【論】釋曰。先七品中。佛命須菩提令說般若。中間帝釋多問。多說功德事。今彌勒順佛本意。還欲令須菩提因隨喜法。廣說般若波羅蜜。 |
釈して曰く、先の七品中には、仏は須菩提に命じて、般若を説かしめ、中間には帝釈多く問うて、多くは功徳の事を説けり。今、弥勒は仏の本意に順じて、還って須菩提をして、随喜の法に因りて、広く般若波羅蜜を説かしめんと欲す。 |
釈す、
先の、
『七品( 会宗品第二十四乃至讃歎品第三十)』中に於いて、
『仏』は、
『須菩提に命じて!』、
『般若』を、
『説かせられた!』が、
『中間』に於いて、
『帝釈が問うた!』ので、
『多く!』、
『般若の功徳事を説くことになった!』。
今、
『弥勒』は、
『仏の本意に順じて!』、
還って( again )、
『般若波羅蜜』を、
『随喜法に因って、広説せよ!』と、
『命じた!』。
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復次帝釋聞上供養般若以華香妓樂幡蓋之具得福甚多。深自慶幸。此供養具唯我等能辦非出家人所有。是故彌勒欲抑其自多之情故語須菩提。菩薩但以心隨喜。則勝聲聞辟支佛一切眾生布施等及諸無漏功德。何況華香供養經卷等。菩薩摩訶薩義如先說。 |
復た次ぎに、帝釈は、上に般若を供養するに、華香、伎楽、幡蓋の具を以ってすれば、福を得ることの甚だ多きを聞いて、深く自ら幸を、『此の供養の具は、唯だ我等のみ、能く辦じて、出家人の所有に非ず』と慶べり。是の故に、弥勒は、其の自らを多しとする情を抑えんと欲するが故に、須菩提に語らく、『菩薩は、但だ心に随喜するを以って、則ち声聞、辟支仏、一切の衆生の布施等、及び諸の無漏の功徳に勝る。何に況んや、華香の経巻を供養する等をや』、と。菩薩摩訶薩の義は、先に説けるが如し。 |
復た次ぎに、
『帝釈』は、
上に、
『般若』を、
『華香、伎楽、幡蓋の具を用いて!』、
『供養すれば!』、
『甚だ多く!』、
『福を得られる!』と、
『聞いて!』、
自ら、
『深く、幸運を慶んだ!』、――
此の、
『供養の具』は、
唯だ、
『わたし達だけ!』が、
『辦じることができ( be able to prepare )!』、
是れを、
『出家人』は、
『有していないからだ!』、と。
是の故に、
『弥勒』は、
『帝釈』の、
『自多の意』を、
『抑えようとする!』が故に、
『須菩提』に、こう語った、――
『菩薩』は、
『心に随喜する!』が故に、
『声聞や、辟支仏や、一切の衆生』の、
『布施等の功徳や、諸の無漏の功徳』に、
『勝るのである!』。
況して、
『華香を用いて、経巻等を供養すること!』など、
『言うまでもない!』、と。
『菩薩摩訶薩の義』は、
先に、
『説いた通りである!』。
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自多(じた):自ら満てりと為すこと。 |
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隨喜福德者。不勞身口業作諸功德。但以心方便見他修福。隨而歡喜作是念。一切眾生中。能修福行道者最為殊勝。若離福德人與畜生同行三事。三事者。婬欲飲食戰鬥。能修行福德行道之人。一切眾生所共尊重愛敬。譬如熱時清涼滿月無不樂仰。亦如大會告集。伎樂餚饌無不畢備。遠近諸人咸共欣赴。修福之人亦復如是。 |
福徳を随喜するとは、身口の業を労して、諸の功徳を作さず、但だ心に方便するを以って、他の修福を見るに、随いて歓喜し、是の念を作さく、『一切の衆生中に、能く福を修め、道を行う者は、最も殊勝と為す。若し、福徳を離るれば、人は、畜生と同じく、三事を行ぜん。三事とは、婬欲、飲食、戦闘なり。能く福徳を修行して、道を行う人は、一切の衆生の共に尊重、愛敬する所なり。譬えば、熱時の清涼の満月を楽しんで仰がざる無きが如し。亦た大会を告げ集め、伎楽、餚饌の畢備せざる無ければ、遠近の諸人咸(みな)共に欣んで赴くが如し。修福の人も、亦復た是の如し』、と。 |
『福徳を随喜する!』とは、――
諸の、
『功徳を作す!』のに、
『身、口の業』を、
『労するのではなく!』、
但だ、
『心に方便する!』が故に、
『他人』が、
『福を修める!』のを、
『見るに随って!』、
『歓喜して!』、こう念じる、――
『一切の衆生』中に、
『福を修めて、道を行う!』者は、
『最も、殊勝である!』。
『人』が、
若し、
『福徳を離れれば!』、
『畜生と同じように!』、
『三事を行うからである!』。
謂わゆる、
『婬欲、飲食、戦闘』の、
『三事である!』。
『人』が、
若し、
『福徳を修行して、道を行うことができれば!』、
『一切の衆生が、共に!』、
『尊重し!』、
『愛敬するだろう!』。
譬えば、
『熱時の清涼な満月』を、
『楽しんで、仰がない!』者が、
『無いように!』、
亦た、
『大会を告げて、人を集め!』、
『畢備( to prepare fully )しない!』ものが、
『無ければ!』、
『遠、近の諸人』が、
『咸、共に( all together )!』、
『欣んで、赴くように!』、
『修福の人』も、
亦復た、
『是の通りである!』、と。
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畢備(ひつび):完全に準備する( to prepare fully )。具備する。 |
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福德有二種樂因緣。世間出世間。出世間者。諸無漏法雖無福報。能生福德故名福德。是故有漏無漏通名福德。 |
福徳には、二種の楽因縁有り、世間と、出世間となり。出世間とは、諸の無漏法にして、福報無しと雖も、能く福徳を生ずるが故に福徳と名づけ、是の故に、有漏、無漏通じて、福徳と名づく。 |
『福徳には、二種有り!』、
『世間、出世間』の、
『楽を得る!』、
『因縁である!』。
『出世間』とは、
『諸の無漏法であり!』、
『福報は無い!』が、
『福徳』を、
『生じさせられる!』が故に、
是れを、
『福徳』と、
『称し!』、
是の故に、
『有漏、無漏を通じて!』、
『福徳』と、
『称するのである!』。
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復次福德是菩薩摩訶薩根本能滿所願。一切聖人所讚歎。無智人所毀呰。智人所行處。無智人所遠離。是福德因緣故。作人王轉輪聖王天王阿羅漢辟支佛諸佛世尊。大慈大悲十力四無所畏一切種智自在無礙皆從福德中生。如是等種種福德。得正見故隨而歡喜。 |
復た次ぎに、福徳は、是れ菩薩摩訶薩の根本にして、能く所願を満て、一切の聖人の讃歎する所、無知の人の毀呰する所、智人の所行の処、無智の人の遠離する所なり。是の福徳の因縁の故に、人王、転輪聖王、天王、阿羅漢、辟支仏、諸仏世尊と作る。大慈、大悲、十力、四無所畏、一切種智、自在無礙は、皆、福徳中より生ず。是の如き等の種種の福徳を、正見を得るが故に、随って歓喜す。 |
復た次ぎに、
『福徳』とは、
『菩薩摩訶薩の根本であり!』、
『所願を満たすことができる!』が故に、
『一切の聖人には、讃歎される!』が、
『無智の人』には、
『毀呰され!』、
『智人の、行処でありながら!』、
『無智の人』には、
『遠離される!』。
是の、
『福徳の因縁』の故に、
『人王、転輪聖王、阿羅漢、辟支仏、諸仏世尊と!』、
『作り!』、
『大慈大悲、十力、四無所畏、一切種智、自在無礙』も、
是れ等のような、
『種種の福徳』を、
『正見を得る!』が故に、
『見るに随って!』、
『歓喜するのである!』。
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復次菩薩自念。我應與一切眾生樂。而眾生能自行福德。是故心生歡喜。 |
復た次ぎに、菩薩の自ら念ずらく、『我れは応に、一切の衆生に楽を与うべし』、と。而も衆生は、能く自ら福徳を行ずれば、是の故に心に歓喜を生ず。 |
復た次ぎに、
『菩薩』が、
自ら、――
わたしは、
『一切の衆生』に、
『楽を、与えなくてはならない!』と、
『念じる!』と、
『衆生』が、
『自ら、楽を行う!』のを、
『見て!』、
是の故に、
『心に!』、
『歓喜を生じるのである!』。
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復次一切眾生。行善與我相似。是我同伴。是故隨喜。 |
復た次ぎに、一切の衆生の善を行ずること、我れと相似すれば、是れ我が同伴なり、是の故に随喜す。 |
復た次ぎに、
『一切の衆生』が、
『善を行えば!』、
わたしと、
『相似しており!』、
是れは、
わたしの、
『同伴( companion )である!』。
是の故に、
わたしは、
『歓喜するのである!』。
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諸菩薩摩訶薩。於十方三世諸佛及菩薩聲聞辟支佛。及一切修福眾生布施持戒修定慧。於此福德中。生隨喜福德。是故名隨喜。 |
諸の菩薩摩訶薩は、十方の三世の諸仏、及び菩薩、声聞、辟支仏、及び一切の修福の衆生の布施、持戒、修定、慧に於いて、此の福徳中に於いて、随喜の福徳を生ずれば、是の故に随喜と名づく。 |
諸の、
『菩薩摩訶薩』が、
『十方、三世の諸仏、菩薩、声聞、辟支仏や!』、
『一切の修福の衆生の!』、
『布施、持戒、修定、慧を行う!』のを、
『見聞きする!』と、
此の、
『福徳中に、歓喜する!』という、
『福徳』を、
『生じることになり!』、
是の故に、
『随喜』と、
『称するのである!』。
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持是隨喜福德。共一切眾生。迴向阿耨多羅三藐三菩提。共一切眾生者。是福德不可得與一切眾生。而果報可與。 |
是の随喜の福徳を持して、一切の衆生と共に、阿耨多羅三藐三菩提に廻向す。一切の衆生と共にとは、是の福徳は、一切の衆生に与うるを得べからざるも、果報は与うべし。 |
是の、
『随喜の福徳』を、
『一切の衆生と、共に!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』に、
『廻向するのである!』が、
『一切の衆生と、共に!』とは、
是の、
『福徳』を、
『一切の衆生』に、
『与えることはできない!』が、
此の、
『福徳の果報』は、
『与えることができるからである!』。
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菩薩既得福德果報。衣服飲食等世間樂具。以利益眾生。 |
菩薩は、既に福徳の果報の、衣服、飲食等の世間の楽具を得て、以って衆生を利益す。 |
『菩薩』は、 ――福徳の果報の財を以って、衆生を利益する――
『既に得た!』、
『福徳の果報である!』、
『衣服、飲食等の世間の樂具を用いて!』、
『衆生』を、
『利益する!』。
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菩薩以福德清淨。身口人所信受。為眾生說法。令得十善道四禪等。與作後世利益。末後成佛得福德果報。身有三十二相八十種隨形好無量光明。觀者無厭無量。清淨梵音柔和無礙解脫等諸佛法。於三事示現。度無量阿僧祇眾生。般涅槃後碎身舍利與人供養。久後皆令得道。是果報可與一切眾生。以果中說因故。言福德與眾生共。 |
菩薩は、福徳の清浄の身、口を以って、人の信受する所なれば、衆生の為めに説法し、十善道、四禅等を得しめて、後世の利益を作すに与(あずか)る。末後に仏と成りて得る、福徳の果報は、身には、三十二相、八十種随形好、無量の光明有りて、観る者に厭くこと無く、無量の清浄の梵音は柔和にして、無礙の解脱等の諸仏の法を、三事に於いて示現し、無量、阿僧祇の衆生を度す。般涅槃の後には、砕身の舎利を人に与えて供養せしめ、久しき後には皆、道を得しむ。是の果報は、一切の衆生に与うべし。果中の因を説くを以っての故に言わく、『福徳を衆生と共にす』と。 |
『菩薩』は、 ――福徳の果報の法を以って、衆生を利益する――
『人に信受されるような!』、
『福徳の清浄の身、口を用いて!』、
『衆生の為に、法を説き!』、
『十善道や、四禅』等を、
『得させ!』、
『衆生の与に!』、
『後世の利益』を、
『作し!』、
――福徳の果報の身口意三業を以って、衆生を利益する――
末後に( finally )、
『仏と成って、得る!』、
『福徳の果報』として、
『身』には、
『三十二相、八十種随形好、無量の光明が有って!』、
『観る!』者に、
『厭う者が無く!』、
『無量の清浄の梵音( the unlimitedly pure Buddha's voice )』は、
『柔和であり!』、
『無礙解脱等の諸仏の法』は、
『三事(神足、観他心、教誡)』を、
『示現して!』、
『無量阿僧祇の!』、
『衆生』を、
『度し!』、
――福徳の果報の舎利を以って、衆生を利益する――
般涅槃の後には、
『身を砕いて!』、
『舎利』を、
『人に与えて!』、
『供養させ!』、
久しい後に、
皆に、
『道を得させるのである!』が、
是の、
『果報』は、
『一切の衆生に、与えることができる!』ので、
『因中に、果を説いて!』、
『福徳を、衆生と共にする!』と、
『言うのである!』。
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参考:『長阿含経巻1』:『如來又以三事示現。一曰神足、二曰觀他心、三曰教誡、即得無漏、心解脫、生死無疑智。』。 |
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若福德可以與人者。諸佛從初發心。所集福德盡可與人。然後更作善法體。不可與人今直以無畏無惱施與眾生用無所得故者義如先說。 |
若し福徳を、以って人に与うべくんば、諸仏は、初発心より、集めし所の福徳を尽く人に与えて、然る後に更に作したもうべし。善法の体は、人に与うべからざれば、今は直だ、無畏、無悩を衆生に施与したまえり。所得無きを用いるが故にとは、義は、先に説けるが如し。 |
若し、
『福徳』を、
『人』に、
『与えることができれば!』、
『諸仏』は、
『初発心より、集めた!』所の、
『福徳』を、
尽く、
『人に!』、
『与えてから!』、
その後、更に、
『福徳を!』、
『作されるだろう!』が、
然し、
『善法の体( the substance of a good dharma )』は、
『人に与えられない!』ので、
今は、
直だ( only )、
『無畏と、無悩とを!』、
『衆生に、施与されるのである!』。
『無所得を用いるが故に!』の、
『義』は、
『先に、説いた通りである!』。
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是名菩薩摩訶薩隨喜福德比一切聲聞辟支佛及眾生三種福德中。最勝最上第一最妙無上無與等。義如先說。 |
是れを菩薩摩訶薩の随喜の福徳は、一切の声聞、辟支仏、及び衆生の三種の福徳中に比して、最勝、最上、第一、最妙、無上、無与等と名づくる義は先に説けるが如し。 |
是れを、
『菩薩摩訶薩』の、
『随喜の福徳』は、
『一切の声聞、辟支仏、衆生の三種の福徳中に比べれば!』、
『最勝、最上、第一、最妙、無上であり、等しい者が無い!』と、
『称するのであり!』、
是の
『義』は、
『先に、説いた通りである!』。
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是中說勝因緣。是二乘福德。皆為自調自淨自度。持戒者是自調修。禪者是自淨。智慧者是自度。 |
是の中には、勝る因縁を説かく、『是の二乗の福徳は、皆、自ら調え、自ら浄め、自ら度する為なり』、と。持戒とは、是れ自ら調うるなり。修禅とは、是れ自ら浄むるなり。智慧とは、是れ自ら度するなり。 |
是の中に、
『随喜が勝る!』、
『因縁』を、こう説かれている、――
是の、
『二乗の福徳』は、
皆、
『自らを!』、
『調え、浄め、度する為である!』、と。
『持戒』とは、
『自らを!』、
『調えることであり!』、
『修禅』は、
『自らを!』、
『浄めることであり!』、
『智慧』は、
『自らを!』、
『度することだからである!』。
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復次自調者。正語正業正命。自淨者。正念正定。自度者。正見正思惟正方便。 |
復た次ぎに自ら調うとは、正語、正業、正命なり。自ら浄むとは、正念、正定なり。自ら度すとは、正見、正思惟、正方便なり。 |
復た次ぎに、
『自らを、調える!』者は、
『正語と!』、
『正業と!』、
『正命であり!』、
『自らを、浄める!』者は、
『正念と!』、
『正定であり!』、
『自らを、度する!』者は、
『正見と!』、
『正思惟と!』、
『正方便である!』。
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復次布施因緣故自調。持戒因緣故自淨。修定因緣故自度。 |
復た次ぎに、布施の因縁の故に自ら調え、持戒の因縁の故に自ら浄め、修定の因縁の故に自ら度す。 |
復た次ぎに、
『布施の因縁』の故に、
『自らを!』、
『調え!』、
『持戒の因縁』の故に、
『自らを!』、
『浄め!』、
『修定の因縁』の故に、
『自らを!』、
『度するのである!』。
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修定者。是無漏法近因緣。無漏者。所謂三十七品三解脫門等。布施持戒遠故不解。 |
修定とは、是れ無漏法に近づく因縁なり。無漏とは、謂わゆる三十七品、三解脱門等なり。布施、持戒は遠きが故に解せず。 |
『修定』とは、
『無漏法に近づく!』、
『因縁である!』。
『無漏』とは、
謂わゆる、
『三十七品や、三解脱門等である!』が、
『布施や、持戒』は、
『無漏に遠い!』が故に
『解脱させることはない!』。
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菩薩隨喜福德雖無勤勞。為度一切眾生故勝。 |
菩薩の随喜の福徳は、勤労無しと雖も、一切の衆生を度せんが為の故に勝る。 |
『菩薩』の、
『随喜の福徳』は、
『勤労(苦労)』が、
『無い!』が、
『一切の衆生』を、
『度するものである!』が故に、
『勝る!』。
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問曰。實不度一切眾生。何以言度一切眾生。故勝。 |
問うて曰く、実には、一切の衆生を度せず。何を以ってか、『一切の衆生を度するが故に、勝る』、と言う。 |
問い、
実には、
『一切の衆生』を、
『度することはない!』のに、
何故、
『一切の衆生を度するが故に、勝る!』と、
『言うのですか?』。
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答曰。諸佛菩薩功德力。能度一切眾生。但以眾生無和合因緣故。譬如大火常有燒力。但以薪不近故不得燒。近則能燒。 |
答えて曰く、諸仏、菩薩の功徳の力は、能く一切の衆生を度するも、但だ、衆生に和合の因縁無きを以っての故なり。譬えば、大火には、常に焼く力有るも、但だ薪の近からざるを以っての故に焼くを得ず、近ければ則ち能く焼くが如し。 |
答え、
『諸仏、菩薩』の、
『功徳の力』は、
『一切の衆生』を、
『度することができる!』が、
但だ、
『衆生』に、
『功徳と和合する!』、
『因縁』が、
『無い!』が故に、
実には、
『一切の衆生』を、
『度することはないのである!』。
譬えば、
『大火』は、
但だ、
『薪』が、
『近くにない!』が故に、
『焼かないだけで!』、
若し、
『近ければ!』、
『焼くことができるようなものである!』。
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爾時須菩提。以畢竟空智慧。難問彌勒菩薩。念諸佛福德隨喜。迴向無上道。是所念過去事。是事如所念不。 |
爾の時、須菩提は、畢竟空の智慧を以って、弥勒菩薩を難問すらく、『諸仏の福徳を念じて随喜し、無上道に廻向するに、是の念ずる所は、過去の事なり。是の事は、念ずる所の如くなりや不や』、と。 |
爾の時、
『須菩提』は、
『畢竟空の智慧を用いて!』、
『弥勒菩薩』を、こう難じた、――
『諸仏の福徳を念じて、随喜し!』、
『無上道』に、
『迴向しても!』、
是の、
『念じた!』所は、
『過去の事である!』。
是の、
『事』は、
『念じた通りだろうか?』、と。
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彌勒以二因緣故。答言。不也。一者過去無量阿僧祇劫諸佛久已滅度無復遺餘。菩薩或無宿命智。或有而不能及。但以如所聞憶想分別故。不如所念。二者諸佛及功德。出三界出三世。斷戲論語言道。如涅槃相畢竟空清淨。 |
弥勒は二因縁を以っての故に、答えて言わく『不なり』、と。一には、過去の無量、阿僧祇劫の諸仏は、久しく已に滅度し、復た遺余無し。菩薩は、或いは宿命智無く、或いは有れども、及ぶ能わざれば、但だ所聞の如きを以って、憶想、分別するが故に、念ずる所の如きにあらず。二には、諸仏、及び功徳は、三界を出で、三世を出でて、戯論と語言の道を断じて、涅槃の相の如く畢竟じて空、清浄なり。 |
『弥勒』は、
『二因縁』故に、
『答えて!』、こう言った、――
『そうでない!』、と。
一には、
『過去の無量阿僧祇劫の諸仏』は、
『滅度されて、久しく!』、
復た( already )、
『遺余』が、
『無い!』ので、
『菩薩』に、
『宿命智が有ろうが、無かろうが!』、
『諸仏の徳に!』、
『及ぶことはできない( do not come in contact with )!』。
但だ、
『聞いた通りに!』、
『憶想、分別するだけである!』が故に、
『念じた通りではなく!』、
二には、
『諸仏も、諸仏の功徳も!』、
『三界、三世を出ており!』、
『戯論や、言語の道』が、
『断たれて!』、
『涅槃の相のように!』、
『畢竟空であり!』、
『清浄だからである!』。
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隨喜者。分別諸佛及諸弟子善根功德。是迴向心及無上道非實故言不也。 |
随喜すれば諸仏、及び諸弟子の善根の功徳を分別するも、是の廻向心、及び無上道は、実に非ざるが故に言わく、『不なり』、と。 |
『随喜すれば!』、
『諸仏や、諸弟子』の、
『善根の功徳』を、
『分別することになる!』が、
是の、
『迴向心や、無上道は実でない!』が故に、
『そうでない!』と、
『言ったのである!』。
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須菩提難言。若無是事是菩薩憶念分別應墮顛倒。若是事畢竟空清淨相。憶念亦如是。諸過去佛功德亦如是。無分別無異。云何得隨喜。 |
須菩提の難じて言わく、『若し是の事無きに、是の菩薩憶念し、分別せば、応に顛倒に堕すべし。若し是の事が、畢竟じて空なる清浄の相なれば、憶念も亦た是の如く、諸の過去の諸仏の功徳も亦た是の如くして、分別無く、異無し。云何が、随喜を得んや』、と。 |
『須菩提は難じて!』、こう言った、――
若し、
是の、
『事が無く!』、
是の、
『菩薩』が、
『憶念し!』、
『分別しただけならば!』、
当然、
『顛倒』に、
『堕ちるはずである!』。
若し、
是の、
『事』が、
『畢竟じて空であり!』、
『清浄の相ならば!』、
是れを、
『憶念すること!』も、
亦た、
『畢竟じて空であり!』、
『清浄の相である!』。
亦た、
『諸の過去の仏や、功徳も!』、
是のように、
『無分別であり( to be not able to be discriminated )!』、
『無異である( to be not able to be differentiated )!』のに、
何故、
『随喜することができるのか?』、と。
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無分別(むふんべつ):梵語 avikalpa, nirvikalpa の訳、代替物の欠如/代りを認めないこと( absence of alternative, not admitting an alternative )の義、区別が無い( without differentiation )の意。
無異(むい):梵語 abhinna の訳、変化しない/変更のない( unchanged, unaltered )の義、異ならない( not different from )の意。 |
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是略說義。廣則如經說。所謂須菩提問彌勒。若菩薩摩訶薩。憶念過去十方無量無邊阿僧祇世界中諸滅度佛者。是菩薩欲起隨喜福德。佛是福德主。是故念佛。聞經書說。有過去佛名故。因是名廣念一切過去諸佛。 |
是れ義を略して説けり。広くすれば、則ち経に説けるが如し、謂わゆる須菩提の弥勒に問わく、『若し菩薩摩訶薩、過去の十方の無量、無辺、阿僧祇の世界中の、諸の滅度の仏を憶念すれば、是の菩薩は、随喜の福徳を起こさんと欲するなり。仏は是れ福徳の主なり。是の故に仏を念じ、経書に説く、有らゆる過去の仏名聞くが故に、是の名に因って、広く、一切の過去の諸仏を念ず。 |
是れは、
『略説の義であり!』、
『広説すれば!』、
『経に説かれた通りである!』。
謂わゆる、
『須菩提』は、
『弥勒』に、こう問うた、――
若し、
『菩薩摩訶薩』が、
『過去』の、
『十方の無量、無辺、阿僧祇の世界』中の、
『諸の滅度された仏』を、
『憶念すれば!』、
是の、
『菩薩』は、
『随喜する!』、
『福徳』を、
『起そうとしているのである!』、と。
『仏』は、
『福徳の主である!』が故に、
『仏』を、
『念じるのである!』が、
『経書に説かれた!』、
有らゆる、
『過去の仏の名を聞く!』が故に、
是の、
『名に因って!』、
広く、
『一切の過去の諸仏』を、
『念じるのである!』。
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從初發心者。初發心作願。我當度一切眾生。是心相應三善根。不貪不瞋不癡善根。相應諸善法及善根所起身心口業和合是法名為福德。 |
初発心よりとは、初めて心を発して作願すらく、『我れ当に一再の衆生を度せん』、と。是の心は、三善根に相応し、不貪、不瞋、不癡の善根相応の諸の善法、及び善根の起こす所の身、心、口業の和合にして、是の法を、名づけて福徳と為す。 |
『初発心より!』とは、――
『初めて、発心する!』と、
『わたしは、一切の衆生を度さねばならない!』と、
『願うことになる!』が、
是の、
『心』は、
『不貪、不瞋、不癡という!』、
『三種の善根』に、
『相応し!』、
『善根に相応する諸の善法と!』、
『善根の起す身、心、口の業との!』、
『和合した!』、
『法であり!』、
是の、
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從初發心行六波羅蜜。入菩薩位得十地。乃至坐道場。是中菩薩自修福德。和合得佛道。乃至入無餘涅槃。滅度後舍利及遺法。皆是佛自身功德和合。 |
初発心より六波羅蜜を行じて、菩薩位に入り、十地を得て、乃至道場に坐するまで、是の中に菩薩は、自ら修する福徳に、仏道を得て、乃至無餘涅槃に入り、滅度の後の舎利、及び遺法を和合すれば、皆、是れ仏自身の功徳の和合なり。 |
『初発心』より、
『六波羅蜜を行いながら!』、
『菩薩位に入って、十地を得!』、
乃至、
『道場』に、
『坐するまで!』、
是の中に、
『菩薩』が、
『自ら修めた、福徳に!』、
『仏道を得てから、乃至無餘涅槃に入り!』、
『滅度の後の舎利や、遺法』を、
『和合すれば!』、
皆、是れは、
『仏自身の功徳』の、
『和合である!』。
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因諸佛大乘人。行六波羅蜜相應福德。相應者。除六波羅蜜。餘菩薩所行法。皆攝入六波羅蜜中故。說應六波羅蜜和合。 |
諸仏に因りて、大乗人は、六波羅蜜相応の福徳を行ず。相応とは、六波羅蜜を除きて、余の菩薩の所行の法は、皆、六波羅蜜中に摂入するが故に、『六波羅蜜に応じて和合す』、と説く。 |
『諸仏に因って!』、
『大乗人』は、
『六波羅蜜に相応する!』、
『福徳』を、
『行うことになる!』。
『相応』とは、
『六波羅蜜を除く!』、
『餘の菩薩所行の法』は、
皆、
『六波羅蜜中に摂入される( to be contained )!』が故に、
『六波羅蜜に応じて、和合する!』と、
『説くのである!』。
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若求聲聞辟支佛人。種布施持戒修定等福德。聲聞辟支佛人有二種。一者漏盡名為無學。二者得道。漏未盡名為學。是二人諸福德中。善根勝故但說善根。 |
若し声聞、辟支仏を求むる人が、布施、持戒、修定等の福徳を種えんに、声聞、辟支仏の人には、二種有り、一には漏尽にして、名づけ無学と為し、二には道を得たるも、漏は未だ尽きざれば、名づけて学と為す。是の二人は、諸の福徳中に、善根勝るるが故に、但だ善根と説く。 |
若し、
『声聞、辟支仏を求める!』、
『人ならば!』、
『布施、持戒、修定等の福徳』を、
『種えることになる!』。
『声聞、辟支仏の人』には、
『二種有り!』、
一には、
『漏が尽きている!』ので、
『無学』と、
『称され!』、
二には、
『道を得ながら、未だ漏が尽きていない!』ので、
『学』と、
『称される!』。
是の、
『二種の人』は、
『善根が勝る!』が故に、
但だ、
『善根のみ!』を、
『説く!』。
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上言求二乘人者。總凡夫聖人。今學無學者純是聖人。 |
上に二乗を求むる人と言うは、凡夫、聖人を総ず。今の学、無学の者は、純ら是れ聖人なり。 |
上に言う、――
『二乗を求める人』は、
『総じて!』、
『凡夫と、聖人とである!』が、
今の、
『学と、無学の者』は、
『純ら!』、
『聖人だけである!』。
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相好是無記色法。非是善功德故但說佛。五無學眾 |
相好は、是れ無記の色法にして、是れ善の功徳に非ざるが故に、但だ、仏の五無学衆のみを説けり。 |
『身の相、好』は、
『無記の色法であり!』、
『善』の、
『功徳でない!』が故に、
『仏身』の、
『相、好』は、
『説かれず!』、
但だ、
『仏』の、
『五無学衆(戒衆、定衆、慧衆、解脱衆、解脱知見衆)だけを!』、
『説くのである!』。
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大慈大悲佛法義。如初品中說。諸佛所說法。學是法得須陀洹果。乃至入菩薩位者。是佛滅度後。遺法中得道。是故重說。 |
大慈、大悲、仏法の義は、初品中に説けるが如し。諸仏の所説の法と、是の法を学んで須陀洹果を得ることと、乃至菩薩位に入ることとは、是れ仏の滅度の後の遺法中に道を得れば、是の故に重ねて説けり。 |
『大慈大悲や、無量阿僧祇の諸仏の法』の、
『義』は、
『初品』中に、
『説いた通りである!』が、
『諸仏所説の法や!』、
是の、
『法を学んで!』、
『須陀洹果を得ることや!』、
乃至、
『菩薩位』に、
『入ること!』は、
『仏の滅度された!』後、
『遺法』中に、
『道』を、
『得ることなので!』、
是の故に、
『重ねて!』、
『説かれた!』。
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及餘眾生種諸善根者。此是佛在世及遺法中。天人乃至畜生。種福德因緣。 |
及び余の衆生が諸の善根を種うとは、此れは是れ仏の在世、及び遺法中に、天人、乃至畜生が、福徳の因縁を種うるなり。 |
『及び、餘の衆生の種える!』、
『善根』とは、――
此れは、
『仏の在世中の法と、仏の遺法』中に、
『天人、乃至畜生が種えた!』、
『福徳の因縁である!』。
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是上四段福德。行者心遍緣。憶念隨喜求佛道故迴向。名無上隨喜最上無與等。 |
是の上の四段の福徳を、行者は心に遍く縁じて、憶念し、随喜して、仏道を求めるが故に廻向するを、無上に最上、無与等を随喜すと名づく。 |
是の、
『上の四段の福徳』を、
『行者の心』は、
『遍く、縁じて( to perceive all over )!』
『憶念し、随喜して!』、
『仏道を求める!』が故に、
『廻向する!』ので、
是れを、
『無上の随喜、最上であり、等しい者が無い!』と、
『称する!』。
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問曰。求佛道者。何以不自作功德而心行隨喜。 |
問うて曰く、仏道を求むる者にして、何を以ってか、自ら功徳を作さずして、而も心に随喜を行ずる。 |
問い、
『仏道を求める!』者が、
何故、
『自ら、功徳を作さずに!』、
『心』に、
『随喜を行うのですか?』。
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答曰。諸菩薩以方便力。他勤勞作功德。能於中起隨喜者福德勝自作者。 |
答えて曰く、諸の菩薩は、方便力を以って、他の勤労し、功徳を作すを、能く中に於いて、随喜を起こせば、福徳は自ら作す者に勝る。 |
答え、
『諸の菩薩』は、
『方便の力を用いて!』、
『他人が勤労して、功徳を作す!』中に、
『随喜』を、
『起すことができれば!』、
『自ら作す!』者の、
『福徳』に、
『勝るからである!』。
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復次是隨喜福德。即是實福德。所以者何。念過去佛即是念佛三昧。亦是六念中。念佛念法念僧念戒念捨念天等。因行清淨戒入禪定。起畢竟智慧和合故。能起正隨喜。是故不但隨喜而已。亦行是實法。 |
復た次ぎに、是の随喜の福徳は、即ち是れ実の福徳なり。何を以っての故に、過去の仏を念ずるは、即ち是れ念仏三昧にして、亦た是れ六念中の念仏、念法、念僧、念戒、念捨、念天等なれば、清浄戒を行うに因って、禅定に入り、畢竟の智慧を起こして、和合するが故に、能く正随喜を起こす。是の故に、但だ随喜するのみにあらず、亦た是の実の法を行ずるなり。 |
復た次ぎに、
是の、
『随喜の福徳』は、
『実の!』、
『福徳だからである!』。
何故ならば、
『過去の仏を念じること』は、
即ち( this is )、
『念仏三昧であり!』、
亦た、
是の、
『六念中の念仏、念法、念僧、念戒、念捨、念天等』は、
『清浄戒を行うことに因って!』、
『禅定に入り!』、
『畢竟の智慧』を、
『起して!』、
『六念と和合する!』が故に、
『正しい随喜』を、
『起すことができる!』ので、
是の故に、
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是心迴向者。即是隨喜心。緣者隨喜心所緣。所謂一切諸佛。及一切眾生所作功德。事者若是所緣之本。福德是緣功德所住處。所謂諸佛及眾生。并土地山林精舍住處皆名事。 |
是の心を廻向すとは、即ち是れ随喜の心なり。縁とは心の所縁を随喜す、謂わゆる一切の諸仏、及び一切の衆生の作す所の功徳なり。事とは、若しは是れ所縁の本の福徳にして、是の縁の功徳の所住の処なり、謂わゆる諸仏、及び衆生、並びに土地、山林、精舎、住処を、皆、事と名づく。 |
是の、
『心を廻向する!』とは、――
『随喜の心』を、
『廻向するのである!』。
『縁』とは、
『心』の、
『所縁( that what is perceived )!』を、
『随喜する!』、
謂わゆる、
『一切の諸仏や、一切の衆生の作す!』所の、
『功徳である!』。
『事』とは、
若しは( possibly )、
『所縁の本』の、
『福徳であり!』、
是の、
『縁の功徳の住する!』所の、
『処であり!』、
謂わゆる、
『諸仏や、衆生や、土地、山林、精舎、住処』は、
『皆、事である!』。
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如所念可得不。彌勒答言不也。 |
『所念の如く得べきや不や』、弥勒の答えて言わく、『不なり』。 |
『念じた通り!』に、
『事』を、
『得られる( to able to be accomplished )のか?』、
『弥勒は答えて!』、こう言った、――
『得られない!』、と。
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須菩提語彌勒。若諸事諸緣無所有者。云何不墮顛倒。 |
須菩提の弥勒に語らく、『若し諸事、諸縁に所有無くんば、云何が顛倒に堕せざらん』、と。 |
『須菩提』は、
『弥勒』に、こう語った、――
若し、
『諸の事や、縁に!』、
『所有が無ければ( nothing what is existent )!』、
何故、
『顛倒』に、
『堕ちないのか?』、と。
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顛倒者四顛倒。三種分別。此顛倒是譬喻。無佛而憶想念佛。猶如無常而念常不淨而念淨。 |
顛倒とは、四顛倒にして、三種に分別せり。此の顛倒は、是れ仏無きに而も憶想して、仏を念ずるを譬喻して猶お無常なるに、常を念じ、不浄なるに、浄を念ずるが如し。 |
『顛倒』とは、
『常、楽、我、浄の四顛倒であり!』、
『三種に分別される!』が、
此の、
『顛倒』は、
『仏が無いのに、仏を憶想して念じる!』ことに、
『譬喻すれば!』、
猶お( that is )、
『無常なのに、常を念じたり!』、
『不浄なのに、浄を念じたりするようなものである!』。
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問曰。見為諸顛倒本。如得初道人。能起想心顛倒。無見顛倒。以見諦道斷故。 |
問うて曰く、見は、諸の顛倒の本と為す。初道を得た人の如きは、能く想、心の顛倒を起こすも、見の顛倒無し、見諦道を以って断ずるが故なり。 |
問い、
『見』は、
『諸の顛倒の本であり!』、
『初道を得た人など!』は、
『想、心の顛倒を起すことができる!』が、
『見の顛倒』は、
『無い!』。
『見諦道を用いて!』、
『顛倒』を、
『断じるからである!』。
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初道(しょどう):加行道prayoga- maarga。四道第一。『大智度論巻17下注:四道』参照。 |
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答曰。是顛倒生時異斷時異。生時想在前。次是心。後是見。斷時先斷見。見諦所斷故。顛倒體皆是見相見諦所斷。 |
答えて曰く、是の顛倒は、生ずる時異なり、断ずる時異なる。生ずる時には、想が前に在り、次には是れ心、後は是れ見なるも、断ずる時には、先に見を断ず、見諦の所断なるが故なり。顛倒の体は、皆是れ見相なれば、見諦所断なり。 |
答え、
是の、
『顛倒は生時と、断時が異なり!』、
『生時』は、
『前が想であり!』、
『次が心であり!』、
『後が見である!』が、
『断時』に、
『先に見を断じる!』のは、
『見諦』の、
『所断だからである!』。
『顛倒の体』は、
皆、
『見相であり!』、
『見諦の所断である!』。
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想心顛倒者。學人未離欲。憶念忘故取淨相。起結使還得正念即時滅。如經中譬喻。如渧水墮大熱鐵上即時消滅。小錯故假名顛倒。非實顛倒。是故說凡夫人三種顛倒學人二種顛倒。 |
想、心の顛倒は、学人は未だ欲を離れず、憶念するも忘るるが故に、浄相を取り、結使を起こすも、還た正念を得れば、即時に滅す。経中に、『渧水、大熱鉄上に墮つれば、即時に消滅す』と譬喩するが如し。小錯なるが故に、仮りに顛倒と名づくるも、実の顛倒に非ず。是の故に説かく、『凡夫人は三種に顛倒し、学人は二種に顛倒す』、と。 |
『想、心の顛倒』は、
『学人』が、
未だ、
『欲を離れなければ!』、
『憶念を忘れる!』が故に、
『浄相を取って!』、
『結使』を、
『起す!』が、
還って、
『正念を得れば!』、
即時に、
『滅することになる!』ので、
『経中に譬喻して!』、こう説くように、――
譬えば、
『渧水( dripping water )』が、
『大熱鉄上に堕ちれば!』、
即時に、
『消滅するように!』、と。
『小錯( a slip )である!』が故に、
仮りに、
『顛倒と呼ばれる!』が、
『実の顛倒ではない!』。
是の故に、こう説くのである、――
『凡夫人』は、
『三種( 想、心、見)の顛倒である!』が、
『学人』は、
『二種(想、心)の顛倒である!』、と。
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参考:『阿毘達磨大毘婆沙論巻44』:『復次三因緣故煩惱現前。一由因力。二境界力。三加行力。菩薩起此三不善尋。但由因力能伏餘二名不放逸。大德說曰。菩薩雖起速能伏除。如一渧水墮熱鐵上名不放逸。脅尊者曰。起已速捨如救頭然名不放逸』 |
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復次諸緣諸事如實。畢竟空念亦空。菩提亦空。隨喜心亦空。檀波羅蜜乃至十八不共法亦空。 |
復た次ぎに、諸縁、諸事は、如実に畢竟じて空なれば、念も亦た空なり、菩提も亦た空なり、随喜心も亦た空なり、檀波羅蜜、乃至十八不共法も亦た空なり。 |
復た次ぎに、
『諸の縁や、諸の事』は、
『如実に畢竟空であり( be truly absolutely empty )!』、
『念も、菩提も、随喜心も、檀波羅蜜、乃至十八不共法も!』、
『空である!』。
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若諸法一相。所謂無相。此中何等是緣。何等是事。何等是心。迴向無上道 |
若し諸法が一相にして、謂わゆる無相なれば、此の中に、何等か是れ縁なる、何等か是れ事なる、何等か是れ心の無上道に迴向する。 |
若し、
『諸の法』が、
『一相であり!』、
『謂わゆる、無相ならば!』、
此の中に、
何のような、
『法』が、
『縁であり、事であり、心であって!』、
『無上道』に、
『迴向するのか?』。
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