巻第四十八(上)
大智度論釋四念處品第十九
1.【經】四念処を観て、世間の貪憂を除く
2.【論】四念処を観て、世間の貪憂を除く
home

大智度論釋四念處品第十九(卷四十八)
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


【經】四念処を観て、世間の貪憂を除く

【經】佛告須菩提。菩薩摩訶薩摩訶衍。所謂四念處。何等四。須菩提。菩薩摩訶薩內身中循身觀亦無身覺。以不可得故。外身中內外身中循身觀亦無身覺。以不可得故。勤精進一心除世間貪憂。內受內心內法。外受外心外法。內外受內外心內外法。循法觀亦無法覺。以不可得故。勤精進一心除世間貪憂。 仏の須菩提に告げたまわく、『菩薩摩訶薩の摩訶衍とは、謂わゆる四念処なり。何等か四なる。須菩提、菩薩摩訶薩は内身中には身を循(めぐ)りて観るも、亦た身覚無し。不可得を以っての故なり。外身中、内外身中に身を循りて観るも、亦た身覚無し。不可得を以っての故に勤精進して一心に世間の貪憂を除くなり。内受、内心、内法、外受、外心、外法、内外受、内外心、内外法を、法を循りて観るも亦た法覚無し。不可得を以っての故に勤精進して一心に世間の貪憂を除くなり。
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
『菩薩摩訶薩の摩訶衍』とは、
『謂わゆる、四念処である!』、
何のような、
『四か?』、――
須菩提!
『内、外、内外』の、
『身』中に、
『身を循りて観ても( observing it along its body )!』、
『身覚が無い!』のは、
『身は不可得だからである!』と、
『勤精進して一心に!』、
『世間の貪憂』を、
『除き!』、
『內、外、内外』の、
『受、心、法』中に、
『法を循りて観ても!』、
『法覚が無い!』のは、
『法は不可得だからである!』が故に、
『勤精進して一心に!』、
『世間の貪憂』を、
『除くのである!』。
  (じゅん):<動詞>[本義]沿う( along )。依る( according to )、遵守する/に従う( follow, abide by )、循環する/巡る( circulate )、巡視する( tour )。<形容詞>善い/良い/好い( good )、敬う( respect )。
  参考:『舎利弗阿毘曇論巻13』:『何謂修四念處。謂內身觀身行勤精進。應正智念除世間貪憂。外身觀身行勤精進。應正智念除世間貪憂。內外身觀身行勤精進。應正智念除世間貪憂。受心法亦如是。云何身觀身行。身謂四大色身。父母因緣飲食長養。衣服調適塗油潤身。無常破壞變異之法。是名身。復次名身。色身是名身。復次地身水火風身。是名身。復次象眾馬眾車眾步眾。是名身。復次六識身六觸身六受身六想身六思身六愛身六覺身六觀身。是名身。云何內身觀身行。若比丘一切內四大色身所攝法。若內一處四大色身所攝法。思惟無常知無常解無常受無常。如是不放逸觀。得定心住正住。是名內身觀身行。復次比丘。一切內身四大色身所攝法。若內一處四大色身所攝法。思惟苦患癰箭貪味病依緣壞法不定不滿可壞苦空無我。思惟緣知緣解緣受緣。即無明緣行。乃至名色緣六入。乃至是名內身觀身行。復次比丘。一切內身四大色身所攝法。若內一處四大色身所攝法。思惟滅知滅解滅受滅。即無明滅則行滅。乃至名色滅則六入滅。乃至是名內身觀身行。復次比丘。行樂知行樂。乃至臥樂知臥樂。身住樂如實知。乃至是名內身觀身行。復次比丘。去來屈申迴轉正知行。乃至眠覺語默正知行。乃至是名內身觀身行。復次比丘。出息長知長。入息長知長。出息短知短。入息短知短。如旋師挽繩。繩長知長繩短知短。乃至是名內身觀身行。復次比丘。從頂至足從足至頂。見諸不淨。觀身中有髮毛爪齒薄皮厚皮。血肉筋脈脾腎心肺。大小穢藏便利涕唾膿血脂肪腦膜淚汗髓骨。如淨眼人於二門倉觀見諸穀。胡麻大豆小豆豍豆大麥小麥。如是比丘觀身中。從頂至足從足至頂。具諸不淨。乃至是名內身觀身行。復次比丘。觀身諸大此身中唯有地水火風大。如巧屠牛師屠牛師弟子屠牛為四分。若坐立行住但見四分。如是比丘。觀此諸大。此身唯有地大水火風大。然此諸大但依水火生各相違。飲食長養羸劣無力。不堅無強念念不住。乃至是名內身觀身行。復次比丘。觀身食住食集。緣食得住無食無住。如火緣薪得燃無薪則滅。如是比丘。觀身食住食集。緣食得住無食不住。如佛說 觀身所集苦  一切皆緣食  若能除滅食  則無是諸苦  如是知過患  食是成就苦  比丘滅食已  必定得涅槃  是名內身觀身行。復次比丘。觀身盡空俱空以念遍知解行。乃至是名內身觀身行。復次比丘。觀身是癰瘡。此身有九瘡津漏門。若所出津漏皆是不淨。乃至如摩訶迦葉說。四大色身是衰耗相違津漏。乃至壽命短促。乃至是名內身觀身行。及餘諸行一切內四大色身所攝法。一處內四大色身所攝法。思惟得定心住正住。是名內身觀身行。云何內。身身若受。謂若內緣生自性己分。是名內。云何觀。謂如實人微觀正覺緣觀解。是名觀。云何行。如是微觀成就不違法護持行微行。是名行。云何勤精進。謂如實人若順法多行精進。是名勤精進。復次若身心發起顯出越度不退。是名勤精進。云何正智。謂如實人知見解射方便。是名正知。云何念。謂如實人憶念。微念緣念住不忘相續念不失不集。是名念。云何世間。有二種世間。眾生世間行世間。五道受生。是名眾生世間。五受陰。是名行世間。云何貪。貪不善根。是名貪。云何憂。意觸苦受。是名憂。云何除。覆背解斷吐出。是名除。云何外身觀身行。若比丘外一切四大色身攝法。若外一處四大色身攝法。思惟無常知無常解無常受無常。如是不放逸觀。得定心住正住。是名外身觀身行。復次比丘。一切外四大色身所攝法。若一處外四大色身所攝法。若觀苦痛癰箭著味病依緣壞法不定不滿可壞苦空無我。思惟緣知緣解緣受緣。即無明緣行。乃至名色緣六入。乃至是名外身觀身行。復次比丘。外一切四大色身所攝法。外一處四大色身所攝法。思惟滅知滅解滅受滅。無明滅則行滅。乃至名色滅則六入滅。乃至是名外身觀身行。及餘諸行外一切四大色身所攝法。若外一處色身所攝法。思惟得定心住正住。是名外身觀身行。云何外身。謂身非受非內非緣生非自性非己分。是名外。餘義如上說。云何內外身觀身行。如比丘一切內外四大色身攝法。若一處內外四大色身攝法。觀無常知無常解無常受無常。如是不放逸觀。得定心住正住。是名內外身觀身行。復次比丘。一切內外四大色身攝法。若一處內外四大色身攝法。若觀苦痛癰箭著味病依緣壞法不定不滿可壞苦空無我。思惟緣知緣解緣受緣。無明緣行乃至觸緣受。乃至是名內外身觀身行。復次比丘。一切內外四大色身攝法。若一處內外四大色身攝法。思惟滅知滅解滅受滅。無明滅則行滅。乃至名色滅則六入滅。乃至是名內外身觀身行。復次比丘。若見死屍棄在塚間。若一日至三日。乃至是名內外身觀身行。復次比丘。若見死屍棄在塚間。若一日至三日[月*逢]脹青瘀。乃至是名內外身觀身行。復次比丘。若見死屍棄在塚間。若一日至三日。為烏鳥虎狼若干諸獸之所食噉。乃至是名內外身觀身行。復次比丘。若見死屍骨節相連。青赤爛壞膿血不淨臭穢可惡。乃至是名內外身觀身行。復次比丘。若見死屍骨節相連。餘血皮所覆筋脈未斷。乃至是名內外身觀身行。復次比丘。若見死屍骨節相連。血肉已離筋脈未斷。乃至是名內外身觀身行。復次比丘。若見死屍骨節已壞未離本處。乃至是名內外身觀身行。復次比丘。若見死屍骨節斷壞遠離本處。腳脛膞脾臗脊脅肋手足肩臂項髑髏諸骨各自異處。乃至是名內外身觀身行。復次比丘。若見死屍骨節久故色白如貝色青如鴿朽敗碎壞。乃至是名內外身觀身行。復次比丘。若見死屍在火聚上。燒髮毛皮膚血肉筋脈骨髓。一切髮毛乃至骨髓漸漸消盡。觀此法不至東方南西北方四維上下處住。此法本無而生。已生還滅。乃至是名內外身觀身行。及餘一切諸行四大色身攝法。若一處內外四大色身攝法。思惟得定心住正住。是名內外身觀身行。云何內外身若受若非受。是名內外身。餘義如上說。比丘觀身法緣起行。觀身法緣滅行。比丘如是觀身法緣起緣滅行。有身起內念。以智以明識不依身。無所依行不受於世。如是比丘。內身觀身行勤精進正智正念。除世貪憂。外身內外身亦如是。』
須菩提。菩薩摩訶薩云何內身中循身觀。須菩提。若菩薩摩訶薩行時知行住時知住。坐時知坐。臥時知臥。如身所行如是知。須菩提。菩薩摩訶薩如是內身中循身觀。勤精進一心除世間貪憂。以不可得故。 須菩提、菩薩摩訶薩は云何が内身中に身を循りて観る。須菩提、若し菩薩摩訶薩、行ずる時行を知り、住する時住を知り、坐する時坐を知り、臥する時臥を知り、身の所行の如く是の如く知れば、須菩提、菩薩摩訶薩は是の如く内身中に身を循りて観て、勤精進して一心に世間の貪憂を除くのは、不可得なるを以っての故なり。
須菩提!
『菩薩摩訶薩』は、
何のように、
『内身』中に、
『身を循って!』、
『観るのか?』。
須菩提!
『菩薩摩訶薩』が、
若し、
『行じる時、行を知り( when he is walking, he knows he is walking )!』、
『住する時、住を知り( when he is staying, he knows he is staying )!』、
『坐する時、坐を知り( when he is sitting, he knows he is sitting )!』、
『臥する時、臥を知り( when he is lying, he knows he is lying )!』、
是のように、
『身の所行のように( as the body actually is doing )!』、
『知れば( to know )!』、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』は、
是のように、
『内身』中に、
『身を循って!』、
『観ながら!』、
『勤精進して、一心に!』、
『世間の貪憂』を、
『除くのである!』が、
何故ならば、
『身』は、
『不可得だからである!』。
復次須菩提。菩薩摩訶薩若來若去視瞻一心。屈申俯仰服僧伽梨執持衣缽。飲食臥息坐立睡覺語默入禪出禪亦常一心。如是須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。內身中循身觀。以不可得故。 復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は若しは来たり、若しは去らんにも視瞻すること一心にして、屈申、俯仰して僧伽梨を服(つ)け、衣鉢を執持し、飲食、臥息、坐立、睡覚、語默、入禅、出禅するにも、亦た常に一心にして、是の如く、須菩提、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずるに、内身中に身を循りて観るは、不可得を以っての故なり。
復た次ぎに、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』は、
『来るにも、去るにも!』、
『視るにも、瞻るにも!』、
『一心であり!』、
『屈むにも、伸びるにも!』、
『俯くにも、仰ぐにも!』、
『僧伽梨を服けるにも!』、
『衣鉢を執持するにも!』、
『飲食するにも、臥息するにも!』、
『坐るにも、立つにも!』、
『睡るにも、覚めるにも!』、
『語るにも、黙するにも!』、
『禅に入るにも、出るにも!』、
『常に、一心である!』が、
是のように、
須菩提!
『菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行じて!』、
『内身中に身を循って観る!』のは、
『身が不可得だからである!』。
  (せん):見守る/看る( look out for )、仰視する( look with respect )。
  僧伽梨(そうぎゃり):三衣の一。九條以上の衣。『大智度論巻26上注:僧伽梨、三衣』参照。
  参考:『舎利弗阿毘曇論巻13』:『復次比丘。去來屈申迴轉正知行。乃至眠覺語默正知行。乃至是名內身觀身行。』
復次須菩提。菩薩摩訶薩內身中循身觀時一心念。入息時知入息。出息時知出息。入息長時知入息長。出息長時知出息長。入息短時知入息短。出息短時知出息短。 復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は内身中に身を循りて観る時、一心に念じ、入息時には入息を知り、出息時には出息を知り、入息の長き時には入息の長きを知り、出息の長き時には出息の長きを知り、入息の短き時には入息の短きを知り、出息の短き時には出息の短きを知る。
復た次ぎに、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』は、
『内身中に身を循って観る!』時、
『一心に念じながら( to think with a concentrated mind )!』、
『入息する!』時には、
『入息している!』と、
『知り!』、
『出息する!』時には、
『出息している!』と
『知り!』、
『入息が長い!』時には、
『入息が長い!』と、
『知り!』、
『出息が長い!』時には、
『出息が長い!』と
『知り!』、
『入息が短い!』時には、
『入息が短い!』と、
『知り!』、
『出息が短い!』時には、
『出息が短い!』と
『知る!』。
  一心念(いっしんねん):◯梵語 ekaagra-citta, samanvaa√(hR) の訳、一点に集中した心/乱れない心( one pointed mind, undisturbed mind )の義、集中した心で考える( to think with a concentrated mind )の意。
譬如旋師若旋師弟子。繩長知長繩短知短。菩薩摩訶薩亦如是。一心念入息時知入息。出息時知出息。入息長時知入息長。出息長時知出息長。入息短時知入息短。出息短時知出息短。如是須菩提。菩薩摩訶薩內身中循身觀。勤精進一心除世間貪憂。以不可得故。 譬えば旋師、若しは旋師の弟子の縄長ければ長しと知り、縄短ければ短しと知るが如く、菩薩摩訶薩も亦た是の如く、一心に念じて入息時には入息を知り、出息時には出息を知り、入息の長き時には入息の長きを知り、出息の長き時には出息の長きを知り、入息の短き時には入息の短きを知り、出息の短き時には出息の短きを知る。是の如く、須菩提、菩薩摩訶薩は内身中に身を循りて観、勤精進し、一心に世間の貪憂を除くは、不可得を以っての故なり。
譬えば、
『旋師や、旋師の弟子』が、
『縄が長ければ!』、
『長い!』と、
『知り!』、
『縄が短ければ!』、
『短い!』と、
『知るように!』、
是のように、
『菩薩摩訶薩も、一心に念じて!』、
『入息する!』時には、
『入息している!』と、
『知り!』、
『出息する!』時には、
『出息している!』と
『知り!』、
『入息が長い!』時には、
『入息が長い!』と、
『知り!』、
『出息が長い!』時には、
『出息が長い!』と
『知り!』、
『入息が短い!』時には、
『入息が短い!』と、
『知り!』、
『出息が短い!』時には、
『出息が短い!』と
『知るのである!』が、
是のように、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』は、
『内身中に身を循って観ながら!』、
『勤精進し、一心に!』、
『世間の貪憂を除く!』のは、
『身が不可得だからである!』。
  旋師(せんし):旋盤の如き道具を用いて、木材その他を截断する師の意。「阿毘曇毘婆沙論巻40」に、「是の如き未だ離欲せざる衆生は、二結の為に因とせらる。謂わゆる恚結、愛結なり。恚結は断じ易く却り易し。愛結は断じ難く却り難し。復た次ぎに愛結は数数微細の行なるを以って、愛行ずる時も微細なれば、識知すべきこと難し。譬えば旋師の用うる所の利器は、截断する所有るも、微細にして覚り難きが如し。」と云えるを以って知るべし。
  参考:『舎利弗阿毘曇論巻13』:『復次比丘。出息長知長。入息長知長。出息短知短。入息短知短。如旋師挽繩。繩長知長繩短知短。乃至是名內身觀身行。』
復次須菩提。菩薩摩訶薩觀身四大作是念。身中有地大水大火大風大。譬如屠牛師若屠牛弟子。以刀殺牛分作四分。作四分已若立若坐觀此四分。菩薩摩訶薩亦如是行般若波羅蜜時。種種觀身四大。地大水大火大風大。如是須菩提。菩薩摩訶薩內身中循身觀。以不可得故。 復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は身の四大を観じて、是の念を作さく、『身中には地大、水大、火大、風大有り』、と。譬えば屠牛師、若しは屠牛の弟子の刀を以って牛を殺し、分けて四分と作し、四分を作し已りて、若しは立ち、若しは坐して此の四分を観るが如く、菩薩摩訶薩も亦た是の如く、般若波羅蜜を行ずる時、種種に身の四大の地大、水大、火大、風大を観る。是の如く、須菩提、菩薩摩訶薩は内身中に身を循りて観るは不可得なるを以っての故なり。
復た次ぎに、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』は、
『身の四大を観て!』、こう念じる、――
『身』中には、
『地大、水大、火大、風大』が、
『有る!』、と。
譬えば、
『屠牛師や、屠牛師の弟子』が、
『刀で、牛を殺して!』、
『四分』と、
『作し!』、
『四分と作したならば!』、
『立ったり、坐したりして!』、
此の、
『四分』を、
『観るように!』、
是のように、
『菩薩摩訶薩も、般若波羅蜜を行じる!』時、
種種に、
『身の四大である!』、
『地大、水大、火大、風大』を、
『観るのである!』。
是のように、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』が、
『内身』中に、
『身を循って観る!』のは、
『身が不可得だからである!』。
  参考:『舎利弗阿毘曇論巻13』:『復次比丘。觀身諸大此身中唯有地水火風大。如巧屠牛師屠牛師弟子屠牛為四分。若坐立行住但見四分。如是比丘。觀此諸大。此身唯有地大水火風大。然此諸大但依水火生各相違。飲食長養羸劣無力。不堅無強念念不住。乃至是名內身觀身行。』
復次須菩提。菩薩摩訶薩觀內身。從足至頂周匝薄皮。種種不淨充滿身中。作是念。身中有髮毛爪齒薄皮厚皮筋肉骨髓脾腎心肝肺小腸大腸胃胞屎尿垢汗目淚涕唾膿血黃白痰陰肪[月*冊]腦膜。 復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は内身は足より頂に至るまで、薄皮を周匝して、種種の不浄の身中に充満するを観て、是の念を作さく、『身中には髮、毛、爪、齒、薄皮、厚皮、筋、肉、骨、髓、脾、腎、心、肝、肺、小腸、大腸、胃、胞、屎、尿、垢、汗、目、淚、涕、唾、膿、血、黃、白痰、陰、肪[月*冊]、腦、膜有り』、と。
復た次ぎに、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』は、
『内身は、足より頂に至るまで!』、
『薄皮を周匝し( wrapped around in skin )!』、
『種種の不浄が、身中に充満している!』のを、
『観て!』、こう念じる、――
『身』中には、
『髮、毛、爪、齒、薄皮、厚皮、筋、肉、骨、髓、脾、腎、心、肝、肺や!』、
『小腸、大腸、胃、胞、屎、尿、垢、汗、目、淚、涕、唾、膿、血や!』、
『黃、白の痰、陰、肪[月*冊]、腦、膜が有る!』、と。
  周匝(しゅうそう):めぐって/一周して( around )。
  (ほう):えな。子が母の腹中に在るとき、外に膜ありて之を裹むもの。
  (おん):一本には癊。血のあと。血のかたまり。血痰。
  [月*冊](さん):あぶら。脂肪。
  参考:『舎利弗阿毘曇論巻13』:『復次比丘。從頂至足從足至頂。見諸不淨。觀身中有髮毛爪齒薄皮厚皮。血肉筋脈脾腎心肺。大小穢藏便利涕唾膿血脂肪腦膜淚汗髓骨。如淨眼人於二門倉觀見諸穀。胡麻大豆小豆豍豆大麥小麥。如是比丘觀身中。從頂至足從足至頂。具諸不淨。乃至是名內身觀身行。』
譬如田夫倉中隔盛雜穀。種種充滿稻麻黍粟豆麥。明眼之人開倉即知。是麻是黍是稻是粟是麥是豆。分別悉知。菩薩摩訶薩亦如是觀是身。從足至頂周匝薄皮。種種不淨充滿身中。髮毛爪齒乃至腦膜。如是須菩提。菩薩摩訶薩觀內身。勤精進一心除世間貪憂。以不可得故。 譬えば田夫の倉中に雑穀を隔てて盛り、種種に稲、麻、黍、粟、豆、麦を充満するに、明眼の人は倉を開くれば、即ち、是れ麻なり、是れ黍なり、是れ稲なり、是れ粟なり、是れ麦なり、是れ豆なりと知りて、分別し悉く知るが如く、菩薩摩訶薩も亦た是の如く観ずらく、『是の身は足より頂に至るまで薄皮を周匝して種種の不浄身中に充満し、髪、毛、爪、歯乃至脳、膜なり』、と。是の如く須菩提、菩薩摩訶薩は内身を観て、勤精進し、一心に世間の貪憂を除くは、不可得なるを以っての故なり。
譬えば、
『田夫の倉』中に、
『雑穀が隔てて盛られており!』、
『稲、麻、黍、粟、豆、麦』が、
『種種に充満していたとしても!』、
『明眼の人』が、
『倉を開ければ!』、
即ち、
『是れは麻、黍、稲、粟、麦、豆である、と知り!』、
『悉く、分別して知るように!』、
『菩薩摩訶薩』も、
『是のように、観るのである!』、――
是の、
『身』は、――
『足より頂まで薄皮が周匝し、種種の不浄が身中に充満し!』、
即ち、
『髪、毛、爪、歯、乃至脳、膜である!』と、
是のように、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』が、
『内身を観て!』、
『勤精進し、一心に世間の貪憂を除く!』のは、
『身が不可得だからである!』。
復次須菩提。菩薩摩訶薩若見棄死人身。一日二日至于五日膖脹青瘀膿汁流出。自念我身亦如是相如是法。未脫此法。如是須菩提。菩薩摩訶薩內身中循身觀。勤精進一心除世間貪憂。以不可得故。 復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は若し棄死人の身の一日、二日より五日に至りて膖脹し、青瘀し、膿汁流出するを見れば、自ら念ずらく、『我が身も亦た是の如き相、是の如き法なるも、未だ此の法を脱れず』、と。是の如く、須菩提、菩薩摩訶薩は内身中に身を循りて観、勤精進し、一心に世間の貪憂を除くは、不可得なるを以っての故なり。
復た次ぎに、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』が、
若し、
『棄死人の身』が、
『一日、二日より五日に至る!』と、
『膖脹し、青瘀して、膿汁が流出する!』のを、
『見れば!』、
自ら、こう念じることになる、――
わたしの、
『身』も、
『是のような相であり!』、
『是のような法である!』が、
此の、
『法』を、
『未だに、脱れてはいない!』、と。
是のように、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』が、
『内身中に、身を循って観ながら!』、
『勤精進し、一心に世間の貪憂を除く!』のは、
『身が不可得だからである!』。
  棄死人(きしにん)、棄死屍処(きししじょ):梵語 ziitavana の訳、寒林( cool forest )の義、又尸陀林に作る、死屍を棄てる処( name of a place for receiving corpses )の意。
復次須菩提。菩薩摩訶薩若見棄死人身。若六日若七日烏鴟雕鷲豺狼狐狗。如是等種種禽獸爴裂食之。自念我身如是相如是法。未脫此法。如是須菩提。菩薩摩訶薩內身中循身觀。勤精進一心除世間貪憂。以不可得故。 復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は若しは棄死人の身の若しは六日、若しは七日にして烏、鴟、雕、鷲、豺、狼、狐、狗、是れ等の如き種種の禽獣の爴裂して之を食らうを見て、自ら念ずらく、『我が身も是の如き相、是の如く法なるも、未だ此の法を脱れず』、と。是の如く、須菩提、菩薩摩訶薩は内身中に身を循りて観、勤精進し一心に世間の貪憂を除くは、不可得なるを以っての故なり。
復た次ぎに、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』が、
若し、
『棄死人の身』が、
『六日か、七日にして!』、
『烏、鴟、雕、鷲、豺、狼、狐、狗のような!』、
是れ等のような、
『種種の禽獣に爴裂されて食われる!』のを、
『見れば!』、
自ら、こう念じることになる、――
わたしの、
『身』も、
『是のような相であり!』、
『是のような法である!』が、
未だ、
『此の法』を、
『脱れてはいない!』、と。
是のように、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』が、
『内身中に、身を循って観ながら!』、
『勤精進して一心に、世間の貪憂を除く!』のは、
『身が不可得だからである!』。
  (う):からす。鳥の名。俗に老鴉と称す。色純黒。其の母に反哺するが故に孝養を言いて、「烏鳥之私」という。
  (し):ふくろう。「角鴟」は猛禽の一種。頭部は猫に類す。俗に猫頭鷹と名づく。耳に長毛を生じ、状耳殻に類す。両眼は甚だ巨きくて円し。昼伏し夜出づ。其の同種にして体稍々大なる者を「怪鴟」と為す。
  (ちょう):わし。猛禽なり、亦た之を「鷲」とも謂う。体の長さ三四尺、両翼を平に展ぐれば丈余に達す可し。全身は暗褐にして頸後は暗赤色を呈し、尾根は白色、嘴壯大にして鉤曲し、羽毛は脚を覆う。能く山羊等を攫んで之を食す。シベリア等の地に産す。
  (しゅう):わし。猛禽、即ち鵰なり。
  爴裂(かくれつ):つかみさく。爴は攫に同じ、鳥獣の爪を以って抓み取るをいう。
復次須菩提。菩薩摩訶薩若見棄死人身。禽獸食已不淨爛臭。自念我身如是相如是法。未脫此法。乃至除世間貪憂。 復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は若し棄死人の身を禽獣の食い已りて不浄爛臭なるを見れば、自ら、『我が身も是の如き相、是の如き法なるに、未だ此の法を脱れず』、と念じて、乃至世間の貪憂を除く。
復た次ぎに、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』が、
若し、
『棄死人の身を、禽獣が食い已って!』、
『不浄、爛臭である!』のを、
『見て!』、
自ら、
『わたしの身』も、
『是のような相、法でありながら、未だ此の法を脱れていない!』と、
『念じて!』、
乃至、
『世間の貪憂』を、
『除くのである!』。
  爛臭(らんしゅう):腐敗して臭い。
復次須菩提。菩薩摩訶薩若見棄死人身骨鎖。血肉塗染筋骨相連。自念我身如是相如是法。未脫此法。乃至除世間貪憂。 復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は若し棄死人の身の骨鎖を血肉塗染し、筋骨相連ぬるを見て、自ら、『我が身も是の如き相、是の如き法なるに、未だ此の法を脱れず』、と念じて、乃至世間の貪憂を除く。
復た次ぎに、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』が、
若し、
『棄死人の身』の、
『骨鎖を血肉が塗染し、筋骨が相連なる!』のを、
『見て!』、
自ら、
『わたしの身』も、
『是のような相、法でありながら、未だ此の法を脱れていない!』と、
『念じて!』、
乃至、
『世間の貪憂』を、
『除くのである!』。
復次須菩提。菩薩摩訶薩若見棄死人身骨鎖血肉已離筋骨相連。自念我身如是相如是法。未脫此法。乃至除世間貪憂。 復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は若し棄死人の身の骨鎖血肉已に離るるも、筋骨相連ぬるを見て、自ら、『我が身も是の如き相、是の如き法なるに、未だ此の法を脱れず』、と念じて、乃至世間の貪憂を除く。
復た次ぎに、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』が、
若し、
『棄死人の身』の、
『骨鎖、血肉は已に離れて、筋骨が相連なる!』のを、
『見て!』、
自ら、
『わたしの身』も、
『是のような相、法でありながら、未だ此の法を脱れていない!』と、
『念じて!』、
乃至、
『世間の貪憂』を、
『除くのである!』。
復次須菩提。菩薩摩訶薩若見棄死人身骨鎖已散在地。自念我身如是相如是法。未脫此法。如是須菩提。菩薩摩訶薩觀內身。乃至除世間貪憂。 復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は若し棄死人の身の骨鎖の已に地に散ずるを見て、自ら、『我が身も是の如き相、是の如き法なるに、未だ此の法を脱れず』、と念じて、是の如く、須菩提、菩薩摩訶薩は内身を観じて、乃至世間の貪憂を除く。
復た次ぎに、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』が、
若し、
『棄死人の身』の、
『骨鎖が、已に地に散じて在る!』のを、
『見て!』、
自ら、
『わたしの身』も、
『是のような相、法でありながら、未だ此の法を脱れていない!』と、
『念じ!』、
是のように、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』は、
『内身を観て!』、
乃至、
『世間の貪憂』を、
『除くのである!』。
復次須菩提。菩薩摩訶薩若見棄死人身。骨散在地腳骨異處。膞骨髀骨腰骨肋骨脊骨手骨項骨髑髏各各異處。自念我身如是相如是法。未脫此法。如是須菩提。菩薩摩訶薩觀內身。乃至除世間貪憂。 復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は若し棄死人の身の骨の地に散じて在り、脚骨処を異にし、膞骨、髀骨、腰骨、肋骨、脊骨、手骨、項骨、髑髏の各処を異にするを見て、自ら、『我が身も是の如き相、是の如き法なるに、未だ此の法を脱れず』、と念じて、是の如く、須菩提、菩薩摩訶薩は内身を観じて、乃至世間の貪憂を除く。
復た次ぎに、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』が、
若し、
『棄死人の身の骨が地に散じて在る!』が、
『脚骨や、膞骨、髀骨、腰骨、肋骨、脊骨、手骨、項骨、髑髏』が、
『各、処を異にする!』のを、
『見て!』、
自ら、
『わたしの身』も、
『是のような相、法でありながら、未だ此の法を脱れていない!』と、
『念じ!』、
是のように、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』は、
『内身を観て!』、
乃至、
『世間の貪憂』を、
『除くのである!』。
  膞骨(せんこつ):股骨なり。
  髀骨(ひこつ):ふくらはぎの前の骨。
  脊骨(しゃくこつ):背骨。諸骨の幹。
  髑髏(どくる):どくろ。しゃりこうべ。風雨に曝され白骨になった頭骸骨。
復次須菩提。菩薩摩訶薩見是棄死人骨在地歲久風吹日曝色白如貝自念我身如是相如是法。未脫此法。如是須菩提。菩薩摩訶薩觀內身。乃至除世間貪憂。以不可得故 復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は若し棄死人の骨の地に在りて、歳久しくして風吹き、日に曝され、色白きこと貝の如きを見て、自ら、『我が身も是の如き相、是の如き法なるに、未だ此の法を脱れず』、と念じて、是の如く、須菩提、菩薩摩訶薩は内身を観じて、乃至世間の貪憂を除くは、不可得なるを以っての故なり。
復た次ぎに、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』が、
若し、
『棄死人の身の骨が地に散じて在る!』が、
『歳久しく、風が吹き、日に曝され、色が貝のように白い!』のを、
『見て!』、
自ら、
『わたしの身』も、
『是のような相、法でありながら、未だ此の法を脱れていない!』と、
『念じ!』、
是のように、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』は、
『内身を観て!』、
乃至、
『世間の貪憂』を、
『除くのである!』が、
何故ならば、
『身』は、
『不可得だからである!』。



【論】四念処を観て、世間の貪憂を除く

【論】問曰。四念處中有種種觀。何以但說十二種觀。所謂若內若外若內外。 問うて曰く、四念処中には種種の観有るに、何を以ってか、但だ十二種の観、謂わゆる若しは內、若しは外、若しは内外を説く。
問い、
『四念処』中には、
『種種の観が有る!』のに、
何故、
『但だ、十二種の観!』、
謂わゆる、
『內、外、内外の四念処のみ!』を、
『説くのですか?』。
  参考:『大智度論巻31』:『問曰。行者云何學般若波羅蜜時住內空外空內外空。答曰。世間有四顛倒。不淨中有淨顛倒。苦中有樂顛倒。無常中有常顛倒。無我中有我顛倒。行者為破四顛倒故。修四念處十二種觀。所謂初觀內身三十六種不淨充滿九孔常流甚可厭患。淨相不可得。淨相不可得故名內空。行者既知內身不淨。觀外所著亦復如是。俱實不淨。愚夫狂惑為婬欲覆心故謂之為淨。觀所著色亦如我身淨相不可得。是為外空。行者若觀己身不淨或謂外色為淨。若觀外不淨或謂己身為淨。今俱觀內外我身不淨外亦如是。外身不淨我亦如是。一等無異淨不可得。是名內外空。行者思惟知內外身俱實不淨。而惑者愛著。愛著深故由以受身。身為大苦。而愚以為樂。』
復次何等是內何等是外。內外觀已何以復別說內外。 復た次ぎに、何等か、是れ內、何等か是れ外なる。內、外を観已りて何を以ってか、復た別に内外を説く。
復た次ぎに、
『内や、外とは何のようなものですか?』。
『内、外を観てから!』、
何故、
『復た別に( moreover )!』、
『内外を説くのですか?』。
復次四念處中一念處是內。內法中攝。所謂心。二念處是外。外法中攝。所謂受與法。一念處是內外。內外法中攝。所謂身。何以說四法。都是內都是外都是內外。何以不但言觀身而言循身觀。云何觀身而不生身覺。何以言勤精進一心。三十七品皆應言一心。何以但此中言一心。 復た次ぎに、四念処中の一念処は是れ内にして、内法中に摂す、謂わゆる心なり。二念処は是れ外にして、外法中に摂す、謂わゆる受と法となり。一念処は是れ内外にして、内外法中に摂す、謂わゆる身なり。何を以ってか、『四法は都(みな)是れ内なり、都是れ外なり、都是れ内外なり』、と説き、何を以ってか、但だ、『身を観ず』と言わずして、『身を循りて観る』と言うや。云何が身を観じて、身覚を生ぜざる。何を以ってか、『勤精進して一心に』と言う。三十七品は皆応に『一心』と言うべきに、何を以ってか、但だ此の中にのみ、『一心』と言うや。
復た次ぎに、
『四念処』中の、
『一念処は、内であって!』、
『内法中に摂する
be contained in the innner dharma (internal phenomena) )!』、
『謂わゆる、心念処である!』。
『二念処は、外であって!』、
『外法中に摂する!』、
『謂わゆる、受念処、法念処である!』。
『一念処は、内外であって!』、
『内外法中に摂する!』、
『謂わゆる、身念処である!』が、
何故、
『四法』は、
都( all are )、
『内である( the inner one )!』と、
『説き!』、
都、
『外である!』と、
『説き!』、
都、
『内外である!』と、
『説くのですか?』。
何故、
但だ、
『身を観じる!』と、
『言わずに!』、
而も、
『身を循って観じる!』と、
『言うのですか?』。
何故、
『身を観じながら!』、
『身覚』を、
『生じないのですか?』。
何故、
『勤精進して一心に!』と、
『言うのですか?』。
『三十七品』は、
皆、
『一心に!』と、
『言うべきなのに!』、
何故、
『但だ、此の四念処中のみ!』で、
『一心に!』と、
『言うのですか?』。
此中若修行四念處時。一切五蓋應除。何以獨言除貪。世間喜亦能妨道。何以但言除憂。觀身法種種門。無常苦空無我等。今何以但言不淨。若但觀不淨。何以復念身四威儀等。此事易知何足問。 此の中に若し四念処を修行する時なれば、一切の五蓋は応に除こるべし。何を以ってか、独り、『貪を除く』と言い、世間の喜は亦た能く道を妨ぐるに、何を以ってか、但だ、『憂を除く』と言い、身法を観ずる種種の門は、無常、苦、空、無我等なるに、今は何を以ってか、但だ『不浄』と言い、若し但だ不浄のみを観ずれば、今は何を以ってか、復た身の四威儀等を念ずる、此の事は知り易ければ何ぞ問うに足らんや。
此の中に、
若し、
『四念処を修行すれば!』、
その時には、
『一切の五蓋(貪欲、瞋恚、睡眠、掉悔、疑)』が、
『除かれるはず!』なのに、
何故、
独り、
『貪を除く!』と、
『言うのか?』。
亦た、
『世間の喜』も、
『道』を、
『妨げることができる!』のに、
何故、
但だ、
『憂を除く!』と、
『言うのか?』。
亦た、
『身法を観る!』、
『種種の門』は、
『無常、苦、空、無我等である!』のに、
今は、何故、
但だ、
『不浄だけ!』を、
『言うのか?』。
若し、
但だ、
『不浄だけ!』を、
『観じるのであれば!』、
何故、
復た、
『身の四威儀等も!』、
『念じるのか?』。
此の、
『四威儀等の事』は、
『知り易い!』のに、
何故、
『問う!』に、
『足るのか?』、と。
答曰。是十二種觀行者從此得定心。先來三種邪行。若內若外若內外。破三種邪行。是故有三種正行。有人著內情多著外情少。如人為身故能捨妻子親屬寶物。有人著外情多著內情少。如人貪財喪身為欲沒命。有人著內外情多。是故說三種正行。 答えて曰く、是の十二種の観を行ずる者は、此れに従りて定心を得、先に三種の邪行来たれば、若しは内、若しは外、若しは内外の、三種の邪行を破り、是の故に三種の正行有り。有る人は内に著する情多く、外に著する情少ければ、人の身の為めの故に能く妻子、親属、宝物を捨つるが如し。有る人は外に著する情多く、内に著する情少ければ、人の財を貪りて身を喪い、欲の為めに命を没するが如し。有る人は内外の情多ければ、是の故に三種の正行を説くなり。
答え、
是の、
『十二種の観を行じる!』者は、
此の、
『観によって!』、
『定心を得るのである!』が、
先に、
『三種の邪行が来れば!』、
『内、外、内外に!』、
『三種の邪行』を、
『破り!』、
是の故に、
『三種の正行』が、
『有るのである!』。
有る人は、
『内に著する!』、
『情( the inclination of mind )』が、
『多く!』、
『外に著する!』、
『情』が、
『少い!』ので、
譬えば、
『人が、身の為め!』の故に、
『妻子、親属、宝物を捨てるようなものであり!』、
有る人は、
『外に著する!』、
『情』が、
『多く!』、
『内に著する!』、
『情』が、
『少い!』ので、
譬えば、
『財を貪って!』、
『身』を、
『喪ったり!』、
『欲の為め!』に、
『命』を、
『没するようであり!』、
有る人は、
『内外に著する!』、
『情』が、
『多い!』ので、
是の故に、
『三種の正行』を、
『説いたのである!』。
復次自身名內身。他身名外身。九受入名為內身。九不受入名為外身。眼等五情名為內身。色等五塵名為外身。如是等分別內外。 復た次ぎに、自身を内身と名づけ、他身を外身と名づけ、九受入を名づけて内身と為し、九不受入を名づけて外身と為し、眼等の五情を名づけて内身と為し、色等の五塵を名づけて外身と為して、是れ等の如く内、外を分別するなり。
復た次ぎに、
『自身を、内身と称して!』、
『他身』を、
『外身と称し!』、
『九受入を、内身と称して!』、
『九不受入』を、
『外身と称し!』、
『眼等の五情を、内身と称して!』、
『色等の五塵』を、
『外身と称する!』が、
是れ等のように、
『内、外』を、
『分別するのである!』。
  九受入(くじゅにゅう):「衆事阿毘曇論巻12」に、「九は不受、九は分別す。眼界は或いは受、或いは不受なり。云何が受なる、若しは自性にして受なり。云何が不受なる、若しは自性に非ざる受なり。眼界の如く、色界、耳界、鼻界、香界、舌界、味界、身界、触界も亦た是の如し」と云えるに依れば、即ち十八界中若し自性受なれば受、受に非ざれば不受なりとして、六識界、意界、法界、声界の九界を不受とし、其の他を分別すと為せるが如し。
  九不受入(くふじゅにゅう):九受入の條参照。
  参考:『衆事阿毘曇論巻12』:『九不受。九分別。眼界。或受。或不受。云何受。若自性受。云何不受。若非自性受。如眼界。色界耳界鼻界香界舌界味界身界觸界亦如是。』
  参考:『阿毘曇心論巻1』:『九不受者。受名謂若色根數。亦不離根。是心心數法。所行於中止住故。異則不受。於中九界不受。聲心法界非於中心心數法止住。餘二者。五內界若現在是受。於中心心數法止住。過去未來不受。非彼心心數法止住。色香味細滑若不離根及現在是受。如心心數法根中止住。彼中亦爾。不離根故餘則不受。為無為共一者。一法界有為及無為。於中三種有常故不可有為。餘法界無常故有為。有為無為合施設故。是以為無為共一。一向是有為當知十七界者。十七界無常故一切有為。是故一向有為。』
行者先以不淨無常苦空無我等智慧觀內身。不得是身好相。若淨相若常相若樂若我若實內既不得。復觀外身求淨常我樂。實亦不可得。 行者は先に不浄、無常、苦、空、無我等の智慧を以って内身を観ずるに、是の身の好相を得ず、若しは浄相、若しは常相、若しは楽、若しは我、若しは実を内に既に得ざれば、復た外身を観て、浄、常、我、楽、実を求むるも、亦た得べからず。
『行者』は、
先に、
『不浄、無常、苦、空、無我等の智慧を用いて!』、
『内身』を、
『観るのである!』が、
是の、
『身の好相』を、
『得ることはない!』。
既に、
『浄相、常相、楽相、我相、実相』を、
『内に!』、
『得られない!』ので、
復た、
『外身を観て!』、
『浄、常、我、楽、実』を、
『求めることになる!』が、
亦た、
『得ることはできない!』。
若不得便生疑。我觀內時於外或錯。觀外時於內或錯。今內外一時俱觀亦不可得。是時心得正定。知是身不淨無常苦空無我。如病如癰如瘡九孔流穢。是為行廁。不久破壞離散盡滅死相。常有飢渴寒熱鞭杖繫閉罵詈毀呰老病等諸苦。常圍遶不得自在。 若し得ざれば、便ち疑を生ずらく、『我れは内を観ずる時、外に於いて亦た錯(あやま)ち、外を観ずる時、内に於いて或は錯てり』、と。今内外を一時に倶に観ずるに、亦た不可得なり。是の時、心に正定を得て知るらく、『是の身は不浄、無常、苦、空、無我なること、病の如く、癰の如く、瘡の如く、九孔より穢を流せば、是れを行廁と為し、久しからずして破壊し、離散し、尽滅する死相なり。常に飢渇、寒熱、鞭杖、繋閉、罵詈、毀呰、老病等の諸苦有りて、常に囲繞し、自在を得ず。
若し、
『浄、常、我、楽、実を得なければ!』、
便ち、
『疑を生じることになる!』、――
わたしは、
『内を観る!』時、
或は、
『錯って!』、
『外を観たのだろうか?』。
『外を観る!』時、
或は、
『錯って!』、
『内を観たのだろうか?』、と。
今、
『内、外を一時に倶に観たのである!』が、
亦た、
『浄、常、我、楽、実を得られない!』ので、
是の時、
『心に、正定を得て!』、こう知ることになる、――
是の、
『身は不浄、無常、苦、空、無我であり!』、
譬えば、
『病、癰、瘡のように!』、
『九孔より穢が流れている!』ので、
是れは、
『行廁であり( should be a walking lavatory )!』、
『久しからずして破壊、離散、尽滅する死相であり!』、
常に、
『飢渇、寒熱、鞭杖、繋閉、罵詈、毀呰、老病業の諸苦』が、
『有り!』、
常に、
『諸苦に囲繞されていて!』、
『自在を得ることがない!』。
  (よう):悪性のできもの。大きくて根は浅い。顔・ぼんのくぼ・背などに簇生する。「癰疽」は外症の統称。旧説にて、赤く腫るる者を癰と為し、赤く腫れざる者を疽と為す。癰は常に肌肉堅厚の処に生じ、疽は多く関節深陥の処に生ず。みな血行不良、毒質淤積の致す所なり。
  (そう):瘍なり。できもの。はれもの等、外症の皮膚病の総名。きず。瘡痍。刀傷等のきず。
  行廁(ぎょうし):あるくかわや。
  鞭杖(べんじょう):鞭や棒でうつ。
  繋閉(けへい):牢獄につなぐ。
  罵詈(めり):ののしる。悪言。悪口。
  毀呰(きし):そしる。毀訾。毀謗。
內空無主亦無知者見者作者受者。但空諸法因緣和合而有。自生自滅無所繫屬。猶如草木。是故內外俱觀。餘內外義如十八空中說。 内は空にして主無く、亦た知者、見者、作者、受者無く、但だ空の諸法の因縁和合して有り、自ら生じ、自ら滅して繋属する所無く、猶お草木の如し』、と。是の故に内外を倶に観ず。餘の内外の義は十八空中に説けるが如し。
――
『内は空であって!』、
『主も、知者、見者、作者、受者も!』、
『無い!』、
但だ、
『空の諸法の因縁が和合して!』、
『有るだけであり!』、
『自ら生じ、自ら滅して!』、
『繋属する所が無く!』、
『猶お、草木のようである!』、と。
是の故に、
『内、外』を、
『倶に観るのである!』。
『餘の内外の義』は、
『十八空』中に、
『説いた通りである!』。
循身觀者。尋隨觀察知其不淨。衰老病死爛壞臭處骨節腐敗摩滅歸土。如我此身覆以薄皮。令人狂惑憂畏萬端。以是故如身相。內外隨逐本末觀察。又如佛說。循身觀法 身を循りて観るとは、尋ねて観察するに随いて、其の不浄なるを知るらく、『衰老し、病死すれば爛壊の臭処となり、骨節腐敗して磨滅すれば土に帰す。我が此の身の如きも薄皮を以って覆い、人をして狂惑せしむるも、憂畏万端なり』、と。是を以っての故に、身相の如く、内外を随逐して、本末を観察す。又仏の説きたまえる身を循る観法の如し。
『身を循って観る!』とは、――
『身を循りながら、一一の法を尋ねて観察するに随い!』、
其の、
『不浄』を、こう知るのである、――
『衰老、病死すれば!』、
『爛壊する!』、
『臭処であり!』、
『骨節も腐敗して、磨滅すれば!』、
『土』に、
『帰するのである!』。
わたしの、
『此の身など!』も、
『薄皮に覆われており!』、
『人を狂惑させるものである!』が、
『此の身』の、
『憂畏すべき!』所は、
『万端である!』、と。
是の故に、
『身相を観るように( as observing the appearance of body )!』、
『内、外の法に随逐しながら!』、
『法の本、末』を、
『観察するのである!』。
又、
『仏』が、
『身を循る観法』を、
『説かれた通りである!』。
  万端(まんたん):雑多な( multifarious )。
不生身覺者。不取身一異相而生戲論。眾生於是身中起種種覺。有生淨覺。有生不淨覺。有生瞋覺。念他過罪。有人觀此身。身為何法。諸身分邊為一為異。不生如是種種覺。所以者何。無所利益。妨涅槃道故。 身覚を生ぜずとは、身の一異の相を取りて、戯論を生ぜざるなり。衆生は、是の身中に於いて、種種の覚を起し、有るいは浄覚を生じ、有るいは不浄覚を生じ、有るいは瞋覚を生じて、他の過罪を念じ、有る人は、此の身を観んずらく、『身は、何法と為すや。諸の身分の辺を一と為すや、異と為すや』と。是の如き種種の覚を生ぜず。所以は何んとなれば、利益する所無く、涅槃の道を妨ぐるが故なり。
『身覚を生じない!』とは、
『身』の、
『一、異の相を取らずに!』、
『戯論を生じないことである!』、
『衆生』は、
是の、
『身中に、種種の覚を起して( awaking some ideas of the body )!』、
有るいは、『浄覚を生じ!』、
有るいは、『不浄覚を生じ!』、
有るいは、『瞋覚を生じて、他人の過罪を念じ!』、
有る人は、
此の、
『身を観察して!』、こう言うのであるが、――
『身とは、何のような法だろうか?』、
『諸の身分の辺は、一だろうか、異だろうか?』、と。
是のような、
『種種の覚を生じない!』、
何故ならば、
『利益する所が無く!』、
『涅槃の道を妨げるからである!』。
  (かく):◯梵語 bodhi, buddha, prabodha, prativibuddha の訳、照明/認識/智慧/覚醒( perception, wisdom, awakening )の義、誤った認識から完全に解放された心( the mind which is completely free from mistaken discriminated thought )の意。◯梵語 saMvedana の訳、喜ばしい/不快な感覚( Pleasant or unpleasant sensation )の義、受の同義語( Synonymous with vedanaa )。◯梵語 saMjJaa の訳、概念化( ideation, thought, conceptualization )の義。◯梵語 vitarka, anuvitarkita の訳、思量/推量/推測/憶測する( conjecture, guess )の義。
復次餘凡夫聲聞人取身相能觀身。菩薩不取身相而能觀身。 復た次ぎに、餘の凡夫、声聞人は身相を取りて、能く身を観ずるも、菩薩は身相を取らずして、能く身を観ず。
復た次ぎに、
『餘の凡夫や、声聞人』は、
『身相を取れば!』、
『身』を、
『観ることができる!』が、
『菩薩』は、
『身相を取らずに!』、
『身』を、
『観ることができる!』。
勤精進一心者。餘世事巧便從無始世界來常習常作。如離別常人易。離別知識難。離別知識易。離別父子難。離別父子易。自離其身難。自離其身易。離其心者難。自不一心勤精進此不可得。譬如攢燧求火。一心勤著不休不息乃可得火。是故說一心勤精進。 勤精進して一心にとは、餘の世事、巧便は無始の世界より来、常に習い、常に作す。常人を離別するは易く、知識を離別するは難く、知識を離別するは易く、父子を離別するは難く、父子を離別するは易く、自ら其の身を離るるは難く、自ら其の身を離るるは易く、其の心を離るるは難ければ、自ら一心、勤精進ならざれば、此れを得べからざるが如く、譬えば攢燧して火を求むるに、一心に勤めて著し、不休、不息にして乃ち火を得るが如し。是の故に『一心に勤精進して』、と説くなり。
『勤精進して一心に!』とは、
『餘の世事や、巧便( the other works and experiences in the world are )』は、
『無始の世界より!』、
『常に、習い!』、
『常に、作してきた!』ので、
譬えば、
『常人は、離別し易い!』が、
『知識( the best friend )』は、
『離別し難く!』、
『知識は、離別し易い!』が、
『父子』は、
『離別し難く!』、
『父子は、離別し易い!』が、
『自らの身を離れること!』は、
『難しく!』、
『自らの身を離れるのは、易しい!』が、
『自らの心を離れること!』は、
『難しい!』ので、
自ら、
『一心に勤精進しなければ!』、
『心の貪憂』は、
『除けないのであり!』、
譬えば、
『攢燧して、火を求める!』時、
『一心に勤めて、火に著し!』、
『不休、不息ならば!』、
乃ち( at last )、
『火』を、
『得ることができるようなものである!』。
是の故に、
『一心に勤精進して、世間の貪憂を除く!』と、
『説くのである!』。
  巧便(ぎょうべん):梵語 kauzala, kauzalya の訳、叡智/巧みさ/経験( cleverness, skilfulness, experience )の義。
  知識(ちしき):朋友の異名。知人と云えるが如く、我れ其の心識、其の貌の人を知るなり。又我が所知の人なり。多知博識の義に非ず。諸経の初に、「皆是れ大阿羅漢にして、衆に知識せらる」と有れば、即ち人の知る所と為すに就きて云うなり。其の人善なるを、善友、善知識と為し、悪なれば、則ち悪友、悪知識と為す。説法して、我れを善処に引導する者は、是れ善友なれば、故に善知識と曰い、又但に知識とも云う。又善を勧むる友の、三宝に喜捨せしむるに、之を勧知識、唱知識と謂う。<(丁)『大智度論巻48上注:善知識』参照。
  善知識(ぜんちしき):梵語kalyaaNa-mitraの訳。巴梨語kalyaaNa-mitta、正直又は有徳の友の意。又単に知識、或いは真善友、善真友、善友、真友、親友とも称す。悪知識に対す。即ち人を化導利益する有徳の善親友を云う。「増一阿含経巻11善知識品」に、「世尊諸の比丘に告ぐ、当に善知識に親近すべし、悪行を習い悪業を信ずること莫かれ。然る所以は、諸の比丘、善知識に親近せば、已信便ち増益し、聞施智慧普く悉く増益せん。若し比丘善知識に親近して悪行を習うこと莫かれ。然る所以は、若し悪知識に近づかば便ち信戒聞施智慧なし。是の故に諸の比丘当に善知識に親近すべし、悪知識に近づくこと莫かれ」と云い、「大品般若経巻27常啼品」に、「何等か是れ善知識なる、能く空無相無作無生無滅の法及び一切種智を説きて、人心をして歓喜信楽に入らしむ。是れを善知識と為す」と云い、「大般涅槃経巻25」に、「善知識とは所謂菩薩仏辟支仏声聞人中の方等を信ずる者なり。何が故に名づけて善知識と為すや、善知識とは能く衆生に教えて十悪を遠離し、十善を修行せしむ。是の義を以っての故に善知識と名づく」と云い、「法華経巻7妙荘厳王本事品」に、「若し善男子善女人、善根を種うるが故に世世に善知識を得ん。其の善知識は能く仏事を作し、示教利喜して阿耨多羅三藐三菩提に入らしむ。大王当に知るべし、善知識は是れ大因縁なり、所謂化導して仏を見ることを得て、阿耨多羅三藐三菩提心を発さしむ」と云える是れなり。是れ蓋し仏菩薩乃至人天を問わず、凡べて人の為に善友となり、教えて諸悪を遠離して諸善を修せしむる者を善知識と名づけたるなり。又「旧華厳経巻58入法界品」には十種の譬喩に約し、善知識は行者をして仏家に生ぜしむるが故に慈母の如く、無量の事を以って益を施すが故に慈父の如く、一切の悪に遠ざからしむるが故に養育者の如く、菩薩戒を学せしむるが故に大師の如く、彼岸に至らしむるが故に導師の如く、一切煩悩の患を療治するが故に良医の如く、智慧の薬を長養するが故に雪山の如く、一切の恐怖を防護するが故に勇将の如く、生死の海を越えしむるが故に牢船の如く、一切智の宝洲に到らしむるが故に船師の如しと云い、「大智度論巻96」には善知識に親近すべき所以を説き、「好法ありと雖も若し教うる者なくんば、行ずる時多く錯る。譬えば好薬ありと雖も亦た良医を須うるが如し」と云えり。是れ皆善知識の勝徳を説けるものなり。其の種別に関し、「摩訶止観巻4下」には三種とし、「知識に三種あり、一に外護、二に同行、三に教授なり。(中略)夫れ外護とは白黒を簡ばず、但だ能く所須を営理して過を見ること莫く、触悩すること莫く、称歎すること莫く、汎挙して損壊を致すこと莫く、母の児を養う如く、虎の子を銜むが如く、調和所を得るなり。旧行の道乃ち能く為すのみ。是れを外護と名づく。二に同行とは随自意及び、安楽行を行ずるには未だ必ずしも伴を須いず、方等般舟行法には決して好伴を須う。更に相策発して眠らず散ぜず、日に其れ新なるあり、切磋琢磨し心を同じくし志を斉しくして一船に乗ずるが如く、互いに相敬重して世尊を視るが如くす。是れを同行と名づく。三に教授とは能く般若を説きて道非道を示し、内外方便通塞妨障皆能く決了し、善巧説法し、示教利喜して破人の心を転ぜしめ、諸の方便に於いて自ら能く決了して独行することを得べく、妨難未だ諳ぜざれば宜しく捨すべからず。経に言わく、善師に随順して学せば恒沙の仏を見ることを得んと。是れを教授と名づく」と云い、又「華厳経探玄記巻18」には人法及び人法合辨の三位を立てて分別し、「通じて真の善知識を論ずるに其の三類あり。一に人、二に法、三に人法合辨なり。初に人の中に六あり。一に人ありて能く其の現苦を済うと雖も、而も修善を勧めざれば真善友に非ず。二に世善を修して悪趣を免るることを勧むと雖も、而も出世の路に修向することを勧めざれば亦た真善友に非ず。三に二乗の出世善行を修して三界の苦を免ると雖も、而も菩薩の道を行ずることを勧めずんば亦た真友に非ず。四に菩薩の道を修することを勧めて二乗を免ると雖も、猶お相善を存するは真友に非ず。五に要ず衆生を勧めて無相行を修せしむるを方に真善知識と為す。此れ仏蔵経及び智論等に依りて辨ず。六に要ず勧めて普賢の行徳を具せしむるを方に究竟の真善知識と名づく。此れ上は並びに是れ行善知識なり、行を以って機を引くが故に唯人に属す。二に法善知識に亦た六重あり、一に人天の法、二に二乗の法、三に初教の法、四に終教の法、五に頓教の法、六に円教の法なり。此等の法に依りて正行を成ずるが故に名づけて善友と為す。但だ教の権実に随って真の善友を辨ず。三に人法合辨の中に亦た六重あり、謂わく上の六位の法に於いて各一門を説き、機縁に授くるを以って則ち人法双辨なり」と云えり。以って其の類の多種なるを見るべし。又「旧華厳経巻36離世間品」には、菩薩の善知識に能令安住菩薩心善知識、能令修習善根善知識、能令究竟諸波羅蜜善知識、能令分別解説一切法善知識、能令安住成熟一切衆生善知識、能令具足辯才随問能答善知識、能令不著一切生死善知識、能令於一切劫行菩薩行心無厭惓善知識、能令安住普賢行善知識、能令深入一切仏智善知識の十種あることを説き、又「同入法界品」には、広く善財童子が、文殊師利乃至普賢菩薩等の五十五善知識を歷訪せることを記し、又「観無量寿経」には、臨終の時善知識の示教を受けて極悪人の往生を得ることを説けり。又「雑阿含経巻27、35」、「長阿含巻5闍尼沙経」、「中阿含巻10即為比丘説経」、「同巻36何苦経」、「尸迦羅越六方礼経」、「大般若経巻313至316」、「大般涅槃経巻25、35」、「無量寿経巻下」、「華手経巻10」、「大智度論巻71」、「菩薩地持経巻7供養習近無量品」、「瑜伽師地論巻44」、「舎利弗阿毘曇論巻14」、「安楽集巻下」等に出づ。<(望)
  攢燧(さんすい):錐揉みして火を得ること。
除世間貪憂者。貪除則五蓋盡去猶如破竹初節既破餘節皆去。 世間の貪憂を除くとは、貪除これば、乃ち五蓋尽く去りて、猶お竹を破るに、初の節既に破るれば、餘の節も皆去るが如し。
『世間の貪憂を除く!』とは、
『貪が除かれれば!』、
『五蓋』は、
『尽く去るのであり!』、
猶お( just as )、
『竹を破る!』時、
『初の節が、既に破れれば!』、
『餘の節も、皆去るようなものである!』。
復次行者遠離五欲出家學道。既捨世樂未得定樂。或時心生憂念。如魚樂水。心相如是常求樂事。還念本所欲。行者多生是二心。是故佛說。當除貪憂。說貪即是說世間。喜以相應故。 復た次ぎに、行者は五欲を遠離して出家し、道を学びて、既に世楽を捨つるも、未だ定の楽を得ざれば、或は時に心に憂念を生ずること、魚の水を楽しむが如く、心相も是の如く常に楽事を求めて、還って本の欲する所を念ずればなり。行者は多く是の二心を生ずれば、是の故に仏は、『当に貪憂を除くべし』、と説きたもう。貪を説けば即ち是れ世間の喜を説く、相応するを以っての故なり。
復た次ぎに、
『行者』は、
『五欲を遠離し、出家して道を学んで!』、
既に、
『世間の楽』を、
『捨てた!』が、
未だ、
『禅定の楽』を、
『得ていない!』ので、
或は時に、
『憂念』を、
『生じることになる!』。
譬えば、
『魚』が、
『水を楽しんで!』、
『干るのを憂えないように!』、
『心相』は、
是のように、
『常に!』、
『楽事を求めて!』、
還って、
『本、欲する!』所を、
『念じるからである!』。
『行者の多く!』が、
是の、
『貪、憂の二心』を、
『生じる!』ので、
是の故に、
『仏』は、
『貪、憂を除かねばならない!』と、
『説かれたのである!』が、
『貪が説かれれば!』、
即ち、
『世間の喜』も、
『説かれたことになる!』。
何故ならば、
『喜』は、
『貪に相応するからである( following the desire )!』。
初觀不淨者。人身不淨薄皮覆故。先生淨相後生餘倒。以是故初說不淨觀。 初めて不浄を観ずるは、人身は不浄にして薄皮に覆わるるが故に、先に浄相を生じ、後に餘の倒を生ずれば、是を以っての故に初めに不浄観を説くなり。
『初めに不浄を観る!』のは、――
『人身は不浄である!』が、
『薄皮に覆われている!』が故に、
先に、
『浄相(浄想)』を、
『生じ!』、
後に、
『餘の倒(楽、我、常顛倒)』を、
『生じる!』ので、
是の故に、
『不浄観』が、
『初に説かれるのである!』。
復次眾生多著貪欲取淨相。瞋恚邪見不爾故。是以先治貪欲觀不淨。 復た次ぎに、衆生は多く貪欲に著して、浄想を取るも、瞋恚、邪見は爾らざるが故に、是を以って先に貪欲を治して、不浄を観るなり。
復た次ぎに、
『衆生の多く!』は、
『貪欲に著して( attaching to what is desired )!』、
『浄相』を、
『取るのである!』が、
『瞋恚、邪見(貪欲と併せて三毒を為す)は爾うでない!』ので、
是の故に、
『先に、貪欲を治する為め!』の故に、
『不浄を観るのである!』。
念身四威儀等者。先欲破身賊。得一心人所為之事皆能成辦。以是故先尋繹其身所為所行。來去臥覺坐禪觀身所作。常一心安詳不錯不亂。作如是觀察以不淨三昧易得。 身の四威儀等を念ずとは、先に身の賊を破らんと欲して、一心を得る人は、所為の事、皆能く成辦す。是を以っての故に、先に其の身の所為、所行、来去、臥覚、坐禅を尋繹して、身の所作を観じ、常に一心安詳として、錯たず、乱れざるに、是の如き観察を作すは、以って不浄三昧を得易ければなり。
『身の四威儀を念ずる!』のは、――
『先に、身の賊を破ろうとして!』、
『一心を得た人』は、
『所為の事( all what should be done )』を、
『皆、能く成辦する( can be completely attainded )!』ので、
是の故に、
先に、
『身の所為、所行、来去、臥覚、坐禅を尋繹して!』、
『身の所作』を、
『観れば!』、
常に、
『一心が安詳として!』、
『錯つこともなく!』、
『乱れることもない!』ので、
是のような、
『観察を作す!』のは、
『不浄三昧が!』、
『得易くなるからである!』。
  尋繹(じんやく):繰り返して探求する( to probe repeatedly )。
  安詳(あんじょう):毅然として平静( resolute and serene )。
身雖安詳。內有種種惡覺觀破亂其心。以是故說安那波那十六分。以防覺觀。安那般那義如先說。 身は安詳なりと雖も、内に種種の悪覚、観有れば、其の心を破乱す。是を以っての故に、安那般那十六分を説いて、以って覚観を防ぐ。安那般那の義は、先に説けるが如し。
『身は安詳であっても!』、
『内に種種の悪の覚、観が有れば!』、
『心』を、
『破乱する!』ので、
是の故に、
『安那般那十六分(安那般那十六行)を説いて!』、
『覚、観』を、
『防ぐのである!』。
『安那般那の義』は、
『先に!』、
『説いた通りである!』。
  安那般那十六分(あんなぱんなじゅうろくぶん)、十六安那般那(じゅうろくあんなぱんな)、十六特勝(じゅうろくとくしょう):『成実論巻14』等に説く、安那般那の十六分の行を云う。即ち、
  1. 観入息:息の入るを観察する。
  2. 観出息:息の出るを観察する。
  3. 観息長息短:息の長いと短いとを観察する。
  4. 観息遍身:息が身に遍満するのを観察して、身が空であることを知る。
  5. 除諸身行:身の行いを除いて、息を楽にする。
  6. 受喜:喜びを感じる。
  7. 受楽:楽を感じる。
  8. 受諸心行:心の働きを感じる。
  9. 無作喜:心の働きを抑えて喜びを無くす。
  10. 心作摂:心の働きを完全に制する。
  11. 心作解脱:心を雑事から解放する。
  12. 観無常:一切は無常であることを観察する。
  13. 観散壊:一切は散じ壊することを観察する。
  14. 観離欲:欲を離れることを観察する。
  15. 観滅:煩悩が滅することを観察する。
  16. 観棄捨:一切は平等であり自他の差異が無いことを観察する。
  参考:『成実論巻14』:『阿那波那十六行。謂念出入息若長若短。念息遍身除諸身行。覺喜覺樂覺心行。除心行念出入息。覺心令心喜令心攝。令心解脫。念出入息隨無常。觀隨斷離滅觀。念出入息若長若短。問曰。云何名息長短。答曰。如人上山。若擔重疲乏故息短。行者亦爾。在麤心中爾時則短。麤心者所謂躁疾散亂心也。息長者。行者在細心中則息長。所以者何。隨心細故息亦隨細。如即此人疲極止故息則隨細。爾時則長息。遍身者行者信解身虛。則見一切毛孔風行出入。除身行者。行者得境界力心安隱故。麤息則滅。爾時行者具身憶處。覺喜者是人從此定法心生大喜。本雖有喜不能如是。爾時名為覺喜。覺樂者從喜生樂。所以者何。若心得喜身則調適。身調適則得猗樂。如經中說。心喜故身猗。身猗則受樂。覺心行者。見喜過患以能生貪故。貪是心行從心起故。以受中生貪故。見受是心行。除心行者。行者見從受生貪過。除滅故心則安隱。亦滅除麤受。故說除心行。覺心者行者除受味故。見心寂滅不沒不掉。是心或時還沒。爾時令喜。若心還掉爾時令攝。若離二法爾時應捨。故說令心解脫。行者如是心寂定故生無常行。以無常行斷諸煩惱。是名斷行。煩惱斷故心則厭離。是名離行。以心離故得一切滅。是名滅行。如是次第得解脫。故名十六行念出入息。』
身既安詳心無錯亂。然後行不淨觀安隱牢固。若先行不淨觀狂心錯亂。故不淨反作淨相。佛法中此二法名甘露初門。 身既に安詳にして、心に錯乱無ければ、然る後に不浄観を行ずるも、安隠、牢固なり。若し先に不浄観を行ずれば、狂心錯乱するが故に、不浄反って浄相を作す。仏法中には、是の二法を甘露の初門と名づく。
『身の四威儀を念じて、身が既に安詳であり!』、
『覚、観を防いで、心に錯乱が無ければ!』、
その後、
『不浄観を行じても!』、
『心は安隠であり!』、
『牢固である!』が、
若し、
先に、
『不浄観を行じれば!』、
『心を狂わせて!』、
『錯乱する!』が故に、
『不浄であっても!』、
『反って( inversely )!』、
『浄相を作すからであり( to consider it is pure )!』、
『仏法』中には、
此の、
『不浄観、安那般那の二法』を、
『甘露の初門』と、
『称する!』。
不淨觀者。所謂菩薩摩訶薩觀身如草木瓦石無異。是身外四大變為飲食充實內身。堅者是地。濕者是水。熱者是火。動者是風。是四事入內即是身。是四分中各各無我無我所。隨逐自相不隨人意。苦空等亦如是說。 不浄観とは、謂わゆる菩薩摩訶薩の身を観ずること草木、瓦石の如きに異無し。是の身は外の四大変じて飲食と為り、内身を充実す。堅き者は是れ地、湿れる者は是れ水、熱き者は是れ火、動く者は是れ風なり。是の四事、内に入れば、即ち是れ身なり。是の四分中に各各我無く、我所無ければ、自相を随逐するも人の意に随わず。苦、空等も亦た是の如く説く。
『不浄観』とは、
謂わゆる、
『菩薩摩訶薩』が、
『身は、草木瓦石と異が無い!』と、
『観ることである!』。
是の、
『身』は、
『外の四大が変じて、飲食と為り!』、
『内身』を、
『充実する ( to form )のである!』が、
『堅い者である、地と!』、
『湿った者である、水と!』、
『熱い者である、火と!』、
『動く者である、風と!』、
是の、
『四事』が、
『内に入れば!』、
『即ち、是れが身である!』が、
是の、
『四分中の各各には!』、
『我も、我所も無い!』ので、
『自相を随逐しても( to pursue your self )!』、
『人意に随うことはない( it does not go as expected )!』。
『苦、空等も!』、
是の、
『無我のように!』、
『説く!』。
  随逐(ずいちく):後を付ける/追いかける( follow, pursue )。
  自相(じそう):梵語 svalakSaNa の訳、固有の性質/特性、それ自身固有の性質( peculiar characteristic or property, having its own specific characteristics )の義。
  充実(じゅうじつ):梵語 cita の訳、積み重なった( piled up, heaped )の義、固まりを造る( forming a mass )の意。
若坐若立者。臥則懈怠。身不動故心亦不動。行則心亂。身不靜故心亦不靜。 若しは坐し、若しは立つとは、臥すれば則ち懈怠なり、身動かざるが故に心も亦た動かざればなり。行ずれば則ち心乱る、身静かならざるが故に心も亦た静かならざればなり。
『坐ったり、立ったりする!』とは、
『臥せれば、懈怠である!』、
『身が動かない!』が故に、
『心』も、
『動かないからである!』。
『行けば、心が乱れる!』、
『身が静かでない!』が故に、
『心』も、
『静かでないからである!』。
欲以眼見事況所不見。故說譬喻。牛即是行者身。屠兒即是行者。刀是利智慧。奪牛命即是破身一相。四分即是四大。屠者觀牛四分更無別牛亦非是牛。 眼見の事を以って、見ざる所を況(たと)えんと欲するが故に、譬喻を説く。牛とは即ち是れ行者の身なり。屠児は、即ち是れ行者なり。刀は是れ利き智慧なり。牛の命を奪うは、即ち是れ身の一相なるを破るなり。四分とは即ち是れ四大なり。屠者は牛の四分を観るも、更に別の牛無ければ、亦た是れ牛に非ず。
『眼見の事を用いて( using the things looked by eyes )!』、
『見えない所を況えようとする!』が故に、
『譬喻』を、
『説かれたのである!』が、
『牛』とは、
即ち、
『行者の身であり!』、
『屠児』とは、
即ち、
『行者であり!』、
『刀』とは、
即ち、
『利い智慧であり!』、
『牛の命を奪う!』のは、
『身という!』、
『一相を破ったのであり!』、
『四分』とは、
即ち、
『四大であり!』、
『屠者が、牛の四分を観ても!』、
更に、
『別の牛』は、
『無い!』ので、
是の、
『四分』は、
『牛ではない!』。
行者觀身四大亦如是。是四大不名為身。所以者何。此四身一故。又四大是總相。身是別相。若外四大不名為身。入身中假名為身。我不在四大中。四大不在我中。我去四大遠。但以顛倒妄計為身。用是散空智慧。分別四大及造色。然後入三念處得入道。 行者は身の四大を観ること亦た是の如く、『是の四大を名づけて身と為さず。所以は何んとなれば、此れは四なるに身は一なるが故なり。又四大は、是れ総相にして、身は是れ別相なり。若し外の四大なれば名づけて、身と為さざるも、身中に入るも仮に名づけて身と為せば、我は四大中に在らず、四大は我中に在らず。我は四大を去ること遠く、但だ顛倒、妄計するを以って、身と為すのみ』、と。是の散空の智慧を用いて、四大及び造色を分別し、然る後に三念處に入りて、道に入るを得るなり。
『行者』が、
『身の四大を、観ることも!』、亦た是の通りである、――
是の、
『四大』は、
『身』と、
『称されることはない!』。
何故ならば、
此の、
『四大は、四である!』が、
『身は、一だからである!』。
又、
『四大は、総相である!』が、
『身は、別相だからである!』。
若し、
『外の四大ならば!』、
『身』と、
『称されることはない!』が、
『身中に入っても!』、
『仮りに!』、
『身と称するだけであり!』、
『我』は、
『四大』中に、
『在るのではなく!』、
『四大』も、
『我』中に、
『在ることはない!』ので、
『我』は、
『四大を去ること!』、
『遠く!』、
但だ、
『顛倒し、妄計する!』が故に、
『身と為すだけである!』、と。
是の、
『散空の智慧を用いて!』、
『四大と、四大造の色を分別し!』、
その後、
『受、心、法の三念処に入れば!』、
『道』に、
『入ることができるのである!』。
  総相(そうそう):梵語 saamaanya- lakSaNa の訳、梵語 saamaanya は同様/相似( equal, alike, similar )、他と共有された/共通の( shared by others, common to )、普遍的な/一般的な( universal, general )の義。総相は普遍的性質( general characteristic )の意。
  別相(べっそう):梵語 vizeSa- lakSaNa の訳、梵語 vizeSa は独自性/本質的相違/個々の本質( particularity, individuality, essential difference or individual essence )の義。別相は固有の性質( distinctive characteristic )の意。
又此身從足至髮。從髮至足周匝薄皮。反覆思惟無一淨處。髮毛等乃至腦膜略說則三十六。廣說則眾多。穀倉是身。農夫是行者。田種穀。是行者身業因緣。結實入倉。是行者因緣熟得身。稻麻黍粟等。是身中種種不淨。 又、此の身の足より髪に至り、髪より足に至るまで薄皮を周匝するを、反覆して思惟すれば、一の浄処すら無し。髪、毛等乃至脳、膜を略説すれば則ち三十六なり、広説すれば則ち衆多なり。穀倉とは是れ身なり。農夫は是れ行者なり。田に穀を種うるは、是れ行者の身業の因縁なり。結実して倉に入るは、是の行者の因縁熟して身を得るなり。稲、麻、黍、粟等は是れ身中の種種の不浄なり。
又、
此の、
『身』が、
『足より髪に至るまで、髪より足に至るまで薄皮に周匝されている!』のを、
『反覆して、思惟すれば!』、
『一の浄処すら!』、
『無いのである!』。
『髪、毛等乃至脳、膜』を、
『略説すれば、三十六である!』が、
『広説すれば、衆多である!』。
『譬喻』中の、
『穀倉は、身であり!』、
『農夫は、行者であり!』、
『田に穀を種えるとは、行者の身業の因縁であり!』、
『結実して倉に入れるとは、行者の因縁が熟して身を得ることであり!』、
『稲、麻、黍、粟等は、身中の種種の不浄である!』。
  周匝(しゅうそう):めぐりまわる。周回。
  反覆(へんぷく):くりかえす。往復する。反復。
  衆多(しゅた):◯梵語 aneka の訳、一でない/多くの( not one, many, much )の義。◯梵語 anekavidha の訳、多くの種類の/異った方法で/種種の( of many kinds, in different ways, various )の義。
農夫開倉即知麻黍麥豆種種別異。是行者不淨觀。以慧眼開見是身倉。知此身中不淨充滿必當敗壞。若他來害若當自死。此身中但有屎尿不淨種種惡露等。已觀內身不淨。今觀外身敗壞。是故說二種不淨。一者已壞。二者未壞。 農夫倉を開いて即ち麻、黍、麦、豆の種種に別異せるを知るとは、是れ行者の不浄観にして、慧眼を以って是の身の倉を開き見れば知るらく、『此の身中に不浄充満して、必ず当に敗壊すべく、若しは他来たりて害し、若しは当に自ら死すべく、此の身中には但だ屎尿、不浄の種種の悪露等有るのみ』、と。已に内身の不浄を観れば、今外身の敗壊するを観る。是の故に説かく、『二種の不浄とは、一には已に壊れ、二には未だ壊れず』、と。
――
『農夫が倉を開ければ!』、
『麻、黍、麦、豆等の種種の別異』を、
『知ることになる!』とは、
『行者の不浄観であり!』、
『慧眼を用いて!』、
是の、
『身という!』、
『倉』を、
『開いて見れば!』、こう知ることになる――
此の、
『身中には、不浄が充満しており!』、
『必ず、敗壊するのであり!』、
『他が来て害するか!』、
『自ら死ぬかである!』。
此の、
『身』中には、
但だ、
『屎尿のような不浄や、種種の悪露等』が、
『有るだけである!』、と。
已に、
『内身の不浄』を、
『観れば!』、
今は、
『外身が敗壊する!』のを、
『観ることになり!』、
是の故に、こう説く、――
『二種の不浄』とは、
一には、
『已に壊れた!』、
『内身の不浄であり!』、
二には、
『未だ壊られていない!』、
『外身の不浄である!』、と。
  敗壊(はいえ):くさってこわれる。腐敗破壊。
  悪露(あくろ):身体の不浄の津液。即ち膿、血、屎、尿の類。悪は憎厭、露は津液の意。
先觀己身未壞有識。若結使薄利根人即生患厭。鈍根結厚者觀死人已壞可畏可惡。若死一日至五日。親里猶尚守護。是時禽獸未食。青瘀膖脹膿血流出。腹脹破裂五藏爛壞。屎尿臭處甚可惡厭。 先に己身未だ壊れずして識有るを観るに、若し結使薄き利根の人なれば、即ち患厭を生ず。鈍根にして結厚き者は死人已に壊れて畏るべき悪むべきを観る。若し死して一日より五日に至るまでは、親里猶尚お守護すれば、是の時禽獣未だ食わず。青瘀、膖脹して膿血流出し、腹脹れて破裂すれば五臓爛壊し、屎尿の臭処となりて甚だ悪厭すべし。
先に、
『己身が未だ壊れず!』、
『識が有る!』のを、
『観るだけで!』、
『結使が薄い利根の人ならば!』、
『厭患』を、
『生じることになる!』が、
『鈍根で結使の厚い!』者は、
『死人が已に壊れて!』、
『畏れ、悪むべき!』を、
『観て!』、
乃ち、
『厭患』を、
『生じるのである!』。
若し、
『死んで一日、乃至五日ならば!』、
『親里が、猶尚お守護している( the relatives are yet guarding )!』ので、
是の時は、
『禽獣』も、
『未だ、食わない!』が、
『青瘀、膖脹して膿血が流出し!』、
『腹が脹れて破裂すれば!』、
『五臓が爛壊して、屎尿の臭処となり!』、
『甚だ悪厭すべきものとなる!』。
  親里(しんり):親戚、及び郷里の者の意。
  青瘀(しょうお):鬱血して青きを云う。
  膖脹(ほうちょう):はれふくれる。膨張。
行者心念。此色先好。行來言語妖蠱姿則惑亂人情淫者愛著。今者觀之好色安在。如佛所說。真是幻法。但誑無智之眼。今此實事露現。行者即念。我身與彼等無有異。未脫此法。云何自著著彼。又亦何為自重輕他。如是觀已。心則調伏可以求道。能除世間貪憂。 行者の心に念ずらく、『此の色は先には好き行来、言語にして、妖蠱の姿は則ち人情を惑乱し、淫者愛著すれば、今は之を観るに、好色安(いづく)にか在る』、と。仏の所説の如く、真に是れ幻法にして、但だ無智の眼を誑すのみ。今此の実事露現すれば、行者は即ち念ずらく、『我が身は、彼れと等しく異有ること無し。未だ此の法を脱せざるに、云何が自ら著し、彼れに著するや。又亦た何の為めにか自ら重んじて、他を軽んずるや』、と。是の如く観已りて、心則ち調伏して、以って道を求むべく、能く世間の貪憂を除く。
『行者の心』は、こう念じる、――
此の、
『色』は、
『先には!』、
『好もしい行来、言語であり!』、
『妖蠱な姿』は、
『人情を惑乱して!』、
『淫者が愛著していたものである!』が、
今、
『之を観れば!』、
『好もしい色』は、
『安に在るのか?』と。
『仏の所説のように!』、――
是の、
『色』は、
『真に!』、
『幻法であり!』、
但だ、
『無智の眼』を、
『誑すだけである!』が、
今、
是の、
『実事』が、
『露現した!』ので、
『行者』は、即ちこう念じることになる、――
わたしの、
『身』も、
『彼と等しく!』、
『異が無い!』。
未だ、
『此の法を脱しないのに
I don't yet free myself from this unreal dharma )!』、
何うして、
『自らに著したり!』、
『他に著したりしているのか?』。
又亦た、
何うして、
『自らを重んじたり!』、
『他を軽んじたりしているのか?』。と。
是のように、
『観たならば、心が調伏して!』、
『道を求めることができる!』ので、
『世間の貪憂を除くことができる!』。
  行来(ぎょうらい):歩きて往き来すること。
  妖蠱(ようこ):しなを作って人を媚惑すること。人を惑わせる程うつくしくあてやかなこと。
  淫者(いんじゃ):みだらな人。悪行の人。淫人。淫に就きて之をいえば、過なり、凡そ過甚なるを皆淫と謂う、雨の甚だしきに過ぐるを「淫雨」といい、刑罰の甚だしきに過ぐるを「淫刑」、「淫威」というが如し。惑なり、孟子、「富貴不能淫」とは、其の心を動かす能わざるを言うなり。邪なり、邪僻の友を「淫朋」といい、邪神野鬼を祀れるを「淫祀」、「淫祠」、というが如し。男女の交わるに礼を以ってせざるを淫という、「淫蕩」、「淫乱」の如し。
  安在(あんざい):健在/平安無事。何在/何処に在るのか。
又復思惟。此屍初死之時鳥獸見之。謂非死人不敢來近。以是故說。過六七日親戚既去。烏鷲野干之屬競來食之。皮肉既盡日日變異。以是故說。但有骨人。見其如此更生厭心。念言是心肝皮肉實無有我。但因是身合。集罪福因緣。受苦無量。即復自念。我身不久會當如是。未離此法。或時行者見骨人在地雨水澆浸日曝風吹但有白骨。或見久骨筋斷節解分散異處其色如鴿。或腐朽爛壞與土同色。 又復た思惟すらく、『此の屍も初めて死する時には、鳥獣は之を見て、『死人に非ず』、と謂い、敢て来たりて近づかず』、と。是を以っての故に説かく、『六、七日を過ぎて親戚既に去れば、烏鷲、野干の属、競い来たりて之を食う』、と。皮肉既に尽くれば、日日に変異す。是を以っての故に説かく、『但だ骨人有り』、と。其の此の如きを見るに、更に厭心を生ずれば、念じて言わく、『是の心肝、皮肉には実に我有ること無し。但だ是の身の罪福の因縁を合集するに因りて、苦を受くること無量なり』、と。即ち復た自ら念ずらく、『我が身も久しからずして会(かなら)ず当に是の如かるべきに、未だ此の法を離れず』、と。或は時に行者、骨人の地に在りて雨水澆浸して、日に曝され、風吹けば、但だ白骨有るを見る。或は久しくして骨筋断じ、節解け、分散して処を異にし、其の色は鴿の如く、或は腐朽、爛壊して土と色を同じうするを見る。
又復た、
『思惟する!』、――
此の、
『屍も、初めて死んだ!』時には、
『鳥獣が、之を見ても!』、
『死人ではない、と謂って!』、
『敢て、来て近づこうとはしなかっただろう!』、と。
是の故に、こう説くのである、――
『六、七日が過ぎて、親戚も既に去れば!』、
『烏鷲、野干の属が、競い来て!』、
此の、
『屍』を、
『食う!』、と。
『皮肉が、既に尽きれば!』、
『日日に、変異する!』ので
是の故に、こう説く、――
但だ、
『骨人』が、
『有るだけである!』、と。
此のような、
『骨人を見て、更に厭心を生じ!』、こう念じる、――
是の、
『心肝、皮肉には実に我は無い
In this heart, liver, skin and flesh, there is no self )!』が、
但だ、
是の、
『身が、罪福の因縁を合集する
the human-body had been gathering the karma )!』ので、
『無量の苦』を、
『受けるのである!』、と。
即ち復た、
『自らを!』、こう念じる、――
わたしの、
『身』も、
『久しからずして!』、
『必ず、こうなるのに!』、
未だ、
此の、
『法(身)』を、
『離れることができない!』、と。
或は、時に、
『行者』は、
『骨人が、地に在りながら!』、
『雨水に、澆浸され!』、
『日に曝され!』、
『風に吹かれて!』、
但だ、
『白骨のみが有る!』のを、
『見る!』。
或は、
『久しく骨、筋が断じて、節が解け!』、
『分散して!』、
『処を異にし!』、
『骨の色』が、
『鴿のようである!』のを、
『見たり!』、
或は、
『骨が腐朽、爛壊して!』、
『土と同じ色であったりする!』のを、
『見る!』。
  野干(やかん):梵語 sRgaala, zRgaala の訳、狐/ジャッカル[イヌ科の動物]( a jackal )の義。
  会当(えとう):まさに~すべし。応当に同じ。心に予期する所あるをいう。当然こうなるだろう。
  澆浸(ぎょうしん):水を以ってうるおし浸す。
  鴿(こう):はと。鳥の名。鳩と同類。「野鴿」、「家鴿」の二種あり。野鴿は全体暗黒、ただ背の中央のみ灰白色、頸と胸に紫緑色の光沢あり。深林中に群棲し、出でて田禾を食う。害鳥の一種たり。家鴿は野鴿の変種。飛翔頗る捷くして記憶力甚だ強く、放って遠処に至るも皆能く自ら帰る。故に軍中伝書の用に充つ。俗に「鵓鴿」と称す。
初觀三十六物死屍膖脹。一日至五日。是不淨觀。鳥獸來食乃至與土同色。是無常觀。是中求我我所不可得。如先說。因緣生不自在故。是非我觀。觀身相如此無一可樂。若有著者則生憂苦。是名苦觀。以四聖行觀外身。自知己身亦復如是。然後內外俱觀。 初に三十六物、死屍の膖脹せるを観ること、一日より五日に至るまで、是れ不浄観なり。鳥獣来たりて食い、乃至土と色を同じうするまで、是れは無常観なり。是の中に我我所を求むるも不可得なり。先に説けるが如く、因縁生は自在ならざるが故に、是れ非我観なり。身相を観ずるに、此の如く一の楽しむべき無きに、若し著有れば、則ち憂苦を生ず、是れ苦観なり。四聖行を以って、外身を観ずるに、自ら己身も亦復た是の如きを知り、然る後に内外を倶に観る。
初に、
『三十六物や、死屍が膖脹するのを観る!』、
『一日より、五日に至るまで!』は、
『不浄観である!』、
次に、
『鳥獣が来て食うより!』、
『乃至土と同じ色になるまで!』は、
『無常観であり!』、
是の、
『観』中に、
『我、我所を求めても不可得である!』のは、
先に説いたように、――
『因縁の生は自在でないからであり
the existence by causes is not independent )!』、
是れが、
『非我観である!』。
次に、
『身相』は、
是のように、
『一も楽しむべきもの!』が、
『無い!』のに、
若し、
『著する者が有り、憂苦を生じる!』のを、
『観れば!』、
是れが、
『苦観であり!』、
是の、
『不浄、無常、無我、苦観の四聖行を用いて!』、
『外身』を、
『観!』、
自ら、
『己身も、亦復た是のようである!』と、
『知ったならば!』、
その後、
『内、外身』を、
『倶に観ることになる!』。
  四聖行(ししょうぎょう):不浄観、無常観、非我観、苦観を云う。即ち「大智度論巻48」に、「初に三十六物、死屍の膖脹せるを観る、一日より五日に至るまでは、是れ不浄観なり。鳥獣来たりて食らい、乃至土と色を同じうするまでは、是れ無常観なり。是の中に、我我所を求むるも、得べからざること、先に説けるが如し。因縁の生の、自在ならざるが故なり。是れ非我観なり。身相を観ずること、此の如くなれば、一の楽しむべき無く、若し著する者有れば、則ち憂苦を生ず。是れを苦観と名づく。四聖行を以って、外身を観るに、自ら知るらく、己の身も、亦た是の如しと。然る後に、内外を倶に観ず」と云い、「同巻48」の後の文に、「是の四聖行を以って、四顛倒を破す」と云い、「同巻71」に、「若し常浄楽我等の四顛倒、四聖行を破すも、常等の四法は得べからず。顛倒を以っての故なり」と云い、「同巻84」に、「般若の義とは、謂わゆる無常の義、苦、空、無我の義、四諦智、尽智、無生智、法智、比智、世智、知他心智、如実智の義なり。故に応に般若を行ずべし。是の般若は、大海に種種の宝物有りて、或いは大、或いは小なるも、唯一は是れ如意宝なるが如く、般若波羅蜜にも亦た種種の諸の智慧の宝、無常等の四聖行、十智有るも、唯如実智のみ有ること如意宝の如し」と云えり。是を以って当に知るべし。
若心散亂。當念老病死三惡道苦身命無常佛法欲滅。如是等鞭心令伏。還繫不淨觀中。是名勤精進。一心勤精進故能除貪憂。 若し心散乱すれば、当に老病死、三悪道の苦、身命の無常、仏法の滅せんと欲するを念じて、是れ等の如き鞭もて、心を伏せしめ、還って不浄観中に繋せしむべし、是れを勤精進と名づけ、一心に勤精進するが故に能く貪憂を除くなり。
若し、
『心が散乱すれば!』、
『老病死、三悪道の苦、身命の無常や、仏法が滅しようとしている!』のを、
『念じ!』、
是れ等のような、
『鞭を用いて!』、
『心を屈伏させ!』、
還って、
『不浄観』中に、
『心を繋けさせねばならない!』が、
是れが、
『勤精進であり、一心に勤精進する!』が故に、
『貪憂』を、
『除くことができるのである!』。
貪憂二賊劫我法寶。行者作是念。是身無常不淨可惡如此。眾生何故貪著此身。起種種罪因緣。如是思惟已。知是身中有五情外有五欲。和合故生世間顛倒樂。人心求樂初無住時當觀此樂為實為虛。身為堅固猶尚散滅。何況此樂。 貪、憂の二賊は、我が法宝を劫(うば)えば、行者は是の念を作さく、『是の身は無常、不浄にして悪むべきこと此の如し。衆生は何の故にか、此の身に貪著して、種種の罪の因縁を起す』、と。是の如く思惟し已りて知るらく、『是の身中には五情有り、外には五欲有りて和合するが故に世間の顛倒の楽を生ず』、と。人心は楽を求むるも、初より住時無ければ、当に観ずべし、『此の楽は、実と為すや、虚と為すや。身を堅固と為すも、猶尚お散滅すべし。何に況んや此の楽をや』、と。
『貪、憂の二賊』は、
わたしから、
『法宝』を、
『奪うことになる!』ので、
『行者』は、こう念じる、――
是の、
『身は無常、不浄であり!』、
『此のように!』、
『悪むべきである!』のに、
何故、
『衆生は、此の身に貪著して!』、
『種種の罪の因縁』を、
『起すのか?』、と。
是のように思惟して、こう知ることになる、――
是の、
『身中には、五情が有り!』、
『外には!』、
『五欲が有り!』、
『五情、五欲が和合して!』、
『世間の顛倒の楽』を、
『生じるのである!』、と。
『人心』が、
『楽を求めて!』、
『得たとしても!』、
『心』には、
『楽の住する時が( the time when pleasure is staying )!』、
『無いのであり!』、
当然、こう観なければならない、――
此の、
『楽』は、
『実だろうか、虚だろうか?』。
『身』は、
『堅固でありながら!』、
『猶尚お、散滅するのである!』から、
況して、
『此の楽などは!』、
『尚更である!』、と。
  (こう):おびやかす。かすめる。強取なり。奪なり( to rob, plunder )。「搶劫」、「劫掠」とは、強いて人の財物を取るをいう。勢脅なり。「劫制」とは、勢を以って之を挟制し敢て従わざるを得ざらしむるをいう。災阨を劫という。仏経にては、天地の一成一敗を一劫(梵語 kalpa )という。
此樂亦無住處。未來未有。過去已滅。現在不住。念念皆滅。以遮苦故名樂。無有實樂。譬如飲食。除飢渴苦故暫以為樂。過度則復生苦。如先破樂中說。則知世間樂皆從苦因緣生。亦能生苦果。誑人須臾後苦無量。 此の楽には亦た住処無く、未来は未だ有らず、過去は已に滅し、現在は住せずして、念念に皆滅すれば、苦を遮うるを以っての故に楽と名づくるも、実の楽の有ること無し。譬えば飲食は、飢渇の苦を除くが故に暫く、以って楽と為すも、過度なれば則ち復た苦を生ずるが如し。先に楽を破する中に説けるが如く、則ち知るらく、『世間の楽は、皆苦の因縁より生じて、亦た能く苦果を生じ、人を誑すこと須臾にして、後の苦は無量なり』、と。
此の、
『楽』には、
『亦た住する処も無く!』、
『未来』の、
『楽』は、
『未だ有らず!』、
『過去』の、
『楽』は、
『已に滅し!』、
『現在』の、
『楽は、住ることなく!』、
『念念に、皆滅するのである!』が、
『苦を遮る!』が故に、
『楽と称したとしても!』、
『実の楽』は、
『無い!』。
譬えば、
『飲食』は、
『飢渇の苦を除く!』が故に、
『暫く、楽であったとしても!』、
『過度にすれば!』、
『復た!』、
『苦を生じるようなものである!』。
『先に、楽を破る中に説いたように!』、こう知ることになる、――
『世間の楽』は、
皆、
『苦の因縁より!』、
『生じ!』、
亦た、
『苦果』を、
『生じさせるのであり!』、
『人』を、
『誑す!』のは、
『須臾( the very short time )である!』が、
『後に受ける!』、
『苦』は、
『無量である!』、と。
譬如美食雜毒食雖香美毒則害人。世間樂亦如是。婬欲煩惱等毒故。奪智慧命心則狂惑。捨利取衰誰受此樂。唯有心識。 譬えば美食に毒を雑えて食えば、香美なりと雖も、毒は則ち人を害するが如く、世間の楽も亦た是の如し。婬欲の煩悩等の毒の故に、智慧の命を奪いて、心は則ち狂惑し、利を捨てて衰を取るに、誰か此の楽を受けんや。唯だ心識有るのみ。
譬えば、
『美食に毒を雑えて!』、
『食えば!』、
『香美であったとしても!』、
『毒』は、
『人』を、
『害するものであり!』、
亦た、
『世間の楽』も、
是のように、
『婬欲の煩悩等の毒を雑える!』が故に、
『智慧の命を奪って!』、
『心を狂惑させ!』、
『利を捨てさせ!』、
『衰を取らせる( to make you take weakening )!』のに、
誰が、
『此の楽』を、
『受けるのか?』、
唯だ、
『心識が有って!』、
『受けるだけである!』。
諦觀此心念念生滅相續有故可得取相。譬如水波燈焰。受苦心非樂心。受樂心非苦心。受不苦不樂心非苦樂心。時相各異。以是故心無常。無常故不自在。不自在故無我。想思憶念等亦如是。餘三念處內外相如先說。 此の心の念念生滅し、相続して有るが故に相を取るを得べきこと、譬えば水波、灯焔の如しと諦観すれば、苦を受くる心は楽心に非ず、楽を受くる心は苦心に非ず、不苦不楽を受くる心は苦楽の心に非ずして、時に相は各異なれば、是を以っての故に、心は無常なり。無常なるが故に自在ならず。自在ならざるが故に無我なり。想、思、憶、念等も亦た是の如し。餘の三念処の
内外の相は先に説けるが如し。
此の、
『心』は、
『念念に生滅し、相続して有る!』が故に、
『相を取ることができる!』が、
『譬えば水波、灯焔のようである!』。
『苦を受ける心は、楽心でなく
the mind feeling pain is not the pleasant mind )!』、
『楽を受ける心は、苦心ではなく!』、
『不苦不楽を受ける心は、苦楽心ではなく!』、
『時の相( the characteristics of something on a certain time )』は、
『各異なるのであり!』、
是の故に、
『心は、無常であり!』、
『無常であるが故に自在でなく!』、
『自在でない!』が故に、
『無我である!』。
亦た、
『想、思、憶、念( imaging, thinking, remembering, considering )』も、
『是の通りである!』。
『餘の三念処(受、身、法)』の、
『内、外の相』は、
『先に説いた通りである!』。
行是四聖行破四顛倒。破四顛倒故開實相門。開實相門已愧本所習。譬人夜食不淨。他了知非羞愧其事。觀是四法。不淨無常等。是名苦諦。是苦因愛等諸煩惱是集諦。愛等諸煩惱斷是滅諦。斷愛等諸煩惱方便是道諦。如是觀四諦信涅槃道。心住快樂似如無漏。是名煖法。如人攢火並有煖氣必望得火。 是の四聖行を行じて四顛倒を破れば、四顛倒を破るが故に、実相の門を開き、実相の門を開き已れば、本の習う所を愧づるを、人夜に不浄を食らい、他の非なるを了知せるに、其の事を羞愧するに譬う。是の四法を観ずるに不浄、無常等は、是れを苦諦と名づけ、是の苦因なる愛等の煩悩は、是れ集諦なり、愛等の諸煩悩断ずれば、是れ滅諦なり。愛等の諸煩悩を断ずる方便は、是れ道諦なり。是の如く四諦を観じて、涅槃の道なりと信ずれば、心の快楽に住すること無漏の如きに似れば、是れを煖法と名づくること、人の火を攢(き)りて並びに煖気有れば、必ず火を得んと望むが如し。
是の、
『四聖行を行じて、四顛倒を破れば!』、
『四顛倒を破る!』が故に、
『実相の門』を、
『開き!』、
『実相の門を開く!』が故に、
『本の習う!』所を、
『愧じることになる!』のを、
『人が、夜不浄を食い!』、
『他人が、非を了知する!』が故に、
『其の事を羞愧する!』のに、
『譬えたのである!』。
是の、
『身、受、心、法の四法を観じて!』、
『身は不浄である、心は無常である!』等と、
『観れば!』、
是れを、
『苦諦』と、
『称し!』、
是の、
『苦の因』は、
『愛等の諸煩悩である!』と、
『観れば!』、
是れが、
『集諦であり!』、
『愛』等の、
『諸煩悩を断じる!』のが、
『滅諦であり!』、
『愛等の諸煩悩を断じる!』、
『方便』が、
『道諦である!』が、
是のように、
『四諦を観じて!』、
『四諦は涅槃の道である!』と、
『信じれば!』、
『心が、快楽に住して!』、
『無漏のようなもの!』に、
『似る!』ので、
是れを、
『煖法と称する!』が、
譬えば、
『人』が、
『火を攢りながら!』、
『煖気が有れば!』、
必ず、
『火を得られる!』と、
『望むようなものである!』。
  (き):はじる。自ら羞じる。自ら恥ずかしく思うこと。
  (りょう):あきらか。あける。明。
  羞愧(しゅうき):はじる。羞恥。自ら恥ずかしく思うこと。
  煖法(なんぽう):四善根位中初めて能く具に四聖諦の境を観察する位。『大智度論巻18上注:四善根位』参照。
信此法已。心愛樂佛法如佛所說。如服好藥差病知師為妙諸服藥病差者人中第一。是則信僧。如是信三寶。煖法增進罪福停等故。名為頂法。如人上山至頂兩邊道里俱等。從頂至忍乃至阿羅漢。是一邊道。從煖至頂是一邊道。聲聞法中觀四念處。所得果報如是。 此の法を信じ已れば、心に仏法を愛楽す。仏の所説の如きは、好薬を服みて病を差(いや)すが如し。師を妙と為し、諸の薬を服みて病差ゆる者は人中の第一なりと知る、是れ則ち僧を信ずるなり。是の如く三宝を信ずれば、煖法増進して罪福停まりて等しきが故に名づけて頂法と為す。人の山に上りて、頂に至るに、両辺の道里倶に等しきが如し。頂より忍乃至阿羅漢に至るまでは、是れ一辺の道なり。煖より頂に至るは、是れ一辺の道なり。声聞法中には四念処を観じて、所得の果報は是の如し。
此の、
『四諦の法を信じれば!』、
『心』は、
『仏法』を、
『愛楽することになる!』。
『仏の所説など!』は、
『好薬を服んで!』、
『病を差すようなものだからであり!』、
『師は、妙であり( the teacher is an leader )!』、
『諸の服薬して病が差えた者は、人中の第一である!』と、
『知ること!』が、
『僧を信じることであり!』。
是のように、
『三宝を信じれば!』、
『煖法が増進して!』、
『罪福』が、
『停まって等しくなる!』が故に、
是れを、
『頂法』と、
『称する!』。
譬えば、
『人』が、
『山に上って頂に至れば!』、
『両辺の道里が倶に等しくなるように!』、
『頂より!』、
『忍乃至阿羅漢に至るまで!』を、
『一辺の道とし!』、
『煖より!』、
『頂に至るまで!』を、
『一辺の道とするからである!』。
『声聞法』中に、
『四念処を観て、得られる!』、
『果報』とは、
『是の通りである!』。
  (とう):<名詞>等級( class, grade )、類型/同類( sort )。<動詞>等しくする/同等とする( equate )、待つ( wait )、区別する( differentiate )。<形容詞>[程度・数量が]等しい( equal )。<助詞>など( etc. , and so on )。<副詞>一様/同等( same )。
  (みょう):梵語 praNiita の訳、導かれる( led forwards )の義。『大智度論巻11上注:四諦十六行相の妙』参照。
菩薩法者。於是觀中不忘本願不捨大悲。先用不可得空調伏心地。住是地中。雖有煩惱心常不墮。如人雖未殺賊繫閉一處。菩薩頂法如先法位中說。忍法世間第一法。則是菩薩柔順法忍。須陀洹道乃至阿羅漢辟支佛道。即是菩薩無生法忍。 菩薩法とは、是の観中に於いて、本願を忘れず、大悲を捨てず、先に不可得空を用いて心地を調伏し、是の地中に住すれば、煩悩有りと雖も、心は常に堕せず。人の未だ賊を殺さずと雖も、一処に繋閉するが如し。菩薩の頂法は先の法位中に説けるが如し。忍法と世間第一法は、則ち是れ菩薩の柔順法人なり。須陀洹道、乃至阿羅漢、辟支仏道は、即ち是れ菩薩の無生法忍なり。
『菩薩法』とは、
是の、
『不浄、無常、苦、空、無我の観中に於いて!』、
本の、
『願を忘れることなく!』、
『大悲』を、
『捨てず!』、
先に、
『不可得空を用いて!』、
『心地』を、
『調伏し!』、
是の、
『地中に住すれば、煩悩が有っても!』、
『心』は、
『常に、凡夫地に堕ちることはない!』。
譬えば、
『人が、未だ賊を殺さなくても!』、
『一処』に、
『繋閉するようなものである!』。
『菩薩』の、
『頂法』は、
『先の法位』中に、
『説いた通りであり!』、
『忍法、世間第一法』は、
『菩薩』の、
『柔順法忍であり!』、
『須陀洹道、乃至阿羅漢、辟支仏道』は、
『菩薩』の、
『無生法忍である!』。
  心地(しんじ):梵語 cintaa- bhuumi の訳、思考の基盤/場所( the ground or area of thought )の義。
  柔順法忍(にゅうじゅんほうにん):三忍の一。心柔にして、智順ずる位に堪えて安住するを云う。『大智度論巻41下注:柔順忍、三種法忍』参照。
  無生法忍(むしょうほうにん):三忍の一。無生無滅の理に安住して動かざるの意。『大智度論巻巻41下注:無生忍、三種法忍』参照。
  参考:『大智度論巻22遍学品』:『須陀洹若智若斷。斯陀含若智若斷。阿那含若智若斷。阿羅漢若智若斷。辟支佛若智若斷。皆是菩薩無生忍。』
如佛後品自說。須陀洹若智若果。皆是菩薩無生法忍。四正勤四如意足雖各各別。位皆在四念處中。慧多故名四念處。精進多故名四正勤。定多故名四如意足。 仏の後品に自ら説きたもうが如く、須陀洹の若しは智、若しは果は、皆是れ菩薩の無生法忍にして、四正勤、四如意足は各各別なりと雖も、位は皆四念処中に在り、慧多きが故に四念処と名づけ、精進多きが故に四正勤と名づけ、定多きが故に四如意足と名づく。
『仏』が、
『後品』中に、自ら説かれるように、――
『須陀洹』の、
『智、果は皆!』、
『菩薩』の、
『無生法忍であり!』、
『四正勤、四如意足は各各別でありながら!』、
『位( their standing places )』は、
『皆、四念処中に在り!』、
『慧が多い!』が故に、
『四念処』と、
『称し!』、
『精進が多い!』が故に、
『四正勤』と、
『称し!』、
『定が多い!』が故に、
『四如意足』と、
『称する!』。
  (い):梵語 avasthaa, avasthaana の訳、有る場所に住まる( to stay, abide, stop at any place )の義、状態/立場( state, condition, situation )、居住地( the standing place )の意。
問曰。若爾者何以不說智處而說念處。 問うて曰く、若し爾らば、何を以ってか、智の処を説かずして、念の処を説く。
問い、
若し、爾うならば、
何故、
『智の処を説かずに!』、
『念の処を説くのですか?』。
答曰。初習行時未及有智。念為初門常念其事。是智慧隨念。故以念為名。四念處實體是智慧。所以者何。觀內外身即是智慧。念持智慧在緣中不令散亂。故名念處。 答えて曰く、初めて習行する時、未だ智有るに及ばざれば、念を初門と為して、常に其の事を念ずるに、是の智慧は念に随うが故に念を以って名と為すも、四念処の実体は是れ智慧なり。何を以っての故に、内外の身を観ずれば、即ち是れ智慧なればなり。智慧を縁中に念持して、散乱せしめざるが故に念処と名づく。
答え、
初めて、
『智慧を習行する!』時には、
未だ、
『智が有る!』には、
『及ばない!』が故に、
『念を初門として!』、
常に、
『智慧が有る事』を、
『念じる!』が、
是の、
『智慧は、念に随う!』が故に、
『念』と、
『称するのであり!』、
『四念処』の、
『実体』は、
『智慧なのである!』。
何故ならば、
『内、外身を観る!』のは、
『智慧だからである!』。
『智慧』を、
『縁中に念持して( to keep near the object )!』、
『散乱させない!』が故に、
是れを、
『念処』と、
『称するのである!』。
  念持(ねんじ):憶念護持。
與九十六種邪行求道相違。故名正勤。諸外道等捨五欲自苦身。不能捨惡不善。不能集諸善法。佛有兩種斷惡不善法。已來者除卻。未來者防使不生。善法亦有二種。未生善法令生。已生善法令增長。是名正勤。 九十六種の邪行の求道と相違するが故に正勤と名づく。諸の外道等は五欲を捨てて自ら身を苦しむるも悪不善を捨つる能わず、諸の善法を集むる能わず。仏には両種の悪不善を断ずる法有りて、已に来たる者は除却し、未だ来たらざる者は防いで生ぜざらしむ。善法にも亦た二種有りて、未だ生ぜざる善法は生ぜしめ、已に生ぜし善法は増長せしむ。是れを正勤と名づく。
『九十六種の邪行の求道と相違する!』が故に、
『正勤』と、
『称する!』。
『諸の外道』等は、
『五欲を捨てて、自ら身を苦しめながら!』、
『悪、不善を捨てることもできず!』、
『諸の善法を集めることもできない!』が、
『仏』には、
『両種の悪、不善を断じる法が有り!』、
『已に来た者は、除却し!』、
『未だ来ない者は防いで、生じさせず!』、
亦た、
『善法にも二種有って!』、
『未だ生じない善法は、生じさせ!』、
『已に生じた善法は、増長させる!』ので、
是れを、
『正勤』と、
『称する!』。
智慧火得正勤風無所不燒。正勤若過。心則散亂智火微弱。如火得風過者或滅或微不能燒照。是故須定以制過。精進風則可得定。定有四種。欲定精進定心定思惟定。 智慧の火は正勤の風を得れば、焼かざる所無し。正勤にして若し過ぐれば、心則ち散乱して、智慧の火微弱なり。火の風を得ること過ぐれば、或は滅し、或は微かにして焼き照らす能わざるが如し。是の故に定を須(ま)ち以って、過ぐるを制すれば、精進の風は、則ち定まるを得べし。定には四種有り、欲定、精進定、心定、思惟定なり。
『智慧の火』が、
『正勤の風を得れば!』、
『焼かない!』所は、
『無い!』が、
『正勤が、若し過ぎれば!』、
『心が散乱して!』、
『智慧の火』が、
『微弱になる!』。
譬えば、
『火が、風を得過ぎれば!』、
『滅したり、微かになったりして!』、
『焼くことも、照らすこともできないようなものである!』。
是の故に、
『定を須って!』、
『過ぎる!』のを、
『制すれば!』、
則ち、
『精進の風』も、
『定ることができるのである!』。
『定』には、
『四種有り!』、
『欲定、精進定、心定と、思惟定である!』。
  欲定(よくじょう):四如意足の一。欲如意足等とも称す。欲の力に由りて引発せられて、種種の神用を現起する定を云う。『大智度論巻18下注:四神足』参照。
  精進定(しょうじんじょう):四如意足の一。精進如意足等とも称す。精進の力に由りて引発せられて、種種の神用を現起する定を云う。『大智度論巻18下注:四神足』参照。
  心定(しんじょう):四如意足の一。念如意足等とも称す。心念の力に由りて引発せられて、種種の神用を現起する定を云う。『大智度論巻18下注:四神足』参照。
  思惟定(しゆいじょう):四如意足の一。思惟如意足等とも称す。思惟の力に由りて引発せられて、種種の神用を現起する定を云う。『大智度論巻18下注:四神足』参照。
  四定(しじょう):欲定、精進定、心定、思惟定の総称。四神足、四如意足等とも称す。『大智度論巻18下注:四神足』参照。
  参考:『雑阿含(561)経巻21』:『如是我聞。一時。佛住俱睒彌國瞿師羅園。尊者阿難亦在彼住。時。有異婆羅門詣尊者阿難所。共相問訊慰勞已。於一面坐。問尊者阿難。何故於沙門瞿曇所修梵行。尊者阿難語婆羅門。為斷故。復問。尊者何所斷。答言。斷愛。復問。尊者阿難。何所依而得斷愛。答言。婆羅門。依於欲而斷愛。復問。尊者阿難。豈非無邊際。答言。婆羅門。非無邊際。如是有邊際。非無邊際。復問。尊者阿難。云何有邊際。非無邊際。答言。婆羅門。我今問汝。隨意答我。婆羅門。於意云何。汝先有欲來詣精舍不。婆羅門答言。如是。阿難。如是。婆羅門。來至精舍已。彼欲息不。答言。如是。尊者阿難。彼精進.方便.籌量。來詣精舍。復問。至精舍已。彼精進.方便.籌量息不。答言。如是。尊者阿難。復語婆羅門。如是。婆羅門。如來.應.等正覺所知所見。說四如意足。以一乘道淨眾生.滅苦惱.斷憂悲。何等為四。欲定斷行成就如意足。精進定.心定.思惟定斷行成就如意足。如是。聖弟子修欲定斷行成就如意足。依離.依無欲.依出要.依滅.向於捨。乃至斷愛。愛斷已。彼欲亦息。修精進定.心定.思惟定斷行成就。依離.依無欲.依出要.依滅.向於捨。乃至愛盡。愛盡已。思惟則息。婆羅門。於意云何。此非邊際耶。婆羅門言。尊者阿難。此是邊際。非不邊際。爾時。婆羅門聞尊者阿難所說。歡喜隨喜。從座起去』
  参考:『長阿含巻5闍尼沙経』:『復次。諸天。如來善能分別說四神足。何等謂四。一者欲定滅行成就修習神足。二者精進定滅行成就修習神足。三者意定滅行成就修習神足。四者思惟定滅行成就修習神足。是為如來善能分別說四神足』
制四念處中過智慧。是時定慧道得精進故所欲如意。後得如意事辦故名如意足。足者名如意因緣。亦名分。 四念処中に過ぐる智慧を制すれば、是の時、定、慧の道は精進を得るが故に欲する所如意となり、後に如意を得て事の辦ずるが故に如意足と名づく。足とは如意の因縁と名づけ、亦た分と名づく。
『四念処中の過ぎた!』、
『智慧』を、
『制すれば!』、
是の時、
『定、慧の道』に、
『精進を得る!』が故に、
『欲する!』所が、
『如意となり!』、
後に、
『如意を得て!』、
『事が辦じる( gets something accomplished )!』が故に、
『如意足』と、
『称するのである!』が、
『足』とは、
『如意の因縁』を、
『称し!』、
亦た、
『如意の分』を、
『称する!』。
是十二法鈍根人中名為根。如樹有根未有力。若利根人中名為力。是事了了能疾有所辦。如利刀截物。故名有力。事未辦故名為道。事辦思惟修行故名為覺。三十七品論議如先說。 是の十二法は、鈍根の人中には名づけて根と為すこと、樹に根有るも、未だ力有らざるが如し。若し利根人中なれば名づけて力と為す。是の事了了として能く疾かに辦ずる所有らしめ、利刀の物を截るが故に力有りと名づくるが如し。事未だ辦ぜざるが故に、名づけて道と為し、事辦じて思惟、修行するが故に名づけて覚と為す。三十七品の論議は、先に説けるが如し。
是の、
『四念処、四正勤、四如意足の十二法』は、
『鈍根人中の法であれば!』、
『根』と、
『称される!』。
『樹』に、
『根が有っても!』、
『未だ、力を有さないようなものである!』。
若し、
『利根人中の法であれば!』、
『力』と、
『称される!』のは、
是の、
『事(十二法)が了了としており!』、
『辦じる所が有り( has a work to be done/accomplished )!』、
『利刀が物を截る!』が故に、
『力が有る!』と、
『称されるようなものである!』。
『事が、未だ辦じない( the work is yet not accomplished )!』が故に、
『八聖道』は、
『道』と、
『称され!』、
『事が辦じても思惟し、修行する!』が故に、
『七覚支』は、
『覚』と、
『称されるのである!』が、
『三十七品の論議』は、
『先に!』、
『説いた通りである!』。
問曰。若菩薩修此三十七品。云何不取涅槃。 問うて曰く、若し菩薩、此の三十七品を修すれば、云何が涅槃を取らざる。
問い、
若し、
『菩薩』が、
此の、
『三十七品』を、
『修めたとすれば!』、
何故、
『涅槃』を、
『取らないのですか?』。
答曰。本願牢故。大悲心深入故。了了知諸法實相故。十方諸佛護念故。 答えて曰く、本願の牢なるが故、大悲心の深く入るが故、了了として諸法の実相を知るが故、十方の諸仏の護念するが故なり。
答え、
『菩薩』の、
『本願が牢固だからであり!』、
『大悲心が深入するからであり!』、
『諸法の実相を了了として知るからであり!』、
『十方の諸仏が護念するからである!』。
  深入(じんにゅう):梵語 duura-anupraviSTa の訳、極めて深く入る( to enter extremely deeply )の義、達成する/了解する( to attain, realize )の意。
如經說。菩薩到七住地。外觀諸法空。內觀無我。如人夢中縛筏渡河中流而覺作是念。我空自疲苦。無河無筏我何所渡。菩薩爾時亦如是心則悔厭。我何所度何所滅。且欲自滅倒心。 経に説けるが如し、『菩薩は七住地に到れば、外に諸法の空を観じ、内に無我を観ず』、と。人の夢中に筏を縛りて河を渡り、中流にして覚めて是の念を作すが如し、『我れ空しく、自ら疲れ苦しむ。河無く、筏無きに我が何んが渡る所なる』、と。菩薩は爾の時、亦た是の如く、心則ち、『我が何んが度する所なる。何んが滅する所なる』、と悔厭し、且(な)お自ら倒心を滅せんと欲す。
『経』に、こう説く通りである、――
『菩薩が、七住地に到る!』と、
外には、
『諸法の空』を、
『観て!』、
内には、
『無我』を、
『観る!』、と。
譬えば、
『人』が、
『夢』中に、
『筏を縛って!』、
『河を渡ろうとした!』が、
『中流に於いて、夢より覚め!』、こう念じた、――
わたしは、
『空しくも!』、
『自らを!』、
『疲れさせ、苦しめていた!』。
『河も、筏も無い!』のに!』、
『何を!』、
『渡ろうとしていたのか?』、と。
『菩薩』も、
『七住地に到って!』、
『空や、無我』を、
『観る!』時、
是のように、
『心』に、
わたしは、
『何を度そうとしていたのか、何を滅そうとしていたのか?』と、
『悔厭して!』、
且お( moreover )、
『自らの倒心』を、
『滅そうとするのである!』。
  参考:『旧華厳経巻26』:『金剛藏菩薩言。佛子。菩薩摩訶薩。已習七地微妙行慧。方便道淨。善集助道法。具大願力。諸佛神力所護。自善根得力。常念隨順如來力。無畏。不共法。直心深心清淨。成就福德智慧。大慈大悲不捨眾生。修行無量智道。入諸法本來無生。無起無相。無成無壞。無來無去。無初無中無後。入如來智。一切心意識。憶想分別。無所貪著。一切法如虛空性。是名菩薩得無生法忍入第八地。入不動地名為深行菩薩。一切世間所不能測。離一切相。離一切想。一切貪著。一切聲聞辟支佛所不能壞。深大遠離。而現在前。譬如比丘得於神通。心得自在。次第乃入滅盡定。一切動心。憶想分別。皆悉盡滅。菩薩亦如是。菩薩住是地。諸勤方便身口意行。皆悉息滅。住大遠離。如人夢中欲渡深水。發大精進。施大方便。未渡之間。忽然便覺。諸方便事。皆悉放捨。菩薩亦如是。從初已來。發大精進。廣修道行。至不動地。一切皆捨。不行二心。諸所憶想。不復現前。譬如生梵世者。欲界煩惱不現在前。菩薩亦如是。住不動地。一切心意識不現在前。乃至佛心。菩提心。涅槃心。尚不現前。何況當生諸世間心。佛子。是菩薩隨順是地。以本願力故。又諸佛為現其身。住在諸地法流水中。與如來智慧為作因緣。諸佛皆作是言。善哉善哉。善男子。汝得是第一忍。順一切佛法。善男子。我有十力。四無所畏。十八不共法。汝今未得為得。是故勤加精進。亦莫捨此忍門。善男子。汝雖得此第一甚深寂滅解脫。一切凡夫離寂滅法。常為煩惱覺觀所害。汝當愍此一切眾生。又善男子。汝應念本所願。欲利益眾生。欲得不可思議智慧門。又善男子。一切法性。一切法相。有佛無佛。常住不異。一切如來不以得此法故說名為佛。聲聞辟支佛亦得此寂滅無分別法。善男子。汝觀我等無量清淨身相。無量智慧。無量清淨國土。無量方便。無量圓光。無量淨音。汝今應起如是等事。又善男子。汝今適得此一法明。所謂一切法寂滅無有分別。我等所得無量無邊。汝應精勤起此諸法。善男子。十方無量國土。無量眾生。無量諸法差別。汝應如實通達是事。隨順如是智。是菩薩諸佛與如是等無量無邊起智慧門因緣。以此無量門故。是菩薩能起無量智業。皆悉成就。諸佛子。若諸佛不與菩薩起智慧門者。是菩薩畢竟取於涅槃。棄捨利益一切眾生。以諸佛與此無量無邊起智慧門故。於一念中。所生智慧。比從初地已來乃至七地。百分不及一。無量無邊阿僧祇分不及一。乃至算數譬諭所不能及。』
是時十方佛伸手摩頭。善哉佛子。莫生悔心念汝本願。汝雖知此眾生未悟。汝當以此空法教化眾生。汝所得者始是一門。諸佛無量身無量音聲無量法門。一切智慧等汝皆未得。汝觀諸法空故著是涅槃。諸法空中無有滅處無有著處。若實有滅汝先來已滅。汝未具足六波羅蜜乃至十八不供法。汝當具足此法坐於道場如諸佛法。 是の時、十方の仏は手を伸べて頭を摩づ、『善い哉、仏子よ。悔心を生ずる莫れ。汝が本願を念ぜよ。汝は此れを知ると雖も、衆生は未だ悟られば、汝は当に此の空法を以って衆生を教化すべし。汝が所得は、是の一門に始まり、諸仏の無量身、無量音声、無量の法門、一切の智慧等を汝は皆未だ得ず。汝は諸法の空を観るが故に、是の涅槃に著すれば、諸法の空中には滅する処有ること無く、著する処有ること無し。若し実に滅有らば、汝は先より来已に滅せり。汝は未だ六波羅蜜乃至十八不共法を具足せず。汝は当に此の法を具足して、道場に坐し、諸仏の法の如くなるべし。
是の時、
『十方の仏』は、
『手を伸べて頭を摩で!』、こう言う、――
善いぞ、仏子よ!
『悔心を生じずに!』、
『お前の本願』を、
『念じよ!』。
お前は、
此の、
『空法』を、
『知った!』が、
未だ、
『衆生』は、
『悟っていない!』。
お前は、
此の、
『空法を用いて!』、
『衆生を教化せねばならない!』。
お前の、
『所得』は、
是の、
『一門』が、
『始まりである!』。
お前は、
『諸仏』の、
『無量の身、無量の音声、無量の法門、一切の智慧等は皆!』、
『未だ、得ていない!』。
お前が、
『諸法の空を観て!』、
是の、
『涅槃』に、
『著するならば!』、
『諸法の空』中には、
『滅処も、著処も!』、
『無いのである!』。
若し、
『実に、滅が有れば!』、
『お前は!』、
『先より、已に滅しているはずである!』。
お前は、
未だ、
『六波羅蜜、乃至十八不共法』を、
『具足していない!』。
お前は、
『諸仏の法のように( as like every buddha's way )!』、
『此の法を具足して!』、
『道場に坐らねばならない!』、と。
復次三三昧十一智三無漏根覺觀三昧十念四禪四無量心四無色定八背捨九次第定如先說。 復た次ぎに、三三昧、十一智、三無漏根、覚観三昧、十念、四禅、四無量心、四無色定、八背捨、九次第定は、先に説けるが如し。
復た次ぎに、
『三三昧、十一智、三無漏根、覚観三昧、十念、四禅、四無量心、四無色定や!』、
『八背捨、九次第定は!』、
『先に、説いた通りである!』。
復次佛十力四無所畏四無礙智十八不共法如初品中說。是諸法後皆用無所得故。以般若波羅蜜畢竟空和合故。名除世間貪憂。以不可得故 復た次ぎに、仏の十力、四無所畏、四無礙智、十八不共法は、初品中に説けるが如し。此の諸法は後に皆、無所得を用いるが故に、般若波羅蜜の畢竟空と和合するを以っての故に、『世間の貪憂を除く、不可得を以っての故に』、と名づく。
復た次ぎに、
『仏の十力、四無所畏、四無礙智、十八不共法』は、
『初品』中に、
『説いた通りである!』が、
是の、
『諸法』は、
後に、
『皆、無所得を用いる!』が故に、
『般若波羅蜜の、畢竟空と和合することになり!』、
是の故に、
『世間の貪憂を除くのは、不可得だからである!』と、
『称するのである!』。


著者に無断で複製を禁ず。
Copyright(c)2021 AllRightsReserved