【論】問曰。何以不說虛空廣大無邊故受一切物。而言虛空無所有故能受一切物眾生。摩訶衍亦無所有。 |
問うて曰く、何を以ってか、『虚空は、広大無辺なるが故に、一切の物を受く。』と説かずして、『虚空は、所有無きが故に、能く一切の物と衆生とを受く。摩訶衍も亦た所有無し。』と言える。 |
問い、
何故、こう説かずに、――
『虚空』は、
『広大、無辺である!』が故に、
『一切の物』を、
『受ける( receive )!』、と。
而も、こう言うのですか?――
『虚空』は、
『所有が無い!』が故に、
『一切の衆生』を、
『受けることができる!』し、
亦た、
『摩訶衍』も、
『是の通りである!』、と。
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虚空(こくう):梵語aakaazaの訳。内外の竅隙の意。スキマ。又無為法の名。『大智度論巻12上注:虚空』参照。
受(じゅ):感覚( sensation, feeling )、◯梵語 vedanaa の訳。苦痛( pain, agony )の義、即ち、楽受
sukha- vedanaa ( sensation of pleasure )、苦受 duHkha- vedanaa ( painful feeling
)、捨受 upekSaa- vedanaa ( sensation of neither pleasure nor pain )の総じて三種の感覚(
three sensations )の意。◯梵語upaadaanaの訳、又取と訳す、執著の義。the act of taking for one's
self , appropriating to one's self. 自分の物にする行為、取る。執著する。十二因縁の一。◯梵語 upaadaaya
の訳、受取る/取得する( receiving, acquiring )、~の助けを借りて/~を用いて/依存する( by help of, by
means of, depending on )の義。◯梵語 samaadaana の訳、残さず全てを手に入れる/抱え込む/請け負う/結果を招く(
taking fully or entirely, taking upon one's self. contracting, incurring
)の義、容認する/容認( to accept, acceptance )の意。 |
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答曰。現見虛空無所有。一切萬物皆在其中。以無所有故能受。 |
答えて曰く、現に虚空を見るに、所有無くして、一切の万物は、皆、其の中に在り。所有無きを以っての故に、能く受くればなり。 |
答え、
現に、こう見るからである、――
『虚空』には、
『所有が無く!』、
『一切の万物』は、
皆、
『虚空』中に、
『在る!』、と。
『虚空』には、
『所有が無い!』が故に、
『万物』を、
『受けられるのである!』。
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問曰。心心數法亦無形質。何以不受一切物。 |
問うて曰く、心、心数法も、亦た形質無し。何を以ってか、一切の物を受けざる。 |
問い、
『心、心数法』にも、
『形質(物質)』が、
『無い!』が、
何故、
『一切の物』を、
『受けないのですか?』。
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形質(ぎょうしつ):体躯/形態( body, form of structure )、梵語 bimba の訳、形、或は質とも訳す、日、月の光暈(
The disc of the sun or moon )、円盤/球体(屡々身体の丸い部分に適用される)( any disk, sphere,
orb (often applied to the rounded parts of the body) )、鏡( a mirror )、像/影/映った、或は表れた形状/絵/象徴(
an image, shadow, reflected or represented form, picture, type )、比較される対象(
an object compared )等の義。 |
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答曰。心心數法覺知相。非是受相又無住處。若內若外若近若遠。但以分別相故知有心形。色法有住處。因色處故知有虛空。以色不受物故。則知虛空受物。色與虛空相違。色若不受則知虛空是受。如以無明故知有明。以苦故知有樂。因色無故說有虛空。更無別相。 |
答えて曰く、心、心数法は、覚知の相にして、是れ受の相に非ず。又住処の、若しは内、若しは外、若しは近、若しは遠なる無し。但だ相を分別するを以っての故に、心有るを知る。形色の法は、住処有り、色の処するに因るが故に、虚空有るを知る。色の物を受けざるを以っての故に、則ち虚空の物を受くるを知る。色は、虚空と相違し、色若し受けざれば、則ち虚空は是れ受くることを知る。明無きを以っての故に、明有るを知り、苦を以っての故に、楽有るを知るが如く、色無きに因るが故に、虚空有りと説くも、更に別相無し。 |
答え、
『心、心数法』は、
『覚知の相であり!』、
『受』の、
『相ではない!』が、
若し、
『法/物』が、
『内でも、外でも!』、
『近くても、遠くても!』、
但だ、
『心』が、
『相』を、
『分別する!』が故に、
『心』には、
『形が有る!』と、
『知るだけである!』。
『色という!』、
『法』は、
『住まる処』が、
『有り!』、
『色』の、
『住まる処に因る!』が故に、
『虚空が有る!』と、
『知り!』、
『色』は、
『物を受けない!』が故に、
則ち、
『虚空は物を受ける!』と、
『知ることになる!』。
何故ならば、
『色』と、
『虚空』とは、
『相違している!』が故に、
若し、
『色が受けなければ!』、
則ち、
『虚空が受けているのだ!』と、
『知ることになるからである!』。
譬えば、
『無明』の故に、
『明の有る!』ことを、
『知り!』、
『苦』の故に、
『楽の有る!』ことを、
『知るように!』、
『色の無い!』ことに、
『因る!』が故に、
『虚空が有る!』と、
『説くだけで!』、
『虚空』には、
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形色(ぎょうしき):(一)梵語saMsthaana-ruupaの訳。形ある色の義。顕色に対す。即ち色法中、質礙麁著にして、触るるに因りて長短等を覚知すべきものを云う。之に八種あり、一に長diigha、二に短hrasva、三に方caturazra、四に円vRtta、五に高unnata、六に下avanata、七に正zaata、八に不正vizaataなり。此の中、一面多生を長と云い、一面少生を短と云い、四面斉等を方と云い、一切処に周辺して生ずるを円と云い、中の凸出を高と云い、中の拗凹を下と云い、面の斉平なるを正と云い、面の参差なるを不正と云う。説一切有部にては、是れ等の諸色は極微各別にして、各別体ありとなすも、唯識大乗にては、青等の四顕色の分位仮立にして実色に非ずとなせり。又「大日経疏巻14」に、此の中の方円等を五大に配し、「地輪は正方、水輪は円、火輪は三角、風輪は半月形、最上の虚空は一点に作る」と云えり。是れ密教にて色心不二の理に依り、万法能造の六大にも形色歴然として存立すとなすをあらわすなり。又「大毘婆沙論巻13、75、136」、「大乗成業論」、「倶舎論巻1」、「同光記巻1」、「同宝疏巻1余」等に出づ。(二)形態色相の意。「無量寿経巻上」に、「国中の人天、形色不同にして好醜あらば正覚を取らじ」と云い、「法華経巻2信解品」に、「二人の形色憔悴して、威徳なき者を遣す。」と云い、又「分別善悪報応経巻下」に、「復た云何なる業か補特伽羅をして悪趣に生ぜしめ、形色身量端厳殊妙にして、見る者をして歓喜し、人をして皆愛楽せしむるありや」と云える即ち其の例なり。是れ顕色に対する形色に非ずして、広く人畜等の顔色形貌を云うなり。<(望) |
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復次心心數法更有不受義。如邪見心不受正見。正見心不受邪見。虛空則不然。一切皆受故。 |
復た次ぎに、心、心数法には、更に受けざる義有り。邪見心の、正見を受けず、正見心の邪見を受けざるが如し。虚空は、則ち然らず、一切を皆受くるが故なり。 |
復た次ぎに、
『心、心数法が受けない!』という、
『義』は、
『更に有る!』。
例えば、
『邪見の心』は、
『正見』を、
『受けない!』し、
『正見の心』は、
『邪見』を、
『受けないのである!』が、
而し、
『虚空』は、
『そうでない!』、――
『一切を!』、
皆、
『受けるからである!』。
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又心心數法生滅相是可斷法。虛空則不然。心心數法虛空但無色無形。同不得言都不異。以是故諸法中說虛空能受一切。 |
又心、心数法は生滅の相にして、是れ可断の法なるも、虚空は、則ち然らず。心、心数法と、虚空とは、但だ無色、無形なること同じきも、都べて異ならずと言うを得ず。是を以っての故に、諸法中に、『虚空は、能く一切を受く。』と説く。 |
又、
『心、心数法』は、
『生滅の相であり!』、
『可断の法である!』が、
而し、
『虚空』は、
『そうでない!』。
『心、心数法』も、
『虚空』も、
但だ、
『無色、無形である!』ことが、
『同じというだけ!』では、
都( すべ)てが、
『異ならない!』と、
『言うことはできない!』。
是の故に、
『諸法』中に、
『虚空』は、
『一切を受けることができる!』と、
『説くのである!』。
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問曰。我先問意不然。何以不言虛空無量無邊能受一切物。而言無所有受一切物。 |
問うて曰く、我れ先に問いし意は、然らず。何を以ってか、『虚空は、無量無辺なれば、能く一切の物を受く。』と言わずに、而も、『所有無ければ、一切の物を受く。』と言える。 |
問い、
わたしは、
何故、
『虚空』は、
『無量、無辺である!』が故に、
『一切の物を受けられる!』と、
『言わずに!』、
『所有が無い!』が故に、
『一切の物を受ける!』と、
『言うのですか?』。
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答曰。我說虛空。無自相待色相說虛空。若無自相則無虛空。云何言無量無邊。 |
答えて曰く、我れは、『虚空には、自相無ければ、色相を待って、虚空と説く。』と説けり。若し自相無ければ、則ち虚空無し。云何が、無量無辺と言わん。 |
答え、
わたしは、こう説いた、――
『虚空』には、
『自相が無く!』、
『色相を待って!』、
『虚空と説くのだ!』、と。
若し
『自相が無ければ!』、
則ち、
『虚空』は、
『無いことになる!』。
何故、
『無量、無辺である!』と、
『言うのか?』。
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問曰。汝言受相則是虛空。云何言無。 |
問い、汝は、『受の相は、則ち是れ虚空なり。』と言えり。云何が、『無し。』と言う。 |
問い、
お前は、
『受の相』は、
則ち、
『虚空である!』と、
『言った!』のに、
何故、
『無い!』と、
『言うのか?』。
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答曰。受相即是無色相。色不到處名為虛空。以是故無虛空。 |
答えて曰く、受の相とは、即ち是れ無色の相なり。色の到らざる処を、名づけて虚空と為す。是を以っての故に、虚空無し。 |
答え、
『受の相』は、
即ち、
『無色の相だからである!』。
『色の到らない!』、
『処』を、
『虚空』と、
『呼ぶのであり!』、
是の故に、
『虚空』は、
『無いのである!』。
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若實有虛空。未有色時應有虛空。若未有色有虛空。虛空則無相。何以故。以未有色故。因色故知有虛空。有色故便有無色。若先有色後有虛空。虛空則是作法。作法不名為常。若有無相法是不可得。以是故無虛空。 |
若し、実に虚空有らば、未だ色を有らざる時にも、応に虚空有るべし。若し未だ色有らざるに、虚空有らば、虚空は、則ち無相なるべし。何を以っての故に、未だ色有らざるを以っての故なり。色に因るが故に、虚空有るを知り、色有るが故に、便ち色無き有り。若し、先に色有り、後に虚空有らば、虚空は、則ち是れ作法なり。作法なれば、名づけて常と為さず。若し相無き法有らば、是れを得べからず。是を以っての故に、虚空無し。 |
若し、
実に、
『虚空が有れば!』、
未だ、
『色を有しない!』時にも、
『虚空』が、
『有るはずだが!』、
是のような、
『虚空』は、
『無相だということになる!』。
何故ならば、
則ち、
『色に因る!』が故に、
『虚空が有る!』と、
『知り!』、
『色が有る!』が故に、
『無色』は、
『有るのであり!』、
若し、
先に、
『色が有って!』、
後に、
『虚空』が、
『有れば!』、
則ち、
是の、
『虚空』は、
『作法(有為法 created things )であり!』、
『作法ならば!』、
『常』と、
『呼ばれることはなく!』、
若し、
『虚空という!』、
『無相の法』が、
『有れば!』、
是の、
『法』は、
『不可得である(認識できない)!』ので、
是の故に、
『虚空!』は、
『無い(存在しない)!』。
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作法(さほう):◯梵語 karaNa の訳、行為( the act of making, doing, producing, effecting
)、行うこと/造ること/成し遂げること/引き起こすこと( doing, making, effecting, causing )の義。又行為,
事, 事業, 令作, 作, 作法, 具, 成, 成所作, 成辨, 所作, 所化, 時間, 立, 能作, 造作等に訳す。◯梵語 saMskRta-dharma,
kRtaka の訳、有為法とも訳す、造られた事物/被造物( Thing that are made; created things; artificial
things. )。◯梵語 karman, kriyaa, dharmaakara の訳、例えば禁酒/浄行等の仏教徒の修行者の行動に伴う日常行為に関する規則/儀礼/行儀作法(
Regulations, protocol, rules of decorum, regarding daily behavior that
are followed by renunciant Buddhist practitioners, such as not drinking
alcohol, not having sex, as well as rules governing salutations and so
forth )。又羯磨と音訳し、受戒等の儀式を遂行すること( To perform ceremonies, such as ordination
ceremonies. )。 |
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問曰。若常有虛空。因色故虛空相現。然後相在虛空。 |
問うて曰く、若し常に、虚空有りて、色に因るが故に、虚空の相現るれば、然る後に相、虚空に在り。 |
問うて曰く、
若し、
『虚空』が、
『常に!』、
『有り(存在し)!』、
『色に因る!』が故に、
『虚空の相』が、
『現れるとすれば!』、
その後に、
『相』が、
『虚空に存在することになる!』。
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答曰。若虛空先無相。後相亦無所住。若虛空先有相相無所相。若先無相相亦無所住。若離相無相。已相無住處。若相無住處。所相處亦無。所相處無故相亦無。離相及相處更無有法。 |
答えて曰く、若し虚空に、先に相無ければ、後の相も、亦た住する所無し。若し虚空に、先に相有れば、相に相する所無し。若し、先に相無ければ、相にも亦た住する所無し。若し、相、無相を離るれば、已に相に住処無し。若し、相に住処無ければ、相する所の処も、亦た無し。相する所の処無きが故に、相も亦た無し。相、及び相の処を離るれば、更に法の有ること無し。 |
答え、
若し、
『虚空』が、
先に、
『無相ならば!』、
則ち、
『所相の法』が、
『無いことになる!』が故に、
後にも、
『相』には、
『所住の処(法)』が、
『無いはずだ!』し、
若し、
『虚空』が、
若し、
先に、
『無相ならば!』、
『相』には、
亦た、
『所住の法』が、
『無いことになる!』。
若し、
『相、無相を離れれば!』、
已に、
『相』には、
『住処(法)』が、
『無いことになり!』、
若し、
『相』に、
『住処が無ければ!』、
『所相の処』も、
『無いことになり!』、
『所相の処が無い!』が故に、
『相』も、
『無いことになる!』が、
『相』も、
『所相の処』も、
『離れてしまえば!』、
更に、
『他の法』は、
『無いはずである!』。
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所相(しょそう):梵語 lakSya, lakSaNa-karman の訳、印づけらられた/特徴づけられた/決定された( to be marked
or characterized or defined )、表示された/間接的に表示/表現された( to be indicated, indirectly
denoted or expressed )、視界に留められた/観察された( to be kept in view or observed )、~であると看做された(
to be regarded as or taken for )、~であると認識された( to be recognised or known,
recognisable by )、識別可能/認識可能/観察可能( observable, perceptible, visible )の義。有為相を表示する行為(
The action of indicating conditioned marks )の意。 |
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以是故虛空不名為相。不名為所相。不名為法。不名為非法。不名為有。不名為無。斷諸語言寂滅如無餘涅槃。餘一切法亦如是。 |
是を以っての故に、虚空を名づけて、相と為さず。名づけて相する所と為さず、名づけて法と為さず、名づけて非法と為さず、名づけて有と為さず、名づけて無と為さず、諸の語言を断じて、寂滅なること、無余涅槃の如し。余の一切の法も、亦た是の如し。 |
是の故に、
『虚空』は、
『相でもなく!』、
『所相でもなく!』、
『法でもなく!』、
『非法でもなく!』、
『有でもなく!』、
『無でもなく!』、
諸の、
『語言を断じて!』、
譬えば、
『無余涅槃のように!』、
『寂滅である!』が、
余の、
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問曰。若一切法如是者。即是虛空。何以復以虛空為喻。 |
問うて曰く、若し一切の法にして、是の如くんば、即ち是れ虚空ならん。何を以ってか、復た、虚空を以って喩と為す。 |
問い、
若し、
『一切の法』が、
是の通りならば、――
即ち、
是れが、
『虚空である!』。
何故、
復た、
『虚空を用いて!』、
『喩えるのですか?』。
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答曰。諸法因果皆是虛誑。因無明故有誑眾生心。眾生於是法中生著。而不於虛空生著。六塵法誑眾生心。虛空雖復誑則不爾。以是故以虛空為喻。以麤現事破微細事。 |
答えて曰く、諸法の因果は、皆、是れ虚誑なり。無明に因るが故に、有るは衆生の心を誑す。衆生は、是の法中に於いて、著を生ずるも、虚空に於いては、著を生ぜず。六塵の法は、衆生の心を誑すも、虚空も、復た誑すと雖も、則ち爾らず。是を以っての故に、虚空を以って喩と為し、麁現の事を以って、微細の事を破す。 |
答え、
『諸の法』は、
『因、果』が、
皆、
『虚誑だからである!』。
『無明という!』、
『因』の故に、
有る、
『法』が、
『衆生』は、
『六塵という!』、
『虚空』も、
復た、
『衆生の心』を、
『誑したとしても!』、
則ち、
『同じではない!』。
是の故に、
『虚空』を
『用いて!』、
『喩えるのであり!』、
『麁現( large enough to be visible )の事を用いて!』、
『微細の事(心、心数法等)』を、
『破るのである!』。
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如虛空因色故但有假名無有定法。眾生亦如是。因五眾和合故。但有假名亦無定法。 |
虚空の、色に因るが故に、但だ仮名有りて、定まりたる法の有ること無きが如く、衆生も、亦た是の如く、五衆の和合に因るが故に、但だ仮名のみ有りて、亦た定まりたる法無し。 |
『虚空』が、
『色に因る!』が故に、
但だ、
『仮名のみ!』が、
『有り!』、
而も、
『定法』が、
『無いように!』、
『衆生』も、
是のように、
『五衆の和合に因る!』が故に、
但だ、
『仮名のみ!』が、
『有って!』、
而も、
『定法』は、
『無い!』。
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摩訶衍亦如是。以眾生空無佛無菩薩。以有眾生故有佛有菩薩。若無佛無菩薩則無摩訶衍。以是故摩訶衍能受無量無邊阿僧祇眾生。若是有法不能受無量諸佛及弟子。 |
摩訶衍も、亦た是の如く、衆生の空なるを以って、仏無く、菩薩無し。衆生有るを以っての故に、仏有り、菩薩有り。若し、仏無く、菩薩無ければ、則ち摩訶衍無し。是を以っての故に、摩訶衍は、能く無量、無辺阿僧祇の衆生を受く。若し、是れに法有らば、無量の諸仏、及び弟子を受くる能わず。 |
『摩訶衍』も、
是のように、
『衆生の空である!』が故に、
『仏、菩薩』は、
『無く!』、
『衆生の有る!』が故に、
『仏、菩薩』も、
『有るのである!』。
若し、
『仏、菩薩が無ければ!』、
則ち、
『摩訶衍』も、
『無いことになり!』、
是の故に、
『摩訶衍』は、
『無量、無辺、阿僧祇』の、
『衆生』を、
『受けることができ!』、
若し、
是の、
『摩訶衍』に、
『法』が、
『有れば!』、
『無量』の、
『諸仏と弟子と』を、
『受けることはできないのである!』。
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問曰。若實無虛空。云何能受無量無邊阿僧祇眾生。 |
問うて曰く、若し実に虚空無くんば、云何が、能く無量無辺阿僧祇の衆生を受くる。 |
問い、
若し、
実に、
『虚空』が、
『無ければ!』、
何故、
『無量、無辺、阿僧祇の衆生』を、
『受けられるのですか?』。
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答曰。以是故佛說。摩訶衍無故阿僧祇無。阿僧祇無故無量亦無。無量無故無邊亦無。無邊無故一切法亦無。以是故能受。 |
答えて曰く、是を以っての故に、仏の説きたまわく、『摩訶衍無きが故に、阿僧祇無く、阿僧祇無きが故に、無量亦た無く、無量無きが故に、無辺亦た無く、無辺無きが故に、一切の法も、亦た無し。是を以っての故に、能く受くるなり』、と。 |
答え、
是の故に、
『仏』は、こう説かれた、――
『摩訶衍』の、
『阿僧祇』の、
『無量』の、
『無辺』の、
『無い!』が故に、
『一切の法』も、
『無い!』ので、
是の故に、
『受けることができるのである!』、と。
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参考:『大智度論巻51』:『【經】須菩提。如汝所言。如虛空受無量無邊阿僧祇眾生。摩訶衍亦受無量無邊阿僧祇眾生。如是如是須菩提。眾生無所有故。當知虛空無所有。虛空無所有故。當知摩訶衍亦無所有。以是因緣故摩訶衍受無量無邊阿僧祇眾生。何以故是眾生虛空摩訶衍。是法皆不可得故。復次須菩提。摩訶衍無所有故。當知阿僧祇無所有。阿僧祇無所有故。當知無量無所有。無量無所有故。當知無邊無所有。無邊無所有故。當知一切諸法無所有。以是因緣故。須菩提。是摩訶衍受無量無邊阿僧祇眾生。何以故。是眾生虛空摩訶衍阿僧祇無量無邊。是一切法不可得故。復次須菩提。我無所有。乃至知者見者無所有故。當知如法性實際無所有。如法性實際無所有故當知乃至無量無邊阿僧祇無所有。無量無邊阿僧祇無所有故當知一切法無所有。以是因緣故。須菩提。摩訶衍受無量無邊阿僧祇眾生。』 |
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阿僧祇者。僧祇秦言數。阿秦言無。眾生諸法各各不可得邊故名無數。數虛空十方遠近不可得邊故名無數。分別數六波羅蜜。種種布施種種持戒等無有數。數幾眾生已上乘當上乘今上乘不可數。是名無數。 |
阿僧祇とは、僧祇を秦に数と言い、阿を秦に無と言う。衆生、諸法は、各各辺を得べからざるが故に、無数と名づく。虚空を数うるに、十方の遠近に、辺を得べからざるが故に、無数と名づく。分別して、六波羅蜜を数うれば、種種の布施、種種の持戒等、数有ること無く、幾ばくの衆生の、已に乗に上り、当に乗に上るべく、今乗に上らんとするを数うるも、数うべからざれば、是れを無数と名づく。 |
『阿僧祇( asaMkhya≒innumerable)』とは
『僧祇( saMkhya≒numerable)』を、
『阿( a≒non )』を、
『衆生、諸法』は、
各各の、
『辺際( limit )』を、
『認めることができない!』が故に、
是れを、
『無数』と、
『称する!』。
例えば、
『六波羅蜜』を、
『分別して!』、
『数えれば!』、――
即ち、
種種の、
『布施、持戒』等が、
『無数であり!』、
何れだけの、
『衆生』が、
已に、
『乗』に、
『上ったのか?』、
当に、
『乗』に、
『上るはずなのか?』、
今、
『乗』に、
『上ろうとしているのか?』を、
『数えても!』、
是の、
『衆生』を、
『数えることはできない!』ので、
是の故に、
『無数』と、
『称するのである!』。
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阿僧祇(あそうぎ):梵語asaMkhya、無数と訳す。印度数目の一。極大数の意。『大智度論巻2上注:阿僧祇』参照。
阿(あ):梵語 a, an の音写、接頭語、非/不/無、否定、或はある概念の欠如、又は正反対の概念の意を有す( in or un, and having
a negative or privative or contrary sense )の義。 |
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復次有人言。初數為一。但有一一一故言二。如是等皆一。更無餘數法。若皆是一則無數。 |
復た次ぎに、有る人の言わく、『初の数を、一と為し、但だ一のみ有り。一と、一との故に、二と言うも、是の如き等は、皆一にして、更に余の数法無し。若し、皆、是れ一なれば、則ち数無し。』と。 |
復た次ぎに、
有る人は、こう言っている、――
初めて、
『一!』と、
『数える!』時には、
但だ、
『一』が、
『有るだけであり!』、
『一!』に、
『一!』を、
『数える!』が故に、
是れを、
『二!』と、
『言うのである!』が、
是れ等は、
皆、
『一であり!』、
更に、
『余の数法( 2, 3, 4, etc. )』は、
『無い!』。
若し、
皆が、
『一ならば!』、
則ち、
『数』は、
『無いことになる!』、と。
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有人言。一切法和合故有名字。如輪輞輻轂和合故名為車。無有定實法。一法無故多亦無。先一後多故。 |
有る人の言わく、『一切法は和合の故に名字有り。輪、輞、輻、轂の和合の故に、名づけて車と為すが如く、定実なる法の有ること無し。一法無きが故に、多も亦た無し、先の一の後に多なるが故なり。』と。 |
有る人は、こう言っている、――
『一切の法』は、
『和合』の故に、
但だ、
『名字のみ!』が、
『有る!』。
譬えば、
『輪』は、
『輞(おおわ)、輻(や)、轂(こしき)』等が、
『和合する!』が故に、
是れを、
『車』と、
『称するように!』、
『一切の法』には、
『定実の法が無く!』、
『一法すら無い!』が故に
『多法』も、
『無い!』。
何故ならば、
『先の一』が、
『後の多だからである!』。
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復次以繫數事數事無故數亦無。 |
復た次ぎに、数うる事に繋(かか)わるを以って、数うる事無きが故に、数も、亦た無し。』と。 |
復た次ぎに、
『数える事』に、
『関連して!』、
『数える事が無い!』が故に、
亦た、
『数』も、
『無いことになる!』。
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繋(け):かかわる。系。関連する。 |
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無量者。如以斗稱量物。以智慧量諸法亦如是。諸法空故無數。無數故無量無邊。無有實智云何能得諸法定相。 |
無量とは、斗(ます)を以って、物を称量するが如し。智慧を以って、諸法を量るも、亦た是の如し。諸法は、空なるが故に、数無し。数無きが故に、無量無辺なり。実智有ること無きに、云何が、能く諸法の定相を得ん。 |
『無量』とは、――
譬えば、
『斗( ます)を用いて!』、
『物』を、
『称量(計量)するように!』、
『智慧を用いて!』、
『諸法』を、
『量る!』のも、
亦た、
『斗』と、
『同じである!』。
即ち、
『諸法』は、
『空である!』が故に、
『数』が、
『無く!』、
『無数である!』が故に、
『無量であり!』、
『無辺である!』。
若し、
『実の!』、
『智慧すら!』、
『無ければ!』、
何故、
『諸法の定相』を、
『認識することができるのか?』。
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無量故無邊量名總相。邊名別相。量為初始邊名終竟。 |
無量なるが故に、無辺なり。量を、総相に名づけ、辺を、別相に名づく。量を初、始と為し、辺を、終、竟と名づく。 |
『衆生/摩訶衍』は、
『無量である!』が故に、
『無辺である!』が、――
『量』は、
『衆生/摩訶衍』の、
『総相であり!』、
『辺』は、
『別相である!』。
『量』は、
『衆生/摩訶衍』の、
『初、始であり!』、
『辺』は、
『終、竟である!』。
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復次我乃至知者見者無故實際亦無。實際無故無數亦無。無數無故無量亦無。無量無故無邊亦無。無邊無故一切法亦無。以是故一切法無。畢竟清淨。 |
復た次ぎに、我、乃至知者、見者無きが故に、実際も、亦た無し。実際無きが故に、無数も、亦た無し。無数無きが故に、無量も、亦た無し。無量無きが故に、無辺も、亦た無し。無辺無きが故に、一切法も、亦た無し。是を以っての故に、一切法無く、畢竟じて清浄なり。 |
復た次ぎに、
『我、乃至知者、見者』の、
『無い!』が故に、
『実際』も、
『無く!』、
『実際の無い!』が故に、
『無数』も、
『無く!』、
『無数の無い!』が故に、
『無量』も、
『無く!』、
『無量の無い!』が故に、
『無辺』も、
『無く!』、
『無辺の無い!』が故に、
『一切の法』も、
『無い!』。
是の故に、
『一切の法は無く!』、
『畢竟じて!』、
『清浄である!』。
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是摩訶衍能含受一切眾生及法。二事相因。若無眾生則無法。若無法則無眾生。 |
是の摩訶衍は、能く一切の衆生、及び法を含受するは、二事相因ればなり。若し、衆生無ければ、則ち法無し。若し、法無ければ、則ち衆生無し。 |
是の、
『摩訶衍』は、
一切の、
『衆生と!』、
『法と!』を、
『含受(受納)することができる!』のは、
是の、
若し、
『衆生が無ければ!』、
『法』は、
『無いということであり!』、
若し、
『法が無ければ!』、
『衆生』は、
『無いということだからである!』。
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先總相說一切法空。後一一別說諸法空。實際是末後妙法。此若無者何況餘法。從不可思議性乃至如涅槃性亦如是 |
先に総相を、一切法は空なりと説き、後に一一別に、諸法は空なりと説く。実際は、是れ末後の妙法なり。此れにして、若し無くんば、何に況んや、余の法をや。不可思議性より、乃至涅槃性も、亦た是の如し。 |
先には、
『総相を用いて!』、
『一切の法は空である!』と、
『説き!』、
後には、
『一一を別けて!』、
『諸の法は空である!』と、
『説いた!』。
『実際』とは、
『最終的妙法であり!』、
此れが、
若し、
『無ければ!』、
況して、
『余の法』は、
『尚更である!』。
『不可思議性』、
乃至、
例えば、
『涅槃性など!』も
『是の通りである!』。
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実際(じっさい):梵語bhuuta-koTiの訳語。極際的境地の義。絶対的に何者も存在しない空の境地の意。『大智度論巻6下注:実際』参照。 |
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