巻第五十六(上)
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大智度論釋顧視品第三十(卷五十六)
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


【經】般若波羅蜜中には、三乗が有る

【經】爾時諸天王及諸天。諸梵王及諸梵天。伊賒那天及神仙并諸天女。同時三反稱歎。快哉快哉。慧命須菩提所說法。皆是佛出世間因緣。恩力演布是教。 爾の時、諸天王、及び諸天、諸梵王、及び諸梵天、伊賒那天、及び神仙、並びに諸天女は、同時に三反(みたび)称歎すらく、「快き哉、快き哉、慧命須菩提の説く所の法は、皆、是れ仏の出世間の因縁にして、恩力、是の教を演布せるなり。
爾の時、
『諸天王、及び諸天』、
『諸梵王、及び諸梵天』、
『伊賒那天、及び神仙、並びに諸天女」は、
同時に、
三反(みたび)、こう称歎した、――
愉快だ!
愉快だ!
『慧命須菩提の説いた!』、
『法』は、
皆、
『仏が世間に出られた!』、
『因縁であり!』、
『仏の恩力』が、
是の、
『教』を、
『演布したのである!』。
  伊賒那天(いしゃなてん):伊賒那(梵iizaana)は欲界第六天の名、時に大自在、即ち摩醯首羅(梵maheezvara)とも称す。『大智度論巻13下注:摩醯首羅、同巻21下注:伊舎那天』参照。
  恩力(おんりき):梵語 pratikara-bala? の訳、果報の力( the power of requital or compensation )の義。
  演布(えんぶ):のべしく。敷衍。演説。
若有菩薩摩訶薩。行是般若波羅蜜不遠離者。我輩視是人如佛。何以故。是般若波羅蜜中。雖無法可得。所謂色受想行識。乃至一切種智。而有三乘之教。聲聞辟支佛佛乘。 若し有る菩薩摩訶薩、是の般若波羅蜜を行いて、遠離せずんば、我輩は、是の人を、仏の如く視ん。何を以っての故に、是の般若波羅蜜中に、法の得べき、謂わゆる色受想行識、乃至一切種智無しと雖も、三乗の教の声聞、辟支仏、仏の乗有り。
若し、
有る、
『菩薩摩訶薩』が、
是の、
『般若波羅蜜』を
『行いながら!』、
『遠離しなければ!』、
わたし達は、
是の、
『人』を、
『仏のように!』、
『視るだろう!』。
何故ならば、
是の、
『般若波羅蜜』中には、
『得られる!』、
『法』が、
謂わゆる、
『色、受想行識、乃至一切種智』が、
『無い!』のに、
『三乗の教』の、
『声聞乗、辟支仏乗、仏乗』が、
『有るからである!』。
爾時佛告諸天子。如是如是。諸天子。如汝所言。是般若波羅蜜中。雖無法可得。而有三乘之教。所謂聲聞辟支佛佛乘。 爾の時、仏の諸天子に告げたまわく、『是の如し、是の如し、諸天子、汝が言う所の如し。是の般若波羅蜜中に、法の得べき無しと雖も、而も三乗の教の謂わゆる声聞、辟支仏、仏の乗有り。
爾の時、
『仏』は、
『諸天子』に、こう告げられた、――
その通りだ!
その通りだ!
諸天子!
お前の、言うように、――
是の、
『般若波羅蜜』中には、
『得られる!』、
『法』が、
『無いのに!』、
『三乗の教』が、
謂わゆる、
『声聞乗、辟支仏乗、仏乗』が、
『有る!』。
諸天子。若有菩薩摩訶薩。行是般若波羅蜜不遠離者。視是人當如佛。以無所得故。何以故。是般若波羅蜜中。廣說三乘之教。所謂聲聞辟支佛佛乘。 諸天子、若し有る菩薩摩訶薩、是の般若波羅蜜を行いて、遠離せずんば、是の人を視ること当に仏の如くすべし。所得無きを以っての故なり。何を以っての故に、是の般若波羅蜜中には、広く三乗の教、謂わゆる声聞、辟支仏、仏の乗を説けばなり。
諸天子!
若し、
有る、
『菩薩摩訶薩』が、
是の、
『般若波羅蜜』を、
『行いながら!』、
『遠離しなければ!』、
是の、
『人』を、
『仏のように!』、
『視なければならない!』。
是の、
『般若波羅蜜』は、
『所得』が、
『無いからである!』。
何故ならば、
是の、
『般若波羅蜜』中に、
『三乗の教』を、
謂わゆる、
『声聞乗、辟支仏乗、仏乗』を、
『広説するからである!』。
檀波羅蜜中佛不可得。離檀波羅蜜佛亦不可得。乃至般若波羅蜜中佛不可得。離般若波羅蜜佛亦不可得。內空乃至無法有法空。四念處乃至十八不共法。一切種智亦如是。 檀波羅蜜中に、仏は得べからず、檀波羅蜜を離れても、仏は亦た得べからず。乃至般若波羅蜜中に、仏は得べからず、般若波羅蜜を離れても、仏は亦た得べからず。内空、乃至無法有法空、四念処、乃至十八不共法、一切種智も、亦た是の如し。
『檀波羅蜜中にも、檀波羅蜜を離れても!』、
『仏』は、
『不可得( unrecognizable )であり!』、
『乃至般若波羅蜜中にも、般若波羅蜜を離れても!』、
『仏』は、
『不可得であり!』、
亦た、
『内空、乃至無法有法空も、四念処、乃至十八不共法、一切種智も!』、
『是の通りである!』。
佛語諸天子。菩薩摩訶薩若能學是一切法。所謂檀波羅蜜。乃至一切種智。以是事故。當視是菩薩摩訶薩如佛。 仏の語りたまわく、『諸天子、菩薩摩訶薩にして、若し能く、是の一切の法、謂わゆる檀波羅蜜、乃至一切種智を学ばば、是の事を以っての故に、当に是の菩薩摩訶薩を、仏の如く視るべし。
『仏』は、こう語られた、――
諸天子!
『菩薩摩訶薩』が、
若し、
是の、
『一切の法』を、
謂わゆる、
『檀波羅蜜、乃至一切種智』を、
『学ぶことができれば!』、
是の、
『事』の故に、
是の、
『菩薩摩訶薩』を、
『仏のように!』、
『視なければならない!』。
諸天子。我昔於然燈佛時。華嚴城內四衢道頭見佛聞法。即得不離檀波羅蜜行。不離尸羅波羅蜜羼提波羅蜜毘梨耶波羅蜜禪波羅蜜般若波羅蜜行。不離內空乃至無法有法空四念處乃至八聖道分。不離四禪四無量心四無色定一切三昧門一切陀憐尼門。不離四無所畏佛十力四無礙智十八不共法大慈大悲及餘無量諸佛法行。亦無所得故。 諸天子、我れ昔、然灯仏の時、華厳城内の四衢道の頭(ほとり)に、仏を見て、法を聞くに、即ち檀波羅蜜の行を離れず、尸羅波羅蜜、羼提波羅蜜、毘梨耶波羅蜜、禅波羅蜜、般若波羅蜜の行を離れず、内空、乃至無法有法空、四念処、乃至八聖道分を離れず、四禅、四無量心、四無色定、一切の三昧門、一切の陀憐尼門を離れず、四無所畏、仏の十力、四無礙智、十八不共法、大慈、大悲、及び余の無量の諸仏の法と行とを離れざるを得たるも、亦た得る所無きが故なり。
諸天子!
わたしは、
昔、
『然灯仏』の時、
『華厳城』内の、
『四衢道の頭(ほとり)』で、
『仏を見て!』、
『法』を、
『聞いた!』が、
即時に、
『檀、尸羅、羼提、毘梨耶、禅、般若波羅蜜の行や!』、
『内空、乃至無法有法空や!』、
『四念処、乃至八聖道分や!』、
『四禅、四無量心、四無色定や!』、
『一切の三昧門、一切の陀憐尼門や、』、
『四無所畏、仏の十力、四無礙智、十八不共法、大慈大悲や!』、
『余の無量の諸仏の法と行を!』、
『離れることがなくなった!』が、
此等の、
『法』も、
『無所得( be non-attainable )だからである!』。
  四衢道(しくどう):四辻。
  無所得(むしょとく):何者も獲得されない( nothing to be attained )、◯梵語 apraaptitva の訳、獲得しない( non-attainment, non-acquisition )の義、「何者も獲得されない」の字義は、又「何者にも執著しない」とも訳すことができる( Lit. 'nothing to be attained,' which can also be interpreted as 'nothing to be attached to.' )、執著の欠如と、心中の誤った識別に焦点を当てた、悟りの性格を敍述する一形態( A way of describing the character of enlightenment, which focuses on the lack of attachment and false discrimination in the mind )。◯梵語 anupadhi の訳、欺瞞の無い( without fraud )の義、認識不可能なこと( cannot be perceived )。『大智度論巻18下注:無所得』参照。
是時然燈佛記我。當來世過一阿僧祇劫。當作佛號釋迦牟尼多陀阿伽度阿羅訶三藐三佛陀鞞侈遮羅那脩伽度路迦憊無上士調御丈夫天人師佛世尊。 是の時、然灯仏、我れを記す、『当来の世の一阿僧祇劫を過ぎて、当に仏と作り、釈迦牟尼多陀阿伽度、阿羅訶、三藐三仏陀、鞞侈遮羅那、脩伽度、路迦憊、無上士、調御丈夫、天人師、仏、世尊と号すべし。』と。
是の時、
『然灯仏』は、
わたしを、こう記された( to predict )、――
『当来の世に!』、
『一阿僧祇劫を過ぎて!』、
『釈迦牟尼、多陀阿伽度、阿羅訶、三藐三仏陀、鞞侈遮羅那、脩伽度、路迦憊、無上士、調御丈夫、天人師、仏、世尊と呼ばれる!』、
『仏』と、
『作るだろう!』、と。
  (き):授記。梵語 vyaakR, vyaakurute の訳、( to expound, explain, declare )の義、[仏教徒にとっては、特に未来の出生を]予言する( (with Buddhists) to predict (especially future births) )の意。
爾時諸天子白佛言。世尊。希有。是般若波羅蜜能令諸菩薩摩訶薩得薩婆若。於色不取不捨故。於受想行識不取不捨故。乃至一切種智不取不捨故 爾の時、諸天子の仏に白して言さく、『世尊、希有なり、是の般若波羅蜜は、能く諸の菩薩摩訶薩をして、薩婆若を得しむ。色に於いて取らず、捨てざるが故に、受想行識に於いて、取らず捨てざるが故に、乃至一切種智も取らず、捨てざるが故なり。』と。
爾の時、
『諸天子』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
希有です!
是の、
『般若波羅蜜』は、
諸の、
『菩薩摩訶薩』に、
『薩婆若』を、
『得させる!』のは、
『般若波羅蜜』中には、
『色や、受想行識や、乃至一切種智を!』、
『取ることもなく!』、
『捨てることもないからです!』、と。



【論】般若波羅蜜中には、三乗が有る

【論】釋曰。人以歡喜之至。則三反稱歎。是故諸天聞大德須菩提說般若波羅蜜。歡喜言快哉快哉。 釈して曰く、人は、歓喜の至りを以って、則ち三反称歎すれば、是の故に、諸天は、大徳須菩提の般若波羅蜜を説くを聞き、歓喜して、『快き哉、快き哉』と言えり。
釈す、
『人』は、
『歓喜が極まる!』が故に、
『三反』、
『称歎する!』ので、
是の故に、
『諸天』は、
『大徳須菩提の説く!』、
『般若波羅蜜』を、
『聞いて!』、
『歓喜して!』、こう言った、――
『愉快だ!』、
『愉快だ!』、と。
天王者。四天處四天王三十三天王釋提桓因。乃至諸梵天王。梵天已上更無有王。諸天是欲界天。諸梵是色界天。伊賒那是大自在天王。并其眷屬。神仙者有二種。或天或人。天女者是天帝釋夫人。舍脂等諸天女。 天王とは、四天処の四天の王、三十三天の王、釈提桓因、乃至諸の梵天の王なり。梵天已上には、更に王有ること無し。諸天とは、是れ欲界の天、諸梵とは、是れ色界の天、伊賒那とは、是れ自在天の王、並びに其の眷属なり。神仙とは、二種有り、或いは天、或いは人なり。天女とは、是れ天帝釈の夫人の舎脂等の諸天女なり。
『天王』とは、
『四天処の四天王と!』、
『三十三天王の釈提桓因、乃至諸梵天王であり!』、
更に、
『梵天已上』には、
『王が無い!』。
『諸天』とは、
『欲界』の、
『天であり!』、
『諸梵』とは、
『色界』の、
『天であり!』、
『伊賒那』は、
『大自在天の王と!』、
其の、
『眷属である!』。
『神仙』には、
『二種有り!』、
『天か、人かである!』。
『天女』は、
『天帝釈の夫人舎脂』等の、
『諸の天女である!』。
  伊賒那(いしゃな):梵名 iizaana 、欲界第六天の名、時に大自在、即ち摩醯首羅(梵maheezvara)とも称す。『大智度論巻13下注:摩醯首羅、同巻21下注:伊舎那天』参照。
  舎脂(しゃし):梵名 zaacii 、帝釈天の妃の名、阿修羅の女。
所以歎須菩提說深般若波羅蜜者。知其承佛神力故。 須菩提の深き般若波羅蜜を説くを歎ずる所以とは、其の仏の神力を承けたるを知るが故なり。
『須菩提』が、
深い、
『般若波羅蜜を説く!』のを、
『称歎する!』、
『所以(the reason )』は、
こう知るからである、――
『須菩提』は、
『仏の神力』を、
『承けたからである!』、と。
若能行是般若波羅蜜。我等當視是人如佛。所以者何。尊重法故。 若し能く、是の般若波羅蜜を行わば、我等は当に、是の人を仏の如く視るべしとは、所以は何んとなれば、法を尊重するが故なり。
若し、
是の、
『般若波羅蜜を行うことができれば!』、
わたし達は、
是の、
『人』を、
『仏のように!』、
『見なければならない!』。
何故ならば、
『法』を、
『尊重するからである!』、と。
法者所謂深般若波羅蜜。深法者一切法。雖畢竟空。而有三乘分別。所以者何。諸法若畢竟空。更不應修集三乘功德則墮斷滅中。若修三乘功德。則是分別差降。不應是畢竟空。 法とは、謂わゆる深き般若波羅蜜なり。深き法とは、一切の法は、畢竟じて空なりと雖も、而も三乗の分別有ればなり。所以は何んとなれば、諸法は、若し畢竟じて空ならば、更に応に三乗の功徳を修集すべからず、則ち断滅中に堕せん。若し三乗の功徳を修めば、則ち是れ差降を分別して、応に是れ畢竟じて空なるべからず。
『法』とは、――
謂わゆる、
『深い!』、
『般若波羅蜜である!』。
『深い法』とは、――
一切の、
『法』が、
『畢竟じて!』、
『空でありながら!』、
而も、
『三乗の分別』が、
『有るからである!』。
何故ならば、
諸の、
『法』が、
若し、
『畢竟じて!』、
『空であり!』、
更に、
『三乗』の、
『功徳』を、
『修集できなければ!』、
則ち、
『断滅』中に、
『堕ちることになり!』、
若し、
『三乗』の、
『功徳』を、
『修めれば!』、
則ち、
『差降( the classes )』を、
『分別することになり!』、
是れが、
『畢竟じて!』、
『空であるはずがないからである!』。
  差降(さこう):ひらき。差別。格差。等級。
是般若波羅蜜雖畢竟空。而不墮斷滅。雖分別有三乘。亦不生著心。於二事中不取定相。是事甚深微妙故。諸天大歡喜歎言快哉。 是の般若波羅蜜は、畢竟じて空なりと雖も、而も断滅に堕せず、分別して三乗有りと雖も、亦た著心を生ぜず。二事中に於いて、定相を取らざること、是の事は、甚深微妙なるが故に、諸天は多いに歓喜して、歎じて言わく、『快き哉』と。
是の、
『般若波羅蜜』は、
『畢竟じて!』、
『空でありながら!』、
『断滅』に、
『堕ちることがなく!』、
『分別して!』、
『三乗が有りながら!』、
『著心』を、
『生じることもない!』のは、
『空、有の二事』中に、
『定相』を、
『取らないからである!』が、
是の、
『事』は、
『甚だ深く!』、
『微妙である!』が故に、
『諸天は歓喜、称歎して!』、
『愉快だ!』と、
『言ったのである!』。
佛然其讚。更說甚深因緣。從六波羅蜜。乃至一切種智中佛不可得。離此佛亦不可得。諸法和合因緣故有佛。無有自性。 仏は、其の讃を然りとして、更に甚深なる因縁を説きたまわく、『六波羅蜜より、乃至一切種智中に、仏は得べからず。此れを離れても、仏は亦た得べからず。諸法の和合の因縁の故に仏有り、自性有ること無し。』と。
『仏』は、
其の、
『讃歎に!』、
『同意して!』、
更に、
『甚だ深い因縁』を、こう説かれた、――
『六波羅蜜、乃至一切種智中にも、一切種智等を離れても!』、
『仏』は、
『不可得である!』が、
『諸法の和合という因縁』の故に、
『仏』が、
『有る!』が故に、
『仏』には、
『自性』が、
『無いのである!』、と。
若菩薩能如是行者。當知是菩薩即是佛。即是佛者。是世界中語如太子。雖未正位必當為王。 若し、菩薩は、能く是の如く行ぜば、当に知るべし、是の菩薩は、即ち是れ仏なり。即ち是れ仏なりとは、是の世界中に語の、『太子は、未だ正位にあらずと雖も、必ず当に王と為るべし』の如し。
若し、
『菩薩』が、
是のように、
『行うことができれば!』、
当然、こう知らねばならない、――
是の、
『菩薩』は、
即ち( that is )、
『仏である!』、と。
是れが、
即ち、
『仏である!』のは、
是の、
『世界中に語られる( be talked about )、
『太子など!』が、
未だ、
『正位でなくても!』、
『必ず!』、
『王と為るようなものである!』。
此中佛自引本事以為證。此菩薩已得無生忍入菩薩位。見十方諸佛。 此の中、仏は、自ら本事を引いて、以って証と為したまわく、『此の菩薩は、已に無生忍を得て、菩薩位に入り、十方の諸仏に見えたり。』と。
此の中に、
『仏』は、
自ら、
『本事( former matters )を引いて!』、こう証せられた、――
此の、
『菩薩』は、
已に、
『無生法忍を得て!』、
『菩薩位に入り!』、
『十方の諸仏』を、
『見たのである!』、と。
  本事(ほんじ):梵語 iti-vRttaka の訳、iti は是のように( thus )、vRttaka は一種の単純にしてリズミカルな散文作品( a kind of simple but rhythmical prose composition )の義、過去の事蹟( former matters, affairs )の意、仏の過去世に於ける事蹟を説く者。
諸天聞佛廣明已所歎義。解心轉深重復讚歎。以見一切法過罪故不取。有利益故不捨。又以一切法畢竟空不生不滅故。不取不捨 諸天は、仏の已(も)って歎ずる所の義を広く明かしたもうを聞いて、解心転た深重し、復た讃歎すらく、『一切の法に過罪を見るを以っての故に、取らず。利益有るが故に捨てず。又一切の法は、畢竟じて空、不生不滅なるを以っての故に、取らず捨てず。』と。
『諸天』は、
『仏』が、
『讃歎された義』を、
『広く明かされた!』のを、
『聞いて!』、
『心』中の、
『疑』が、
『説けて!』、
次第に、
『般若波羅蜜を重んじる!』、
『心』が、
『深まり!』、
復た、
『般若波羅蜜を讃歎して!』、こう言った、――
『一切の法を見ても!』、
『過罪が有る!』が故に、
『一切の法』を、
『取らず!』、
『利益が有る!』が故に、
『一切の法』を、
『捨てないのだ!』。
又、
『一切の法は畢竟じて空であり!』、
『不生、不滅である!』が故に、
『取ることもなく!』、
『捨てることもないのだ!』、と。
  (い):もって。以。



【經】魔は、その便を得られない

【經】爾時佛觀四眾和合。比丘比丘尼優婆塞優婆夷及諸菩薩摩訶薩并四天王天乃至阿迦尼吒諸天皆會坐。普觀已佛告釋提桓因。憍尸迦。若菩薩摩訶薩。若比丘若比丘尼。若優婆塞若優婆夷。若諸天子若諸天女。是般若波羅蜜。若聽受持親近讀誦為他說。正憶念不離薩婆若心。諸天子。是人魔若魔天不能得其便。 爾の時、仏は、四衆和合の比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷、及び諸の菩薩摩訶薩、並びに四天王天、乃至阿迦尼吒の諸天の皆、会坐するを観、普く観已りて、仏の釈提桓因に告げたまわく、『憍尸迦、若しは菩薩摩訶薩、若しは比丘、若しは比丘尼、若しは優婆塞、若しは優婆夷、若しは諸天子、若しは諸天女、是の般若波羅蜜を、若し聴きて受持、親近、読誦し、他の為に説きて、正憶念し、薩婆若心を離れずんば、諸天子、是の人には、魔若しくは魔天も其の便を得る能わず。
爾の時、
『仏』は、
『四衆の和合の比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷や!』、
『諸の菩薩摩訶薩や!』、
『四天王天、乃至阿迦尼吒の諸天が!』、
皆、
『会に坐している!』のを、
『観られた!』。
普く、
『観られる!』と、
『仏』は、
『釈提桓因』に、こう告げられた、――
憍尸迦!
或いは、
『菩薩摩訶薩や!』、
『比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷や!』、
『諸天子、諸天女が!』、
是の、
『般若波羅蜜を聴いて!』、
『受持、親近、読誦し!』、
『他人の為に説き!』、
『正憶念して!』、
『薩婆若に向かう!』、
『心』を、
『忘れなければ!』、
諸天子!
是の、
『人』には、
『魔も、魔天も!』、
其の、
『便( any opportunities )』を、
『得られないのである!』。
  四衆和合(ししゅわごう):比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷の和合。和合僧とも云う。
  会坐(えざ):一堂に会して坐すの意。
  便(べん):直接/即座に/躊躇なく/敏速に/容易に/気持ちよく( directly, Immediately, readily, promptly; easily, comfortably. )、機会/好機( an occasion, an opportunity )、◯梵語 avataara の訳、[特に天より神性を]降下すること/地上に神性を現すこと( descent (especially of a deity from heaven), appearance of any deity upon earth )の義、人を捉える機会[仏典]( opportunity of catching any one (Buddhist literature) )の意。◯梵語 avataara-prekSin の訳、機会を伺う/過失を見つける( watching opportunities, espying faults )の義。
  参考:『大般若経巻100』:『憍尸迦。若菩薩摩訶薩。若苾芻苾芻尼鄔波索迦鄔波斯迦。若諸天子若諸天女。若善男子若善女人。不離一切智智心。以無所得為方便。於此般若波羅蜜多受持讀誦。精勤修習如理思惟。為他演說廣令流布。當知是輩。諸惡魔王及魔眷屬無能得便為惱害者。何以故。憍尸迦。是善男子善女人等。善住色空無相無願。善住受想行識空無相無願不可以空而得空便。不可無相得無相便。不可無願得無願便。何以故。以色蘊等自性皆空。能惱所惱及惱害事不可得故。』
  :他の為に説いて正憶念する:菩薩の正憶念は一個人の為にあらざることをいう。即ち菩薩とは、一個人を指す為の言葉ではなく、六波羅蜜を行う者に対する通称となすべきであり、世世人を替え、身を易えながら、正法を憶念するが故に、他の為に説いて正憶念すると云うのである。
何以故。是善男子善女人。諦了知色空。空不能得空便。無相不能得無相便。無作不能得無作便。諦了知受想行識空。空不能得空便。乃至無作不能得無作便。乃至諦了知一切種智空。空不能得空便。乃至無作不能得無作便。何以故。是諸法自性不可得。無事可得便。誰受惱者。 何を以っての故に、是の善男子善女人は、諦(あき)らかに了知すらく、『色は、空なり。空は、空に便を得る能わず、無相は、無相に便を得る能わず、無作は無作に便を得る能わず』、諦らかに了知すらく、『受想行識は、空なり。空は、空に便を得る能わず、乃至無作は、無作に便を得る能わず』、乃至諦らかに了知すらく、『一切種智は、空なり。空は、空に便を得る能わず、乃至無作は、無作に便を得る能わず』と。何を以っての故に、是の諸法は、自性を得べからず、事の、便を得べき無ければなり。誰か悩を受くる者なる。
何故ならば、
是の、
『善男子、善女人』は、
『明了に!』、こう知るからであり、――
『色は空、無相、無作である!』、
『空、無相、無作の魔』は、
『空、無相、無作の菩薩』に、
其の、
『便』を、
『得ることができない!』、と。
『明了に!』、こう知るからであり、――
『受想行識は空、無相、無作である!』!
『空、乃至無相、無作の魔』は、
『空、乃至無相、無作の菩薩』に、
其の、
『便』を、
『得ることができない!』、と。
乃至、
『明了に!』、こう知るからである、――
『一切種智は空、無相、無作である!』!
『空、乃至無相、無作の菩薩』は、
『空、乃至無相、無作の一切種智』に、
其の、
『便』を、
『得ることができない!』、と。
何故ならば、
是の、
『諸法の自性』は、
『不可得であり( be unrecognizable )!』、
『便を得るような( to get the opportunity )!』、
『事』が、
『無いからである!』。
誰が、
『悩』を、
『受ける( be worried )のか?』、と。
復次憍尸迦。是善男子善女人。若人非人不能得其便。何以故。是善男子善女人。一切眾生中。善修慈心悲喜捨心。以無所得故。 復た次ぎに、憍尸迦、是の善男子善女人には、若しは人非人も、其の便を得る能わず。何を以っての故に、是の善男子善女人は、一切の衆生中に、慈心、悲喜捨心を善修するも、所得無きを以っての故なり。
復た次ぎに、
憍尸迦!
是の、
『善男子、善女人』は、
若し、
『人非人( dubious/imitate human )であったとしても!』、
其の、
『便』を、
『得ることはできない!』。
何故ならば、
是の、
『善男子、善女人』は、
『一切の衆生』中に、
『慈、悲、喜、捨の心』を、
『善く!』、
『修めたからである!』が、
是の、
『衆生』には、
『所得( the substance )』が、
『無いからである!』。
  人非人(にんぴにん):梵語 manuSyaamanuSya の訳、未だ人間ならざる人間( human not yet human )、いかがわしき人/擬人( dubious or imitate human )の擬。又緊那羅 kiMnara と称す。
  所得(しょとく):◯梵語 upalambha の訳、修得/了解/認識すること( obtainment, perceiving, recognition )の義。◯梵語 labhyate, upalabhyate の訳、知覚/獲得可能/獲得/達成/経験された( can be perceived, can be obtained, be obtainable, be obtained, be achieved, be experienced )の義。[仏教では]実体( (In Buddhism) substance )の意。
憍尸迦。是善男子善女人終不橫死。何以故。是善男子善女人。行檀波羅蜜。於一切眾生等心供給故。 憍尸迦、是の善男子善女人は、終に横死せず。何を以っての故に、是の善男子善女人は、檀波羅蜜を行いて、一切の衆生に於いて、等心に供給するが故なり。
憍尸迦!
是の、
『善男子、善女人』は、
終に、
『横死することはない!』。
何故ならば、
是の、
『善男子、善女人』が、
『檀波羅蜜を行う!』と、
『一切の衆生』に、
『等心で( in even mind )!』、
『供給するからである!』。
  等心(とうしん):梵語 sama-citta の訳、平等な精神( equal mind )の義、有らゆる存在に対する平等な精神( Mind of equality toward all beings. )の意。
  参考:『大般若経巻100』:『復次憍尸迦。是善男子善女人等。人及非人無能得便為惱害者。何以故。是善男子善女人等。以無所得為方便。於一切有情善修慈悲喜捨心故。憍尸迦。是善男子善女人等。終不橫為諸險惡緣之所惱害。亦不橫死。何以故。是善男子善女人等。修行布施波羅蜜多。於諸有情正安養故』
復次憍尸迦。三千大千世界四天王天三十三天。夜摩天兜率陀天化樂天他化自在天。梵天光音天遍淨天廣果天。是諸天中有發阿耨多羅三藐三菩提心者。未聞是般若波羅蜜。未受持親近。是諸天子今應聞受持親近讀誦正憶念不離薩婆若心。 復た次ぎに、憍尸迦、三千大千世界の四天王天、三十三天、夜摩天、兜率陀天、化楽天、他化自在天、梵天、光音天、遍浄天、広果天、是の諸天中に、阿耨多羅三藐三菩提心を発す者の、未だ是の般若波羅蜜を聞かず、未だ受持、親近せざる有らん。是の諸天子は、今応に聞きて、受持、親近、読誦し、正憶念して、薩婆若の心を離れざるべし。
復た次ぎに、
憍尸迦!
『三千大千世界』の、
『四天王天、三十三天、夜摩天、兜率陀天、化楽天、他化自在天』、
『梵天、光音天、遍浄天、広果天』は、
是の、
『諸天』中に、
『阿耨多羅三藐三菩提の心』を、
『発しながら!』、
未だ、
是の、
『般若波羅蜜を聞くこともなく!』、
未だ、
『受持、親近することのない!』者が、
『有れば!』、
是の、
『諸天子』は、
今、
『般若波羅蜜を聞いて!』、
『受持、親近、読誦、正憶念し!』、
『薩婆若の心』を、
『離れてはならない!』。
復次憍尸迦。諸善男子善女人。聞是般若波羅蜜。受持親近讀誦正憶念不離薩婆若心。是諸善男子善女人。若在空舍若在曠野。若人住處終不怖畏。何以故。是諸善男子善女人。明於內空以無所得故。明於外空乃至無法有法空。以無所得故 復た次ぎに、憍尸迦、諸の善男子善女人の、是の般若波羅蜜を聞いて、受持、親近、読誦、正憶念して、薩婆若の心を離れざる、是の諸の善男子善女人は、若しは空舎に在りて、若しは曠野に在りて、もしは人の住所にて、終に怖畏せず。何を以っての故に、是の諸の善男子善女人は、内空を明かして、所得無きを以っての故なり、外空、乃至無法有法空を明かして、所得無きを以っての故なり。
復た次ぎに、
憍尸迦!
諸の、
『善男子、善女人』が、
是の、
『般若波羅蜜を聞き!』、
『受持、親近、読誦、正憶念して!』、
『薩婆若の心』を、
『離れなければ!』、
是の、
諸の、
『善男子、善女人』は、
若し、
『空舎や、曠野や、人の住処に在っても!』、
終に、
『怖畏することはない!』。
何故ならば、
是の、
諸の、
『善男子、善女人』は、
『所得が無い!』が故に、
『内空、乃至無法有法空である!』と、
『明了だからである!』。



【論】魔は、その便を得られない

【論】問曰。此中佛觀四部眾已。何以告釋提桓因。 問うて曰く、此の中に、仏は、四部の衆を観已りて、何を以ってか、釈提桓因に告げたまえる。
問い、
此の中に、
『仏』は、
『四部の衆』を、
『観られたのに!』、
何故、
『釈提桓因』に、
『告げられたのですか?』。
答曰。餘品中多說般若波羅蜜體。今欲讚般若功德故。命釋提桓因。譬如先以好寶示人然後讚寶所能。 答えて曰く、余品中には多く、般若波羅蜜の体を説く。今は、般若の功徳を讃ぜんと欲するが故に、釈提桓因に命じたまえり。譬えば、先に好宝を以って人に示し、然る後に宝の能くする所を讃ずるが如し。
答え、
『余品』中には、
多く、
『般若波羅蜜の体』を、
『説かれたので!』、
今、
『般若波羅蜜の功徳』を、
『讃じようとして!』、
是の故に、
『釈提桓因』に、
『命じられたのである!』。
譬えば、
先に、
『好い宝』を、
『人』に、
『示して!』、
その後、
『宝』の、
『所能(功能)』を、
『讃じるようなものである!』。
復次普觀者。欲令會中眾生各知佛顧念則不自輕。不自輕。故堪任聽法。是以普觀。譬如王顧眄群下。群下則欣然自慶。 復た次ぎに、普く観るとは、会中の衆生の各をして、仏の顧念するを知らしむれば、則ち自ら軽んぜず、自ら軽んぜざるが故に聴法に堪任せしめんと欲したまえば、是を以って普く観たまえり。譬えば王の群下を顧眄すれば、群下則ち欣然として自ら慶ぶが如し。
復た次ぎに、
『普く観られた!』のは、――
『会中の衆生』の、
各々に、
『仏が顧念している!』と、
『知らせれば!』、
則ち、
『自ら!』を、
『軽んじなくなり!』、
『自ら軽んじない!』が故に、
『法を聴くこと!』に、
『堪任するだろう!』と、
『思われた!』ので、
是の故に、
普く、
『観られたのである!』。
譬えば、
『王』が、
『群下を顧眄すれば( to see and recognize )!』、
『群下は欣然として!』、
『自ら!』を、
『慶ぶ( to congratulate )ようなものである!』。
  顧念(こねん):梵語 apekSaa の訳、見廻す/心に掛ける/見守る( looking about, consideration of, regard to )の義。
  顧眄(こべん):梵語 vyavalokayati の訳、観て認める( to see and recognize )の義。
  欣然(ごんねん):喜ぶさま。
  自慶(じきょう):自ら目出たいと喜び祝う。
說功德故。應以白衣證。白衣中釋提桓因為大。說般若者以出家人為證。出家人中是舍利弗須菩提等為大。 功徳を説くが故に、応に白衣を以って証すべし。白衣中には、釈提桓因を大と為せばなり。般若を説くには、出家人を以って証と為す。出家人中には、舎利弗、須菩提等を大と為す。
『功徳を説く!』が故に、
『白衣を用いて!』、
『功徳』を、
『証すべきであり!』、
『白衣』中には、
『釈提桓因』が、
『大だからである!』。
『般若波羅蜜を説く!』が故に、
『出家人を用いて!』、
『般若波羅蜜』を、
『証すべきであり!』、
『出家人』中には、
『舎利弗、須菩提』等が、
『大だからである!』。
問曰。先言釋是字提婆因是天主。今佛何以不言釋。乃命言憍尸迦。 問うて曰く、先に言わく、『釈は、是れ字、提婆因は、是れ天主なり』と。今、仏は何を以ってか、『釈』と言わず、乃ち命じて、『憍尸迦』と言える。
問い、
先に、こう言った、――
『釈( zakra )は字であり!』、
『提婆因( devaanaam-indra )』は、
『天主である!』、と。
今、
『仏』は、
何故、
『釈と言わずに!』、
乃ち( unexpectedly )、
『憍尸迦( kauzika )』と、
『言われたのですか?』。
答曰。昔摩伽陀國中有婆羅門名摩伽。姓憍尸迦。有福德大智慧。知友三十三人。共修福德命終。皆生須彌山頂第二天上。摩伽婆羅門為天主。三十二人為輔臣。以此三十三人故。名為三十三天。喚其本姓故。言憍尸迦。或言天主或言千眼等。大人喚之故稱其姓。 答えて曰く、昔、摩伽陀国中に婆羅門有り、摩伽と名づく。姓は憍尸迦にして、福徳の大智慧有り、知友の三十三人と共に、福徳を修め、命終して皆、須弥山頂の第二天上に生ず。摩伽婆羅門を天主と為し、三十二人を輔臣と為す。此の三十三人を以っての故に、名づけて三十三天と為し、其の本姓を喚ぶが故に、憍尸迦と言う。或いは天主と言い、或いは千眼等と言うも、大人の之を喚ぶが故に、其の姓を称す。
答え、
昔、
『摩伽陀国』中に、
『婆羅門が有り!』、
『摩伽と称し!』、
『姓』は、
『憍尸迦であった!』が、
『福徳』の、
『大智慧』が、
『有り!』、
『知友の三十三人と共に!』、
『福徳を修めており!』、
『命が終わる!』と、
皆、
『須弥山頂の第二天上』に、
『生まれ!』、
『摩伽婆羅門』が、
『天主と為り!』、
『三十二人』を、
『輔臣とした!』。
此の、
『三十三人』の故に、
『三十三天と称した!』ので、
其の、
『本姓を喚ぶ!』が故に、
『憍尸迦』と、
『言い!』、
或は、
『天主』と、
『言い!』、
或は、
『千眼』等と、
『言うのである!』が、
『大人が喚ぶ!』が故に、
其の、
『姓』を、
『称するのである!』。
  知友(ちゆう):知りあい。知人。
此中所說般若波羅蜜者。是十方諸佛所說。語言名字書寫經卷。宣傳顯示實相智慧。何以故。般若波羅蜜無諸觀語言相。而因語言經卷。能得此般若波羅蜜。是故以名字經卷名為般若波羅蜜。此中略說佛意。 此の中に説く所の般若波羅蜜とは、是れ十方の諸仏の所説の語言、名字、書写、経巻の宣伝、顕示する実相の智慧なり。何を以っての故に、般若波羅蜜には、諸観、語言の相無きも、語言、経巻に因って、能く此の般若波羅蜜を得ればなり。是の故に、名字、経巻を以って、名づけて般若波羅蜜と為し、此の中に仏意を略説す。
此の中に説かれた、
『般若波羅蜜』とは、――
『十方の諸仏の説かれた!』、
『語言、名字、書写、経巻であり!』、
『実相の智慧』を、
『宣伝し( to give publicity )!』、
『顕示する( to demonstrate )ものである!』。
何故ならば、
『般若波羅蜜』には、
『諸観、語言の相が無いのに!』、
『語言、経巻に因って!』、
此の、
『般若波羅蜜』を、
『得ることができる!』ので、
是の故に、
『名字、経巻』を、
『般若波羅蜜』と、
『称するのであり!』、
此の中に、
『仏意』が、
『略説されているのである!』。
  宣伝(せんでん):公開する( to give publicity )。
若能聞受持般若。等當得種種功德。後當廣說。 若し能く、般若を聞いて受持等すれば、当に種種の功徳を得べし。後に当に広く説くべし。
則ち、
若し、
『般若波羅蜜を聞いて!』、
『受持等をすることができれば!』、
『種種の功徳』を、
『得ることになる!』が、
是の、
『事』は、
『後に、広説せねばならない!』。
欲度眾生為得佛道故。供養受學般若波羅蜜。是人魔若魔天不能得便。 衆生を度せんと欲し、仏道を得んが為の故に、般若波羅蜜を供養、受学すれば、是の人は魔、若しくは魔天も、便を得る能わず。
『衆生を度そうとして!』、
『仏道を得る!』為の故に、
『般若波羅蜜』を、
『供養して!』、
『受持、習学する!』ので、
是の、
『人』は、
『魔や、魔天すら!』、
『便』を、
『得ることができないのである!』。
問曰。何者是魔。何故惱菩薩。云何得便。 問うて曰く、何者か是れ魔なる。何故にか、菩薩を悩ます。云何が、便を得る。
問い、
何者が、
『魔であり!』、
何故、
『菩薩』を、
『悩ますのですか?』。
何のように、
『便』を、
『得るのですか?』。
答曰。魔名自在天主。雖以福德因緣生彼。而懷諸邪見。以欲界眾生是己人民。雖復死生展轉不離我界。若復上生色無色界還來屬我。若有得外道五通。亦未出我界。皆不以為憂。若佛及菩薩出世者。化度我民拔生死根。入無餘涅槃永不復還。空我境界。是故起恨讎嫉。 答えて曰く、魔を、自在天主に名づく。福徳の因縁を以って、彼(かしこ)に生ずと雖も、諸の邪見を懐きて以(おも)うらく、『欲界の衆生は、是れ己の人民になり、復た死生を展転すと雖も、我が界を離れず。若しは、復た色、無色界に上生するも、還(ま)た来たりて我れに属す。若しは、外道の五通を得ること有るも、亦た未だ我が界を出でずして、皆、以って憂と為さず。若し仏、及び菩薩出世せば、我が民を化度して、生死の根を抜き、無余涅槃に入れて、永く復た還らしめず、我が境界を空しからしめん。是の故に恨、讎、嫉を起す。』と。
答え、
『魔』とは、
『自在天の主であり!』、
『福徳の因縁』の故に、
彼の、
『自在天』に、
『生じたのである!』が、
諸の、
『邪見を懐いて!』、こう言う、――
『欲界の衆生』は、
『己の人民である!』が故に、
復た、
『死生を展転しても!』、
わたしの、
『領界』を、
『離れることなく!』、
若し、
復た、
『色、無色界に上生しても!』、
還って来て、
わたしに、
『属することになり!』、
若し、
有るいは、
『外道の五通を得ても!』、
わたしの、
『領界』を、
『出られない!』が故に、
皆、
其の、
『事』を、
『憂えることはない!』が、
若し、
『仏や、菩薩』が、
『世に出て!』、
わたしの、
『人民を化度して!』、
『生死の根』を、
『抜き!』、
『無余涅槃に入らせて!』、
復た、
『永く!』、
『還ってこなければ!』、
わたしの、
『境界』を、
『空しくするだろう!』、と。
是の故に、
『恨、讎、嫉』を、
『起すのである!』。
  (じゅ):こたえ。あだ。しかえし。
又見欲界人皆往趣佛不來歸己。失供養故心生嫉妒。是以以佛菩薩名為怨家。 又欲界の人を見れば、皆、仏に往趣して己に来帰せざれば、供養を失うが故に、心に嫉妬を生じ、是を以って、仏、菩薩を以って名づけて、怨家と為す。
又、
『欲界の人を見る!』と、
皆、
『仏に往趣して!』、
『己の所に来て!』、
『帰依する!』者が、
『無く!』、
『供養を失う!』が故に、
『心』に、
『嫉妒』を、
『生じ!』、
是の故に、
『仏、菩薩』を、
『怨家』と、
『呼ぶのである!』。
是菩薩入法位。得法性生身。魔雖起惡不能壞敗。若未得阿鞞跋致者。魔則種種破壞。 是の菩薩の法位に入り、法性生身を得るに、魔は悪を起すと雖も、壊敗せしむべからず。若し未だ、阿鞞跋致を得ざれば、魔は、則ち種種に破壊せしむ。
是の、
『菩薩』が、
『法位に入り!』、
『法性生身』を、
『得る!』と、
『魔』が、
『悪事を起しても!』、
是の、
『菩薩』を、
『壊敗することはできない!』。
若し、
『阿鞞跋致を得ていなければ!』、
『魔』は、
種種に、
『悪を起して!』、
『破壊することになる!』。
若菩薩一心不惜身命。有方便求佛道者。十方諸佛及諸大菩薩皆共護持。以是因緣故能成佛道。 若し菩薩、一心に身命を惜まず、方便有りて仏道を求めば、十方の諸仏、及び諸大菩薩は、皆共に護持せん。是の因縁を以っての故に、能く仏道を成ず。
若し、
『菩薩』が、
『一心』に、
『身、命』を、
『惜まず!』、
『方便を有して!』、
『仏道』を、
『求めれば!』、
『十方の諸仏や、諸大菩薩』が、
皆共に、
『菩薩』を、
『護持する!』ので、
是の、
『因縁』の故に、
『仏道』を、
『成就する( to achieve )ことができる!』。
若為菩薩而有懈怠貪著世樂。不能專心勤求佛道。是則自欺亦欺十方諸佛及諸菩薩。所以者何。自言我為一切眾生故求佛道。而行雜行壞菩薩法。以是罪故。諸佛菩薩所不守護。魔得其便。 若し菩薩と為るに、而も懈怠有りて、世楽を貪著せば、専心に、仏道を勤求する能わざらん、是れ則ち自ら欺き、十方の諸仏、及び諸菩薩を欺く。所以は何んとなれば、自ら、『我れは一切の衆生の為の故に、仏道を求めん。』と言い、而も雑行を行じて、菩薩法を壊る。是の罪を以っての故に、諸仏、菩薩の守護せざる所となり、魔は、其の便を得ればなり。
若し、
『菩薩と為っても!』、
有るいは、
『懈怠して!』、
『世楽』に、
『貪著し!』、
『専心して!』、
『仏道』を、
『勤求することができなければ!』、
是れは、
則ち、
『自らを欺いて!』、
『十方の諸仏や、諸菩薩』を、
『欺くことになる!』。
何故ならば、
自ら、
わたしは、
『一切の衆生の為』の故に、
『仏道を求める!』と、
『言いながら!』、
『雑行を行って!』、
『菩薩の法』を、
『壊るので!』、
是の、
『罪』の故に、
諸の、
『仏、菩薩』に、
『守護されず!』、
『魔』が、
其の、
『便』を、
『得るからである!』。
所以者何。一切聖人已入正位。一心行道深樂涅槃。魔入邪位愛著邪道。邪正相違。是故憎嫉正行。狂愚自高喚佛沙門瞿曇。佛稱其實名為弊魔。以相違故名為怨家。 所以は何んとなれば、一切の聖人は、已に正位に入りて、一心に道を行じ、深く涅槃を楽しむも、魔は邪位に入りて、邪道を愛著すれば、邪正相違し、是の故に正行を憎嫉す。狂愚は、自ら高ぶりて、仏を、『沙門瞿曇』と喚(よ)び、仏は、其の実を称えて、名づけて『弊魔』と為したまえば、相違するを以っての故に名づけて、怨家と為す。
何故ならば、
『一切の聖人』は、
『正位に入る!』と、
『一心に!』、
『道』を、
『行いながら!』、
『深く!』、
『涅槃』を、
『楽しむのに!』、
『魔』は、
『邪位に入って!』、
『邪な!』、
『道』を、
『愛著する!』ので、
『邪、正が相違する!』ので、
是の故に、
『正行を憎嫉し!』、
『狂愚し!』、
『自高して!』、
『仏』を、
『沙門瞿曇』と、
『喚び!』、
『仏』は、
其の、
『実を称して!』、
『弊魔』と、
『呼ばれ!』、
『正、邪が相違する!』が故に、
『怨家』と、
『呼ばれるのである!』。
  弊魔(へいま):梵語魔羅maaraの略語魔と、害する意の弊との梵漢併称。殺す者の義。『大智度論巻5下注:魔』参照。
如經說。魔有四種。一者煩惱魔。二者五眾魔。三者死魔。四者自在天子魔。 経に説くが如きは、魔に四種有り、一には煩悩魔、二には五衆魔、三には死魔、四には自在天子魔なり。
『経』には、こう説かれている、――
『魔』には、
『四種有り!』、
一には、
『煩悩という!』、
『魔!』、
二には、
『五衆という!』、
『魔!』、
三には、
『死という!』、
『魔!』、
四には、
『自在天子という!』、
『魔である!』。
此中以般若力故。四魔不能得便。得諸法實相。煩惱斷則壞煩惱魔。天魔亦不能得其便。入無餘涅槃故。則壞五眾魔及死魔。 此の中の般若の力を以っての故に、四魔は、便を得る能わず、諸法の実相を得て、煩悩断ずれば、則ち煩悩魔を壊り、天魔も、亦た其の便を得る能わず、無余涅槃に入るが故に、則ち五衆魔、及び死魔を壊る。
此の中の、
『般若の力』の故に、
『四魔』は、
其の、
『便』を、
『得ることができず!』、
『諸法の実相を得れば!』、
『煩悩が断じられる!』が故に、
則ち、
『煩悩の魔』が、
『壊れ!』、
『天魔』も、
其の、
『便』を、
『得ることができなくなり!』、
『無余涅槃に入る!』が故に、
則ち、
『五衆の魔、死の魔』が、
『壊れることになる!』。
  参考:『大方等大集経巻9』:『世尊。云何菩薩能壞一切諸魔伴黨。佛言。菩薩若能不求諸法。爾時則能壞破魔眾不求一切境界因緣。善男子。有四種魔。一者陰魔。二者煩惱魔。三者死魔。四者天魔。善男子。若能觀法如幻相者。是人則能破壞陰魔。若見諸法悉是空相。是人則能壞煩惱魔。若見諸法不生不滅。是人則能破壞死魔。若除憍慢則壞天魔。復次善男子。若知苦者能壞陰魔。若遠離集破煩惱魔。若證滅者則壞死魔。若修道者則壞天魔。復次善男子。若見一切有為法苦則壞陰魔。若見諸法真實無常壞煩惱魔。若見諸法真實無我能壞死魔。若見諸法寂靜涅槃能壞天魔。復次善男子。菩薩若能於身無貪。捨身施時迴向菩提能壞陰魔。施時遠離慳貪之心壞煩惱魔。若觀財物一切無常能壞死魔。為眾生故修悲布施能壞天魔。復次善男子。若有菩薩不為我見受持淨戒能壞陰魔。不為有貪受持淨戒壞煩惱魔。若為遠離生死過失受持淨戒能壞死魔。若能生心令毀禁者悉持淨戒。受持淨戒則壞天魔。復次善男子。若有菩薩不見我忍我修於忍則壞陰魔。不見眾生有修忍者壞煩惱魔。不見生死則壞死魔。不見菩提則壞天魔。復次善男子。若有菩薩勤修精進。其身寂靜則壞陰魔。勤行精進其心寂靜壞煩惱魔。勤行精進觀法無生能壞死魔。勤行精進為調眾生令轉生死則壞天魔。復次善男子。若有菩薩不為五陰修集禪定能壞陰魔。不著界處修集禪定壞煩惱魔。不著入處修集禪定能壞死魔。所有諸善迴向菩提能壞天魔。復次善男子。若有菩薩知陰方便能壞陰魔。知界方便壞煩惱魔。知入方便能壞死魔。以如是等種種方便迴向菩提能壞天魔。復次善男子。若有菩薩觀一切法皆是空相能壞陰魔。觀一切法悉是無相壞煩惱魔。觀一切法悉是無願能壞死魔。具是三法迴向菩提能壞天魔。復次善男子。若有菩薩觀身身處不覺不著能壞陰魔。觀受受處不覺不著壞煩惱魔。觀心心處不覺不著能壞死魔。觀法法處不覺不著能壞天魔。作如是觀終不失於菩提之心。是人則能壞破四魔。善男子。若著我者則增魔事。菩薩摩訶薩亦知有我亦知無我。若有法非有我非無我。如是則無一法增減。』
云何為得便。魔及魔民來恐怖菩薩。 云何が、便を得と為す。魔、及び魔民の来たりて、菩薩を恐怖す。
『便を得る!』とは、
何を、言うのか?――
『魔や、魔民が来て!』、
『菩薩』を、
『恐怖させることである!』。
如經中說。魔作龍身種種異形可畏之象。夜來恐怖行者。或現上妙五欲壞亂菩薩。或轉世間人心。令作大供養行者貪著供養故。則失道德。或轉人心令輕惱菩薩。或罵或打或傷或害。行者遭苦或生瞋恚憂愁。 経中に説くが如く、魔は、龍身、種種の異形の畏るべき像と作り、夜来たりて、行者を恐怖せしめ、或いは上妙の五欲を現して、菩薩を壊乱せしめ、或いは世間の人心を転じて、大供養を作さしむるに、行者は、供養を貪著するが故に、則ち道の徳を失い、或いは人心を転じて、菩薩を軽悩せしめ、或いは罵り、或いは打ち、或いは傷つけ、或いは害するに、行者は、苦に遭いて、或いは瞋恚、憂愁を生ず。
『経』中には、こう説かれている、――
『魔』は、
『龍身や、種種異形の畏るべき!』、
『象( the appearance )』と、
『作り!』、
『夜来て!』、
『行者』を、
『恐怖させ!』、
或は、
『上妙の五欲を現して!』、
『菩薩』を、
『撹乱させ!』、
或は、
『世間の人心を転じて!』、
『大供養』を、
『作させる!』と、
『行者は供養に貪著する!』が故に、
『道徳』を、
『失い!』、
或は、
『人心を転じて!』、
『軽悩させて!』、
或は、
『菩薩』を、
『罵り、打ち、傷つけ、害する!』ので、
『行者』は、
『苦に遇う!』が故に、
『瞋恚や、憂愁』を、
『生じるのである!』。
如是等魔隨前人意所趣向因而壞之。是名得便。如魔品中廣說。 是の如き等の魔は、前の人の意の趣向する所に随いて、因りて之を壊る、是れを便と得と名づく。魔品中に広く説くが如し。
是れ等のように、
『魔』は、
『前の人』の、
『意』の、
『趣向する!』所に、
『随って!』、
此の、
『人』を、
『壊るので!』、
是れを、
『便を得る!』と、
『称する!』。
例えば、
『魔事品』中に、
『広く!』、
『通りである!』。
問曰。魔力甚大。肉身菩薩道力尚少。云何不得便。 問うて曰く、魔の力は甚大にして、肉身の菩薩の道力は、尚お少なし。云何が、便を得ざる。
問い、
『魔』の、
『力』は、
『甚だ大きいのに!』、
『肉身の菩薩』の、
『道の力』は、
『尚お少ない( still little )!』。
何故、
『便』を、
『得られないのですか?』。
答曰。如上說為諸佛菩薩所護故。此中佛自說因緣。是人善修諸法空。亦不著空。不著空者。云何當得便。譬如無瘡則不受毒。無相無作亦如是。 答えて曰く、上に説くが如く、諸仏、菩薩に護らるるが故なり。此の中に、仏は、自ら因縁を説きたまわく、『是の人は、諸法の空を善修して、亦た空に著せず。』と。空に著せざる者にして、云何が、当に便を得べき。譬えば、瘡無くんば、則ち毒を受けざるが如し。無相、無作も、亦た是の如し。
答え、
上に説いたように、――
諸の、
『仏や、菩薩に!』、
『守護されるからである!』。
此の中に、
『仏』は、
自ら、
『因縁』を、こう説かれている、――
是の、
『人は善く!』、
諸の、
『法は空である!』と、
『修め!』、
亦た、
『空』に、
『著することもないからである!』、と。
『空に著さなければ!』、
何故、
『便』を、
『得ることができるのか?』。
譬えば、
『瘡が無ければ!』、
『毒』を、
『受けないようなものである!』。
亦た、
『無相、無作』も、
『是の通りである!』。
復次一切法實觀皆是空無相無作相。皆是空無相無作相故。則無得便。亦無受便者。是故空不應得空便。無相不應得無相便。無作不應得無作便。以一相故。如火不能滅火得水則滅。以異相故。 復た次ぎに、一切の法に、実を、『皆、是れ空、無相、無作なり』と観て、皆是れ空、無相、無作の相なるが故に、則ち便を得ること無し。亦た便を受くる者も無ければ、是の故に空は、応に空に便を得べからず。無相は、応に無相に便を得べからず。無作は、応に無作に便を得べからず。一相を以っての故なり。火は、火を滅する能わざれど、水を得れば、則ち滅するは、異相なるを以っての故なるが如し。
復た次ぎに、
『一切の法』を、
『実に観れば!』、
皆、
『空、無相、無作という!』、
『相であり!』、
皆、
『空、無相、無作の相である!』が故に、
『便を得るということ!』も、
『無く!』、
亦た、
『便を受ける!』者も、
『無い!』。
是の故に、
『空』が、
『空の便』を、
『得ることはできず!』。
『無相、無作』は、
『無相、無作の便』を、
『得ることはできない!』。
何故ならば、
『諸法』は、
『一相だからである!』。
譬えば、
『火』が、
『火を滅することができない!』のに、
『水を得れば!』、
『滅することになる!』のは、
『火と、水と!』が、
『相』を、
『異にするからであるようなものである!』。
問曰。菩薩住三解脫門。則是受便處。與一切法相違故。空與有相違。無相與有相相違。無作與有作相違。 問うて曰く、菩薩は、三解脱門に住すれば、則ち是れ便を受くる処なり。一切法と相違するが故なり。空は、有と相違し、無相は、有相と相違し、無作は、有作と相違す。
問い、
『菩薩』が、
『三解脱門』に、
『住すれば!』、
則ち、
『菩薩』は、
『便を受ける処である!』。
何故ならば、
『空、無相、無作の三解脱門』は、
『一切の法』を、
『相違する!』が故に、
『空』は、
『有』と、
『相違する!』が故に、
『無相』は、
『有相』と、
『相違する!』が故に、
『無作』は、
『有作』と、
『相違する!』が故に、
是の故に、
『菩薩』は、
『三解脱門』に、
『住するのである!』。
答曰。此經中佛自說三解脫門無有自性。 答えて曰く、此の経中に、仏は、自ら説きたまえり、『三解脱門には、自性有ること無し』と。
答え、
『仏』は、
自ら、
此の、
『経』中に、こう説かれている、――
『三解脱門』には、
『自性』が、
『無いのだ!』、と。
又先論議中。說於空無相無作中亦不著。是故雖住三解脫門。魔及魔民不得其便。 又、先の論義中に説かく、『空、無相、無作中に於いても、亦た著せず』と。是の故に、三解脱門に住すと雖も、魔、及び魔民は、其の便を得ず。
又、
先の、
『論議』中には、こう説いている、――
『空、無相、無作』中にも、
亦た、
『著することがない!』、と。
是の故に、
『三解脱門に住しても!』、
『魔や、魔民』は、
其の、
『便』を、
『得られないのである!』。
問曰。餘處皆言菩薩摩訶薩。今何以言善男子善女人。 問うて曰く、余の処には、皆、『菩薩摩訶薩』と言い、今は、何を以ってか、『善男子、善女人』と言う。
問い、
『余の処』には、
皆、
『菩薩摩訶薩』と、
『言うのに!』、
今は、
何故、
『善男子、善女人』と、
『言うのですか?』。
答曰。先說實相智慧。難受以能受故則是菩薩摩訶薩。今說供養受持讀誦等。雜說故得稱善男子善女人。 答えて曰く、先には、実相の智慧の受け難きを説くに、能く受くるを以っての故に、則ち是れ菩薩摩訶薩なり。今は、供養、受持、読誦等を説くに、雑えて説くが故に、善男子善女人と称するを得。
答え、
先には、
『受け難い( unacceptable )!』、
『実相の智慧』を、
『受けることができる!』が故に、
是れを、
『菩薩摩訶薩と!』、
『説いたのである!』、が
今は、
『供養、受持、読誦』等を、
『雑説する!』が故に、
『善男子、善女人』と、
『称したのである!』。
復次經中說。女人有五礙。不得作釋提桓因梵王魔王轉輪聖王佛。聞是五礙不得作佛。女人心退不能發意。或有說法者。不為女人說佛道。是故佛此間說善男子善女人。女人可得作佛。非不轉女身也。五礙者說一身事。善男子善女人義先已廣說。 復た次ぎに、経中に説かく、『女人には、五礙有りて、釈提桓因、梵王、魔王、転輪聖王、仏に作るを得ず。』と。是の五礙の仏と作るを得ざるを聞かば、女人の心は退きて、意を発す能わざらん、或いは、有る法を説く者は、女人の為に仏道を説かざらん。是の故に、仏の此の間に説きたまわく、『善男子善女人、女人を仏と作るを得べし、女身を転ぜざるに非ざればなり。五礙とは、一身の事を説く。』と。善男子善女人の義は、先に已に広く説けるが如し。
復た次ぎに、
『経』中には、こう説く、――
『女人』には、
『五礙が有り!』、
『釈提桓因、梵王、魔王、転輪聖王、仏』には、
『作ることができない!』、と。
『女人』は、
是の、
『五礙が有る!』が故に、
『仏に作れない!』と、
『聞いて!』、
『心が退没して!』、
『阿耨多羅三藐三菩提の意』を、
『発すことができなくなる!』。
或は、
有る、
『説法する!』者は、
『女人の為には!』、
『仏道』を、
『説かない!』ので、
是の故に、
『仏』は、
此の間に、こう説かれたのである、――
善男子、善女人!
『女人』は、
『仏に!』、
『作ることができる!』、
『女身』は、
『男身に!』、
『転じないということはない!』。
『五礙』とは、
『現在の一身の事』を、
『説くのである!』、と。
『善男子、善女人の義』は、
先に、
『広説した通りである!』。
人不得便者。人名若賊若官若怨等。欲惱亂菩薩求索其便。 人の便を得ずとは、人を、若しは賊、若しは官、若しは怨等に名づけ、菩薩を悩乱せんと欲して、其の便を求索するなり。
『人が便を得ない!』とは、――
『人』とは、
『賊や、官や、怨等であり!』、
是のような、
『人』が、
『菩薩を悩乱しようとして!』、
其の、
『便』を、
『求索する( to search for )からである!』。
  求索(ぐさく):梵語 paryeSTi の訳、捜し求める/尋ねる( searching for, inquiery )の意、世俗の事を求めて努力する( striving after worldly objects )の意。
問曰。先說不得便因緣。何以但說空。今說人不得便。但說四無量心。 問うて曰く、先に、便を得ざる因縁を説くに、何を以ってか、但だ空を説き、今、人の便を得ざるを説くに、但だ、四無量心を説く。
問い、
先には、
『便を得られない!』、
『因縁』を、
『説きながら!』、
何故、
但だ、
『空のみ!』を、
『説くのですか?』。
今は、
『人』が、
『便を得られない!』と、
『説きながら!』、
但だ、
『四無量心のみ!』を、
『説くのですか?』。
  参考:『大智度論巻56』:『復次憍尸迦。是善男子善女人。若人非人不能得其便。何以故。是善男子善女人。一切眾生中。善修慈心悲喜捨心。以無所得故。』
答曰。有人言。先說魔若魔民。怨大故法亦大。故說空。怨小故法亦小。故說四無量心。 答えて曰く、有る人の言わく、『先に説く魔、若しくは魔民は、怨の大なるが故に、法も亦た大なり。故に空を説く。怨の小なるが故に、法も亦た小なり。故に四無量心を説く。』と。
答え、
有る人は、こう言っている、――
先に説いた、
『魔や、魔民』は、
『怨( injury )が大である!』が故に、
『法』も、
『大であり!』、
故に、
『空』を、
『説いたのである!』が、
『人』は、
『怨が小である!』が故に、
『法』も、
『小であり!』、
故に、
『四無量心』を、
『説くのである!』。
  (おん):◯梵語 amitra の訳、非友/敵/怨敵( not a friend, an enemy, adversary, foe )の義。◯梵語 apakaara の訳、悪/攻撃/危害/苦痛(wrong, offence, injury, hurt )、軽蔑する(despise, disdain )の義。◯梵語 apriya の訳、不愉快な/嫌われる/冷酷な/不親切な( disagreeable, disliked, unkind, unfriendly )の義。
有人言。四無量心是菩薩常行。為集諸功德故。後以般若波羅蜜空相令除邪見。不著眾生亦不著法。是二法前後無在。 有る人の言わく、『四無量心は、是れ菩薩の常行にして、諸の功徳を集めんが為の故なり。後に、般若波羅蜜の空相を以って、邪見を除かしむるも、衆生に著せず、亦た法にも著せず。是の二法は前後して在ること無し。』と。
有る人は、こう言っている、――
『菩薩』は、
諸の、
『功徳を集める!』為の故に、
常に、
『四無量心』を、
『行いながら!』、
後に、
『般若波羅蜜の空相を用いて!』、
『衆生』の、
『邪見』を、
『除かせるが!』、
『衆生に著することもなく!』、
『法に!』、
『著することもなく!』、
是の、
『二法』が、
『前後して在るということ!』も、
『無い!』、と。
復次上魔作恐怖事甚多。多不現本形。或現雷震或作風雨或作病痛等。是故說諸法空。令人來惡口罵詈刀杖打斫故。用四無量心。 復た次ぎに、上には、魔の作す恐怖の事甚だ多く、多く本形を現さず。或いは雷震を現し、或いは風雨を作し、或いは病痛を作す等なり。是の故に、諸法の空を説き、人をして来たりて悪口、罵詈、刀杖、打斫せしむるが故に、四無量心を用う。
復た次ぎに、
上には、
『魔の作す!』、
『恐怖の事』が、
『甚だ多く!』、
『説かれており!』、
多くは、
『魔』は、
『本の形』を、
『現さずに!』、
或は、
『魔』が、
『雷震や、風雨や、病痛等を作す!』のを、
『現すだけである!』ので、
是の故に、
『諸法は空である!』と、
『説き!』、
亦た、
『人を来させて!』、
『悪口、罵詈させたり!』、
『刀杖、打斫させる!』ので、
是の故に、
『四無量心』を、
『用いるのである!』。
不橫死者。所謂無罪而死。或壽命未盡錯投藥故。或不順藥法。或無看病人。或飢渴寒熱等夭命。是名橫死。 横死せずとは、謂わゆる罪無くして死す。或いは寿命未だ尽きざるに、錯って薬を投ずるが故なり。或いは薬法に順ぜず、或いは看病人無く、或いは飢渴、寒熱等に夭命する、是れを横死と名づく。
『横死しない!』とは、――
謂わゆる、
『罪』が、
『無いのに!』、
『死ぬとか!』、
或は、
『寿命が尽きていない!』のに、
『投薬』を、
『錯る!』が故に、
或は、
『薬法』に、
『順じなかった!』が故に、
或は、
『看病人』が、
『無い!』が故に、
或は、
『飢渴、寒熱』等の故に、
『夭命する( to die young )!』が、
是れが、
『横死である!』。
  夭命(ようみょう):わかじにする( to die young )。短命( early death )。
菩薩從初發意來。於一切眾生中。常行檀波羅蜜。應病與藥隨病所須。拯濟孤窮隨其所乞皆給與之。於一切眾生中。悉皆平等好心供養亦行是般若波羅蜜。以是功德故不橫死。是中略說三功德已。 菩薩は、初の発意より来、一切の衆生中に於いて、常に檀波羅蜜を行う。病に応じて薬を与うるに、病の須うる所に随い、孤窮を拯済するに、其の乞う所に随いて、皆之を給与し、一切の衆生中に於いて、悉く皆平等の好心もて供養するも、亦た是れ般若波羅蜜を行ずるなり。是の功徳を以っての故に、横死せず。是の中には、三功徳のみを略説す。
『菩薩』は、
『初の発意より!』、
一切の、
『衆生』中に於いて、
常に、
『檀波羅蜜を行いながら!』、
『病に応じて!』、
『薬』を、
『与え!』、
『病』の、
『必要とする!』所に、
『随い!』、
『孤独や、貧窮を救済して!』、
其の、
『乞う!』所を、
『皆、給与し!』、
一切の、
『衆生』中に於いて、
悉く、
『皆を、平等に!』、
『好心で!』、
『供養しながら!』、
是の、
『般若波羅蜜』を、
『行うのである!』が、
是の、
『供養』の、
『功徳』の故に、
『横死することはない!』。
是の中には、
『三種の功徳』を、
『略して!』、
『説いたのである!』。
  拯済(じょうさい):すくう。救済。
  孤窮(こぐう):独り者と貧乏。孤独貧窮。
  (い):やむ。のみ。
  参考:『大智度論巻56』:『憍尸迦。是善男子善女人終不橫死。何以故。是善男子善女人。行檀波羅蜜。於一切眾生等心供給故。』
三千大千世界中。諸天發心未聞般若波羅蜜者。先說善男子善女人應聞受持乃至正憶念。今說因緣。 三千大千世界中の諸天、発心してより、未だ般若波羅蜜を聞かざる者に、先に、『善男子善女人は、応に聞きて受持し、乃至正憶念すべし。』と説きて、今、因縁を説くなり。
『三千大千世界』中の、
『諸天』の、
『発心しながら!』、
未だ、
『般若波羅蜜』を、
『聞かなかった!』者に
先に、
『善男子、善女人は聞いて!』、
『受持、乃至正憶念するはずである!』と、
『説き!』、
今、
其の、
『因縁』を、
『説くのである!』。
諸天有大功德猶尚供養。何況於人。雖一切人天應聽般若。能發無上道心者。最應深心聽。所以者何。般若是佛道之本故。 諸天には、大功徳有るも、猶尚お供養すべし。何に況んや、人に於いてをや。一切の人、天は応に般若を聴くべしと雖も、能く無上道の心を発す者は、最も応に深心もて聴くべし。所以は何んとなれば、般若は是れ仏道の本なるが故なり。
『諸天』は、
『大功徳が有っても!』、
猶尚お( yet )、
『供養すべきである!』。
況して、
『人』は、
『尚更、供養すべきである!』。
『一切の人、天』は、
『般若波羅蜜を聴くべきである!』が、
『無上道の心』を、
『発すことができた!』者は、
最も、
『深心で!』、
『聴かねばならない!』。
何故ならば、
『般若波羅蜜』は、
『仏道の本だからである!』。
問曰。此天發心。何以不聞般若。 問うて曰く、此の天は発心して、何を以ってか、般若を聞かざる。
問い、
此の、
『天は発心しながら!』、
何故、
『般若波羅蜜』を、
『聞かなかったのですか?』。
答曰。有人言。此天前世人中發意今生天上。五欲覆心故不聞。 答えて曰く、有る人の言わく、『此の天は、前世の人中に発意せるも、今天上に生ずるに、五欲の心を覆えるが故に聞かず。』と。
答え、
有る人は、こう言っている、――
此の、
『天』は、
『前世の人中に発意して!』、
今、
『天上に生まれながら!』、
『五欲』に、
『心を覆われ!』、
是の故に、
『般若波羅蜜』を、
『聞かなかったのである!』。
復次諸天雖發無上道心。五情利五欲。妙染著深故。視東忘西。不能求般若。色界諸天雖先聞法發心。以味著禪定深故。不能求般若。是故說不聞者應聞受持。 復た次ぎに、諸天は、無上道の心を発すと雖も、五情利く、五欲妙なれば、染著すること深きが故に、東を視れば西を忘れ、般若を求むる能わず。色界の諸天は、先に法を聞きて、発心すと雖も、禅定に味著すること深きが故に、般若を求むる能わず、是の故に説かく、『聞かざる者は、応に聞きて受持すべし。』と。
復た次ぎに、
『諸天』は、
『無上道の心を発しながら!』、
『五情が利く!』、
『五欲が妙である!』が故に、
『深く!』、
『染著し!』、
是の故に、
『東を視れば、西を忘れて!』、
『般若波羅蜜』を、
『求めることができない!』。
即ち、
『色界の諸天』は、
先に、
『法を聞いて!』、
『発心しながら!』、
『深く!』、
『禅定に味著する!』ので、
是の故に、
『般若波羅蜜』を、
『求めることができない!』。
是の故に、こう説くのである、――
『法を聞かない!』者は、
『聞いて!』、
『受持せねばならない!』、と。
復次先說魔及魔民不能得其便。是內因緣。所謂空三昧。及四無量心。今更說不得便。是外因緣。所謂佛告諸天。汝等供養受持般若。是善男子善女人。亦受持供養是般若同事故。若魔來破汝應守護。 復た次ぎに、先に、『魔、及び魔民は、其の便を得る能わず』と説くは、是れ内の因縁にして、謂わゆる空三昧、及び四無量心なり。今、更に、『便を得ず』と説くは、是れ外の因縁なり。謂わゆる仏の諸天に告げたまわく、『汝等、般若を供養し、受持せば、是れ善男子善女人も、亦た是の般若を受持し、供養して、事を同じうするが故に、若しは魔来たりて、破らん、汝は、応に守護すべし。』と。
復た次ぎに、
先に、
『魔や、魔民』は、
其の、
『便を得られない!』と、
『説いた!』が、
是の、
『因縁』は、
『内の因縁であり!』、
謂わゆる、
『空三昧、乃至四無量心である!』。
今、
更に、
『便を得られない!』と、
『説いた!』が、
是の、
『因縁』は、
『外の因縁である!』。
謂わゆる、
『仏』は、
『諸天』に、こう告げられた、――
お前達は、
『般若波羅蜜』を、
『供養し!』、
『受持している!』が、
是の、
『善男子、善女人』も、
是の、
『般若波羅蜜を供養、受持しており!』、
『事』を、
『同じうする!』が故に、
若し、
『魔が来て!』、
『破ろうとすれ!』、
お前達が、
『守護せねばならない!』、と。
復次受持般若者。若在空舍住。若在曠野。若在人間住。 復た次ぎに、般若を受持する者の、若しは空舎に在りて住まり、若しは曠野に在りて、若しは人間に在りて住まるとは、
復た次ぎに、
『般若波羅蜜を受持すれば!』、
『空舎に住しても!』、
『曠野に在っても!』、
『人間に住しても!』とは、――
處空舍中多諸鬼魅及以賊寇。眾惡易來故初說。除人住處及以空舍。餘殘山澤樹林等皆是曠野。少人行故。多諸虎狼師子惡賊鬼魅。人所住處不淨故。魔及鬼神尟來諸難少故。是以後說。 空舎中に処すれば、多く諸の鬼魅、及以(およ)び賊寇多く、衆悪来たり易きが故に、初に説く。人の住処、及以び空舎を除きて、余残の山沢、樹林等は、皆、是れ曠野なり。人の行くこと少なきが故に、諸の虎狼、師子、悪賊、鬼魅多し。人の所住の処は、不浄なるが故に、魔、及び鬼神の来たること尟(すくな)く、諸の難少なきが故に、是を以って後に説く。
『空舎』中に、
『処すれば!』、
諸の、
『鬼魅や、賊寇や、衆悪』が、
『易く( easily )来る!』ことが、
『多い!』が故に、
『空舎』を、
『初に!』、
『説き!』、
『人の住処と、空舎を除けば!』、
余残の、
『山沢、樹林』等は、
皆、
『曠野であり!』、
『人』の、
『行くこと!』が、
『少ない!』が故に、
諸の、
『虎狼、師子、悪賊、鬼魅』が、
『多く!』、
『人の住する!』、
『処は不浄である!』が故に、
『魔や、鬼神』の、
『来ること!』が、
『少なく!』、
諸の、
『難』も、
『少ない!』が故に、
是の故に、
『後に!』、
『説くのである!』。
  鬼魅(きみ):もののけ。ばけもの。
  及以(ぎゅうい):および。及。
  賊寇(ぞくこう):盗賊の集団。
  (しょう):すくない。尠。少。
行者於三處住無所畏懼。以二因緣故。一者善修十八空。二者般若波羅蜜威德故 行者の、三処に住まりて、畏懼する所無きは、二因縁を以っての故なり。一には善く十八空を修む、二には般若波羅蜜の威徳の故なり。
『行者』は、
『三処に住しても!』、
『畏懼する( to fear )!』所が、
『無いのである!』が、
『二因縁』の故に、
謂わゆる、
一には、
『十八空』を、
『善く修めた!』が故に、
二には、
『般若波羅蜜』の、
『威徳』の故に、
是の故に、
『畏懼する!』所が、
『無いのである!』。



【經】諸天が、守護する

【經】爾時三千大千世界中。諸四天王天三十三天夜摩天兜率陀天化樂天他化自在天。乃至首陀婆諸天白佛言。世尊。是善男子善女人。能受持般若波羅蜜。親近讀誦正憶念。亦不離薩婆若心者。我等常當守護。 爾の時、三千大千世界中の、諸の四天王天、三十三天、夜摩天、兜率陀天、化楽天、他化自在天、乃至首陀婆諸天の仏に白して言さく、『世尊、是の善男子善女人は、能く般若波羅蜜を受持し、親近、読誦、正憶念して、亦た薩婆若の心を離れずんば、我等は常に、当に守護すべし。
爾の時、
『三千大千世界』中の、
諸の、
『四天王天、三十三天、夜摩天、兜率陀天、化楽天、他化自在天や!』、
『首陀婆諸天』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
是の、
『善男子、善女人』が、
『般若波羅蜜を受持』し、
『親近、読誦、正憶念して!』、
『薩婆若の心』を、
『離れなければ!』、
わたし達が、
常に、
『守護することになりましょう!』。
  首陀婆諸天(しゅだばしょてん):聖者の居住する五種の天。五淨居天とも云う。『大智度論巻9上注:五淨居天、同巻54上注:首陀婆諸天』参照。
何以故。世尊。以菩薩摩訶薩因緣故。斷三惡道。斷天人貧。斷諸災患疾病飢餓。 何を以っての故に、世尊、菩薩摩訶薩の因縁を以っての故に、三悪道を断じ、天、人の貧を断じ、諸の災患、疾病、飢餓を断ずればなり。
何故ならば、
世尊!
『菩薩摩訶薩の因縁』の故に、
『三悪道や、天人の貧を断じ!』、
『諸の災患、疾病、飢餓』を、
『断じるからです!』。
以菩薩因緣故。便有十善道出世間。四禪四無量心四無色定。檀波羅蜜尸羅波羅蜜羼提波羅蜜毘梨耶波羅蜜禪波羅蜜般若波羅蜜。內空乃至無法有法空。四念處乃至一切種智 菩薩の因縁を以っての故に、便ち十善道、出世間の四禅、四無量心、四無色定、檀波羅蜜、尸羅波羅蜜、羼提波羅蜜、毘梨耶波羅蜜、禅波羅蜜、般若波羅蜜、内空、乃至無法有法空、四念処、乃至一切種智有ればなり。
『菩薩の因縁』の故に、
便ち( be of use to )、
『十善道や!』、
『出世間の四禅、四無量心、四無色定や!』、
『檀、尸羅、羼提、毘梨耶、禅、般若波羅蜜や!』、
『内空、乃至無法有法空、四念処、乃至一切種智』が、
『有るからです!』。
  便(べん):<形容詞>便利/方便( convenient, easy )、敏捷( nimble )、簡便( simple, easy, informal )、近くて便利な( close and convenient )。<動詞>成功する/役立つ/( go long way in, go far towards, be of value to, be of use to )。<副詞>即ち/直ぐに/容易に( as soon as, easily )。<接続詞>たとえ~であっても( even if )。
以菩薩因緣故。世間便有生剎利大姓婆羅門大姓居士大家諸王。及轉輪聖王四天王天乃至阿迦尼吒天。 菩薩の因縁を以っての故に、世間に便ち刹利の大姓、婆羅門の大姓、居士の大家、諸の王、及び転輪聖王、四天王天、乃至阿迦尼吒天に生ずること有ればなり。
『菩薩の因縁』の故に、
『世間』には、
便ち、
『刹利、婆羅門の大姓、居士の大家や!』、
『諸の王と、転輪聖王や!』、
『四天王天、乃至阿迦尼吒天』に、
『生まれること!』が、
『有るからです!』。
以菩薩因緣故。有須陀洹須陀洹果乃至阿羅漢阿羅漢果辟支佛辟支佛道。 菩薩の因縁を以っての故に、須陀洹、須陀洹果、乃至阿羅漢、阿羅漢果、辟支仏、辟支仏道有り。
『菩薩の因縁』の故に、
『須陀洹、須陀洹果、乃至阿羅漢、阿羅漢果、辟支仏、辟支仏道』が、
『有るからです!』。
以菩薩因緣故。有成就眾生淨佛世界。便有諸佛出現於世。便有轉法輪。知有佛寶法寶比丘僧寶。 菩薩の因縁を以っての故に、衆生を成就して、仏世界を浄むること有り、便ち諸仏の世に出現したもうこと有り、便ち法輪を転じたもうこと有りて、仏宝、法宝、比丘僧宝有るを知る。
『菩薩の因縁』の故に、
『衆生を成就して!』、
『仏世界を浄めること!』が、
『有り!』、
便ち、
『諸仏が世に出現して!』、
『法輪を転じられること!』が、
『有り!』、
便ち、
『仏宝、法宝、比丘僧宝』が、
『有る!』と、
『知るからです!』。
世尊。以是因緣故。一切世間諸天及人阿脩羅。應守護是菩薩摩訶薩。 世尊、是の因縁を以っての故に、一切の世間の諸の天、及び人、阿修羅は、応に是の菩薩摩訶薩を守護すべし。
世尊!
是の、
『因縁』の故に、
一切の、
『世間の諸天、人、阿修羅』は、
是の、
『菩薩摩訶薩』を、
『守護せねばならないのです!』。
佛語釋提桓因。如是如是。憍尸迦。以菩薩摩訶薩因緣故。斷三惡道。乃至三寶出現於世。以是故。諸天及人阿修羅常應守護供養恭敬尊重讚歎是菩薩摩訶薩。 仏の釈提桓因に語りたまわく、『是の如し、是の如し、憍尸迦、菩薩摩訶薩の因縁を以っての故に、三悪道を断ち、乃至三宝は世に出現す。是を以っての故に、諸の天、及び人、阿修羅は、常に応に、是の菩薩摩訶薩を守護し、供養、恭敬、尊重、讃歎すべし。
『仏』は、
『釈提桓因』に、こう語られた、――
その通りだ!
その通りだ!
憍尸迦!
『菩薩摩訶薩の因縁』の故に、
『三悪道を断じて!』、
乃至、
『三宝』が、
『世に出現するのであり!』、
是の故に、
『諸の天、人、阿修羅』は、
常に、
是の、
『菩薩摩訶薩を守護して!』、
『供養、恭敬し!』、
『尊重、讃歎せねばならないのである!』。
憍尸迦。供養恭敬尊重讚歎是菩薩摩訶薩。即是供養我。以是故。是諸菩薩摩訶薩。諸天及人阿修羅常應守護供養恭敬尊重讚歎。 憍尸迦、是の菩薩摩訶薩を供養、恭敬、尊重、讃歎するとは、即ち是れ我れを供養するなり。是を以っての故に、是の諸の菩薩摩訶薩を、諸の天、及び人、阿修羅は、常に応に、守護し、供養、恭敬、尊重、讃歎すべし。
憍尸迦!
是の、
『菩薩摩訶薩』を、
『供養、恭敬し!』、
『尊重、讃歎すれば!』、
即ち、
わたしを、
『供養することになる!』。
是の故に、
是の、
『諸の菩薩摩訶薩』を、
『諸の天、人、阿修羅』は、
常に、
『守護して!』、
『供養、恭敬、尊重、讃歎せねばならない!』。
憍尸迦。若三千大千世界滿中聲聞辟支佛。譬如竹葦稻麻叢林。若有善男子善女人。供養恭敬尊重讚歎不如供養恭敬尊重讚歎初發心菩薩摩訶薩。不離六波羅蜜所得福德。 憍尸迦、若し三千大千世界の中に満つる声聞、辟支仏の譬えば竹、葦、稲、麻、叢林の如きを、若し有る善男子善女人、供養、恭敬し、尊重、讃歎すとも、初発心の菩薩摩訶薩を供養、恭敬し、尊重、讃歎して、六波羅蜜を離れずに得る所の福徳に如かず。
憍尸迦!
若し、
『三千大千世界』中に、
『声聞、辟支仏』が、
譬えば、
『竹、葦、稲、麻、叢林のように!』、
『満ちていたとして!』、
若し、
有る、
『善男子、善女人』が、
『供養、恭敬、尊重、讃歎したとしても!』、
『初発心の菩薩摩訶薩を供養、恭敬、尊重、讃歎しながら!』、
『六波羅蜜を離れずに、得られる!』、
『福徳』には、
『及ばない!』。
何以故。不以聲聞辟支佛因緣故。有菩薩摩訶薩及諸佛出現於世。以有菩薩摩訶薩因緣故。有聲聞辟支佛諸佛出現於世。 何を以っての故に、声聞、辟支仏の因縁を以っての故に、菩薩摩訶薩、及び諸仏の世に出現すること有らず、菩薩摩訶薩の因縁有るを以っての故に、声聞、辟支仏、諸仏の世に出現すること有ればなり。
何故ならば、
『声聞、辟支仏の因縁』の故に、
『菩薩摩訶薩や、諸仏が有り!』、
『世』に、
『出現するのではなく!』、
『菩薩摩訶薩の因縁が有る!』が故に、
『声聞、辟支仏や、諸仏が有り!』、
『世』に、
『出現するからである!』。
以是故。憍尸迦。是諸菩薩摩訶薩。一切世間諸天及人阿修羅。常應守護供養恭敬尊重讚歎 是を以っての故に、憍尸迦、是の諸の菩薩摩訶薩を、一切の世間の諸の天、及び人、阿修羅は、常に応に、守護し、供養、恭敬し、尊重、讃歎すべし。
是の故に、
憍尸迦!
是の、
『諸の菩薩摩訶薩』を、
一切の、
『世間の諸天や、人、阿修羅』は、
常に、
『守護して!』、
『供養、恭敬、尊重、讃歎せねばならないのである!』。



【論】諸天が、守護する

【論】釋曰。爾時諸天白佛。我等當守護是菩薩。與我等同事故。亦以求佛道者。能自捨身樂欲使一切眾生得樂故。 釈して曰く、爾の時、諸天の仏に白さく、『我等は、当に是の菩薩を守護すべし、我等と事を同じうするが故なり。亦た仏道を求むる者は、能く自ら身の楽を捨てて、一切の衆生をして、楽を得しめんと欲する以っての故なり。
釈す、
爾の時、
『諸天』は、
『仏』に、こう白した、――
わたし達は、
是の、
『菩薩』を、
『守護せねばなりません!』、
わたし達と、
『事』を、
『同じうするからです!』。
亦た、
『仏道を求める!』者は、
自ら、
『身の楽』を、
『捨てることができ!』、
一切の、
『衆生』に、
『樂を得させようとするからです!』。
因菩薩斷三惡道者。菩薩雖未離欲。能遮眾生十不善故。斷三惡道及天人貧諸災患等。行十善故開三善道門。 菩薩に因り、三悪道を断つとは、菩薩は、未だ欲を離れずと雖も、能く衆生の十不善を遮るが故に三悪道、及び天、人の貧、諸の災患等を断ずれば、十善を行うが故に、三善道の門を開く。
『菩薩に因って!』、
『三悪道』を、
『断じる!』とは、――
『菩薩』は、
未だ、
『欲を離れなくても!』、
『衆生の十不善道(殺生、偷盗等)』を、
『遮ることができる!』が故に、
『三悪道や、天、人の貧、諸の災患等を断じて!』、
『十善道を行う!』が故に、
是の故に、
『三善道(天、人、阿修羅)の門』を、
『開くからである!』。
或有菩薩。見五欲過罪能離欲得四禪。以本願故起四無量心。欲離種種因緣身苦故。起四無色定。為佛道故修六波羅蜜乃至一切種智。是法亦自行亦教人。以是福德道法。於眾生中展轉相教常在世間。 或いは有る菩薩は、五欲の過罪を見て、能く欲を離れ、四禅を得るに、本願を以っての故に、四無量心を起して、種種の因縁の身苦を離れんと欲するが故に、四無色定を起し、仏道の為の故に、六波羅蜜、乃至一切種智を修め、是の法を、亦た自らも行い、亦た人にも教えて、是を以って福徳の道法は、衆生中に於いて展転して相教え、常に世間に在り。
或いは、
有る、
『菩薩』は、
『五欲の過罪を見て!』、
『欲を離れることができる!』が故に、
『四禅』を、
『得!』、
『本願』の故に、
『四無量心』を、
『生じ!』、
『種種の因縁の身苦を離れようとする!』が故に、
『四無色定』を、
『起し!』、
『仏道の為』の故に、
『六波羅蜜、乃至一切種智』を、
『修めるのである!』が、
是の、
『法』を、
『自ら行いながら!』、
『人にも!』、
『教える!』が故に、
是の故に、
『福徳の道法』が、
『衆生中を展転して!』、
『相互に!』、
『教え合い!』、
常に、
『世間に!』、
『存在するのである!』。
今當說是諸善法果報。生剎利大姓。乃至三寶出現於世。如先義中說。 今、当に、是の諸の善法の果報を説くべし。刹利の大姓に生ず、乃至三宝、世に出現すは、先の義中に説くが如し。
今は、
是の、
『諸の善法』の、
『果報』を、
『説かねばならない!』が、
『刹利の大姓に生まれたり!』、
乃至、
『三宝』が、
『世に出現すること!』は、
先の、
『義』中に、
『説いた通りである!』。
  参考:『大智度論巻36』:『【經】何以故。以有菩薩摩訶薩因緣故。世間諸善法生【論】釋曰。佛先已以一因緣益行眾行故。為諸聲聞辟支佛作福田。今說菩薩外益因緣故。世間有一切諸善法。所以者何。菩薩發心雖未成佛。令可度眾生住三乘道。不得三乘者令住十善道。何況成佛。問曰。聲聞辟支佛因緣故亦使世間得善法。何以但說菩薩能令世間有善法。答曰。因聲聞辟支佛世間有善法者。亦皆由菩薩故有。若菩薩不發心者世間尚無佛道。何況聲聞辟支佛。佛道是聲聞辟支佛根本故。復次雖因聲聞辟支佛有善法少。以少故不說。尚不說聲聞辟支佛。何況外道諸師。【經】何等是善法。所謂十善道五戒八分成就齋。四禪四無量心四無色定。四念處四正勤四如意足五根五力七覺分八聖道分。盡現於世。以菩薩因緣故。六波羅蜜十八空佛十力四無所畏四無礙智十八不共法大慈大悲一切種智。盡現於世。以菩薩因緣故。有剎利大姓婆羅門大姓居士大家四天王天乃至非有想非無想天。皆現於世。以菩薩因緣故。有須陀洹斯陀含阿那含阿羅漢辟支佛佛。皆現於世【論】問曰。以菩薩因緣故有善法於世可爾。剎利大姓婆羅門大姓居士大家。若世無菩薩亦有此貴姓。云何言皆從菩薩生。答曰。以菩薩因緣故。世間有五戒十善八齋等。是法有上中下。上者得道。中者生天。下者為人。故有剎利大姓婆羅門大姓居士大家。問曰。若世無菩薩。世間亦有五戒十善八齋剎利等大姓。答曰。菩薩受身種種。或時受業因緣身。或受變化身。於世間教化。說諸善法及世界法王法世俗法出家法在家法種類法居家法。憐愍眾生護持世界。雖無菩薩法常行世法。以是因緣故皆從菩薩有。問曰。菩薩清淨行大慈悲。云何說世俗諸雜法。答曰。有二種菩薩。一者行慈悲直入菩薩道。二者敗壞菩薩。亦有悲心治以國法無所貪利。雖有所惱所安者多。治一惡人以成一家。如是立法。人雖不名為清淨菩薩。得名敗壞菩薩。以是因緣故皆由菩薩有。世間諸富貴皆從二乘道有。二乘道從佛有。佛因菩薩有。若無菩薩說善法者。世間無有天道人道阿修羅道。無有樂受不苦不樂受。但有苦受常有地獄啼哭之聲。菩薩如是大利益故。云何不名為世間作福田。舍利弗聞是菩薩有大功德應當供養。心念煩惱未盡。雖有大福不能消其供養。如人雖噉好食以內有病故不能消化。以是故』
今是菩薩結業生身在因緣中無有力勢。而能說是善法。令眾生修行。我等云何當不守護。譬如太子雖小群臣百官無不奉承。 今、是の菩薩は、結業の生身にして、因縁中に在れば、力勢有ること無し、而も能く、是の善法を説きて、衆生をして修行せしむ。我等は、云何が、当に守護せざるべき。譬えば、太子は、小なりと雖も、群臣、百官の奉承せざる無きが如し。
今、
是の、
『菩薩』は、
『結業生の身であり!』、
『因縁中に在る!』が故に、
『力勢』が、
『無い!』が、
是の、
『善法を説いて!』、
『衆生』に、
『修行させることができる!』。
わたし達が、
何故、
是の、
『菩薩』を、
『守護しなくてもよいのか?』。
譬えば、
『太子は小であっても!』、
『群臣、百官』には、
『奉承しない( do not flatter )!』者が、
『無いようなものである!』。
佛可諸天述而成之。若供養菩薩。即是供養佛者。般若是三世佛母。若為般若故供養菩薩。則為供養佛。 仏は、諸天を可とし、述べて之を成したまえり。若し菩薩を供養せば、即ち是れ仏を供養すとは、般若は、是れ三世の仏母なれば、若し般若の為の故に、菩薩を供養すれば、則ち仏を供養すと為す。
『仏』は、
『諸天の語を可として!』、
是の、
『語』を、こう完成された( to finish )、――
若し、
『菩薩を供養すれば!』、
即ち( this is )、
『仏』を、
『供養することになる!』とは、――
『般若波羅蜜』は、
『三世の仏の母である!』が故に、
若し、
『般若波羅蜜の為』の故に、
『菩薩』を、
『供養すれば!』、
則ち、
『仏』を、
『供養することになる!』。
不如供養恭敬初發意菩薩者。問曰。二乘已證實際。是一切眾生福田。何以故。不如初發意菩薩。 初発意の菩薩を供養、恭敬するに如かずとは、
問うて曰く、二乗は、已に実際を証すれば、是れ一切の衆生の福田なり。何を以っての故にか、初発意の菩薩に如かざる。
『初発意の菩薩』を、
『供養、恭敬する!』には、
『及ばない!』とは、――
問い、
『二乗』は、
已に、
『実際』を、
『証している!』が故に、
一切の、
『衆生』の、
『福田である!』が、
何故、
『初発意の菩薩』に、
『及ばないのですか?』。
答曰。以三事故不如。一者用薩婆若心行般若。二者常不離六波羅蜜等諸功德。三者由是菩薩斷三惡道出生三乘。依二乘人不能斷三惡道出生三乘 答えて曰く、三事を以っての故に如かず。一には、薩婆若心を用いて、般若を行う。二には、常に六波羅蜜等の諸の功徳を離れず。三には、是の菩薩に由りて、三悪道を断じ、三乗を出生するも、二乗の人に依りては、三悪道を断じて、三乗を出生する能わず。
答え、
『三事』の故に、
『及ばないのである!』、――
一には、
『薩婆若の心を用いて!』、
『般若波羅蜜』を、
『行うからであり!』、
二には、
常に、
『六波羅蜜等の諸功徳』を、
『離れないからであり!』、
三には、
是の、
『菩薩に由って!』、
『三悪道を断じ!』、
『三乗』を、
『出生するのであり!』、
『二乗の人に依れば!』、
『三悪道を断じて!』、
『三乗』を、
『出生することができないからである!』。


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