巻第四十八之上

 

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【經】

四念処:内身を観る

 

【論】

四念処:九問九答

数息観と不浄観

四聖行と四念処

四念処と四正勤、四如意足、三十七品

 

 

 

 

 

 

 

 

大智度論釈四念処品第十九

大智度論釋四念處品第十九(卷四十八)

 龍樹菩薩造

 後秦龜茲國三藏鳩摩羅什譯

大智度論、四念処を釈する品第十九(巻の四十八)

  龍樹菩薩造り、

  後秦亀茲国の三蔵鳩摩羅什訳せり

四念処に身、受、心、法を観察し、勤めて精進して一心に世間の貪、憂を除くことを釈す。

 

四念処:内身を観る

【經】佛告須菩提。菩薩摩訶薩摩訶衍。所謂四念處。何等四。須菩提。菩薩摩訶薩內身中循身觀亦無身覺。以不可得故。外身中內外身中循身觀亦無身覺。以不可得故。勤精進一心除世間貪憂。內受內心內法。外受外心外法。內外受內外心內外法。循法觀亦無法覺。以不可得故。勤精進一心除世間貪憂。

仏の須菩提に告げたまわく、『菩薩摩訶薩の摩訶衍は、謂わゆる四念処なり。何等か四なる。須菩提、菩薩摩訶薩は内身中に身を循(めぐ)りて観るも、亦た身覚無きは、得べからざるを以っての故なり。外身中、内外身中に身を循りて観るも、亦た身覚無きは、得べからざるを以っての故に、勤めて精進し、一心に世間の貪、憂を除く。内受、内心、内法、外受、外心、外法、内外受、内外心、内外法、法を循りて観るも、亦た法覚無きは、得べからざるが故なれば、勤めて精進し、一心に世間の貪、憂を除く。

   『仏』は、

     『須菩提』に、

     こう告げられた、――

     『菩薩摩訶薩』の、

       『摩訶衍』とは、

       謂わゆる、

         『四念処』である!

       『四』とは、

         何か?――

       須菩提!

       『菩薩摩訶薩』は、

         『内身』中を、

           『身』を巡って、

           『観る!』が、

         亦た、

         『身』を、

           『覚する!』ことが、

           『無い!』、

         何故ならば、

         『内』には、

           『身』が、

           『得られない!』からである。

         『外身』中、

         『内外身』中に、

           『身』を巡って、

           『観る!』が、

         亦た、

         『身』を、

           『覚する!』ことが、

           『無い!』のであり、

         『外』にも、

         『内外』にも、

           『身』が、

           『得られない!』が故に、

         勤めて、

         『精進』し、

           『一心』に、

           『世間()』の、

             『貪、憂』を、

             『除く!』のである。

         『内受、内心、内法』、

         『外受、外心、外法』、

         『内外受、内外心、内外法』中に、

           『受、心、法』を巡って、

           『観る!』が、

         亦た、

         『受、心、法』を、

           『覚する!』ことが、

           『無い!』のであり、

         『内、外、内外』に、

           『受、心、法』が、

           『得られない!』が故に、

         勤めて、

         『精進』して、

           『一心』に、

           『世間』の、

             『貪、憂』を、

             『除く!』のである。

 

  (じゅん):めぐる。巡。

  参考:『舎利弗阿毘曇論巻13』:『何謂修四念處。謂內身觀身行勤精進。應正智念除世間貪憂。外身觀身行勤精進。應正智念除世間貪憂。內外身觀身行勤精進。應正智念除世間貪憂。受心法亦如是。云何身觀身行。身謂四大色身。父母因緣飲食長養。衣服調適塗油潤身。無常破壞變異之法。是名身。復次名身。色身是名身。復次地身水火風身。是名身。復次象眾馬眾車眾步眾。是名身。復次六識身六觸身六受身六想身六思身六愛身六覺身六觀身。是名身。云何內身觀身行。若比丘一切內四大色身所攝法。若內一處四大色身所攝法。思惟無常知無常解無常受無常。如是不放逸觀。得定心住正住。是名內身觀身行。復次比丘。一切內身四大色身所攝法。若內一處四大色身所攝法。思惟苦患癰箭貪味病依緣壞法不定不滿可壞苦空無我。思惟緣知緣解緣受緣。即無明緣行。乃至名色緣六入。乃至是名內身觀身行。復次比丘。一切內身四大色身所攝法。若內一處四大色身所攝法。思惟滅知滅解滅受滅。即無明滅則行滅。乃至名色滅則六入滅。乃至是名內身觀身行。復次比丘。行樂知行樂。乃至臥樂知臥樂。身住樂如實知。乃至是名內身觀身行。復次比丘。去來屈申迴轉正知行。乃至眠覺語默正知行。乃至是名內身觀身行。復次比丘。出息長知長。入息長知長。出息短知短。入息短知短。如旋師挽繩。繩長知長繩短知短。乃至是名內身觀身行。復次比丘。從頂至足從足至頂。見諸不淨。觀身中有髮毛爪齒薄皮厚皮。血肉筋脈脾腎心肺。大小穢藏便利涕唾膿血脂肪腦膜淚汗髓骨。如淨眼人於二門倉觀見諸穀。胡麻大豆小豆豆大麥小麥。如是比丘觀身中。從頂至足從足至頂。具諸不淨。乃至是名內身觀身行。復次比丘。觀身諸大此身中唯有地水火風大。如巧屠牛師屠牛師弟子屠牛為四分。若坐立行住但見四分。如是比丘。觀此諸大。此身唯有地大水火風大。然此諸大但依水火生各相違。飲食長養羸劣無力。不堅無強念念不住。乃至是名內身觀身行。復次比丘。觀身食住食集。緣食得住無食無住。如火緣薪得燃無薪則滅。如是比丘。觀身食住食集。緣食得住無食不住。如佛說 觀身所集苦  一切皆緣食  若能除滅食  則無是諸苦  如是知過患  食是成就苦  比丘滅食已  必定得涅槃  是名內身觀身行。復次比丘。觀身盡空俱空以念遍知解行。乃至是名內身觀身行。復次比丘。觀身是癰瘡。此身有九瘡津漏門。若所出津漏皆是不淨。乃至如摩訶迦葉說。四大色身是衰耗相違津漏。乃至壽命短促。乃至是名內身觀身行。及餘諸行一切內四大色身所攝法。一處內四大色身所攝法。思惟得定心住正住。是名內身觀身行。云何內。身身若受。謂若內緣生自性己分。是名內。云何觀。謂如實人微觀正覺緣觀解。是名觀。云何行。如是微觀成就不違法護持行微行。是名行。云何勤精進。謂如實人若順法多行精進。是名勤精進。復次若身心發起顯出越度不退。是名勤精進。云何正智。謂如實人知見解射方便。是名正知。云何念。謂如實人憶念。微念緣念住不忘相續念不失不集。是名念。云何世間。有二種世間。眾生世間行世間。五道受生。是名眾生世間。五受陰。是名行世間。云何貪。貪不善根。是名貪。云何憂。意觸苦受。是名憂。云何除。覆背解斷吐出。是名除。云何外身觀身行。若比丘外一切四大色身攝法。若外一處四大色身攝法。思惟無常知無常解無常受無常。如是不放逸觀。得定心住正住。是名外身觀身行。復次比丘。一切外四大色身所攝法。若一處外四大色身所攝法。若觀苦痛癰箭著味病依緣壞法不定不滿可壞苦空無我。思惟緣知緣解緣受緣。即無明緣行。乃至名色緣六入。乃至是名外身觀身行。復次比丘。外一切四大色身所攝法。外一處四大色身所攝法。思惟滅知滅解滅受滅。無明滅則行滅。乃至名色滅則六入滅。乃至是名外身觀身行。及餘諸行外一切四大色身所攝法。若外一處色身所攝法。思惟得定心住正住。是名外身觀身行。云何外身。謂身非受非內非緣生非自性非己分。是名外。餘義如上說。云何內外身觀身行。如比丘一切內外四大色身攝法。若一處內外四大色身攝法。觀無常知無常解無常受無常。如是不放逸觀。得定心住正住。是名內外身觀身行。復次比丘。一切內外四大色身攝法。若一處內外四大色身攝法。若觀苦痛癰箭著味病依緣壞法不定不滿可壞苦空無我。思惟緣知緣解緣受緣。無明緣行乃至觸緣受。乃至是名內外身觀身行。復次比丘。一切內外四大色身攝法。若一處內外四大色身攝法。思惟滅知滅解滅受滅。無明滅則行滅。乃至名色滅則六入滅。乃至是名內外身觀身行。復次比丘。若見死屍棄在塚間。若一日至三日。乃至是名內外身觀身行。復次比丘。若見死屍棄在塚間。若一日至三日[*]脹青瘀。乃至是名內外身觀身行。復次比丘。若見死屍棄在塚間。若一日至三日。為烏鳥虎狼若干諸獸之所食噉。乃至是名內外身觀身行。復次比丘。若見死屍骨節相連。青赤爛壞膿血不淨臭穢可惡。乃至是名內外身觀身行。復次比丘。若見死屍骨節相連。餘血皮所覆筋脈未斷。乃至是名內外身觀身行。復次比丘。若見死屍骨節相連。血肉已離筋脈未斷。乃至是名內外身觀身行。復次比丘。若見死屍骨節已壞未離本處。乃至是名內外身觀身行。復次比丘。若見死屍骨節斷壞遠離本處。腳脛膞脾臗脊脅肋手足肩臂項髑髏諸骨各自異處。乃至是名內外身觀身行。復次比丘。若見死屍骨節久故色白如貝色青如鴿朽敗碎壞。乃至是名內外身觀身行。復次比丘。若見死屍在火聚上。燒髮毛皮膚血肉筋脈骨髓。一切髮毛乃至骨髓漸漸消盡。觀此法不至東方南西北方四維上下處住。此法本無而生。已生還滅。乃至是名內外身觀身行。及餘一切諸行四大色身攝法。若一處內外四大色身攝法。思惟得定心住正住。是名內外身觀身行。云何內外身若受若非受。是名內外身。餘義如上說。比丘觀身法緣起行。觀身法緣滅行。比丘如是觀身法緣起緣滅行。有身起內念。以智以明識不依身。無所依行不受於世。如是比丘。內身觀身行勤精進正智正念。除世貪憂。外身內外身亦如是。

須菩提。菩薩摩訶薩云何內身中循身觀。須菩提。若菩薩摩訶薩行時知行住時知住。坐時知坐。臥時知臥。如身所行如是知。須菩提。菩薩摩訶薩如是內身中循身觀。勤精進一心除世間貪憂。以不可得故。

須菩提、菩薩摩訶薩は、云何が内身中に身を循りて観る。須菩提、若し菩薩摩訶薩、行く時なれば、行くを知り、住まる時なれば、住まるを知り、坐する時なれば、坐するを知り、臥する時なれば、臥するを知り、身の行ずる所の如きを、是の如く知る。須菩提、菩薩摩訶薩は、是の如く内身中に身を循りて観、勤めて精進して、一心に世間の貪、憂を除くは、得べからざるが故なり。

     須菩提!

     『菩薩摩訶薩』は、

     何のように、

       『内身』中に、

         『身』を巡って、

         『観る!』のだろうか?

     須菩提!

     『菩薩摩訶薩』は、

     若し、

       『行く!』時ならば、

         『行く!』と、

         『知り!』、

       『住まる!』時には、

         『住まる!』と、

         『知り!』、

       『坐る!』時には、

         『坐る!』と、

         『知り!』、

       『臥せる!』時には、

         『臥せる!』と、

         『知る!』ことであり、

       『身』の、

         『行う!』所のまま、

         是のように、

           『知る!』ことである。

     須菩提!

     『菩薩摩訶薩』は、

     是のように、

       『内身』中に、

         『身』を巡って、

         『観』ながら、

       勤めて、

       『精進』して、

         『一心』に、

         『世間』の、

           『貪、憂』を、

           『除く!』のであるが、

         何故ならば、

         『内』には、

           『身(貪、憂の処)』を、

           『得られない!』からである。

復次須菩提。菩薩摩訶薩若來若去視瞻一心。屈申俯仰服僧伽梨執持衣缽。飲食臥息坐立睡覺語默入禪出禪亦常一心。如是須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。內身中循身觀。以不可得故。

復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は、若しは来たり、若しは去るに視瞻すること一心なり。屈申、俯仰、僧伽梨を服すること、衣鉢を執持すること、飲食、臥息、坐立、睡覚、語默、入禅、出禅も、亦た常に一心なり。是の如く、須菩提、菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行じて、内身中に、身を循りて観るは、得べからざるを以っての故なり。

 復た次ぎに、

     須菩提!

     『菩薩摩訶薩』は、

       『来る!』時も、

       『去る!』時も、

         『瞻視する!』のは、

         『一心』であり、

       『屈む!』、

       『伸びる!』、

       『俯く!』、

       『仰ぐ!』、

       『僧伽梨を着る!』、

       『衣鉢を執持する!』、

       『飲食する!』、

       『臥せて息む!』、

       『坐る!』、

       『立つ!』、

       『睡る!』、

       『覚める!、

       『語る!』、

       『黙る!』、

       『禅に入る!』、

       『禅を出る!』時も、

       亦た、

       常に、

         『瞻視する!』のは、

         『一心』である。

     是のように、

     須菩提!

     『菩薩摩訶薩』は、

       『般若波羅蜜』を行ずる!時、

       『内身』中に、

         『身』を巡って、

         『観る!』のであるが、

       『内』には、

         『身』を、

         『得られない!』からである。

 

  視瞻(しせん):みる。物を見る。瞻視。

  僧伽梨(そうぎゃり):三衣の一。九條以上の衣。『大智度論巻26()注:僧伽梨、三衣』参照。

  参考:『舎利弗阿毘曇論巻13』:『復次比丘。去來屈申迴轉正知行。乃至眠覺語默正知行。乃至是名內身觀身行。

復次須菩提。菩薩摩訶薩內身中循身觀時一心念。入息時知入息。出息時知出息。入息長時知入息長。出息長時知出息長。入息短時知入息短。出息短時知出息短。譬如旋師若旋師弟子。繩長知長繩短知短。

復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は、内身中に身を循りて観る時、一心に念じて、入息の時には、入息なるを知り、出息の時には、出息なるを知り、入息の長き時には、入息の長きを知り、出息の長き時には、出息の長きを知り、入息の短き時には、入息の短きを知り、出息の短き時には、出息の短きを知る。譬えば、旋師、若しくは旋師の弟子の、縄長くんば長きを知り、短くんば短きを知るが如し。

 復た次ぎに、

     須菩提!

     『菩薩摩訶薩』は、

       『内身』中に、

         『身』を巡って、

         『観る!』時には、

       『一心』に、

       念じて、――

         『息を入れる!』時には、

           『息を入れた!』と、

           『知り!』、

         『息を出す!』時には、

           『息を出した!』と、

           『知り!』、

         『入る息が長い!』時には、

           『入る息が長い!』と、

           『知り!』、

         『出る息が長い!』時には、

           『出る息が長い!』と、

           『知り!』、

         『入る息が短い!』時には、

           『入る息が短い!』と、

           『知り!』、

         『出る息が短い!』時には、

           『出る息が短い!』と、

           『知り!』、

       譬えば、

       『旋師』か、

       『旋師の弟子』が、

         『縄が長い!』時には、

           『縄が長い!』と、

           『知り!』、

         『縄が短い!』時には、

           『縄が短い!』と、

           『知る!』のと同じである。

 

  旋師(せんし):旋盤の如き道具を用いて、木材その他を截断する師の意。「阿毘曇毘婆沙論巻40」に、「是の如き未だ離欲せざる衆生は、二結の為に因とせらる。謂わゆる恚結、愛結なり。恚結は断じ易く却り易し。愛結は断じ難く却り難し。復た次ぎに愛結は数数微細の行なるを以って、愛行ずる時も微細なれば、識知すべきこと難し。譬えば旋師の用うる所の利器は、截断する所有るも、微細にして覚り難きが如し。」と云えるを以って知るべし。

  参考:『舎利弗阿毘曇論巻13』:『復次比丘。出息長知長。入息長知長。出息短知短。入息短知短。如旋師挽繩。繩長知長繩短知短。乃至是名內身觀身行。

菩薩摩訶薩亦如是。一心念入息時知入息。出息時知出息。入息長時知入息長。出息長時知出息長。入息短時知入息短。出息短時知出息短。如是須菩提。菩薩摩訶薩內身中循身觀。勤精進一心除世間貪憂。以不可得故。

菩薩摩訶薩は、亦た是の如く、一心に念じて、入息の時には、入息なるを知り、出息の時には、出息なるを知り、入息の長き時には、入息の長きを知り、出息の長き時には、出息の長きを知り、入息の短き時には、入息の短きを知り、出息の短き時には、出息の短きを知る。是の如く、須菩提、菩薩摩訶薩は内身中に身を循りて観、勤めて精進して、一心に世間の貪、憂を除くは、得べからざるを以っての故なり。

     『菩薩摩訶薩』は、

     亦た、

       是のように、

       『一心』に、

       念じて、――

         『息を入れる!』時には、

           『息を入れた!』と、

           『知り!』、

         『息を出す!』時には、

           『息を出した!』と、

           『知り!』、

         『入る息が長い!』時には、

           『入る息が長い!』と、

           『知り!』、

         『出る息が長い!』時には、

           『出る息が長い!』と、

           『知り!』、

         『入る息が短い!』時には、

           『入る息が短い!』と、

           『知り!』、

         『出る息が短い!』時には、

           『出る息が短い!』と、

           『知る!』のであるが、

     是のように、

     須菩提!

     『菩薩摩訶薩』は、

       『内身』中に、

         『身』を巡って、

         『観』ながら、

       勤めて、

       『精進』して、

         『一心』に、

         『世間』の、

           『貪、憂』を、

           『除く!』のであるが、

       何故ならば、

       『内』には、

         『身(貪、憂の処)』を、

         『得られない!』からである。

復次須菩提。菩薩摩訶薩觀身四大作是念。身中有地大水大火大風大。譬如屠牛師若屠牛弟子。以刀殺牛分作四分。作四分已若立若坐觀此四分。菩薩摩訶薩亦如是行般若波羅蜜時。種種觀身四大。地大水大火大風大。如是須菩提。菩薩摩訶薩內身中循身觀。以不可得故。

復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は、身に四大を観て、是の念を作さく、『身中には地大、水大、火大、風大有り。』、と。譬えば屠牛師、若しは屠牛師の弟子の、刀を以って牛を殺し、分けて四分と作し、四分と作し已りて、若しは立ち、若しは坐して、此の四分を観るが如し。菩薩摩訶薩も、亦た是の如く、般若波羅蜜を行ずる時、種種に身の四大を観る、地大、水大、火大、風大なり。是の如し、須菩提、菩薩摩訶薩の、内身中に身を循りて観るは、得べからざるを以っての故なり。

 復た次ぎに、

     須菩提!

     『菩薩摩訶薩』は、

       『身』中に、

         『四大』を、

         『観る!』と、

       是のような、

         『念』を作す!――

       『身』中には、

         『地大』、

         『水大』、

         『火大』、

         『風大』が、

           『有る!』、と。

     譬えば、

     『屠牛師』か、

     『屠牛師の弟子』が、

       『刀』を以って、

         『牛』を殺して、

         『四分』と作し、

       『立つ!』か、

       『坐る!』かして、

       此の、

         『四分』を、

         『観る!』のと同じである。

     『菩薩摩訶薩』も、

     亦た、

       是のように、

       『般若波羅蜜』を行ずる!時には、

       種種に、

         『身中』に、

           『四大』を、

           『観る!』のである。

         謂わゆる、

           『地大』、

           『水大』、

           『火大』、

           『風大』である。

     是のように、

     須菩提!

     『菩薩摩訶薩』は、

       『内身』中に、

         『身』を巡って、

         『観る!』のであるが、

       何故ならば、

       『内』には、

         『身』を、

         『得られない!』からである。

 

  参考:『舎利弗阿毘曇論巻13』:『復次比丘。觀身諸大此身中唯有地水火風大。如巧屠牛師屠牛師弟子屠牛為四分。若坐立行住但見四分。如是比丘。觀此諸大。此身唯有地大水火風大。然此諸大但依水火生各相違。飲食長養羸劣無力。不堅無強念念不住。乃至是名內身觀身行。

復次須菩提。菩薩摩訶薩觀內身。從足至頂周匝薄皮。種種不淨充滿身中。作是念。身中有髮毛爪齒薄皮厚皮筋肉骨髓脾腎心肝肺小腸大腸胃胞屎尿垢汗目淚涕唾膿血黃白痰陰肪[*]腦膜。

復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は、内身を観て、足より頂に至るまでに、薄皮を周匝するに、種種の不浄、身中に充満すれば、是の念を作さく、『身中に髪、毛、爪、歯、薄皮、厚皮、筋、肉、骨、髄、脾、腎、心、肝、肺、小腸、大腸、胃胞、屎尿、垢汗、目涙、涕唾、膿血、黄白痰癊、肪[*]、脳膜有り。』、と。

 復た次ぎに、

     須菩提!

     『菩薩摩訶薩』は、

       『内身』を、

       観る!と、――

         『足』から、

         『頂』に至る!まで、

           『薄皮』が、

           『周匝』しており、

         種種の、

         『不浄』が、

           『身』中に、

           『充満』している!ので、

         是の念を作す、――

         『身』中には、

           『髪、毛』、

           『爪、歯』、

           『薄皮、厚皮』、

           『筋、肉』、

           『骨、髄』、

           『脾臓、腎臓』、

           『心臓、肝臓、肺臓』、

           『小腸、大腸』、

           『胃、胞』、

           『屎、尿』、

           『垢、汗』、

           『目の涙』、

           『涕(はなみず)、唾』、

           『膿、血』、

           『黄、白の痰、癊(血痰)』、

           『脂肪』、

           『脳、膜』が、

             『有る!』、と。

 

  周匝(しゅうそう):めぐる。一周すること。

  (ほう):えな。子が母の腹中に在るとき、外に膜ありて之を裹むもの。

  (おん):一本には癊。血のあと。血のかたまり。血痰。

  [*](さん):あぶら。脂肪。

  参考:『舎利弗阿毘曇論巻13』:『復次比丘。從頂至足從足至頂。見諸不淨。觀身中有髮毛爪齒薄皮厚皮。血肉筋脈脾腎心肺。大小穢藏便利涕唾膿血脂肪腦膜淚汗髓骨。如淨眼人於二門倉觀見諸穀。胡麻大豆小豆豆大麥小麥。如是比丘觀身中。從頂至足從足至頂。具諸不淨。乃至是名內身觀身行。

譬如田夫倉中隔盛雜穀。種種充滿稻麻黍粟豆麥。明眼之人開倉即知。是麻是黍是稻是粟是麥是豆。分別悉知。菩薩摩訶薩亦如是觀是身。從足至頂周匝薄皮。種種不淨充滿身中。髮毛爪齒乃至腦膜。如是須菩提。菩薩摩訶薩觀內身。勤精進一心除世間貪憂。以不可得故。

譬えば田夫の倉中に雑穀を隔てて盛り、種種に稲、麻、黍、粟、豆、麦を充満せるに、明眼の人なれば、倉を開きて即ち知り、是れは麻、是れは黍、是れは稲、是れは粟、是れは麦、是れは豆と分別して、悉くを知るが如し。菩薩摩訶薩も、亦た是の如く、是の身を観て、足より頂に至るまで、薄皮を周匝するに、種種に不浄にして、身中に髪毛、爪歯、乃至脳膜を充満す。是の如し、須菩提、菩薩摩訶薩の内身を観、勤めて精進して、一心に世間の貪、憂を除くは、得べからざるを以っての故なり。

     譬えば、

     『田夫』が、

       『倉』中に、

       隔てて、

         『雑穀』を、

         『盛り!』、

       種種に、

         『稲、麻、黍、粟、豆、麦』を、

         『充満』する!と、

     『明眼の人』が、

       『倉』を開いて、

       即座に、――

         是れは、『麻』、

         是れは、『黍』、

         是れは、『稲』、

         是れは、『粟』、

         是れは、『麦』、

         是れは、『豆』と、

           『知り!』、

         分別して、

           『悉く!』を、

           『知る!』ように、

     『菩薩摩訶薩』も、

     亦た、

       是のように、

       是の、

         『身』を、

         観る!と、――

           『足』より、

           『頂』に至る!まで、

             『薄皮』が、

             『周匝』しており、

           『身』中には、

           種種の、

             『不浄』が、

             『充満』している!

           謂わゆる、

             『髪、毛』、

             『爪、歯』、

             乃至、

             『脳、膜』である。

     是のように、

     須菩提!

     『菩薩摩訶薩』は、

       『内身』を、

         『観る!』のであり、

       勤めて、

       『精進』して、

         『一心』に、

         『世間』の、

           『貪、憂』を、

           『除く!』のである。

         何故ならば、

         『内(世間)』には、

           『身(貪、憂の処)』を、

           『得られない!』からである。

 

  明眼(みょうげん):はっきりと見える眼。明眼人は具眼者。

復次須菩提。菩薩摩訶薩若見棄死人身。一日二日至于五日[*]脹青瘀膿汁流出。自念我身亦如是相如是法。未脫此法。如是須菩提。菩薩摩訶薩內身中循身觀。勤精進一心除世間貪憂。以不可得故。

復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は、若し死人の身の棄てられて、一日、二日より、五日に至るを見るに、膖脹し、青瘀して、膿汁流出すれば、自ら念ずらく、『我が身も、亦た是の如き相、是の如き法にして、未だ此の法を脱せず。』と。是の如し、須菩提、菩薩摩訶薩は、内身中に身を循りて観るに、勤めて精進し、一心に世間の貪、憂を除くは、得べからざるを以っての故なり。

 復た次ぎに、

     須菩提!

     『菩薩摩訶薩』は、

     若し、

     棄てられた!

       『死人』の、

         『身』を見て、

       『一日』、

       『二日』より、

         『五日』頃ならば、――

       『膨張』して、

       『青ずみ』、

         『膿汁』が、

         『流出』している!ので、

       自らを、

         こう念ずる!――

         わたしの、

           『身』も、

           亦た、

             是のような、『相!』、

             是のような、『法!』なのに、

           未だ、

           此の、

             『身()』を、

             『脱していない!』、と。

     是のように、

     須菩提!

     『菩薩摩訶薩』は、

       『内身』を、

         『観る!』のであり、

       勤めて、

       『精進』して、

         『一心』に、

         『世間』の、

           『貪、憂』を、

           『除く!』のである。

         何故ならば、

         『内』には、

           『身』を、

           『得られない!』からである。

復次須菩提。菩薩摩訶薩若見棄死人身。若六日若七日烏鴟雕鷲豺狼狐狗。如是等種種禽獸[*]裂食之。自念我身如是相如是法。未脫此法。如是須菩提。菩薩摩訶薩內身中循身觀。勤精進一心除世間貪憂。以不可得故。

復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は、若し死人の身の棄てられて、若しは六日、若しは七日なるを見るに、烏鴟、G鷲、豹狼、狐狗、是の如き種種の禽獣爴裂して、之を食う。自ら念ずらく、『我が身も、是の如き相、是の如き法にして、未だ此の法を脱せず。』と。是の如し、須菩提、菩薩摩訶薩は、内身中に身を循りて観、勤めて精進して、一心に世間の貪、憂を除くは、得べからざるを以っての故なり。

 復た次ぎに、

     須菩提!

     『菩薩摩訶薩』は、

     若し、

     棄てられた!

       『死人』の、

         『身』を見て、

       『六日』か、

       『七日』頃ならば、――

         『烏(からす)』、

         『鴟(ふくろう)』、

         『G(わし)』、

         『鷲(わし)』、

         『豹』、

         『狼』、

         『狐』、

         『狗()』、

       是れ等の、

       種種の、

         『禽獣』が、

         『死人』の、

           『身』を裂いて、

           『食っている!』ので、

       自らを、

         こう念ずる!――

         わたしの、

           『身』も、

           亦た、

             是のような、『相!』、

             是のような、『法!』なのに、

           未だ、

           此の、

             『身』を、

             『脱していない!』、と。

     是のように、

     須菩提!

     『菩薩摩訶薩』は、

       『内身』を、

         『観る!』のであり、

       勤めて、

       『精進』して、

         『一心』に、

         『世間』の、

           『貪、憂』を、

           『除く!』のである。

         何故ならば、

         『内』には、

           『身』を、

           『得られない!』からである。

 

  (う):からす。鳥の名。俗に老鴉と称す。色純黒。其の母に反哺するが故に孝養を言いて、「烏鳥之私」という。

  (し):ふくろう。「角鴟」は猛禽の一種。頭部は猫に類す。俗に猫頭鷹と名づく。耳に長毛を生じ、状耳殻に類す。両眼は甚だ巨きくて円し。昼伏し夜出づ。其の同種にして体稍々大なる者を「怪鴟」と為す。

  G(ちょう):わし。猛禽なり、亦た之を「鷲」とも謂う。体の長さ三四尺、両翼を平に展ぐれば丈余に達す可し。全身は暗褐にして頸後は暗赤色を呈し、尾根は白色、嘴壯大にして鉤曲し、羽毛は脚を覆う。能く山羊等を攫んで之を食す。シベリア等の地に産す。

  (しゅう):わし。猛禽、即ちGなり。

  爴裂(かくれつ):つかみさく。爴は攫に同じ、鳥獣の爪を以って抓み取るをいう。

復次須菩提。菩薩摩訶薩若見棄死人身。禽獸食已不淨爛臭。自念我身如是相如是法。未脫此法。乃至除世間貪憂。

復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は、若し、死人の身の棄てられたるを見るに、禽獣食し已り、不浄にして爛臭なり。自ら念ずらく、『我が身も、是の如き相、是の如き法にして、未だ此の法を脱せず。』と。乃至世間の貪、憂を除く。

 復た次ぎに、

     須菩提!

     『菩薩摩訶薩』は、

     若し、

     棄てられた!

       『死人』の、

         『身』を見て、

         『禽獣』が、

           『食い已り!』、

         『不浄』であり、

           『腐爛』して、

           『臭っていた!』ならば、

       自らを、

         こう念ずる!――

         わたしの、

           『身』も、

           亦た、

             是のような、『相!』、

             是のような、『法!』なのに、

           未だ、

           此の、

             『身』を、

             『脱していない!』、と。

       乃至、

       勤めて、

       『精進』して、

         『一心』に、

         『世間』の、

           『貪、憂』を、

           『除く!』のである。

復次須菩提。菩薩摩訶薩若見棄死人身骨鎖。血肉塗染筋骨相連。自念我身如是相如是法。未脫此法。乃至除世間貪憂。

復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は、若し死人の身の棄てられたるを見るに、骨鎖に血肉塗染し、筋骨相連なる。自ら念ずらく、『我が身も、是の如き相、是の如き法にして、未だ此の法を脱せず。』と。乃至世間の貪、憂を除く。

 復た次ぎに、

     須菩提!

     『菩薩摩訶薩』は、

     若し、

     棄てられた!

       『死人』の、

       『身』を見て、

         『骨の鎖』は

           『血、肉』に塗れ、

         『筋、骨』が、

         互いに、

           『連なっていた!』ならば、

       自らを、

         こう念ずる!――

         わたしの、

           『身』も、

           亦た、

             是のような、『相!』、

             是のような、『法!』なのに、

           未だ、

           此の、

             『身』を、

             『脱していない!』、と。

       乃至、

       勤めて、

       『精進』して、

         『一心』に、

         『世間』の、

           『貪、憂』を、

           『除く!』のである。

復次須菩提。菩薩摩訶薩若見棄死人身骨瑣血肉已離筋骨相連。自念我身如是相如是法。未脫此法。乃至除世間貪憂。

復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は、若し、死人の身の棄てられたるを見るに、骨瑣、血肉已に離れ、筋骨のみ相連なる。自ら念ずらく、『我が身も、是の如き相、是の如き法にして、未だ此の法を脱せず。』と。乃至世間の貪、憂を除く。

 復た次ぎに、

     須菩提!

     『菩薩摩訶薩』は、

     若し、

     棄てられた!

       『死人』の、

       『身』を見て、

         『骨の鎖』は

           『血、肉』を離れ、

         『筋、骨』が、

         互いに、

           『連なっていた!』ならば、

       自らを、

         こう念ずる!――

         わたしの、

           『身』も、

           亦た、

             是のような、『相!』、

             是のような、『法!』なのに、

           未だ、

           此の、

             『身』を、

             『脱していない!』、と。

       乃至、

       勤めて、

       『精進』して、

         『一心』に、

         『世間』の、

           『貪、憂』を、

           『除く!』のである。

 

  (さ):くさり。鎖に同じ。

復次須菩提。菩薩摩訶薩若見棄死人身骨瑣已散在地。自念我身如是相如是法。未脫此法。如是須菩提。菩薩摩訶薩觀內身。乃至除世間貪憂。

復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は、若し、死人の身の棄てられたるを見るに、骨瑣已に散じて地に在り。自ら念ずらく、『我が身も、是の如き相、是の如き法にして、未だ此の法を脱せず。』と。是の如し、須菩提、菩薩摩訶薩は、内身を観ること、乃至世間の貪、憂を除く。

 復た次ぎに、

     須菩提!

     『菩薩摩訶薩』は、

     若し、

     棄てられた!

       『死人』の、

       『身』を見て、

         『骨の鎖』が、

         已に、

           『地』に、

           『散じていた!』ならば、

       自らを、

         こう念ずる!――

         わたしの、

           『身』も、

           亦た、

             是のような、『相!』、

             是のような、『法!』なのに、

           未だ、

           此の、

             『身』を、

             『脱していない!』、と。

     是のように、

     須菩提!

     『菩薩摩訶薩』は、

       『内身』を観る!に、

       乃至、

       勤めて、

       『精進』して、

         『一心』に、

         『世間』の、

           『貪、憂』を、

           『除く!』のである。

復次須菩提。菩薩摩訶薩若見棄死人身。骨散在地腳骨異處。膞骨髀骨腰骨肋骨脊骨手骨項骨髑髏各各異處。自念我身如是相如是法。未脫此法。如是須菩提。菩薩摩訶薩觀內身。乃至除世間貪憂。

復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は、若し、死人の棄てられたるを見るに、身骨は散じて地に在り、脚骨と処を異にし、膞骨、髀骨、腰骨、肋骨、脊骨、手骨、頂骨、髑髏は各各処を異にす。自ら念ずらく、『我が身も、是の如き相、是の如き法にして、未だ此の法を脱せず。』と。是の如し、須菩提、菩薩摩訶薩は、内身を観て、乃至世間の貪、憂を除く。

 復た次ぎに、

     須菩提!

     『菩薩摩訶薩』は、

     若し、

     棄てられた!

       『死人』を見て、

         『身骨』が、

           『地』に、

           『散じ!』て、

         『脚骨』と、

           『処』を、

           『異にし!』、

         『膞骨』、

         『髀骨』、

         『腰骨』、

         『肋骨』、

         『脊骨』、

         『手骨』、

         『頂骨』、

         『髑髏』が、

         各各、

           『処』を、

           『異にしていた!』ならば、

       自らを、

         こう念ずる!――

         わたしの、

           『身』も、

           亦た、

             是のような、『相!』、

             是のような、『法!』なのに、

           未だ、

           此の、

             『身』を、

             『脱していない!』、と。

     是のように、

     須菩提!

     『菩薩摩訶薩』は、

       『内身』を観て、

       乃至、

         『世間』の、

           『貪、憂』を、

           『除く!』のである。

 

  膞骨(せんこつ):股骨なり。

  髀骨(ひこつ):ふくらはぎの前の骨。

  脊骨(しゃくこつ):背骨。諸骨の幹。

  髑髏(どくる):どくろ。しゃりこうべ。風雨に曝され白骨になった頭骸骨。

復次須菩提。菩薩摩訶薩見是棄死人骨在地歲久風吹日曝色白如貝自念我身如是相如是法。未脫此法。如是須菩提。菩薩摩訶薩觀內身。乃至除世間貪憂。以不可得故

復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は、是の死人の棄てられたるを見るに、骨は地に在りて、歳久しく風に吹かれ、日に曝されて、色の白きこと貝の如し。自ら念ずらく、『我が身も、是の如き相、是の如き法にして、未だ此の法を脱せず。』と。是の如し、須菩提、菩薩摩訶薩の、内身を観て、乃至世間の貪、憂を除くは、得べからざるを以っての故なり。』と。

 復た次ぎに、

     須菩提!

     『菩薩摩訶薩』は、

     若し、

     棄てられた!

       『死人』を見て、

         『骨』が、

           『地』に在って、

           『幾歳』も、

           久しく、

             『風』に吹かれ、

             『日』に曝され、

         『色』が、

           『白く!』て、

           『貝のよう!』ならば、――

       自らを、

         こう念ずる!――

         わたしの、

           『身』も、

           亦た、

             是のような、『相!』、

             是のような、『法!』なのに、

           未だ、

           此の、

             『身』を、

             『脱していない!』、と。

     是のように、

     須菩提!

     『菩薩摩訶薩』は、

       『内身』を観て、

       乃至、

         『世間』の、

           『貪、憂』を、

           『除く!』のである。

         何故ならば、

         『内』には、

           『身』を、

           『得られない!』からである。

  

 

 

 

 

四念処:九問九答

【論】問曰。四念處中有種種觀。何以但說十二種觀。所謂若內若外若內外。

問うて曰く、四念処中には種種の観有り。何を以ってか、但だ十二種の観のみを説く。謂わゆる若しは内、若しは外、若しは内外なり。

 問い、

   『四念処』中には、――問1――

   種種の、

     『観』が有る!のに、

   何故、

   但だ、

     『十二種』の、

       『観』のみを、

       『説く!』のか?

     謂わゆる、

       『身、受、心、法』の、

       若しくは、

         『内』、

         『外』、

         『内外』である。

 

  参考:『大智度論巻31』:『問曰。行者云何學般若波羅蜜時住內空外空內外空。答曰。世間有四顛倒。不淨中有淨顛倒。苦中有樂顛倒。無常中有常顛倒。無我中有我顛倒。行者為破四顛倒故。修四念處十二種觀。所謂初觀內身三十六種不淨充滿九孔常流甚可厭患。淨相不可得。淨相不可得故名內空。行者既知內身不淨。觀外所著亦復如是。俱實不淨。愚夫狂惑為婬欲覆心故謂之為淨。觀所著色亦如我身淨相不可得。是為外空。行者若觀己身不淨或謂外色為淨。若觀外不淨或謂己身為淨。今俱觀內外我身不淨外亦如是。外身不淨我亦如是。一等無異淨不可得。是名內外空。行者思惟知內外身俱實不淨。而惑者愛著。愛著深故由以受身。身為大苦。而愚以為樂。

復次何等是內何等是外。內外觀已何以復別說內外。

復た次ぎに、何等か、是れ内なる。何等か、是れ外なる。内、外観し已りて、何を以ってか、復た別に内外を説く。

 復た次ぎに、――問2――

   何が、

     『内』で、

   何が、

     『外』なのか?

   『内』と、

   『外』とを、

     『観已った!』のに、

   何故、

   別に、

     『内外』を説く!のか?

復次四念處中一念處是內。內法中攝。所謂心。二念處是外。外法中攝。所謂受與法。一念處是內外。內外法中攝。所謂身。何以說四法。都是內都是外都是內外。

復た次ぎに、四念処中の一念処は、是れ内にして、内法中に摂す。謂わゆる心なり。二念処は、是れ外にして、外法中に摂す。謂わゆる受と法となり。一念処は、是れ内外にして、内外法中に摂す。謂わゆる身なり。何を以ってか、四法を説いて、都て是れ内、都て是れ外、都て是れ内外なる

 復た次ぎに、――問3――

   『四念処』中、

     『一念処』は、

       『内』であり、

       『内法』中に摂する!のは、

       謂わゆる、

         『心』である。

     『二念処』は、

       『外』であり、

       『外法』中に摂する!のは、

       謂わゆる、

         『受』と、

         『法』である。

     『一念処』は、

       『内外』であり、

       『内外法』中に摂する!のは、

       謂わゆる、

         『身』である。

   何故、

     『四法』の、

     都てが、

       『内』であり、

     都てが、

       『外』であり、

     都てが、

       『内外』なのか?

何以不但言觀身而言循身觀。云何觀身而不生身覺。何以言勤精進一心。三十七品皆應言一心。何以但此中言一心。

何を以ってか、但だ身を観ると言わずして、身を循りて観ると言う。云何が、身を観るに、身覚を生ぜざる。何を以ってか、『勤めて精進し一心なり。』と言うや。三十七品は、皆、応に一心と言うべし。何を以ってか、但だ此の中にのみ、一心と言う。

   何故、――問4――

   但だ、

     『身を観る!』と言わずに、

     『身を巡って観る!』と言うのか?

   何故、――問5――

     『身』を、

       『観た!』のに、

     『身』に、

       『覚』を、

       『生じない!』のか?

   何故、――問6――

   勤めて、

     『精進』し、

     『一心』である!と言うのか?

   『三十七品』は、

   皆、

     『一心』と言う!べきである。

   何故、

   但だ、

   此の中にのみ、

     『一心』と言う!のか?

此中若修行四念處時。一切五蓋應除。何以獨言除貪。世間喜亦能妨道。何以但言除憂。

此の中、若し四念処を修行する時は、一切の五蓋を、応に除くべし。何を以ってか、独り貪を除くと言う。世間の喜も、亦た能く道を妨ぐ。何を以ってか、但だ憂を除くと言う。

   此の中が、――問7――

   若し、

     『四念処』を、

       『修行』する!時ならば、

       一切の、

         『五蓋(貪、瞋、睡眠、掉悔、疑)』を、

           『除く!』べきである。

         何故、

         但だ、

           『貪』のみを、

           『除く!』と言うのか?

       『世間』の、

         『喜』も、

         亦た、

           『道』を、

           『妨げる!』ことができる。

         何故、

         但だ、

           『憂』のみを、

           『除く!』と言うのか?

觀身法種種門。無常苦空無我等。今何以但言不淨。若但觀不淨。何以復念身四威儀等。此事易知何足問。

観身の法の種種の門は、無常、苦、空、無我等なり。今は何を以ってか、但だ不浄を言う。若し、但だ不浄を観るに、何を以ってか、復た身の四威儀等を念ずる。此の事は知り易し、何ぞ問うに足らん。

   『観身の法』の、――問8――

   種種の、

     『門』とは、

     謂わゆる、

       『無常』、

       『苦』、

       『空』、

       『無我』等である。

   今は、

     何故、

     但だ、

       『不浄』のみを、

       『観る!』と言うのか?

   若し、――問9――

   但だ、

     『不浄』のみを、

     『観る!』のであれば、

   何故、

   亦た、

     『身』の、

       『四威儀』等を、

       『念ずる!』のか?

     此の事は、

       『知りやすい!』のに、

       何故、

         『問う!』に、

         『足る!』のか?

答曰。是十二種觀行者從此得定心。先來三種邪行。若內若外若內外。破三種邪行。是故有三種正行。有人著內情多著外情少。如人為身故能捨妻子親屬寶物。有人著外情多著內情少。如人貪財喪身為欲沒命。有人著內外情多。是故說三種正行。

答えて曰く、是の十二種の観とは、行者は、此れに従うて、定心を得、先より来(このかた)、三種の邪行の、若しは内、若しは外、若しは内外なるあれば、三種の邪行を破らんとして、是の故に、三種の正行有り。有る人は、内に著する情多くして、外に著する情少し。人の身の為の故に、能く妻子、親属、宝物を捨つるが如し。有る人は、外に著する情多くして、内に著する情少し。人の財を貪りて、身を喪い、欲の為に命を没するが如し。有る人は、内外に著する情多し。是の故に、三種の正行を説きたまえり。

 答え、

   是の、

     『十二種の観』とは、――答1――

     『行者』は、

     此れに従って、

         『定心』を得、

         先より、

           『三種』、

           謂わゆる、

             『内』、

             『外』、

             『内外』の、

               『邪行』を、

               『行ずる!』が故に、

             『三種』の、

               『邪行』を、

               『破る!』のであるが、

           是の故に、

             『三種』の、

               『正行』を、

               『行ずる!』のである。

           有る人は、

             『内情』に、

               『著する!』ことが、

               『多い!』が、

             『外情』に、

               『著する!』ことは、

               『少い!』、

           例えば、

           有る人は、

             『身』の為の故に、

               『妻子』、

               『親属』、

               『宝物』を、

                 『捨てる!』のである。

           有る人は、

             『外情』に、

               『著する!』ことが、

               『多い!』が、

             『内情』に、

               『著する!』ことは、

               『少い!』、

           例えば、

           有る人は、

             『財』を、

             『貪る!』為の故に、

               『身』を、

               『喪う!』のであり、

             『欲』の為の故に、

               『命』を、

               『落す!』のである。

           有る人は、

             『内外の情』に、

               『著する!』ことが、

               『多い!』ので、

           是の故に、

             『三種の正行』を説く!のである。

復次自身名內身。他身名外身。九受入名為內身。九不受入名為外身。眼等五情名為內身。色等五塵名為外身。如是等分別內外。

復た次ぎに、自らの身を、内身と名づけ、他の身を、外身と名づく。九受入を名づけて、内身と為し、九不受入を名づけて、外身と為す。眼等の五情を名づけて、内身と為し、色等の五塵を名づけて、外身と為す。是の如き等、内外を分別す。

 復た次ぎに、――答2――

   『自身』を、

     『内身』といい、

   『他身』を、

     『外身』という。

   『九受入』を、

     『内身』といい、

   『九不受入』を、

     『外身』という。

   『眼』等の、

   『五情』を、

     『内身』といい、

   『色』等の、

   『五塵』を、

     『外身』という。

   是れ等のように、

     『内』、

     『外』を、

       『分別』する!のである。

 

  九受入(くじゅにゅう):不明。「衆事阿毘曇論巻12」に、「九は不受、九は分別す。眼界は或いは受、或いは不受なり。云何が受なる、自性の受なるが若し。云何が不受なる、自性の受に非ざるが若し。眼界の如く、色界、耳界、鼻界、香界、舌界、味界、身界、触界も亦た是の如し」と云えるに依れば、即ち十八界中若し自性受なれば受、受に非ざれば不受なりとして、六識界、意界、法界、声界の九界を不受とし、其の他を分別すと為せるが如し。

  九不受入(くふじゅにゅう):不明。九受入の條参照。

  参考:『衆事阿毘曇論巻12』:『九不受。九分別。眼界。或受。或不受。云何受。若自性受。云何不受。若非自性受。如眼界。色界耳界鼻界香界舌界味界身界觸界亦如是。

行者先以不淨無常苦空無我等智慧觀內身。不得是身好相。若淨相若常相若樂若我若實內既不得。復觀外身求淨常我樂。實亦不可得。

行者は、先に不浄、無常、苦、空、無我等の智慧を以って、内身を観るも、是の身の好相を得ず。若しは浄相、若しは常相、若しは楽、若しは苦、若しは我、若しは実を、内に既に得ざれば、復た外身を観て、浄、常、我、楽、実を求むるも、亦た得べからず。

   『行者』は、――答3――

   先に、

     『不浄』、

     『無常』、

     『苦』、

     『空』、

     『無我』等の、

       『智慧』を以って、

         『内身』を、

         『観る!』が、

       是の、

         『身』に、

           『好相』は、

           『得られない!』のである。

     謂わゆる、

       『浄相』、

       『常相』、

       『楽』、

       『我』、

       『実』は、

     『内』には、

     既に、

       『得られない!』のであり、

     復た、

       『外身』に、

         『浄』、

         『常』、

         『我』、

         『楽』、

         『実』を求めても、

       亦た、

         『得られない!』のである。

若不得便生疑。我觀內時於外或錯。觀外時於內或錯。今內外一時俱觀亦不可得。是時心得正定。知是身不淨無常苦空無我。如病如癰如瘡九孔流穢。是為行廁。不久破壞離散盡滅死相。常有飢渴寒熱鞭杖繫閉罵詈毀呰老病等諸苦。常圍遶不得自在。

若し得ざれば、便ち疑を生ずらく、『我れ内を観る時、外に於いて或いは錯り、外を観る時、内に於いて或いは錯れり。』と。今、内外を一時に倶に観るも、亦た得べからず。是の時、心に正定を得て知るらく、『是の身は不浄、無常、苦、空、無我にして、病の如く、癰の如く、瘡の如く、九孔より穢を流し、是れを行廁と為す。久しからずして破壊、離散、尽滅する死相なり。常に飢渇、寒熱、鞭杖、繋閉、罵詈、毀呰、老病等有りて、諸の苦、常に囲遶し、自在なるを得ず。

   若しは、

     『得られない!』が故に、

       『疑』を、

       『生ずる!』かも知れない、――

     わたしは、

       『内』を、

         『観る!』時に、

         『錯覚』して、

           『外』を、

           『観た!』のではないか?

       『外』を、

         『観る!』時に、

         『錯覚』して、

           『内』を、

           『観た!』のではないか?と。

     今

       『内、外』を、

       一時に、

         『倶に!』、

         『観た!』が、

       亦た、

         『得られない!』ので、

     是の時、

       『心』に、

         『正定』を得て、

         こう知る!ことになる――

         是の、

           『身』は、

             『不浄』、

             『無常』、

             『苦』、

             『空』、

             『無我』である。

         譬えば、

           『病』、

           『癰(できもの)』、

           『瘡(きず)』のように、

         是の、

           『身』の、

           『九孔』からは、

             『汚穢』を、

             『流出』している。

           是れは、

             『行廁』である。

         是の、

           『身』は、

           久しからず!して、

             『破壊』し、

             『離散』し、

             『尽滅』する!

               『死相』であり、

           常に、

             『飢渇』、

             『寒熱』、

             『鞭杖』、

             『繋閉』、

             『罵詈』、

             『毀呰』、

             『老病』等の、

             諸の、

               『苦』が有り、

             常に、

               『囲遶』している!ので、

               『自在』を得られない!

 

  (よう):悪性のできもの。大きくて根は浅い。顔・ぼんのくぼ・背などに簇生する。「癰疽」は外症の統称。旧説にて、赤く腫るる者を癰と為し、赤く腫れざる者を疽と為す。癰は常に肌肉堅厚の処に生じ、疽は多く関節深陥の処に生ず。みな血行不良、毒質淤積の致す所なり。

  (そう):瘍なり。できもの。はれもの等、外症の皮膚病の総名。きず。瘡痍。刀傷等のきず。

  行廁(ぎょうし):あるくかわや。

  鞭杖(べんじょう):鞭や棒でうつ。

  繋閉(けへい):牢獄につなぐ。

  罵詈(めり):ののしる。悪言。悪口。

  毀呰(きし):そしる。毀訾。毀謗。

內空無主亦無知者見者作者受者。但空諸法因緣和合而有。自生自滅無所繫屬。猶如草木。是故內外俱觀。餘內外義如十八空中說。

内は空にして、主無く、亦た知者、見者、作者、受者無く、但だ空なる諸法の因縁和合して有り。自ら生じ、自ら滅して、繋属する所無く、猶お草木の如し。』と。是の故に、内外を倶に観るなり。余の内外の義は、『十八空』中に説けるが如し。

   『内』は、

     『空』であって、

       『主』は、

       『無い!』、

     亦た、

       『知者』も、

       『見者』も、

       『作者』も、

       『受者』も、

     何も、

       『無い!』、

   但だ、

   『外』の、

     『空』である!

     『諸法』の、

       『因縁』が、

       『和合』して、

     故に、

       『有る!』のであり、

       自ら、

         『生じたり!』、

         『滅したり!』するが、

       『繋属』する!所は、

       何も、

         『無く!』、

       猶お、

         『草木』にも、

         『及ばない!』ので、

   是の故に、

     『内、外』を、

       『倶に』、

       『観る!』のである。

   余の、

     『内、外の義』は、

     『十八空』中に説いた!とおりである。

循身觀者。尋隨觀察知其不淨。衰老病死爛壞臭處骨節腐敗摩滅歸土。如我此身覆以薄皮。令人狂惑憂畏萬端。以是故如身相。內外隨逐本末觀察。又如佛說。循身觀法

身を循りて観るとは、尋いで観察するに随いて、其の不浄なるを知る。衰老、病死、爛壊の臭処にして、骨節も腐敗磨滅すれば土に帰す。我が此の身の如く、覆うに薄皮を以ってするも、人をして狂惑せしめ、憂畏万端なり。是を以っての故に、身相の如く、内外に随逐して、本末を観察す。又、仏の、『身を循りて、法を観る。』と説きたまえるが如し。

   『身を巡って観る!』とは、――答4――

   次々と、

     『身』を、

       『観察』する!に随い、

     其の、

       『不浄』を、

       こう知る!ことになる、――

     是れは、

       『衰老』、

       『病死』、

       『爛壊』の、

         『臭処(行廁)』であり、

       『骨節』が、

         『腐敗』して、

         『磨滅』すれば、

       やがて、

         『土』に、

         『帰する!』ものである。

     是れは、

     わたしの、

     此の、

       『身』のように、

         『薄皮』で、

         『覆われた!』だけであるが、

       『人』を、

         『狂惑』、

         『憂畏』させる!こと、

           『万端!』である。

     是の故に、

       『内』の、

         『身相』を、

         『観る!』ように、

       『内、外』を、

       随逐して、

         『本末』を、

         『観察』する!のであるが、

       又、

       『仏』は、

         こう説かれている、――

         『身』を巡って、

           『法(四大等)』を、

           『観る!』と、。

 

  万端(まんたん):すべて。万事。

不生身覺者。不取身一異相而生戲論。眾生於是身中起種種覺。有生淨覺。有生不淨覺。有生瞋覺。念他過罪。有人觀此身。身為何法。諸身分邊為一為異。不生如是種種覺。所以者何。無所利益。妨涅槃道故。

身覚を生ぜずとは、身に一異の相を取りて、戯論を生ぜざればなり。衆生は、是の身の中に於いて、種種の覚を起すに、有るは浄覚を生じ、有るは不浄覚を生じ、有るは瞋覚を生じて、他の過罪を念じ、有る人は、此の身を観るらく、『身を何法と為すや、諸の身分の辺を一と為すや、畏と為すや』と。是の如き種種の覚を生ぜず。所以は何んとなれば、利益する所無く、涅槃の道を妨ぐるが故なり。

   『身』に、

     『覚』を、

     『生じない!』とは、――答5――

   『身』に、

     『一相』や、

     『異相』を、

       『取る!』ことで、

     『戯論』を、

       『生じない!』ことをいう。

   『衆生』は、

   是の、

     『身』中に、

     種種の、

       『覚』を、

       『起す!』のであり、

     有るいは、

       『浄』の、

         『覚』を、

         『生ずる!』、

     有るいは、

       『不浄』の、

         『覚』を、

         『生ずる!』、

     有るいは、

       『瞋』の、

         『覚』を生じて、

         『他』の、

           『過罪』を、

           『念ずる!』のであり、

     有る人は、

     此の、

       『身』を観て、

         『身』とは、

         『何法』だろうか?と思い、

       諸の、

         『身分の辺』を、

           『一』だ!、

           『畏』だ!と思うので、

     是のような、

     種種の、

       『覚』を、

       『生じさせない!』のである。

     何故ならば、

     種種の、

       『覚』には、

         『利益』する!所が、

         『無い!』からであり、

       亦た、

       『涅槃』の、

         『道』を、

         『妨げる!』からである。

復次餘凡夫聲聞人取身相能觀身。菩薩不取身相而能觀身。

復た次ぎに、余の凡夫、声聞人は、身に相を取りて、能く身を観るも、菩薩は、身に相を取らずして、能く身を観ればなり。

 復た次ぎに、

   余の、

     『凡夫』、

     『声聞人』は、

       『身相』を取る!ことで、

         『身』を、

         『観る!』のであるが、

     『菩薩』は、

       『身相』を取らず!に、

         『身』を、

         『観る!』のである。

勤精進一心者。餘世事巧便從無始世界來常習常作。如離別常人易。離別知識難。離別知識易。離別父子難。離別父子易。自離其身難。自離其身易。離其心者難。自不一心勤精進此不可得。譬如攢燧求火。一心勤著不休不息乃可得火。是故說一心勤精進。

精進に勤むる一心とは、余の世事、巧便は無始の世界より来、常に習い、常に作せり。常人を離別すること易きも、知識を離別すること難く、知識を離別すること易きも、父子を離別すること難く、父子を離別すること易きも、自ら其の身を離すは難く、自ら其の身を離すこと易きも、其の心を離すことの難きが如し。自ら一心に勤めて精進せざれば、此れを得べからざればなり。譬えば攢燧して、火を求むるに、一心に勤めて著し、不休不息にして、乃ち火を得べきが如し。是の故に説かく、『一心に勤めて精進す』と。

   勤めて、

     『精進』し、

     『一心』である!とは、――答6――

   余の、

     『世事(俗事)』とか、

     『巧便(技術)』は、

     無始の世界より、

     常に、

       『習慣』的に、

       『行ってきた!』ことである。

   例えば、

     『常人(他人)』と、

       『離別する!』ことは、

       『易しい!』が、

     『知識(友人)』と、

       『離別する!』ことは、

       『難しい!』とか、

     『知識』と、

       『離別する!』ことは、

       『易しい!』が、

     『父子』と、

       『離別する!』ことは、

       『難しい!』とか、

     『父子』と、

       『離別する!』ことは、

       『易しい!』が、

     『自らの身』と、

       『離別する!』ことは、

       『難しい!』とかであるが、

     『自らの身』と、

       『離別する!』ことは、

       『易しい!』が、

     『自らの心』と、

       『離別する!』ことは、

       『難しい!』のであり、

     自ら、

       『一心』に、

       勤めて、

         『精進』しなければ、

       此の、

         『自らの心』と、

           『離別する!』ことは、

           『できない!』のである。

     譬えば、

       『攢燧(錐揉み)』して、

         『火』を、

         『求める!』時、

       『一心』に、

       勤めて、

         『執著』して、

         『不休不息』であれば、

       ようやく、

         『火』を、

         『得られる!』のと同じである。

     是の故に、

       こう説く!――

       『一心』に、

       勤めて、

         『精進』する!と。

 

  巧便(ぎょうべん):たくみに役立てる技術。

  知識(ちしき):朋友の異名。知人と云えるが如く、我れ其の心識、其の貌の人を知るなり。又我が所知の人なり。多知博識の義に非ず。諸経の初に、「皆是れ大阿羅漢にして、衆に知識せらる」と有れば、即ち人の知る所と為すに就きて云うなり。其の人善なるを、善友、善知識と為し、悪なれば、則ち悪友、悪知識と為す。説法して、我れを善処に引導する者は、是れ善友なれば、故に善知識と曰い、又但に知識とも云う。又善を勧むる友の、三宝に喜捨せしむるに、之を勧知識、唱知識と謂う。<(丁)『大智度論巻48()注:善知識』参照。

  善知識(ぜんちしき):梵語kalyaaNa−mitraの訳。巴梨語kalyaaNa−mitta、正直又は有徳の友の意。又単に知識、或いは真善友、善真友、善友、真友、親友とも称す。悪知識に対す。即ち人を化導利益する有徳の善親友を云う。「増一阿含経巻11善知識品」に、「世尊諸の比丘に告ぐ、当に善知識に親近すべし、悪行を習い悪業を信ずること莫かれ。然る所以は、諸の比丘、善知識に親近せば、已信便ち増益し、聞施智慧普く悉く増益せん。若し比丘善知識に親近して悪行を習うこと莫かれ。然る所以は、若し悪知識に近づかば便ち信戒聞施智慧なし。是の故に諸の比丘当に善知識に親近すべし、悪知識に近づくこと莫かれ」と云い、「大品般若経巻27常啼品」に、「何等か是れ善知識なる、能く空無相無作無生無滅の法及び一切種智を説きて、人心をして歓喜信楽に入らしむ。是れを善知識と為す」と云い、「大般涅槃経巻25」に、「善知識とは所謂菩薩仏辟支仏声聞人中の方等を信ずる者なり。何が故に名づけて善知識と為すや、善知識とは能く衆生に教えて十悪を遠離し、十善を修行せしむ。是の義を以っての故に善知識と名づく」と云い、「法華経巻7妙荘厳王本事品」に、「若し善男子善女人、善根を種うるが故に世世に善知識を得ん。其の善知識は能く仏事を作し、示教利喜して阿耨多羅三藐三菩提に入らしむ。大王当に知るべし、善知識は是れ大因縁なり、所謂化導して仏を見ることを得て、阿耨多羅三藐三菩提心を発さしむ」と云える是れなり。是れ蓋し仏菩薩乃至人天を問わず、凡べて人の為に善友となり、教えて諸悪を遠離して諸善を修せしむる者を善知識と名づけたるなり。又「旧華厳経巻58入法界品」には十種の譬喩に約し、善知識は行者をして仏家に生ぜしむるが故に慈母の如く、無量の事を以って益を施すが故に慈父の如く、一切の悪に遠ざからしむるが故に養育者の如く、菩薩戒を学せしむるが故に大師の如く、彼岸に至らしむるが故に導師の如く、一切煩悩の患を療治するが故に良医の如く、智慧の薬を長養するが故に雪山の如く、一切の恐怖を防護するが故に勇将の如く、生死の海を越えしむるが故に牢船の如く、一切智の宝洲に到らしむるが故に船師の如しと云い、「大智度論巻96」には善知識に親近すべき所以を説き、「好法ありと雖も若し教うる者なくんば、行ずる時多く錯る。譬えば好薬ありと雖も亦た良医を須うるが如し」と云えり。是れ皆善知識の勝徳を説けるものなり。其の種別に関し、「摩訶止観巻4下」には三種とし、「知識に三種あり、一に外護、二に同行、三に教授なり。(中略)夫れ外護とは白黒を簡ばず、但だ能く所須を営理して過を見ること莫く、触悩すること莫く、称歎すること莫く、汎挙して損壊を致すこと莫く、母の児を養う如く、虎の子を銜むが如く、調和所を得るなり。旧行の道乃ち能く為すのみ。是れを外護と名づく。二に同行とは随自意及び、安楽行を行ずるには未だ必ずしも伴を須いず、方等般舟行法には決して好伴を須う。更に相策発して眠らず散ぜず、日に其れ新なるあり、切磋琢磨し心を同じくし志を斉しくして一船に乗ずるが如く、互いに相敬重して世尊を視るが如くす。是れを同行と名づく。三に教授とは能く般若を説きて道非道を示し、内外方便通塞妨障皆能く決了し、善巧説法し、示教利喜して破人の心を転ぜしめ、諸の方便に於いて自ら能く決了して独行することを得べく、妨難未だ諳ぜざれば宜しく捨すべからず。経に言わく、善師に随順して学せば恒沙の仏を見ることを得んと。是れを教授と名づく」と云い、又「華厳経探玄記巻18」には人法及び人法合辨の三位を立てて分別し、「通じて真の善知識を論ずるに其の三類あり。一に人、二に法、三に人法合辨なり。初に人の中に六あり。一に人ありて能く其の現苦を済うと雖も、而も修善を勧めざれば真善友に非ず。二に世善を修して悪趣を免るることを勧むと雖も、而も出世の路に修向することを勧めざれば亦た真善友に非ず。三に二乗の出世善行を修して三界の苦を免ると雖も、而も菩薩の道を行ずることを勧めずんば亦た真友に非ず。四に菩薩の道を修することを勧めて二乗を免ると雖も、猶お相善を存するは真友に非ず。五に要ず衆生を勧めて無相行を修せしむるを方に真善知識と為す。此れ仏蔵経及び智論等に依りて辨ず。六に要ず勧めて普賢の行徳を具せしむるを方に究竟の真善知識と名づく。此れ上は並びに是れ行善知識なり、行を以って機を引くが故に唯人に属す。二に法善知識に亦た六重あり、一に人天の法、二に二乗の法、三に初教の法、四に終教の法、五に頓教の法、六に円教の法なり。此等の法に依りて正行を成ずるが故に名づけて善友と為す。但だ教の権実に随って真の善友を辨ず。三に人法合辨の中に亦た六重あり、謂わく上の六位の法に於いて各一門を説き、機縁に授くるを以って則ち人法双辨なり」と云えり。以って其の類の多種なるを見るべし。又「旧華厳経巻36離世間品」には、菩薩の善知識に能令安住菩薩心善知識、能令修習善根善知識、能令究竟諸波羅蜜善知識、能令分別解説一切法善知識、能令安住成熟一切衆生善知識、能令具足辯才随問能答善知識、能令不著一切生死善知識、能令於一切劫行菩薩行心無厭惓善知識、能令安住普賢行善知識、能令深入一切仏智善知識の十種あることを説き、又「同入法界品」には、広く善財童子が、文殊師利乃至普賢菩薩等の五十五善知識を歷訪せることを記し、又「観無量寿経」には、臨終の時善知識の示教を受けて極悪人の往生を得ることを説けり。又「雑阿含経巻27、35」、「長阿含巻5闍尼沙経」、「中阿含巻10即為比丘説経」、「同巻36何苦経」、「尸迦羅越六方礼経」、「大般若経巻313至316」、「大般涅槃経巻25、35」、「無量寿経巻下」、「華手経巻10」、「大智度論巻71」、「菩薩地持経巻7供養習近無量品」、「瑜伽師地論巻44」、「舎利弗阿毘曇論巻14」、「安楽集巻下」等に出づ。<(望)

  攢燧(さんすい):錐揉みして火を得ること。

除世間貪憂者。貪除則五蓋盡去猶如破竹初節既破餘節皆去。

世間の貪、憂を除くとは、貪除これば、則ち五蓋尽きて去り、猶お竹の初の節を破れば、既に余の節も破りて、皆去るが如し。

   『世間』の、

     『貪、憂』を、

     『除く!』とは、――答7――

   『貪』が除かれた!ならば、

     『五蓋(貪、瞋、睡眠、掉悔、疑)』が、

     『尽きて去る!』ことになる。

   譬えば、

   『竹』の、

     『初の節』が破れた!ならば、

     『余の節』が、

     皆、

       『破れ去る!』のと同じである。

復次行者遠離五欲出家學道。既捨世樂未得定樂。或時心生憂念。如魚樂水。心相如是常求樂事。還念本所欲。行者多生是二心。是故佛說。當除貪憂。說貪即是說世間。喜以相應故。

復た次ぎに、行者は、五欲を遠離し、出家して道を学べば、既に世の楽を捨つるも、未だ定の楽を得ざれば、或いは時に、心に憂念を生ず。魚の水を楽しむが如し。心相も、是の如く常に楽事を求めて、還って、本の欲する所を念ず。行者は多く、是の二心を生ずれば、是の故に仏の説きたまわく、『当に、貪、憂を除くべし。』と。貪を説けば、即ち是れ世間の喜を説く、以って相応するが故なり。

 復た次ぎに、

   『行者』が、

     『五欲』を離れ、

     『出家』して、

     『道』を学び、

     既に、

       『世間』の、

         『楽』を、

         『捨てた!』が、

     未だ、

       『禅定』の、

         『楽』を、

         『得ない!』時、

     或いは時に、

       『心』に、

         『憂念(憂心)』を生じて、

       譬えば、

         『魚』が、

           『水』を、

           『楽しむ!』ように、

         『心相』は、

         是のように、

         常に、

           『楽事』を、

           『求める!』のであり、

         また、

         本の、

           『欲する!』所を、

           『念ずる!(貪念)』のである。

   『行者』は、

   多く、

   是の、

     『二心(貪、憂)』を生ずる!ので、

   是の故に、

   『仏』は、

     こう説かれた!のである、――

     当然、

       『貪、憂』を除く!べきである、と。

   『貪』を、

     『説いた!』ならば、

   即ち、

   是れは、

     『世間』の、

       『喜』を、

       『説いた!』ことになる。

     何故ならば、

     『喜』は、

       『貪』に、

       『相応する!』からである。

初觀不淨者。人身不淨薄皮覆故。先生淨相後生餘倒。以是故初說不淨觀。

初に不浄を観るとは、人身は不浄なるも、薄皮覆うが故に、先に浄相を生じて、後に余の倒を生ずればなり。是を以っての故に、初に不浄観を説く。

   『初』には、

     『不浄』を、

     『観る!』とは、――答8――

   『人』の、

     『身』は、

       『不浄』である!が、

         『薄皮』が、

         『覆う!』が故に、

       先に、

         『浄相』を、

         『生じ』て、

       後に、

         『余の倒(楽、我、常、実)』を、

         『生ずる!』ので、

     是の故に、

     『初』に、

       こう説く!のである、――

       『不浄を観よ!』と。

復次眾生多著貪欲取淨相。瞋恚邪見不爾故。是以先治貪欲觀不淨。

復た次ぎに、衆生は多く、貪欲に著して、浄相を取るも、瞋恚、邪見は爾らざるが故に、是を以って先に貪欲を治し、不浄を観るなり。

 復た次ぎに、

   『衆生』は、

   多く、

     『貪欲』に著する!が故に、

       『浄相』を、

       『取る!』のであるが、

     『瞋恚』、

     『邪見』は、

       そうでない!ので、

   是の故に、

   先に、

     『貪欲』を、

     治療して、

       『不浄』を、

       『観る!』のである。

念身四威儀等者。先欲破身賊。得一心人所為之事皆能成辦。以是故先尋繹其身所為所行。來去臥覺坐禪觀身所作。常一心安詳不錯不亂。作如是觀察以不淨三昧易得。

身の四威儀等を念ずとは、先に身の賊を破らんと欲して一心を得れば、人の為す所の事を、皆、能く成辦すればなり。是を以っての故に、先に其の身の為す所、行ずる所を尋繹し、来去、臥覚、坐禅に、身の所作を観れば、常に一心、安詳にして、不錯、不乱なり。是の如き観察を作せば、以って不浄三昧を得易し。

   『身』の、

     『四威儀』等を、

     『念ずる!』とは、――答9――

   先に、

     『身』の、

       『賊』を、

       『破る!』が故に、

     『一心』を得て、

     『人』の、

       『為すべき!』、

       『事』を、

       皆、

         『成辦(具備)』できるので、

   是の故に、

   先に、

   其の、

     『身』の、

       『為すべき!』所、

       『行うべき!』所を、

         『尋ねきわめ』て、

     『来る!、去る!』、

     『臥せる!、覚める!』、

     『坐禅する!』等、

     『身』の、

       『作すべき!』所を、

       『観察する!』のであり、

   故に、

   常に、

     『一心』となって、

       『安詳(安隠)』として、

       『錯乱しない!』のであるが、

   是のような、

     『観察』を作せば、

       『不浄三昧』を、

       『得やすい!』からである。

 

  尋繹(じんやく):繰り返して行う。再三復習する。事理を段々たづねる。たづねきわめる。

  安詳(あんじょう):安隠微妙のさま。定まり静まりて勉め強いる所無きを安といい、事の該備せるを詳という。安隠にして満足のさま。

 

 

 

 

数息観と不浄観

身雖安詳。內有種種惡覺觀破亂其心。以是故說安那波那十六分。以防覺觀。安那般那義如先說。身既安詳心無錯亂。然後行不淨觀安隱牢固。若先行不淨觀狂心錯亂。故不淨反作淨相。佛法中此二法名甘露初門。

身は、安詳なりと雖も、内に、種種の悪の覚、観有りて、其の心を破乱す。是を以っての故に、安那波那の十六分を説き、以って覚、観を防ぐ。安那般那の義は、先に説けるが如し。身は既に安詳にして、心に錯乱無ければ、然る後に、不浄観を行ずるも、安隠にして牢固なり。若し先に不浄観を行ずれば、狂心錯乱するが故に、不浄なるに、反って浄相を作す。仏法中には、此の二法を、甘露の初門と名づく。

   『身』は、

     『安詳』としても、

     『内()』には、

     種種の、

       『悪』の、

         『覚、観』が有って、

       其の、

         『心』を、

         『破り乱す!』ので、

   是の故に、

     『安那般那』の、

       『十六分』を説いて、

       『覚、観』を防がれた!のであるが、

     『安那般那の義』は、

     先に、

       説いた!とおりである。

   『身』が、

   既に、

     『安詳』となり、

   『心』に、

     『錯乱』が、

     『無い!』ならば、

   その後には、

     『不浄観』を行っても、

     『心』は、

       『安隠』として、

       『牢固』であるが、

   若し、

     『安那般那』を行わず、

     先に、

       『不浄観』を行った!ならば、

         『狂心』が生じて、

         『錯乱』する!が故に、

       『不浄』なのに、

       反って、

         『浄相』を、

         『作す!』ので、

   『仏法』中には、

   此の、

     『二法(安那般那、不浄観)』を、

       『甘露』の、

       『初門』というのである。

 

  安那波那(あんなぱな):又安那般那に作り、数息観と訳す。『大智度論巻11()注:十六特勝、巻17()注:数息観』参照。

不淨觀者。所謂菩薩摩訶薩觀身如草木瓦石無異。

不浄観とは、謂わゆる菩薩摩訶薩の身を観ることの、草木、瓦石の如きに異無きなり。

   『不浄観』とは、

   謂わゆる、

     『菩薩摩訶薩』が、

       『身』を、

       こう観る!ことである、――

         『草木、瓦石』と、

           『異』が、

           『無い!』と。

是身外四大變為飲食充實內身。堅者是地。濕者是水。熱者是火。動者是風。是四事入內即是身。是四分中各各無我無我所。隨逐自相不隨人意。苦空等亦如是說。

是の身は外の四大変じて、飲食と為り、内身を充実す。堅なれば、是れ地なり。湿なれば、是れ水なり。熱なれば、是れ火なり。動なれば、是れ風なり。是の四事、内に入れば、即ち是れ身なり。是の四分中には、各各我無く、我所無けれども、自相を随逐して、人意に随わず。苦、空等も、亦た是の如く説く。

   是の、

     『身』は、

     『外』の、

       『四大』を変じて、

       『飲食』と為し、

     『内』に、

       『身』として、

       『充実』した!ものである。

   則ち、

     『堅い!』者、

     是れは、

       『地』である。

     『湿った!』者、

     是れは、

       『水』である。

     『熱い!』者、

     是れは、

       『火』である。

     『動く!』者、

     是れは、

       『風』である。

   是の、

     『四事』が、

       『内』に、

       『入る!』と、

     即ち、

     是れが、

       『身』であるが、

   是の、

     『身』の、

     『四分』中には、

     各各、

       『我』も、

       『我所』も、

         『無い!』ので、

       『自相』を、

         『随逐する!』が、

       『人』の、

         『意(意志)』には、

         『随わない!』のである。

     『苦』、

     『空』等も、

     亦た、

       是のように説いた!

 

  随逐(ずいちく):あとをつける。おいかける。

若坐若立者。臥則懈怠。身不動故心亦不動。行則心亂。身不靜故心亦不靜。

若しは坐し、若しは立つ者、臥すれば、則ち懈怠なり、身動かざるが故に、心も亦た動かず。行けば、則ち心乱る、身静ならざるが故に、心も亦た静ならず。

  若し、

    『坐る!』とか、

    『立つ!』者が、――

      『臥せた!』ならば、

      則ち、

        『懈怠』である。

      何故ならば、

        『身』が、

          『動かない!』が故に、

        『心』も、

        亦た、

          『動かない!』からである。

       『行(ある)いた!』ならば、

       則ち、

         『心』が、

           『乱れる!』、

       何故ならば、

         『身』が、

           『静でない!』が故に、

         『心』も、

         亦た、

           『静でない!』からである。

欲以眼見事況所不見。故說譬。牛即是行者身。屠兒即是行者。刀是利智慧。奪牛命即是破身一相。四分即是四大。屠者觀牛四分更無別牛亦非是牛。行者觀身四大亦如是。是四大不名為身。所以者何。此四身一故。

眼見の事を以って、見ざる所に況(たと)えんと欲するが故に、譬喩を説く。牛は、即ち是れ行者の身なり。屠児は、即ち是れ行者なり。刀は、是れ利なる智慧なり。牛命を奪うは、即ち是れ身の一相なるを破るなり。四分は、即ち是れ四大なり。屠者、牛を四分して観るに、更に別の牛無く、亦た是れ牛に非ず。行者の、身の四大を観るも、亦た是の如く、是の四大を、名づけて身と為さず。所以は何んとなれば、此れは四、身は一なるが故なり。

   『眼』に、

     『見える!』事を以って、

       『見えない!』所を、

       『喩えよう!』とするので、

     故に、

       『譬喩』を、

       『説く!』のであるが、

   譬えば、

     『牛』とは、

       『行者』の、

       『身』であり、

     『屠児』とは、

       『行者』であり、

     『刀』とは、

       『利い!』

       『智慧』だ!とすれば、

     『牛』の、

       『命』を、

       『奪う!』ことは、

     即ち、

       『身』という、

         『一相』を、

         『破る!』ことであり、

     『牛』の、

       『身』を、

       『四分』した!ならば、

     即ち、

     是れは、

       『四大』である。

     『屠者』が、

       『牛』を、

         『四分』して、

         『観た!』としても、

       各各には、

       更に、

       別の、

         『牛』は

         『無い!』のであり、

       亦た、

       各各、

       是れは、

         『牛』ではない!

     『行者』が、

       『身』に、

         『四大』を、

         『観た!』としても、

       亦た、

         是のように、

       是の、

         『四大』は、

         『身』ではない!のである。

       何故ならば、

       此れは、

         『四』であり、

           『身』は、

           『一』だからである。

 

  (きょう):くらべる。比。たとえる。譬。

又四大是總相。身是別相。若外四大不名為身。入身中假名為身。我不在四大中。四大不在我中。我去四大遠。但以顛倒妄計為身。用是散空智慧。分別四大及造色。然後入三念處得入道。

又四大は是れ総相、身は是れ別相なるも、若し、外の四大を、名づけて身と為さざれば、身中に入るを、仮名して身と為す。我は、四大中に在らず、四大は、我中に在らず。我の四大を去ること遠きも、但だ顛倒を以って、妄計して、身と為す。是の散空の智慧を用いて、四大、及び造色を分別し、然る後に三念処に入りて、道に入るを得。

   又、

     『四大』は、

       『総相』であり、

     『身』は、

       『別相』である。

   若し、

     『外』の、

       『四大』が、

       『身』でない!ならば、

     『身』中に、

       『四大』が、

       『入る!』のを、

     仮に、

       『身』というのである。

     『我』が、

       『四大』中に、

       『在る!』のではなく、

     『四大』が、

       『我』中に、

       『在る!』のでもない。

     『我』は、

       『四大』から、

       遠く、

         『去る!』ものであるが、

       但だ、

       『顛倒』を以って、

         『身』である!と、

         『妄計』した!のである。

   是の、

     『散空』の、

       『智慧』を、

       『用い!』て、

     『四大』、

     及び、

       『造色』を、

       『分別』し、

     その後、

     『三念処』に入れば、

       『道』に、

       『入る!』ことができる。

又此身從足至髮。從髮至足周匝薄皮。反覆思惟無一淨處。髮毛等乃至腦膜略說則三十六。廣說則眾多。

又此の身を、足より髪に至るまで、髪より足に至るまで薄皮を周匝し、反覆して思惟するに、一の浄処無し。髪、毛等、乃至脳、膜を略説すれば、則ち三十六、広説すれば、則ち衆多なり。

   又、

   此の、

     『身』を、

       『足』より、『髪』に至り、

       『髪』より、『足』に至る!まで、

     『薄皮』を巡り、

     反覆して、

       思惟する!ならば、――

       『浄処』は、

         『一』も、

         『無い!』のであり、

       『髪、毛』等、

       乃至、

         『脳、膜』まで、

       略説すれば、

         『三十六』の、

         『不浄』があり、

       広説すれば、

         『衆多』の、

         『不浄』がある。

 

  周匝(しゅうそう):めぐりまわる。周回。

  反覆(へんぷく):くりかえす。往復する。反復。

穀倉是身。農夫是行者。田種穀。是行者身業因緣。結實入倉。是行者因緣熟得身。稻麻黍粟等。是身中種種不淨。農夫開倉即知麻黍麥豆種種別異。是行者不淨觀。以慧眼開見是身倉。知此身中不淨充滿必當敗壞。若他來害若當自死。此身中但有屎尿不淨種種惡露等。

穀倉は、是れ身なり。農夫は、是れ行者なり。田に穀(もみ)を種うるは、是れ行者の身業の因縁なり。実を結び倉に入るるは、是れ行者の因縁熟して、身を得るなり。稲、麻、黍、粟等は、是れ身中の種種の不浄なり。農夫、倉を開くるに、即ち麻、黍、麦、豆の種種の別異を知る、是れ行者の不浄観なり。慧眼以って、是の身の倉を開きて見るに知るらく、『此の身中には、不浄充満し、必ず当に敗壊すべし。若しは他来たりて害し、若しは当に自ら死すべし。此の身中には、但だ屎尿、不浄なる種種の悪露等有るのみ。』と。

     譬えば、

       『穀倉』は、

         『身』であり、

       『農夫』は、

         『行者』だ!とすれば、

         『田』に、

           『穀(もみ)』を、

           『種える!』のは、

         是れは、

         『行者』の、

           『身業』の、

           『因縁』であり、

         『実』を結んで、

           『倉』に、

           『入れる!』のは、

         是れは、

         『行者』の、

         『因縁』が熟して、

           『身』を、

           『得た!』のである。

         『倉』中の、

           『稲、麻、黍、粟』等は、

         是れは、

           『身』中の、

           種種の、

             『不浄』である。

         『農夫』が、

           『倉』を開いて、

           即ち、

             『麻、黍、麦、豆』の、

             種種の、

               『別異』を、

               『知る!』のは、

         是れは、

         『行者』の、

           『不浄観』であり、

           『慧眼』を以って、

           是の、

             『身の倉』を、

             開いて、

               『見た!』ならば、

             こう知る!ことになる、――

             此の、

               『身』中には、

                 『不浄』が、

                 『充満』している!ので、

               必ず、

                 『敗壊』する!はずである。

             若しくは、

               『他』者が来て、

                 『害する!』か、

               『自ら』、

               当然、

                 『死ぬ!』はずである。

             此の、

               『身』中には、

               但だ、

                 『屎尿』と、

                 『不浄』な、

                 種種の、

                   『悪露』等が有る!のみだ、と。

 

  敗壊(はいえ):くさってこわれる。腐敗破壊。

  悪露(あくろ):身体の不浄の津液。即ち膿、血、屎、尿の類。悪は憎厭、露は津液の意。

已觀內身不淨。今觀外身敗壞。是故說二種不淨。一者已壞。二者未壞。先觀己身未壞有識。若結使薄利根人即生患厭。鈍根結厚者觀死人已壞可畏可惡。

已に内身の不浄を観、今、外身の敗壊を観る。是の故に二種の不浄を説く、一には已に壊し、二には未だ壊せず。先に己の身の、未だ壊せずして、識有るを観る。若し結使薄く、利根の人なれば、即ち患厭を生ず。鈍根にして結厚き者は、死人の已に壊して、畏るべき、悪むべきを観る。

         『行者』は、

         已に、

           『内身』の、

             『不浄』を、

             『観た!』ので、

         今は、

           『外身』の、

             『敗壊』を、

             『観る!』のである。

         是の故に、

           『二種』の、

             『不浄』が、

             『説かれた!』、

           一には、

             已に、

               『敗壊』した!

               『不浄』、

           二には、

             未だ、

               『敗壊』していない!

               『不浄』である。

         先に、

           『己の身』を観る!と、――

           未だ、

             『敗壊』しない!で、

             『識』を有する!

         故に、

         若し、

           『結使の薄い!』、

           『利根の人』ならば、

           即ち、

             『患厭』を、

             『生ずる!』が、

           『鈍根』で、

           『結使の厚い!』者は、

             『死人』が、

             已に、

               『敗壊』した!

               『畏るべき!』、

               『悪むべき!』さまを、

                 『観る!』のである、――

若死一日至五日。親里猶尚守護。是時禽獸未食。青瘀[*]脹膿血流出。腹脹破裂五藏爛壞。屎尿臭處甚可惡厭。行者心念。此色先好。行來言語妖蠱姿則惑亂人情淫者愛著。今者觀之好色安在。

若し、死して一日より、五日に至るまでなれば、親里猶尚お守護し、是の時、禽獣未だ食らわず。青瘀し、膖脹し、膿血流出し、腹脹れて破裂し、五臓爛壊し、屎尿の臭処にして、甚だ悪厭すべし。行者の、心に念ずらく、『此の色は、先に好もしく、行来、言語し、妖蠱なる姿なれば、則ち人情を惑乱し、淫者愛著す。今は、之を観るに、好色は安(いづく)にか、在らん。

             若し、

             『死人』が、

               『一日、乃至五日』であれば、

                 『親里(親戚)』が、

                 『守護』している!ので、

               是の時は、

                 『禽獣』にも、

                   『食われていない!』が、

               『屍(しかばね)』は、

                 『黒ずんで脹れ!』、

                 『膿、血』が、

                   『流出』し、

                 『腹』が脹れて、

                   『破裂』し、

                 『五臓』が、

                   『爛壊』し、

                 『屎尿』の、

                   『臭う!』処であり、

                 甚だ、

                   『悪み厭う!』べきである。

             『行者』は、

               『心』に、こう念ずる、――

               此の、

                 『色(肉体)』は、

                 先には、

                   『好もしく!』、

                     『行来』し、

                     『言語』し、

                   『妖蠱(妖冶)』な、

                   『姿態』で、

                     『人情』を、

                     『惑乱』し、

                   『淫者』は、

                     『愛著』していた!が、

                 今、

                 此の、

                   『死人』を観れば、

                 彼の、

                   『好もしい!』、

                   『色』は、

                     何処に、

                       『在る!』のだろう?

 

  親里(しんり):親戚、及び郷里の者の意。

  青瘀(しょうお):鬱血して青きを云う。

  膖脹(ほうちょう):はれふくれる。膨張。

  行来(ぎょうらい):歩きて往き来すること。

  妖蠱(ようこ):しなを作って人を媚惑すること。人を惑わせる程うつくしくあてやかなこと。

  淫者(いんじゃ):みだらな人。悪行の人。淫人。淫に就きて之をいえば、過なり、凡そ過甚なるを皆淫と謂う、雨の甚だしきに過ぐるを「淫雨」といい、刑罰の甚だしきに過ぐるを「淫刑」、「淫威」というが如し。惑なり、孟子、「富貴不能淫」とは、其の心を動かす能わざるを言うなり。邪なり、邪僻の友を「淫朋」といい、邪神野鬼を祀れるを「淫祀」、「淫祠」、というが如し。男女の交わるに礼を以ってせざるを淫という、「淫蕩」、「淫乱」の如し。

如佛所說。真是幻法。但誑無智之眼。今此實事露現。行者即念。我身與彼等無有異。未脫此法。云何自著著彼。又亦何為自重輕他。如是觀已。心則調伏可以求道。能除世間貪憂。

仏の説きたまえる所の如く、真に是れ幻法なり。但だ無智の眼を誑すのみ。今、此の実事露現せり。』と。行者の即ち念ずらく、『我が身と、彼れと等しくして、異有ること無けれども、未だ此の法を脱せず。云何が自ら著し、彼れに著せん。又亦た何の為にか、自ら重んじて、他を軽んぜん。』と。是の如く観已れば、心は則ち調伏し、以って道を求めて、能く世間の貪、憂を除くべし。

               『仏』の、

                 『説かれた!』所のように、

               真(まこと)に、

               是れは、

                 『幻の法』であり、

                 但だ、

                   『無智』の者の、

                     『眼』を、

                     『誑す!』のみだ。

               今、

               此の、

                 『死人』中に、

                   『実事』が、

                   『露現』している!のだ、と。

             『行者』は、

             そこで、

               こう念ずる、――

               わたしの、

                 『身』も、

                 彼と、

                   『等しい!』し、、

                   『異なり!』が、

                     『無い!』のに、

                 未だ、

                 此の、

                   『法()』を、

                   『脱しない!』でいる。

               何うして、

                 自らの、

                   『身』に、

                   『著したり!』、

                 彼れの、

                   『身』に、

                   『著したり!』しよう?

               又亦た、

               何の為に、

                 自らを、

                   『重んじたり!』、

                 彼れを、

                   『軽んじたり!』しよう?と。

             是のように、

               観已ると、

               『心』は、

                 『調伏』されて、

                 『道』を、

                   『求める!』のに、

                   『丁度よくなり!』、

                 『世間』の、

                   『貪、憂』を、

                   『除くことができる!』のである。

 

  可以(かい):できる。丁度よくなる。

又復思惟。此屍初死之時鳥獸見之。謂非死人不敢來近。以是故說。過六七日親戚既去。烏鷲野干之屬競來食之。皮肉既盡日日變異。以是故說。但有骨人。

又復た思惟すらく、『此の屍は、初めて死せる時、鳥獣、之を見て、死人に非ずと謂い、敢て来たりて近づかず。』と。是を以っての故に説かく、『六七日を過ぎて親戚既に去る。烏、鷲、野干の属、競い来たりて之を食う。』と。皮肉既に尽き、日日に変異す。是を以っての故に説かく、『但だ骨人有るのみ。』と。

             又復た、

               こう思惟する、――

               此の、

                 『屍(死体)』が、

                 初めて、

                   『死んだ!』時、

                   『鳥獣』が、

                   之を見て、

                     『死人』ではない!と謂い、

                   敢て来て、

                     『近づこう!』とはしなかった、と。

             是の故に、

               こう説かれた!――

               『六、七日』には、

                 『親戚』も、

                 既に、

                   『去り!』、

                 『烏、鷲、野干の属』が、

                   『競い来たり!』、

                   之を、

                     『食う!』、と。

             『皮、肉』は、

             既に、

               『尽き!』てしまい、

               日日に、

                 『変異する!』ので、

             是の故に、

               こう説かれた!――

               但だ、

                 『骨人が有るのみ!』だ、と。

 

  野干(やかん):獣の名。狐の類。

見其如此更生厭心。念言是心肝皮肉實無有我。但因是身合。集罪福因緣。受苦無量。即復自念。我身不久會當如是。未離此法。或時行者見骨人在地雨水澆浸日曝風吹但有白骨。或見久骨筋斷節解分散異處其色如鴿。或腐朽爛壞與土同色。

其の此の如きを見れば、更に厭心を生じて、念言すらく、『是の心肝、皮肉に、実に我有ること無し。但だ是の身の合するに因りて、罪福の因縁を集め、苦を受くること無量なり。』と。即ち復た、自ら念ずらく、『我が身も久しからずして、会当(まさ)に、是の如くなるべきも、未だ此の法を離れず。』と。或いは時に、行者の見るらく、骨人地に在りて、雨水澆浸し、日に曝され、風吹きて、但だ白骨有るのみ。或いは見るらく、久しくして、骨、筋断じ、節解け、分散して、処を異にし、其の色は、鴿の如し。或いは腐朽、爛壊して、土と色を同じうす。

             其れが、

             此のようである!のを見て、

             『行者』は、

             更に、

               『厭心』を生じ、

               『念じ』て、こう言う、――

               是の、

                 『心臓、肝臓、皮、肉』には、

                 実に、

                   『我』は、

                   『無い!』のに、

               但だ、

               是の、

                 『身』が、

                   『合する!』に因り、

                 『罪福』の、

                   『因縁』を、

                   『集め』て、

                 『苦』を、

                   『無量』に、

                   『受ける!』のだ、と。

             そこで、

             復た、

               自ら、こう念ずる、――

               わたしの、

                 『身』も、

                 久しからずして、

                 当然、

                   是のようになる!のに、

               未だ、

               此の、

                 『法』を、

                 『離れない!』でいる、と。

             或いは時に、

             『行者』は、

               これを見る、――

               『骨人』が、

                 『地』に在る!

                 『雨水』が浸し、

                 『日』が曝し、

                 『風』が吹いて、

               但だ、

                 『白骨』が有る!のみだ、と。

             或いは、

               これを見る、――

               久しくして、

               『骨』と、

               『筋』とが、

                 『断ずる!』と、

                 『分解』して、

                 其の、

                   『処』を、

                   『異に』し、

                 其の、

                   『色』は、

                   『鴿(はと)』のようだ!

                 或いは、

                 『腐朽』し、

                 『爛壊』して、

                   『土』と、

                   『同色』である!と。

 

  会当(えとう):まさに〜すべし。応当に同じ。心に予期する所あるをいう。当然こうなるだろう。

  澆浸(ぎょうしん):水を以ってうるおし浸す。

  鴿(こう):はと。鳥の名。鳩と同類。「野鴿」、「家鴿」の二種あり。野鴿は全体暗黒、ただ背の中央のみ灰白色、頸と胸に紫緑色の光沢あり。深林中に群棲し、出でて田禾を食う。害鳥の一種たり。家鴿は野鴿の変種。飛翔頗る捷くして記憶力甚だ強く、放って遠処に至るも皆能く自ら帰る。故に軍中伝書の用に充つ。俗に「鵓鴿」と称す。

 

 

 

 

四聖行と四念処

初觀三十六物死屍[*]脹。一日至五日。是不淨觀。鳥獸來食乃至與土同色。是無常觀。是中求我我所不可得。如先說。因緣生不自在故。是非我觀。觀身相如此無一可樂。若有著者則生憂苦。是名苦觀。

初に三十六物、死屍の膖脹せるを観る、一日より五日に至るまでは、是れ不浄観なり。鳥獣来たりて食らい、乃至土と色を同じうするまでは、是れ無常観なり。是の中に、我我所を求むるも、得べからざること、先に説けるが如し。因縁の生の、自在ならざるが故なり。是れ非我観なり。身相を観ること、此の如くなれば、一の楽しむべき無く、若し著する者有れば、則ち憂苦を生ず。是れを苦観と名づく。

     初に、

       『三十六物』、

       『死屍の膨張』を観る!――

         『一日、乃至五日』とは、

     是れは、

       『不浄観』である。

     次に、

       『鳥獣』が来て、

       之を、

         『食う!』、

       乃至、

         『土』と、

         『同色』となる!まで、

     是れは、

       『無常観』である。

     是の中に、

       『我、我所』を、

         『求めた!』が、

         『得られない!』、

       先に説くように、

       『因縁』の、

         『生』は、

         『自在でない!』からである、

     是れは、

       『非我(無我)観』である。

     此のように、

       『身相』を、

         『観た!』ならば、

       『身』には、

       『一』も、

         『楽しむべき!』ものが、

         『無い!』。

       若し、

         『著する!』ならば、

         則ち、

           『憂苦』を、

           『生ずる!』、

     是れは、

       『苦観』である。

以四聖行觀外身。自知己身亦復如是。然後內外俱觀。若心散亂。當念老病死三惡道苦身命無常佛法欲滅。如是等鞭心令伏。還繫不淨觀中。是名勤精進。一心勤精進故能除貪憂。

四聖行を以って、外身を観るに、自ら知るらく、己の身も、亦た是の如しと。然る後に、内外を倶に観る。若し心散乱せば、当に老病死、三悪道の苦、身命の無常なる、仏法の滅せんと欲するを念ずべし。是の如き等、心に鞭うちて、伏せしめ、還って不浄観中に繋ぐ。是れを勤めて精進すと名づく。一心に勤めて精進するが故に、能く貪、憂を除くなり。

   『四聖行(不浄、無常、非我、苦観)』を以って、

     『外身』を観れば、

     自ら、

       こう知ることになる、――

       『己の身』も、

       亦復た、

         是のとおりである!と。

     その後、

       『内、外』を、

         『倶に』、

         『観る!』のであるが、

     若し、

       『心』が、

       『散乱』した!ならば、

     当然、

       こう念じなくてはならない、――

       『老、病、死』や、

       『三悪道』の、

         『苦』がある!、とか、

       『身、命』は、

         『無常』である!、

       『仏法』が、

         『滅しよう!』としている、と。

     是れ等は、

       『心』に、

       鞭うって、

         『屈伏』させ、

       還た、

         『不浄観』中に、

         『繋ぎとめる!』のであり、

     是れを、

     勤めて、

       『精進する!』といい、

     『一心』に、

     勤めて、

       『精進する!』が故に、

         『貪、憂』を、

         『除くことができる!』のである。

 

  四聖行(ししょうぎょう):不浄観、無常観、非我観、苦観を云う。即ち「大智度論巻48」に、「初に三十六物、死屍の膖脹せるを観る、一日より五日に至るまでは、是れ不浄観なり。鳥獣来たりて食らい、乃至土と色を同じうするまでは、是れ無常観なり。是の中に、我我所を求むるも、得べからざること、先に説けるが如し。因縁の生の、自在ならざるが故なり。是れ非我観なり。身相を観ずること、此の如くなれば、一の楽しむべき無く、若し著する者有れば、則ち憂苦を生ず。是れを苦観と名づく。四聖行を以って、外身を観るに、自ら知るらく、己の身も、亦た是の如しと。然る後に、内外を倶に観ず」と云い、「同巻48」の後の文に、「是の四聖行を以って、四顛倒を破す」と云い、「同巻71」に、「若し常浄楽我等の四顛倒、四聖行を破すも、常等の四法は得べからず。顛倒を以っての故なり」と云い、「同巻84」に、「般若の義とは、謂わゆる無常の義、苦、空、無我の義、四諦智、尽智、無生智、法智、比智、世智、知他心智、如実智の義なり。故に応に般若を行ずべし。是の般若は、大海に種種の宝物有りて、或いは大、或いは小なるも、唯一は是れ如意宝なるが如く、般若波羅蜜にも亦た種種の諸の智慧の宝、無常等の四聖行、十智有るも、唯如実智のみ有ること如意宝の如し」と云えり。是を以って当に知るべし。

貪憂二賊劫我法寶。行者作是念。是身無常不淨可惡如此。眾生何故貪著此身。起種種罪因緣。

貪、憂二賊の、我が法宝を劫(おびやか)すに、行者は、是の念を作さく、『是の身は、無常、不浄にして、悪むべきこと此の如し。衆生は、何の故にか、此の身に貪著して、種種の罪の因縁を起す。』と。

   『貪、憂』の、――身念処――

     『二賊』は、

     わたしの、

       『法宝』を、

       『奪う!』ものである。

   『行者』は、

     是の念を作す!、――

     是の、

       『身』は、

         『無常』、

         『不浄』であり、

       此のように、

         『悪むべき!』ものである。

     『衆生』は、

     何故、

     此のような、

       『身』に、

         『貪著』して、

       種種の、

       『罪』の、

         『因縁』を、

         『起す!』のだろう?と。

 

  (こう):おびやかす。かすめる。強取なり。奪なり。「搶劫」、「劫掠」とは、強いて人の財物を取るをいう。勢脅なり。「劫制」とは、勢を以って之を挟制し敢て従わざるを得ざらしむるをいう。災阨を劫という。仏経にては、天地の一成一敗を一劫という。

如是思惟已。知是身中有五情外有五欲。和合故生世間顛倒樂。人心求樂初無住時當觀此樂為實為虛。身為堅固猶尚散滅。何況此樂。

是の如く思惟し已りて、知るらく、『是の身中には五情有り、外には五欲有り、和合するが故に、世間の顛倒の楽を生ず。人心は、楽を求むるも、初より住まる時無し。当に観るべし、此の楽は、実と為すや、虚と為すや、と。身は、堅固と為すも、猶尚お散滅す。何に況んや、此の楽をや。

     是のように、

       『思惟』した!ならば、

       こう知る!ことになる、――

       是の、――受念処――

         『身』中には、

           『五情』が有り、

         『外』には、

           『五欲』が有る。

       是の、

         『五情』と、

         『五欲』とが、

           『和合』する!が故に、

         『世間』の、

         『顛倒』の、

           『楽』を、

           『生ずる!』のであるから、

         『人心』が、

           『楽』を、

           『求めた!』としても、

         『楽』は、

         初より、

           『住まる!』時が、

           『無い!』のである。

       当然、

         こう観るべきだ!――

         此の、

           『楽』は、

             『実』なのか?

             『虚』なのか?

           『身』のように、

             『堅固』なものすら、

             『散滅』する!

           況して、

             『楽』など、

             『言う!』までもない。

此樂亦無住處。未來未有。過去已滅。現在不住。念念皆滅。以遮苦故名樂。無有實樂。譬如飲食。除飢渴苦故暫以為樂。過度則復生苦。如先破樂中說。則知世間樂皆從苦因緣生。亦能生苦果。誑人須臾後苦無量。譬如美食雜毒食雖香美毒則害人。世間樂亦如是。

此の楽は、亦た住処無し。未来は、未だ有らず。過去は、已に滅す。現在は住まらずして、念念に皆、滅す。苦を遮るを以っての故に、楽と名づくるも、実の楽有ること無し。譬えば飲食は、飢渇の苦を除くが故に、暫くは以って楽と為すも、度を過ぐれば、則ち復た苦を生ずるが如きこと、先に、『楽を破する』中に説けるが如し。則ち知るらく、『世間の楽は、皆、苦の因縁より生ずれば、亦た能く苦果を生じ、人を誑すこと須臾なれど、後の苦は無量なり。』と。譬えば美食に毒食を雑うれば、香美なりと雖も、毒は則ち人を害するが如し。世間の楽も、亦た是の如し。

         此の、

           『楽』は、

           亦た、

             『住処(五衆)』も、

             『無い!』のである。

           『未来』の、

             『五衆』は、

             未だ、

               『無い!』、

           『過去』の、

             『五衆』は、

             已に、

               『滅した!』、

           『現在』の、

             『五衆』は、

               『住まる!』ことなく、

             『念念』に、

               『生ずる!』、

               『五衆』は、

             皆、

               『滅する!』。

         『楽』とは、

           『苦』を、

             『遮る!』が故に、

             『楽』という!のであり、

           『実』の、

             『楽』は、

             『無い!』のである。

         譬えば、

           『飲食』は、

             『飢渇』を、

             『防ぐ!』が故に、

           暫くは、

             『楽』である!が、

           『度』を過ごせば、

           復た、

             『苦』を、

             『生ずる!』のと同じであり、

         先の、

           『破楽』中に説いた!ように、

           則ち、こう知るのである、――

           『世間』の、

             『楽』は、

             皆、

               『苦』の、

                 『因縁』より、

                 『生じ』て、

               亦た、

               『苦』の、

                 『果報』を、

                 『生ずる!』ので、

             『人』を、

               『誑す!』のは、

               『須臾(暫時)』であり、

             後には、

               『苦』が、

               『無量』である。

             譬えば、

               『美食』に、

                 『毒食』を、

                 『雑えた!』ならば、

               『香美』である!が、

               『毒』が、

                 『人』を、

                 『害する!』ように、

               『世間』の、

               『楽』も、

               亦た、

                 是のとおりである。

婬欲煩惱等毒故。奪智慧命心則狂惑。捨利取衰誰受此樂。唯有心識。諦觀此心念念生滅相續有故可得取相。譬如水波燈焰。

婬欲は、煩悩等の毒の故に、智慧の命を奪いて、心則ち狂惑し、利を捨てて、衰を取る。誰か、此の楽を受くる、唯だ心識有るのみ。此の心を諦観すれば、念念に生滅するも、相続して有るが故に相を取るを得べきこと、譬えば水波、灯焔の如し。

       『婬欲』は、――心念処――

         『煩悩』等の、

           『毒』の故に、

         『智慧』の、

           『命』を、

           『奪う!』ので、

         『心』は、

         則ち、

           『狂惑』し、

             『利』を捨てて、

             『衰』を取る!のである。

       誰が、

       此の、

         『楽』を、

         『受ける!』のだろうか?

       但だ、

         『心識』が、

         『有る!』のみである。

       『諦観』すれば、

         こうである、――

         此の、

           『心』は、

             『念念』に、

               『生、滅』する!が、

             『相続』して、

               『有る!』が故に、

             ようやく、

               『相』を、

               『取る!』ことができるのであり、

             譬えば、

               『水波』か、

               『灯焔』と同じである。

受苦心非樂心。受樂心非苦心。受不苦不樂心非苦樂心。時相各異。以是故心無常。無常故不自在。不自在故無我。想思憶念等亦如是。餘三念處內外相如先說。

苦を受くる心は、楽心に非ず。楽を受くる心は、苦心に非ず。不苦不楽を受くる心は、苦、楽心に非ず。時に相は、各異なり、是を以っての故に、心は無常なり。無常なるが故に、自在ならず。自在ならざるが故に、無我なり。想、思、憶念等も、亦た是の如し。余の三念処の内、外相は、先に説けるが如し。

         又、

           『苦』を、

             『受ける!』、

             『心』は、

           則ち、

             『楽』の、

             『心』ではない!

           『楽』を、

             『受ける!』、

             『心』は、

           則ち、

             『苦』の、

             『心』ではない!

           『不苦不楽』を、

             『受ける!』、

             『心』は、

           則ち、

             『苦、楽』の、

             『心』ではない。

           『心』は、

           時として、

             『相』が、

             各、

               『異なる!』のであり、

           是の故に、

           『心』は、

             『無常』である!

           『無常』である!が故に、――法念処――

             『自在』でない!

             『自在』でない!が故に、

               『無我』である!

           『想、思、憶念』等も、

           亦た、

             是のとおりである。

           余の、

             『三念処(受、心、法)』の、

             『内、外の相』は、

             先に、

               説いた!とおりである。

行是四聖行破四顛倒。破四顛倒故開實相門。開實相門已愧本所習。譬人夜食不淨。地了知非羞愧其事。

是の四聖行を行じて、四顛倒を破れば、四顛倒を破るが故に、実相の門を開き、実相の門を開き已れば、本習う所を愧づ。譬えば、人、夜不浄を食い、地了となりて非なるを知り、其の事を羞愧するがごとし。

   是の、

     『四聖行』は、

       『四顛倒』を破り、

       『四顛倒』を破る!が故に、

         『実相』の、

           『門』を、

           『開く!』のであるが、

         『実相』の、

           『門』が、

           『開く!』が故に、

         本の、

           『習う!』所を、

           『恥ずかしく思う!』のである。

       譬えば、

       『人』が、

         『夜(無明)』に、

           『不浄』を、

           『食い!』、

         『地』が明けて、

           『非(非道)』を、

           『知り!』、

         其の、

           『事』を、

           『恥ずかしく思う!』のと同じである。

 

  (き):はじる。自ら羞じる。自ら恥ずかしく思うこと。

  (りょう):あきらか。あける。明。

  羞愧(しゅうき):はじる。羞恥。自ら恥ずかしく思うこと。

觀是四法。不淨無常等。是名苦諦。是苦因愛等諸煩惱是集諦。愛等諸煩惱斷是滅諦。斷愛等諸煩惱方便是道諦。如是觀四諦信涅槃道。心住快樂似如無漏。是名煖法。如人攢火並有煖氣必望得火。

是の四法を観るに、不浄、無常等は、是れを苦諦と名づく。是の苦の因の愛等の諸の煩悩、是れ集諦なり。愛等の諸の煩悩の断、是れ滅諦なり。愛等の諸の煩悩を断ずる方便、是れ道諦なり。是の如く、四諦を観て、涅槃の道を信ずれば、心、快楽に住して、似たること無漏の如し、是れを煖法と名づく。人、火を攢(き)るに、並びに煖気有らば、必ず火を望み得るが如し。

   是の、

     『四法(不浄、無常、苦、無我)』を観る!とき、

       『不浄』、

       『無常』等は、

         『苦諦』である。

     是の、

       『苦』の、

         『因』である!

         『愛』等の、

       諸の、

       『煩悩』は、

         『集諦』である。

     『愛』等の、

     諸の、

       『煩悩』が、

       『断たれる!』こと、

       是れが、

         『滅諦』である。

     『愛』等の、

     諸の、

       『煩悩』を、

         『断つ!』、

         『方便』は、

       是れが、

         『道諦』である。

   是のように、――煖法――

     『四諦』を観て、

     『涅槃』の、

       『道だ!』と、

       『信じる!』と、

     『心』は、

       『快楽』に住して、

       『無漏』に似る!

     是れが、

       『煖法』である。

     譬えば、

     『人』が、

       『火』を攢()りながら、

         『煖気』が、

         『有る!』と、

       必ず、

       『火』が、

         『得られる!』と、

         『望む!』のと同じである。

 

  煖法(なんぽう):四善根位中初めて能く具に四聖諦の境を観察する位。『大智度論巻18()注:四善根位』参照。

信此法已。心愛樂佛是法如佛所說。如服好藥差病知師為妙諸服藥病差者人中第一。是則信僧。如是信三寶。煖法攝i罪福停等故。名為頂法。如人上山至頂兩邊道里俱等。從頂至忍乃至阿羅漢。是一邊道。從煖至頂是一邊道。聲聞法中觀四念處。所得果報如是。

此の法を信じ已れば、心より、仏を愛楽すらく、『是の法は、仏の説きたまえる所の如し。』と。好薬を服して、病を差(いや)せば、師を知りて、妙と為すが如し。諸の薬を服みて、病差ゆる者は、人中の第一なり。是れ則ち、僧を信ず。是の如く、三宝を信ずれば、煖法、増進して、罪、福等しきに停まるが故に、名づけて頂法と為す。人、山に上りて頂に至り、両辺の道理、倶に等しきが如く、頂より、忍に至る、乃至阿羅漢までは、是れ一辺の道なり。煖より、頂に至るは、是れ一辺の道なり。声聞法中に、四念処を観れば、得る所の果報は、是の如し。

   此の、――頂法――

     『法』を信じた!ならば、

     『心』より、

       『仏』を愛楽して、――

       是の、

         『法』は、

           『仏』の、

           『説かれた!』所である、と言う。

       譬えば、

         『好薬』を服()んで、

           『病』を、

           『癒す!』と、

         『師(薬師)』は、

           『深妙』だ!と、

           『知る!』のと同じである。

       諸の、

         『薬』を服んで、

           『病』が、

           『愈えた!』者は、

         即ち、

           『人』中の、

           『第一』だ!と言えば、

         是れが、

           『僧』を、

           『信ずる!』である。

       是のように、

         『三宝』を信ずれば、

           『煖法』が増進して、

           『罪、福』が、

             『等しい!』状態に、

             『停まる!』が故に、

           是れを、

             『頂法』という。

         譬えば、

         『人』が、

           『山』に上って、

           『頂』に至る!と、

             『両辺』の、

               『道里(里程)』が、

               『等しくなる!』ように、

           『頂法』より、

             『忍法、乃至阿羅漢』に至る!までが、

             『一辺の道』であり、

           『煖法』より、

             『頂法』に至る!のが、

             『一辺の道』である。

   『声聞法』中に、

     『四念処』を観て、

     得る!所の、

       『果報』が、

       是れである。

菩薩法者。於是觀中不忘本願不捨大悲。先用不可得空調伏心地。住是地中。雖有煩惱心常不墮。如人雖未殺賊繫閉一處。

菩薩の法は、是の観中に於いて、本願を忘れず、大悲を捨てず、先に不可得空を用いて、心地を調伏す。是の地中に住すれば、煩悩有りと雖も、心の常に堕せざること、人の未だ賊を殺さずと雖も、一処に繋閉するが如し。

   『菩薩法』では、

   是の、

     『観』中にも、

       『本願』を忘れず、

       『大悲』を捨てず、

     先に、

     『不可得空』を用いて、

       『心地』を、

       『調伏』しても、

     是の、

       『地』中に、

       『住まる!』ので、

     『煩悩』が有っても、

       『心』は、

       常に、

         『凡夫地』に、

         『堕ちない!』。

     譬えば、

       『人』が、

       未だ、

         『賊』を、

         『殺さない!』でも、

       『賊』を、

         『一処』に、

         『閉繋』する!のと同じである。

菩薩頂法如先法位中說。忍法世間第一法。則是菩薩柔順法忍。須陀洹道乃至阿羅漢辟支佛道。即是菩薩無生法忍。如佛後品自說。須陀洹若智若果。皆是菩薩無生法忍。

菩薩の頂法は、先に、『法位』中に説けるが如し。忍法、世間第一法は、則ち是れ菩薩の柔順なる法忍なり。須陀洹道、乃至阿羅漢、辟支仏道は、即ち是れ菩薩の無生法忍なり。仏の、後の品に、自ら『須陀洹の、若しは智、若しは果は、皆、是れ菩薩の無生法忍なり。』と説きたまえるが如し。

   『菩薩』の、

     『頂法』は、

     先に、

       『法位』中に説いた!とおりである。

     『忍法』、

     『世間第一法』は、

     是れは、

       『菩薩』の、

       『柔順法忍』である。

     『須陀洹道』乃至、

     『阿羅漢、辟支仏道』とは、

     是れは、

       『菩薩』の、

       『無生法忍』である。

     『仏』は、

       後の品中に、

       自ら、こう説かれている、――

       『須陀洹』は、

         『智()』も、

         『果』も、

       皆、

       是れは、

         『菩薩』の、

         『無生法忍』である、と。

 

  柔順法忍(にゅうじゅんほうにん):三忍の一。心柔にして、智順ずる位に堪えて安住するを云う。『大智度論巻41()注:柔順忍、三種法忍』参照。

  無生法忍(むしょうほうにん):三忍の一。無生無滅の理に安住して動かざるの意。『大智度論巻巻41()注:無生忍、三種法忍』参照。

  参考:『大智度論巻22遍学品』:『須陀洹若智若斷。斯陀含若智若斷。阿那含若智若斷。阿羅漢若智若斷。辟支佛若智若斷。皆是菩薩無生忍。

 

 

 

 

四念処と四正勤、四如意足、三十七品

四正勤四如意足雖各各別。位皆在四念處中。慧多故名四念處。精進多故名四正勤。定多故名四如意足。

四正勤、四如意足は、各各位を別にすと雖も、皆、四念処中に在り。慧多きが故に、四念処と名づけ、精進多きが故に、四正勤と名づけ、定多きが故に、四如意足と名づく。

   『四正勤』、

   『四如意足』は、

   各各、

     『位』を、

     『別にする!』が、

   皆、

     『四念処』中に在り、

       『慧』が、

         『多い!』が故に、

         『四念処』といい、

       『精進』が、

         『多い!』が故に、

         『四正勤』といい、

       『定』が、

         『多い!』が故に、

         『四如意足』という。

問曰。若爾者何以不說智處而說念處。

問うて曰く、若し、爾らば、何を以ってか、智処と説かず、而も念処と説ける。

 問い、

   若し、

     そうならば、

     何故、

       『智』の、

         『処』を、

         『説かず!』に、

       『念』の、

         『処』を、

         『説く!』のですか?

答曰。初習行時未及有智。念為初門常念其事。是智慧隨念。故以念為名。四念處實體是智慧。所以者何。觀內外身即是智慧。念持智慧在緣中不令散亂。故名念處。

答えて曰く、初に、習行する時、未だ智有るに及ばず。念を初門と為すは、常に其の事を念ずればなり。是の智慧は、念に随うが故に、念を以って、名と為す。四念処の実体は、是れ智慧なり。何を以っての故に、内、外身を観るは、即ち是れ智慧なり。智慧を念持して、縁中に在れば、散乱せしめざるが故に、念処と名づく。

 答え、

   初めて、

     『習行』する!時には、

     未だ、

       『智』が、

         『有る!』までには、

         『至らない!』のであり、

       『念』を、

         『初門』として、

       常に、

       其の、

         『事』を、

         『念ずる!』からである。

   是の、

     『智慧』は、

       『念』に随う!が故に、

       『念』という!のであるが、

     『四念処』の、

       『実体』は、

       『智慧』なのである。

     何故ならば、

     『内、外』に、

       『身』を、

         『観る!』のは、

         『智慧』であるが、

       『智慧』を、

       『念持』して、

         『縁』中に、

         『散乱させない!』が故に、

       是れを、

         『念処』というからである。

與九十六種邪行求道相違。故名正勤。諸外道等捨五欲自苦身。不能捨惡不善。不能集諸善法。佛有兩種斷惡不善法。已來者除卻。未來者防使不生。善法亦有二種。未生善法令生。已生善法令搨キ。是名正勤。

九十六種の邪行と、道を求むること、相違するが故に、正勤と名づく。諸の外道は等しく五欲を捨て、自ら身を苦しむるも、悪、不善を捨つる能わず、諸の善法を集むる能わず。仏には、両種の悪、不善法を断ずる有り、已に来たる者は、除却し、未だ来たらざる者は防いで、生ぜしめず。善法にも、亦た二種有り。未だ善法を生ぜざれば、生ぜしめ、已に善法を生ずれば、増長せしむ。是れを正勤と名づく。

   『四正勤』とは、――四正勤――

     『九十六種』の、

       『邪行』と、

     『道』を、

       『求める!』こととは、

       『相違する!』ので、

     故に、

       『正勤』という。

   諸の、

     『外道』は、

     等しく、

       『五欲』を捨て、

       自ら、

         『身』を、

         『苦しめる!』が、

       『悪』、

       『不善』の、

         『法』を、

         『捨てる!』ことができず。

       諸の、

       『善』の、

         『法』を、

         『集める!』こともできないが、

     『仏』は、

       『悪、不善』の、

         『法』を、

         『断ずる!』に、

       『二種』有り、

       已に、

         『来た!』、

         『悪、不善』の、

           『法』は、

           『除却』し、

       未だ、

         『来ない!』、

         『悪、不善』の、

           『法』は、

           防いで、

             『生じさせない!』。

       『善』の、

         『法』を、

         『集める!』にも、

       亦た、

       『二種』有り、

       未だ、

         『生じない!』、

         『善』の、

           『法』は、

           『生じさせ』、

       已に、

         『生じた!』、

         『善』の、

           『法』は、

           『増長させる!』、

       是れが、

         『四正勤』である。

智慧火得正勤風無所不燒。正勤若過。心則散亂智火微弱。如火得風過者或滅或微不能燒照。是故須定以制過。精進風則可得定。定有四種。欲定精進定心定思惟定。制四念處中過智慧。是時定慧道得精進故所欲如意。後得如意事辦故名如意足。足者名如意因緣。亦名分。

智慧の火は、正勤の風を得れば、焼かざる所無し。正勤、若し過ぐれば、心は、則ち散乱し、智の火微弱なり。火、風を得るに、過ぐれば、或いは滅し、或いは微となり、焼き照らすこと能わざるが如し。是の故に、定を須いて、以って過を制す。精進の風は、則ち定を得べし。定に四種有り。欲定、精進定、心定、思惟定にして、四念処中に過ぐるを制する智慧なり。是の時、定、慧は、道に精進を得るが故に、欲する所、意の如し。後に意の如く、事辨ずるを得る故に、如意足と名づく。足とは、如意の因縁に名づけ、亦た分にも名づく。

   『四如意足』とは、――四如意足――

     『智慧の火』が、

     『正勤の風』を得れば、

       『焼かない!』所が、

       『無い!』のであるが、

     『正勤』が、

     若し、

       『過ぎる!』ならば、

         『心』が、

         『散乱』する!ので、

       『智慧』の、

         『火』が、

         『微弱』となる。

     譬えば、

     『火』が、

       『風』を得ても、

       『過ぎた!』ならば、

         『滅したり!』、

         『微になったり!』して、

      『照らし!』たり、

      『焼いたり!』することが、

        『できない!』のと同じである。

   是の故に、

     『定』を用いて、

       『過ぎる!』のを、

       『制する!』のであるが、

     『精進の風』は、

       『定』を、

       『得るべき!』なのである。

   『定』には、

     『四種』有り、

       『欲定』、

       『精進定』、

       『心定』、

       『思惟定』である。

     皆、

     『四念処』中の、

     『過』を、

       『制する!』、

       『智慧』であるが、

     是の時、

     『定(四如意足)』と、

     『慧(四念処)』とは、

       『道(八聖道)』に、

         『精進』を、

         『得た!』ならば、

       故に、

         『欲する!』所が、

         『意のまま!』となり、

       後には、

       『意のまま!』に、

         『事』が、

         『具備する!』ので、

       故に、

         『如意足』というのである。

       『足』とは、

         『如意(意のまま!)』の、

         『因縁』をいう!のであり、

       亦た、

         『如意』の、

         『分』をいうのでもある。

 

  欲定(よくじょう):四如意足の一。欲如意足等とも称す。欲の力に由りて引発せられて、種種の神用を現起する定を云う。『大智度論巻18()注:四神足』参照。

  精進定(しょうじんじょう):四如意足の一。精進如意足等とも称す。精進の力に由りて引発せられて、種種の神用を現起する定を云う。『大智度論巻18()注:四神足』参照。

  心定(しんじょう):四如意足の一。念如意足等とも称す。心念の力に由りて引発せられて、種種の神用を現起する定を云う。『大智度論巻18()注:四神足』参照。

  思惟定(しゆいじょう):四如意足の一。思惟如意足等とも称す。思惟の力に由りて引発せられて、種種の神用を現起する定を云う。『大智度論巻18()注:四神足』参照。

  四定(しじょう):欲定、精進定、心定、思惟定の総称。四神足、四如意足等とも称す。『大智度論巻18()注:四神足』参照。

  参考:『長阿含巻5闍尼沙経』:『復次。諸天。如來善能分別說四神足。何等謂四。一者欲定滅行成就修習神足。二者精進定滅行成就修習神足。三者意定滅行成就修習神足。四者思惟定滅行成就修習神足。是為如來善能分別說四神足

  参考:『雑阿含(561)経巻21』:『如是我聞。一時。佛住俱睒彌國瞿師羅園。尊者阿難亦在彼住。時。有異婆羅門詣尊者阿難所。共相問訊慰勞已。於一面坐。問尊者阿難。何故於沙門瞿曇所修梵行。尊者阿難語婆羅門。為斷故。復問。尊者何所斷。答言。斷愛。復問。尊者阿難。何所依而得斷愛。答言。婆羅門。依於欲而斷愛。復問。尊者阿難。豈非無邊際。答言。婆羅門。非無邊際。如是有邊際。非無邊際。復問。尊者阿難。云何有邊際。非無邊際。答言。婆羅門。我今問汝。隨意答我。婆羅門。於意云何。汝先有欲來詣精舍不。婆羅門答言。如是。阿難。如是。婆羅門。來至精舍已。彼欲息不。答言。如是。尊者阿難。彼精進.方便.籌量。來詣精舍。復問。至精舍已。彼精進.方便.籌量息不。答言。如是。尊者阿難。復語婆羅門。如是。婆羅門。如來.應.等正覺所知所見。說四如意足。以一乘道淨眾生.滅苦惱.斷憂悲。何等為四。欲定斷行成就如意足。精進定.心定.思惟定斷行成就如意足。如是。聖弟子修欲定斷行成就如意足。依離.依無欲.依出要.依滅.向於捨。乃至斷愛。愛斷已。彼欲亦息。修精進定.心定.思惟定斷行成就。依離.依無欲.依出要.依滅.向於捨。乃至愛盡。愛盡已。思惟則息。婆羅門。於意云何。此非邊際耶。婆羅門言。尊者阿難。此是邊際。非不邊際。爾時。婆羅門聞尊者阿難所說。歡喜隨喜。從座起去

是十二法鈍根人中名為根。如樹有根未有力。若利根人中名為力。是事了了能疾有所辦。如利刀截物。故名有力。事未辦故名為道。事辦思惟修行故名為覺。三十七品論議如先說。

是の十二法を、鈍根人中には、名づけて根と為す。樹に、根有るも、未だ力有らざるが如し。若し、利根人中なれば、名づけて力と為す。是の事、了了なれば、能く疾かに、辨ずる所有らしめ、利刀の物を截るが如くなるが故に、力有りと名づく。事の、未だ辨ぜざるが故に、名づけて道と為す。事辨ずれば、修行を思惟するが故に、名づけて覚と為す。三十七品の論議は、先に説けるが如し。

   是の、

     『十二法(四念処、四正勤、四如意足)』を、

       『鈍根人』中に、

         『根』という!のは、――五根――

         譬えば、

           『樹』に、

             『根』は有る!が、

             未だ、

               『力』が、

               『無い!』からである。

       『利根人』中には、

         『力』というが、――五力――

         是の、

           『事(十二法)』が、

             『了了』としており、

             疾かに、

               『作す!』所が、

               『有る!』ので、

           譬えば、

             『利刀』で、

               『物』を、

               『截()る!』のと同じであり、

           故に、

             『力』が有る!というのである。

       『事』が、

       未だ、

         『具わらない!』が故に、

           『道』といい、――八聖道――

       『事』が具わり、

         『思惟』して、

         『修行』する!が故に、

           『覚』という!のであるが、――七覚支――

       『三十七品』の、

         『論議』は、

         先に説いた!とおりである。

 

  (べん):そなえる。ととのえる。具なり。事の順序に順いて挙げざる無きを謂うなり。「吶吶立辦」と言うが如し。あつかう。さばく。今、事を作すを通じて「辦事」という。「辦差」「試辦」の如し。

問曰。若菩薩修此三十七品。云何不取涅槃。

問うて曰く、若し、菩薩、此の三十七品を修すれば、云何が、涅槃を取らざる。

 問い、

   若し、

     『菩薩』が、

     此の、

       『三十七品』を、

       『修める!』ならば、

     何故、

       『涅槃』を、

       『取らない!』のですか?

答曰。本願牢故。大悲心深入故。了了知諸法實相故。十方諸佛護念故。如經說。菩薩到七住地。外觀諸法空。內觀無我。如人夢中縛筏渡河中流而覺作是念。我空自疲苦。無河無筏我何所渡。菩薩爾時亦如是心則悔厭。我何所度何所滅。且欲自滅倒心。

答えて曰く、本願の牢(かた)きが故、大悲心の深く入るが故、了了と諸法の実相を知るが故、十方の諸仏護念するが故なり。経に説くが如し、菩薩は、七住の地に到りて、外に諸法の空を観、内に無我を観るに、人の夢中に、筏を縛りて、河を渡り、中流にして、覚めて、是の念を作すが如し、『我れ空しく、自ら疲れ苦しむも、河無く、筏無し。我が何の渡る所ぞ。』と。菩薩は、爾の時、亦た是の如く、心は則ち悔厭す、『我が何の度する所、何の滅する所ぞ。』と、且(な)お、自ら倒心を滅せんと欲す。

 答え、

   本の、

     『願』が、

     『牢固』である!が故に、

   『大悲心』が、

     『衆生』に、

     『深く入る!』が故に、

   了了として、

   諸法の、

     『実相』を、

     『知る!』が故に、

   十方の、

   諸の、

     『仏』が、

     『護念』する!が故にである。

   『経』には、

     こう説いている、――

     『菩薩』が、

       『七住の地』に到る!と、

       『外』には、

         『諸法の空』を観、

       『内』には、

         『無我』を観る!

     譬えば、

     『人』が、

       『夢』中に、

         『筏(いかだ)』を縛って、

         『河』を渡ろう!としていた。

       『中流』に到って、

         『夢』より覚め、

         是の念を作した、――

         わたしは、

           『空しく!』も、

           自ら、

             『疲れ!』て、

             『苦しんだ!』が、

           『河』も、

           『筏』も、

             『無い!』。

         わたしの、

           『渡っていた!』のは、

           『何だった!』のだろう?と。

     『菩薩』も、

       爾の時、

       亦た同じように、

         『心』に、

           『悔い厭う!』て、――

         わたしの、

           『度す!』所とは、

           『何だった!』のだろう?

         わたしの、

           『滅する!』所とは、

           『何だった!』のだろう?と言うが、

       ふたたび、

       自ら、

         『倒心』を、

         『滅そう!』とするのである。

 

  (しゃ):なお。また。ふたたび。復。

  参考:『旧華厳経巻26』:『金剛藏菩薩言。佛子。菩薩摩訶薩。已習七地微妙行慧。方便道淨。善集助道法。具大願力。諸佛神力所護。自善根得力。常念隨順如來力。無畏。不共法。直心深心清淨。成就福コ智慧。大慈大悲不捨眾生。修行無量智道。入諸法本來無生。無起無相。無成無壞。無來無去。無初無中無後。入如來智。一切心意識。憶想分別。無所貪著。一切法如虛空性。是名菩薩得無生法忍入第八地。入不動地名為深行菩薩。一切世間所不能測。離一切相。離一切想。一切貪著。一切聲聞辟支佛所不能壞。深大遠離。而現在前。譬如比丘得於神通。心得自在。次第乃入滅盡定。一切動心。憶想分別。皆悉盡滅。菩薩亦如是。菩薩住是地。諸勤方便身口意行。皆悉息滅。住大遠離。如人夢中欲渡深水。發大精進。施大方便。未渡之間。忽然便覺。諸方便事。皆悉放捨。菩薩亦如是。從初已來。發大精進。廣修道行。至不動地。一切皆捨。不行二心。諸所憶想。不復現前。譬如生梵世者。欲界煩惱不現在前。菩薩亦如是。住不動地。一切心意識不現在前。乃至佛心。菩提心。涅槃心。尚不現前。何況當生諸世間心。佛子。是菩薩隨順是地。以本願力故。又諸佛為現其身。住在諸地法流水中。與如來智慧為作因緣。諸佛皆作是言。善哉善哉。善男子。汝得是第一忍。順一切佛法。善男子。我有十力。四無所畏。十八不共法。汝今未得為得。是故勤加精進。亦莫捨此忍門。善男子。汝雖得此第一甚深寂滅解脫。一切凡夫離寂滅法。常為煩惱覺觀所害。汝當愍此一切眾生。又善男子。汝應念本所願。欲利益眾生。欲得不可思議智慧門。

是時十方佛伸手摩頭。善哉佛子。莫生悔心念汝本願。汝雖知此眾生未悟。汝當以此空法教化眾生。汝所得者始是一門。諸佛無量身無量音聲無量法門。一切智慧等汝皆未得。汝觀諸法空故著是涅槃。諸法空中無有滅處無有著處。若實有滅汝先來已滅。汝未具足六波羅蜜乃至十八不供法。汝當具足此法坐於道場如諸佛法。

是の時、十方の仏、手を伸ばして頭を摩づ、『善い哉、仏子、悔心を生ずる莫れ、汝が本願を念ぜよ。汝は、此の衆生の未だ悟らざるを知ると雖も、汝、当に此の空法を以って、衆生を教化すべし。汝が得る所も、始は是の一門なり。諸仏の無量の身、無量の音声、無量の法門、一切の智慧等を、汝は、皆未だ得ず。汝は、諸法の空なるを観るが故に、是の涅槃に著す。諸法の空中には、滅処有ること無く、著処有ること無し。若し実に、滅有らば、汝は、先より来、已に滅せり。汝は、未だ六波羅蜜、乃至十八不共法を具足せず。汝は、当に此の法を具足して、道場に坐し、諸仏の法の如くなるべし。』と。

     是の時、

     十方の、

       『仏』は、

         『手』を伸べて、

         『頭』を摩でて、

         こう言う、――

         善いぞよ!

         仏子!

           『悔心』を生ずるな!

           お前の、

             『本』の、

             『願』を念ぜよ!

         お前は、

         此の、

           『衆生』が、

           未だに、

             『悟らない!』と、

             『知っている!』が、

         お前は、

         此の、

           『空法』を以って、

             『衆生』を、

             『教化』せねばならない!

         お前の、

           『得た!』所も、

           『始まり!』は、

           是の、

             『一門』からであった。

         諸の、

           『仏』の、

           無量の、『身』、

           無量の、『音声』、

           無量の、『法門』、

           一切の、『智慧』等を、

         お前は、

           皆、

           未だに、

             『得ていない!』のに、

         お前は、

           諸の、

             『法』が、

               『空』である!と、

               『観た!』が故に、

             是の、

               『涅槃(法空)』に、

               『著した!』のだ。

         諸の、

           『法』の、

           『空』中に、

             『滅する!』処が、

               『有る!』ことは、

               『無く!』、

             『著する!』処が、

               『有る!』ことも、

               『無い!』。

         若し、

           『実』に、

             『滅する!』ことが、

             『有った!』ならば、

           お前は、

           先より、

             『已に!』、

             『滅している!』はずなのだ。

         お前は、

         未だ、

           『六波羅蜜』、

           乃至、

           『十八不共法』を、

             『具足』していない!。

         お前は、

         当然、

         此の、

           『法』を具足して、

             『道場』に、

             『坐す!』べきなのだ。

           諸の、

             『仏』の、

             『法(威儀)』と同じように、と。

復次三三昧十一智三無漏根覺觀三昧十念四禪四無量心四無色定八背捨九次第定如先說。

復た次ぎに、三三昧、十一智、三無漏根、覚観三昧、十念、四禅、四無量心、四無色定、八背捨、九次第定は、先に説けるが如し。

 復た次ぎに、

   『三三昧』、

   『十一智』、

   『三無漏根』、

   『覚、観三昧』、

   『十念』、

   『四禅』、

   『四無量心』、

   『四無色定』、

   『八背捨』、

   『九次第定』は、

   先に、

     『説いた!』とおりである。

復次佛十力四無所畏四無礙智十八不共法如初品中說。是諸法後皆用無所得故。以般若波羅蜜畢竟空和合故。名除世間貪憂。以不可得故

復た次ぎに、仏の十力、四無所畏、四無礙智、十八不共法は、初品中に説けるが如し。是の諸法は、後に、皆、無所得を用うるが故に、般若波羅蜜を以って、畢竟空と和合するが故に、世間の貪、憂を除くと名づく。得べからざるを以っての故なり。

 復た次ぎに、

   『仏』の、

     『十力』、

     『四無所畏』、

     『四無礙智』、

     『十八不共法』は、

   『初品』中に、

     『説いた!』とおりであるが、

   是の、

   諸の、

     『法』は、

     後には、

     皆、

       『得る!』所が、

         『無い!』ことを、

         『用いる!』が故に、

       『般若波羅蜜』の、

         『畢竟空』を以って、

         『和合する!』が故に、

       『世間』の、

         『貪、憂』を、

         『除く!』のであるが、

       何故ならば、

         『得られない!』からである。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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