巻第五十三(上)
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大智度論釋無生品第二十六(卷五十三)
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


【經】菩薩の義、般若波羅蜜の義、観の義

【經】爾時慧命舍利弗語須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜觀諸法。何等是菩薩。何等是般若波羅蜜。何等是觀。 爾の時、慧命舎利弗の須菩提に語らく、『菩薩摩訶薩の般若波羅蜜を行じて、諸法を観ずるに、何等か、是れ菩薩なる。何等か、是れ般若波羅蜜なる。何等か、是れ観なる。』と。
爾の時、
『慧命舍利弗』は、
『須菩提』に、こう語った、――
『菩薩摩訶薩』が、
『摩訶般若波羅蜜を行って!』、
諸の、
『法』を、
『観る!』とは、――
即ち、
何のような、
『菩薩』が、
何のように、
『般若波羅蜜』を、
『行い!』、
何のように、
『法』を、
『観るのか?』、と。
  何等(がとう):[尋常ならざるを疑って]何のように/何のような( how, what kind )、[尋常ならざるを感歎して]何と( what, how )。
  参考:『大般若経巻71』:『時舍利子問善現言。所說菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多觀諸法時者。何謂菩薩摩訶薩。何謂般若波羅蜜多。何謂觀諸法。爾時具壽善現答舍利子言。如尊者所云。何謂菩薩摩訶薩者。舍利子。為有情類求大菩提。亦有菩提故名菩薩。彼如實知一切法相能不執著故復名摩訶薩。舍利子言。云何菩薩摩訶薩能如實知一切法相而不執著。善現答言。舍利子。菩薩摩訶薩如實知色相而不執著。如實知受想行識相而不執著。舍利子。菩薩摩訶薩如實知眼處相而不執著。如實知耳鼻舌身意處相而不執著。舍利子。菩薩摩訶薩如實知色處相而不執著。如實知聲香味觸法處相而不執著。舍利子。菩薩摩訶薩如實知眼界相而不執著。如實知色界眼識界及眼觸眼觸為緣所生諸受相而不執著。舍利子。菩薩摩訶薩如實知耳界相而不執著。如實知聲界耳識界及耳觸耳觸為緣所生諸受相而不執著。舍利子。菩薩摩訶薩如實知鼻界相而不執著。如實知香界鼻識界及鼻觸鼻觸為緣所生諸受相而不執著。舍利子。菩薩摩訶薩如實知舌界相而不執著。如實知味界舌識界及舌觸舌觸為緣所生諸受相而不執著。舍利子。菩薩摩訶薩如實知身界相而不執著。如實知觸界身識界及身觸身觸為緣所生諸受相而不執著。舍利子。菩薩摩訶薩如實知意界相而不執著。如實知法界意識界及意觸意觸為緣所生諸受相而不執著。舍利子。菩薩摩訶薩如實知地界相而不執著。如實知水火風空識界相而不執著。舍利子。菩薩摩訶薩如實知苦聖諦相而不執著。如實知集滅道聖諦相而不執著。舍利子。菩薩摩訶薩如實知無明相而不執著。如實知行識名色六處觸受愛取有生老死愁歎苦憂惱相而不執著。舍利子。菩薩摩訶薩如實知內空相而不執著。如實知外空內外空空空大空勝義空有為空無為空畢竟空無際空散空無變異空本性空自相空共相空一切法空不可得空無性空自性空無性自性空相而不執著』
須菩提語舍利弗。如汝所問。何等是菩薩。為阿耨多羅三藐三菩提。是人發大心。以是故名為菩薩。亦知一切法一切種相。是中亦不著。知色相不著。乃至知十八不共法亦不著。 須菩提の舎利弗に語らく、『汝の問う所の如く、何等か、是れ菩薩なる。阿耨多羅三藐三菩提の為に、是の人、大心を発せば、是を以っての故に、名づけて菩薩と為す。亦た一切法、一切種の相を知り、是の中にも、亦た著せず、色の相を知りて著せず、乃至十八不共法を知りて、亦た著せざるなり。』
『須菩提』は、
『舍利弗』に、こう語った、――
お前の問うように、――
是れは、
何のような、
『菩薩か?』とは、――
是の、
『人』は、
『阿耨多羅三藐三菩提』の為に、
『大心を発した!』ので、
是の故に、
『菩薩』と、
『呼ばれるのであり!』、
亦た、
『一切の法や!』、
『一切の種の相を!』、
『知りながら!』、
是の中にも、
亦た、
『著すことなく!』、
『色相、乃至十八不共法』を、
『知りながら!』、
亦た、
『著すことがないのである!』、と。
舍利弗問須菩提。何等為一切法相。 舎利弗の須菩提に問わく、『何等をか、一切法の相と為す。』と。
『舍利弗』は、
『須菩提』に、こう問うた、――
何のようなものが、
『一切の法の相なのか?』、と。
須菩提言。若以名字因緣和合等知諸法。是色是聲香味觸法。是內是外。是有為法是無為法。以是名字相語言知諸法。是名知諸法相。 須菩提の言わく、『若し、名字と因縁の和合等を以って、諸法は是れ色なり、是れ声香味触法なり、是れ内なり、是れ外なり、是れ有為法なり、是れ無為法なりと知り、是の名字の相なる語言を以って、諸法を知れば、是れを、諸法の相を知ると名づく。
『須菩提』は、こう言った、――
『名字と!』、
『因縁(名字の所由)と!』の、
『和合等を用いて!』、
諸の、
『法』を、
『是れは色である、是れは声香味触法である!』、
『是れは内である、是れは外である!』、
『是れは有為法である、是れは無為法である!』と、
『知り!』、
是の、
『名字の相である!』、
『語言を用いて!』、
諸の、
『法』を、
『知るならば!』、
是れを、
『諸法の相を知る!』と、
『称する!』。
如舍利弗所問。何等是般若波羅蜜。遠離故名般若波羅蜜。何等法遠離。遠離眾界入。遠離檀波羅蜜乃至禪波羅蜜。遠離內空乃至無法有法空。以是故。遠離名般若波羅蜜。 舎利弗の問う所の如く、何等か、是れ般若波羅蜜なる。遠離の故に、般若波羅蜜と名づく。何等の法をか、遠離する。衆、界、入を遠離す。檀波羅蜜、乃至禅波羅蜜を遠離す。内空、乃至無法有法空を遠離す。是を以っての故に、遠離を、般若波羅蜜と名づく。
『舍利弗』の問うたように、――
何のようなものが、
『般若波羅蜜なのか?』とは、――
『遠離する!』が故に、
『般若波羅蜜』と、
『称するのである!』。
何のような、
『法を遠離するのか?』、――
『衆界入(五衆、十八界、十二入)』、
『檀波羅蜜、乃至禅波羅蜜』、
『内空、乃至無法有法空』を、
『遠離する!』ので、
是の故に、
『遠離』を、
『般若波羅蜜』と、
『称するのである!』。
復次遠離四念處。乃至遠離十八不共法。遠離一切智。以是因緣故。遠離名般若波羅蜜。 復た次ぎに、四念処を遠離し、乃至十八不共法を遠離し、一切智を遠離す。是の因縁を以っての故に、遠離を、般若波羅蜜と名づく。
復た次ぎに、
『四念処、乃至十八不共法も!』、
『一切智も!』、
『遠離する!』ので、
是の、
『因縁』の故に、
『遠離』は、
『般若波羅蜜なのである!』。
如舍利弗所問。何等是觀。舍利弗。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。觀色非常非無常非樂非苦非我非無我非空非不空非相非無相非作非無作非寂滅非不寂滅非離非不離。受想行識亦如是。 舎利弗の問う所の如く、何等か、是れ観なる。舎利弗、菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行ずる時に、色は、常に非ず、無常に非ず、楽に非ず、苦に非ず、我に非ず、無我に非ず、空に非ず、不空に非ず、相に非ず、無相に非ず、作に非ず、無作に非ず、寂滅に非ず、不寂滅に非ず、離に非ず、不離に非ずと観る。受想行識も、亦た是の如し。
『舍利弗』の問うたように、――
何のように、
『観るのか?』とは、――
舍利弗!
『菩薩摩訶薩』は、
『般若波羅蜜を行う!』時、
『色』は、
『常でもなく、無常でもない!』、
『楽でもなく、苦でもない!』、
『我でもなく、無我でもない!』、
『空でもなく、不空でもない!』、
『相でもなく、無相でもない!』、
『作でもなく、無作でもない!』、
『寂滅でもなく、不寂滅でもない!』、
『離でもなく、不離でもない!』と、
『観るのであり!』、
亦た、
『受、相、行、識』も、
『是の通りなのである!』。
檀波羅蜜乃至般若波羅蜜。內空乃至無法有法空。四念處乃至十八不共法。一切三昧門。一切陀羅尼門。乃至一切種智。觀非常非無常非樂非苦非我非無我非空非不空非相非無相非作非無作非寂滅非不寂滅非離非不離。 檀波羅蜜、乃至般若波羅蜜、内空、乃至無法有法空、四念処、乃至十八不共法、一切の三昧門、一切の陀羅尼門、乃至一切種智を、常に非ず、無常に非ず、楽に非ず、苦に非ず、我に非ず、無我に非ず、空に非ず、不空に非ず、相に非ず、無相に非ず、作に非ず、無作に非ず、寂滅に非ず、不寂滅に非ず、離に非ず、不離に非ずと観る。
『檀波羅蜜、乃至般若波羅蜜』、
『内空、乃至無法有法空』、
『四念処、乃至十八不共法』、
『一切の三昧門、一切の陀羅尼門、乃至一切種智』は、
『常でもなく、無常でもない!』、
『楽でもなく、苦でもない!』、
『我でもなく、無我でもない!』、
『空でもなく、不空でもない!』、
『相でもなく、無相でもない!』、
『作でもなく、無作でもない!』、
『寂滅でもなく、不寂滅でもない!』、
『離でもなく、不離でもない!』と、
『観るのである!』。
舍利弗。是名菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時觀諸法 舎利弗、是れを菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行ずる時、諸法を観ずと名づく。
舍利弗!
是れを、
『菩薩摩訶薩』が、
『般若波羅蜜を行う!』時、
諸の、
『法を観る!』と、
『称するのである!』。



【論】菩薩の義、般若波羅蜜の義、観の義

【論】問曰。所謂菩薩義。般若波羅蜜義。諸觀義上已問。今何以更問。 問うて曰く、謂わゆる菩薩の義、般若波羅蜜の義、諸の観の義は、上に已に問えり。今、何を以ってか、更に問う。
問い、
謂わゆる、
『菩薩の義』、
『般若波羅蜜の義』、
『諸観の義』は、
上に、
已に、
『問うている!』のに、
今、
何故、
『更に問うたのですか?』。
答曰。先已答大樹喻非一斫可斷。是事難故更問。 答えて曰く、先に已に、大樹に喻えて、一斫もて断ずべきに非ずと答う。是の事の難きが故に、更に問えり。
答え、
先に、
已に、
『大樹に喻えて!』、
『一斫で( with one stroke of the ax )!』、
『断てるものではない!』と、
『答えた!』が、
是の、
『事』は、
『難しい!』が故に、
『更に問うたのである!』。
  参考:『大智度論巻52』:『是故須菩提更重說。我從本已來無非先有今無。行者如是如是本來自無今無所失故無所憂。譬如深根大樹不可以一斫能辦。多用斧力乃能斷。菩薩空亦如是。不可一說便得。以是故廣分別。』
復次是般若波羅蜜有無量義。如曇無竭品中說。般若波羅蜜如大海水無量。如須彌山種種嚴飾。是故問。又此問雖同。答義種種異。 復た次ぎに、是の般若波羅蜜は、無量の義有り。『曇無竭品』中に説くが如し、『般若波羅蜜は、大海水の無量なるが如く、須弥山の種種に厳飾するが如し。』と。是の故に問えり。又此の問は、同じと雖も、答の義は、種種に異なり。
復た次ぎに、
是の、
『般若波羅蜜』には、
『無量の義』が、
『有るからである!』。
例えば、
『曇無竭品』中には、こう説かれている、――
『般若波羅蜜』は、
『大海水のように!』、
『無量であり!』、
『須弥山のように!』、
『種種に!』、
『厳飾されている!』ので、
是の故に、
『問うたのであり!』、
亦た、
此の、
『問は同じであっても!』、
『答えられた義』は、
『種種に!』、
『異なるからでもある!』。
  参考:『大品般若経巻27法尚品(丹本曇無竭品)』:『爾時薩陀波崙菩薩摩訶薩及長者女并五百侍女。到曇無竭菩薩摩訶薩所。散天曼陀羅華頭面禮畢退坐一面。曇無竭菩薩見其坐已。告薩陀波崙菩薩言。善男子。諦聽諦受。今當為汝說般若波羅蜜相。善男子。諸法等故當知般若波羅蜜亦等。諸法離故當知般若波羅蜜亦離。諸法不動故當知般若波羅蜜亦不動。諸法無念故當知般若波羅蜜亦無念。諸法無畏故當知般若波羅蜜亦無畏。諸法一味故當知般若波羅蜜亦一味。諸法無邊故當知般若波羅蜜亦無邊。諸法無生故當知般若波羅蜜亦無生。諸法無滅故當知般若波羅蜜亦無滅。虛空無邊故當知般若波羅蜜亦無邊。大海水無邊故當知般若波羅蜜亦無邊。須彌山莊嚴故當知般若波羅蜜亦莊嚴。虛空無分別故當知般若波羅蜜亦無分別。色無邊故當知般若波羅蜜亦無邊。受想行識無邊故當知般若波羅蜜亦無邊。地種無邊故當知般若波羅蜜亦無邊。水種火種風種無邊故當知般若波羅蜜亦無邊。空種無邊故當知般若波羅蜜亦無邊。如金剛等故當知般若波羅蜜亦等。諸法無分別故當知般若波羅蜜亦無分別。諸法性不可得故當知般若波羅蜜性亦不可得。諸法無所有等故當知般若波羅蜜亦無所有等。諸法無作故當知般若波羅蜜亦無作。諸法不可思議故。當知般若波羅蜜亦不可思議。』
復次諸佛斷法愛不立經書。亦不莊嚴言語。但為拯濟眾生隨應度者說。如大清涼美池無量眾生前後來飲各飽而去。聽者亦如是。 復た次ぎに、諸仏は、法愛を断じたまえば、経書を立てず、亦た言語を荘厳せず、但だ衆生を拯済せんが為に、応に度すべき者に随いて説きたまえり。大清涼の美池の無量の衆生、前後して来たりて飲み、各飽いて去るが如し。聴者も、亦た是の如し。
復た次ぎに、
諸の、
『仏』は、
『法愛を断じて!』、
『経書』を、
『立てられなかった!』し、
亦た、
『言語』を、
『荘厳されることもなく!』、
但だ、
『衆生を拯済(救済)する!』為に、
『度すべき者に随って!』、
『説かれただけである!』。
譬えば、
『大きくて清涼な美池』に、
『無量の衆生』が、
『前後しながら来て!』、
『飲み!』、
各が、
『飽いて!』、
『去るようなものであり!』、
『聴く者』も、
亦た、
『是の通りなのである!』。
佛先說菩薩般若及觀。前來者有得解悟而去。後來者未聞。是故重問。 仏は、先に菩薩、般若、及び観を説きたまえるに、前に来たる者は、有るいは解悟を得て去り、後に来たる者は、未だ聞かざれば、是の故に重ねて問えり。
『仏』が、
先に、
『菩薩と、般若と、観と!』を、
『説かれる!』と、
前に、
『来た!』者は、
『解悟することができて!』、
『去る!』が、
後に、
『来た!』者は、
未だ、
『聞いていない!』ので、
是の故に、
『重ねて!』、
『問うのである!』。
菩薩者菩提有三種。有阿羅漢菩提。有辟支佛菩提。有佛菩提。無學智慧清淨無垢故名為菩提。菩薩雖有大智慧。諸煩惱習未盡故不名菩提。此中但說一種。所謂佛菩提也。 菩薩とは、菩提に三種有りて、有るは阿羅漢の菩提なり、有るは辟支仏の菩提なり、有るは仏の菩提なり。無学の智慧は、清浄無垢なるが故に名づけて、菩提と為す。菩薩は、大智慧有りと雖も、諸の煩悩の習の未だ尽きざるが故に、菩提と名づけず。此の中には、但だ一種を説く、謂わゆる仏の菩提なり。
『菩薩(菩提薩埵 one whose essence is perfect knowledge )』とは、――
『菩提( the enlightened intellect )』には、
『三種有り!』、
有るいは、
『阿羅漢の菩提と!』、
『辟支仏の菩提と!』、
有るいは、
『仏の菩提である!』。
『阿羅漢、辟支仏』の、
『無学の智慧』は、
『清浄無垢である!』が故に、
『菩提』と、
『称される!』が、
『菩薩』は、
『大智慧が有りながら!』、
諸の、
『煩悩が尽きていない!』が故に、
『菩提』と、
『称されることがない!』ので、
此の中には、
但だ、
『一種』を、
『説くだけであり!』、
謂わゆる、
『仏』の、
『菩提である!』。
  菩提(ぼだい):悟り( enlightenment )、梵語 bodhi の音訳、智慧/覚醒の義( meaning wisdom, or awakening )、仏の真実の覚醒である智慧( The wisdom of the true awakening of the Buddha. )、叡智の機能( The function of correct wisdom. )、覚醒された智慧の機能により、無智の消滅した状態(The situation of the disappearance of ignorance due to the functioning of awakened wisdom. )、事物の有りのままを正確に認識する智慧( The wisdom of accurate cognition of things as they are. )、煩悩障及び所知障を除いて獲得された智慧( The wisdom attained with the elimination of the two (affective and cognitive) hindrances. )の意。
薩埵秦言眾生。是眾生為無上道故發心修行。 薩埵とは、秦に衆生と言う。是の衆生は、無上道の為の故に、発心して修行す。
『薩埵( true essence or nature )』とは、
秦には、
『衆生』と、
『言い!』、
是の、
『衆生』は、
『無上道』の為の故に、
『発心して!』、
『修行している!』。
復次薩埵名大心。是人發大心求無上菩提而未得。以是故名為菩提薩埵。佛已得是菩提。不名為菩提薩埵。大心滿足故。菩薩餘義如先廣說。 復た次ぎに、薩埵を大心と名づく。是の人は、大心を発して、無上菩提を求むるも、未だ得ず。是を以っての故に、名づけて菩提薩埵と為す。仏は、已に是の菩提を得たまえば、名づけて菩提薩埵と為さず。大心、満足するが故なり。菩薩の余の義は、先に広く説けるが如し。
復た次ぎに、
『薩埵』を、
『大心』と、
『称する!』が、
是の、
『人』は、
『大心を発して!』、
『無上』の、
『菩提』を、
『求めながら!』、
未だ、
『得ていない!』ので、
是の故に、
是の、
『人』を、
『菩提薩埵( one who is on the way to the attainment of perfect knowledge )』と、
『呼び!』、
『仏』は、
已に、
是の、
『菩提を得られた!』ので、
『菩提薩埵』と、
『呼ばれることはない!』。
『仏』の、
『大心』は、
『満足しているからである!』。
『菩薩』の、
『余の義』は、
先に、
『広説した通りである!』。
復次佛此中自說因緣。是人為佛道故修行。知一切諸法相亦不著。 復た次ぎに、仏は、此の中に自ら因縁を説きたまわく、『是の人は、仏道の為の故に、修行し、一切の諸法の相を知るも、亦た著せず。』と。
復た次ぎに、
『仏』は、
此の中に、
自ら、
『因縁』を、こう説かれている、――
是の、
『人』は、
『仏道』の為の故に、
『修行した!』ので、
一切の、
諸の、
『法』の、
『相』を、
『知ったのである!』が、
亦た、
是の、
『相にも!』、
『著さないのである!』、と。
諸法相者。可以知諸法門是色是聲等。 諸法の相とは、以って諸の法を知るべき門にして、是れ色、是れ声等なり。
諸の、
『法の相』とは、――
是の、
『相を用いて!』、
諸の、
『法』を、
『知ることのできる!』、
『門である!』が、
是の、
『相』は、
『色であるか!』、
『声等である!』。
略說菩薩義。先知諸法各各相如地堅相。然後知畢竟空相。於是二種智慧中亦不著。但欲度眾生故。 菩薩の義を略説せば、先に諸法の各各の相の、地の堅相の如きを知り、然る後に、畢竟じて空相なりと知るも、是の二種の智慧中に於いても、亦た著せず、但だ衆生を度せんと欲するが故なり。
『菩薩の義』を、略説すれば、――
先に、
諸の、
『法』の、
『各各の!』、
『相を!』、
譬えば、
『地のような!』、
『堅相である!』と、
『知り!』、
その後、
諸の、
『法』は、
『畢竟空の相である!』と、
『知りながら!』、
是の、
『二種の智慧』中に、
『著することもない!』。
但だ、
『衆生を度そうとする!』が故に、
是の、
『二種の相』を、
『知るのである!』。
菩薩得如是智慧。一切別相法中皆得遠離。如色中離色。離色即是自相空。 菩薩は、是の如き智慧を得て、一切の別相を、法中より、皆遠離するを得。色中より、色を離るるが如し。色を離るれば、即ち是れ自相空なり。
『菩薩』は、
是のような、
『智慧を得て!』、
一切の、
『別相(空相以外の各別相)という!』、
『法』中に、
皆、
『遠離(不著の心)』を、
『得るのであり!』、
譬えば、
『色』中に、
『色』を、
『離れれば!』、
『色を離れる!』ことが、
即ち、
『自相空なのである!』。
遠離者是空之別名。菩薩得般若波羅蜜。於一切法心皆遠離。所以者何。見一切諸法罪過故。 遠離とは、是れ空の別名なり。菩薩は、般若波羅蜜を得れば、一切法に於いて、心、皆遠離す。所以は何んとなれば、一切の諸法に、罪過を見るが故なり。
『遠離』とは、
『空』の、
『別名である!』が、
『菩薩』が、
『般若波羅蜜を得れば!』、
『心』が、
『一切の法より!』、
『遠離することになる!』が、
何故ならば、
『一切の諸法』には、
『罪過が有る!』と、
『見るからである!』。
阿羅蜜秦言遠離。波羅蜜秦言度彼岸。此二音相近義相會故。以阿羅蜜釋波羅蜜。 阿羅蜜を、秦に遠離と言い、波羅蜜を、秦に度彼岸と言う。此の二は音相近く、義相会するが故に、阿羅蜜を以って、波羅蜜を釈す。
『阿羅蜜(梵語 aaruNaddhi (keep off) )』を、
秦には、
『遠離』と、
『言い!』、
『波羅蜜(梵語 paarami (extremity ) )』を、
秦には、
『度彼岸(究竟)』と、
『言う!』が、
此の、
『二句』は、
『音』が、
互に、
『近く!』、
『義』が、
互に、
『合する!』ので、
是の故に、
『阿羅蜜を用いて!』、
『波羅蜜である!』と、
『釈するのである!』。
遠離何等法。所謂眾界入乃至一切智。以遠離是諸法故。名般若波羅蜜。如禪波羅蜜。能調伏人心。般若波羅蜜。能令人遠離諸法。 何等の法をか、遠離する。謂わゆる衆、界、入、乃至一切智なり。是の諸法を遠離するを以っての故に、般若波羅蜜と名づく。禅波羅蜜の、能く人心を調伏するが如く、般若波羅蜜は、能く人をして、諸法を遠離せしむ。
何のような、
『法』を、
『遠離するのか?』、――
謂わゆる、
『衆界入、乃至一切智であり!』、
是の、
諸の、
『法』を、
『遠離する!』が故に、
是れを、
『般若波羅蜜』と、
『称するのである!』。
譬えば、
『禅波羅蜜』が、
『人』の、
『心』を、
『調伏できるように!』、
『般若波羅蜜』は、
『人』に、
『諸法』を、
『遠離させるのである!』。
觀者不觀諸法常無常等。如先說 観るとは、諸法の常、無常等を観ざること、先に説けるが如し。
『観る!』とは、
先に説いたように、――
『諸の法』に、
『常、無常等』を、
『観ないことである!』、



【經】色、乃至一切種智の不生、不二

【經】舍利弗問須菩提。何因緣故。色不生是非色。受想行識不生是非識。乃至一切種智不生是非一切種智。 舎利弗の須菩提に問わく、『何の因縁の故にか、色は不生にして、是れ色に非ず、受想行識は不生にして、是れ識に非ず、乃至一切種智は不生にして、是れ一切種智に非ざる。』と。
『舍利弗』は、
『須菩提』に、こう問うた、――
何のような、
『因縁』の故に、
『色』は、
『生じない!』ので、
是の、
『色』は、
『色でなく!』、
『受想行識』は、
『生じない!』ので、
是の、
『識』は、
『識でなく!』、
乃至、
『一切種智』は、
『生じない!』ので、
是の、
『一切種智』は、
『一切種智でないのか?』。
  参考:『大智度論巻52』:『【經】須菩提白佛言。世尊。菩薩摩訶薩。行般若波羅蜜。如是觀諸法。是時菩薩摩訶薩。不受色不視色不住色不著色不言是色。受想行識亦不受不視不住不著。亦不言是受想行識。眼不受不視不住不著。亦不言是眼耳鼻舌身意。亦不受不視不住不著。亦不言是意。檀波羅蜜不受不視不住不著。亦不言是檀波羅蜜。尸羅波羅蜜。羼提波羅蜜。毘梨耶波羅蜜。禪波羅蜜。般若波羅蜜。不受不示不住不著。亦不言是般若波羅蜜。內空不受不示不住不著。亦不言是內空。乃至無法有法空亦如是復次世尊。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。四念處不受不示不住不著。亦不言是四念處。乃至十八不共法不受不示不住不著。亦不言是十八不共法。一切三昧門。一切陀羅尼門。乃至一切種智不受不示不住不著。亦不言是一切種智。復次世尊。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。不見色乃至不見一切種智。何以故。色不生是非色。受想行識不生是非識。眼不生是非眼。耳鼻舌身意不生是非意。檀波羅蜜不生。是非檀波羅蜜。乃至般若波羅蜜不生。是非般若波羅蜜。何以故。色不生不二不別。乃至般若波羅蜜不生不二不別。內空不生是非內空。乃至無法有法空不生。是非無法有法空。何以故。內空乃至無法有法空不生不二不別。世尊。四念處不生非四念處。何以故。四念處不生不二不別。何以故。世尊。是不生法非一非二非三非異。以是故。四念處不生不二不別。乃至十八不共法不生。非十八不共法。何以故。十八不共法不生不二不別。何以故。世尊是不生法非一非二非三非異。以是故。十八不共法不生。非十八不共法。世尊。如不生是非如。乃至不可思議性不生。是非不可思議性。世尊。是阿耨多羅三藐三菩提不生一切智一切種智不生。是非一切種智。何以故。是阿耨多羅三藐三菩提乃至一切種智。不生不二不別。何以故。世尊。是不生法非一非二非三非異。以是故。乃至一切種智不生。非一切種智。世尊。色不滅相是非色。何以故。色及不滅相。不二不別。何以故。世尊。是不滅法。非一非二非三非異。以是故。色不滅相是非色。受想行識不滅。相是非識。何以故。識及不滅不二不別。何以故。世尊。是不滅法。非一非二非三非異。以是故。識不滅相是非識。檀波羅蜜乃至般若波羅蜜。內空乃至無法有法空。四念處乃至十八不共法亦如是。世尊。以是故。色入無二法數。受想行識入無二法數。乃至一切種智入無二法數』
  参考:『大般若経巻73』:『時舍利子。問善現言。何緣故說。色等不生則非色等。善現答言。舍利子。色色性空。此性空中無生無色。受想行識受想行識性空。此性空中無生無受想行識。舍利子。由此緣故我作是說。色不生則非色。受想行識不生則非受想行識。舍利子。眼處眼處性空。此性空中無生無眼處。耳鼻舌身意處耳鼻舌身意處性空。此性空中無生無耳鼻舌身意處。舍利子。由此緣故我作是說。眼處不生則非眼處。耳鼻舌身意處不生則非耳鼻舌身意處。舍利子。色處色處性空。此性空中無生無色處。聲香味觸法處聲香味觸法處性空。此性空中無生無聲香味觸法處。舍利子。由此緣故我作是說。色處不生則非色處。聲香味觸法處不生則非聲香味觸法處。舍利子。眼界眼界性空。此性空中無生無眼界。色界眼識界及眼觸眼觸為緣所生諸受。色界乃至眼觸為緣所生諸受性空。此性空中無生無色界乃至眼觸為緣所生諸受。舍利子。由此緣故我作是說。眼界不生則非眼界。色界乃至眼觸為緣所生諸受不生則非色界乃至眼觸為緣所生諸受。舍利子。耳界耳界性空。此性空中無生無耳界聲界耳識界及耳觸耳觸為緣所生諸受。聲界乃至耳觸為緣所生諸受性空。此性空中。無生無聲界乃至耳觸為緣所生諸受。舍利子。由此緣故我作是說。耳界不生則非耳界。聲界乃至耳觸為緣所生諸受不生則非聲界乃至耳觸為緣所生諸受。』
須菩提言。色色相空。色空中無色無生。以是因緣故。色不生是非色。受想行識識相空。識空中無識無生。以是因緣故。受想行識不生是非受想行識。 須菩提の言わく、『色の色相は、空なり。色の空中には、色無く、生無し。是の因縁を以っての故に、色は不生にして、是れ色に非ず、受想行識の識相は、空なり。識の空中には、識無く、生無し。是の因縁を以っての故に、受想行識は不生にして、是れ受想行識に非ず。
『須菩提』は、こう言った、――
『色』の、
『色という!』、
『相』は、
『空であり!』、
『色という!』、
『空』中には、
『色も、生( 梵語 jaati (birth) )も無い!』ので、
是の故に、
『色』は、
『生じず!』、
是の、
『色』は、
『色でないのであり!』、
『受想行識』の、
『識という!』、
『相』は、
『空であり!』、
『識という!』、
『空』中には、
『識も、生も無い!』ので、
是の故に、
『受想行識』は、
『生じず!』、
是の、
『受想行識』は、
『受想行識でないのである!』。
  (しょう):生起( arising )、◯梵語 jaati の訳、生産する/生む/生まれる( To produce, to bring forth, to beget. To be born )、生命/生活/生産/存在に至る( Life, living; production; coming into existence )、唯識、倶舎論に於いては、有為法の生起( In Yogâcāra and Abhidharmakośa theory, the arising of conditioned dharmas )、亦た出生、或いは有情の生命( Also birth, or the life of sentient beings )、存在に関する四相の第一 (生、住、異、及び滅)( The first of the four aspects 四相 of existence (arising, abiding, changing, and extinction) )、亦た十二因縁の一( Also one of the twelve links of dependent arising )、又四苦の一( and one of the four basic forms of suffering )。誕生の形態は四種の位、四生 catur yoni を取り、それぞれに因って、有情は六道 SaD gati の一に入ることになる( Birth takes place in four forms, catur yoni 四生, in each case causing: a sentient being to enter one of the 六道 six gati, or paths of transmigration )。◯梵語 utpaada の訳、生じる/出生/産出( come forth, birth, production )。
舍利弗。檀波羅蜜。檀波羅蜜相空。檀波羅蜜空中無檀波羅蜜無生。尸羅波羅蜜。羼提波羅蜜。毘梨耶波羅蜜。禪波羅蜜。般若波羅蜜。般若波羅蜜相空。般若波羅蜜空中無般若波羅蜜無生。以是因緣故。舍利弗。般若波羅蜜不生是非般若波羅蜜。 舎利弗、檀波羅蜜の檀波羅蜜相は空なり。檀波羅蜜の空中には、檀波羅蜜無く、生無し。尸羅波羅蜜、羼提波羅蜜、毘梨耶波羅蜜、禅波羅蜜、般若波羅蜜の般若波羅蜜相は空なり。般若波羅蜜の空中には、般若波羅蜜無く、生無し。是の因縁を以っての故に、舎利弗、般若波羅蜜は不生にして、是れ般若波羅蜜に非ず。
舍利弗!
『檀波羅蜜』の、
『檀波羅蜜という!』、
『相』は、
『空であり!』、
『檀波羅蜜という!』、
『空』中には、
『檀波羅蜜も、生も無い!』、
『尸羅、羼提、毘梨耶、禅、般若波羅蜜』の、
『般若波羅蜜という!』、
『相』は、
『空であり!』、
『般若波羅蜜という!』、
『空』中には、
『般若波羅蜜も、生も無い!』、
是の、
『因縁』の故に、
舍利弗!
『般若波羅蜜』は、
『生じない!』ので、
是の、
『般若波羅蜜』は、
『般若波羅蜜でないのである!』。
內空乃至無法有法空。四念處乃至十八不共法。一切種智亦如是。以是因緣故。內空不生是非內空。乃至一切種智不生是非一切種智。 内空、乃至無法有法空、四念処、乃至十八不共法、一切種智も、亦た是の如し。是の因縁を以っての故に、内空は不生にして、是れ内空に非ず。乃至一切種智は不生にして、是れ一切種智に非ず。
亦た、
『内空、乃至無法有法空も!』、
『四念処、乃至十八不共法、一切種智も!』、
亦た、
『是の通りであり!』、
是の、
『因縁』の故に、
『内空』は、
『生じない!』ので、
是の、
『内空』は、
『内空でなく!』、
乃至、
『一切種智』は、
『生じない!』ので、
是の、
『一切種智』は、
『一切種智でない!』。
舍利弗問須菩提。汝何因緣故。言色不二是非色。受想行識不二是非識。乃至一切種智不二。是非一切種智。 舎利弗の須菩提に問わく、『汝は、何の因縁の故にか、色は不二にして、是れ色に非ず。受想行識は不二にして、是れ識に非ず。乃至一切種智は不二にして、是れ一切種智に非ず、と言える。』と。
『舍利弗』は、
『須菩提』に、こう問うた、――
お前は、
何のような、
『因縁』の故に、こう言うのか?――
『色』は、
『(空と)不二なので!』、
是の、
『色』は、
『色でなく!』、
『受想行識』は、
『不二なので!』、
是の、
『識』は、
『識でなく!』、
乃至、
『一切種智』は、
『不二なので!』、
是の、
『一切種智』は、
『一切種智でない!』、と。
  不二(ふに):梵語 advaita の訳、非二元性( nonduality, nondualism )の義。有らゆる事物の統一/唯一の実在/普遍的仏性( The unity of all things, the one reality, the universal Buddha-nature. )の意、例えば善悪不二のように、有と空と、迷と悟と等の無数の組合わせが有る( There are numerous combinations, e.g., good and evil are not a dualism: nor are existence and emptiness, nor are delusion and enlightenment. )。
  参考:『大般若経巻73』:『時舍利子。問善現言。何緣故。說色等不二則非色等。善現答言。舍利子。若色若不二。若受想行識若不二。如是一切皆非相應非不相應。非有色非無色。非有見非無見。非有對非無對。咸同一相所謂無相。舍利子。由此緣故我作是說。色不二則非色。受想行識不二則非受想行識。舍利子。若眼處若不二。若耳鼻舌身意處若不二。如是一切皆非相應。非不相應。非有色非無色。非有見非無見。非有對非無對。咸同一相所謂無相。舍利子。由此緣故我作是說。眼處不二則非眼處。耳鼻舌身意處不二則非耳鼻舌身意處。舍利子。若色處若不二。若聲香味觸法處若不二。如是一切皆非相應非不相應。非有色非無色。非有見非無見。非有對非無對。咸同一相所謂無相。舍利子。由此緣故我作是說。色處不二則非色處。聲香味觸法處不二則非聲香味觸法處。』
須菩提答言。所有色所有不二。所有受想行識所有不二。是一切法皆不合不散無色無形。無對一相。所謂無相眼乃至一切種智亦如是。 須菩提の答えて言わく、『有らゆる色も有らゆる不二も、有らゆる受想行識も有らゆる不二も、是の一切法は、皆、合せず、散ぜず、無色、無形、無対の一相なり。謂わゆる無相なり。眼、乃至一切種智も、亦た是の如し。
『須菩提は答えて!』、こう言った、――
『有らゆる色も、有らゆる不二も!』、
『有らゆる受想行識も、有らゆる不二も!』、
是の、
一切の、
『法』は、
皆、
『合することもなく、散じることもなく!』、
『無色、無形、無対であり!』、
『一相、謂わゆる無相であり!』、
亦た、
『眼、乃至一切種智』も、
『是の通りである!』。
  所有(しょう):◯梵語 kiMcana の訳、関連する/所有される( related to, possessed by )の義。或は梵語 kiMcanataa? の訳、何物か/何事か( something, somewhat )の義。或は梵語 kiMcanya? の訳、財産/所有物( property )の義。◯梵語 sarva の訳、種種の( the verious, of all sorts )の義。◯梵語 sva の訳、自分自身の( own, one's own )、何れか/都て/何れでも( any, all, whichever )の義。
以是因緣故。舍利弗。色不二是非色。受想行識不二是非識。乃至一切種智不二。是非一切種智。 是の因縁を以っての故に、舎利弗、色は不二にして、是れ色に非ず。受想行識は不二にして、是れ識に非ず。乃至一切種智は不二にして、是れ一切種智に非ず。
是の、
『因縁』の故に、
舍利弗!
『色』は、
『不二であって!』、
是の、
『色』は、
『色でなく!』、
『受想行識』は、
『不二であって!』、
是の、
『識』は、
『識でなく!』、
乃至、
『一切種智』は、
『不二であって!』、
是の、
『一切種智』は、
『一切種智でない!』。
舍利弗問須菩提。何因緣故。言是色入無二法數。受想行識入無二法數。乃至一切種智入無二法數。 舎利弗の、須菩提に問わく、『何の因縁の故にか、是の色は、無二の法数に入り、受想行識は、無二の法数に入り、乃至一切智は無二の法数に入ると言う。』と。
『舍利弗』は、
『須菩提』に、こう問うた、――
何のような、
『因縁』の故に、こう言うのか?――
『色』は、
『無二法の数』に、
『入り!』、
『受想行識』は、
『無二法の数』に、
『入り!』、
乃至、
『一切種智』は、
『無二法の数』に、
『入る!』と、と。
  参考:『大般若経巻74』:『時舍利子。問善現言。何緣故說色等入不二無妄法數耶。善現答言。舍利子。色不異無生滅。無生滅不異色。色即是無生滅。無生滅即是色。受想行識不異無生滅。無生滅不異受想行識。受想行識即是無生滅。無生滅即是受想行識。舍利子。由此緣故我作是說。色入不二無妄法數。受想行識入不二無妄法數。舍利子。眼處不異無生滅。無生滅不異眼處。眼處即是無生滅。無生滅即是眼處。耳鼻舌身意處不異無生滅。無生滅不異耳鼻舌身意處。耳鼻舌身意處即是無生滅。無生滅即是耳鼻舌身意處。舍利子。由此緣故我作是說。眼處入不二無妄法數。耳鼻舌身意處入不二無妄法數。』
須菩提答言。色不異無生。無生不異色。色即是無生。無生即是色。受想行識不異無生。無生不異識。識即是無生。無生即是識。 須菩提の答えて言わく、『色は、無生に異ならず、無生は色に異ならず。色は、即ち是れ無生にして、無生は、即ち是れ色なり。受想行識は、無生に異ならず、無生は、識に異ならず。識は、即ち是れ無生にして、無生は、即ち是れ識なり。
『須菩提は答えて!』、こう言った、――
『色』は、
『無生』に、
『異ならず!』、
『無生』は、
『色』に、
『異ならず!』、
『色』とは、
即ち、
『無生であり!』、
『無生』とは、
即ち、
『色だからであり!』、
『受想行識』は、
『無生』に、
『異ならず!』、
『無生』は、
『識』に、
『異ならず!』、
『識』とは、
即ち、
『無生であり!』、
『無生』とは、
即ち、
『識だからである!』。
  無生(むしょう):未生( unborn )、梵語 anutpaada, anutpatti の訳、非生産/発生しない( non-production, not coming into existence )、産生されない/生起されない/非生産物/非創造物/非再生( Not produced or arisen; nonproduction; uncreated; no rebirth )の義。
以是因緣故。舍利弗。色入無二法數。受想行識入無二法數。乃至一切種智亦如是 是の因縁を以っての故に、舎利弗、色は、無二の法数に入り、受想行識は、無二の法数に入り、乃至一切種智も、亦た是の如し。
是の、
『因縁』の故に、
舍利弗!
『色』が、
『無二法の数』に、
『入り!』、
『受想行識』が、
『無二法の数』に、
『入り!』、
乃至、
『一切種智』も、
『是の通りなのだ!』。



【論】色、乃至一切種智の不生、不二

【論】問曰。上品竟。便應問不生。何以此中方問。 問うて曰く、上の品の竟りに、便ち応に不生を問うべし。何を以ってか、此の中に、方に問うべき。
問、
『不生』は、
上の、
『品の終頃』に、
『問うべきなのに!』、
何故、
『此の中に!』、
『問わねばならないのですか?』。
答曰。三種大法易解。利益多眾生故先問。 答えて曰く、三種の大法は、解し易く、多くの衆生を利益するが故に先に問えり。
答え、
『三種の大法(菩薩、般若波羅蜜、観)』は、
『多く!』の、
『衆生を利益する!』が故に、
『先に問うたのである!』。
何因緣故。色不生為非色。乃至一切種智不生。為非一切種智。須菩提答。色是空色中無色相。 何の因縁の故に、色の不生なるを、色に非ずと為し、乃至一切種智の不生なるを、一切種智に非ずと為す。』と問うに、須菩提は、『色は、是れ空なれば、色中に、色の相無し。
何のような、
『因縁』の故に、――
『色が不生なので!』、
『色でない!』と、
『思うのか?』、
乃至、
『一切種智が不生なので!』、
『一切種智でない!』と、
『思うのか?』。
『須菩提』は、こう答えた、――
『色』とは、
即ち、
『空であり!』、
『色』中には、
『色の相』が、
『無いからだ!』、と。
行者以是無生智慧。令色無生。若能得是無生。心作是念。今即得色實相。是故言色無生為非色。 行者は、是の無生の智慧を以って、色をして無生ならしむ。若し、能く是の無生を得れば、心に是の念を作さく、『今、即ち色の実相を得たり。』と。是の故に言わく、『色は無生なれば、色に非ずと為す。』と。
『行者』は、
是の、
『無生という!』、
『智慧を用いて!』、
『色』を、
『無生にする!』ので、
若し、
是の、
『無生という!』、
『智慧』を、
『得ることができれば!』、
『心』に、こう念じるだろう、――
今、即ち、
『色』の、
『実相』を、
『得られたのだ!』、と。
是の故に、こう言うのである、――
『色』は、
『無生なので!』、
『色ではないのだ!』、と。
色性常自無生。非今智慧力故使無生。如有人破色令空猶存本色想。譬如除廁作舍今雖無廁猶有不淨想。若能知廁本無幻化所作則無廁想。 色の性は、常に自ら無生なり、今、智慧の力の故に、無生ならしむるに非ず。有る人、色を破りて、空ならしむるも、猶お存するは、本の色想なるが如し。譬えば、廁を除きて、舎を作るに、今廁無しと雖も、猶お不浄想有るが如し。若し、能く、廁は本より無く、幻化の所作なるを知れば、則ち廁の想無し。
『色の性』は、
常に、
『自ら!』、
『無生であって!』、
今、
『智慧の力』の故に、
『無生にしたのではない!』。
例えば、
有る人は、
『色』を、
『破って!』、
『空にさせた!』のに、
猶お、
『本の色想』が、
『存する!』。
譬えば、
『廁を除いて!』、
『舎』を、
『作れば!』、
『廁が無くなっても!』、
猶お、
『不浄想』が、
『有るだろう!』が、
若し、
『廁』が、
『本より無く!』、
『幻化の所作である!』と、
『知れば!』、
則ち、
『廁の想』も、
『無くなるようなものである!』。
行者如是。若能知色從本已來初自無生者。則不復存色想。是故言色無生為非色。乃至一切種智亦如是。 行者も、是の如く、若し能く、色は本より已来、初より自ら、無生なりと知らば、則ち復た色想を存せず。是の故に言わく、『色は無生なれば、色に非ずと為す。乃至一切種智も、亦た是の如し。』と。
『行者』も、
是のように、
若し、
『色』は、
『本来、初から!』、
『自然に、無生である!』と、
『知れば!』、
則ち、
『色想』が、
『復た存することはないだろう!』。
是の故に、こう言うのである、――
『色』は、
『無生なので!』、
『色ではない!』、
乃至、
『一切種智』も、
『是の通りである!』、と。
問曰。汝先自說無生即是無二。今何以更問。 問うて曰く、汝は、先に自ら説けり、『無生は、即ち是れ無二なり』と。今は、何を以ってか、更に問う。
問い、
お前は、
先に、
自ら、こう説いている、――
『無生ならば!』、
即ち、
『無二である!』、と。
今は、
何故、
更に、
『問うたのですか?』。
答曰。義雖一所入觀門異。上言破因中先有果若無果。是生法一異等是生若初生若後生。破如是等生。名無生。今破眼色有無等諸二故。是名不二。 答えて曰く、義は、一なりと雖も、所入の観門、異なれば、上には、『因中に、先に果有り、若しは果無きの、是の生と、法との一異等を破り、是の生の、若しは初の生、若しは後の生の、是の如き等の生を破るを、無生と名づく。』と言い、今は、眼、色の有無等の諸の二を破るが故に、是れを不二と名づくるなり。
答え、
『義は一である!』が、
『入る!』所の、
『観門』が、
『異なる!』ので、
上には、こう言い、――
『因』中に、
先に、
『果は有るのか?』、
『果は無いのか?』とか、
是の、
『生と、法と!』は、
『一なのか?』、
『異なのか?』等、
是の、
『生と、法と!』は、
『初が、生なのか?』、
『後が、生なのか?』、
是れ等のような、
『生を破れば!』、
『無生』と、
『呼ばれる!』、と。
今、
『眼や、色は!』、
『有なのか、無なのか?』等の、
諸の、
『二』を、
『破った!』が故に、
是れを、
『不二』と、
『称するのである!』。
行者或先入無生觀門。後入不二。或先入不二。後入無生。觀義雖一行者分別。破色二故言不二。破色生故言無生。 行者は、或いは先に無生観の門に入りて、後に不二に入る。或いは先に不二に入りて、後に無生に入る。観の義は、一なりと雖も、行者は分別して、色の二を破るが故に、『不二』と言い、色の生を破るが故に、『無生』と言う。
『行者』は、
或は、
先に、
『無生観の門』に、
『入り!』、
後に、
『不二観の門』に、
『入り!』、
或は、
先に、
『不二観』に、
『入り!』、
後に、
『無生観』に、
『入る!』ので、
『観の義』は、
『一である!』が、
『行者が分別して!』、
『色の二を破る!』が故に、
『不二観』と、
『言い!』、
『色の生を破る!』が故に、
『無生観』と、
『言うのである!』。
上說無生因緣。謂自相空。今說不二因緣。所謂不合不散一相。所謂無相等。義雖同一空。上自相空此是散空。 上に無生の因縁を説く、謂わゆる自相の空なり。今は不二の因縁を説く、謂わゆる不合、不散の一相、謂わゆる無相等なり。義は同一の空なりと雖も、上には、自相の空にして、此れは是れ散空なり。
上に、
『無生』の、
『因縁を説いて!』、こう言ったので、――
『自相』が、
『空だからである!』、と。
今は、
『不二』の、
『因縁を説いて!』、こう言うのであるが、――
『合することもなく!』、
『散じることもなく!』、
『一相であり!』、
謂わゆる、
『無相である!』等と。
此の、
『二の義』は、
『空であり!』、
『同一である!』が、
上の、
『空』は、
『自相空であり!』、
此の、
『空』は、
『散空である!』。
色入無二法數者。行者觀色不生不滅相。是時分別色。今變為無生。是故說色無生即是不二。 色の、無二法の数に入るとは、行者は、色の不生不滅の相を観ずるに、是の時、色を分別するも、今は変じて、無生と為る。是の故に説かく、『色と無生は、即ち是れ不二なり。』と。
『色』が、
『無二法の数』に、
『入る!』とは、――
『行者』は、
『色』は、
『不生、不滅の相である!』と、
『観る!』が、
是の時、
『分別した!』、
『色』が、
今、
『無生に!』、
『変じたので!』、
是の故に、こう説くのである、――
『色』が、
『無生ならば!』、
是の、
『色』は、
『不二である!』、と。
何以故。色破散即是無生。如先分別諸法時。離色不得更有生。今色破散即是無生。不得更有無生。以是故色即是入無二法數。 何を以っての故に、色の破散は、即ち是れ無生なればなり。先に諸法を分別せし時に、色を離れて、更に生有るを得ざるが如く、今は、色破散すれば、即ち是れ無生も、更に無生有るを得ず。是を以っての故に、色は、即ち是れ無二法の数に入るなり。
何故ならば、
『色』が、
『破散すれば!』、
是の、
『色』は、
『無生だからである!』。
先の、
『諸法を分別していた!』時、
『色を離れたので!』で、
更に、
『生』は、
『有ることができなくなったように!』、
今、
『色が破散した!』ので、
是の、
『色』は、
『無生となり!』、
更に、
『無生が有ることもできない!』ので、
是の故に、
『色』は、
是の、
『無二法(有生、無生の二法無し)の数』に、
『入るのである!』。
是二阿羅漢。於佛前共論竟。須菩提白佛而更說是義。欲使佛證知故 是の二阿羅漢の、仏の前に於いて、共に論じ竟るに、須菩提の仏に白して、更に、是の義を説けるは、仏をして証知せしめんと欲するが故なり。
是の、
『二阿羅漢(舍利弗、須菩提)』が、
『仏前』に於いて、
『共に!』、
『論じ竟る!』と、
『須菩提』は、
『仏に白して!』、
更に、
是の、
『義を説いた!』のは、
『仏に!』、
『証知させたい!』と、
『思ったからである!』。



【經】一切法の無生、無所得、畢竟清浄

【經】爾時須菩提白佛言。世尊。若菩薩摩訶薩。行般若波羅蜜。如是觀諸法。是時見色無生畢竟淨故。見受想行識無生畢竟淨故。 爾の時、須菩提の仏に白して言さく、『世尊、若し菩薩摩訶薩が、般若波羅蜜を行ぜば、是の如く諸の法を観ん。是の時に、色の無生を見るは、畢竟じて浄なるが故なり。受想行識の無生を見るは、畢竟じて浄なるが故なり。
爾の時、
『須菩提』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
若し、
『菩薩摩訶薩』が、
『般若波羅蜜を行えば!』、
是のように、
諸の、
『法』を、
『観るでしょう!』。
是の時、
『色』に、
『無生』を、
『見る!』のは、
是れが、
『畢竟じて!』
『浄だからであり!』、
『受想行識』に、
『無生』を、
『見る!』のは、
是れが、
『畢竟じて!』、
『浄だからです!』。
  参考:『大般若経巻74』:『爾時具壽善現白佛言。世尊。諸菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多觀諸法時。見我無生畢竟淨故。見有情命者生者養者士夫補特伽羅意生儒童作者受者知者見者無生畢竟淨故。世尊。諸菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多觀諸法時。見色無生畢竟淨故。見受想行識無生畢竟淨故。世尊。諸菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多觀諸法時。見眼處無生畢竟淨故。見耳鼻舌身意處無生畢竟淨故。世尊。諸菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多觀諸法時。見色處無生畢竟淨故。見聲香味觸法處無生畢竟淨故。世尊。諸菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多觀諸法時。見眼界無生畢竟淨故。見色界眼識界及眼觸眼觸為緣所生諸受無生畢竟淨故。世尊。諸菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多觀諸法時。見耳界無生畢竟淨故。見聲界耳識界及耳觸耳觸為緣所生諸受無生畢竟淨故。』
  :色に無生を見る:色と呼ばれる名字は、畢竟じて清浄であり、空であるが故に無生である。
見我無生乃至知者見者無生畢竟淨故。 我の無生、乃至知者、見者の無生を見るは、畢竟じて浄なるが故なり。
『我、乃至知者、見者』に、
『無生』を、
『見る!』のは、
是れが、
『畢竟じて!』、
『浄だからです!』。
見檀波羅蜜無生。乃至般若波羅蜜無生畢竟淨故。 檀波羅蜜の無生、乃至般若波羅蜜の無生を見るは、畢竟じて浄なるが故なり。
『檀波羅蜜、乃至般若波羅蜜』に、
『無生』を、
『見る!』のは、
是れが、
『畢竟じて!』、
『浄だからです!』。
見內空無生。乃至無法有法空無生畢竟淨故。 内空の無生、乃至無法有法空の無生を見るは、畢竟じて浄なるが故なり。
『内空、乃至無法有法空』に、
『無生』を、
『見る!』のは、
是れが、
『畢竟じて!』、
『浄だからです!』。
見四念處無生。乃至十八不共法無生畢竟淨故。 四念処の無生、乃至十八不共法の無生を見るは、畢竟じて浄なるが故なり。
『四念処、乃至十八不共法』に、
『無生』を、
『見る!』のは、
是れが、
『畢竟じて!』、
『浄だからです!』。
見一切三昧一切陀羅尼無生畢竟淨故。乃至見一切種智無生畢竟淨故。 一切の三昧、一切の陀羅尼の無生を見るは、畢竟じて浄なるが故なり。乃至一切種智の無生を見るは、畢竟じて浄なるが故なり。
『一切の三昧、一切の陀羅尼』に、
『無生』を、
『見る!』のは、
是れが、
『畢竟じて!』、
『浄だからであり!』、
乃至、
『一切種智』に、
『無生』を、
『見る!』のは、
是れが、
『畢竟じて!』、
『浄だからです!』。
見凡夫凡夫法無生畢竟淨故。 凡夫と凡夫の法の無生を見るは、畢竟じて浄なるが故なり。
『凡夫や、凡夫の法』に、
『無生』を、
『見る!』のは、
是れが、
『畢竟じて!』、
『浄だからです!』。
見須陀洹須陀洹法。斯陀含斯陀含法。阿那含阿那含法。阿羅漢阿羅漢法。辟支佛辟支佛法。菩薩菩薩法。佛佛法無生畢竟淨故。 須陀洹と須陀洹の法、斯陀含と斯陀含の法、阿那含と阿那含の法、阿羅漢と阿羅漢の法、辟支仏と辟支仏の法、菩薩と菩薩の法、仏と仏の法の無生を見るは、畢竟じて浄なるが故なり。
『須陀洹や、須陀洹の法』、
『斯陀含や、斯陀含の法』、
『阿那含や、阿那含の法』、
『阿羅漢や、阿羅漢の法』、
『辟支仏や、辟支仏の法』、
『菩薩や、菩薩の法』、
『仏や、仏の法』に、
『無生』を、
『見る!』のは、
是れが、
『畢竟じて!』、
『浄だからです!』。
舍利弗語須菩提。如我聞須菩提所說義。色是不生。受想行識是不生。乃至佛佛法是不生。 舎利弗の、須菩提に語らく、『我れ須菩提の説く所の義を聞くが如きは、色は是れ不生なり、受想行識は是れ不生なり、乃至仏と仏の法も不生なりと。
『舍利弗』は、
『須菩提』に、こう語った、――
『須菩提の所説』の、
『義』が、
『わたしの聞いた通りならば!』、――
『色も、受想行識も!』、
『不生であり!』、
乃至、
『仏も、仏の法も!』、
『不生ということである!』。
  参考:『大般若経巻74』:『時舍利子謂善現言。如我解仁者所說義。我有情等無生。色受等無生。乃至如來如來法無生。若如是者六趣受生應無差別。不應預流得預流果。一來得一來果。不還得不還果。阿羅漢得阿羅漢果。不應獨覺得獨覺菩提。不應菩薩摩訶薩得一切相智。亦不應得五種菩提。復次善現。若一切法定無生者。何緣預流為預流果修斷三結道。何緣一來為一來果修薄貪瞋癡道。何緣不還為不還果。修斷五順下分結道。何緣阿羅漢為阿羅漢果修斷五順上分結道。何緣獨覺為獨覺菩提修悟緣起道。何緣菩薩摩訶薩為度無量諸有情故。修多百千難行苦行。備受無邊種種劇苦。何緣如來證得無上正等菩提。何緣諸佛為有情故轉妙法輪。』
若爾者不應得須陀洹須陀洹果斯陀含斯陀含果阿那含阿那含果阿羅漢阿羅漢果辟支佛辟支佛道。不應得菩薩摩訶薩一切種智。亦無六道別異。亦不得菩薩摩訶薩五種菩提。 若し爾らば、応に須陀洹と須陀洹の果、斯陀含と斯陀含の果、阿那含と阿那含の果、阿羅漢と阿羅漢の果、辟支仏と辟支仏の道を得べからず。応に菩薩摩訶薩と一切種智を得べからず。亦た六道の別異も無し。亦た菩薩摩訶薩の五種の菩提を得ず。
若し、
爾うならば、――
『須陀洹も、須陀洹果も!』、
『斯陀含も、斯陀含果も!』、
『阿那含も、阿那含果も!』、
『阿羅漢も、阿羅漢果も!』、
『辟支仏も、辟支仏道も!』、
『認められないことになり!』、
『菩薩摩訶薩も、一切種智も!』、
『認められず!』、
亦た、
『六道という!』、
『別異も!』、
『無いことになり!』、
亦た、
『菩薩摩訶薩』の、
『五種の菩提(後出)』も、
『認められないことになる!』。
須菩提。若一切法不生相。何以故。須陀洹為斷三結故修道。斯陀含為薄婬恚癡故修道。阿那含為斷五下分結故修道。阿羅漢為斷五上分結故修道。辟支佛為辟支佛法故修道。何以故。菩薩摩訶薩作難行。為眾生受種種苦。何以故。佛得阿耨多羅三藐三菩提。何以故。佛轉法輪。 須菩提、若し、一切法が不生の相ならば、何を以っての故にか、須陀洹は、三結を断ぜんが為の故に道を修め、斯陀含は、婬恚癡を薄めんが為に道を修め、阿那含は、五下分結を断ぜんが為の故に道を修め、阿羅漢は、五上分結を断ぜんが為の故に道を修め、辟支仏は辟支仏の法の為の故に道を修むる。何を以っての故にか、菩薩摩訶薩は、難行を作して、衆生の為に、種種の苦を受くる。何を以っての故にか、仏は阿耨多羅三藐三菩提を得たもう。何を以っての故にか、仏は法輪を転じたもう。
須菩提!
若し、
一切の、
『法』が、
『不生の相ならば!』、――
何故、
『須陀洹』が、
『三結を断じる!』為の故に、
『道』を、
『修め!』、
『斯陀含』が、
『婬恚癡を薄れさせる!』為の故に、
『道』を、
『修め!』、
『阿那含』が、
『五下分結を断じる!』為の故に、
『道』を、
『修め!』、
『阿羅漢』が、
『五上分結を断じる!』為の故に、
『道』を、
『修め!』、
『辟支仏』が、
『辟支仏の法』の為の故に、
『道』を、
『修めるのか?』。
何故、
『菩薩摩訶薩』が、
『難行』を、
『作して!』、
『衆生に代って!』、
『種種の苦』を、
『受けるのか?』。
何故、
『仏』が、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得られるのか?』。
何故、
『仏』が、
『法輪』を、
『転じられるのか?』。
  三結(さんけつ):梵語triiNi saMyojanaaniの訳。巴梨語tiiNi saMyojanaani、三種の結の意。結は煩悩の異名にして、即ち見道所断の煩悩に三種の別あるを云う。一に有身見結satkaayadRSTi-saMyojana(巴akkaaya-diTTaani-samyojana)、二に戒禁取結ziilavrataparaamarza-s.(巴siilabbataparaamaasa-s.)、三に疑結vicikitsaa-s.(巴vicikicchaa-s.)なり。「中阿含巻1水喩経」に、「身見戒取疑の三結已に尽き、須陀洹を得て悪法に堕せず」と云い、「大毘婆沙論巻46」に、「三結あり、謂わく有身見結、戒禁取結、疑結なり。問う、此の三結は何を以って自性と為すや。答う、二十一事を以って自性と為す。謂わく有身見結は三界の見苦所断にして三事あり、戒禁取結は三界の見苦道所断にして六事あり、疑結は三界の見苦集滅道所断にして十二事あり。此の二十一事は是れ三結の自性なり」と云える是れなり。此の中、有身見結とは有身に於いて我見を起すを云い、戒禁取結とは戒禁を取りて道と為すを云い、疑結とは理に於いて猶豫するを云う。此の三結には五見及び疑の六煩悩を摂す。之に就き諸義あり、一説は辺見は有身見に依りて転ず、故に有身見に辺見を摂し、見取見は戒禁取見に依りて転ず、故に戒禁取見に見取見を摂し、邪見は疑に依りて転ず、故に疑に邪見を摂す。是の如く相摂するが故に、六煩悩を断ずるを亦三結尽くと名づくとせり。「倶舎論巻21」に説く所の如し。又「法華経玄義巻4」等に依るに、五鈍使の中、貪瞋癡慢の四は皆五見に依りて生ずるが故に、三結尽くる時、総じて見惑八十八使を断ずと名づくるなりと云えり。又「長阿含経巻2」、「中阿含巻18娑鶏帝三族姓子経」、「雑阿含経巻29、33」、「別訳雑阿含経巻8、16」、「増一阿含経巻16」、「大毘婆沙論巻49、54」、「大乗義章巻5末」等に出づ。<(望)
  五下分結(ごげぶんけつ):三界中下の欲界を順益して、有情をして其の界を超えざらしむる五種の煩悩を云う。一に欲貪、二に瞋恚、三に有身見、四に戒禁取見、五に疑なり。『大智度論巻15上注:五下分結』参照。
  五上分結(ごじょうぶんけつ):三界中上二界を順益して、有情をして其の界を超えざらしむる煩悩を云う。一に色貪、二に無色貪、三に掉挙、四に慢、五に無明なり。『大智度論巻15上注:五上分結』参照。
須菩提語舍利弗。我不欲令無生法有所得。 須菩提の、舎利弗に語らく、『我れは、無生の法をして、所得有らしめんとは欲せず。
『須菩提』は、
『舍利弗』に、こう語った、――
わたしは、
『無生の法』に、
『所得』を、
『有らせようとしたのではない!』。
  参考:『大般若経巻74』:『爾時具壽善現答舍利子言。非我於無生法中見有六趣受生差別。非我於無生法中見有能入諦現觀者。非我於無生法中見有預流得預流果。一來得一來果。不還得不還果。阿羅漢得阿羅漢果。非我於無生法中見有獨覺得獨覺菩提。非我於無生法中見有菩薩摩訶薩得一切相智及五種菩提。復次舍利子。非我於無生法中見有預流為預流果修斷三結道。非我於無生法中見有一來為一來果修薄貪瞋癡道。非我於無生法中見有不還為不還果修斷五順下分結道。非我於無生法中見有阿羅漢為阿羅漢果修斷五順上分結道。非我於無生法中見有獨覺為獨覺菩提修悟緣起道。非我於無生法中見有菩薩摩訶薩為度無量諸有情故修多百千難行苦行備受無邊種種劇苦。而諸菩薩摩訶薩亦復不起難行苦行想。所以者何。非住難行苦行想。能為無量無數無邊有情作饒益事。舍利子。然諸菩薩摩訶薩。以無所得而為方便。於一切有情起大悲心。住如父母想。如兄弟想。如妻子想。如己身想。如是乃能為無量無數無邊有情作大饒益。舍利子。諸菩薩摩訶薩應作是心。如我自性。於一切法。以一切種一切處一切時。求不可得。內外諸法亦復如是。都無所有皆不可得。何以故。諸菩薩摩訶薩。若住此想修難行苦行。便能饒益無量無數無邊有情。是故菩薩摩訶薩。於一切法應無執受。舍利子。非我於無生法中見有諸佛證得無上正等菩提轉妙法輪度無量眾。』
  :無生法:無生という性質を有する法の義。色等と呼ばれる一切の法は、亦た各に無生という性質を有するの意。
我亦不欲令無生法中得須陀洹須陀洹果。乃至不欲令無生法中得阿羅漢阿羅漢果辟支佛辟支佛道。 我れは亦た、無生の法中に、須陀洹と須陀洹の果を得しめんとは欲せず、乃至無生の法中に阿羅漢と阿羅漢の果、辟支仏と辟支仏の道を得しめんとは欲せず。
わたしは、
『無生の法』中に、
『須陀洹や!』、
『須陀洹果』を、
『認めさせようとしたのでもない!』、
乃至、
『無生の法』中に、
『阿羅漢や、阿羅漢果』、
『辟支仏や、辟支仏道』を、
『認めさせようとしたのでもない!』。
我亦不欲令無生法中菩薩作難行為眾生受種種苦。 我れは亦た、無生の法中に菩薩をして、難行を作し、衆生の為に種種の苦を受けしめんとは欲せず。
わたしは、
『無生の法』中の、
『菩薩』に、
『難行』を、
『作させて!』、
『衆生』の為に、
『種種の苦』を、
『受けさせようとしたのでもない!』。
菩薩亦不以難行心行道。何以故。舍利弗。生難心苦心。不能利益無量阿僧祇眾生。 菩薩は亦た、難行の心を以ってしては、道を行ぜず。何を以っての故に、舎利弗、難心、苦心を生ずれば、無量阿僧祇の衆生を利益する能わざればなり。
亦た、
『菩薩』も、
『難行の心』で、
『道』を、
『行うのでもない!』。
何故ならば、
舍利弗!
『菩薩』が、
『難心、苦心を生じれば!』、
『無量、阿僧祇の衆生』を、
『利益することができないからである!』。
舍利弗。今菩薩憐愍眾生。於眾生如父母兄弟想。如兒子及己身想。如是能利益無量阿僧祇眾生。是用無所得故。 舎利弗、今、菩薩は、衆生を憐愍し、衆生に於いて、父母、兄弟の如く想い、児子、及び己身の如く想う。是の如きは、無量阿僧祇の衆生を利益す。是れ無所得を用うるが故なり。
舍利弗!
今、
『菩薩』は、
『衆生を憐愍して!』、
『衆生』を、
譬えば、
『父母や、兄弟のように!』、
『想い!』、
譬えば、
『児子や、己身のように!』、
『想い!』、
是のようにして、
『無量、阿僧祇の衆生』を、
『利益することができるのである!』が、
是れは、
『無所得』を、
『用いるからである!』。
所以者何。菩薩摩訶薩應生如是心。如我一切處一切種不可得。內外法亦如是。若生如是想。則無難心苦心。何以故。是菩薩於一切種一切處一切法不受故。 所以は何んとなれば、菩薩摩訶薩は、応に是の如き心を生ずべし、『我の一切処、一切種に得べからざるが如く、内外の法も、亦た是の如し。』と。若し、是の如き想を生ぜば、則ち難心、苦心無けん。何を以っての故に、是の菩薩は、一切種、一切処、一切法に於いて、受けざるが故なり。
何故ならば、
『菩薩摩訶薩』は、
是のような、
『心』を、
『生じなければならない!』、――
例えば、
『我』が、
『一切の処(五衆、十二入、十八界)にも!』、
『一切の種(地、水、火、風、空、識種)にも!』、
『認められないように!』、
『内、外の法』も、
是のように、
『認められない!』。
若し、
是のような、
『想()を生じれば!』、
則ち、
『難心も、苦心も!』、
『無いことになる!』。
何故ならば、
是の、
『菩薩』は、
『一切の種も!』、
『一切の処も!』、
『一切の法も! 」、
『受けない(受容しない)からである!』。
舍利弗。我亦不欲令無生法中佛得阿耨多羅三藐三菩提。亦不欲令無生法中轉法輪。亦不欲令以無生法得道 舎利弗、我れは亦た、無生法中に、仏をして、阿耨多羅三藐三菩提を得たまわしめんと欲せず、亦た無生法中に於いて、法輪を転じたまわしめんと欲せず、亦た無生法を以って、得道させたまわしめんと欲せず。
舍利弗!
わたしは、
亦た、
『無生の法』中の、
『仏』に、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得させたい!』とは、
『思わない!』し、
亦た、
『無生の法』中に、
『法輪』を、
『転じさせたい!』とも、
『思わない!』、と。
亦た、
『無生の法を用いて!』、
『道』を、
『得させたい!』とも、
『思わない!』。



【論】一切法の無生、無所得、畢竟清浄

【論】者言。無生觀有二種。一者柔順忍觀。二者無生忍觀。前說無生是柔順忍觀不畢竟淨。漸習柔順觀。得無生忍則畢竟淨。 論者の言わく、無生の観に、二種有り、一には柔順忍の観、二には無生忍の観なり。前に説く無生は、是れ柔順忍の観にして、畢竟じて浄ならず。漸く柔順の観を習い、無生忍を得れば、則ち畢竟じて浄なり。
『論者』は言う、――
『無生観』には、
『二種有り!』、――
一には、
『柔順忍という!』、
『観であり!』、
二には、
『無生忍という!』、
『観である!』。
前に説いた、
『無生』は、
『柔順忍の観』で、
『畢竟じた!』、
『浄ではない!』が、
徐々に、
『柔順観を習いながら!』、
『無生忍を得る!』と、
『畢竟じて!』、
『浄となる!』。
  柔順忍(にゅうじゅんにん):心柔順にして、能く堪忍して法を得ることを云う。並びに衆生忍、無生法忍と共に三忍と称す。『大智度論巻41下注:三種法忍』参照。
  無生忍(むしょうにん):法を得て、能く無生の理に堪忍するを云う。並びに衆生忍、柔順忍と共に三忍と称す。『大智度論巻41下注:三種法忍』参照。
  三法忍(さんぽうにん):梵語tisraH kSaantayaHの訳。三種の法理を悟解し之を認証するの意。又三忍とも云う。(一)一に音響忍ghoSaanugama-dharma-kSaanti、二に柔順忍anulomikii-dharma-kSaanti、三に無生法忍anutpattika-dharma-kSaantiなり。又随順音響忍、思惟柔順忍、修習無生忍とも名づく。「無量寿経巻上」に、「設し我れ仏を得たらんに、他方国土の諸の菩薩衆、我が名字を聞くも即ち第一第二第三法忍に至ることを得ず、諸仏の法に於いて即ち不退転を得ること能わずんば正覚を取らじ」と云い、又「若し彼の国の人天、此の樹を見る者は三法忍を得ん。一には音響忍、二には柔順忍、三には無生法忍なり」と云い、又「月灯三昧経巻2」に、「是の故に菩薩摩訶薩は、応に善巧して三法忍に知入すべし。謂わく彼の第一忍第二忍第三忍を知るなり。(中略)一を随順音響忍と名づけ、二を思惟随順忍と名づけ、三を修習無生忍と名づく。此の三忍を学すれば菩提を得。若し是の如き三勝忍に於いて、菩薩其れ能く得る者あらば、善逝は彼の菩薩を見る時、即ち無上菩提の記を授けん」と云い、「坐禅三昧経巻下」に、「菩薩は見道に応に三種の忍法を行ずべし、生忍、柔順法忍、無生忍なり」と云える是れなり。浄影の「無量寿経義疏巻下」に経の三法忍を釈し、「慧心、法に安ずる之を名づけて忍と為す。忍は浅深に随って差別して三と為し、次に三名を列ぬ。声を尋ねて悟解し、声は響の如しと知るを音響忍と名づく。三地已還なり。詮を捨てて実に趣くを柔順忍と名づく、四五六地なり。実を証し相を離るるを無生忍と名づく。七地已上なり」と云えり。是れ蓋し「仁王般若経」所説の五忍の中、第二信忍を音響忍に、第三順忍を柔順忍に、第四無生忍を無生法忍に配釈したるものなり。義寂の説亦之に同じ。又玄一の「無量寿経記巻上」には、「第一第二第三法忍と言うは、法位云わく、案ずるに仁王経に五忍あり、謂わく伏忍信忍順忍無生忍寂滅忍なり。伏忍の位は地前に在り。習種、性種、道種なり。信忍の位は初二三地に在り、順忍の位は四五六地に在り、無生忍の位は七八九地なり、寂滅忍の位は第十地及び仏地に在り。今此の中、第一二三と言うは即ち是れ初の三忍なりと」と云えり。是れ五忍の中、第一伏忍を音響忍に、第二信忍を柔順忍に、第三順忍を無生忍に配釈したるものなり。憬興は法位の説を破し、「瑜伽師地論巻49」に勝解行地に下中上の三忍ありと説くに依りて、之を伏忍の三位なりとなせり。彼の「無量寿経連義述文賛巻中」に、「有説は第一第二第三法忍とは、即ち仁王般若の五忍の中、其の次第の如く伏忍信忍順忍なりと。此れ恐らくは然らず、信忍は即ち初二三地、順忍は即ち四五六地なり。如何が但だ彼の仏の名を聞くのみにして此の二忍を得んや。若し名を聞きて漸次に得と云わば、亦応に五忍を獲と説くべきが故なり。今即ち伏忍の三位を名づけて三法と為す。瑜伽に亦勝解行地に下中上の三忍ありと説くが故なり」と云える即ち其の義なり。又「同述文賛巻中」に更に有人の一説を出せり。即ち十信に在りて声を尋ねて悟解するが故に音響忍と云い、三賢に在りて業惑を伏するが故に柔順忍と云い、地上に実を証し相を絶するが故に無生忍と名づくと云える是れなり。良源の「極楽浄土九品往生義」には憬興の説を破し、通教八地已還の菩薩が彼の仏名を聞いて即ち中道を悟る(即ち別接通)を第一忍とし、別教の地前に名を聞いて即ち歓喜地に入るを第二忍とし、円教の住前に聞き已りて即ち初住に入るを第三忍となす。此の三忍は若し仁王の五忍に依りて以って釈せば同じく是れ信忍なり。若し円家の証道同の義に依らば、三位倶に無生法忍なりと云えり。聖冏の「釈浄土二蔵義巻27」には三説を挙ぐ、初説は信忍の中の三品を三法忍と名づけ、即ち初地を音響忍、二地を柔順忍、三地を無生法忍となす。第二説は憬興に同じく伏忍の三品を三法忍と名づけ、「観経定善義」に菩薩徐徐授宝衣、光触体得成三忍と云い、「法事讃巻下」に法侶将衣競来著、証得不退入三賢と云うを対照し、得三忍は即ち地前伏忍位に在ることを知ると云い、第三説は浄影に同じく仁王五忍の中の中間の三忍を三法忍と名づけ、即ち信忍を音響忍、順忍を柔順忍、無生忍を無生法忍と為す。伏忍は第四十七得不退転の願、寂滅忍は第二十二必至補処の願に願じたるが故に、今の第四十八得三法忍の願には唯中間の三忍を挙げたるのみと云い、以って其の説を証成せり。又音響等の名義を釈するにも亦異説あり、玄一の「無量寿経記巻上」には、「音響等と言うは二説あり、一に法位云わく、音響忍とは樹の音響無なるも而も有に似たりと解するが故なり。柔順忍とは六塵無性不生と解す、乖角なきが故に之を名づけて柔と為し、空に違せざるが故に名づけて順と為し、其の理を堪可するが故に名づけて忍と為す。無生忍と言うは諸法不生と解するが故なりと。二に遠云わく、三地已還は声を尋ねて悟解す、声は響の如しと知るを音響忍と名づく。四地已上は詮を捨てて実を取るを柔順忍と名づく。七地已上は実を証し相を離るるを無生忍と名づくと。亦いう可し三皆無生法忍なるも、然も三慧別なるが故に開して三と為す。謂わく聞慧は近く音教に従うが故に名づけて音響と為し、思慧は分に随って心を調するが故に柔順と名づけ、修慧は無生の理を観証す、正しく無生と名づくるなり」と云えり。憬興の説は略ぼ法位に同じ。亦了恵の「無量寿経鈔巻5」に義寂の説を挙げて、「義寂云わく、音響忍とは十忍品に云わく、若し真実の法を聞いて驚かず怖れず畏れず、信解受持し、愛楽順入し、修習安住する是れを第一の随順音響忍と為すと。即ち是れ音響忍なり。随順忍とは即ち彼の文に云わく、此の菩薩は寂静に随順して一切法を観ずるに、平等正念にして諸法に違せず、一切諸法に随順し深入し、清浄の直心をもて諸法を分別し、平等観を修して深入具足する是れを第二順忍と為す。無生法忍とは又彼の文に云わく、此の菩薩は有法の生を見ず、有法の滅を見ず。何を以っての故に若し不生ならば則ち不滅なり、若し不滅ならば則ち無尽なり、若し無尽ならば則ち離垢なり、若し離垢ならば則ち無壊なり、若し無穢ならば則ち不動なり、若し不動ならば則ち寂滅なり。乃至是れを第三無生法忍と為す」と云えり。以って諸家の異同を見るべし。又「大乗法相宗名目巻1之中」、「顕浄土真実教行証文類巻2」、「浄土文類聚鈔」、「観経序分義伝通記巻3」、「同定善義伝通記巻1」、「無量寿経鈔巻4」、「同随聞講録巻上三」、「同甄解巻11」等に出づ。(二)得無生忍に三名あるの意。一に喜忍、二に悟忍、三に信忍なり。「観無量寿経」に、「彼の国土の極妙の楽事を見て心歓喜するが故に、時に応じて即ち無生忍を得ん」と云い、「観経序分義」に之を釈して、「心歓喜故得忍と言うは、此れ阿弥陀仏国の清浄の光明忽ち現前せば何ぞ踊躍に勝えん。茲の喜に因るが故に即ち無生の忍を得ることを明す。亦喜忍と名づけ、亦悟忍と名づけ、亦信忍と名づく。此れ乃ち玄(ハルカ)に談じて得処を標せざることは、夫人等をして心に此の益を悕わしめんと欲すればなり。勇猛専精に心想して見ん時、方に忍を悟るべし。此れ多くは是れ十信の中の忍なり。解行已上の忍には非ず」と云える是れなり。是れ蓋し勇猛専精に観想して浄土の荘厳を見、心に歓喜を生ずるが故に無生忍を得る時、喜悟信の三種の情態あるを説けるものなり。良忠の「観経序分義伝通記巻3」に、「名喜忍等とは、心歓喜するが故に名づけて喜忍と為し、廓然として大悟するが故に悟忍と名づけ、其の位十信なれば信忍と名づく」と云い、又無生忍を十信と判ずるに就き、「夫人は是れ貪瞋具足の凡夫なるが故に初めて無生を得、豈に浅位に非ざらんや。又此の経に凡夫往生を説いて凡夫をして定散二善を行ぜしむ。其の中の定善行成の時の所得の無生が若し解行已上の忍に属せば、甚だ此教の本意に違するが故なり」と云えり。是れ得忍を以って定善の益とし、且つ信忍を十信位の所得の義に解したるなり。然るに証空の「観経序分義観門義鈔巻4」には、「亦名喜忍とは、歓喜踊躍して得るが故に心を標して名を立つるなり。悟忍とは、得益分に廓然大悟得無生忍と説くが故に、悟即無生なれば悟忍の名を立つるなり。信忍とは、仏の悲願を信ずる深信に由りて得るが故に、体に随いて名を立つるなり」と云い、他力観門の意を領解するを無生忍とし、而して此の忍は悲願を信ずる深信に由りて得る所の益なるが故に信忍と名づくとせり。又親鸞の「正信念仏偈」に、「慶喜の一念相応の後、韋提と等しく三忍を獲て、即ち法性の常楽を証す」と云い、「教行信証六要鈔巻5」に、「是れ念仏所被の機を顕わす。故に知んぬ、得る所の無生の益は是れ又念仏の益に在るべし、故に踊躍と云う。此の喜に因ると云い、喜忍を得と云うは、是れ信心歓喜の得益を顕わす。悟忍と言うは仏智を悟るが故なり。信忍と言うは即ち是れ信心成就の相なり。上人当巻に此の文を引かれて、更に観門の益に備えられざるは、是れ念仏得益の辺に依りて引かるる所なり」と云えり。是れ得忍を自力行門の益となさず、他力の信心発起して仏力を被り、歓喜踊躍する時即ち此の三忍を得るが故に、喜悟信の名を立つとなすの意なり。又「顕浄土真実教行証文類巻3」、「浄土文類聚鈔」、「観経序分義他筆鈔巻5」、「同序分義楷定記巻7」等に出づ。<(望)
  三種忍法(さんしゅにんぽう):三種の忍法の意。即ち一には生忍、二には柔順忍、三には無生忍なり。此の中、生忍は又衆生忍とも称し、柔順忍は又柔順法忍とも称し、無生忍は又無生法忍とも称す。「坐禅三昧経巻下」に、「菩薩は見道に応に三種の忍法を行ずべし、生忍、柔順法忍、無生忍なり」とえる是れなり。其の義に関しては、同連文に、「云何が生忍なる、一切の衆生、或いは罵、或いは打、或いは殺、種種の悪事に心動転せず、瞋せず、恚せず、唯之を忍ぶのみならず、而も更に慈悲ありて、此の諸の衆生、諸の好事を求め、願うて一切を得るまで、心をして放捨せしめず。是の時、漸く諸法の実相を解するを得ること、気の熏著するが如くして、譬えば、慈母の其の赤子を乳餔し、養育し、種種の不浄を以って悪と為さず、倍して憐念を加え、楽を得しめんと欲するが如し。行者は是の如く、一切衆生の作す種種の悪、浄不浄の行に、心憎悪せずして、退せず転ぜず。復た次ぎに十方無量の衆生を、我れ一人にして、応当に悉く度して、仏道を得しむべく、心忍じて、退せず悔せず、却かず懈らず、厭わず畏れず、難とせず、是の生忍中に一心に念を繋け、三種に思惟して、外念せしめず、外念の諸縁は之を摂して還らしむ、是れを生忍と名づく。云何が柔順法忍なる、菩薩、既に生忍を得れば功徳無量なり、是の功徳の福報の無常なるを知り、是の時、無常を厭いて、自ら常福を求め、亦た衆生の為に、常住の法を求む。一切の諸法、色無色法、可見不可見法、有対無対法、有漏無漏、有為無為、上中下法は、其の実相を求む。実相とは云何、有常に非ず無常に非ず、楽に非ず不楽に非ず、空に非ず不空に非ず、有神に非ず無神に非ず。何を以っての故に有常に非ざるや、因縁生の故に、先には無、今は有の故に、已に有れば無に還るが故に、是の故に有常に非ず。云何が無常に非ざるや、業報の失せざるが故に、外塵を受くるが故に、因縁増長するが故に無常に非ず。云何が楽に非ざるや、新に苦中に楽想を生ずるが故に、一切は無常の性なるが故に、欲に縁じて生ずるが故に、是の故に楽に非ず。云何が不楽に非ざるや、有受を楽しむが故に、欲染生ずるが故に、楽を求めて身を惜まざるが故に、是れ不楽に非ず。云何が空に非ざるや、内外の入の各各受くること了了なるが故に、罪福の報有るが故に、一切の衆生信ずるが故に、是の故に空に非ず。云何が不空に非ざるや、和合等の実なるが故に、分別して求むるも得べからざるが故に、心力転ずるが故に、是の故に不空に非ず。云何が有神に非ざるや、自在ならざるが故に、第七識界の得べからざるが故に、神の相の得べからざるが故に、是の故に有神に非ず。云何が無神に非ざるや、後世有るが故に、解脱を得るが故に、各各に我心生じて余処を計せざるが故に、是の故に無神に非ず。是の如く不生不滅、不不生不不滅、非有非無、不受不著なれば、言説悉く滅して、心行処断じて、涅槃の性の如し。是れ法の実相なり。此の法中に於いて、信心清浄にして無滞無礙、軟知軟信軟進なる、是れを柔順法忍と謂う。云何が無生法忍なる、上の如き実相の法中に、智慧、信、進増長し、根利なり、是れを無生法忍と名づく。譬えば声聞法中の煖法、頂法の智慧、信、精進増長して、忍法を得るが如し。忍とは、涅槃を忍び、無漏法を忍ぶが故に、名づけて忍と為す」と云えり。蓋し、「大智度論巻5摩訶薩埵釈論」中に云える衆生忍、及び法忍に就き、衆生忍を生忍に配し、法忍を二分して柔順忍、及び無生忍に配せるが如し。<(「坐禅三昧経巻下」)
  :蓋し三種の法忍に関し、二種の別有るが如し。一には「無量寿経巻上」に載する浄土の三忍、二には「坐禅三昧経巻下」に依る娑婆世界、謂わゆる忍土、或いは穢土に於ける三忍なり。此の二種の中に就き、先づ「坐禅三昧経」の三忍ありて、然る後其れに対応するが如くして、「無量寿経」の三忍あり。即ち「坐禅三昧経」に於いては、第一忍を生忍と称し、即ち衆生の作す所の迫害を能く耐え忍ぶが故となす。その結果心に柔軟を得て、一切の法に於いて能く堪え忍ぶが故に柔順法忍と称す。其の結果、行者は此の身心に於いて空を見るに、能く無生の実相に於いて堪え忍ぶが故に無生忍と称す。然れど「無量寿経」に於いては、浄土に在るが故に、忍ずべきの事なし。但だ智慧を得るを以って忍となす。即ち「無量寿経巻上」に、「又無量寿仏の其の道場樹は高四百万里、其の本周囲五千由旬、枝葉四布すること二十万里、一切の衆宝自然に合成し、月光摩尼、持海輪宝、衆宝の王を以って、之を荘厳す。條の間に宝の瓔珞を周匝し、百千万色種種異変し、無量の光炎の照曜すること無極なり。珍妙の宝の網羅其の上を覆い、一切の荘厳、随応して現ず。微風徐に動きて妙法の音を出し、普く十方の一切の仏国に流る。其の音を聞く者は、深き法忍を得、不退転に住して、仏道を成ずるに至るまで、苦患に遭わず。目に其の色を睹、耳に其の音を聞き、鼻に其の香を知り、舌に其の味を嘗め、身に其の光に触るるに、心は法を以って縁じ、一切皆甚深の法忍を得、不退転に住して、仏道を成ずるに至るまで、六根清徹にして、諸の悩患無し。阿難、若し彼の国の人天、此の樹を見る者は、三法忍を得。一には音響忍、二には柔順忍、三には無生法忍なり。此れ皆無量寿仏の威神力の故に、本願力の故に、満足せる願の故に、明了なる願の故に、堅固なる願の故に、究竟の願の故なり」と云い、又「阿弥陀経」に、「復た次ぎに舎利弗、彼の国に常に種種奇妙なる雑色の鳥有り、白鵠孔雀鸚鵡舎利迦陵頻伽共命の鳥なり。是の諸の衆鳥は昼夜六時に和雅の音を出し、其の音は五根五力七菩提分八聖道分是の如き等の法を演暢す。其の土の衆生是の音を聞き已りて、皆悉く仏を念じ法を念じ僧を念ず」と云えるが如く、彼の土の衆生の法を聞くこと、仏を須つべからず、但だ樹木、衆鳥の声を聞きて悟を得るなり。即ち音響忍を以って法を聞き、心柔順なるに及んで、能く無生の理を悟るの意なり。是を以って推して知るべし、「無量寿経」所説の三忍は、但だ「坐禅三昧経」の所説に基づくものにして、「仁王経」所説の五忍、十地、十住、十信等に係るものに非ざるを。
問曰。菩薩未盡結。未得佛道。智慧未淳淨。云何言畢竟清淨。 問うて曰く、菩薩は、未だ結を尽くさず、未だ仏道を得ず、智慧未だ淳浄ならず。云何が、畢竟じて清浄なりと言う。
問い、
『菩薩』は、
未だ、
『結を尽くさず!』、
未だ、
『仏道』を、
『得ていない!』ので、
未だ、
『智慧』が、
『淳浄( pure and clean )でない!』のに、
何故、こう言うのですか?――
『畢竟じて!』、
『清浄である!』、と。
  淳浄(じゅんじょう):純粋と清浄。
答曰。是菩薩得無生忍時。滅諸煩惱得菩薩道入菩薩位。雖有煩惱氣。坐道場時乃盡。無所妨故畢竟淨。 答えて曰く、是の菩薩は、無生忍を得る時、諸の煩悩を滅すればなり。菩薩道を得て、菩薩位に入れば、煩悩の気有りと雖も、道場に坐す時には、乃ち尽き、妨ぐる所無きが故に、畢竟じて浄なり。
答え、
是の、
『菩薩』は、
『無生忍を得た!』時、
諸の、
『煩悩』を、
『滅するからである!』。
『菩薩道を得て!』、
『菩薩位に入る!』と、
未だ、
『煩悩の気が有っても!』、
『道場に坐る!』時には、
『煩悩の気が尽き!』、
『妨げる!』所が、
『無くなる!』ので、
是の故に、
『畢竟じて!』、
『清浄になるのである!』。
復次畢竟清淨者。於柔順道畢竟清淨非為佛道。以眾生空法空故。從見色無生畢竟淨。乃至佛及佛法無生畢竟清淨。 復た次ぎに、畢竟じて清浄なりとは、柔順道に於いて畢竟じて清浄なるも、仏道の為に非ず。衆生空、法空を以っての故に、従いて見るらく、『色は無生にして、畢竟じて浄なり、乃至仏、及び仏法は無生にして、畢竟じて清浄なり。』と。
復た次ぎに、
『畢竟じて清浄である!』とは、
『柔順道』に於いて、
『畢竟じて清浄である!』が、
『仏としての!』、
『道』が、
『清浄であるのではなく!』、
『衆生空や、法空を用いる!』が故に、
『色、乃至仏や、仏法』に、
『無生』を、
『見て!』、
是れが、
『畢竟じて!』、
『清浄になるからである!』。
  :畢竟清浄:色に無生、空を見るが故に垢無ければ、則ち著すべきに非ずの意。
須菩提。種種因緣說諸法相決定無生。因此事舍利弗作是難。賢聖中最小者。須陀洹須陀洹法。最大者佛佛法。若爾者聖人無大無小。聖法亦無優劣。亦無六道別異。此略難。後問斷三結修道者為廣難。 須菩提は、種種の因縁もて、諸法の相は、決定して無生なりと説き、此の事に因りて、舎利弗は、是の難を作さく、『賢聖中の最小なる者は、須陀洹と、須陀洹の法なり。最大なる者は、仏と、仏の法なるも、若し爾らば、聖人に大無く、小無く、聖法にも、亦た優劣無く、亦た六道の別異も無けん。』と。此に略して難じ、後に三結を断じて、道を修むる者を問うて、広く難を為せり。
『須菩提』は、
種種の、
『因縁』の故に、こう説いた、――
諸の、
『法の相』は、
『決定して!』、
『無生である!』、と。
『舍利弗』は、
此の、
『事に因って!』、こう難じた、――
『賢聖』中の、
『最小の者』は、
『須陀洹や!』、
『須陀洹の法であり!』、
『最大の者』は、
『仏や!』、
『仏の法である!』が、
若し、
お前の、
『説く通りならば!』、――
『聖人』には、
『大も、小も!』、
『無く!』、
『聖人の法』にも、
『優や、劣が!』、
『無く!』、
『六道という!』、
『別異も!』、
『無い!』、と。
此れは、
『略して!』、
『須菩提の所説』を、
『難じたのである!』が、
後には、
『三結を断じて!』、
『道を修める者』を、
『問う!』ことで、
『広く!』、
『難じたのである!』。
問曰。云何是五種菩提。 問うて曰く、云何が、是れ五種の菩提なる。
問い、
何故、
是れが、
『五種の菩提なのですか?』。
答曰。一者柔順忍。二者無生忍。及三種菩提。於三菩提中過二而住第三菩提。 答えて曰く、一には柔順忍、二には無生忍、及び三種の菩提なり。三菩提中に於いては、二を過ぎて、第三の菩提に住す。
答え、
一には、
『柔順忍という!』、
『菩提であり!』、
二には、
『無生忍という!』、
『菩提であり!』、
及び、
『三種(菩薩、辟支仏、仏)の菩提である!』が、
此の、
『三菩提』中の、
『第一、第二を過ぎれば!』、
『第三の菩提』に、
『住まることになる!』。
  :阿羅漢は後の三種に入るを得ず。
復有五種菩提。一者名發心菩提。於無量生死中發心為阿耨多羅三藐三菩提故。名為菩提。此因中說果 復た、五種の菩提有り、一には発心の菩提と名づく。無量の生死中に於いて、阿耨多羅三藐三菩提の為に発心するが故に、名づけて菩提と為す。此れ因中に果を説くなり。
復た、
『五種の菩提が有り!』、
一には、
『発心の菩提であり!』、
『無量の生死』中に、
『阿耨多羅三藐三菩提』の為に、
『心』を、
『発す!』が故に、
是れを、
『菩提』と、
『称するのである!』が、
此れは、
『因』中の、
『果を説くものである!』。
二者名伏心菩提。折諸煩惱降伏其心。行諸波羅蜜。 二には、伏心の菩提と名づく。諸の煩悩を折り、其の心を降伏して、諸の波羅蜜を行ずるなり。
二には、
『伏心の菩提である!』、
諸の、
『煩悩を折って!』、
『心を降伏しながら!』、
『諸の波羅蜜』を、
『行う!』。
三者名明菩提。觀三世諸法。本末總相別相分別籌量。得諸法實相畢竟清淨。所謂般若波羅蜜相。 三には、明の菩提と名づく。三世の諸法の本末を観じ、総相、別相を分別籌量して、諸法の実相の畢竟じて清浄なるを得、謂わゆる般若波羅蜜の相なり。
三には、
『明の菩提である!』、
『三世の諸法』の、
『本末』を、
『観察して!』、
『総相と、別相と!』を、
『分別し籌量して!』、
諸の、
『法の実相』は、
『畢竟じて清浄である!』と、
『認識する!』。
謂わゆる、
『般若波羅蜜の相である!』。
四者名出到菩提。於般若波羅蜜中得方便力故。亦不著般若波羅蜜。滅一切煩惱。見一切十方諸佛。得無生法忍。出三界到薩婆若。 四には、出到の菩提と名づく。般若波羅蜜中に於いて、方便力を得るが故に、亦た般若波羅蜜にも著せず、一切の煩悩を滅し、一切の十方の諸仏に見え、無生法忍を得、三界を出でて薩婆若に到るなり。
四には、
『出到の菩提である!』、
『般若波羅蜜』中に、
『方便の力を得て!』、
『般若波羅蜜にも!』、
『著することなく!』、
『一切の煩悩を滅して!』、
『一切の十方の諸仏に!』、
『見(まみ)え!』
『無生法忍を得!』、
『三界を出て!』、
『薩婆若に到る!』。
五者名無上菩提。坐道場斷煩惱習。得阿耨多羅三藐三菩提。如是等五菩提義。餘諸賢聖斷結義如先說。 五には、無上の菩提と名づく。道場に坐し、煩悩の習を断じて、阿耨多羅三藐三菩提を得るなり。是の如き等は五菩提の義なり。余の諸の賢聖の断結の義は、先に説けるが如し。
五には、
『無上の菩提である!』、
『道場に坐して!』、
『煩悩の習を断じ!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得る!』。
是れ等が、
『五菩提の義である!』が、
『余の諸賢聖』の、
『断結の義』は、
『先に!』、
『説いた通りである!』。
問曰。聲聞道廣說斷結義。何以不說辟支佛行。菩薩有種種行。 問うて曰く、声聞道は、広く断結の義を説き、何を以ってか、辟支仏の行と、菩薩に有る種種の行を説かざる。
問い、
『声聞道』の、
『断結の義』は、
『広く!』、
『説きながら!』、
何故、
『辟支仏の行や、菩薩の有する種種の行』を、
『説かないのですか?』。
答曰。辟支佛於聲聞無復異道。但福德利根小深入諸法實相為異。 答えて曰く、辟支仏は、声聞に於いて、復異する道無く、但だ福徳の利根小く、深く諸法の実相に入るを異と為す。
答え、
『辟支仏』には、
『声聞と重なって異なる!』、
『道』は、
『無いが!』、
但だ
『福徳の利根』が、
『僅かに深く!』、
『諸法の実相に入る!』ところが、
『異なる!』。
  (ぶく):<動詞>[本義]還る/返る( return to )、復す/恢復/返還/復興/復元する( restore )、回帰する( return )、回答する( reply )、報復する( retaliate )、履行/実践する( carry out )、復活する( revive )、免除する( remit )。<副詞>又/再び( resume )。<形容詞>重なった/重複/複合した( compound, complex )、二重の( double )、重なった( overlapping )。
  復異(ぶくい):重複異層。
菩薩道雖有種種眾行。但難行苦行為希有事。眾生見已歡喜言。菩薩為我等作此行。餘行雖深妙人所不知。不能感物故不說。 菩薩道は、種種の衆行有りと雖も、但だ難行、苦行を希有の事と為し、衆生は見已りて歓喜して、『菩薩は、我等の為に、此の行を作す。』と言い、余の行は、深妙なりと雖も、人の知らざる所にして、物を感ずる能わざるが故に説かざるのみ。
『菩薩の道』は、
種種の、
『衆行が有る!』が、
但だ、
『難行、苦行』は、
『希有』の、
『事件である!』が故に、
『衆生が見れば!』、
『歓喜して!』、こう言うことになる、――
『菩薩』は、
わたし達の為に、
此の、
『行』を、
『作しているのだ!』、と。
余の、
『行』は、
『深妙である!』が、
『人に知られていない!』ので、
『物(他心)』を、
『感じさせることができず!』、
是の故に、
『説かないのである!』。
  希有(けう):梵語adbhuta、又はaazcaryaの訳。驚異、驚歎、偉業、非凡等の意。
復次如舍利弗難意。若諸法都是無生空寂者。一切眾生皆著樂。菩薩何以故獨受苦行。 復た次ぎに、舎利弗の難意の如く、若し、諸法は、都べて是れ無生、空寂なれば、一切の衆生は、皆、楽に著するに、菩薩は、何を以っての故にか、独り苦行を受くる。
復た次ぎに、
『舍利弗の難意』は、こうである、――
若し、
『諸の法』が、
皆、
『無生であり!』、
『空寂ならば!』、
一切の、
『衆生』が、
皆、
『楽』に、
『著している!』のに、
何故、
『菩薩』、
独りが、
『苦行』を、
『受けるのか?』、と。
復次諸佛常樂遠離寂滅斷法愛。決定知諸法不轉不還。何以故。與眾生轉法輪。 復た次ぎに、諸仏は、常に遠離、寂滅を楽しみ、法愛を断じて、決定して、諸法の不転、不還を知りたもうに、何を以ってか、衆生の与に、法輪を転じたもうや。
復た次ぎに、
諸の、
『仏』は、
常に、
『遠離、寂滅を楽しんで!』、
『法愛』を、
『断じ!』、
決定して、
『諸法』は、
『転じることなく、還ることもない!』と、
『知っていられる!』のに、
何故、
『衆生』の為に、
『法輪』を、
『転じられるのか?』。
須菩提於佛前說無生法。佛不呵折得快心樂說無難力故答。舍利弗我亦都不欲令無生法中有六種聖人。除菩薩故言六。及六道別異。 須菩提が、仏の前に於いて、無生の法を説くも、仏は呵折したまわざれば、快心を得て楽説し、難に力無きが故に舍利弗に答うらく、『我れも、亦た都べて、無生法中に、六種の聖人をして有らしめんと欲せず。』と。菩薩を除くが故に、六と言い、六道の別異に及ぶ。
『須菩提』は、
『仏前』に於いて、
『無生という!』、
『法』を、
『説く!』と、
『仏』は、
其の、
『所説を呵折(訶責)されなかった!』が故に、
『快心に!』、
『楽説することができ!』、
『舍利弗の難』は、
其の、
『力』が、
『無かった!』が故に、
『舍利弗』に、こう答えた、――
わたしも、
皆、
『無生法』中に、
『六種の聖人』を、
『有らせたい!』とは、
『思わない!』、と。
『六種の聖人』とは、
『菩薩を除く!』が故に、
『六』と、
『言い!』、
及び、
『六道を別異する!』が故に、
『六』と、
『言うのである!』。
  呵折(かしゃく):せめなじる。呵責。
何以故。以得無生法證故謂為聖法。聖人有差別。於無生法中都無所有。 何を以っての故に、無生の法の証を得るを以っての故に、謂いて聖法と為せば、聖人に差別有るも、無生の法中に於いては、都べて所有無ければなり。
何故ならば、
『無生法』の、
『証を得させる!』が故に、
『聖法である!』と、
『謂えば!』、
『聖人』には、
『差別』が、
『有っても!』、
『無生法』中には、
皆、
『無所有だからである!』。
復次於無生法中有二種失。麤失者。殺盜等罪。故有三惡道。細失者。用著心布施持戒等福。故有三善道。 復た次ぎに、無生の法中に於いて、二種の失有り。麁なる失とは、殺、盗等の罪の故に、三悪道有ればなり。細なる失とは、著心の布施、持戒等の福を用うるが故に、三善道有ればなり。
復た次ぎに、
『無生法』中には、
『二種の失が有る!』、――
『麁の失』は、
『麁心を用いる!』、
『殺、盗等の罪』の故に、
『三悪道』が、
『有らねばならず!』、
『細の失』は、
『著心を用いる!』、
『布施、持戒等の福』の故に、
『三善道』が、
『有らねばならない!』。
若菩薩生難心苦心。則不能度一切眾生。如世間小事心難以為苦猶尚不成。何況成佛道。 若し、菩薩が難心、苦心を生ぜば、則ち一切の衆生を度すること能わざらん。世間の小事の如きすら、心に難じて、以って苦と為せば、猶尚お、成ぜざらん。何に況んや、仏道を成ずるをや。
若し、
『菩薩』が、
『難心、苦心を生じれば!』、
一切の、
『衆生』を、
『度すことができない!』。
譬えば、
『世間の小事すら!』、
『心が難じて!』、
『苦である!』と、
『思えば!』、
猶尚お、
『成就しない!』。
況して、
『仏道の成就』は、
『尚更である!』。
成因緣者。所謂大慈大悲心。於眾生如父母兒子己身想。何以故。父母兒子己身自然生愛。非推而愛也。 成ずる因縁とは、謂わゆる大慈、大悲心にして、衆生に於いて、父母、児子、己身の如く想うなり。何を以っての故に、父母、児子、己身は、自然に愛を生じ、推して愛するに非ざればなり。
『仏道成就の因縁』とは、――
謂わゆる、
『大慈、大悲の心』で、
『衆生』に於いて、
例えば、
『父母、児子、己身のように!』、
『想うことである!』。
何故ならば、
『父母、児子、己身』は、
『自然に!』、
『愛』を、
『生じるものであり!』、
『推されて!』、
『愛』を、
『生じるのではないからである!』。
菩薩善修大悲心故。於一切眾生乃至怨讎同意愛念。是大悲果報。利益之具都無所惜。於內外所有盡與眾生。 菩薩は、善く大悲心を修むるが故に、一切の衆生の、乃至怨讎に於いて、意を同じうして愛念す。是の大悲の果報なる、利益の具には、都て惜む所無く、内外の所有に於いて、尽くを衆生に与う。
『菩薩』は、
『大悲心』を、
『善く修める!』が故に、
一切の、
『衆生』を、
『怨讎』に、
『至るまで!』、
『意を同じくして!』、
『愛し!』、
『念じるのであり!』、
是の、
『大悲の果報である!』、
『利益の資具』には、
都て、
『惜む!』所が、
『無く!』、
『内、外の所有』を、
尽く、
『衆生』に、
『与えるのである!』。
此中說不惜因緣。所謂一切處一切種一切法不可得故。 此の中に、惜まざる因縁を説けり。謂わゆる一切処、一切種、一切法に得べからざるが故なり。
此の中には、
『惜まない!』、
『因縁』が、
『説かれている!』。
謂わゆる、
一切の、
『処、種、法』は、
『認識できないからである!』。
若行者初入佛法。用眾生空知諸法無我。今用法空知諸法亦空。以此大悲心及諸法空二因緣故。能不惜內外所有利益眾生。不起難行想苦行想。一心精進歡喜。 若し、行者が、初めて仏法に入るに、衆生空を用うれば、諸法の無我を知る。今、法空を用うるに、諸法も、亦た空なりと知る。此の大悲心と、及び諸法の空との二因縁を以っての故に、能く内外の所有を惜まずして、衆生を利益するに、難行想、苦行想を起さず、一心に精進して歓喜するなり。
若し、
『行者』が、
初めて、
『仏法に入れば!』、
『衆生空を用いて!』、
『諸の法』中には、
『我が無い!』ことを、
『知ることになる!』が、
今は、
『法空を用いて!』、
『諸の法』も、
亦た、
『空である!』と、
『知ることになる!』ので、
此の、
『大悲心と、諸法空という!』、
『二因縁を用いる!』が故に、
『内、外の所有』を、
『惜むことなく!』、
『衆生』を、
『利益することができるのであり!』、
『難行想、苦行想』を、
『起すことなく!』、
『一心に精進して!』、
『歓喜するのである!』。
如人為自身及為父母妻子勤身修業不以為苦。若為他作則無歡心 人が、自身の為、及び父母、妻子の為に、勤身修業するも、以って苦と為さざるが如きは、若し他の為に作さば、則ち歓心無けん。
『人』は、
『自身の為か!』、
『父母、妻子の為ならば!』、
『勤身して修業しても!』、
『苦である!』と、
『思わないような!』ことも、
若し、
『他の為に!』、
『作すのであれば!』、
『歓心』が、
『無いのである!』。
苦行難行。如後品本生因緣變化現受畜生形中說。 苦行、難行とは、後の品の本生の因縁に、変化して、畜生の形を現受する中に説くが如し。
『苦行、難行』とは、
『後の品の本生の因縁』に、
『畜生の形』を、
『変化、現受する!』中に、
『説かれている!』。
  参考:『大品般若経巻26』:『須菩提白佛言。世尊是菩薩摩訶薩為畢定為不畢定。佛告須菩提。菩薩摩訶薩畢定非不畢定。世尊。何處畢定。為聲聞道中。為辟支佛道中。為佛道中。佛言。菩薩摩訶薩非聲聞辟支佛道中畢定。是佛道中畢定。須菩提白佛言。世尊。為初發意菩薩畢定。為最後身菩薩畢定。佛言。初發意菩薩亦畢定。阿惟越致菩薩亦畢定。後身菩薩亦畢定。世尊。畢定菩薩墮惡道中生不。不也須菩提。於汝意云何。若八人若須陀洹斯陀含阿那含阿羅漢辟支佛生惡道中不。不也世尊。如是須菩提。菩薩摩訶薩從初發意已來布施持戒忍辱精進行禪定修智慧斷一切不善業。若墮惡道若生長壽天。若不得修善法處。若生邊國若生惡邪見家無作見家。是中無佛名無法名無僧名無有是處。須菩提。初發意菩薩於阿耨多羅三藐三菩提。以深心行十不善道無有是處。世尊。若菩薩摩訶薩有如是善根功德成就。如佛自說本生受不善果報。是時善根為何所在。佛告須菩提。菩薩摩訶薩為利益眾生故隨而受身。以是身利益眾生。須菩提。菩薩摩訶薩作畜生時有是方便力。若怨賊欲來殺害。以是無上忍辱無上慈悲心。捨身不惱惡賊。汝諸聲聞辟支佛無有是力。以是故。須菩提。當知菩薩摩訶薩欲具足大慈心。為憐愍利益眾生故受畜生身。須菩提白佛言。世尊。菩薩摩訶薩住何等善根中受如是諸身。佛告須菩提。菩薩摩訶薩從初發意乃至道場。於其中間無有善根不具足者。具足已當得阿耨多羅三藐三菩提。以是故。菩薩摩訶薩從初發意。應當學具足一切善根。學善根已當得一切種智。當斷一切煩惱習。須菩提白佛言世尊。云何菩薩摩訶薩成就如是白淨無漏法。而生惡道畜生中。佛告須菩提。於汝意云何。佛成就白淨無漏法不。須菩提言。佛一切白淨無漏法成就。須菩提。若佛自化作畜生身。作佛事度眾生實是畜生不。須菩提言不也。佛言。菩薩摩訶薩亦如是。成就白淨無漏法。為度眾生故受畜生身。用是身教化眾生。佛告須菩提。如阿羅漢作變化身。能使眾生歡喜不。須菩提言能。佛言。如是如是。須菩提。菩薩摩訶薩用是白淨無漏法。隨應度眾生而受身。以是身利益眾生亦不受苦。須菩提。於汝意云何。幻師幻作種種形若象馬牛羊男女。如是等以示眾生。須菩提。是象馬牛羊男女等有實不。須菩提言。不也世尊。佛言。如是須菩提。菩薩摩訶薩白淨無漏法成就。現作種種身以示眾生故。以是身饒益一切亦不受苦。須菩提白佛言。世尊。菩薩摩訶薩大方便力。得聖無漏智慧而隨所應度眾生身。而作種種形以度眾生。世尊。菩薩摩訶薩住何等白淨法。能作如是方便而不受染污。佛言。菩薩用般若波羅蜜作如是方便力。於十方如恒河沙等國土中。饒益眾生亦不貪著是身。何以故。著者著法著處。是三法皆不可得自性空故。空不著空空中無著者亦無著處。何以故。空中空相不可得。須菩提。是名不可得空。菩薩住是中能得阿耨多羅三藐三菩提。世尊。菩薩但住般若波羅蜜中得阿耨多羅三藐三菩提。不住餘法中耶。須菩提。頗有法不入般若波羅蜜者不。世尊。若般若波羅蜜自性空。云何一切法皆入般若波羅蜜中。世尊。空中無有法若入若不入。須菩提。一切法一切法相空不。世尊空。須菩提。若一切法一切法相空。云何言一切法不入空中。須菩提白佛言。世尊。云何菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。住一切法空中能起神通波羅蜜。住是神通波羅蜜中。到十方如恒河沙等國土。供養現在諸佛聞諸佛說法。於諸佛所種善根。佛告須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。觀是十方如恒河沙等國土皆空。是國土中諸佛性亦空。但假名字故諸佛現身。所假名字亦空。若十方國土及諸佛性不空者空為有偏。以空不偏故一切法一切法相空。以是故。一切法一切法相空。是故菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。用方便力生神通波羅蜜。住是神通波羅蜜中。起天眼天耳如意足知他心宿命智知眾生生死。若菩薩遠離神通波羅蜜不能得饒益眾生。亦不能得阿耨多羅三藐三菩提。是菩薩摩訶薩神通波羅蜜。是阿耨多羅三藐三菩提利益道。何以故。用是天眼自見諸善法。亦教他人令得諸善法。於善法亦不著。諸善法自性空故。空無所著若著則受味。是空中無有味。是菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時能生如是天眼。用是眼觀一切法空。見是法空不取相不作業。亦為人說是法。亦不得眾生相不得眾生名。如是菩薩摩訶薩用無所得法故。起神通波羅蜜。用是神通波羅蜜。神通所應作者能作。是菩薩用天眼過於人眼見十方國土。見已飛到十方饒益眾生。或以布施或以持戒或以忍辱或以精進或以禪定或以智慧饒益眾生。或以三十七助道法。或以諸禪解脫三昧。或以聲聞法或以辟支佛法或以菩薩法或以佛法饒益眾生。為慳者如是說法。諸眾生當行布施。貧窮是苦惱法。貧窮之人自不能益何能益他。以是故。汝等當勤布施。自身得樂亦能令他得樂。莫以貧窮故共相食噉不得離三惡道。為破戒者說法。諸眾生破戒法大苦惱。破戒之人自不能益何能益他。破戒法受苦果報。若在地獄若在餓鬼若在畜生。汝等墮三惡道中。自不能救何能救人。以是故。汝等不應墮破戒心死時有悔。若有共相瞋諍者如是說法。諸眾生莫共相瞋。瞋亂人心不順善法。汝等今共相瞋亂心。或墮地獄若餓鬼畜生中。以是故。汝等不應生一念瞋恚心何況多。為懈怠眾生說法令得精進。散亂眾生令得禪定。愚癡眾生令得智慧亦如是。行婬欲者令觀不淨。瞋恚令觀慈心。愚癡眾生令觀十二因緣。行非道眾生令入正道。所謂聲聞道辟支佛道佛道。為是眾生如是說法。如汝等所著是法性空。性空法中不可得著。不著相是空相。如是須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。住神通波羅蜜中。為眾生作利益。須菩提。菩薩若遠離神通。不能隨眾生意善說法。以是故。須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時應起神通。須菩提。譬如鳥無翅不能高翔。菩薩無神通不能隨意教化眾生。以是故。須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜應起諸神通。起諸神通已若欲饒益眾生隨意能益。是菩薩用天眼見如恒河沙等諸國土。及見是國土中眾生。見已。以神通力往到其所。知眾生心隨其所應而為說法。或說布施或說持戒或說禪定。乃至說涅槃法。是菩薩用天耳聞二種音聲若人若非人。用天耳聞十方諸佛所說法皆能受持。如所聞法為眾生說。或說布施乃至說涅槃。是菩薩淨他心智。用他心智知眾生心。隨其所應而為說法。或說布施乃至或說涅槃。是菩薩宿命智種種本生處憶念。亦自憶亦憶他人。用是宿命智念過去在在處處諸佛名字及弟子眾。有眾生信樂宿命者。為現宿命事而為說法。或說布施乃至或說涅槃。用如意神通力到種種無量諸佛國土。供養諸佛從諸佛種善根還來本國。是菩薩漏盡神通智證。用是漏盡神通智證故。為眾生隨應說法。或說布施乃至或說涅槃。如是須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。應如是起諸神通。菩薩用修是神通故。隨意受身苦樂不染。譬如佛所化人作一切事苦樂不染。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。應如是遊戲神通。能淨佛國土成就眾生。復次須菩提。菩薩摩訶薩不淨佛國土不成就眾生。不能得阿耨多羅三藐三菩提。何以故。因緣不具足故不能得阿耨多羅三藐三菩提。須菩提白佛言。世尊。何等是菩薩摩訶薩因緣具足已。得阿耨多羅三藐三菩提。佛告須菩提。一切善法是菩薩阿耨多羅三藐三菩提因緣。須菩提白佛言。世尊。何等是善法。以是善法故得阿耨多羅三藐三菩提。佛告須菩提。菩薩從初發意已來。檀那波羅蜜是善法因緣。是中無分別是布施者是受者性空故。用是檀那波羅蜜能自利益亦能利益眾生。從生死拔出令得涅槃。是諸善法皆是菩薩摩訶薩阿耨多羅三藐三菩提因緣。行是道過去未來現在諸菩薩摩訶薩得度生死。已度今度當度。尸羅波羅蜜羼提波羅蜜毘梨耶波羅蜜禪那波羅蜜般若波羅蜜。四禪四無量心四無色定四念處乃至八聖道分十八空八解脫九次第定陀羅尼門佛十力四無所畏四無礙智十八不共法。如是等功德。皆是阿耨多羅三藐三菩提道。須菩提是名善法。菩薩摩訶薩具足是善法已當得一切種智。得一切種智已當轉法輪。轉法輪已當度眾生』
一切諸法畢竟空不可思議相故。一切法還而不轉故。不名為轉。但為破虛妄顛倒故。名為轉法輪 一切の諸法は、畢竟空にして、不可思議の相なるが故に、一切の法は還って転ぜざるが故に、名づけて転と為さず、但だ、虚妄の顛倒を破らんが為の故に、名づけて法輪を転ずと為す。
『法輪を転じる!』とは、――
一切の、
『諸の法』は、
『畢竟じて空であり!』、
『不可思議の相である!』が故に、
一切の、
『法』は、
『還るのであり( to return )!』、
『転じることがない!』が故に、
是れが、
『転』と、
『呼ばれることはない!』が、
但だ、
『虚妄の顛倒を破る!』為の故に、
『法輪を転じる!』と、
『称するのである!』。



【經】道を得るのは生法か? 無生法か?

【經】舍利弗語須菩提。今欲令以生法得道以無生法得道。 舎利弗の、須菩提に語らく、『今、生の法を以って、道を得しめんと欲するや、無生の法を以って、道を得せしめんとするや。』と。
『舍利弗』は、
『須菩提』に、こう語った、――
今、
『有生の法を用いて!』、
『道』を、
『得させたいのか?』、
『無生の法を用いて!』、
『道』を、
『得させたいのか?』、
  参考:『大般若経巻74』:『時舍利子問善現言。仁今為欲以生法證生法。為欲以無生法證無生法耶。善現答言。我實不欲以生法證生法。亦實不欲以無生法證無生法。舍利子言。若爾仁今為欲以生法證無生法。為欲以無生法證生法耶。善現答言。我亦不欲以生法證無生法。亦復不欲以無生法證生法。舍利子言。若如是者豈全無得無現觀耶。善現答言。雖有得有現觀而不以此二法證。舍利子。但隨世間言說施設。有得有現觀。非勝義中有得有現觀。但隨世間言說施設。有預流有預流果。有一來有一來果。有不還有不還果。有阿羅漢有阿羅漢果。有獨覺。有獨覺菩提。有菩薩摩訶薩。有無上正等覺。非勝義中有預流乃至無上正等覺。舍利子言。若隨世間言說施設。有得有現觀等非勝義者。六趣差別亦隨世間言說施設。故有非勝義耶。善現答言。如是如是。誠如所說。何以故。舍利子。於勝義中。無業無異熟。無生無滅。無染無淨故』
須菩提語舍利弗。我不欲令以生法得道。 須菩提の、舎利弗に語らく、『我れは、生の法を以って、道を得しめんと欲せず。』と。
『須菩提』は、
『舍利弗』に、こう語った、――
わたしは、
『有生の法を用いて!』、
『道』を、
『得させたくはない!』、と。
舍利弗言。今須菩提。欲令以無生法得道。 舎利弗の言わく、『今は、須菩提、無生の法を以って、道を得しめんと欲するや。』と。
『舍利弗』は、こう言った、――
今、
『須菩提』は、
『無生の法を用いて!』、
『道』を、
『得させたいのか?』、と。
須菩提言。我亦不欲令以無生法得道。 須菩提の言わく、『我れは、亦た無性の法を以ってしても、道を得しめんと欲せず。』と。
『須菩提』は、こう言った、――
わたしは、
亦た、
『無生の法を用いても!』、
『道』を、
『得させたくはない!』、と。
舍利弗言。如須菩提所說無知無得。 舎利弗の言わく、『須菩提の説く所の如きにも、知無く、得無し。』と。
『舍利弗』は、こう言った、――
『須菩提の所説であっても!』、
『知ることも!』、
『得ることも!』、
『無いのか?』。
須菩提言。有知有得不以二法。今以世間名字故有知有得。世間名字故。有須陀洹乃至阿羅漢辟支佛諸佛。第一實義中無知無得。無須陀洹乃至無諸佛。 須菩提の言わく、『知有り、得有るも、二法を以ってせず。今、世間には名字を以っての故に、知有り、得有り。世間には名字の故に、須陀洹、乃至阿羅漢、辟支仏、諸仏有るも、第一実義中には、知無く、得無く、須陀洹無く、乃至諸仏無し。』と。
『須菩提』は、こう言った、――
『知ることや!』、
『得ること!』が、
『有ったとしても!』、
是の、
『二法』を、
『用いることはない!』。
今、
『世間』の、
『名字』の故に、
『須陀洹、乃至阿羅漢、辟支仏、諸仏』が、
『有ったとしても!』、
『第一』の、
『実義』中には、
『知ることも、得ることも!』、
『無く!』、
亦た、
『須陀洹、乃至諸仏も!』、
『無いのである!』。
須菩提。若世間名字故。有知有得。六道別異亦世間名字故有。非以第一實義耶。 『須菩提、若し、世間には名字の故に、知有り、得有らば、六道の別異も、亦た世間に名字の故に有りや、第一実義を以ってするに非ざるや。』と。
須菩提!
若し、
『世間の名字』の故に、
『知ることや、得ること!』が、
『有れば!』、
亦た、
『六道の別異』も、
『世間』の、
『名字』の故に、
『有って!』、
『第一』の、
『実義』の故に、
『有るのではないのか?』、と。
須菩提言。如是如是。舍利弗。如世間名字故有知有得。六道別異亦世間名字故有。非以第一實義。 須菩提の言わく、『是の如し、是の如し。舎利弗、世間の名字の故に、知有り、得有るが如く、六道の別異も、亦た世間の名字の故に有りて、第一実義を以ってするに非ず。
『須菩提』は、こう言った、――
その通りだ!
その通りだ!
舍利弗!
『世間』の、
『名字』の故に、
『知ることや、得ること!』が、
『有るように!』、
『六道の別異』も、
『世間』の、
『名字』の故に、
『有って!』、
『第一』の、
『実義』の故に、
『有るのではない!』。
何以故。舍利弗。第一實義中。無業無報無生無滅無淨無垢。 何を以っての故に、舎利弗、第一実義中には、無業、無報、無生、無滅、無浄、無垢なればなり。
何故ならば、
舍利弗!
『第一の実義』中には、
『業、報、生、滅、浄、垢』が、
『無いからである!』。
舍利弗語須菩提。不生法生生法生。 舎利弗の、須菩提に語らく、『不生の法生ずや、生の法生ずや。』と。
『舍利弗』は、
『須菩提』に、こう語った、――
『不生という!』、
『法』が、
『法』を、
『生じさせるのか?』、
『生という!』、
『法』が、
『法』を、
『生じさせるのか?』。
  参考:『大般若経巻74』:『時舍利子問善現言。仁今為欲令不生法生。為欲令已生法生耶。善現答言。我不欲令不生法生。亦不欲令已生法生。舍利子言。何等是不生法。仁者不欲令彼法生。善現答言。舍利子。色是不生法。我不欲令生。何以故。以自性空故。受想行識是不生法。我不欲令生。何以故。以自性空故。舍利子。眼處是不生法。我不欲令生。何以故。以自性空故。耳鼻舌身意處是不生法。我不欲令生。何以故。以自性空故。舍利子。色處是不生法。我不欲令生。何以故。以自性空故。聲香味觸法處是不生法。我不欲令生。何以故。以自性空故。』
須菩提言。我不欲令不生法生。亦不欲令生法生。 須菩提の言わく、『我れは、不生の法をして、生ぜしめんと欲せず、亦た生の法をして、生ぜしめんとも欲せず。』と。
『須菩提』は、こう言った、――
わたしは、
『不生という!』、
『法』に、
『法』を、
『生じさせたくもない!』し、
『生という!』、
『法』に、
『法』を、
『生じさせたくもない!』、と。
舍利弗言。何等不生法不欲令生。 舎利弗の言わく、『何等の、不生の法をして、生ぜしめんと欲せざるや。』、と。
『舍利弗』は、こう言った、――
何のような、
『不生という!』、
『法』に、
『法』を、
『生じさせたくないのか?』。
須菩提言。色是不生法自性空不欲令生。受想行識不生法自性空不欲令生。乃至阿耨多羅三藐三菩提。不生法自性空不欲令生。 須菩提の言わく、『色は、是れ不生の法にして、自性空なれば、生ぜしめんと欲せず。受想行識は、不生の法にして、自性空なれば、生ぜしめんと欲せず。乃至阿耨多羅三藐三菩提は、不生の法にして、自性空なれば、生ぜしめんと欲せず。』と。
『須菩提』は、こう言った、――
『色という!』、
『不生の法』は、
『自性が空である!』が故に、
『法を生じさせよう!』とは、
『思わない!』。
『受想行識という!』、
『不生の法』は、
『自性が空である!』が故に、
『法を生じさせよう!』とは、
『思わない!』。
『乃至阿耨多羅三藐三菩提という!』、
『不生の法』は、
『自性が空である!』が故に、
『法を生じさせよう!』とは、
『思わない!』、と。
舍利弗語須菩提。生生不生生。 舎利弗の、須菩提に語らく、『生生ずや、不生生ずや。』と。
『舍利弗』は、
『須菩提』に、こう語った、――
『不生という!』、
『法』は、
『生』が、
『生じさせるのか?』、
若しは、
『不生』が、
『生じさせるのか?』。
須菩提言。非生生亦非不生生。 須菩提の言わく、『生の生ずるに非ず、亦た不生の生ずるに非ず。
『須菩提』は、こう言った、――
『生という!』、
『法』が、、
『生じさせるのでもなく!』、
『不生という!』、
『法』が、
『生じさせるのでもない!』。
何以故。舍利弗。生不生是二法不合不散無色無形。無對一相所謂無相。舍利弗。以是因緣故。非生生亦非不生生。 何を以っての故に、舎利弗、生と、不生との、是の二法は合せず、散ぜずして、無色、無形、無対の一相なればなり。謂わゆる無相なり。舎利弗、是の因縁を以っての故に、生の生ずるに非ず、亦た不生の生ずるに非ざるなり。
何故ならば、
舍利弗!
『生と、不生と!』は、
『二法であるが!』、
『合すこともなく!』、
『散じることもなく!』、
『無色、無形、無対の一相であり!』
謂わゆる、
『無相だからである!』。
舍利弗!
是の、
『因縁』の故に、
『生という!』、
『法』が、
『生じさせるのでもなく!』、
『不生という!』、
『法』が、
『生じさせるのでもない!』。
爾時舍利弗語須菩提。須菩提。樂說無生法及無生相。 爾の時、舎利弗の、須菩提に語らく、『須菩提は、無生の法、及び無生の相を楽説すや』と。
爾の時、
『舍利弗』が、
『須菩提』に、こう語った、――
『須菩提』は、
『無生の法や、相を!』、
『楽説したのか?』、と。
須菩提語舍利弗。我樂說無生法。亦樂說無生相。何以故。諸無生法及無生相樂說及語言。是一切法皆不合不散無色無形。無對一相所謂無相。 須菩提の、舎利弗に語らく、『我れは、無生の法を楽説し、無生の相を楽説す。何を以っての故に、諸の無生の法、及び無生の相、楽説、及び語言の、是の一切の法は、皆合せず、散ぜざる無色、無形、無対の一相なればなり。謂わゆる無相なり。』と。
『須菩提』は、
『舍利弗』に、こう語った、――
わたしは、
『無生の法』を、
『楽説し!』、
亦た、
『無生の相』を、
『楽説したのである!』。
何故ならば、
諸の、
『無生の法や!』、
『無生の相や!』、
『楽説や!』、
『語言は!』、
是の、
『一切の法』は、
皆、
『合することも、散じることもなく!』、
『無色、無形、無対の一相であり!』、
謂わゆる、
『無相だからである!』、と。
舍利弗語須菩提。汝樂說不生法。亦樂說不生相。是樂說語言亦不生。 舎利弗の、須菩提に語らく、『汝が、不生の法を楽説し、亦た不生の相を楽説するに、是の楽説、語言も、亦た不生なりや。』と。
『舍利弗』は、
『須菩提』に、こう語った、――
お前は、
『不生の法や、不生の相を!』、
『楽説した!』が、
是の、
『楽説や、語言までも!』、
『不生なのか?』、と。
須菩提言。如是如是。舍利弗。何以故。舍利弗。色不生受想行識不生。眼不生乃至意不生。地種不生乃至識種不生。身行不生口行不生意行不生。檀波羅蜜不生。乃至一切種智不生。 須菩提の言わく、『是の如し、是の如し、舎利弗、何を以っての故にか、舎利弗、色は不生なり、受想行識は不生なり、眼は不生なり、乃至意は不生なり、地種は不生なり、乃至識種は不生なり、身行は不生なり、口行は不生なり、意行は不生なり、檀波羅蜜は不生なり、乃至一切種智は不生なり。
『須菩提』は、こう言った、――
その通りだ!
その通りだ!
舍利弗!
何故ならば、
舍利弗!
『色も、受想行識も、眼、乃至意も!』、
『地種、乃至識種も、身行も、口行も、意行も!』、
『不生であり!』、
『檀波羅蜜、乃至一切種智も!』、
『不生だからである!』。
以是因緣故。舍利弗。我樂說不生法。亦樂說不生相。是樂說語言亦不生 是の因縁を以っての故に、舎利弗、我れは、不生の法を楽説し、亦た不生の相を楽説するに、是の楽説、語言も、亦た不生なり。
是の、
『因縁』の故に、
舍利弗!
わたしは、
『不生の法』を、
『楽説し!』、
亦た、
『不生の相』を、
『楽説するのである!』が、
是の、
『楽説や、語言も!』、
『不生なのである!』。



【論】道を得るのは生法か? 無生法か?

【論】者言。爾時舍利弗。知須菩提樂說無難而問言。若一切法無生相。此無生相云何證。用是生法得證。為用不生法得證。 論者の言わく、爾の時、舎利弗は、須菩提の楽説に難無きを知り、問うて言わく、『若し、一切法が、無生の相なれば、此の無生の相を、云何が証する。是れ生の法を用いて証を得るや、不生の法を用いて証を得ると為すや。
論者は言う、――
爾の時、
『舍利弗』は、
『須菩提の楽説(所説)』に、
『難が無い!』のを、
『知り!』、
『須菩提に問うて!』、こう言った、――
若し、
一切の、
『法』が、
『無生(不生)の相ならば!』、
是の、
『無生の相』を、
何のように、
『証する( aquire/-ment )のか?』。
是の、
『生という!』、
『法を用いて!』、
『証するのか?』、
『不生という!』、
『法を用いて!』、
『証するのか?』、と。
若用生法得證。生法虛誑。汝已種種因緣破。又不可以生法得脫生法。若以無生法得證。無生未有法相。不可以證。云何得證。 若し、生の法を用いて、証を得ば、生の法の、虚誑なること、汝は、已に種種の因縁に破れり。又生の法を以って、生の法を脱するを得べからず。若し、無生の法を以って、証を得ば、無生には未だ法の相有らず、以って証とすべからず。云何が、証を得んや。
若し、
『生という!』、
『法を用いて!』、
『無生の相』を、
『証しようとすれば!』、
お前は、
已に、
『生という!』、
『法』は、
『虚誑である!』と、
種種の、
『因縁で!』、
『破っている!』。
又、
『生法を用いて!』、
『生法』を、
『脱れることもできない!』。
若し、
『無生という!』、
『法を用いて!』、
『無生の相』を、
『証しようとしても!』、
『無生には!』、
未だ、
『法の相が無い!』ので、
『無生の法を用いて!』、
『証することもできない!』。
お前は、
何のようにして、
『無生の相』を、
『証しようとするのか?』。
須菩提。二法皆不受俱有過故。如先說。 須菩提の二法を、皆、受けざるは、倶に過有るが故なり。先に説けるが如し。
『須菩提』が、
『二法』を、
皆、
『受けない!』のは、
先に、説いたように、――
『二法』は、
倶に、
『過が有るからである!』。
舍利弗作是念。佛經說二法攝一切法。若有為若無為。生者有為。無生者無為。今須菩提離此二法。云何當說得道事。 舎利弗の、是の念を作さく、『仏の経には、二法に一切法を摂すと説く。若しは有為、若しは無為にして、生なれば、有為、無生なれば、無為なり。今、須菩提は、此の二法を離るるに、云何が、当に道を得る事を説くべき。』と。
『舍利弗』は、こう念じた、――
『仏の経』には、こう説かれている、――
一切の、
『法』は、
『二法』に、
『摂する( to be include )!』と、
謂わゆる、
『有為か、無為であり!』、
『生』の、
『法』は、
『有為であり!』、
『無生』の、
『法』は、
『無為である!』が、
今、
『須菩提』は、
此の、
『二法』を、
『離れてしまった!』が、
何のように、
『道を得る事』を、
『説こうとしているのか?』、と。
  (しょう):含む/包含する( to contain )、梵語 saMgraha の訳、保持する/含める/[有る群、或は組中に]含まれること/集める/寄せ集める/合同する( To hold, have, include; to be included (within a certain group or set, etc.); collect, gather together, combine )の義。
作是念已。問須菩提。無有得道事耶。須菩提是大阿羅漢。行無諍三昧第一。但為菩薩故說是無生。汝云何當作邪見說無得道者。是故言有知有得。知得者即是得道果之別名。 是の念を作し已りて、須菩提に問わく、『得道の事は、有ること無きや。』と。須菩提は、是れ大阿羅漢なり、無諍三昧を行ずる第一なれど、但だ菩薩の為の故に、是の無生を説く。『汝は、云何が、当に邪見を作して、得道の者無しと説くや。』と。是の故に言わく、『知有り、得有り。知、得とは、即ち是れ道果を得るの別名なり。』と。
『舍利弗』は、
是の、
『念』を、
『作してしまう!』と、
『須菩提』に、こう問うた、――
『道を得るという!』、
『事』は、
『無いのか?』、と。
『須菩提』は、
『大阿羅漢として!』、
『無諍三昧(論議しない行)』を、
『行う!』者の、
『第一であり!』、
但だ、
『菩薩』の為の故に、
是の、
『無生』を、
『説いただけである!』のに、
『舍利弗』が、こう難じた、――
お前は、
何故、
『邪見を作して!』、
『道を得た者など無い!』と、
『説こうとしているのか?』、と。
『須菩提』は、
是の故に、こう言ったのである、――
『法』を、
『知ることも!』、
『有り!』、
『道』を、
『得ることも!』、
『有る!』、と。
『知、得』とは、――
『道果』を、
『得る!』ことの、
『別名である!』。
須菩提恐違前語故。言不以二法故。但為世俗故。說有須陀洹乃至佛。何以故。一切諸法實無我相。今用我分別須陀洹乃至佛。是世俗法。 須菩提は、前語に違うことを恐るるが故に言わく、『二法を以っての故にあらず、但だ世俗の為の故に、須陀洹、乃至仏有りと説く。何を以っての故に、一切の諸法は、実に我相無きも、今、我を用いて、須陀洹、乃至仏を分別す。是れ世俗の法なり。』と。
『須菩提』は、
『前語』に、
『違う!』のを、
『恐れる!』が故に、
こう言った、――
『有生や、無生という!』、
『二法を用いて!』、
『知、得が有る!』と、
『言ったのではない!』、
但だ、
『世俗』の為の故に、
『須陀洹、乃至仏が有る!』と、
『説いたのである!』。
何故ならば、
『一切の諸法』は、
『実に!』、
『無我の相である!』が、
今、
『我を用いて!』、
『須陀洹、乃至仏』を、
『分別した!』のは、
是れは、
『世俗の法』を、
『用いたのである!』。
復次未得法空故。言是善是不善是有為是無為等。第一義中無眾生故。無須陀洹乃至佛。法空故。無須陀洹果乃至佛道。聖人聖法猶尚虛誑無定實。何況凡人六道業及果報。 復た次ぎに、未だ法空を得ざるが故に、『是れ善なり。』、『是れ不善なり。』、『是れ有為なり。』、『是れ無為なり。』等を言うも、第一義中には、衆生無きが故に、須陀洹、乃至仏無く、法空の故に、須陀洹果、乃至仏道無し。聖人、聖法すら、猶尚お虚誑にして、定実無し。何に況んや、凡人の六道の業、及び果報をや。
復た次ぎに、
未だ、
『衆生空を得ただけで!』、
『法空』を、
『得ていない!』が故に、
こう言うのであるが、――
是れは、『善である!』、
是れは、『不善である!』、
是れは、『有為である!』、
是れは、『無為である!』等、と。
『第一義』中には、
『衆生が無い(衆生空)!』が故に、
『須陀洹、乃至仏も!』、
『無く!』、
『法空』の故に、
『須陀洹果、乃至仏道も!』、
『無い!』、
即ち、
『聖人も、聖法も!』、
猶尚お、
『虚誑であり!』、
『定実』が、
『無いのである!』から、
況して、
『凡人』の、
『六道の業や、果報は!』、
『言うまでもない!』。
問曰。須菩提已種種因緣。定說不生法。今舍利弗。何以更問不生法生生法生。 問うて曰く、須菩提は、已に種種の因縁もて、定んで、不生の法を説けり。今、舎利弗は、何を以ってか、更に問わく、『不生の法が生ずや、生の法が生ずや。』と。
問い、
『須菩提』は、
已に、
種種の、
『因縁で!』、
『不生の法』を、
『説いて!』、
『定めた!』のに、
今、
『舍利弗』は、
何故、更に説くのですか?――
『不生の法』が、
『法(梵語 dharma (that which is established) )』を、
『生じさせるのか?』、
『生の法』が、
『法』を、
『生じさせるのか?』、と。
答曰。須菩提上說得道因緣故。舍利弗得須菩提意。雖說不生法破一切法。為因緣故說。而心不著無生法。是故更問。 答えて曰く、須菩提が上に、道を得るの因縁を説くが故に、舎利弗は、須菩提の、『不生の法を説くと雖も、一切の法を破らんが為の因縁の故に説けば、而も心は無生の法に著せず』、なる意を得て、是の故に更に問えり。
答え、
『須菩提』は、
上に、
『道を得る!』、
『因縁』を、
『説いた!』が故に、
『須菩提の意』は、こうである、――
『不生の法を説いたが!』、
『一切の法を破る!』為の、
『因縁』の故に、
『説いたのであり!』、
『心』は、
『無生の法』に、
『著していない!』、と。
『舍利弗』は、
是の、
『意を得た!』が故に、
更に、
『問うた!』。
  参考:『大智度論巻53上』:『菩薩亦不以難行心行道。何以故。舍利弗。生難心苦心。不能利益無量阿僧祇眾生。舍利弗。今菩薩憐愍眾生。於眾生如父母兄弟想。如兒子及己身想。如是能利益無量阿僧祇眾生。是用無所得故。』
又以此法甚深。欲令聽者了了得解。故更問。上問得道行法。今總問一切法云何生。用慧眼知一切法皆不生。今現見諸法生。是故問云何生。 又、此の法は甚深なるを以って、聴者をして、了了に解を得しめんと欲するが故に、更に問えり。上には、得道の行法を問い、今は、総じて、一切法の云何が生ずるを問う。慧眼を用いて、一切法の、皆不生なるを知れども、今現に、諸法の生ずるを見る。是の故に、『云何が生ずる。』と問う。
又、
『舍利弗』は、
此の、
『法は甚だ深い!』が故に、
『聴者をして!』、
『了了に理解させよう!』と、
『思う!』が故に、
更に、
『問うたのである!』。
上には、
『道を得る!』為の、
『行法』を、
『問い!』、
今は、総じて、
『一切の法』は、
『何のように、生じるのか?』を、
『問うた!』、
『慧眼を用いて!』、
『一切の法』が、
『皆、不生である!』のを、
『知った!』が、
今、現に、
『諸法』の、
『生じる!』のを、
『見る!』。
是の故に、
何故、
『生じるのか?』と、
『問うたのである!』。
須菩提答二事皆非。若生生生法已生不應更生。若不生生生法未有故不應生。若謂生時半生半不生是亦不生。若生分則已生竟。若未生分則無生。 須菩提の答うらく、『二事は、皆、非なり。若し生が生ぜば、生の法は、已に生ぜり。応に更に生ずべからず。若し不生が生ぜば、生の法は、未だ有らざるが故に、応に生ずべからず。若し、生時には、半ば生じ、半ば生ぜずと謂わば、是れも亦た生ぜず。若し生の分なれば、則ち已に生じ竟れり。若し未だ生ぜざる分なれば、則ち生無し。』と。
『須菩提』は、こう答えた、――
此の、
『二事』は、
皆、
『正しくない!』。
若し、
『生(梵語 utpatti (producing) )』が、
『生法』を、
『生じさせれば!』、
『生法(梵語 utpatti-dharman (that which is produced) )』は、
『已に、生じている!』ので、
『更に、生じるはずがない!』し、
若し、
『不生(梵語 anutpatti ( non-producing) )』が、
『生法』を、
『生じさせれば!』、
『生法』は、
『未だ、存在しない!』が故に、
『生じさせられるはずがない!』、
若し、
『生じる時』を、こう謂えば、――
『半分は、生じて!』、
『半分は、生じない!』、と。
是れも、
亦た、
『不生である!』。
何故ならば、
若し、
『生の分ならば!』、
已に、
『生じているはずであり!』、
若し、
『不生の分ならば!』、
『生』が、
『無いはずだからである!』。
  参考:『中論巻2観三相品』:『問曰。經說有為法有三相生住滅。萬物以生法生。以住法住。以滅法滅。是故有諸法。答曰不爾。何以故。三相無決定故。是三相為是有為能作有為相。為是無為能作有為相。二俱不然。何以故    若生是有為  則應有三相  若生是無為  何名有為相  若生是有為。應有三相生住滅。是事不然。何以故。共相違故。相違者。生相應生法。住相應住法。滅相應滅法。若法生時。不應有住滅相違法。一時則不然。如明闇不俱。以是故生不應是有為法。住滅相亦應如是。問曰。若生非有為。若是無為有何咎。答曰。若生是無為。云何能為有為法作相。何以故。無為法無性故。因滅有為名無為。是故說不生不滅名無為相。更無自相。是故無法。不能為法作相。如兔角龜毛等不能為法作相。是故生非無為。住滅亦如是。復次    三相若聚散  不能有所相  云何於一處  一時有三相  是生住滅相。若一一能為有為法作相。若和合能與有為法作相。二俱不然。何以故。若謂一一者。於一處中或有有相。或有無相。生時無住滅。住時無生滅。滅時無生住。若和合者。共相違法。云何一時俱。若謂三相更有三相者。是亦不然。何以故    若謂生住滅  更有有為相  是即為無窮  無即非有為  若謂生住滅更有有為相。生更有生有住有滅。如是三相復應更有相。若爾則無窮。若更無相。是三相則不名有為法。亦不能為有為法作相。問曰。汝說三相為無窮。是事不然。生住滅雖是有為。而非無窮。何以故    生生之所生  生於彼本生  本生之所生  還生於生生  法生時通自體七法共生。一法二生三住四滅五生生六住住七滅滅。是七法中。本生除自體。能生六法。生生能生本生。本生能生生生。是故三相雖是有為。而非無窮。答曰    若謂是生生  能生於本生  生生從本生  何能生本生  若是生生能生本生者。是生生則不名從本生生。何以故。是生生從本生生。云何能生本生。復次    若謂是本生  能生於生生  本生從彼生  何能生生生  若謂本生能生生生者。是本生不名從生生生。何以故。是本生從生生生。云何能生生生。生生法應生本生。而今生生不能生本生。生生未有自體。何能生本生。是故本生不能生生生。問曰。是生生生時非先非後。能生本生。但生生生時能生本生。答曰不然。何以故    若生生生時  能生於本生  生生尚未有  何能生本生  若謂生生生時能生本生可爾。而實未有。是故生生生時。不能生本生。復次    若本生生時  能生於生生  本生尚未有  何能生生生  若謂是本生生時能生生生可爾。而實未有。是故本生生時。不能生生生。問曰    如燈能自照  亦能照於彼  生法亦如是  自生亦生彼  如燈入於闇室照了諸物。亦能自照。生亦如是。能生於彼。亦能自生。答曰不然。何以故    燈中自無闇  住處亦無闇  破闇乃名照  無闇則無照  燈體自無闇。明所及處亦無闇。明闇相違故。破闇故名照。無闇則無照。何得言燈自照亦照彼。問曰。是燈非未生有照亦非生已有照。但燈生時。能自照亦照彼。答曰    云何燈生時  而能破於闇  此燈初生時  不能及於闇  燈生時名半生半未生。燈體未成就云何能破闇。又燈不能及闇。如人得賊乃名為破。若謂燈雖不到闇而能破闇者。是亦不然。何以故    燈若未及闇  而能破闇者  燈在於此間  則破一切闇  若燈有力。不到闇而能破者。此處燃燈。應破一切處闇。俱不及故。復次燈不應自照照彼。何以故    若燈能自照  亦能照於彼  闇亦應自闇  亦能闇於彼  若燈與闇相違故。能自照亦照於彼。闇與燈相違故。亦應自蔽蔽彼。若闇與燈相違。不能自蔽蔽彼。燈與闇相違。亦不應自照亦照彼。是故燈喻非也。破生因緣未盡故。今當更說    此生若未生  云何能自生  若生已自生  生已何用生  是生自生時。為生已生。為未生生。若未生生則是無法。無法何能自生。若謂生已生。則為已成。不須復生。如已作不應更作。若已生若未生。是二俱不生故無生。汝先說生如燈能自生亦生彼。是事不然。住滅亦如是。復次    生非生已生  亦非未生生  生時亦不生  去來中已答  生名眾緣和合有生。已生中無作故無生。未生中無作故無生。生時亦不然。離生法生時不可得。離生時生法亦不可得。云何生時生。是事去來中已答。已生法不可生。何以故。生已復生。如是展轉則為無窮。如作已復作。復次若生已更生者。以何生法生。是生相未生。而言生已生者。則自違所說。何以故。生相未生而汝謂生。若未生謂生者。法或可生已而生。或可未生而生。汝先說生已生。是則不定。復次如燒已不應復燒。去已不應復去。如是等因緣故。生已不應生。未生法亦不生。何以故。法若未生。則不應與生緣和合。若不與生緣和合。則無法生。若法未與生緣和合而生者。應無作法而作。無去法而去。無染法而染。無恚法而恚。無癡法而癡。如是則皆破世間法。是故未生法不生。復次若未生法生者。世間未生法皆應生一切凡夫。未生菩提今應生菩提不壞法。阿羅漢無有煩惱。今應生煩惱。兔等無角今皆應生。但是事不然。是故未生法亦不生。問曰。未生法不生者。以未有緣無作無作者無時無方等故不生。若有緣有作有作者有時有方等和合故未生法生。是故若說一切未生法皆不生。是事不爾。答曰。若法有緣有時有方等和合則生者。先有亦不生。先無亦不生。有無亦不生。三種先已破。是故生已不生。未生亦不生。生時亦不生。何以故。已生分不生。未生分亦不生。如先答。復次若離生有生時者。應生時生。但離生無生時。是故生時亦不生。復次若言生時生者。則有二生過。一以生故名生時。二以生時中生。二皆不然。無有二法。云何有二生。是故生時亦不生。復次生法未發則無生時。生時無故生何所依。是故不得言生時生。如是推求。生已無生。未生無生。生時無生。無生故生不成。生不成故住滅亦不成。生住滅不成故有為法不成。是故偈中說去未去去時中已答。問曰。我不定言生已生未生生生時生。但眾緣和合故有生。答曰。汝雖有是說。此則不然。何以故    若謂生時生  是事已不成  云何眾緣合  爾時而得生  生時生已種種因緣破。汝今何以更說眾緣和合故有生。若眾緣具足不具足。皆與生同破。復次    若法眾緣生  即是寂滅性  是故生生時  是二俱寂滅  眾緣所生法。無自性故寂滅。寂滅名為無。此無彼無相。斷言語道滅諸戲論。眾緣名。如因縷有布因蒲有席。若縷自有定相。不應從麻出。若布自有定相。不應從縷出。而實從縷有布。從麻有縷。是故縷亦無定性。布亦無定性。如燃可燃因緣和合成。無有自性。可燃無故燃亦無。燃無故可燃亦無。一切法亦如是。是故從眾緣生法無自性。無自性故空如野馬無實。是故偈中說生與生時二俱寂滅。不應說生時生。汝雖種種因緣欲成生相。皆是戲論非寂滅相。問曰。定有三世別異。未來世法得生。因緣即生。何故言無生。答曰    若有未生法  說言有生者  此法先已有  更復何用生  若未來世中。有未生法而生。是法先已有。何用更生。有法不應更生。問曰。未來雖有。非如現在相。以現在相故說生。答曰。現在相未來中無。若無云何言未來生法生。若有不名未來。應名現在。現在不應更生。二俱無生故不生。復次汝謂生時生亦能生彼。今當更說    若言生時生  是能有所生  何得更有生  而能生是生  若生生時能生彼。是生誰復能生    若謂更有生  生生則無窮  離生生有生  法皆能自生  若生更有生。生則無窮。若是生更無生而自生者。一切法亦皆能自生。而實不爾。復次    有法不應生  無亦不應生  有無亦不生  此義先已說  凡所有生。為有法有生。為無法有生。為有無法有生。是皆不然。是事先已說。離此三事更無有生。是故無生。復次    若諸法滅時  是時不應生  法若不滅者  終無有是事  若法滅相是法不應生。何以故。二相相違故。一是滅相。知法是滅。一是生相。知法是生。二相相違法。一時則不然。是故滅相法不應生。問曰。若滅相法不應生。不滅相法應生。答曰。一切有為法念念滅故。無不滅法離有為。無有決定無為法。無為法但有名字。是故說不滅法終無有是事。問曰。若法無生應有住。答曰    不住法不住  住法亦不住  住時亦不住  無生云何住  不住法不住。無住相故。住法亦不住。何以故。已有住故。因去故有住。若住法先有。不應更住。住時亦不住。離住不住更無住時。是故亦不住。如是一切處求住不可得故。即是無生。若無生云何有住。復次    若諸法滅時  是則不應住  法若不滅者  終無有是事  若法滅相。是法無有住相。何以故。一法中有二相相違故。一是滅相。二是住相。一時一處有住滅相。是事不然。是故不得言滅相法有住。問曰。若法不滅應有住。答曰。無有不滅法。何以故    所有一切法  皆是老死相  終不見有法  離老死有住  一切法生時無常。常隨逐無常有二。名老及死。如是一切法。常有老死故無住時。復次    住不自相住  亦不異相住  如生不自生  亦不異相生  若有住法。為自相住為他相住。二俱不然。若自相住則為是常。一切有為法從眾緣生。若住法自住。則不名有為。住若自相住。法亦應自相住。如眼不能自見。住亦如是。若異相住則。住更有住。是則無窮。復次見異法生異相。不得不因異法而有異相。異相不定故。因異相而住者。是事不然。問曰。若無住應有滅。答曰無。何以故    法已滅不滅  未滅亦不滅  滅時亦不滅  無生何有滅  若法已滅則不滅。以先滅故。未滅亦不滅。離滅相故。滅時亦不滅。離二更無滅時。如是推求。滅法即是無生。無生何有滅。復次    法若有住者  是則不應滅  法若不住者  是亦不應滅  若法定住則無有滅。何以故。由有住相故。若住法滅則有二相。住相滅相。是故不得言住中有滅。如生死不得一時有。若法不住亦無有滅。何以故。離住相故。若離住相則無法。無法云何滅。復次    是法於是時  不於是時滅  是法於異時  不於異時滅  若法有滅相。是法為自相滅。為異相滅。二俱不然。何以故。如乳不於乳時滅。隨有乳時。乳相定住故。非乳時亦不滅。若非乳不得言乳滅。復次    如一切諸法  生相不可得  以無生相故  即亦無滅相  如先推求。一切法生相不可得。爾時即無滅相。破生故無生。無生云何有滅。若汝意猶未已。今當更說破滅因緣    若法是有者  是即無有滅  不應於一法  而有有無相  諸法有時推求滅相不可得。何以故。云何一法中。亦有亦無相。如光影不同處。復次    若法是無者  是即無有滅  譬如第二頭  無故不可斷  法若無者則無滅相。如第二頭第三手無故不可斷。復次    法不自相滅  他相亦不滅  如自相不生  他相亦不生  如先說生相。生不自生。亦不從他生。若以自體生。是則不然。一切物皆從眾緣生。如指端不能自觸。如是生不能自生。從他生亦不然。何以故。生未有故。不應從他生。是生無故無自體。自體無故他亦無。是故從他生亦不然。滅法亦如是。不自相滅不他相滅。復次    生住滅不成  故無有有為  有為法無故  何得有無為  汝先說有生住滅相故有有為。以有有為故有無為。今以理推求。三相不可得。云何得有有為。如先說。無有無相法。有為法無故。何得有無為。無為相名不生不住不滅。止有為相故名無為相。無為自無別相。因是三相有無為相。如火為熱相地為堅相水為冷相。無為則不然。問曰。若是生住滅畢竟無者。云何論中得說名字。答曰    如幻亦如夢  如乾闥婆城  所說生住滅  其相亦如是  生住滅相無有決定。凡人貪著謂有決定。諸賢聖憐愍欲止其顛倒。還以其所著名字為說。語言雖同其心則異。如是說生住滅相。不應有難。如幻化所作。不應責其所由。不應於中有憂喜想。但應眼見而已。如夢中所見不應求實。如乾闥婆城日出時現而無有實。但假為名字不久則滅。生住滅亦如是。凡夫分別為有。智者推求則不可得』
  :生( procucing )と、生法( the productions )との言葉の上での問題である。謂わゆる生は、已に生じた法にも、未だ生ぜざる法にも、今将に生ぜんとする法にも存在せざるが故に、生は無い。何故ならば、生の故に、生法有り、生法の故に生有るが如く、生と生法とは、互に待ちあって存在する法(言葉)だからである。
是故須菩提不用是肉眼見。以不通達故。二法皆不受。但說是生如幻如夢從虛誑法生。應離應不取相。 是の故に、須菩提は、是の肉眼の見を用いず。以って通達せざるが故に、二法を、皆受けずして、但だ、『是の生は、幻の如く、夢の如く、虚誑の法より生ずれば、応に離るべく、応に相を取るべからず。』と説けり。
是の故に、
『須菩提』は、
是の、
『肉眼という!』、
『見』を、
『用いないのである!』。
是の、
『肉眼の見は通達しない!』が故に、
『生、不生という!』、
『二法』を、
『皆、受容せず!』、
但だ、こう説いた、――
是の、
『生という!』、
『法』は、
譬えば、
『幻か、夢のように!』、
『虚誑の法より!』、
『生じたのであり!』、
『離れねばならず!』、
『相』を、
『取るべきでない!』、と。
舍利弗問。何等法二俱不受。須菩提以世諦故。說色乃至一切種智。畢竟不生自然空相。不欲令實中有生。若世諦虛誑可有生。生如幻化。 舎利弗の問わく、『何等の法をか、二倶に受けざる。』と。須菩提は、世諦を以っての故に説かく、『色、乃至一切種智は、畢竟じて不生にして、自然の空相なれば、実中に生有らしめんと欲せず。若し世諦の虚誑なれば生有るべきも、生は幻化の如し。』と。
『舍利弗』は、こう問うた、――
何のような、
『二法』を、
倶に、
『受容しないのか?』、と。
『須菩提』は、
『世諦を用いる!』が故に、こう説いた、――
『色、乃至一切種智』は、
『畢竟じて、不生であり!』、
『自然に( naturally )!』、
『空相である!』が故に、
『実』中に、
『生が有る!』と、
『思ってはならない!』。
若し、
『世諦の虚誑ならば!』、
『生』が、
『有ってもよい!』が、
是の、
『生』は、
『幻、化のようである!』。
此中說不生因緣。所謂不合不散。有人言。生與法異。謂生是常所可生法無常。是故更問。答者以生法不異。若說生法已說生相。生不生如上說。 此の中に、不生の因縁を説く、謂わゆる『合せず、散ぜず』と。有る人の言わく、『生と、法とは異なる。謂わゆる生は、是れ常なるも、生ずべき所の法は、無常なり。』と。是の故に、更に問うに、答うらく、『生、法の異ならざるを以って、若し生の法を説かば、已に生の相を説けり。』と。生、不生は、上に説くが如し。
此の中には、
『不生の因縁』が、こう説かれている、――
謂わゆる、
『合することもなく!』、
『散じることもない!』、と。
有る人は、こう言っている、――
『生( producing )』は、
『法( the products )』と、
『異なる!』。
謂わゆる、
『生』は、
『常である!』が、
『生じさせられる!』、
『法』は、
『無常である!』、と。
是の故に、
更に、
『問う!』と、
『答え!』は、こうであった、――
『生』は、
『法に!』、
『異ならない!』が故に、
若し、
『生という!』、
『法(法相)』を、
『説けば!』、
已に、
『生の相』を、
『説いたことになる!』、と。
『生、不生』は、
上に、
『説いた通りである!』。
舍利弗聞須菩提所說。知須菩提心愛樂無生法故。語須菩提。汝實愛樂說無生法。 舎利弗は、須菩提の説く所を聞いて、須菩提の心より、無生の法を愛楽するを知るが故に、須菩提に語らく、『汝は、実に愛楽して、無生の法を説けり。』と。
『舍利弗』は、
『須菩提の所説を聞いて!』、
『須菩提の心』が、
『無生法を愛楽している!』と、
『知った!』が故に、
『須菩提』に、こう語った、――
お前は、
実に、
『無生法を説く!』のを、
『愛楽しているな!』、と。
須菩提即受其問心亦無愧。何以故。是論議不可破無有過罪。 須菩提は、即ち其の問を受くるも、心は亦た愧無し。何を以っての故に、是の論義は、破るべからざれば、過罪有ること無ければなり。
『須菩提』は、
即ち、
『問』を、
『受容したのである!』が、
亦た、
『心』に、
『恥じることはなかった!』。
何故ならば、
是の、
『論議(須菩提の所説)』は、
『破られることがなく!』、
『過罪』が、
『無いからである!』。
何以知之。須菩提自說無法可合。無法可散。無色無形空一相。所謂無相。空相尚不受何況餘相。 何を以って之を知る、須菩提の自ら説かく、『法の合すべき無く、法の散ずべき無く、無色、無形にして空の一相なり。謂わゆる無相なり。空の相すら、尚お受けず、何に況んや、余の相をや。』と。
何故、こう知るのか?――
『須菩提』は、
自ら、こう説いているからである、――
『合したり、散じたりする!』、
『法』は、
『存在せず!』、
『一切の法』には、
『色も、形も無く!』、
『空という!』、
『一相であり!』、
謂わゆる、
『無相だからである!』、
『空相すら!』、
尚お、
『受容しない!』、
況して、
『余の相』は、
『尚更である!』、と。
舍利弗重讚。汝樂說無生法及語言皆無生。是實清淨若當樂說及語言非無生。但說外物無生者則非清淨。 舎利弗の重ねて讃ずらく、『汝が楽説する無生法及び語言は、皆無生にして、是れ実に清浄なり。若し当に楽説及び語言すべくして、無生に非ず、但だ外物のみ、無生なりと説かば、則ち清浄に非ず。』と。
『舍利弗』は、
『重ねて!』、こう讃じた、――
お前の、
『楽説する!』、
『無生法や、語言』は、
皆、
『無生であり!』、
是れは、
実に、
『清浄である!』、
若し、
『当面する!』、
『楽説や、語言』が、
『無生でなく!』、
但だ、
『外物が無生である!』と、
『説くだけならば!』、
則ち、
『清浄ではない!』、と。
須菩提即復受其讚答舍利弗。非但樂說語言是無生。色乃至一切種智亦無所生 須菩提は、即ち復た其の讃を受けて、舎利弗に答うらく、『但だ、楽説の語言のみ、是れ無生に非ず、色、乃至一切種智も、亦た所生無し。』と。
『須菩提』は、
即ち、
『舍利弗』の、
『讃』を、
『受容して!』、
『舍利弗』に、こう答えた、――
但だ、
『楽説や、語言だけ!』が、
『無生であるのではない!』、
『色、乃至一切種智』にも、
『所生( the products )』が、
『無いのだ!』、と。


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