巻第四十八之下

 

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【經】

身念処、四正勤、四如意足

五根、五力、七覚分、八聖道分

三三昧、十一智、三根

三三昧、十念、四禅乃至九次第定

十力、四無所畏、四無礙智、十八不共法

四十二字入門

諸字門二十功徳

【論】

四十二字門

文字陀羅尼の二十功徳

 

 

 

 

 

身念処、四正勤、四如意分

【經】復次須菩提。菩薩摩訶薩見是棄死人骨在地歲久其色如鴿。腐朽爛壞與土共合。自念。我身如是法如是相未脫此法。如是須菩提。菩薩摩訶薩內身中循身觀。勤精進一心除世間貪憂。以不可得故。外身內外身亦如是。受念處心念處法念處亦應如是廣說須菩提。是名菩薩摩訶薩摩訶衍。

復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は、是の棄てられたる死人の骨の、地に在りて歳久しきを見るに、其の色は鴿の如く、腐朽し爛壊して、土と共に合すれば、自ら念ずらく、『我が身は、是の如き法、是の如き相なるも、未だ此の法を脱せず。』と。是の如く、須菩提、菩薩摩訶薩は、内身中に、身を循りて観、勤めて精進して、一心に世間の貪、憂を除く。得べからざるを以っての故なり。外身、内外身も亦た、是の如し。受念処、心念処、法念処も、亦た応に、是の如く広く説くべし。須菩提、是れを菩薩摩訶薩の摩訶衍と名づく。

 復た次ぎに、

   須菩提!

   『菩薩摩訶薩』は、

   是の、

     『棄てられた!』

     『死人』の、

       『骨』が、

       『地』に在って、

       久しく、

         『歳』が、

         『過ぎた!』のを見れば、――

       其の、

         『色』は、

           『鳩のよう!』であり、

         『腐朽、爛壊』して、

           『土』と、

           『合している!』ので、

   自ら、

     こう念じた!――

     わたしの、

       『身』も、

       是のような、

         『法』や、

         『相』なのに、

       未だ、

       此の、

         『法』を、

         『脱しない!』でいる、と。

   是のように、

   須菩提!

   『菩薩摩訶薩』は、

     『内身』中を、

     巡って、

       『身』を、

       『観察』し、

     勤めて、

     精進して、

       『一心』に、

       『世間』の、

         『貪、憂』を、

         『除く!』のは、

     是の、

       『内身』が、

       『得られない!』からである。

     『外身』や、

     『内外身』も、

     亦た、

       是のとおりであり、

     『受念処』、

     『心念処』、

     『法念処』も、

     亦た、

     是のように、

       『広く説く!』べきである。

   須菩提!

   是れが、

     『菩薩摩訶薩』の、

       『摩訶衍』である。

復次須菩提。菩薩摩訶薩摩訶衍。所謂四正勤。何等四。須菩提。菩薩摩訶薩未生諸惡不善法為不生故。欲生勤精進攝心行道。已生諸惡不善法為斷故。欲生勤精進攝心行道。未生諸善法為生故。欲生勤精進攝心行道。已生諸善法為住不失。修滿撩A故。欲生勤精進攝心行道。以不可得故。須菩提。是名菩薩摩訶薩摩訶衍。

復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩の摩訶衍とは、謂わゆる四正勤なり。何等か、四なる。須菩提、菩薩摩訶薩は、未だ生ぜざる諸の悪、不善法をして、生ぜざらしめんが為の故に、欲生じて、勤めて精進して、心を摂して、道を行ず。已に生ぜし諸の悪、不善法は、断ぜしめんが為の故に、欲生じて、勤めて精進して、心を摂して、道を行ず。未だ生ぜざる諸の善法は、生ぜしめんが為の故に、欲生じて、勤めて精進して、心を摂して、道を行ず。已に生ぜし諸の善法は、住して失せざらしめ、修満、増広せしめんが為の故に、欲生じて、勤めて精進して、心を摂して、道を行ず。得べからざるが故なり。須菩提、是れを菩薩摩訶薩の摩訶衍と名づく。

 復た次ぎに、

   須菩提!

   『菩薩摩訶薩』の、

     『摩訶衍』とは、

     謂わゆる、

       『四正勤』である。

     何のような、

       『四』か?

   須菩提!

   『菩薩摩訶薩』は、

   未だ、

     『生じない!』、

     諸の、

       『悪、不善』の、

         『法』を、

         『生じさせない!』為の故に、

     『欲』が生じて、

     勤めて、

       『精進』して、

       『心』を摂し、

         『道』を、

         『行う!』のであり、

   已に、

     『生じた!』、

     諸の、

       『悪、不善』の、

         『法』を、

         『断ずる!』為の故に、

     『欲』が生じて、

     勤めて、

       『精進』して、

       『心』を摂し、

         『道』を、

         『行う!』のであり、

   未だ、

     『生じない!』、

     諸の、

       『善』の、

         『法』を、

         『生じさせる!』為の故に、

     『欲』が生じて、

     勤めて、

       『精進』して、

       『心』を摂し、

         『道』を、

         『行う!』のであり、

   已に、

     『生じた!』、

     諸の、

       『善』の、

         『法』を住めて、

         『失わせない!』為の故に、

       『善』の、

         『法』を修め満たして、

         『増広させる!』為の故に、

     『欲』が生じて、

     勤めて、

       『精進』して、

       『心』を摂し、

         『道』を、

         『行う!』のである。

   何故ならば、

     『善』、

     『不善』の、

       『法』は、

       『得られない!』からであり、

   須菩提!

   是れが、

     『菩薩摩訶薩』の、

       『摩訶衍』である。

 

  四正勤(ししょうごん):悪を断じ、善を長ぜしむる四種の正勤。『大智度論巻16()注:四正断』参照。

  修満(しゅうまん):修めて満ぜしむ。修行が満ちる。

復次須菩提。菩薩摩訶薩摩訶衍。所謂四如意分。何等四。欲定斷行成就修如意分。心定斷行成就修如意分。精進定斷行成就修如意分。思惟定斷行成就修如意分。以不可得故。須菩提。是名菩薩摩訶薩摩訶衍。

復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩の摩訶衍とは、謂わゆる四如意分なり。何等か、四なる。欲もて定の断、行を成就し、如意分を修す。心もて定の断、行を成就し、如意分を修す。精進もて定の断、行を成就し、如意分を修す。思惟もて定の断、行を成就し、如意分を修すなり。得べからざるを以っての故に。須菩提、是れを菩薩摩訶薩の摩訶衍と名づく。

 復た次ぎに、

   須菩提!

   『菩薩摩訶薩』の、

     『摩訶衍』とは、

     謂わゆる、

       『四如意分』である。

     何のような、

       『四』か?

     『欲』を以って、

       『定』の、

         『断、行』が成就して、

         『如意分』を修める!

     『心』を以って、

       『定』の、

         『断、行』が成就して、

         『如意分』を修める!

     『精進』を以って、

       『定』の、

         『断、行』が成就して、

         『如意分』を修める!

     『思惟』を以って、

       『定』の、

         『断、行』が成就して、

         『如意分』を修める!ことである。

     何故ならば、

       『如意』は、

       『得られない!』のだから、

     須菩提!

     是れが、

       『菩薩摩訶薩』の、

       『摩訶衍』である。

 

  四如意分(しにょいぶん):欲心勤観の四法に由り引発せられ、種種の神用を現起する定。『大智度論巻18()注:四神足』参照。

 

 

 

 

五根、五力、七覚分、八聖道分

復次須菩提。菩薩摩訶薩摩訶衍。所謂五根。何等五。信根精進根念根定根慧根。是名菩薩摩訶薩摩訶衍。以不可得故。

復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩の摩訶衍とは、謂わゆる五根なり。何等か、五なる。信根、精進根、念根、定根、慧根なり。是れを菩薩摩訶薩の摩訶衍と名づく。得べからざるを以っての故なり。

 復た次ぎに、

   須菩提!

   『菩薩摩訶薩』の、

     『摩訶衍』とは、

     謂わゆる、

       『五根』である。

     何のような、

       『五』か?

     『信根、精進根、念根、定根、慧根』は、

     是れを、

       『菩薩摩訶薩』の、

         『摩訶衍』というのは、

       何故ならば、

         『五根』も、

         『摩訶衍』も、

           『得られない!』からである。

 

  五根(ごこん):煩悩を伏して、聖道を引く五種の根。『大智度論巻15()注:五根』参照。

復次須菩提。菩薩摩訶薩摩訶衍。所謂五力。何等五。信力精進力念力定力慧力。是名菩薩摩訶薩摩訶衍。以不可得故。

復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩の摩訶衍とは、謂わゆる五力なり。何等か、五なる。信力、精進力、念力、定力、慧力なり。是れを菩薩摩訶薩の摩訶衍と名づく。得べからざるを以っての故なり。

 復た次ぎに、

   須菩提!

   『菩薩摩訶薩』の、

     『摩訶衍』とは、

     謂わゆる、

       『五力』である。

     何のような、

       『五』か?

     『信力、精進力、念力、定力、慧力』は、

     是れを、

       『菩薩摩訶薩』の、

         『摩訶衍』というのは、

       何故ならば、

         『五力』も、

         『摩訶衍』も、

           『得られない!』からである。

 

  五力(ごりき):聖道を発生する五種の力。『大智度論巻15()注:五力』参照。

復次須菩提。菩薩摩訶薩摩訶衍。所謂七覺分。何等七。菩薩摩訶薩修念覺分。依離依無染向涅槃。擇法覺分精進覺分喜覺分除覺分定覺分捨覺分。依離依無染向涅槃。以不可得故。是名菩薩摩訶薩摩訶衍。

復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩の摩訶衍とは、謂わゆる七覚分なり。何等か、七なる。菩薩摩訶薩は念覚分を修むるに離に依りて、無染に依りて涅槃に向う。択法覚分、精進覺分、喜覚分、除覚分、定覚分、捨覚分は離に依りて、無染に依りて涅槃に向う。得べからざるを以っての故なり。是れを菩薩摩訶薩の摩訶衍と名づく。

 復た次ぎに、

   須菩提!

   『菩薩摩訶薩』の、

     『摩訶衍』とは、

     謂わゆる、

       『七覚分』である。

     何のような、

       『七』か?

   『菩薩摩訶薩』は、

     『念覚分』を、

     修める!

       『離』と、

       『無染』とに依って、

         『涅槃』に、

         『向う!』のであり、

     『択法覚分、精進覺分、喜覚分、除覚分、定覚分、捨覚分』を、

     修める!

       『離』と、

       『無染』とに依って、

         『涅槃』に、

         『向う!』のである。

     何故ならば、

       『七覚分』は、

         『得られない!』からであり、

       是れが、

         『菩薩摩訶薩』の、

         『摩訶衍』である。

 

  七覚分(しちかくぶん):菩提に帰趣する五つの法。『大智度論巻18()注:七覚支』参照。

復次須菩提。菩薩摩訶薩摩訶衍。所謂八聖道分。何等八。正見正思惟正語正業正命正精進正念正定。是名菩薩摩訶薩摩訶衍。以不可得故。

復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩の摩訶衍とは、謂わゆる八聖道分なり。何等か、八なる。正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定なり。是れを菩薩摩訶薩の摩訶衍と名づく。得べからざるを以っての故なり。

 復た次ぎに、

   須菩提!

   『菩薩摩訶薩』の、

     『摩訶衍』とは、

     謂わゆる、

       『八聖道分』である。

     何のような、

       『八』か?

     『正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定』、

     是れを、

       『菩薩摩訶薩』の、

         『摩訶衍』というのは、

     何故ならば、

       『八聖道分』も、

       『摩訶衍』も、

         『得られない!』からである。

 

  八聖道分(はっしょうどうぶん):涅槃を求趣する八種の正道。『大智度論巻18()注:八正道』参照。

 

 

 

 

三三昧、十一智、三根

復次須菩提。菩薩摩訶薩摩訶衍。所謂三三昧。何等三。空無相無作三昧。空三昧名諸法自相空。是為空解脫門。無相名壞諸法相不憶不念。是為無相解脫門。無作名諸法中不作願。是為無作解脫門。是名菩薩摩訶薩摩訶衍。以不可得故。

復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩の摩訶衍とは、謂わゆる三三昧なり。何等か、三なる。空、無相、無作三昧なり。空三昧とは、諸法の自相の空なるに名づけ、是れを空解脱門と為す。無相とは、諸法の相を壊して、憶せず、念ぜざるに名づけ、是れを無相解脱門と為す。無作とは、諸法中に作願せざるに名づけ、是れを無作解脱門と為す。是れを菩薩摩訶薩の摩訶衍と名づく。得べからざるを以っての故なり。

 復た次ぎに、

   須菩提!

   『菩薩摩訶薩』の、

     『摩訶衍』とは、

     謂わゆる、

       『三三昧』である。

     何のような、

       『三』か?

       『空、無相、無作の三昧』である。

     『空三昧』とは、

     諸の、

       『法』は、

         『自相』が、

         『空』である!

       是れを、

         『空』に依る、

           『解脱』の、

           『門』という。

     『無相三昧』とは、

     諸の、

       『法』の、

       『相』を破って、

         『憶える!』こともなく、

         『念ずる!』こともない。

       是れを、

         『無相』に依る、

           『解脱』の、

           『門』という。

     『無作三昧』とは、

     諸の、

       『法』中に、

         『願』を、

         『作さない!』ことであり、

       是れを、

         『無作』に依る、

           『解脱』の、

           『門』という。

   是れを、

     『菩薩摩訶薩』の、

       『摩訶衍』というのは、

     何故ならば、

       『三三昧』も、

       『摩訶衍』も、

         『得られない!』からである。

 

  三三昧(さんさんまい):空、無相、無作に関する三種の定。『大智度論巻7()注:三三昧、巻18()注:三解脱門』参照。

復次須菩提。菩薩摩訶薩摩訶衍。所謂苦智集智滅智道智盡智無生智法智比智世智他心智如實智。云何名苦智。知苦不生。是名苦智。云何名集智。知集應斷。是名集智。云何名滅智。知苦滅。是名滅智。云何名道智。知八聖道分。是名道智。云何名盡智。知諸婬怒癡盡。是名盡智。

復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩の摩訶衍とは、謂わゆる苦智、集智、滅智、道智、尽智、無生智、法智、比智、世智、他心智、如実智なり。云何が、苦智と名づくる。苦の不生なるを知る、是れを苦智と名づく。云何が、集智と名づくる。集の、応に断ずべきを知る、是れを集智と名づく。云何が、滅智と名づくる。苦の滅するを知る、是れを滅智と名づく。云何が、道智と名づくる。八聖道分を知る、是れを道智と名づく。云何が、尽智と名づくる。諸の婬怒癡の尽くるを知る、是れを尽智と名づく。

 復た次ぎに、

   須菩提!

   『菩薩摩訶薩』の、

     『摩訶衍』とは、

     謂わゆる、

       『苦智、集智、滅智、道智、尽智』、

       『無生智、法智、比智、世智、他心智』、

       『如実智』である。

   何を、

     『苦智』というのか?

     即ち、

       『苦』は、

         『生じない!』と、

         『知る!』こと、

       是れが、

         『苦智』である。

   何を、

     『集智』というのか?

     即ち、

       『集』は、

         『断ずべき!』だと、

         『知る!』こと、

       是れが、

         『集智』である。

   何を、

     『滅智』というのか?

     即ち、

       『苦』は、

         『滅する!』と、

         『知る!』こと、

       是れが、

         『滅智』である。

   何を、

     『道智』というのか?

     即ち、

       『八聖道分』を、

         『知る!』こと、

       是れが、

         『道智』である。

   何を、

     『尽智』というのか?

     諸の、

       『婬、怒、癡』は、

         『尽きた!』と、

         『知る!』こと、

       是れが、

         『尽智』である。

 

  十一智(じゅういっち):智を十一種に分類せるもの。『大智度論巻23()並びに巻18()注:十智。巻27()注:十一智』参照。

云何名無生智。知諸有中無生。是名無生智。云何名法智。知五眾本事分別知無。是名法智。云何名比智。知眼無常乃至意觸因緣生受無常。是名比智。云何名世智。知因緣名字。是名世智。云何名他心智。知他眾生心。是名他心智。云何名如實智。知諸佛一切種智。是名如實智。須菩提。是名菩薩摩訶薩摩訶衍。以不可得故。

云何が、無生智と名づくる。諸の有中に、生無きを知る、是れを無生智と名づく。云何が、法智と名づくる。五衆の本事を知り、分別して無きことを知る、是れを法智と名づく。云何が、比智と名づくる。眼の無常なる、乃至意触因縁生の受の無常なるを知る、是れを比智と名づく。云何が、世智と名づくる。因縁の名字を知る、是れを世智と名づく。云何が、他心智と名づくる。他の衆生の心を知る、是れを他心智と名づく。云何が、如実智と名づくる。諸仏の一切種智を知る、是れを如実智と名づく。須菩提、是れを菩薩摩訶薩の摩訶衍と名づく。得べからざるを以っての故なり。

   何を、

     『無生智』というのか?

     諸の、

       『有』中に、

       『生』は、

         『無い!』と、

         『知る!』こと、

       是れが、

         『無生智』である。

   何を、

     『法智』というのか?

     即ち、

       『五衆』の、

         『本事(因縁生)』を、

         『知る!』ことであり、

       『五衆』を、

       分別して、

         『無い!』と、

         『知る!』こと、

       是れが、

         『法智』である。

   何を、

     『比智』というのか?

     即ち、

       『眼』は、

         『無常』である!と、

         『知り』、

       乃至、

       『意触因縁生の受』は、

         『無常』である!と、

         『知る!』こと、

       是れが、

         『比智』である。

   何を、

     『世智』というのか?

     即ち、

       『因縁』の、

         『名字』を、

         『知る!』こと、

       是れが、

         『世智』である。

   何を、

     『他心智』というのか?

     他の、

       『衆生』の、

         『心』を、

         『知る!』こと、

       是れが、

         『他心智』である。

   何を、

     『如実智』というのか?

     諸の、

       『仏』の、

         『一切種智』を、

         『知る!』こと、

       是れが、

         『如実智』である。

   須菩提!

   是れを、

     『菩薩摩訶薩』の、

       『摩訶衍』というのは、

     何故ならば、

       『十一智』も、

       『摩訶衍』も、

         『得られない!』からである。

復次須菩提。菩薩摩訶薩摩訶衍。所謂三根。未知欲知根知根知者根。云何名未知欲知根。諸學人未得果。信根精進根念根定根慧根。是名未知欲知根。云何名知根。諸學人得果。信根乃至慧根。是名知根。云何名知者根。諸無學人若阿羅漢若辟支佛諸佛。信根乃至慧根。是名知者根。須菩提。是名菩薩摩訶薩摩訶衍。以不可得故。

復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩の摩訶衍とは、謂わゆる三根の未知欲知根、知根、知者根なり。云何が、未知欲知根と名づくる。諸の学人の未だ果を得ざる信根、精進根、念根、定根、慧根は、是れを未知欲知根と名づく。云何が、知根と名づくる。諸の学人の果を得たる信根、乃至慧根は、是れを知根と名づく。云何が、智者根と名づくる。諸の無学人の、若しは阿羅漢、若しは辟支仏、諸仏の信根、乃至慧根は、是れを知者根と名づく。須菩提、是れを菩薩摩訶薩の摩訶衍と名づく。得べからざるを以っての故なり。

 復た次ぎに、

   須菩提!

   『菩薩摩訶薩』の、

     『摩訶衍』とは、

     謂わゆる、

       『三根』、

       『未知欲知根、知根、知者根』である。

   何を、

     『未知欲知根』というのか?

     諸の、

       『学人』の、

       未だ、

         『果』を、

           『得ない!』時の、

           『信根、精進根、念根、定根、慧根』、

         是れが、

           『未知欲知根』である。

   何を、

     『知根』というのか?

     諸の、

       『学人』の、

         『果』を、

           『得た!』時の、

           『信根、乃至慧根』、

         是れが、

           『知根』である。

   何を、

     『知者根』というのか?

     諸の、

       『無学人』である!

         『阿羅漢』、

         『辟支仏』、

         『諸仏』の、

           『信根、乃至慧根』、

         是れが、

           『知者根』である。

   須菩提!

   是れが、

     『菩薩摩訶薩』の、

       『摩訶衍』である。

     何故ならば、

       『三根』も、

       『摩訶衍』も、

         『得られない!』からである。

 

  三根(さんこん):三種の無漏根を云う。『大智度論巻23()並びに同注:三無漏根』参照。

 

 

 

 

三三昧、十念、四禅乃至九次第定

復次須菩提。菩薩摩訶薩摩訶衍。所謂三三昧。何等三。有覺有觀三昧。無覺有觀三昧。無覺無觀三昧。云何名有覺有觀三昧。離諸欲離惡不善法。有覺有觀離生喜樂入初禪。是名有覺有觀三昧。云何名無覺有觀三昧。初禪二禪中間。是名無覺有觀三昧。云何名無覺無觀三昧。從二禪乃至非有想非無想定。是名無覺無觀三昧。是名菩薩摩訶薩摩訶衍。以不可得故。

復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩の摩訶衍とは、謂わゆる三三昧なり。何等か、三なる。有覚有観三昧、無覚有観三昧、無覚無観三昧なり。云何が、有覚有観三昧と名づくる。諸欲を離れ、悪、不善法を離れ、有覚有観、離生喜楽にして、初禅に入る。是れを有覚有観三昧と名づく。云何が、無覚有観三昧と名づくる。初禅と二禅の中間、是れを無覚有観三昧と名づく。云何が、無覚無観三昧と名づくる。二禅より、乃至非有想非無想定、是れを無覚無観三昧と名づく。是れを菩薩摩訶薩の摩訶衍と名づく。得べからざるを以っての故に。

 復た次ぎに、

   須菩提!

   『菩薩摩訶薩』の、

     『摩訶衍』とは、

     謂わゆる、

       『三三昧』である。

     何のような、

       『三』か?

       『有覚有観三昧、無覚有観三昧、無覚無観三昧』である。

   何を、

     『有覚有観三昧』というのか?

     諸の、

       『欲』を離れて、

       『悪、不善』の、

         『法』を、

         『離れた!』ならば、

       『有覚有観』のまま、

         『生』を、

         『離れる!』ことができ、

       『喜、楽』にして、

         『初禅』に、

         『入る!』ので、

       是れを、

         『有覚有観三昧』という。

   何を、

     『無覚有観三昧』というのか?

     即ち、

       『初禅』より、

       『二禅』に至る!

         『中間』の、

         『禅』は、

       是れを、

         『無覚有観三昧』という。

   何を、

     『無覚無観三昧』というのか?

     即ち、

       『二禅』、

       乃至、

         『非有想非無想定』は、

       是れを、

         『無覚無観三昧』という。

   是れを、

     『菩薩摩訶薩』の、

       『摩訶衍』というのは、

     何故ならば、

       『三三昧』も、

       『摩訶衍』も、

         『得られない!』からである。

 

  三三昧(さんさんまい):覚観の有無に関する三種の三昧。『大智度論巻23()並びに同巻7()三三昧』参照。

復次須菩提。菩薩摩訶薩摩訶衍。所謂十念。何等十。念佛念法念僧念戒念捨念天念滅念出入息念身念死。須菩提。是名菩薩摩訶薩摩訶衍。以不可得故。

復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩の摩訶衍とは、謂わゆる十念なり。何等か、十なる。念仏、念法、念僧、念戒、念捨、念天、念滅、念出入息、念身、念死なり。須菩提、是れを菩薩摩訶薩の摩訶衍と名づく。得べからざるを以っての故なり。

 復た次ぎに、

   須菩提!

   『菩薩摩訶薩』の、

     『摩訶衍』とは、

     謂わゆる、

       『十念』である。

     何のような、

       『十』か?

       『念仏、念法、念僧、念戒、念捨、念天』、

       『念滅、念出入息、念身、念死』である。

   須菩提!

   是れを、

     『菩薩摩訶薩』の、

       『摩訶衍』というのは、

     何故ならば、

       『十念』も、

       『摩訶衍』も、

         『得られない!』からである。

 

  十念(じゅうねん):十種の心念の意。又十随念とも称す。一に念仏(巴梨語buddhaanussati)、二に念法(巴dhammaanussati)、三に念僧(巴saGghaanussati)、四に念戒(巴siilaanussati)、五に念施(巴caagaanussati)、六に念天(巴devataanussati)、七に念休息(巴upassamaanussati)、八に念安般(巴aanaapaana−sati)、九に念身非常(巴kaaya−gataa−sati)、十に念死(巴maraNa−sati)なり。「増一阿含経巻34」に、「是の時、阿難は彼の比丘に教えて曰わく、汝当に修行を念ずべし、仏を念じ、法を念じ、比丘僧を念じ、戒を念じ、施を念じ、天を念じ、休息を念じ、安般を念じ、身を念じ、死を念ずるなり。当に是の如きの法を修行すべし。是れを比丘此の十念を行ぜば、便ち大果報を獲、甘露の法味を得と謂うなり」と云い、又「光讃般若経巻7観品」に、「復た次ぎに須菩提、菩薩摩訶薩は摩訶衍なれば常に十念を行ずべし。何をか十念と謂う、仏を念じ、法を念じ、聖衆を念じ、戒を念じ、布施を念じ、天を念じ、恬怕を念じ、無所起を念じ、身を念観し、当終亡を念ずるなり。是れを十念と為す」と云える是れなり。是れ六念に後の念休息乃至念死の四を加え、八念に念休息、念身の二を加えたるなり。就中、初に念仏とは、正身正意結跏趺坐して専ら如来の身相を観じ、如来の十力四無所畏五分法身等の功徳を念じて他想あることなきを云う。二に念法とは、法は欲より無欲に至り、諸の煩悩を離れ、諸の欲愛を除きて塵労なく、瑕疵乱想の念なしと念じて他想あることなきを云う。三に念僧とは、又念衆、念比丘僧、或いは念聖衆とも名づく。即ち僧は所謂四双八輩にして、善業及び五分法身を成就し、自ら度し復た他人を度すと念じて他想あることなきを云う。四に念戒とは、戒は諸悪を息めて能く道を成じ、以って身を瓔珞して衆好を現ずと念ずるを云う。五に念施とは又念布施、或いは念捨とも名づく。自らの所施を念じて永く悔心なく、亦た返報の想なく、設い人ありて之を罵り、手杖を加うることあるも、慈心を起して施意を絶たざるを云う。六に念天とは身口意浄にして穢行を造らず、衆行具足して乃ち天身を成ぜんと念ずるを云う。七に念休息とは又念恬怕、或いは念滅とも名づく。即ち心意の想息み、志性専一にして卒暴なく、常に方便を求めて三昧定に入り、勝光上達を貪らざるを云う。八に念安般とは又念安那般那、念出入息、或いは念無所起とも名づく。息の長短、若しくは冷熱を観知し、又息の出入を尋ね、其の長短を数えて分別暁了するを云う。九に念身非常とは又念観身、或いは念身とも名づく。即ち此の身は髪毛爪歯乃至涎髑脳等の所成にして、何処より来たり、誰の所造なりやを念ずるを云う。十に念死とは又念当終亡とも名づく。即ち命根断絶して形なく響なく、又相貌なしと念じて、他想あることなきを云うなり。又「増一阿含経巻1序品、十念品」、「同巻2広演品」、「同巻42結禁品」、「同巻43善悪品」、「諸経要集巻3」等に出づ。<(望)又『大智度論巻18()注:六念、及び巻21()、並びに同注:八念』参照。

復次須菩提。菩薩摩訶薩摩訶衍。所謂四禪四無量心四無色定八背捨九次第定。須菩提。是名菩薩摩訶薩摩訶衍。以不可得故。

復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩の摩訶衍とは、謂わゆる四禅、四無量心、四無色定、八背捨、九次第定なり。須菩提、是れを菩薩摩訶薩の摩訶衍と名づく。得べからざるを以っての故なり。

 復た次ぎに、

   須菩提!

   『菩薩摩訶薩』の、

     『摩訶衍』とは、

     謂わゆる、

       『四禅、四無量心、四無色定』、

       『八背捨、九次第定』である。

   須菩提!

   是れを、

     『菩薩摩訶薩』の、

       『摩訶衍』というのは、

     何故ならば、

       『四禅、乃至九次第定』も、

       『摩訶衍』も、

         『得られない!』からである。

 

  四禅(しぜん):色界の四種の禅定。『大智度論巻7()注:四禅』参照。

  四無量心(しむりょうしん):慈悲喜捨四種の無量心。『大智度論巻8()注:四無量』参照。

  四無色定(しむしきじょう):無色界の四種の定。『大智度論巻8()注:四無色定』参照。

  八背捨(はっぱいしゃ):色貪等の心を棄背する八種の定。『大智度論巻16()注:八解脱』参照。

  九次第定(くしだいじょう):次第無間に修する九種の定。『大智度論巻17()注:九次第定』参照。

 

 

 

 

十力、四無所畏、四無礙智、十八不共法

復次須菩提。菩薩摩訶薩摩訶衍。所謂佛十力。何等十。佛如實知一切法是處不是處相。一力也。如實知他眾生過去未來現在諸業諸受法。知造業處知因緣知報。二力也。

復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩の摩訶衍とは、謂わゆる仏の十力なり。何等か、十なる。仏の如実に、一切法の是処、不是処の相を知りたもうは、一力なり。如実に、他の衆生の過去、未来、現在の諸業、諸受の法を知り、造業の処を知り、因縁を知り、報を知りたもうは、二力なり。

 復た次ぎに、

   須菩提!

   『菩薩摩訶薩』の、

     『摩訶衍』とは、

     謂わゆる、

       『仏』の、

       『十力』である。

     何のような、

       『十』か?

   『仏』は、

     『如実』に、

     一切の、

       『法』の、

       『是処、不是処』の、

         『相』を、

         『知っている!』、

       是れが、

         『一力』である。

     『如実』に、

     他の、

       『衆生』の、

       『過去、未来、現在』の、

       諸の、

         『業』と、

         『受』との、

           『法』を、

           『知り』、

         『業』を、

         造る!

           『処』を、

           『知り』、

         『業』の、

           『因縁』を、

           『知り』、

         『業』の、

           『報』を、

           『知っている!』、

       是れが、

         『二力』である。

 

  十力(じゅうりき):仏のみ成就せる十種の智力。『大智度論巻16()注:十力、並びに巻24』参照。

如實知諸禪解脫三昧定垢淨分別相。三力也。如實知他眾生諸根上下相。四力也。如實知他眾生種種欲解。五力也。如實知世間種種無數性。六力也。如實知一切至處道。七力也。

如実に、諸の禅、解脱、三昧、定の垢浄分別の相を知りたもうは、三力なり。如実に、他の衆生の諸根の上、下の相を知りたもうは、四力なり。如実に、他の衆生の種種の欲と解とを知りたもうは、五力なり。如実に、世間の種種無数の性を知りたもうは、六力なり。如実に、一切の処に至る道を知りたもうは、七力なり。

     『如実』に、

     諸の、

       『禅、解脱、三昧、定』の、

         『浄、垢』を、

         『分別』する!

           『相』を、

           『知っている!』、

       是れが、

         『三力』である。

     『如実』に、

     他の、

       『衆生』の、

       諸の、

         『根』の、

         『上と、下と』の、

           『相』を、

           『知っている!』、

       是れが、

         『四力』である。

     『如実』に、

     他の、

       『衆生』の、

       種種の、

         『欲』と、

         『解』とを、

           『知っている!』、

       是れが、

         『五力』である。

     『如実』に、

       『世間』の、

       種種、

       無数の、

         『性』を、

         『知っている!』、

       是れが、

         『六力』である。

     『如実』に、

     一切の、

       『処』に至る!

         『道』を、

         『知っている!』、

       是れが、

         『七力』である。

知種種宿命有相有因緣。一世二世乃至百千世劫初劫盡。我在彼眾生中生。如是姓如是名如是飲食苦樂壽命長短。彼中死是間生。是間死還生是間。此間生姓名飲食苦樂壽命長短。亦如是。八力也

種種の宿命に相有り、因縁有りて、一世、二世乃至百千世の初より劫尽くるまで、我れは彼の衆生中に在りて生じ、是の如き姓、是の如き名、是の如き飲食、苦楽、寿命、長短、彼の中に死して、是の間に生じ、是の間に死して、還って是の間に生ずるを知り、此の間の生の姓名、飲食、苦楽、寿命、長短も、亦た是の如きなるは、八力なり。

     種種の、

       『宿命(過去の生)』には、

         『相』と、

         『因縁』とが有り、

       『一世、二世、乃至百千世』を、

       『初』より、

         『劫が尽きる!』まで、

         こう知っている!――

         わたしは、

         彼の、

           『衆生』中に生まれ、

           是のような、

             『姓』、

             『名』であり、

           是のような、

             『飲食』、

             『苦楽』、

             『寿命』、

             『長短』であり、

         彼の、

           『衆生』中に死んで、

           是の、

             『世間』に、

             『生まれ』、

         是の、

           『世間』に死んで、

           還って、

           是の、

             『世間』に、

             『生まれる!』。

         是の、

           『世間』の、

           『生』の、

             『姓名』、

             『飲食』、

             『苦楽』、

             『寿命』、

             『長短』は、

           亦た、

             是のようである!と。

       是れが、

         『八力』である。

佛天眼淨過諸天眼。見眾生死時生時端正醜陋。若大若小。若墮惡道若墮善道。如是業因緣受報。是諸眾生惡身業成就。惡口業成就。惡意業成就。謗毀聖人。受邪見業因緣故。身壞死時入惡道生地獄中。是諸眾生善身業成就。善口業成就。善意業成就。不謗毀聖人。受正見業因緣故。身就壞時入善道生天上。九力也。

仏の天眼の浄きこと、諸の天眼に過ぎて、衆生の死時、生時、端正、醜陋、若しは大、若しは小、若しは悪道に堕し、若しは善道に堕す、是の如き業の因縁の報を受け、是の諸の衆生は悪の身業成就し、悪の口業成就し、悪の意業成就すれば、聖人を謗毀し、邪見を受くる業の因縁の故に、身壊して死する時には、悪道に入りて地獄中に生じ、是の諸の衆生は善の身業成就し、善の口業成就し、善の意業成就すれば、聖人を謗毀せず、正見を受くる業の因縁の故に、身壊に就く時には、善道に入りて、天上に生ずるを見るは、九力なり。

     『仏』の、

       『天眼』は、

       諸の、

         『天眼』を過ぎて、

         『浄らか!』であり、

       『衆生』の、

         ここを見ている、――

         『死時と、生時』、

         『端正か、醜陋か』、

         『大か、小か』、

         『悪道に堕ちるか、善道に堕ちるか』とか、

       是のような、

         『業』の、

         『因縁』で、

           『報』を、

           『受ける!』とか、

       是の、

       諸の、

       『衆生』は、

         『悪』の、

           『身業』が、

           『成就』し、

         『悪』の、

           『口業』が、

           『成就』し、

         『悪』の、

           『意業』が、

           『成就』する!ので、

         故に、

           『聖人』を、

             『謗毀』し、

           『邪見』の、

           起す!

             『業』の、

             『因縁』の故に、

           『身』が壊れて、

             『死ぬ!』時には、

             『悪道』に入って、

               『地獄』中に、

               『生ずる!』とか、

       是の、

       諸の、

       『衆生』は、

         『善』の、

           『身業』が、

           『成就』し、

         『善』の、

           『口業』が、

           『成就』し、

         『善』の、

           『意業』が、

           『成就』する!ので、

         故に、

           『聖人』を、

             『謗毀』せず、

           『正見』を、

           受ける!

             『業』の、

             『因縁』の故に、

           『身』が、

             『壊れる!』時には、

             『善道』に入って、

               『天上』に、

               『生まれる!』と。

       是れが、

         『九力』である。

佛如實知諸漏盡故。無漏心解脫無漏慧解脫。現在法中自證知入是法。所謂我生已盡梵行已作。從今世不復見後世。十力也。須菩提。是名菩薩摩訶薩摩訶衍。以不可得故。

仏の如実に、諸漏尽くるを知るが故に、無漏の心解脱、無漏の慧解脱して、現在の法中に自ら証して、是の法に入りたるを知り、謂わゆる我が生は已に尽き、梵行已に作れば、今世より、復た後世を見ず、と。十力なり。須菩提、是れを菩薩摩訶薩の摩訶衍と名づく。得べからざるを以っての故なり。

   『仏』は、

     『如実』に、

     諸の、

       『漏』の、

         『尽きた!』ことを、

         『知っている!』ので、

       故に、

         『無漏の心解脱』、

         『無漏の慧解脱』であり、

       『現在』の、

       『法』中に、

         自ら証して、――

       是の、

         『法(無漏解脱)』に、

           『入った!』ことを、

           『知っている!』、

       謂わゆる、――

       わたしの、

         『生』は、

         已に、

           『尽きた!』。

         『梵行』は、

         已に、

           『作された!』のである。

       わたしは、

         『今世』より、

         もう、

           『後世』を、

           『見る!』ことはない、と。

       是れが、

         『十力』である。

   須菩提!

   是れを、

     『菩薩摩訶薩』の、

       『摩訶衍』というのは、

     何故ならば、

       『十力』も、

       『摩訶衍』も、

         『得られない!』からである。

復次須菩提。菩薩摩訶薩摩訶衍。所謂四無所畏。何等四。佛作誠言。我是一切正智人。若有沙門婆羅門。若天若魔若梵若復餘眾如實難言。是法不知乃至不見是微畏相。以是故我得安隱。得無所畏。安住聖主處。在大眾中師子吼能轉梵輪。諸沙門婆羅門若天若魔若梵若復餘眾實不能轉。一無畏也。

復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩の摩訶衍とは、謂わゆる四無所畏なり。何等か、四なる。仏の誠言を作したまわく、『我れは是れ一切正智の人なり。若し沙門、婆羅門、若しは天、若しは魔、若しは梵、若しは復た余の衆有りて、如実に、『是の法は知らざらん。』と難言すとも、乃至、是に微なる畏相すら見せず。是を以っての故に、我れは安隠を得、無所畏を得、聖主の処に安住し、大衆中に在りて師子吼し、能く梵輪を転ずるも、諸の沙門、婆羅門、若しは天、若しは魔、若しは梵、若しは復た余の衆は、実に転ずること能わず。』と、一の無畏なり。

 復た次ぎに、

   須菩提!

   『菩薩摩訶薩』の、

     『摩訶衍』とは、

     謂わゆる、

       『四無所畏』である。

     何のような、

       『四』か?

   『仏』の、

     『誠言(誠のことば)』は、こうである、――

     わたしは、

       『一切正智の人』である。

     若し、

     有る、

       『沙門、婆羅門』か、

       若しくは、

         『天、魔、梵』、

       若しくは、

       その他の、

         『衆生』が来て、

           『実である!』かのように、

           難じて、――

           是のような、

             『法』は、

               『知らないだろう!』、と、

               『言った!』としても、

           乃至、

             『微に畏れる!』、

               『相』すら、

               『見せることはない!』。

     是の故に、

     わたしは、

       『安隠』を得、

       『無所畏』を得て、

       『聖主』の、

         『処』に、

         『住まり』ながら、

       『大衆』中に在って、

       『師子吼』して、

         『梵輪』を、

         『転ずる!』のであるが、

     諸の、

       『沙門、婆羅門』や、

       若しくは、

         『天、魔、梵』、

       若しくは、

       その他の、

         『衆生』は、

         実に、

           『転ずる!』ことが、

           『できない!』のである、と。

   是れが、

     『一無畏』である。

 

  四無所畏(しむしょい):仏菩薩の説法に当りて怖畏せざる四種の法。『大智度論巻5()注:四無所畏、並びに同巻25()』参照。

佛作誠言。我一切漏盡。若有沙門婆羅門。若天若魔若梵若復餘眾如實難言。是漏不盡乃至不見是微畏相。以是故我得安隱。得無所畏。安住聖主處。在大眾中師子吼能轉梵輪。諸沙門婆羅門若天若魔若梵若復餘眾。實不能轉。二無畏也。

仏の誠言を作したまわく、『我れは一切の漏尽きたり。若し沙門、婆羅門、若しは天、若しは魔、若しは梵、若しは復た余の衆有りて、如実に、『是の漏は尽きざらん。』と難言すとも、乃至、是に微なる畏相すら見せず。是を以っての故に、我れは安隠を得、無所畏を得、聖主の処に安住し、大衆の中に在りて師子吼し、能く梵輪を転ずるも、諸の沙門、婆羅門、若しは天、若しは魔、若しは梵、若しは復た余の衆は、実に転ずること能わず。』と、二の無畏なり。

   『仏』の、

     『誠言』は、こうである、――

     わたしは、

     一切の、

       『漏』が、

       『尽きている!』。

     若し、

     有る、

       『沙門、婆羅門』か、

       若しくは、

         『天、魔、梵』、

       若しくは、

       その他の、

         『衆生』が来て、

           『実である!』かのように、

           難じて、――

           是のような、

             『漏』は、

               『尽きていないだろう!』、と、

               『言った!』としても、

           乃至、

             『微に畏れる!』、

               『相』すら、

               『見せることはない!』。

     是の故に、

     わたしは、

       『安隠』を得、

       『無所畏』を得て、

       『聖主』の、

         『処』に、

         『住まり』ながら、

       『大衆』中に在って、

       『師子吼』して、

         『梵輪』を、

         『転ずる!』のであるが、

     諸の、

       『沙門、婆羅門』や、

       若しくは、

         『天、魔、梵』、

       若しくは、

       その他の、

         『衆生』は、

         実に、

           『転ずる!』ことが、

           『できない!』のである、と。

   是れが、

     『二無畏』である。

佛作誠言。我說障法。若有沙門婆羅門。若天若魔若梵若復餘眾如實難言。受是法不障道。乃至不見是微畏相。以是故我得安隱。得無所畏。安住聖主處。在大眾中師子吼能轉梵輪諸沙門婆羅門若天若魔若梵若復餘眾實不能轉。三無畏也。

仏の誠言を作したまわく、『我れは障法を説きたり。若し沙門、婆羅門、若しは天、若しは魔、若しは梵、若しは復た余の衆ありて、如実に、『是の法を受するも、道を障えず。』と難言すとも、乃至、是に微なる畏相すら見せず。是を以っての故に、我れは安隠を得、無所畏を得、聖主の処に安住し、大衆の中に在りて師子吼し、能く梵輪を転ずるも、諸の沙門、婆羅門、若しは天、若しは魔、若しは梵、若しは復た余の衆は、実に転ずること能わず。』と、三の無畏なり。

   『仏』の、

     『誠言』は、こうである、――

     わたしは、

     正しく、

       『道』の、

       『障(さわり)となる!』、

         『法』を、

         『説いた!』。

     若し、

     有る、

       『沙門、婆羅門』か、

       若しくは、

         『天、魔、梵』、

       若しくは、

       その他の、

         『衆生』が来て、

           『実である!』かのように、

           難じて、――

           是のような、

             『法』は、

               『道の障とならない!』、と、

               『言った!』としても、

           乃至、

             『微に畏れる!』、

               『相』すら、

               『見せることはない!』。

     是の故に、

     わたしは、

       『安隠』を得、

       『無所畏』を得て、

       『聖主』の、

         『処』に、

         『住まり』ながら、

       『大衆』中に在って、

       『師子吼』して、

         『梵輪』を、

         『転ずる!』のであるが、

     諸の、

       『沙門、婆羅門』や、

       若しくは、

         『天、魔、梵』、

       若しくは、

       その他の、

         『衆生』は、

         実に、

           『転ずる!』ことが、

           『できない!』のである、と。

   是れが、

     『三無畏』である。

佛作誠言。我所說聖道能出世間。隨是行能盡苦。若有沙門婆羅門。若天若魔若梵若復餘眾如實難言。行是道不能出世間不能盡苦。乃至不見是微畏相。以是故我得安隱。得無所畏。安住聖主。處在大眾中師子吼能轉梵輪。諸沙門婆羅門若天若魔若梵若復餘眾實不能轉。四無畏也。須菩提。是名菩薩摩訶薩摩訶衍。以不可得故。

仏の誠言を作したまわく、『我が説ける所の聖道は、能く世間を出し、是れに随うて行ずれば、能く苦を尽くす。若し沙門、婆羅門、若しは天、若しは魔、若しは梵、若しは復た余の衆有りて、如実に、『是の道を行ずるも、世間を出づる能わず、苦を尽くすこと能わず。』と難言すとも、乃至是に微なる畏相すら見せず。是を以っての故に、我れは安隠を得、無所畏を得、聖主の処に安住し、大衆の中に在りて師子吼し、能く梵輪を転ずるも、諸の沙門、婆羅門、若しは天、若しは魔、若しは梵、若しは復た余の衆は、実に転ずること能わず。』と、四の無畏なり。須菩提、是れを菩薩摩訶薩の摩訶衍と名づく。得べからざるを以っての故なり。

   『仏』の、

     『誠言』は、こうである、――

     わたしの、

       『説いた!』所は、

       『聖道』であり、

         『世間』を、

         『出ることができる!』。

     是の、

       『道』を行けば、

         『苦』を、

         『尽くすことができる!』。

     若し、

     有る、

       『沙門、婆羅門』か、

       若しくは、

         『天、魔、梵』、

       若しくは、

       その他の、

         『衆生』が来て、

           『実である!』かのように、

           難じて、――

           是のような、

             『道』を行っても、

               『世間』を、

                 『出ることはできず』、

               『苦』を、

                 『尽くすこともできない!』と、

                 『言った!』としても、

           乃至、

             『微に畏れる!』、

               『相』すら、

               『見せることはない!』。

     是の故に、

     わたしは、

       『安隠』を得、

       『無所畏』を得て、

       『聖主』の、

         『処』に、

         『住まり』ながら、

       『大衆』中に在って、

       『師子吼』して、

         『梵輪』を、

         『転ずる!』のであるが、

     諸の、

       『沙門、婆羅門』や、

       若しくは、

         『天、魔、梵』、

       若しくは、

       その他の、

         『衆生』は、

         実に、

           『転ずる!』ことが、

           『できない!』のである、と。

   是れが、

     『四無畏』である。

   須菩提!

   是れを、

     『菩薩摩訶薩』の、

       『摩訶衍』というのは、

     何故ならば、

       『四無所畏』も、

       『摩訶衍』も、

         『得られない!』からである。

復次須菩提。菩薩摩訶薩摩訶衍。所謂四無礙智。何等四。義無礙法無礙辭無礙樂說無礙。義無礙者。知諸法實相義。法無礙者。知諸法名。辭無礙者。言辭中無礙。樂說無礙者。審諦言無盡。須菩提。是名菩薩摩訶薩摩訶衍。以不可得故。

復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩の摩訶衍とは、謂わゆる四無礙智なり。何等か、四なる。義の無礙、法の無礙、辞の無礙、楽説の無礙なり。義の無礙なる者は、諸法の実相の義を知り、法の無礙なる者は、諸法の名を知り、辞の無礙なる者は、言辞中に無礙にして、楽説の無礙なる者は、諦を審らかにして、言の尽くること無し。須菩提、是れを菩薩摩訶薩の摩訶衍と名づく。得べからざるを以っての故なり。

 復た次ぎに、

   須菩提!

   『菩薩摩訶薩』の、

     『摩訶衍』とは、

     謂わゆる、

       『四無礙智』である。

     何のような、

       『四』か?

       『義無礙、法無礙、辞無礙、楽説無礙』である。

     『義無礙』とは、

     諸の、

       『法』の、

       『実相』の、

         『義』を、

         『知る!』こと、

     『法無礙』とは、

     諸の、

       『法』の、

         『名』を、

         『知る!』こと、

     『辞無礙』とは、

       『言(口に発する意味を成すことば)、辞(一文を成すことば)』中に、

         『無礙』である!こと、

     『楽説無礙』とは、

       『諦』を審にして、

         『言』が、

         『無尽』である!ことである。

   須菩提!

   是れを、

     『菩薩摩訶薩』の、

       『摩訶衍』というのは、

     何故ならば、

       『四無礙智』も、

       『摩訶衍』も、

         『得られない!』からである。

 

  四無礙智(しむげち):無礙自在なる四種の解智。『大智度論巻17()注:四無礙解、並びに同巻25()』参照。

復次須菩提。菩薩摩訶薩摩訶衍。所謂十八不共法。何等十八。一諸佛身無失。二口無失。三念無失。四無異想。五無不定心。六無不知已捨心。七欲無減。八精進無減。九念無減。十慧無減。十一解脫無減。十二解脫知見無減。十三一切身業隨智慧行。十四一切口業隨智慧行。十五一切意業隨智慧行。十六智慧知見過去世無礙無障。十七智慧知見未來世無礙無障。十八智慧知見現在世無礙無障。須菩提。是名菩薩摩訶薩摩訶衍。以不可得故。

復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩の摩訶衍とは、謂わゆる十八不共法なり。何等か、十八なる。一には諸仏の身に失無く、二には口に失無く、三には念に失無く、四には異想無く、五には不定心無く、六には知り已らざるに捨つる心無く、七には欲の減ずること無く、八には精進の減ずること無く、九には念の減ずること無く、十には慧の減ずること無く、十一には解脱の減ずること無く、十二には解脱知見の減ずること無く、十三には一切の身業は智慧に随うて行じ、十四には一切の口業は智慧に随うて行じ、十五には一切の意業は智慧に随うて行じ、十六には智慧もて過去世を知見するに、礙無く、障無く、十七には智慧もて未来世を知見するに、礙無く、障無く、十八には智慧もて現在世を知見するに、礙無く、障無し。須菩提、是れを菩薩摩訶薩の摩訶衍と名づく。得べからざるを以っての故なり。

 復た次ぎに、

   須菩提!

   『菩薩摩訶薩』の、

     『摩訶衍』とは、

     謂わゆる、

       『十八不共法』である。

     何のような、

       『十八』か?

     一には、

     諸の、

       『仏』は、

       『身』の、

         『失(過失)』が、

         『無い!』、

     二には、

       『口』の、

         『失』が、

         『無い!』、

     三には、

       『念』の、

         『失』が、

         『無い!』、

     四には、

       種種に、

       『異なる!』、

         『想』が、

         『無い!』、

     五には、

       乱れて、

       『定まらない!』、

         『心』が、

         『無い!』、

     六には、

       『知らない!』のに、

       『捨てる!』ような、

         『心』が、

         『無い!』、

     七には、

       『欲』の、

         『減ずる!』ことが、

         『無い!』、

     八には、

       『精進』の、

         『減ずる!』ことが、

         『無い!』、

     九には、

       『念』の、

         『減ずる!』ことが、

         『無い!』、

     十には、

       『慧』の、

         『減ずる!』ことが、

         『無い!』、

     十一には、

       『解脱』の、

         『減ずる!』ことが、

         『無い!』、

     十二には、

       『解脱知見』の、

         『減ずる!』ことが、

         『無い!』、

     十三には、

     一切の、

       『身業』を、

         『智慧』に随って、

         『行う!』、

     十四には、

     一切の、

       『口業』を、

         『智慧』に随って、

         『行う!』、

     十五には、

     一切の、

       『意業』を、

         『智慧』に随って、

         『行う!』、

     十六には、

       『智慧』で、

       『過去世』を見る!時、

         『障礙』が、

         『無い!』、

     十七には、

       『智慧』で、

       『未来世』を見る!時、

         『障礙』が、

         『無い!』、

     十八には、

       『智慧』で、

       『現在世』を見る!時、

         『障礙』が、

         『無い!』ことである。

   須菩提!

   是れを、

     『菩薩摩訶薩』の、

       『摩訶衍』というのは、

     何故ならば、

       『十八不共法』も、

       『摩訶衍』も、

         『得られない!』からである。

 

  十八不共法(じゅうはちふぐうほう):仏のみが所有し、阿羅漢等と共にせざる十八種の法。『大智度論巻16()注:十八不共法、並びに同巻26』参照。

 

 

 

 

四十二字入門

【經】復次須菩提。菩薩摩訶薩摩訶衍。所謂字等語等諸字入門。何等為字等語等諸字入門。阿字門一切法初不生故。羅字門一切法離垢故。波字門一切法第一義故。遮字門一切法終不可得故。諸法不終不生故。

復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩の摩訶衍とは、謂わゆる字等、語等の諸字入門なり。何等をか、字等、語等の諸字入門と為す。「阿」字の門とは、一切法は初より生ぜざるが故なり。「羅」字の門とは、一切の法は垢を離るるが故なり。波字の門とは、一切の法は第一義なるが故なり。「遮」字の門とは、一切の法は終に得べからざるが故、諸法は終らず、生ぜざるが故なり。

 復た次ぎに、

   須菩提!

   『菩薩摩訶薩』の、

     『摩訶衍』とは、

     謂わゆる、

       『字』等(など)や、

       『語』等の、

       諸の、

         『字』より入る!

         『門』である。

     何のようなものを、

       『字』等、

       『語(完全に意志を伝えられることば)』等の、

       諸の、

         『字』より入る!

         『門』というのか?

   『阿()字』が、

     『門』だ!とは、

     一切の、

       『法』は、

       初より、

         『不生!』だからである。

   『羅()字』が、

     『門』だ!とは、

     一切の、

       『法』は、

         『苦』を、

         『離れている!』からである。

   『波()字』が、

     『門』だ!とは、

     一切の、

       『法』は、

       『第一義』だからである。

   『遮(しゃ)字』が、

     『門』だ!とは、

     一切の、

       『法』は、

       終に、

         『得られない!』からであり、

     諸の、

       『法』は、

         『終らず!』、

         『生じない!』からである。

 

  諸字入門(しょじにゅうもん):悉曇四十二字の門より道に入るの意。『大智度論巻42()注:字門、悉曇四十二字門、阿、陀羅尼』参照。

  (あ):梵字a。『大智度論巻42()注:阿』参照。

  (ら):梵字ra、又囉等に作る。『大智度論巻48()注:囉』参照。

  (ら):梵字ra。悉曇五十字門の一。四十二字門の一。又羅、洛に作る。「瑜伽金剛頂経釈字母品」に、「囉字門は一切法離諸塵染の故に」と云い、「大品般若経巻5広乗品」に、「羅字門は一切法離垢の故に」と云い、「大智度論巻48」に之を釈し、「若し羅字を聞かば即ち義に随って一切法は垢相を離ると知る。羅闍は秦に垢と言う」と云える是れなり。是れ塵染又は垢の義なる梵語羅闍rajasの語首に今の囉ra字あるが故に此の説をなすなり。又「大日経疏巻7」に、「囉字門は一切諸法離一切塵染の故にとは、梵に囉逝rajasと云う、是れ塵染の義なり。塵は是れ妄情所行の処なり、故に眼等の六情は色等の六塵に行ずと説くなり。若し囉字門を見ば則ち一切の見聞触知すべき法は皆是れ塵相なるを知る。猶お浄衣が塵垢の為に染せらるるが如く、亦た遊塵紛動して太虚をして昏濁に、日月をして不明ならしむるが如し。是れを字相と為す。中論に種種の門を以って見の法を諦求するに見者あることなし、若し見者なくば誰か能く見法を用って外色を分別せんや。見と可見と見法と無なるが故に識触受愛の四法も皆無なり、愛なきを以っての故に十二因縁分も亦た無なり。是の故に眼に色を見る時、即ち是れ涅槃の相なり。余塵も例して爾り。又次に阿字門を以って展転して諸塵を観察するに其の本不生なるを以っての故に、造作なきが故に、乃至所乗の法及び乗者なきが故に、当に知るべし、見聞触知すべき所の法は悉く是れ浄法界なり。豈に浄法界を以って如来の六根を染汚せんや。「鴦掘摩羅経」に仏の常眼は具足して滅なきを以って明に常色を見る、乃至意法も亦た是の如しと。是れ囉字門の真実の義なり」と云えり。以って其の深旨を見るべし。又「南本涅槃経巻8文字品」に、「囉は能く貪欲瞋恚愚癡を壊して真実の法を説く。是の故に囉を説く」と云い、「方広大荘厳経巻4示書品」には、「囉字を唱うる時、厭離生死欣第一義諦声raty−arati−paramaartha−rati−zabdaを出す」と云えり。又「光讃般若経巻7」、「放光般若経巻4」、「文殊師利問経巻上字母品」、「仏本行集経巻11習学技藝品」、「旧華厳経巻57」、「大日経巻2」等に出づ。<(望)

  (は):梵字pa、又跛に作る。『大智度論巻48()注:跛』参照。

  (は):梵字pa。悉曇五十字門の一。四十二字門の一。又波、或いは簸に作る。「放光般若経巻4陀隣尼品」に、「三には波なり、波とは諸法に於いて泥洹最第一の教度なり」と云い、「大品般若経巻5広乗品」に、「波字門は一切法第一義の故に」と云い、「瑜伽金剛頂経釈字母品」に、「跛字門を称すれば、一切法第一義諦不可得の故に」と云える是れなり。「仏本行集経巻11習学技藝品」、「方広大荘厳経巻4示書品」、「文殊師利問経巻上字母品」、「大日経巻2具縁品」、「守護国界主陀羅尼経巻3陀羅尼品」等にも亦た同じく第一義諦の義を出せり。是れ皆第一義諦(又は勝義)の義なる梵語波羅木陀paramaarthaの語首に今のpa字を有するを以って此の説をなすなり。「大日経疏巻7具縁品」の釈に、「波字門は一切諸法第一義諦不可得の故にとは、梵に波囉麼他と云う、翻じて第一義と為し、或いは勝義と云う。薩底也は此の翻じて諦となす。諦の義は娑字門に於いて之を説く。今此の波字門は正しく第一義の相を明かす。龍樹云わく、第一義を諸法実相と名づく、不破不壊の故にと。復た次ぎに諸法中の第一なるを名づけて涅槃と為す。阿毘曇に云うが如し、云何が無上法なる、云わく智縁尽く。智縁尽くるは即ち是れ涅槃なりと。若し波字を見ば即ち一切法は第一義を離れず、第一義は諸法実相を離れずと知る。是れを字相と為す。若し字門の真実義ならば、第一義も亦た不可得なり。何を以っての故に、愛なく著なきが故なり。智論に又云わく、衆生は涅槃の音声に著するを以って、而も戯論を作して若しは有、若しは無とす。著を破するを以っての故に涅槃も空なりと説く。是れを第一義空と名づく。聖人心中の所得を破せず。聖人は一切法の中に於いて相を取らざるを以っての故なり」と云えり。以って其の義旨を見るべし。又「新華厳経巻76」には普照法界dharmadhaatu−tala−saMbhedaの義を出し、「大般涅槃経巻8文字品」には、「波は顛倒の義に名づく。若し三宝悉く皆滅尽すと言わば、当に知るべし是の人は自ら疑惑を為すものなるを。是の故に波と名づく」と云えり。又「光讃般若経巻7観品」、「大般若経巻53辯大乗品」、「同巻415念住等品」、「同巻490善現品」、「旧華厳経巻57」、「華厳経普賢行願品巻三十一」、「大方広仏華厳経入法界品四十二字観門」、「大般泥洹経巻5文字品」、「大方等大集経巻11海慧菩薩品」、「文殊問経字母品第十四」、「大日経巻5百字成就持誦品」、「大智度論巻48」、「華厳経隨疏演義鈔巻89」、「悉曇蔵巻5」等に出づ。<(望)

  (しゃ):梵字ca。又左に作る。『大智度論巻48()注:左』参照。

  (さ):梵字ca。悉曇五十字門の一。四十二字門の一。又遮、者等に作る。「瑜伽金剛頂経釈字母品」に、「左字門を称すれば、一切法一切変遷を離るるが故に」と云い、「大智度論巻48」に、「若し遮字を聞かば、即時に一切諸行皆非行なるを知る。遮梨夜は秦に行と云う」と云える是れなり。是れ変遷の義なる梵語遮庾底cyuti並びに行の義なる梵語遮梨夜caryaaが、共に今の左字を以って初まるが故に此の説をなすなり。「大日経疏巻7」に、「梵に遮庾底と云うは即ち是れ変遷の義なり。又梵音遮唎耶は是れ諸行の義なり。遮字を見る時、即ち諸行の遷変不住を知るが如し。中論観行品に云わく、諸行を五陰と名づく。諸行より生ずるを以っての故に、是の五陰は皆虚妄にして定相あることなし。嬰児の時の色乃至老年の時の色の如き、中間念念に住せず、決定性を分別するに不可得なり。性を決定有と名づく、変異すべからざること真金の不変なるが如し。今諸法は生ずと雖も、自性に住せず、是の故に当に知るべし無性なり。彼れに広く説くが如し。若し無性ならば即ち是れ本初不生なり、本初不生は即ち是れ如来の身なり。常恒安住して変易あることなし、故に離遷変と云うなり。復た次ぎに若し一切法必ず是れ和合所成ならば則ち遷変あり。今諸法は無生無作乃至無所行の故に則ち和合なし、和合なきが故に則ち一切の遷変を離る。凡そ諸字門は皆当に逆順旋転して相釈し、罣礙なからしむべし。今且らく次第相承に約するのみ」と云えるは、主として遷変の義に就き其の意義を釈したるなり。古来漢音相似たる磋cha、娑sa等に簡別せんが為に、此の字を変遷の左字と称するは即ち此の意に由る。又「大般涅槃経巻8」に修の義を挙げ、「大方広仏華厳経入法界品四十二字観門」に行の義を出せるは、共に遮梨夜の義を取るなり。又「方広大荘厳経巻4」、「文殊師利問経巻上字母品」等には、四聖諦声catur−aarya−satya−zaabdaと称し、「新華厳経巻57」には普輪断差別、「大日経巻6百字成就持誦品」には離生滅、「大品般若経巻5」には一切法終不可得の義となせり。又「旧華厳経巻57」、「仏本行集経巻11」、「大方等大集経薪10」、「文殊問経字母品巻14」、「大日経巻5布字品」、「守護国界主陀羅尼経巻3」、「不空羂索神変真言経巻14」、「悉曇字記」、「悉曇蔵巻5、6」等に出づ。<(望)

  参考:『攝大毘盧遮那成佛神變加持經大悲胎藏轉字輪成三藐三佛陀入八祕密六月成就儀軌卷第3』:『復次祕密主。如來無量百千俱胝那庾多劫。積集修行真實諦語四聖諦四念處四神足十如來力六波羅蜜七菩提寶四梵住十八佛不共法。以要言之。自願智力一切法界加持力。隨順眾生如其種類。開示真言教法。謂◇ 阿a字門一切諸法本不生故。◇ 迦ka字門一切諸法離作業故。◇ 佉kha字門一切諸法等虛空不可得故。◇ 哦ga字門一切諸法行不可得故。◇ 伽gha字門一切諸法一合相不可得故。◇ 遮ca字門一切諸法離一切遷變故。◇ 車cha字門一切諸法影像不可得故。◇ 惹ja字門一切諸法生不可得故。◇ 社jha字門一切諸法戰敵不可得故。◇ 吒.ta字門一切諸法慢不可得故。◇ [*] .tha字門一切諸法長養不可得故。◇ 拏.da字門一切諸法怨對不可得故。◇ 荼.dha字門一切諸法執持不可得故。◇ 多ta字門一切諸法如如不可得故。◇ 他tha字門一切諸法住處不可得故。◇ 娜da字門一切諸法施不可得故。◇ 馱dha字門一切諸法法界不可得故。◇ 波pa字門一切諸法第一義諦不可得故。◇ 頗pha字門一切諸法不堅如聚沫故。◇ 麼ba字門一切諸法縛不可得故。◇ 婆bha字門一切諸法有不可得故。◇ 野ya字門一切諸法一切乘不可得故。◇ 囉ra字門一切諸法離一切諸塵故。◇ [-+] la字門一切諸法一切相不可得故。◇ [*] va字門一切諸法語言道斷故。◇ 捨`sa字門一切諸法本性寂故。◇ 沙.sa字門一切諸法性鈍故。◇ 娑sa字門一切諸法一切諦不可得故。◇ 訶ha字門一切諸法因不可得故。◇ 吃叉(二合) k.sa字門一切諸法無有盡故。◇ 仰^na ◇ 惹~na ◇ 拏.na ◇ 那na ◇ 麼ma 等句。於一切三昧自在。速能成辦諸事業義利。得具如來十號。如大日尊而轉法輪。品類相入常照世間。十號具足伽陀曰

那字門諸法離名性相不得不失故。邏字門諸法度世間故。亦愛枝因緣滅故。陀字門諸法善心生故。亦施相故。婆字門諸法婆字離故。荼字門諸法荼字淨故。沙字門諸法六自在王性清淨故。和字門入諸法語言道斷故。

「那」字の門とは、諸法は名を離れて、性、相を得ず、失せざるが故なり。「邏」字の門とは、諸法は世間を度するが故なり。亦た愛枝の因縁滅するが故なり。「陀」字の門とは、諸法と、善心と生ずるが故なり。亦た施の相の故なり。「婆」字の門とは、諸法と、婆字と離るるが故なり。「荼」字の門とは、諸法と、荼字と浄きが故なり。「沙」字の門とは、諸法と、六自在王との性、清浄なるが故なり。「和」字の門より、諸法に入れば、語言の道断ずるが故なり。

   『那()字』が、

     『門』だ!とは、

     諸の、

       『法』は、

         『名』を、

         『離れた!』ものであり、

       『性』も、

       『相』も、

         『得られず』、

         『失われない!』からである。

   『邏()字』が、

     『門』だ!とは、

     諸の、

       『法』は、

         『世間』を、

         『度する!』からであり、

     亦た、

       『愛枝』の、

         『因縁』が、

         『滅する!』からである。

   『陀()字』が、

     『門』だ!とは、

     諸の、

       『法』は、

         『善心』を、

         『生ずる!』からである。

       亦た、

         『施』の、

         『相』だからである。

   『婆()字』が、

     『門』だ!とは、

     諸の、

       『法』の、

         『荼字(焼くの義あり)』は、

         『浄い!』からである。

   『沙(しゃ)字』が、

     『門』だ!とは、

     諸の、

       『法』は、

         『六自在王(六根に自在を得るの義)』であり、

       『性』が、

         『清浄』だからである。

  『和()字』が、

     『門』だ!とは、

    諸の、

      『法』に入れば、

      『語言』の、

        『道』が、

        『断たれる!』からである。

 

  (な):梵字na、又曩に作る。『大智度論巻48()注:曩』参照。

  (のう):梵字na、悉曇五十字門の一。四十二字門の一。又那、或いは娜に作る。「瑜伽金剛頂経釈字母品」に、「曩字門を称すれば一切法名不可得の故に」と云い、「大品般若経巻5広乗品」に、「那字門は諸法名性相を離れ、不得不失なるが故に」と云い、「方広大荘厳経巻4示書品」に、「那(上声)字を唱うる時、遍知名色声naama−ruupa−parijJaana−zabdaを出す」と云える是れなり。「大般若経巻53辯大乗品」、「同巻415念住等品」、「文殊師利問経巻上字母品」等にも亦た名色の義を出せり。是れ名色の義なる梵語naama−ruupaが、其の語首に曩字を有するを以って此の説をなすなり。又「大智度論巻48広乗品」には、「若し那字を聞かば即ち一切法不得不失不来不去を知る。那は秦に不と言う」と云えり。是れ否定の義なる梵語naを以って今の曩字を解したるなり。又「新華厳経巻76」には、「那字門を唱うる時、般若波羅蜜門に入るを無依無上を得nilaya−pratilabdhaと名づく」と云い、「大般涅槃経巻8文字品」には、「那は三宝安住して傾動あることなく、喩えば門閫の如し。是の故に那と名づく」と云えり。又「光讃般若経巻7観品」、「放光般若経巻4陀隣尼品」、「華厳経普賢行願品巻31」、「大方広仏華厳経入法界品四十二字観門」、「仏本行集経巻11習学技藝品」、「大般泥洹経巻5文字品」、「大方等大集経巻11海慧菩薩品」、「守護国界主陀羅尼経巻3陀羅尼品」、「文殊問経字母品巻14」等に出づ。<(望)

  (ら):梵字la、悉曇五十字門の一。四十二字門の一。又羅、攞、[*]、砢、呵に作る。「大品般若経巻5広乗品」に、「邏字門は諸法度世間の故に、亦た愛支因縁滅するが故に」と云い、「仏本行集経巻11習学技藝品」に、「邏字を唱うる時、諸の愛枝を断ず。是の如き声を出す」と云い、「方広大荘厳経巻4示書品」に、「羅字を唱うる時、断一切生死枝條声lataa−chedana−zabdaを出す」と云える是れなり。是れ愛枝(纏繞せる樹)の義なる梵語lataaの語首に今の邏la字あるが故に此の説を出すなり。又「大智度論巻48」に前引「大品般若経」の文を解し、「若し邏字を聞かば即ち一切法軽重の相を離るるを知る。邏求は秦に軽と言う」と云えり。是れ軽の義なる梵語laghuの語首に邏字あるに由りて釈せるなり。又「瑜伽金剛頂経釈字母品」に、「邏字門は一切法相不可得の故に」と云い、「大日経巻2具縁品」にも同説を出せり。是れ相の義なる梵語邏乞灑lakSaNaの語首に今の邏字あるが故なり。「大日経疏巻7」に之を釈し、「邏字門は一切諸法一切相不可得の故にとは、梵に邏吃灑と云う、此に翻じて相と為す。有人言わく、性と相とは差別あることなし、火性即ち是れ熱相と説くが如しと。或いは言わく、少しく差別あり、性とは其の体を言い、相とは識るべきを言う。釈子の如き禁戒を受持するは是れ其の性なり、剃髪割截染衣は是れ其の相なりと。若し邏字門を見ば即ち一切法皆悉く相ありと知る。相に復た二種あり、一には惣相なり、謂わく無常苦空無我の相なり。別とは謂わく諸法は無常無我なりと雖も而も各各の相あり、地は堅、水は湿、火は熱、風は動の如き等なり。捨を施の相と為し、不悔不悩を持戒の相と為し、心変異せざるを忍の相と為し、発動を精進の相と為し、心を摂するを禅の相と為し、無所著を慧の相と為し、能く事を成ずるを方便の相と為し、生死を織作するを世間の相と為し、無織を涅槃の相と為す等なり。今有為無為の法は体性皆空なりと観ずるに、此の相は誰がために相と為さんや。中論三相品及び十二門の中に広く説くが如し。復た次ぎに浄法界中の百六十心等の種種の諸相は本不生なれば則ち造作なし、造作なきが故に乃至畢竟無塵なり、無塵なるが故に一切相を離る、一切相を離るるを以っての故に名づけて諸仏自証三菩提と為すなり」と云えり。以って其の義趣を見るべし。又「光讃般若経巻7観品」、「旧華厳経巻57」、「南本大般涅槃経巻8文字品」、「文殊師利問経巻上字母品」等に出づ。<(望)

  (だ):梵字da、又娜に作る。『大智度論巻48()注:娜』参照。

  (だ):梵字da。悉曇五十字門の一。四十二字門の一。又陀、柁、荼、捺、拏、那に作る。「瑜伽金剛頂経釈字母品」に、「娜字門を称すれば一切法施不可得の故に」と云い、「大品般若経巻5広乗品」に、「陀字門は諸法善心生の故に、亦た施相の故に」と云える是れなり。「大日経巻2具縁品」にも亦た施不可得の義を挙げ、「同経疏巻7」に之を釈し、「娜字門一切諸法施不可得故とは、梵に檀那と云う、是れ捨施の義なり。若し娜字を見ば即ち一切諸法皆是れ捨すべきの相なるを知る。所以は如何、一切法の離合は縁に在るを以って堅住あることなし。若し中に於いて執著して愛を生ぜば必ず為に焚かる。乃至十地の諸の菩薩も自地所生の浄妙の功徳に於いて未だ捨の彼岸に至らず。故に猶お不思議の退失あり、第一安楽の処と名づけず。今諸法不生を観ずるが故に、施者施処及び所施の物皆悉く本来不生なり。乃至一切の法は住処なく、住処なきが故に即ち此の三事も亦た無住処なり。是の故に仏は道場に坐するに、都て所得なく亦た所捨なし。虚空蔵の中に於いて蘊積する所なきも、而も普門に流出して遍く群生に施す。是れを檀の実相を見ると名づけ、亦た檀波羅蜜を具足すと名づく」と云えり。是れ施の義なる梵語daanaが今の娜字を以って始まるが故に此の説をなすなり。之に依りて古来此の字を施の娜字と称す。又「大智度論巻48広乗品の釈」には、「若し陀字を聞かば即ち一切法の善相を知る。陀摩は秦に善と言う」と云えり。是れ善の義なる梵語damaに約して其の義を解したるなり。又「大般若経巻415念住等品」、「文殊問経釈字母品巻14」、「大方等大集経巻10」、「海意菩薩所問浄印法門経巻12」等には調伏寂静の義を出し、「光讃般若経巻7観品」、「放光般若経巻4陀隣尼品」等には断絶の義を挙げ、「守護国界主陀羅尼経巻3陀羅尼品」には、十力門(十力は梵語にdaza−balaと云う)の義を出し、又「旧華厳経巻57」には、「荼字を唱うる時、般若波羅蜜門に入るを不退転行avaivarttya−prayogaと名づく」と云えり。又「方広大荘厳経巻4示書品」、「仏本行集経巻11習学技藝品」、「新華厳経巻76」、「華厳経普賢行願品巻31」、「大方広仏華厳経入法界品四十二字観門」、「大般涅槃経巻8」、「文殊師利問経巻上字母品」、「華厳経隨疏演義鈔巻89」、「悉曇蔵巻5、6」等に出づ。<(望)

  (ば):梵字ba、又麼に作る。『大智度論巻48()注:麼』参照。

  (ば):梵字ba。悉曇五十字門の一。四十二字門の一。又摩、波、或いは婆に作る。「瑜伽金剛頂経釈字母品」に、「麼字門を称すれば一切法縛不可得の故に」と云い、「大品般若経巻5広乗品」に、「婆字門は諸法婆字離の故に」と云い、「方広大荘厳経巻4示書品」に、「婆(上声)字を唱うる時、解脱一切繋縛の声bandhana mokSa−zabdaを出す」と云える是れなり。是れ縛の義なる梵語婆陀bandhanaの語首に今のba字を有するを以って此の説をなすなり。故に古来此のba字を縛のba字と称す。又「大般涅槃経巻8文字品」に、「婆は仏の十力に名づく、是の故に婆と名づく」と云えるは、力の義なる梵語balaが今のba字を冠するが故なり。又「放光般若経巻4陀隣尼品」には、「八には波なり、波とは諸法已に獄を離る」と云い、「旧華厳経巻57」には、「婆字を唱うる時、般若波羅蜜門に入る。金剛場vajra−maNDalaと名づく」と云えり。又「仏本行集経巻11習学技藝品」、「光讃般若経巻7観品」、「大日経巻2具縁品」、「同巻6百字成就持誦品」、「同経疏巻7」、「守護国界主陀羅尼経巻3陀羅尼品」、「文殊師利問経巻上字母品」等に出づ。<(望)

  (だ):梵字Da。又拏に作る。『大智度論巻48()注:拏』参照。

  (だ):梵字Da。悉曇五十字門の一。四十二字門の一。又荼、茶、[-+]、袒、、早A陀に作る。「瑜伽金剛頂経釈字母品」に、「拏字門を称すれば一切法怨敵不可得の故に」と云い、「大品般若経巻5広乗品」に、「荼字門は諸法荼字浄なるが故に」と云える是れなり。「大日経巻2具縁品」にも怨対不可得の義を挙げ、「同経疏巻7」に之を釈し、「拏字門一切諸法怨対不可得故とは、梵音に拏麼囉と云うは是れ怨対の義なり。世間の仇讎の更に相報復するが如くなるが故に名づけて対と為す」と云えり。又「方広大荘厳経巻4示書品」に、「荼字を唱うる時、断一切魔悩乱の声Damara−maara−nigrahaNa−zabdaを出す」と云い、「文殊師利問経巻上字母品」、「守護国界主陀羅尼経巻3陀羅尼品」等にも亦た同じく此の義を出せり。是れ蓋し悩乱又は怨敵の義なる梵語Damaraが、今の拏字を頭字となすによりて此の説をなすなり。故に古来荼Dhaと区別せんが為に之を怨対の拏字と称す。又「光讃般若経巻7観品」には、「是の走蛯ヘ諸法を焼尽して清浄に逮至す」と云い、「普曜経巻3現書品」にも燋焼罪塵労欲の義を出せり。是れ焼くの義なる梵語dahatiは俗語にてDhahatiとなることあるを以って、此の説をなせしものなるべし。又「大智度論巻48広乗品の釈」には、「若し荼字を聞かば即ち諸法不熱の相を知る。南天竺に荼闍他は秦に不熱と云う」と云えり。蓋し荼闍他は如何なる綴字なるか詳ならざるも、特に南天竺と注するに依るに、前記俗語のDahatiと関連なきかを疑うべし。又「旧華厳経巻57」には、「荼字門を唱うる時、般若波羅蜜門に入るを名づけて普輪samanta−cakraと曰う」と云い、「大般涅槃経巻8」には、「荼は是れ愚癡の僧の常と無常とを知らざること、喩えば小児の如きなり。是の故に荼と名づく」と云い、「仏本行集経巻11習学技藝品」には、「荼字を唱うる時、応当に彼の四如意足を得て即ち能く飛行すべし。此の如きの声を出す」と云えり。又「放光般若経巻4陀隣尼品」、「大般若経巻415念住等品」、「同巻490」、「新華厳経巻76」、「華厳経普賢行願品巻31」、「大方広仏華厳経入法界品四十二字観門」、「文殊師利問経字母品巻14」、「華厳経隨疏演義鈔巻89」、「悉曇蔵巻5、6」等に出づ。<(望)

  (しゃ):梵字Sa。又灑に作る。『大智度論巻48()注:灑』参照。

  (しゃ):梵字Sa。悉曇五十字門の一。四十二字門の一。又屣、沙、刹、察、殺等に作る。「瑜伽金剛頂経釈字母品」に、「灑字門を称すれば一切法性鈍の故に」と云い、「大品般若経巻5」に、「沙字門は諸法六自在王性清浄の故に」と云い、「大智度論巻48」に、「若し沙字を聞かば即ち人身六種の相を知る。沙は秦に六と云う」と云える是れなり。此の中、六の義なる梵語SaSは、灑Sa字を以って初まるが故に此の説をなすなり。「方広大荘厳経巻4」に制服六処得六神通SaDaayatana−nirgrahaNaabhijJaa−jJaanaavaptiの義を出し、「文殊師利問経巻上字母品」並びに「文殊問経字母品巻14」に六処、六神通の義を挙ぐるも亦た同意なり。又「大般涅槃経巻8」には具足の義を出し、「光讃般若経巻7」等には罣礙の義、「新華厳経巻76」等には海蔵saagara−garbha(?)の義、「大方等大集経巻10」等には遠離の義を出せり。又「大日経巻2具縁品」には性鈍の義を挙げ、「同疏巻7」に之を釈して、「夫れ自性鈍とは即ち是れ極無分別心なり。愚ならず、智ならず、慧ならず、識なく智なく、妄なく覚なく、乃至一切諸法も動揺すること能わず。但だ是れ一純にして金剛地より固きのみ。然る所以は、世間の人の如きは取捨忘ぜざるを以っての故に、智慧を尚んで愚癡を棄て、涅槃を尊んで生死を賎しむ。而も今一概に本不生、一概に本性寂ならば、則ち誰か利、誰か鈍ならん。彼の金剛の利刃の如きは、不堅の物に対するを以っての故に、偏に一辺を用うるを以っての故に、則ち名づけて利となす。若し所向の処をして悉く是れ金剛ならしめば、挙体皆円にして偏用すべからず。則ち利相同じく鈍に帰す」と云えり。是れ極無分別心を以って自性鈍の義となすなり。古来此の義に依りて此の字を性鈍の灑字と名づけ、他の捨za等と区別す。但し性鈍の原語は明ならず。「大日経疏」の連文に、「沙字門一切諸法性鈍故とは、若し梵本に質を存せば、当に性、頑なに同じと云うべし。頑は謂わく猶お木石の識知する所なく、触受なきの義の如し。云う所の同とは、是れ興喩の言にして、一向に即ち彼れに同なるに非ず。又大品に云わく、般若無知自性鈍の故にと。即ち此の字門の義と合す。故に飾文者は古訳の辞を存するのみ」と云えり。是れ頑を以って性鈍の義となせるものなるも、其の所謂頑が如何なる梵語に相当するや詳ならず。今の「大日経具縁品」の文に相当する西蔵訳本には、raG−bshin−gyi blun−pa−Jid−kyi−phyir Sa−ni chos−thams−cad−kyi sgoHo.(自性癡鈍なるが故にSaは一切法の門なり)とあり。或いは是れ落胆、沮喪、癡鈍等の義なる梵語viSaadaを指せるものならざるかを疑うべし。又「放光般若経巻4」、「大般若経巻53」、「仏本行集経巻11」、「旧華厳経巻57」、「華厳経入法界品巻31」、「大方広仏華厳経四十二字観門」、「大般泥洹経巻5」、「海意菩薩所問経巻12」、「守護国界主陀羅尼経巻3」、「華厳経隨疏演義鈔巻89」、「悉曇字記」、「悉曇蔵巻5、6」等に出づ。<(望)

  (わ):梵字va。又嚩に作る。『大智度論巻48()注:嚩』参照。

  (ば):梵字va。悉曇五十字門の一。四十二字門の一。又婆、縛、和、に作る。「大品般若経巻5広乗品」に、「和字門は諸法語言道断に入るが故に」と云い、「瑜伽金剛頂経釈字母品」に、「嚩字門を称すれば一切法語言道断の故に」と云える是れなり。「大般若経巻53辯大乗品」、「大日経巻2具縁品」、「守護国界主陀羅尼経巻3陀羅尼品」等にも亦た同じく語言の義を出せり。是れ語言の義なる梵語嚩劫跛vaakya或いはvac、又はvaadaの語首に今の嚩字を有するが故に此の説をなすなり。「大日経巻7具縁品」の釈に、「嚩字門は一切諸法語言道断の故にとは、梵音の嚩劫跛を名づけて語言となす。若し嚩字を見る時、即ち一切の諸法は語言の地を離れざるを知るなり。是の諸法は因あり縁あらざることなきを以っての故なり。若し法本来不生ならば、則ち是れ諸の因縁を離る。是の故に語言道断なり。復た次ぎに若し法是れ作相ならば則ち宣説すべし、無作ならば則ち語言道断なり。(中略)復た次ぎに無相にも亦た定相なし。当に知るべし一切法は相に即して無相なり、非相に即して非無相なり。彼の三目の如く不可思議なることを。是の故に語言道断なり。余の法門も此れに例して知るべきなり」と云えり。以って其の義趣を見るべし。古来此の嚩字を縛baの字に区別して言説のva字と称す。又「方広大荘厳経巻4示書品」に、「婆(上声)字を唱うる時、最勝乗の声vara−yaana−zabdaを出す」と云い、「文殊師利問経巻上字母品」にも亦た勝乗の義を出せり。是れ最勝乗の梵語vara−yaanaが今の嚩字を冠するに由るなり。又「大般涅槃経巻8文字品」には、「和は如来世尊が諸の衆生の為に大法雨を雨す、所謂世間の呪術経書なり。是の故に和と名づく」と云い、「新華厳経巻76」には別に普生安住samataa−viruuDha−viThapanaの義を出せり。又「光讃般若経巻7観品」、「放光般若経巻4陀隣尼品」、「大智度論巻48」、「華厳経隨疏縁起鈔巻89」等に出づ。<(望)

多字門入諸法如相不動故。夜字門入諸法如實不生故。吒字門入諸法制伏不可得故。迦字門入諸法作者不可得故。婆字門入諸法時不可得故。諸法時來轉故。磨字門入諸法我所不可得故。伽字門入諸法去者不可得故。

「多」字の門より、諸法に入れば、如相は不動なるが故なり。「夜」字の門より、諸法に入れば、如実は不生なるが故なり。「吒」字の門より、諸法に入れば、制伏は不可得なるが故なり。「迦」字の門より、諸法に入れば、作者は不可得なるが故なり。「娑」字の門より、諸法に入れば、時は不可得なるが故なり。諸法は時来たれば転ずるが故なり。「磨」字の門より、諸法に入れば、我所は不可得なるが故なり。「伽」字の門より、諸法に入れば、去者は不可得なるが故なり。

   『多()字』が、

     『門』だ!とは、

     諸の、

       『法』に入れば、

         『如相(真実の相)』は、

         『動かない!』からである。

   『夜()字』が、

     『門』だ!とは、

     諸の、

       『法』に入れば、

         『如実(実の法)』は、

         『生じない!』からである。

   『吒()字』が、

     『門』だ!とは、

     諸の、

       『法』に入れば、

         『制伏(折伏)』は、

         『得られない!』からである。

   『迦()字』が、

     『門』だ!とは、

     諸の、

       『法』に入れば、

         『作者』は、

         『得られない!』からである。

   『娑()字』が、

     『門』だ!とは、

     諸の、

       『法』に入れば、

         『時』は、

         『得られない!』からであり、

     諸の、

       『法』は、

         『時』が来れば、

         『転ずる!』からである。

   『磨()字』が、

     『門』だ!とは、

     諸の、

       『法』に入れば、

         『我所』は、

         『得られない!』からである。

   『伽()字』が、

     『門』だ!とは、

     諸の、

       『法』に入れば、

         『去者』は、

         『得られない!』からである。

 

  (た):梵字ta。悉曇五十字門の一。四十二字門の一。又[多*頁]、哆、他、嚲、[木*哀]、或いは[木*衣@多]に作る。「瑜伽金剛頂経釈字母品」に、「多字門を称すれば一切法如如不可得の故に」と云い、「大品般若経巻5広乗品」に、「多字門は諸法如相不動に入るが故に」と云い、「方広大荘厳経巻4示書品」に、「多字を唱うる時、一切法真如無別異の声tathataasambheda−zabdaを出す」と云える是れなり。又「大般若経巻415念住等品」、「文殊問経字母品巻14」等に同じく真如の義を挙げ、「大日経巻2具縁品」にも亦た一切法如如不可得の義を出せり。「大智度論巻48広乗品の釈」に諸法如相不動の義を解し、「若し多字を聞かば、即ち諸法如中に在りて動ぜざるを知る。多他は秦に如と言う」と云えり。是れ蓋し如是の義なる梵語tathaa、又は真如の義なるtathataaが、今の多字を頭字となすに依りて此の説をなすなり。又「大日経疏巻7」に如如不可得の義を釈し、「多字門一切諸法故とは、梵の哆他多は是れ如如の義にして、語勢の中に兼ねて得の声あり。如如を証得するは即ち是れ解脱の義なり。如は謂わく諸法の実相なり、種種の不如実の見戯論皆滅せば、常に本性の如く破壊すべからず。若し多字門を見ば、即ち一切諸法皆是れ如如の相なるを知る」と云えり。之に依りて古来此の多字を如如の多字と称す。又「仏本行集経巻11習学技藝品」には、「多字を唱うる時、当に苦行tapasに向うべし、是の如きの声を出す」と云い、「守護国界主陀羅尼経巻3陀羅尼品」には一切法真実義の義を出し、「新華厳経巻16」には、「哆字門を唱うる時、般若波羅蜜門に入る。円満光と名づく」と云えり。又「大般若経巻490」、「華厳経普賢行願品巻31」、「大般涅槃経巻8」、「文殊師利問経巻上字母品」、「悉曇蔵巻5、6」等に出づ。<(望)

  (や):梵字ya。又野に作る。『大智度論巻48()注:野』参照。

  (や):梵字ya。悉曇五十字門の一。四十二字門の一。又夜、耶、也、邪、或いは計に作る。「大品般若経巻5広乗品」に、「夜字門は諸法如実不生に入るが故に」と云い、「大智度論巻48」に之を釈し、「若し夜字を聞かば、即ち諸法は実相中に入りて不生不滅なるを知る。夜他跛(yathaavat)は秦に実と言う」と云い、又「方広大荘厳経示書品」に、「也字を唱うる時、通達一切法の声yathaavad−dharma−prativedha−zabdaを出す」と云える是れなり。是れ「実に」或いは「正しく」の義なる梵語yathaavatの語首に今の夜字を有するを以って此の説をなすなり。又「大般涅槃経巻8」に、「耶とは是れ諸菩薩が在在処処に諸の衆生の為に大乗の法を説くなり。是の故に耶と名づく」と云い、又「大日経巻2具縁品」に、「野字門は一切諸法一切乗不可得の故に」と云えり。是れ乗の義なる梵語yaanaの語首に野字あるが故に此の釈をなすなり。「同疏巻7」に之を釈し、「梵に衍那と云う、此に翻じて乗と為し、亦た名づけて道と為す。人の舟車に乗馭すれば、則ち能く重きを遠に致して至到する所あるに任うるが如し。若し野字門を見ば、則ち一切衆生が種種の因縁を以って生死の果報に趣向し、及び涅槃に趣くには、各所乗あるを知り、亦た無量の諸乗は悉く是れ仏乗なりと知るを名づけて字相と為す。今諸法本不生を観ずるが故に即ち是れ無行無住不動不退なり、是の中、誰を乗者と為し、当に何の法に乗ずべけんや。復た次ぎに是の乗は三有の中より出でて薩婆若に至り、五百由旬、実処に非ざるものなし、何の道を行き、何の処に往詣せんことを欲せんや。是の故に一切乗不可得なるを乃ち摩訶衍道と名づく」と云えり。以って其の深趣を見るべし。又「旧華厳経巻57」には差別積聚saMbhedakuuTaの義を出せり。又「光讃般若経巻7観品」、「放光般若経巻4陀隣尼品」、「海意菩薩所問浄印法門経巻13」、「文殊師利問経巻上字母品」、「仏本行集経巻11習学技藝品」等に出づ。<(望)

  (た):梵字STa。又曹ノ作る。『大智度論巻48()注:早x参照。

  (た):梵字STa。悉曇四十二字門の一。又吒、瑟吒、或いは史吒に作る。「大品般若経巻5広乗品」に、「咤字門は諸法折伏不可得に入るが故に」と云い、「旧華厳経巻57」に、「史吒字を唱うる時、般若波羅蜜門に入るを普光明息諸煩悩と名づく」と云える是れなり。「大智度論巻48広乗品の釈」に、「若し吒(三本作咤)字を聞かば即ち一切法無障礙の相を知る。吒婆は秦に障礙と云う」と云えり。此の中、吒婆は其の綴字詳ならざるも、山田龍城氏は停止又は障礙の義なる梵語stambhaなるべしとせり。stambhaは其の語首staにして、今のSTaと同じからずと雖も、俗語に在りては往往両者の区別を失うことあるが故に、自ら是の如き説を生じたるものなるべし。又「光讃般若経巻7観品」には得至究竟、「放光般若経巻4陀隣尼品」には強垢不可見の義なりとせり。又「大般若経巻415念住等品」、「同巻490」、「新華厳経巻76」、「華厳経普賢行願品巻31」、「大方広仏華厳経入法界品四十二字観門」、「守護国界主陀羅尼経巻3陀羅尼品」、「不空羂索神変真言経巻14」、「華厳経隨疏演義鈔巻89」等に出づ。<(望)

  (か):梵字ka。悉曇五十字門の一。四十二字門の一。佉kha、賀ha等と区別せんが為に、古来之を作業の迦字と称す。「瑜伽金剛頂経釈字母品」に、「迦字門を称すれば一切法離作業の故に」と云い、「大品般若経巻5」に、「迦字門は諸法作者不可得に入るが故に」と云い、又「大智度論巻48」に此の文を釈して、「若し迦字を聞かば、即ち諸法中作者あることなきを知るなり。迦羅迦は秦に作者と言う」と云える是れなり。是れ蓋し迦の字を聞く時、迦を以って始まる迦羅迦kaaraka(作者)、又は迦哩耶kaarya(作業)等の字を連想するが故に此の説をなすなり。又「方広大荘厳経巻4」には、「迦字を唱うる時、入業果の声karma−vipaakaavataara−zabdaを出す」と云い、「大般涅槃経巻8」には、大慈悲(梵語karuNaaは悲の義なり)、「華厳経普賢行願品巻31」には普雲不断、「大日経巻6百字成就持誦品」には遠離造作等の諸義を出し、共に之を迦の字義となせり。又「大日経疏巻7」に作者の義を釈して、一切諸法は皆是れ造作の所成なりと知るを名づけて字相とし、畢竟じて無作なるを真実の義と名づくと云えるは、所謂字相字義の別を立て、更に其の義を明らかにしたるものなり。又「旧華厳経巻57」、「仏本行集経巻11」、「大方等大集経巻10」、「文殊師利問経巻上」、「大日経巻5布字品」、「守護国界主陀羅尼経巻3」、「不空羂索神変真言経巻14」、「悉曇字記」、「悉曇蔵巻5、6」等に出づ。<(望)

  (さ):梵字sa。悉曇五十字門の一。四十二字門の一。又薩、颯、拶、三、参、散、縒に作る。「瑜伽金剛頂経釈字母品」に、「娑字門を称すれば、一切法一切諦不可得の故に」と云い、「大日経巻2」に、「娑字門は、一切諸法一切諦不可得の故に」等と云えり。是れ梵語にて一切の義を有する薩婆sarva、及び諦の義を有する薩也satyaが、共に娑字を以って初まるが故に此の説あるなり。「大智度論巻48」に、「若し娑字を聞かば、即ち一切法一切種不可得と知る。薩婆は秦に一切と言う」と云い、又「大日経疏巻7」に、「梵に薩也と云う、此に翻じて諦と為す。諦は謂わく諸法の真相の如くにして而も知り、倒ならず謬ならず。説の如く日は冷ならしむ可く、月は熱ならしむ可きも、仏の説ける苦諦は異ならしむる可からず。集は真に是れ因にして更に異因なし、因滅すれば則ち果滅す。滅苦の道は即ち是れ真の道なり、更に余道なし。復た次ぎに涅槃に云わく、苦は無苦なりと解す。是の故に苦なく、而も真諦あり。余の三も亦た爾り。乃至四諦を分別するに、無量の相及び一実諦あり。聖行品の中に之を説くが如し。是れを字門の相と為す。然るに一切法本と不生なり、乃至畢竟無相なるが故に、語言断ずるが故に、本性寂なるが故に、自性鈍なるが故に、当に知るべし、無見無断無証無修なることを。是の如き見断証修悉く是れ不思議法界なり。亦空亦仮亦中にして、実ならず妄ならず、定相の示すべきなし、故に諦不可得という。中論四諦品の中に亦た広く其の義を辨ずるなり」と云える即ち其の意なり。又「文殊問経字母品」に、「娑字を称する時、一切智を現証する声なり」とあり、是れ梵語薩婆若saravajJaに一切智の義あるに由るが故なり。又「新華厳経巻76」に、「娑字を唱うる時、般若波羅蜜門に入るを降霔大雨と名づく」と云い、「大方広仏華厳経入法界品四十二字観門」に、「娑字を称する時、現前降霔大雨般若波羅蜜門に入り、一切法時平等性不可得を悟るが故に」と云えるは、恐らく梵語zabdaに音声の義あり、之を降霔大雨に喩説せしものなるべし。又「大品般若経巻5」に、「娑字門は諸法時不可得に入るが故に、諸法時来転の故に」と云えるは、梵語三摩耶samayaに時又は平等の義あるに由る。「大般涅槃経巻8」に、「諸の衆生の為に正法を演説して、心をして歓喜せしむ。是の故に娑と名づく」と云えるは、梵語薩怛sataに喜の義あるに由る。又「守護国界主陀羅尼経巻3」に、「娑字印とは、四真諦皆平等と悟るが故に」と云えるは、梵語薩也及び三摩耶の二語の義を併せ取り、以って其の解を付せるものなるべし。又「大般泥洹経巻5」、「文殊師利問経巻上」、「方広大荘厳経巻4」、「旧華厳経巻57」、「華厳経疏巻59」、「同随疏演義鈔巻89」、「大日経疏巻8、10、19」、「悉曇字記」、「悉曇蔵巻5、6」等に出づ。<(望)

  (ま):梵字ma。又摩に作る。『大智度論巻48()注:摩』参照。

  (ま):梵字ma。悉曇五十字門の一。四十二字門の一。又麼、莽、磨に作る。「大品般若経巻5広乗品」に、「磨字門は諸法我所不可得に入るが故に」と云い、「大智度論巻48」に之を釈し、「若し摩字を聞かば即ち一切法我所を離るるを知らん。魔迦羅は秦に我所と言う」と云える是れなり。是れ我所の義なる梵語mamakaaraが今の摩ma字を頭首となすが故に此の説をなせるものなり。又「方広大荘厳経巻4示書品」に、「摩(上声)字を唱うる時、銷滅一切憍慢の声mada−maanoopazamana−zabdaを出す」と云えるは、憍の義なる梵語mada、慢の義なる梵語maanaが共に摩ma字を以って頭首となすに由るなり。又「旧華厳経巻33」に、「摩字を唱うる時、般若波羅蜜門に入る。大流湍激し、衆峯斉しく峙ゆ」と云い、「大般涅槃経巻8」に、「摩は是れ諸菩薩の厳峻の制度なり。所謂大乗の大般涅槃なり、是の故に摩と名づく」と云い、「仏本行集経巻11習学技藝品」に、「摩字を唱うる時、諸の生死一切の恐怖は最も畏るべしとなすと説き、是の如き声を出す」と云い、又「大日経巻2具縁品」に、「麼字門は一切諸法縛不可得の故に」と云えるは、亦た皆其の頭字、若しくは語中に摩字を含む語に就き其の説をなせるものなるべし。又「放光般若経巻4陀隣尼品」、「文殊師利問経巻上字母品」、「瑜伽金剛頂経釈字母品」、「守護国界主陀羅尼経巻3陀羅尼品」等に出づ。<(望)

  (が):梵字ga。又誐に作る。『大智度論巻48()注:誐』参照。

  (が):梵字ga。又伽、俄、哦、我、竭、犍、蘗等に作る。悉曇五十字門の一。四十二字門の一。伽ghaと区別せんが為に、古来之を行の誐字と称す。「瑜伽金剛頂経釈字母品」に、「誐字門を称すれば、一切法行不可得なり」と云い、「大般若波羅蜜多経巻415」に、「伽字門に入らば、一切法行動取性不可得の故に」と云える是れなり。蓋し行の義を有する梵語gamanaは、誐字を以って始まるが故に此の説をなすなり。又「方広大荘厳経巻4」には、「伽字を称する時、甚深法入縁起声gambhiira−dharma−pratiityasamutpaadaavataara−zadbaを出す」と云い、又「大般涅槃経巻8」には如来秘蔵(蔵は梵語garbha)の義、「華厳経普賢行願品巻31」には普輪積集の義を出し、又「大品般若経巻5」には去者の義を挙げ、「大智度論巻48」に之を釈して、「若し伽字を聞かば、即ち一切法底不可得なるを知る。伽陀は秦に底と言う」と云えり。但し伽陀gataは去者の義なり、今之を底の義となせるは、未だ其の所由を詳にせず。又「大日経疏巻7」には哦字行不可得の字義を釈して、行は謂わく去来進退不住の義なり。今阿字門より展転して之を釈せば、諸法本不生なるを以っての故に無作なり、無作なるが故に、則ち待対して説いて空とすべきなし。空は即ち不行の処なり、不行の処すら尚お不可得なり。況んや行処をや等と云えり。又「仏本行集経巻11」、「大方等大集経巻10」、「文殊師利問経巻上」、「華厳経入法界品四十二字観門」、「大日経巻2具縁品」、「同巻5布字品」、「守護国界主陀羅尼経巻3」、「悉曇字記」、「悉曇蔵巻5、6」等に出づ。<(望)

  :婆字門は、他本に従い娑字門に改む。

他字門入諸法處不可得故。闍字門入諸法生不可得故。簸字門入諸法簸字不可得故。[*]字門入諸法性不可得故。賒字門入諸法定不可得故。呿字門入諸法虛空不可得故。叉字門入諸法盡不可得故。

「他」字の門より、諸法に入れば、処は不可得なるが故なり。「闍」字の門より、諸法に入れば、生は不可得なるが故なり。「簸」字の門より、諸法に入れば、「簸」字は不可得なるが故なり。「駄」字の門より、諸法に入れば、性は不可得なるが故なり。「」字の門より、諸法に入れば、定は不可得なるが故なり。「呿」字の門より、諸法に入れば、虚空は不可得なるが故なり。「叉」字の門より、諸法に入れば、尽は不可得なるが故なり。

   『他()字』が、

     『門』だ!とは、

     諸の、

       『法』に入れば、

         『処』は、

         『得られない!』からである。

   『闍(じゃ)字』が、

     『門』だ!とは、

     諸の、

       『法』に入れば、

         『生』は、

         『得られない!』からである。

   『簸()字』が、

     『門』だ!とは、

     諸の、

       『法』に入れば、

         『簸字』は、

         『得られない!』からである。

   『駄()字』が、

     『門』だ!とは、

     諸の、

       『法』に入れば、

         『性』は、

         『得られない!』からである。

   『しゃ)字』が、

     『門』だ!とは、

     諸の、

       『法』に入れば、

         『定(禅定)』は、

         『得られない!』からである。

   『呿(きゃ)字』が、

     『門』だ!とは、

     諸の、

       『法』に入れば、

         『虚空』は、

         『得られない!』からである。

   『叉(しゃ)字』が、

     『門』だ!とは、

     諸の、

       『法』に入れば、

         『尽』は、

         『得られない!』からである。

 

  (た):梵字tha。悉曇五十字門の一。四十二字門の一。又侘、陀、或いは癉に作る。「瑜伽金剛頂経釈字母品」に、「他字門を称すれば一切法住処不可得なるが故に」と云い、「大品般若経巻5広乗品」に、「他字門は諸法処不可得に入るが故に」と云える是れなり。「大日経巻2具縁品」にも亦た同説を挙げ、「同経疏巻7」に之を釈し、「他字門一切法住処不可得故とは、梵音薩他娜は是れ住処の義、亦た是れ住の義なり。人の此の住処より某処に昇上するが如き、其の所依の処所を説いて名づけて住となす。諸の賢聖の地位も亦た是の如し」と云えり。是れ処の義なる梵語sthaanaの語中に(但し俗語にてはthaanaとなることあるが故に其の場合には語頭に)今の他字を含むに依りて此の説をなすなり。故に古来此の字を住処の他字と称す。又「大智度論巻48広乗品の釈」には如去の義を出し、梵語多陀阿伽陀tathaagataに就き其の義を解せり。又「方広大荘厳経巻4示書品」には勢力無畏声thaana−bala−vega−vaizaaradya−zabda、「文殊問経巻上字母品」には勇猛力速無畏声、「守護国界主陀羅尼経巻3陀羅尼品」には勢力不可得、「華厳経普賢行願品」には真如平等無分別蔵tathataasambheda−garbhaの義を出せり。又「大般若経巻415念住等品」、「同巻490」、「新華厳経巻76」、「大般涅槃経巻8」、「仏本行集経巻11習学技藝品」、「文殊問経釈字母品巻14」、「悉曇蔵巻5、6」等に出づ。<(望)

  (じゃ):梵字ja。又惹に作る。『大智度論巻48()注:惹』参照。

  (じゃ):梵字ja。悉曇五十字門の一。四十二字門の一。又闍、社、若、搓、嵯、喏、[*]、諾等に作る。「瑜伽金剛頂経釈字母品」に、「惹字門を称すれば一切法生不可得の故に」と云い、「大品般若経巻5」に、「闍字門は諸法生不可得に入るが故に」と云い、「大智度論巻48」に、「若し闍字を聞かば即ち諸法生老不可得を知る。闍提、闍羅は秦に生老と言う」と云えり是れなり。是れ蓋し生の義なる闍提jaati、老の義なる闍羅jaraaは共に惹ja字を以って初まるが故に此の説をなすなり。「大日経疏巻7」に惹字生不可得の義を釈し、「惹字門一切諸法生不可得故」とは、梵に喏哆也と云う、是れ生の義なり。泥団輪縄陶師等和合するが故に瓶生ずることあり、縷縄機紵織師等和合するが故に畳生ずることあり、持地築基梁椽泥草人功等和合するが故に舎生ずることあり、酪酪器鑽人功等和合するが故に蘇生ずることあり、種子地水火風虚空時節等和合するが故に牙生ずることあるが如し。内法の因縁も亦た是の如し、無明行等各各生因にして而も復た生ず。是の故に若し惹字門を見ば、即ち一切諸法は縁より生ぜざるなきを知らん。偈を説きて言うが如し、衆因縁生法、是即無自性、若無自性者、云何有是法と。是の故に生不可得なり。(中略)復た次ぎに阿字門は是れ諸法本性不生なり、惹字門は十喩を以って生を観ず、縁に従って有なりと雖も而も不可得なり。若し生畢竟不可得ならば則ち無生際に異ならず。又十喩は是れ心の影像にして法界を出でず、故に生も亦た無生際を出でざるなり」と云えり。是れ主として生に約して惹字の義を釈したるなり。古来之に依りて此の字を生の惹字と称し、他の鄼jha等と区別す。然るに「大般泥洹経巻5」には焼(jvala?)の義を挙げ、「新華厳経巻76」等には入世間海清浄jagat−saMsaaraM parizuddhy−avagaahanaの義を出せり。又「光讃般若経巻7」、「放光般若経巻4」、「大般若経巻53」、「普曜経巻3」、「方広大荘厳経巻4」、「仏本行集経巻11」、「新華厳経巻57」、「華厳経入法界品巻31」、「大方広仏華厳経四十二字観門」、「大般涅槃経巻8」、「文殊師利問経巻上字母品」、「文殊問経字母品巻14」、「大方等大集経巻10」、「海意菩薩所問経巻12」、「大日経巻2具縁品」、「守護国界主陀羅尼経巻3」、「悉曇字記」、「悉曇蔵巻5、6」等に出づ。<(望)

  (は):梵字sva。悉曇四十二字門の一。又波、鎖、或いは湿波、湿縛、娑嚩に作る。「大品般若経巻5広乗品」に、「簸字門は諸法簸字不可得に入るが故に」と云い、「大智度論巻48」に之を釈し、「若し湿波字を聞かば即ち一切法不可得を知る。湿波字不可得の如し。湿簸は義なきが故に釈せず」と云える是れなり。又「放光般若経巻4陀隣尼品」には、「二十一は湿波なり、湿波は諸法善不可得なり」と云い、「大般若経巻53辯大乗品」には、「湿縛字門に入らば、一切法安隠性不可得を悟るが故に」と云い、又「同巻415念住等品」、及び「同巻490善現品」にも一切法安隠性不可得の義を出せり。是れ蓋し善、安隠、吉祥、幸福、或いは幸運等の義なる梵語svastiの語首に、今のsva字を冠するが故に此の説をなせしものなるべし。又「新華厳経巻67」には、「鎖字を唱うる時、般若波羅蜜門に入るを念一切仏正勤saravabuddha−smRti−vyuuhaと名づく」と云い、「守護国界主陀羅尼経巻3陀羅尼品」には、「湿縛字印は煩悩所行皆遠離するが故に」と云えり。又「光讃般若経巻7観品」、「旧華厳経巻57」、「華厳経普賢行願品巻31」、「大方広仏華厳経入法界品四十二字観門」、「不空羂索神変真言経巻14」、「華厳経随疏縁起鈔巻89」等に出づ。<(望)

  [*](だ):梵字dha。又馱に作る。『大智度論巻48()注:馱』参照。

  (だ):梵字dha。悉曇五十字門の一。四十二字門の一。又駄、[*]、陀、拕、柂、咃、達、大、檀、弾、曇に作る。「瑜伽金剛頂経釈字母品」に、「駄字門を称すれば一切法界不可得の故に」と云い、「大品般若経巻5広乗品」に、「駄字門は諸法性不可得に入るが故に入るが故に」と云える是れなり。「大日経巻2具縁品」にも亦た法界不可得の義を挙げ、「同経疏巻7」に之を釈し、「[馬*犬]字門一切諸法法界不可得故とは、梵に達磨[*]キと云い、名づけて法界と為す。界は是れ体の義、分の義なり。仏の舎利も亦た如来[*]キと名づく。是れ如来の身分なるを言うなり。若し[馬*犬]字門を見ば即ち一切諸法悉く皆体ありと知る。謂わく法界を以って体となすなり。所以は何ぞ、若し諸法実相を離れば則ち一切法の体の義成ぜざるが故なり。夫れ法界とは即ち是れ心界なり。心界本と不生なるを以っての故に、当に知るべし法界も亦た本不生なり。乃至心界には得も無く捨も無きが故に、当に知るべし法界にも亦復た得も無く捨も無し。捨尚お自ら無く、法の捨すべき無し、況んや得すべけんや。若し法界は是れ可得の相ならば、即ち是れ衆因縁より生ずべし。若し衆因縁生ならば当に知るべし自ら本体無し、何に況んや諸法の体とならんや。故に法界は唯是れ自証常心にして別法なきなり」と云えり。是れ法界の義なる梵語dharma−dhaatu、又は法性の義なる梵語dharmataaが、今の馱字を以って頭首となすが故に此の説をなすなり。之に依りて古来此の字を法界の馱字と称す。又「方広大荘厳経巻4示書品」、並びに「文殊師利問経巻上字母品」には七聖財dhanam aaryaaNaaM saptavidhaMの義を挙げ、「旧華厳経巻57」には円満法聚dharma−maNDalaの義を出せり。又「放光般若経巻4陀隣尼品」、「光讃般若経巻7観門」、「大般若経巻415念住等品」、「仏本行集経巻11習学技藝品」、「新華厳経巻76」、「華厳経普賢行願品巻31」、「大方広仏華厳経入法界品四十二字観門」、「大般涅槃経巻8」、「文殊問経釈字母品巻14」、「大日経巻2具縁品」、「守護国界主陀羅尼経巻3陀羅尼品」、「大智度論巻48」、「華厳経隨疏縁起鈔巻89」、「悉曇蔵巻5、6」等に出づ。<(望)

  (しゃ):梵字za。又捨に作る。『大智度論巻48()注:捨』参照。

  (しゃ):梵字za。悉曇五十字門の一。四十二字門の一。又舎、、奢、[口*奢]、赦、柘、設、爍、鑠等に作る。「瑜伽金剛頂経釈字母品」に、「捨字門を称すれば一切法本性寂の故に」と云い、「大品般若経巻5」に、「字門は諸法定不可得に入るが故に」と云い、「大智度論巻48」に、「若し字を聞かば即ち諸法の寂滅相を知る。多は秦に寂滅と云う」と云える是れなり。是れ蓋し寂静又は寂滅の義を有する梵語多zaanta(又は扇底zaanti)が即ち捨za字を以って初まるが故に此の説をなすなり。「大日経疏巻7」に本性寂の義を釈し、「奢字門一切諸法本性寂故」とは、梵に扇底と云うは、此に翻じて寂となす。世間の凡夫の如きは少分恬怕の心を獲て誼動を止息す、亦た名づけて寂と為す。乃至二乗の人等は、永く諸行の輪迴を断じて涅槃の証を得、亦た名づけて寂と為す。而も本性寂なるに非ず。然る所以は、諸法は本より来た常に自ら寂滅の相なり。三界六道何物か是れ涅槃に非ざらん。無漏の智生ずる時、復た凡夫と何ぞ異ならん。而も今独り其の中に於いて滅度の想を作す、豈に顛倒に非ずや。又若し諸法本性寂ならば、四十二地の中に於いて何者か是れ如来地に非ざらん、何者か是れ凡夫地に非ざらん。若し弥勒菩薩は本性寂を以っての故に一生の記を得ば、一切衆生も皆亦た応に記を得べし。若し一切衆生は本性寂の中に於いて凡夫の事を修学するを妨げずんば、弥勒菩薩も亦た応に凡夫の事を修学すべし。而も今差別の相を為すは豈に戯論に非ずや。若し奢字門に入る時、則ち是の法平等にして高下あることなく、常に動ずる所なくして而も為さざる所なきを知らん。故に云わく解脱の中には容受する所多しと。大般涅槃能く大義を建つとは皆此れを以ってなり」と云えり。是れ捨字寂静の義を明かにせるなり。古来此の説に依りて此の字を寂滅の捨字と名づけ、他の灑Sa等と区別す。蓋し捨字門を説くの経は多く寂静の義を挙ぐるも、「方広大荘厳経巻4」、「大方等大集経巻10」、「海意菩薩所問経巻12」、「文殊師利問経巻上字母品」等には、奢摩他毘鉢舎那zamatha−vipazyanaの義とし、「文殊問経字母品巻14」には、信進念定慧(zraddha−viirya−smRti−samaadhi)の義を出し、「大般涅槃経巻8」には、「奢とは三箭を遠離す、是の故に奢と名づく」と云い、「新華厳経巻78」には、「奢字を唱うる時、般若波羅蜜門に入る。随順一切仏教輪光明と名づく」と釈せり。又「放光般若経巻4」、「光讃般若経巻7」、「大般若経巻53」、「仏本行集経巻11」、「旧華厳経巻57」、「華厳経入法界品巻31」、「大方広仏華厳経四十二字観門」、「大般泥洹経巻5」、「大日経巻2具縁品」、「華厳経隨疏縁起鈔巻89」、「悉曇蔵巻5、6」等に出づ。<(望)

  (きゃ):梵字kha。又佉に作る。『大智度論巻48()注:佉』参照。

  (きゃ):梵字kha。悉曇五十字門の一。四十二字門の一。又呿、渇等に作る。「瑜伽金剛頂経釈字母品」に、「佉字門を称すれば一切法等虚空不可得の故に」と云い、「大品般若経巻5広乗品」に、「呿字門は諸法虚空不可得に入るが故に」と云える是れなり。又「方広大荘厳経巻4」に之を一切諸法如虚空声kha−sama−sarvadharma−zabdaと釈し、「大方等大集経巻10」、「文殊問経巻上字母品」、「不空羂索神変真言経巻14」、「守護国界主陀羅尼経巻3」等にも皆此の義を出せり。故に此の字を亦等空の佉字と称す。然るに「華厳経普賢行願品巻31」には、因地現前智慧蔵abhisaMskaaraH hetu−bhuumi−jJaana−garbhaMの義とし、「仏本行集経巻11」には、教拔一切煩悩根本の義とし、「大般涅槃経巻8」には、「佉は非善友に名づく、非善友とは名づけて雑穢となす。如来秘密の蔵を信ぜず。是の故に佉と名づく」と云えり。又「大日経疏巻7」に佉字等空の義を解して、「梵音の佉字は是れ虚空の義なり。世間に虚空は是れ無生無作の法なりと共許す。若し一切法本不生にして諸の作を離るれば、是れ畢竟じて虚空相の如し。今此の空相も亦た復た不可得なり」と云えり。蓋し佉khaは虚空の義なるが故に、字相釈に於いては等虚空の声とし、深密釈に於いては虚空不可得の義ありとするなり。凡そ一切法本不生にして、諸の作と作者とを離れ、世間に之を況喩すえきものなきも、唯虚空は少分相似たるが故に、今法性難解の空を以って、世間易解の空に例して、一切諸法等虚空と云うのみ。然るに世人は諸法等虚空の説を聞いて、畢竟空寂の見に堕せんことを恐れ、重ねて其の空相も亦復た不可得なりと遣除し、以って絶対の大空を顕わしたるなり。又密教にて六大を説く中、此の字を以って空大の種子とす。又「仏般泥洹経巻5」、「文殊問経字母品巻14」、「華厳経入法界品四十二字観門」、「大日経巻2共縁品」、「同巻6百字成就持誦品」、「大智度論巻48」、「悉曇字記」、「悉曇蔵巻5、6」等に出づ。<(望)

  (しゃ):梵字kSa。又乞灑に作る。『大智度論巻48()注:乞灑』参照。

  乞灑(きしゃ):梵字kSa。悉曇五十字門の一。四十二字門の一。又乞叉、乞察、乞産、吃叉、差、叉、羼、[共@木]、葛、刹等に作る。「瑜伽金剛頂経釈字母品」に、「乞灑字門を称せば、一切法尽不可得なるが故に」と云い、「大品般若経巻5」に、「叉字門は諸法尽不可得に入るが故に」と云える是れなり。是れ梵音乞叉耶kSayaは、即ち尽の義なるに取るなり。又「旧華厳経巻57」に息諸業海蔵蘊と云い、「守護国界主陀羅尼経巻3」に尽智等と云えるも亦た皆其の義なり。仍りて此の字を普通に尽の乞灑字と称す。又「方広大荘厳拲巻4」には、「差字を唱うる時、諸文字不能詮表一切法の声akSara−paryantaabhiliipya sarva−dharma−zabdaを出す」と云い、「大方等大集経巻4」には、此の字に忍(kSaanti)の義を挙げ、「出生無辺門陀羅尼経」には、刹那(kSanika)、無尽(akSaya)等の義を出せり。此等は総べて連想法によりて、kSaの音を聞く時、直に其の音を含める如上の語を想起するを以ってなるべし。蓋し乞灑は本来の字母にあらざれども、梵字子音の首位たる迦と最後の灑とを重ねて、異体重字の例として挙げられしものにして、同体重字の例たる濫llaM字と共に、悉曇家に依りて字母の末尾に附せられたるなり。故に五十字門系の字門を論ぜる諸経中には、或いは此の字を説かざるものあり。「大般涅槃経巻8」の如き其の例なり。又「放光般若経巻4」、「大般若波羅蜜多経巻415」、「文殊問経字母品巻14」、「大智度論巻48」、「大方広仏華厳経入法界品四十二字観門」、「華厳経随疏演義鈔巻89」、「慧琳音義巻2」、「悉曇字記」、「悉曇蔵巻1、5、6」等に出づ。<(望)

  :[馬*犬]は、都合により駄に改む。

哆字門入諸法有不可得故。若字門入諸法智不可得故。拖字門入諸法拖字不可得故。婆字門入諸法破壞不可得故。車字門入諸法欲不可得故。如影五眾亦不可得故。魔字門入諸法魔字不可得故。火字門入諸法喚不可得故。

「哆」字の門より、諸法に入れば、有は不可得なるが故なり。「若」字の門より、諸法に入れば、智は不可得なるが故なり。「拖」字の門より、諸法に入れば、「拖」字は不可得なるが故なり。「婆」字の門より、諸法に入れば、破壊は不可得なるが故なり。「車」字の門より、諸法に入れば、欲は不可得なるが故なり。影の如き五衆も亦た不可得なるが故なり。「魔」字の門より、諸法に入れば、「魔」字は不可得なるが故なり。「火」字の門より、諸法に入れば、喚は不可得なるが故なり。

   『哆()字』が、

     『門』だ!とは、

     諸の、

       『法』に入れば、

         『有』は、

         『得られない!』からである。

   『若(にゃ)字』が、

     『門』だ!とは、

     諸の、

       『法』に入れば、

         『智』は、

         『得られない!』からである。

   『拖()字』が、

     『門』だ!とは、

     諸の、

       『法』に入れば、

         『拖字』は、

         『得られない!』からである。

   『婆()字』が、

     『門』だ!とは、

     諸の、

       『法』に入れば、

         『破壊』は、

         『得られない!』からである。

   『車(しゃ)字』が、

     『門』だ!とは、

     諸の、

       『法』に入れば、

         『欲』は、

         『得られない!』からであり、

       『影』のような、

         『五衆』も亦た、

         『得られない!』からである。

   『魔()字』が、

     『門』だ!とは、

     諸の、

       『法』に入れば、

         『魔事』は、

         『得られない!』からである。

   『火()字』が、

     『門』だ!とは、

     諸の、

       『法』に入れば、

         『喚(よぶ!こと)』は、

         『得られない!』からである。

 

  (た):梵字sta。悉曇四十二字門の一。又侈、薩[多*頁]、娑多、娑哆、尸癉、或いは沙多也阿に作る。「大品般若経巻5広乗品」に、「哆字門は諸法有不可得に入るが故に」と云い、「旧華厳経巻57」に、「娑多字を唱うる時、般若波羅蜜門に入るを蠲諸惑障開浄光明sarvakleza−vikiraNa−vizudhi−prabhaと名づく」と云える是れなり。此の中、「大品般若経」の諸法有の説は、恐らく「彼れ有り」の義なる梵語asti(動詞asの三人称単数現在の形)の語中に今のst(a)字を含むに因めるものなるべし。然るに「大智度論巻48広乗品の釈」には諸法辺不可得の義を出し、梵語阿利迦哆度求那に是事辺得何利の義あるに由るとなせり。又「守護国界主陀羅尼経巻3陀羅尼品」には、「娑多也阿字印は昏沈懈怠の障を遠離するが故に」と云えり。沙多也阿(阿は那歟)は梵語styaanaの音写にして、正しく昏沈の義なり。又「光讃般若経巻7観品」、「放光般若経巻4陀隣尼品」、「大般若経巻415念住等品」、「同巻490」、「新華厳経巻76」、「華厳経普賢行願品巻31」、「大方広仏華厳経入法界品四十二字観門」、「華厳経随疏演義鈔巻89」等に出づ。<(望)

  (にゃ):梵字jJa。悉曇四十二字門の一。又壤、孃、[悟−吾+若]、枳穣に作る。「大品般若経巻5広乗品」に、「若字門は諸法智不可得に入るが故に」と云い、「新華厳経巻76」に、「壤字を唱うる時、般若波羅蜜門に入るを名づけて世間智慧門と作す」と云える是れなり。是れ智の義なる梵語jJaanaの始めに今のjJa字あるが故に此の説を作すなり。又「大般若経巻415念住等品」に、「若字門に入らば、悟一切法所了知性不可得の故に」と云えるも亦た同義なりというべし。又「光讃般若経巻7観品」、「放光般若経巻4陀隣尼品」、「華厳経普賢行願品巻31」、「大方広仏華厳経入法界品四十二字観門」、「守護国界主陀羅尼経巻3陀羅尼品」、「大智度論巻48」、「華厳経随疏演義鈔巻89」等に出づ。<(望)

  (た):梵字rtha。又拕に作る。『大智度論巻48()注:拕』参照。

  (た):梵字rtha。悉曇四十二字門の一。又拖、他、伊陀、辣他、囉他、咤呵、曷攞多、曷囉多に作る。「大品般若経巻5広乗品」に、「拕字門は諸法拕字不可得に入るが故に」と云い、「新華厳経巻76」に、「曷攞多字を唱うる時、般若波羅蜜門に入るを生死境界智慧輪saMsaara−praticakra−jJaana−maNDaraと名づく」と云える是れなり。「大智度論巻48広乗品の釈」に、「若し他字を聞かば即ち、一切法義不可得を知る。阿他は秦に義と云う」と云い、「放光般若経巻4陀隣尼品」、「大般若経巻415念住等品」にも亦た同じく義不可得の義を出せり。是れ意義又は義理の義なる梵語arthaが、其の語中に今のrtha字を含むを以って此の説をなすなり。又「光讃般若経巻7観品」には逮得所持の義、「華厳経普賢行願品巻31」には利益衆生無我無人智慧灯の義を出せり。又「大般若経巻490」、「大方広仏華厳経入法界品四十二字観門」、「華厳経義疏演義鈔巻89」等に出づ。<(望)

  (ば):梵字bha。悉曇五十字門の一。四十二字門の一。又縛、嘙、繁、、或いは披何に作る。「瑜伽金剛頂経釈字母品」に、「婆(重)字門を称すれば一切法有不可得の故に」と云い、「方広大荘厳経巻4示書品」に、「婆字を唱うる時、一切有の声bhava−vibhava−zabdaを出す」と云える是れなり。「仏本行集経巻11習学技藝品」、「文殊師利問経巻上字母品」、「大日経巻2具縁品」等にも亦た同じく有の義を出せり。是れ有或いは生起の義なる梵語bhavaの語首に今の婆字を有するが故に此の説をなすなり。又「大品般若経巻5広乗品」に、「婆字門は諸法破壊不可得に入るが故に」と云い、「大智度論巻48」に之を釈し、「若し婆字を聞かば即ち一切法不可破の相を知る。婆伽は秦に破と言う」と云えり。是れ破壊或いは等分の義なる梵語婆伽bhaagaが今の婆字を冠するに由るなり。又「新華厳経巻76」に、「婆字を唱うる時、般若波羅蜜門に入るを一切智宮殿円満荘厳sarva−bhavana−maNDara−vijJapti−vyuuhaと名づく」と云えるは、宮殿の義なる梵語bhavanaに今の婆字を含むが故なり。又「大日経巻6百字成就持誦品」に、「或いは一切法諸観不可得の故に婆字形を現ず」と云い、「守護国界主陀羅尼経巻3陀羅尼品」に、「婆字印は慣習観察覚悟の体なるが故に」と云えるは、修習、慣習、又は観想の義なる梵語bhaavanaaに今の婆字を冠するに由るなり。又「大般涅槃経巻8文字品」に、「を名づけて重擔堪任荷負無上正法と為す。当に知るべし是の人は是れ大菩薩なり、是の故にと名づく」と云えるは、重擔の義なる梵語bhaaraが其の語首に今の婆字を有するが故なり。又「光讃般若経巻7観品」、「大日経疏巻7」等に出づ。<(望)

  (さ):梵字cha。又磋に作る。『大智度論巻48()注:磋』参照。

  (さ):梵字cha。悉曇五十字門の一。四十二字門の一。又車、虫、綽等に作る。「瑜伽金剛頂経釈字母品」に、「磋字門を称すれば、一切法影像不可得なるが故に」と云い、「大品般若経巻5」に、「車字門は諸法欲不可得に入るが故に、影の如く五衆も亦た不可得なるが故に」と云える是れなり。是れ影像の義を有する梵語車野chaayaaが、今の磋字を以って初まるが故に此の説をなすなり。「大日経疏巻7」に、「車字門一切諸法影像不可得とは、梵音車野は是れ影の義なり。人の影像は皆自身に依るが如く、是の如く三界の万法は唯是れ識心なり、因縁変じて衆境に似たり。是の事は広く密厳経に説くが如し。乃至瑜伽を修する者に種種不思議の事あり、或いは能く面たり十方諸仏の普現色身を見る、亦た皆是れ心の影像なり。心本不生を以っての故に、当に知るべし影像も亦た所生なし。所生なきが故に乃至心に遷変なし、故に影像にも亦た遷変なし。然る所以は影に自ら定性なく、行止身に随うが如く、心の影も亦た爾り、心動ずるを以って戯論を作し、一念も住する時なきが故に、世間万用亦復た之が為に流転す。若し心に如実の相を了する時、影も亦た如実の相なり。故に不可得なり」と云えるは即ち其の義を説けるものなり。古来漢音相似たる娑sa、左ca等に簡別せんが為に、此の字を影像の磋字と称するは此の義に由る。又「方広大荘厳経巻4」には貪欲chandas、「文殊師利問経巻上字母品」には欲染icchaa、「華厳経普賢行願品巻31」には覆輪chattra−maNDara、「大般涅槃経巻8」には覆陰、「大方広仏華厳経入法界品四十二字観門」には欲楽覆性、「文殊問経字母品巻14」には不覆欲、「放光般若経巻4」、「普曜経巻3」には棄cchinna、「大智度論巻48」には去gacchati(伽車底)等の諸義を挙げ、並びに之を磋字の義となせり。又「大方等大集経播き10」、「大日経巻2具縁品」、「同巻5布字品、「守護国界主陀羅尼経巻3」、「不空羂索神変真言経巻14」、「悉曇字記」、「悉曇蔵巻5、6」等に出づ。<(望)

  (ま):梵字sma。又摩に作る。『大智度論巻48()注:摩』参照。

  (ま):梵字sma。悉曇四十二字門の一。又魔、娑摩、娑莽、颯磨、湿麼に作る。「大般若経巻415念住等品」に、「颯磨字門は悟一切法可憶念性不可得に入るが故に」と云い、「守護国界主陀羅尼経巻3陀羅尼品」に、「娑莽字印は念不動にして忘失なきが故に」と云える是れなり。是れ憶念又は念の義なる梵語smRtiが今のsma字を頭首となすが故に此の説をなすなり。又「大品般若経巻5広乗品」に、「摩字門は諸法摩字不可得の故に」と云い、「大智度論巻48」に之を釈し、「若し湿麼字を聞かば、即ち諸法牢堅にして金剛石の如くなるを知らん。阿湿麼は秦に石と言う」と云えるは、石の義なる梵語azmanの語が今のsmaに類似するに由るなり。又「華厳経普賢行願品巻31」には、「娑麼字を唱うる時、能く甚深にして般若波羅蜜門に入る。十方に随順して諸仏の旋転蔵を現見すと名づく」と云えり。又「大般若経巻490」、「新華厳経巻76」、「海意菩薩所問浄印法門経巻12」等に出づ。<(望)

  (か):梵字hva。悉曇四十二字門の一。又叵、火婆、訶婆、訶嚩、嗑縛、或いは沙波等に作る。「大品般若経巻5」に、「火字門は、諸法喚不可得に入るが故に」と云い、又「大智度論巻48」に、「火婆夜は秦に喚来と言う」と云える是れなり。是れ梵語にて呼召の義なる動詞語根hve、又は其れより転化せる名詞火婆夜hvayaが、孰れも訶嚩の字を以って始まれるにより、之に呼召の義を附したるなり。又「旧華厳経巻57」に、「訶婆の字を唱うる時、般若波羅蜜門に入り、一切無縁の衆生を観察して、方便し摂受して海蔵を生ぜしむるに名づく」と云い、「華厳経入法界品四十二字観門」に、「訶嚩の字を称する時、一切の衆生を観察して堪任力徧く生ずる海蔵般若波羅蜜門に入る。一切法可呼召性不可得なりと悟る故に」と云い、「華厳経疏巻59」に、「訶婆字は即ち可呼召性なり、無縁を召して有縁ならしむるが故に」と云えるは皆其の意なり。即ち地の克く一切法を搭載し、海の能く一切法を包蔵するが如く、仏陀大悲の堪任力は能く一切法を呼召し、無縁の悲を以って摂受して有縁ならしむ。而して諸法本不生なりと観ずれば、能召所召、隔歷不融なるに非ず、非生非仏にして而も能く能所の相を現じ、所謂滅すべき生死の法、生ずべき涅槃の理なく、呼召の体の定む可き無きが故に、呼召の性不可得なりと説けるなり。若し之を以って三般若を顕わさば、訶嚩字は文字般若、此の字に依りて般若波羅蜜門に入るは観照般若、此の字の実体たる本不生を悟るは実相般若なりとす。但し諸経中、火字門を説くもの多くは此の字義を出せるも、「光讃般若経巻7観品」には而得至信、「放光般若経巻4陀隣尼品」には不可分別の義を挙げたり。又「大般若波羅蜜多経巻53」、「新華厳経巻76」、「守護国界主陀羅尼経巻3陀羅尼品」、「慧苑音義巻下」、「慧琳音義巻2」等に出づ。<(望)

蹉字門入諸法蹉字不可得故。伽字門入諸法厚不可得故。[*]字門入諸法處不可得故。拏字門入諸法不來不去不立不坐不臥故。頗字門入諸法邊不可得故。歌字門入諸法聚不可得故。

「蹉」字の門より、諸法に入れば、「蹉」字は不可得なるが故なり。「伽」字の門より、諸法に入れば、厚は不可得なるが故なり。「咃」字の門より、諸法に入れば、処は不可得なるが故なり。「拏」字の門より、諸法に入れば、不来、不去、不立、不坐、不臥なるが故なり。「頗」字の門より、諸法に入れば、辺は不可得なるが故なり。「歌」字の門より、諸法に入れば、聚は不可得なるが故なり。

   『蹉()字』が、

     『門』だ!とは、

     諸の、

       『法』に入れば、

         『蹉字』は、

         『得られない!』からである。

   『伽()字』が、

     『門』だ!とは、

     諸の、

       『法』に入れば、

         『厚』は、

         『得られない!』からである。

   『咃()字』が、

     『門』だ!とは、

     諸の、

       『法』に入れば、

         『処』は、

         『得られない!』からである。

   『拏()字』が、

     『門』だ!とは、

     諸の、

       『法』に入れば、

       是れは、

         『不来、不去、不立、不坐、不臥』だからである。

   『頗()字』が、

     『門』だ!とは、

     諸の、

       『法』に入れば、

         『辺』は、

         『得られない!』からである。

   『歌()字』が、

     『門』だ!とは、

     諸の、

       『法』に入れば、

         『聚』は、

         『得られない!』からである。

 

  (さ):梵字tsa。又嗟に作る。『大智度論巻48()注:嗟』参照。

  (さ):梵字tsa。悉曇四十二字門の一。又蹉、縒、哆娑等に作る。「大智度論巻48」に、「若し蹉字を聞かば即ち一切法無慳無施相を知る。末嗟羅は秦に慳と云う」と云える是れなり。是れ慳又は嫉の義を有する梵語末嗟羅maatsaryaが、其の中に今の嗟字を含むが故に此の説をなすなり。又「光讃般若経巻7」には尽滅、「放光般若経巻4」には死亡、「大般若経巻53」には勇健性、「守護国界主陀羅尼経巻3」には勇猛等の諸義を挙げ、又「新華厳経巻76」には修行趣入一切功徳海の義を出せり。「華厳経随疏演義鈔巻89」に其の義を釈して「疏に三十三縒字は別訳に哆娑字となす。若し経に会せば、勇健にして方に能く功徳に修入す。智論に云わく、若し縒字を聞かば即ち一切法無慳無施を知る。末縒羅は此に慳と言うを以っての故にと。釈して曰わく、無慳最勇健施を行の首となす、勇にして能く行ずるが故に偏に説くのみ」と云えり。又「大方広仏華厳経入法界品四十二字観門」、「慧琳音義巻2」等に出づ。<(望)

  (が):梵字gha。悉曇五十字門の一。四十二字門の一。又恒、[口*恒]、鍵、等に作る。誐gaと区別せんが為に、古来之を一合の伽字と称す。「瑜伽金剛頂経釈字母品」に、「伽字を称すれば、一切法一合不可得なるが故に」と云い、「大日経巻6百字成就持誦品」に、「或いは諸法一合相不可得の故に、伽字の形を現ず」と云える是れなり。又「方広大荘厳経巻4」には、「伽字を唱うる時、除滅一切無明黒闇厚重瞖膜声ghana−paTalaavidyaa−mohaandhakaara−zabdaを出す」と云い、「華厳経入法界品四十二字観門」には、「伽字を称する時、持一切法雲堅固海蔵般若波羅蜜門に入り、一切法厚平等性不可得を悟るが故に」と云い、又「同普賢行願品巻31」に法雲堅固、「文殊問経字母品巻14」に稠密無明、「守護国界主陀羅尼経巻3」に重雲無明等の義を出し、又「大品般若経巻5」には、「伽字門は諸法厚不可得に入るが故に」と云えり。此等は「大智度論巻48」に言うが如く、厚の義を有する梵語伽那ghanaの意義を種種に説き顕わせるものなり。又「大日経疏巻7」に伽字一合相の義を釈して、梵に伽那と云うは是れ密合の義なり。衆微相合して一の細塵と成るが如く、諸蘊相合して一身等と成る。凡そ物皆異なるを以っての故に合あり、而るに今一切法は異相不可得なり、是の故に合なし、字門を以って展転して釈するが故なり。復た次ぎに若し諸法各異相ならば、終に合の時なし。若し本不生際に至らば、則ち異相もなく、亦た合す可からず。是の故に一切法は畢竟じて合なきなりと云えり。又「仏本行集経巻11」、「文殊師利問経巻上」、「大般涅槃経巻8」、「大般若波羅蜜多経巻490」、「大日経巻2具縁品」、「同巻5布字品」、「不空羂索神変真言経巻14」、「悉曇字記」、「悉曇蔵巻5、6」等に出づ。<(望)

  (た):梵字Tha。又咤に作る。『大智度論巻48()注:咤』参照。

  (た):梵字Tha。悉曇五十字門の一。四十二字門の一。又吒、侘、、詫、他、咃、或いはに作る。「瑜伽金剛頂経釈字母品」に、「咤字門を称すれば一切法長養不可得の故に」と云い、「大品般若経巻5広乗品」に、「他字門は諸法処不可得に入るが故に」と云える是れなり。「大智度論巻48広乗品の釈」に諸法処不可得の義を解し、「他字を聞かば即ち諸法無住処を知る。南天竺の他那は秦に処と言う」と云えり。是れ南印度の俗語なるThaana(雅語にはsthaana、現今の巴梨語も亦たThaanaに作る)は処の義なるを以って、其の頭字の他Tha字に処不可得の義ありとなせるものなり。又「大日経巻2具縁品」に長養不可得の義を出し、「同疏巻7」に之を解し、「梵音毘咤鉢那は是れ長養の義なり。世間の種子を因と為し、五大時節を縁と為し、漸次滋長して果実を成ずることを得るが如く、内法も亦た爾り、業田の中に於いて識の種子を下し、無明に覆われ、愛水に潤せられて而も滋長するを得。稲竿経の中に広く明かすが如し。今此の経の違世順世の八心の相続増長するにも亦た因縁あり、乃至浄菩提心は五字門を以って縁と為して大悲の根を生じ、仏の沙羅樹増長を弥布して法界に満ず。而るに一切の法は即ち此の五字門の本不生離言説自性浄無因縁如虚空相に由るが故に長養不可得なり」と云えり。是れ梵語毘咤鉢那viThapanaは長養の義にして、其の語中にTha字を含むとなすの意なり。蓋しviThapanaは、viSThaapana(存在せしむることの義)より来たれる仏教梵語なるべく、之を長養と翻じたるものなるべし。又「方広大荘厳経巻4示書品」に、「吒字を唱うる時、置答声Thapaniiya−prazna−zabdaを出す」と云い、「文殊問経巻上字母品」にも同義を載せり。又「大般若経巻415」に、「一切法厚平等性不可得」と云い、「同巻490」に、「一切法積集之性不可得」と云い、「守護国界主陀羅尼経巻3」に、「字印とは積集諸行窮尽体の故に」と云い、又「大般涅槃経巻8」には、「侘は法身の具足すること喩えば満月の如し。是の故に侘と名づく」と云えり。此の中、涅槃経の説は咤Thaの字形が満月に似たるより下されたる解釈なり。故に古来悉曇家に在りては此の字を満月の咤字と呼び、或いは字母品等の説に依りて長養の咤字とも称するなり。又「旧華厳経巻57」、「新華厳経巻76」、「華厳経普賢行願品巻31」、「大方広仏華厳経入法界品四十二字観門」、「仏本行集経巻11習学技藝品」、「文殊師利問経字母品巻14」、「大日経巻2具縁品」、「悉曇蔵巻5、6」等に出づ。<(望)

  (だ):梵字Na。悉曇五十字門の一。四十二字門の一。又挐、那、儜に作る。「瑜伽金剛頂経釈字母品」に、「拏字門を称すれば一切法諍不可得の故に」と云い、「大品般若経巻5広乗品」に、「拏字門は諸法不来不去不立不坐不臥に入るが故に」と云える是れなり。此の中、諍不可得の義は、諍闘の意なる梵語raNaの語中に今の拏字を含むによりて此の説をなすなり。又「大智度論巻48広乗品の釈」に、諸法不来等の義は、南天竺の拏に不の義あるに由るとなせり。又「方広大荘厳経巻4示書品」には、「拏字を唱うる時、永拔微細煩悩の声reNu−kleza−zabdaを出す」と云い、「仏本行集経巻11習学技藝品」にも微細の義を出せり。是れ微塵の義なる梵語reNuに今の拏字を含むに因るなり。又「旧華厳経巻57」には、「拏字を唱うる時、般若波羅蜜門に入るを不動字輪聚集諸億字cakraakaaraM koTi−vicayamと名づく」と云い、「文殊師利問経巻上字母品」には除諸煩悩の義を出せり。古来「金剛頂経釈字母品」の説に依り、此の字を諍の拏字と称するなり。又「放光般若経巻4陀隣尼品」、「光讃般若経巻7観品」、「大般若経巻415念住等品」、「同巻490」、「新華厳経巻76」、「華厳経普賢行願品巻31」、「大方広仏華厳経入法界品四十二字観門」、「大般涅槃経巻8」、「文殊問経釈字母品巻14」、「悉曇蔵巻5、6」等に出づ。<(望)

  (は):梵字pha。悉曇五十字門の一。四十二字門の一。又破、或いは娑頗に作る。「大品般若経巻5広乗品」に、「頗字門は諸法遍不可得の故に」と云い、「大智度論巻48」に之を釈し、「若し頗字を聞かば即ち一切法因果空を知るが故なり。頗羅は秦に果と言う」と云い、「方広大荘厳経巻4示書品」に、「頗字を唱うる時、果入現証声phala−pratisaakSaat−kriyaa−zabdaを得」と云える是れなり。是れ果の義なる梵語phalaの語首に今の頗字を有するを以って此の説をなすなり。又「瑜伽金剛頂経釈字母品」に、「頗字門を称すれば一切法堅ならず、聚沫の如きが故に」と云い、「大日経巻2具縁品」にも亦た聚沫(西蔵語dbu−ba)の義を出せり。是れ聚沫の梵語沛奴phenaが今の頗字を冠するが故なり。又「大般涅槃経巻8文字品」には、「頗は是れ世間の災なり。若し世間の災起る時、三宝も亦た尽くと言わば、当に知るべし是の人は愚癡無智にして聖旨に違失するを。是の故に頗と名づく」と云い、「華厳経普賢行願品巻31」には、教化衆生究竟円満処sarva−sattva par ipaaka−keTigata maNDalaの義を出せり。又「仏本行集経巻11習学技藝品」、「光讃般若経巻7観品」、「放光般若経巻4陀隣尼品」、「文殊師利問経巻上字母品」、「守護国界主陀羅尼経巻3陀羅尼品」、「大日経疏巻7」等に出づ。<(望)

  (か):梵字ska。又尸迦に作る。『大智度論巻48()注:尸迦』参照。

  尸迦(しか):梵字ska。悉曇四十二門の一。又塞迦、娑迦、歌等に作る。「光讃般若経巻7」に、「尸迦の門とは、一切諸法不得五陰是れなり」と云い、「大品般若経巻5」に、「歌字門は諸法聚不可得に入るが故に」と云える是れなり。是れ蓋しskaの字を以って始まる梵語skandhaに聚又は蘊の義あるを以って、skaの音を聞かば直ちに蘊の語を連想することを表するなり。又「旧華厳経巻57」には、「娑迦字を唱うる時、般若波羅蜜門に入る。諸地満足無著無礙解脱光明遍照bhuumi−garbhaasaMga−pratisaM vit−prabha−cakra−spharaNaと名づく」と云い、「放光般若経巻4」には又法性の義となせり。又「大般若経巻415」、「守護国界主陀羅尼経巻3陀羅尼品」、「海意菩薩所問浄印法門経巻12」、「華厳経普賢行願品巻31」、「大方広仏華厳経入法界品四十二字観門」、「大智度論巻48」、「華厳経疏巻59」等に出づ。<(望)

字門入諸法字不可得故。遮字門入諸法行不可得故。[*]字門入諸法軀不可得故。荼字門入諸法邊竟處不可得故。不終不生故。過荼無字可得。何以故。更無字故。諸字無礙無名亦不滅。亦不可說不可示不可見不可書。須菩提當知。一切諸法如虛空。須菩提。是名陀羅尼門。

」字の門より、諸法に入れば、「」字は不可得なるが故なり。「遮」字の門より、諸法に入れば、行は不可得なるが故なり。「咤」字の門より、諸法に入れば、躯は不可得なるが故なり。「荼」字の門より、諸法に入れば、辺竟の処は不可得なるが故なり。不終、不生なるが故なり。「荼」を過ぐれば、字の得べき無し。何を以っての故に、更に字無きが故なり。諸の字は、無礙、無名にして、亦た不滅、亦た不可説、不可示、不可見、不可書なり。須菩提、当に知るべし、一切の諸法は、虚空の如し。須菩提、是れを陀羅尼の門と名づく。

   『)字』が、

     『門』だ!とは、

     諸の、

       『法』に入れば、

         『字』は、

         『得られない!』からである。

   『遮(しゃ)字』が、

     『門』だ!とは、

     諸の、

       『法』に入れば、

         『行』は、

         『得られない!』からである。

   『咤()字』が、

     『門』だ!とは、

     諸の、

       『法』に入れば、

         『躯()』は、

         『得られない!』からである。

   『荼()字』が、

     『門』だ!とは、

     諸の、

       『法』に入れば、

         『辺竟処』は、

         『得られない!』からであり、

       『法』は、

         『終らず』、

         『生じない!』からである。

   『荼』を過ぎれば、

   得られる!

     『字』は、

     『無い!』。

   何故ならば、

   もう、

     『字』が、

     『無い!』からである。

   諸の、

     『字』は、

       『無礙(障なし)』、

       『無名(意味なし)』、

     亦た、

       『不滅』であり、

     亦た、

       『説く!』ことも、

       『示す!』ことも、

       『見る!』ことも、

       『書く!』こともできない。

   須菩提!

     こう知るべき!である、――

     一切の、

     諸の、

       『法』は、

       『虚空』のようである!と。

   須菩提!

   是の、

     『四十二字門』は、

       『陀羅尼』の、

       『門』である。

 

  (さ):梵字ysa。悉曇四十二字門の一。又逸娑、也娑、拽娑、夷娑、闍、嵯等に作る。「大智度論巻48」に、「若し字を聞かば、即ち字空にして諸法も亦た爾るを知る」と云い、「大般若経巻415」に、「逸娑字門に入らば、一切法衰老の性相不可得を悟るが故に」と云い、「新華厳経巻76」に、「也娑字を唱うる時、般若波羅蜜門に入る。宣説一切仏法境界と名づく」と云える是れなり。「華厳経随疏演義鈔巻89」に其の義を釈して、「疏に三十九也娑字は、若し経に会せば衰老性は仏法の境界なり。余の老死を兼ねば菩薩勇猛の観境なり。智論に云わく、若し磋字を聞かば、即ち磋字空にして諸法も亦た爾ることを知ると。釈して曰わく、是れ通相なるを以って更に別釈なし、然れども衰老の性は即ち是れ別義なり」と云えり。又「光讃般若経巻7」、「放光般若経巻4」、「大方広仏華厳経入法界品四十二字観門」、「守護国界主陀羅尼経巻3」、「慧琳音義巻2」等に出づ。<(望)

  (しゃ):梵字zca。四十二字門の一。又嗟、酌、伊陀、是侈、室者、室左等に作る。「大品般若経巻5」に、「遮字門は諸法行不可得に入るが故に」と云い、「大智度論巻48」に之を釈し、「若し遮字を聞かば即ち一切法不動の相を知る。遮羅地calatiは秦に動と言う」と云える是れなり。是れ動の義なる梵語calaの否定語、即ち不動nizcala中にzcaの字を含むが故に此の説をなすなり。又「守護国界主陀羅尼経巻3」に、「室者字印は現前覚悟未曽有の故に」と云えり。是れ未曽有の義なる梵語aazcarya中に遮zca字を含むが故なり。又「光讃般若経巻7」には捨一切法無所得、「放光般若経巻4」には分捨、「大般若経巻53」には聚集足跡の義を挙げ、「華厳経入法界品巻31」等には、入虚空一切衆生界法雷大音遍吼sattva−gagana−dharma−dhana−nigarjita−nirNaada−spharaNaの義となせり。又「大般若経巻415」、「旧華厳経巻57」、「新華厳経巻76」、「大方広仏華厳経四十二字観門」、「華厳経隨疏演義鈔巻89」、「翻訳名義集巻13」、「慧琳音義巻5」、「慧苑音義巻下」、「悉曇蔵巻6」等に出づ。<(望)

  (た):梵字Ta。又吒に作る。『大智度論巻48()注:吒』参照。

  (た):梵字Ta。悉曇五十字門の一。四十二字門の一。又侘、咤、多、或いは絝に作る。「瑜伽金剛頂経釈字母品」に、「吒字門を称すれば一切法慢不可得の故に」と云い、「大品般若経巻5広乗品」に、「咤字門は諸法傴(大智度論には駆、或いは躯に作る)不可得に入るが故に」と云える是れなり。「大日経巻2具縁品」にも亦た慢不可得の義を挙げ、「同疏巻7」に之を釈し、梵語の吒迦羅は即ち慢の義なりと云えり。是れ慢の義なる梵語TaGkaが今のTa字を頭字となすに依りて此の説をなせるものにして、疏の吒迦羅は恐らくTaGkaより由来せし語なるべし。又「大般若経巻415念住等品」、及び「同巻490」等には共に一切法相駆迫性不可得の義を出せり。是れ前引大品経の説と同一なるが如きも、「大智度論巻48広乗品の釈」には一切法此彼岸不可得の義を出し、梵語の吒羅は秦に岸の義なりと云えり。又「方広大荘厳経巻4示書品」に、「吒字を唱うる時、永断一切道の声paTopaccheda−zabdaを出す」と云い、「文殊問経巻上字母品」に断結の義を出し、「守護国界主陀羅尼経巻3」に、「吒字印は生死の道を断じて涅槃を得るが故に」と云い、又「新華厳経巻76」に、「侘字門を唱うる時、般若波羅蜜門に入る。無我の法を以って衆生を開暁すと名づく」と云えり。是れ皆其の語首又は語中にTa字を含むものに就き其の説をなせるものの如し。又「大般涅槃経巻8」には、「吒は閻浮提に於いて半身を示現して法を演説すること喩えば半月の如し。是の故に吒と名づく」と云えり。是れ吒Taの字形が半月に似たるより按出せられたる説なり。故に古来今の吒字を咤Tha、又は多ta等と区別せんが為に半月の吒字と呼び、或いは字母品等の意に依りて慢の吒字とも称するなり。又「旧華厳経巻57」、「華厳経普賢行願品巻31」、「大方広仏華厳経入法界品四十二字観門」、「文殊師利問経字母品巻14」、「仏本行集経巻11習学技藝品」、「華厳経随疏演義鈔巻89」、「悉曇蔵巻5、6」等に出づ。<(望)

  (だ):梵字Dha。悉曇五十字門の一。四十二字門の一。又茶、[口*荼]、[捺−奈+荼]、拏、吒、陀、[女*它]、択、袒、檀、に作る。「瑜伽金剛頂経釈字母品」に、「荼字門を称すれば一切法執持不可得の故に」と云い、「大品般若経巻5広乗品」に、「荼字門は諸法辺竟処不可得に入るが故に、終らず生ぜざるが故に」と云える是れなり。「大日経巻2具縁品」にも執持不可得の義を挙げ、「同経疏巻7」に之を解し、「荼字門一切法執持不可得故とは、梵音の湯迦は是れ執持の義なり。荼字の上に点を安置するを以って、是の故に転声して湯となるも其の体は則ち同じ。又蘗哩何と云うは亦た是れ此の別名なり」と云えり。此の中、湯迦は荼字の上に空点を加うと云うを以って、即ちDhaMkaなるべきを知るも、斯かる語は現今の辞典中に之を見ず。或いは仏教梵語の特殊なる文字なるか。兎に角蘗哩何graha(執持)は此の別名なりと云えば、即ち執持の義たることを知るなり。亦た「光讃般若経巻7観品」、「放光般若経巻4陀隣尼品」、「大般若経巻415念住等品」等には、「大品般若経」に同じく究竟亦たは辺竟の義を出し、「大智度論巻48」に、「是の字は初めは阿、後は荼にして中に四十あり、是の字陀羅尼を得。(中略)荼の外に更に字なし。若し更に有らば、是れ四十二字の枝派なり」と云えり。是れ荼字は四十二字門中の最後の字なるを以って、之に辺竟等の義ありとなせるものなり。又「方広大荘厳経巻4示書品」には、「荼字を唱うる時、一切境界皆是不浄の声miDha−viSayaa−zabdaを出す」と云い、「文殊師利問経巻上字母品」にも滅穢境界の義を出し、又「旧華厳経巻57」には、「陀字を唱うる時、般若波羅蜜門に入るを一切法輪出生之蔵dharmacakra−sambheda−garbhaと名づく」と云い、「大般涅槃経巻8」には、「袒は師恩を知らざること喩えば羝羊の如し。是の故に袒と名づく」と云い、「仏本行集経巻11習学技藝品」には、「[口*荼]字を唱うる時、合歓華を作すこと[口*荼]の言語の如し。諸行及び十二縁生滅の法を散唱し無常顕現す、是の如きの声を出す」と云えり。古来悉曇家に於いては他の拏Da等と区別せんが為に、「金剛頂経釈字母品」の説に依り、此の字を執持の荼字と称するなり。又「大般若経巻490」、「新華厳経巻76」、「華厳経普賢行願品巻31」、「大方広仏華厳経入法界品四十二字観門」、「大方等大集経巻10」、「海意菩薩所問浄印法門経巻12」、「文殊問経釈字母品巻14」、「華厳経随疏演義鈔巻89」、「悉曇蔵巻5、6」等に出づ。<(望)

 

 

 

 

諸字門二十功徳

所謂阿字義。若菩薩摩訶薩是諸字門印阿字印。若聞若受若誦若讀若持若為他說。如是知當得二十功コ。

謂わゆる阿字の義とは、若し、菩薩摩訶薩、是の諸字の門印、阿字の印を、若しは聞き、若しは受け、若しは誦し、若しは読み、若しは持し、若しは他の為に説かば、是の如きを知らん、当に二十功徳を得べしと。

   謂わゆる、

     『阿字』の、

       『義』とは、

   若し、

     『菩薩摩訶薩』が、

     是の、

     諸の、

       『字』の、

         『門印(通行証)』か、

       『阿字』の、

         『門印』を、

       若しは、

         『聞いたり』、

         『受けたり』、

         『誦したり』、

         『読んだり』、

         『持ったり』して、

       若しは、

         『他人』の為に、

         『説く!』ならば、

   是のように、

     知るべき!である、――

     『二十』の、

       『功徳』を、

       『得る!』ことができる、と。

何等二十。得強識念。得慚愧。得堅固心。得經旨趣。得智慧。得樂說無礙。易得諸陀羅尼門。得無疑悔心。得聞善不喜聞惡不怒。得不高不下住心得無搆ク。得善巧知眾生語。得巧分別五眾十二入十八界十二因緣四緣四諦。

何等か、二十なる。強き識念を得、慚愧を得、堅固なる心を得、経の旨趣を得、智慧を得、楽説の無礙にして易きを得、諸の陀羅尼門を得、疑悔無き心を得、善を聞きて喜ばず、悪を聞きて怒らざることを得、高からず、下からずして住まるを得て、心に増減無きを得、善く巧みに衆生の語を知るを得、巧みに五衆、十二入、十八界、十二因縁、四縁、四諦を分別するを得、

   何のような、

     『二十』か?

     即ち、

       『強い識念』を得る!、――1――

       『慚愧』を得る!、――2――

       『堅固な心』を得る!、――3――

       『経の趣旨』を得る!、――4――

       『智慧』を得る!、――5――

       『楽説』の、――6――

         『無礙』を得て、

         『説法』が易しい!

       諸の、

         『陀羅尼』の、――7――

         『門』を得る!、

       『疑、悔』の、――8――

         『無い!』、

         『心』を得る!、

       『善』を聞いて、――9――

         『喜ばず』、

       『悪』を聞いて、

         『怒らない!』ようになる。

       『高くなく!』、――10――

       『下くない!』、、

         『処』に住する!ことができ、

       『心』に、

         『増、減』が、

         『無くなる!』。

       善く、――11――

       巧みに、

         『衆生』の、

           『語』を、

           『知る!』ことができる。

       巧みに、――12――

         『五衆、十二入、十八界』、

         『十二因縁、四縁、四諦』を、

           『分別』する!ことができる。

得巧分別眾生諸根利鈍。得巧知他心。得巧分別日月歲節。得巧分別天耳通。得巧分別宿命通。得巧分別生死通。得能巧說是處非處。得巧知往來坐起等身威儀。須菩提。是陀羅尼門阿字門等。是名菩薩摩訶薩摩訶衍

巧みに衆生の諸根の利、鈍を分別するを得、巧みに他心を知るを得、巧みに日、月、歳、節を分別するを得、巧みに分別する天耳通を得、巧みに分別する宿命通を得、巧みに分別する生死通を得、能く巧みに是処、非処を説くを得、巧みに往、来、坐、起等の身の威儀を知る。須菩提、是の陀羅尼の門の阿字の門等は、菩薩摩訶薩の摩訶衍と名づく。

       巧みに、――13――

         『衆生』の、

         諸の、

           『根』の、

             『利、鈍』を、

             『分別』する!ことができる。

       巧みに、――14――

         『他人』の、

           『心』を、

           『知る!』ことができる。

       巧みに、――15――

         『日、月、歳、節』を、

           『分別』する!ことができる。

       巧みに、――16――

         『天耳通』を以って、

         『分別する!』ことができる。

       巧みに、――17――

         『宿命通』を以って、

         『分別する!』ことができる。

       巧みに、――18――

         『生死通』を以って、

         『分別する!』ことができる。

       巧みに、――19――

         『是処、非処』を、

         『説く!』ことができる。

       巧みに、――20――

         『往来、坐起』等の、

           『身の威儀』を、

           『知る!』ことができる。

   須菩提!

   是の、

     『陀羅尼の門』、

     『阿字等の門』、

   是れを、

     『菩薩摩訶薩』の、

     『摩訶衍』というのである。

  

 

 

 

 

四十二字門

【論】釋曰。字等語等者。是陀羅尼於諸字平等無有愛憎。又此諸字因緣未會時。亦無終歸亦無現在亦無所有。但住吾我心中。憶想分別覺觀心說。是散亂心說不見實事。如風動水則無所見。等者與畢竟空涅槃同等。菩薩以此陀羅尼。於一切諸法通達無礙。是名字等語等。

釈して曰く、字等、語等とは、是の陀羅尼は、諸字に於いて、平等にして、愛憎有ること無し。又此の諸字は、因縁を未だ会せざる時には、亦た終に帰する無く、亦た現在無く、亦た有する所無ければ、但だ吾我の心中に住するのみ。憶想、分別、覚観の心もて説かば、是れ散乱心の説なれば、実事を見ざること、風の水を動かせば、則ち見る所無きが如し。等とは、畢竟空、涅槃と同等なればなり。菩薩は、此の陀羅尼を以って、一切の諸法に於いて通達、無礙なれば、是れを字等、語等と名づく。

 釈す、

   『字等』、

   『語等』とは、

   是の、

     『陀羅尼(連想式記憶法)』は、

     諸の、

       『字』に於いて、

       『平等』であり、

         『愛、憎』が、

         『無い!』ことである。

     又、

     此の、

     諸の、

       『字』は、

       未だ、

         『因縁』を、

         『会得しない!』時には、

       亦た、

         『帰着する処』も、

         『現存する処』も、

           『無く』、

         即ち、

           『有する!』所が、

           『無い!』のであるから、

         但だ、

         『吾、我』の、

           『心』中に、

           『住する!』のみある。

       若し、

         『憶想、分別、覚観』の、

           『心』で、

           『説く!』ならば、

         是の、

         『散乱』した!

         『心』で、

           『説かれた!』、

           『字』には、

         則ち、

           『実事』を、

           『見る!』ことはない。

         譬えば、

         『風』が、

           『水』を、

           『動かせ』ば、

         則ち、

           『見る!』所が、

           『無い!』のと同じである。

   『等』とは、

     『字』は、

       『畢竟空、涅槃』と、

       『同等』である。

   『菩薩』は、

   此の、

     『陀羅尼』を以って、

     一切の、

       『諸法』に、

         『通達』して、

         『無礙』となる!ので、

     是れを、

       『字等』、

       『語等』というのである。

 

  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻5広乗品』:『復次須菩提。菩薩摩訶薩摩訶衍。所謂字等語等諸字入門。何等為字等語等諸字入門。阿字門一切法初不生故。

問曰。若略說則五百陀羅尼門。若廣說則無量陀羅尼門。今何以說是字等陀羅尼。名為諸陀羅尼門。

問うて曰く、若し略説すれば、則ち五百の陀羅尼の門、若し広説すれば、則ち無量の陀羅尼の門なり。今は、何を以ってか、是の字等の陀羅尼を説き、名づけて諸の陀羅尼の門と為す。

 問い、

   若し、

     『略説』すれば、

     則ち、

       『五百』の、

         『陀羅尼』の、

         『門』があり、

     『広説』すれば、

     則ち、

       『無量』の、

         『陀羅尼』の、

         『門』がある。

   今は、

   何故、

   是の、

     『字等』の、

       『陀羅尼』の、

       『門』を説いて、

     諸の、

       『陀羅尼』の、

       『門』とする!のですか?

答曰。先說一大者。則知餘者皆說。此是諸陀羅尼初門。說初餘亦說。

答えて曰く、先に、一の大なる者を説けば、則ち余の者は、皆説かれたりと知る。此れは是れ諸の陀羅尼の初門なり、初を説いて、余も亦た説く。

 答え、

   先に、

     『一』の、

       『大』を、

       『説いた!』ならば、

     則ち、

     余の者は、

     皆、

       『説かれた!』と、

       『知る!』からである。

   此の、

     『字等』は、

     諸の、

       『陀羅尼』の、

       『初門』であり、

     『初』を説いて、

     『余』も説く!のである。

復次諸陀羅尼法。皆從分別字語生。四十二字是一切字根本。因字有語因語有名因名有義。菩薩若聞字因字。乃至能了其義。

復た次ぎに、諸の陀羅尼の法は、皆、字語を分別するより生ず。四十二字は、是れ一切の字の根本なり。字に因りて語有り、語に因りて名有り、名に因りて義有り。菩薩は、若し字を聞かば、字に因りて、乃至能く其の義を了す。

 復た次ぎに、

   諸の、

     『陀羅尼の法』は、

     皆、

       『字語』を、

         『分別』して、

         『生ずる!』が、

       『四十二字』は、

       一切の、

         『字』の、

           『根本』であり、

         『字』に因って、

           『語』が有り、

         『語』に因って、

           『名』が有り、

         『名』に因って、

           『義』が有る!ので、

       『菩薩』は、

       若し、

         『字』を聞けば、

         『字』に因って、

         乃至、

         其の、

           『義』を、

           『了知』する!のである。

是字初阿後荼。中有四十。得是字陀羅尼。菩薩若一切語中聞阿字即時隨義。所謂一切法從初來不生相。阿提秦言初。阿耨波陀秦言不生。

是の字の、初は阿、後は荼、中に四十有りて、是の字の陀羅尼を得。菩薩は、若し、一切の語中に阿字を聞かば、即時に義に随わん。謂わゆる一切の法は、初より来、不生の相なり。阿提を秦に初と言い、阿耨波陀を秦に不生と言えばなり。

   是の、

     『字』は、

     初が、

       『阿()』、

     後が、

       『荼()』、

     中に、

       『四十』有って、

     是の、

     『字』の、

       『陀羅尼』を、

       『得る!』のである。

   『菩薩』は、

   若し、

   一切の、

     『語』中に、

       『阿字』を、

       『聞いた!』ならば、

     即時に、

       『義』に、

       『随順する!』ことになる。

     謂わゆる、

       一切の、

       『法』は、

         『初』より、

         『不生の相』である。

   何故ならば、

     『阿提(あだい)』は、

       『初』を、

       『示す!』ことばであり、

     『阿耨波陀(あのくはだ)』が、

       『不生』を、

       『示す!』からである。

 

  阿提(あだい):梵語aadi。初め。最初の義。

  阿耨波陀(あのくはだ):梵語anutpaada。不生の義。

  参考:『大品般若経巻5広乗品』:『阿字門。一切法初不生故。

若聞羅字即隨義知一切法離垢相。羅闍秦言垢。若聞波字即時知一切法入第一義中。波羅木陀秦言第一義。

若し羅字を聞かば、即ち義に随うて、一切法の垢を離れたる相を知る。羅闍を秦に垢と言えばなり。若し波字を聞かば、即時に一切法を知りて、第一義中に入る。波羅木陀を秦に、第一義と言えばなり。

   若し、

     『羅()字』を聞けば、

     即ち、

       『義』に随って、こう知ることになる、――

       一切の、

         『法』は、

           『垢を離れた!』、

           『相』である!と。

       何故ならば、

         『羅闍(らじゃ)』とは、

           『垢』を示す!からである。

   若し、

     『波()字』を聞けば、

     即時に、こう知ることになる、――

       一切の、

         『法』は、

           『第一義』中に、

           『入る!』、と。

       何故ならば、

         『波羅木陀(はらもくだ)』が、

           『第一義』を示す!からである。

 

  羅闍(らじゃ):梵語rajas。塵の義。

  波羅木陀(はらもくだ):梵語paramaartha。最高の利益、或いは意義。勝義、第一義等に訳す。

  参考:『大品般若経巻5広乗品』:『羅字門。一切法離垢故。

  参考:『大品般若経巻5広乗品』:『波字門。一切法第一義故。

若聞遮字即時知一切諸行皆非行。遮梨夜秦言行。若聞那字即知一切法不得不失不來不去。那秦言不。

若し遮字を聞かば、即時に知るらく、一切の諸行は、皆、行に非ずと。遮梨夜を秦に行と言えばなり。若し那字を聞かば、即ち知る、一切法は不得、不失、不来、不去なりと。那を秦に不と言えばなり。

   若し、

     『遮(しゃ)字』を聞けば、

     即時に、こう知ることになる、――

       一切の、

       諸の、

         『行』は、

         皆、

           『行でない!』、と。

       何故ならば、

         『遮梨夜(しゃりや)』が、

           『行』を示す!からである。

   若し、

     『那()字』を聞けば、

     即時に、こう知ることになる、――

       一切の、

         『法』は、

           『不得、不失、不来、不去』である!と。

       何故ならば、

         『那』が、

           『不』を示す!からである。

 

  遮梨夜(しゃりや):梵語caarya。実行の義。行と訳す。

  (な):梵語na。否定の語。無、或いは不等に訳す。

  参考:『大品般若経巻5広乗品』:『遮字門。一切法終不可得故。諸法不終不生故。

  参考:『大品般若経巻5広乗品』:『那字門。諸法離名性相不得不失故。

若聞邏字即知一切法離輕重相。邏求秦言輕。若聞陀字即知一切法善相。陀摩秦言善。

若し邏字を聞かば、即ち知るらく、一切法は、軽重を離るる相なり、と。邏求を秦に軽と言えばなり。若し陀字を聞かば、即ち知るらく、一切法は、善の相なりと。陀摩を秦に善と言えばなり。

   若し、

     『邏()字』を聞けば、

     即時に、こう知ることになる、――

       一切の、

         『法』は、

         『軽、重』を、

           『離れた!』、

           『相』である、と。

       何故ならば、

         『邏求(らぐ)』が、

           『軽』を示す!からである。

   若し、

     『陀()字』を聞けば、

     即時に、こう知ることになる、――

       一切の、

         『法』は、

           『善』の、

           『相』である!と。

       何故ならば、

         『陀摩(だま)』が、

           『善』を示す!からである。

 

  邏求(らぐ):梵語laghu。軽いの義。

  陀摩(だま):梵語dama。善の義。

  参考:『大品般若経巻5広乗品』:『邏字門。諸法度世間故。亦愛支因緣滅故。

  参考:『大品般若経巻5広乗品』:『陀字門。諸法善心生故。亦施相故。

若聞婆字即知一切法無縛無解。婆陀秦言縛。若聞荼字即知諸法不熱相。南天竺荼闍他秦言不熱。

若し婆字を聞かば、即ち知るらく、一切法は、縛無く解無しと。婆陀を秦に縛と言えばなり。若し荼字を聞かば、即ち知るらく、諸法は不熱の相なりと。南天竺の荼闍他を秦に不熱と言えばなり。

   若し、

     『婆()字』を聞けば、

     即時に、こう知ることになる、――

       一切の、

         『法』は、

           『縛も無く』、

           『解も無い!』、と。

       何故ならば、

         『婆陀(ばだ)』が、

           『縛』を示す!からである。

   若し、

     『荼()字』を聞けば、

     即時に、こう知ることになる、――

       諸の、

         『法』は、

           『不熱』の、

           『相』である!と。

       何故ならば、

       南天竺では、

         『荼闍他(だじゃた)』が、

           『不熱』を示す!からである。

 

  婆陀(ばだ):梵語bandhana、縛の義。baddhaは縛せらるの義。

  荼闍他(だじゃた):南天竺の俗語Dahati(焼くの義)に関連ありや?。

  参考:『大品般若経巻5広乗品』:『婆字門。諸法婆字離故。

  参考:『大品般若経巻5広乗品』:『荼字門。諸法荼字淨故。

若聞沙字即知人身六種相。沙秦言六。若聞和字即知一切諸法離語言相。和(于波反)波他秦言語言。

若し沙字を聞かば、即ち知るらく、人身は六種の相なりと。沙を秦に六と言えばなり。若し和字を聞かば、即ち知るらく、一切の諸法は、語言を離るる相なり、と。和波他を秦に語言と言えばなり。

   若し、

     『沙(しゃ)字』を聞けば、

     即時に、こう知ることになる、――

       『人』の、

         『身』は、

         『六種の相』である!と。

       何故ならば、

         『沙(しゃ)』が、

           『六』を示す!からである。

   若し、

     『和()字』を聞けば、

     即時に、こう知ることになる、――

       一切の、

       諸の

         『法』は、

         『語言』を、

           『離れた!』

           『相』である!と。

       何故ならば、

         『和波他(わはた)』が、

           『語言』を示す!からである。

 

  (しゃ):梵語SaS。六の義。

  和波他(わはた):梵語vaada。言葉の義。

  参考:『大品般若経巻5広乗品』:『沙字門。諸法六自在王性清淨故。

  参考:『大品般若経巻5広乗品』:『和字門入諸法語言道斷故。

若聞多字即知諸法在如中不動。多他秦言如。若聞夜字即知諸法入實相中不生不滅。夜他跋秦言實。

若し多字を聞かば、即ち知るらく、諸法は、如中に在りて動かずと。多他を秦に如と言えばなり。若し夜字を聞かば、即ち知るらく、諸法は、実相中に入りて不生不滅なりと。夜他跋を秦に実と言えばなり。

   若し、

     『多()字』を聞けば、

     即時に、こう知ることになる、――

       諸の、

         『法』は、

           『如(ありのまま)』中には、

           『不動』である!と。

       何故ならば、

         『多他(たた)』が、

           『如』を示す!からである。

   若し、

     『夜()字』を聞けば、

     即時に、こう知ることになる、――

       一切の、

       諸の

         『法』は、

         『実相』中に入れば、

           『不生』であり、

           『不滅』である!と。

       何故ならば、

         『夜他跋(やたばつ)』が、

           『実』を示す!からである。

 

  多也(たや):梵語tatha。同様にの義、如と訳す。

  夜他跋(やたばつ):梵語yathaavat。実に、正しくの義。実と訳す。

  参考:『大品般若経巻5広乗品』:『多字門。入諸法如相不動故

  参考:『大品般若経巻5広乗品』:『夜字門。入諸法如實不生故。

若聞吒字即知一切法無障礙相。吒婆秦言障礙。若聞迦字即知諸法中無有作者。迦羅迦秦言作者。

若し吒字を聞かば、即ち知るらく、一切法は、障礙の相無しと。吒婆を秦に障礙と言えばなり。若し迦字を聞かば、即ち知るらく、諸法中に作者有ること無しと。迦羅迦を秦に作者と言えばなり。

   若し、

     『吒()字』を聞けば、

     即時に、こう知ることになる、――

       一切の、

         『法』には、

         『障礙』の、

           『相』が、

           『無い!』、と。

       何故ならば、

         『吒婆(たば)』が、

           『障礙』を示す!からである。

   若し、

     『迦()字』を聞けば、

     即時に、こう知ることになる、――

       諸の、

         『法』中には、

           『作者』が、

           『無い!』、と。

       何故ならば、

         『迦羅迦(からか)』が、

           『作者』を示す!からである。

 

  吒婆(たば):梵語stambha?、障礙の義?

  迦羅迦(からか):梵語kaaraka。造作する者の意。作者と訳す。

  参考:『大品般若経巻5広乗品』:『[*]字門。入諸法折伏不可得故。

  参考:『大品般若経巻5広乗品』:『迦字門。入諸法作者不可得故。

若聞婆字即知一切法一切種不可得。薩婆秦言一切。若聞摩字即知一切法離我所。魔迦羅秦言我所。

若し娑字を聞かば、即ち知るらく、一切法、一切種は不可得なりと。薩婆を秦に一切と言えばなり。若し摩字を聞かば、即ち知るらく、一切法は我所を離ると。魔迦羅を秦に我所と言えばなり。

   若し、

     『娑()字』を聞けば、

     即時に、こう知ることになる、――

       一切の、

         『法』は、

         『得られない!』、

       一切の、

         『種』は、

         『得られない!』、と。

       何故ならば、

         『薩婆(さば)』が、

           『一切』を示す!からである。

   若し、

     『摩()字』を聞けば、

     即時に、こう知ることになる、――

       一切の

         『法』は、

           『我所』を、

           『離れる!』、と。

       何故ならば、

         『魔迦羅(まから)』が、

           『我所』を示す!からである。

 

  薩婆(さば):梵語sarva。「すべての」の義。一切と訳す。梵字saは薩にも、娑にも作る。

  魔迦羅(まから):梵語mamakaara。我が所有、我が所属、我れと離れざる物の意。我所と訳す。

  :婆字は他本に従い、娑字に改む。

  参考:『大品般若経巻5広乗品』:『娑字門。入諸法時不可得故。諸法時來轉故。

  参考:『大品般若経巻5広乗品』:『磨字門。入諸法我所不可得故。

若聞伽字即知一切法底不可得。伽陀秦言底。若聞陀字即知四句如去不可得。多陀阿伽陀秦言如去。

若し伽字を聞かば、即ち知るらく、一切法の底は不可得なりと。伽陀を秦に底と言えばなり。若し陀字を聞かば、即ち知るらく、四句の如去は不可得なりと。多陀阿伽陀を秦に如去と言えばなり。

   若し、

     『伽()字』を聞けば、

     即時に、こう知ることになる、――

       一切の、

         『法』は、

           『底』が、

           『得られない!』、と。

       何故ならば、

         『伽陀(がだ)』が、

           『底』を示す!からである。

   若し、

     『陀()字』を聞けば、

     即時に、こう知ることになる、――

       諸の、

         『四句』中に、

           『如去』は、

           『得られない!』、と。

       何故ならば、

         『多陀阿伽陀(ただあかだ)』が、

           『如去』を示す!からである。

 

  伽陀(がだ):梵語gatha。不詳。蓋し梵語padaは、場所を指す名詞なるも、断定する能わず。

  多陀阿伽陀(ただあかだ):梵語tathaagata。如去と訳す。如来の意。

  四句(しく):総じて有得べき事象を、有句、無句、亦有亦無句、非有非無句の四句を以っていう。

  如去(にょこ):過去の諸仏の如く去りし者の意。如来を指す。『大智度論巻42()注:如来』参照。

  参考:『大品般若経巻5広乗品』:『伽字門。入諸法去者不可得故。

  参考:『大品般若経巻5広乗品』:『他字門。入諸法處不可得故。

若聞闍(社音)字即知諸法生老不可得。闍提闍羅秦言生老。若聞濕波字即知一切法不可得。如濕波字不可得。濕簸字無義故不釋。

若し闍字を聞かば、即ち知るらく、諸法の生、老は不可得なりと。闍提闍羅を秦に生、老と言えばなり。若し湿波字を聞かば、即ち知るらく、一切法の不可得なること、湿波字の不可得なるが如しと。湿簸字は無義なるが故に釈せず。

   若し、

     『闍(じゃ)字』を聞けば、

     即時に、こう知ることになる、――

       諸の、

         『法』に、

           『生、老』は、

           『得られない!』、と。

       何故ならば、

         『闍提(じゃだい)、闍羅(じゃら)』が、

           『生、老』を示す!からである。

   若し、

     『湿波(しっぱ)字』を聞けば、

     即時に、こう知ることになる、――

       一切の、

         『法』が、

           『得られない!』のは、

         譬えば、

           『湿波字』が、

           『得られない!』のと同じである、と。

       何故ならば、

         『湿簸(しっぱ)字』には、

           『義』が、

           『無い!』ので、

         故に、

           『釈すことがない!』からである。

 

  闍提(じゃてい):梵語jaati、生と訳す。

  闍羅(じゃら):梵語jaraa、老と訳す。

  湿波(しっぱ):梵字sva。又簸に作る。

  参考:『大品般若経巻5広乗品』:『闍字門。入諸法生不可得故。

  参考:『大品般若経巻5広乗品』:『[*]字門。入諸法[*]字不可得故。

若聞[*]字即知一切法中法性不可得。[*]摩秦言法。若聞賒字即知諸法寂滅相。賒多(都餓反)秦言寂滅。

若し駄字を聞かば、即ち知るらく、一切法中に、法性は不可得なりと。駄摩を秦に法と言えばなり。若し字を聞かば、即ち知るらく、諸法は寂滅相なりと。多を秦に寂滅と言えばなり。

   若し、

     『駄()字』を聞けば、

     即時に、こう知ることになる、――

       一切の、

         『法』中に、

           『性』は、

           『得られない!』、と。

       何故ならば、

         『駄摩(だま)』が、

           『法』を示す!からである。

   若し、

     『しゃ)字』を聞けば、

     即時に、こう知ることになる、――

       諸の、

         『法』は、

           『寂滅』の、

           『相』である!と。

       何故ならば、

         『多(しゃた)』が、

           『寂滅』を示す!からである。

 

  駄摩(だま):梵語dharma。法と訳す。宗教上の義務、或いは道理の義。

  (しゃた):zaanta。静寂を得るの義。寂滅等に訳す。

  参考:『大品般若経巻5広乗品』:『[*]字門。入諸法性不可得故。

  参考:『大品般若経巻5広乗品』:『賒字門。入諸法定不可得故。

若聞呿字即知一切法虛空不可得。呿伽秦言虛空。若聞叉字即知一切法盡不可得。叉耶秦言盡。

若し呿字を聞かば、即ち知るらく、一切法に、虚空は不可得なりと。呿伽を秦に虚空と言えばなり。若し叉字を聞かば、即ち知るらく、一切法の尽は不可得なりと。叉耶を秦に尽と言えばなり。

   若し、

     『呿(きゃ)字』を聞けば、

     即時に、こう知ることになる、――

       一切の、

         『法』に、

           『虚空』は、

           『得られない!』、と。

       何故ならば、

         『呿伽(きゃが)』が、

           『虚空』を示す!からである。

   若し、

     『しゃ)字』を聞けば、

     即時に、こう知ることになる、――

       一切の、

         『法』の、

           『尽きる!』ことは、

           『得られない!』、と。

       何故ならば、

         『叉耶しゃや)』が、

           『尽きる!』ことを示す!からである。

 

  呿伽(きゃが):梵字呿khaは虚空の義。梵語khagaは空を飛ぶ者、鳥の義。

  叉耶(しゃや):梵語kSaya。尽と訳す。akSayaは無尽の義。

  参考:『大品般若経巻5広乗品』:『呿字門。入諸法虛空不可得故。

  参考:『大品般若経巻5広乗品』:『叉字門。入諸法盡不可得故。

若聞哆字即知諸法邊不可得。阿利迦哆度求那秦言是事邊得何利。若聞若字即知一切法中無智相。若那秦言智。

若し哆字を聞かば、即ち知るらく、諸法の辺は不可得なりと。阿利迦哆度求那を秦に、是の事の辺に何の利を得んやと言えばなり。若し若字を聞かば、即ち知るらく、一切法中に智相無しと。若那を秦に智と言えばなり。

   若し、

     『哆()字』を聞けば、

     即時に、こう知ることになる、――

       諸の、

         『法』の、

           『辺』は、

           『得られない!』、と。

       何故ならば、

         『阿利迦哆度求那(ありかたどぐな)』が、

         『是の事の辺に、何の利を得るのか?』を示すからである。

   若し、

     『にゃ)字』を聞けば、

     即時に、こう知ることになる、――

       一切の、

         『法』中に、

         『智』の、

           『相』は、

           『無い!』、と。

       何故ならば、

         『若那にゃな)』が、

           『智』を示す!からである。

 

  阿利迦哆度求那(ありかたどぐな):不詳。

  若那(にゃな):梵語jJaana。知識の義。智と訳す。

  参考:『大品般若経巻5広乗品』:『哆字門。入諸法有不可得故。

  参考:『大品般若経巻5広乗品』:『若字門。入諸法智不可得故。

若聞他字即知一切法義不可得。阿他秦言義。若聞婆字即知一切法不可破相。婆伽秦言破。

若し他字を聞かば、即ち知るらく、一切の法の義は不可得なりと。阿他を秦に義と言えばなり。若し婆字を聞かば、即ち知るらく、一切法は不可破の相なりと。婆伽を秦に破と言えばなり。

   若し、

     『他()字』を聞けば、

     即時に、こう知ることになる、――

       一切の、

         『法』の、

           『義』は、

           『得られない!』、と。

       何故ならば、

         『阿他(あた)』が、

           『義』を示す!からである。

   若し、

     『)字』を聞けば、

     即時に、こう知ることになる、――

       一切の、

         『法』は、

           『破れない!』、

           『相』である!と。

       何故ならば、

         『婆伽ばが)』が、

           『破る!』ことを示す!からである。

 

  阿他(あた):梵語artha。意味の義。義と訳す。

  婆伽(ばが):梵語bhaaga。破壊、或いは部分の義。

  参考:『大品般若経巻5広乗品』:『拖字門。入諸法拖字不可得故。

  参考:『大品般若経巻5広乗品』:『婆字門。入諸法破壞不可得故。

若聞車字即知一切法無所去。伽車提秦言去。若聞濕麼字即知諸法牢堅如金剛石。阿濕麼秦言石。

若し車字を聞かば、即ち知るらく、一切法に去る所無しと。伽車提を秦に去と言えばなり。若し湿麼字を聞かば、即ち知るらく、諸法の牢堅なること、金剛石の如しと。阿湿麼を秦に石と言えばなり。

   若し、

     『車(しゃ)字』を聞けば、

     即時に、こう知ることになる、――

       一切の、

         『法』に、

           『去る!』所(もの)は、

           『無い!』、と。

       何故ならば、

         『伽車提(がしゃだい)』が、

           『去る!』ことを示す!からである。

   若し、

     『湿麼(しま)字』を聞けば、

     即時に、こう知ることになる、――

       諸の、

         『法』は、

           『堅牢』であり、

           『金剛石』のよう!である、と。

       何故ならば、

         『阿湿麼あしま)』が、

           『石』を示す!からである。

 

  伽車提(がしゃてい):梵語gacchati。去る、或いは行くの義。

  阿湿麼(あしま):梵語azman。石の義。

  参考:『大品般若経巻5広乗品』:『車字門。入諸法欲不可得故。如影五陰亦不可得故。

  参考:『大品般若経巻5広乗品』:『摩字門。入諸法摩字不可得故。

若聞火字即知一切法無音聲相。火夜秦言喚來。若聞蹉字即知一切法無慳無施相。末蹉羅秦言慳。

若し火字を聞かば、即ち知るらく、一切の法に、音声の相無きを。火夜を秦に喚びて来たれりと言えばなり。若し蹉字を聞かば、即ち知るらく、一切法は、無慳、無施の相なりと。末蹉羅を秦に慳と言えばなり。

   若し、

     『火()字』を聞けば、

     即時に、こう知ることになる、――

       一切の、

         『法』に、

           『音声の相』は、

           『無い!』、と。

       何故ならば、

         『火夜(かや)』が、

         『喚びに来る!』ことを示すからである。

   若し、

     『)字』を聞けば、

     即時に、こう知ることになる、――

       一切の、

         『法』は、

           『慳む!』相も、

           『施す!』相も、

             『無い!』、と。

       何故ならば、

         『末蹉羅まさら)』が、

           『慳む!』ことを示す!からである。

 

  火夜(かや):梵語hvaya。呼ぶの義より派生せる語。

  末蹉羅(まさら):梵語maatsarya。

  参考:『大品般若経巻5広乗品』:『火字門。入諸法喚不可得故。

  参考:『大品般若経巻5広乗品』:『嗟字門。入諸法嗟字不可得故。

若聞伽字即知諸法不厚不薄。伽那秦言厚。若聞他(上荼反)字即知諸法無住處。南天竺他那秦言處。

若し伽字を聞かば、即ち知るらく、諸法は厚からず、薄からずと。伽那を秦に厚と言えばなり。若し他字を聞かば、即ち知るらく、諸法に住処無しと。南天竺の他那を秦に処と言えばなり。

   若し、

     『伽()字』を聞けば、

     即時に、こう知ることになる、――

       諸の、

         『法』は、

           『厚くもなく』、

           『薄くもない!』、と。

       何故ならば、

         『伽那(がな)』が、

         『厚い!』ことを示すからである。

   若し、

     『)字』を聞けば、

     即時に、こう知ることになる、――

       諸の、

         『法』に、

           『住処』は、

           『無い!』、と。

       何故ならば、

       南天竺の、

         『他那たな)』が、

           『処』を示す!からである。

 

  伽那(がな):梵語ghana。厚の義。

  他那(たな):南天竺の梵語Thaana。梵語にはstaana。処の義。

  参考:『大品般若経巻5広乗品』:『伽字門。入諸法厚不可得故。

  参考:『大品般若経巻5広乗品』:『他字門。入諸法處不可得故。

若聞拏字即知一切法及眾生不來不去不坐不臥不立不起。眾生空法空故。南天竺拏秦言不。若聞頗字。即知一切法因果空故。頗羅秦言果。

若し拏字を聞かば、即ち知るらく、一切の法、及び衆生の不来、不去、不坐、不臥、不立、不起なるは、衆生空、法空の故なりと。南天竺の拏を秦に不と言えばなり。若し頗字を聞かば、即ち一切法の因を知る。果の空なるが故なり。頗羅を秦に果と言えばなり。

   若し、

     『拏()字』を聞けば、

     即時に、こう知ることになる、――

       一切の、

         『法』、及び、

         『衆生』は、

           『不来、不去、不臥、不立、不起』である!

         『衆生』も、

         『法』も、

           『空』なのだから!、と。

       何故ならば、

       南天竺の、

         『拏』が、

         『不』を示すからである。

   若し、

     『)字』を聞けば、

     即時に、――

       一切の、

         『法』の、

           『因』を、

             『知る!』ことになる。

           『果』も、

             『空』なのだから!と。

       何故ならば、

         『頗羅はら)』が、

           『果』を示す!からである。

 

  (だ):南天竺の梵語Na。梵語にはna。無、或いは不の義。

  頗羅(はら):梵語phala。実、或いは結果の義。果と訳す。

  参考:『大品般若経巻5広乗品』:『拏字門。入諸法不來不去不立不坐不臥故。

  参考:『大品般若経巻5広乗品』:『頗字門。入諸法遍不可得故。

若聞歌字即知一切法五眾不可得。歌大秦言眾。若聞字即知字空諸法亦爾。

若し歌字を聞かば、即ち知るらく、一切の法に五衆は不可得なりと。歌大を秦に衆と言えばなり。若し字を聞かば、即ち知るらく、字は空にして、諸法も亦た爾りと。

   若し、

     『歌()字』を聞けば、

     即時に、こう知ることになる、――

       一切の、

         『法』に、

           『五衆』は、

           『得られない!』、と。

       何故ならば、

         『歌大(かだい)』が、

           『衆』を示すからである。

   若し、

     『)字』を聞けば、

     即時に、こう知ることになる、――

       『字』は、

         『空』であり、

       諸の、

         『法』も、

         『空』である、と。

 

  歌大(かだい):梵語skandha。部分の義。蘊、衆と訳す。

  (さ):梵字ysa。

  参考:『大品般若経巻5広乗品』:『歌字門。入諸法聚不可得故。

  参考:『大品般若経巻5広乗品』:『字門。入諸法字不可得故。

若聞遮字即知一切法不動相。遮羅地秦言動。若聞吒字即知一切法此彼岸不可得。吒羅秦言岸。

若し遮字を聞かば、即ち知るらく、一切法は不動の相なりと。遮羅地を秦に動と言えばなり。若し吒字を聞かば、即ち知るらく、一切法の此、彼の岸は不可得なりと。吒羅を秦に岸と言えばなり。

   若し、

     『遮(しゃ)字』を聞けば、

     即時に、こう知ることになる、――

       一切の、

         『法』は、

           『不動』の、

           『相』である!、と。

       何故ならば、

         『遮羅地(しゃらじ)』が、

         『動く!』ことを示すからである。

   若し、

     『)字』を聞けば、

     即時に、こう知ることになる、――

       一切の、

         『法』に、

           『彼岸、此岸』は、

           『得られない!』、と。

       何故ならば、

         『吒羅たら)』が、

           『岸』を示す!からである。

 

  遮羅地(しゃらち):梵語carati。動く、実行するの義。動と訳す。

  吒羅(たら):不詳。或いは慢の義を有する梵語吒迦羅TaGkaに由来せる語か?

  参考:『大品般若経巻5広乗品』:『遮字門。入諸法行不可得故。

  参考:『大品般若経巻5広乗品』:『[*]字門。入諸法傴不可得故。

若聞茶字即知一切法必不可得。波茶秦言必。茶外更無字。若更有者是四十二字枝派。

若し茶字を聞かば、即ち知るらく、一切法の必は不可得なりと。波茶を秦に必と言えばなり。茶の外に更に字無し。若し更に有れば、是れ四十二字の枝派なり。

   若し、

     『)字』を聞けば、

     即時に、こう知ることになる、――

       一切の、

         『法』に、

           『必然』は、

           『得られない!』、と。

       何故ならば、

         『波茶はだ)』が、

           『必然』を示す!からである。

     『茶字』の外に、

     更に、

       『字』は、

       『無い!』、

     若し有れば、

       『四十二字』の、

       『枝派』である。

 

  (だ):又荼に作る。『大智度論巻48()注:荼』参照。

  波荼(はだ):梵語baaDha?。堅固の義。

  参考:『大品般若経巻5広乗品』:『荼字門。入諸法邊竟處故不終不生。過荼無字可說。何以故。更無字故。諸字無礙無名亦滅。不可說不可示。不可見不可書。須菩提。當知一切諸法如虛空。須菩提。是名陀羅尼門。

是字常在世間相似相續故。入一切語故無礙。如國國不同無一定名。故言無名。聞已便盡故言滅。諸法入法性皆不可得。而況字可說。

是の字は、常に世間に在りて、相似して相続するが故に、一切の語に入るが故に無礙なり。国国不同にして、一定の名無きが故に言に名無く、聞き已れば、便ち尽くるが故に、言滅するが如く、諸法は、法性に入れば、皆、不可得なり。而も況んや、字を説くべけんや。

   是の、

     『字』は、

     常に、

       『世間』に在って、

         『相似』し、

         『相続する!』ものであり、

       一切の、

         『語』に、

         『入る!』ものであり、

       故に、

         『無礙』である。

     例えば、

       『国』と、

       『国』とが、

         『同じでなく』、

       『一定』の、

         『名』が、

         『無い!』が故に、

       『言』に、――口より出るもの――

         『名』は、――法を示すもの――

         『無い!』のであり、

       『聞いた!』ものは、

       すぐ、

         『尽きる!』ので、

       故に、

         『言』が、

         『滅する!』ように、

     諸の、

       『法』は、

       『法性』に入れば、

       皆、

         『得られない!』のである。

     況して、

       『字』が、

       『説ける!』ものだろうか?

諸法無憶想分別故不可示。先意業分別故有口業。口業因緣故身業作字。字是色法。或眼見或耳聞。眾生強作名字。無因緣。以是故不可見不可書。諸法常空如虛空相。何況字。說已便滅。是文字陀羅尼。是諸陀羅尼門。

諸法は、憶想、分別無きが故に示すべからず。先に意業の分別するが故に、口業有り。口業の因縁の故に、身業もて字を作る。字は是れ色法なり。或いは眼に見、或いは耳に聞くを、衆生は強いて名と作すも、字に因縁無し。是を以っての故に、見るべからず、書くべからず。諸法は、常に空にして、虚空の相の如し。何に況んや、字の説き已りて、便ち滅するをや。是れ文字陀羅尼なり。是れ諸の陀羅尼門なり。

   諸の、

     『法』は、

       『憶想、分別』が、

       『無い!』時には、

     故に、

       『示す!』ことができないが、

     先に、

       『意業』を以って、

         『法』を、

           『分別』する!が故に、

           『口業』が有り、

         『口業』の、

         『因縁』の故に、

           『身業』が、

             『字』と、

             『作す!』のであるが、

     『字』とは、

     是れは、

       『色法』であり、

         『眼で見る!』とか、

         『耳に聞く!』ものであり、

       『衆生』が、

       強いて、

         『名』と、

         『字』とを、

           『作る!』のみで、

         『因』も、

         『縁』も、

           『無い!』のである。

     是の故に、

     『字』とは、

     是れは、

       『見ることもできず』、

       『書くこともできない!』ものである。

   諸の、

     『法』は、

     常に、

       『空』であり、

       『虚空のような相』である。

     況して、

     『字』などは、

       『説く!』と同時に、

       『滅する!』ものである。

   是れが、

     『文字』の、

     『陀羅尼』であり、

   諸の、

     『陀羅尼』の、

     『門』である。

 

 

 

 

 

文字陀羅尼の二十功徳

問曰。知是陀羅尼門因緣者。應得無量無邊功コ。何以但說二十。

問うて曰く、是の陀羅尼門の因縁を知る者は、応に無量、無辺の功徳を得べし。何を以ってか、但だ二十を説く。

 問い、

   是の、

     『陀羅尼の門』の、

       『因縁』を、

       『知る!』者は、

     当然、

       『無量』、

       『無辺』の、

         『功徳』を、

         『得る!』はずである。

     何故、

     但だ、

       『二十』のみを、

       『説く!』のですか?

答曰。佛亦能說諸餘無量無邊功コ。但以廢說般若波羅蜜故。但略說二十。得強識念者。菩薩得是陀羅尼。常觀諸字相。修習憶念故得強識念。

答えて曰く、仏も、亦た能く、諸余の無量、無辺の功徳を説きたもうも、但だ廃して、般若波羅蜜を説かんと以(おも)いたもうが故に、但だ略して、二十を説きたまえり。強き識念を得とは、菩薩は、是の陀羅尼を得ば、常に諸字の相を観て、修習、憶念するが故に、強き識念を得。

 答え、

   『仏』も、

   亦た、

   諸余の、

     『無量、無辺』の、

       『功徳』を、

       『説く!』こともできたが、

     但だ、

     止めて、

       『般若波羅蜜』を、

       『説こう!』とされたが故に、

     但だ、

     略して、

       『二十』を、

       『説かれた!』のである。

   『強い識、念』を得る!とは、――――

     『菩薩』が、

     是の、

       『陀羅尼』を得れば、

       常に、

       諸の、

         『字』の、

           『相』を観て、

           『修習』し、

           『憶念』する!ので、

         故に、

         強い、

           『識、念』を得る!のである。

得慚愧者。集諸善法厭諸惡法故。生大慚愧心。得堅固者。集諸福コ智慧故。心得堅固如金剛。乃至阿鼻地獄事尚不退阿耨多羅三藐三菩提。何況餘苦。

慚愧を得とは、諸の善法を集めて、諸の悪法を厭うが故に、大慚愧心を生ず。堅固を得とは、諸の福徳の智慧を集むるが故に、心に堅固を得ること、金剛の如くして、乃至阿鼻地獄の事すら、尚お、阿耨多羅三藐三菩提より退かず。何に況んや、余の苦をや。

   『慚愧』を得る!とは、――――

     諸の、

       『善法』を、

       『集め』て、

     諸の、

       『悪法』を、

       『厭う!』ので、

     故に、

     大きな、

       『慚愧心』を、

       『生ずる!』のである。

   『堅固』を得る!とは、――――

     諸の、

       『福徳』の、

         『智慧』を、

         『集める!』が故に、

       『心』に、

         『堅固』を得て、

         『金剛』のよう!になり、

       乃至、

         『阿鼻地獄』の、

           『苦事』を、

           『受けた!』としても、

         尚お、

           『阿耨多羅三藐三菩提』より、

           『退かない!』のである。

         況して、

           『余の苦』は言うまでもない。

得經旨趣者。知佛五種方便說法。故名為得經旨趣。一者知作種種門說法。二者知為何事故說。三者知以方便故說。四者知示理趣故說。五者知以大悲心故說。

経の旨趣を得とは、仏の五種の方便の説法を知る故に、名づけて、経の旨趣を得と為す。一には、種種の門を作りて、法を説きたまえりと知る。二には、何事の為の故にか、説きたまえるを知る。三には、方便を以っての故に、説きたまえりと知る。四には、理趣を示さんが故に、説きたまえりと知る。五には、大悲心を以っての故に、説きたまえりと知る。

   『経の旨趣』を得る!とは、――――

     『仏』の、

       『五種』の、

       『方便』の、

         『説法』を、

         『知る!』が故に、

       『経』の、

         『旨趣』を、

         『得る!』というのである。

       謂わゆる、――

       一には、

         これを知る!――

         種種の、

           『門』を作って、

             『法』を、

             『説かれた!』のだ、と。

       二には、

         これを知る!――

         何のような、

           『事』の為に、

             『法』を、

             『説かれたのか?』、を。

       三には、

         これを知る!――

           『方便』を以って、

           『説かれた!』のだ、と。

       四には、

         これを知る!――

           『理趣』を、

             『示そう!』として、

             『説かれた!』のだ、と。

       五には、

         これを知る!――

           『大悲心』の故に、

           『説かれた!』のだ、と。

 

  参考:『大品般若経巻5広乗品』:『得經旨趣。

得智慧者。菩薩因是陀羅尼。分別破散諸字言語亦空。言語空故名亦空。名空故義亦空。得畢竟空即是般若波羅蜜智慧。樂說者。既得如是畢竟清淨無礙智慧。以本願大悲心度眾生。故樂說易。

智慧を得とは、菩薩は、是の陀羅尼に因りて諸字を、『言語も亦た空なり。言語の空なるが故に、名も亦た空なり。名の空なるが故に、義も亦た空なり。』と分別し、破散して、畢竟空を得れば、即ち、是れ般若波羅蜜の智慧なり。楽説とは、既に是の如き畢竟清浄にして、無礙の智慧を得れば、本願、大悲心を以って、衆生を度するが故に、楽説すること易し。

   『智慧』を得る!とは、――――

     『菩薩』は、

     是の、

       『陀羅尼』に因って、

       諸の、

         『字』を、

           『分別』し、

           『破散』する!が故に、

         『言語』も、

         亦た、

           『空』である!

         『言語』が、

           『空』である!が故に、

           『名』も、

           亦た、

             『空』である!

         『名』が、

           『空』である!が故に、

           『義』も、

           亦た、

             『空』となり、

             『畢竟空』を得れば、

         即ち、

         是れが、

           『般若波羅蜜』の、

           『智慧』である。

   『楽説無礙』を得る!とは、――――

     既に、

     是のような、

     畢竟じて、

       『清浄』、

       『無礙』の、

         『智慧』を得て、

       『本願』と、

       『大悲心』とを以って、

         『衆生』を、

         『度す!』のであるから、

       故に、

         『楽説』する!ことは、

         『易しい!』ことである。

 

  参考:『大品般若経巻5広乗品』:『得智慧。得樂說無礙。易

得陀羅尼者。譬如破竹初節既破餘者皆易。菩薩亦如是。得是文字陀羅尼。諸陀羅尼自然而得。無疑悔心者。入諸法實相中。雖未得一切智慧。於一切深法中無疑無悔。

陀羅尼を得とは、譬えば竹を破るに、初の節既に破るれば、余の者は、皆易きが如し。菩薩も、亦た是の如く、是の文字陀羅尼を得ば、諸の陀羅尼は自然に得るなり。疑悔の心無しとは、諸法の実相中に入れば、未だ一切の智慧を得ずと雖も、一切の深法中に於いて、疑無く、悔無し。

   『陀羅尼』を得る!とは、――――

     譬えば、

       『竹』の、

         『初の節』を破れば、

         『余の節』を破る!ことが、

         皆、

           『易しい!』ことであるように、

     『菩薩』も、

     亦た、

       是のように、

       是の、

         『文字』の、

           『陀羅尼』を、

           『得た!』ならば、

         諸の、

           『陀羅尼』は、

             『自然』に、

             『得る!』のである。

   『疑、悔の心が無い!』とは、――――

     諸の、

       『法』の、

         『実相』中に、

         『入った!』ならば、

       未だ、

       一切の、

         『智慧』を、

         『得ていない!』としても、

       一切の、

         『深法』中に、

           『疑、悔』が、

           『無くなる!』のである。

 

  参考:『大品般若経巻5広乗品』:『得諸餘陀羅尼門。得無疑悔心。

聞善不喜聞惡不瞋者。各各分別諸字。無讚歎無毀呰故。聞善不喜聞惡不瞋。不高不下者。憎愛斷故。

善を聞きて喜ばず、悪を聞いて瞋らずとは、各各、諸字を分別すれば、讃歎無く、毀呰無きが故に、善を聞きて喜ばず、悪を聞きて瞋らざるなり。高からず、下からずとは、憎愛を断ずるが故なり。

   『善』を聞いても、

     『喜ばない!』、

   『悪』を聞いても、

     『瞋らない!』とは、――――

     諸の、

       『字』を、

       『分別』すれば、

       各各、

         『讃歎』も、

         『毀呰』も、

           『無い!』が故に、

       『善』を、

         『聞い』ても、

         『喜ばず』、

       『悪』を、

         『聞い』ても、

         『瞋らない!』のである。

   『高くない!』し、

   『下くない!』とは、――10――

     『憎』も、

     『愛』も、

       『断たれている!』からである。

 

  参考:『大品般若経巻5広乗品』:『得聞善不喜聞惡不怒。得不高不下住心無摶ウ減。

善巧知眾生語者。得解一切眾生言語三昧故。巧分別五眾十二入十八界十二因緣四緣四諦者。五眾等義如先說。

善く巧みに、衆生の語を知るとは、一切の衆生の言語を解する三昧を得るが故なり。巧みに五衆、十二入、十八界、十二因縁、四縁、四諦を分別すとは、五衆等の義は、先に説けるが如し。

   善く、

   巧みに、

     『衆生』の、

       『語』を、

       『知る!』とは、――11――

     一切の、

     『衆生』の、

       『語』を、

       『理解する!』、

         『三昧』を、

         『得た!』からである。

   巧みに、

     『五衆、十二入、十八界、十二因縁、四縁、四諦』を、

     『分別』する!とは、――12――

       『五衆』等の、

       『義』は、

         『先に説いた!』とおりである。

 

  参考:『大品般若経巻5広乗品』:『得善巧知眾生語。得巧分別五陰十二入十八界十二因緣四緣四諦。

巧分別眾生諸根利鈍。知他心天耳宿命。巧說是處非處者。如十力中說。巧知往來坐起等者。如阿鞞跋致品中所說。

巧みに衆生の諸根の利鈍を分別して、他心、天耳、宿命を知り、巧みに是処、非処を説くとは、十力中に説けるが如し。巧みに往来、坐起等を知るとは、阿鞞跋致品中に説ける所の如し。

   巧みに、

     『衆生』の、

     諸の、

       『根』の、

         『利、鈍』を、

         『分別』し、――13――

     『他心』を、

       『知り』、――14――

     『天耳』、――16――

     『宿命』を、――17――

       『分別』し、

   巧みに、

     『是処、非是処』を、――19――

       『説く!』とは、

       例えば、

         『十力』中に、

         『説いた!』とおりである。

   巧みに、

     『往来、坐起』等を、――20――

       『知る!』とは、

       例えば、

         『阿鞞跋致品』に、

         『説かれている!』とおりである。

 

  参考:『大品般若経巻5広乗品』:『得巧分別眾生諸根利鈍。得巧知他心。得巧分別日月歲節。得巧分別天耳通。得巧分別宿命通。得巧分別生死通。得能巧說是處非處。得巧知往來坐起等身威儀。

  参考:『大品般若経巻16不退品』:『復次須菩提。菩薩摩訶薩出入去來坐臥行住常念一心。出入去來坐臥行住舉足下足安隱詳序。常念一心視地而行。須菩提。以是行類相貌。當知是名阿惟越致菩薩摩訶薩。

日月歲節者。日名從旦至旦。初分中分後分。夜亦三分。一日一夜有三十時。春秋分時十五時屬晝。十五時屬夜。餘時搆ク。五月至晝十八時夜十二時。十一月至夜十八時晝十二時。一月或三十日或三十日半。或二十九日或二十七日半。

日月歳節とは、日を、旦より旦に至る初分、中分、後分と名づく。夜も亦た三分す。一日一夜に、三十時有り、春、秋分の時は、十五時を昼に属し、十五時を夜に属す。余の時には、増減あり。五月には、昼十八時、夜十二時に至り、十一月には、夜十八時、昼十二時に至る。一月は、或いは三十日、或いは三十日半、或いは二十九日、或いは二十七日半なり。

   『日、月、歳、節』とは、――15――

     『日』とは、

       『旦(夜明)』より、

       『旦』までの、

       『昼』の、

         『初分』、

         『中分』、

         『後分』であり、

       『夜』も、

       亦た、

         『三分』する。

     『一日()』、

     『一夜』に、

       『三十時』が有り、

       『春、秋分』の、

       『時』は、

         『十五時』が、

           『昼』に属し、

         『十五時』が、

           『夜』に属す。

       『余の時』は、

         『増、減』して、

         『五月』に至って、――

           『昼』が、

             『十八時』、

           『夜』が、

             『十二時』となり、

         『十一月』に至って、――

           『夜』が、

             『十八時』、

           『昼』が、

             『十二時』となる。

     『一月』は、

     或いは、

       『三十日』、

       『三十日半』、

       『二十九日』か、

       『二十七日半』である。  

有四種月。一者日月。二者世間月。三者月月。四者星宿月。日月者。三十日半。世間月者。三十日。月月者。二十九日。加六十二分之三十。星宿月者。二十七日。加六十七分之二十一。閏月者。從日月世間月二事中出。是名十三月。或十二月或十三月名一歲。是歲三百六十六日。周而復始。

四種の月有り、一には日の月、二には世間の月、三には月の月、四には星宿の月なり。日の月は、三十日半なり。世間の月は、三十日なり。月の月は、二十九日に、六十二分の三十を加う。星宿の月は、二十七日に、六十七分の二十一を加う。閏の月とは、日の月、世間の月の二事中より出で、是れを十三月と名づく。或いは十二月、或いは十三月を、一歳と名づけ、是の歳は、三百六十六日を周りて、復た始まる。

     『月』には、

       『四種』有り、――

       一には、

         『日の月』、

       二には、

         『世間の月』、

       三には、

         『月の月』、

       四には、

         『星宿の月』であり、

       『日の月』は、

         『三十日半』、

       『世間の月』は、

         『三十日』、

       『月の月』は、

         『二十九』に、

         『六十二分の三十』を加え、

       『星宿の月』は、

         『二十七日』に、

         『六十七分の二十一』を加える。

       『閏の月』は、

         『日の月』と、

         『世間の月』との、

           『二事』より出て、

         是れを、

           『十三の月』と呼ぶ。

     『歳』は、

     或いは、

       『十二月』か、

       『十三月』であり、

       是れを、

         『一歳』と呼ぶ。

     是の、

       『歳』は、

         『三百六十六日』を周る!と、

         復た、

           『始まる!』。

菩薩知日中分時。前分已過後分未生。中分中無住處。無相可取。日分空無所有。到三十日時二十九日已滅。云何和合成月。月無故。云何和合而為歲。

菩薩の知るらく、『日の中分の時は、前分は已に過ぎ、後分は未だ生ぜず、中分中に住処無ければ、相の取るべき無く、日分は空にして所有無く、三十日に到る時には、二十九日は已に滅す。云何が和合して、月と成らん。月無きが故に、云何が和合して、歳と為らん。』と。

     『菩薩』は、

       こう知っている、――

       『日』の、

         『中分』の時、

           『前分』は、

           已に、

             『過ぎた!』、

           『後分』は、

           未だ、

             『生じない!』。

         『中分』中には、

           『住まる!』、

             『処』が、

             『無く』、

           『相』として、

             『取れる!』ものが、

             『無い!』。

         則ち、

         『日分』は、

           『空』であり、

             『有する!』所が、

             『無い!』のだ。

       『三十日』に到る!時、

         『二十九日』は、

         已に、

           『滅している!』。

         何が、

           『和合』して、

             『月』と、

             『成る!』というのか?

         『月』が、

           『無い!』のだから、

         何が、

           『和合』して、

             『歳』と、

             『成る!』というのか?と。

以是故。佛言。世間法如幻如夢。但是誑心法。菩薩能知世間日月歲和合。能知破散無所有。是名巧分別。如是等種種分別。是名菩薩摩訶薩摩訶衍

大智度論卷第四十八(釋第十九品)

是を以っての故に、仏の言わく、『世間の法は、幻の如く、夢の如し。但だ是れ心を誑く法なり。』と。菩薩は、能く、世間の日、月、歳の和合なるを知り、能く、破散すれば、所有無きを知る。是れを巧みに分別すと名づけ、是の如き等の種種の分別、是れを菩薩摩訶薩の摩訶衍と名づく。

大智度論巻第四十八(第十九品を釈せり)

   是の故に、

     『仏』は、

       こう言われた、――

       『世間』の、

         『法』は、

           『幻』か、

           『夢』のようであり、

         但だ、

         『心』を、

           『誑くだけ!』の、

           『法』である、と。

     『菩薩』は、

       『世間』の、

         『日、月、歳』は、

           『和合である!』と、

           『知り』、

         『破散』すれば、

           『所有が無い!』と、

           『知る!』ので、

         是れを、

         巧みに、

           『分別する!』というのである。

   是れ等のように、

   種種に、

     『分別』する!こと、

     是れが、

       『菩薩摩訶薩』の、

       『摩訶衍』である。

  

大智度論巻第四十八(第十九品を釈した)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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