巻第五十一(下)
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大智度論釋含受品第二十三
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


【論】無量無辺阿僧祇の衆生を受ける

【論】問曰。何以不說虛空廣大無邊故受一切物。而言虛空無所有故能受一切物眾生。摩訶衍亦無所有。 問うて曰く、何を以ってか、『虚空は、広大無辺なるが故に、一切の物を受く。』と説かずして、『虚空は、所有無きが故に、能く一切の物と衆生とを受く。摩訶衍も亦た所有無し。』と言える。
問い、
何故、こう説かずに、――
『虚空』は、
『広大、無辺である!』が故に、
『一切の物』を、
『受ける( receive )!』、と。
而も、こう言うのですか?――
『虚空』は、
『所有が無い!』が故に、
『一切の衆生』を、
『受けることができる!』し、
亦た、
『摩訶衍』も、
『是の通りである!』、と。
  虚空(こくう):梵語aakaazaの訳。内外の竅隙の意。スキマ。又無為法の名。『大智度論巻12上注:虚空』参照。
  (じゅ):感覚( sensation, feeling )、◯梵語 vedanaa の訳。苦痛( pain, agony )の義、即ち、楽受 sukha- vedanaa ( sensation of pleasure )、苦受 duHkha- vedanaa ( painful feeling )、捨受 upekSaa- vedanaa ( sensation of neither pleasure nor pain )の総じて三種の感覚( three sensations )の意。◯梵語upaadaanaの訳、又取と訳す、執著の義。the act of taking for one's self , appropriating to one's self. 自分の物にする行為、取る。執著する。十二因縁の一。◯梵語 upaadaaya の訳、受取る/取得する( receiving, acquiring )、~の助けを借りて/~を用いて/依存する( by help of, by means of, depending on )の義。◯梵語 samaadaana の訳、残さず全てを手に入れる/抱え込む/請け負う/結果を招く( taking fully or entirely, taking upon one's self. contracting, incurring )の義、容認する/容認( to accept, acceptance )の意。
答曰。現見虛空無所有。一切萬物皆在其中。以無所有故能受。 答えて曰く、現に虚空を見るに、所有無くして、一切の万物は、皆、其の中に在り。所有無きを以っての故に、能く受くればなり。
答え、
現に、こう見るからである、――
『虚空』には、
『所有が無く!』、
『一切の万物』は、
皆、
『虚空』中に、
『在る!』、と。
『虚空』には、
『所有が無い!』が故に、
『万物』を、
『受けられるのである!』。
問曰。心心數法亦無形質。何以不受一切物。 問うて曰く、心、心数法も、亦た形質無し。何を以ってか、一切の物を受けざる。
問い、
『心、心数法』にも、
『形質(物質)』が、
『無い!』が、
何故、
『一切の物』を、
『受けないのですか?』。
  形質(ぎょうしつ):体躯/形態( body, form of structure )、梵語 bimba の訳、形、或は質とも訳す、日、月の光暈( The disc of the sun or moon )、円盤/球体(屡々身体の丸い部分に適用される)( any disk, sphere, orb (often applied to the rounded parts of the body) )、鏡( a mirror )、像/影/映った、或は表れた形状/絵/象徴( an image, shadow, reflected or represented form, picture, type )、比較される対象( an object compared )等の義。
答曰。心心數法覺知相。非是受相又無住處。若內若外若近若遠。但以分別相故知有心形。色法有住處。因色處故知有虛空。以色不受物故。則知虛空受物。色與虛空相違。色若不受則知虛空是受。如以無明故知有明。以苦故知有樂。因色無故說有虛空。更無別相。 答えて曰く、心、心数法は、覚知の相にして、是れ受の相に非ず。又住処の、若しは内、若しは外、若しは近、若しは遠なる無し。但だ相を分別するを以っての故に、心有るを知る。形色の法は、住処有り、色の処するに因るが故に、虚空有るを知る。色の物を受けざるを以っての故に、則ち虚空の物を受くるを知る。色は、虚空と相違し、色若し受けざれば、則ち虚空は是れ受くることを知る。明無きを以っての故に、明有るを知り、苦を以っての故に、楽有るを知るが如く、色無きに因るが故に、虚空有りと説くも、更に別相無し。
答え、
『心、心数法』は、
『覚知の相であり!』、
『受』の、
『相ではない!』が、
若し、
『法/物』が、
『内でも、外でも!』、
『近くても、遠くても!』、
但だ、
『心』が、
『相』を、
『分別する!』が故に、
『心』には、
『形が有る!』と、
『知るだけである!』。
『色という!』、
『法』は、
『住まる処』が、
『有り!』、
『色』の、
『住まる処に因る!』が故に、
『虚空が有る!』と、
『知り!』、
『色』は、
『物を受けない!』が故に、
則ち、
『虚空は物を受ける!』と、
『知ることになる!』。
何故ならば、
『色』と、
『虚空』とは、
『相違している!』が故に、
若し、
『色が受けなければ!』、
則ち、
『虚空が受けているのだ!』と、
『知ることになるからである!』。
譬えば、
『無明』の故に、
『明の有る!』ことを、
『知り!』、
『苦』の故に、
『楽の有る!』ことを、
『知るように!』、
『色の無い!』ことに、
『因る!』が故に、
『虚空が有る!』と、
『説くだけで!』、
『虚空』には、
更に、
『別の相』は、
『無いのである!』。
  形色(ぎょうしき):(一)梵語saMsthaana-ruupaの訳。形ある色の義。顕色に対す。即ち色法中、質礙麁著にして、触るるに因りて長短等を覚知すべきものを云う。之に八種あり、一に長diigha、二に短hrasva、三に方caturazra、四に円vRtta、五に高unnata、六に下avanata、七に正zaata、八に不正vizaataなり。此の中、一面多生を長と云い、一面少生を短と云い、四面斉等を方と云い、一切処に周辺して生ずるを円と云い、中の凸出を高と云い、中の拗凹を下と云い、面の斉平なるを正と云い、面の参差なるを不正と云う。説一切有部にては、是れ等の諸色は極微各別にして、各別体ありとなすも、唯識大乗にては、青等の四顕色の分位仮立にして実色に非ずとなせり。又「大日経疏巻14」に、此の中の方円等を五大に配し、「地輪は正方、水輪は円、火輪は三角、風輪は半月形、最上の虚空は一点に作る」と云えり。是れ密教にて色心不二の理に依り、万法能造の六大にも形色歴然として存立すとなすをあらわすなり。又「大毘婆沙論巻13、75、136」、「大乗成業論」、「倶舎論巻1」、「同光記巻1」、「同宝疏巻1余」等に出づ。(二)形態色相の意。「無量寿経巻上」に、「国中の人天、形色不同にして好醜あらば正覚を取らじ」と云い、「法華経巻2信解品」に、「二人の形色憔悴して、威徳なき者を遣す。」と云い、又「分別善悪報応経巻下」に、「復た云何なる業か補特伽羅をして悪趣に生ぜしめ、形色身量端厳殊妙にして、見る者をして歓喜し、人をして皆愛楽せしむるありや」と云える即ち其の例なり。是れ顕色に対する形色に非ずして、広く人畜等の顔色形貌を云うなり。<(望)
復次心心數法更有不受義。如邪見心不受正見。正見心不受邪見。虛空則不然。一切皆受故。 復た次ぎに、心、心数法には、更に受けざる義有り。邪見心の、正見を受けず、正見心の邪見を受けざるが如し。虚空は、則ち然らず、一切を皆受くるが故なり。
復た次ぎに、
『心、心数法が受けない!』という、
『義』は、
『更に有る!』。
例えば、
『邪見の心』は、
『正見』を、
『受けない!』し、
『正見の心』は、
『邪見』を、
『受けないのである!』が、
而し、
『虚空』は、
『そうでない!』、――
『一切を!』、
皆、
『受けるからである!』。
又心心數法生滅相是可斷法。虛空則不然。心心數法虛空但無色無形。同不得言都不異。以是故諸法中說虛空能受一切。 又心、心数法は生滅の相にして、是れ可断の法なるも、虚空は、則ち然らず。心、心数法と、虚空とは、但だ無色、無形なること同じきも、都べて異ならずと言うを得ず。是を以っての故に、諸法中に、『虚空は、能く一切を受く。』と説く。
又、
『心、心数法』は、
『生滅の相であり!』、
『可断の法である!』が、
而し、
『虚空』は、
『そうでない!』。
『心、心数法』も、
『虚空』も、
但だ、
『無色、無形である!』ことが、
『同じというだけ!』では、
都(すべ)てが、
『異ならない!』と、
『言うことはできない!』。
是の故に、
『諸法』中に、
『虚空』は、
『一切を受けることができる!』と、
『説くのである!』。
問曰。我先問意不然。何以不言虛空無量無邊能受一切物。而言無所有受一切物。 問うて曰く、我れ先に問いし意は、然らず。何を以ってか、『虚空は、無量無辺なれば、能く一切の物を受く。』と言わずに、而も、『所有無ければ、一切の物を受く。』と言える。
問い、
わたしは、
先に問うた、
『意』は、
『そうでない!』。
何故、
『虚空』は、
『無量、無辺である!』が故に、
『一切の物を受けられる!』と、
『言わずに!』、
『所有が無い!』が故に、
『一切の物を受ける!』と、
『言うのですか?』。
答曰。我說虛空。無自相待色相說虛空。若無自相則無虛空。云何言無量無邊。 答えて曰く、我れは、『虚空には、自相無ければ、色相を待って、虚空と説く。』と説けり。若し自相無ければ、則ち虚空無し。云何が、無量無辺と言わん。
答え、
わたしは、こう説いた、――
『虚空』には、
『自相が無く!』、
『色相を待って!』、
『虚空と説くのだ!』、と。
若し
『自相が無ければ!』、
則ち、
『虚空』は、
『無いことになる!』。
何故、
『無量、無辺である!』と、
『言うのか?』。
問曰。汝言受相則是虛空。云何言無。 問い、汝は、『受の相は、則ち是れ虚空なり。』と言えり。云何が、『無し。』と言う。
問い、
お前は、
『受の相』は、
則ち、
『虚空である!』と、
『言った!』のに、
何故、
『無い!』と、
『言うのか?』。
答曰。受相即是無色相。色不到處名為虛空。以是故無虛空。 答えて曰く、受の相とは、即ち是れ無色の相なり。色の到らざる処を、名づけて虚空と為す。是を以っての故に、虚空無し。
答え、
『受の相』は、
即ち、
『無色の相だからである!』。
『色の到らない!』、
『処』を、
『虚空』と、
『呼ぶのであり!』、
是の故に、
『虚空』は、
『無いのである!』。
若實有虛空。未有色時應有虛空。若未有色有虛空。虛空則無相。何以故。以未有色故。因色故知有虛空。有色故便有無色。若先有色後有虛空。虛空則是作法。作法不名為常。若有無相法是不可得。以是故無虛空。 若し、実に虚空有らば、未だ色を有らざる時にも、応に虚空有るべし。若し未だ色有らざるに、虚空有らば、虚空は、則ち無相なるべし。何を以っての故に、未だ色有らざるを以っての故なり。色に因るが故に、虚空有るを知り、色有るが故に、便ち色無き有り。若し、先に色有り、後に虚空有らば、虚空は、則ち是れ作法なり。作法なれば、名づけて常と為さず。若し相無き法有らば、是れを得べからず。是を以っての故に、虚空無し。
若し、
実に、
『虚空が有れば!』、
未だ、
『色を有しない!』時にも、
『虚空』が、
『有るはずだが!』、
是のような、
『虚空』は、
『無相だということになる!』。
何故ならば、
未だ、
『色』を、
『有しないからである!』。
則ち、
『色に因る!』が故に、
『虚空が有る!』と、
『知り!』、
『色が有る!』が故に、
『無色』は、
『有るのであり!』、
若し、
先に、
『色が有って!』、
後に、
『虚空』が、
『有れば!』、
則ち、
是の、
『虚空』は、
『作法(有為法 created things )であり!』、
『作法ならば!』、
『常』と、
『呼ばれることはなく!』、
若し、
『虚空という!』、
『無相の法』が、
『有れば!』、
是の、
『法』は、
『不可得である(認識できない)!』ので、
是の故に、
『虚空!』は、
『無い(存在しない)!』。
  作法(さほう):◯梵語 karaNa の訳、行為( the act of making, doing, producing, effecting )、行うこと/造ること/成し遂げること/引き起こすこと( doing, making, effecting, causing )の義。又行為, 事, 事業, 令作, 作, 作法, 具, 成, 成所作, 成辨, 所作, 所化, 時間, 立, 能作, 造作等に訳す。◯梵語 saMskRta-dharma, kRtaka の訳、有為法とも訳す、造られた事物/被造物( Thing that are made; created things; artificial things. )。◯梵語 karman, kriyaa, dharmaakara の訳、例えば禁酒/浄行等の仏教徒の修行者の行動に伴う日常行為に関する規則/儀礼/行儀作法( Regulations, protocol, rules of decorum, regarding daily behavior that are followed by renunciant Buddhist practitioners, such as not drinking alcohol, not having sex, as well as rules governing salutations and so forth )。又羯磨と音訳し、受戒等の儀式を遂行すること( To perform ceremonies, such as ordination ceremonies. )。
問曰。若常有虛空。因色故虛空相現。然後相在虛空。 問うて曰く、若し常に、虚空有りて、色に因るが故に、虚空の相現るれば、然る後に相、虚空に在り。
問うて曰く、
若し、
『虚空』が、
『常に!』、
『有り(存在し)!』、
『色に因る!』が故に、
『虚空の相』が、
『現れるとすれば!』、
その後に、
『相』が、
『虚空に存在することになる!』。
答曰。若虛空先無相。後相亦無所住。若虛空先有相相無所相。若先無相相亦無所住。若離相無相。已相無住處。若相無住處。所相處亦無。所相處無故相亦無。離相及相處更無有法。 答えて曰く、若し虚空に、先に相無ければ、後の相も、亦た住する所無し。若し虚空に、先に相有れば、相に相する所無し。若し、先に相無ければ、相にも亦た住する所無し。若し、相、無相を離るれば、已に相に住処無し。若し、相に住処無ければ、相する所の処も、亦た無し。相する所の処無きが故に、相も亦た無し。相、及び相の処を離るれば、更に法の有ること無し。
答え、
若し、
『虚空』が、
先に、
『無相ならば!』、
則ち、
『所相の法』が、
『無いことになる!』が故に、
後にも、
『相』には、
『所住の処()』が、
『無いはずだ!』し、
若し、
『虚空』が、
先に、
『有相ならば!』、
『相』には、
『所相の法』が、
『無く!』、
若し、
先に、
『無相ならば!』、
『相』には、
亦た、
『所住の法』が、
『無いことになる!』。
若し、
『相、無相を離れれば!』、
已に、
『相』には、
『住処()』が、
『無いことになり!』、
若し、
『相』に、
『住処が無ければ!』、
『所相の処』も、
『無いことになり!』、
『所相の処が無い!』が故に、
『相』も、
『無いことになる!』が、
『相』も、
『所相の処』も、
『離れてしまえば!』、
更に、
『他の法』は、
『無いはずである!』。
  所相(しょそう):梵語 lakSya, lakSaNa-karman の訳、印づけらられた/特徴づけられた/決定された( to be marked or characterized or defined )、表示された/間接的に表示/表現された( to be indicated, indirectly denoted or expressed )、視界に留められた/観察された( to be kept in view or observed )、~であると看做された( to be regarded as or taken for )、~であると認識された( to be recognised or known, recognisable by )、識別可能/認識可能/観察可能( observable, perceptible, visible )の義。有為相を表示する行為( The action of indicating conditioned marks )の意。
以是故虛空不名為相。不名為所相。不名為法。不名為非法。不名為有。不名為無。斷諸語言寂滅如無餘涅槃。餘一切法亦如是。 是を以っての故に、虚空を名づけて、相と為さず。名づけて相する所と為さず、名づけて法と為さず、名づけて非法と為さず、名づけて有と為さず、名づけて無と為さず、諸の語言を断じて、寂滅なること、無余涅槃の如し。余の一切の法も、亦た是の如し。
是の故に、
『虚空』は、
『相でもなく!』、
『所相でもなく!』、
『法でもなく!』、
『非法でもなく!』、
『有でもなく!』、
『無でもなく!』、
諸の、
『語言を断じて!』、
譬えば、
『無余涅槃のように!』、
『寂滅である!』が、
余の、
『一切の法』も、
亦た、
『是の通りである!』。
問曰。若一切法如是者。即是虛空。何以復以虛空為喻。 問うて曰く、若し一切の法にして、是の如くんば、即ち是れ虚空ならん。何を以ってか、復た、虚空を以って喩と為す。
問い、
若し、
『一切の法』が、
是の通りならば、――
即ち、
是れが、
『虚空である!』。
何故、
復た、
『虚空を用いて!』、
『喩えるのですか?』。
答曰。諸法因果皆是虛誑。因無明故有誑眾生心。眾生於是法中生著。而不於虛空生著。六塵法誑眾生心。虛空雖復誑則不爾。以是故以虛空為喻。以麤現事破微細事。 答えて曰く、諸法の因果は、皆、是れ虚誑なり。無明に因るが故に、有るは衆生の心を誑す。衆生は、是の法中に於いて、著を生ずるも、虚空に於いては、著を生ぜず。六塵の法は、衆生の心を誑すも、虚空も、復た誑すと雖も、則ち爾らず。是を以っての故に、虚空を以って喩と為し、麁現の事を以って、微細の事を破す。
答え、
『諸の法』は、
『因、果』が、
皆、
『虚誑だからである!』。
『無明という!』、
『因』の故に、
有る、
『法』が、
『衆生』の、
『心』を、
『誑す!』と、
『衆生』は、
是の、
『法』中に、
『著』を、
『生じて!』、
而し、
『虚空』中には、
『著』を、
『生じず!』、
『六塵という!』、
『法』は、
『衆生の心』を、
『誑し!』、
『虚空』も、
復た、
『衆生の心』を、
『誑したとしても!』、
則ち、
『同じではない!』。
是の故に、
『虚空』を
『用いて!』、
『喩えるのであり!』、
『麁現( large enough to be visible )の事を用いて!』、
『微細の事(心、心数法等)』を、
『破るのである!』。
如虛空因色故但有假名無有定法。眾生亦如是。因五眾和合故。但有假名亦無定法。 虚空の、色に因るが故に、但だ仮名有りて、定まりたる法の有ること無きが如く、衆生も、亦た是の如く、五衆の和合に因るが故に、但だ仮名のみ有りて、亦た定まりたる法無し。
『虚空』が、
『色に因る!』が故に、
但だ、
『仮名のみ!』が、
『有り!』、
而も、
『定法』が、
『無いように!』、
『衆生』も、
是のように、
『五衆の和合に因る!』が故に、
但だ、
『仮名のみ!』が、
『有って!』、
而も、
『定法』は、
『無い!』。
摩訶衍亦如是。以眾生空無佛無菩薩。以有眾生故有佛有菩薩。若無佛無菩薩則無摩訶衍。以是故摩訶衍能受無量無邊阿僧祇眾生。若是有法不能受無量諸佛及弟子。 摩訶衍も、亦た是の如く、衆生の空なるを以って、仏無く、菩薩無し。衆生有るを以っての故に、仏有り、菩薩有り。若し、仏無く、菩薩無ければ、則ち摩訶衍無し。是を以っての故に、摩訶衍は、能く無量、無辺阿僧祇の衆生を受く。若し、是れに法有らば、無量の諸仏、及び弟子を受くる能わず。
『摩訶衍』も、
是のように、
『衆生の空である!』が故に、
『仏、菩薩』は、
『無く!』、
『衆生の有る!』が故に、
『仏、菩薩』も、
『有るのである!』。
若し、
『仏、菩薩が無ければ!』、
則ち、
『摩訶衍』も、
『無いことになり!』、
是の故に、
『摩訶衍』は、
『無量、無辺、阿僧祇』の、
『衆生』を、
『受けることができ!』、
若し、
是の、
『摩訶衍』に、
『法』が、
『有れば!』、
『無量』の、
『諸仏と弟子と』を、
『受けることはできないのである!』。
問曰。若實無虛空。云何能受無量無邊阿僧祇眾生。 問うて曰く、若し実に虚空無くんば、云何が、能く無量無辺阿僧祇の衆生を受くる。
問い、
若し、
実に、
『虚空』が、
『無ければ!』、
何故、
『無量、無辺、阿僧祇の衆生』を、
『受けられるのですか?』。
答曰。以是故佛說。摩訶衍無故阿僧祇無。阿僧祇無故無量亦無。無量無故無邊亦無。無邊無故一切法亦無。以是故能受。 答えて曰く、是を以っての故に、仏の説きたまわく、『摩訶衍無きが故に、阿僧祇無く、阿僧祇無きが故に、無量亦た無く、無量無きが故に、無辺亦た無く、無辺無きが故に、一切の法も、亦た無し。是を以っての故に、能く受くるなり』、と。
答え、
是の故に、
『仏』は、こう説かれた、――
『摩訶衍』の、
『無い!』が故に、
『阿僧祇』も、
『無く!』、
『阿僧祇』の、
『無い!』が故に、
『無量』も、
『無く!』、
『無量』の、
『無い!』が故に、
『無辺』も、
『無く!』、
『無辺』の、
『無い!』が故に、
『一切の法』も、
『無い!』ので、
是の故に、
『受けることができるのである!』、と。
  参考:『大智度論巻51』:『【經】須菩提。如汝所言。如虛空受無量無邊阿僧祇眾生。摩訶衍亦受無量無邊阿僧祇眾生。如是如是須菩提。眾生無所有故。當知虛空無所有。虛空無所有故。當知摩訶衍亦無所有。以是因緣故摩訶衍受無量無邊阿僧祇眾生。何以故是眾生虛空摩訶衍。是法皆不可得故。復次須菩提。摩訶衍無所有故。當知阿僧祇無所有。阿僧祇無所有故。當知無量無所有。無量無所有故。當知無邊無所有。無邊無所有故。當知一切諸法無所有。以是因緣故。須菩提。是摩訶衍受無量無邊阿僧祇眾生。何以故。是眾生虛空摩訶衍阿僧祇無量無邊。是一切法不可得故。復次須菩提。我無所有。乃至知者見者無所有故。當知如法性實際無所有。如法性實際無所有故當知乃至無量無邊阿僧祇無所有。無量無邊阿僧祇無所有故當知一切法無所有。以是因緣故。須菩提。摩訶衍受無量無邊阿僧祇眾生。』
阿僧祇者。僧祇秦言數。阿秦言無。眾生諸法各各不可得邊故名無數。數虛空十方遠近不可得邊故名無數。分別數六波羅蜜。種種布施種種持戒等無有數。數幾眾生已上乘當上乘今上乘不可數。是名無數。 阿僧祇とは、僧祇を秦に数と言い、阿を秦に無と言う。衆生、諸法は、各各辺を得べからざるが故に、無数と名づく。虚空を数うるに、十方の遠近に、辺を得べからざるが故に、無数と名づく。分別して、六波羅蜜を数うれば、種種の布施、種種の持戒等、数有ること無く、幾ばくの衆生の、已に乗に上り、当に乗に上るべく、今乗に上らんとするを数うるも、数うべからざれば、是れを無数と名づく。
 『阿僧祇(asaMkhya≒innumerable)』とは
『僧祇(saMkhya≒numerable)』を、
秦に、
『数』と、
『言い!』、
『阿( a≒non )』を、
秦に、
『無』と、
『言うのである!』が、
『衆生、諸法』は、
各各の、
『辺際( limit )』を、
『認めることができない!』が故に、
是れを、
『無数』と、
『称する!』。
例えば、
『六波羅蜜』を、
『分別して!』、
『数えれば!』、――
即ち、
種種の、
『布施、持戒』等が、
『無数であり!』、
何れだけの、
『衆生』が、
已に、
『乗』に、
『上ったのか?』、
当に、
『乗』に、
『上るはずなのか?』、
今、
『乗』に、
『上ろうとしているのか?』を、
『数えても!』、
是の、
『衆生』を、
『数えることはできない!』ので、
是の故に、
『無数』と、
『称するのである!』。
  阿僧祇(あそうぎ):梵語asaMkhya、無数と訳す。印度数目の一。極大数の意。『大智度論巻2上注:阿僧祇』参照。
  (あ):梵語 a, an の音写、接頭語、非/不/無、否定、或はある概念の欠如、又は正反対の概念の意を有す( in or un, and having a negative or privative or contrary sense )の義。
復次有人言。初數為一。但有一一一故言二。如是等皆一。更無餘數法。若皆是一則無數。 復た次ぎに、有る人の言わく、『初の数を、一と為し、但だ一のみ有り。一と、一との故に、二と言うも、是の如き等は、皆一にして、更に余の数法無し。若し、皆、是れ一なれば、則ち数無し。』と。
復た次ぎに、
有る人は、こう言っている、――
初めて、
『一!』と、
『数える!』時には、
但だ、
『一』が、
『有るだけであり!』、
『一!』に、
『一!』を、
『数える!』が故に、
是れを、
『二!』と、
『言うのである!』が、
是れ等は、
皆、
『一であり!』、
更に、
『余の数法( 2, 3, 4, etc. )』は、
『無い!』。
若し、
皆が、
『一ならば!』、
則ち、
『数』は、
『無いことになる!』、と。
有人言。一切法和合故有名字。如輪輞輻轂和合故名為車。無有定實法。一法無故多亦無。先一後多故。 有る人の言わく、『一切法は和合の故に名字有り。輪、輞、輻、轂の和合の故に、名づけて車と為すが如く、定実なる法の有ること無し。一法無きが故に、多も亦た無し、先の一の後に多なるが故なり。』と。
有る人は、こう言っている、――
『一切の法』は、
『和合』の故に、
但だ、
『名字のみ!』が、
『有る!』。
譬えば、
『輪』は、
『輞(おおわ)、輻()、轂(こしき)』等が、
『和合する!』が故に、
是れを、
『車』と、
『称するように!』、
『一切の法』には、
『定実の法が無く!』、
『一法すら無い!』が故に
『多法』も、
『無い!』。
何故ならば、
『先の一』が、
『後の多だからである!』。
復次以繫數事數事無故數亦無。 復た次ぎに、数うる事に繋(かか)わるを以って、数うる事無きが故に、数も、亦た無し。』と。
復た次ぎに、
『数える事』に、
『関連して!』、
『数える事が無い!』が故に、
亦た、
『数』も、
『無いことになる!』。
  (け):かかわる。系。関連する。
無量者。如以斗稱量物。以智慧量諸法亦如是。諸法空故無數。無數故無量無邊。無有實智云何能得諸法定相。 無量とは、斗(ます)を以って、物を称量するが如し。智慧を以って、諸法を量るも、亦た是の如し。諸法は、空なるが故に、数無し。数無きが故に、無量無辺なり。実智有ること無きに、云何が、能く諸法の定相を得ん。
『無量』とは、――
譬えば、
『斗(ます)を用いて!』、
『物』を、
『称量(計量)するように!』、
『智慧を用いて!』、
『諸法』を、
『量る!』のも、
亦た、
『斗』と、
『同じである!』。
即ち、
『諸法』は、
『空である!』が故に、
『数』が、
『無く!』、
『無数である!』が故に、
『無量であり!』、
『無辺である!』。
若し、
『実の!』、
『智慧すら!』、
『無ければ!』、
何故、
『諸法の定相』を、
『認識することができるのか?』。
無量故無邊量名總相。邊名別相。量為初始邊名終竟。 無量なるが故に、無辺なり。量を、総相に名づけ、辺を、別相に名づく。量を初、始と為し、辺を、終、竟と名づく。
『衆生/摩訶衍』は、
『無量である!』が故に、
『無辺である!』が、――
『量』は、
『衆生/摩訶衍』の、
『総相であり!』、
『辺』は、
『別相である!』。
『量』は、
『衆生/摩訶衍』の、
『初、始であり!』、
『辺』は、
『終、竟である!』。
復次我乃至知者見者無故實際亦無。實際無故無數亦無。無數無故無量亦無。無量無故無邊亦無。無邊無故一切法亦無。以是故一切法無。畢竟清淨。 復た次ぎに、我、乃至知者、見者無きが故に、実際も、亦た無し。実際無きが故に、無数も、亦た無し。無数無きが故に、無量も、亦た無し。無量無きが故に、無辺も、亦た無し。無辺無きが故に、一切法も、亦た無し。是を以っての故に、一切法無く、畢竟じて清浄なり。
復た次ぎに、
『我、乃至知者、見者』の、
『無い!』が故に、
『実際』も、
『無く!』、
『実際の無い!』が故に、
『無数』も、
『無く!』、
『無数の無い!』が故に、
『無量』も、
『無く!』、
『無量の無い!』が故に、
『無辺』も、
『無く!』、
『無辺の無い!』が故に、
『一切の法』も、
『無い!』。
是の故に、
『一切の法は無く!』、
『畢竟じて!』、
『清浄である!』。
是摩訶衍能含受一切眾生及法。二事相因。若無眾生則無法。若無法則無眾生。 是の摩訶衍は、能く一切の衆生、及び法を含受するは、二事相因ればなり。若し、衆生無ければ、則ち法無し。若し、法無ければ、則ち衆生無し。
是の、
『摩訶衍』は、
一切の、
『衆生と!』、
『法と!』を、
『含受(受納)することができる!』のは、
是の、
『二事』が、
『相互に!』、
『因となって!』、
若し、
『衆生が無ければ!』、
『法』は、
『無いということであり!』、
若し、
『法が無ければ!』、
『衆生』は、
『無いということだからである!』。
先總相說一切法空。後一一別說諸法空。實際是末後妙法。此若無者何況餘法。從不可思議性乃至如涅槃性亦如是 先に総相を、一切法は空なりと説き、後に一一別に、諸法は空なりと説く。実際は、是れ末後の妙法なり。此れにして、若し無くんば、何に況んや、余の法をや。不可思議性より、乃至涅槃性も、亦た是の如し。
先には、
『総相を用いて!』、
『一切の法は空である!』と、
『説き!』、
後には、
『一一を別けて!』、
『諸の法は空である!』と、
『説いた!』。
『実際』とは、
『最終的妙法であり!』、
此れが、
若し、
『無ければ!』、
況して、
『余の法』は、
『尚更である!』。
『不可思議性』、
乃至、
例えば、
『涅槃性など!』も
『是の通りである!』。
  実際(じっさい):梵語bhuuta-koTiの訳語。極際的境地の義。絶対的に何者も存在しない空の境地の意。『大智度論巻6下注:実際』参照。



【經】摩訶衍には来処、去処、住処が無い

【經】須菩提。汝所言是摩訶衍。不見來處不見去處不見住處。如是如是。須菩提。是摩訶衍不見來處不見去處不見住處。 須菩提、汝が言う所の、『是の摩訶衍は、来処を見ず、去処を見ず、住処を見ず。』とは、是の如し、是の如し、須菩提、是の摩訶衍は、来処を見ず、去処を見ず、住処を見ざるなり。
須菩提!
お前は、こう言ったが、――
是の、
『摩訶衍』は、
『去る処も、来た処も、住まる処も!』、
『見ない!』、と。
その通りである!
その通りである!
須菩提!
是の、
『摩訶衍』は、
『去る処や、来た処や、住まる処を!』、
『見ることはないのだ!』。
  参考:『大智度論巻51』:『世尊。是摩訶衍不見來處不見去處不見住處。是摩訶衍前際不可得後際不可得中際不可得。三世等是摩訶衍。世尊。以是故是乘名摩訶衍。』
  参考:『大般若経巻58』:『復次善現。汝言。又如虛空無來無去無住可見。大乘亦爾。無來無去無住可見者。如是如是。如汝所說。所以者何。善現。以一切法無來無去亦復不住。何以故。以一切法若動若住不可得故。善現。色無來無去亦復不住。受想行識無來無去亦復不住。色本性無來無去亦復不住。受想行識本性無來無去亦復不住。色真如無來無去亦復不住。受想行識真如無來無去亦復不住。色自性無來無去亦復不住。受想行識自性無來無去亦復不住。色自相無來無去亦復不住。受想行識自相無來無去亦復不住。何以故。善現。以色受想行識及彼本性真如自性自相若動若住不可得故。復次善現。眼處無來無去亦復不住。耳鼻舌身意處無來無去亦復不住。眼處本性無來無去亦復不住。耳鼻舌身意處本性無來無去亦復不住。眼處真如無來無去亦復不住。耳鼻舌身意處真如無來無去亦復不住。眼處自性無來無去亦復不住。耳鼻舌身意處自性無來無去亦復不住。眼處自相無來無去亦復不住。耳鼻舌身意處自相無來無去亦復不住。何以故。善現。以眼耳鼻舌身意處及彼本性真如自性自相若動若住不可得故』
何以故。須菩提。一切諸法不動相故。是法無來處無去處無住處。 何を以っての故に、須菩提、一切の諸法は不動の相なるが故に、是の法には、来処無く、去処無く、住処無ければなり。
何故ならば、――
須菩提!
一切の、
諸の、
『法』は、
『動かない!』、
『相である!』が故に、
是の、
『法』には、
『来た処も、去る処も、住まる処も!』、
『無いのである!』。
何以故。須菩提。色無所從來亦無所去亦無所住。受想行識無所從來亦無所去亦無所住。 何を以っての故に、須菩提、色には、従って来たる所無く、亦た去る所無く、亦た住まる所無く、受想行識には、従って来たる所無く、去る所無く、住まる所無ければなり。
何故ならば、
須菩提!
『色』には、
『来た処も、去る処も、住まる処も!』、
『無いからであり!』、
『受想行識』にも、
『来た処も、去る処も、住まる処も!』、
『無いからである!』。
須菩提。色法無所從來亦無所去亦無所住。受想行識法無所從來亦無所去亦無所住。 須菩提、色の法には、従って来たる所無く、亦た去る所無く、亦た住まる所無し。受想行識の法にも、従って来たる所無く、亦た去る所無く、亦た住まる所無し。
須菩提!
『色』の、
『法』には、
『来た処も、去る処も、住まる処も!』、
『無く!』、
『受想行識』の、
『法』にも、
『来た処も、去る処も、住まる処も!』、
『無い!』。
須菩提。色如無所從來亦無所去亦無所住。受想行識如無所從來亦無所去亦無所住。 須菩提、色の如には、従って来たる所無く、亦た去る所無く、亦た住まる所無し。受想行識の如にも、従って来たる所無く、亦た去る所無く、亦た住まる所無し。
須菩提!
『色』の、
『如』には、
『来た処も、去る処も、住まる処も!』、
『無く!』、
『受想行識』の、
『如』にも、
『来た処も、去る処も、住まる処も!』、
『無い!』。
須菩提。色性無所從來亦無所去亦無所住。受想行識性無所從來亦無所去亦無所住。 須菩提、色の性には、従って来たる所無く、亦た去る所無く、亦た住まる所無し。受想行識の性にも、従って来たる所無く、亦た去る所無く、亦た住まる所無し。
須菩提!
『色』の、
『性』には、
『来た処も、去る処も、住まる処も!』、
『無く!』、
『受想行識』の、
『性』にも、
『来た処も、去る処も、住まる処も!』、
『無い!』。
須菩提。色相無所從來亦無所去亦無所住。受想行識相無所從來亦無所去亦無所住。 須菩提、色の相には、従って来たる所無く、亦た去る所無く、亦た住まる所無し。受想行識の相にも、従って来たる所無く、亦た去る所無く、亦た住まる所無し。
須菩提!
『色』の、
『相』には、
『来た処も、去る処も、住まる処も!』、
『無く!』、
『受想行識』の、
『相』にも、
『来た処も、去る処も、住まる処も!』、
『無い!』。
須菩提。眼眼法眼如眼性眼相。無所從來亦無所去亦無所住。耳鼻舌身意意法意如意性意相。無所從來亦無所去亦無所住。色聲香味觸法亦如是。 須菩提、眼と、眼の法と、眼の如と、眼の性と、眼の相とは、従って来たる所無く、亦た去る所無く、亦た住まる所無し。耳鼻舌身意と、意の法と、意の如と、意の性と、意の相とは、従って来たる所無く、亦た去る所無く、亦た住まる所無し。色声香味触法も、亦た是の如し。
須菩提!
『眼にも!』、
『眼の法にも、如にも、性にも、相にも!』、
『来た処も、去る処も、住まる処も!』、
『無く!』、
『耳鼻舌身意にも!』、
『耳鼻舌身意の法にも、如にも、性にも、相にも!』、
『来た処も、去る処も、住まる処も!』、
『無く!』、
『色声香味触法』も、
亦た、
『是の通りである!』。
須菩提。地種地種法地種如地種性地種相。無所從來亦無所去亦無所住。水火風空識種識種法識種如識種性識種相亦如是。 須菩提、地種と、地種の法と、地種の如と、地種の性と、地種の相とは、従って来たる所無く、亦た去る所無く、亦た住まる所無し。水、火、風、空、識種と、識種の法と、識種の如と、識種の性と、識種の相も、亦た是の如し。
須菩提!
『地種にも!』、
『地種の法にも、如にも、性にも、相にも!』、
『来た処も、去る処も、住まる処も!』、
『無く!』、
『水火風空識種も!』、
『水火風空識種の法も、如も、性も、相も!』、
亦た、
『是の通りである!』。
須菩提。如如法如如如性如相。無所從來亦無所去亦無所住。 須菩提、如と、如の法と、如の如と、如の性と、如の相とは、従って来たる所無く、亦た去る所無く、亦た住まる所無し。
須菩提!
『如にも!』、
『如の法にも、如にも、性にも、相にも!』、
『来た処も、去る処も、住まる処も!』、
『無い!』。
須菩提。實際實際法實際如實際性。實際相無所從來亦無所去亦無所住。 須菩提、実際と、実際の法と、実際の如と、実際の性と、実際の相とは、従って来たる所無く、亦た去る所無く、亦た住まる所無し。
須菩提!
『実際にも!』、
『実際の法にも、如にも、性にも、相にも!』、
『来た処も、去る処も、住まる処も!』、
『無い!』。
須菩提。不可思議不可思議法不可思議如不可思議性不可思議相。無所從來亦無所去亦無所住。 須菩提、不可思議と、不可思議の法と、不可思議の如と、不可思議の性と、不可思議の相とは、従って来たる所無く、亦た去る所無く、亦た住まる所無し。
須菩提!
『不可思議にも!』、
『不可思議の法にも、如にも、性にも、相にも!』、
『来た処も、去る処も、住まる処も!』、
『無い!』。
須菩提。檀波羅蜜檀波羅蜜法檀波羅蜜如檀波羅蜜性檀波羅蜜相無所從來。亦無所去亦無所住。尸羅波羅蜜羼提波羅蜜毘梨耶波羅蜜禪波羅蜜般若波羅蜜。般若波羅蜜法般若波羅蜜如般若波羅蜜性般若波羅蜜相。無所從來亦無所去亦無所住。 須菩提、檀波羅蜜と、檀波羅蜜の法と、檀波羅蜜の如と、檀波羅蜜の性と、檀波羅蜜の相とは、従って来たる所無く、亦た去る所無く、亦た住まる所無し。尸羅波羅蜜、羼提波羅蜜、毘梨耶波羅蜜、禅波羅蜜、般若波羅蜜と、般若波羅蜜の法と、般若波羅蜜の如と、般若波羅蜜の性と、般若波羅蜜の相とは、従って来たる所無く、亦た去る所無く、亦た住まる所無し。
須菩提!
『檀波羅蜜にも!』、
『檀波羅蜜の法にも、如にも、性にも、相にも!』、
『来た処も、去る処も、住まる処も!』、
『無く!』、
『尸羅、羼提、毘梨耶、禅、般若波羅蜜にも!』、
『尸羅、乃至般若波羅蜜の法にも、如にも、性にも、相にも!』、
『来た処も、去る処も、住まる処も!』、
『無い!』。
須菩提。四念處四念處法四念處如四念處性四念處相。無所從來亦無所去亦無所住。乃至十八不共法亦如是。 須菩提、四念処と、四念処の法と、四念処の如と、四念処の性と、四念処の相とは、従って来たる所無く、亦た去る所無く、亦た住まる所無し。乃至十八不共法も、亦た是の如し。
須菩提!
『四念処にも!』、
『四念処の法にも、如にも、性にも、相にも!』、
『来た処も、去る処も、住まる処も!』、
『無く!』、
乃至、
『十八不共法』も、
亦た、
『是の通りである!』。
須菩提。菩薩菩薩法菩薩如菩薩性菩薩相。無所從來亦無所。去亦無所住佛佛法佛如佛性佛相。無所從來亦無所去亦無所住。阿耨多羅三藐三菩提阿耨多羅三藐三菩提。法如性相。無所從來亦無所去亦無所住。 須菩提、菩薩と、菩薩の法と、菩薩の如と、菩薩の性と、菩薩の相とは、従って来たる所無く、亦た去る所無く、亦た住まる所無し。仏と、仏の法と、仏の如と、仏の性と、仏の相とは、従って来たる所無く、亦た去る所無く、亦た住まる所無し。阿耨多羅三藐三菩提と、阿耨多羅三藐三菩提の法と、如と、性と、相とは、従って来たる所無く、亦た去る所無く、亦た住まる所無し。
須菩提!
『菩薩にも!』、
『菩薩の法にも、如にも、性にも、相にも!』、
『来た処も、去る処も、住まる処も!』、
『無く!』、
『仏にも!』、
『仏の法にも、如にも、性にも、相にも!』、
『来た処も、去る処も、住まる処も!』、
『無く!』、
『阿耨多羅三藐三菩提にも!』、
『阿耨多羅三藐三菩提の法にも、如にも、性にも、相にも!』、
『来た処も、去る処も、住まる処も!』、
『無い!』。
須菩提。有為法有為法法有為法如有為法性有為法相。無所從來亦無所去亦無所住。 須菩提、有為法と、有為法の法と、有為法の如と、有為法の性と、有為法の相とは、従って来たる所無く、亦た去る所無く、亦た住まる所無し。
須菩提!
『有為法にも!』、
『有為法の法にも、如にも、性にも、相にも!』、
『来た処も、去る処も、住まる処も!』、
『無い!』。
須菩提。無為法無為法法無為法如無為法性無為法相。無所從來亦無所去亦無所住。 須菩提、無為法と、無為法の法と、無為法の如と、無為法の性と、無為法の相とは、従って来たる所無く、亦た去る所無く、亦た住まる所無し。
須菩提!
『無為法にも!』、
『無為法の法にも、如にも、性にも、相にも!』、
『来た処も、去る処も、住まる処も!』、
『無い!』。
以是因緣故。須菩提。是摩訶衍不見來處不見去處不見住處 是の因縁を以っての故に、須菩提、是の摩訶衍は、来処を見ず、去処を見ず、住処を見ざるなり。
是の、
『因縁』の故に、
須菩提!
是の、
『摩訶衍』は、
『来る処も、去る処も、住まる処も!』、
『見ないのである!』。



【論】摩訶衍には来処、去処、住処が無い

【論】者言佛謂須菩提。汝何以但讚摩訶衍無來無去無住。一切法亦如是。無來無去無住。一切法實相不動故。 論者の言わく、仏の謂わく、『須菩提、汝は、何を以ってか、但だ摩訶衍の来たる無く、去る無く、住まる無きを讃ずる。一切法も、亦た是の如く、来たる無く、去る無く、住まる無し。一切法の実相は、不動なるが故なり。』、と。
論者は言う、――
『仏』は、こう謂われた、――
須菩提!
お前は、
何故、
但だ、
『摩訶衍』の、
『来ることも、去ることも、住まることも無い!』のを、
『讃じるのか?』。
一切の、
『法』も、
『是のように!』、
『来ることも、去ることも、住まることも無いのだ!』。
何故ならば、
一切の、
『法』の、
『実相』は、
『動かないからである!』、と。
問曰。諸法現有來去可見。云何言不動相無來無去。 問うて曰く、諸法は、現に来去の見るべき有り。云何が、『不動の相にして、来たる無く、去る無し。』と言う。
問い、
諸の、
『法』は、
現に
『来たり、去ったりする!』ことが、
『有って!』、
『見られている!』のに、
何故、こう言うのか?――
『不動の相であり!』、
『来ることも、去ることも!』、
『無い!』、と。
答曰。來去相先已破。今當更說。一切佛法中無我無眾生乃至無知者見者。故來者去者無。來者去者無故。來去相亦應無。 答えて曰く、来去の相は、先に已に破れり。今、当に更に説くべし。一切の仏法中には、我無く、衆生無く、乃至知者、見者無きが故に、来者、去者無し。来者、去者無きが故に、来去の相も、亦た応に無かるべし。
答え、
『来、去の相』は、
已に、
『先に破った!』が、
今、
『更に説くことにしよう!』、――
一切の、
『仏法』中には、
『我も!』、
『衆生も!』、
『無く!』、
乃至、
『知者も、見者も無い!』ので、
是の故に、
『来者も、去者も!』
『無い!』。
『来者や、去者の無い!』が故に、
『来、去の相』も、
『無いはずである!』。
復次三世中求去相不可得。所以者何。已去中無去。未去中亦無去。離已去未去去時亦無去。 復た次ぎに、三世中に、去相を求めて得べからず。所以は何んとなれば、已に去りたる中には、去る無く、未だ去らざる中にも、亦た去る無く、已に去ると、未だ去らざるを離れて、去る時にも、亦た去ること無ければなり。
復た次ぎに、
『三世』中に、
『去相』を、
『求めた!』が、
『得られなかった!』。
何故ならば、
『過去の去』中にも、
『未来の去』中にも、
『去が無く!』、
『過去、未来の去を離れた!』
『去時』にも、
『去が無いからである!』。
  参考:『中論巻1去来品』:『中論觀去來品第二(二十五偈) 問曰。世間眼見三時有作。已去未去去時。以有作故當知有諸法。答曰 已去無有去  未去亦無去  離已去未去  去時亦無去  已去無有去已去故。若離去有去業。是事不然。未去亦無去。未有去法故。去時名半去半未去。不離已去未去故。問曰  動處則有去  此中有去時  非已去未去  是故去時去  隨有作業處。是中應有去。眼見去時中有作業。已去中作業已滅。未去中未有作業。是故當知去時有去。答曰  云何於去時  而當有去法  若離於去法  去時不可得  去時有去法。是事不然。何以故。離去法去時不可得。若離去法有去時者。應去時中有去。如器中有果。復次  若言去時去  是人則有咎  離去有去時  去時獨去故  若謂已去未去中無去。去時實有去者。是人則有咎。若離去法有去時。則不相因待。何以故。若說去時有去。是則為二。而實不爾。是故不得言離去有去時。復次  若去時有去  則有二種去  一謂為去時  二謂去時去  若謂去時有去是則有過。所謂有二去。一者因去有去時。二者去時中有去。問曰。若有二去有何咎。答曰  若有二去法  則有二去者  以離於去者  去法不可得  若有二去法。則有二去者。何以故。因去法有去者故。一人有二去二去者。此則不然。是故去時亦無去。問曰。離去者無去法可爾。今三時中定有去者。答曰  若離於去者  去法不可得  以無去法故  何得有去者  若離於去者。則去法不可得。今云何於無去法中。言三時定有去者。復次  去者則不去  不去者不去  離去不去者  無第三去者  無有去者。何以故。若有去者則有二種。若去者若不去者。若離是二。無第三去者。問曰。若去者去有何咎。答曰  若言去者去  云何有此義  若離於去法  去者不可得  若謂定有去者用去法。是事不然。何以故。離去法。去者不可得故。若離去者定有去法。則去者能用去法。而實不爾。復次  若去者有去  則有二種去  一謂去者去  二謂去法去  若言去者用去法。則有二過。於一去者中而有二去。一以去法成去者。二以去者成去法。去者成已然後用去法。是事不然。是故先三時中。謂定有去者用去法。是事不然。復次  若謂去者去  是人則有咎  離去有去者  說去者有去  若人說去者能用去法。是人則有咎。離去法有去者。何以故。說去者用去法。是為先有去者後有去法。是事不然。是故三時中無有去者。復次若決定有去有去者。應有初發。而於三時中。求發不可得。何以故  已去中無發  未去中無發  去時中無發  何處當有發  何以故。三時中無發  未發無去時  亦無有已去  是二應有發  未去何有發  無去無未去  亦復無去時  一切無有發  何故而分別  若人未發則無去時。亦無已去。若有發當在二處。去時已去中。二俱不然。未去時未有發故。未去中何有發。發無故無去。無去故無去者。何得有已去未去去時。問曰。若無去無去者。應有住住者。答曰  去者則不住  不去者不住  離去不去者  何有第三住  若有住有住者。應去者住。若不去者住。若離此二。應有第三住。是事不然。去者不住。去未息故。與去相違名為住。不去者亦不住。何以故。因去法滅故有住。無去則無住。離去者不去者。更無第三住者。若有第三住者。即在去者不去者中。以是故。不得言去者住。復次  去者若當住  云何有此義  若當離於去  去者不可得  汝謂去者住。是事不然。何以故。離去法。去者不可得。若去者在去相。云何當有住。去住相違故。復次  去未去無住  去時亦無住  所有行止法  皆同於去義  若謂去者住。 是人應在去時已去未去中住。三處皆無住。是故汝言去者有住。是則不然。如破去法住法。行止亦如是。行者。如從穀子相續至芽莖葉等。止者。穀子滅故芽莖葉滅。相續故名行。斷故名止。又如無明緣諸行乃至老死是名行。無明滅故諸行等滅是名止。問曰。汝雖種種門破去去者住住者。而眼見有去住。答曰。肉眼所見不可信。若實有去去者。為以一法成。為以二法成。二俱有過。何以故  去法即去者  是事則不然  去法異去者  是事亦不然  若去法去者一。是則不然。異亦不然。問曰一異有何過。答曰  若謂於去法  即為是去者  作者及作業  是事則為一  若謂於去法  有異於去者  離去者有去  離去有去者  如是二俱有過。何以故。若去法即是去者。是則錯亂破於因緣。因去有去者。因去者有去。又去名為法。去者名為人。人常法無常。若一者則二俱應常二俱無常。一中有如是等過。若異者則相違。未有去法應有去者。未有去者應有去法。不相因待。一法滅應一法在。異中有如是等過。復次  去去者是二  若一異法成  二門俱不成  云何當有成  若去者去法。有若以一法成。若以異法成。二俱不可得。先已說無第三法成。若謂有成。應說因緣無去無去者。今當更說  因去知去者  不能用是去  先無有去法  故無去者去  隨以何去法知去者。是去者不能用是去法。何以故。是去法未有時。無有去者。亦無去時已去未去。如先有人有城邑得有所起。去法去者則不然。去者因去法成。去法因去者成故。復次  因去知去者  不能用異去  於一去者中  不得二去故  隨以何去法知去者。是去者不能用異去法。何以故。一去者中。二去法不可得故。復次  決定有去者  不能用三去  不決定去者  亦不用三去  去法定不定  去者不用三  是故去去者  所去處皆無  決定者。名本實有。不因去法生。去法名身動。三種名未去已去去時。若決定有去者。離去法應有去者。不應有住。是故說決定有去者不能用三去。若去者不決定。不決定名本實無。以因去法得名去者。以無去法故不能用三去。因去法故有去者。若先無去法則無去者。云何言不決定去者用三去。如去者去法亦如是。若先離去者。決定有去法。則不因去者有去法。是故去者。不能用三去法。若決定無去法去者何所用。如是思惟觀察。去法去者所去處。是法皆相因待。因去法有去者。因去者有去法。因是二法則有可去處不得言定有。不得言定無。是故決定知。三法虛妄。空無所有。但有假名。如幻如化』
問曰。有身動處是名為去。已去未去中無身動。以是故。去時身動即應有去。 問うて曰く、身の動く処有れば、是れを名づけて去ると為すに、已に去ると、未だ去らざる中には、身の動く無し。是を以っての故に、去る時には身動く、即ち、応に去る有るべし。
問い、
『身』の、
『動く処が有って!』、
是れを、
『去』と、
『称すれば!』、
『過去、未来の去』中には、
『身』の、
『動く!』ことが、
『無い!』ので、
是の故に、
『去時』に、
『身』が、
『動いて!』、
即ち、
『去』が、
『有るはずだ!』。
答曰。不然。離去相去時不可得。離去時去相不可得。云何言去時去。 答えて曰く、然らず。去る相を離れて、去る時を得べからず。去る時を離れて、去る相を得べからず。云何が、『去る時に、去る。』と言う。
 答え、
そうでない!
『去相を離れて!』、
『去時』を、
『得られず!』、
『去時を離れて!』、
『去相』を、
『得られないからだ!』。
何故、
こう言うのか?――
『去る!』時に、
『去る!』、と。
復次若去時有去相。應離去相有去時。何以故。汝說去時有去故。 復た次ぎに、若し、去る時に、去る相有らば、応に去る相を離れて、去る時有るべし。何を以っての故にか、汝は、『去る時に去る有るが故に』と説く。
復た次ぎに、
若し、
『去時』に、
『去相』が、
『有れば!』、
『去相を離れても!』、
『去時』が、
『有るはずだ!』。
何故、
お前は、こう説くのか?――
『去時』には、
『去る!』ことが、
『有る!』、と。
復次若去時去應有二去。一者知去時。二者知去時去。 復た次ぎに、若し、去る時に去れば、応に二去有るべし。一には、去る時を知り、二には、去る時に去るを知る。
復た次ぎに、
若し、
『去時に去れば!』、
『二去』が、
『有るはずだ!』、
一には、
『去時』を、
『知る!』、
『去る!』と、
二には、
『去時に去る!』ことを、
『知る!』、
『去るである!』。
  参考:『中論巻1去来品』:『若去時有去  則有二種去  一謂為去時  二謂去時去』
問曰。若爾有何咎。 問うて曰く、若し爾らば、何んの咎か有る。
問い、
若し、
『二去が有れば!』、
何のような、
『咎』が、
『有るのか?』。
答曰。若爾有二去者。何以故。離去者無去相。若離去者無去相。離去相無去者。是故去者不去。不去者亦不去。離去不去亦無有去。來者住者亦如是。 答えて曰く、若し爾らば、二の去者有り。何を以っての故に、去者を離れて、去相無し。若し、去者を離れて、去相無くんば、去相を離れて、去者無し。是の故に、去者は去らず。不去の者も、亦た去らず。去、不去を離れて、亦た去有ること無し。来者、住者も、亦た是の如し。
答え、
若し、
『二去が有れば!』、
『二去者』が、
『有るからだ!』。
何故ならば、
『去者を離て!』、
『去相』は、
『無いからだ!』。
若し、
『去者を離れて!』、
『去相』が、
『無ければ!』、
『去相を離れて!』、
『去者』は、
『無いだろう!』。
是の故に、
『去者』は、
『去らない!』し、
亦た、
『不去者』も、
『去らない!』。
若し、
『去と、不去とを離れれば!』、
亦た、
『去』も、
『無いだろう!』。
『来者も、住者も!』、
亦た、
『是の通りである!』。
以是故佛說。凡夫人法虛誑無實。雖復肉眼所見。與畜生無異。是不可信。是故說諸法無來無去無住處亦無動。 是を以っての故に、仏の説きたまわく、『凡夫の人法は、虚誑、無実にして、復た肉眼の見る所なりと雖も、畜生と異なり無く、是れ信ずべからず。』と。是の故に説きたまわく、『諸法は、来る無く、去る無く、住処無く、亦た動くこと無し。』と。
是の故に、
『仏』は、こう説かれている、――
『凡夫人』の、
『法( dharman≒mode )』は、
『虚誑であり!』、
『無実である!』。
亦た、
『肉眼に見られた!』としても、
『畜生に見られた!』のと、
『異ならず!』、
是の、
『所見』は、
『信ずべきでない!』。
是の故に、こう説くのである、――
諸の、
『法』には、
『来た処も、去る処も、住まる処も!』、
『無く!』、
亦た、
『動く!』ことも、
『無い!』、と。
何者是。所謂色色法色如色性色相。 何者か、是れなる。謂わゆる色と、色の法、色の如、色の性、色の相なり。
是の、
『諸の法』とは、何者なのか?――
謂わゆる、
『色と!』、
『色の法と、如と、性と、相とである!』。
色名眼見事。未分別好醜實不實自相他相。 色を、眼に見る事と名づく。未だ好醜、実不実、自相他相を分別せず。
『色』とは、
『眼』の、
『見た!』、
『事であり!』、
未だ、
『好醜、実不実、自相他相』は、
『分別されていない!』。
色法名無常生滅不淨等。 色の法を、無常、生滅、不浄等に名づく。
『色の法』とは、
『無常、生滅、不浄等である!』。
色如名色和合有。如水沫不牢固離散則無。虛偽無實但誑人眼。 色の如を、色は、和合の有にして、水沫の如く、牢固ならず、離散すれば、則ち無く、虚偽、無実にして、但だ人の眼を誑すのみと名づく。
『色の如』とは、こういうことである、――
『色』は、
『和合』の、
『有(存在)であり!』、
譬えば、
『水沫のように!』、
『牢固(堅固)でなく!』、
『離散すれば!』、
則ち、
『無となる!』ので、
『虚偽、無実であり!』、
但だ、
『人の眼』を、
『誑すだけである!』。
色現在如是。過去未來亦爾。如現在火熱。比知過去未來亦如是。 色の、現在は是の如し。過去、未来も、亦た爾り。現在の火の熱きが如きに比して、過去、未来も、亦た是の如きを知る。
『色』の、
『現在』は、
『是の通りである!』が、
『過去、未来』も、
亦た、
『是の通りである!』。
譬えば、
『現在』の、
『火』が、
『熱ければ!』、
『過去、未来』も、
『是の通りである!』と、
『推理するようなものである!』。
  比知(ひち):梵語 anumaana の訳、与えられた前提から結論を推理したり、引出たりする行為( the act of inferring or drawing a conclusion from given premises )、推論/熟考/内省( inference, consideration, reflection )、推測/推理( guess, conjecture )等の義。
復次如諸佛觀色相畢竟清淨空。菩薩亦應如是觀。色法色如何因緣不如凡夫人所見。性自爾故。 復た次ぎに、諸仏の色相を観るに、畢竟じて清浄にして空なるが如く、菩薩も、亦た応に是の如く色の法、色の如を観るべし。何の因縁ありてか、凡夫人の見る所の如くあらざる。性は、自ら爾るが故なり。
復た次ぎに、
例えば、
『諸仏』が、
『色相』は、
『畢竟清浄の空である!』と、
『観察されるように!』、
『菩薩』も、
是のように
『色の法、色の如』を、
『観るはずである!』。
何のような、
『因縁』の故に、
『凡夫人』の、
『所見』と、
『同じではないのだろうか?』。
何故ならば、
『色の性』が、
『自ら!』、
『爾うだからである!』。
此性深妙。云何可知。以色相力故可知。如火以煙為相見煙則知有火。今見色無常破壞苦惱麤澀相。知其性爾。 此の性は、深妙なり。云何が、知るべき。色の相の力を以っての故に、知るべし。火を、煙を以って、相と為し、煙を見れば、則ち火有るを知るが如し。今、色の無常、破壊、苦悩、麁渋の相なるを見て、其の性の爾るを知る。
此の、
『性』は、
『深く!』、
『微妙である!』が故に、
何故、
『凡夫人』に、
『知られるのか?』。
『色の相という!』、
『力を用いる!』が故に、
『知ることができるのである!』。
譬えば、
『火』は、
『煙という!』、
『相』を、
『用いる!』が故に、
『煙を見れば!』、
『火が有る!』と、
『知るように!』、
今、
『色』の、
『無常、破壊、苦悩、麁渋の相』を、
『見て!』、
『色の性』は、
『爾の通りである!』と、
『知るのである!』。
此五法不去不來不住如先說。乃至無為無為法如性相。不來不去不住亦如是 此の五法の去らず、来たらず、住まらざること、先に説けるが如し。乃至無為、無為の法、如、性、相の来たらず、去らず、住まらざること、亦た是の如し。
此の、
『五法』の、
『不去、不来、不住』は、
先に、
『説いた通りである!』。
乃至、
『無為や!』、
『無為の法、如、性、相』が、
『不来、不去、不住である!』ことも、
『是の通りである!』。



【經】摩訶衍に前際、後際、中際は無い

【經】須菩提。汝所言是摩訶衍。前際不可得後際不可得中際不可得。是衍名三世等。以是故說名摩訶衍。如是如是。須菩提。是摩訶衍前際不可得後際不可得中際不可得。是衍名三世等。以是故說名摩訶衍。 須菩提、汝が言う所の、『是の摩訶衍の前際を得べからず、後際を得べからず、中際を得べからざるは、是の衍を、三世の等と名づけ、是を以っての故に、説いて、摩訶衍と名づく。』とは、是の如し、是の如し。須菩提、是の摩訶衍は、前際を得べからず、後際を得べからず、中際を得べからず。是の衍を、三世の等と名づけ、是を以っての故に説いて、摩訶衍と名づくるなり。
須菩提!
お前は、こう言ったが、――
是の、
『摩訶衍』に、
『前際も、後際も、中際も!』、
『認められない!』のは、
是の、
『衍()』が、
『三世』に、
『等しいということであり!』、
是の故に説いて、――
是れを、
『摩訶衍(大乗)』と、
『称するのだ!』、と。
その通りだ!
その通りだ!
須菩提!
是の、
『摩訶衍』に、
『前際も、後際も、中際も!』、
『認められない!』のは、
是の、
『衍』が、
『三世』に、
『等しいということであり!』、
是の故に説いて、――
是れを、
『摩訶衍』と、
『称するのである!』。
  前際(ぜんさい):梵語puurvaantaの訳。先の際限、過去の生。『大智度論巻51下注:三際』参照。
  後際(ごさい):梵語aparaantaの訳。後の際限、未来の生。『大智度論巻51下注:三際』参照。
  中際(ちゅうさい):梵語madhyaantaの訳。前際、後際の中間。現在、或いは現在の生(梵pratyutpanna)に同義。『大智度論巻51下注:三際』参照。
  三際(さんさい):三種の際限の意。過去未来及び現在の三世の際限を云う。一に前際puurvaanta、二に後際paraanta、三に中際madhyaantaなり。「仁王護国般若波羅蜜多経巻上」に、「身の実相を観じ、仏を観ずるも亦然り。前際なく、後際なく、中際なし。三際に住せず、三際を離れず」と云い、「倶舎論巻9」に、「三際と言うは一に前際、二に後際、三に中際なり。即ち是れ過と未と及び現との三の生なり」と云える是れなり。是れ蓋し過去は已往なるが故に之を前際と名づけ、未来は当生なるが故に後際と名づけ、現在は過未の中間に在るが故に中際と名づけたるなり。又「維摩詰所説経巻中」、「大毘婆沙論巻24」、「華厳経疏鈔玄談巻1」等に出づ。<(望)
  (とう):梵語sama、或いはsamataaの訳。又平等と訳す。均平斉等の義。差別(梵viSama不平等の義)に対す。即ち人法等の性の均平斉等にして差別なきを云う。『大智度論巻19下注:平等』参照。
  参考:『大般若経巻59』:『復次善現。汝言。又如虛空前後中際皆不可得。大乘亦爾。前後中際皆不可得。三世平等故名大乘者。如是如是。如汝所說。所以者何。善現。過去世過去世空。未來世未來世空。現在世現在世空。三世平等性三世平等性空。大乘性大乘性空。菩薩摩訶薩。菩薩摩訶薩性空。何以故。善現。空無一二三四五六七八九十別異之相。是故大乘三世平等。善現。如是大乘中。平等不平等相俱不可得。貪不貪相俱不可得。瞋不瞋相俱不可得。癡不癡相俱不可得。慢不慢相俱不可得。如是乃至善非善相俱不可得。有記無記相俱不可得。有漏無漏相俱不可得。有罪無罪相俱不可得。有染離染相俱不可得。世間出世間相俱不可得。雜染清淨相俱不可得。生死涅槃相俱不可得。常無常相俱不可得。樂及苦相俱不可得。我無我相俱不可得。淨不淨相俱不可得。寂靜不寂靜相俱不可得。遠離不遠離相俱不可得。欲界出欲界相俱不可得。色界出色界相俱不可得。無色界出無色界相俱不可得。何以故。善現。以大乘中諸法自性不可得故。善現。過去色過去色空。未來色未來色空。現在色現在色空。過去受想行識過去受想行識空。未來受想行識未來受想行識空。現在受想行識現在受想行識空。所以者何。善現。空中過去色不可得。何以故。過去色即是空。空性亦空。空中空尚不可得。何況空中有過去色可得。善現。空中未來色不可得。何以故。未來色即是空。空性亦空。空中空尚不可得。何況空中有未來色可得。善現。空中現在色不可得。何以故。現在色即是空。空性亦空。空中空尚不可得。何況空中有現在色可得。善現。空中過去未來現在色不可得。何以故。過去未來現在色即是空。空性亦空。空中空尚不可得。何況空中有過去未來現在色可得。善現。空中過去受想行識不可得。何以故。過去受想行識即是空。空性亦空。空中空尚不可得。何況空中有過去受想行識可得。善現。空中未來受想行識不可得。何以故。未來受想行識即是空。空性亦空。空中空尚不可得。何況空中有未來受想行識可得。善現。空中現在受想行識不可得。何以故。現在受想行識即是空。空性亦空。空中空尚不可得。何況空中有現在受想行識可得。善現。空中過去未來現在受想行識不可得。何以故。過去未來現在受想行識即是空。空性亦空。空中空尚不可得。何況空中有過去未來現在受想行識可得』
何以故。須菩提。過去世過去世空。未來世未來世空。現在世現在世空。三世等三世等空。摩訶衍摩訶衍空。菩薩菩薩空。 何を以っての故に、須菩提、過去世は、過去世の空なり。未来世は、未来世の空なり。現在世は、現在世なる空なり。三世の等は、三世の等なる空なり。摩訶衍は、摩訶衍なる空なり。菩薩は、菩薩なる空なればなり。
何故ならば、――
須菩提!
『過去世』とは、
『過去世という!』、
『空であり!』、
『未来世』とは、
『未来世という!』、
『空であり!』、
『現在世』とは、
『現在世という!』、
『空であり!』、
『三世が等しい!』とは、
『三世が等しいという!』、
『空であり!』、
『摩訶衍』とは、
『摩訶衍という!』、
『空であり!』、
『菩薩』とは、
『菩薩という!』、
『空だからである!』。
何以故。須菩提。是空非一非二非三非四非五非異。以是故說名三世等。是菩薩摩訶薩摩訶衍。 何を以っての故に、須菩提、是の空は、一に非ず、二に非ず、三に非ず、四に非ず、五に非ず、異に非ざればなり。是を以っての故に説かく、『三世等し』と、是れを菩薩摩訶薩の摩訶衍と名づく。
何故ならば、――
須菩提!
是の、
『空』は、
『一でもなく!』、
『二でも、三でも、四でも、五でもなく!』、
『異(別異相)でもないからである!』。
是の故に説いて、――
『三世に等しい!』と、
『称するのであり!』、
是れが、
『菩薩摩訶薩』の、
『摩訶衍なのである!』。
是衍中等不等相不可得故。染不染不可得。瞋不瞋不可得。癡不癡不可得。慢不慢不可得。乃至一切善法不善法不可得。 是の衍中には、等、不等の相を得べからざるが故に、染、不染も得べからず、瞋、不瞋も得べからず、癡、不癡も得べからず、慢、不慢も得べからず、乃至一切の善法、不善法も得べからず。
是の、
『衍』中には、
『等、不等の相が認められない!』が故に、
『染も、不染も認められず!』、
『瞋も、不瞋も認められず!』、
『癡も、不癡も認められず!』、
『慢も、不慢も認められず!』、
乃至、
一切の、
『善法も、不善法も認められない!』。
是衍中常不可得。無常不可得。樂不可得。苦不可得。實不可得。空不可得。我不可得。無我不可得。欲界不可得。色界不可得。無色界不可得。度欲界不可得。度色界不可得。度無色界不可得。何以故。是摩訶衍自法不可得故。 是の衍中には、常も得べからず、無常も得べからず、楽も得べからず、苦も得べからず、実も得べからず、空も得べからず、我も得べからず、無我も得べからず、欲界も得べからず、色界も得べからず、無色界も得べからず、欲界を度するも得べからず、色界を度するも得べからず、無色界を度するも得べからず。何を以っての故に、是の摩訶衍は、自ら法の得べからざるが故なり。
是の、
『衍』中には、
『常も、無常も!』、
『楽も、苦も!』、
『実も、空も!』、
『我も、無我も!』、
『欲界も、色界も、無色界も!』、
『欲界を度することも、色界、無色界を度することも!』、
『認められないからである!』が、
何故ならば、
是の、
『摩訶衍』は、
自らの、
『法すら!』、
『認められないからである!』。
須菩提。過去色。過去色空。未來現在色。未來現在色空。過去受想行識。過去受想行識空。未來現在受想行識。未來現在受想行識空。空中過去色不可得。何以故。空中空亦不可得。何況空中過去色可得。 須菩提、過去の色は、過去の色なる空、未来、現在の色は、未来、現在の色なる空、過去の受想行識は、過去の受想行識なる空、未来、現在の受想行識は、未来、現在の受想行識なる空なるも、空中には、過去の色を得べからず。何を以っての故に、空中には、空も亦た得べからざればなり。何に況んや、空中に過去の色の得べきをや。
須菩提!
『過去の色』は、
『過去の色という!』、
『空であり!』、
『未来、現在の色』は、
『未来、現在の色という!』、
『空であり!』、
『過去の受想行識』は、
『過去の受想行識という!』、
『空であり!』、
『未来、現在の受想行識』は、
『未来、現在の受想行識という!』、
『空である!』が、
『空』中には、
『過去の色』は、
『認められない!』。
何故ならば、
『空』中には、
亦た、
『空すら!』、
『認められないからである!』。
況して、
『空』中に、
『過去の色』が、
『認められるだろうか?』。
空中未來現在色不可得。何以故。空中空亦不可得。何況空中未來現在色可得。空中過去受想行識不可得。何以故。空中空亦不可得。何況空中過去受想行識可得。空中未來現在受想行識不可得。何以故。空中空亦不可得。何況空中未來現在受想行識可得。 空中には、未来、現在の色を得べからず。何を以っての故に、空中には、空も亦た得べからざればなり。何に況んや、空中に未来、現在の色の得べきをや。空中には、過去の受想行識を得べからず。何を以っての故に、空中には、空も亦た得べからざればなり。何に況んや、空中に過去の受想行識の得べきをや。空中には、未来、現在の受想行識を得べからず。何を以っての故に、空中には、空も亦た得べからざればなり。何に況んや、空中に未来、現在の受想行識の得べきをや。
『空』中には、
『未来、現在の色』は、
『認められない!』。
何故ならば、
『空』中には、
亦た、
『空すら!』、
『認められないからである!』。
況して、
『空』中に、
『未来、現在の色』が、
『認められるだろうか?』。
『空』中には、
『過去の受想行識』は、
『認められない!』。
何故ならば、
『空』中には、
亦た、
『空すら!』、
『認められないからである!』。
況して、
『空』中に、
『過去の受想行識』が、
『認められるだろうか?』。
『空』中には、
『未来、現在の受想行識』は、
『認められない!』。
何故ならば、
『空』中には、
亦た、
『空すら!』、
『認められないからである!』。
況して、
『空』中に、
『未来、現在の受想行識』が、
『認められるだろうか?』。
須菩提。過去檀波羅蜜不可得。未來檀波羅蜜不可得。現在檀波羅蜜不可得。三世等中檀波羅蜜亦不可得。 須菩提、過去の檀波羅蜜は得べからず。未来の檀波羅蜜も得べからず。現在の檀波羅蜜も得べからず。三世の等中には、檀波羅蜜も、亦た得べからざるなり。
須菩提!
『過去』の、
『檀波羅蜜』は、
『認められず!』、
『未来』の、
『檀波羅蜜』は、
『認められず!』、
『現在』の、
『檀波羅蜜』も、
『認められない!』し、
『三世の等しい!』中の、
『檀波羅蜜』も、
『認められないのである!』。
何以故。等中過去世不可得。未來世不可得。現在世不可得。等中等亦不可得。何況等中過去世未來世現在世可得。尸羅波羅蜜羼提波羅蜜毘梨耶波羅蜜禪波羅蜜般若波羅蜜亦如是。 何を以っての故に、等中には、過去世を得べからず、未来世を得べからず、現在世を得べからざればなり。等中には、等も、亦た得べからず。何に況んや、等中に、過去世、未来世、現在世の得べきをや。尸羅波羅蜜、羼提波羅蜜、毘梨耶波羅蜜、禅波羅蜜、般若波羅蜜も、亦た是の如し。
何故ならば、
『等』中には、
『過去世も、未来世も、現在世も!』、
『認められず!』、
『等』中には、
『等である!』ことも、
『認められないからである!』、
況して、
『等』中に、
『過去世や、未来世や、現在世が!』、
『認められるだろうか?』。
亦た、
『尸羅、羼提、毘梨耶、禅、般若波羅蜜』も、
『是の通りである!』。
復次須菩提。過去世中四念處不可得。乃至過去世中十八不共法不可得。未來世現在世亦如是。 復た次ぎに、須菩提、過去世中に、四念処は得べからず、乃至過去世中には、十八不共法を得べからず。未来世、現在世も、亦た是の如し。
復た次ぎに、
須菩提!
『過去世』中の、
『四念処』は、
『認められず!』、
乃至、
『過去世』中の、
『十八不共法』も、
『認められない!』、
亦た、
『未来世、現在世』も、
『是の通りである!』。
復次須菩提。三世等中四念處不可得。三世等中乃至十八不共法亦不可得。 復た次ぎに、須菩提、三世の等中に、四念処は得べからず。三世の等中に、乃至十八不共法も、亦た得べからず。
復た次ぎに、
須菩提!
『三世の等しい!』中の、
『四念処』は、
『認められず!』、
乃至、
『三世の等しい!』中の、
『十八不共法』も、
『認められない!』。
何以故。等中過去世四念處不可得。等中未來世四念處不可得。等中現在世四念處不可得。等中等亦不可得。何況等中過去世四念處未來現在世四念處可得。 何を以っての故に、等中に、過去世の四念処は得べからず、等中に、未来世の四念処は得べからず、等中に、現在世の四念処は得べからず、等中には、等も、亦た得べからざればなり。何に況んや、等中に、過去世の四念処、未来、現在世の四念処の得べきをや。
何故ならば、
『等』中には、
『過去世の四念処も!』、
『未来世の四念処も!』、
『現在世の四念処も!』、
『認められず!』、
『等』中には、
亦た、
『等』も、
『認められないからである!』。
況して、
『等』中に、
『過去世の四念処や!』、
『未来、現在世の四念処が!』、
『認められるだろうか?』。
等中等亦不可得。何況等中過去乃至十八不共法可得。未來現在世亦如是。 等中には、等も、亦た得べからず。何に況んや、等中に、過去の乃至十八不共法の得べきをや。未来、現在世も、亦た是の如し。
『等』中には、
亦た、
『等すら!』、
『認められない!』のに、
況して、
『等』中に、
『過去の四念処、乃至十八不共法』が、
『認められるだろうか?』。
亦た、
『未来、現在世』も、
『是の通りである
復次須菩提。過去世中凡夫人不可得。未來世現在世中凡夫人不可得。三世等中凡夫人亦不可得。何以故。眾生不可得。乃至知者見者不可得故。 復た次ぎに、須菩提、過去世中に、凡夫人は得べからず。未来、現在世中の凡夫人も得べからず。三世の等中には、凡夫人も、亦た得べからず。何を以っての故に、衆生は得べからず、乃至知者、見者も得べからざるが故なり。
復た次ぎに、
須菩提!
『過去世や、未来、現在世』中に、
『凡夫人』は、
『認められない!』。
『三世の等しい!』中にも、
『凡夫人』は、
『認められない!』。
何故ならば、
『衆生、乃至知者、見者』が、
『認められないからである!』。
過去世中聲聞辟支佛菩薩佛不可得。未來現在世中聲聞辟支佛菩薩佛不可得。三世等中聲聞辟支佛菩薩佛不可得。何以故。眾生不可得乃至知者見者不可得故。 過去世中に声聞、辟支仏、菩薩、仏は得べからず。未来、現在世中に、声聞、辟支仏、菩薩、仏は得べからず。三世の等中に、声聞、辟支仏、菩薩、仏は得べからず。何を以っての故に、衆生は得べからず、乃至知者、見者も得べからざるが故なり。
『過去世』中の、
『声聞、辟支仏、菩薩、仏』は、
『認められず!』、
『未来、現在世』中の、
『声聞、辟支仏、菩薩、仏』も、
『認められず!』、
『三世の等しい!』中の、
『声聞、辟支仏、菩薩、仏』も、
『認められない!』。
何故ならば、
『衆生、乃至知者、見者』が、
『認められないからである!』。
如是須菩提。菩薩摩訶薩。住般若波羅蜜中學三世等相。當具足一切種智。是名菩薩摩訶薩摩訶衍。所謂三世等相。菩薩摩訶薩住是衍中。勝出一切世間及諸天人阿修羅。成就薩婆若。 是の如し、須菩提、菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜中に住して、三世の等の相を学びて、当に一切種智を具足すべし。是れを菩薩摩訶薩の摩訶衍と名づく。謂わゆる三世の等の相なり。菩薩摩訶薩は、是の衍中に住して、一切の世間、及び諸の天、人、阿修羅に勝出し、薩婆若を成就す。
是のように、――
須菩提!
『菩薩摩訶薩』は、
『般若波羅蜜中に住まって!』、
『三世は等しいという!』、
『相』を、
『学ぶ!』ので、
当然、
『一切種智』を、
『具足するのである!』。
是れを、
『菩薩摩訶薩』の、
『摩訶衍』と、
『称する!』。
謂わゆる、
『三世』は、
『等しいという!』、
『相である!』。
『菩薩摩訶薩』は、
是の、
『衍中に住まって!』、
『一切の世間と!』、
『諸の天、人、阿修羅とに!』、
『勝るのであり!』、
亦た、
『薩婆若』を、
『成就するのである!』。
爾時須菩提白佛言。世尊。善哉善哉。是菩薩摩訶薩摩訶衍。何以故。過去諸菩薩是衍中學得一切種智。未來世諸菩薩摩訶薩。亦是衍中學當得一切種智。 爾の時、須菩提の、仏に白して言さく、『世尊、善い哉、善い哉、是れ菩薩摩訶薩の摩訶衍なり。何を以っての故に、過去の諸の菩薩は、是の衍中に学びて、一切種智を得、未来世の諸の菩薩摩訶薩も、亦た是の衍中に学びて、当に一切種智を得べし。
爾の時、
『須菩提』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
善いです!
善いです!
是れが、
『菩薩摩訶薩』の、
『衍です!』。
何故ならば、
『過去の諸菩薩』は、
是の、
『衍中に学んで!』、
『一切種智』を、
『得たのであり!』、
『未来世の諸菩薩摩訶薩』も、
是の、
『衍中に学んで!』、
『一切種智』を、
『得ることになるからです!』。
世尊。今十方無量阿僧祇世界中。諸菩薩摩訶薩。亦是衍中學得一切種智。以是故。世尊。是衍實是菩薩摩訶薩摩訶衍。 世尊、今の、十方無量阿僧祇の世界中の、諸の菩薩摩訶薩も、亦た是の衍中に学びて、一切種智を得べし。是を以っての故に、世尊、是の衍は、実に是れ菩薩摩訶薩の摩訶衍なり。』と。
世尊!
今、
『十方の無量阿僧祇の世界中の諸の菩薩摩訶薩』も、
是の、
『衍中に学びながら!』、
『一切種智』を、
『得ようとしています!』。
是の故に、
世尊!
是の、
『衍』は、
実に、
『菩薩摩訶薩』の、
『衍なのです!』。
佛告須菩提如是如是。過去未來現在諸佛。是摩訶衍中學已得一切種智。當得今得 仏の、須菩提に告げたまわく、『是の如し、是の如し、過去、未来、現在の諸仏は、是の摩訶衍中に学びて、一切種智を已に得、当に得べく、今得んとするなり。』
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
その通りだ!
その通りだ!
『過去、未来、現在の諸仏』は、
是の、
『摩訶衍中に学んで!』、
『一切種智』を、
『過去に得たのであり!』、
『未来に得るのであり!』、
『今得ようとしているのである!』、と。



【論】摩訶衍に前際、後際、中際は無い

【論】者言。須菩提略讚說是摩訶衍。前際後際中際俱不可得。三世等故名摩訶衍。 論者の言わく、須菩提の略して讃じて説かく、『是の摩訶衍は、前際、後際、中際に倶に得べからず、三世の等なるが故に、摩訶衍と名づく。』と。
『論者』は言う、――
『須菩提』は、
略して、こう讃説した、――
是の、
『摩訶衍』の、
『前際、後際、中際』は、
皆、
『認められず!』、
『三世が等しい!』が故に、
是れを、
『摩訶衍』と、
『称するのだ!』、と。
今佛廣演須菩提所讚。是三世云何不可得。所謂過去世過去世空。未來世未來世空。現在世現在世空故不可得。三世等 今、仏は、広く須菩提の讃ずる所を演べたまわく、『是の三世は、云何が、得べからざる。謂わゆる過去世は、過去世なる空なり、未来世は、未来世なる空なり、現在世は、現在世なる空なるが故に、得べからずして、三世の等しきなり。』と。
今、
『仏』は、
『須菩提の讃じた!』所を、こう広演(敷衍)された、――
是の、
『三世』は、
何故、
『認められないのか?』。
謂わゆる、
『過去世』は、
『過去世という!』、
『空であり!』、
『未来世』は、
『未来世という!』、
『空であり!』、
『現在世』は、
『現在世という!』、
『空である!』が故に、
即ち、
『三世は認められず!』、
『三世』が、
『等しいのである!』、と。
等者空。摩訶衍摩訶衍自空。菩薩菩薩自空。是三世中三世相空。空義如先說。 等とは、空なり。摩訶衍は、摩訶衍自らが空なり。菩薩は、菩薩自らが空なり。是の三世中に、三世の相は、空なり。空の義は、先に説けるが如し。
『等』とは、
『空であり!』、
『摩訶衍』は、
『摩訶衍』の、
『自性』が、
『空であり!』、
『菩薩』は、
『菩薩』の、
『自性』が、
『空であり!』、
是の、
『三世』中は、
『三世の相』が、
『空である!』。
『空の義』は、
先に、
説いた通りである。
此中佛自說空因緣。所謂空空相非一非二非三非四非五。等不異不合不散無有分別。是故三世等空相無所有故。是等亦空。 此の中に、仏の自ら、空の因縁を説きたまえり。謂わゆる空の空なる相は、一に非ず、二に非ず、三に非ず、四に非ず、五に非ず、等しくして異ならず、合せず、散ぜずして、分別有ること無し。是の故に三世は等しく空なる相にして、所有無きが故に、是の等しきことも、亦た空なり。
此の中には、
『仏』は、
自ら、
『空の因縁』を、こう説かれている、――
謂わゆる、
『空』の、
『空相』は、
『一でも、二でも、三でも、四でも、五でもなく!』、
『等しく!』、
『合、散せず!』、
『分別(区別)が無い!』ので、
是の故に、
『三世』は、
『等しく!』、
『空相であり!』、
『所有が無い!』ので、
是の故に、
是の、
『等』は、
『空でもある!』、と。
菩薩能如是解諸法三世等。不以無始世來為疲厭。不以未來世無邊故為難。是為菩薩三世等名摩訶衍。 菩薩は、能く是の如く、諸法の三世の等を解し、無始の世より来、以って疲厭と為さず、未来世の無辺なるを以っての故に、難と為さず。是れを菩薩の三世の等と為し、摩訶衍と名づく。
『菩薩』は、
是のように、
諸の、
『法の三世』は、
『等しい!』と、
『理解している!』が故に、
『無始の世以来!』、
『修行しても!』、
『疲厭することなく!』、
『無辺の未来世に!』、
『修行しても!』、
『困難としない!』ので、
是れを、
『菩薩』の、
『三世は等しい!』と、
『称し!』、
是れを、
『摩訶衍』と、
『称する!』。
是摩訶衍中等相不可得。不等相亦不可得。得是三世等三昧破是不等相。不等相待故有。等不等畢竟無故等亦無。欲不欲乃至三界度三界。是相待法亦如是。 是の摩訶衍中に等の相は得べからず、不等の相も、亦た得べからず。是の三世等三昧を得て、是の不等の相を破ればなり。不等の相待するが故に、等有り。不等の畢竟じて無きが故に、等も、亦た無し。欲と、不欲、乃至、三界と、三界を度すことの、是れ相待の法なることも、亦た是の如し。
是の、
『摩訶衍』中には、
『等の相』も、
『不等の相』も、
『認められない!』が、
是の、
『三世等三昧を得て!』、
是の、
『不等の相』を、
『破る!』と、
『不等』に、
『相対する!』が故に、
『等』が、
『有り!』、
『不等』が、
『畢竟じて無い!』が故に、
『等』も、
『無い!』。
『欲と不欲と、三界と三界を度すると!』、
是のような、
『相対する法』も、
亦た、
『是の通りである!』。
此中佛自說。是諸法皆從因緣和合故無自性。自性無故空。 此の中に、仏の自ら説きたまわく、『是の諸法は、皆、因縁による和合なるが故に、自性無し。自性無きが故に空なり。』と。
此の中に、
『仏』は、
自ら、こう説明された、――
是の、
諸の、
『法』は、
『因縁の和合である!』が故に、
皆、
『自性』が、
『無く!』、
『自性の無い!』が故に、
『空である!』、と。
復次過去色過去色相空。未來現在亦如是。如色餘四眾亦如是。 復た次ぎに、過去の色の、過去の色なる相は空なり。未来、現在も、亦た是の如し。色の如く、余の四衆も、亦た是の如し。
復た次ぎに、
『過去の色』は、
『過去の色相』が、
『空なのである!』が、
『未来、現在』も、
亦た、
『是の通りであり!』、
『色のように!』、
『余の四衆』も、
『是の通りである!』。
所以者何。空中空相不可得。何況空中有三世五眾相。 所以は何んとなれば、空中に、空なる相を得べからざればなり。何に況んや、空中に、三世の五衆の相有るをや。
何故ならば、
『空』中には、
『空の相』が、
『認められないからである!』。
況して、
『空』中に、
『三世の五衆の相など!』、
『有るはずがない!』。
菩薩觀五眾空。斷貪欲入道行。所謂檀波羅蜜等亦如是。五眾三世中不可得。三世等故等即是空。是等中檀波羅蜜不可得。 菩薩は、五衆の空なるを観て、貪欲を断じ、道行に入る。謂わゆる檀波羅蜜等も、亦た是の如し。五衆は、三世中に得べからず。三世は等なるが故なり。等とは、即ち是れ空なり。是の等中に、檀波羅蜜は得べからず。
『菩薩』は、
『五衆は空である!』と、
『観る!』が故に、
『貪欲を断じて!』、
『道行』に、
『入るのであり!』、
謂わゆる、
『檀波羅蜜』等も、
『是の通りである!』。
『五衆』は、
『三世中に認められず!』、
『三世の等しい!』が故に、
『等』は、
『空なのである!』が、
是の、
『等』中には、
『檀波羅蜜』も、
『認められない!』。
問曰。何以故。三世及三世等中檀波羅蜜不可得。 問うて曰く、何を以っての故にか、三世、及び三世の等中に、檀波羅蜜は得べからざる。
問い、
何故、
『三世にも!』、
『三世の等中にも!』、
『檀波羅蜜』が、
『認められないのですか?』。
答曰。諸法等中無三世等。等中等相亦不可得。何況三世六波羅蜜。乃至十八不共法亦如是。 答え、諸法の等中に、三世の等無く、等中には、等の相も、亦た得べからず。何に況んや、三世の六波羅蜜をや。乃至十八不共法も、亦た是の如し。
答え、
諸の、
『法の等』中には、
『三世の等』が、
『無い!』ので、
『等』中には、
『等の相』も、
『認められない!』、
況して、
『三世の六波羅蜜』等は、
『尚更であり!』、
乃至、
『十八不共法』も、
『是の通りである!』。
復次三世中凡夫相不可得。聲聞乃至佛亦不可得。以眾生空故。菩薩住般若波羅蜜。能如是學三世等空。集諸善功德。便具足一切種智。 復た次ぎに、三世中に、凡夫の相は得べからず。声聞、乃至仏も、亦た得べからず。衆生の空なるを以っての故なり。菩薩は、般若波羅蜜に住せば、能く是の如く、三世の等、空を学び、諸の善、功徳を集むれば、便ち一切種智を具足す。
復た次ぎに、
『三世』中には、
『凡夫という!』、
『相』は、
『認められず!』、
『声聞、乃至仏』も、
亦た、
『認められない!』。
何故ならば、
『衆生』が、
『空だからである!』。
『菩薩』が、
『般若波羅蜜中に住まって!』、
是のように、
『三世』の、
『等や、空』を、
『学び!』、
諸の、
『善の功徳』を、
『集めれば!』、
容易に、
『一切種智』を、
『具足することができる!』。
佛說菩薩能如是三世等中住。則能勝出一切世間及諸天人阿修羅。 仏の説きたまわく、『菩薩は、能く是の如き三世の等中に住せば、則ち能く、一切の世間、及び諸の天、人、阿修羅に勝出す。』と。
『仏』は、こう説かれた、――
『菩薩』は、
是のように、
『三世』の、
『等』中に、
『住まれば!』、
則ち、
一切の、
『世間と、諸の天、人、阿修羅とに!』、
『勝ることができる!』、と。
是時須菩提讚言。世尊。善哉善哉。是摩訶衍利益諸菩薩。所以者何。過去諸菩薩學是摩訶衍得一切種智。未得今得亦如是。 是の時、須菩提の讃じて言わく、『世尊、善い哉、善い哉、是の摩訶衍は、諸の菩薩を利益せん。所以は何んとなれば、過去の諸の菩薩は、是の摩訶衍を学んで、一切種智を得、未だ得ざるも、今得るも、亦た是の如し。』、と。
是の時、
『須菩提は讃じて!』、こう言った、――
世尊!
善いです!
善いです!
是の、
『摩訶衍』は、
『諸の菩薩』を、
『利益するのです!』。
何故ならば、
『過去』の、
『諸の菩薩』は、
是の、
『摩訶衍を学んで!』、
『一切種智』を、
『得たのであり!』、
『未来や、今の!』、
『諸の菩薩』も、
亦た、
『是の通りだからです!』、と。
有人言得清淨無因緣染垢穢。亦無因緣大小好醜縛解。皆無主所與。 有る人の言わく、『清浄を得るに因縁無く、垢穢に染まるも、亦た因縁無く、大小、好醜、縛解も、皆主の与うる所無ければなり』、と。
有る人は、こう言っている、――
『清浄を得る!』という、
『因縁』は、
『無い!』し、
『垢穢に染まる!』という、
『因縁』も、
『無い!』、
何故ならば、
『大小、好醜、縛解』は、
皆、
『与えられる主』が、
『無いからである!』。
有人言好醜縛解至時節自得。 有る人の言わく、『好醜、縛解は、時節至らば、自ら得ん。』と。
有る人は、こう言っている、――
『好醜、縛解』は、
『時節が至れば!』、
『自然に!』、
『得ることになる!』、と。
有人言福德成就故得佛道。 有る人の言わく、『福徳成就するが故に、仏道を得。』と。
有る人は、こう言っている、――
『福徳の成就する!』が故に、
『仏道』を、
『得るのである!』、と。
有人言但得清淨實智慧得佛道。如是等說皆是非因緣少因緣。須菩提所不讚歎。 有る人の言わく、『但だ清浄なる実の智慧を得て、仏道を得。』と。是の如き等は、皆、是れ非因縁、少因縁にして、須菩提の讃歎せざる所なり。
有る人は、こう言っている、――
但だ、
『清浄の実智慧を得れば!』、
『仏道』を、
『得られるのである!』、と。
是れ等の、
『説』は、
皆、
『仏道を得る!』、
『因縁ではないか!』、
『少しの因縁でしかない!』ので、
『須菩提』の、
『讃歎しない!』所の、
『説である!』。
今佛捨非因緣。亦捨不具足因緣。說是具足因緣。所謂六波羅蜜。三世菩薩學是乘。具足得成佛道。 今、仏は、非因縁を捨て、亦た具足せざる因縁を捨てて、是の具足せる因縁を説きたまわく、『謂わゆる六波羅蜜なり。三世の菩薩は、是の乗を学びて、具足して、仏道を成ずるを得』、と。
今、
『仏』は、
『因縁でないか!』、
『具足しない因縁』を、
『捨てて!』、
是の、
『具足した因縁』を、こう説かれた、――
謂わゆる、
『六波羅蜜である!』、
『三世の菩薩』は、
是の、
『乗(六波羅蜜)』を、
『学んで!』、
『具足する!』ので、
是の故に、
『仏道』を、
『成就出来るのである!』、と。
佛亦可須菩提所歎。言如是如是
大智度論卷第五十一
仏は、亦た須菩提の歎ずる所を可として、言わく、『是の如し、是の如し。』と。
大智度論巻第五十一
『仏』は、
亦た、
『須菩提』の、
『讃歎した所』を、
『可として!』、
こう言われた、――
その通りだ!
その通りだ!、と。

大智度論巻第五十一


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