巻第四十九(上)
大智度論釋發趣品第二十
1.【經】一地より一地に至る
2.【論】一地より一地に至る
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大智度論釋發趣品第二十(卷四十九)
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


【經】一地より一地に至る

【經】佛告須菩提。汝問云何菩薩摩訶薩大乘發趣。若菩薩摩訶薩行六波羅蜜時。從一地至一地。是名菩薩摩訶薩大乘發趣。 仏の須菩提に告げたまわく、『汝が問わく、云何が菩薩摩訶薩の大乗の発趣なる、と。若し菩薩摩訶薩が六波羅蜜を行ずる時、一地より一地に至れば、是れを菩薩摩訶薩の大乗の発趣、と名づく。
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
お前は、こう問うたが、――
何が、
『菩薩摩訶薩の大乗の発趣
the departure of bodhisattva's mahayana )なのか?』、と。
若し、
『菩薩摩訶薩が、般若波羅蜜を行じる!』時、
『一地より一地に至れば!』、
是れを、
『菩薩摩訶薩の大乗の発趣』と、
『称する!』。
  発趣(ほっしゅ):◯梵語 nirnaaNa, prasthaana, samprasthaaの訳、前に進む/出て行く/出発する( going forth or out, exit, departure )の義。◯ samaarambha, aarabdha の訳、着手する/始める( undertaiking, beginning )の義。
  参考:『大般若経巻53』:『佛告善現。汝問云何。當知菩薩摩訶薩發趣大乘者。善現。若菩薩摩訶薩修行六波羅蜜多時。從一地趣一地。當知是為菩薩摩訶薩發趣大乘。爾時具壽善現白佛言。世尊。云何菩薩摩訶薩修行六波羅蜜多時。從一地趣一地。佛言善現。若菩薩摩訶薩知一切法無所從來亦無所趣。何以故。以一切法無去無來無從無趣。由彼諸法無變壞故。是菩薩摩訶薩於所從趣地。不恃不思惟。雖修治地業而不見彼地。善現。是為菩薩摩訶薩修行六波羅蜜多時從一地趣一地。世尊。何謂菩薩摩訶薩修治地業。善現。菩薩摩訶薩住初極喜地時。應善修治十種勝業。何等為十。一者以無所得而為方便。修治淨勝意樂業。勝意樂事不可得故。二者以無所得而為方便。修治一切有情平等心業。一切有情不可得故。三者以無所得而為方便。修治布施業。施者受者及所施物不可得故。四者以無所得而為方便。修治親近善友業。善友惡友無二相故。五者以無所得而為方便。修治求法業。諸所求法不可得故。六者以無所得而為方便。修治常樂出家業。所棄捨家不可得故。七者以無所得而為方便。修治愛樂佛身業。諸相隨好不可得故。八者以無所得而為方便。修治開闡法教業。所分別法不可得故。九者以無所得而為方便。修治破憍慢業。諸興盛法不可得故。十者以無所得而為方便。修治恒諦語業。一切語性不可得故。善現。菩薩摩訶薩住初極喜地時。應善修治如是十種勝業。復次善現。菩薩摩訶薩住第二離垢地時。應於八法思惟修習速令圓滿。何等為八。一者清淨禁戒。二者知恩報恩。三者住安忍力。四者受勝歡喜。五者不捨有情。六者恒起大悲。七者於諸師長以敬信心。諮承供養如事佛想。八者勤求修習波羅蜜多。善現。菩薩摩訶薩住第二離垢地時。應於如是八法思惟修習速令圓滿。復次善現。菩薩摩訶薩住第三發光地時。應住五法。何等為五。一者勤求多聞嘗無厭足。於所聞法不著文字。二者以無染心常行法施。雖廣開化而不自高。三者為嚴淨土植諸善根。雖用迴向而不自舉。四者為化有情。雖不厭倦無邊生死而不自高。五者雖住慚愧而無所著。善現。菩薩摩訶薩住第三發光地時。應常安住如是五法。復次善現。菩薩摩訶薩住第四焰慧地時。應住十法常行不捨。何等為十。一者住阿練若常不捨離。二者少欲。三者喜足。四者常不捨離杜多功德。五者於諸學處未曾棄捨。六者於諸欲樂深生厭離。七者常樂發起寂滅俱心。八者捨諸所有。九者心不滯沒。十者於諸所有無所顧戀。善現。菩薩摩訶薩住第四焰慧地時。應住如是十法常行不捨』
  参考:『大般若経巻54』:『復次善現。菩薩摩訶薩住第五極難勝地時。應遠離十法。何等為十。一者應遠離居家。二者應遠離苾芻尼。三者應遠離家慳。四者應遠離眾會忿諍。五者應遠離自讚毀他。六者應遠離十不善業道。七者應遠離增上慢傲。八者應遠離顛倒。九者應遠離猶豫。十者應遠離貪瞋癡。善現。菩薩摩訶薩住第五極難勝地時。應常遠離如是十法。復次善現。菩薩摩訶薩住第六現前地時。應圓滿六法。何等為六。一者應圓滿布施波羅蜜多。二者應圓滿淨戒波羅蜜多。三者應圓滿安忍波羅蜜多。四者應圓滿精進波羅蜜多。五者應圓滿靜慮波羅蜜多。六者應圓滿般若波羅蜜多。復應遠離六法。何等為六。一者應遠離聲聞心。二者應遠離獨覺心。三者應遠離熱惱心。四者見乞者來心不厭慼。五者捨所有物無憂悔心。六者於來求者終不矯誑。善現菩薩摩訶薩住第六現前地時。應圓滿如是六法。及應遠離如是六法。復次善現。菩薩摩訶薩住第七遠行地時。應遠離二十法。何等二十。一者應遠離我執有情執乃至知者執見者執。二者應遠離斷執。三者應遠離常執。四者應遠離相想。五者應遠離因等見執。六者應遠離名色執。七者應遠離蘊執。八者應遠離處執。九者應遠離界執。十者應遠離諦執。十一者應遠離緣起執。十二者應遠離住著三界執。十三者應遠離一切法執。十四者應遠離於一切法如理不如理執。十五者應遠離依佛見執。十六者應遠離依法見執。十七者應遠離依僧見執。十八者應遠離依戒見執。十九者應遠離怖畏空法。二十者應遠離違背空性。復應圓滿二十法。何等二十。一者應圓滿通達空。二者應圓滿證無相。三者應圓滿知無願。四者應圓滿三輪清淨。五者應圓滿悲愍有情。及於有情無所執著。六者應圓滿一切法平等見。及於此中無所執著。七者應圓滿一切有情平等見。及於此中無所執著。八者應圓滿通達真實理趣。及於此中無所執著。九者應圓滿無生忍智。十者應圓滿說一切法一相理趣。十一者應圓滿滅除分別。十二者應圓滿遠離諸想。十三者應圓滿遠離諸見。十四者應圓滿遠離煩惱。十五者應圓滿奢摩他毘缽舍那地。十六者應圓滿調伏心性。十七者應圓滿寂靜心性。十八者應圓滿無礙智性。十九者應圓滿無所愛染。二十者應圓滿隨心所欲。往諸佛土於佛眾會自現其身。善現。菩薩摩訶薩住第七遠行地時。應遠離如是二十法。及應圓滿如是二十法。復次善現。菩薩摩訶薩住第八不動地時。應圓滿四法。何等為四。一者應圓滿悟入一切有情心行。二者應圓滿遊戲諸神通。三者應圓滿見諸佛土。如其所見而自嚴淨種種佛土。四者應圓滿供養承事諸佛世尊。於如來身如實觀察。善現。菩薩摩訶薩住第八不動地時。應圓滿如是四法。復次善現。菩薩摩訶薩住第九善慧地時。應圓滿四法。何等為四。一者應圓滿知諸有情根勝劣智。二者應圓滿嚴淨佛土。三者應圓滿如幻等持數入諸定。四者應圓滿隨諸有情善根應熟故入諸有自現化生。善現。菩薩摩訶薩住第九善慧地時。應圓滿如是四法。復次善現。菩薩摩訶薩住第十法雲地時。應圓滿十二法。何等十二。一者應圓滿。攝受無邊處所大願。隨有所願皆令圓滿。二者應圓滿隨諸天龍藥叉健達縛阿素洛揭路茶緊捺洛莫呼洛伽人非人等異類音智。三者應圓滿無礙辯說智。四者應圓滿入胎具足。五者應圓滿出生具足。六者應圓滿家族具足。七者應圓滿種姓具足。八者應圓滿眷屬具足。九者應圓滿生身具足。十者應圓滿出家具足。十一者應圓滿莊嚴菩提樹具足。十二者應圓滿一切功德成辦具足。善現。菩薩摩訶薩住第十法雲地時。應圓滿如是十二法。善現。當知已圓滿第十法雲地菩薩摩訶薩。與諸如來應言無異。』
須菩提白佛言。世尊。云何菩薩摩訶薩從一地至一地。 須菩提の仏に白して言さく、『世尊、云何が菩薩摩訶薩は一地より一地に至る』、と。
『須菩提』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
何のように、
『菩薩摩訶薩』は、
『一地より、一地に至るのですか?』、と。
佛言。菩薩摩訶薩知一切法無來去相亦無有法。若來若去若至若不至諸法相不滅故。菩薩摩訶薩於諸地不念不思惟。而修治地業亦不見地。 仏の言わく、『菩薩摩訶薩は、一切法には来去の相無く、亦た法の若しは来たる、若しは去る、若しは至る、若しは至らざる有ること無し。諸法の相の不滅なるが故なりと知れば、菩薩摩訶薩は、諸地に於いて念ぜず、思惟せずして、治地業を修するも、亦た地を見ず。
『仏』は、こう言われた、――
『菩薩摩訶薩』が、こう知れば、――
『一切法』には、
『来、去の相』が、
『無く!』、
『来たり、去ったり、至ったり、至らなかったりする!』、
『法』も、
『無い!』。
何故ならば、
『諸法の相』は、
『不滅だからである!』、と。
『菩薩摩訶薩』は、
『諸地に於いて!』、
『念じることもなく!』、
『四維することもなく!』、
『治地業を修めながら!』、
『地』を、
『見ることもない!』。
  治地(じじ):梵語 bhuumi-parizodhaka の訳、自らの地位を浄化する( the purification of one's position )の意。
何等菩薩摩訶薩治地業。菩薩摩訶薩住初地時行十事。一者深心堅固。是不可得故。二者於一切眾生中等心。眾生不可得故。三者布施。與人受人不可得故。四者親近善知識亦不自高。五者求法。一切法不可得故。六者常出家。家不可得故。七者愛樂佛身。相好不可得故。八者演出法教。諸法分別不可得故。九者破憍慢。法生慧不可得故。十者實語。諸語不可得故。菩薩摩訶薩如是初地中住。修治十事治地業。 何等か、菩薩摩訶薩の治地の業なる。菩薩摩訶薩は初地に住する時、十事を行ず、一には深心の堅固なるは是の不可得なるが故なり。二には一切の衆生中に於いて等心なり。衆生の不可得なるが故に。三には布施す、与うる人と受くる人との不可得なるが故に。四には善知識に親近するも、亦た自ら高ぶらず。五には法を求む。一切法の不可得なるが故に。六には常に出家す。家の不可得なるが故に。七には仏身を愛楽す。相好の不可得なるが故に。八には法教を演出す。諸法の分別の不可得なるが故に。九には憍慢を破る。法より生ずる慧の不可得なるが故に。十二は実語す。諸語の不可得なるが故に。菩薩摩訶薩は是の如く初地中に住して、十事の治地の業を修治す。
何が、
『菩薩摩訶薩』の、
『治地の業なのか?』。
『菩薩摩訶薩』は、
『初地に住する!』時、
『十事を行じる!』、――
一には、
『深心の堅固を行じる!』、
是の、
『深心』は、
『不可得だからである!』。
二には、
『一切の衆生』中に、
『等心』を、
『行じる!』、
何故ならば、
『衆生』は、
『不可得だからである!』。
三には、
『布施を行じる!』、
何故ならば、
『与える人も、受ける人も!』、
『不可得だからである!』。
四には、
『善知識に親近する!』が、
『自ら!』を、
『高ぶることもない!』。
五には、
『法を求める!』のは、
『一切法』が、
『不可得だからである!』。
六には、
『常に出家する!』のは、
『家』は、
『不可得だからである!』。
七には、
『仏身を愛楽する!』のは、
『相好』が、
『不可得だからである!』。
八には、
『法教を演出する!』のは、
『諸法の分別( the difference among dharmas )』が、
『不可得だからである!』。
九には、
『憍慢を破る!』のは、
『法生の慧( the knowledge born from dharmas )』が、
『不可得だからである!』。
十二は、
『実語する!』のは、
『諸の語』が、
『不可得だからである!』。
『菩薩摩訶薩』は、
是のように、
『初地中に住して!』、
『十事の治地業』を、
『修治するのである!』。
  深心(じんしん):梵語 maanasa, manasya の訳、心に属する( belonging to the mind, spirit, mental )の義、心の満足/喜びをもって( with the satisfaction or delight of mind )の意。
  愛楽(あいぎょう):梵語 abhilaaSa, abhirata の訳、渇望/希求( desire, wish )、喜んで/満足して( pleased or contented with, satisfied )の義。
  演出(えんしゅつ):演説と顕出( to lecture and manifest )。
復次須菩提。菩薩摩訶薩住二地中常念八法。何等八。一者戒清淨。二者知恩報恩。三者住忍辱。四者受歡喜。五者不捨一切眾生。六者入大悲心。七者信師恭敬諮受。八者勤求諸波羅蜜。須菩提。是名菩薩摩訶薩住二地中應滿足八法。 復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は二地中に住して常に八法を念ず。何等か八なる。一には戒の清浄なり。二には恩を知り、恩に報ずる。三には忍辱に住する。四には歓喜を受くる。五には一切の衆生を捨てざる。六には大悲心に入る。七には師を信じて恭敬し、諮受す。八には諸の波羅蜜を勤求する。須菩提、是れを菩薩摩訶薩の二地中に住すれば、応に満足すべき八法と名づく。
復た次ぎに、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』は、
『二地中に住して!』、
『常に、八法を念じるのである!』。
何のような、
『八なのか?』、――
一には、
『戒が、清浄であるよう!』に、
『念じる!』。
二には、
『恩を知り、恩に報いよう!』と、
『念じる!』。
三には、
『忍辱に住しよう!』と、
『念じる!』。
四には、
『歓喜を受けるだろう!』と、
『念じる!』。
五には、
『一切の衆生を捨てないよう!』に、
『念じる!』。
六には、
『大悲心に入ろう!』と、
『念じる!』。
七には、
『師を信じて恭敬し、諮受しよう!』と、
『念じる!』。
八には、
『諸の波羅蜜を勤求しよう!』と、
『念じる!』。
須菩提、
是れが、
『菩薩摩訶薩が二地中に住して、満足せねばならぬ!』、
『八法である!』。
  諮受(しじゅ):諮り受ける。問うて指図を受ける。
復次須菩提。菩薩摩訶薩住三地中行五法。何等五。一者多學問無厭足。二者淨法施亦不自高。三者莊嚴佛國土亦不自高。四者受世間無量勤苦不以為厭。五者住慚愧處。須菩提。是名菩薩摩訶薩住三地中應滿足五法。 復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は三事中に住して、五法を行ず。何等か五なる。一には多く学問して厭足する無き。二には法施を浄めて、亦た自ら高ぶらず。三には仏国土を荘厳して亦た自ら高ぶらず。四には世間の無量の勤苦を受くるも、以って厭と為さず。五には慚愧の処に住す。須菩提、是れを菩薩摩訶薩の三事中に住して応に満足すべき五法と名づく。
復た次ぎに、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』は、
『三地中に住して!』、
『五法を行じる!』。
何のような、
『五なのか?』――
一には、
『多く学問しながら!』、
『厭足することが無い!』。
二には、
『法施を浄める!』が故に、
『自ら高ぶることがない!』。
三には、
『仏国土を荘厳しながら!』、
『自ら高ぶることがない!』。
四には、
『世間の無量の勤苦を受けながら!』、
『厭うことがない!』。
五には、
『慚愧の処』に、
『住する!』。
須菩提!
是れが、
『菩薩摩訶薩が三地中に住して、満足せねばならない!』、
『五法である!』。
復次須菩提。菩薩摩訶薩住四地中應受行不捨十法。何等十。一者不捨阿練若住處。二者少欲。三者知足。四者不捨頭陀功德。五者不捨戒。六者穢惡諸欲。七者厭世間心。八者捨一切所有。九者心不沒。十者不惜一切物。須菩提是名菩薩摩訶薩住第四地中不捨十法。 復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は四地中に住すれば、応に十法を受行して捨てず。何等か十なる。一には阿練若の住処を捨てず。二には少欲、三には知足、四には頭陀の功徳を捨てず、五には戒を捨てず、六には諸欲を穢悪す。七には世間の心を厭い、八には一切の所有を捨て、九には心没せず、十二は一切の物を惜まず。須菩提、是れを菩薩摩訶薩の第四地中に住して捨てざる十法と名づく。
復た次ぎに、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』は、
『四地中に住すれば!』、
『十法を捨てることはない!』。
何のような、
『十なのか?』、――
一には、
『阿練若の住処』を、
『捨てない!』。
二には、
『欲』を、
『少くする!』。
三には、
『足ること!』を、
『知る!』。
四には、
『頭陀の功徳』を、
『捨てない!』。
五には、
『戒』を、
『捨てない!』。
六には、
『諸の欲』を、
『穢悪する!』。
七には、
『世間の心』を、
『厭う!』。
八には、
『一切の所有』を、
『捨てる!』。
九には、
『心』が、
『没することがない!』。
十二は、
『一切の物』を、
『惜まない!』。
須菩提!
是れが、
『菩薩摩訶薩が第四地に住して捨てない!』、
『十法である!』。
  阿練若住処(あれんにゃじゅうしょ):梵語阿練若araNyaは荒野の義。『大智度論巻49上注:阿蘭若処』参照。
  阿蘭若処(あらんにゃじょ):阿蘭若araNyaは梵語。巴梨語araJJa、又阿練若、阿蘭那、阿蘭拏、阿練茹、或いは阿蘭攘に作り、略して蘭若、又は練若とも云う。無諍、無諍声、無諍行、空寂、又は最閑処と訳す。即ち聚落を距つる一俱廬舎にして、修行に適する閑処を云う。「有部毘奈耶巻24」に、「阿蘭若住処に在りとは、村を去ること五百弓にして、一拘盧舎あるを阿蘭若処と名づく」と云い、「薩婆多毘尼毘婆沙巻5」に、「阿練若処とは聚落を去る五百弓なるを阿練若処と名づく」と云える是れなり。但し一拘盧舎の量は中国と北方とに於いて同じからず、是れ土地の平地又は山地なるによりて音響の達する距離に異あるが為なり。「倶舎論光記巻13」に、「阿の言は無なり、練若を喧雑と名づく」と云い、「玄応音義巻23」には、「阿は此に無と云う、練若に両義あり、一には声という、謂わく人声なく、及び鼓譟等の声なし。二には斫という、謂わく斫伐等の諠吏なし。聚落を去る一拘盧舎を阿練若処となすと言うと雖も、亦た須く斫伐の処を離るべし」とあり、又「慧苑音義巻上」には阿蘭若に達摩阿蘭若dharmaaraNya、摩登伽阿蘭若maataGgaaraNya、檀陀迦阿蘭若daNDakaaraNyaの三種の別ありとし、達摩阿蘭若は諸法本来湛寂にして起作の義なし、因って其処を法の阿蘭若処とす。摩登伽阿蘭若とは塚間の処なり、村落を去る一拘盧舎にして、大牛の吼声の及ばざる処なり。檀陀迦阿蘭若は沙磧の処なりと云えり。又「大毘婆沙論巻136」、「十住毘婆沙論巻16」、「大日経疏巻3」、「大乗義章巻15」、「四阿鋡暮抄解巻上」、「四分律疏飾宗義記巻5本」、「止観輔行伝弘決巻4之3」、「玄応音義巻1、3」、「慧琳音義巻2、5」、「翻訳名義集巻20」等に出づ。<(望)
  頭陀(づだ):衣食住の貪著を捨て、以って身心を修練するを云う。『大智度論巻3上注:頭陀、巻6下注:十二頭陀行、巻42下注:頭陀』参照。
  世間心(せけんしん):梵語 jagac-citta の訳、世俗的な精神性( mundane mentality )の義。
復次須菩提。菩薩摩訶薩住五地中遠離十二法。何等十二。一者遠離親白衣。二者遠離比丘尼。三者遠離慳惜他家。四者遠離無益談處。五者遠離瞋恚。六者遠離自大。七者遠離蔑人。八者遠離十不善道。九者遠離大慢。十者遠離自用。十一者遠離顛倒。十二者遠離婬怒癡。須菩提。是為菩薩摩訶薩住五地中遠離十二事。 復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は五地中に住して、十二法を遠離す。何等か十二なる。一には白衣に親しむを遠離す。二には比丘尼を遠離す。三には他家に慳惜するを遠離す。四には無益の談処を遠離す。五には瞋恚を遠離す。六には自大を遠離す。七には人を蔑むことを遠離す。八には十不善道を遠離す。九には大慢を遠離す。十には自用を遠離す。十一には顛倒を遠離す。十二には婬怒癡を遠離す。須菩提、是れを菩薩摩訶薩の五地中に住して遠離する十二事と為す。
復た次ぎに、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』は、
『五地中に住して!』、
『十二法を遠離する!』。
何のような、
『十二なのか?』、――
一には、
『白衣に親しむこと!』を、
『遠離する!』。
二には、
『比丘尼』を、
『遠離する!』。
三には、
『他家に慳惜すること!』を、
『遠離する!』。
四には、
『無益の談処』を、
『遠離する!』。
五には、
『瞋恚』を、
『遠離する!』。
六には、
『自大( one's pride )』を、
『遠離する!』。
七には、
『人を蔑むこと!』を、
『遠離する!』。
八には、
『十不善道』を、
『遠離する!』。
九には、
『大慢』を、
『遠離する!』。
十には、
『自用( one's own affair )』を、
『遠離する!』。
十一には、
『顛倒』を、
『遠離する!』。
十二には、
『婬怒癡』を、
『遠離する!』。
須菩提!
是れが、
『菩薩摩訶薩が五地中に住して遠離する!』、
『十二事である!』。
  自大(じだい):◯梵語 maana, abhimaanika, pragalbha の訳、自負/傲慢/尊大( self-conceit, arrogance, pride )の義。
  自用(じゆう):◯梵語 svaartha の訳、自分の用事( one's own affair )の義。◯梵語 aakuuta の訳、意図/目的/希望( intention, purpose, wish )の義。
復次須菩提菩薩摩訶薩住六地中當具足六法。何等六。所謂六波羅蜜。復有六法所不應為。何等六。一者不作聲聞辟支佛意。二者布施不應生憂心。三者見有所索心不沒。四者所有物布施。五者布施之後心不悔。六者不疑深法。須菩提。是名菩薩摩訶薩住六地中應滿具六法遠離六法 復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は六地中に住すれば、当に六法を具足すべし。何等か六なる。謂わゆる六波羅蜜なり。復た六法有りて、応に為すべからざる所なり。何等か六なる。一には声聞、辟支仏の意を作さず。二には布施して応に憂心を生ずべからず。三には索むる所有るを見て心没せず。四には有らゆる物を布施し、五には布施の後に心悔いず。六には深法を疑わず。須菩提、是れを菩薩摩訶薩の六地中に住して応に満具すべき六法と、遠離すべき六法と名づく。
復た次ぎに、
須菩提!
『菩薩摩訶薩が、六地中に住すれば!』、
『六法』を、
『具足せねばならない!』。
何のような、
『六なのか?』、
『謂わゆる、六波羅蜜である!』。
復た、
『作すべきでない!』、
『六法』が、
『有る!』。
何のような、
『六なのか?』、――
一には、
『声聞、辟支仏の意』を、
『作してはならない!』。
二には、
『布施しても!』、
『憂心を生じてはならない!』。
三には、
『索める所の人が有っても!』、
『心が没してはならない!』。
四には、
『有らゆる物』を、
『布施しながら!』、
五には、
『布施した!』後に、
『心が悔いてはならない!』。
六には、
『深法』を、
『疑ってはならない!』。
須菩提!
是れが、
『菩薩摩訶薩が六地中に住して!』、
『満具せねばならない六法』と、
『遠離せねばならない六法である!』。
  所索(しょさく):もとむるところ。布施を求める人。所は指事の詞。
  満具(まんぐ):具足。
復次須菩提。菩薩摩訶薩住七地中二十法所不應著。何等二十。一者不著我。二者不著眾生。三者不著壽命。四者不著眾數乃至知者見者五者不著斷見。六者不著常見。七者不應作相。八者不應作因見。九者不著名色。十者不著五眾。十一者不著十八界。十二者不著十二入。十三者不著三界。十四者不作著處。十五者不作所期處。十六者不作依處。十七者不著依佛見。十八者不著依法見。十九者不著依僧見。二十者不著依戒見。是二十法所不應著。 復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は七地中に住すれば、二十法は応に著すべからざる所なり。何等か二十なる。一には我に著せず。二には衆生に著せず。三には寿命に著せず、四には衆数乃至知者、見者に著せず。五には断見に著せず。六には常見に著せず。七には応に相を作すべからず。八には応に因見を作すべからず。九には名色に著せず。十には五衆に著せず。十一には十八界に著せず。十二には十二入に著せず。十三には三界に著せず。十四には著処と作らず。十五には所期の処と作らず。十六には依処と作らず。十七には仏見に依るに著せず。十八には法見に依るに著せず。十九には僧見に依るに著せず。二十には戒見に依るに著せず。是の二十法は応に著すべからざる所なり。
復た次ぎに、
須菩提!
『菩薩摩訶薩は、七地中に住すれば!』、
『二十法』に、
『著してはならない!』。
何のような、
『二十か?』、――
一には、
『我』に、
『著してはならない!』。
二には、
『衆生』に、
『著してはならない!』。
三には、
『寿命』に、
『著してはならない!』。
四には、
『衆数乃至知者、見者』に、
『著してはならない!』。
五には、
『断見』に、
『著してはならない!』。
六には、
『常見』に、
『著してはならない!』。
七には、
『相』を、
『作してはならない!』。
八には、
『因見』を、
『作してはならない!』。
九には、
『名色』に、
『著してはならない!』。
十には、
『五衆』に、
『著してはならない!』。
十一には、
『十八界』に、
『著してはならない!』。
十二には、
『十二入』に、
『著してはならない!』。
十三には、
『三界』に、
『著してはならない!』。
十四には、
『著処』と、
『作ってはならない!』。
十五には、
『所期の処( the place being expected )』と、
『作ってはならない!』。
十六には、
『依処( the place being relied )』と、
『作ってはならない!』。
十七には、
『仏見に依ること!』に、
『著してはならない!』。
十八には、
『法見に依ること!』に、
『著してはならない!』。
十九には、
『僧見に依ること!』に、
『著してはならない!』。
二十には、
『戒見に依ること!』に、
『著してはならない!』。
是れが、
『著すべきでない!』、
『二十法である!』。
  衆数(しゅすう):衆生中に多くの品類あるの意。数は品類の義。人の数に入らず等。
復有二十法應具足滿。何等二十。一者具足空。二者無相證。三者知無作。四者三分清淨。五者一切眾生中具足慈悲智。六者不念一切眾生。七者一切法等觀。是中亦不著。八者知諸法實相。是事亦不念。九者無生法忍。十者無生智。十一者說諸法一相。十二者破分別相。十三者轉憶想。十四者轉見。十五者轉煩惱。十六者等定慧地。十七者調意。十八者心寂滅。十九者無礙智。二十者不染愛。須菩提。是名菩薩摩訶薩住。七地中應具足二十法 復た二十法有りて、応に具足して満ずべし。何等か二十なる。一には空を具足す。二には無相を証す。三には無作を知る。四には三分清浄なり。五には一切の衆生中に慈悲の智を具足す。六には一切の衆生を念ぜず。七には一切法を等観して、是の中にも亦た著せず。八には諸法の実相を知り、是の事をも亦た念ぜず。九には無生法忍。十には無生智。十一には諸法の一相を説く。十二には分別相を破る。十三には憶想を転ず。十四には見を転ず。十五には煩悩を転ず。十六には定慧の地を等しくする。十七には意を調う。十八には心の寂滅。十九には無礙智。二十には不染の愛。須菩提、是れを菩薩摩訶薩の七地中に住して、応に具足すべき二十法と名づく。
復た、
『具足して満たすべき!』、
『二十法』が、
『有る!』。
何のような、
『二十なのか?』、――
一には、
『空』を、
『具足せねばならない!』。
二には、
『無相』を、
『具足して証さねばならない!』。
三には、
『無作』を、
『具足して知らねばならない!』。
四には、
『身口意の三分』を、
『具足して清浄にせねばならない!』。
五には、
『一切の衆生』中に、
『慈悲の智を具足せねばならない!』。
六には、
『一切の衆生を念じないこと!』を、
『具足せねばならない!』。
七には、
『一切法』を、
『具足して!』、
『等観しながら!』、
是の、
『等観』中にも、
『著してはならない!』。
八には、
『諸法の実相』を、
『具足して!』、
『知りながら!』、
是の、
『事』も、
『念じてはならない!』。
九には、
『無生法忍』を、
『具足せねばならない!』。
十には、
『無生の智』を、
『具足せねばならない!』。
十一には、
『諸法は一相である!』と、
『具足して説かねばならない!』。
十二には、
『分別された相』を、
『具足して破らねばならない!』。
十三には、
『憶想』を、
『具足して転じねばならない!』。
十四には、
『見』を、
『具足して転じねばならない!』。
十五には、
『煩悩』を、
『具足して転じねばならない!』。
十六には、
『定、慧の地( the grounds of meditation and wisdom )』を、
『具足して等しくせねばならない!』。
十七には、
『意』を、
『具足して調えねばならない!』。
十八には、
『心』は、
『具足して寂滅せねばならない!』。
十九には、
『無礙の智』を、
『具足せねばならない!』。
二十には、
『不染愛( being free from passion )』を、
『具足せねばならない!』。
須菩提!
是れが、
『菩薩摩訶薩』が、
『七地中に住して具足せねばならない!』、
『二十法である!』。
  不染愛(ふせんあい):梵語 araaga の訳、情熱の籠もらない( unimpassioned )の義、情熱をかき立てられない( free from passion )の意。
  定慧地(じょうえのじ):梵語 samaadhi-prajJaa-bhuumi の訳、定、慧の活動する場所( the grounds of meditation and wisdom )の義。
復次須菩提。菩薩摩訶薩住八地中應具足五法。何等五。順入眾生心。遊戲諸神通。觀諸佛國。如所見佛國自莊嚴其國。如實觀佛身自莊嚴佛身。是名五法具足滿。 復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は八地中に住すれば、応に五法を具足すべし。何等か五なる。衆生の心に順入して、諸の神通を遊戯し、諸の仏国を観て、所見の仏国の如く、自ら其の国を荘厳し、実観せる仏身の如く、自ら仏身を荘厳すれば、是れを五法具足して満ずと名づく。
復た次ぎに、
須菩提!
『菩薩摩訶薩が、八地中に住すれば!』、
『五法』を、
『具足するはずである!』。
何のような、
『五か?』、――
『衆生の心に順入し
to enter conformably the mind of human being )!』、
『諸の神通を遊戯し
to play the divine powers )!』、
『諸の仏国を観て!』、
『所見の仏国のように、自国を荘厳し!』、
『実観した仏身のように、自身を荘厳すれば!』、
是れが、
『五法が具足して!』、
『満ちるということである!』。
復次須菩提。菩薩摩訶薩住八地中復具足五法。何等五。知上下諸根。淨佛世界。入如幻三昧。常入三昧。隨眾生所應善根受身。須菩提。是為菩薩摩訶薩住八地中具足五法。 復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は八地中に住すれば、復た五法を具足す。何等か五なる。上下の諸根を知る。仏世界を浄む。如幻三昧に入る。常に三昧に入る。衆生の所応の善根に随いて身を受く。須菩提、是れを菩薩摩訶薩の八地中に住して具足する五法と為す。
復た次ぎに、
須菩提!
『菩薩摩訶薩は、八地中に住して!』、
復た、
『五法』を、
『具足する!』。
何のような、
『五か?』、――
『上、下の諸根を知り!』、
『仏世界を浄め!』、
『如幻三昧に入り!』、
『常に三昧に入り!』、
『衆生の所応の善根に随って身を受ける!』。
須菩提!
是れが、
『菩薩摩訶薩が八地中に具足する!』、
『五法である!』。
復次須菩提。菩薩摩訶薩住九地中應具足十二法。何等十二。受無邊世界所度之分。菩薩得如是願。知諸天龍夜叉犍闥婆語而為說法。處胎成就家成就所生成就姓成就眷屬成就出生成就出家成就莊嚴佛樹成就。一切諸善功德成滿具足。須菩提。是名菩薩摩訶薩住九地中應具足十二法。須菩提。十地菩薩當知如佛。 復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は九地中に住すれば、応に十二法を具足すべし。何等か十二なる。無辺の世界の所度の分を受くる菩薩は、是の如き願を得て、諸の天龍夜叉揵闥婆の語を知りて為めに説法し、胎に処するを成就し、家を成就し、所生を成就し、姓を成就し、眷属を成就し、出生を成就し、出家を成就し、荘厳の仏樹を成就し、一切の諸善の功徳を成満して具足す。須菩提、是れを菩薩摩訶薩の九地中に住して応に具足すべき十二法と名づく。須菩提、十地の菩薩は、当に仏の如しと知るべし。
復た次ぎに、
須菩提!
『菩薩摩訶薩が、九地中に住すれば!』、
『十二法』を、
『具足するはずである!』。
何のような、
『十二か?』、――
『無辺の世界の所度の分を受け!』、
『菩薩は、是のように願う因縁を得!』、
『諸の天、龍、夜叉、揵闥婆の語を知って、揵闥婆等の為めに法を説き!』、
『処胎を成就し!』、
『家を成就し!』、
『所生を成就し!』、
『姓を成就し!』、
『眷属を成就し!』、
『出生を成就し!』、
『出家を成就し!』、
『荘厳の仏樹を成就し!』、
『一切の諸善の功徳を成満して具足する!』。
須菩提!
是れが、
『菩薩摩訶薩が九地中に住すれば、具足するはず!』の、
『十二法である!』。
須菩提!
こう知らねばならない、――
『十地の菩薩』は、
『仏のようである!』、と。
爾時慧命須菩提白佛言。世尊。云何菩薩摩訶薩深心治地業。佛言。菩薩摩訶薩應薩婆若心集諸善根。是名菩薩摩訶薩深心治地業。 爾の時、慧命須菩提の仏に白して言さく、『世尊、云何が菩薩摩訶薩は深心の地業を治むるや』、と。仏の言わく、『菩薩摩訶薩が薩婆若に応ずる心もて諸の善根を集むれば、是れを菩薩摩訶薩は深心に地業を治むと名づく』、と。
爾の時、   ―― 初地の再説 ――
『慧命須菩提』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
何のように、
『菩薩摩訶薩』は、
『深心に、地業を治めるのですか?』。
『仏』は、こう言われた、――
『菩薩摩訶薩』が、
『薩婆若に応じた心で( with the mind for sarvajna )!』、
『諸の善根』を、
『集めれば!』、
是れを、
『菩薩摩訶薩が、深心に地業を治める!』と、
『称する!』。
  薩婆若(さばにゃ):梵語sarva-jJaa、一切智と訳す。『大智度論巻37上注:一切智』参照
云何菩薩於一切眾生中等心。佛言。若菩薩摩訶薩應薩婆若心生四無量心。所謂慈悲喜捨。是名於一切眾生中等心。 云何が、菩薩は一切の衆生中に於いて、等心なる。仏の言わく、『若し菩薩摩訶薩、薩婆若に応ずる心に、四無量心の謂わゆる慈悲喜捨を生ずれば、是れを一切の衆生中に於ける等心と名づく』、と。
――
何が、
『一切の衆生』中の、
『等心ですか?』。
『仏』は、こう言われた、――
若し、
『菩薩摩訶薩』が、
『薩婆若に応じた心で!』、
『四無量心、謂わゆる慈悲喜捨』を、
『生じれば!』、
是れを、
『一切衆生中の等心』と、
『称する!』。
云何菩薩修布施。佛言。菩薩施與一切眾生無所分別。是名修布施。 云何が、菩薩は布施を修する。仏の言わく、『菩薩は、一切の衆生に施与するも、分別する所無ければ、是れを布施を修すと名づく』、と。
――
何のように、
『菩薩』は、
『布施を修めるのですか?』。
『仏』は、こう言われた、――
『菩薩が、一切の衆生に施与しながら!』、
『分別する!』所が、
『無ければ!』、
是れを、
『布施を修める!』と、
『称する!』。
云何菩薩親近善知識。佛言。能教入薩婆若中住。如是善知識親近諮受恭敬供養。是名親近善知識。 云何が、菩薩は善知識に親近する。仏の言わく、『能く教えて薩婆若中に入れて住せしむる、是の如き善知識に親近して諮受し、恭敬し、供養すれば、是れを善知識に親近すと名づく』、と。
――
何のように、
『菩薩』は、
『善知識に親近するのですか?』。
『仏』は、こう言われた、――
『教えて!』、
『薩婆若中に入らせ!』、
『住させるような!』、
是のような、
『善知識に親近して!』、
『諮受、恭敬、供養すれば!』、
是れを、
『善知識に親近する!』と、
『称する!』。
云何菩薩求法。佛言。若菩薩應薩婆若心求法。不墮聲聞辟支佛地。是名求法。 云何が菩薩は法を求むる。仏の言わく、『若し菩薩、薩婆若に応ずる心もて、法を求むれば、声聞、辟支仏の地に堕ちず。是れを法を求むと名づく』、と。
――
何のように、
『菩薩』は、
『法を求めるのですか?』。
『仏』は、こう言われた、――
若し、
『菩薩が、薩婆若に応じた心で!』、
『法を求めれば!』、
『声聞、辟支仏の地に堕ちない!』ので、
是れを、
『法を求める!』と、
『称する!』。
云何菩薩常出家治地業。佛言。菩薩世世不雜心。佛法中出家無能障礙者。是名常出家治地業。 云何が、菩薩は常に出家して地業を治むる。仏の言わく、『菩薩は世世に心を雑えず、仏法中に出家すれば、能く障礙する者無し。是れを常に出家して、地業を治むと名づく』、と。
――
何のように、
『菩薩』は、
『常に出家して、地業を治めるのですか?』。
『仏』は、こう言われた、――
『菩薩が、世世に心を雑えず!』、
『仏法中に出家すれば!』、
『障礙することのできる者が無い!』ので、
是れを、
『常に出家して、地業を治める!』と、
『称する!』。
云何菩薩愛樂佛身治地業。佛言。若菩薩見佛身相乃至阿耨多羅三藐三菩提。終不離念佛。是名愛樂佛身治地業。 云何が、菩薩は仏身を愛楽して、地業を治むる。仏の言わく、『若し菩薩、仏の身相を見れば、乃至阿耨多羅三藐三菩提まで終に仏を念ずるを離れず。是れを仏身を愛楽して地業を治むと名づく』、と。
――
何のように、
『菩薩は、仏身を愛楽しながら!』、
『地業を治めるのですか?』。
『仏』は、こう言われた、――
若し、
『菩薩が、仏の身相を見れば!』、
乃至、
『阿耨多羅三藐三菩提を得るまで!』、
終に、
『仏を念じること!』を、
『離れない!』ので、
是れを、
『仏身を愛楽しながら、地業を治める!』と、
『称するのである!』。
云何菩薩演出法教治地業。佛言。菩薩若佛現在若佛滅度後。為眾生說法。初中後善妙義好語淨潔純具。所謂修妒路乃至優婆提舍。是名演出法教治地業。 云何が、菩薩は法教を演出して、地業を治むる。仏の言わく、『菩薩若しは仏現在するも、若しは仏の滅度の後なるも、衆生の為めに説法するに初中後善く、妙義と好語の純潔なるを純ら具う。謂わゆる修妒路、乃至憂波提舎なり。是れを法教を演出して、地業を治むと名づく』、と。
――
何のように、
『菩薩は、法教を演出しながら!』、
『地業を治めるのですか?』。
『仏』は、こう言われた、――
『菩薩が、仏が現在しようと、仏の滅度の後であろうと!』、
『衆生の為めに、説法して!』、
『初、中、後が善く!』、
『妙義、好語、純潔が純ら具わっていれば
there are simply deep meaning, well speaking and purity )!』、
謂わゆる、
『修妒路乃至憂波提舎』を、
『説けば!』、
是れを、
『法教を演出しながら、地業を治める!』と、
『称するのである!』。
  修妒路(しゅとろ):梵語suutra、経と訳す。十二部経の一。『大智度論巻22上注:十二部経』参照。
  優婆提舎(うばだいしゃ):梵語upadeza、又優波提舎に作り、論議と訳す。十二部経の一。『大智度論巻22上注:十二部経』参照。
云何菩薩破於憍慢治地業。佛言菩薩破是憍慢故。終不生下賤家。是名破於憍慢治地業。 云何が菩薩は憍慢を破りて地業を治むる。仏の言わく、『菩薩は、是の憍慢を破るが故に終に下賎の家に生ぜず。是れを憍慢を破りて、地業を治むと名づく』、と。
――
何のように、
『菩薩は、憍慢を破って!』、
『地業を治めるのですか?』。
『仏』は、こう言われた、――
『菩薩』が、
是の、
『憍慢を破れば!』、
終に、
『下賎の家に!』、
『生まれない!』ので、
是れを、
『憍慢を破って、地業を治める!』と、
『称するのである!』。
云何菩薩實語治地業。佛言。菩薩如所說隨說行。是名實語治地業。是為菩薩摩訶薩住初地中修行十事治地業 云何が菩薩は実語して地業を治むる。仏の言わく、『菩薩は所説の如く、説に随って行ずれば、是れを実語して地業を治むと名づく。是れを菩薩摩訶薩の初地中に住して十事を修行し、地業を治むと為す』、と。
――
何のように、
『菩薩は、実語して!』、
『地業を治めるのですか?』。
『仏』は、こう言われた、――
『菩薩』が、
『説いた通りに!』、
『所説に随って、行じれば!』、
是れを、
『実語して、地業を治める!』と、
『称する!』。
是れが、
『菩薩摩訶薩が初地中に住して、十事を修行しながら!』、
『地業を治めるということである!』。



【論】一地より一地に至る

【論】釋曰。須菩提上問摩訶衍。佛種種答摩訶衍相。上又問發趣大乘者。今答發趣大乘相。菩薩摩訶薩乘是乘。知一切法從本已來不來不去無動無發法性常住故。又以大悲心故。精進波羅蜜故。方便力故。還修諸善法。更求勝地而不取地相。亦不見此地。 釈して曰く、須菩提は上に摩訶衍を問えるに、仏は種種に摩訶衍の相を答えたまえり。上に又、大乗に発趣するを問えば、今大乗に発趣する相を答えたまわく、『菩薩摩訶薩は、是の乗に乗りて、一切法は本より已来、不来不去、無動、無発なるは、法性は常住なるが故なり、と知り、又大悲心を以っての故に、精進波羅蜜の故に、方便力の故に、還って諸の善法を修め、更に勝地を求めて、而も地相を取らず、亦た此の地を見ず』、と。
釈す、
『須菩提が、上に摩訶衍を問う!』と、
『仏』は、
『摩訶衍の相』を、
『種種に答えられた!』。
『須菩提が上に又、大乗に発趣することを問うた!』ので、
『仏』は、
今、
『大乗に発趣する相』を、こう答えられた、――
『菩薩摩訶薩』が、
是の、
『大乗に乗る!』と、
『一切法』は、
『本より、不来不去、無動無発である!』と、
『知りながら!』、
『法性は常住であり、又大悲心、精進波羅蜜、方便力を用いる!』が故に、
還って、
『諸の善法』を、
『修めて!』、
更に、
『勝地( the upper stage )』を、
『求めるのである!』が、
而るに、
『地相』を、
『取ることもなく!』、
亦た、
『此の地( the present stage )』を、
『見ることもない!』。
問曰應答發趣大乘。何以說發趣地。 問うて曰く、応に大乗に発趣するを答うべきに、何を以ってか、地に発趣するを説きたまえる。
問い、
『大乗に発趣することを、答えるべきである!』のに、
何故、
『地に発趣すること!』を、
『説かれたのですか?』。
答曰。大乘即是地。地有十分。從初地至二地。是名發趣。譬如乘馬趣象捨馬乘象乘象趣龍捨象乘龍。 答えて曰く、大乗は即ち是れ地なり。地に十分有りて、初地より二地に至る、是れを発趣と名づく。譬えば馬に乗りて象に趣き、馬を捨てて象に乗り、象に乗って龍に趣き、象を捨てて龍に乗るが如し。
答え、
『大乗とは、即ち地であり!』、
『地』には、
『十分( ten stages )』が、
『有り!』、
『初地より、二地に至る!』のを、
『発趣』と、
『称する!』。
譬えば、
『馬に乗って、象に趣き( riding a horse, you go to an elephant )!』、
『馬を捨てて!』、
『象に乗り!』、
『象に乗って、龍に趣き!』、
『象を捨てて!』、
『龍に乗るようなものである!』。
問曰。此中是何等十地。 問うて曰く、此の中の是れは何等の十地なる。
問い、
此の中の、
『十地』とは、
『何のような十地ですか?』。
答曰。地有二種。一者但菩薩地。二者共地。共地者。所謂乾慧地乃至佛地。但菩薩地者。歡喜地離垢地有光地增曜地難勝地現在地深入地不動地善根地法雲地。此地相如十地經中廣說。 答えて曰く、地には二種有り。一には但菩薩地、二には共地なり。共地とは、謂わゆる乾慧地乃至仏地なり。但菩薩地とは歓喜地、離垢地、有光地、増曜地、難勝地、現在地、深入地、不動地、善根地、法雲地なり。此の地相は十地経中に広説するが如し。
答え、
『地には、二種有り!』、
一には、『但菩薩地であり!』、
二には、『共地である!』。
『共地』とは、
『謂わゆる乾慧地、乃至仏地であり!』。
『但菩薩地』とは、
『歓喜地、離垢地、有光地、増曜地、難勝地、現在地、深入地、不動地』、
『善根地、法雲地である!』が、
此の、
『但菩薩地の相』は、
『十地経に広説する通りである!』。
  但菩薩地(たんぼさつじ):但だ菩薩のみ住すべき地。『大智度論巻19上注:十地』参照。
  共地(くじ):声聞、辟支仏及び菩薩の共住すべき地。『大智度論巻19上注:十地』参照。
  乾慧地(けんねじ):共地中の第一地。『大智度論巻19上注:十地』参照。
  仏地(ぶつじ):共地中の第十地。『大智度論巻19上注:十地』参照。
  歓喜地(かんぎじ):但菩薩地中の第一地。『大智度論巻19上注:十地』参照。
  離垢地(りくじ):但菩薩地中の第二地。『大智度論巻19上注:十地』参照。
  有光地(うこうじ):但菩薩地中の第三地。『大智度論巻19上注:十地』参照。
  増曜地(ぞうようじ):但菩薩地中の第四地。『大智度論巻19上注:十地』参照。
  難勝地(なんしょうじ):但菩薩地中の第五地。『大智度論巻19上注:十地』参照。
  現在地(げんざいじ):但菩薩地中の第六地。『大智度論巻19上注:十地』参照。
  深入地(じんにゅうじ):但菩薩地中の第七地。『大智度論巻19上注:十地』参照。
  不動地(ふどうじ):但菩薩地中の第八地。『大智度論巻19上注:十地』参照。
  善根地(ぜんごんじ):但菩薩地中の第九地。『大智度論巻19上注:十地』参照。
  法雲地(ほううんじ):但菩薩地中の第十地。『大智度論巻19上注:十地』参照。
  十地経(じゅうじきょう):『十住経』、『十地経』、『六十華厳十地品』、『八十華厳十地品』等。
入初地菩薩應行十法深心乃至實語。須菩提雖知。為斷眾生疑故問世尊。云何是深心。佛答。應薩婆若心集諸善根。 初地に入れる菩薩は、応に十法の深心乃至実語を行ずべし。須菩提は知れりと雖も、衆生の疑を断ぜんが為めの故に問えり、『世尊、云何が、是れ深心なる』、と。仏の答えたまわく、『薩婆若に応ずる心もて、諸の善根を集むるなり』、と。
『初地に入った菩薩』は、
『深心、乃至実語という!』、
『十法』を、
『行じなければならない!』と、
『須菩提は、知っていた!』が、
『衆生の疑』を、
『断じる為め!』の故に、こう問うた、――
世尊!
何が、
『深心なのですか?』、と。
『仏』は、こう答えられた、――
『薩婆若に応じた心で!』、
『諸の善根』を、
『集めることである!』、と。
薩婆若心者。菩薩摩訶薩初發阿耨多羅三藐三菩提意。作是願。我於未來世當作佛。是阿耨多羅三藐三菩提意。即是應薩婆若心。 薩婆若の心とは、菩薩摩訶薩は初めて阿耨多羅三藐三菩提の意を発すに、是の願を作さく、『我れは、未来世に於いて、当に仏と作るべし』、と。是れ阿耨多羅三藐三菩提の意にして、即ち是れ薩婆若に応ずる心なり。
『薩婆若の心』とは、
『菩薩摩訶薩』は、
『初めて、阿耨多羅三藐三菩提の意を発す!』と、こう願うことになる、――
わたしは、
『未来世に於いて!』、
『仏と作らねばならぬ!』、と。
是れが、
『阿耨多羅三藐三菩提の意であり!』、
即ち、
『薩婆若に応じた心である!』。
應者繫心願我當作佛。若菩薩利根大集福德。諸煩惱薄過去罪業少。發意即得深心。 応ずるとは、心を繋けて、『我れは当に仏と作るべし』、と願うなり。若し菩薩が利根にして大いに福徳を集め、諸の煩悩薄くして、過去の罪業少なければ、意を発せば、即ち深心を得るなり。
『応じる!』とは、
『心を繋けて!』、
『わたしは、仏と作らねばならない!』と、
『願うことである!』が、
若し、
『菩薩が利根であり!』、
『大いに福徳を集めて、諸の煩悩が薄く!』、
『過去の罪業が少ければ!』、
『意を発しただけで!』、
即ち、
『深心を得ることになる!』。
深心者。深樂佛道世世於世間心薄。是名應薩婆若心。所作一切功德若布施若持戒若修定等。不求今世後世福樂壽命安隱。但為薩婆若。譬如慳貪人無因緣乃至一錢不施。貪惜積聚但望增長。菩薩亦如是。福德若多若少不向餘事。但愛惜積集向薩婆若。 深心とは、深く仏道を楽しんで、世世に世間に於ける心薄るれば、是れを薩婆若に応ずる心と名づけ、作す所の一切の功徳は若しは布施、若しは持戒、若しは修定等にして、今世、後世の福楽、寿命、安隠を求めず、但だ薩婆若の為めなり。譬えば慳貪の人は、因縁無ければ、乃至一銭たりとも施さず、貪惜積聚して、但だ増長せんことを望むが如し。菩薩も亦た是の如く、福徳若しは多き、若しは少きも、餘事に向わずして、但だ薩婆若に向かいて愛惜し、積集するのみ。
『深心』とは、
『深く、仏道を楽しんで!』、
『世世に!』、
『世間の心が薄れることであり!』、
是れを、
『薩婆若に応じる心』と、
『称し!』、
『深心の作す!』所の、
『一切の功徳は、布施や、持戒や、修定等であり!』、
『今世、後世の福楽や、寿命や、安隠』を、
『求めることではない!』。
但だ、
『薩婆若の為め!』の故に、
『功徳を求めるだけである!』。
譬えば、
『慳貪の人』は、
『因縁が無ければ!』、
『乃至一銭たり!』と、
『施さず!』、
『貪惜が積聚すれば!』、
『但だ、財が増長することだけ!』を、
『望むようなものである!』。
『菩薩』も、
是のように、
『福徳が多かろうと、少かろう!』と、
『餘事』に、
『向かうことはなく!』、
但だ、
『薩婆若に向って!』、
『功徳』を、
『愛惜し、積集するだけである!』。
問曰。是菩薩未知薩婆若不得其味。云何能得深心。 問うて曰く、是の菩薩は、未だ薩婆若を知らず、其の味を得ざるに、云何が能く深心を得る。
問い、
是の、
『菩薩』は、
『未だ、薩婆若を知らず!』、
『未だ、薩婆若の味すら得ていない!』のに、
何故、
『深心』を、
『得ることができるのですか?』。
答曰。我先已說。此人若利根諸煩惱薄。福德純厚不樂世間。雖未聞讚歎大乘。猶不樂世間。何況已聞。如摩訶迦葉。娶金色女為妻。心不愛樂棄捨出家。 答えて曰く、我れは先に已に説けり。此の人は若し利根にして、諸の煩悩薄く、福徳純ら厚く、世間を楽しまざれば、未だ大乗を讃歎するを聞かずと雖も、猶お世間を楽しまず。何に況んや已に聞くをや。摩訶迦葉の金色女を娶りて、妻と為すも、心愛楽せずして棄捨して出家せるが如し。
答え、
わたしが、先に已に説いたことであるが、――
此の、
『人は利根であり!』、
『諸の煩悩が薄く、福徳が純ら厚く!』、
『世間を楽しまない!』が故に、
『未だ、大乗を讃歎するのを聞かなくても!』、
猶お、
『世間』を、
『楽しむことはないのであり!』、
況して、
『大乗を聞けば!』、
『尚更なのである!』。
譬えば、
『摩訶迦葉』が、
『金色女を娶って!』、
『妻と為しながら!』、
『心が愛楽せず!』、
『棄捨して!』、
『出家したようなものである!』。
  摩訶迦葉(まかかしょう):仏十大弟子の一。『大智度論巻33上注:摩訶迦葉』参照。
  参考:『雑譬喩経』:『迦葉父者名曰尼俱律陀。摩竭國人也。出自婆羅門種。宿命福德生世大富。其珍奇寶物於彼國第一。比國王財富千分少一耳。夫婦孤獨乏無兒息。近在舍側有大樹神。時彼夫婦為欲有兒故求彼樹神。三生祭祠歲歲不絕。故其所求。永無本末。其人遂忿便急與之。期告樹神曰。我更盡心七日相事。若復無驗當揃伐汝。棄都道頭以火燒之。樹神聞其言甚大驚怖。不知何方令得子息。即便上告息意天王。具以事情向天王說。息意天王即將樹神詣天帝釋。以其所告白天帝釋。釋即以天眼觀欲界中。未有堪任為彼子者。帝釋便告梵天王。具以事情向梵王說。梵王即以天眼觀視其界。見一梵天臨當壽終。便告之曰。汝可下生閻浮提。為摩竭國尼俱律陀婆羅門作子。梵天對曰。婆羅門者多諸邪見。我若下生不能為其作子。梵王答曰。婆羅門宿時大德。欲界眾生無有堪任為作子者。汝若往生吾當敕天帝釋。令擁護汝不使中道墮邪見也。梵天曰諾。不違聖教。時天帝釋即還欲界。具以此意告敕樹神。樹神歡喜還告長者。勿憂勿懼勿見瞋恨。卻後七日必令有子。如其所言七日已滿。其婦人便覺有娠。滿十月已其子乃生。軀身金色而有光明。相師占曰。此兒宿福有大威德。志力清遠不貪世務。若後出家必登聖道。父母聞之復大愁憂。恐兒長大棄吾出家。以何方便當制止之。復自思惟欲界所重遂在美色。當為擇取端正好女以繫之耳。至年十五欲為娶婦。迦葉聞之甚大愁憂。語父母言。我志樂清淨不須婦也。迦葉辭至三。父母答如初。於時迦葉語父母言。我不用凡女人為婦也。若能得紫金色女端正無比爾乃取之耳。所以然者。欲必令此事不可辦故也。於是其父母召諸婆羅門。令循行國中。其有女子身體金色具足女相端正殊好爾乃取之。於是諸婆羅門設權策鑄作金女神。顏貌端正光色微妙。舁天像行從國至國高聲大唱。諸有女人得見金女神禮拜供養者。後出嫁時當得好婿。體黃金色顏貌殊妙智慧無比。聚落國邑諸有女人。聞此唱者莫不虛心。皆出奉迎禮拜供養。唯有一女軀體金色端正殊好。獨處閑室不肯出迎。諸女諫曰。其有見金女神者皆得如願。汝何以獨不出迎。答曰吾志閑淨不好餘願也。諸女復曰。雖無所願暫共一觀當復何損。爾時諸女遂共此女出到金女神前。此女既到光色明淨。映奪金女神光金不復現。於是諸婆羅門見已。還報長者具足廣說。於是長者即遣媒人。到其女家宣長者意。其女父母先亦聞迦葉名。敬承往意遂相然可。彼女聞之甚大愁憒。父母所逼事不獲已。遂便適長者家。既到與迦葉相見。二人相對志各凝潔。雖為夫婦了無恩情。其婦遂與迦葉結誓我與君等。各處異房要不相觸。爾時夫婦各處一房。其父伺迦葉出時。密遣人壞去一房。唯令與婦共同一室。雖共同室而復異床。其父尋復遣人持一床去。於是夫婦雖共同床。其婦更與夫誓。我若眠時君當經行。君眠時我當經行。時其婦臥一臂垂地。有大毒蛇欲來嚙之。迦葉見已有慈愍心。持衣裹手舉著床上。尋時驚覺便大瞋怒語迦葉言。我先有要如何相犯。迦葉報言。汝臂落地毒蛇欲嚙。是故相救非故觸也。毒蛇故在邊住。指而示之其婦乃悟。於是夫婦自相與議。我等何不出家修道。時夫婦二人遂辭父母。俱共出家山澤行道。時有婆羅門將五百弟子亦住此山。見迦葉夫婦便生毀謗言。出家之法宜各貞潔。何有夫婦共相隨理。於時迦葉便捨其婦。以五百兩金貿緻衲衣別處一林。其婦即依止婆羅門求為弟子。婆羅門五百弟子。見此女人形色端正日日行婬。此女人不得自在。遂不能堪。便告其師。師便為之戒約弟子。令節其所欲。迦葉後值佛出世。聞法受化即得羅漢。聞其本妻在梵志邊。便將來詣佛。佛為說法得羅漢。頭髮自落法服在身。成比丘尼。遊行教化。正值波斯匿王大會。諸比丘尼便得入王宮裏。教化諸夫人皆令持一日齋。王暮還宮命諸夫人。皆云持齋無肯來者。王便大瞋怒語使人言。誰教諸夫人齋。使人答言。某甲比丘尼。王便呼來令九十日。代諸夫人受婬欲。此皆是昔之因緣誓願所追還也。故使雖得羅漢不能相免』
又如耶舍長者子。中夜見眾婇女皆如死狀。捨直十萬兩金寶屐。於水岸邊直渡趣佛。如是等諸貴人國王厭捨五欲者無數。何況菩薩聞說佛道種種功德因緣。而不即時發心深入。如後薩陀波崙品中。長者女聞讚歎佛功德。即時捨家詣曇無竭所 又、耶舎長者子が、昼夜に衆婇女の皆死の如き状(さま)を見て、直(あたい)十万両金の宝屣を水岸の辺に捨て、直ちに渡りて、仏に趣けるが如し。是れ等の如き諸の貴人、国王の五欲を厭うて捨つる者は無数なり。何に況んや菩薩は仏道の種種の功徳の因縁たるを説くを聞いて、即時に心発して深入せざるをや。後の薩陀波崙品中の長者女の仏の功徳を讃歎するを聞いて、即時に家を捨て、曇無竭の所に詣(いた)れるが如し。
又、
『耶舎長者の子』が、
『中夜に!』、
『衆の婇女が、皆死んだような状である!』のを、
『見て!』、
『直が十万両金の宝屣を水岸の辺に捨て!』、
『直ちに、渡って!』、
『仏に、趣いたようなものであり!』、
是れ等のような、
『諸の貴人、国王でありながら!』、
『五欲を厭うて、捨てた!』者は、
『無数である!』。
況して、
『菩薩』は、
『仏道という!』、
『種種の功徳の因縁が説かれる!』のを、
『聞いているのであるから!』、
『即時に!』、
『心を発して!』、
『深く入らないことがあろうか?』。
『後の薩陀波崙品』中の、
『長者女など!』は、
『仏の功徳が讃歎される!』のを、
『聞いただけで!』、
『即時に!』、
『家を捨てて!』、
『曇無竭の所に詣ったのである!』。
  耶舎(やしゃ):梵名yaza、又yazoda、巴梨名yasa、又耶奢、耶輸、夜輸、夜耶、虵虵、耶輸陀、耶輸伽、耶修陀に作り、名聞、名誉、名称、善称、宝称、或いは明、又は上傘と訳す。中印度婆羅痆斯国大富長者善覚(梵名俱梨迦、又は阿具利)の子なり。一に毘舎種の出とす。顔貌端正、聡明利根にして、幼より父母に愛念せられ、春夏冬の三時に殿舎を換え、五欲の楽を受けしが、年二十四に至り、一夜妓女等の睡眠狼藉を見て厭離の心を生じ、琉璃屣を著けて尸佉城門を出で、婆羅河に到りて宝屣を脱し、鹿野苑に入る。時に仏成道して苑中に在り、既に法輪を転じて五比丘を度し給いしを以って、師亦た乃ち仏に見え、妙法を聞きて法眼浄を得、善来得の法によりて五比丘に次いで具足戒を受け、其の父母及び故二(即ち婦)も亦た三宝に帰して仏門に入る。是れ優婆塞、優婆夷の初なり。又師の同友無垢(梵名毘摩羅vimala)、善臂(梵名修婆睺subaahu)、満願(梵名富蘭那迦puurNaka)、伽梵婆提gavaaMpatiの四人も倶に仏所に詣り、相次いで出家受具せり。其の後の事蹟詳ならざるも、常に僧伽の長老として尊敬せられしが如く、「中阿含巻8侍者経」には、師を称して尊者耶舎行籌長老となし、且つ仏は師を慰藉して、汝既に老体にして転た衰蔽す、応に瞻視者を須うべしと語られたることを記せり。又「中本起経巻上」、「仏本行集経巻34至36」、「出曜経巻29」、「四分律巻32」、「有部毘奈耶破僧事巻36」、「同薬事巻16、17」、「毘尼母経巻1」、「翻梵語巻2」、「玄応音義巻25」等に出づ。<(望)
  宝屣(ほうし):宝石で飾ったはきもの。
  曇無竭菩薩(どんむかつぼさつ):曇無竭dharmoodgataは梵名、法涌、法盛、法上、法尚、法来、或いは出法と訳す。揵陀越城に住して般若を宣説せし菩薩の名。「道行般若経巻9薩陀波倫品」、及び「同巻10曇無竭菩薩品」に依るに、此の菩薩は揵陀越gandhavati(衆香)城に住し、諸菩薩中の最高尊にして、六百八十万の天人采女と娯楽し、又他の諸菩薩の恭敬を受け、常に高座に昇りて般若波羅蜜を宣説す。時に揵陀羅耶仏国に薩陀波倫sadaaprarudita菩薩あり、魔所楽国の長者女及び五百の伎人婇女と共に来到し、般若の法を求む。仍りて此の菩薩は為に空本無及び六万の三昧門等を説き、竟りて種種の三昧に入りて動揺せざること七歳、後更に薩陀波倫菩薩の為に般若波羅蜜所入の処、仏身並びに仏の音声等を説き、諸菩薩及び女人等に皆各法益を得しめたることを記せり。此の中、揵陀越とは北印度健馱邏gandhaara国を指せるものなるが如く、随って此の菩薩は同地方に実在し、般若経の弘布に努めたる人なるを推定し得べし。其の名称に関し、「大智度論巻97」に、「鬱伽陀(udgata)は秦に盛と言い、達磨(dharma)は秦に法と言う。此の菩薩は衆香城の中に在りて衆生の為に意に随って法を説き、衆生をして広く善根を種えしむ。故に法盛と号す」と云えり。後世此の菩薩は薩陀波倫菩薩と共に釈迦如来又は般若菩薩の脇侍として、般若十六善神図に図画せられ、又「笠置寺縁起」には同寺大般若経厨子扉に、玄奘等と倶に彩画せられしことを記せり。又「放光般若経巻20」、「大品般若経巻27」、「大明度経巻6」、「小品般若経巻10」、「仏母出生三法蔵般若波羅蜜多経巻23至25」、「大般若経巻398至400」、「六度集経巻7」、「経律異相巻8」、「大品経義疏巻10」、「玄応音義巻3」等に出づ。<(望)
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻27』:『爾時婆羅門。語薩陀波崙菩薩言。善男子。我不須人。我今欲祀天。當須人心人血人髓。汝能賣與我不。爾時薩陀波崙菩薩作是念。我得大利得第一利。我今便為具足般若波羅蜜方便力。得是買心髓血者。是時心大歡喜悅樂無憂。以柔和心語婆羅門言。汝所須者我盡與汝。婆羅門言。善男子。汝須何價。答言。隨汝意與我。即時薩陀波崙。右手執利刀刺左臂出血。割右髀肉復欲破骨出髓。時有一長者女。在閣上遙見薩陀波崙菩薩自割身體不惜壽命。作是念。是善男子。以何因緣故困苦其身。我當往問。長者女即下閣。到薩陀波崙所問言。善男子。何因緣困苦其身。用是心血髓作何等。薩陀波崙答言。賣與婆羅門。為般若波羅蜜故供養曇無竭菩薩。長者女言。善男子。作是賣身欲自出心髓血。欲供養曇無竭菩薩得何等功德利。薩陀波崙答言。善女人。是人善學般若波羅蜜及方便力。是人當為我說菩薩所應作菩薩所行道。我學是法學是道。得阿耨多羅三藐三菩提時。為眾生作依止。當得金色身三十二相八十隨形好丈光無量明。大慈大悲大喜大捨四無所畏。佛十力四無礙智十八不共法六神通。不可思議清淨戒禪定智慧。得阿耨多羅三藐三菩提。於諸法中得無礙一切智見。以無上法寶分布與一切眾生。如是等諸功德利我當從彼得之。是時長者女。聞是上妙佛法。大歡喜心驚毛豎。語薩陀波崙菩薩言。善男子。甚希有。汝所說者微妙難值。為是一一功德法故。應捨如恒河沙等身。何以故。汝所說者甚大微妙。汝善男子。汝今所須盡當相與。金銀真珠琉璃頗梨琥珀珊瑚等諸珍寶物。及華香瓔珞塗香燒香幡蓋衣服伎樂等物供養之具。供養般若波羅蜜及曇無竭菩薩。汝善男子。莫自困苦其身。我亦欲往曇無竭菩薩所。共汝殖諸善根。為得如是微妙法如汝所說故。』
復次信等五根成就純熟。故能得是深心。譬如小兒。眼等五情根未成就故。不別五塵不識好醜。信等五根未成就亦復如是。不識善惡不知縛解。愛樂五欲沒於邪見。信等五根成就者。乃能識別善惡。十善道聲聞法猶尚愛樂。況無上道而不深念。初發無上道心。已於世間最上。何況成就。 復た次ぎに、信等の五根成就し、純熟するが故に能く是の深心を得。譬えば小児は眼等の五情根の未だ成就せざるが故に五塵を別けず、好醜を識らざるが如く、信等の五根未だ成就せざれば、亦復た是の如く善悪を識らず、縛解を知らず、五欲を愛楽して邪見に没するなり。信等の五根成就すれば、乃ち能く善悪を識別して、十善道、声聞法すら猶尚お愛楽す。況んや無上道を深く念ぜざるをや。初めて無上道の心を発し已れば、世間に於いて最上なり、何に況んや成就するをや。
復た次ぎに、
『信等の五根が成就し、純熟する!』が故に、
是の、
『深心』を、
『得ることができるのである!』。
譬えば、
『小児』は、
『眼等の五情根が未だ成就していない!』が故に、
『五塵を分別せず!』、
『好醜を認識しないように!』、
『信等の五根が、未だ成就していない!』のも、
是のように、
『善悪を識らず!』、
『縛解を知らず!』、
『五欲を愛楽して!』、
『邪見』に、
『没するのである!』が、
『信等の五根が成就すれば!』、
乃ち( then )、
『善悪を識別することができ!』、
『十善道や、声聞法すら!』、
『猶尚お、愛楽することになり!』、
況して、
『無上道』を、
『深く念じないはずがない!』。
『初めて、無上道の心を発したばかりでも!』、
『世間に於いて!』は、
『最上』の、
『人である!』。
況して、
『無上道を成就すれば!』、
『言うまでもない!』。
  純熟淳熟(じゅんじゅく)、純淑(じゅんしゅく):梵語 paripakva, paripaaka の訳、完全に熟した( fully ripened )の義、完成した/成就した( being accomplished )の意。
復次菩薩始得般若波羅蜜氣味故。能生深心。如人閉在幽闇微隙見光。心則踊躍作是念言眾人。獨得見如是光明。欣悅愛樂即生深心。念是光明方便求出。菩薩亦如是。宿業因緣故。閉在十二入無明黑闇獄中。所有知見皆是虛妄。聞般若波羅蜜。少得氣味深念薩婆若我當云何於此六情獄得出。如諸佛聖人。 復た次ぎに、菩薩は般若波羅蜜の気味を得始むるが故に、能く深心を生ずるなり。人の幽闇に閉在するに、微かな隙(すきま)に光を見れば、心則ち踊躍して、是の念を作して、『衆人の、独り是の如き光明を見るを得』と言いて、欣悦、愛楽して即ち深心を生じ、是の光明を念じて、方便もて出づるを求むるが如し。菩薩も亦た是の如く、宿業の因縁の故に十二入の無明の黒闇の獄中に閉在するに、有らゆる知見は、皆虚妄なるに、般若波羅蜜を聞いて、少しく気味を得れば、深く薩婆若を念ずらく、『我れは当に云何が此の六情の獄を出づるを得べき』、と。 諸の仏、聖人の如し。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
『般若波羅蜜の気味を得始める!』が故に、
『深心』を、
『生じることができる!』。
譬えば、
『人が、幽闇に閉在して!』、
『微細の隙より、光を見る!』と、
『心が踊躍して!』、
『衆人中に独りだけが、是のような光明を見ることができた!』と、
『念じて言いながら!』、
『欣悦して、愛楽して!』、
『深心』を、
『生じ!』、
是の、
『光明を念じながら!』、
『方便して、出ることを求めるようなものである!』。
『菩薩』も、
是のように、
『宿業の因縁』の故に、
『十二入という!』、
『無明黒闇の獄』中に、
『閉在し!』、
『有らゆる知見が、皆虚妄である!』中に、
『般若波羅蜜を聞いて!』、
『少しばかり!』、
『気味を得ることができ!』、
『深く、薩婆若を念じながら!』、
『わたしは、何のようにして此の六情の獄中より出ればよいのか?』と、
『言う!』ので、
譬えば、
『諸の仏や、聖人のように!』、
『深心を生じるのである!』。
  閉在(へいざい):とざされてあり。とじこめられる。幽閉される。
  幽闇(ゆうあん):うすぐらいこと。うすぐらい処。
  微隙(みきゃく):わずかなすきま。
  踊躍(ゆやく):おどりあがる。
  欣悦(ごんえつ):よろこぶ。
  (どく):あに。豈。なお。猶。さだめて。定。
復次發阿耨多羅三藐三菩提心。隨願所行。以是故生深心。 復た次ぎに、阿耨多羅三藐三菩提の心を発すは、隨願の所行なれば、是を以っての故に深心を生ず。
復た次ぎに、
『阿耨多羅三藐三菩提の心を発す!』のは、
『願に随う!』、
『所行であり!』、
是の故に、
『深心』を、
『生じるのである!』。
深心者一切諸法中愛無如愛薩婆若。一切眾生中愛無如愛佛。又深入悲心利益眾生。如是等名深心相。初地菩薩應常行是心。 深心とは、一切の諸法中の愛に、薩婆若を愛するが如き無く、一切の衆生中の愛には仏を愛するが如き無し。又深く悲心に入りて、衆生を利益すれば、是れ等の如きを深心の相と名づけ、初地の菩薩は、応に是の心を常行すべし。
『深心』とは、
『一切の諸法』中の、
『愛』は、
『薩婆若を愛する!』に、
『及ばず!』、
『一切の衆生』中の、
『愛』は、
『仏を愛する!』に、
『及ばないからである!』。
又、
『深く、悲心に入って!』、
『衆生を利益する!』ので、
是れ等を、
『深心の相』と、
『称し!』、
『初地の菩薩』は、
是の、
『心』を、
『常行しなければならない!』。
  常行(じょうぎょう):梵語 vihaarin の訳、娯楽の散歩( wandering about for pleasure )の義、~をして楽しむ( enjoying one's self with, delighting in )の意。
於一切眾生等心者。菩薩得是深心已。等心於一切眾生。眾生常情愛其所親惡其所憎。菩薩得深心故。怨親平等視之無二。此中佛自說。等心者四無量心。是 一切の衆生に於ける等心とは、菩薩は、是の深心を得已れば、一切の衆生に於いて等心なり。衆生の常の情は、其の親しむ所を愛して、其の憎む所を悪む。菩薩は深心を得るが故に、怨親平等にして、之を視ること無二なり。此の中に仏は自ら説きたまわく、『等心とは、四無量心是れなり』、と。
『一切の衆生に等心である!』とは、――
『菩薩』は、
是の、
『深心を得れば!』、
『一切の衆生に於いて!』、
『等心だからである!』。
『衆生の常情』は、
其の、
『親しむ!』所を、
『愛して!』、
其の、
『憎む!』所を、
『悪むのである!』が、
『菩薩は、深心を得た!』が故に、
『怨、親が平等であり!』、
『怨、親を視ても!』、
『二心が無い!』ので、
此の中に、
『仏』は、自らこう説かれたのである、――
『等心』とは、
『四無量心である!』、と。
  常情(じょうじょう):心の傾向( the incclination of mind )。
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻6』:『云何菩薩於一切眾生中等心。佛言。若菩薩摩訶薩應薩婆若心生四無量心。所謂慈悲喜捨。是名於一切眾生中等心。』
菩薩見眾生受樂。則生慈喜心作是願。我當令一切眾生皆得佛樂。若見眾生受苦。則生悲心愍之作是願。我當拔一切眾生苦。若見不苦不樂眾生。則生捨心作是願。我當令眾生捨愛憎心。四無量心餘義如先說。 菩薩は衆生の楽を受くるを見て、則ち慈、喜心を生じ、是の願を作さく、『我れは当に一切の衆生をして、皆仏の楽を得しむべし』、と。若し衆生の苦を受くるを見れば、則ち悲心を生じて、之を愍れみ、是の願を作さく、『我れは当に一切の衆生の苦を抜くべし』、と。若し不苦不楽の衆生を見れば、則ち捨心を生じて、是の願を作さく、『我れは当に衆生をして、愛、憎の心を捨てしむべし』、と。四無量心の餘の義は、先に説けるが如し。
『菩薩』は、
『衆生』が、
『楽を受けるのを見れば!』、
『慈、喜心を生じて!』、
『わたしは一切の衆生に、皆仏楽を得させねばならない!』と、
『願い!』、
『苦を受けるのを見れば!』、
『悲心を生じて、衆生を愍れみ!』、
『わたしは一切の衆生の苦を抜かねばならない!』と、
『願い!』、
『不苦不楽の衆生を見れば!』、
『捨心を生じて!』、
『わたしは衆生に愛、憎の心を捨てさせねばならない!』と、
『願うのである!』。
『四無量心』の、
『餘の義』は、
『先に説いた通りである!』。
捨心者捨有二種。一者捨財行施。二者捨結得道。此以除慳為捨。與第二捨結作因緣。至七地中乃能捨結。 捨心とは、捨には二種有り、一には財を捨てて施を行じ、二には結を捨てて道を得るなり。此の慳を除くを以って捨と為し、第二の結を捨つる与(た)めの因縁と作し、七地中に至りて、乃ち能く結を捨つ。
『捨心』とは、
『捨には、二種有り!』、
一には、
『財を捨てて、施を行じる!』、
『捨であり!』、
二には、
『結を捨てて、道を得る!』、
『捨である!』。
此の、
『慳を除く為めの捨』は、
『第二の結を捨てる為め!』の
『因縁と作りながら!』、
『七地中に至って!』、
乃ち、
『結』を、
『捨てることができる!』。
問曰。捨相有種種。內外輕重財施法施世間出世間等。佛何以故。但說無分別憶想出世間施。 問うて曰く、捨相には種種の内外、軽重、財施、法施、世間、出世間等有り。仏は何を以っての故にか、但だ分別憶想無き、出世間の施を説きたまえる。
問い、
『捨の相』には、
『種種の内外、軽重、財施法施、世間出世間等』が、
『有る!』が、
『仏』は、
何故、
『但だ、分別憶想の無い出世間の施のみ!』を、
『説かれたのですか?』。
答曰布施雖有種種相。但說大者不取相。 答えて曰く、布施には、種種の相有りと雖も、但だ大を説きたまえるは、相を取りたまわざればなり。
答え、
『布施には、種種の相が有る!』が、
『但だ、大のみを説かれた!』のは、
『相』を、
『取られなかったからである!』。
復次佛於一切法不著。亦以此教菩薩布施。令如佛法不著。此中應廣說無分別布施。餘布施相處處已種種說。近善知識義如先說。 復た次ぎに、仏は一切法に於いて著したまわず。亦た此に菩薩に布施を教うるを以って、仏法の如きにも著せざらしむ。此の中には応に分別無き布施を広説すべく、餘の布施の相は処処に已に種種に説きたまえり。善知識に近づく義は、先に説けるが如し。
復た次ぎに、
『仏』は、
『一切の法に著されず!』、
此の中にも、
『菩薩に布施を教えて!』、
『仏法にも!』、
『著させなかったのであり!』、
此の中には、
『分別の無い!』、
『布施』を、
『広説されたのである!』が、
『餘の布施の相』は、
『処処に!』、
『已に種種に説かれたからである!』。
『善知識に近づく!』、
『義』は、
『先に説いた通りである!』。
求法者法有三種。一者諸法中無上。所謂涅槃。二者得涅槃方便八聖道。三者一切善語實語。助八聖道者。所謂八萬四千法眾十二部經四藏。所謂阿含阿毘曇毘尼雜藏摩訶般若波羅蜜等。諸摩訶衍經皆名為法。此中求法者。書寫誦讀正憶念。如是等治眾生心病故。集諸法藥不惜身命。 法を求むとは、法に三種有り、一には諸法中の無上、謂わゆる涅槃なり。二には涅槃を得る方便の八聖道なり。三には一切の善語、実語にして八聖道を助くる者、謂わゆる八万四千の法衆、十二部経、四蔵、謂わゆる阿含、阿毘曇、毘尼の雑蔵と般若波羅蜜等の諸の摩訶衍経にして、皆名づけて法と為し、此の中に法を求むる者は書写、誦読して正しく憶念す。是れ等の如きは、衆生の心の病を治するが故に諸法の薬を集めて身命を惜まざるなり。
『法を求める!』とは、――
『法には、三種有り!』、
一には、
『諸法中の無上であり!』、
『謂わゆる涅槃である!』。
二には、
『涅槃を得る方便であり!』、
『謂わゆる八聖道である』。
三には、
『八聖道を助ける一切の善語、実語であり!』、
『謂わゆる八万四千の法衆、十二部経、四蔵である!』。
『四蔵』とは、――
謂わゆる、
『阿含、阿毘曇、毘尼を雑えた蔵と!』、
『般若波羅蜜等の諸の摩訶衍経であり!』、
皆、
『法と称して!』、
此の中に、
『法を求める!』者が、
『書写、誦読して正しく憶念するのである!』が、
是れ等は、
『衆生の心の病を治す!』が故に、
『諸法の薬を集めて!』、
『身命を惜まないのである!』。
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻6』:『云何菩薩求法。佛言。菩薩應薩婆若心求法。不墮聲聞辟支佛地。是名求法。』
如釋迦文佛本為菩薩時。名曰樂法。時世無佛不聞善語。四方求法精勤不懈。了不能得。 釈迦文仏の如きは本、菩薩為りし時、名づけて楽法と曰う。時の世に仏無ければ善語を聞かず、四方に法を求め精勤して懈らざるも、了(つい)に得る能わず。
例えば、
『釈迦文仏など!』は、
『本、菩薩であった!』時、
『楽法と呼ばれていた!』。
『時の世』には、
『仏が無く!』、
『善語を聞かなかった!』ので、
『四方に法を求めて!』、
『精勤し、懈らなかった!』が、
『了に、得ることができなかった!』。
  参考:『大智度論巻16』:『復次如愛法梵志。十二歲遍閻浮提。求知聖法而不能得。時世無佛佛法亦盡。有一婆羅門言。我有聖法一偈若實愛法當以與汝。答言。實愛法。婆羅門言。若實愛法當以汝皮為紙以身骨為筆以血書之。當以與汝。即如其言破骨剝皮以血寫偈 如法應修行  非法不應受  今世亦後世  行法者安隱』
  参考:『菩薩本行経巻3』:『梵天王時。為一偈故自剝身皮而用寫經。毘楞竭梨王時。為一偈故於其身上而啄千釘。優多梨仙人時。為一偈故剝身皮為紙折骨為筆血用和墨。』
爾時魔變作婆羅門而語之言。我有佛所說一偈。汝能以皮為紙以骨為筆以血為墨書寫此偈。當以與汝。樂法即時自念。我世世喪身無數不得是利。即自剝皮曝之令乾欲書其偈。魔便滅身。是時佛知其至心。即從下方踊出為說深法。即得無生法忍。 爾の時、魔変じて婆羅門と作り、之に語りて言わく、『我れに仏の所説の一偈有り。汝、能く皮を以って紙と為し、骨を以って筆と為し、血を以って墨と為して、此の偈を書写すれば、当に以って汝に与うべし』、と。楽法は即時に自ら念ずらく、『我れは世世に身を喪うこと無数なるも、是の利を得ず』、と。即ち自ら皮を剥ぎ、之を曝して乾かしめ、其の偈を書かんと欲するに、魔は便ち身を滅せり。是の時、仏は其の至心を知りて、即ち下方より踊出で為めに深法を説きたまえば、即ち無生法忍を得たり。
爾の時、
『魔は変じて、婆羅門と作り!』、
『楽法に語って!』、こう言った、――
わたしには、
『仏の説かれた! 」、
『一偈』が、
『有る!』。
お前が、
『皮を紙と為し、骨を筆と為し、血を墨と為して!』、
此の、
『偈』を、
『書写することができれば!』、
お前に、
『此の偈』を、
『与えよう!』、と。
『楽法』は、
即時に、自らこう念じた、――
わたしが、
世世に、
『身を喪うこと!』は、
『無数である!』が、
是のような、
『利』を、
『得たことはない!』、と。
即ち、
自ら、
『皮を剥いで日に曝し、乾かす!』と、
其の、
『偈』を、
『書こうとした!』が、
『魔』は、
便ち( promptly )、
『身』を、
『滅した!』。
是の時、
『仏』は、
『楽法の至心を知り!』、
『即ち、下方より踊出て!』、
『楽法の為め!』に、
『深法を説かる!』と、
『楽法』は、
即ち、
『無生法忍』を、
『得たのである!』。
  至心(ししん):梵語 adhyaazaya, avahita の訳、 傾向/~に落ち着いた( inclination, placed into )の義、真実の心( the sincere mind )の意。
又如薩陀波崙苦行求法。如釋迦文菩薩五百釘釘身。為求法故。又如金堅王。割身五百處。為燈炷投巖入火。如是等種種苦行難行為眾生求法。 又薩陀波崙の如きは苦行して法を求め、釈迦文菩薩の如きは五百の釘を身に釘うてるは、法を求めんが為めの故なり。又金堅王の如きは、身を五百処に割きて、灯炷と為し、巌より投じて火に入れり。是れ等の如く種種に苦行、難行して衆生の為めに法を求む。
又、
『薩陀波崙など!』も、
『苦行して!』、
『法』を、
『求めており!』、
『釈迦文菩薩など!』が、
『五百の釘を身に釘うった!』のは、
『法』を、
『求めた為めであり!』、
又、
『金堅王など!』が、
『身を五百処に割いて( dividing his body into 500 parts )!』、
『灯炷と為し!』、
『巌より投じて、火に入ったのである!』。
是れ等のように、
『種種の苦行、難行して!』、
『衆生の為め!』に、
『法』を、
『求めるのである!』。
  金堅王(こんけんおう):不明。
  灯炷(とうちゅ):とうしん。灯心。灯油にひたしてあかりをつけるもの。
  投巌(とうがん):崖より身を投ずる。『善見律毘婆沙巻11』に、「或いは教えて投巌せしむ。巌とは、山破れて二段と為る深谷中なり」と云える是れなり。
復次佛自說求法相。為薩婆若。不墮聲聞辟支佛地。 復た次ぎに、仏は自ら求法の相を説きたまわく、『薩婆若の為めなれば、声聞、辟支仏の地に堕ちず』、と。
復た次ぎに、
『仏』は、
自ら、
『求法の相』を、こう説かれた、――
『薩婆若の為めに法を求めるのであれば!』、
『声聞、辟支仏の地』に、
『堕ちることはない!』、と。
常出家者。菩薩知在家有種種罪因緣。我若在家自不能得行清淨行。何能令人得諸淨行。若隨在家法。則有鞭杖等苦惱眾生。若隨善法行。則破居家法。籌量二事。我今不出家者。死時俱亦當捨。今自遠離福德為大。 常に出家すとは、菩薩の知るらく、『、在家には種種の罪の因縁有り。我れもし在家なれば、自ら清浄の行を行ずるを得ること能わず。何ぞ能く、人をして諸の浄行を得しめんや。若し在家の法に随わば、則ち鞭杖等もて、衆生を苦悩すること有らん。若し善法に随いて行ぜば、則ち居家の法を破らん。二事を籌量するに、我れ今出家せざれば、死する時倶に亦た当に捨すべし。今自ら遠離せば、福徳は大為らん』、と。
『常に出家する!』とは、――
『菩薩』は、こう知るからである、――
『在家には、種種の罪の因縁が有る!』。
わたしが、
若し、
『在家ならば!』、
自ら、
『清浄の行』を、
『行じることすらできないだろう!』。
何うして、
『人』に、
『諸の浄行を得させられるのか?』。
若し、
『在家の法に随えば!』、
『鞭杖等で、衆生を苦悩させること!』も、
『有るはずだ!』。
若し、
『善法に随って、行じれば!』、
『居家の法』を、
『破ることになる!』。
『二事を籌量する!』に、
『今出家しなければ、死時には!』、
『善法も、在家の法も!』、
『倶に、捨てなくてはならない!』。
『今、自ら家を遠離すれば!』、
『福徳』は、
『大きいことだろう!』、と。
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻6』:『云何菩薩常出家治地業。佛言。菩薩世世不雜心出家。佛法中出家無能障閡者是名常出家治地業。』
復次菩薩作是念。一切國王及諸貴人力勢如天。求樂未已死強奪之。我今為眾生故。捨家持清淨戒。求佛道具足尸羅波羅蜜因緣。 復た次ぎに、菩薩の是の念を作さく、『一切の国王、及び諸の貴人は力勢天の如く楽を求むるも、未だ已らざるに死は強いて之を奪う。我れ今衆生の為めの故に、家を捨てて清浄戒を持し、仏道を求むるは、尸羅波羅蜜を具足する因縁なればなり』、と。
復た次ぎに、
『菩薩』は、こう念じる、――
『一切の国王も、諸の貴人』も、
『天のような力勢で!』、
『楽』を、
『求めている!』が、
『未だ、楽を求め已らない!』時、
『死』が、
是の、
『楽』を、
『強奪するのである!』。
わたしは、
『今、衆生の為めの故に家を捨てて!』、
『清浄戒を持し!』、
『仏道を求める!』のは、
是れが、
『尸羅波羅蜜を具足する!』、
『因縁だからである!』、と。
此中佛自說。菩薩世世不雜心。出家不雜心者。不於九十六種道中出家。但於佛道中出家。所以者何。佛道中有二種。正見世間正見出世間。正見故 此の中に仏は自ら説きたまわく、『菩薩は世世に心を雑えず』、と。出家して心を雑えずとは、九十六種の道中に於いて出家せずして、但だ仏道中に出家するなり。所以は何んとなれば、仏道中には二種の正見の世間の正見と出世間の正見有るが故なり。
此の中に、
『仏』は、自らこう説かれた、――
『菩薩』は、
『世世に心を雑えない!』、と。
『出家して、心を雑えない!』とは、
『九十六種』の、
『外道』中に、
『出家せず!』、
但だ、
『仏道』中に、
『出家するからである!』。
何故ならば、
『仏道』中には、
『世間の正見、出世間という二種の正見』が、
『有るからである!』。
愛樂佛身者。聞種種讚佛功德十力四無所畏大慈大悲一切智慧。又見佛身三十二相八十種隨形好。放大光明。天人供養無有厭足。自知我當來世亦當如是。假令無得佛因緣猶尚愛樂。何況當得而不愛樂。得是深心愛樂佛故。世世常得值佛。 仏身を愛楽するとは、種種に仏の功徳の十力、四無所畏、大慈大悲、一切の智慧を讃ずるを聞き、又仏身の三十二相、八十随形好、大光明を放ちて、天人の供養を見て厭足有ること無く、自ら我が当来の世も、亦た当に是の如からんと知れば、仮令(たと)い仏を得る因縁が無くとも猶尚お愛楽すべし。何に況んや当に得て、愛楽せざらんをや。是の深心を得て、仏を愛楽するが故に世世に常に仏に値うを得るなり。
『仏身を愛楽する!』とは、――
種種に、
『仏の功徳である!』、
『十力、四無所畏、大慈大悲、一切の智慧が讃じられる!』のを、
『聞き!』、
又、
『仏身』の、
『三十二相や、八十随形好や、大光明を放つことや、天人が供養する!』のを、
『見て!』、
『厭足することなく!』、
『わたしの当来の世も、亦た是の通りであるはずだ!』と、
『自ら知る!』ので、
仮令い、
『仏を得るような!』、
『因縁』が、
『無くても!』、
猶尚お、
『仏身』を、
『愛楽するのである!』。
況して、
『仏を得られるのである!』から、
『愛楽しないはずがない!』。
是のような、
『深心を得て、仏を愛楽する!』が故に、
『世世に常に!』、
『仏に値うことができるのである!』。
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻6』:『云何菩薩愛樂佛身治地業。佛言。若菩薩見佛身相。乃至阿耨多羅三藐三菩提終不離念佛。是名愛樂佛身治地業。』
演出法教者。菩薩如上求法已為眾生演說。菩薩在家者多以財施。出家者愛佛情重常以法施。若佛在世若不在世。善住持戒不求名利。等心一切眾生而為說法。讚歎檀義故。名為初善。分別讚歎持戒。名為中善。是二法果報。若生諸佛國若作大天。名為後善。 法教を演出すとは、菩薩は上の如く法を求め已りて、衆生の為めに演説するなり。菩薩は在家なれば、多く財を持って施し、出家なれば愛仏の情重くして、常に法を以って施す。若し仏世に在り、若しは世に在らずとも、能く持戒に住して、名利を求めず、等心もて一切の衆生の為めに説法し、檀の義を讃歎するが故に名づけて初の善と為し、持戒を分別して讃歎するを名づけて中の善と為し、是の二法の果報もて若しは諸仏の国に生じ、若しは大天と作るを名づけて後の善と為す。
『法教を演出する!』とは、――
『菩薩』は、
上のように、
『法を求めたならば!』、
『衆生の為め!』に、
『演説するのである!』が、
『菩薩』が、
若し、
『在家ならば!』、
『多く!』は、
『財を施し!』、
『出家ならば、仏を愛する情が重い!』ので、
『常に!』、
『法を施すことになる!』。
『菩薩』は、
『仏が世に在ろうと、世に在らざると!』、
『善く持戒に住して!』、
『名利を求めることなく!』、
『等心に!』、
『一切の衆生の為め!』に、
『説法する!』が、
『檀の義を讃歎する!』が故に、
『初の善』と、
『呼ばれ!』、
『持戒を分別して讃歎する!』が故に、
『中の善』と、
『称し!』、
是の、
『檀、持戒の二法の果報』の故に、
『諸仏の国に生じるか、大天と作る!』と、
『讃歎すれば!』、
是れを、
『後の善』と、
『称するのである!』。
  初善(しょぜん):説法の初めに当りては、強く人心を引いて法に向わしむるに妙功あるを云う。
  中善(ちゅうぜん):説法の中頃に当りては、随意に人を憂喜せしめ、妙法に深入せしむるを云う。
  後善(ごぜん):説法を竟るに当りては印象深く、法旨をして善く清浄心中に定着せしむるを云う。
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻6』:『云何菩薩演出法教治地業。佛言。菩薩若佛現在若佛滅度後。為眾生說法初中後善。妙義好語淨潔純具。所謂修多羅乃至憂波提舍。是名演出法教治地業。』
復次見三界五受眾身多苦惱。則生厭離心名為初善。棄捨居家為身離故名為中善。為心離煩惱故名為後善。解說聲聞乘名為初善。說辟支佛乘名為中善。宣暢大乘名為後善。 復た次ぎに、三界の五受衆の身には苦悩多きを見て、則ち厭離の心を生ずれば、名づけて初の善と為し、居家を棄捨するは身の為めに離るる故に名づけて中の善と為し、心の為めに煩悩を離るるが故に名づけて後の善と為し、声聞乗を解説するを名づけて初の善と為し、辟支仏乗を説くを名づけて中の善と為し、大乗を宣暢するを名づけて後の善と為す。
復た次ぎに、
『三界の五受衆である!』、
『身には苦悩が多い、と見て!』、
『厭離心』を、
『生じれば!』、
是れを、
『初の善』と、
『称し!』、
『居家を棄捨する!』のは、
『身の為め!』に、
『居家』を、
『離れる!』ので、
是れを、
『中の善』と、
『称し!』、
『心の為め!』に、
『煩悩を離れる!』が故に、
是れを、
『後の善』と、
『称する!』。
又、
『声聞乗を解説する!』のを、
『初の善』と、
『称し!』、
『辟支仏乗を説く!』のを、
『中の善』と、
『称し!』、
『大乗を宣暢する!』のを、
『後の善』と、
『称する!』。
  宣暢(せんちょう):梵語 vyaakhyaana の訳、説明/解説/注釈( explaining, expounding commenting )の義。
妙義好語者。三種語雖復辭妙而義味淺薄。雖義理深妙而辭不具足。以是故說妙義好語。離三毒垢故。但說正法不雜非法。是名清淨。八聖道分六波羅蜜備故。名為具足。修多羅十二部經如先說。 妙義、好語とは、三種の語とは復た辞妙なりと雖も、義味浅く薄く、義理深妙なりと雖も、辞具足せず、是を以っての故に妙義、好語と説き、三毒の垢を離るるが故に但だ正法を説いて非法を雑えざれば、是れを清浄と名づけ、八聖道分と六波羅蜜と備うるが故に名づけて具足と為す。修多羅、十二部経は先に説けるが如し。
『妙義、好語』とは、
『語には、三種在り!』、
一には、
『辞は妙である( speaking in decolative words )!』が、
『義味』が、
『浅薄であり!』、
二には、
『義理は深妙である!』が、
『辞』が、
『具足しない!』ので、
是の故に、
三に、
『妙義、好語』と、
『説かれたのであり!』、
『三毒の垢を離れる!』が故に、
『但だ、正法を説いて!』、
『非法』を、
『雑えなければ!』、
是れを、
『清浄(浄潔)』と、
『称し!』、
『八聖道分、六波羅蜜を備える!』が故に、
是れを、
『具足(純具)』と、
『称し!』、
『修多羅、十二部経』は、
『先に!』、
『説いた通りである!』。
  (じ):梵語 vyaJjana の訳、比喩的表現( figurative expression )の義、修辞的演説( rhetorical speaking )の意。
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻6』:『云何菩薩演出法教治地業。佛言。菩薩若佛現在若佛滅度後。為眾生說法初中後善。妙義好語淨潔純具。所謂修多羅乃至憂波提舍。是名演出法教治地業。』
破憍慢者。是菩薩出家持戒說法能斷眾疑。或時自恃而生憍慢。是時應作是念。我剃頭著染衣持缽乞食。此是破憍慢法。我云何於中生憍慢。 憍慢を破るとは、是の菩薩は出家、持戒すれば説法して能く衆疑を断ずるも、或は時に自ら恃んで、憍慢を生ず。是の時応に是の念を作すべし、『我が頭を剃りて、染衣を著け、鉢を持して乞食するは此れは是れ憍慢を破る法なり。我れは云何が中に於いて憍慢を生ぜし』、と。
『憍慢を破る!』とは、
是の、
『菩薩が出家、持戒して説法し!』、
『衆生の疑』を、
『断じることができれば!』、
或は時に、
『自らの力を恃んで!』、
『憍慢を生じる!』ので、
是の時、こう念じねばならない、――
わたしが、
『頭を剃って、染衣を著け!』、
『鉢を持して、乞食する!』のは、
此れは、
『憍慢を破る!』、
『法である!』。
わたしは、何故、
『此の僧中に於いて!』、
『憍慢を生じるのか?』、と。
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻6』:『云何菩薩破於憍慢治地業。佛言。菩薩破是憍慢故終不生下賤家。是名破於憍慢治地業。』
又此憍慢在人心中。則覆沒功德。人所不愛惡聲流布。後身常生弊惡畜生中。若生人中卑鄙下賤。知是憍慢有如是無量過罪。破是憍慢。為求阿耨多羅三藐三菩提故。如人求財。猶尚謙遜下意。何況求無上道。以破憍慢故常生尊貴。終不在下賤家生。 又、此の憍慢は人心中に在れば則ち功徳を覆没すれば、人の愛せざる所にして、悪声流布し、後身は常に弊悪の畜生中に生じ、若し人中に生ずれば卑鄙の下賎なり。是の憍慢には是の如き無量の過罪有るを知りて、是の憍慢を破るは、阿耨多羅三藐三菩提を求めんが為めの故なり。人の財を求むるが如きすら猶尚お謙遜して意を下(ひく)くす。何に況んや無上道を求めんをや。憍慢を破るを以っての故に常に尊貴に生じて、終に下賎の家に在りて生ぜず。
又、
此の、
『憍慢が、人心中に在れば!』、
『功徳を覆没して!』、
『人に愛されずに!』、
『悪声が流布することになり!』、
常に( commonly )、
『後身』が、
『弊悪の畜生中に生じ!』、
若し、
『人中に生じたとしても!』、
『卑鄙の下賎である!』。
是の、
『憍慢』には、
是のような、
『無量の過罪が有る!』と、
『知り!』、
是の、
『憍慢を破る!』のは、
『阿耨多羅三藐三菩提を求める為めである!』。
譬えば、
『人が、財を求める!』時すら、
猶尚お、
『謙遜して!』、
『意を下くする!』のに、
況して、
『無上道を求めるのであれば!』、
『尚更なのであり!』、
『憍慢を破る!』が故に、
『常に、尊貴に生じて!』、
終に、
『下賎の家』に、
『生じることはないのである!』。
  覆没(ふくもつ):転覆と沈没。
  卑鄙(ひひ):卑賎と鄙俗。
  下賎(げせん):身分がいやしい。尊貴に対す。
  下意(げい):へりくだる。素志を曲げる。
  (ざい):あり。おいて。於。
實語者。是諸善之本生天因緣。人所信受。行是實語者。不假布施持戒學問。但修實語得無量福。實語者如說隨行。 実語とは、是れ諸善の本、天に生ずる因縁にして、人に信受せらる。是の実語を行ずれば、布施、持戒、学問を仮りずとも、但だ実語を修すれば、無量の福を得。実語とは説の如きに随いて行ず。
『実語』は、
『諸善の本であり!』、
『天に生じる因縁であり!』、
『人に信受される!』。
是の、
『実語を行じる!』者は、
『布施、持戒、学問を仮りなくても!』、
『但だ、実語を修めるだけで!』、
『無量の福を得ることになる!』。
『実語』とは、
『説に随って!』、
『行じることである!』。
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻6』:『云何菩薩實語治地業。佛言。菩薩如所說行。是名實語治地業。是為菩薩摩訶薩初住地中修行十事治地業。』
問曰。口業有四種。何以但說實語。 問い、口業には四種有るに、何を以ってか、但だ実語を説く。
問い、
『口業には、四種有る!』のに、
何故、
『但だ、実語だけ!』を、
『説かれたのですか?』。
答曰。佛法中貴實故說實。餘皆攝四諦。實故得涅槃。 答えて曰く、仏法中には実を貴ぶが故に実を説けば、餘を皆摂し、四諦は実なるが故に涅槃を得るなり。
答え、
『仏法』中には、
『実を貴ぶ!』が故に、
『実を説けば!』、
『餘を皆摂するからである!』。
譬えば、
『四諦は実である!』が故に、
『涅槃』を、
『得られるようなものである!』。
復次菩薩與眾生共事惡口綺語兩舌。或時有妄語罪重故。初地應捨。是菩薩行。初地未能具足。行此四業故但說實語。第二地中則能具足。 復た次ぎに、菩薩は衆生と事を共にすれば、悪口、綺語、両舌するも、或は時に妄語有れば罪重きが故に初地に応に捨つべし。是の菩薩は初地を行ずるに未だ具足する能わずして、此の四業を行ずるが故に、但だ実語を説き、第二地中には則ち能く具足す。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
『衆生と事を共にする!』が故に、
『悪口、綺語、両舌することになる!』が、
或は時に、
『妄語が有れば!』、
『罪』が、
『重い!』ので、
『初地に於いて!』、
『妄語を捨て!』、
『実語せねばならない!』。
是の、
『菩薩の行じる!』、
『初地は、未だ口業が具足しない!』が故に、
此の、
『四業』を、
『行じる!』ので、
但だ、
『実語だけ!』を、
『説かれたのであり!』、
『第二地』中には、
『四業』が、
『皆、具足するのである!』。
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻6』:『菩薩摩訶薩住二地中。常念八法。何等八。一者戒清淨。二者知恩報恩。三者住忍辱力。四者受歡喜。五者不捨一切眾生。六者入大悲心。七者信師恭敬諮受。八者勤求諸波羅蜜。須菩提。是名菩薩摩訶薩住二地中滿足八法。‥‥云何菩薩戒清淨。若菩薩摩訶薩不念聲聞辟支佛心。及諸破戒障佛道法。是名戒清淨。』
問曰。初地中何以但說十事。 問うて曰く、初地中には何を以ってか、但だ十事を説く。
問い、
『初地』中には、
何故、
『但だ、十事だけを説かれたのですか?』。
答曰。佛為法王諸法中得自在。知是十法能成初地。譬如良醫善知藥草種數。若五若十足能破病。是中不應難其多少(初地竟) 答えて曰く、仏は法王為りて、諸法中に自在を得たもうに、是の十法を知りて、能く初地を成じたまえばなり。譬えば良医は善く薬草を知りて、衆数の若しは五、若しは十に足れば、能く病を破るが如し。是の中に応に其の多少を難ずべからず。(初地竟る)
答え、
『仏』は、
『法王として!』、
『諸法』中に、
『自在を得ていられる!』が、
是の、
『十法を知って!』、
『初地を成じることができたからである!』。
譬えば、
『良医が、薬草を知って!』、
『五か、十種類に足れば!』、
『病を、破ることができるようなものである!』が、
是の中には、
『法の多少』を、
『難じるべきではない!』。


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