語化する困難さは、法住という術語が何かの内部と、外部の事物との間で揺れ動くからである( The difficulty in precision in the wording of the definition is related to the fact that the term 法住 oscillates between something inside and outside things. )、何故ならば非永久性も、依存した生起も、如が有らゆる法中に常に住することも、皆法住と呼びうるからである( Because impermanence/dependent arising/thusness abides 住 constantly in all things 法, it can be called dharma-abiding. )。
  法位(ほうい):一切の法が確立される状況( condition in which all dharmas are established )、梵語 dharma- niyaamataa, dharma- niyaama の訳、真如の異名。法の位置。有る事物、或いは夫々の事物が、その真如という見地からは、適切な場処に存在すること( Dharma-position. A thing, or each thing being in its appropriate place in terms of its suchness. )。「宗鏡録」に依れば、「真如の異名。また法住ともいう。真如は諸法安住の位なるが故に法位と名づけ、また真如は菩薩安住の位なるが故に法位と名づく。」という。
  不謬不失(ふびゅうふしつ):梵語 asaMpramoSa? の訳、奪われることを許さない( the not allowing to be carried off )の義、梵語 saMpramoSa は紛失/破壊( Loss, destruction, abstraction )の義、破壊/変質されないこと( the not allowing to be destructed or changed )の意。



【論】大珍宝波羅蜜

【論】問曰。若受持般若正憶念。猶有眾患。云何言終不病眼等。 問うて曰く、若し般若を受持して、正憶念せんにも、猶お衆患有り。云何が、『終に眼等を病まず』、と言える。
問い、
若し、
『般若を受持して!』、
『正しく!』、
『憶念しても!』、
猶お、
『衆患』が、
『有るのに!』、
何故、こう言うのですか?――
終に、
『眼』等を、
『病むことがない!』、と。
答曰。是事上功德地獄品中已廣說。所謂非必受報業故無眾患。 答えて曰く、是の事は、上の『功徳、地獄品』中に已に広く説けり。謂わゆる、必ずしも報業を受くるに非ざるが故に、衆患無し。
答え、
是の、
『事』は、
『上の功徳、地獄品』中に、
已に、
『広説した!』。
謂わゆる、
『必ず、報業を受けるわけではない!』が故に、
『衆患』が、
『無いのである!』。
  参考:『大智度論巻57』:『問曰。現有受持讀誦。入於軍陣為刀兵所傷。或至失命。又佛說業因緣非空非海中。無有得免者。是中佛何以故。言讀誦般若者入軍陣中兵刃不傷亦不失命。答曰。有二種業因緣。一者必應受報。二者不必受報。為必應受報故。法句中如是說。此中為不必受報故。說讀誦般若兵刃不傷。譬如大逆重罪應死之人。雖有強力財寶不可得免。有人罪輕雖入死科理在可救用力勢財物便得濟命。不救則死。善男子亦如是。若無必受報罪。雖有死事來至。讀誦般若波羅蜜則得濟度。若不讀誦則不免死。是故不得言般若波羅蜜無有力勢。』
又常受持正憶念。如所說行般若故無眾患。譬如良藥能破眾病。若不能將順則不除患。非藥之失。 又、常に受持して正憶念し、所説の如く般若を行ずるが故に、衆患無し。譬えば、良薬の能く衆病を破るに、若し将順する能わざれば、則ち患を除かざるも、薬の失に非ざるが如し。
又、
『常に、受持して!』、
『正しく!』、
『憶念し!』、
『所説の通りに!』、
『般若を行じる!』が故に、
『衆患が無い!』。
譬えば、
『良薬』に、
『衆病』を、
『破ることができたとしても!』、
若し、
『将順しなければ( would not put up with )!』、
『患が除かれなくても!』、
『薬』の、
『失ではないようなものである!』。
  将順(しょうじゅん):我慢して随う( put up with )。
又如[病-丙+寧]人雖得利器不能御難。非器之過。行者如是。先世重罪。今世不如所說行故。不得般若力。非般若過。 又儜人の利器を得と雖も、難を御する能わざること、器の過に非ざるが如し。行者も是の如し。先世の重罪もて、今世に所説の如く行ぜざるが故に、般若の力を得ずとも、般若の過に非ず。
又、
譬えば、
『儜人( a weak person )』が、
『利器を得ても!』、
『難を御することができない!』のは、
『器』の、
『過ではないように!』、
『行者』も、
是のように、
『先世の罪が重ければ!』、
『今世に!』、
『所説のように行わない!』ので、
是の故に、
『般若の力を得ることができなくても!』、
『般若』の、
『過ではないのである!』。
  [病-丙+寧](にょう):儜(にょう)に同じ、怯弱/怯懦( weak, timid )。或は病(びょう disease )に同じ。
  利器(りき):鋭利な武器( sharp weapon )。
問曰。天上亦有般若波羅蜜。諸天何以於六齋日。隨逐不淨人身。求聞般若。 問うて曰く、天上にも亦た般若波羅蜜有り。諸天は何を以ってか、六斎日に於いて、不浄の人身を随逐し、般若を聞かんことを求むる。
問い、
『天上』にも、
『般若波羅蜜』は、
『有る!』のに、
『諸天』は、
何故、
『六斎日に!』、
『不浄の人身』に、
『随逐しながら!』、
『般若』を、
『聞こう!』と、
『求めるのですか?』。
答曰。天上有經卷。傳聞如是亦非佛說。若令有者。忉利天上兜率天上當有。何以故。阿修羅共忉利天鬥時。佛敕帝釋汝當誦念般若。兜率天上常有補處菩薩。為諸天說故可有。色界諸天身及衣服輕微。乃至無兩數。常樂宴寂受禪定味。是故不應有經卷。 答えて曰く、天上に経巻有りとは、是の如きを伝聞せるも、亦た仏説には非ざるなり。若し有らしむれば、忉利天上と、兜率天上には、当に有るべし。何を以っての故に、阿修羅と忉利天と共に闘う時、仏は、帝釈に、『汝は、当に般若を誦念すべし』、と勅したまえばなり。兜率天上には、常に補処の菩薩有りて、諸天の為に説くが故に有るべし。色界の諸天は、身及び衣服軽微にして、乃至両数無く、常に宴寂を楽しんで、禅定の味を受く。是の故に、応に経巻有るべからず。
答え、
『天上』に、
『経巻』が、
『有る!』と、――
是のように、
『伝聞する!』が、
『仏』が、
『説かれたのではない!』。
若し、
『有れば!』、
『忉利天か、兜率天上に!』、
『有るはずである!』。
何故ならば、
『阿修羅』が、
『忉利天と共に( with Trayas-trimsa )!』、
『闘う!』時、
『仏が、帝釈に!』、
『般若を誦念せよ!』と、
『勅された( to issue an imperial-decree )!』し、
又、
『兜率天上』には、
常に、
『補処の菩薩が有り!』、
『諸天の為め!』に、
『般若を説いている!』ので、
是の故に、
『般若』が、
『有るはずである!』が、
而し、
『色界の諸天』は、
『身も、衣服も軽微であり!』、
乃至、
『両数( 2枚)すら!』、
『無く!』、
常に、
『宴寂を楽しんで!』、
『禅定の味を受けている!』ので、
是の故に、
『経巻など!』、
『有るはずがない!』。
  両数(りょうすう):2、ふたつ。2枚等。
  宴寂(えんじゃく):寂を楽しむ。涅槃 nirvaaNa の訳。煩悩の火の消滅した状態。『大智度論巻17上注:宴寂』参照。
諸天著二種樂。欲樂定樂。不能懃苦書持般若波羅蜜。閻浮提人。能精進書持精學正憶念。如經說。閻浮提人以三因緣。勝諸天及鬱單曰人。一者能斷淫欲。二者強識念力。三者能精懃勇猛。是閻浮提人。能書寫讀誦受持。以是故。諸天來下禮拜般若經卷。或欲聞說。 諸天は、二種の楽の欲楽と定楽とに著すれば、懃苦して、般若波羅蜜を書持する能わざるも、閻浮提の人は、能く精進し、書持し、精学して正憶念す。経に説くが如きは、閻浮提の人は、三因縁を以って諸天、及び鬱単曰の人に勝る、一には能く婬欲を断じ、二には識、念の力強く、三には能く精懃して勇猛なり、と。是の閻浮提の人は、能く書写、読誦、受持す。是を以っての故に、諸天来下して、般若の経巻を礼拜し、或いは説くを聞かんと欲す。
『諸天』は、
『欲楽、定楽という!』、
『二種の楽』に、
『著する!』ので、
『懃苦して!』、
『般若波羅蜜』を、
『書持することができない!』が、
『閻浮提の人』は、
『精進して!』、
『書持し、精学して!』、
『正しく、憶念することができる!』。
『経』に、こう説かれた通りである、――
『閻浮提の人』は、
『三因縁』の故に、
『諸天や、鬱単曰の人』に、
『勝る!』。
一には、
『婬欲』を、
『断じることができ!』、
二には、
『識、念の力』が、
『強く!』、
三には、
『精懃することができ!』、
『勇猛である!』、と。
是の、
『閻浮提の人』は、
『書写し、読誦して!』、
『受持することができる!』ので、
是の故に、
『諸天が来下して!』、
『般若波羅蜜』の、
『経巻』を、
『礼拝し!』、
或は、
『説法』を、
『聞こうとするのである!』。
  精学(しょうがく):くわしく学ぶ。精は粗に対す。
復有人言。天上若有經卷。遠來供養福德增益。求般若波羅蜜。亦無厭足。有菩薩天。欲令般若尊重故來下。欲令眾生益加信敬。諸天尚來。何況我等 復た有る人の言わく、『天上に、若し経巻有りとも、遠く来たりて供養すれば、福徳増益すれば、般若波羅蜜を求めて、亦た厭足する無し。有る菩薩の天は、般若をして尊重ならしめんと欲するが故に来下して、衆生して、益々信敬を加えしめんと欲す。諸天すら尚お来たる、何に況んや、我等をや』、と。
復た、
有る人は、こう言っている、――
『天上』に、
若し、
『経巻が、有ったとしても!』、
『遠来して、供養すれば!』、
『福徳』が、
『増益する!』ので、
『般若波羅蜜を求めて!』、
『厭足すること!』が、
『無いのである!』。
有る、
『菩薩の天』は、
『般若波羅蜜』を、
『尊重させようとする!』が故に、
『来下して!』、
『衆生』に、
『信敬』を、
『益々加えさせようとするのである!』。
『諸天すら!』、
尚お、
『来て!』、
『信敬している!』、
況して、
『我れ等が!』、
『信敬しなくていいはずがない!』。
行者。若聞好香若見光明。有如是希有事故。深心信樂般若。 行者は、若し好香を聞き、若しは光明を見んに、是の如き希有の事有るが故に、深心に般若を信楽す。
『行者』は、
『好香を聞いたり!』、
『光明』を、
『見たりして!』、
是のような、
『希有』の、
『事』が、
『有る!』が故に、
『深心より!』、
『般若』を、
『信楽するのである!』。
又未離欲人。惡鬼魔民常逐。伺便令墮惡處。從四天王乃至淨居天。是大力諸天來小鬼避去。菩薩能生清淨大心。如先品中說。是故來隨逐法師。 又未だ離欲せざる人は、悪鬼、魔民常に逐い、便を伺いて、悪処に堕せしめんとするも、四天王天、乃至浄居天より、是の大力の諸天来たれば、小鬼は避けて去り、菩薩は能く、清浄の大心を生ずること、先の品中に説くが如し。是の故に、来たりて法師に随逐す。
又、
『未だ、離欲しない!』、
『人』を、
『悪鬼や、魔民が常に随逐し!』、
『便を伺って( to seek the chance )!』、
『悪処』に、
『堕ちさせようとする!』。
『四天王、乃至浄居天より!』、
是の、
『大力の諸天が来る!』と、
『小鬼』は、
『避けて去る!』ので、
『菩薩』は、
『清浄の大心』を、
『生じさせることができる!』が、
先の、
『品』中に、
『説いた通りである!』。
是の故に、
『諸天が来て!』、
『法師』に、
『随逐するのである!』。
六齋日諸天來觀人心。十五日三十日上白諸天。 六斎日は、諸天来たりて、人心を観、十五日と三十日に上りて、諸天に白す。
『六斎日』は、
『諸天が来て!』、
『人心』を、
『観て!』、
『十五日、三十日に上って!』、
『諸天』に、
『白す( to report )のである!』。
  (びゃく):もうす。陳述/説明/報告( demonstrate, explain, report )。
復次是六齋日是惡日。令人衰凶。若有是日受八戒持齋布施聽法。是時諸天歡喜。小鬼不得其便。利益行者。是日法師高座說法。如是等種種因緣故。諸天皆來。 復た次ぎに、是の六斎日は、是れ悪日にして、人をして衰凶ならしむ。若し是の日に、八戒を受けて、持斎し、布施し、聴法せば、是の時、諸天歓喜して、小鬼は、其の便を得ずして、行者を利益す。是の日に法師、高座にて法を説けば、是の如き等の種種の因縁の故に、諸天は皆来たる。
復た次ぎに、
是の、
『六斎日』は、
『悪日であり!』、
『人』を、
『凶衰させる!』が、
若し、
是の、
『日』に、
『八戒を受け!』、
『持斎し!』、
『布施し!』、
『聴法すれば!』、
是の時、
『諸天は、歓喜して!』、
『小鬼』は、
其の、
『便を得られず!』、
『行者』を、
『利益する!』ので、
是の日に、
『法師』が、
『高座』で、
『法を説けば!』、
『諸天』が、
皆、
『来ることになる!』。
說法者讚歎無量無邊無上法。所謂般若波羅蜜。亦得無量無邊福德。若為人說。人鈍根福德薄故。得福少。諸天利根福德多。福田勝故得福多。故佛說行者齋日。諸天及大眾中。說般若得福無量。 説法とは、無量無辺無上の法を讃歎す。謂わゆる般若波羅蜜は、又無量無辺の福徳を得ればなり。若し人の為に説かんに、人は鈍根にして、福徳薄きが故に、福を得ること少なく、諸天は利根にして、福徳多く、福田勝れたれば、故に福を得ること多し。故に仏の説きたまわく、『行者は、斎日に、諸天、及び大衆中に般若を説かば、福を得ること無量ならん』、と。
『法を説く!』とは、
『無量、無辺、無上の法』を、
『讃歎することである!』、
謂わゆる、
『般若波羅蜜を讃歎すれば!』、
亦た、
『無量、無辺の福徳』を、
『得ることになる!』。
若し、
『人の為めに説けば!』、
『人は鈍根であり、福徳が薄い!』が故に、
『福』は、
『少ししか得られない!』が、
『諸天は利根であり、福徳が多く!』、
『福田として!』、
『勝る!』が故に、
『諸天の為めに説けば!』、
『福』を、
『多く得ることができる!』。
是の故に、
『仏』は、こう説かれたのである、――
『行者』が、
『六斎日』に、
『諸天や、大衆』中に、
『般若』を、
『説けば!』、
『無量』の、
『福』を、
『得ることができる!』、と。
此中佛可須菩提所言。復自說無量福德因緣。所謂般若波羅蜜。是大珍寶波羅蜜。 是の中に仏は、須菩提の所言を可として、復た自ら無量の福徳の因縁を説きたまえり。謂わゆる般若波羅蜜は、是れ大珍宝波羅蜜なり、と。
此の中に、
『仏』は、
『須菩提』の、
『所説』を、
『可とされて( agreeing )!』、
復た、
自ら、
『無量の福徳の因縁』を、
『説かれた!』。
謂わゆる、
『般若波羅蜜』とは、
『大珍宝』の、
『波羅蜜である!』、と。
如如意寶珠能滿一切人願。是般若波羅蜜。能滿一切眾生願。所謂離苦得樂。 如意宝珠の能く一切の人の願を満たすが如く、是の般若波羅蜜は、能く一切の衆生の願を満たす。謂わゆる離苦と得楽なり。
譬えば、
『如意宝珠』が、
『一切の人』の、
『願』を、
『満たすことができるように!』、
是の、
『般若波羅蜜』は、
『一切の衆生』の、
『願』を、
『満たすことができる!』。
謂わゆる、
『苦を離れて!』、
『楽』を、
『得ることである!』。
離苦者般若波羅蜜。能拔眾生地獄畜生餓鬼及人中貧窮 離苦とは、般若波羅蜜は、能く衆生の地獄、畜生、餓鬼、及び人中の貧窮を抜く。
『苦を離れる!』とは、――
『般若波羅蜜』が、
『衆生』を、
『地獄、畜生、餓鬼、人中の貧窮より!』、
『抜くことができるからである!』。
與樂者。能與刹利大姓乃至阿耨多羅三藐三菩提。是樂因緣善法。般若波羅蜜中廣說。所謂十善道乃至一切智。 与楽とは、能く刹利の大姓、乃至阿耨多羅三藐三菩提を与うればなり。是の楽の因縁の善法は、般若波羅蜜中に広く説けり。謂わゆる十善道、乃至一切智なり。
『楽を与える!』とは、――
『刹利の大姓、乃至阿耨多羅三藐三菩提』を、
『与えることができるからである!』。
是の、
『楽』の、
『因縁である!』、
『善法』は、
『般若波羅蜜』中に、
『広く、説かれており!』、
『謂わゆる、十善道、乃至一切智である!』。
如如意寶能出衣服飲食金銀等隨意所須。般若波羅蜜亦如是。能令得十善道乃至一切智刹利大姓乃至佛。以是事故。名為珍寶波羅蜜。 如意宝の、能く衣服、飲食、金銀等を出して、須むる所の随意なるが如く、般若波羅蜜も亦た是の如く、能く十善道、乃至一切智、刹利の大姓、乃至仏を得しむ。是の事を以っての故に名づけて、珍宝波羅蜜と為す。
譬えば、
『如意宝』が、
『衣服、飲食、金銀等を出すことができて!』、
『所須( anything supporting life )』が、
『随意であるように!』、
『般若波羅蜜』も、
是のように、
『十善道、乃至一切智や、刹利の大姓、乃至仏』を、
『得させることができる!』ので、
是の事の故に、
『珍宝の波羅蜜』と、
『称するのである!』。
  所須(しょしゅ):梵語 upakaraNa の訳、他人の為めに行う行為/奉仕、親切、援助、手助け/利益を行うこと( the act of doing anything for another, doing a service or favour, helping, assisting, benefiting etc. )、更に加える/貢献/便法( anything added over and above, contribution, expedient )の義、生計の手段/生活を維持するもの( means of subsistence, anything supporting life )の意。
復次珍寶波羅蜜者。如人得如意寶。則隨意所須皆得。失則憂惱。是般若波羅蜜。不生不滅常不失。世世與眾生樂。末後令得佛道。 復た次ぎに、珍宝波羅蜜とは、人の如意宝を得れば、則ち随意の須むる所を皆得るが如きは、失えば則ち憂悩す。是の般若波羅蜜は、不生不滅にして、常に失われず、世世に衆生に楽を与え、末後には、仏道を得しむ。
復た次ぎに、
『珍宝波羅蜜』とは、――
譬えば、
『人』が、
『如意宝珠を得れば!』、
『所須』を、
『随意に、皆得ることになる!』が、
『失えば!』、
則ち、
『憂悩することになる!』のに、
是の、
『般若波羅蜜』は、
『不生、不滅である!』が故に、
常に、
『失われず!』、
『世世に!』、
『衆生』に、
『楽を与えながら!』、
『末後には( at last )!』、
『仏道』を、
『得させるのである!』。
如人得如意寶。則心生自高。輕賤他人。是為衰因緣。若人得世間般若波羅蜜亦如是。分別著諸善法。捨諸惡法。生高心輕蔑餘人。則開諸罪門。 人の、如意宝を得て、則ち心に自高を生じ、他人を軽賎すれば、是れを衰の因縁と為すが如く。若し人、世間の般若波羅蜜を得れば、亦た是の如く、諸の善法を分別して著して、諸の悪法を捨て、高心を生じて、余人を軽蔑すれば、則ち諸罪の門を開く。
譬えば、
『人』が、
『如意宝珠を得れば!』、
『心に、自高を生じて!』、
『他人』を、
『軽賎する!』ので、
是れが、
『衰( declining )』の、
『因縁と為るように!』、
若し、
『人』が、
『世間の般若波羅蜜を得ても!』、
是のように、
『分別して!』、
『諸の善法に著して!』、
『諸の悪法を捨てれば!』、
『高心を生じることになり!』、
『餘人』を、
『軽蔑して!』、
則ち、
『諸の罪門』を、
『開くことになる!』。
珍寶般若波羅蜜。出世間般若波羅蜜中。不分別善不善。是名大珍寶波羅蜜。能利眾生畢竟無憂。是珍寶波羅蜜。善法尚不能污染。何況不善法。 珍宝般若波羅蜜なる出世間の般若波羅蜜中には、善と不善とを分別せず、是れを大珍宝波羅蜜と名づけ、能く衆生を利して、畢竟じて無憂ならしむ。是の珍宝波羅蜜は、善法すら尚お汚染する能わず、何に況んや不善法をや。
『珍宝般若波羅蜜という!』、
『出世間の般若波羅蜜』中には、
『善も、不善も!』、
『分別しない!』ので、
是れを、
『大珍宝波羅蜜と称して!』、
『衆生』を、
『利益して!』、
『畢竟じて!』、
『憂』を、
『無くさせるのである!』。
是の、
『珍宝波羅蜜』は、
『善法すら!』、
尚お、
『汚染することができない( cannot defile )!』、
況して、
『不善法』が、
『汚染できるはずがない!』。
如此中說。如是亦不知者如上說。般若相亦不作是知。不作知者不取相。亦不生著不分別不得定相。是名無有過患無有法愛斷諸戲論。 此の中に説けるが如き、『是の如きをも亦た知らず』とは、上に説くが如き般若の相をも、亦た是れを知ると作さず。知るを作さずとは、相を取らず、亦た著を生ぜず、分別せず、定相を得ざるなり。是れを過患有ること無く、法愛有ること無く、諸の戯論を断ずと名づく。
此の中に説かれた、――
『是のように、亦た知らない!』とは、――
上に説いたように、
『般若波羅蜜の相』は、
是れを、
『知る!』と、
『作さないことである( the not doing to )!』。
『知を作さない!』者は、
『相を取らない!』ので、
『著を生じず、分別せず!』、
『定相( the determined marks )』を、
『得ることがない( do not obtain )!』ので、
是れを、
『過患が無いと称し!』、
『法愛が無いので!』、
『諸の戯論』が、
『断じたのである!』。
如是人能實修行般若波羅蜜。以法禮佛。自得實法利益故。能利益眾生。 是の如き人は、能く実に般若波羅蜜を修行し、法を以って仏を礼し、自ら実法の利益を得るが故に、能く衆生を利益す。
是のような、
『人』は、
『般若波羅蜜』を、
『実に!』、
『修行することができ!』、
『法を以って( by the reason of that dharma )!』、
『仏』を、
『礼する!』ので、
『自ら、実法の利益を得る!』が故に、
『衆生』を、
『利益することができる!』。
能自離惡能令眾生離惡故。得淨佛世界。用無所得方便力故。知諸法畢竟寂滅相。而能為眾生故起諸善法。 能く自ら悪を離れて、衆生をして悪を離れしむるが故に、仏世界を浄むるを得、無所得の方便力を用うるが故に、諸法の畢竟じて寂滅相を知り、而も能く衆生の為の故に、諸の善法を起こす。
『自ら、悪を離れることができ!』、
『衆生に、悪を離れさせることができる!』が故に、
『仏世界』を、
『浄めることができ!』、
『無所得の方便力を用いる!』が故に、
『諸法』の、
『畢竟寂滅の相』を、
『知りながら!』、
『衆生の為め!』の故に、
『諸の善法』を、
『起すことができるのである!』。
般若波羅蜜畢竟清淨故。無力無非力。譬如虛空雖無有法而因虛空得有所作。無有一法定相可著故無有力。得諸法實相。於諸善法無礙。乃至降魔成佛非無有力。不受不與不生不滅等。乃至不捨有為法不與無為法亦如是。 般若波羅蜜は、畢竟じて清浄なるが故に、力無く、非力無し。譬えば虚空は、法有ること無しと雖も、而も虚空に因りて、所作有るを得るが如し。一法として、定相の可著有ること無きが故に、力有ること無く、諸法の実相を得て、諸の善法に於いて、無礙なること、乃至降魔、成仏まで、力有ること無きに非ず。受けず、与えず、生ぜず、滅せず等、乃至有為法を捨てずして、無為法を与えざることも、亦た是の如し。
『般若波羅蜜』は、
『畢竟じて清浄である!』が故に、
『力も、非力』も、
『無い!』。
譬えば、
『虚空』には、
『法』が、
『無くても!』、
『虚空に因って!』、
『所作( that which is made )』が、
『有るように!』、
『著すべき!』、
『定相』は、
『一法すら!』、
『無い!』が故に、
『般若波羅蜜』には、
『力』が、
『無く!』、
『諸法の実相を得れば!』、
乃至、
『魔を降して!』、
『仏』と、
『成るまで!』、
『諸の善法』に於いて、
『礙( any obstacle )』が、
『無い!』ので、
『般若波羅蜜』には、
『力』が、
『無いのでもない!』。
亦た、
『不受不与、不生不滅等、乃至有為法を捨てず、無為法を与えない!』のも、
『是の通りである!』。
此中說因緣。有佛無佛諸法性常住。世間 此の中に因縁を説かく、『仏有るも、仏無きも、諸法の性は、世間に常住す』、と。
此の中に、
『因縁』が、こう説かれている、――
『仏』が、
『有っても!』、
『無くても!』、
『諸法の性』は、
『世間』に、
『常住している!』、と。
諸法性者。即是諸法實相。諸法實相者。即是般若波羅蜜。 諸法の性とは、即ち是れ諸法の実相なり。諸法の実相とは、即ち是れ般若波羅蜜なり。
『諸法の性』とは、
『諸法』の、
『実相であり!』、
『諸法の実相』とは、
即ち、
『般若波羅蜜である!』。
若以常無常等。求諸法實相。是皆為錯。若人入法性中求。則無有錯謬。法性常故不失 若し常、無常等を以って、諸法の実相を求むれば、是れ皆錯と為す。若し人、法性中に入りて求むれば、則ち錯謬有ること無し。法性は常なるが故に、失われず。
若し、
『常、無常』等に、
『諸法の実相』を、
『求めれば!』、
是れは、
皆、
『錯である( be wrong )!』。
若し、
『人』が、
『法性中に入って( understanding deeply the nature of a dharma )!』、
『諸法の実相』を、
『求めれば!』、
則ち、
『錯謬すること’( being wrong )!』は、
『無い!』。
『法性』は、
『常である!』が故に、
『失われないからである!』。



【經】第二の法輪が転じられた

【經】爾時諸天子虛空中立。發大音聲踊躍歡喜。以漚缽羅華波頭摩華拘物頭華分陀利華而散佛上。如是言。我等於閻浮提見第二法輪轉。是中無量百千天子。得無生法忍。 爾の時、諸天子、虚空中に立ちて、大音声を発し、踊躍歓喜して、漚鉢羅華、波頭摩華、拘物頭華、分陀利華を以って、仏上に散じ、是の如く言わく、『我等、閻浮提に於いて、第二の法輪の転ずるを見る』、と。是の中の無量百千の天子、無生法忍を得たり。
爾の時、
諸の、
『天子』が、
『虚空』中に、
『立って!』、
『大音声』を、
『発する!』と、
『踊躍し!』、
『歓喜しながら!』、
『仏』上に、
『漚鉢羅華(青蓮華)』、
『波頭摩華(睡蓮)』、
『拘物頭華(赤蓮華)』、
『分陀利華(白蓮華)』を、
『散らし!』、
是のように、言った、――
わたし達は、
『閻浮提』に於いて、
『第二の法輪が転じられる!』のを、
『見ているのだ!』、と。
是の中の、
『無量百千の天子』は、
『無生法忍』を、
『得た!』。
  漚鉢羅華(うぱらけ):梵語 utpala 、青蓮華( the blossom of the blue lotus (Nymphaea Caerulea) )。
  波頭摩華(はづまけ):梵語 padma 、蓮の花、夕方閉じる蓮の花、しばしば睡蓮と混同される( a lotus (esp. the flower of the lotus-plant Nelumbium Speciosum which closes towards evening ; often confounded with the water-lily Nymphaea Alba) )。
  拘物頭華(くもつづけ):梵語 kumuda 、赤蓮華( the red lotus (Nymphaea rubra) )。
  分陀利華(ふんだりけ):梵語 puNDariika 、蓮の花、[特に白い蓮華/複合語の最後に於いては、特に勝れたものを表す]( a lotus-flower (esp. a white lotus ; in fine compositi or 'at the end of a compound' expressive of beauty ) )。
  参考:『大般若経巻296』:『爾時無量百千天子。住虛空中歡喜踊躍。以天所有嗢缽羅華缽特摩華拘母陀華奔荼利華微妙香華及諸香末而散佛上。互相慶慰同聲唱言。我等今者於贍部洲見佛第二轉妙法輪。此中無量百千天子。聞說般若波羅蜜多。俱時證得無生法忍。』
佛告須菩提。是法輪非第一轉。非第二轉。是般若波羅蜜不為轉故出。不為還故出。無法有法空故。須菩提白佛言。世尊。云何無法有法空故。般若波羅蜜不為轉不為還故出。 仏の須菩提に告げたまわく、『是の法輪は、第一の転に非ず、第二の転に非ず。是の般若波羅蜜は、転ぜらるるるが故に出でず、還らさるるが故に出でず。無法有法空の故に』、と。須菩提の仏に白して言さく、『世尊、云何が無法有法空の故に、般若波羅蜜は、転ぜられず、還らさざれざるが故に出づる』、と。
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
是の、
『法輪が転じられる!』のは、
『第一でもなく!』、
『第二でもない!』。
是の、
『般若波羅蜜』は、
『転じられたり、還(めぐ)らされたりする!』が故に、
『出るのでもない!』。
何故ならば、
是の、
『般若波羅蜜』は、
『無法有法空だからである!』、と。
『須菩提』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
何故、
『無法有法空である!』が故に、
『般若波羅蜜』は、
『転じられたり、還らされたりする!』が故に、
『出るのではないのですか?』、と。
  (い):<動詞>作す( do, act, make )、作る/制作/創作( make, compose )、治める( administer )、成る/変成する( become )、学習/研究する( study )、種える/耕作する( plant )、建てる/設置/建立する( establish )、使(し)む( let )、思う/認める( think, believe, consider )、演奏する( play )。<介詞>被( by )、於いて/在りて( in )。<連詞>[並列関係の表示]と( and )、[承接関係の表示]則ち/就いては( then )、[選択関係の表示]或は( or )。<助詞>~の/的/之( of )。<語気>[句尾に用いて反語、疑問を表示し、多くは"何"と配合して用いられる]、[句尾に用いて感嘆を表示]。<動詞>助ける( help )、説く/告げる( tell, speak )。<介詞>因って/由って( because, for, on account of )、~に替わって/~の為めに( for, for the benefit of )、~の[利益の]為めに( for, for the sake of )、[動作・行為の向かう所を表示]~に/~の為めに/に向かって( facing to, toward )。
  (てん):梵語 pravartana の訳、前へ転がる/流れる( rolling or flowing forth )、前進( advance, forward movement )の義。法を説く/教える( teaching )の意。
  (げん):めぐらす。梵語 pratyudaavrajati? の訳、反対の方向へ行く( to go in a contrary direction )の義。呼び戻される( recalled )の意。
  無法有法空(むほううほうくう):梵語 abhaava- svabhaava- zuunyataa の訳、非存在及び存在の空( emptiness of nonexistence and existence )。十八空の一。即ち総じて三世の一切の法の生滅、及び無為法の一切の皆不可得なるを指す。
  参考:『大般若経巻296』:『爾時佛告具壽善現言。如是法輪非第一轉非第二轉。所以者何。善現。如是般若波羅蜜多。於一切法不為轉故不為還故出現於世。何以故。以無性自性空故。具壽善現白佛言。世尊。以何等法無性自性空故如是般若波羅蜜多。於一切法不為轉故不為還故出現於世。』
佛言。般若波羅蜜般若波羅蜜相空。乃至檀波羅蜜檀波羅蜜相空。內空內空相空。乃至無法有法空。無法有法空相空。四念處四念處相空。乃至八聖道分。八聖道分相空。佛十力。佛十力相空。乃至十八不共法十八不共法相空。須陀洹果須陀洹果相空。斯陀含果斯陀含果相空。阿那含果阿那含果相空。阿羅漢果阿羅漢果相空。辟支佛道辟支佛道相空。一切種智一切種智相空。 仏の言わく、『般若波羅蜜は般若波羅蜜の相空にして、乃至檀波羅蜜は檀波羅蜜の相空なり。内空は内空の相空にして、乃至無法有法空は無法有法空の相空なり。四念処は四念処の相空にして、乃至八聖道分は八聖道分の相空なり。仏の十力は仏の十力の相空にして、乃至十八不共法は十八不共法の相空なり。須陀洹果は須陀洹果の相空、斯陀含果は斯陀含果の相空、阿那含果は阿那含果の相空、阿羅漢果は阿羅漢果の相空にして、辟支仏道は辟支仏道の相空なり。一切種智は一切種智の相空なればなり。
『仏』は、こう言われた、――
『般若波羅蜜』は、
『般若波羅蜜の相』が、
『空であり!』、
『乃至、檀波羅蜜』は、
『檀波羅蜜の相』が、
『空であり!』、
『内空』は、
『内空の相』が、
『空であり!』、
『乃至、無法有法空』は、
『無法有法空の相』が、
『空であり!』、
『四念処』は、
『四念処の相』が、
『空であり!』、
『乃至、八聖道分』は、
『八聖道分の相』が、
『空であり!』、
『仏の十力』は、
『仏の十力の相』が、
『空であり!』、
『乃至、十八不共法』は、
『十八不共法の相』が、
『空であり!』、
『須陀洹果』は、
『須陀洹果の相』が、
『空であり!』、
『乃至、阿羅漢果』は、
『阿羅漢果の相』が、
『空であり!』、
『辟支仏道』は、
『辟支仏道の相』が、
『空であり!』、
『一切種智』は、
『一切種智の相』が、
『空だからである!』。
  参考:『大般若経巻296』:『佛言。善現。以般若波羅蜜多般若波羅蜜多性空故。靜慮精進安忍淨戒布施波羅蜜多靜慮乃至布施波羅蜜多性空故。善現。以內空內空性空故。外空內外空空空大空勝義空有為空無為空畢竟空無際空散空無變異空本性空自相空共相空一切法空不可得空無性空自性空無性自性空。外空乃至無性自性空性空故。善現。以真如真如性空故。法界法性不虛妄性不變異性平等性離生性法定法住實際虛空界不思議界。法界乃至不思議界性空故。善現。苦聖諦苦聖諦性空故。集滅道聖諦集滅道聖諦性空故。善現。以四靜慮四靜慮性空故。四無量四無色定四無量四無色定性空故。善現。以八解脫八解脫性空故。八勝處九次第定十遍處八勝處九次第定十遍處性空故。善現。以四念住四念住性空故。四正斷四神足五根五力七等覺支八聖道支四正斷乃至八聖道支性空故。善現。以空解脫門空解脫門性空故。無相無願解脫門無相無願解脫門性空故。善現。以菩薩十地菩薩十地性空故』
須菩提白佛言。世尊。諸菩薩摩訶薩般若波羅蜜。是摩訶波羅蜜。何以故。雖一切法自相空。而諸菩薩摩訶薩因般若波羅蜜。得阿耨多羅三藐三菩提。亦無法可得。轉法輪亦無法可轉。亦無法可還。 須菩提の仏に白して言さく、『世尊、諸の菩薩摩訶薩の般若波羅蜜は、是れ摩訶波羅蜜なり。何を以っての故に、一切法は自相空なりと雖も、而も諸の菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜に因りて、阿耨多羅三藐三菩提を得て、亦た法の得べき無く、法輪を転ずるも、亦た法の転ずべき無く、亦た法の還らすべき無ければなり。
『須菩提』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
諸の、
『菩薩摩訶薩』の、
『般若波羅蜜』は、
『摩訶波羅蜜です!』。
何故ならば、
『一切法』は、
『自相』が、
『空でありながら!』、
『諸の菩薩摩訶薩』は、
『般若波羅蜜に因って!』、
『阿耨多羅三藐三菩提を得ながら!』、
『可得の法』は、
『無いのであり!』、
『法輪を転じながら!』、
『可転の法も、可還の法も!』、
『無いからです!』。
  参考:『大般若経巻296』:『具壽善現復白佛言。世尊。菩薩摩訶薩般若波羅蜜多。是大波羅蜜多。達一切法自性空故。雖達一切法自性皆空。而諸菩薩摩訶薩。因此般若波羅蜜多。證得無上正等菩提。轉妙法輪度無量眾。雖證菩提而無所證。證不證法不可得故。雖轉法輪而無所轉。轉法還法不可得故。雖度有情而無所度。見不見法不可得故。世尊。如是大般若波羅蜜多中。轉法輪事畢竟不可得。以一切法皆永不生故。所以者何。非空無相無願法中。可有能轉及能還事。世尊。於此般若波羅蜜多。若能如是宣說開示分別顯了令易悟入。是名善淨。宣說般若波羅蜜多。此中都無說者受者。既無說者及受者故。諸能證者亦不可得。無證者故亦無有能得涅槃者。於此般若波羅蜜多善說法中亦無福田。施受施物皆性空故』
是摩訶般若波羅蜜中。亦無有法可見。何以故。是法不可得。若轉若還。一切法畢竟不生故。 是の摩訶般若波羅蜜中に、亦た法の見るべきもの有ること無し。何を以っての故に、是の法は、不可得なれば、若しは転じ、若しは還らすも、一切の法は、畢竟じて不生なるが故なり。
是の、
『摩訶般若波羅蜜』中には、
亦た、
『可見の法』も、
『無いのです!』。
何故ならば、
是の、
『法は、不可得であり( this dharma is unrecognizable )!』、
『転じようが、還らそうが!』、
『一切法』は、
『畢竟じて不生だからです!』。
何以故。是空相不能轉不能還。無相相不能轉不能還。無作相不能轉不能還。 何を以っての故に、是の空の相は、転ずる能わず、還らす能わず、無相の相は、転ずる能わず、還らす能わず、無作の相は、転ずる能わず、還らす能わざればなり。
何故ならば、
是の、
『空の相、無相の相、無作の相』は、
『転じることもできず!』、
『還らすこともできないからです!』。
若能如是說般若波羅蜜。教照開示分別顯現解釋淺易。有能如是教者。是名清淨說般若波羅蜜。亦無說者亦無受者亦無證者。若無說無受無證亦無滅者。是說法中。亦無畢定福田 若し能く是の如く、般若波羅蜜を説いて、教え、照らし、開き、示し、分別し、顕現し、解釈して、浅易ならしめ、有るいは能く是の如く教うれば、是れを清浄に般若波羅蜜を説くと名づくるも、亦た説く者無く、亦た受くる者無く、亦た証する者無し。若し説無く、受無く、証無く、亦た滅無くんば、是れ法を説く中にも、亦た畢定せる福田無し。
若し、
是のように、
『般若波羅蜜を説き、教え、照らして!』、
『開示し、分別し、顕現し、解釈して!』、
『般若波羅蜜』を、
『浅く、易しくすることができれば!』、
是のように、
『教えることのできる!』者が、
『有れば!』、
是れを、
『般若波羅蜜を、清浄に説く!』と、
『称する!』が、
亦た、
『説く者も、受ける者も、証する者も!』、
『無いのである!』。
若し、
『説も、受も、証も無ければ!』、
亦た、
『滅する!』者も、
『無いのであり!』、
是の、
『説法』中には、
亦た、
『畢定の福田( this Buddha )』も、
『無いのである!』。



【論】第二の法輪が転じられた

【論】釋曰。諸天聞般若。大歡喜踊躍。諸天身輕利根。分別著相知有輕重。聞般若波羅蜜畢竟清淨平等實相。大利益眾生。無有過者。是故踊躍歡喜。起身業口業。持供養具蓮華等供養於佛。作是言。我等於閻浮提。見第二法輪轉。 釈して曰く、諸天は、般若を聞いて大歓喜し踊躍す。諸天は身軽く、利根にして、著相を分別して、軽重有るを知るに、般若波羅蜜の畢竟清浄、平等実相にして、衆生を大利益し、過有ること無きを聞けば、是の故に、踊躍歓喜して、身業、口業を起し、供養の具の蓮華等を持して仏を供養し、是の言を作さく、『我等は、閻浮提に於いて、第二の法輪の転ずるを見る』、と。
釈す、
『諸天』は、
『般若を聞いて!』、
『大歓喜し!』、
『踊躍した!』。
『諸天』は、
『身が軽く、利根であり!』、
『著相を分別して!』、
『軽、重が有る!』のを、
『知り!』、
『般若波羅蜜』は、
『畢竟清浄の平等の実相であり!』、
『衆生を大利益しながら、過が無い!』と、
『聞いた!』ので、
是の故に、
『踊躍、歓喜して!』、
『身業、口業を起し!』、
『蓮華等の供養の具を持って!』、
『仏を供養しながら!』、
こう言った、――
わたし達は、
『閻浮提』に於いて、
『第二の法輪が転じられる!』のを、
『見ているのだ!』、と。
問曰。初說法令人得道。是名轉法輪。今何以言第二法輪轉。若以佛說名為轉法輪者。皆是法輪何限第二。 問うて曰く、初の説法に、人をして道を得しむ、是れを法輪を転ずと名づく。今は、何を以ってか、第二の法輪転ずと言う。若し仏の説きたもうを以って、名づけて法輪を転ずと為さば、皆是れ法輪なり、何んが第二に限らんや。
問い、
『初の説法』は、
『人』に、
『道を得させる!』ので、
是れを、
『法輪を転じる!』と、
『称する!』が、
今は、何故、
『第二の法輪が転じられる!』と、
『言うのですか?』。
若し、
『仏が説く!』のを、
『法輪を転じる!』と、
『称すれば!』、
『仏の説法』は、
皆、
『法輪である!』のに、
何故、
『第二』と、
『限るのですか?』。
答曰。初說法。名定實一法輪。因初轉乃至法盡。通名為轉。 答えて曰く、初の説法を、定実の一法輪と名づくるに、初めて転じたもうに因りて、乃至法の尽くるまでを、通じて名づけて、転と為す。
答え、
『初の説法』を、
『定実』の、
『第一法輪』と、
『称し!』、
『初めて転じられてより、乃至法が尽きるまでを通じて!』、
『仏の説法』を、
『転じる!』と、
『称する!』。
  転法輪(てんぽうりん):法の輪を回転させること( to turn the wheel of the Dharma )、梵語 dharma- cakra- pravartana の訳、仏の法は、しばしば乗(乗り物)と呼ばれるが、その乗の車輪を回転させるとは、それを前に進ませるということである( The Buddha's dharma is often called a 'vehicle' 乘, and to turn the wheels of a vehicle is to propel it forward. )。
是諸天見是會中。多有人發無上道。得無生法忍。見是利益故。讚言第二轉法輪。 是の諸天は、是の会中に、多く、無上道を発して、無生法忍を得る人有るを見れば、是の利益を見るが故に、讃じて、第二の転法輪と言えり。
是の、
『諸天』は、
是の、
『会』中に、
『無上道を発して、無生法忍を得る!』、
『人が、多く有る!』のを、
『見て!』、
是の、
『利益を見た!』が故に、
『説を讃えて!』、
『第二の法輪が転じられた!』と、
『言ったのである!』。
初轉法輪。八萬諸天得無生法忍。阿若憍陳如一人得初道。今無量諸天得無生法忍。是故說第二法輪轉。今轉法輪似如初轉。 初の転法輪には、八万の諸天、無生法忍を得、阿若憍陳如一人、初道を得たるに、今、無量の諸天、無生法忍を得たり、是の故に、第二の法輪転ずと説く。今の転法輪の似たること、初転の如くなればなり。
『初めて!』、
『法輪が転じられる!』と、
『八万の諸天』が、
『無生法忍』を、
『得て!』、
『阿若憍陳如一人』が、
『初道』を、
『得ただけである!』が、
今、
『無量の諸天』が、
『無生法忍』を、
『得た!』ので、
是の故に、
『第二の法輪が転じられた!』と、
『説くのである!』が、
今、
『法輪が転じられる!』と、
『初めて、転じられた!』のに、
『そっくりであり、似ていたからである!』。
問曰。今轉法輪多人得道。初轉法輪得道者少。云何以大喻小。 問うて曰く、今の転法輪に、多くの人道を得、初の転法輪には道を得る者少なし。云何が、大を以って、小を喻う。
問い、
『今、法輪を転じられる!』と、
『多くの人』が、
『道を得た!』が、
『初めて、法輪を転じられた!』時、
『道を得た!』者は、
『少かった!』。
何故、
『大を用いて!』、
『小に喻えるのですか?』。
答曰。諸佛事有二種。一者密。二者現。 答えて曰く、諸仏の事には、二種有り、一には密、二には現なり。
答え、
『諸仏』の、
『事(work)は二種有り!』、
一には、
『密( implied )』の、
『事であり!』、
二には、
『現( expressed )』の、
『事である!』。
  (みつ):梵語 abhisaMdhi の訳、暗示された( implied )の義、梵 abhidyotana の顕/現( expressed )に対す。
初轉法輪。聲聞人見八萬一人得初道。諸菩薩見無數阿僧祇人得聲聞道。無數人種辟支佛道因緣。無數阿僧祇人。發無上道心。無數阿僧祇人。行六波羅蜜道。得諸深三昧陀羅尼門。十方無量眾生。得無生法忍。無量阿僧祇眾生。從初地中乃至十地住。無量阿僧祇眾生。得一生補處。無量阿僧祇眾生。得坐道場聞是法疾成佛道。如是等不可思議相。是名密轉法輪相。譬如大雨大樹則多受小樹則少受。 初の転法輪を、声聞人は、八万と一人、初道を得と見、諸の菩薩は、無数阿僧祇の人、声聞道を得、無数の人、辟支仏道の因縁を種え、無数阿僧祇の人、無上道の心を発し、無数阿僧祇の人、六波羅蜜の道を行じて、諸の深き三昧と陀羅尼門を得、十方の無量の衆生、無生法忍を得、無量阿僧祇の衆生、初地中より乃至十地に住し、無量阿僧祇の衆生、一生補処を得、無量阿僧祇の衆生、道場に坐して、是の法を聞くを得、疾かに仏道を成ずと見る。是れ等の不可思議の相は、是れを密の転法輪の相と名づく。譬えば大雨に、大樹は則ち多く受け、小樹は則ち少し受くるが如し。
『初めて、法輪が転じられる!』と、
『声聞人』は、
『八万一人』が、
『初道を得た!』と、
『見ただけである!』が、
『諸菩薩』は、
『無数阿僧祇の人が、声聞道を得!』、
『無数の人が、辟支仏道の因縁を種え!』、
『無数阿僧祇の人が、無上道の心を発し!』、
『無数阿僧祇の人が、六波羅蜜を行じて、諸の深三昧陀羅尼門を得!』、
『十方の無量の衆生が、無生法忍を得!』、
『無量阿僧祇の衆生が、初地中乃至十地に住し!』、
『無量阿僧祇の衆生が、一生補処を得!』、
『無量阿僧祇の衆生が、道場に坐しすことができ!』、
是の、
『法を聞いて、疾かに仏道を成じた!』と、
『見たので!』、
是れ等のような、
『不可思議の相』を、
『密の転法輪相』と、
『称する!』。
譬えば、
『大雨』を、
『大樹ならば!』、
『多く!』、
『受けることになる!』が、
『小樹ならば!』、
『少ししか!』、
『受けられないようなものである!』。
以是故。當知初轉法輪亦大。以後喻前無咎。 是を以っての故に、当に知るべし、初の転法輪も亦た大なれば、後を以って前を喻うとも、咎無し。
是の故に、こう知ることになる、――
『初じめて転じられた!』、
『法輪』も、
『大であった!』が故に、
『後を用いて、前を喻えても!』、
『咎』は、
『無いのである!』。
轉法輪非一非二者。為畢竟空及轉法輪果報涅槃故。如是說。是則因中說果。 転法輪の一に非ず、二に非ずとは、畢竟空の為めに、転法輪の果報の涅槃に及ぶが故に、是の如く説けり。是れ則ち因中に果を説けり。
『転じられた!』、
『法輪』は、
『一でも、二でもない!』とは、――
『法輪』を、
『転じること!』は、
『畢竟空であり!』、
『法輪を転じる!』、
『果報は涅槃である!』が故に、
是のように、
『一でも、二でもない!』と、
『説くのであり!』、
是れは、
『因』中に、
『果を説いたのである!』。
法輪即是般若波羅蜜。是般若波羅蜜。無起無作相故。無轉無還。 法輪とは、即ち是れ般若波羅蜜なり。是の般若波羅蜜は、無起、無作の相なるが故に、転無く、還無し。
『法輪』とは、
『般若波羅蜜である!』が、
是の、
『般若波羅蜜は無起、無作の相である!』が故に、
『転じることも、還らすことも!』、
『無い!』。
如十二因緣中說。無明畢竟空故。不能實生諸行等。無明虛妄顛倒。無有實定故。無法可滅 十二因縁中に説くが如き、無明は畢竟じて空なるが故に、実に諸行等を生ずる能わず。無明は虚妄、顛倒にして、実定有ること無きが故に、法の滅すべき無し。
例えば、
『十二因縁』中に、こう説く通りである、――
『無明』は、
『畢竟じて空である!』が故に、
『諸行』等を、
『実に生じさせることはなく!』、
『無明』は、
『虚妄の顛倒であり、定実が無い!』が故に、
『滅すべき法』は、
『無いのである!』、と。
說世間生法故。名為轉。說世間滅法故。名為還。般若波羅蜜中。無此二事故。說無轉無還。 世間の生法を説くが故に名づけて、転と為し、世間の滅法を説くが故に名づけて、還と為す。般若波羅蜜中には、此の二事無きが故に、『転無く、還無し』と説く。
『世間に生じる!』、
『法を説く!』が故に、
『転じる!』と、
『称し!』、
『世間より滅する!』、
『法を説く!』が故に、
『還らす!』と、
『称する!』が、
『般若波羅蜜』中には、
此の、
『二事が無い!』が故に、
『転じることも、還らすことも無い!』と、
『説くのである!』。
無法有法空故。無轉是有法空。無還是無法空。 無法有法空の故にとは、転無きは是れ有法空にして、還無きは是れ無法空なり。
『無法有法空である!』が故に、
『転じる!』者が、
『無ければ!』、
『有法空であり!』、
『還らす!』者が、
『無ければ!』、
『無法空である!』。
問曰。須菩提何以作是問。有法無法空故。般若波羅蜜。不為轉不為還故出。而佛還以空答。 問うて曰く、須菩提は、何を以ってか、是の問を作さく、『有法無法空の故に、般若波羅蜜は、転ぜられ、還らさるるが故に出でず』、と。而も仏は還って、空を以って答えたまえる。
問い、
『須菩提』は、
何故、こう問うたのであり、――
『有法無法空』の故に、
『般若波羅蜜』は、
『転じられたり、還らされたりする!』が故に、
『出たのではないのですか?』、と。
而も、
『仏』は、
『還って!』、
『空であるからだ!』と、
『答えられたのですか?』。
答曰。有人說。諸法有四種相。一者說有。二者說無。三者說亦有亦無。四者說非有非無。 答えて曰く、有る人の説かく、『諸法には四種の相有り、一には、『有』と説き、二には、『無』と説き、三には、『亦有亦無』と説き、四には、『非有非無』と説く』、と。
答え、
有る人は、こう説いている、――
『諸法』には、
『四種の相が有り!』、
一には、
『有る!』と、
『説き!』、
二には、
『無い!』と、
『説き!』、
三には、
『有ったり、無かったりだ!』と、
『説き!』、
四には、
『有るでもなく、無いでもない!』と、
『説かれるからである!』、と。
是中邪憶念故。四種邪行。著此四法故。名為邪道。是中正憶念故。四種正行中不著故。名為正道。 是の中に、邪憶念の故に、四種に邪行して、此の四法に著するが故に、名づけて邪道と為す。是の中に、正憶念の故に、四種の正行中に著せざるが故に、名づけて正道と為す。
是の、
『四種の相』中に、
『邪に( wrongly )!』、
『憶念する!』が故に、
『四種の邪行があり!』、
此の、
『四法』に、
『著する!』が故に、
是れを、
『邪道』と、
『称し!』、
是の、
『四種の相』中に、
『正しく( correctly )!』、
『憶念する!』が故に、
『四種』の、
『正行』中に、
『著すことがない!』ので、
是の故に、
『正道』と、
『称するのである!』。
是中破非有非無故。名無法有法空。佛說乃至破非有非無故。說無有轉無有還。 是の中に、非有非無を破るが故に、無法有法空と名づく。仏は、乃至非有非無を破るを説きたまわんが故に説きたまわく、『転有ること無く、還有ること無し』、と。
是の、
『四種の相』中の、
『非有非無を破る!』が故に、
『無法有法空』と、
『称する!』が、
『仏』は、
『有、無、乃至非有非無』を、
『説いて!』、
『破ろうとされた!』が故に、
『転じることも、還らすことも!』、
『無い!』と、
『説かれたのである!』。
破非有非無有二種。一者用上三句破。二者用涅槃實相破。 非有非無を破るに二種有り、一には上の三句を用いて破り、二には、涅槃の実相を用いて破る。
『非有非無を破る!』には、
『二種有り!』、
一には、
『上の三句を用いて!』、
『破り!』、
二には、
『涅槃の実相を用いて!』、
『破るのである!』が、
須菩提雖知佛以涅槃破有無。是中有新發意菩薩。或錯謬故。用三句。破非有非無。於無法有法空中。還生邪見。是故佛說有法無法亦自相空。是故說般若波羅蜜無轉無還。 須菩提は、仏の、涅槃を以って有無を破るを知ると雖も、是の中には新発意の菩薩有れば、或いは錯謬せんが故に、三句を用いて、非有非無を破り、無法有法空中に於いて、還って邪見を生ぜり。是の故に、仏の説きたまわく、『無法有法空も亦た自相は空なり。是の故に般若波羅蜜には、転無く、還無しと説けり』、と。
『須菩提』は、
『仏』は、
『涅槃を用いて!』、
『有、無を破ろうとされた!』のを、
『知りながら!』、
是の中の、
有る、
『新発意』の、
『菩薩』が、
『或は、錯謬するかもしれない!』が故に、
『三句を用いて!』、
『非有非無』を、
『破った!』ので、
還って、
『無法有法空』中に於いて、
『邪見』を、
『生じることになった!』。
是の故に、
『仏』は、こう説かれたのである、――
『有法無法空』も、
亦た、
『自相』は、
『空であり!』、
是の故に、
『般若波羅蜜には転じることも、還らすことも無い!』と、
『説いたのである!』、と。
般若波羅蜜中。無般若波羅蜜相。一切法無相故。乃至檀波羅蜜亦如是。內空乃至一切種智相空亦如是。 般若波羅蜜中には、般若波羅蜜の相無し。一切の法は無相なるが故なり。乃至檀波羅蜜も亦た是の如く、内空、乃至一切種智の相の空なるも亦た是の如し。
『般若波羅蜜』中に、
『般若波羅蜜の相が無い!』のは、
『一切法』が、
『無相だからであり!』、
乃至、
『檀波羅蜜』も、
『是の通りであり!』、
又、
『内空の相、乃至一切種智の相が空である!』のも、
『是の通りである!』。
爾時須菩提及大眾。歡喜讚歎般若波羅蜜作是言。大波羅蜜所謂般若波羅蜜。 爾の時、須菩提、及び大衆は、歓喜して、般若波羅蜜を讃歎し、是の言を作さく、『大波羅蜜とは、謂わゆる般若波羅蜜なり』、と。
爾の時、
『須菩提と大衆は、歓喜して!』、
『般若波羅蜜を讃歎しながら!』、こう言った、――
『大波羅蜜』とは、
『謂わゆる、般若波羅蜜である!』、と。
大波羅蜜者。所謂一切法雖自性空。而般若波羅蜜。能利益菩薩。令得阿耨多羅三藐三菩提。雖得亦無所得。雖轉法輪亦無所轉。 大波羅蜜とは、謂わゆる一切の法は、自性空なりと雖も、般若波羅蜜は、能く菩薩を利益して、阿耨多羅三藐三菩提を得しめ、得と雖も、亦た所得無く、法輪を転ずと雖も、亦た転ずる所無し。
『大波羅蜜』とは、
謂わゆる、
『一切法』は、
『自性』が、
『空でありながら!』、
『般若波羅蜜』は、
『菩薩を利益して!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得させ!』、
『阿耨多羅三藐三菩提を得させながら!』、
『所得』が、
『無く!』、
『法輪を転じながら!』、
『転じる!』所が、
『無いからである!』。
問曰。若諸法空。般若波羅蜜空。阿耨多羅三藐三菩提亦空。不應讚般若為摩訶波羅蜜。 問うて曰く、若し諸法は空にして、般若波羅蜜も空、阿耨多羅三藐三菩提も亦た空なれば、応に般若を讃じて、摩訶波羅蜜と為すべからず。
問い、
若し、
『諸法も、般若波羅蜜も、阿耨多羅三藐三菩提も!』、
『皆、空ならば!』、
『般若波羅蜜は、摩訶波羅蜜である!』と、
『讃じるべきではない!』。
答曰。此中說一切法自性空故。自性空中。亦無自性空。是故名摩訶波羅蜜。 答えて曰く、此の中に説かく、『一切の法は、自性空なり』、と。故に、自性の空中には、亦た自性空も無し。是の故に、摩訶波羅蜜と名づく。
答え、
此の中に、こう説かれている、――
『一切法』は、
『自性』が、
『空である!』が故に、
『自性空』中には、
亦た、
『自性空』も、
『無い!』ので、
是の故に、
『摩訶波羅蜜』と、
『称するのである!』、と。
若無空相不應作難。以畢竟空故無所礙。而能行諸善法。得阿耨多羅三藐三菩提。世俗法故非第一義。 若し空相無ければ、応に難を作すべからず。畢竟じて空なるを以っての故に所礙無く、而も能く諸の善法を行じて、阿耨多羅三藐三菩提を得ること、世俗の法なるが故に、第一義に非ず。
若し、
『空相が無ければ!』、
『皆、空なのに!』と、
『難じるべきではない!』。
『畢竟空を用いる!』が故に、
『礙うる所が無くなって!』、
『諸善法』を、
『行じることができ!』、
而も、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得ることができる!』のは、
『畢竟空』が、
『世俗法だからであり!』、
『第一義ではないからである!』。
諸佛雖說法令他得道。破煩惱從此至彼名為轉。今我等諸煩惱。虛誑顛倒妄語無有定相。若無定相為何所斷。若無所斷亦無轉無還。是故說雖轉法輪亦無轉還。 諸仏は、法を説いて、他をして道を得しめ、煩悩を破りて、此より彼に至らしむるを、名づけて転と為すと雖も、今我等は、諸の煩悩の虚誑、顛倒して、妄語するも、定相有ること無し。若し定相無ければ、何をか断ずる所と為す。若し断ずる所無ければ、亦た転ずる無く、還らす無し。是の故に説かく、『法輪を転ずと雖も、亦た転も還も無し』、と。
『諸仏』は、
『法を説いて!』、
『他人に!』、
『道を得させ!』、
『煩悩を破って!』、
『此より、彼に!』、
『至らせる!』ので、
是れを、
『転じる!』と、
『称する!』が、
今、
わたし達は、
『諸煩悩』が、
『虚誑( deceiving )し!』、
『顛倒( inverting )する!』が故に、
『妄語しても( to speach falsely )!』、
『定相』が、
『無い!』。
若し、
『定相が無ければ!』、
何のような、
『法』が、
『断じられるのか?』。
若し、
『所断の法が無ければ!』、
『転じることも、還らすことも!』、
『無いはずであり!』、
是の故に、こう説かれたのである、――
『法輪を転じながら!』、
『転じることも、還らすことも!』、
『無い!』、と。
何以故。是般若波羅蜜中。無有法。五眼所能見。 何を以っての故に、是の般若波羅蜜中には、法の五眼の能く見る所有ること無ければなり。
何故ならば、
是の、
『般若波羅蜜』中には、
『五眼に見られる!』、
『法』は、
『無いからである!』。
若轉若還一切法。從本已來畢竟不生故。是自性空畢竟空。非轉相非還相。 若しは転じ、若しは還らすも、一切の法は、本より以来、畢竟じて不生なるが故に、是の自性は空、畢竟じて空にして、転相に非ず、還相に非ず。
『転じようが、還らそうが!』、
『一切法』は、
『本より!』、
『畢竟じて不生である!』が故に、
是の、
『自性空、畢竟空である!』、
『一切法』は、
『転相でもなく、還相でもない!』。
畏墮常故不轉。畏墮滅故不還。畏墮有故不轉。畏墮無故不還。畏著世間故不轉。畏著涅槃故不還。如是自性空畢竟空十八空等無量諸空。是空解脫門。不轉不還無相無作。亦如是 常に堕するを畏るるが故に転ぜず、滅に堕するを畏るるが故に還らさず、有に堕するを畏るるが故に転ぜず、無に堕するを畏るるが故に還らさず、世間に著するを畏るるが故に転ぜず、涅槃に著するを畏るるが故に還らさず、是の如き自性空、畢竟空、十八空等の無量の諸空は、是れ空解脱門にして転ぜず、還らさず。無相、無作なることも亦た是の如し。
『常に堕ちる!』のを、
『畏れる!』が故に、
『転じるのでもなく!』、
『滅に堕ちる!』のを、
『畏れる!』が故に、
『還らすのでもない!』。
『有に堕ちる!』のを、
『畏れる!』が故に、
『転じるのでもなく!』、
『無に堕ちる!』のを、
『畏れる!』が故に、
『還らすのでもない!』。
『世間に著する!』のを、
『畏れる!』が故に、
『転じるのでもなく!』、
『涅槃に著する!』のを、
『畏れる!』が故に、
『還らすのでもない!』。
是のような、
『自性空、畢竟空、十八空等の無量の諸空』は、
『空解脱門であり!』、
『転じることも、還らされることもない!』。
亦た、
『無相、無作』も、
『是の通りである!』。
入是三解脫門。捨我我所心。是名說得解脫。 是の三解脱門に入りて、我、我所の心を捨つれば、是れを名づけて、解脱を得と説く。
是の、
『三解脱門に入って!』、
『我、我所の心』を、
『捨てれば!』、
是れを、
『解脱を得る!』と、
『説くのである!』。
能如是不取相不著心。說般若波羅蜜。教照等 『能く是の如く相を取らず、不著の心もて、般若波羅蜜を説いて教え、照らす』等とは、――
是のように、
『相を取らない!』、
『不著の心』で、
『般若波羅蜜を説き!』、
『教え、照す等ができれば!』とは、――
說者。若案文若口傳。 説くとは、若しは文を案じ、若しは口もて伝うるなり。
『説く!』とは、――
『文を案じたり!』、
『口』で、
『伝えることである!』。
教者為人讚般若。令受持讀誦正憶念。 教うとは、人の為に般若を讃じて、受持、読誦、正憶念せしむるなり。
『教える!』とは、――
『人の為め!』に、
『般若波羅蜜を讃じて!』、
『受持させ、読誦させて!』、
『正しく!』、
『憶念させることである!』。
照者如人執燈照物。若人不知般若。以智慧明照之令知。 照らすとは、人の灯を執りて、物を照すが如し。若し人、般若を知らずんば、智慧の明を以って、之を照らして、知らしむなり。
『照らす!』とは、――
譬えば、
『人』が、
『灯を執って!』、
『物』を、
『照らすように!』、
若し、
『人』が、
『般若』を、
『知らなければ!』、
『智慧の明』で、
『般若を照らし!』、
『知らせることである!』。
開者如寶藏閉門雖有好物而不能得。若開其門則隨意所取。如人疑不信般若者。開邪疑扉折無明關。是人則隨意所取。 開くとは、宝蔵の門を閉づれば、好物有りと雖も得る能わず、若し其の門を開けば、則ち意に随うて取る所あるが如く、人の疑いて、般若を信ぜざるが如きは、邪疑の扉を開き、無明の関を折れば、是の人は則ち意に随うて取る所あり。
『開く!』とは、――
『宝蔵』は、
『門を閉じれば!』、
『好物が有っても!』、
『得られない!』が、
若し、
『門を開けば!』、
『取る!』所が、
『意のままであるように!』、
若し、
『人』が、
『般若』を、
『疑って!』、
『信じなくても!』、
『邪疑』の、
『扉』を、
『開いて!』、
『無明』の、
『関(the door bar)』を、
『折れば!』、
是の、
『人』は、
『取る!』所が、
『意のままなのである!』。
  (かん):心張り棒( door bar )。
示者如人眼視不明指示好醜。如人有小信小智者。示是道非道是利是失等。 示すとは、人の眼の、視ること不明なるに、指もて好醜を示すが如く、人の小信、小智有る者なるが如きに、是れ道なり、道に非ず、是れ利なり、是れ失なり等を示すなり。
『示す!』とは、――
譬えば、
『人』が、
『眼』で、
『視て!』、
『明らかでなければ!』、
『指』で、
『好、醜』を、
『示すように!』、
例えば、
『人の有する!』、
『信、智』が、
『少なければ!』、
是れは、
『道であるとか、道でない!』と、
『示し!』、、
是れは、
『利であるとか、失である!』等を、
『示すことである!』。
分別者分別諸法是善是不善是罪是福是世間是涅槃經書。略說難解難信。能廣為分別解說。令得信解。 分別すとは、諸法を是れ善なり、是れ不善なり、是れ罪なり、是れ福なり、是れ世間なり、是れ涅槃なりと分別するなり。経書の略説にして難解難信なるを、能く広く為に分別し、解説して、信解を得しむなり。
『分別する!』とは、 ――
『諸法』を、
是れは、
『善であるとか、不善である!』と、
『分別し!』、
是れは、
『罪であるとか、福である!』と、
『分別し!』、
是れは、
『世間であるとか、涅槃である!』と、
『分別することであり!』、
『経書』が、
『略説されていて!』、
『難信であり!』、
『難解である!』が為に、
『広く!』、
『分別して!』、
『解説し!』、
『人』に、
『信、解』を、
『得させることである!』。
顯現者佛為種種眾生說種種法。或時毀呰善法。助不善法。趣令眾生得解。 顕現とは、仏は、種種の衆生の為に、種種の法を説きたまい、或いは時に善法を毀呰して、不善法を助け、趣(うな)がして衆生をして、解を得しめたもう。
『顕現する!』とは、――
『仏』は、
『種種の衆生の為め!』に、
『種種の法』を、
『説かれた!』ので、
或は時に、
『善法を毀呰して!』、
『不善法』を、
『助けられたとしても!』、
『趣( the purport )』は、
『衆生』に、
『解を得させるためである!』。
  (しゅ):<動詞>催促する/促がす( urge )、趨向/傾向がある( tend )、急いで向かう( hurry off to )、追いかける/夢中になる( catch up )、取る( take )、あざ笑う( ridicule )、<副詞>速やか/疾速( at once, quickly )。<形容詞>緊急の/切迫した( urgent )。<名詞>趣旨/意味( purport )、目的( objective )、興趣/趣味( delight, pleasure, interest )、志趣/傾向( inclination )、情趣( flavor )、品行( conduct )。
說法者說佛意。趣以應眾生令知輕重相。 法を説くとは、仏の意趣を説いて、以って衆生に応じて、軽重の相を知らしむ。
『法を説く!』とは、――
『仏の意趣を説くこと!』で、
『衆生に応じて!』、
『罪の軽、重の相』を、
『知らせることである!』。
  意趣(いしゅ):思想と旨趣、意向( thought and purpose )。
解釋者。如囊中寶物繫口則人不知。若為人解經卷囊。解釋義理。又如重物披析令輕。種種因緣譬喻。解釋本末令易解。 解釈とは、嚢中の宝物は、口を繋げば則ち人知らざるが如く、若しは人の為に、経巻の嚢を解いて、義理を解釈すなり。又重き物を、披析して軽からしむるが如く、種種の因縁、譬喩もて、本末を解釈して、解し易からしむなり。
『解釈する!』とは、――
『嚢』中の、
『宝物』は、
『嚢の口』を、
『締めれば!』、
則ち、
『人』が、
『知らないように!』、
若しは、
『人の為め!』に、
『経巻』の、
『嚢』を、
『解いて!』、
『経巻』の、
『義理』を、
『解釈したり!』、
又は、
『重い物』を、
『披析して( by deviding )!』、
『軽くするように!』、
『種種の因縁、譬喻を用いて!』、
『本末を解釈し!』、
『解し易くすることである1』。
  披析(ひしゃく):分開と分析( devide and analyse )。
淺易者。如深水難渡有人分散此水令淺則渡者皆易。般若波羅蜜。如水甚深。論議方便力故。種種說能令淺易。乃至小智之人皆能信解。 浅く易しとは、深水は、渡り難くとも、有る人此の水を分散して浅からしむれば、則ち渡る者皆易きが如し。般若波羅蜜は、水の甚だ深きが如く、論義の方便力の故に、種種に説いて、能く浅く易しからしむれば、乃至小智の人すら、皆能く信解すなり。
『浅く易しい!』とは、――
譬えば、
『深水は渡り難い( it is difficult that one crosses a deep river )!』が、
有る、
『人』が、
此の、
『水を分散して!』、
『浅くすれば!』、
『渡る!』者が、
皆、
『易しくなるように!』、
『般若波羅蜜』も、
『水のように、甚だ深い!』が、
『論議という!』、
『方便力を用いる!』が故に、
『種種に説いて!』、
『般若波羅蜜の義』を、
『浅くして!』、
『解し易くすれば!』、
乃至、
『小智の人すら!』、
皆、
『信解することができるのである!』。
能以十種為首說甚深義。是名清淨說般若波羅蜜義。 能く十種を以って首と為し、甚深の義を説く、是れを清浄に、般若波羅蜜の義を説くと名づく。
『説、教、照、開、示、分別、顕現、説法、解釈、浅易』の、
『十種を首として!』、
『甚だ深い義』を、
『説けば!』、
是れを、
『清浄に、般若波羅蜜の義を説く!』と、
『称する!』。
第一義中實無所說。畢竟空故無說。無說故無受。無受故無證。無證故無滅諸煩惱者。若無滅煩惱則無福田。 第一義中には、実に所説無く、畢竟じて空なるが故に説無し、説無きが故に受無し、受無きが故に証無し、証無きが故に諸の煩悩を滅する者無し。若し煩悩を滅すること無ければ、則ち福田無し。
『第一義』中には、
『実に所説は無く、畢竟空である!』が故に、
『説』が、
『無く!』、
『説が無い!』が故に、
『受』も、
『無く!』、
『受が無い!』が故に、
『証』も、
『無く!』、
『証が無い!』が故に、
『諸煩悩を滅する!』者も、
『無い!』。
若し、
『煩悩』を、
『滅すること!』が、
『無ければ!』、
則ち、
『福田』も、
『無いことになる!』。
受者名信受讀誦 受とは、信受し、読誦すと名づく。
『受』とは、――
『信受して!』、
『読誦することである!』。
行是法。得沙門果無生法忍。是名為證。 是の法を行じて、沙門果、無生法忍を得れば、是れを名づけて、証と為す。
是の、
『法を行じて!』、
『沙門果である!』、
『無生法忍』を、
『得れば!』、
是れを、
『証』と、
『称する!』。
證時諸煩惱滅。得有餘涅槃。得有餘涅槃故。是畢定福田。 証する時、諸の煩悩滅して、有余涅槃を得、有余涅槃を得るが故に、是れ畢定せる福田なり。
『証する!』時、
『諸煩悩が滅して!』、
『有餘涅槃』を、
『得る!』が、
『有余涅槃を得る!』が故に、
是の、
『人』は、
『畢定の福田である!』。
畢定者。諸法同無餘涅槃性故。說無畢定福田 畢定とは、諸法は、無余涅槃の性と同じきが故に、畢定せる福田無しと説く。
『畢定し』とは、――
『諸法の性』は、
『無余涅槃の性』と、
『同じである!』が故に、
『畢定の福田』は、
『無い!』と、
『説くのである!』。


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