巻第五十二下
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大智度論釋十無品第二十五


【經】菩薩は無辺である

【經】如舍利弗言。色無邊故。當知菩薩亦無邊。受想行識無邊故。當知菩薩亦無邊。 舎利弗の言うが如く、色は無辺なるが故に、当に知るべし、菩薩も亦た無辺なり。受想行識は無辺なるが故に、当に知るべし、菩薩も亦た無辺なり。
『舍利弗』の言うように、――
『色は無辺である!』が故に、
亦た、こう知らねばならぬ、――
『菩薩』も、
『無辺である!』と。
『受想行識は無辺である!』が故に、
亦た、こう知らねばならぬ、――
『菩薩』も、
『無辺である!』と。
  参考:『大般若経巻61』:『初分無所得品第十八之一  爾時具壽善現。白佛言。世尊。前際菩薩摩訶薩不可得。後際菩薩摩訶薩不可得。中際菩薩摩訶薩不可得。世尊。色無邊故當知菩薩摩訶薩亦無邊。受想行識無邊故當知菩薩摩訶薩亦無邊。世尊。眼處無邊故當知菩薩摩訶薩亦無邊。耳鼻舌身意處無邊故當知菩薩摩訶薩亦無邊。世尊。色處無邊故當知菩薩摩訶薩亦無邊。聲香味觸法處無邊故當知菩薩摩訶薩亦無邊。世尊。眼界無邊故當知菩薩摩訶薩亦無邊。色界眼識界及眼觸眼觸為緣所生諸受無邊故當知菩薩摩訶薩亦無邊。世尊。耳界無邊故當知菩薩摩訶薩亦無邊。聲界耳識界及耳觸耳觸為緣所生諸受無邊故當知菩薩摩訶薩亦無邊。世尊。鼻界無邊故當知菩薩摩訶薩亦無邊。香界鼻識界及鼻觸鼻觸為緣所生諸受無邊故當知菩薩摩訶薩亦無邊。世尊。舌界無邊故當知菩薩摩訶薩亦無邊。味界舌識界及舌觸舌觸為緣所生諸受無邊故當知菩薩摩訶薩亦無邊。世尊。身界無邊故當知菩薩摩訶薩亦無邊。觸界身識界及身觸身觸為緣所生諸受無邊故當知菩薩摩訶薩亦無邊。世尊。意界無邊故當知菩薩摩訶薩亦無邊。法界意識界及意觸意觸為緣所生諸受無邊故當知菩薩摩訶薩亦無邊。世尊。地界無邊故當知菩薩摩訶薩亦無邊。水火風空識界無邊故當知菩薩摩訶薩亦無邊。世尊。苦聖諦無邊故當知菩薩摩訶薩亦無邊。集滅道聖諦無邊故當知菩薩摩訶薩亦無邊。世尊。無明無邊故當知菩薩摩訶薩亦無邊。行識名色六處觸受愛取有生老死愁歎苦憂惱無邊故當知菩薩摩訶薩亦無邊。世尊。布施波羅蜜多無邊故當知菩薩摩訶薩亦無邊。淨戒安忍精進靜慮般若波羅蜜多無邊故當知菩薩摩訶薩亦無邊。世尊。四靜慮無邊故當知菩薩摩訶薩亦無邊。四無量四無色定無邊故當知菩薩摩訶薩亦無邊。世尊。八解脫無邊故當知菩薩摩訶薩亦無邊。八勝處九次第定十遍處無邊故當知菩薩摩訶薩亦無邊。世尊。四念住無邊故當知菩薩摩訶薩亦無邊。四正斷四神足五根五力七等覺支八聖道支無邊故當知菩薩摩訶薩亦無邊。世尊。空解脫門無邊故當知菩薩摩訶薩亦無邊。無相無願解脫門無邊故當知菩薩摩訶薩亦無邊。世尊。五眼無邊故當知菩薩摩訶薩亦無邊。六神通無邊故當知菩薩摩訶薩亦無邊。世尊。佛十力無邊故。當知菩薩摩訶薩亦無邊。四無所畏四無礙解大慈大悲大喜大捨十八佛不共法一切智道相智一切相智無邊故當知菩薩摩訶薩亦無邊。世尊。無忘失法無邊故當知菩薩摩訶薩亦無邊。恒住捨性無邊故當知菩薩摩訶薩亦無邊。世尊。一切陀羅尼門無邊故當知菩薩摩訶薩亦無邊。一切三摩地門無邊故當知菩薩摩訶薩亦無邊。世尊。內空無邊故當知菩薩摩訶薩亦無邊。外空。內外空。空空。大空。勝義空。有為空。無為空。畢竟空。無際空。散空。無變異空。本性空。自相空。共相空。一切法空。不可得空。無性空。自性空。無性自性空無邊故當知菩薩摩訶薩亦無邊。世尊。真如無邊故當知菩薩摩訶薩亦無邊。法界法性不虛妄性不變異性不思議界虛空界斷界離界滅界平等性離生性法定法住無性界無相界無作界無為界安隱界寂靜界本無實際究竟涅槃無邊故。當知菩薩摩訶薩亦無邊。世尊。聲聞乘無邊故。當知菩薩摩訶薩亦無邊。獨覺乘無邊故。當知菩薩摩訶薩亦無邊。大乘無邊故。當知菩薩摩訶薩亦無邊』
舍利弗。色如虛空。受想行識如虛空。何以故。舍利弗。如虛空邊不可得。中不可得。無邊無中故。但說名虛空。如是舍利弗。色邊不可得。中不可得。是色空故空中亦無邊亦無中。受想行識邊不可得。中不可得。識空故空中亦無邊亦無中。 舎利弗、色は虚空の如く、受想行識は虚空の如し。何を以っての故に、舎利弗、虚空の辺の得べからず、中も得べからず。辺無く、中無きが故に、但だ説いて、虚空と名づくるが如く、是の如く、舎利弗、色の辺は得べからず、中は得べからず。是の色は空なるが故に、空中にも亦た辺無く、亦た中無し。受想行識の辺は得べからず、中は得べからず。識の空なるが故に、空中にも亦た辺無く、亦た中無し。
舍利弗!
『色や!』、
『受想行識』は、
『虚空のようである!』。
何故ならば、
舍利弗!
『虚空』は、
『辺も、中も!』、
『認められず!』、
『虚空』には、
『辺や、中が!』、
『無い!』が故に、
但だ、
『虚空を説いて!』、
『虚空』と、
『呼ぶだけであるように!』、
是のように、
舍利弗!
『色』には、
『辺や、中が!』、
『認められず!』、
是の、
『色』は、
『空である!』が故に、
『空』中には、
『辺も、中も!』、
『無いのであり!』、
『受想行識』に、
『辺や、中が!』、
『認められず!』、
『識』は、
『空である!』が故に、
『空』中には、
『辺も、中も!』、
『無いのである!』。
  参考:『大般若経巻63』:『爾時具壽善現復答舍利子言。如尊者所云。何緣故說色等無邊故當知菩薩摩訶薩亦無邊者。舍利子。色如虛空。受想行識如虛空。所以者何。舍利子。如虛空前際不可得後際不可得中際不可得。以彼中邊不可得故。說為虛空。色受想行識亦如是。前際不可得。後際不可得。中際不可得。何以故。色性空故。受想行識性空故。空中前際不可得。後際不可得。中際不可得。亦以中邊俱不可得。故說為空。舍利子。由此緣故我作是說。色無邊故當知菩薩摩訶薩亦無邊。受想行識無邊故當知菩薩摩訶薩亦無邊。舍利子。眼處如虛空。耳鼻舌身意處如虛空。所以者何。舍利子。如虛空前際不可得後際不可得中際不可得。以彼中邊不可得故。說為虛空。眼耳鼻舌身意處亦如是。前際不可得。後際不可得。中際不可得。何以故。眼處性空故。耳鼻舌身意處性空故。空中前際不可得。後際不可得。中際不可得。亦以中邊俱不可得故說為空。舍利子。由此緣故我作是說。眼處無邊故當知菩薩摩訶薩亦無邊。耳鼻舌身意處無邊故當知菩薩摩訶薩亦無邊。舍利子。色處如虛空。聲香味觸法處如虛空。所以者何。舍利子。如虛空前際不可得後際不可得中際不可得。以彼中邊不可得故。說為虛空。色聲香味觸法處亦如是。前際不可得。後際不可得。中際不可得。何以故。色處性空故。聲香味觸法處性空故。空中前際不可得。後際不可得。中際不可得。亦以中邊俱不可得故說為空。舍利子。由此緣故我作是說。色處無邊故當知菩薩摩訶薩亦無邊。聲香味觸法處無邊故當知菩薩摩訶薩亦無邊。』
以是因緣故。舍利弗色無邊故。當知菩薩亦無邊。受想行識無邊故。當知菩薩亦無邊。乃至十八不共法亦如是。 是の因縁を以っての故に、舎利弗、色は無辺なるが故に、当に知るべし、菩薩も亦た無辺なり。受想行識は無辺なるが故に、当に知るべし、菩薩も亦た無辺なり。乃至十八不共法も亦た是の如し。
是の、
『因縁』の故に、
舍利弗!
『色』は、
『無辺である!』が故に、
亦た、こう知らねばならぬ、――
『菩薩』も、
『無辺である!』、と。
『受想行識』は、
『無辺である!』が故に、
亦た、こう知らねばならぬ、――
『菩薩』も、
『無辺である!』、と。
乃至、
『十八不共法』も、
亦た、
『是の通りである!』。
如舍利弗言。色是菩薩是亦不可得。受想行識是菩薩。是亦不可得。 舎利弗の言うが如く、色は是れ菩薩にして、是れ亦た得べからず。受想行識は是れ菩薩にして、是れ亦た得べからず。
『舍利弗』の言うように、――
『色』は、
『菩薩でありながら!』、
亦た、
『認められることもなく!』、
『受想行識』は、
『菩薩でありながら!』、
亦た、
『認められることもない!』。
舍利弗。色色相空。受想行識識相空。檀波羅蜜檀波羅蜜相空。乃至般若波羅蜜亦如是。 舎利弗、色と色相とは空なり。受想行識と識相空なり。檀波羅蜜と檀波羅蜜相とは空なり。乃至般若波羅蜜も亦た是の如し。
舍利弗!
『色』と、
『色の相』とは、
『空であり!』、
『受想行識』と、
『識の相』とは、
『空であり!』、
『檀波羅蜜』と、
『檀波羅蜜の相』とは、
『空であり!』、
『乃至般若波羅蜜』も、
亦た、
『是の通りである!』。
內空內空相空。乃至無法有法空。無法有法空相空。四念處四念處相空。乃至十八不共法。十八不共法相空。 内空と内空相とは空なり。乃至無法有法空と無法有法空相とは空なり。四念処と四念処相とは空なり。乃至十八不共法と十八不共法相とは空なり。
『内空と、内空の相も!』、
乃至、
『無法有法空と、無法有法空の相も!』、
『空である!』。
『四念処と、四念処の相も!』、
乃至、
『十八不共法と、十八不共法の相も!』、
『空である!』。
如法性實際不可思議性不可思議性相空。三昧門三昧門相空。陀羅尼門陀羅尼門相空。一切智一切智相空。道種智道種智相空。一切種智一切種智相空聲聞乘聲聞乘相空。辟支佛乘辟支佛乘相空。佛乘佛乘相空。聲聞人聲聞人相空。辟支佛辟支佛相空。佛佛相空。 如、法性、実際、不可思議性と不可思議性相とは空なり。三昧門と三昧門相とは空なり。陀羅尼門と陀羅尼門相とは空なり。一切智と一切智相とは空なり。道種智と道種智相とは空なり。一切種智と一切種智相とは空なり。声聞乗と声聞乗相とは空なり。辟支仏乗と辟支仏乗相とは空なり。仏乗と仏乗相とは空なり。声聞人と声聞人相とは空なり。辟支仏と辟支仏相とは空なり。仏と仏相とは空なり。
『如、法性、実際、不可思議性と、不可思議性の相も!』、
『三昧門と、三昧門の相も!』、
『陀羅尼門と、陀羅尼門の相も!』、
『空であり!』、
『一切智と、一切智の相も!』、
『道種智と、道種智の相も!』、
『一切種智と、一切種智の相も!』、
『空であり!』、
『声聞乗と、声聞乗の相も!』、
『辟支仏乗と、辟支仏乗の相も!』、
『仏乗と、仏乗の相も!』、
『空である!』。
『声聞人と、声聞人の相も!』、
『辟支仏と、辟支仏の相も!』、
『仏と、仏の相も!』、
『空である!』。
空中色不可得。受想行識不可得。以是因緣故。舍利弗。色是菩薩。是亦不可得。受想行識是菩薩。是亦不可得。 空中に、色は得べからず、受想行識は得べからず。是の因縁を以っての故に、舎利弗、色は是れ菩薩にして、是れ亦た得べからず。受想行識は是れ菩薩にして、是れ亦た得べからず。
『空』中には、
『色も、受想行識も!』、
『認められない!』ので、
是の、
『因縁』の故に、
舍利弗!
『色』は、
『菩薩でありながら!』、
『認められないのであり!』、
『受想行識』も、
『菩薩でありながら!』、
『認められないのである!』。
如舍利弗言。何因緣故。於一切種。一切處。菩薩不可得。當教何等菩薩般若波羅蜜。 舎利弗の言うが如く、何の因縁の故にか、一切種、一切処に於いて、菩薩は得べからざる、当に、何等の菩薩にか、般若波羅蜜を教うべき。
『舍利弗』の言うように、――
何のような、
『因縁』の故に、
『一切の種(地水火風空識)』、
『一切の処(眼処乃至法処)』に於いて、
『菩薩』が、
『認められず!』、
何のような、
『菩薩』に、
『般若波羅蜜』を、
『教えればよいのだろうか?』。
舍利弗。色色中不可得。色受中不可得。受受中不可得。受色中不可得。受想中不可得。想想中不可得。想色受中不可得。想行中不可得。行行中不可得。行色受想中不可得。行識中不可得。識識中不可得。識色受想行中不可得。 舎利弗、色は色中に得べからず、色は受中に得べからず、受は受中に得べからず、受は色中に得べからず、受は想中に得べからず、想は想中に得べからず、想は色、受中に得べからず、想は行中に得べからず、行は行中に得べからず、行は色、受、想中に得べからず、行は識中に得べからず、識は識中に得べからず、識は色、受、想、行中に得べからず。
舍利弗!
『色』は、
『色』中に、
『認められず!』、
『色』は、
『受』中にも、
『認められない!』。
『受』は、
『受』中に、
『認められず!』、
『受』は、
『色』中にも、
『認められない!』し、
『受』は、
『想』中に、
『認められない!』。
『想』は、
『想』中に、
『認められない!』し、
『想』は、
『色、受』中に、
『認められず!』、
『想』は、
『行』中に、
『認められない!』。
『行』は、
『行』中に、
『認められず!』、
『行』は、
『色、受、想』中に、
『認められない!』し、
『行』は、
『識』中に、
『認められない!』。
『識』は、
『識』中に、
『認められない!』し、
『識』は、
『色、受、想、行』中に、
『認められない!』。
舍利弗。眼眼中不可得。眼耳中不可得。耳耳中不可得。耳眼中不可得。耳鼻中不可得。鼻鼻中不可得。鼻眼耳中不可得。鼻舌中不可得。舌舌中不可得。舌眼耳鼻中不可得。舌身中不可得。身身中不可得。身眼耳鼻舌中不可得。身意中不可得。意意中不可得。意眼耳鼻舌身中不可得。六入六識六觸六觸因緣生受亦如是。 舎利弗、眼は眼中に得べからず、眼は耳中に得べからず、耳は耳中に得べからず、耳は眼中に得べからず、耳は鼻中に得べからず、鼻は鼻中に得べからず、鼻は眼、耳中に得べからず、鼻は舌中に得べからず、舌は舌中に得べからず、舌は眼、耳、鼻中に得べからず、舌は身中に得べからず、身は身中に得べからず、身は眼、耳、鼻、舌中に得べからず、身は意中に得べからず、意は意中に得べからず、意は眼、耳、鼻、舌、身中に得べからず、六入、六識、六触、六触因縁生の受も亦た是の如し。
舍利弗!
『眼』は、
『眼』中に、
『認められず!』、
『眼』は、
『耳』中にも、
『認められない!』。
『耳』は、
『耳』中に、
『認められず!』、
『耳』は、
『眼』中にも、
『認められない!』し、
『耳』は、
『鼻』中に、
『認められない!』。
『鼻』は、
『鼻』中に、
『認められない!』し、
『鼻』は、
『眼、耳』中に、
『認められず!』、
『鼻』は、
『舌』中に、
『認められない!』。
『舌』は、
『舌』中に、
『認められず!』、
『舌』は、
『眼、耳、鼻』中に、
『認められない!』し、
『舌』は、
『身』中に、
『認められない!』。
『身』は、
『身』中に、
『認められない!』し、
『身』は、
『眼、耳、鼻、舌』中に、
『認められず!』、
『身』は、
『意』中に、
『認められない!』。
『意』は、
『意』中に、
『認められない!』し、
『意』は、
『眼、耳、鼻、舌、身』中に、
『認められない!』。
『六入、六識、六触、六触因縁生の受』も、
亦た、
『是の通りである!』。
檀波羅蜜乃至般若波羅蜜。內空乃至無法有法空。四念處乃至十八不共法。一切三昧門。一切陀羅尼門性法。乃至辟支佛法。初地乃至十地。一切智道種智。一切種智亦如是。須陀洹乃至阿羅漢辟支佛菩薩佛亦如是。 檀波羅蜜、乃至般若波羅蜜、内空、乃至無法有法空、四念処、乃至十八不共法、一切の三昧門、一切の陀羅尼門、性の法、乃至辟支仏の法、初地、乃至十地、一切智、道種智、一切種智も、亦た是の如し。須陀洹、乃至阿羅漢、辟支仏、菩薩、仏も、亦た是の如し。
『檀波羅蜜、乃至般若波羅蜜も!』、
『内空、乃至無法有法空も!』、
『四念処、乃至十八不共法も!』、
『一切の三昧門、一切の陀羅尼門も!』、
『性の法、乃至辟支仏の法も!』、
『初地、乃至十地も!』、
『一切智、道種智、一切種智も!』、
亦た、
『是の通りであり!』、
『須陀洹、乃至阿羅漢、辟支仏、菩薩、仏も!』、
亦た、
『是の通りである!』。
菩薩菩薩中不可得。菩薩般若波羅蜜中不可得。般若波羅蜜般若波羅蜜中不可得。般若波羅蜜菩薩中不可得。般若波羅蜜中教化無所有不可得。教化中教化無所有不可得。教化中菩薩及般若波羅蜜無所有不可得。 菩薩は菩薩中に得べからず。菩薩は般若波羅蜜中に得べからず。般若波羅蜜は般若波羅蜜中に得べからず。般若波羅蜜は菩薩中に得べからず。般若波羅蜜中に教化は無所有にして、得べからず。教化中に教化は無所有にして、得べからず。教化中に菩薩、及び般若波羅蜜は無所有にして、得べからず。
『菩薩』は、
『菩薩』中に、
『認められず!』、
『菩薩』は、
『般若波羅蜜』中にも、
『認められない!』。
『般若波羅蜜』は、
『般若波羅蜜』中に、
『認められず!』、
『般若波羅蜜』は、
『菩薩』中にも、
『認められない!』。
『般若波羅蜜』中には、
『教化(教導・化成)』は、
『無所有であり!』、
『認められず!』、
『教化』中に、
『教化』は、
『無所有であり!』、
『認められず!』、
『教化』中に、
『菩薩と、般若波羅蜜と!』は、
『無所有であり!』、
『認められない!』。
  教化(きょうけ):梵語 paripaacana の訳、料理する/成熟させること( cooking, ripening )、[比喩的に]成熟させること( bringing to maturity )、成熟させる行為( the act of bringing to maturity )等の義。
舍利弗。如是一切法無所有不可得。以是因緣故。一切種一切處菩薩不可得。當教何等菩薩般若波羅蜜。 舎利弗、是の如く一切の法は無所有にして得べからず。是の因縁を以っての故に、一切種、一切処に菩薩は得べからず、当に、何等の菩薩にか、般若波羅蜜を教うべきや。
舍利弗!
是のように、
『一切の法』は、
『無所有であり!』、
『認められない!』ので、
是の、
『因縁』の故に、
『一切の種や、一切の処』に、
『菩薩』は、
『認められない!』。
何のような、
『菩薩』に、
『般若波羅蜜』を、
『教えねばならないのだろうか?』。
如舍利弗言。何因緣故說菩薩摩訶薩但有假名。 舎利弗の言うが如く、何の因縁の故にか、菩薩摩訶薩を説くに、但だ仮名有るのみ。
『舍利弗』の言うように、――
何のような、
『因縁』の故に、こう説くのだろうか?――
『菩薩摩訶薩には!』、
但だ、
『仮名のみ!』が、
『有るのだ!』、と。
  参考:『大般若経巻66』:『爾時具壽善現復答舍利子言。如尊者所云。何緣故說。菩薩摩訶薩但有假名者。舍利子。菩薩摩訶薩名唯客所攝故。時舍利子問善現言。何緣故說。菩薩摩訶薩名唯客所攝。善現答言。如一切法名唯客所攝。於十方三世無所從來無所至去亦無所住。一切法中無名。名中無一切法。非合非離但假施設。何以故。以一切法與名俱自性空故。自性空中若一切法若名。俱無所有不可得故。菩薩摩訶薩名亦復如是唯客所攝。於十方三世無所從來無所至去亦無所住。菩薩摩訶薩中無名。名中無菩薩摩訶薩。非合非離但假施設。何以故。以菩薩摩訶薩與名俱自性空故。自性空中若菩薩摩訶薩若名。俱無所有不可得故。舍利子。由此緣故我作是說。菩薩摩訶薩但有假名。舍利子。如色名唯客所攝。於十方三世無所從來無所至去亦無所住。色中無名。名中無色。非合非離但假施設。何以故。以色與名俱自性空故。自性空中若色若名。俱無所有不可得故。如受想行識名唯客所攝。於十方三世無所從來無所至去亦無所住。受想行識中無名。名中無受想行識。非合非離但假施設。何以故。以受想行識與名俱自性空故。自性空中若受想行識若名。俱無所有不可得故。菩薩摩訶薩名亦復如是。唯客所攝。於十方三世無所從來無所至去亦無所住。菩薩摩訶薩中無名。名中無菩薩摩訶薩。非合非離但假施設。何以故。以菩薩摩訶薩與名俱自性空故。自性空中若菩薩摩訶薩若名。俱無所有不可得故。舍利子。由此緣故我作是說。菩薩摩訶薩但有假名』
舍利弗。色是假名。受想行識是假名。色名非色受。想行識名非識。 舎利弗、色は是れ仮名なり。受想行識は是れ仮名なり。色は色に非ずと名づけ、受想行識は識に非ずと名づくればなり。
舍利弗!
『色や!』、
『受想行識は!』、
『仮名である!』が故に、
即ち、
『色』は、
『色でない!』者を、
『呼ぶのであり!』、
『受想行識』は、
『識でない!』者を、
『呼ぶのである!』。
何以故。名名相空。若空則非菩薩。以是因緣故。舍利弗。菩薩但有假名。 何を以っての故に、名と、名の相とは空なればなり。若し空なれば、則ち菩薩に非ず。是の因縁を以っての故に、舎利弗、菩薩には、但だ仮名有るのみ。
何故ならば、
『名や!』、
『名の相は!』、
『空だからであり!』、
若し、
『菩薩』が、
『空ならば!』、
『菩薩でないことになる!』。
是の、
『因縁』の故に、
舍利弗!
『菩薩』には、
但だ、
『仮名のみ!』が、
『有るのである!』。
復次舍利弗。檀波羅蜜但有名字。名字中非有檀波羅蜜。檀波羅蜜中非有名字。以是因緣故。菩薩但有假名。 復た次ぎに、舎利弗、檀波羅蜜は、但だ名字のみ有り。名字の中に、檀波羅蜜有るに非ず。檀波羅蜜の中に、名字有るに非ず。是の因縁を以っての故に、菩薩には、但だ仮名有るのみ。
復た次ぎに、
舍利弗!
『檀波羅蜜』は、
但だ、
『名字のみ!』が、
『有るだけなのだ!』。
『名字』中に、
『檀波羅蜜が有るのではなく!』、
『檀波羅蜜』中に、
『名字が有るのでもない!』。
是の、
『因縁』の故に、
『菩薩』には、
但だ、
『仮名のみ!』が、
『有るのだ!』。
尸羅波羅蜜。羼提波羅蜜。毘梨耶波羅蜜。禪波羅蜜。般若波羅蜜。但有名字。名字中無有般若波羅蜜。般若波羅蜜中無有名字。以是因緣故菩薩但有假名。 尸羅波羅蜜、羼提波羅蜜、毘梨耶波羅蜜、禅波羅蜜、般若波羅蜜には、但だ名字のみ有り。名字の中に、般若波羅蜜有ること無く、般若波羅蜜中に名字有ること無し。是の因縁を以っての故に、菩薩は但だ仮名有るのみ。
『尸羅、羼提、毘梨耶、禅、般若波羅蜜』は、
但だ、
『名字のみ!』が、
『有るだけなのだ!』。
『名字』中に、
『般若波羅蜜は無く!』、
『般若波羅蜜』中にも、
『名字は無い!』。
是の、
『因縁』の故に、
『菩薩』には、
但だ、
『仮名のみ!』が、
『有るのだ!』。
舍利弗。內空但有名字。乃至無法有法空但有名字。名字中無內空。內空中無名字。何以故。名字內空俱不可得。乃至無法有法空亦如是。以是因緣故。舍利弗。菩薩但有假名。 舎利弗、内空は但だ名字有るのみ。乃至無法有法空も但だ名字有るのみ。名字中に内空無く、内空中に名字無し。何を以っての故に、名字と、内空は倶に得べからず、乃至無法有法空も亦た是の如し。是の因縁を以っての故に、舎利弗、菩薩は但だ名字のみ有り。
舍利弗!
『内空』には、
但だ、
『名字のみ!』が、
『有り!』、
乃至、
『無法有法空』にも、
但だ、
『名字のみ!』が、
『有る!』。
『名字』中には、
『内空が無く!』、
亦た、
『内空』中にも、
『名字』は、
『無い!』。
何故ならば、
『名字も、内空も!』、
皆、
『認められないからであり!』、
乃至、
『無法有法空』も、
『是の通りだからである!』。
是の、
『因縁』の故に、
舍利弗!
『菩薩』には、
但だ、
『仮名のみ!』が、
『有るのだ!』。
舍利弗。四念處但有名字。乃至十八不共法但有名字。一切三昧門。一切陀羅尼門。乃至一切種智亦如是。以是因緣故。舍利弗。我說菩薩但有假名。 舎利弗、四念処は但だ名字有るのみ。乃至十八不共法も但だ名字のみ有り。一切の三昧門、一切の陀羅尼門、乃至一切種智も亦た是の如し。是の因縁を以っての故に、舎利弗、我れは、『菩薩は、但だ仮名有るのみ』と説く。
舍利弗!
『四念処』には、
但だ、
『名字のみ!』が
『有り!』、
乃至、
『十八不共法』にも、
但だ、
『名字のみ!』が、
『有る!』。
『一切の三昧門や、一切の陀羅尼門、乃至一切種智も!』、
亦た、
『是の通りである!』。
是の、
『因縁』の故に、
舍利弗!
わたしは、こう説くのである、――
『菩薩』には、
但だ、
『仮名のみ!』が、
『有るのだ!』、と。
如舍利弗言。何因緣故。說我名字畢竟不生。 舎利弗の言うが如く、何の因縁の故にか、『我の名字は、畢竟じて生ぜず』と説く。
『舍利弗』の言うように、
何のような、
『因縁』の故に、こう説くのだろうか?――
『我という!』、
『名字』は、
『畢竟じて生じない!』、と。
舍利弗。我畢竟不可得。云何當有生。乃至知者見者畢竟不可得。云何當有生。 舎利弗、我は畢竟じて得べからず、云何が、当に生有るべき。乃至知者、見者も畢竟じて得べからず、云何が、当に生有るべき。
舍利弗!
『我』は、
『畢竟じて!』、
『認められないからである!』。
何故、
『我』に、
『生が有るのか?』。
乃至、
『知者、見者』も、
『畢竟じて!』、
『認められない!』。
何故、
『生』が、
『有るのか?』。
舍利弗色畢竟不可得。云何當有生。受想行識畢竟不可得。云何當有生。眼畢竟不可得。乃至意觸因緣生受畢竟不可得。云何當有生。 舎利弗、色は畢竟じて得べからず、云何が、当に生有るべき。受想行識は畢竟じて得べからず、云何が、当に生有るべき。眼は畢竟じて得べからず、乃至意触因縁生の受も畢竟じて得べからず、云何が、当に生有るべき。
舍利弗!
『色』は、
『畢竟じて!』、
『認められない!』のに、
何故、
『生』が、
『有るのか?』。
『受想行識』は、
『畢竟じて!』、
『認められない!』のに、
何故、
『生』が、
『有るのか?』。
『眼、乃至意触因縁生の受』は、
『畢竟じて!』、
『認められない!』のに、
何故、
『生』が、
『有るのか?』。
檀波羅蜜畢竟不可得。乃至般若波羅蜜畢竟不可得。云何當有生。內空畢竟不可得。乃至無法有法。空畢竟不可得。云何當有生。四念處畢竟不可得。乃至十八不共法畢竟不可得。云何當有生。諸三昧門。諸陀羅尼門畢竟不可得。云何當有生。聲聞乃至佛畢竟不可得。云何當有生。 檀波羅蜜は畢竟じて得べからず、乃至般若波羅蜜も畢竟じて得べからず、云何が、当に生有るべき。内空は畢竟じて得べからず、乃至無法有法空も畢竟じて得べからず、云何が、当に生有るべき。四念処は畢竟じて得べからず、乃至十八不共法も畢竟じて得べからず、云何が、当に生有るべき。諸の三昧門、諸の陀羅尼門は畢竟じて得べからず、云何が、当に生有るべき。声聞、乃至仏は畢竟じて得べからず、云何が、当に生有るべき。
『檀波羅蜜、乃至般若波羅蜜』は、
『畢竟じて!』、
『認められない!』のに、
何故、
『生』が、
『有るのか?』。
『内空、乃至無法有法空』は、
『畢竟じて!』、
『認められない!』のに、
何故、
『生』が、
『有るのか?』。
『四念処、乃至十八不共法』は、
『畢竟じて!』、
『認められない!』のに、
何故、
『生』が、
『有るのか?』。
『諸の三昧門、諸の陀羅尼門』は、
『畢竟じて!』、
『認められない!』のに、
何故、
『生』が、
『有るのか?』。
『声聞、乃至仏』は、
『畢竟じて!』、
『認められない!』のに、
何故、
『生』が、
『有るのか?』。
以是因緣故。舍利弗。我說如我名字。我亦畢竟不生 是の因縁を以っての故に、舎利弗、我れは、『我の名字の如く、我も亦た畢竟じて生ぜず』と説けり。
是の、
『因縁』の故に、
舍利弗!
わたしは、こう説くのである、――
『我という!』、
『名字のように!』、
『我』も、
『畢竟じて!』、
『生じないのだ!』、と。



【論】菩薩は無辺である

【論】問曰。心心數法無形不可見故可無邊。色是有形可見云何無邊。 問うて曰く、心心数法は、無形、不可見なるが故に無辺なるべし。色は、是れ有形、可見なるに、云何が無辺なる。
問い、
『心、心数法』は、
『無形、不可見である!』が故に、
『辺』が、
『無くてもよい!』が、
『色』は、
『有形、可見である!』のに、
何故、
『辺』が、
『無いのですか?』。
答曰。無處不有色。不可得籌量遠近輕重。如佛說四大。無處不有故名為大。不可以五情得其限。不可以斗稱量其多少輕重。是故言色無邊。 答えて曰く、処として、色の有らざる無けれども、遠近、軽重を籌量するを得べからざればなり。仏の説きたもうが如し、『四大は、処として有らざる無きが故に、名づけて大と為し、五情を以って其の限を得るべからず、斗を以って、其の多少、軽重を称量すべからず。』と。是の故に、色は無辺なりと言う。
答え、
『色の存在しない!』、
『処』は、
『無い!』が、
『色』の、
『遠近、軽重』を、
『籌量することができないからである!』。
『仏』が、こう説かれた通りである、――
『四大の存在しない!』、
『処が無い!』が故に、
『大』と、
『称するのであり!』、
『四大』は、
其の、
『限界』を、
『五情を用いて!』、
『認識することはできず!』、
其の、
『多少、軽重』を、
『斗(ます)を用いて!』、
『称量することもできない!』ので、
是の故に、
『色』には、
『辺が無い!』と、
『言うのである!』。
復次是色過去時初始不可得。未來時中無有恒河沙劫數限。色當有盡。是故無後邊。初邊後邊無故中亦無。 復た次ぎに、是の色は、過去の時には初始を得べからず、未来時中にも、恒河沙劫の数限有りて、色の当に尽くすこと有ること無ければ、是の故に、後辺無し。初辺、後辺無きが故に、中も亦た無し。
復た次ぎに、
是の、
『色』は、
『過去時』中に、
『初始』を、
『認められない!』し、
『未来時』中にも、
『色が尽きるような!』、
『恒河沙劫の数限』は、
『存在しない!』ので、
是の故に、
『色』には、
『後辺(未来の辺際)』が、
『無く!』、
『初辺、後辺が無い!』が故に、
『中』も、
『無いのである!』。
復次邊名色相。是色分別破散。邊不可得無有本相。 復た次ぎに、辺を、色の相と名づく。是の色、分別破散するに、辺を得べからざれば、本の相の有ること無し。
復た次ぎに、
『辺』が、
『色』の、
『相だとすれば!』、
是の、
『色』は、
『分散して!』、
『破滅する!』ので、
『辺』も、
『認められなくなり!』、
則ち、
『本の相』が、
『存在しないことになる!』。
復次無為法不生不滅故。無數無量無邊。以法空觀觀色皆空。與虛空及無為同相。 復た次ぎに、無為法は不生、不滅なるが故に、無数、無量、無辺なり。法空の観を以って、色を観れば、皆空なり。虚空、及び無為と相を同じうす。
復た次ぎに、
『無為法』は、
『不生、不滅である!』が故に、
『数、量、辺』が、
『無く!』、
『法空の観を用いて!』、
『色を観れば!』、
皆、
『空であり!』、
『色』は、
『虚空や、無と!』、
『同相となる!』。
無量無數無邊法中。乃至微塵不可得。何況菩薩。是故說五眾無邊。菩薩亦無邊。如色無邊乃至十八不共法亦如是。隨相分別如先說。 無量、無数、無辺の法中に、乃至微塵ばかりも得べからず。何に況んや、菩薩をや。是の故に説かく、『五衆は無辺なり。菩薩も亦た無辺なり。色の無辺なるが如く、乃至十八不共法も亦た是の如し。』と。相に随いて分別すること、先に説けるが如し。
『無量、無数、無辺の法』中には、
乃至、
『微塵すら!』、
『認識できない!』。
況して、
『菩薩など!』、
『認められるはずがない!』ので、
是の故に、こう説くのである、――
『五衆は無辺であり!』、
亦た、
『菩薩』も、
『無辺であり!』、
『色が無辺であるように!』、
乃至、
『十八不共法』も、
『是の通りである!』、と。
『相に随って!』、
『分別すれば!』、
先に、
『説く通りである!』。
  参考:『大智度論巻31上釈初品中十八空義品』:『大乘說內法中無內法相。外法中無外法相。如般若波羅蜜中說。色色相空。受想行識識相空。眼眼相空。耳鼻舌身意意相空。色色相空。聲香味觸法法相空。如是等一切諸法自法空。』
是五眾無量無數無邊故。不得言色是菩薩。四眾亦如是。 是の五衆は、無量、無数、無辺なるが故に、『色は、是れ菩薩なり。四衆も亦た是の如し。』と言うを得ず。
是の、
『五衆には量、数、辺が無い!』が故に、
『色』は、
『菩薩である!』と、
『言うことができず!』、
亦た、
『四衆(受想行識)』も、
『是の通りである!』、
復次色若離心心數法。如草木瓦石。云何名菩薩。若心心數法。離色則無依止處亦無所能為。云何名菩薩。 復た次ぎに、色は、若し心心数法を離れば、草木、瓦石の如し。云何が、菩薩と名づくる。若し心心数法ならば、色を離れて、則ち依止する処無く、亦た能く為す所無し。云何が、菩薩と名づくる。
復た次ぎに、
『色』は、
若し、
『心、心数法を離れれば!』、
『草木、瓦石』と、
『同じである!』。
何故、
『菩薩』と、
『呼ぶことができるのか?』。
若し、
『心、心数法』が、
『色を離れれば!』、
則ち、
『依止する処』が、
『無くなり!』、
亦た、
『能為( thinking )する所()』が、
『無いことになる!』。
何故、
『菩薩』と、
『称するのか?』。
  (い):作す/行う/作る( do, act, meke )、製作/創作( meke, compose )、治める( administer )、成る/変成する( become )、は/是( be )、学習/研究( study )、種える( plant )、設立/建立( establish )、させる/使( let )、思う/信じる/考える( think, bilieve, consider )、演奏( play )、によって/られる//被( by )、於いて/在( in )、と/並列関係( and )、そこで/則( then )、もし( if )、或は( or )、助ける( help )、訴える/言う( tell, speak )、由って/為めに( because, for, on account of )、為めに( for, for the benefit of, for the sake of )、向って( facing to, toward )。
復次六波羅蜜。十八空三十七品十力乃至十八不共法。如法性實際不可思議性。三解脫門陀羅尼門諸三昧門薩婆若道智一切種智三乘三乘人。是法若修若觀是名菩薩。 復た次ぎに、六波羅蜜、十八空、三十七品、十力、乃至十八不共法、如、法性、実際、不可思議性、三解脱門、陀羅尼門、諸三昧門、薩婆若、道智、一切種智、三乗、三乗の人は是れ法にして、若しは修め、若しは観れば、是れを菩薩と名づく。
復た次ぎに、
『六波羅蜜や、十八空、三十七品、十力、乃至十八不共法』、
『如や、法性、実際、不可思議性』、
『三解脱門、陀羅尼門、諸三昧門』、
『薩婆若、道智、一切種智や!』、
『三乗や、三乗の人』は、
是れが、
『法であり!』、
若し、
『修行したり!』、
『観察したりすれば!』、
是れを、
『菩薩』と、
『称する!』。
是法皆以自相空故空。所謂檀波羅蜜。檀波羅蜜相空。乃至佛佛相空。 是の法は、皆、自相の空なるを以っての故に、空なり。謂わゆる檀波羅蜜と、檀波羅蜜の相は空なり。乃至仏と、仏の相は空なり。
是の、
『法』は、
皆、
『自相が空である!』が故に、
『空であり!』、
謂わゆる、
『檀波羅蜜も!』、
『檀波羅蜜の自相も!』、
『空であり!』、
乃至、
『仏も!』、
『仏の自相も!』、
『空なのである!』。
一切處者。五眾十二入十八界乃至一切種智。 一切の処とは、五衆、十二入、十八界、乃至一切種智なり。
『一切の処』とは、
『五衆、十二入、十八界、乃至一切種智である!』。
一切種智。者十八空三解脫門。般若波羅蜜觀。若常若無常等。入一門二門乃至無量門等。是名一切種智。求索菩薩不可得。 一切種智とは、十八空、三解脱門、般若波羅蜜、若しは常、若しは無常等を観る、一門、二門、乃至無量の門に入る等なり。是れを一切種智と名づけ、菩薩を求索するも得べからざるなり。
『一切種智』とは、
『十八空、三解脱門、般若波羅蜜や!』、
『常なのか、無常なのかを観る!』等、
『一門、二門、乃至無量の門に入る!』等、
是れを、
『一切種智と呼ぶのである!』が、
此の中に、
『菩薩』を、
『求索しても!』、
『認められない!』。
又以自法中無自法。亦無他法。如此中說。色色中不可得。色受中不可得。受受中不可得。受色中不可得。乃至般若波羅蜜。般若波羅蜜中不可得。乃至教化中教化不可得。 又自法中に自法無きを以って、亦た他法も無し。此の中に説くが如し、『色は、色中に得べからず、色は、受中に得べからず。受は、受中に得べからず、受は、色中に得べからず、乃至般若波羅蜜は、般若波羅蜜中に得べからず、乃至教化中に、教化を得べからず。』と。
又、
『自法』中には、
『自法が無い!』が故に、
亦た、
『他法』も、
『無い!』。
此の中には、こう説かれている、――
『色』は、
『色中に認められず!』、
『受』中にも、
『認められない!』、
『受』は、
『受中にも認められず!』、
『色』中にも、
『認められない!』、
乃至、
『般若波羅蜜』は、
『般若波羅蜜』中に、
『認められず!』、
乃至、
『教化』は、
『教化』中に、
『認められない!』、と。
但有名字者。是五眾破壞散滅。如虛空無異。是菩薩但有名字。如幻化人。假名字中更為立名。 但だ名字のみ有りとは、是の五衆は、破壊散滅するに、虚空と異無きが如し。是の菩薩は、但だ名字のみ有ること、幻化の人の如し、仮に名字中に、更に為に名を立つるのみ。
但だ、
『名字のみ!』が、
『有るだけだ!』とは、――
是の、
『五衆』は、
『破壊し!』、
『散滅する!』ので、
譬えば、
『虚空』と、
『異ならないように!』、
是の、
『菩薩』も、
但だ、
『名字』が、
『有るだけで!』、
譬えば、
『幻化』の、
『人のように!』、
仮に、
『名字』中に、
更に、
『名』が、
『立てられただけである!』。
須菩提語舍利弗。不但菩薩假名字。五眾皆亦假名字。假名字中假名字相不可得。皆入第一義中。若如是空者則非菩薩。 須菩提の舎利弗に語らく、『但だ菩薩のみ、仮の名字にあらず。五衆は、皆、亦た仮の名字なり。仮の名字中に、仮の名字の相は得べからずして、皆、第一義中に入る。若し是の如き空なれば、則ち菩薩に非ず。』と。
『須菩提』は、
『舍利弗』に、こう語った、――
但だ、
『菩薩だけが!』、
『仮の!』、
『名字であるだけではなく!』、
『五衆も皆!』、
『仮の!』、
『名字であり!』、
『仮の名字』中には、
『仮の名字の相』は、
『認められず!』、
皆、
『第一義()』中に、
『入る!』ので、
若し、
是のような、
『空ならば!』、
『菩薩ではないことになる!』、と。
復次六波羅蜜。乃至一切種智。行是法故名為菩薩。是法亦假名字。菩薩亦假名字。空無所有。是諸法等強為作名。因緣和合故有。亦無其實。 復た次ぎに、六波羅蜜、乃至一切種智は、是の法を行ずるが故に、名づけて菩薩と為す。是の法も、亦た仮の名字なれば、菩薩も、亦た仮の名字にして、空、無所有なり。是の諸の法等は、強いて為に名を作り、因縁和合の故に有るも、亦た其の実無し。
復た次ぎに、
『六波羅蜜、乃至一切種智』は、
是の、
『法を行う!』が故に、
『菩薩』と、
『呼ばれる!』が、
是の、
『法』も、
『仮の!』、
『名字であり!』、
亦た、
『菩薩』も、
『仮の!』、
『名字である!』が故に、
皆、
『空であり!』、
『所有が無い!』のに、
是の、
『諸の法』等は、
強いて、
『名字が作られ!』、
『因縁の和合』の故に、
『有る!』が、
其の、
『実』は、
『無い!』。
我名字畢竟不生者。如此品初已說。此中須菩提。亦如眾生空法空破我。所謂我畢竟不可得。乃至知者見者不可得。云何當有生。 我の名字も畢竟じて生ぜずとは、此の品の初に已に説けるが如し。此の中に須菩提は、亦た衆生空、法空の我を破るが如し。謂わゆる『我は畢竟じて得べからず、乃至知者、見者も得べからず、云何が、当に生有るべき。
『我の名字』は、
『畢竟じて!』、
『生じない!』とは、――
此の、
『品の初に!』、
『已に説いた通りである!』が、
此の中に、
『須菩提』は、
『衆生空や、法空のように!』、
『我』を、
『破った!』。
謂わゆる、
『我』は、
『畢竟じて!』、
『認められず!』、
乃至、
『知者、見者も!』、
『認められない!』のに、
何故、
『生』が、
『有らねばならぬのか?』、と。
  参考:『大智度論巻52上十無品』:『【經】慧命須菩提白佛言。世尊。菩薩摩訶薩前際不可得。後際不可得。中際不可得。色無邊故。當知菩薩摩訶薩亦無邊。受想行識無邊故。當知菩薩摩訶薩亦無邊。色是菩薩摩訶薩。是亦不可得。受想行識。是菩薩摩訶薩。是亦不可得。如是世尊。於一切種一切處。求菩薩不可得。世尊。我當教何等菩薩摩訶薩般若波羅蜜。世尊。菩薩摩訶薩但有名字。如說我名字。我畢竟不生。如我諸法亦如是無自性。何等色畢竟不生。何等受想行識畢竟不生。世尊。是畢竟不生。不名為色。是畢竟不生。不名為受想行識。世尊。若畢竟不生法。當教誰是般若波羅蜜耶。離畢竟不生。亦無菩薩行阿耨多羅三藐三菩提。若菩薩聞作是說。心不沒不悔不驚不怖不畏。當知是菩薩摩訶薩。能行般若波羅蜜。』
五眾畢竟不可得。云何有五眾生。乃至意觸因緣生受畢竟不可得。云何當有生。六波羅蜜畢竟不可得。乃至諸陀羅尼門三昧門。聲聞辟支佛佛畢竟不可得。云何當有生。 五衆は、畢竟じて得べからず、云何が、五衆の生有る。乃至意触因縁生の受は、畢竟じて得べからず、云何が、当に生有るべき。六波羅蜜は、畢竟じて得べからず、乃至諸の陀羅尼門、三昧門、声聞、辟支仏、仏も、畢竟じて得べからず、云何が、生有るべき。
『五衆』は、
『畢竟じて認められない!』のに、
何故、
『五衆の生』が、
『有るのか?』。
乃至、
『意触因縁生の受』は、
『畢竟じて!』、
『認められない!』のに、
何故、
『生』が、
『有らねばならぬのか?』。
『六波羅蜜』は、
『畢竟じて認められず!』、
乃至、
『諸の陀羅尼門、三昧門、声聞、辟支仏、仏』は、
『畢竟じて!』、
『認められない!』のに、
何故、
『生』が、
『有らねばならぬのか?』。
若法先有然後可問生。法體先無云何有生 若し法、先に有らば、然る後に生を問うべし。法の体、先に無きに、云何が、生有らんと。
若し、
『法』が、
『先に有れば!』、
その後に、
『生』を、
『問うてもよいだろうが!』、
『法の体』が、
『先に無い!』のに、
何故、
『生』が、
『有るのか?』、と。
  参考:『中論巻2三相品』:『問曰。若法無生應有住。答曰 不住法不住  住法亦不住  住時亦不住  無生云何住  住時亦不住。離住不住更無住時。是故亦不住。如是一切處求住不可得故。即是無生。若無生云何有住。』



【經】諸法は無常であるが、失われない

【經】如舍利弗所言。如我諸法亦如是無自性。 舎利弗の言う所の如し。我の如く、諸法も、亦た是の如く、自性無し。
『舍利弗』の言うように、――
『我のように!』、
『諸の法』も、
是のように、
『自性』が、
『無い!』。
  参考:『大般若経巻67』:『爾時具壽善現。復答舍利子言。如尊者所云。何緣故說。諸法亦。爾都無自性者。舍利子。諸法都無和合自性。何以故。和合有法自性空故。時舍利子問善現言。何法都無和合自性。善現答言。舍利子。色都無和合自性。受想行識都無和合自性。舍利子。眼處都無和合自性。耳鼻舌身意處都無和合自性。舍利子。色處都無和合自性。聲香味觸法處都無和合自性。舍利子。眼界都無和合自性。色界眼識界及眼觸眼觸為緣所生諸受都無和合自性。舍利子。耳界都無和合自性。聲界耳識界及耳觸耳觸為緣所生諸受都無和合自性。舍利子。鼻界都無和合自性。香界鼻識界及鼻觸鼻觸為緣所生諸受都無和合自性。舍利子。舌界都無和合自性。味界舌識界及舌觸舌觸為緣所生諸受都無和合自性。舍利子。身界都無和合自性。觸界身識界及身觸身觸為緣所生諸受都無和合自性。舍利子。意界都無和合自性。法界意識界及意觸意觸為緣所生諸受都無和合自性。舍利子。地界都無和合自性。水火風空識界都無和合自性。舍利子。無明都無和合自性。行識名色六處觸受愛取有生老死愁歎苦憂惱都無和合自性。舍利子。內空都無和合自性。外空內外空空空大空勝義空有為空無為空畢竟空無際空散空無變異空本性空自相空共相空一切法空不可得空無性空自性空無性自性空都無和合自性』
舍利弗。諸法和合生故無自性。 舎利弗、諸法は、和合の生なるが故に、自性無し。
舍利弗!
『諸の法』は、
『和合の生である!』が故に、
『自性』が、
『無いのだ!』。
舍利弗。何等和合生無自性 舎利弗、何等かの和合の生に、自性無き。
舍利弗!
何のような、
『和合の生』に、
『自性』が、
『無いのか?』。
舍利弗。色和合生無自性。受想行識和合生無自性。眼和合生無自性。乃至意和合生無自性。色乃至法眼界。乃至法界地種。乃至識種眼觸。乃至意觸眼觸因緣生受。乃至意觸因緣生受和合生無自性。檀波羅蜜乃至般若波羅蜜和合生無自性。四念處乃至十八不共法和合生無自性。 舎利弗、色なる和合の生には自性無く、受想行識なる和合の生には自性無し。眼なる和合の生には自性無く、乃至意なる和合の生にも自性無し。色、乃至法、眼界、乃至法界、地種、乃至識種、眼触、乃至意触、眼触因縁生の受、乃至意触因縁生なる和合の生にも自性無し。檀波羅蜜、乃至般若波羅蜜なる和合の生には自性無く、四念処、乃至十八不共法なる和合の生にも自性無し。
舍利弗!
『色という!』、
『和合の生』には、
『自性』が、
『無く!』、
『受想行識という!』、
『和合の生』にも、
『自性』が、
『無い!』。
『眼という!』、
『和合の生』には、
『自性』が、
『無く!』、
乃至、
『意という!』、
『和合の生』にも、
『自性』が、
『無い!』。
『色、乃至法や!』、
『眼界、乃至法界や!』、
『地種、乃至識種や!』、
『眼触、乃至意触や!』、
『眼触因縁生の受、乃至意触因縁生の受という!』、
『和合の生』にも、
『自性』が、
『無く!』、
『檀波羅蜜、乃至般若波羅蜜という!』、
『和合の生』にも、
『自性』が、
『無く!』、
『四念処、乃至十八不共法という!』、
『和合の生』にも、
『自性』が、
『無い!』。
復次舍利弗。一切法無常亦不失。 復た次ぎに、舎利弗、一切の法は無常にして、亦た失(う)せず。
復た次ぎに、
舍利弗!
『一切の法』は、
『無常である!』が、
『失われることがない!』。
  参考:『大般若経巻67』:『復次舍利子。諸法非常亦無散失。何以故。若法非常無盡性故。時舍利子問善現言。何法非常亦無散失。善現答言。舍利子。色非常亦無散失。受想行識非常亦無散失。舍利子。眼處非常亦無散失。耳鼻舌身意處非常亦無散失。舍利子。色處非常亦無散失。聲香味觸法處非常亦無散失。舍利子。眼界非常亦無散失。色界眼識界及眼觸眼觸為緣所生諸受非常亦無散失。舍利子。耳界非常亦無散失。聲界耳識界及耳觸耳觸為緣所生諸受非常亦無散失。舍利子。鼻界非常亦無散失。香界鼻識界及鼻觸鼻觸為緣所生諸受非常亦無散失。舍利子。舌界非常亦無散失。味界舌識界及舌觸舌觸為緣所生諸受非常亦無散失。舍利子。身界非常亦無散失。觸界身識界及身觸身觸為緣所生諸受非常亦無散失。舍利子。意界非常亦無散失。法界意識界及意觸意觸為緣所生諸受非常亦無散失。舍利子。地界非常亦無散失。水火風空識界非常亦無散失。舍利子。苦聖諦非常亦無散失。集滅道聖諦非常亦無散失。舍利子。無明非常亦無散失。行識名色六處觸受愛取有生老死愁歎苦憂惱非常亦無散失。舍利子。內空非常亦無散失。外空內外空空空大空勝義空有為空無為空畢竟空無際空散空無變異空本性空自相空共相空一切法空不可得空無性空自性空無性自性空非常亦無散失』
舍利弗問須菩提何等法無常亦不失。 舎利弗の、須菩提に問わく、『何等の法か、無常にして、亦た失せざる。』と。
『舍利弗』は、
『須菩提』に、こう問うた、――
何のような、
『法』が、
『無常でありながら!』、
『失われないのか?』、と。
須菩提言。色無常亦不失。受想行識無常亦不失。何以故。若法無常即是動相即是空相。以是因緣故。舍利弗。一切有為法無常亦不失。 須菩提の言わく、『色は無常にして、亦た失せず。受想行識は無常にして、亦た失せず。何を以っての故に、若し、法にして無常なれば、即ち是れ動相にして、即ち是れ空相なり。是の因縁を以っての故に、舎利弗、一切の有為法は無常にして、亦た失せず。
『須菩提』は、こう言った、――
『色』は、
『無常である!』が、
『失われず!』、
『受想行識』も、
『無常である!』が、
『失われない!』。
何故ならば、
若し、
『法』が、
『無常ならば!』、
『動相であり!』、
是れは、
即ち、
『空相だからである!』。
是の、
『因縁』の故に、
舍利弗!
『一切の有為法』は、
『無常でありながら!』、
『失われないのだ!』。
若有漏法若無漏法。若有記法若無記法。無常亦不失。何以故。若法無常即是動相即是空相。以是因緣故。舍利弗。一切作法無常亦不失。 若しは有漏法、若しは無漏法、若しは有記法、若しは無記法は無常にして、亦た失せず。何を以っての故に、若し法にして無常なれば、即ち是れ動相にして、即ち是れ空相なり。是の因縁を以っての故に、舎利弗、一切の作法は無常にして、亦た失せず。
若し、
『法』が、
『有為法であろうが、無為法であろうが!』、
『有記法であろうが、無記法であろうが!』、
『無常でありながら!』、
『失われない!』。
何故ならば、
若し、
『法が無常ならば!』、
即ち、
是れは、
『動相であり!』、
『空相であるからだ!』。
是の、
『因縁』の故に、
舍利弗!
一切の、
『作法(有為法)』は、
『無常でありながら!』、
『失われないのである!』。
  作法(さほう):梵語karman、又はkaraNaの訳。又事業、業と訳し、単に作とも訳す。行為、行いの義。『大智度論巻52下注:作法、作者』参照。
復次舍利弗。一切法非常非滅。 復た次ぎに、舎利弗、一切の法は常に非ず、滅に非ず。
復た次ぎに、
舍利弗!
『一切の法』は、
『常でもなく!』、
『滅でもない!』。
舍利弗言。何等法非常非滅。 舎利弗の言わく、『何等の法か、常に非ず、滅に非ざる。』と。
『舍利弗』は、こう言った、――
何のような、
『法』が、
『常でもなく!』、
『滅でもないのか?』、と。
須菩提言。色非常非滅。何以故。性自爾。受想行識非常非滅。何以故。性自爾。乃至意識因緣生受非常非滅。何以故。性自爾。以是因緣故。舍利弗。諸法和合生無自性。 須菩提の言わく、『色は常に非ず、滅に非ず。何を以っての故に、性の自ら爾なればなり。受想行識は常に非ず、滅に非ず。何を以っての故に、性の自ら爾なればなり。乃至意識因縁生の受も常に非ず、滅に非ず。何を以っての故に、性の自ら爾なればなり。是の因縁を以っての故に、舎利弗、諸法なる和合の生には自性無きなり』。
『須菩提』は、こう言った、――
『色』は、
『常でもなく!』、
『滅でもない!』。
何故ならば、
『色の性』は、
『自ら!』、
『爾う( like so )だからである!』。
『受想行識』は、
『常でもなく!』、
『滅でもない!』。
何故ならば、
『色の性』は、
『自ら!』、
『爾うだからである!』。
乃至、
『意識因縁生の受』も、
『常でもなく!』、
『滅でもない!』。
何故ならば、
『色の性』は、
『自ら!』、
『爾うだからである!』。
是の、
『因縁』の故に、
舍利弗!
『諸の法という!』、
『和合の生』には、
『自性』が、
『無いのである!』。
如舍利弗所言。何因緣故色畢竟不生。受想行識畢竟不生。 舎利弗の言う所の如く、何の因縁の故にか、色は畢竟じて生ぜざる、受想行識は畢竟じて生ぜざる。
『舍利弗』の言うように、
何のような、
『因縁』の故に、
『色』は、
『畢竟じて!』、
『不生であり!』、
『受想行識』は、
『畢竟じて!』、
『不生なのか?』。
須菩提言。色非作法。受想行識非作法。何以故。作者不可得故。舍利弗。眼非作法。何以故。作者不可得故。乃至意亦如是。眼界乃至意觸因緣生受亦如是。 須菩提の言わく、『色は作法に非ず、受想行識は作法に非ざればなり。何を以っての故に、作者の得べからざるが故なり。舎利弗、眼は作法に非ず。何を以っての故に、作者の得べからざるが故なり。乃至意も亦た是の如く、眼界、乃至意触因縁生の受も亦た是の如し。
『須菩提』は、こう言った、――
『色も!』、
『受想行識も!』、
『作法(有為法)でないからである!』。
何故ならば、
『作者』が、
『認められないからである!』。
舍利弗!
『眼』は、
『作法ではない!』。
何故ならば、
『作者』が、
『認められないからであり!』、
乃至、
『意』も、
『是の通りである!』。
『眼界、乃至意触因縁生の受』も、
亦た、
『是の通りである!』。
  作法(さほう):◯梵語 karaNa の訳、行為( the act of making, doing, producing, effecting )、行うこと/造ること/成し遂げること/引き起こすこと( doing, making, effecting, causing )の義。又行為, 事, 事業, 令作, 作, 作法, 具, 成, 成所作, 成辨, 所作, 所化, 時間, 立, 能作, 造作等に訳す。◯梵語 saMskRta-dharma, kRtaka の訳、造られた事物/被造物( Thing that are made; created things; artificial things. )。◯梵語 karman, kriyaa, dharmaakara の訳、例えば禁酒/浄行等の仏教徒の修行者の行動に伴う日常行為に関する規則/儀礼/行儀作法( Regulations, protocol, rules of decorum, regarding daily behavior that are followed by renunciant Buddhist practitioners, such as not drinking alcohol, not having sex, as well as rules governing salutations and so forth )。又羯磨と音訳し、受戒等の儀式を遂行すること( To perform ceremonies, such as ordination ceremonies. )。
  作者(さしゃ):梵語 kaaraka の訳、主宰, 人作, 作, 作者, 作者, 使作者, 所作, 所造, 能, 能令, 能作, 能作者, 能行( making , doing , acting , who or what does or produces or creates )の義。
復次舍利弗。一切諸法皆非起非作。何以故。作者不可得故。以是因緣故。舍利弗。色畢竟不生。受想行識畢竟不生。 復た次ぎに、舎利弗、一切の諸法は、皆起に非ず、作に非ず。何を以っての故に、作者の得べからざるが故なり。是の因縁を以っての故に、舎利弗、色は畢竟じて生ぜず、受想行識は畢竟じて生ぜず。
復た次ぎに、
舍利弗!
一切の、
『諸の法』は、
皆、
『起されることもなく!』、
『作されることもない!』。
何故ならば、
『作者』が、
『認められないからである!』。
是の、
『因縁』の故に、
舍利弗!
『色』は、
『畢竟じて!』、
『不生であり!』、
『受想行識』は、
『畢竟じて!』、
『不生なのである!』。
如舍利弗所言。何因緣故畢竟不生。是不名為色畢竟不生。是不名為受想行識。 舎利弗の言う所の如く、何の因縁の故にか、畢竟じて生ぜざる、是れを名づけて色と為さず、畢竟じて生ぜざる、是れを名づけて受想行識と為さざる。
『舍利弗』の言うように、
何のような、
『因縁』の故に、
『畢竟じて不生ならば!』、
是れを、
『色』と、
『呼ばれず!』、
『畢竟じて不生ならば!』、
是れを、
『受想行識』と、
『呼ばないのか?』。
須菩提言。色性空。是空無生無滅無住異。受想行識性空。是空無生無滅無住異。眼乃至一切有為法性空。是空無生無滅無住異。以是因緣故。舍利弗。畢竟不生是不名色。畢竟不生是不名受想行識。 須菩提の言わく、『色の性は空なり。是の空は無生、無滅にして、住異無し。受想行識の性は空なり。是の空は無生、無滅にして、住異無し。眼、乃至一切の有為法の性は空なり。是の空は無生、無滅にして、住異無し。是の因縁を以っての故に、舎利弗、畢竟じて不生なるに、是れを色と名づけず、畢竟じて不生なるに、是れを受想行識と名づけず。
『須菩提』は、こう言った、――
『色』の、
『性は空であり!』、
是の、
『空』には、
『生、滅、住、異』が、
『無い!』。
『受想行識』の、
『性は空であり!』、
是の、
『空』には、
『生、滅、住、異』が、
『無い!』。
『眼、乃至一切の有為法』の、
『性は空であり!』、
是の、
『空』には、
『生、滅、住、異』が、
『無い!』。
是の、
『因縁』の故に、
舍利弗!
『畢竟じて不生ならば!』、
是れを、
『色』と、
『呼ぶことはなく!』、
『畢竟じて不生ならば!』、
是れを、
『受想行識』と、
『呼ぶことはない!』。
如舍利弗所言。何因緣故畢竟不生法。當教是般若波羅蜜耶。 舎利弗の言う所の如く、何の因縁の故にか、畢竟じて生ぜざる法に、当に、是の般若波羅蜜を教うべきや。
『舍利弗』の言うように、――
何のような、
『因縁』の故に、
『畢竟じて不生である!』、
『法(菩薩)』に、
是の、
『般若波羅蜜』を、
『教えねばならぬのか?』。
  参考:『大般若経巻70』:『爾時具壽善現復答舍利子言。如尊者所云。何緣故說我豈能以畢竟不生般若波羅蜜多教誡教授畢竟不生諸菩薩摩訶薩者。舍利子。畢竟不生即是般若波羅蜜多。般若波羅蜜多即是畢竟不生。何以故。畢竟不生與般若波羅蜜多無二無二分故。舍利子。畢竟不生即是菩薩摩訶薩。菩薩摩訶薩即是畢竟不生。何以故。畢竟不生與菩薩摩訶薩無二無二分故。舍利子。由此緣故我作是說。我豈能以畢竟不生般若波羅蜜多教誡教授畢竟不生諸菩薩摩訶薩』
須菩提言。畢竟不生即是般若波羅蜜。般若波羅蜜即是畢竟不生。般若波羅蜜畢竟不生無二無別。以是因緣故。舍利弗。我說畢竟不生。當教是般若波羅蜜耶 須菩提の言わく、『畢竟じて生ぜざれば、即ち是れ般若波羅蜜なり。般若波羅蜜は、即ち是れ畢竟じて生ぜず。般若波羅蜜と、畢竟じて生ぜざるとは、無二無別なり。是の因縁を以っての故に、舎利弗、我れは、畢竟じて生ぜざるに、『当に、是の般若波羅蜜を教うべし』と説けりや。
『須菩提』は、こう言った、――
『畢竟じて不生ならば!』、
即ち、
是れが、
『般若波羅蜜であり!』、
『般若波羅蜜』は、
即ち、
『畢竟じて!』、
『不生なのである!』。
『般若波羅蜜と!』、
『畢竟じて不生である!』こととは、
『無二、無別であり!』、
是の、
『因縁』の故に、
舍利弗!
わたしは、
『畢竟じて不生である!』者に、
是の、
『般若波羅蜜を教えねばならぬ!』と、
『説いたのだろうか?』。
如舍利弗所言。何因緣故離畢竟不生。無菩薩行阿耨多羅三藐三菩提。 舎利弗の言う所の如く、何の因縁の故にか、畢竟じて生ぜざるを離れて、菩薩の阿耨多羅三藐三菩提を行ずる無き。
『舍利弗』の言うように、――
何のような、
『因縁』の故に、
『畢竟じて不生である!』者を、
『離れれば!』、
『阿耨多羅三藐三菩提を行う!』、
『菩薩』が、
『無いのか?』。
須菩提言。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。不見畢竟不生異般若波羅蜜。亦不見畢竟不生異菩薩。畢竟不生及菩薩無二無別。 須菩提の言わく、『菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行ずる時、畢竟じて生ぜざるを般若波羅蜜と異なりと見ず、亦た畢竟じて生ぜざるを菩薩と異なりと見ず、畢竟じて生ぜざると、及び菩薩とは無二無別なればなり。
『須菩提』は、こう言った、――
『菩薩摩訶薩』が、
『般若波羅蜜を行う!』時、
『畢竟じて不生である!』者を、
『般若波羅蜜』と、
『異なる!』と、
『見ることなく!』、
亦た、
『畢竟じて不生である!』者を、
『菩薩』と、
『異なる!』とも、
『見ない!』。
『畢竟じて不生である!』者は、
『菩薩』とは、
『無二であり!』、
『無別だからである!』。
不見畢竟不生異色。何以故。是畢竟不生及色無二無別。不見畢竟不生異受想行識。何以故。畢竟不生受想行識無二無別。乃至一切種智亦如是。 畢竟じて生ぜざるを色に異なりと見ず。何を以っての故に、是の畢竟じて生ぜざると、及び色とは無二無別なればなり。畢竟じて生ぜざるを受想行識に異なりと見ず。何を以っての故に、畢竟じて生ぜざると、受想行識とは無二無別なればなり。乃至一切種智も、亦た是の如し。
『畢竟じて不生である!』者を、
『色』と、
『異なる!』とも、
『見ない!』。
何故ならば、
是の、
『畢竟じて不生である!』者は、
『色』と、
『無二であり!』、
『無別だからである!』。
『畢竟じて不生である!』者を、
『受想行識』と、
『異なる!』とも、
『見ない!』。
何故ならば、
是の、
『畢竟じて不生である!』者は、
『受想行識』と、
『無二であり!』、
『無別だからである!』。
乃至、
『一切種智』も、
亦た、
『是の通りである!』。
以是因緣故。舍利弗。離畢竟不生。無菩薩行阿耨多羅三藐三菩提。 是の因縁を以っての故に、舎利弗、畢竟じて生ぜざるを離れて、菩薩の阿耨多羅三藐三菩提を行ずる無きなり。
是の、
『因縁』の故に、
舍利弗!
『畢竟じて不生である!』者を、
『離れて!』、
『阿耨多羅三藐三菩提を行う!』、
『菩薩』は、
『無いのである!』。
如舍利弗所言。何因緣故。菩薩聞作是說。心不沒不悔不驚不怖不畏是名菩薩行般若波羅蜜。 舎利弗の言う所の如く、何の因縁の故にか、菩薩は、是の説を作すを聞いて、心没せず、悔いず、驚かず、怖れず、畏れず、是れを菩薩が、般若波羅蜜を行ずと名づくる。
『舍利弗』の言うように、――
何のような、
『因縁』の故に、
『菩薩』は、
是の、
『説』が、
『作される!』のを、
『聞いて!』、
『心』が、
『没することもなく!』、
『悔いることもなく!』、
『驚くこともなく!』、
『怖れることもなく!』、
『畏れることもなければ!』、
是れを、
『菩薩』が、
『般若波羅蜜を行う!』と、
『称するのだろうか?』。
須菩提言。菩薩摩訶薩。不見諸法有覺知相。見一切諸法。如夢如幻如炎如影如化。 須菩提の言わく、『菩薩摩訶薩は諸法に覚知する相有るを見ず。一切の諸法は、夢の如く、幻の如く、炎の如く、影の如く、化の如しと見ればなり。
『須菩提』は、こう言った、――
『菩薩摩訶薩』は、
諸の、
『法』には、
『覚知の相が有る!』と、
『見ず!』、
一切の、
『諸の法』は、
『夢か、幻か、炎か、影か、化のようだ!』と、
『見るからである!』。
舍利弗。以是因緣故。菩薩聞作是說。心不沒不悔不驚不怖不畏 舎利弗、是の因縁を以っての故に、菩薩は、是の説を作すを聞いて、心没せず、悔いず、驚かず、怖れず、畏れざるなり。
舍利弗!
是の、
『因縁』の故に、
『菩薩』は、
是の、
『説』が、
『作される!』のを、
『聞いても!』、
『心』が、
『没することもなく!』、
『悔いることもなく!』、
『驚くこともなく!』、
『怖れることもなく!』、
『畏れることもないのである!』。



【論】諸法は無常であるが、失われない

【論】者言。諸法無有自性者。以性空破諸法各各性。此中須菩提自說。諸法和合生無有自性。 論者の言わく、諸法に自性有るもの無しとは、性空を以って、諸法の各各の性を破ればなり。此の中に須菩提の自ら説かく、『諸法の和合の生には自性有るもの無し』、と。
論者は言う、――
諸の、
『法』には、
『自性』が、
『無い!』とは、――
『性空を用いて!』、
諸の、
『法』の、
各各の、
『性』を、
『破ったのである!』。
此の中に、
『須菩提』は、
自ら、こう説いている、――
諸の、
『法』は、
『和合の生であり!』、
『自性』が、
『無い!』、と。
如和合五眾等法及六波羅蜜等善法。從是出菩薩名字。是菩薩從作法。眾緣和合生故。非一法所成。以是故言假名。 五衆等の法、及び六波羅蜜等の善法を和合して、是より菩薩の名字を出すが如し。是の菩薩は作法の衆縁和合より生ずるが故に、一法の成ずる所に非ず。是を以っての故に、仮名と言う。
例えば、
『五衆等の法と!』、
『六波羅蜜等の善法と!』を、
『和合して!』、
是れにより、
『菩薩という!』、
『名字』を、
『出すのである!』が、
是の、
『菩薩』は、
『作法(有為法)』の、
『衆縁和合より生じる!』が故に、
『菩薩という!』、
『一法で!』、
『作られた者でない!』ので、
是の故に、
『菩薩』を、
『仮名である!』と、
『言うのである!』。
是眾法亦從和合邊生。譬如有眼有色有明有空有欲見心等諸因緣和合生眼識。是中不得言眼是見者若識是見者若色是見者若明是見者。 是の衆法も亦た、和合の辺より生ず。譬えば、眼有り、色有り、明有り、空有り、見んと欲する心等有るに、諸の因縁和合して眼識を生ずるが如し。是の中に、『眼は是れ見者なり』、若しくは『識は是れ見者なり』、若しくは『色は是れ見者なり』、若しくは『明は是れ見者なり』と言うを得ず。
是の、
『色等の衆法』も、
『和合の辺より!』、
『生じる!』。
譬えば、
有る、
『眼( eyes )や!』、
『色( colors and forms )や!』、
『明( lightness )や!』、
『空( space )や!』、
『欲見心( the mind which want to see )等』の、
諸の、
『因縁が和合して!』、
『眼識』を、
『生じるようなものである!』ので、
是の中には、
『眼』が、
『見る者である!』と、
『言うことはできず!』、
『識、色、明』が、
『見る者である!』と、
『言うこともできない!』。
若是眼色識等。各各不得有所見。和合中亦不應有見。以是故。見法畢竟空。如幻如夢。一切諸法亦如是。 若し、是の眼、色、識等の、各各に見る所有るを得ずんば、和合中にも、亦た応に見ること有るべからず。是を以っての故に、見の法は畢竟じて空にして、幻の如く、夢の如し。一切諸法も亦た是の如し。
若し、
是の、
『眼、色、識』等の、
各各が、
何も、
『見ることができなければ!』、
『和合』中にも、
亦た、
何かが、
『見えるはずがない!』。
是の故に、
『見法( seeing )』は、
『畢竟じて!』、
『空であり!』、
『幻、夢のようである!』。
一切の、
『諸法』も、
亦た、
『是の通りである!』。
復次一切法無常亦不失。無常破常倒。不失破斷滅倒。是無常不失法。即是入實相門。 復た次ぎに、一切の法は無常にして、失せずとは、無常は、常倒を破り、失せざるは、断滅倒を破る。是の無常、不失の法は、即ち是れ実相に入る門なり。
復た次ぎに、
『一切の法』は、
『無常である!』が、
『失われない!』とは、――
『無常を用いて!』、
『常という!』、
『顛倒』を、
『破り!』、
『不失を用いて!』、
『断滅』の、
『顛倒』を、
『破るからである!』。
是の、
『無常、不失の法』とは、
即ち、
『実相に入る!』、
『門である!』。
是故須菩提語舍利弗。無常即是動相。即是空相。一切法亦如是。 是の故に須菩提の舎利弗に語らく、『無常なるは、即ち是れ動相なり、即ち是れ空相なり。一切法も亦た是の如し。』と。
是の故に、
『須菩提』は、
『舍利弗』に、こう語った、――
『無常』とは、
即ち、
『動相であり!』、
『空相である!』。
『一切の法』も、
亦た、
『是の通りである!』、と。
復次一切法非常非失者。如十八空後義說。 復た次ぎに、一切法は常に非ず、失に非ずとは、十八空の後の義に説けるが如し。
復た次ぎに、
『一切の法』は、
『常でもなく!』、
『失でもない!』とは、
例えば、
『十八空』の、
『後の三空(有法空、無法空、無法有法空)の義』に、
『説いた通りである!』。
  参考:『大智度論巻31下釈初品中十八空義』:『復次十八空中初三空破一切法。後三空亦破一切法。有法空破一切法生時住時。無法空破一切法滅時。無法有法空生滅一時俱破。』
色畢竟不生者。五眾作者生者起者不可得故。 色は畢竟じて生ぜずとは、五衆の作者、生者、起者の得べからざるが故なり。
『色』が、
『畢竟じて!』、
『生じない!』とは、――
『五衆』には、
『作者、生者、起者』が、
『認められないからである!』。
  作者(さしゃ):手足の能く所作ある者の意。『大智度論巻35下、同巻52下注:十六神我、作者』参照。
  生者(しょうしゃ):能く衆事を起すこと父の子を生ずるが如き者の意。『大智度論巻35下、同巻52下注:十六神我』参照。
  起者(きしゃ):能く後世の罪福の業を造る者の意。『大智度論巻35下、同巻52下注:十六神我』参照。
  十六神我(じゅうろくじんが):十六知見とも称す。外道の神我に執するに十六種の別あるの意。一に我、二に衆生、三に寿者、四に命者、五に生者、六に養育、七に衆数、八に人、九に作者、十に使作者、十一に起者、十二に使起者、十三に受者、十四に使受者、十五に知者、十六に見者なり。「大品般若経巻1習応品」に、「舎利弗、我の如きも但だ字のみ有り。一切の我は常に不可得なり。衆生、寿者、命者、生者、養育、衆数、人者、作者、使作者、起者、使起者、受者、使受者、知者、見者、是れ一切皆不可得なり。不可得空の故に但だ名字を以って説く。菩薩摩訶薩も亦た是の如く般若波羅蜜を行ずるに我を見ず、衆生を見ず、乃至知者見者を見ず。所説の名字も亦た見るべからず」と云える是れなり。是れ事義に随って一の神我に十六種の名称を立てたるなり。「大智度論巻35」に之を解し、「五衆の中に於いて我我所の心起るが故に我となし、五衆和合の中より生ずるが故に名づけて衆生となし、命根成就するが故に名づけて寿者、命者となし、能く衆事を起すこと父の子を生ずるが如くなるを名づけて生者と為し、乳哺衣食の因縁にて長ずることを得、是れを養育と名づけ、五衆十二入十八界等の諸法の因縁、是の衆法は数あるが故に衆数と名づけ、人の法を行ずるが故に名づけて人と為し、手足の能く所作あるを名づけて作者と為し、力能く他を役するが故に使作者と名づけ、能く後世の罪福の業を造るが故に能起者と名づけ、他をして後世の後世の罪福の業を起さしむるが故に使起者と名づけ、後身に罪福の果報を受くるが故に受者と名づけ、他をして苦楽を受けしむるを是れを使受者と名づけ、目に色を覩るを名づけて見者と為し、五識の知るを名づけて知者と為す。復た次ぎに眼を用いて色を見、五邪見を以って五衆を観じ、世間出世間の正見を用いて諸法を観ず、是れを見者と名づく。謂わゆる眼根と五邪見と世間の正見と無漏見と、是れを見者と名づけ、余の四根の所知及び意識の所知を通じて名づけて知者と為す。是の如き諸法を皆是れ神と説く。此の神は十方三世の諸仏及び諸の賢聖も之を求むるに不可得なり。但だ憶想分別して強いて其の名を為す」と云えり。以って其の意を見るべし。又「大乗義章巻6所載十六神我義の章に、「此等は皆是れ我の別名なり」と云えり。又「大般若経巻4」、「大智度論巻41」、「法界次第初門巻上之上」、「止観補行伝弘決巻5之2」、「十住心論巻1」、「大明三蔵法数巻45」等に出づ。<(望)
  参考:『大智度論巻35』:『【經】佛告舍利弗。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。應如是思惟。菩薩但有字。佛亦但有字。般若波羅蜜亦但有字。色但有字。受想行識亦但有字。舍利弗。如我但有字。一切我常不可得。眾生壽者命者生者養育眾數人作者使作者起者使起者受者使受者知者見者。是一切皆不可得。不可得空故。但以名字說。菩薩摩訶薩亦如是行般若波羅蜜。不見我不見眾生。乃至不見知者見者。所說名字亦不可見【論】問曰。第二品末已說空。今何以重說。答曰。上多說法空。今雜說法空眾生空。行者觀外法盡空無所有。而謂能知空者不空。是故復說。觀者亦空。是眾生空。聲聞法中多說。一切佛弟子皆知諸法中無我。佛滅後五百歲分為二分。有信法空。有但信眾生空。言五眾是定有法但受五眾者空。以是故佛說眾生空以況法空。復次我空易知法空難見。所以者何。我以五情求之不可得。但以身見力故憶想分別為我。法空者色可眼見聲可耳聞。是故難知其空。是二事般若波羅蜜中皆空。如十八空義中說。問曰。如我乃至知者見者為是一事為各各異。答曰。皆是一我。但以隨事為異。於五眾中我我所心起故名為我。五眾和合中生故名為眾生。命根成就故名為壽者命者。能起眾事如父生子名為生者。乳哺衣食因緣得長是名養育。五眾十二入十八界等諸法因緣是眾法有數故名眾數。行人法故名為人。手足能有所作名為作者。力能役他故名使作者。能造後世罪福業故名能起者。令他起後世罪福業故名使起者。後身受罪福果報故名受者。令他受苦樂是名使受者。目睹色名為見者。五識知名為知者。復次用眼見色以五邪見觀五眾。用世間出世間正見觀諸法是名見者。所謂眼根五邪見世間正見無漏見是名見者。餘四根所知及意識所知通名為知者。如是諸法皆說是神。此神十方三世諸佛及諸賢聖求之不可得。但憶想分別強為其名。諸法亦如是。皆空無實但假為其名。問曰。是神但有十六名字。更有餘名。答曰。略說則十六。廣說則無量。隨事起名如官號差別工能智功。出家得道種種諸名。皆是因緣和合生故無自性。無自性故畢竟空。生空故法空。法空故生亦空』
復次生相不可得者。如先破生中說。一切法亦如是。 復た次ぎに、生相は得べからずとは、先に生を破る中に説けるが如く、一切法も亦た是の如し。
復た次ぎに、
『生相が認められない!』とは、
先に、
『生を破った!』中に、
『説く通りである!』。
『一切の法が認められない!』のも、
亦た、
『是の通りである!』。
  参考:『大智度論巻52下』:『色畢竟不生者。五眾作者生者起者不可得故。』
  参考:『大智度論巻38上釈往生品』:『復次佛法中諸法畢竟空。而亦不斷滅。生死雖相續亦不是常。無量阿僧祇劫業因緣雖過去。亦能生果報而不滅。是為微妙難知。若諸法都空者。此品中不應說往生。何有智者前後相違。』
何以故。說若色不生為非色非受想行識者。此中須菩提自說。色從因緣生無有自性常空相。若法常空相。是法無生相無滅相。無住異相。受想行識亦如是。故不生相法即是無為非有為相。餘法亦如是 何を以っての故に、若し色不生なれば、色に非ず、受想行識に非ずと説くとは、此の中に須菩提の自ら説かく、『色は、因縁より生じ、自性有ること無く、常空相なり。若し法にして常空相なれば、是の法は生相無く、滅相無く、住異相無し。受想行識も亦た是の如し。故に不生相の法は、即ち是れ無為にして、有為の相に非ず。余の法も亦た是の如し。』と。
何故、こう説くのかとは、――
若し、
『色が不生ならば!』、
『色でもなく!』、
『受想行識でもない!』、と。
此の中に、
『須菩提』は、
自ら、こう説いている、――
『色』は、
『因縁より生じる!』が故に、
『自性が無く!』、
『常空の相だからである!』。
若し、
『法が常空の相ならば!』、
是の、
『法』は、
『無生、無滅、無住異』の、
『相であり!』、
『受想行識』も、
亦た、
『是の通りである!』。
是の故に、
『不生相の法』は、
即ち、
『無為の相であり!』、
『有為の相でない!』。
『余の法(無滅、無住、無異)』も、
亦た、
『是の通りである!』。
畢竟不生。當教誰般若者。畢竟不生即是諸法實相。諸法實相即是般若波羅蜜。云何以般若波羅蜜。教般若波羅蜜。 畢竟じて不生なるに、当に誰にか般若を教うべきとは、畢竟じて不生なるは、即ち是れ諸法の実相なり。諸法の実相なれば、即ち是れ般若波羅蜜なり。云何が、般若波羅蜜を以って、般若波羅蜜に教えん。
『菩薩』が、
『畢竟じて不生ならば!』、
誰に、
『般若』を、
『教えればよいのか?』とは、――
『畢竟じて不生である!』とは、
諸の、
『法』の、
『実相であり!』、
諸の、
『法』の、
『実相とは!』、
『般若波羅蜜である!』。
何故、
『般若波羅蜜』を、
『般若波羅蜜』に、
『教えるのか?』。
若離是畢竟不生有菩薩者。應當教般若波羅蜜。是菩薩般若波羅蜜。畢竟不生無二無別。云何當教。 若し是の畢竟じて不生なるを離れて、菩薩有らば、応当に般若波羅蜜を是の菩薩に教うべし。般若波羅蜜と畢竟じて不生なると無二無別なるに、云何が、当に教うべき。
若し、
是の、
『畢竟じた不生を離れて!』、
『菩薩』が、
『有れば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『教えねばならない!』が、
是の、
『菩薩と、般若波羅蜜と!』は、
『畢竟じて不生であり!』、
『無二、無別である!』。
何故、
『教えねばならないのか?』。
離畢竟不生行道者。上說中已合解。 畢竟不生を離れて道を行う者は、上に説く中に已に合せ解けり。
『畢竟じた不生を離れて!』、
『道(阿耨多羅三藐三菩提に向かう道)を行う!』者は、
上に、
『畢竟じた不生を離れた!』、
『菩薩』を、
『説く!』中に、
已に、
『合せて!』、
『解釈している!』。
菩薩聞是不沒不悔者。菩薩於一切法中。不見我眾生乃至知者見者。亦無說者亦無聽者。無邪說無正說。亦無無說者。知一切法因緣和合故生。諸緣離故滅。無有起者無有滅者。故不畏不怖不沒不悔。 菩薩は是れを聞いて没せず悔いずとは、菩薩は、一切の法中に於いて、我、衆生、乃至知者、見者を見ず、亦た説者無く、亦た聴者も無く、邪説も無く、正説も無く、亦た説者無き無く、一切の法は因縁和合の故に生じ、諸縁離るるが故に滅すれば、起者有ること無く、滅者有ること無きを知るが故に、畏れず、怖れず、没せず、悔いざるなり。
『菩薩』が、
是れを、
『聞いて!』、
『没することもなく!』、
『悔ゆることもない!』とは、――
『菩薩』は、
一切の、
『法』中に、
『我』を、
『見ることもなく!』、
乃至、
『知者、見者』を、
『見ることもなく!』、
亦た、
『説く者も、聴く者も、邪説も、正説も!』、
『無く!』、
亦た、
『説く!』者が、
『無いということ!』も、
『無く!』、
一切の、
『法』は、
『因縁』が、
『和合する!』が故に、
『生じ!』、
『諸の縁』が、
『離れる!』が故に、
『滅する!』ので、
則ち、
『起す者も、滅する者も!』、
『無い!』と、
『知り!』、
是の故に、
『畏れることもなく!』、
『怖れることもなく!』、
『没することもなく!』、
『悔ゆることもない!』。
菩薩知一切法虛誑無實無定。若死急時若墮阿鼻泥犁心猶不動。況聞虛聲而有恐怖。 菩薩は、一切の法の虚誑にして実無く、定無きを知れば、若しは死の急にして、時に若しは阿鼻泥犁に堕つるとも、心は猶お動かず。況んや、虚声を聞いて、恐怖有るをや。
『菩薩』は、
一切の、
『法』は、
『虚誑であり!』、
『実も、定も無い!』と、
『知り!』、
若し、
『死が急であり!』、
その時、
若し、
『阿鼻泥犁(地獄)』に、
『堕ちたとしても!』、
猶お、
『心』が、
『動かない!』ので、
況して、
『虚声を聞いたぐらいで!』、
『恐怖すること!』が、
『有るはずがない!』。
如人夢中見怖畏事覺已則無恐心。知夢法能誑心無有實事。菩薩亦如是。入世間心夢中見有恐畏。得諸法實相。覺時則無所畏。知諸法但是虛誑無有真實。 人の夢中に怖畏の事を見るに、覚め已れば則ち恐心無く、夢法は、能く心を誑すも、実事有ること無しと知るが如し。菩薩も、亦た是の如く、世間の心の夢中に入りて、恐畏有るを見るも、諸法の実相を得て覚むる時には、則ち畏るる所無く、諸法は、但だ是れ虚誑にして、真実有ること無きを知る。
譬えば、
『人』が、
『夢』中に、
『怖畏の事』を、
『見ても!』、
『覚めてしまえば!』、
『恐怖の心』が、
『無く!』、
『夢という法』は、
『心』を、
『誑すことができる!』が、
『実の事』は、
『無い!』と、
『知るように!』、
『菩薩』も、
是のように、
『世間の心に入って!』、
『夢』中に、
有る、
『恐畏』を、
『見る!』が、
『諸法の実相を得て!』、
『覚めた!』時には、
則ち、
『畏れる!』所が、
『無くなり!』、
『諸法』は、
但だ、
『虚誑でしかなく!』、
『真実の事は無い!』と、
『知るのである!』。
復次譬如幻事。智者雖見心無所惑知是誑法。菩薩亦如是。知一切法如幻能誑人心是中無實。以是故不怖畏。如炎如影如化亦如是 復た次ぎに、譬えば幻事を、智者は見ると雖も、心に惑わす所無く、是れ誑法なりと知るが如し。菩薩も、亦た是の如く、一切の法は幻の如く、能く人の心を誑すも、是の中に実無きを知る。是を以っての故に、怖畏せず。炎の如き、影の如き、化の如きも、亦た是の如し。
復た次ぎに、
譬えば、
『智者』が、
『幻の起す!』、
『事』を、
『見たとしても!』、
『心』は、
其の、
『事』に、
『惑わされず!』、
是れは、
『虚誑の法である!』と、
『知るように!』、
『菩薩』も、
是のように、
一切の、
『法』は、
『幻のように!』、
『人の心』を、
『誑すことができる!』が、
是の中に、
『実は無い!』と、
『知る!』ので、
是の故に、
『怖畏することがない!』。
亦た、
『炎、影、化のような!』者も、
亦た、
『是の通りである!』。



【經】五種の正観の行

【經】須菩提白佛言。世尊。菩薩摩訶薩。行般若波羅蜜。如是觀諸法。是時菩薩摩訶薩。不受色不視色不住色不著色不言是色。受想行識亦不受不視不住不著。亦不言是受想行識。眼不受不視不住不著。亦不言是眼耳鼻舌身意。亦不受不視不住不著。亦不言是意。 須菩提の仏に白して言さく、『世尊、菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行じて、是の如く諸法を観るに、是の時菩薩摩訶薩は、色を受けず、色を視ず、色に住せず、色に著せず、是れ色なりと言わず。受想行識も亦た受けず、視ず、住せず、著せず、亦た是れ受想行識なりと言わず。眼を受けず、視ず、住せず、著せず、亦た是れ眼なりと言わず。耳鼻舌身意も亦た受けず、視ず、住せず、著せず、亦た是れ意なりと言わず。
『須菩提』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
『菩薩摩訶薩』は、
『般若波羅蜜を行いながら!』、
是のように、
『諸の法』を、
『観察する!』ので、
是の時、
『菩薩摩訶薩』は、
『色』を、
『受けることもなく!』、
『視ることもなく!』、
『住まることもなく!』、
『著することもなく!』、
是れは、
『色である!』と、
『言うこともなく!』、
亦た、
『受想行識』を、
『受けることもなく!』、
『視ることもなく!』、
『住まることもなく!』、
『著することもなく!』、
是れは、
『受想行識である!』と、
『言うこともなく!』、
『眼』を、
『受けることもなく!』、
『視ることもなく!』、
『住まることもなく!』、
『著することもなく!』、
是れは、
『眼である!』と、
『言うこともなく!』、
亦た、
『耳鼻舌身意』を、
『受けることもなく!』、
『視ることもなく!』、
『住まることもなく!』、
『著することもなく!』、
是れは、
『意である!』と、
『言うこともないのです!』。
  参考:『大般若経巻70』:『爾時具壽善現白佛言。世尊。諸菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多觀諸法時。於色不受不取不執不著。亦不施設為色。於受想行識不受不取不執不著。亦不施設為受想行識。世尊。諸菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多觀諸法時。於眼處不受不取不執不著。亦不施設為眼處。於耳鼻舌身意處不受不取不執不著。亦不施設為耳鼻舌身意處。世尊。諸菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多觀諸法時。於色處不受不取不執不著。亦不施設為色處。於聲香味觸法處不受不取不執不著。亦不施設為聲香味觸法處。世尊。諸菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多觀諸法時。於眼界不受不取不執不著。亦不施設為眼界。於色界眼識界及眼觸眼觸為緣所生諸受不受不取不執不著。亦不施設為色界乃至眼觸為緣所生諸受。世尊。諸菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多觀諸法時。於耳界不受不取不執不著。亦不施設為耳界。於聲界耳識界及耳觸耳觸為緣所生諸受不受不取不執不著。亦不施設為聲界乃至耳觸為緣所生諸受。』
檀波羅蜜不受不視不住不著。亦不言是檀波羅蜜。尸羅波羅蜜。羼提波羅蜜。毘梨耶波羅蜜。禪波羅蜜。般若波羅蜜。不受不示不住不著。亦不言是般若波羅蜜。內空不受不示不住不著。亦不言是內空。乃至無法有法空亦如是 檀波羅蜜を受けず、視ず、住せず、著せず、亦た是れ檀波羅蜜なりと言わず。尸羅波羅蜜、羼提波羅蜜、毘梨耶波羅蜜、禅波羅蜜、般若波羅蜜を受けず、示さず、住せず、著せず、亦た是れ般若波羅蜜なりと言わず。内空を受けず、示さず、住せず、著せず、亦た是れ内空なりと言わず。乃至無法有法空も亦た是の如し。
『檀波羅蜜』を、
『受けることもなく!』、
『視ることもなく!』、
『住まることもなく!』、
『著することもなく!』、
是れは、
『檀波羅蜜である!』と、
『言うこともなく!』、
亦た、
『尸羅、羼提、毘梨耶、禅、般若波羅蜜』を、
『受けることもなく!』、
『示すこともなく!』、
『住まることもなく!』、
『著することもなく!』、
是れは、
『般若波羅蜜である!』と、
『言うこともなく!』、
『内空』を、
『受けることもなく!』、
『示すこともなく!』、
『住まることもなく!』、
『著することもなく!』、
是れは、
『内空である!』と、
『言うこともなく!』、
乃至、
『無法有法空』も、
亦た、
『是の通りなのです!』。
復次世尊。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。四念處不受不示不住不著。亦不言是四念處。乃至十八不共法不受不示不住不著。亦不言是十八不共法。一切三昧門。一切陀羅尼門。乃至一切種智不受不示不住不著。亦不言是一切種智。 復た次ぎに、世尊、菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行ずる時、四念処を受けず、示さず、住せず、著せず、亦た是れ四念処なりと言わず。乃至十八不共法を受けず、示さず、住せず、著せず、亦た是れ十八不共法なりと言わず。一切の三昧門、一切の陀羅尼門、乃至一切種智を受けず、示さず、住せず、著せず、亦た是れ一切種智なりと言わず。
復た次ぎに、
世尊!
『菩薩摩訶薩』は、
『般若波羅蜜を行う!』時、
『四念処』を、
『受けることもなく!』、
『示すこともなく!』、
『住まることもなく!』、
『著することもなく!』、
是れは、
『四念処である!』と、
『言うこともなく!』、
乃至、
『十八不共法』を、
『受けることもなく!』、
『示すこともなく!』、
『住まることもなく!』、
『著することもなく!』、
是れは、
『十八不共法である!』と、
『言うこともなく!』、
『一切の三昧門や、一切の陀羅尼門、乃至一切種智』を、
『受けることもなく!』、
『示すこともなく!』、
『住まることもなく!』、
『著することもなく!』、
是れは、
『一切種智である!』と、
『言うこともないのです!』。
復次世尊。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。不見色乃至不見一切種智。 復た次ぎに、世尊、菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行ずる時、色を見ず、乃至一切種智を見ず。
復た次ぎに、
世尊!
『菩薩摩訶薩』は、
『般若波羅蜜を行う!』時、
『色』を、
『見ることがなく!』、
乃至、
『一切種智』を、
『見ることもありません!』。
  参考:『大般若経巻70』:『世尊。諸菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多時不見色處。何以故。以色處性空無生滅故。不見聲香味觸法處。何以故。以聲香味觸法處性空無生滅故。世尊。諸菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多時不見眼界。何以故。以眼界性空無生滅故。不見色界眼識界及眼觸眼觸為緣所生諸受。何以故。以色界乃至眼觸為緣所生諸受性空無生滅故。世尊。諸菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多時不見耳界。何以故。以耳界性空無生滅故。不見聲界耳識界及耳觸耳觸為緣所生諸受。何以故。以聲界乃至耳觸為緣所生諸受性空無生滅故。世尊。諸菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多時不見鼻界。何以故。以鼻界性空無生滅故。不見香界鼻識界及鼻觸鼻觸為緣所生諸受。何以故。以香界乃至鼻觸為緣所生諸受性空無生滅故。世尊。諸菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多時不見舌界。何以故。以舌界性空無生滅故。不見味界舌識界及舌觸舌觸為緣所生諸受。何以故。以味界乃至舌觸為緣所生諸受性空無生滅故。‥‥世尊。諸菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多時不見一切陀羅尼門。何以故。以一切陀羅尼門性空無生滅故。不見一切三摩地門。何以故。以一切三摩地門性空無生滅故。』
何以故。色不生是非色。受想行識不生是非識。眼不生是非眼。耳鼻舌身意不生是非意。檀波羅蜜不生。是非檀波羅蜜。乃至般若波羅蜜不生。是非般若波羅蜜。何以故。色不生不二不別。乃至般若波羅蜜不生不二不別。 何を以っての故に、色にして不生なれば、是れ色に非ず、受想行識にして不生なれば、是れ識に非ず。眼にして不生なれば、是れ眼に非ず。耳鼻舌身意にして不生なれば、是れ意に非ず。檀波羅蜜にして不生なれば、是れ檀波羅蜜に非ず。乃至般若波羅蜜は生ぜずんば、是れ般若波羅蜜に非ず。何を以っての故に、色と不生とは不二、不別なり、乃至般若波羅蜜と不生とは不二、不別なればなり。
何故ならば、
『色』は、
『不生ならば!』、
是れは、
『色でなく!』、
『受想行識』は、
『不生ならば!』、
是れは、
『識でなく!』、
『眼』は、
『不生ならば!』、
是れは、
『眼でなく!』、
『耳鼻舌身意』は、
『不生ならば!』、
是れは、
『意でなく!』、
『檀波羅蜜』は、
『不生ならば!』、
是れは、
『檀波羅蜜でなく!』、
『乃至般若波羅蜜』は、
『不生ならば!』、
是れは、
『般若波羅蜜でないのです!』。
何故ならば、
『色と、不生と!』は、
『不二、不別であり!』、
乃至、
『般若波羅蜜と、不生と!』は、
『不二、不別だからです!』。
  参考:『大般若経巻70』:『世尊。色不生則非色。受想行識不生則非受想行識。所以者何。色與不生無二無二分。受想行識與不生無二無二分。何以故。以不生法非一非二非多非異。是故色不生則非色。受想行識不生則非受想行識。世尊。眼處不生則非眼處。耳鼻舌身意處不生則非耳鼻舌身意處。所以者何。眼處與不生無二無二分。耳鼻舌身意處與不生無二無二分。何以故。以不生法非一非二非多非異。是故眼處不生則非眼處。耳鼻舌身意處不生則非耳鼻舌身意處。世尊。色處不生則非色處。聲香味觸法處不生則非聲香味觸法處。所以者何。色處與不生無二無二分。聲香味觸法處與不生無二無二分。何以故。以不生法非一非二非多非異。是故色處不生則非色處。聲香味觸法處不生則非聲香味觸法處。』
  :蓋し色、乃至一切種智、及び不生は、皆是れ名字にして、実義なく、空なればなり。
內空不生是非內空。乃至無法有法空不生。是非無法有法空。何以故。內空乃至無法有法空不生不二不別。 内空は生ぜずんば、是れ内空に非ず。乃至無法有法空は生ぜずんば、是れ無法有法空に非ず。何を以っての故に、内空、乃至無法有法空と不生とは不二、不別なればなり。
『内空』は、
『不生ならば!』、
是れは、
『内空でなく!』、
『乃至無法有法空』は、
『不生ならば!』、
是れは、
『無法有法空でないのです!』。
何故ならば、
『内空、乃至無法有法空』は、
『不生』と、
『不二、不別だからです!』
世尊。四念處不生非四念處。何以故。四念處不生不二不別。何以故。世尊。是不生法非一非二非三非異。以是故。四念處不生不二不別。 世尊、四念処は生ぜずんば、是れ四念処に非ず。何を以っての故に、四念処と不生とは不二、不別なればなり。何を以っての故に、世尊、是の不生の法は一に非ず、二に非ず、三に非ず、異に非ず、是を以っての故に、四念処と不生とは不二、不別なればなり。
世尊!
『四念処』は、
『不生ならば!』、
『四念処ではありません!』。
何故ならば、
『四念処』は、
『不生』と、
『不二、不別だからです!』。
何故ならば、
世尊!
是の、
『不生という!』、
『法』は、
『一でもなく!』、
『二でもなく!』、
『三でもなく!』、
『異でもない!』ので、
是の故に、
『四念処』は、
『不生』と、
『不二、不別なのです!』。
乃至十八不共法不生。非十八不共法。何以故。十八不共法不生不二不別。何以故。世尊是不生法非一非二非三非異。以是故。十八不共法不生。非十八不共法。 乃至十八不共法も生ぜずんば、十八不共法に非ず。何を以っての故に、十八不共法と不生とは不二、不別なればなり。何を以っての故に、世尊、是の不生の法は一に非ず、二に非ず、三に非ず、異に非ず。是を以っての故に、十八不共法は生ぜずして、十八不共法に非ざるなり。
乃至、
『十八不共法』は、
『不生ならば!』、
『十八不共法ではありません!』。
何故ならば、
『十八不共法』は、
『不生』と、
『不二、不別だからです!』。
何故ならば、
世尊!
是の、
『不生という!』、
『法』は、
『一でもなく!』、
『二でもなく!』、
『三でもなく!』、
『異でもない!』ので、
是の故に、
『十八不共法』は、
『生じることがなく!』、
『十八不共法でないのです!』。
世尊。如不生是非如。乃至不可思議性不生。是非不可思議性。 世尊、如は生ぜずんば、是れ如に非ず。乃至不可思議性も生ぜずんば、是れ不可思議性に非ず。
世尊!
『如』は、
『不生ならば!』、
『如ではありません!』。
『乃至不可思議性』は、
『不生ならば!』、
『不可思議性ではありません!』。
世尊。是阿耨多羅三藐三菩提不生一切智一切種智不生。是非一切種智。何以故。是阿耨多羅三藐三菩提乃至一切種智。不生不二不別。 世尊、是の阿耨多羅三藐三菩提は生ぜず、一切智、一切種智は生ぜずんば、是れ一切種智に非ず。何を以っての故に、是の阿耨多羅三藐三菩提、乃至一切智と不生とは不二、不別なればなり。
世尊!
是の、
『阿耨多羅三藐三菩提や!』、
『一切智や!』、
『一切種智は!』、
『不生ならば!』、
是れは、
『一切種智ではありません!』。
何故ならば、
是の、
『阿耨多羅三藐三菩提、乃至一切種智』は、
『不生』と、
『不二、不別だからです!』。
何以故。世尊。是不生法非一非二非三非異。以是故。乃至一切種智不生。非一切種智。 何を以っての故に、世尊、是の不生の法は一に非ず、二に非ず、三に非ず、異に非ず。是を以っての故に、乃至一切種智は不生にして、一切種智に非ざるなり。
何故ならば、
世尊!
是の、
『不生の法』は、
『一でもなく!』、
『二でもなく!』、
『三でもなく!』、
『異でもない!』ので、
是の故に、
『乃至一切種智』は、
『不生であり!』、
『一切種智でないのです!』。
世尊。色不滅相是非色。何以故。色及不滅相。不二不別。何以故。世尊。是不滅法。非一非二非三非異。以是故。色不滅相是非色。 世尊、色は不滅の相なれば、是れ色に非ず。何を以っての故に、色、及び不滅の相は不二、不別なればなり。何を以っての故に、世尊、是の不滅の法は一に非ず、二に非ず、三に非ず、異に非ず。是を以っての故に、色は不滅の相なれば、是れ色に非ず。
世尊!
『色』は、
『不滅の相ならば!』、
『色ではありません!』。
何故ならば、
『色と!』、
『不滅の相と!』は、
『不二、不別だからです!』。
何故ならば、
世尊!
是の、
『不滅という!』、
『法』は、
『一でもなく!』、
『二でもなく!』、
『三でもなく!』、
『異でもない!』ので、
是の故に、
『色』は、
『不滅の相であり!』、
『色でないのです!』。
受想行識不滅。相是非識。何以故。識及不滅不二不別。何以故。世尊。是不滅法。非一非二非三非異。以是故。識不滅相是非識。 受想行識は不滅の相なれば、是れ識に非ざるなり。何を以っての故に、識、及び不滅は不二、不別なればなり。何を以っての故に、世尊、是の不滅の法は一に非ず、二に非ず、三に非ず、異に非ず。是を以っての故に、識は不滅の相なれば、是れ識に非ざるなり。
『受想行識』は、
『不滅の相ならば!』、
『識ではありません!』。
何故ならば、
『識と!』、
『不滅と!』は、
『不二、不別だからです!』。
何故ならば、
世尊!
是の、
『不滅の法』は、
『一でもなく!』、
『二でもなく!』、
『三でもなく!』、
『異でもない!』ので、
是の故に、
『識』は、
『不滅の相であり!』、
『識でないのです!』。
檀波羅蜜乃至般若波羅蜜。內空乃至無法有法空。四念處乃至十八不共法亦如是。 檀波羅蜜、乃至般若波羅蜜、内空、乃至無法有法空、四念処、乃至十八不共法も、亦た是の如し。
『檀波羅蜜、乃至般若波羅蜜や!』、
『内空、乃至無法有法空や!』、
『四念処、乃至十八不共法も!』、
亦た、
『是の通りです!』。
世尊。以是故。色入無二法數。受想行識入無二法數。乃至一切種智入無二法數 世尊、是を以っての故に、色は、無二法の数に入り、受想行識も、無二法の数に入り、乃至一切種智も、無二法の数に入るなり。
世尊!
是の故に、
『色』は、
『無二法の数( group )』に、
『入り!』、
『受想行識』も、
『無二法の数』に、
『入り!』、
乃至、
『一切種智』も、
『無二法の数』に、
『入るのです!』。



【論】五種の正観の行

【論】者言。須菩提白佛。菩薩能如是觀諸法。於五眾中有五種正觀行。 論者の言わく、須菩提の仏に白さく、『菩薩は、能く是の如く、諸法を観ずるに、五衆中に於いて、五種の正観の行あり。』と。
論者は言う、――
『須菩提』は、
『仏』に、こう白した、――
『菩薩』は、
是のように、
『諸法を観ることができ!』、
『五衆』中に、
『五種の正観の行』が、
『有ります!』、と。
所謂不受。以五眾中有無常火能燒心故。 謂わゆる受けずとは、五衆中に、無常の火有り、能く心を焼くを以っての故なり。
謂わゆる、
『受けない!』とは、――
『五衆』中には、
『無常の火が有り!』、
『心』を、
『焼くことができるからである!』。
不視者。不取相非但觀無常等過。觀是五眾空不取相故。 視ずとは、相を取らざるは、但だ無常等の過を観ずるのみに非ず、是の五衆の空を観るにも、相を取らざるが故なり。
『視ない!』とは、
『相を取らずに!』、
但だ、
『無常』等の、
『過』を、
『観るだけでなく!』、
是の、
『五衆の空を観ても!』、
『空という!』、
『相』も、
『取らないからである!』。
不住者。不依止五眾。畏諸煩惱賊來故不敢久住。譬如空聚落賊所止處。智者不應久住。 住まらずとは、五衆に依止せざるは、諸の煩悩の賊の来るを畏るるが故に、敢て久しく住まらざるなり。譬えば、空なる聚落は、賊の止まる所の処なれば、智者は、応に久しく住まるべからざるが如し。
『住まらない!』とは、――
『五衆に依止しない!』のは、
諸の、
『煩悩の賊が来る!』のを、
『畏れるからであり!』、
故に、
敢て、
『五衆』中に、
『久住しないのである!』。
譬えば、
『空の聚落』は、
『賊』の、
『止まる処である!』が故に、
『智者』は、
『空の聚落に!』、
『久住するはずがない!』。
不著者。五眾若有一罪猶不應著。何況身有飢渴寒熱老病死等。心有憂愁恐怖妒嫉瞋恚等。後世墮三惡道。一切無常苦空無我不得自在。如是等無量無邊過罪云何可著。 著せずとは、五衆は、若し一罪有るすら、猶お応に著すべからず。何に況んや、身には飢渴、寒熱、老病死等の有り、心には憂愁、恐怖、妒嫉、瞋恚等有り、後世には三悪道に堕ち、一切は無常、苦、空、無我にして自在を得ざるをや。是の如き等無量、無辺の過罪あるに、云何が著すべけんや。
『著さない!』とは、――
『五衆』は、
若し、
『一罪が有るだけでも!』、
猶お、
『五衆には!』、
『著すべきでない!』。
況して、
『身』には、
『飢渴、寒熱、老病死』等が、
『有り!』、
『心』には、
『憂愁、恐怖、嫉妒、瞋恚』等が、
『有り!』、
『後世』には、
『三悪道』に、
『堕ちるのであり!』、
一切は、
『無常、苦、空、無我であり!』、
『自在』を、
『得られないのである!』。
是れ等の、
『無量、無辺の過罪が有る!』のに、
何故、
『著することができるのか?』。
不言是色者。不以邪見說色若常若無常等。不言五眾如是定相。乃至一切種智亦如是。 是れ色なりと言わずとは、邪見を以って、色の、若しは常、若しは無常等を説かず、五衆の是の如き定相を言わず、乃至一切種智も、亦た是の如きなり。
是れが、
『色である!』と、
『言わない!』とは、――
『邪見して!』、
『色』は、
『常であるとか、無常であるとか!』等を、
『説かず!』、
『五衆』は、
『是のような定相である!』と、
『言わず!』、
乃至、
『一切種智までも!』、
是のように、
『定相』を、
『説かないからである!』。
何以故。色中行五種正行。是五眾。皆無生相皆一相。一相則無相。若無相則非有五眾。乃至一切種智亦如是。 何を以っての故に、色中に、五種の正行を行えば、是の五衆は、皆、生相無く、皆一相なればなり。一相は、則ち無相なり。若し無相なれば、則ち五衆有るに非ず。乃至一切種智も、亦た是の如し。
何故ならば、
『色』中に、
『五種の正行(不受、不視、不住、不著、不言)』を、
『行えば!』、
是の、
『五衆』は、
皆、
『無生の相であり!』、
『一相である!』。
若し、
『五衆』が、
『一相ならば!』、
則ち、
『無相であり!』、
若し、
『無相ならば!』、
『五衆』は、
『無いことになる!』し、
乃至、
『一切種智』も、
亦た、
『是の通りである!』。
若一切法無生相。般若波羅蜜不二不別。得是無生心。即是般若波羅蜜。得般若波羅蜜。即知諸法不生不滅。以是故。般若波羅蜜。即是不生不二不別。 若し一切の法に、生相無ければ、般若波羅蜜と不二、不別なり。是の無生の心を得れば、即ち是れ般若波羅蜜なり。般若波羅蜜を得れば、即ち諸法の不生、不滅を知る。是を以っての故に、般若波羅蜜は、即ち是れ不生と二ならず、別ならざるなり。
若し、
一切の、
『法』に、
『生相が無ければ!』、
『般若波羅蜜』と、
『不二、不別であり!』、
是の、
『無生の心を得れば!』、
即ち、
是れが、
『般若波羅蜜なのであり!』、
若し、
『般若波羅蜜を得れば!』、
即ち、
諸の、
『法の不生、不滅』を、
『知ることになる!』ので、
是の故に、
『般若波羅蜜』は、
是の、
『不生』と、
『不二、不別なのである!』。
復次須菩提自說因緣。所謂是無生法不一相不二相不三不異。何以故。諸法無生一相故。乃至一切種智亦如是。如無生無滅亦如是。 復た次ぎに、須菩提は、自ら因縁を説けり。謂わゆる『是の無生の法は、一相ならず、二相ならず、三ならず、異ならず。何を以っての故に、諸法は無生の一相なるが故なり。乃至一切種智も、亦た是の如く、無生の如く、無滅なるも、亦た是の如し』、と。
復た次ぎに、
『須菩提』は、
自ら、
『因縁』を、こう説いた、――
謂わゆる、
是の、
『無生の法』は、
『一相でもなく!』、
『二相でもなく!』、
『三相でもなく!』、
『異でもない!』。
何故ならば、
諸の、
『法』は、
『無生という!』、
『一相だからである!』。
乃至、
『一切種智』も、
亦た、
『是の通りである!』、
亦た、
『無生のように!』、
『無滅も!』、
『是の通りである!』、と。
問曰。末後何以故說色乃至一切種智入無二法數。 問うて曰く、末後に何を以っての故にか、色、乃至一切種智は、無二法の数に入ると説く。
問う、
末後(最後)に、
何故、こう説くのですか?――
『色、乃至一切種智』は、
『無二法の数』に、
『入る!』、と。
答曰。菩薩若未破色則生愛等結使著是色等。破色已則生邪見著是色空等。今色等用空智慧故皆空不二相。 答えて曰く、菩薩は若し、未だ色を破らざれば、則ち愛等の結使を生じて、是の色等に著し、色を破り已れば、則ち邪見を生じて、是の色の空等に著するも、今、色等は、空の智慧を用いるが故に、皆空にして、不二の相となるなり。
答え、
『菩薩』が、
若し、
未だ、
『色を破らなければ!』、
則ち、
『愛』等の、
『結使』を、
『生じて!』、
是の、
『色』等に、
『著することになり!』、
已に、
『色を破っていれば!』、
則ち、
『邪見を生じて!』、
是の、
『色の空』等に、
『著することになる!』が、
今は、
『色』等は、
『空という!』、
『智慧』を、
『用いる!』が故に、
皆、
『空となり!』、
『不二の相なのである!』。
是諸法虛誑不實。內外入所攝故名為二。色等乃至一切種智。離是二名不二。 是の諸法は虚誑にして、実ならず。内外入の摂する所なるが故に、名づけて二と為す。色等、乃至一切種智の、是の二を離るるを、不二と名づく。
是の、
諸の、
『法』は、
『虚誑であり!』、
『不実である!』が、
『内、外』の、
『二入に摂せられる!』が故に、
『二』と、
『称するのである!』。
若し、
『色等の法、乃至一切種智』が、
是の、
『二入を離れれば!』、
『二』と、
『称されることはない!』。
今須菩提憐愍眾生。利益諸菩薩故。說是諸法不二入無二法數中
大智度論卷第五十二
今、須菩提は、衆生を憐愍し、諸の菩薩を利益するが故に、是の諸法の二ならざるは、無二法の数中に入ればなりと説けり。
大智度論巻第五十二
今、
『須菩提』は、
『衆生を憐愍して!』、
諸の、
『菩薩』を、
『利益する!』為の故に、
こう説いた、――
是の、
諸の、
『法が内、外二法でない!』のは、
『無二法の数』中に、
『入るからである!』、と。

大智度論巻第五十二


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