【論】問曰。初品中佛放殊勝光明。諸天大集此間。何以更說。 |
問うて曰く、初品中にも、仏は殊勝の光明を放ちたまえるに、諸天は、大いに此の間に集まれり。何を以ってか、更に説く。 |
問い、
『初品』中に、
『仏』が、
『諸天』が、
此の、
『世間』に、
『大いに集まりました!』が、
何故、
更に、
『説かれたのですか?』。
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答曰。有人言。此是後會。有人言。即是前會天。 |
答えて曰く、有る人の言わく、『此れは是れ後の会なり。』と。有る人の言わく、『即ち是れ前の会の天なり。』と。 |
答え、
有る人は、こう言っている、――
有る人は、こう言っている、――
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以須菩提善能說深般若波羅蜜諸天歡喜。以是故佛微笑。常光益更發明。諸天光明不復現。如日出時星月燈燭無復光明。譬如焦炷在閻浮檀金邊。 |
須菩提の善く能く深般若波羅蜜を説くを以って、諸天歓喜するに、是を以っての故に、仏は微笑したまい、常光益して、更に明を発すれば、諸天の光明は、復た現われざること、日の出づる時に、星月、灯燭には、復た光明無きが如し。譬えば、焦炷の閻浮檀金の辺に在るが如し。 |
『須菩提』が、
深い、
『般若波羅蜜』を、
『善く説くことができ!』、
諸の、
『天』を、
『歓喜させる!』と、
『仏』は、
是の故に、
『微笑される!』と、
『常光』が、
『益して!』、
更に、
『明るさ!』を、
『発した!』ので、
諸の、
『天の光明』は、
『復た( (not) resume )!』、
『現れなくなった( have not appeared )!』。
譬えば、
『日の出る!』時には、
『星も、月も、灯燭も!』、
『復た!』、
『光明を無くすようであり!』、
譬えば、
『閻浮檀金の辺』に、
『焦げた!』、
『灯芯』が、
『在るようであった!』。
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復(ふく):また。もう。
焦炷(しょうしゅ):焦げた灯芯。 |
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四天王天者。東方名提多羅吒。(秦言治國)主乾闥婆及毘舍闍。南方名毘流離。(秦言增長)主拘槃茶及薜荔多。西方名毘流波叉。(秦言雜語)主諸龍王及富多那。北方名鞞沙門。(秦言多聞)主夜叉及羅剎。 |
四天王天とは、東方を提多羅吒(秦に治国と言う)と名づけ、乾闥婆、及び毘舎闍に主たり、南方を毘流離(秦に増長と言う)と名づけ、拘槃茶、及び薜荔多に主たり、西方を毘流波叉(秦に雑語と言う)と名づけ、諸の龍王、及び富多那に主たり、北方を鞞沙門(秦に多聞と言う)と名づけ、夜叉、及び羅刹に主たり。 |
『四天王天』とは、
『東方』を、
『提多羅吒( 治国)と呼び!』、
『乾闥婆と、毘舎闍』の、
『主であり!』、
『南方』を、
『毘流離( 増長)と呼び!』、
『拘槃茶と、薜荔多』の、
『主であり!』、
『西方』を、
『毘流波叉( 雑語)と呼び!』、
『諸龍王と、富多那』の、
『主であり!』、
『北方』を、
『鞞沙門( 多聞)と呼び!』、
『夜叉と羅刹』の、
『主である!』。
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提多羅吒(だいたらた):梵名dhRtaraasTra。四天王天の東方を主る天王の名。『大智度論巻54上注:持国天』参照。
持国天(じこくてん):持国は梵名提頭賴吒dhRta-raaSTraの訳。巴梨名dhata-raTTha、又地里多囉瑟姹囉、祑栗帝羅色吒羅、弟黎多曷囉殺吒囉、持梨哆阿囉哆、時履多賴吒、提栗哆賴吒、提多羅吒、提帝賴吒、提頭攞宅、提頭賴に作り、或いは治国、安民、順怨とも訳し、又東方天とも名づく。四天王の一、十六善神の。須弥山の東面半腹に住し、東方を守護する護世の善神なり。其の名義に関し、「華厳経疏巻5」に、「提頭賴吒は即ち東方天王なり、此には持国と云う。謂わく国土を護持し衆生を安ずるが故なり。此れ所領に従って名と為す」と云えり。是れ此の天王は国土を護持し、衆生を安ずるが故に訳して持国となすと云うの意なり。又「正法華経巻10総持品」に順怨の翻名を出し、「翻訳名義集巻4」に安民の訳語を掲ぐるは、梵語raaSTraに国の義あると同時に、亦人民、或いは苦悩の義を含むが故なるべし。「起世経巻6四天王品」に其の住所等を説き、「須弥山王の東面半腹に山あり、名づけて由乾陀と曰う。山頂は地を去ること四万二千由旬なり。其の山の頂上に提頭賴吒天王の城郭住処あり、城を賢上と名づく。縦広正等にして六百由旬(長阿含経巻19には六千由旬)なり。七重の垣牆、七重の欄楯、七重の鈴網、復た七重の多羅行樹あり、周匝囲遶して雑色観るべく、悉く七宝を以って荘飾と為す。所謂金、銀、瑠璃、玻璃、赤珠、硨磲、馬瑙等の成就する所なり。四方の面に於いて各諸門あり、一一の諸門に皆楼櫓、却敵の台観、園苑諸池あり。諸の花林、種種の異樹あり、其の樹に各種種の葉、種種の花、種種の果、種種の香あり、其の香普く熏ず。種種の鳥あり各各和鳴し、其の音哀雅にして甚だ愛楽すべし」と云い、又「立世阿毘曇論巻4提頭賴吒城品」に、「東由乾陀山に二の頂あり、中間に国土あり、提頭賴吒と名づく。周囲一千由旬にして金城囲遶す、高さ一由旬、埤堄高さ半由旬、城門高さ二由旬、門楼一由旬半なり。十十由旬に一一の門あり、九十九門なり。復た一小門あり、一百門に足る。(中略)提頭賴吒城の西南角は是れ提頭賴吒天王の所住の処なり。周囲二百五十由旬にして金城囲遶す、高さ一由旬、埤堄高さ半由旬、城門高さ二由旬、門楼一由旬半なり。十十由旬に一一の門あり、二十四大門あり。復た一小門あり、二十五門に足る」と云えり。是れ此の天王は須弥山の東面半腹に聳ゆる由乾陀山を其の住処となすことを説けるものなり。又此の天王は東方の守護神に配せられ、「阿育王経巻6」に、「是の時、帝釈は持梨哆阿囉哆に語りて言わく、汝東方に於いて当に仏法を護るべし」と云い、「大方等大集経巻52提頭賴吒天王護持品」に、「仏、楽勝提頭賴吒天王に告げて言わく、妙大夫、此の四天下の閻浮提の中、東方の第四分は汝応に護持すべし。何を以っての故に、此の閻浮提は諸仏の興る処なり、是の故に汝応に最上に護持すべし。過去の諸仏は已に曽て汝をして護持養育せしむ、未来の諸仏も亦復た是の如し。(中略)爾の時、楽勝提頭賴吒天王は仏に白して言わく、世尊、是の如し是の如し、大徳婆伽婆。過去の諸仏は護持養育を付嘱し安置し、亦我等をして東方弗婆提界を護持せしむること、今世尊の我れをして安置せしむるが如く一等にして異なし。我れ当に深心に頂戴して仏の正法を敬受し、閻浮提の東方第四分を護持すべし。并びに我が諸宮眷属大小をして亦護持せしめ、三悪趣に於いて皆休息し、三善道に於いて皆熾然たらしめん」と云えり。其の眷属に関しては、「長阿含巻12大会経」に、「復た東方提頭賴吒天王あり、乾沓惒神を領し、大威徳あり。九十一子あり尽く因陀羅と字づけ、皆大神力あり」と云い、又「普曜経巻4告車匿被馬品」、并びに「仏母大孔雀明王経巻上」等にも揵沓和を領することを説けり。但し「大智度論巻54」には、乾闥婆の外、亦毘舎闍をも主るとなせり。蓋し四天王の信仰は梵天帝釈と共に印度以来盛んに行われたるものにして、随って経軌中に其の形像等を説けるもの少なからず。就中、「陀羅尼集経巻11」には、提頭賴吒天王の像は身長一肘に作り、身に種種の天衣を著け、厳飾極めて精妙にして身と相称わしめ、左手は臂を申べて垂下して刀を把り、右手は臂を屈し、前に向いて手を仰げ、掌中に宝を著け、宝上より光を出すと云い、又印相は左手の掌を側め、中指已下の三指は把りて拳にし、又頭指の中節を屈し、頭も亦小曲し、又大指を以って直斜して申べ、頭を頭指の上に捻著すること勿かれ。右手亦同じきも、唯腕を挙げ、下を左手の臂上に著け、大指来去す。真言は唵地[口*梨]致囉瑟吒囉囉囉波囉末陀那莎訶なりと云い、又「般若守護十六善神王形体」には、提頭攞宅善神は緑青色にして、口を開きて忿怒の相貌を現じ、甲冑を被り、赤衣を著し、右手は大刀を持し、左手は鉾を捧げ、髪は紫色なりと云えり。又「長阿含巻5典尊経」、「雑阿含経巻31」、「大三摩惹経」、「大楼炭経巻3四天王品」、「正法念処経巻24」、「金光明経巻2四天王品」、「大方等大集経巻21四天王護法品」、「翻梵語巻7」、「玄応音義巻6」等に出づ。<(望)
乾闥婆(けんだつば):梵名gandharva。八部衆の一。帝釈天の雅楽を司る神の名。『大智度論巻25下注:乾闥婆』参照。
毘舎闍(びしゃじゃ):梵名pizaaca。又畢舎遮、毘舎遮、臂遮柘に作り、食血肉鬼、噉人精気鬼、或いは癲狂鬼とも訳す。東方持国天の眷属なり。「玄応音義巻21」に、「毘舎遮は鬼の名なり、餓鬼中の勝者なり。亦癲狂鬼と言う」と云い、「慧苑音義巻下」に、「毘舎闍は此に噉人精気鬼と云うなり」と云い、「慧琳音義巻18」に、「畢舎遮鬼は唐に食血肉鬼と言う。羅刹の類なり」と云えり。之に依るに此の鬼は人の精気又は血肉を噉食するものなるを知るべし。又「大智度論巻54」に、「東方を提多羅吒と名づく、乾闥婆及び毘舎闍を主る」と云い、「慧苑音義巻下」に、「毘舎闍の王は、即ち是れ東方提頭賴吒、此に持国と云う、国土を護持するを謂う。二部の鬼を領す、一を毘舎闍と名づく、此に噉精気と云う。二を乾闥婆と名づく、此に尋香と曰うなり」と云えり。是れ即ち此の鬼を以って東方提頭賴吒dhRta-raaSTra即ち持国天の眷属となすの説なり。現図胎蔵界曼荼羅外金剛部院南方太山府君の西方(向って下方)には凡べて六鬼を安ぜり。種子は(pi)、三摩耶形は劫波羅kapaala、即ち皿なり。形像は皆餓鬼の如く、手に人の手足、或いは劫波羅を持す。真言は南麽三曼多勃馱喃比旨比旨なり。是れ「大日経巻3普通真言蔵品」に出す所なり。又「仏母孔雀明王経巻1」、「潅頂経巻8」、「虚空蔵問七仏陀羅尼呪経」、「阿吒婆拘鬼神大将上仏陀羅尼経」、「大日経疏巻10」、「翻梵語巻7」、「玄応音義巻24」、「慧琳音義巻18」、「翻訳名義集巻6」、「胎蔵界七集巻下」、「諸説不同記巻9」等に出づ。<(望)
毘流離(びるり):梵名viruuDhaka。四天王天の南方を主る天王の名。『大智度論巻54上注:増長天』参照。
増長天(ぞうちょうてん):梵語毘嚕陀迦viruuDhakaの訳。巴梨名viruuLhaka、又毘留多、毘流離、鼻溜荼迦、毘楼勒、毘楼勒迦、毘楼勒叉に作る。増長又は増広の義なり。四天王の一、十二天の一、十六善神の一。又南方天と名づく。須弥山の南面半腹に住し、常に閻浮提の衆生を観察し、鳩槃荼等の諸鬼神を領して南方を守護する護法善神なり。「長阿含経巻20」に、「須弥山の南千由旬に毘楼勒天王の城あり善見と名づく。縦広六千由旬なり。其の城七重にして、七重の欄楯、七重の羅網、七重の行樹あり。周匝校飾、七宝を以って成ず。乃至無数の衆鳥相和して鳴くこと亦復た是の如し」と云い、「立世阿毘曇論巻4」に、「南由乾陀山に二の頂あり、中間に一の国土あり、毘留勒叉と名づく。周囲一千由旬なり。金城囲遶して高さ一由旬、埤堄は高さ半由旬、城門高さ二由旬、門楼は一由旬半なり。十十由旬に一一の門あり、九十九門なり。復た一小門あり、一百門に足る。(中略)毘留勒叉城の西南角は是れ毘留勒叉天王の所住処なり、周囲二百五十由旬あり」と云える是れなり。是れ此の天の住処を説けるものなり。又「増一阿含経巻9」に、「是の時、毘留勒は鳩槃荼衆を将いて如来に侍従す」と云い、「長阿含巻12大会経」に、「南方毘楼勒天王は諸の龍王を領して大威徳あり。九十一子あり、亦因陀羅と字す。大神力あり」と云い、又「大方等大集経巻52毘楼勒叉天王品」に、仏は火花毘留勒叉天王に告げて言わく、妙大夫、此の四天下閻浮提の南方第四分は汝応に護持すべし。何を以っての故に、此の閻浮提は諸仏の興る処なり。是の故に汝は応に最上の護持たるべく、并びに汝の子一切の眷属、大臣軍将夜叉羅刹をして皆護持せしむべし。汝に九十一子あり、種種の行を楽い、或いは復た象に乗じて十方に遊行し、乃至或いは童男童女に乗じて十方に遊行す。汝亦応に敬信を生ずることを得しめ、共に閻浮提南方第四分を護らしむべしと云い、「仏母大孔雀明王経巻中」に、「南方に大天王あり、名づけて増長と曰う。是れ矩畔拏の主なり。無量百千の矩畔拏を以って眷属と為し、南方を守護す」と云えるは、即ち此の天王が鳩槃荼等を主領し、南方閻浮提を守護する護法の善神たることを説けるものなり。其の形像に関しては諸説同じからず、「陀羅尼集経巻11」に依るに、毘嚕陀迦天王の像は、身に種種の天衣を著け、厳飾極めて精妙にして身と相称わしめ、左手は臂を申べ、垂下して刀を把り、右手は矟を執り、矟の根は地に著く。又其の印相は左手の腕を側め、右腕を以って左腕の根上に側著し、二掌相背き、二中指を以って相鉤して之を申べて索の如くし、二小指二頭指二大指を以って各之を曲げ、頭指は来去す。真言は唵毘嚕陀迦藥叉地波跢曳莎訶なりと云い、又「般若守護十六善神王形体」には、身は赤紫色にして、口を閉じて忿怒の相を現じ、甲冑を被り、白青色の衣を著し、鬢髪は紺色なりと云えり。又「長阿含巻5典尊経」、「同闍尼沙経」、「起世経巻6四天王品」、「普曜経巻4告車匿被馬品」、「新華厳経巻1」、「金光明最勝王経巻5四天王観察天人品」、「摩訶僧祇律巻34」、「阿育王経巻6」、「大智度論巻54」、「潅頂経巻6」、「一切如来金剛寿命陀羅尼経」、「薬師七仏供養儀軌如意王経」、「修薬師儀軌布壇法」、「華厳経探玄記巻2」、「華厳経疏巻5」、「玄応音義巻19」、「慧苑音義巻上」等に出づ。<(望)
拘槃茶(くばんだ):梵名kumbhaaNDa。増長天に隷属する二部の鬼類の一なり。『大智度論巻54上注:鳩槃荼』参照。
鳩槃荼(くはんだ):梵名kumbhaaNDa。巴梨名kumbhaNDa、又俱槃荼、吉槃荼、拘辨荼、弓槃荼、恭畔荼、究槃荼、鳩満拏、或いは槃査に作る。元と冬苽(冬瓜?)の梵名鳩摩拏、或いは烏蘇慢kuSmaaNDaより転訛せる語にして、甕形鬼、瓶腹、甕行、陰嚢、形卵、形面似冬苽鬼、冬苽鬼、或いは厭眉鬼、厭魅鬼と訳す。人の精気を噉う鬼なり。「慧苑音義巻上」に、「鳩槃荼は此に陰嚢と云い、亦形卵と曰う。謂わく此の類の陰嚢は状冬苽の如く、行く時は擎げて肩上に置き、坐する時は即ち之に拠る。斯の弊状、特に諸類に異なるに由るが故に、之に従って名と為す。旧に冬苽と云うは其の事猥なるを以ってなり。而も顕れざるが故に人をして謬解せしむるのみ」と云えり。是れ南方増長天王の部下に属する鬼類にして、「大方等大集経巻52」に、仏が火花毘楼勒叉天王に勅して、南方閻浮提を護持せしむることを記する中、「復た鳩槃荼大臣あり、多くの兵衆ありて大いに勢力あり」と云い、其の下に鳩槃荼の兄弟として、檀提、憂波檀提、葛迦賖、鉢溼、摩訶鉢溼婆、大肚、象手、十手、火手、地行、山行、左行、黒色、朱目、雲色等の諸鳩槃荼衆の名を列し、又「新華厳経巻1」には、増長viruuDhaka、龍王naagaadhipati、善荘厳幢suciirNadhvaja、普饒益行hitacaraNasaMkrama、甚可怖畏bhiimottara、美目端厳zaalasucitta、高峰慧merususaMbhava、勇健臂viirahaahu、無辺浄華眼anantazubhanayanakesarii、広大天面阿修羅眼anantamukhadevaasuranetraasuraの十鳩槃荼王の名を挙げたり。密教にては之を男女の二体として、胎蔵界曼荼羅外金剛部院の南方の両端に安じ、増長天二眷属の一となせり。形像は白馬頭人身にして、男は鉢を叩き、女は太鼓を打てり。又「円覚経」、「華厳経探玄記巻2」、「翻梵語巻7」、「玄応音義巻4、21」、「慧琳音義巻12」、「梵語雑名」、「翻訳名義集巻6」等に出づ。<(望)
薜荔多(へいれいた):梵語preta。餓鬼、又は鬼と訳す。六道の一。『大智度論巻16上注:餓鬼』参照。
毘流波叉(びるはしゃ):梵名viruupaka。四天王天の西方を主る天王の名。『大智度論巻54上注:広目天』参照。
広目天(こうもくてん):梵語viruupaakSaの訳。巴梨語viruupakkha、又毘嚕博叉、毘留羅叉、鼻溜波阿叉、髀路波呵迄叉、毘楼博叉、毘楼婆叉に作り、或いは醜目、悪眼、雑語主、雑語、或いは非好報とも訳す。四天王の一。十二天の一。十六善神の一。又西方天とも名づく。須弥山の西面半腹に住し、常に浄天眼を以って閻浮提の衆生を観察し、西方を守護する護法善神なり。其の名義に関しては、「華厳経探玄記巻2」に、「西方毘楼波叉は此に雑語主と云う、新に醜目と名づく」と云い、「華厳経疏巻5」に、「唐三蔵は訳して醜目と云う。毘楼は醜なり、博叉は目なり。日照三蔵訳して云わく、毘は遍なり多なり。楼は具に嚕波と云う、此れ色を云うなり。博吃叉は此に諸根を云うなり。謂わく眼等の諸根に種種の色あり、故に以って名と為す。此れ必ず醜ならざるなり」と云い、又「慧苑音義巻上」に、「毘楼博叉は具に髀路波呵迄叉と云う。髀は言うは種種なり。路波は色なり、呵迄叉は根なり。謂わく種種の雑色を以って諸根を荘厳するなり。又髀と言うは種種なり。路は色なり。波呵迄叉は目なり。其の目は種種の色に荘厳せらるるを言う。旧に醜目と云うは謬なり」と云えり。蓋し梵語viruupaakSaはvi-ruupaとakSaとの合成語にして、vi-ruupaには醜、或いは種種色の義あり。又akSaには目、或いは根等の義あれば、此の語は醜目、醜根、種種色の目、種種色の根等と訳さるべきものにして、醜目を誤訳とするは却って非なりというべし。又Sarat
Chandra Dasの「蔵英辞典」に依れば、広目天は元と自在天zivaの化身にして、面上に三目ありしに由り、斯く名づけられたるなるべしとし、而して不斉の目、或いは珍奇なる目の義を有する西蔵語mig(spyan)-mi-bzaGは、即ち此の説より出でたるなるべしと云えり。其の所住の居処に関しては、「起世経巻6四天王品」に、「須弥山王の西面半腹下地際を去る四万二千由旬、由乾陀山の頂に毘婁博叉天王の城郭住処あり、城を善観と名づく。縦広荘厳は一一皆提頭賴吒天王の住処に説く所の如し」と云い、又「長阿含経巻19」には、「須弥山の四千由旬に毘楼博叉天王の城あり、周羅善見と名づく。縦広六千由旬なり。其の城七重にして、七重の欄楯、七重の羅網、七重の行樹あり。周匝校飾、七宝を以って成ず。乃至無数の衆鳥相和して鳴くこと亦復た是の如し」と云い、「立世阿毘曇論巻4」には、「西由乾陀山に二の頂あり、中間に国土あり毘留博叉と名づく。周囲一千由旬なり。金城囲遶し、高さ一由旬。埤堄高さ半由旬、城門高さ二由旬、門楼一由旬半なり。十十由旬に一一の門あり、九十九門なり。復た一小門あり、一百門に足る」と云えり。又此の天王が諸龍の主にして、西方守護の善神たることに関しては、「阿育王経巻6」に、「復た毘留博叉に語りて言わく、汝西方に於いて当に仏法を護るべし」と云い、又「大方等大集経巻52」に、仏、栴檀花毘楼博叉天王に告げて言わく、妙大夫、此の四天下閻浮提界の西方第四分は汝応に護持すべし。汝の子、大臣眷属並びに師子、師子髪等の八の諸龍大臣、鴦瞿等の四刹多羅、難陀、憂波難陀等の六十一の諸龍軍将、薩沙婆帝等の西方十六天神、西方の三曜七宿、三天童女、及び西方所有の諸天龍鬼、乃至迦吒富単那等をして、皆正行して共に閻浮提を護らしむべしと云い、「普曜経巻4」に、「毘留羅叉天王は無数億百千の龍と倶なり。各宝瓔を垂れ、西方より来たりて西方界に住し、菩薩に稽首す」と云い、又「仏母大孔雀明王経巻中」にも、「此の西方に大天王あり、名づけて広目と曰う。是れ大龍主なり。無量百千の諸龍を眷属となし、西方を守護す」と云えり。其の形像に関しては諸説あり、「陀羅尼集経巻11」に依るに、毘嚕博叉天王の像は、身の長量一肘に作り、身に種種の天衣を著け、厳飾極めて精妙にして身と相称わしめ、左手は臂を申べて矟を執り、其の右手は赤索を把る。印相は右手腕を以って左手腕の上に著け、二手の中指已下各三指を掌中に屈し、二大指の頭を屈して各中指の甲上を押す。二頭指相交えて索の如くし、大指来去す。真言は唵毘嚕博叉那伽地波跢曳莎訶と云い、又「般若守護十六善神王形体」には、毘盧博叉善神は肉色にして、黒絲を臂に懸け、筆を以って書写の勢を為し、甲冑を被り、緑色の衣服を著け、鬢髪赤色にして微笑の形なりと云えり。又「長阿含経巻12」、「金光明最勝王経巻6」、「薬師七仏供養儀軌如意王経」、「大智度論巻54」、「玄応音義巻18」等に出づ。<(望)
龍王(りゅうおう):梵名naaga-raaja。梵名naagaは龍、又は象の義。八部衆の一。多く水中に住して雲を呼び、雨を起すと信ぜられたる蛇形の鬼類を云う。『大智度論巻25下注:龍』参照。
富多那(ふたな):梵名puutanaa。広目天に属す鬼類の名。『大智度論巻54上注:富単那』参照。
富単那(ふたんな):梵名puutanaa。又富多那、富陀那、布単那、布怛那、布但那、布単曩、補呾㮈、或いは富多羅、富楼多那に作る。臭鬼、臭餓鬼と訳し、又熱病鬼、災恠鬼とも名づく。「護諸童子陀羅尼経」に、「富多那は其の形猪の如し。(中略)富多那鬼は小児の眠中に驚怖啼哭せしむ」と云い、「守護大千国土経巻下」に、「布単那魅は噎気咳嗽す。(中略)布単那は形鸚鵡の如し」と云えり。又「法華義疏巻12」に、「富単那は此に熱病鬼と云う」と云い、「玄応音義巻21布怛那の項」に、「此には義をもて臭と言う。是れ餓鬼中の勝なる者なり」と云い、「慧琳音義巻12」に、「布単那、此に臭穢と言う。身形臭穢なりと雖も、是れ餓鬼中の福の最勝なる者なり」と云い、又「同巻18」に、「布単那、唐に灾恠鬼と云う。或いは人畜の為に祟を為すなり」と云えり。之に依るに富単那は餓鬼中の勝なる者にして、其の身極めて臭穢に、且つ人畜に災害を与うるものなるが如し。又迦吒富単那kaTa-puutanaaと称する同類の鬼あり。又「翻梵語巻7」、「翻訳名義集巻6」、「孔雀経音義巻上」等に出づ。<(望)
鞞沙門(びしゃもん):梵名vaizramana。多聞と訳す。即ち四天王天の北方を主る天王の名なり。『大智度論巻54上注:毘沙門天』参照。
毘沙門天(たもんてん):毘沙門は梵名鞞舎囉婆拏vaizravaNaの訛略。巴梨名vessavaNa、又毘舎羅婆拏、鞞室羅懣嚢、薜室囉末拏、吠室囉末拏、吠室囉末那、毘舎羅門、或いは鞞沙門に作り、多聞、遍聞、普聞、種種聞、或いは不好身と訳す。又一に俱吠囉kubera(又kuvera)と名づけ、鳩鞞羅、拘鞞羅、或いは金毘羅に作り、又拘毘羅毘沙門とも称す。四天王の一、十二天の一。須弥山の北面に住して閻浮提の北方を守護し、財宝富貴を主り、又仏法を護持する善神なり。其の名称に関しては吉蔵の「法華義疏巻12」に、「毘沙門は是れ北方の天王なり。此に多聞と云う。恒に仏の道場を護り、常に説法を聞くが故に多聞と云う」と云い、「玄応音義巻18」に、「毘沙門。或いは鞞舎囉婆拏と言う。此に訳して離聞と云い、亦普聞と云い、或いは多聞と為す。其の王は最富にして宝物自然なり」と云い、又「慧苑音義巻上」には、「毘沙門。具に正しく鞞室羅懣嚢と云い、此に多聞と云う。謂わく此の王の福徳は多処に知聞するなり。或いは曰わく、毘は遍なり、沙門は聞なり。謂わく諸処に遍聞するなり。義は前の釈に同じ。或いは曰わく、毘は伊と云うなり。此の王は本と俱乞羅と名づく。後一時に於いて仏正しく衆の為に説法するに、其の王乃ち袈裟を被りて会中に入らんことを求む。時に衆咸く怪しみ、互いに相謂いて言わく、伊れは是れ沙門なるか、伊れは是れ沙門なるかと。是れより与えて毘沙門と号するなり」と云えり。按ずるに梵語vaizravaNaは「聞く」の義なるzravaNaに、「離」「普」又は「遍」の義なる前置詞vaiを加えたる語にして、即ち遍聞、普聞、又は多聞の義あり。然るに此の語中のvaiは、俗語praakritにてはvi或いはveとなり、又zraはsaに変化して即ちvesavaNa(巴梨語)となり、更にvaはmaに変ずるが故に鞞室羅満嚢vaizramaNaとなり、又巴梨語にてはvesamaNa(又samaNaは于闐語にてはssamanaa、亀茲語にてはsamaneとなる)となるが故に、遂に毘沙門の音写を生じたるものなるが如し。されば彼の「慧苑音義」の一説が此の中の室羅懣嚢zramaNaを勤労又は修善の義なる沙門と同義となし、袈裟を被る云云と云えるは、転化の由来を究めず、唯字の同形なるより訳解を下したるものにして、即ち本来の意義に合せざるものというべし。又「宋高僧伝巻3」に梵語拘均羅を胡に毘沙門と云うと云い、毘沙門を拘均羅の胡語となせるも、是れ亦一種の謬解となすべきが如し。蓋し毘沙門天王は吠陀以来の神にして、即ち阿闥婆吠陀atharva-veda中に既に之を闇黒界に住する悪霊の主長となし、後「マハーブハーラタmahaabhaarata」には、之をバイシュラヴァスvaizravas神の子(vaizravaNaの名は之より出づ)とし、一にクベラkuberaと名づけ、財宝福徳を主り、夜叉yaakSaを統領し、雪山中のカイラーサkailaasaに住し、北方守護の善神として尊崇する所あり。仏典中にも此の天に関し記述するもの甚だ多く、「長阿含巻20四天王品」に、「須弥山の北千由旬に毘沙門天王あり、王に三城あり、一を可畏と名づけ、二を天敬と名づけ、三を衆帰と名づく。各各縦広六十由旬なり。其の城は七重にして、七重の欄楯、七重の羅網、七重の行樹ありて周匝校飾し、七宝を以って成ず。乃至無数の衆鳥相和して鳴く亦復た是の如し。衆帰城の北に園林あり、伽毘延頭と名づく。縦広四千由旬にして園牆七重なり。七重の欄楯、七重の羅網、七重の行樹周匝校飾し、七宝を以って成ず。乃至無数の衆鳥相和して鳴くこと亦復た是の如し。園城の中間に池あり、那隣尼と名づく。縦広四千由旬あり、其の水清澄にして垢穢あることなく、七宝の塹を以って其の辺を厠砌し、七重の欄楯、七重の羅網、七重の行樹周匝校飾し、七宝の所成なり。中に蓮花を生じ、青黄赤白雑色にして光半由旬を照らし、其の香芬薫として半由旬に聞こゆ。(中略)衆帰城より宝階道ありて賢上城に至り、復た階道あり善見城に至り、復た階道あり周羅善見城に至り、復た階道あり可畏城天敬城に至り、復た階道あり伽毘延頭園に至り、復た階道あり那隣尼池に至り、復た階道あり四天王大臣の宮殿に至る」と云い、又「金光明経巻2功徳天品」には、「此の北方に於いて毘沙門天王あり、城あり名づけて阿尼曼陀(alakaavatii或いはaDakaavatii)と曰う。其の城に園あり、功徳華光puNyakusumaprabhaaと名づく。是の園中に於いて最勝園あり、名づけて金幢suvarNa-varNa-dhvajaと曰う。七宝極妙なり、此れ即ち是れ我が常に止住する処なり」と云い、「陀羅尼集経巻10」にも亦同一記事を出せり。此等は即ち此の天の住処を説けるものなり。又此の天は夜叉の主領にして、「長阿含巻12大会経」に、毘沙門は諸の悦叉鬼を領して大威徳ありと云い、「同巻20四天王品」に、般闍楼(五丈と訳す)、檀陀羅(曠野と訳す)、醯摩跋陀(金山と訳す)、提偈羅(長身と訳す)、修逸路摩(針毛と訳す)の五大鬼神あり、恒に毘沙門天王の左右に侍衛すと云い、「仏母大孔雀明王経巻中」に、多聞天王は、是れ藥叉の主なり。無量百千の藥叉を以って眷属と為し、北方を守護すと云い、又「大日経疏巻5」に、毘沙門天王の左右に摩尼跋陀羅、布嚕那跋陀羅、半只迦、娑多祁哩、醯摩嚩多、毘灑迦、阿吒嚩迦、半遮羅の夜叉八大将ありと云えり。但し「大智度論巻54」には、毘沙門天王は夜叉及び羅刹を主ると云い、「玄応音義巻18」並びに「華厳経探玄記巻2」にも、亦夜叉及び羅刹の二部を主領すとなし、又「摩訶吠室囉末那提婆喝闍陀羅尼儀軌求使者品」には、此の天王に読誦、論義、聡明多智、伏蔵、説法、龍宮、隠形、禁呪、奇方、博識、勝方、興生利、田望利、高官、右司命、左司命、北斗、五官、太山、金剛、神通、坐禅、多魅、神山、香王、自在、大力、持斎の二十八使者あり。行者其の所願に随って之を呼ばば、求むる所悉く成就すべしと云えり。又「中阿含巻33釈問品」、及び「雑宝蔵経巻6帝釈問事縁」には、毘沙門天王の妾を般闍耶bhuJjati(妙臂と訳す)と名づくと云い、「仏所行讃巻1生品」には、毘沙門天王は那羅鳩婆を生むと云い、「金光明最勝王経巻6」には、其の子を禅膩師sainniziと名づくと云い、「毘沙門儀軌」には、第二子独健、第三子那吒(北方毘沙門天王随軍護法儀軌には第三子の第二孫とす)ありとし、「長阿含巻12大会経」には九十一子あり、亦因陀羅と字す、大神力ありと云い、「大方等大集経巻52毘沙門天王品」には具に九十一子の名を列ね、又古来此の天に最勝、独健、那吒、常見、禅貳師の五太子ありとなせり。蓋し毘沙門天王は閻浮提の北方を衞護し、仏法を護持し、又財宝富饒の善神として印度及び西域地方に於いて信奉せられ、又時に戦勝の神として崇拜せらるるに至れり。「大方等大集経巻52毘沙門天王品」に、拘鞞羅毘沙門天王は仏勅を奉じて、其の子及び大臣眷属夜叉毘舎遮等と共に閻浮提界北方の第四分を護持すべしと誓言せしことを敍し、「阿育王伝巻4憂波毱多因縁」には、仏は毘沙門天王に命ずるに北方仏法の擁護を以ってし、未来に三邪見王あり、仏法を毀滅すべきが故に、宜しく之を護持すべしと告げられたりと云い、又「新華厳経巻77」には、「又応に自身に於いて貧窮の想を生じ、善知識に於いて毘沙門王の想を生じ、所説の法に於いて財宝の想を生じ、所修の行に於いて富饒の想を生ずべし」と云い、又「金光明最勝王経巻6」には、多聞天王自ら如意摩尼宝心神呪を説き、此の呪を誦持せば常に災厄なく、如意宝珠及び伏蔵、神通自在を獲得し、所願皆成ぜしめんと誓言せしことを記し、「毘沙門天王経」に、毘沙門天王を願ぜば、浄信、戒、聞、捨、受、慧、形貌、力、辯、色声香味触富貴自在の十種の福利を獲得し、仏法中に於いて法眼を開き、聖果を証得すべしとなせる如き皆其の説なり。又其の形像に関しては諸説あり、「陀羅尼集経巻11」には、左手を腕に側し、頭指を屈し已りて四指を下にし、掌の中に在りて捲を作し、又大指を屈して頭指の上を押し、右手の腕も亦た之に側し、捲を作すこと、左手の法の如くし、唯大指を以って直に申べて上に向け、左手に於いて上に捲きて累ね著け、大指来去すとし、真言は、唵吠賒囉麼那檀那牝陀羅莎訶なり。又「般若守護十六善神王形体」に依れば、「吠室羅摩拏善神は青黒色にして、瞋王の相を現ず、閉唇の相を作し、右手に金剛棓を持し、左手は全身舎利宝塔を捧ぐ。甲冑を被り、赤衣を著け、鬢髪は紫色なり」と云えり。又「雑阿含経巻4」、「増一阿含経巻26」、「仏本行集経巻12」、「大般涅槃経巻1序品」、「法華経巻7陀羅尼品」、「大三摩惹経」、「大方等大集経巻20四天王護法品」、「北方毘沙門多聞宝蔵天王神妙陀羅尼別行儀軌」、「倶舎論巻18」、「立世阿毘曇論巻4」、「金光明経文句巻2、5」、「翻梵語巻7」、「慧琳音義巻25」等に出づ。<(望)
夜叉(やしゃ):梵名yakSa。八部衆の一。即ち地上又は空中等に住し、威勢ありて人を悩害し、或いは正法を守護する鬼類を云う。『大智度論巻25下注:夜叉』参照。
羅刹(らせつ):梵名raakSasa。人の肉を食噉する悪鬼なり。『大智度論巻23上注:羅刹』参照。 |
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釋提桓因。釋迦秦言能。提婆秦言天。因提秦言主。合而言之釋提婆那民。 |
釈提桓因は、釈迦を秦に能と言い、提婆を秦に天と言い、因提を秦に主と言い、合して、之を釈提婆那民と言う。 |
『釈提桓因( zakya-devendra)』は、
『釈迦( zakya)』を、
『能(be able to)』と、
『言い!』、
『提婆( deva)』を、
『天』と、
『言い!』、
『因提( indra)』を、
『主』と、
『言い!』、
合して、
之を、
『釈提婆那民(zakra devaanaam-indra)』と、
『称する!』。
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釈提婆那民(しゃくだいばなみん):梵語zakra devaanaam-indra、略して帝釈と称す。『大智度論巻21下注:因陀羅』参照。 |
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須夜磨夜摩天王名也。秦言妙善。 |
須夜磨は夜摩天王の名なり、秦には妙善と言う。 |
『須夜磨( suyaamaha)』は、
『夜摩天( yaama)』の、
『王』の、
『名であり!』、
秦には、
『妙善』と、
『称する!』。
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刪兜率陀兜率陀天王名也。秦言妙足。 |
刪兜率陀は、兜率陀天王の名なり、秦には妙足と言う。 |
『刪兜率陀( saMtuSita)』は、
『兜率陀天( tuSita)』の、
『王』の、
『名であり!』、
秦には、
『妙足』と、
『称する!』。
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須涅蜜陀秦言化樂。 |
須涅蜜陀は、秦には化楽と言う。 |
『須涅蜜陀( sunirmaaNarati)』は、
秦には、
『化楽( making pleasures )』と、
『称する!』。
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婆舍跋提。秦言他化自在天。 |
婆舎跋提は、秦には他化自在天と言う。 |
『婆舎跋提( vaza-vartin)』は、
秦には、
『他化自在天( constantly enjoying pleasures provided by others )』と、
『称する!』。
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此間一梵天王名尸棄。秦言火。 |
此の間の一梵天王を、尸棄と名づけ、秦には火と言う。 |
此の、
『世間』の、
『一梵天王( brahman)』を、
『尸棄(zikhin)』といい、
秦には、
『火』と、
『称する!』。
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從梵天乃至首陀婆天。秦言淨居天。 |
梵天より、乃至首陀婆天を、秦には淨居天と言う。 |
『梵天』より、
『首陀婆天( zuddhaavaasa)』を、
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業報生身光者。欲界天以燈燭明珠等施。及布施持戒禪定等清淨故。身常光明不須日月。 |
業報生身の光とは、欲界の天は、灯燭、明珠等の施、及び布施、持戒、禅定等の清浄なるを以っての故に、身の常光明にして、日月を須たず。 |
『業報』の、
『生身』の、
『光』とは、――
『欲界』の、
『天』は、
『過去』の、
『灯燭、明珠等の施』や、
『布施、持戒、禅定』等で、
『清浄である!』が故に、
『身』の、
『常光が明るく!』、
『日、月』を、
『必要としない!』。
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色界天行禪離欲。修習火三昧故。身常出妙光。勝於日月及欲界報光明離欲天。取要言之。是諸天光明皆由心清淨故得。 |
色界の天は、行禅、離欲にして、火三昧を修習するが故に、身より常に妙光を出して、日月、及び欲界の報の光明に於いて勝る。離欲天は、要を取りて、之を言わば、是の諸天の光明は、皆、心の清浄に由るが故に得るなり。 |
『色界の天』は、
『禅を行って!』、
『欲を離れ!』、
『火三昧』を、
『修習する!』が故に、
『身』は、
『常に!』、
『妙光を出して!』、
『日月や、欲界の果報の光明』に、
『勝る!』。
『離欲( 色界)の天』とは、
其の、
『要旨を取れば!』、こう言うことになろう、――
是の、
『諸天の光明』は、
皆、
『心が清浄である!』が故に、
『得たものである!』。
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火三昧(かさんまい):梵語agni-dhaatu-samaadhiの訳。身より火炎を発する三昧の意。『大智度論巻4上注:火界三昧』参照。 |
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佛常光明者。面各一丈。諸天光明大者。雖無量由旬。於佛光邊蔽而不現。 |
仏の常光の明は、面に各一丈なり。諸天の光明の大なる者は、無量由旬なりと雖も、仏の光の辺に於いては、蔽われて現れず。 |
『仏の常光明』は、
『諸天の光明』の、
『大きな!』者は
『各面』に、
『無量由旬である!』が、
『仏の光明の辺に在れば!』、
『蔽われて( covered )!』、
『現れない( not appear )!』。
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釋提桓因見佛神力光明作是念。佛光明能蔽諸天光。智慧之明亦當能破我等愚闇。又以佛命須菩提說般若。是故言一切諸天皆大集會欲聽須菩提說般若義。 |
釈提桓因は、仏の神力の光明を見て、是の念を作す、『仏の光明は、能く諸天の光を蔽う。智慧の明も、亦た当に能く我等の愚闇を破るべし。』と。又、仏の須菩提に命じて、般若を説かしめたもうを以って、是の故に言わく、『一切の諸天、皆、大いに会に集まりて、須菩提の般若の義を説くを聴かんと欲す。』と。 |
『釈提桓因』は、
『仏の神力』の、
『光明を見た!』ことに、
『因って!』、
是の、
『念を作した!』、――
『仏の光明』は、
『諸の天』の、
『光』を、
『蔽うことができる!』が、
『智慧の明』も、
『我』等の、
『愚癡の闇』を、
『破ることができるだろう!』、と。
又、
『仏が須菩提に命じて!』、
『般若』を、
『説かせられた!』ので、
是の故に、こう言った、――
一切の、
『諸の天』は、
皆、
『会』に、
『大いに!』、
『集まり!』、
『須菩提の説く!』、
『般若の義』を、
『聴こうとしている!』、と。
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今大福德諸天皆集。欲聞般若義。云何是般若波羅蜜者。是問般若波羅蜜體。云何行者。是問初入方便行。云何住者。問深入究竟住。 |
今、大福徳の諸天は、皆集まりて、般若の義を聞かんと欲す。云何が、是れ般若波羅蜜なるとは、是れは般若波羅蜜の体を問えり。云何が行ずるとは、是れは初めて方便の行に入るを問えり。云何が住するとは、深く究竟に入りて住するを問えり。 |
今、
『大福徳の諸天』が、
皆、
『集まって!』、
『般若の義』を、
『聴こうとしている!』が、――
何が、
『般若波羅蜜なのか?』とは、――
是れは、
『般若波羅蜜の体』を、
『問うたのである!』。
何を、
『行うのか?』とは、
是れは、
『初めて入る!』、
『方便の行』を、
『問うたのである!』。
何のように、
『住まるのか?』とは、
『深く入る!』、
『究竟の住( abode )』を、
『問うたのである!』。
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須菩提受其語作是答。若人飢渴給足飲食感恩則深。菩薩亦如是。發心求佛道。為是人說般若則大得利益。感恩亦深。是故說般若。 |
須菩提は、其の語を受けて、是の答を作す、『若し人、飢渴せるに、飲食を給足せば、恩を感ずること、則ち深からん。菩薩も、亦た是の如し、発心して、仏道を求むるに、是の人の為に、般若を説けば、則ち大いに利益を得て、恩を感ずること、亦た深し。是の故に、般若を説くなり。』と。 |
『須菩提』は、
其の、
『語』を、
『受け!』て、
こう答えた、――、
若し、
『人』が、
『飢渴した!』時、
『飲食』を、
『給足されれば!』、
則ち、
『感じる恩』も
『深いことになる!』が、
亦た、
『菩薩』も、
是のように、
『心を発して!』、
『仏道』を、
『求める!』時、
是の、
『人』の為に、
『般若』を、
『説けば!』、
則ち、
『得られる!』、
『利益』も、
『大きく!』、
『感じる!』、
『恩』も、
『深い!』ので、
是の故に、
『般若』を、
『説くのである!』。
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未發心者當發。已入聖道者則不堪任。以漏盡無有後生故。如是等因緣故言不任。 |
未だ発心せざる者は、当に発すべきに、已に聖道に入りたる者は、則ち堪任せず。漏尽きて、後生有ること無きを以っての故に、是の如き因縁の故に、任えずと言う。 |
未だ、
『心』を、
『発さない!』者は、
『発さねばならない!』が、
已に、
『聖道( 小乗道≒正位)に入った!』者が、
『菩薩』の、
『任( duty )』に、
『堪えられない!』のは、
『漏が尽きて!』、
『後生』が、
『無いからである!』。
是れ等の、
『因縁』の故に、
『任えられない( not bear )!』と、
『言うのである!』。
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参考:『大智度論巻54』:『諸天子。若入聲聞正位。是人不能發阿耨多羅三藐三菩提心。』 |
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問曰。若是人不任者。何以故。言是人若發心者。我亦隨喜。不障其功德。上人應更求上法。 |
問うて曰く、若し、是の人任えずんば、何を以っての故にか言う、『是の人、若し発心せば、我れも亦た随喜して、其の功徳を障えず、上人は、応に更に上法を求むべきなり。』と。 |
問い、
若し、
何故、こう言うのですか?――
是の、
『人』が、
若し、
『心を発せば!』、
わたしも、
『随喜して!』、
其の、
『功徳』を、
『障らない( not obstruct )!』。
『上人ならば!』、
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答曰。須菩提雖是小乘。常習行空故不著聲聞道。以是故。假設言。若發心有何咎。 |
答えて曰く、須菩提は、是れ小乗なりと雖も、常に空を習行するが故に、声聞道に著せず。是を以っての故に、仮設して言わく、『若し発心して、何の咎か有らん。』と。 |
答え、
『須菩提』は、
『小乗である!』が、
常に、
『空を習行している!』が故に、
『声聞道』に、
『著しない!』。
是の故に、
仮に、
『心を発す!』と、
『言ったとしても!』、
何のような、
『咎』が、
『有るのか?』。
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仮設(かせつ):かりにもうける。 |
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此中須菩提自說二因緣。一者不障其福德心。二者上人應更求上法。以是故。上人求阿耨多羅三藐三菩提無咎。若上人求小法是可恥。 |
此の中に、須菩提は自ら、二因縁を説く、『一には、其の福徳の心を障えず。二には、上人は、応に更に上法を求むべし。是を以っての故に、上人の、阿耨多羅三藐三菩提を求むるに、咎無し。若し上人にして、小法を求むれば、是れ恥づべし。』と。 |
此の中に、
『須菩提』は、
自ら、
『二因縁』を、こう説いている、――
一には、
二には、
『上人』は、
更に、
『上の法』を、
『求めるはずである!』、と。
是の故に、
『上人』が、
『阿耨多羅三藐三菩提を求めても!』、
『咎』は、
『無い!』。
若し、
『上人』が、
『小の法を求めれば!』、
是れは、
『恥じねばならない!』。
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以中間傍及餘事故。更稱問。何等是般若波羅蜜者。所謂應薩婆若心。觀色無常苦空無我。如先說。 |
中間の傍、及び余事を以っての故に、更に称えて問う。何等か、是れ般若波羅蜜なるとは、謂わゆる薩婆若に応ずる心もて、色の無常、苦、空、無我を観ること、先に説けるが如し。 |
『中間には!』、
『傍事( 迴向心)や、余事( 阿耨多羅三藐三菩提心)を用いて!』、
更に、
『般若波羅蜜』を、
『称えて!』、
『問うたのである!』が、
何のようなものが、
『般若波羅蜜なのか?』とは、――
謂わゆる、
『薩婆若に応じた!』、
『心』で、
『色は無常、苦、空、無我である!』と、
『観ることである!』が、
是れは、
先に、
『説いた通りである!』。
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参考:『大智度論巻54』:『復次憍尸迦。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時作是觀。但諸法諸法共相因緣潤益增長分別校計。是中無我無我所。菩薩迴向心。不在阿耨多羅三藐三菩提心中。阿耨多羅三藐三菩提心。不在迴向心中。迴向心於阿耨多羅三藐三菩提心中不可得。阿耨多羅三藐三菩提心。於迴向心中亦不可得。菩薩雖觀一切法。亦無法可得。是名菩薩摩訶薩般若波羅蜜。』 |
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觀五眾。能生諸惱故。言如病。有人聞五眾如病。謂為輕微故。言如癰疽有人以癰疽雖難愈猶或可差故。言如箭鏑入體不可得出。有人以箭鏑在體雖沈深難拔。良方妙術猶可令出故。言常痛惱。 |
五衆の能く、諸悩を生ずるを観るが故に、『病の如し』と言うに、有る人は、『五衆は、病の如し』と聞いて、謂いて、軽微と為すが故に、『癰、疽の如し』と言えり。有る人は、癰、疽は愈え難しと雖も、猶お或いは差ゆべしと以(おも)うが故に、『箭、鏑の体に入るが如く、出すを得べからず。』と。有る人は、箭、鏑の体に在りて、沈むこと深く、抜き難しと雖も、良方、妙術の猶お出さしむべきを以っての故に、『常に痛み悩む』と言えり。 |
『五衆』は、
諸の、
『悩を生じさせる!』と、
『観る!』が故に、
こう言う、――
『病のようだ!』、と。
有る、
『人』は、
『五衆』は、
『病のようだ!』と、
『聞けば!』、
『病ならば!』、
『軽微だろう!』と、
『思うかもしれない!』ので、
是の故に、こう言う、――
有る、
『人』は、
『癰や、疽ならば!』、
『癒え難くとも!』、
猶お( still )、
『差(い)えるかもしれない!』と、
『思うだろう!』、
是の故に、こう言う、――
『箭や、鏑( かぶらや)』が、
『体に入って!』、
『出すことができないようだ!』、と。
有る、
『人』は、
『箭や、鏑』が、
『体』中に、
『深く沈んで!』、
『抜き難くても!』、
『良い!』、
『処方や、妙術ならば!』、
猶お、
『出させることができる!』と、
『思うだろう!』、
是の故に、こう言うのである、――
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箭(せん):や。矢の竹軸。
鏑(ちゃく):かぶら。矢の先鋒。
良方(ろうほう):良い方法。 |
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如人著衰常有不吉。五眾亦如是。若人隨逐則無安隱。以有衰故常懷憂怖。 |
人は、著しく衰うれば、常に不吉有るが如く、五衆も亦た是の如く、若し人随逐せば、則ち安隠無く、衰有るを以っての故に、常に憂怖を懐かん。 |
譬えば、
『人』が、
著しく、
『衰弱すれば!』、
常に、
『不吉( the dread of death )』が、
『有るように!』、
『五衆』も、
是のように、
若し、
『人』が、
『五衆の後』を、
『随逐すれば!』、
則ち、
『安隠』は、
『無くなる!』。
『五衆』には、
『衰( senile decay )が有る!』が故に、
常に、
『憂怖』を、
『懐くことになるからである!』。
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是五眾如與師子虎狼共住常懷憂畏。是五眾無常虛誑等過故。常不安隱。 |
是の五衆は、師子、虎狼と共に住するが如く、常に憂畏を懐く。是の五衆の無常、虚誑等の過の故に、常に安隠ならず。 |
是の、
『五衆と共住すれば!』、
『師子や、虎、狼』と、
『共住するように!』、
常に、
『憂えと、畏れ!』を、
『懐くことになる!』。
是の、
『五衆』は、
『無常や、虚誑等の過』の故に、
『共住すれば!』、
常に、
『心』が、
『安隠でない!』。
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問曰。五眾但有此十五種惡。更有餘事。 |
問うて曰く、五衆は、但だ此の十五種の悪のみ有りや、更に余の事有りや。 |
問い、
『五衆』は、
但だ、
此の、
『十五種( 無常、苦、空、無我、病、疽、癰、瘡、箭、痛、悩、衰、壊、憂、畏)』の、
『悪』が、
『有るだけですか?』。
更に、
『余の事』も、
『有るのですか?』。
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参考:『大智度論巻15』:『憍尸迦。何等是般若波羅蜜。菩薩摩訶薩應薩婆若心。念色無常念色苦念色空念色無我。念色如病如疽癰瘡。如箭入身痛惱衰壞憂畏不安。以無所得故。受想行識亦如是。』 |
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答曰。略說則十五。廣說則無量無邊。如雜阿含中呵五眾有百種罪過。 |
答えて曰く、略説すれば、則ち十五、広説すれば、則ち無量、無辺なり。「雑阿含」中の如きは、五衆に百種の罪過有りと呵せり。 |
答え、
『略説すれば!』、
則ち、
『十五である!』が、
『広説すれば!』、
則ち、
『無量無辺である!』。
例えば、
『雑阿含』中には、
『五衆』を、こう呵している、――
『百種』の、
『罪過が有る!』、と。
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参考:『別訳雑阿含経』:『如是我聞。一時佛在舍衛國祇樹給 孤獨園。時有比丘尼。名曰曠野。於其晨朝。著衣持缽。入城乞食。食訖洗缽。將欲向彼得眼林中。時魔王波旬。作是心念。瞿曇沙門。今在舍衛得眼林中。其弟子曠野比丘尼。入城乞食。食訖洗缽。收攝坐具。將欲往詣於彼林間。我當為其而作擾亂。爾時波旬化作摩納。於彼路側。問曠野言。欲何所詣。比丘尼答言。我今欲詣閑靜之處。爾時摩納。聞是語已。即說偈言 一切世間中 無有解脫者 汝詣空靜處 將欲何所作 汝今年盛美 不受於五欲 一旦衰老至 後莫生憂悔 時比丘尼。而作是念。此為是誰欲惱亂我。甚為欺詐。為是人耶。是非人乎。作是念已。入定觀察。知是波旬。欲來惱亂。即說偈言 世間有解脫 我今自證知 波旬汝愚鄙 不解如斯跡 欲如摽利戟 陰賊拔刀逐 汝言受五欲 欲苦可怖畏 欲能生憂惱 欲能生追念 欲能生百苦 欲是眾苦本 斷除一切愛 滅諸無明闇 逮證於盡滅 住於無漏法 爾時波旬。而作是念。曠野比丘尼。善知我心。懊惱悔恨。慚愧還宮』 |
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問曰。何以常說無常苦空無我。或時說八事如病如癰疽等。餘七事少有說處。 |
問うて曰く、何を以ってか、常に無常、苦、空、無我を説き、或いは時に八事の病の如く、癰疽の如き等を説き、余の七事は、少しく説く処有る。 |
問い、
何故、
常に、
『無常、苦、空、無我』を、
『説き!』、
或いは、
時に、
『病のようだ!』、
『癰のようだ!』、
『疽のようだ!』、
『瘡のようだ!』等の、
『八事(無常等を含む)』を、
『説き!』、
余の、
『七事( 箭、痛、悩、衰、壊、憂、畏)』を、
『説く!』、
『処』は、
『少し!』だけ、
『有る!』のか?
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答曰。人有上中下。為利根故說四。即入苦諦。中根者說四。則不能生厭心。說如病如癰等八事則生厭心。鈍根人聞是八事猶不生厭。更為說痛惱等七事然後乃厭。 |
答えて曰く、人に上、中、下有り。利根の為の故に、四を説けば、即ち苦諦に入る。中根の者に四を説かば、則ち厭心を生ずる能わざるも、病の如し、癰の如し等の八事を説けば、則ち厭心を生ず。鈍根の人は、是の八事を聞くも、猶お厭を生ぜざれば、更に為に痛、悩等の七事を説けば、然る後には乃ち厭う。 |
答え、
『人の根』には、
『上、中、下が有り!』、
『利根の人』の為に、
『中根の者』に、
『四諦を説いても!』、
則ち、
『厭心』を、
『生じさせることはできない!』ので、
『病や、癰等のようだ!』と、
『八事を説いて!』、
『厭心』を、
『生じさせ!』、
『鈍根の人』は、
是の、
『八事を聞いても!』、
猶お、
『厭心』を、
『生じない!』ので、
更に、
『痛、悩等の七事を説いて!』、
その後、
『乃ち( only then )!』、
『厭うようになるのである!』。
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利根易度故。常多說四事。鈍根人時有可度者故。希說餘事。 |
利根は度し易きが故に、常に多く四事を説き、鈍根の人も、時には度すべき者有るが故に、希に余事を説くなり。 |
『利根の人』は、
『度し易い!』が故に、
『四諦』は、
『常に説かれ!』、
『多く説かれることになる!』が、
『鈍根の人』は、
『度される者』が、
『時として( sometimes )!』、
『有るぐらいなので!』、
『余事』は、
『希に!』、
『説かれるだけである!』。
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上八事名為聖行。餘七事凡夫聖人共行。 |
上の八事を名づけて、聖の行と為し、余の七事は凡夫、聖人、共に行ず。 |
上の、
『八事』は、
『聖人の行』と、
『呼ばれる!』が、
余の、
『七事』は、
『凡夫、聖人共通』の、
『行である!』。
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初四入十六聖行故。般若中常說。又說般若為菩薩利根故多說聖行。 |
初の四は、十六聖行に入るが故に、般若中には、常に説き、又般若を説く為の菩薩は、利根であるが故に、多く聖行を説く。 |
初の、
『四( 無常、苦、空、無我)』は、
『十六聖行に入る!』が故に、
『般若』中には、
『常に説かれている!』が、
又、
『般若を説く!』のは、
『菩薩の為であり!』、
『菩薩』は、
『利根である!』が故に、
『聖行』が、
『説かれる!』のは、
『多くなる!』。
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十六聖行(じゅうろくしょうぎょう):苦諦に於いては無常、苦、空、無我を、集諦に於いては因、集、生、縁を、滅諦に於いては滅、静、妙、離、道諦に於いては道、如、行、出を具に観察するを云う。『大智度論巻11上注:四諦十六行相、同巻17下注:十六行相』参照。 |
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今問云何是初行法。故此中都說十二入。乃至六種等亦應如是。呵十八界等亦應具說。誦者忘失。所以者何。此十八界等諸法。皆是五眾別名故不應不說。 |
今、『云何が、是の初の行法なる』と問うが故に、此の中に都べて、『十二入、乃至六種等も亦た応に是の如く呵すべし。』と説けり。十八界等も、亦た応に具に説くべきに、誦者忘失せり。所以は何んとなれば、此の十八界等の諸法は、皆、是れ五衆の別名なれば、故に応に説かざるべからず。 |
今、
何が、
『初行』の、
『法なのか?』と、
『問うた!』が故に、
是の中に、
都て( 総じて)、こう説かれている、――
『十二入、乃至六種』等も、
『十八界』等も、
『具に説かれねばならない!』が、
『誦者』が、
『忘失したのであろう!』。
何故ならば、
是の、
『十八界等の諸法』は、
皆、
『五衆の別名である!』が故に、
『説かれないはずがない!』。
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若行者觀五眾等寂滅遠離。不生不滅不垢不淨。此但為般若波羅蜜故。不合上十五說十五事。三乘共故。 |
若し行者、五衆等の寂滅、遠離、不生不滅、不垢不浄なるを観れば、此れ但だ般若波羅蜜と為すが故にして、上の十五に合せず。十五事を説くは、三乗共なるが故なり。 |
若し、
『行者』が、
『五衆』等は、
『寂滅、遠離、不生不滅、不垢不浄である!』と、
『観れば!』、
此れは、
但だ、
『般若波羅蜜を用いた!』が故に、
『観たのであり!』、
是の故に、
是の、
『十五事を説く!』のは、
『三乗』に、
『共通するからである!』。
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聲聞人智力薄故。初始不能觀五眾若遠離若寂滅等。但能觀無常等入第三諦。乃能觀寂滅。 |
声聞人は、智力薄きが故に、初めて始むるに、五衆の若しは遠離、若しは寂滅等を観る能わず。但だ能く、無常等を観て、第三の諦に入りて、乃ち能く寂滅を観るのみ。 |
『声聞人』は、
『智力が薄い!』が故に、
初始には( initially )、
『五衆』の、
『遠離や、寂滅』等を、
『観ることができず!』、
但だ、
『無常』等を、
『観るだけだが!』、
第三諦に入れば、
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菩薩利根故初觀五眾。便得寂滅相。 |
菩薩は利根なるが故に、初めて五衆を観れば、便ち寂滅相を得るなり。 |
『菩薩』は、
『利根である!』が故に、
初めて、
『五衆を観れば!』、
便ち( immediately )、
『寂滅の相』を、
『認めることになる!』。
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用無所得者。常用無所得空慧觀諸法相 |
無所得を用うとは、常に無所得の空慧を用いて、諸法の相を観るなり。 |
『無所得を用いる!』とは、――
常に、
『無所得という!』、
『空慧を用いて!』、
『諸法の相』を、
『観ることである!』。
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復次釋提桓因問般若波羅蜜相。不問五眾患厭事。但說般若相。 |
復た次ぎに、釈提桓因は、般若波羅蜜の相を問うも、五衆の患厭の事を問わざれば、但だ般若の相を説けり。 |
復た次ぎに、
『釈提桓因』は、
『般若波羅蜜』の、
『相』を、
『問うて!』、
『五衆という!』、
『患厭すべき事』を、
『問わなかった!』ので、
但だ、
『般若の相のみ!』を、
『説いたのである!』。
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般若相者。不離五眾有涅槃。不離涅槃有五眾。五眾實相即是涅槃。是故初發心鈍根者。先用無常等觀。然後觀五眾寂滅等。十二因緣亦如是。 |
般若の相とは、五衆を離れざるに、涅槃有り、涅槃を離れざるに、五衆有り。五衆の実相は、即ち是れ涅槃なり。是の故に、初めて発心せる鈍根の者は、先に無常等の観を用い、然る後に、五衆の寂滅等を観る。十二因縁も亦た是の如し。 |
『般若の相』とは、――
『五衆を離れなくても!』、
『涅槃』が、
『有り!』、
『涅槃を離れなくても!』、
『五衆』が、
『有り!』、
『五衆の実相』は、
即ち、
『涅槃である!』と、
是のように、
『五衆』を、
『知れば!』、
是れが、
『般若』の、
『相である!』。
是の故に、
『初発心の鈍根の者』は、
先に、
『無常等の観』を、
『用いて!』、
その後、
『五衆の寂滅』等を、
『観るのである!』。
亦た、
『十二因縁』も、
『是の通りである!』。
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復次修四念處乃至八聖道分。是共法應薩婆若心。以無所得者。是名般若波羅蜜相。 |
復た次ぎに、四念処、乃至八聖道分を修むるは、是れ共法なるも、薩婆若に応ずる心に、無所得を以ってすれば、是れを般若波羅蜜の相と名づく。 |
復た次ぎに、
『四念処、乃至八聖道分』を、
『修めれば!』、
是れは、
『三乗に共通する!』、
『法である!』が、
若し、
『薩婆若に相応した!』、
『心』で、
是れ等の、
『法は無所得である!』と、
『思えば!』、
是れを、
『般若波羅蜜の相』と、
『称する!』。
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六波羅蜜乃至十八不共法。獨是大乘法。 |
六波羅蜜、乃至十八不共法は、独り、是れ大乗の法なり。 |
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問曰。應說般若波羅蜜相行。何以故。中間說諸法。諸法更相因緣潤益增長。 |
問うて曰く、応に般若波羅蜜の相、行を説くべきに、何を以っての故にか、中間に、『諸法は、諸法と更に相因縁して、潤益し増長す』と説く。 |
問い、
『般若波羅蜜』の、
『相と、行』を、
『説かねばならぬ!』のに、
何故、
『中間』に、こう説くのですか?――
『諸法と、諸法と!』は、
更に、
『互に因縁しながら!』、
『潤益し!』、
『増長する!』、と。
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答曰。須菩提上先說諸法無常等過。後說諸法遠離寂滅無所得空。然後說諸法雖空從因緣和合故有。次說四念處乃至十八不共法行佛道。 |
答えて曰く、須菩提は、上に先に、諸法の無常等の過を説き、後に諸法の遠離、寂滅、無所得、空なるを説き、然る後に諸法は空なりと雖も、因縁和合の故に有りと説き、次に四念処、乃至十八不共法の行は仏道なりと説く。 |
答え、
『須菩提』は、
上には、
先に、こう説いて、――
諸の、
『法』には、
『無常』等の、
『過が有る!』、と。
後に、こう説き、――
諸の、
『法』は、
『遠離、寂滅であり!』、
『無所得、空である!』、と。
その後、こう説き、――
諸の、
『法は空である!』が、
『因縁の和合による!』が故に、
『有る!』、と。
次には、こう説いている、――
『四念処、乃至十八不共法』を、
『行う!』のは、
『仏の道である!』、と。
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聽者作是念。上說遠離寂滅空故知非常。說十二因緣故知不滅。而無知者見者。誰修行是諸法得佛。 |
聴者は、是の念を作す、『上に、遠離、寂滅の空を説くが故に、常に非ざるを知り、十二因縁を説くが故に、不滅なるを知る。而るに知者、見者無くんば、誰か、是の諸法を修行して、仏を得る。』と。 |
『聴者』は、こう念じた、――
上には、
『遠離や、寂滅や、空』が、
『説かれた!』が故に、
『非常(滅)である!』と、
『知り!』、
後に、
『十二因縁』が、
『説かれた!』が故に、
『不滅(常)である!』と、
『知った!』が、
而し、
『知る者も!』、
『見る者も!』、
『無ければ!』、
誰が、
是の、
『諸法を修行して!』、
『仏』を、
『得ることになるのか?』、と。
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是故說菩薩作是念。諸法空無我無眾生。而從因緣故有。四大六識是十法各各有力。能生能起能有所作。 |
是の故に説かく、『菩薩は是の念を作す、諸法は空、無我にして、衆生無きも、因縁に従うが故に有り。四大、六識の是の十法は、各各、力有りて、能く生じ、能く起し、能く作す所有り。 |
是の故に、こう説かれた、――
『菩薩』は、こう念じるだろう、――
諸の、
『法』には、
『空も、我も、衆生も無い!』が、
『因縁による!』が故に、
『有る!』。
『四大や、六識という!』、
『十法』には、
各各に、
『法』を、
『生じさせたり!』、
『起したり!』、
『作したりする!』、
是のような、
『力』が、
『有る!』。
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如地能持水能爛火能消風能迴轉。識能分別是十法各有所作。眾生顛倒故。謂是人作我作。 |
地の能く持し、水の能く爛れ、火の能く消え、風の能く廻転し、識の能く分別するが如く、是の十法には、各作す所有るも、衆生は顛倒するが故に謂わく、是れ人作す、我れ作すと。 |
例えば、
『地』が、
『水』が、
『火』が、
『風』が、
『識』が、
是の、
『衆生』は、
『顛倒する!』が故に、こう謂うのである、――
是れは、
『人』が、
『作したのである!』、
是れは、
『我』が、
『作したのである!』、と。
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如皮骨和合故有語聲。或者謂人語。如火燒乾竹林出大音聲。此中無有作者。 |
皮と骨と和合するが故に、語声有るが如きに、或る者の謂わく、人が語ると。火の乾きたる竹林を焼きて、大音声を出すに、此の中には、作者有ること無きが如し。 |
例えば、
『皮と、骨との和合』の故に、
『語や、声』が、
『有るだけなのに!』、
或は、
『人』は、こう謂っている、――
『人』が、
『語るのだ!』、と。
譬えば、
『火』が、
『乾いた竹林を焼いて!』、
『大音声』を、
『出しても!』、
此の中に、
『声を作した!』者が、
『無いようなものである!』。
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又如木人幻人化人雖能動作無有作者。此十法亦如是。 |
又、木人、幻人、化人の、能く動作すと雖も、作者有ること無きが如し。此の十法も、亦た是の如し。 |
又、
譬えば、
『木人や、幻人や、化人』が、
『動作しても!』、
『作者』が、
『無いように!』、
此の、
『十法』も、
是のように、
『作者等』は、
『無いのである!』。
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前生法後生法因緣。或共生因緣。或相應因緣。或報因緣等。常修常集因緣。令果報增長。 |
前生の法は、後生の法の因縁なり、或いは共生の因縁なり、或いは相応の因縁なり、或いは報の因縁なり等を常に修め、常に因縁を集めて、果報をして増長せしむ。 |
『前に生じた!』、
『法』は、
『後に生じる法』の、
『因縁であり!』、
或は、
『共に生じる法』の、
『因縁であり!』、
或は、
『相応する法』の、
『因縁であり!』、
或は、
『果報の法』の、
『因縁である!』等、
是れ等の、
『因縁』を、
『常に!』、
『修め(行い)!』、
『因縁を集めて!』、
『善、悪の果報』を、
『増長させる!』。
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如春殖果樹隨時溉灌華果繁茂。以智慧分別。知一切諸法無有作者。 |
春に果樹を殖え、時に随うて漑潅すれば、華果繁茂するが如く、智慧を以って分別すれば、一切の諸法に、作者有ること無きを知る。 |
譬えば、
『春に果樹を殖え!』、
『時に随って潅漑すれば!』、
『華、果』が、
『繁茂するように!』、
『智慧を用いて!』、
『諸法を分別すれば!』、
『一切の諸法は作者が無い!』と、
『知るようなものである!』。
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菩薩初發意迴向。與佛心作因緣。而初發意迴向時未有佛心。佛心中無初迴向心。雖無而能作因緣。 |
菩薩は、初発意の迴向もて、仏心の与(ため)に因縁を作すも、初発意にて迴向する時には、未だ仏心有らず、仏心中には、初の迴向心無し。無しと雖も、能く因縁を作す。 |
『菩薩』は、
『初発意』の、
『迴向』が、
『初発意』にて、
『迴向した!』時には、
未だ、
『仏心』が、
『無く!』、
『仏心』中には、
『初の迴向心』が、
『無い!』。
即ち、
『仏心が無くても!』、
『仏心の因縁』を、
『作すことはできるのである!』。
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問曰若初發心迴向時。無菩提心者。何所迴向。 |
問うて曰く、若し、初発心にて廻向する時、菩提心無くんば、何にか、廻向する所なる。 |
問い、
若し、
『初発心』にて、
『廻向する!』時、
『菩提心』が、
『無ければ!』、
何処に、
『廻向するのですか?』。
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参考:『大智度論巻54』:『復次憍尸迦。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時作是觀。但諸法諸法共相因緣潤益增長分別校計。是中無我無我所。菩薩迴向心。不在阿耨多羅三藐三菩提心中。阿耨多羅三藐三菩提心。不在迴向心中。迴向心於阿耨多羅三藐三菩提心中不可得。阿耨多羅三藐三菩提心。於迴向心中亦不可得。菩薩雖觀一切法。亦無法可得。是名菩薩摩訶薩般若波羅蜜。釋提桓因問大德須菩提。云何菩薩迴向心。不在阿耨多羅三藐三菩提心中。云何阿耨多羅三藐三菩提心。不在迴向心中。云何迴向心。於阿耨多羅三藐三菩提心中不可得。云何阿耨多羅三藐三菩提心。於迴向心中不可得』 |
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答曰。般若波羅蜜實相中。諸法非常相非無常相。非有相非無相故不應難言。迴向心已滅無所有。云何與菩提作因。 |
答えて曰く、般若波羅蜜の実相中に、諸法は常相に非ず、無常相に非ず、有相に非ず、無相に非ず、故に応に難じて、『迴向心は已に滅して、所有無し。云何が、菩提の与の因と作る。』と言うべからず。 |
答え、
『般若波羅蜜の実相』中に、
諸の、
『法』は、
『常相でも、無常相でもなく!』、
『有相でも、無相でもない!』が故に、
『難じて!』、こう言うべきではない、――
『迴向心』は、
已に、
『滅して!』、
『無所有( nothing )である!』のに、
何故、
『菩提の因』と、
『作るのか?』、と。
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若諸法不生不滅。非不生非不滅。云何以不生不滅作難。無菩提心何所迴向。 |
若し諸法が、不生不滅、非不生非不滅なれば、云何が、不生不滅を以って、『菩提心無きに、何の迴向する所ぞ。』と難を作す。 |
若し、
諸の、
『法』が、
『不生、不滅であり!』、、
『非不生、非不滅ならば!』、
何故、
『不生不滅』を、こう難じるのか?――
若し、
『菩提心が無ければ!』、
何処に、
『廻向するのか?』、と。
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復次佛自說。菩提相非過去非未來非現在。云何難言。未來無菩提故何所迴向。 |
復た次ぎに、仏の自ら説きたまわく、『菩提の相は、過去に非ず、未来に非ず、現在に非ず』と。云何が難じて言わく、『未来に、菩提無きが故に何の迴向する所ぞ。』と。 |
復た次ぎに、
『仏』は、
自ら、こう説かれているのに、――
『菩提の相』は、
『過去でも、未来でも、現在でもない!』、と。
何故、
『難じて!』、こう言うのか?――
『未来』には、
『菩提』が、
『無い!』のに、
何処に、
『廻向するのか?』、と。
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参考:『大品般若経巻1習応品』:『何以故。舍利弗。色不異空空不異色。色即是空空即是色。受想行識亦如是。舍利弗。是諸法空相。不生不滅。不垢不淨不增不減。是空法非過去非未來非現在。是故空中無色無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色聲香味觸法。無眼界乃至無意識界。亦無無明亦無無明盡。乃至亦無老死亦無老死盡。無苦集滅道。亦無智亦無得。亦無須陀洹無須陀洹果。無斯陀含無斯陀含果。無阿那含無阿那含果。無阿羅漢無阿羅漢果。無辟支佛無辟支佛道。無佛亦無佛道。』 |
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復次如如品中說。過去世不離未來世。未來世不離過去世。過去世如未來世如一如無二。云何說菩提心不在迴向心中迴向心不在菩提心中。 |
復た次ぎに、如品中に説くが如し、『過去世は、未来世を離れず、未来世は過去世を離れず、過去世の如と、未来世の如とは、一如にして、二無し。』と。云何が、『菩提心は、廻向心中に在らず、廻向心は、菩提心中に在らず。』と説く。 |
復た次ぎに、
例えば、
『如品』中などには、こう説かれているのに、――
『過去世』は、
『未来世』を、
『離れず!』、
『未来世』は、
『過去世』を、
『離れず!』、
『過去世の如と、未来世の如と!』は、
『一如であり!』、
『無二である!』、と。
何故、こう説くのか?――
『菩提心』は、
『迴向心』中に、
『存在せず!』、
『迴向心』は、
『菩提心』中に、
『存在しない!』、と。
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参考:『大品般若経巻16』:『復次如來如相不過去不未來不現在。諸法如相亦不過去不未來不現在。是故須菩提為隨佛生。復次如來如不在過去如中。過去如不在如來如中。如來如不在未來如中。未來如不在如來如中。如來如不在現在如中。現在如不在如來如中。過去未來現在如如來如。一如無二無別。色如如來如。受想行識如如來如是色如受想行識如如來如。一如無二無別。我如乃至知者見者如如來如。一如無二無別。檀那波羅蜜如。乃至般若波羅蜜如。內空如乃至無法有法空如。四念處如乃至一切種智如如來如。一如無二無別。』
参考:『大般若経巻584第12会戒波羅蜜』:『一切智智非過去法不離過去法。非未來現在法不離未來現在法。』 |
註:菩提心に二義あり、菩薩の菩提心は、阿耨多羅三藐三菩提を求むる心なり、仏の菩提心は、阿耨多羅三藐三菩提を得たる満足の心なり、名を同じうすと雖も、義の同じからざるを見るべし。 |
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但菩薩聞是讚歎佛法發心愛樂。我所有功德。皆迴向佛道。從發心已來乃至佛道。修是功德不休不息。用如幻如夢無所得故。是名菩薩般若波羅蜜。能知諸法因緣生果報。而無有定相。 |
但だ、菩薩は、是の仏法を讃歎するを聞いて、心を発して愛楽し、我が有する所の、功徳は、皆仏道に廻向せんと、心を発してより已来、乃至仏道まで、是の功徳を修めて、不休不息なるも、幻の如く、夢の如く、得る所無きを用うるが故に、是れを般若波羅蜜と名づけて、能く諸法の因縁生の果報にして、定相有ること無きを知る。 |
但だ、
『菩薩だけ!』が、
是の、
『仏法』を、
『讃嘆する!』のを、
『聞いて!』、
『発心して!』、
『仏法』を、
『愛楽するのであり!』、
わたしの、
有らゆる、
『功徳』を、
皆、
『仏道』に、
『廻向しよう!』と、――
初めて、
『発心してから!』、
『仏道』を、
『極めるまで!』、
是の、
『功徳』を、
『修めて!』、
『休息しない!』のは、
譬えば、
『幻や、夢のように!』、
『無所得の功徳』を、
『用いるからである!』。
是れを、
『菩薩の般若波羅蜜と称し!』、
『諸法』は、
『因縁生の果報である!』が故に、
『定相が無い!』と、
『知るものである!』。
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釋提桓因難。何以故。迴向心不在菩提心中可得。菩提心不在迴向心中可得。須菩提不以世諦如幻如夢說。但以第一義諦說是二心。皆空非心相。 |
釈提桓因の難ずらく、『何を以ってか、廻向心は、菩提心中に得べきもの在らず、菩提心は、廻向心中に得べきもの在らず。』と。須菩提は、世諦を以って、幻の如し、夢の如しと説かず、但だ第一義諦を以って、『是の二心は、皆空にして、心相に非ず。』と説けり。 |
『釈提桓因』は、こう難じた、――
何故、
『迴向心( 菩薩の阿耨多羅三藐三菩提を求める心)』は、
『菩提心』中に、
『認められないのか?』、
『菩提心( 仏の已に得た阿耨多羅三藐三菩提という心)』は、
『迴向心』中に、
『認められないのか?』、と。
『須菩提』は、
譬えば、
『幻や、夢のようだ!』という、
『世諦』を、
『説かずに!』、
但だ、
『第一義諦を用いて!』、
是の、
『二心』は、
皆、
『空であり、心相ではない!』と、
『説いた!』。
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何以故。諸法畢竟空中。無是心非心。 |
何を以っての故に、諸法の畢竟空中には、是心、非心無ければなり。 |
何故ならば、
『諸法の畢竟空』中には、
『是心( such is a mind )も!』、
『非心( such is not mind )も!』、
『無いからである!』。
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如是法云何可有迴向。若有二法可有迴向。譬如乘車西行。南有止宿處故迴車趣向。車與迴向處異故。可有迴向。不得但有車而言迴向無異故。 |
是の如き法に、云何が、迴向有るべき。若し二法有らば、迴向有るべし。譬えば車に乗りて、西に行くに、南に止宿する処有るが故に、車を迴して、趣向するが如し。車と迴向する処と異なるが故に、迴向有るべし。但だ、車のみ有りても、迴向と言うを得ず、異無きが故なり。 |
是のような、
『法』に、
若し、
『二法が有れば!』、
『迴向』が、
『有るかもしれない!』。
譬えば、
『車に乗って!』、
『西へ行く!』時、
『止宿処』が、
『南』に、
『有る!』が故に、
『車』を、
『南』に、
『趣向させた( let it go quickly )とすれば!』。
『車( 趣向する処)』が、
『迴向( 志向)する処』と、
『異なる!』が故に、
『迴向』が、
『有るかもしれない!』が、
但だ、
『車だけが有っても!』、
『迴向する!』と、
『言うことはできない!』。
何故ならば、
『異』が、
『無いからである!』。
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非心相常非心相者。須菩提意謂。是心相如常住不生不滅不垢不淨。以非心相故非心。亦無是非心。是故說不可思議。不可思議亦常不可思議。不可籌量思惟取相。 |
非心の相は、常に非心の相なりとは、須菩提の意に謂わく、『是の心の相の如は、常住、不生不滅、不垢不浄なり、非心の相なるを以っての故に心に非ず。亦た是の非心も無し。』と。是の故に説かく、『不可思議なり。』と。不可思議は、亦た常に不可思議にして、籌量、思惟して、相を取るべからざるなり。 |
『非心の相』は、
『常に!』、
『非心の相である!』とは、――
『須菩提の意』は、こう謂うのである、――
是の、
『心相の如』は、
『常住であり!』、
『不生、不滅であり!』、
『不垢、不浄である!』が、
『非心』は、
『非心という!』、
『相が有る!』が故に、
『非心である!』が故に、
亦た、
是の故に、こう説いた、――
是の、
『非心の相』は、
『不可思議であり!』、
亦た、
『常に!』、
『不可思議である!』、と。
何故ならば、
是の、
『非心の相を籌量、思惟しても!』、
『相』を、
『取ることができないからである!』。
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以是因緣故。阿耨多羅三藐三菩提所因心。似果不似則不能生。若初心不淨。後不能發淨心。如鍊鐵不能成金。 |
是の因縁を以っての故に、阿耨多羅三藐三菩提の所因の心の果に似たり。似ざれば則ち生ずる能わず。若し初心より、不浄なれば、後に浄心を発す能わず。鉄を錬るも、金と成す能わざるが如し。 |
是の、
『因縁』の故に、
『阿耨多羅三藐三菩提』は、
『因となる心』の、
『果』に、
『似ている!』。
『似ていなければ!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『生じさせられないからである!』。
若し、
『初心が不浄ならば!』、
後に、
『浄心』を、
『発すことはできない!』。
譬えば、
『鉄を鍛練しても!』、
『金』に、
『成らせられないようなものである!』。
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佛以須菩提深入因緣般若波羅蜜中。此是般若波羅蜜名也。以能深得諸法因緣故。即以為名。無有違錯故。於大眾中。讚言善哉善哉。汝是小乘人。而能善說深般若波羅蜜。 |
仏は、須菩提は、深く因縁に入るを以って、般若波羅蜜中には、此れは是れ般若波羅蜜の名なるも、能く深く、諸法を得る因縁なるを以っての故に、即ち以って名と為すも、違錯有ること無きを以っての故に、大衆中に於いて、讃じて言わく、『善い哉善い哉、汝は是れ小乗の人にして、而も能く善く、深き般若波羅蜜を説けり。』と。 |
『仏』は、
『須菩提』が、
『因縁に深く入る!』が故に、
『般若波羅蜜』中にも、
此れは、
『般若波羅蜜という!』、
『名に過ぎない!』が、
『諸法の因縁を、深く得た!』が故に、
此れを、
『般若波羅蜜』と、
『呼んでも!』、
此の中には、
『違錯』が、
『無い!』が故に、
『須菩提を、大衆中に讃じて!』、こう言われたのである、――
善いぞ!
善いぞ!
お前は、
『小乗の人でありながら!』、
『深い般若波羅蜜』を、
『善く説くことができた!』、と。
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安慰諸菩薩心者。以般若波羅蜜教諸菩薩。汝莫自以煩惱未盡未成佛道故而自懈廢。諸法無礙初心後心無有異相。但勤精進則成佛道。 |
諸の菩薩の心を安慰するとは、般若波羅蜜を以って、諸の菩薩に教うらく、『汝は、自ら煩悩の未だ尽きず、未だ仏道を成ぜざるを以っての故に、自ら懈廃すること莫れ。諸法は、無礙なれば、初心と後心とに、異相有ること無く、但だ勤めて精進すれば、則ち仏道を成ずるのみ。』と。 |
諸の、
『菩薩の心』を、
『安慰する!』とは、――
『般若波羅蜜を用いて!』、
諸の、
『菩薩』に、こう教えるからである、――
お前は、
自ら、
『煩悩が尽きずに!』、
未だ、
『仏道』を、
『成就しない!』が故に、
自ら、
『懈怠して!』、
『心』を、
『廃退させてはならない!』。
諸の、
『法( 五衆等・衆生)は無礙である!』が故に、、
『初心( 迴向心)と、後心( 菩提心)と!』には、
『異相』が、
『無く!』、
但だ、
『勤めて精進すれば!』、
則ち、
『仏道』を、
『成就することになる!』、と。
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註:無量劫の六波羅蜜に由るが故に、乃ち阿耨多羅三藐三菩提を得んの意なり。 |
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我應報恩者。須菩提作是念。我行此諸法實相。得脫老病死苦。我云何不念是法大恩。以是故常樂說法。 |
我れは、応に恩に報ずべしとは、須菩提の是の念を作さく、『我れは、此の諸法の実相を行じて、老病死の苦を脱るるを得、我れは云何が、是の法の大恩を念ぜざらん。是を以っての故に、常に法を楽説せり』、と。 |
わたしは、
『恩』に、
『報じなくてはならない!』とは、――
『須菩提』は、こう念じた、――
わたしは、
此の、
『諸法の実相を行えば!』、
『老、病、死の苦』を、
『脱れられる!』のに、
わたしが、
何故、
是の、
『法の大恩』を、
『念じずにいられるのか?』。
是の故に、
常に、
『楽しんで!』、
『説法しているのだ!』、と。
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復次佛有大悲心。樂說法度眾生。我以佛恩故得道。我亦助佛說法度眾生。是為報恩。 |
復た次ぎに、『仏は、大悲心有り、法を楽説して、衆生を度したもう。我れは、仏の恩を以っての故に、道を得たり。我れも亦た、仏を助けて法を説き、衆生を度せん。是れを恩に報ずと為す』、と。 |
復た次ぎに、
『須菩提』は、こう念じた!――
『仏』には、
『大悲心が有る!』ので、
『説法を楽しみながら!』、
『衆生』を、
『度されている!』。
わたしも、
『仏の恩』の故に、
『道』を、
『得たのだから!』、
わたしも、
『仏を助けて!』、
『法を説きながら!』、
『衆生』を、
『度そう!』、
是れが、
『恩』に、
『報じるということだ!』、と。
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又知今世尊。因過去諸佛得成佛道。是故我亦愛敬過去佛。如子愛敬父故。亦愛重於祖父。亦愛敬過去諸菩薩及弟子。能說法教示故。今世尊亦因此得成。 |
又、知るらく、『今の世尊は、過去の諸仏に因りて、仏道を成ずるを得たまえり。是の故に、我れも亦た、過去の仏を愛敬す。子が父を愛敬するが故に、亦た祖父に於いて愛重するが如し。亦た過去の諸菩薩、及び弟子を愛敬するは、能く法を説いて教示したまえるが故に、今の世尊も、亦た此れに因りて成ずることを得たまえばなり。』と。 |
又、こう知ったからである、――
『今の世尊』は、
『過去の諸仏に因って!』、
『仏道』を、
『成就することができた!』。
是の故に、
わたしも、
譬えば、
『子』が、
『父』を、
『愛敬する!』が故に、
亦た、
『祖父』を、
『愛重するように!』、
亦た、
『過去の諸菩薩や、弟子を愛敬する!』のは、
『説法して!』、
『道』を、
『教示された!』が故に、
『今の世尊』も、
此の、
『道に因って!』、
其の、
『道』を、
『成就されたからである!』。
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須菩提深心信三寶故說。我知今世尊及法過去諸佛及弟子恩。 |
須菩提は、深心に三宝を信ずるが故に、『我れは、今の世尊、及び法、過去の諸仏、及び弟子の恩を知る。』と説けり。 |
『須菩提』は、
深心に、
『三宝』を、
『信じる!』が故に、
こう説いた、――
わたしは、
『今世の世尊と、法と!』、
『過去の諸仏と、弟子たちと!』の、
『恩』を、
『知った!』、と。
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法即是法寶。今佛過佛即是佛寶。諸菩薩及弟子即是僧寶。六波羅蜜如先說。 |
法とは、即ち是れ法宝なり。今の仏、過ぎたる仏とは、即ち是れ仏宝なり。諸の菩薩、及び弟子とは、即ち是れ僧宝なり。六波羅蜜は、先に説けるが如し。 |
『法』とは、
即ち、
『法宝であり!』、
『今の仏と、過去の仏』は、
即ち、
『仏法であり!』、
『諸の菩薩と、弟子』は、
即ち、
『僧宝であり!』、
『六波羅蜜』は、
先に、
『説いた通りである!』。
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示者示人好醜善不善應行不應行。生死為醜。涅槃安隱為好。分別三乘分別六波羅蜜。如是等名示。 |
示すとは、人に好と醜と、善と不善と、応に行ずべきと応に行ずべからざると、生死を醜と為すと、涅槃の安隠を好と為すとを示し、三乗を分別し、六波羅蜜を分別する、是の如き等を、示すと名づく。 |
『示す!』とは、――
『好か、醜か?』、
『善か、不善か?』、
『行わねばならぬか、行ってはならないか?』を、
『人』に、
『示すことである!』。
謂わゆる、
『生死の苦処』は、
『醜である!』と、
『示し!』、
『涅槃の安隠』は、
『好である!』と、
『示し!』、
『三乗の勝劣』を、
『分別して!』、
『示し!』、
『六波羅蜜の功徳』を、
『分別して!』、
『示す!』等、
是れ等を、
『示す!』と、
『称するのである!』。
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教者教言汝捨惡行善是名教。 |
教うとは、教えて、『汝は悪を捨てて、善を行ぜよ』と言う、是れを教うと名づく。 |
『教える!』とは、――
『教えて!』、こう言うことである、――
お前は、
『悪を捨てて!』、
『善を行え!』、と。
是れを、
『教える!』と、
『称するのである!』。
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利者未得善法味故心則退沒。為說法引導令出。汝莫於因時求果。汝今雖勤苦。果報出時大得利益。令其心利故名利。 |
利とは、未だ善法の味を得ざるが故に、心は則ち退没するに、為に法を説いて、『汝は、因の時に於いて果を求むる莫かれ。汝は、今勤苦すと雖も、果報の出づる時には、大いに利益を得ん。』と引導して、出でしめ、其の心をして利ならしむるが故に、利と名づく。 |
『利する!』とは、――
未だ、
『善法の味』を、
『得ていなければ( be unrecognizing )!』、
是の故に、
『心』が、
『退没することになる!』ので、
是の、
『人』の為に、
『法を説いて!』、
『引導して!』、
『進出させるのである!』。
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お前は、
『因の時』に、
『果』を、
『求めてはならない!』。
お前は、
『今』は、
『苦行』を、
『勤めている!』が、
『果報が出る!』時には、
『大いに!』、
『利益を得るだろう!』と、――
其の、
『人』の、
『心を利( clever )にさせる!』が故に、
『利する!』と、
『称するのである!』。
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利(り):利益( profit )、梵語 paTu の訳、鋭利/賢明( sharp, keen, smart, clever, skilful
)の義、有利/利益/得/有益/有利( Advantage; benefit, gain; profitable, beneficial )の意。 |
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喜者隨其所行而讚歎之令其心喜。若樂布施者讚布施。則喜故名喜。以此四事莊嚴說法 |
喜ばすとは、其の所行に随うて、之を讃歎し、其の心をして、喜ばしむ。若し布施を楽しむ者に、布施を讃ずれば、則ち喜ぶが故に、喜ばすと名づく。此の四事を以って、説法を荘厳するなり。 |
『喜ばせる!』とは、――
其の、
『人』の、
『所行』に、
『随って( in every case )!』、
『讃歎し!』、
其の、
『心』を、
『喜ばせる!』。
若し、
『布施を楽しむ!』者ならば、
『布施を讃嘆して!』、
其の、
『心』を、
『喜ばせる!』ので、
是れを、
『喜ばせる!』と、
『称するのである!』。
此の、
『示、教、利、喜の四事を用いて!』、
『説法』を、
『荘厳するのである!』。
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