【論】者言。無生觀有二種。一者柔順忍觀。二者無生忍觀。前說無生是柔順忍觀不畢竟淨。漸習柔順觀。得無生忍則畢竟淨。 |
論者の言わく、無生の観に、二種有り、一には柔順忍の観、二には無生忍の観なり。前に説く無生は、是れ柔順忍の観にして、畢竟じて浄ならず。漸く柔順の観を習い、無生忍を得れば、則ち畢竟じて浄なり。 |
『論者』は言う、――
『無生観』には、
『二種有り!』、――
一には、
『柔順忍という!』、
『観であり!』、
二には、
『無生忍という!』、
『観である!』。
前に説いた、
『無生』は、
『柔順忍の観』で、
『畢竟じた!』、
『浄ではない!』が、
徐々に、
『柔順観を習いながら!』、
『無生忍を得る!』と、
『畢竟じて!』、
『浄となる!』。
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柔順忍(にゅうじゅんにん):心柔順にして、能く堪忍して法を得ることを云う。並びに衆生忍、無生法忍と共に三忍と称す。『大智度論巻41下注:三種法忍』参照。
無生忍(むしょうにん):法を得て、能く無生の理に堪忍するを云う。並びに衆生忍、柔順忍と共に三忍と称す。『大智度論巻41下注:三種法忍』参照。 |
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三法忍(さんぽうにん):梵語tisraH kSaantayaHの訳。三種の法理を悟解し之を認証するの意。又三忍とも云う。(一)一に音響忍ghoSaanugama-dharma-kSaanti、二に柔順忍anulomikii-dharma-kSaanti、三に無生法忍anutpattika-dharma-kSaantiなり。又随順音響忍、思惟柔順忍、修習無生忍とも名づく。「無量寿経巻上」に、「設し我れ仏を得たらんに、他方国土の諸の菩薩衆、我が名字を聞くも即ち第一第二第三法忍に至ることを得ず、諸仏の法に於いて即ち不退転を得ること能わずんば正覚を取らじ」と云い、又「若し彼の国の人天、此の樹を見る者は三法忍を得ん。一には音響忍、二には柔順忍、三には無生法忍なり」と云い、又「月灯三昧経巻2」に、「是の故に菩薩摩訶薩は、応に善巧して三法忍に知入すべし。謂わく彼の第一忍第二忍第三忍を知るなり。(中略)一を随順音響忍と名づけ、二を思惟随順忍と名づけ、三を修習無生忍と名づく。此の三忍を学すれば菩提を得。若し是の如き三勝忍に於いて、菩薩其れ能く得る者あらば、善逝は彼の菩薩を見る時、即ち無上菩提の記を授けん」と云い、「坐禅三昧経巻下」に、「菩薩は見道に応に三種の忍法を行ずべし、生忍、柔順法忍、無生忍なり」と云える是れなり。浄影の「無量寿経義疏巻下」に経の三法忍を釈し、「慧心、法に安ずる之を名づけて忍と為す。忍は浅深に随って差別して三と為し、次に三名を列ぬ。声を尋ねて悟解し、声は響の如しと知るを音響忍と名づく。三地已還なり。詮を捨てて実に趣くを柔順忍と名づく、四五六地なり。実を証し相を離るるを無生忍と名づく。七地已上なり」と云えり。是れ蓋し「仁王般若経」所説の五忍の中、第二信忍を音響忍に、第三順忍を柔順忍に、第四無生忍を無生法忍に配釈したるものなり。義寂の説亦之に同じ。又玄一の「無量寿経記巻上」には、「第一第二第三法忍と言うは、法位云わく、案ずるに仁王経に五忍あり、謂わく伏忍信忍順忍無生忍寂滅忍なり。伏忍の位は地前に在り。習種、性種、道種なり。信忍の位は初二三地に在り、順忍の位は四五六地に在り、無生忍の位は七八九地なり、寂滅忍の位は第十地及び仏地に在り。今此の中、第一二三と言うは即ち是れ初の三忍なりと」と云えり。是れ五忍の中、第一伏忍を音響忍に、第二信忍を柔順忍に、第三順忍を無生忍に配釈したるものなり。憬興は法位の説を破し、「瑜伽師地論巻49」に勝解行地に下中上の三忍ありと説くに依りて、之を伏忍の三位なりとなせり。彼の「無量寿経連義述文賛巻中」に、「有説は第一第二第三法忍とは、即ち仁王般若の五忍の中、其の次第の如く伏忍信忍順忍なりと。此れ恐らくは然らず、信忍は即ち初二三地、順忍は即ち四五六地なり。如何が但だ彼の仏の名を聞くのみにして此の二忍を得んや。若し名を聞きて漸次に得と云わば、亦応に五忍を獲と説くべきが故なり。今即ち伏忍の三位を名づけて三法と為す。瑜伽に亦勝解行地に下中上の三忍ありと説くが故なり」と云える即ち其の義なり。又「同述文賛巻中」に更に有人の一説を出せり。即ち十信に在りて声を尋ねて悟解するが故に音響忍と云い、三賢に在りて業惑を伏するが故に柔順忍と云い、地上に実を証し相を絶するが故に無生忍と名づくと云える是れなり。良源の「極楽浄土九品往生義」には憬興の説を破し、通教八地已還の菩薩が彼の仏名を聞いて即ち中道を悟る(即ち別接通)を第一忍とし、別教の地前に名を聞いて即ち歓喜地に入るを第二忍とし、円教の住前に聞き已りて即ち初住に入るを第三忍となす。此の三忍は若し仁王の五忍に依りて以って釈せば同じく是れ信忍なり。若し円家の証道同の義に依らば、三位倶に無生法忍なりと云えり。聖冏の「釈浄土二蔵義巻27」には三説を挙ぐ、初説は信忍の中の三品を三法忍と名づけ、即ち初地を音響忍、二地を柔順忍、三地を無生法忍となす。第二説は憬興に同じく伏忍の三品を三法忍と名づけ、「観経定善義」に菩薩徐徐授宝衣、光触体得成三忍と云い、「法事讃巻下」に法侶将衣競来著、証得不退入三賢と云うを対照し、得三忍は即ち地前伏忍位に在ることを知ると云い、第三説は浄影に同じく仁王五忍の中の中間の三忍を三法忍と名づけ、即ち信忍を音響忍、順忍を柔順忍、無生忍を無生法忍と為す。伏忍は第四十七得不退転の願、寂滅忍は第二十二必至補処の願に願じたるが故に、今の第四十八得三法忍の願には唯中間の三忍を挙げたるのみと云い、以って其の説を証成せり。又音響等の名義を釈するにも亦異説あり、玄一の「無量寿経記巻上」には、「音響等と言うは二説あり、一に法位云わく、音響忍とは樹の音響無なるも而も有に似たりと解するが故なり。柔順忍とは六塵無性不生と解す、乖角なきが故に之を名づけて柔と為し、空に違せざるが故に名づけて順と為し、其の理を堪可するが故に名づけて忍と為す。無生忍と言うは諸法不生と解するが故なりと。二に遠云わく、三地已還は声を尋ねて悟解す、声は響の如しと知るを音響忍と名づく。四地已上は詮を捨てて実を取るを柔順忍と名づく。七地已上は実を証し相を離るるを無生忍と名づくと。亦いう可し三皆無生法忍なるも、然も三慧別なるが故に開して三と為す。謂わく聞慧は近く音教に従うが故に名づけて音響と為し、思慧は分に随って心を調するが故に柔順と名づけ、修慧は無生の理を観証す、正しく無生と名づくるなり」と云えり。憬興の説は略ぼ法位に同じ。亦了恵の「無量寿経鈔巻5」に義寂の説を挙げて、「義寂云わく、音響忍とは十忍品に云わく、若し真実の法を聞いて驚かず怖れず畏れず、信解受持し、愛楽順入し、修習安住する是れを第一の随順音響忍と為すと。即ち是れ音響忍なり。随順忍とは即ち彼の文に云わく、此の菩薩は寂静に随順して一切法を観ずるに、平等正念にして諸法に違せず、一切諸法に随順し深入し、清浄の直心をもて諸法を分別し、平等観を修して深入具足する是れを第二順忍と為す。無生法忍とは又彼の文に云わく、此の菩薩は有法の生を見ず、有法の滅を見ず。何を以っての故に若し不生ならば則ち不滅なり、若し不滅ならば則ち無尽なり、若し無尽ならば則ち離垢なり、若し離垢ならば則ち無壊なり、若し無穢ならば則ち不動なり、若し不動ならば則ち寂滅なり。乃至是れを第三無生法忍と為す」と云えり。以って諸家の異同を見るべし。又「大乗法相宗名目巻1之中」、「顕浄土真実教行証文類巻2」、「浄土文類聚鈔」、「観経序分義伝通記巻3」、「同定善義伝通記巻1」、「無量寿経鈔巻4」、「同随聞講録巻上三」、「同甄解巻11」等に出づ。(二)得無生忍に三名あるの意。一に喜忍、二に悟忍、三に信忍なり。「観無量寿経」に、「彼の国土の極妙の楽事を見て心歓喜するが故に、時に応じて即ち無生忍を得ん」と云い、「観経序分義」に之を釈して、「心歓喜故得忍と言うは、此れ阿弥陀仏国の清浄の光明忽ち現前せば何ぞ踊躍に勝えん。茲の喜に因るが故に即ち無生の忍を得ることを明す。亦喜忍と名づけ、亦悟忍と名づけ、亦信忍と名づく。此れ乃ち玄(ハルカ)に談じて得処を標せざることは、夫人等をして心に此の益を悕わしめんと欲すればなり。勇猛専精に心想して見ん時、方に忍を悟るべし。此れ多くは是れ十信の中の忍なり。解行已上の忍には非ず」と云える是れなり。是れ蓋し勇猛専精に観想して浄土の荘厳を見、心に歓喜を生ずるが故に無生忍を得る時、喜悟信の三種の情態あるを説けるものなり。良忠の「観経序分義伝通記巻3」に、「名喜忍等とは、心歓喜するが故に名づけて喜忍と為し、廓然として大悟するが故に悟忍と名づけ、其の位十信なれば信忍と名づく」と云い、又無生忍を十信と判ずるに就き、「夫人は是れ貪瞋具足の凡夫なるが故に初めて無生を得、豈に浅位に非ざらんや。又此の経に凡夫往生を説いて凡夫をして定散二善を行ぜしむ。其の中の定善行成の時の所得の無生が若し解行已上の忍に属せば、甚だ此教の本意に違するが故なり」と云えり。是れ得忍を以って定善の益とし、且つ信忍を十信位の所得の義に解したるなり。然るに証空の「観経序分義観門義鈔巻4」には、「亦名喜忍とは、歓喜踊躍して得るが故に心を標して名を立つるなり。悟忍とは、得益分に廓然大悟得無生忍と説くが故に、悟即無生なれば悟忍の名を立つるなり。信忍とは、仏の悲願を信ずる深信に由りて得るが故に、体に随いて名を立つるなり」と云い、他力観門の意を領解するを無生忍とし、而して此の忍は悲願を信ずる深信に由りて得る所の益なるが故に信忍と名づくとせり。又親鸞の「正信念仏偈」に、「慶喜の一念相応の後、韋提と等しく三忍を獲て、即ち法性の常楽を証す」と云い、「教行信証六要鈔巻5」に、「是れ念仏所被の機を顕わす。故に知んぬ、得る所の無生の益は是れ又念仏の益に在るべし、故に踊躍と云う。此の喜に因ると云い、喜忍を得と云うは、是れ信心歓喜の得益を顕わす。悟忍と言うは仏智を悟るが故なり。信忍と言うは即ち是れ信心成就の相なり。上人当巻に此の文を引かれて、更に観門の益に備えられざるは、是れ念仏得益の辺に依りて引かるる所なり」と云えり。是れ得忍を自力行門の益となさず、他力の信心発起して仏力を被り、歓喜踊躍する時即ち此の三忍を得るが故に、喜悟信の名を立つとなすの意なり。又「顕浄土真実教行証文類巻3」、「浄土文類聚鈔」、「観経序分義他筆鈔巻5」、「同序分義楷定記巻7」等に出づ。<(望)
三種忍法(さんしゅにんぽう):三種の忍法の意。即ち一には生忍、二には柔順忍、三には無生忍なり。此の中、生忍は又衆生忍とも称し、柔順忍は又柔順法忍とも称し、無生忍は又無生法忍とも称す。「坐禅三昧経巻下」に、「菩薩は見道に応に三種の忍法を行ずべし、生忍、柔順法忍、無生忍なり」とえる是れなり。其の義に関しては、同連文に、「云何が生忍なる、一切の衆生、或いは罵、或いは打、或いは殺、種種の悪事に心動転せず、瞋せず、恚せず、唯之を忍ぶのみならず、而も更に慈悲ありて、此の諸の衆生、諸の好事を求め、願うて一切を得るまで、心をして放捨せしめず。是の時、漸く諸法の実相を解するを得ること、気の熏著するが如くして、譬えば、慈母の其の赤子を乳餔し、養育し、種種の不浄を以って悪と為さず、倍して憐念を加え、楽を得しめんと欲するが如し。行者は是の如く、一切衆生の作す種種の悪、浄不浄の行に、心憎悪せずして、退せず転ぜず。復た次ぎに十方無量の衆生を、我れ一人にして、応当に悉く度して、仏道を得しむべく、心忍じて、退せず悔せず、却かず懈らず、厭わず畏れず、難とせず、是の生忍中に一心に念を繋け、三種に思惟して、外念せしめず、外念の諸縁は之を摂して還らしむ、是れを生忍と名づく。云何が柔順法忍なる、菩薩、既に生忍を得れば功徳無量なり、是の功徳の福報の無常なるを知り、是の時、無常を厭いて、自ら常福を求め、亦た衆生の為に、常住の法を求む。一切の諸法、色無色法、可見不可見法、有対無対法、有漏無漏、有為無為、上中下法は、其の実相を求む。実相とは云何、有常に非ず無常に非ず、楽に非ず不楽に非ず、空に非ず不空に非ず、有神に非ず無神に非ず。何を以っての故に有常に非ざるや、因縁生の故に、先には無、今は有の故に、已に有れば無に還るが故に、是の故に有常に非ず。云何が無常に非ざるや、業報の失せざるが故に、外塵を受くるが故に、因縁増長するが故に無常に非ず。云何が楽に非ざるや、新に苦中に楽想を生ずるが故に、一切は無常の性なるが故に、欲に縁じて生ずるが故に、是の故に楽に非ず。云何が不楽に非ざるや、有受を楽しむが故に、欲染生ずるが故に、楽を求めて身を惜まざるが故に、是れ不楽に非ず。云何が空に非ざるや、内外の入の各各受くること了了なるが故に、罪福の報有るが故に、一切の衆生信ずるが故に、是の故に空に非ず。云何が不空に非ざるや、和合等の実なるが故に、分別して求むるも得べからざるが故に、心力転ずるが故に、是の故に不空に非ず。云何が有神に非ざるや、自在ならざるが故に、第七識界の得べからざるが故に、神の相の得べからざるが故に、是の故に有神に非ず。云何が無神に非ざるや、後世有るが故に、解脱を得るが故に、各各に我心生じて余処を計せざるが故に、是の故に無神に非ず。是の如く不生不滅、不不生不不滅、非有非無、不受不著なれば、言説悉く滅して、心行処断じて、涅槃の性の如し。是れ法の実相なり。此の法中に於いて、信心清浄にして無滞無礙、軟知軟信軟進なる、是れを柔順法忍と謂う。云何が無生法忍なる、上の如き実相の法中に、智慧、信、進増長し、根利なり、是れを無生法忍と名づく。譬えば声聞法中の煖法、頂法の智慧、信、精進増長して、忍法を得るが如し。忍とは、涅槃を忍び、無漏法を忍ぶが故に、名づけて忍と為す」と云えり。蓋し、「大智度論巻5摩訶薩埵釈論」中に云える衆生忍、及び法忍に就き、衆生忍を生忍に配し、法忍を二分して柔順忍、及び無生忍に配せるが如し。<(「坐禅三昧経巻下」)
註:蓋し三種の法忍に関し、二種の別有るが如し。一には「無量寿経巻上」に載する浄土の三忍、二には「坐禅三昧経巻下」に依る娑婆世界、謂わゆる忍土、或いは穢土に於ける三忍なり。此の二種の中に就き、先づ「坐禅三昧経」の三忍ありて、然る後其れに対応するが如くして、「無量寿経」の三忍あり。即ち「坐禅三昧経」に於いては、第一忍を生忍と称し、即ち衆生の作す所の迫害を能く耐え忍ぶが故となす。その結果心に柔軟を得て、一切の法に於いて能く堪え忍ぶが故に柔順法忍と称す。其の結果、行者は此の身心に於いて空を見るに、能く無生の実相に於いて堪え忍ぶが故に無生忍と称す。然れど「無量寿経」に於いては、浄土に在るが故に、忍ずべきの事なし。但だ智慧を得るを以って忍となす。即ち「無量寿経巻上」に、「又無量寿仏の其の道場樹は高四百万里、其の本周囲五千由旬、枝葉四布すること二十万里、一切の衆宝自然に合成し、月光摩尼、持海輪宝、衆宝の王を以って、之を荘厳す。條の間に宝の瓔珞を周匝し、百千万色種種異変し、無量の光炎の照曜すること無極なり。珍妙の宝の網羅其の上を覆い、一切の荘厳、随応して現ず。微風徐に動きて妙法の音を出し、普く十方の一切の仏国に流る。其の音を聞く者は、深き法忍を得、不退転に住して、仏道を成ずるに至るまで、苦患に遭わず。目に其の色を睹、耳に其の音を聞き、鼻に其の香を知り、舌に其の味を嘗め、身に其の光に触るるに、心は法を以って縁じ、一切皆甚深の法忍を得、不退転に住して、仏道を成ずるに至るまで、六根清徹にして、諸の悩患無し。阿難、若し彼の国の人天、此の樹を見る者は、三法忍を得。一には音響忍、二には柔順忍、三には無生法忍なり。此れ皆無量寿仏の威神力の故に、本願力の故に、満足せる願の故に、明了なる願の故に、堅固なる願の故に、究竟の願の故なり」と云い、又「阿弥陀経」に、「復た次ぎに舎利弗、彼の国に常に種種奇妙なる雑色の鳥有り、白鵠孔雀鸚鵡舎利迦陵頻伽共命の鳥なり。是の諸の衆鳥は昼夜六時に和雅の音を出し、其の音は五根五力七菩提分八聖道分是の如き等の法を演暢す。其の土の衆生是の音を聞き已りて、皆悉く仏を念じ法を念じ僧を念ず」と云えるが如く、彼の土の衆生の法を聞くこと、仏を須つべからず、但だ樹木、衆鳥の声を聞きて悟を得るなり。即ち音響忍を以って法を聞き、心柔順なるに及んで、能く無生の理を悟るの意なり。是を以って推して知るべし、「無量寿経」所説の三忍は、但だ「坐禅三昧経」の所説に基づくものにして、「仁王経」所説の五忍、十地、十住、十信等に係るものに非ざるを。 |
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問曰。菩薩未盡結。未得佛道。智慧未淳淨。云何言畢竟清淨。 |
問うて曰く、菩薩は、未だ結を尽くさず、未だ仏道を得ず、智慧未だ淳浄ならず。云何が、畢竟じて清浄なりと言う。 |
問い、
『菩薩』は、
未だ、
『結を尽くさず!』、
未だ、
『仏道』を、
『得ていない!』ので、
未だ、
『智慧』が、
『淳浄( pure and clean )でない!』のに、
何故、こう言うのですか?――
『畢竟じて!』、
『清浄である!』、と。
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淳浄(じゅんじょう):純粋と清浄。 |
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答曰。是菩薩得無生忍時。滅諸煩惱得菩薩道入菩薩位。雖有煩惱氣。坐道場時乃盡。無所妨故畢竟淨。 |
答えて曰く、是の菩薩は、無生忍を得る時、諸の煩悩を滅すればなり。菩薩道を得て、菩薩位に入れば、煩悩の気有りと雖も、道場に坐す時には、乃ち尽き、妨ぐる所無きが故に、畢竟じて浄なり。 |
答え、
是の、
『菩薩』は、
『無生忍を得た!』時、
『菩薩道を得て!』、
『菩薩位に入る!』と、
未だ、
『煩悩の気が有っても!』、
『道場に坐る!』時には、
『煩悩の気が尽き!』、
『妨げる!』所が、
『無くなる!』ので、
是の故に、
『畢竟じて!』、
『清浄になるのである!』。
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復次畢竟清淨者。於柔順道畢竟清淨非為佛道。以眾生空法空故。從見色無生畢竟淨。乃至佛及佛法無生畢竟清淨。 |
復た次ぎに、畢竟じて清浄なりとは、柔順道に於いて畢竟じて清浄なるも、仏道の為に非ず。衆生空、法空を以っての故に、従いて見るらく、『色は無生にして、畢竟じて浄なり、乃至仏、及び仏法は無生にして、畢竟じて清浄なり。』と。 |
復た次ぎに、
『畢竟じて清浄である!』とは、
『柔順道』に於いて、
『畢竟じて清浄である!』が、
『仏としての!』、
『道』が、
『清浄であるのではなく!』、
『衆生空や、法空を用いる!』が故に、
『色、乃至仏や、仏法』に、
『無生』を、
『見て!』、
是れが、
『畢竟じて!』、
『清浄になるからである!』。
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註:畢竟清浄:色に無生、空を見るが故に垢無ければ、則ち著すべきに非ずの意。 |
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須菩提。種種因緣說諸法相決定無生。因此事舍利弗作是難。賢聖中最小者。須陀洹須陀洹法。最大者佛佛法。若爾者聖人無大無小。聖法亦無優劣。亦無六道別異。此略難。後問斷三結修道者為廣難。 |
須菩提は、種種の因縁もて、諸法の相は、決定して無生なりと説き、此の事に因りて、舎利弗は、是の難を作さく、『賢聖中の最小なる者は、須陀洹と、須陀洹の法なり。最大なる者は、仏と、仏の法なるも、若し爾らば、聖人に大無く、小無く、聖法にも、亦た優劣無く、亦た六道の別異も無けん。』と。此に略して難じ、後に三結を断じて、道を修むる者を問うて、広く難を為せり。 |
『須菩提』は、
種種の、
『因縁』の故に、こう説いた、――
諸の、
『法の相』は、
『決定して!』、
『無生である!』、と。
『舍利弗』は、
此の、
『事に因って!』、こう難じた、――
『賢聖』中の、
『最小の者』は、
『須陀洹や!』、
『須陀洹の法であり!』、
『最大の者』は、
『仏や!』、
『仏の法である!』が、
若し、
お前の、
『説く通りならば!』、――
『聖人』には、
『大も、小も!』、
『無く!』、
『聖人の法』にも、
『優や、劣が!』、
『無く!』、
『六道という!』、
『別異も!』、
『無い!』、と。
此れは、
『略して!』、
『須菩提の所説』を、
『難じたのである!』が、
後には、
『三結を断じて!』、
『道を修める者』を、
『問う!』ことで、
『広く!』、
『難じたのである!』。
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問曰。云何是五種菩提。 |
問うて曰く、云何が、是れ五種の菩提なる。 |
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答曰。一者柔順忍。二者無生忍。及三種菩提。於三菩提中過二而住第三菩提。 |
答えて曰く、一には柔順忍、二には無生忍、及び三種の菩提なり。三菩提中に於いては、二を過ぎて、第三の菩提に住す。 |
答え、
一には、
『柔順忍という!』、
『菩提であり!』、
二には、
『無生忍という!』、
『菩提であり!』、
及び、
『三種(菩薩、辟支仏、仏)の菩提である!』が、
此の、
『三菩提』中の、
『第一、第二を過ぎれば!』、
『第三の菩提』に、
『住まることになる!』。
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註:阿羅漢は後の三種に入るを得ず。 |
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復有五種菩提。一者名發心菩提。於無量生死中發心為阿耨多羅三藐三菩提故。名為菩提。此因中說果 |
復た、五種の菩提有り、一には発心の菩提と名づく。無量の生死中に於いて、阿耨多羅三藐三菩提の為に発心するが故に、名づけて菩提と為す。此れ因中に果を説くなり。 |
復た、
『五種の菩提が有り!』、
一には、
『発心の菩提であり!』、
『無量の生死』中に、
『阿耨多羅三藐三菩提』の為に、
『心』を、
『発す!』が故に、
是れを、
『菩提』と、
『称するのである!』が、
此れは、
『因』中の、
『果を説くものである!』。
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二者名伏心菩提。折諸煩惱降伏其心。行諸波羅蜜。 |
二には、伏心の菩提と名づく。諸の煩悩を折り、其の心を降伏して、諸の波羅蜜を行ずるなり。 |
二には、
『伏心の菩提である!』、
諸の、
『煩悩を折って!』、
『心を降伏しながら!』、
『諸の波羅蜜』を、
『行う!』。
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三者名明菩提。觀三世諸法。本末總相別相分別籌量。得諸法實相畢竟清淨。所謂般若波羅蜜相。 |
三には、明の菩提と名づく。三世の諸法の本末を観じ、総相、別相を分別籌量して、諸法の実相の畢竟じて清浄なるを得、謂わゆる般若波羅蜜の相なり。 |
三には、
『明の菩提である!』、
『三世の諸法』の、
『本末』を、
『観察して!』、
『総相と、別相と!』を、
『分別し籌量して!』、
諸の、
『法の実相』は、
『畢竟じて清浄である!』と、
『認識する!』。
謂わゆる、
『般若波羅蜜の相である!』。
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四者名出到菩提。於般若波羅蜜中得方便力故。亦不著般若波羅蜜。滅一切煩惱。見一切十方諸佛。得無生法忍。出三界到薩婆若。 |
四には、出到の菩提と名づく。般若波羅蜜中に於いて、方便力を得るが故に、亦た般若波羅蜜にも著せず、一切の煩悩を滅し、一切の十方の諸仏に見え、無生法忍を得、三界を出でて薩婆若に到るなり。 |
四には、
『出到の菩提である!』、
『般若波羅蜜』中に、
『方便の力を得て!』、
『般若波羅蜜にも!』、
『著することなく!』、
『一切の煩悩を滅して!』、
『一切の十方の諸仏に!』、
『見(まみ)え!』
『無生法忍を得!』、
『三界を出て!』、
『薩婆若に到る!』。
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五者名無上菩提。坐道場斷煩惱習。得阿耨多羅三藐三菩提。如是等五菩提義。餘諸賢聖斷結義如先說。 |
五には、無上の菩提と名づく。道場に坐し、煩悩の習を断じて、阿耨多羅三藐三菩提を得るなり。是の如き等は五菩提の義なり。余の諸の賢聖の断結の義は、先に説けるが如し。 |
五には、
『無上の菩提である!』、
『道場に坐して!』、
『煩悩の習を断じ!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得る!』。
是れ等が、
『五菩提の義である!』が、
『余の諸賢聖』の、
『断結の義』は、
『先に!』、
『説いた通りである!』。
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問曰。聲聞道廣說斷結義。何以不說辟支佛行。菩薩有種種行。 |
問うて曰く、声聞道は、広く断結の義を説き、何を以ってか、辟支仏の行と、菩薩に有る種種の行を説かざる。 |
問い、
『声聞道』の、
『断結の義』は、
『広く!』、
『説きながら!』、
何故、
『辟支仏の行や、菩薩の有する種種の行』を、
『説かないのですか?』。
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答曰。辟支佛於聲聞無復異道。但福德利根小深入諸法實相為異。 |
答えて曰く、辟支仏は、声聞に於いて、復異する道無く、但だ福徳の利根小く、深く諸法の実相に入るを異と為す。 |
答え、
『辟支仏』には、
『声聞と重なって異なる!』、
『道』は、
『無いが!』、
但だ
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復(ぶく):<動詞>[本義]還る/返る( return to )、復す/恢復/返還/復興/復元する( restore )、回帰する( return
)、回答する( reply )、報復する( retaliate )、履行/実践する( carry out )、復活する( revive )、免除する(
remit )。<副詞>又/再び( resume )。<形容詞>重なった/重複/複合した( compound, complex )、二重の(
double )、重なった( overlapping )。
復異(ぶくい):重複異層。 |
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菩薩道雖有種種眾行。但難行苦行為希有事。眾生見已歡喜言。菩薩為我等作此行。餘行雖深妙人所不知。不能感物故不說。 |
菩薩道は、種種の衆行有りと雖も、但だ難行、苦行を希有の事と為し、衆生は見已りて歓喜して、『菩薩は、我等の為に、此の行を作す。』と言い、余の行は、深妙なりと雖も、人の知らざる所にして、物を感ずる能わざるが故に説かざるのみ。 |
『菩薩の道』は、
種種の、
『衆行が有る!』が、
但だ、
『難行、苦行』は、
『希有』の、
『事件である!』が故に、
『衆生が見れば!』、
余の、
『行』は、
『深妙である!』が、
『人に知られていない!』ので、
『物(他心)』を、
『感じさせることができず!』、
是の故に、
『説かないのである!』。
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希有(けう):梵語adbhuta、又はaazcaryaの訳。驚異、驚歎、偉業、非凡等の意。 |
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復次如舍利弗難意。若諸法都是無生空寂者。一切眾生皆著樂。菩薩何以故獨受苦行。 |
復た次ぎに、舎利弗の難意の如く、若し、諸法は、都べて是れ無生、空寂なれば、一切の衆生は、皆、楽に著するに、菩薩は、何を以っての故にか、独り苦行を受くる。 |
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復次諸佛常樂遠離寂滅斷法愛。決定知諸法不轉不還。何以故。與眾生轉法輪。 |
復た次ぎに、諸仏は、常に遠離、寂滅を楽しみ、法愛を断じて、決定して、諸法の不転、不還を知りたもうに、何を以ってか、衆生の与に、法輪を転じたもうや。 |
復た次ぎに、
諸の、
『仏』は、
常に、
『遠離、寂滅を楽しんで!』、
『法愛』を、
『断じ!』、
決定して、
『諸法』は、
『転じることなく、還ることもない!』と、
『知っていられる!』のに、
何故、
『衆生』の為に、
『法輪』を、
『転じられるのか?』。
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須菩提於佛前說無生法。佛不呵折得快心樂說無難力故答。舍利弗我亦都不欲令無生法中有六種聖人。除菩薩故言六。及六道別異。 |
須菩提が、仏の前に於いて、無生の法を説くも、仏は呵折したまわざれば、快心を得て楽説し、難に力無きが故に舍利弗に答うらく、『我れも、亦た都べて、無生法中に、六種の聖人をして有らしめんと欲せず。』と。菩薩を除くが故に、六と言い、六道の別異に及ぶ。 |
『須菩提』は、
『仏前』に於いて、
『仏』は、
其の、
『所説を呵折( 訶責)されなかった!』が故に、
『快心に!』、
『楽説することができ!』、
『舍利弗の難』は、
『舍利弗』に、こう答えた、――
わたしも、
皆、
『無生法』中に、
『六種の聖人』を、
『有らせたい!』とは、
『思わない!』、と。
『六種の聖人』とは、
『菩薩を除く!』が故に、
『六』と、
『言い!』、
及び、
『六道を別異する!』が故に、
『六』と、
『言うのである!』。
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呵折(かしゃく):せめなじる。呵責。 |
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何以故。以得無生法證故謂為聖法。聖人有差別。於無生法中都無所有。 |
何を以っての故に、無生の法の証を得るを以っての故に、謂いて聖法と為せば、聖人に差別有るも、無生の法中に於いては、都べて所有無ければなり。 |
何故ならば、
『無生法』の、
『証を得させる!』が故に、
『聖法である!』と、
『謂えば!』、
『聖人』には、
『差別』が、
『有っても!』、
『無生法』中には、
皆、
『無所有だからである!』。
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復次於無生法中有二種失。麤失者。殺盜等罪。故有三惡道。細失者。用著心布施持戒等福。故有三善道。 |
復た次ぎに、無生の法中に於いて、二種の失有り。麁なる失とは、殺、盗等の罪の故に、三悪道有ればなり。細なる失とは、著心の布施、持戒等の福を用うるが故に、三善道有ればなり。 |
復た次ぎに、
『無生法』中には、
『二種の失が有る!』、――
『麁の失』は、
『細の失』は、
『著心を用いる!』、
『布施、持戒等の福』の故に、
『三善道』が、
『有らねばならない!』。
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若菩薩生難心苦心。則不能度一切眾生。如世間小事心難以為苦猶尚不成。何況成佛道。 |
若し、菩薩が難心、苦心を生ぜば、則ち一切の衆生を度すること能わざらん。世間の小事の如きすら、心に難じて、以って苦と為せば、猶尚お、成ぜざらん。何に況んや、仏道を成ずるをや。 |
若し、
『菩薩』が、
『難心、苦心を生じれば!』、
一切の、
『衆生』を、
『度すことができない!』。
譬えば、
『世間の小事すら!』、
『心が難じて!』、
『苦である!』と、
『思えば!』、
猶尚お、
『成就しない!』。
況して、
『仏道の成就』は、
『尚更である!』。
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成因緣者。所謂大慈大悲心。於眾生如父母兒子己身想。何以故。父母兒子己身自然生愛。非推而愛也。 |
成ずる因縁とは、謂わゆる大慈、大悲心にして、衆生に於いて、父母、児子、己身の如く想うなり。何を以っての故に、父母、児子、己身は、自然に愛を生じ、推して愛するに非ざればなり。 |
『仏道成就の因縁』とは、――
謂わゆる、
『大慈、大悲の心』で、
『衆生』に於いて、
例えば、
『父母、児子、己身のように!』、
『想うことである!』。
何故ならば、
『父母、児子、己身』は、
『自然に!』、
『愛』を、
『生じるものであり!』、
『推されて!』、
『愛』を、
『生じるのではないからである!』。
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菩薩善修大悲心故。於一切眾生乃至怨讎同意愛念。是大悲果報。利益之具都無所惜。於內外所有盡與眾生。 |
菩薩は、善く大悲心を修むるが故に、一切の衆生の、乃至怨讎に於いて、意を同じうして愛念す。是の大悲の果報なる、利益の具には、都て惜む所無く、内外の所有に於いて、尽くを衆生に与う。 |
『菩薩』は、
『大悲心』を、
『善く修める!』が故に、
一切の、
『衆生』を、
『怨讎』に、
『至るまで!』、
『意を同じくして!』、
『愛し!』、
『念じるのであり!』、
是の、
『大悲の果報である!』、
『利益の資具』には、
都て、
『惜む!』所が、
『無く!』、
『内、外の所有』を、
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此中說不惜因緣。所謂一切處一切種一切法不可得故。 |
此の中に、惜まざる因縁を説けり。謂わゆる一切処、一切種、一切法に得べからざるが故なり。 |
此の中には、
『惜まない!』、
『因縁』が、
『説かれている!』。
謂わゆる、
一切の、
『処、種、法』は、
『認識できないからである!』。
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若行者初入佛法。用眾生空知諸法無我。今用法空知諸法亦空。以此大悲心及諸法空二因緣故。能不惜內外所有利益眾生。不起難行想苦行想。一心精進歡喜。 |
若し、行者が、初めて仏法に入るに、衆生空を用うれば、諸法の無我を知る。今、法空を用うるに、諸法も、亦た空なりと知る。此の大悲心と、及び諸法の空との二因縁を以っての故に、能く内外の所有を惜まずして、衆生を利益するに、難行想、苦行想を起さず、一心に精進して歓喜するなり。 |
若し、
『行者』が、
初めて、
『仏法に入れば!』、
『衆生空を用いて!』、
『諸の法』中には、
『我が無い!』ことを、
『知ることになる!』が、
今は、
『法空を用いて!』、
『諸の法』も、
亦た、
『空である!』と、
『知ることになる!』ので、
此の、
『大悲心と、諸法空という!』、
『二因縁を用いる!』が故に、
『内、外の所有』を、
『惜むことなく!』、
『衆生』を、
『利益することができるのであり!』、
『難行想、苦行想』を、
『起すことなく!』、
『一心に精進して!』、
『歓喜するのである!』。
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如人為自身及為父母妻子勤身修業不以為苦。若為他作則無歡心 |
人が、自身の為、及び父母、妻子の為に、勤身修業するも、以って苦と為さざるが如きは、若し他の為に作さば、則ち歓心無けん。 |
『人』は、
『自身の為か!』、
『父母、妻子の為ならば!』、
『勤身して修業しても!』、
『苦である!』と、
『思わないような!』ことも、
若し、
『他の為に!』、
『作すのであれば!』、
『歓心』が、
『無いのである!』。
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苦行難行。如後品本生因緣變化現受畜生形中說。 |
苦行、難行とは、後の品の本生の因縁に、変化して、畜生の形を現受する中に説くが如し。 |
『苦行、難行』とは、
『後の品の本生の因縁』に、
『畜生の形』を、
『変化、現受する!』中に、
『説かれている!』。
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参考:『大品般若経巻26』:『須菩提白佛言。世尊是菩薩摩訶薩為畢定為不畢定。佛告須菩提。菩薩摩訶薩畢定非不畢定。世尊。何處畢定。為聲聞道中。為辟支佛道中。為佛道中。佛言。菩薩摩訶薩非聲聞辟支佛道中畢定。是佛道中畢定。須菩提白佛言。世尊。為初發意菩薩畢定。為最後身菩薩畢定。佛言。初發意菩薩亦畢定。阿惟越致菩薩亦畢定。後身菩薩亦畢定。世尊。畢定菩薩墮惡道中生不。不也須菩提。於汝意云何。若八人若須陀洹斯陀含阿那含阿羅漢辟支佛生惡道中不。不也世尊。如是須菩提。菩薩摩訶薩從初發意已來布施持戒忍辱精進行禪定修智慧斷一切不善業。若墮惡道若生長壽天。若不得修善法處。若生邊國若生惡邪見家無作見家。是中無佛名無法名無僧名無有是處。須菩提。初發意菩薩於阿耨多羅三藐三菩提。以深心行十不善道無有是處。世尊。若菩薩摩訶薩有如是善根功德成就。如佛自說本生受不善果報。是時善根為何所在。佛告須菩提。菩薩摩訶薩為利益眾生故隨而受身。以是身利益眾生。須菩提。菩薩摩訶薩作畜生時有是方便力。若怨賊欲來殺害。以是無上忍辱無上慈悲心。捨身不惱惡賊。汝諸聲聞辟支佛無有是力。以是故。須菩提。當知菩薩摩訶薩欲具足大慈心。為憐愍利益眾生故受畜生身。須菩提白佛言。世尊。菩薩摩訶薩住何等善根中受如是諸身。佛告須菩提。菩薩摩訶薩從初發意乃至道場。於其中間無有善根不具足者。具足已當得阿耨多羅三藐三菩提。以是故。菩薩摩訶薩從初發意。應當學具足一切善根。學善根已當得一切種智。當斷一切煩惱習。須菩提白佛言世尊。云何菩薩摩訶薩成就如是白淨無漏法。而生惡道畜生中。佛告須菩提。於汝意云何。佛成就白淨無漏法不。須菩提言。佛一切白淨無漏法成就。須菩提。若佛自化作畜生身。作佛事度眾生實是畜生不。須菩提言不也。佛言。菩薩摩訶薩亦如是。成就白淨無漏法。為度眾生故受畜生身。用是身教化眾生。佛告須菩提。如阿羅漢作變化身。能使眾生歡喜不。須菩提言能。佛言。如是如是。須菩提。菩薩摩訶薩用是白淨無漏法。隨應度眾生而受身。以是身利益眾生亦不受苦。須菩提。於汝意云何。幻師幻作種種形若象馬牛羊男女。如是等以示眾生。須菩提。是象馬牛羊男女等有實不。須菩提言。不也世尊。佛言。如是須菩提。菩薩摩訶薩白淨無漏法成就。現作種種身以示眾生故。以是身饒益一切亦不受苦。須菩提白佛言。世尊。菩薩摩訶薩大方便力。得聖無漏智慧而隨所應度眾生身。而作種種形以度眾生。世尊。菩薩摩訶薩住何等白淨法。能作如是方便而不受染污。佛言。菩薩用般若波羅蜜作如是方便力。於十方如恒河沙等國土中。饒益眾生亦不貪著是身。何以故。著者著法著處。是三法皆不可得自性空故。空不著空空中無著者亦無著處。何以故。空中空相不可得。須菩提。是名不可得空。菩薩住是中能得阿耨多羅三藐三菩提。世尊。菩薩但住般若波羅蜜中得阿耨多羅三藐三菩提。不住餘法中耶。須菩提。頗有法不入般若波羅蜜者不。世尊。若般若波羅蜜自性空。云何一切法皆入般若波羅蜜中。世尊。空中無有法若入若不入。須菩提。一切法一切法相空不。世尊空。須菩提。若一切法一切法相空。云何言一切法不入空中。須菩提白佛言。世尊。云何菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。住一切法空中能起神通波羅蜜。住是神通波羅蜜中。到十方如恒河沙等國土。供養現在諸佛聞諸佛說法。於諸佛所種善根。佛告須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。觀是十方如恒河沙等國土皆空。是國土中諸佛性亦空。但假名字故諸佛現身。所假名字亦空。若十方國土及諸佛性不空者空為有偏。以空不偏故一切法一切法相空。以是故。一切法一切法相空。是故菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。用方便力生神通波羅蜜。住是神通波羅蜜中。起天眼天耳如意足知他心宿命智知眾生生死。若菩薩遠離神通波羅蜜不能得饒益眾生。亦不能得阿耨多羅三藐三菩提。是菩薩摩訶薩神通波羅蜜。是阿耨多羅三藐三菩提利益道。何以故。用是天眼自見諸善法。亦教他人令得諸善法。於善法亦不著。諸善法自性空故。空無所著若著則受味。是空中無有味。是菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時能生如是天眼。用是眼觀一切法空。見是法空不取相不作業。亦為人說是法。亦不得眾生相不得眾生名。如是菩薩摩訶薩用無所得法故。起神通波羅蜜。用是神通波羅蜜。神通所應作者能作。是菩薩用天眼過於人眼見十方國土。見已飛到十方饒益眾生。或以布施或以持戒或以忍辱或以精進或以禪定或以智慧饒益眾生。或以三十七助道法。或以諸禪解脫三昧。或以聲聞法或以辟支佛法或以菩薩法或以佛法饒益眾生。為慳者如是說法。諸眾生當行布施。貧窮是苦惱法。貧窮之人自不能益何能益他。以是故。汝等當勤布施。自身得樂亦能令他得樂。莫以貧窮故共相食噉不得離三惡道。為破戒者說法。諸眾生破戒法大苦惱。破戒之人自不能益何能益他。破戒法受苦果報。若在地獄若在餓鬼若在畜生。汝等墮三惡道中。自不能救何能救人。以是故。汝等不應墮破戒心死時有悔。若有共相瞋諍者如是說法。諸眾生莫共相瞋。瞋亂人心不順善法。汝等今共相瞋亂心。或墮地獄若餓鬼畜生中。以是故。汝等不應生一念瞋恚心何況多。為懈怠眾生說法令得精進。散亂眾生令得禪定。愚癡眾生令得智慧亦如是。行婬欲者令觀不淨。瞋恚令觀慈心。愚癡眾生令觀十二因緣。行非道眾生令入正道。所謂聲聞道辟支佛道佛道。為是眾生如是說法。如汝等所著是法性空。性空法中不可得著。不著相是空相。如是須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。住神通波羅蜜中。為眾生作利益。須菩提。菩薩若遠離神通。不能隨眾生意善說法。以是故。須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時應起神通。須菩提。譬如鳥無翅不能高翔。菩薩無神通不能隨意教化眾生。以是故。須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜應起諸神通。起諸神通已若欲饒益眾生隨意能益。是菩薩用天眼見如恒河沙等諸國土。及見是國土中眾生。見已。以神通力往到其所。知眾生心隨其所應而為說法。或說布施或說持戒或說禪定。乃至說涅槃法。是菩薩用天耳聞二種音聲若人若非人。用天耳聞十方諸佛所說法皆能受持。如所聞法為眾生說。或說布施乃至說涅槃。是菩薩淨他心智。用他心智知眾生心。隨其所應而為說法。或說布施乃至或說涅槃。是菩薩宿命智種種本生處憶念。亦自憶亦憶他人。用是宿命智念過去在在處處諸佛名字及弟子眾。有眾生信樂宿命者。為現宿命事而為說法。或說布施乃至或說涅槃。用如意神通力到種種無量諸佛國土。供養諸佛從諸佛種善根還來本國。是菩薩漏盡神通智證。用是漏盡神通智證故。為眾生隨應說法。或說布施乃至或說涅槃。如是須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。應如是起諸神通。菩薩用修是神通故。隨意受身苦樂不染。譬如佛所化人作一切事苦樂不染。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。應如是遊戲神通。能淨佛國土成就眾生。復次須菩提。菩薩摩訶薩不淨佛國土不成就眾生。不能得阿耨多羅三藐三菩提。何以故。因緣不具足故不能得阿耨多羅三藐三菩提。須菩提白佛言。世尊。何等是菩薩摩訶薩因緣具足已。得阿耨多羅三藐三菩提。佛告須菩提。一切善法是菩薩阿耨多羅三藐三菩提因緣。須菩提白佛言。世尊。何等是善法。以是善法故得阿耨多羅三藐三菩提。佛告須菩提。菩薩從初發意已來。檀那波羅蜜是善法因緣。是中無分別是布施者是受者性空故。用是檀那波羅蜜能自利益亦能利益眾生。從生死拔出令得涅槃。是諸善法皆是菩薩摩訶薩阿耨多羅三藐三菩提因緣。行是道過去未來現在諸菩薩摩訶薩得度生死。已度今度當度。尸羅波羅蜜羼提波羅蜜毘梨耶波羅蜜禪那波羅蜜般若波羅蜜。四禪四無量心四無色定四念處乃至八聖道分十八空八解脫九次第定陀羅尼門佛十力四無所畏四無礙智十八不共法。如是等功德。皆是阿耨多羅三藐三菩提道。須菩提是名善法。菩薩摩訶薩具足是善法已當得一切種智。得一切種智已當轉法輪。轉法輪已當度眾生』 |
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一切諸法畢竟空不可思議相故。一切法還而不轉故。不名為轉。但為破虛妄顛倒故。名為轉法輪 |
一切の諸法は、畢竟空にして、不可思議の相なるが故に、一切の法は還って転ぜざるが故に、名づけて転と為さず、但だ、虚妄の顛倒を破らんが為の故に、名づけて法輪を転ずと為す。 |
『法輪を転じる!』とは、――
一切の、
『諸の法』は、
『畢竟じて空であり!』、
『不可思議の相である!』が故に、
一切の、
『法』は、
『還るのであり( to return )!』、
『転じることがない!』が故に、
是れが、
『転』と、
『呼ばれることはない!』が、
但だ、
『虚妄の顛倒を破る!』為の故に、
『法輪を転じる!』と、
『称するのである!』。
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