巻第四十七(下)
大智度論釋摩訶衍品第十八之餘
1.【論】百八三昧
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大智度論釋摩訶衍品第十八之餘(卷四十七)
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


【論】百八三昧

【論】釋曰。上以十八空釋般若波羅蜜。今以百八三昧釋禪波羅蜜。百八三昧佛自說其義是時人利根故皆得信解。今則不然。論者重釋其義令得易解 釈して曰く、上に、十八空を以って般若波羅蜜を釈し、今は百八三昧を以って禅波羅蜜を釈す。百八三昧は、仏自ら其の義を説きたまえるに、是の時の人、利根なるが故に、皆信解するを得るも、今は則ち然らざれば、論者、重ねて其の義を釈し、易解を得しむ。
釈す、
上に、
『十八空を用いて!』、
『般若波羅蜜』を、
『釈した!』ので、
今は、
『百八三昧を用いて!』、
『禅波羅蜜』を、
『釈すのである!』。
『仏』は、
自ら、
『百八三昧の義』を、
『説かれている!』が、
是の時、
『人』は、
『利根である!』が故に、
『皆、信解することができた!』が、
今は、
然うでないので、――
『論者』が、
『般若波羅蜜の義を重ねて釈し!』、
『解し易くするのである!』。
首楞嚴三昧者。秦言健相。分別知諸三昧行相多少深淺。如大將知諸兵力多少。 首楞厳三昧とは、秦に健相を言い、諸の三昧の行相の多少、深浅を分別して知る。大将の諸兵力の多少を知るが如し。
『首楞厳三昧』とは、
『首楞厳は、秦に健相( strength )と言い!』、
『諸の三昧』の、
『行相の多少や、深浅』を、
『分別して知り!』、
譬えば、
『大将』が、
『諸の兵力の多少』を、
『知るようなものである!』。
  首楞厳(しゅりょうごん):梵語 zuuraMgama の音訳、意訳して健相( strong, strength )と作す、英雄的武勇( heroic valor )の義、仏にのみ有する有らゆる障礙を打ち負かす德/力( the virtue or power which is possessed only by buddha, and is able to overcome every obstacle )意。三昧の名。『大智度論巻43下注:首楞厳三昧』参照。
復次菩薩得是三昧。諸煩惱魔及魔人無能壞者。譬如轉輪聖王主兵寶將所往至處無不降伏。 復た次ぎに、菩薩、是の三昧を得れば、諸煩悩の魔、及び魔人の能く壊る者無し。譬えば転輪聖王の主兵宝将の往至する所の処には、降伏せざる無きが如し。
復た次ぎに、
『菩薩』が、
是の、
『三昧を得れば!』、
『菩薩を壊ることのできる!』、
『諸煩悩の魔、魔人』は、
『無い!』。
譬えば、
『転輪聖王』の、
『主兵宝将が往至する処』には、
『降伏しない!』者が、
『無いようなものである!』。
寶印三昧者。能印諸三昧。於諸寶中法寶是實寶。今世後世乃至涅槃能為利益。如經中說。佛語比丘。為汝說法。所說法者。所謂法印。法印即是寶印。寶印即是三解脫門。 宝印三昧とは、能く諸三昧に印すればなり。諸宝中に於いて、法宝は是れ実の宝にして、今世、後世、乃至涅槃まで、能く為めに利益す。経中に説けるが如し、『仏の比丘に語りたまわく、汝が為めに法を説かん。所説の法とは、謂わゆる法印なり。法印は即ち是れ宝印なり。宝印は、即ち是れ三昧解脱門なり』、と。
『宝印三昧』とは、
『諸三昧』に、
『印することができるからである( be able to seal )!』。
『諸の宝』中に、
『法宝は、実の宝であり!』、
『今世、後世、乃至涅槃まで!』、
『利益することができる!』。
『経』に、こう説かれた通りである、――
『仏』は、
『諸比丘』に、こう語られた、――
お前達の為めに、
『法を説こう!』、
『説こうとする法』とは、
謂わゆる、
『法の印であり!』、
『法の印とは、宝の印であり!』、
『宝の印とは、三解脱門である!』。
  法印(ほういん):梵語 dharma- mudraa の訳、封印/封印を押す( a seal of the Buddha's teaching , to seal the Buddha's teaching and ensure )の義、仏法を外道の法と明了に区別して保証する( to ensure a Buddha's teaching clearly disteiguished from non-Buddhist teachings )の意。
  参考:『仏説法印経』:『爾時佛在舍衛國。與苾芻眾俱。是時佛告苾芻眾言。汝等當知。有聖法印。我今為汝分別演說。汝等應起清淨知見。諦聽諦受。如善作意。記念思惟。時諸苾芻。即白佛言。善哉世尊。願為宣說。我等樂聞。佛言。苾芻。空性無所有。無妄想。無所生。無所滅。離諸知見。何以故。空性無處所。無色相。非有想。本無所生。非知見所及。離諸有著。由離著故。攝一切法。住平等見。是真實見。苾芻當知。空性如是。諸法亦然。是名法印。復次諸苾芻。此法印者。即是三解脫門。是諸佛根本法。為諸佛眼。是即諸佛所歸趣故。是故汝等。諦聽諦受。記念思惟。如實觀察。復次苾芻。若有修行者。當往林間。或居樹下諸寂靜處。如實觀察。色是苦是空是無常。當生厭離。住平等見。如是觀察。受想行識。是苦是空是無常。當生厭離。住平等見。諸苾芻。諸蘊本空。由心所生。心法滅已。諸蘊無作。如是了知。即正解脫。正解脫已。離諸知見。是名空解脫門。復次住三摩地。觀諸色境。皆悉滅盡。離諸有想。如是聲香味觸法。亦皆滅盡離諸有想。如是觀察名為無想解脫門。入是解脫門已。即得知見清淨。由是清淨故。即貪瞋癡皆悉滅盡。彼滅盡已。住平等見。住是見者。即離我見及我所見。即了諸見。無所生起。無所依止。次離我見已。即無見無聞。無覺無知。何以故。由因緣故。而生諸識。即彼因緣。及所生識。皆悉無常。以無常故。識不可得識蘊既空。無所造作。是名無作解脫門。入是解脫門已。知法究竟。於法無著。證法寂滅。佛告諸苾芻。如是名為聖法印。即是三解脫門。汝諸苾芻。若修學者。即得知見清淨。時諸苾芻。聞是法已。皆大歡喜。頂禮信受』
復次有人言。三法印名為寶印三昧。一切法無我。一切作法無常。寂滅涅槃。是三法印一切人天無能如法壞者。入是三昧能三種觀諸法。是名寶印。 復た次ぎに、有る人の言わく、『三法印を名づけて、宝印三昧と為す。一切法無我、一切作法無常、寂滅涅槃なり。是の三法印は、一切の人天の能く如法に壊る者無し。是の三昧に入れば、能く三種に諸宝を観ずれば、是れを宝印と名づく』、と。
復た次ぎに、
有る人は、こう言っている、――
『三法印が、宝印三昧である!』、
謂わゆる、
『一切法は無我である( there is no self in every dharmas )!』、
『一切の作法は無常である( everything made is not eternal )!』、
『寂滅が涅槃である( the annihilation is the nirvana )!』。
是の、
『三法印を、如法に壊ることのできる!』者は、
『一切の人、天』中に、
『無い!』。
是の、
『三昧に入れば!』、
『諸法』を、
『三種に観ることができる!』ので、
是れを、
『宝印』と、
『称するのである!』、と。
復次般若波羅蜜是寶。是相應三昧名印。是名寶印。 復た次ぎに、般若波羅蜜は是れ宝にして、是れに相応する三昧を印と名づけ、是れを宝印と名づく。
復た次ぎに、
『般若波羅蜜が、宝であり!』、
是れに、
『相応する三昧』を、
『印と称し!』、
『宝印と称する!』。
師子遊戲三昧者。菩薩得是三昧。於一切三昧中出入遲速皆得自在。譬如眾獸戲時若見師子率皆怖懾。師子戲時自在無所畏難。 師子遊戯三昧とは、菩薩は是の三昧を得れば、一切の三昧中に於いて、出入、遅速を、皆自在なるを得。譬えば衆獣戯るる時、若し師子を見れば、率(にわ)かに皆怖懾し、師子の戯るる時は自在にして畏難する所無きが如し。
『師子遊戯三昧』とは、
『菩薩』が、
是の、
『三昧を得れば!』、
『一切の三昧』中に、
『出入も、遅速も!』、
『皆、自在である!』。
譬えば、
『衆獣が戯れている!』時、
『師子を見れば!』、
『率かに、皆怖懾する( every one should be swiftly affraid )!』が、
『師子が戯れる!』時には、
『師子は自在であり!』、
『畏難する所が無い( be not afraid of anything )ようなものである!』。
  (りつ、そつ):<名詞>法令( law )、規格/標準( specifications, standard )、比率/比例( rate, proportion, ratio )。<動詞>計算( calculate )。率(すい、そつ):<名詞>模範( model, example )、領導者/首領( leader )、部隊( army )。<動詞>集中/収斂( converge, collect )、将いる/領導する( lead, command )、勧誘する/引導する( try to persuade, guide )、遵守する( follow )、順従/服従する( be obedient to, submit to )。<形容詞>急ぎの/軽率な( rush, cursory )、急速な( swift )、率直な( straightforward, frank )、粗い( rough )。<副詞>皆( all )、大概( about )、一般に( generally )。<介詞>自/由/從/より( from )。
  怖懾(ふしょう):怖れる/怯える( afraid, fearful )。
  畏難(いなん):難を怖れる( be afraid of difficulty )。
復次師子戲時於諸群獸強者則殺伏者則放。菩薩亦如是。得是三昧於諸外道強者破之信者度之。 復た次ぎに、師子の戯るる時、諸群獣に於いて、強き者は、則ち殺し、伏す者は則ち放つ。菩薩も亦た是の如く、是の三昧を得れば、諸外道の強き者は是れを破り、信ずる者は、之を度すなり。
復た次ぎに、
『師子が戯れる!』時、
『諸の群獣』中の、
『強い者は、殺し!』、
『伏す者は、放つように!』、
『菩薩』も、
是のように、
是の、
『三昧を得る!』と、
『諸の外道』中の、
『強い者は、破り!』、
『信じる者は、度するのである!』。
復次師子遊戲者。如初品中說。菩薩入是三昧中。地為六反震動。令一切十方世界地獄湯冷盲者得視聾者得聽等。 復た次ぎに、師子遊戯とは、初品中に説けるが如く、菩薩は、是の三昧中に入れば、地は為めに六反震動し、一切の十方の世界の地獄の湯をして冷ましめ、盲者をして視るを得しめ、聾者をして聴くを得しむ等なり。
復た次ぎに、
『師子遊戯』とは、
初品中に説いたように、――
『菩薩』が、
是の、
『三昧に入る!』と、
『地』が、
『六反震動して!』、
『一切の十方の世界』を、こうするのである、――
『地獄の湯を冷まし!』、
『盲者には視えるようにし!』、
『聾者には聴こえるようにする!』等。
妙月三昧者。如月滿清淨無諸翳障能除夜闇。此三昧亦如是。菩薩入是三昧。能除諸法邪見無明闇蔽等。 妙月三昧とは、月満ちて清浄なれば、諸の翳障無く、能く夜闇を除くが如く、此の三昧も亦た是の如く、菩薩是の三昧に入れば、能く諸法の邪見、無明の闇蔽等を除く。
『妙月三昧』とは、
譬えば、
『月が満ちて、清浄ならば!』、
『諸の翳障を無くして!』、
『夜闇』を、
『除くことができる!』が、
此の、
『三昧』も、
『是の通りであり!』、
『菩薩』が、
是の、
『三昧に入れば!』、
『諸法の邪見や、無明の闇蔽』等を、
『除くことができる!』。
月幢相三昧者。如大軍將幢以寶作月像。見此幢相人皆隨從。菩薩入是三昧中。諸法通達無礙皆悉隨從。 月幢相三昧とは、大軍の将の幢は、宝を以って月像を作し、此の幢相を見る人皆随従するが如く、菩薩は是の三昧中に入れば、諸法に通達して無礙なれば、皆悉く随従す。
『月幢相三昧』とは、
譬えば、
『大軍の将の幢』が、
『宝を用いて!』、
『月像を作す!』と、
此の、
『幢相を見る人』が、
『皆、随従するように!』、
『菩薩』が、
是の、
『三昧中に入れば!』、
『諸法に通達して、無礙となり!』、
『皆が悉く、随従するのである!』。
出諸法三昧者。菩薩得是三昧。令諸三昧增長。譬如時雨林木茂盛。 出諸法三昧とは、菩薩は是の三昧を得れば、諸三昧をして増長せしむること、譬えば時雨の林木を茂盛するが如し。
『出諸法三昧』とは、
『菩薩』が、
是の、
『三昧を得れば!』、
『諸三昧』を、
『増長させる!』ので、
譬えば、
『時雨』が、
『林木』を、
『茂盛させるようなものである!』。
觀頂三昧者。入是三昧中能遍見諸三昧。如住山頂悉見眾物。 観頂三昧とは、是の三昧中に入れば、能く遍く諸三昧を見ること、山頂に住して、悉く衆物を見るが如し。
『観頂三昧』とは、
是の、
『三昧中に入れば!』、
『諸三昧』を、
『遍く、見ることになり!』、
譬えば、
『山頂に住すれば!』、
『衆物』を、
『悉く、見ることになるようなものである!』。
畢法性三昧者。法性無量無二難可執持。入是三昧必能得定相。譬如虛空無能住者。得神足力則能處之。 畢法性三昧とは、法性は無量、無二にして執持すべきこと難きも、是の三昧に入れば、必ず能く定相を得ること、譬えば虚空には、能く住する者無けれども、神足力を得れば、則ち能く之に処するが如し。
『畢法性三昧』とは、
『法性は、無量無二であり!』、
『執持すること!』が、
『難しい!』が、
是の、
『三昧に入れば!』、
『定相』を、
『必ず、得ることができる!』ので、
譬えば、
『虚空』には、
『住することのできる!』者が、
『無い!』が、
『神足力を得れば!』、
『之に!』、
『処することができるようなものである!』。
畢幢相三昧者。入是三昧則於諸三昧最為尊長。譬如軍將得幢表其大相。 畢幢相三昧とは、是の三昧に入れば、則ち諸三昧に於いて、最も尊長せらる。譬えば軍の将の幢を得れば、其の大相を表すが如し。
『畢幢相三昧』とは、
是の、
『三昧に入れば!』、
『諸の三昧より!』、
『最も尊長される!』。
譬えば、
『軍の将が、幢を得れば!』、
『将の大相』を、
『表すようなものである!』。
金剛三昧者。譬如金剛無物不陷。此三昧亦如是。於諸法無不通達。令諸三昧各得其用。如車磲瑪瑙琉璃唯金剛能穿。 金剛三昧とは、譬えば金剛には物の陷(やぶ)れざる無きが如く、是の三昧も亦た是の如く、諸法に於いて通達せざる無く、諸三昧をして、各に其の用を得しむること、車磲、馬瑙、琉璃を唯だ金剛のみ能く穿つが如し。
『金剛三昧』とは、
譬えば、
『金剛には!』、
『陷れない物が無い( by Vajra, there is nothing not broken )ように!』、
此の、
『三昧も、是のように!』、
『通達しない諸法が無く!』、
『諸の三昧』に、
『各、用を得させる( let have its effort )!』ので、
譬えば、
『車磲、馬瑙、琉璃』を、
『唯だ、金剛だけが!』、
『穿つことができるようなものである!』。
入法印三昧者。如人入安隱國有印得入無印不得入。菩薩得是三昧。能入諸法實相中。所謂諸法畢竟空。 入法印三昧とは、人の安隠国に入るに、印有れば入るを得、印無ければ入るを得ざるが如く、菩薩は、是の三昧を得れば、能く諸法の実相中に入る、謂わゆる諸法の畢竟空なり。
『入法印三昧』とは、
譬えば、
『人が、安隠国に入る( one will immigrate to a safe country )!』時、
『印が有れば、入ることができ!』、
『印が無ければ、入ることができないように!』、
『菩薩』が、
是の、
『三昧を得れば!』、
『諸法の実相、謂わゆる諸法の畢竟空』中に、
『入ることができる!』。
三昧王安立三昧者。譬如大王安住正殿召諸群臣皆悉從命。菩薩入三昧王。放大光明請召十方無不悉集。又遣化佛遍至十方。安立者。譬如國王安處正殿身心坦然無所畏懼。 三昧王安立三昧とは、譬えば大王の正殿に安住して、諸の群臣を召せば、皆悉く命に従うが如く、菩薩は、三昧王に入りて、大光明を放ち、十方を請い召せば、悉く集らざる無く、又化仏を遣して、遍く十方に至らしむ。安立とは、譬えば、国王の正殿に安処すれば、身心坦然として、畏懼する所無きが如し。
『三昧王安立三昧』とは、
譬えば、
『大王が、正殿に安住して!』、
『諸の群臣を召せば!』、
『皆悉く、命に従うように!』、
『菩薩が、三昧王に入って!』、
『大光明を放ちながら!』、
『十方』を、
『請い召す!』か、
又は、
『化仏を遣して!』、
『十方』に、
『遍く至らせれば!』、
悉く、
『集らない!』者が、
『無いのである!』。
『安立』とは、
譬えば、
『国王が、正殿に安処すれば!』、
『身心が、坦然として( the body and the mind are calm )!』、
『畏懼する!』所が、
『無いようなものである!』。
  坦然(たんねん):心が安静/平静であること( calm, unperturbed )。
  畏懼(いく):怖れる/畏れる( to fear, dread )。
放光三昧者。常修火一切入故生神通力。隨意放種種色光。隨眾生所樂。若熱若冷若不熱不冷。照諸三昧者。光明有二種。一者色光。二者智慧光。住是三昧中照諸三昧。無有邪見無明等。 放光三昧とは、常に火一切入を修するが故に、神通力を生じて、隨意に種種の色光を放ち、衆生の楽しむ所に随いて、若しは熱、若しは冷、若しは不熱、不冷なり。諸の三昧を照らすとは、光明には二種有り、一には色光、二には智慧光なり。是の三昧中に住して、諸三昧を照らせば、邪見、無明等有ること無きなり。
『放光三昧』とは、
『常に、火一切入を修める!』が故に、
『神通力を生じて!』、
『種種の色光』を、
『隨意に放ち!』、
『熱い光でも、冷たい光でも、熱くも冷たくもない光でも!』、
『衆生の楽しむ所に随って!』、
『放つからである!』。
『諸の三昧を照らす!』とは、
『光明には、二種有って!』、
一には、
『色』の、
『光であり!』、
二には、
『智慧』の、
『光である!』が、
是の、
『三昧中に住して、諸の三昧を照らせば!』、
『邪見や、無明等が!』、
『無くなるからである!』。
力進三昧者。先於諸法中得信等五種力。然後於諸三昧中得自在力。又雖住三昧而常能神通變化度諸眾生。 力進三昧とは、先に諸法中に信等の五種の力を得て、然る後に諸三昧中に於いて自在の力を得れば、又三昧に住すと雖も、常に能く神通変化して、諸の衆生を度すればなり。
『力進三昧』とは、
先に、
『諸法』中に、
『信等の五種の力(信力、精進力、念力、定力、慧力)』を、
『得て!』、
その後、
『諸三昧』中に、
『自在力』を、
『得る!』ので、
又、
『三昧に住しながら!』、
『常に、神通変化して!』、
『諸の衆生を度することができるのである!』。
高出三昧者。菩薩入是三昧。所有福德智慧皆悉增長。諸三昧性從心而出。 高出三昧とは、菩薩は、是の三昧に入れば、有らゆる福徳の智慧が、皆悉く増長す。諸の三昧の性は、心より出づればなり。
『高出三昧』とは、
『菩薩』が、
是の、
『三昧に入れば!』、
有らゆる、
『福徳の智慧』が、
『皆悉く、増長する!』。
何故ならば、
『諸の三昧の性』は、
『心より出るからである!』。
必入辯才三昧者。四無礙中辭辯相應三昧。菩薩得是三昧。悉知眾生語言次第。及經書名字等悉能分別無礙。 必入辯才三昧とは、四無礙中の辞、辯相応の三昧なり。菩薩は是の三昧を得れば、悉く衆生の語言を知りて、次第に経書の名字等に及び、悉く能く分別して無礙なり。
『必入辯才三昧』とは、
『四無礙(法、義、辞、辯無礙)』中の、
『辞、辯に相応する!』、
『三昧である!』が、
『菩薩』が、
是の、
『三昧を得れば!』、
悉く、
『衆生の語言』を、
『知り!』、
次第に、
『経書中の名字』等に、
『及び!』、
悉く、
『分別することができ!』、
『無礙だからである!』。
釋名字三昧者。諸法雖空以名字辯諸法義令人得解。 釈名字三昧とは、諸法は空なりと雖も、名字を以って、諸法の義を辯じ、人をして解を得しむればなり。
『釈名字三昧』とは、
『諸法は、空でありながら!』、
『名字を用いて!』、
『諸法の義』を、
『辯じ!』、
『人』に、
『義』を、
『理解させるからである!』。
觀方三昧者。於十方眾生以慈悲憐愍平等心觀。 観方三昧とは、十方の衆生に於いて、慈悲、憐愍、平等の心を以って観ればなり。
『観方三昧』とは、
『十方の衆生』を、
『慈悲、憐愍、平等の心を用いて!』、
『観るからである!』。
復次方者。修道理名為得方。是三昧力故。於諸三昧得其道理。出入自在無礙。 復た次ぎに、方とは、道理を修するを名づけて、方を得と為し、是の三昧の力の故に、諸三昧に於いて、其の道理を得れば、出入自在にして、無礙なればなり。
復た次ぎに、
『道理を修めること!』を、
『方を得る!』と、
『称し!』、
是の、
『三昧の力』の故に、
『諸の三昧の道理を得る!』ので、
『出入が自在となり!』、
『無礙となるからである!』。
陀羅尼印三昧者。得是三昧者。能得分別諸三昧皆有陀羅尼。 陀羅尼印三昧とは、是の三昧を得れば、能く諸三昧を分別するを得て、皆陀羅尼有らしむればなり。
『陀羅尼印三昧』とは、
是の、
『三昧を得れば!』、
『諸の三昧には、皆陀羅尼が有る!』と、
『分別することができるからである!』。
無誑三昧者。有三昧生愛恚無明邪見等。是三昧於諸三昧都無迷悶之事。 無誑三昧とは、有る三昧は愛、恚、無明、邪見等を生ずるも、是の三昧は、諸の三昧に於いて、都迷悶の事無からしむればなり。
『無誑三昧』とは、
有る、
『三昧』は、
『愛、恚、無明、邪見』等を、
『生じさせる!』が、
是の、
『三昧』は、
『諸の三昧』に、
『迷悶の事を、都無くさせるからである!』。
攝諸法海三昧者。如一切眾流皆歸於海。三乘法皆入是三昧中亦如是。又諸餘三昧皆入是三昧中。如四禪四無色中攝諸解脫九次第等皆入其中。 摂諸法海三昧とは、一切の衆流は皆海に帰するが如く、三乗の法は皆、是の三昧中に入れば、亦た是の如く、又諸余の三昧は皆、是の三昧中に入ること、四禅、四無色中に諸解脱、九次第等を摂して、皆其の中に入るが如し。
『摂諸法海三昧』とは、
譬えば、
『一切の衆流』が、
『皆、海に帰するように!』、
『三乗の法が、皆!』、
是の、
『三昧中に入る!』のも、
『是の通りなのであり!』、
又、
是の、
『三昧』中には、
『諸余の三昧も、皆入る!』ので、
譬えば、
『四禅、四無色中に諸解脱、九次第定等を摂して!』、
『皆、其の中に入るようなものである!』。
遍覆虛空三昧者。是虛空無量無邊。是三昧力悉能遍覆虛空。或結加趺坐。或放光明。或以音聲充滿其中。 遍覆虚空三昧とは、是の虚空は無量、無辺なるも、是の三昧の力は悉く能く遍く、虚空を覆い、或は結跏趺坐し、或は光明を放ち、或は音声を以って、其の中を充満するなり。
『遍覆虚空三昧』とは、
是の、
『虚空』は、
『無量、無辺である!』が、
是の、
『三昧の力』は、
悉く、
『虚空』を、
『遍く、覆うことができる!』ので、
或は、
『結加趺坐したり!』、
『光明を放ったり!』、
或は、
『音声を用いて!』、
『虚空中を充満するからである!』。
金剛輪三昧者。如真金剛輪所往無礙。得是三昧者。於諸法中所至無礙。 金剛輪三昧とは、真の金剛輪の往く所の無礙なるが如く、是の三昧を得れば、諸法中に於いて、至る所無礙なり。
『金剛輪三昧』とは、
譬えば、
『真の金剛輪』は、
『往く!』所が、
『無礙であるように!』、
是の、
『三昧を得れば!』、
『諸法』中に於いて、
『至る所が無礙なのである!』。
復次能分別諸三昧分界故名輪。轉分界也。 復た次ぎに、能く諸三昧の分界を分別するが故に輪と名づけ、分界を転ずるなり。
復た次ぎに、
『諸の三昧』の、
『分界を分別することができる!』が故に、
『輪と称し!』、
『分界を転じるからである( to move the part of samadhi onward )!』、
  分界(ぶんかい)、(かい):梵語 dhaatu の訳、又界、法界等に作る、構成要素( constituent part, ingredient )の義。
  (てん):梵語 pravRtti, pravartana の訳、前方へ動かす( moving onward )の義。
斷寶三昧者。如有寶能淨治諸寶。是三昧亦如是。能除諸三昧煩惱垢。五欲垢易遣。諸三昧垢難卻。 断宝三昧とは、有る宝は能く諸宝を浄治するが如く、是の三昧も亦た是の如く、能く諸三昧の煩悩の垢を除く。五欲の垢は遣り易く、諸の三昧の垢は却け難し。
『断宝三昧』とは、
譬えば、
有る、
『宝』が、
『諸宝を浄治するように!』、
是の、
『三昧』も、
是のように、
『諸三昧の煩悩の垢』を、
『除くことができる!』。
『五欲という!』、
『垢を遣る( to exile the filth )こと!』は、
『易しい!』が、
『諸の三昧という!』、
『垢を却ける( to abandon the filth )こと!』は、
『難しい!』。
  浄治(じょうじ):梵語 parizodhana, parizodhaka の訳、浄める/清浄にする( purification, cleaning )の義。
能照三昧者。得是三昧能以十種智慧照了諸法。譬如日出照閻浮提事皆顯了。 能照三昧とは、是の三昧を得れば、能く十種の智慧を以って諸法を照了す。譬えば日出でて、閻浮提を照らせば、事皆顕了するが如し。
『能照三昧』とは、
是の、
『三昧を得れば!』、
『十種の智慧を用いて!』、
『諸法を照了する!』ので、
譬えば、
『日が出て、閻浮提を照らせば!』、
『事』が、
『皆、顕了する( every thing should clearly appear )ようなものである!』。
不求三昧者。觀諸法如幻化。三界愛斷故都無所求。 不求三昧とは、諸法の幻化の如きを観て、三界の愛断ずるが故に都て求むる所無ければなり。
『不求三昧』とは、
『諸法は幻化のようだ、と観れば!』、
『三界の愛』が、
『断じられる!』が故に、
都て、
『求める!』所が、
『無くなるからである!』。
無住三昧者。是三昧名無住三昧。住是三昧中觀諸法。念念無常無有住時。 無住三昧とは、是の三昧を無住三昧と名づくるは、是の三昧中に住して、諸法を観れば、念念無常にして、住時有ること無ければなり。
『無住三昧』とは、
是の、
『三昧』を、
『無住三昧と称する!』のは、
是の、
『三昧中に住して、諸法を観れば!』、
『諸法は、念念無常であり
all dharmas are impermanent in every moment )!』、
『住時が無い( there is not any moment when they stay )からである!』。
無心三昧者。即是滅盡定或無想定。何以故。佛自說因緣。入是三昧中諸心心數法不行。 無心三昧とは、即ち是れ滅尽定、或は無想定なり。何を以っての故に、仏は自ら因縁を説きたまわく、『是の三昧中に入れば、諸の心心数法は行ぜず』、と。
『無心三昧』とは、
即ち、
『滅尽定とか!』、
『無想定である!』。
何故ならば、
『仏』は、自ら因縁を説かれている、――
是の、
『三昧中に入れば!』、
『諸の心心数法』は、
『行じない( does not do )!』。
淨燈三昧者。燈名智慧燈。諸煩惱名垢。離是垢慧則清淨。 浄灯三昧とは、灯を智慧の灯と名づけ、諸の煩悩を垢と名づけ、是の垢を離るれば、慧は則ち清浄なればなり。
『浄灯三昧』とは、
『灯とは智慧の灯であり、諸の煩悩は垢である!』が、
是の、
『垢を離れれば!』、
『慧』は、
『清浄だからである!』。
無邊明三昧者。無邊名無量無數。明有二種。一者度眾生故身放光明。二者分別諸法總相別相故智慧光明。得是三昧。能照十方無邊世界及無邊諸法。 無辺明三昧とは、無辺を無量無数と名づけ、明には二種有りて、一には衆生を度せんが故に身より放つ光明、二には諸法の総相、別相を分別せんが故の智慧の光明にして、是の三昧を得れば、能く十方無辺の世界、及び無辺の諸法を照らせばなり。
『無辺明三昧』とは、
『無辺とは無量、無数であり!』
『明には、二種有って!』、
一には、
『衆生を度す為め!』の故に、
『身より放つ!』、
『光明であり!』、
二には、
『諸法の総相、別相を分別する為め!』の故の、
『智慧』の、
『光明である!』が、
是の、
『三昧を得れば!』、
『十方』の、
『無辺の世界と、無辺の諸法』を、
『照らすことができるのである!』。
能作明三昧者。於諸法能為作明。如闇中然炬。 能作明三昧とは、諸法に於いて為めに能く明と作ること、闇中に炬を然すが如ければなり。
『能作明三昧』とは、
『諸法を照らす為め!』に、
『明』と、
『作るからであり!』、
譬えば、
『闇』中に、
『炬を然すようなものである!』。
普照明三昧者。如轉輪聖王寶珠於軍眾外四邊各照一由旬。菩薩得是三昧。普照諸法種種門。 普照明三昧とは、転輪聖王の宝珠は、軍衆の外を四辺に各一由旬照らすが如く、菩薩、是の三昧を得れば、普く諸法の種種の門を照らす。
『普照明三昧』とは、
譬えば、
『転輪聖王の宝珠』が、
『軍衆の外を、四辺に!』、
『各、一由旬照らすように!』、
『菩薩』が、
是の、
『三昧を得れば!』、
『諸法の種種の門』を、
『普く、照らすのである!』。
堅淨諸三昧三昧者。菩薩得是三昧力故。令諸三昧清淨堅牢。 堅浄諸三昧三昧とは、菩薩は、是の三昧の力を得るが故に、諸三昧をして、清浄堅牢ならしむ。
『堅浄諸三昧三昧』とは、
『菩薩』は、
是の、
『三昧の力を得る!』が故に、
『諸三昧』を、
『清浄、堅牢にするからである!』。
無垢明三昧者。三解脫門相應三昧。得是三昧。離一切三昧垢。離一切無明愛等。亦能照一切諸三昧。 無垢明三昧とは、三解脱門相応の三昧にして、是の三昧を得れば、一切の三昧の垢を離れ、一切の無明、愛等を離れ、亦た能く一切の諸三昧を照らす。
『無垢明三昧』とは、
『三解脱門に相応する三昧であり!』、
是の、
『三昧を得れば!』、
『一切の三昧の垢を離れ!』、
『一切の無明、愛等を離れて!』、
亦た、
『一切の諸三昧』を、
『照らすことができる!』。
歡喜三昧者。得是三昧於諸法生歡喜樂。何者是。有人言。初禪是如佛說有四修定。一者修是三昧得現在歡喜樂。二者修定得知見。見眾生生死。三者修定得智慧分別。四者修定得漏盡。 歓喜三昧とは、是の三昧を得れば、諸法に於いて、歓喜の楽を生ずればなり。何者か是れなる、有る人の言わく、『初禅是れなり。仏の説きたまえるが如く、四修の定有り、一には是の三昧を修めて、現在の歓喜の楽を得、二には定を修め、知見を得て、衆生の生死を見、三昧には定を修め、智慧を得て分別し、四には定を修めて、漏尽を得、と』、と。
『歓喜三昧』とは、
是の、
『三昧を得れば!』、
『諸法に於いて!』、
『歓喜の楽』を、
『生じるからである!』。
有る人は、こう言っている、――
是の、
『歓喜の楽』とは、
『初禅であり!』、
『仏』が、説かれた通りである、――
『四修定が有る!』、
一には、
是の、
『三昧を修めて得る!』、
『現在』の、
『歓喜の楽である!』。
二には、
『定を修め!』、
『知見を得て!』、
『衆生の生死』を、
『見ることである!』。
三には、
『定を修め!』、
『智慧を得て!』、
『諸法』を、
『分別することである!』。
四には、
『定を修めて!』、
『漏尽』を、
『得ることである!』、と。
  参考:『阿毘達磨集異門足論巻7』:『四修定者。一有修定若習若修若多所作。為能獲得現法樂住。二有修定若習若修若多所作。為能獲得最勝知見。三有修定若習若修若多所作。為能獲得勝分別慧。四有修定若習若修若多所作。為能獲得諸漏永盡。云何修定若習若修若多所作為能獲得現法樂住。答於初靜慮所攝離生喜樂。俱行心一境性。若習若修堅作常作精勤修習。是名修定若習若修若多所作為能獲得現法樂住。云何修定若習若修若多所作為能獲得最勝知見。答於光明想俱行心一境性。若習若修堅作常作精勤修習。是名修定若習若修若多所作為能獲得最勝知見。云何修定若習若修若多所作為能獲得勝分別慧。答於受想尋觀俱行心一境性。若習若修堅作常作精勤修習。是名修定若習若修若多所作為能獲得勝分別慧。云何修定若習若修若多所作為能獲得諸漏永盡。答於第四靜慮所攝。清淨捨念俱行。阿羅漢果無間道。攝心一境性。若習若修堅作常作精勤修習。是名修定若習若修若多所作為能獲得諸漏永盡。』
復次得是三昧。生無量無邊法歡喜樂。 復た次ぎに、是の三昧を得れば、無量、無辺の法の歓喜の楽を生ずればなり。
復た次ぎに、
是の、
『三昧を得れば!』、
『無量、無辺の法に於いて!』、
『歓喜の楽』を、
『生じるからである!』。
電光三昧者。如電暫現行者得路。得是三昧者無始世界來失道還得。 電光三昧とは、電暫く現れるに、行者の道を得るが如く、是の三昧を得れば、無始の世界より来、失える道を還た得ればなり。
『電光三昧』とは、
譬えば、
『電光が、暫く現れれば!』、
『行者』が、
『道を得られるように!』、
是の、
『三昧を得れば!』、
『無始の世界より失っていた!』、
『道』を、
『還た、得られるからである!』。
無盡三昧者。得是三昧滅諸法無常等相。即入不生不滅。 無尽三昧とは、是の三昧を得れば、諸法の無常等の相を滅して、即ち不生、不滅に入ればなり。
『無尽三昧』とは、
是の、
『三昧を得れば!』、
『諸法に於いて!』、
『無常等の相』を、
『滅して!』、
即ち、
『不生、不滅』に、
『入るからである!』。
威德三昧者。菩薩得是三昧威德莊嚴。 威徳三昧とは、菩薩是の三昧を得れば、威徳荘厳すればなり。
『威徳三昧』とは、
『菩薩』が、
是の、
『三昧を得れば!』、
『威徳』が、
『身を荘厳するからである!』。
離盡三昧者。菩薩得是三昧。無量阿僧祇劫善本功德必得果報不失故。 離尽三昧とは、菩薩是の三昧を得れば、無量阿僧祇劫の善本の功徳を必ず得、果報の失わざるが故なり。
『離尽三昧』とは、
『菩薩』が、
是の、
『三昧を得れば!』、
『無量阿僧祇劫の善本の果報である!』、
『功徳』を、
『必ず、得られるからである!』。
何故ならば、
『果報』は、
『失われないからである!』。
不動三昧者。有人言。第四禪是不動。欲界中五欲故動。初禪中覺觀故動。二禪中喜多故動。三禪中樂多故動。四禪離出入息無諸動相故不動。有人言。四無色定是不動。離諸色故。有人言。滅盡定是不動。離心心數法故。有人言。知諸法實相畢竟空智慧相應三昧故不動。得是三昧已。於一切三昧一切法都不戲論。 不動三昧とは、有る人の言わく、『第四禅は、是れ不動なり。欲界中には五欲の故に動じ、初禅中には覚観の故に動じ、二禅中には喜多きが故に動じ、三禅中には楽多きが故に動じ、四禅は出入息を離れて、諸の動相無きが故に動ぜず』、と。有る人の言わく、『四無色定は是れ不動なり。諸色を離るるが故なり』、と。有る人の言わく、『滅尽定は、是れ不動なり。心心数法を離るるが故なり』、と。有る人の言わく、『諸法の実相を知る畢竟空の智慧相応の三昧の故に動ぜず。是の三昧を得已れば、一切の三昧、一切の法に於いて、都戯論せず』、と。
『不動三昧』とは、
有る人は、こう言っている、――
『第四禅が、不動である!』。
何故ならば、
『欲界』中には、
『五欲』の故に、
『動じ( being disturbed )!』、
『初禅』中には、
『覚観』の故に、
『動じ!』、
『二禅』中には、
『喜が多い!』が故に、
『動じ!』、
『三禅』中には、
『楽が多い!』が故に、
『動じる!』が、
『四禅は、出入息を離れ!』、
『諸の動相が無い!』が故に、
『不動である!』、と。
有る人は、こう言っている、――
『四無色定が、不動である!』。
何故ならば、
『諸の色』を、
『離れるからである!』、と。
有る人は、こう言っている、――
『滅尽定が、不動である!』。
何故ならば、
『心心数法』を、
『離れるからである!』。
有る人は、こう言っている、――
『諸法の実相を知り!』、
『畢竟空の智慧に相応する!』、
『三昧を得る!』が故に、
『不動なのであり!』、
是の、
『三昧を得れば!』、
『一切の三昧や、一切の法に於いて!』、
『都て、戯論することはない!』、と。
  (どう):梵語 cala の訳、動く/振るえる/揺れる/緩い/堅固でない/顫動/腐敗しやすい/乱される/混乱する( moving, trembling, shaking, loose,unsteady, fluctuating, perishable, disturbed, confused )の義。
不退三昧者。住是三昧不見諸三昧退。論者言。菩薩住是三昧常不退轉。即是阿鞞跋致智慧相應三昧。不退者不墮頂。如不墮頂義中說。 不退三昧とは、是の三昧に住すれば、諸三昧の退を見ず。論者の言わく、『菩薩は、是の三昧に住すれば、常に退転せず。即ち是れ阿鞞跋致の智慧相応の三昧なり。不退とは、頂より堕ちざるなり。不墮頂の義中に説けるが如し。
『不退三昧』とは、
是の、
『三昧に住すれば!』、
『諸の三昧の退( the retreat from any samadhi )!』を、
『見ないからである!』。
論者は、こう言う、――
『菩薩』が、
是の、
『三昧に住すれば!』、
『諸の三昧より!』、
『常に、退転しない!』。
即ち、
是れは、
『阿鞞跋致の智慧に相応する!』、
『三昧である!』。
『不退』とは、
『頂より、堕ちないことであり!』、
譬えば、
『不墮頂の義』中に、
『説いた通りである!』。
日燈三昧者。得是三昧。能照一切諸法種種門及諸三昧。譬如日出能照一切閻浮提。 日灯三昧とは、是の三昧を得れば、能く一切の諸法の種種の門、及び諸の三昧を照らすこと、譬えば日出づれば、能く一切の閻浮提を照らすが如し。
『日灯三昧』とは、
是の、
『三昧を得れば!』、
『一切の諸法の種種の門や、諸の三昧』を、
『照らすことができるからであり!』、
譬えば、
『日が出れば!』、
『一切の閻浮提』を、
『照らすことができるようなものである!』。
月淨三昧者。如月從十六日漸減至三十日都盡。凡夫人亦如是。諸善功德漸漸減盡墮三惡道。如月從一日漸漸增長至十五日光明清淨。菩薩亦如是。得是三昧。從發心來世世漸增善根。乃至得無生法忍授記。智慧清淨利益眾生。又能破諸三昧中無明。 月浄三昧とは、月の十六日より、漸く減じて、三十日に至れば、都尽くるが如く、凡夫人も亦た是の如く、諸の善功徳の漸漸減じて尽くれば、三悪道に堕すも、月の一日より漸漸に増長して、十五日に至れば、光明清浄なるが如く、菩薩も亦た是の如く、是の三昧を得れば、発心より来、世世に善根を漸増し、乃至無生法忍の授記を得て、智慧清浄となりて、衆生を利益し、又能く諸三昧中の無明を破る。
『月浄三昧』とは、
譬えば、
『月が、十六日より漸減して!』、
『三十日に至れば!』、
『都、尽きるように!』、
『凡夫人』も、
是のように、
『諸の善本の功徳が、漸漸に減じて尽きれば!』、
『三悪道』に、
『堕ちることになる!』が、
譬えば、
『月が、一日より漸漸増長して!』、
『十五日に至れば!』、
『光明が清浄であるように!』、
『菩薩』も、
是のように、
是の、
『三昧を得れば!』、
発心より、
『世世に!』、
『善根を、漸漸に増長しながら!』、
乃至、
『無生法忍の授記』を、
『得るまで!』、
漸漸に、
『智慧が清浄となって!』、
『衆生を利益することになり!』、
又、
『諸三昧中の無明』をも、
『破ることができるのである!』。
淨明三昧者。明名慧垢為礙。得是三昧者於諸法無障礙。以是故佛於此說住是三昧中得四無礙智。 浄明三昧とは、明を慧と名づけ、垢を礙と為すに、是の三昧を得れば、諸法に於いて障礙無く、是を以っての故に仏は、此に於いて説きたまわく、『是の三昧中に住すれば、四無礙智を得』、と。
『浄明三昧』とは、
『明を慧、垢を礙とするのは!』、
是の、
『三昧を得れば!』、
『諸法に於いて!』、
『障礙が無くなるからであり!』、
是の故に、
此の中に、
『仏』は、こう説かれたのである、――
是の、
『三昧中に住すれば!』、
『四無礙智を得る!』、と。
問曰。佛何以獨於此中說四無礙智。 問うて曰く、仏は、何を以ってか、独り此の中に於いて、四無礙智を説きたまえる。
問い、
『仏』は、
何故、
『独り、此の中だけで( only in this section )!』、
『四無礙智』を、
『説かれたのですか?』。
答曰。於三昧中無覺觀心。所可樂說與定相違。是事為難。此三昧力故得四無礙智。四無礙智義如先說。 答えて曰く、三昧中に於いては覚観の心無ければ、楽説すべき所と定と相違すれば、是の事を難しと為すに、此の三昧の力の故に四無礙智を得ればなり。四無礙智の義は先に説けるが如し。
答え、
『三昧()』中には、
『覚観の心』が、
『無く!』、
『楽説すべき!』所の、
『心』は、
『定と相違する!』ので、
是の、
『事(楽説)』は、
『難しい!』が、
是の、
『三昧の力』の故に、
『四無礙智を得るからである!』。
『四無礙智の義』は、
『先に!』、
『説いた通りである!』。
能作明三昧者。明即是智慧。諸智慧中般若智慧最第一。是般若相應三昧。能作明 能作明三昧とは、明は即ち是れ智慧、諸の智慧中に般若の智慧は最も第一なり。是の般若相応の三昧は、能く明と作ればなり。
『能作明三昧』とは、
『明とは、即ち智慧であり!』、
『諸の智慧』中には、
『般若の智慧が最も第一である!』が、
是の、
『般若に相応する三昧』は、
『明と作ることができる!』。
作行三昧者。得是三昧力。能發起先所得諸三昧。 作行三昧とは、是の三昧の力を得れば、能く先の所得の諸三昧を発起すればなり。
『作行三昧』とは、
是の、
『三昧の力を得れば!』、
『先に得た諸三昧』を、
『発起することができる( be able to awaken )!』。
  発起(ほっき):梵語 aarambha の訳、始める/請け負う( undertaking, beginning )、[演劇関係]主要な筋書きの進展に対する関心を喚起する行動の始まり( (in dramatic language) the commencement of the action which awakens an interest in the progress of the principal plot )の義、喚起する( to awaken )の意。
知相三昧者。得是三昧見一切諸三昧中有實智慧相。 知相三昧とは、是の三昧を得れば、一切の諸三昧中に実智慧の相有るを見る。
『知相三昧』とは、
是の、
『三昧を得れば!』、
『一切の諸三昧中には、実の智慧の相が有る!』のを、
『見ることになる!』。
如金剛三昧者。得是三昧以智慧能通達一切諸法。亦不見通達。用無所得故。 如金剛三昧とは、是の三昧を得れば、智慧を以って能く一切の諸法に通達するも、亦た通達するを見ず。無所得を用うるが故なり。
『如金剛三昧』とは、
是の、
『三昧を得れば!』、
『智慧を用いて!』、
『一切の諸法』に、
『通達することができる!』が、
亦た、
『通達した!』と、
『見ることもない!』。
何故ならば、
『無所得』を、
『用いるからである!』。
問曰。三種三昧何以皆言金剛。 問うて曰く、三種の三昧は、何を以ってか、皆金剛と言う。
問い、
『三種(金剛、金剛輪、如金剛)の三昧』を、
何故、
『金剛』と、
『言うのですか?』。
答曰。初言金剛。中言金剛輪。後言如金剛。如金剛三昧。佛說能貫穿一切諸法亦不見。是金剛三昧能通達諸三昧。金剛輪三昧者。得是三昧即能持諸三昧輪。是皆佛自說義。 答えて曰く、初には金剛と言い、中には金剛輪と言い、後に如金剛と言えるに、如金剛三昧は、仏の説きたまわく、『能く一切の諸法を貫穿するも、亦た是れを見ず』、と。金剛三昧は、能く諸三昧に通達し、金剛輪三昧は、是の三昧を得れば、即ち能く諸三昧の輪を持す。是れ皆仏自ら義を説きたまえり。
答え、
『初には金剛と言い、中には金剛輪と言い、後には如金剛と言われた!』が、
『如金剛三昧』を、
『仏』は、こう説かれている、――
『一切の諸法を貫穿することができる!』が、
是の、
『貫穿するということ!』を、
『見ることはない!』、と。
『金剛三昧』は、
『諸の三昧』に、
『通達することができ!』、
『金剛輪三昧』は、
是の、
『三昧を得れば!』、
即ち、
『諸三昧の輪( all parts of every samadhi )!』を、
『持することができる( be able to keep well )のである!』が、
是れは、
皆、
『仏が自ら説かれた!』、
『義である!』。
  貫穿(かんせん):貫く/穿つ( to pierce )。
  能持(のうじ):梵語 dhara, dhaaraNa の訳、善く保持する( well keeping )の義。
論者言。如金剛三昧者。能破一切諸煩惱結使無有遺餘。譬如釋提桓因手執金剛破阿修羅軍。即是學人末後心。從是心次第得三種菩提。聲聞菩提辟支佛菩提佛無上菩提。 論者の言わく、如金剛三昧とは、善く一切の諸煩悩の結使を破りて、遺餘有ること無く、譬えば釈提桓因の手に金剛を執りて、阿修羅軍を破るが如し。即ち是れ学人の末後の心にして、是の心より次第に三種の菩提の声聞の菩提、辟支仏の菩提、仏の無上の菩提を得るなり。
『論者』は、こう言う、――
『如金剛三昧』とは、
『一切の諸煩悩の結使を破って!』、
『遺餘』が、
『無いからであり!』、
譬えば、
『釈提桓因が、手に金剛を執って!』、
『阿修羅軍』を、
『破るようなものである!』。
即ち、
是の、
『三昧は、学人の末後の心であり!』、
是の、
『心より、次第に!』、
『三種の菩提( the 3 kinds of the perfect wisdom )』を、
『得るのであり!』、
謂わゆる、
『声聞の菩提、辟支仏の菩提、仏の無上の菩提である!』。
  菩提(ぼだい):梵語 bodhi の訳、完全な知識/智慧( the perfect knowledge or wisdom )の義。
金剛三昧者。能破一切諸法。入無餘涅槃更不受有。譬如真金剛能破諸山令滅盡無餘。 金剛三昧とは、能く一切の諸法を破って、無余涅槃に入れば、更に有を受けず。譬えば真の金剛の能く諸山を破って、滅尽せしめ、餘無からしむるが如し。
『金剛三昧』とは、
『一切の諸法を破って!』、
『無余涅槃に入り!』、
『更に、有を受けない( shall be never given any being )!』。
譬えば、
『真の金剛』が、
『諸山を破って、滅尽させる!』と、
『餘が無くなるようなものである( it is seems that ther is nothing )!』。
  (じゅ):梵語 datta の訳、与えられる( given )の義。
金剛輪者。此三昧能破一切諸法無遮無礙。譬如金剛輪轉時無所不破無所障礙。 金剛輪とは、此の三昧は、能く一切諸法を破りて、無遮無礙なり。譬えば、金剛輪の転ずる時、破らざる所無く、障礙する所無きが如し。
『金剛輪』とは、
此の、
『三昧』は、
『一切の諸法を破って!』、
『無遮無礙となる( being uninterruptable )ことであり!』、
譬えば、
『金剛輪が転じる( the vajra-wheele is rolling )!』時、
『破らない所も、障礙する所も!』、
『無いようなものである!』。
  無遮(むしゃ):梵語 akampya の訳、本の場所から動かされない( not to be moved away from one's place )の義。
  無礙(むげ):梵語 anantara, anantarya の訳、遮られない( uninterrupted )の義。
復次初金剛。二金剛輪。三如金剛。名字分別佛說其義亦異。論者釋其因緣亦異。不應致難。 復た次ぎに、初の金剛、二の金剛輪、三の如金剛は名字の分別なり。仏の説きたまえる其の義も亦た異なり。論者の釈す、其の因縁も亦た異なり。応に難を致すべからず。
復た次ぎに、
『初の金剛、二の金剛輪、三の如金剛』は、
『名字』の、
『分別であり!』、
『仏が説かれた!』、
『義』も、
『異っており!』、
『論者の釈す!』、
『因縁』も、
『異っている!』ので、
当然、
『難』を、
『致すべきでない( should not cause any blame )!』。
心住三昧者。心相輕疾遠逝無形。難制難持常是動相。如獼猴子。又如掣電。亦如蛇舌。得是三昧故能攝令住。乃至天欲心不動轉。何況人欲 心住三昧とは、心相は軽く疾く、遠く逝き、形無く、制し難く、持し難く、常に是れ動相なること、彌猴の子の如く、又掣電の如く、亦た蛇の舌の如きも、是の三昧を得るが故に、能く摂して住せしめ、乃至天の欲心すら動転せず、何に況んや人の欲をや。
『心住三昧』とは、
『心相』は、
『軽く疾く!』、
『遠くへ逝き!』、
『形が無く!』、
『制し難く( be hard to ontrol )!』、
『持し難く( be hard to keep well )!』、
常に、
『動相であって!』、
『彌猴の子や、掣電や、蛇の舌のようである!』が、
是の、
『三昧を得る!』が故に、
『心を摂して!』、
『住めることができ!』、
乃至、
『天の欲心すら!』、
『動転することがなく!』、
況して、
『人の欲心など!』、
『言うまでもない!』。
  (せい):<動詞>[本義]去る/往く( go, leave, be away from )。死ぬ/世を去る( die, pass away )。
  掣電(せいでん):稲妻/電光( lightning )。
普明三昧者。得是三昧於一切法見光明相無黑闇相。如晝所見夜亦如是。如見前見後亦爾。如見上見下亦爾。心中無礙。修是三昧故得天眼通。普見光明了了無礙。善修是神通故得成慧眼。普照諸法所見無礙。 普明三昧とは、是の三昧を得れば、一切法に於いて光明の相を見て、黒闇の相無く、昼の見る所の如く、夜も亦た是の如く、前を見るが如く、後を見るも亦た爾り、上を見るが如く、下を見るも亦た爾して、心中無礙なれば、是の三昧を修するが故に、天眼通を得て、普く光明の了了たるを見て無礙なり。善く是の神通を修するが故に慧眼を成ずるを得れば、普く諸法を照らして、見る所無礙なり。
『普明三昧』とは、
是の、
『三昧を得れば!』、
『一切法』に於いて、
『光明の相を見るだけで!』、
『黒闇の相が無く!』、
『昼に見るように!』、
『夜に見る!』のも、
『是の通りであり!』、
『前を見るように!』、
『後を見る!』のも、
『是の通りであり!』、
『上を見るように!』、
『下を見るのも!』、
『是の通りであり!』、
『心』中を、
『見れば!』、
『無礙であり!』、
是の、
『三昧を修める!』が故に、
『天眼通を得て!』、
『光明が了了である!』のを、
『普く見て、無礙であり!』、
是の、
『神通を善く修める!』が故に、
『慧眼を成じさせることができ!』、
『諸法を普く照らして!』、
『見る所が無礙なのである!』。
  (しゅう)、修習(しゅうじゅう):梵語 abhyaasa の訳、加えること( the act of adding anything )の義、繰り返される/永続的な練習/鍛煉/習慣( repeated or permanent exercise, discipline, use, habit, custom )の意。
安立三昧者。得是三昧者一切諸功德善法中安立牢固。如須彌山在大海安立不動。 安立三昧とは、是の三昧を得れば、一切の諸功徳、善法中に安立して牢固なること、須弥山の大海に在りて、安立し動かざるが如し。
『安立三昧』とは、
是の、
『三昧を得れば!』、
『一切の諸の功徳、善法』中に、
『安立して( be standing )!』、
『牢固である( to be firm )!』。
譬えば、
『須弥山が、大海に在って!』、
『安立して!』、
『動かないようなものである!』。
寶聚三昧者。得是三昧所有國土悉成七寶。 宝聚三昧とは、是の三昧を得れば、有らゆる国土は、悉く七宝を成ずればなり。
『宝聚三昧』とは、
是の、
『三昧を得れば!』、
有らゆる、
『国土』は、
『悉く、七宝を成じる( every land produces lots of 7 kinds of jewel )!』。
問曰。此是肉眼所見。禪定所見。 問うて曰く、此れは是れ肉眼の所見なりや、禅定の所見なりや。
問い、
此の、
『宝聚』は、
『肉眼で見えるのですか!』、
『禅定で見えるのですか?』。
答曰。天眼肉眼皆能見。何以故。外六塵不定故。行者常修習禪定。是故能轉本相。 答えて曰く、天眼、肉眼は皆能く見る。何を以っての故に、外の六塵は不定なるが故に、行者常に禅定を修習すれば、是の故に能く本相を転ずればなり。
答え、
『天眼、肉眼は皆見ることができる!』。
何故ならば、
『外の六塵は不定である!』が、
是の故に、
『行者』が、
『常に、禅定を修習すれば!』、
是の故に、
『本相』を、
『転じることができるからである!』。
妙法印三昧者。妙法名諸佛菩薩深功德智慧。得是三昧得諸深妙功德智慧。 妙法印三昧とは、妙法を諸仏菩薩の深き功徳の智慧と名づけ、是の三昧を得れば、諸の深妙の功徳の智慧を得るなり。
『妙法印三昧』とは、
『妙法とは諸仏、菩薩の深い功徳の智慧である!』が故に、
是の、
『三昧を得れば!』、
『諸の深妙の功徳の智慧』を、
『得られるのである!』。
法等三昧者。等有二種。眾生等法等。法等相應三昧名為法等。 法等三昧とは、等には二種有りて、衆生等、法等なるに、法等相応の三昧を名づけて法等と為すなり。
『法等三昧』とは、
『等には、二種有り( there are 2 kinds of equivalence )!』、
『衆生の等と!』、
『法の等である!』が、
『法等相応の三昧である!』が故に、
『法等』と、
『称するのである!』。
斷喜三昧者。得是三昧觀諸法無常苦空無我不淨等。心生厭離。十想中一切世間不可樂想相應三昧是 断喜三昧とは、是の三昧を得れば、諸法の無常、苦、空、無我、不浄等を観て、心に厭離を生じ、十想中の一切世間不可楽想相応の三昧是れなり。
『断喜三昧』とは、
是の、
『三昧を得れば!』、
『諸法』は、
『無常、苦、空、無我、不浄等である!』と、
『観て!』、
『心』に、
『厭離』を、
『生じることになる!』ので、
是れは、
『十想中の一切世間不可楽想に相応する!』、
『三昧なのである!』。
到法頂三昧者。法名菩薩法。所謂六波羅蜜。到般若波羅蜜中得方便力到法山頂。得是三昧能住是法山頂。諸無明煩惱不能動搖。 到法頂三昧とは、法を菩薩法と名づけ、謂わゆる六波羅蜜なり。般若波羅蜜中に到りて、方便力を得れば、法の山頂に到る。是の三昧を得れば、能く是の法の山頂に住し、諸の無明の煩悩の動搖する能わず。
『到法頂三昧』とは、
『法』とは、
『菩薩法であり!』、
『謂わゆる六波羅蜜である!』が、
『般若波羅蜜中に到って、方便力を得れば! 、
『法の山頂』に、
『到ることになる!』ので、
是の、
『三昧を得れば!』、
是の、
『法の山頂に住することになり!』、
『諸の無明の煩悩』に、
『動搖させられないのである!』。
能散三昧者。得是三昧能破散諸法。散空相應三昧是。 能散三昧とは、是の三昧を得れば、能く諸法を破散すれば、散空相応の三昧是れなり。
『能散三昧』とは、
是の、
『三昧を得れば!』、
『諸法』を、
『破散することができる!』ので、
是れは、
『散空に相応する!』、
『三昧である!』。
   相応(そうおう):梵語 abhisambandha の訳、~との関係/関連/~に属する( connection with, relation to, being connected with, belonging to )の義、~に結びついた( being connected with )の意。
分別諸法句三昧者。得是三昧能分別一切諸法語言字句。為眾生說辭無滯礙。樂說相應三昧是。 分別諸法句三昧とは、是の三昧を得れば、能く一切の諸法の語言、字句を分別して、衆生の為めに説く辞に滞礙無ければ、楽説相応の三昧是れなり。
『分別諸法句三昧』とは、
是の、
『三昧を得れば!』、
『一切の諸法』の、
『語言や、字句』を、
『分別することができ!』、
『衆生の為めに説く!』、
『辞』には、
『滞礙することが無い!』ので、
是れは、
『楽説無礙に相応する!』、
『三昧である!』。
  (じ)、言辞(ごんじ):梵語 nirukti の訳、言葉の語源的解釈( etymological interpretation of a word )、言葉の技巧的な説明/起源( an artificial explanation or derivation of a word )の義、自他の国の言葉( the own or other's language )の意。
字等相三昧者。得是三昧觀諸字諸語皆悉平等。呵詈讚歎無有憎愛。 字等相三昧とは、是の三昧を得て、諸字、諸語を観れば、皆悉く平等なれば、呵罵、讃歎するも憎愛有ること無し。
『字等相三昧』とは、
是の、
『三昧を得て!』、
『諸字、諸語を観れば!』、
『皆悉く、平等なので!』、
『呵罵されようと、讃歎されようと!』、
『憎、愛すること!』が、
『無い!』。
離字三昧者。得是三昧不見字在義中。亦不見義在字中。 離字三昧とは、是の三昧を得れば、字の義中に在るを見ず、亦た義の字中に在るを見ず。
『離字三昧』とは、
是の、
『三昧を得れば!』、
『字』は、
『義中に在る!』と、
『見ることもなく!』、
『義』は、
『字中に在る!』と、
『見ることもない!』。
斷緣三昧者。得是三昧。若內若外。樂中不生喜。苦中不生瞋。不苦不樂中不生捨心。於此三受遠離不著。心則歸滅。心若滅緣亦斷。 断緣三昧とは、是の三昧を得れば、若しは内、若しは外の楽中に喜を生ぜず、苦中に瞋を生ぜず、不苦不楽中に捨心を生ぜず、是の三受を遠離して著せざれば、心は則ち滅に帰し、心若し滅すれば、緣亦た断ずればなり。
『断緣三昧』とは、
是の、
『三昧を得れば!』、
『内だろうが、外だろうが!』、
『楽中に、喜を生じず!』、
『苦中に、瞋を生じず!』、
『不苦不楽中に、捨心を生じず!』、
此の、
『三受を遠離して、著さなければ!』、
『心は、滅に帰する( the mind results in annihilation )!』ので、
『心が、若し滅すれば!』、
『縁も、断じることになる( the influences should be cut off )!』。
  (めつ):梵語 pralaya, nirodha の訳、生滅/再吸収/破壊/絶滅( dissolution, reabsorption, destruction, annihilation )の義。
不壞三昧者。緣法性畢竟空相應三昧戲論不能破。無常不能轉。先已壞故。 不壊三昧とは、法性に縁ずる畢竟空相応の三昧にして、戯論も破る能わず、無常も転ずる能わず、先に已に壊るるが故なり。
『不壊三昧』とは、
『法性を縁じる( it is what caused by the dharma-nature, )!』、
『畢竟空相応の三昧
namely the samadhi belong to the absolute emptiness )であり!』、
『戯論も、破ることができず!』、
『無常も、転じることができない
cannnot be made into another by any argument )!』。
何故ならば、
『先に已に( already )!』、
『壊れている( had been annihilated )からである!』。
無種三昧者。得是三昧不見諸法種種相。但見一相。所謂無相。 無種三昧とは、是の三昧を得れば、諸法の種種相を見ずして、但だ一相を見るのみ、謂わゆる無相なり。
『無種三昧』とは、
是の、
『三昧を得れば!』、
『諸法』の、
『種種相』を、
『見ず!』、
但だ、
『一相、謂わゆる無相のみ!』を、
『見る!』。
無處行三昧者。得是三昧知三毒火然三界故心不依止。涅槃畢竟空故亦不依止。 無処行三昧とは、是の三昧を得れば、三毒の火然ゆる三界なりと知るが故に心は依止せず、涅槃は畢竟空なるが故に亦た依止せず。
『無処行三昧』とは、
是の、
『三昧を得れば!』、
『三界』は、
『三毒の火が燃えている、と知る!』が故に、
『依止せず!』、
『涅槃』も、
『畢竟空である!』が故に、
『依止しない!』。
離曚昧三昧者。得是三昧於諸三昧中微翳無明等悉皆除盡。 離曚昧三昧とは、是の三昧を得れば、諸三昧中に於いて、微翳の無明等は、悉く皆除こり尽く。
『離曚昧三昧』とは、
是の、
『三昧を得れば!』、
『三昧中の微かな翳である!』、
『無明』等が、
『皆、悉く除かれて尽きるのである!』。
無去三昧者。得是三昧不見一切法來去相。 無去三昧とは、是の三昧を得れば、一切法の来去の相を見ず。
『無去三昧』とは、
是の、
『三昧を得れば!』、
『一切法の来、去の相
the marks of coming or leaving of every dharma )を!』、
『見ないからである!』。
不變異三昧者。得是三昧觀一切諸法。因不變為果。如乳不變作酪。諸法皆住自相不動故。 不変異三昧とは、是の三昧を得て、一切の諸法を観れば、因は変じて果と為らず、乳変じて酪と作らざるが如し。諸法の皆自相に住して動ぜざるが故なり。
『不変異三昧』とは、
是の、
『三昧を得て!』、
『一切の諸法を観れば!』、
『因が変じて!』、
『果と為ることはなく!』、
譬えば、
『乳が変じて!』、
『酪と作ることがないようなものである!』。
何故ならば、
『諸法』は、
『皆、自相に住して!』、
『動かないからである!』。
  参考:『長阿含巻17(28)経』:『佛告象首舍利弗。若有欲界人身四大諸根。爾時正有欲界人身四大諸根。非欲界天身。色界天身。空處.識處.無所有處.有想無想處天身。如是乃至有有想無想處天身時。爾時正有想無想處天身。無有欲界人身四大諸根。及欲界天身。色界天身。空處.識處.無所有處天身。象首。譬如牛乳。乳變為酪。酪為生酥。生酥為熟酥。熟酥為醍醐。醍醐為第一。象首。當有乳時。唯名為乳。不名為酪.酥.醍醐。如是展轉。至醍醐時。唯名醍醐。不名為乳。不名酪.酥。象首。此亦如是。若有欲界人身四大諸根時。無有欲界天身。色界天身。乃至有想無想處天身。如是展轉。有有想無想處天身時。唯有有想無想處天身。無有欲界人身四大諸根。及欲界天身。色界天身。乃至無所有天身』
度緣三昧者。得是三昧於六塵中諸煩惱盡滅。度六塵大海。亦能過一切三昧緣生智慧。 度縁三昧とは、是の三昧を得れば、六塵中に於いて、諸の煩悩尽く滅して、六塵の大海を度し、亦た能く一切の三昧の縁を過ぎて、智慧を生ず。
『度縁三昧』とは、
是の、
『三昧を得れば!』、
『六塵』中の、
『諸の煩悩』が、
『尽く滅する!』ので、
『六塵という!』、
『大海』を、
『度すことになり( to cross the ocean of the 6-objects of 6-senses )!』、
亦た、
『一切の三昧の縁を過ぎて
to pass over the influence of every samadhi )!』、
『智慧』を、
『生じるからである!』。
集諸功德三昧者。得是三昧集諸功德。從信至智慧。初夜後夜修習不息。如日月運轉初不休息。 集諸功徳三昧とは、是の三昧を得れば、諸功徳を集めて、信より智慧に至るまで、初夜、後夜に修習して息まざること、日月の運転して、初より休息せざるが如し。
『集諸功徳三昧』とは、
是の、
『三昧を得れば!』、
『諸功徳を集めて!』、
『信より、智慧に至るまで(五根・五力)!』、
『初夜から後夜まで、修習して!』、
『息まず!』、
譬えば、
『日、月が運転して!』、
『初より、休息しないようなものである!』。
住無心三昧者。入是三昧中不隨心但隨智慧。至諸法實相中住。 住無心三昧とは、是の三昧に入れば、心に随わずして、但だ智慧に随いて、諸法の実相中に至りて住すればなり。
『住無心三昧』とは、
是の、
『三昧に入れば!』、
『心に随わずに、但だ智慧に随い
does not obey the heart but only knowledges )!』、
『諸法の実相中に至って( to arrive to the nature of every dharma )!』、
『住する( and stay in there )のである!』。
淨妙華三昧者。如樹華敷開令樹嚴飾。得是三昧諸三昧中開諸功德華以自莊嚴。 浄妙華三昧とは、樹華の敷開して、樹をして厳飾ならしむるが如く、是の三昧を得れば、諸三昧中に、諸功徳の華を開いて、以って自ら荘厳す。
『浄妙華三昧』とは、
譬えば、
『樹』に、
『華が敷開して!』、
『樹を厳飾するように!』、
是の、
『三昧を得れば!』、
『諸三昧』中に、
『諸功徳の華』を、
『開いて!』、
其の、
『華を用いて!』、
『自ら荘厳するのである!』。
  厳飾(ごんじき)、荘厳(しょうごん):梵語 maNDana の訳、装飾する/装飾/飾り( adorning, ornament, decoration )の義。
  敷開(ふかい):開花( flowers open )。
覺意三昧者。得是三昧令諸三昧變成無漏與七覺相應。譬如石汁一斤能變千斤銅為金。 覚意三昧とは、是の三昧を得れば、諸三昧を変じて無漏と成し、七覚と相応す。譬えば石汁の一斤は能く千斤の銅を変じて、金と為すが如し。
『覚意三昧』とは、
是の、
『三昧を得れば!』、
『諸三昧を変じて、無漏と成し!』、
『七覚』と、
『相応させることができる!』。
譬えば、
『一斤の石汁』が、
『千斤の銅を変じて!』、
『金と為すようなものである!』。
無量辯三昧者。即是樂說辯。得是三昧力故。乃至樂說一句無量劫而不窮盡。 無量辯三昧とは、即ち是れ楽説の辯なり。是の三昧の力を得るが故に乃至一句を楽説すること無量劫なるも、窮尽せず。
『無量辯三昧』とは、
即ち、
『楽説という!』、
『辯である!』。
是の、
『三昧の力を得る!』が故に、
乃至、
『一句を楽説すれば!』、
『無量劫を過ぎても!』、
『窮尽することがないのである!』。
無等等三昧者。得是三昧觀一切眾生皆如佛。觀一切法皆同佛法無等等。般若波羅蜜相應是。 無等等三昧とは、是の三昧を得れば、一切の衆生は、皆仏の如しと観、一切の法は皆同じく仏法なりと観れば、無等等の般若波羅蜜相応なる是れなり。
『無等等三昧』とは、
是の、
『三昧を得れば!』、
『一切の衆生』は、
『皆、仏のようだ!』と、
『観!』、
『一切の法』は、
『皆、仏法と同じだ!』と、
『観る!』ので、
是れは、
『無等等の般若波羅蜜に相応する!』、
『三昧である!』。
  無等等(むとうとう):梵語 asamasama の訳、不等に等し( one which is equal to what is unepual )の義、無等/不等( unequal )の意。
度諸法三昧者。得是三昧入三解脫門。過出三界度三乘眾生。 度諸法三昧とは、是の三昧を得れば、三解脱門に入りて、三界を過出して、三乗の衆生を度すなり。
『度諸法三昧』とは、
是の、
『三昧を得て、三解脱門に入れば!』、
『三界を過出して( passing over the 3 realms )!』、
『三乗の衆生』を、
『度すのである!』。
分別諸法三昧者。即是分別慧相應三昧。得是三昧分別諸法善不善有漏無漏有為無為等相。 分別諸法三昧とは、即ち是れ分別慧相応の三昧なり。是の三昧を得れば、諸法の善不善、有漏無漏、有為無為等の相を分別す。
『分別諸法三昧』とは、
即ち、
『分別慧に相応する( accompanying by the wisdom disuniting )!』、
『三昧であり!』、
是の、
『三昧を得て!』、
『諸法の善不善、有漏無漏、有為無為等の相』を、
『分別するのである!』。
  分別慧(ふんべつえ):梵語 dhii-bheda の訳、賢く分別する( disuniting wisely )の義。
散疑三昧者。有人言。即是見諦道中無相三昧疑結。見諦智相應三昧斷故。有人言。菩薩無生法忍相應三昧是。時一切法中疑網悉斷。見十方諸佛。得一切諸法實相。有人言。無礙解脫相應三昧。是諸佛得是三昧已。於諸法中無疑無近無遠皆如觀掌中。 散疑三昧とは、有る人の言わく、『即ち、是れ見諦道中の無相三昧なり。疑結は、見諦の智相応の三昧の断なるが故なり』、と。有る人の言わく、『菩薩の無生法忍相応の三昧なり。是の時、一切法中の疑網悉く断ずれば、十方の諸仏を見て、一切の諸法の実相を得るなり』、と。有る人の言わく、『無礙解脱相応の三昧是れなり。諸仏は、是の三昧を得已れば、諸法中に於いて、疑無く、近無く、遠無く、皆掌中を観ずるが如し』、と。
『散疑三昧』とは、
有る人は、こう言っている、――
『即ち、是れは見諦道中の無相三昧である!』。
何故ならば、
『疑結』は、
『見諦の智に相応する三昧』が、
『断じるからである!』、と。
有る人は、こう言っている――
『是れは、菩薩の無生法忍に相応する三昧である!』。
是の時、
『一切の法』中の、
『疑網』が、
『悉く断じることになり!』、
『十方の諸仏を見て!』、
『一切諸法の実相』を、
『得るのである!』。
有る人は、こう言っている、――
『是れは、無礙解脱相応の三昧である!』。
『諸仏』は、
是の、
『三昧を得られた!』ので、
『諸法』中に、
『疑も、近も、遠も!』、
『無く!』、
皆、
『掌』中に、
『観るようなものである!』、と。
無住處三昧者。即是無受智慧相應三昧。得是三昧不見一切諸法定有住處。 無住処三昧とは、即ち是れ無受の智慧相応の三昧にして、是の三昧を得れば、一切の諸法に、定んで住処有りと見ざればなり。
『無住処三昧』とは、
『即ち、是れは無受の智慧に相応する三昧であり!』、
是の、
『三昧を得れば!』、
『一切の諸法には、定んで住処が有る!』と、
『見ることはない!』。
一莊嚴三昧者。得是三昧。觀諸法皆一。或一切法有相故一。或一切法無故一。或一切法空故一。如是等無量皆一。以一相智慧莊嚴是三昧。故言一莊嚴。 『一荘厳三昧』とは、是の三昧を得て、諸法を観れば、皆一なり、或は一切法は有相なるが故に一、或は一切法は無なるが故に一、或は一切法は空なるが故に一なり。是れ等の如き無量は皆一なり。一相の智慧を以って、是の三昧を荘厳するが故に、一荘厳と言う。
『一荘厳三昧』とは、
是の、
『三昧を得て!』、
『諸法を観れば!』、
『皆、一である!』。
或は、
『一切法は、有相である!』が故に、
『一であり!』、
或は、
『一切法は、無相である!』が故に、
『一であり!』、
或は、
『一切法は、空である!』が故に、
『一であり!』、
是れ等のような、
『無量の法は、皆一であるという!』、
『一相の智慧』が、
是の、
『三昧』を、
『荘厳する!』ので、
是の故に、
『一が荘厳する!』と、
『言うのである!』。
生行三昧者。行名觀。得是三昧。能觀種種行相入相住相出相。又是行皆空。亦不可見。 生行三昧とは、行を観と名づけ、是の三昧を得れば、能く種種の行相、入相、住相、出相を観て、又是の行は皆空なれば、亦た見るべからず。
『生行三昧』とは、
『行とは、観であり!』、
是の、
『三昧を得れば!』、
『種種の行相、入相、住相、出相』を、
『観ることができる!』が、
是の、
『行は、皆空であり!』、
『見ることができないのである!』。
一行三昧者。是三昧常一行。畢竟空相應三昧中更無餘行次第。如無常行中次有苦行苦行中次有無我行。又菩薩於是三昧不見此岸不見彼岸。諸三昧入相為此岸。出相為彼岸。初得相為此岸。滅相為彼岸。 一行三昧とは、是の三昧は常一行の畢竟空相応の三昧にして、中に更に餘行の次第する無し。無常行中に次いで苦行有り、苦行中に次いで無我行有るが如し。又菩薩は、是の三昧に於いて、此岸を見ず、彼岸を見ずとは、諸三昧の入相を此岸と為し、出相を彼岸と為し、初得の相を此岸と為し、滅相を彼岸と為す。
『一行三昧』とは、
是の、
『三昧は、常一行にして( this samadhi is only one eternal practice )!』、
『畢竟空に相応する!』、
『三昧であり!』、
是の中には、
更に、
『餘行の次第( succeeding another practice )』は、
『無い!』、
譬えば、
『無常行( an uneternal practice )』中には、
次いで( succeedingly )、
『苦行』が、
『有り!』、
『苦行』中には、
次いで、
『無我行』が、
『有るのである!』。
又、
『菩薩』は、
是の、
『三昧に於いて!』、
『此岸や、彼岸を見ない!』とは、
即ち、
『諸の三昧』の、
『入相が、此岸であり!』、
『出相が、彼岸であり!』、
『諸の三昧』を、
『初得の相が、此岸であり
the situation when one enter the only one time samadhi )!』、
『滅の相が、彼岸なのである
the situation when the only one time samadhi is annihilated )!』。
不一行三昧者。與上一行相違者是。所謂諸餘觀行。 不一行三昧とは、上の一行と相違する者是れなり。謂わゆる諸余の観行なり。
『不一行三昧』とは、
是の、
『三昧』は、
上の、
『一行三昧と相違するからであり!』、
『謂わゆる、諸余の観行である!』。
妙行三昧者。即是畢竟空相應三昧。乃至不見不二相。一切戲論不能破。 妙行三昧とは、即ち是れ畢竟空相応の三昧にして、乃至不二相すら見ず、一切の戯論は破る能わず。
『妙行三昧』とは、
即ち、
『畢竟空に相応する!』、
『三昧であり!』、
是の、
『三昧を得れば!』、
乃至、
『不二相すら!』、
『見ることがなくなる!』ので、
一切の、
『戯論』に、
『破られないからである!』。
達一切有底散三昧者。有名三有。底者非有想非無想。以難到故名底。達者以無漏智慧。乃至離非有想非無想。入無餘涅槃。三界五眾散滅。 達一切有底散三昧とは、有には三有有り、底とは非有想非無想にして、到り難きを以っての故に底と名づく。達とは、無漏の智慧を以って、乃至非有想非無想すら離れ、無余涅槃に入れば、三界の五衆は散滅すればなり。
『達一切有底散三昧』とは、
『有』とは、
『三有であり( the 3 kinds of existence )!』、
『欲有、色有、無色有である!』。
『底』とは、
『三界中の非有想非無想であり!』、
『到り難い!』が故に、
『底と称するのである!』。
『達』とは、
『無漏の智慧を用いて!』、
乃至、
『非有想非無想すら!』、
『離れることであり!』、
『散』とは、
『三界を離れて、無余涅槃に入れば!』、
『三界の五衆』が、
『散滅するからである!』。
復次菩薩得是不生不滅智慧。一切諸有通達散壞皆無所有。 復た次ぎに、菩薩は是の不生、不滅の智慧を得て、一切の諸有に通達すれば、散壊して皆所有無ければなり。
復た次ぎに、
『菩薩』が、
是の、
『不生、不滅の智慧を得て!』、
『一切の諸有に通達すれば!』、
『皆、散壊して!』、
『所有が無くなるからである!』。
入名語三昧者。得是三昧識一切眾生一切物一切法名字。亦能以此名字語化人。一切語言無不解了。皆有次第。 入名語三昧とは、是の三昧を得れば、一切の衆生、一切の物、一切の法の名字を識り、亦た能く此の名字、語を以って人を化すれば、一切の語言の解了せざる無きは、皆次第有り。
『入名語三昧』とは、
是の、
『三昧を得れば!』、
『一切の衆生や、一切の物や、一切の法の名字』を、
『識ることになり!』、
亦た、
『此の名字、語を用いて!』、
『人を化導することができるのである!』が、
『一切の語言』で、
『解了しない者が無い( there is no language not well understanded )!』のは、
『皆、次第が有るのである( every thing has its own cause )!』。
  次第(しだい):梵語 karamaat の訳、進行/続行/推移( going, proceeding, course )、[動物が]跳躍/攻撃する前に取る体勢( a position taken ( by an animal &c. ) before making a spring or attacking )、中断されない/規則的進展、順序、続き物、規則的配置( uninterrupted or regular progress, order, series, regular arrangement, succession )、世襲/相続( hereditary descent )、方法/作法( method, manner )、機会/動機( occasion, cause )の義。
離音聲字語三昧者。得是三昧觀一切諸法。皆無音聲語言常寂滅相。 離音声字語三昧とは、是の三昧を得て、一切の諸法を観れば、皆音声、語言無くして、常寂滅の相なり。
『離音声字語三昧』とは、
是の、
『三昧を得て!』、
『一切の諸法を観れば!』、
『皆、音声語言が無く!』、
『常に、寂滅の相である!』。
然炬三昧者。如捉炬夜行不墮險處。菩薩得是三昧。以智慧炬於諸法中無錯無著。 然炬三昧とは、炬を捉りて、夜行すれば、険処に堕せざるが如く、菩薩は是の三昧を得れば、智慧の炬を以って、諸法中に於いて、錯無く、著無し。
『然炬三昧』とは、
譬えば、
『炬を捉れば!』、
『夜行しても!』、
『険処に堕ちないように!』、
『菩薩』が、
是の、
『三昧を得れば、智慧の炬を用いる!』が故に、
『諸法中に錯つことも、著することも!』、
『無いのである!』。
淨相三昧者。得是三昧能清淨具足莊嚴三十二相。又能如法觀諸法總相別相。亦能觀諸法無相清淨。所謂空無相無作。如相品中廣說。 浄相三昧とは、是の三昧を得れば、能く清浄具足して、三十二相を荘厳し、又能く如法に諸法の総相、別相を観、亦た能く諸法の無相の清浄なる、謂わゆる空、無相、無作を観る。相品中に広く説けるが如し。
『浄相三昧』とは、
是の、
『三昧を得れば!』、
『清浄が具足して!』、
『三十二相を荘厳することができ!』、
又、
『諸法の総相、別相』を、
『如法に観察することができ!』、
亦た、
『諸法は無相清浄であり、謂わゆる空、無相、無作である!』と、
『観ることができる!』が、
是れは、
『相品(問相品)』中に、
『広く説いた通りである!』。
破相三昧者。得是三昧不見一切法相。何況諸三昧相。得是無相三昧。 破相三昧とは、是の三昧を得れば、一切法の相を見ず、何に況んや諸三昧の相をや。是の無相を得る三昧なり。
『破相三昧』とは、
是の、
『三昧を得れば!』、
『一切の法』の、
『相』を、
『見ないのであり!』、
況して、
『諸三昧の相など!』、
『言うまでもなく!』、
是の、
『無相を得る!』、
『三昧である!』。
一切種妙足三昧者。得是三昧以諸功德具足莊嚴。所謂好姓好家好身好眷屬禪定智慧皆悉具足清淨。 一切種妙足三昧とは、是の三昧を得れば、諸功徳の具足を以って、荘厳す、謂わゆる好姓、好家、好身、好眷属、禅定、智慧も皆悉く具足して清浄なり。
『一切種妙足三昧』とは、
是の、
『三昧を得れば!』、
『諸の功徳が具足する!』が故に、
『身を荘厳するのである!』。
謂わゆる、
『好姓、好家、好身、好眷属、禅定、智慧』が、
『皆悉く具足して、清浄なのである!』。
不喜苦樂三昧者。得是三昧觀世間樂。多過多患虛妄顛倒非可愛樂。觀世間苦如病。如箭入身心不喜樂。以一切法虛誑故不求其樂。何以故。異時變為苦。樂尚不喜。何況於苦。 不喜苦楽三昧とは、是の三昧を得れば、世間の楽を観れば過多く、患多く、虚妄、顛倒にして、愛楽すべきに非ず、世間の苦を観れば、病の如く、箭の身に入るが如ければ、心喜楽せず。一切法の虚誑なるを以っての故に、其の楽を求めず。何を以っての故に、異時には変じて苦と為ればなり。楽も尚お喜ばず、何に況んや苦に於いてをや。
『不喜苦楽三昧』とは、
是の、
『三昧を得れば!』、
『世間の楽を観れば!』、
『過失、憂患が多く!』、
『虚妄、顛倒であり!』、
『愛楽するようなものではなく!』、
『世間の苦を観れば!』、
『病のようであり!』、
『箭が身に入ったようである!』ので、
『心』は、
『楽』を、
『喜ばない!』。
『一切法は虚誑である!』が故に、
『虚誑の楽』を、
『求めるはずがない!』。
何故ならば、
『異時( on another time )に変じて!』、
『苦と為るからである!』。
『楽すら、尚お喜ばない!』のに、
況して、
『苦』を、
『喜ぶはずがない!』。
無盡相三昧者。得是三昧觀一切法無壞無盡。 無尽相三昧とは、是の三昧を得て、一切法を観れば、無壊無尽なり。
『無尽相三昧』とは、
是の、
『三昧を得れば!』、
『一切法は無壊であり、無尽である!』と、
『観るからである!』。
問曰。若爾者云何不墮常邊。 問うて曰く、若し爾らば、云何が常の辺に堕せざる。
問い、
若し、爾うならば、
何故、
『常の辺( the inside of eternity )』に、
『堕ちないのですか?』。
  常辺(じょうへん):梵語 nitya-anta, zazvata-anta の訳、常の際( the inside of eternity )の義、常見( nitya-dRSTi, -darzana )に同じ。
答曰。如菩薩雖觀無常不墮滅中。若觀不盡不墮常中。此二相於諸法中皆不可得。有因緣故修行。所謂為罪福不失故。言常離著故言無常。 答えて曰く、菩薩は無常を観ると雖も滅中に堕せざるが如く、若し不尽を観るも常中に堕せず。此の二相は、諸法中に於いて、皆不可得なるも、因縁有るが故に修行す。謂わゆる罪福を失わざらんが為めの故に、常と言い、著を離れんが故に無常と言うなり。
答え、
『菩薩』が、
『無常を観ながら!』、
『滅』中に、
『堕ちないように!』、
『不尽を観ても!』、
『常』中に
『堕ちないのである!』。
此の、
『二相』は、
『諸法中に於いて!』、
『皆、不可得である!』が、
『因縁が有る!』が故に、
此の、
『二相』を、
『修行するのである!』。
謂わゆる、
『罪福を失わせない為め!』の故に、
『常である!』と、
『言い!』、
『著を離れさせる為め!』の故に、
『無常である!』と、
『言うのである!』。
陀羅尼三昧者。得是三昧力故。聞持等諸陀羅尼皆自然得。 陀羅尼三昧とは、是の三昧の力を得るが故に、聞持等の諸陀羅尼を皆自然に得ればなり。
『陀羅尼三昧』とは、
是の、
『三昧の力を得る!』が故に、
『聞持等の諸陀羅尼』を、
『皆、自然に得るからである!』。
攝諸邪正相三昧者。得是三昧不見三聚眾生。所謂正定邪定不定。都無所棄一心攝取。又於諸法不見定正相定邪相。諸法無定相故。 摂諸邪正相三昧とは、是の三昧を得れば、三聚の衆生を見ず、謂わゆる正定、邪定、不定は、都て棄つる所無ければ、一心に摂取し、又諸法に於いて、定まれる正相、定まれる邪相を見ず、諸法には定相無きが故なり。
『摂諸邪正相三昧』とは、
是の、
『三昧を得れば!』、
『三聚、謂わゆる正定、邪定、不定の衆生』を、
『見ることがない!』ので、
『都、棄てる所が無く!』、
『一心に!』、
『摂取するのであり!』、
又、
『諸法に於いて!』、
『定んで正相であるとか、定んで邪相である!』と、
『見ることはない!』、
『諸法』には、
『定相』が、
『無いからである!』。
滅憎愛三昧者。得是三昧可喜法中不生愛。可憎法中不生瞋。 滅憎愛三昧とは、是の三昧を得れば、喜ぶべき法中に愛を生ぜず、憎むべき法中に瞋を生ぜず。
『滅憎愛三昧』とは、
是の、
『三昧を得れば!』、
『喜ぶべき法』中に、
『愛』を、
『生じず!』、
『憎むべき法』中に、
『瞋』を、
『生じない!』。
逆順三昧者。得是三昧於諸法中逆順自在。能破諸邪逆眾生。能順可化眾生。又離著故破一切法。善根增長故成一切法。亦不見諸法逆順。是事亦不見。以無所有故。 逆順三昧とは、是の三昧を得れば、諸法中に逆順自在にして、能く諸の邪逆の衆生を破り、能く化すべき衆生に順ず。又著を離るるが故に一切法を破り、善根増長するが故に一切法を成ずるも、亦た諸法の逆順を見ず、是の事をも亦た見ず。所有無きを以っての故なり。
『逆順三昧』とは、
是の、
『三昧を得れば!』、
『諸法中に逆・順が自在であり!』、
『邪逆する!』、
『諸の衆生』は、
『破り!』、
『化すことのできる!』、
『衆生』には、
『順じるのである!』。
又、
『著を離れる!』が故に、
『一切法』を、
『破り!』、
『善根が増長する!』が故に、
『一切法』を、
『成じるのである!』が、
亦た、
『諸法に於いて!』、
『逆なのか、順なのか?』を、
『見ることもなく!』、
亦た、
是の、
『事』を、
『見ることもない!』。
何故ならば、
『一切法』は、
『無所有だからである!』。
  (じゅん):<動詞>[本義]同一の方向に沿うて往く( along, be in same direction )。従順/順応( obey, yield to )。<名詞>道理( reason )。<形容詞>合理的( reasonable )、順調な/心に適う( go well, be agreeable )、首尾一貫した( coherent )。<副詞>便利な/都合よく( conveniently, in passing )、引続き/順序よく( successively, in proper order )。
淨光三昧者。得是三昧一切法中諸煩惱垢不可得。不可得故諸三昧皆清淨。 浄光三昧とは、是の三昧を得れば、一切法中に諸の煩悩の垢は不可得なり。不可得なるが故に諸三昧は皆清浄なり。
『浄光三昧』とは、
是の、
『三昧を得れば!』、
『一切法』中に、
『諸煩悩の垢』は、
『不可得であり!』、
『煩悩が不可得である!』が故に、
『諸三昧』は、
『皆、清浄なのである!』。
堅固三昧者。有人言。金剛三昧是。堅固不壞故。有人言。金剛非。所以者何。金剛亦易破故。是諸法實相智相應三昧。不可破如虛空。以是故言牢固。 堅固三昧とは、有る人の言わく、『金剛三昧是れなり、堅固にして不壊なるが故なり』、と。有る人の言わく、『金剛は非なり。所以は何んとなれば、金剛も亦た易しく破るるが故なり。是れ諸法の実相智相応の三昧なり。破るべからざること虚空の如ければ、是を以っての故に牢固と言う』、と。
『堅固三昧』とは、
有る人は、こう言っている、――
是れは、
『金剛三昧である!』、
何故ならば、
『堅固であり!』、
『壊られないからである!』、と。
有る人は、こう言っている、――
是れは、
『金剛三昧ではない!』、
何故ならば、
『金剛』も、
『易しく破れるからである!』。
是れは、
『諸法の実相智に相応する三昧であり!』、
『虚空のように!』、
『破られないからであり!』、
是の故に、
『牢固だ!』と、
『言うのである!』。
滿月淨光三昧者。得是三昧所言清淨無諸錯謬。如秋時虛空清淨月滿光明涼爽可樂無諸可惡。菩薩亦如是。修諸功德故。如月滿破無明闇故。淨智光明具足滅愛恚等火故。清涼功德具足大利益眾生故可樂。 満月浄光三昧とは、是の三昧を得れば、所言清浄にして、諸の錯謬無きこと、秋時の虚空に清浄の月満ちて、光明涼爽にして、楽しむべく、諸の悪むべき無きが如し。菩薩も亦た是の如く、諸功徳を修するが故に、月満つるが如く、無明の闇を破るが故に、浄智の光明具足して、愛恚等の火を滅するが故に、清涼なる功徳具足して、衆生を大利益するが故に楽しむべし。
『満月浄光三昧』とは、
是の、
『三昧を得れば!』、
『所言が清浄となり!』、
『諸の錯謬』が、
『無い!』ので、
譬えば、
『秋時の虚空に、清浄の月が満ちて!』、
『光明が涼爽であって、楽しまれ!』、
『諸の悪むべき!』者が、
『無いように!』、
亦た、
『菩薩』も、
是のように、
『諸の功徳を修める!』が故に、
譬えば、
『月が満ちるように!』、
『無明の闇を破る!』が故に、
『浄智の光明が具足して!』、
『愛恚等の火』が、
『滅する!』が故に、
『清涼の功徳が具足して!』、
『衆生を大利益する!』が故に、
『衆生に楽しまれるのである!』。
大莊嚴三昧者。見十方如恒河沙等世界。以七寶華香莊嚴佛處。其中如是等清淨莊嚴。得是三昧故。一時莊嚴諸功德。又觀此莊嚴空無所有。心無所著。 大莊嚴三昧とは、十方の恒河沙に等しきが如き世界は、七宝の華香を以って荘厳し、仏は其の中に処したもうを見るに、是れ等の如き清浄の荘厳は、是の三昧を得るが故に、一時に諸功徳を荘厳すればなり。又此の荘厳の空、無所有なるを観て、心の著する所無し。
『大莊嚴三昧』とは、
『十方の恒河沙に等しい!』ほどの、
『世界』が、
『七宝の華香』で、
『荘厳されており!』、
其の中に、
『仏が処られる!』のを、
『見るとすれば!』、
是れ等のような、
『清浄の荘厳』が、
是の、
『三昧を得た!』が故に、
一時に、
『諸の功徳』を、
『荘厳するからである!』。
又、
此の、
『荘厳』は、
『空、無所有である!』と、
『観る!』が故に、
『心』には、
『著する!』所が、
『無いのである!』。
能照一切世間三昧者。得是三昧故。能照三種世間。眾生世間住處世間五眾世間。 能照一切世間三昧とは、是の三昧を得るが故に、能く三種の世間の衆生世間、住処世間、五衆世間を照らせばなり。
『能照一切世間三昧』とは、
是の、
『三昧を得る!』が故に、
『衆生、住処、五衆という!』、
『三種の世間( the 3 realms )』を、
『照らすことができる!』。
三昧等三昧者。得是三昧觀諸三昧皆一等。所謂攝心相。是三昧皆得因緣生。有為作法無深淺。得是三昧皆悉平等。是名為等。與餘法亦等無異。以是故義中說。一切法中定亂相不可得。 三昧等三昧とは、是の三昧を得て諸三昧を観れば、皆一等にして、謂わゆる摂心の相なり。是の三昧は皆、因縁を得て生ずれば、有為の作法にして、深浅無く、是の三昧を得れば、皆悉く平等なれば、是れを名づけて等と為し、餘法とも亦た等しくして、異無し。是を以っての故に義中に、『一切法中に定まれる乱相は不可得なり』、と説きたまえり。
『三昧等三昧』とは、
是の、
『三昧を得て、諸三昧を観れば!』、
『皆、一等であり!』、
『謂わゆる摂心の相である!』、
是の、
『三昧は、皆因縁を得て生じる!』ので、
『有為の作法であり!』、
『深浅が無い!』し、
是の、
『三昧を得れば、皆悉く平等である!』ので、
是れを、
『等と称するのである!』が、
亦た、
『餘法とも等しく!』、
『異が無い!』ので、
是の故に、
『義』中に、こう説かれているのである、――
『一切法』中に、
『定った乱相』は、
『不可得である!』、と。
  摂心(しょうしん):梵語 citta-saMgrahaNa, hRdaya-grahaNa の訳、心を持つ( holding the heart )の義、心を制する( to control the mind )の意。
攝一切有諍無諍三昧者。得是三昧不見是法如是相是法不如是相。不分別諸法有諍無諍。於一切法中通達無礙。於眾生中亦無好醜諍論。但隨眾生心行而度脫之。得是三昧故。於諸三昧皆隨順不逆 摂一切有諍無諍三昧とは、是の三昧を得れば、『是の法は是の如き相なり』、『是の法は是の如き相にあらず』と見ず、諸法の有諍、無諍を分別せず、一切法中に於いて通達無礙なり、衆生中に於いても亦た好醜の諍論無く、但だ衆生の心行に随いて、之を度脱すれば、是の三昧を得るが故に、諸三昧に於いて、皆隨順して逆らわず。
『摂一切有諍無諍三昧』とは、
是の、
『三昧を得れば!』、
是の、
『法』は、
『是のような相である、是のような相ではない!』と、
『見ることもなく!』、
諸の、
『法』に、
『諍が有るとか、諍が無いとか( meaningless or meaningful )!』、
『分別せず!』、
『一切法中に於いて!』、
『通達して!』、
『無礙であり!』、
『衆生中に於いても!』、
『好、醜を諍論すること!』が、
『無く!』、
但だ、
『衆生』の、
『心行のみに随って!』、
『度脱し!』、
是の、
『三昧を得る!』が故に、
『諸三昧に皆隨順して!』、
『逆らわないのである!』。
  有諍(うじょう):梵語 raNa の訳、闘い/口論/音/騒音( fight, conflict, sound, noise )、論争( discussion with fighting )の義、無益な論争( the meaningless discuttion )の意。
  無諍(むじょう):梵語 araNa の訳、遠く離れた/外国の/避難所/[死のように]闘いの無い( distant, foreign, a refuge, without fighting (as death) )、争わない議論( discussion without fighting )の義、有意義な論争( the meaningful discussion )の意。
不樂。一切住處三昧者。得是三昧不樂住世間。不樂住非世間。以世間無常過故不樂。非世間中無一切法。是大可畏處不應生樂。 不楽一切住処三昧とは、是の三昧を得れば、世間に住するを楽しまず、非世間に住するを楽しまず、世間の無常の過を以っての故に楽しまず、非世間中には一切法無ければ、是れ大いに畏るべき処なれば、応に楽を生ずべからず。
『不楽一切住処三昧』とは、
是の、
『三昧を得れば!』、
『世間に住するのを、楽しまず!』、
『非世間に住するのも、楽しまない!』。
何故ならば、
『世間』は、
『無常の過が有る!』が故に、
『楽しまず!』、
『非世間中には、一切の法が無く!』、
『大いに畏るべき処である!』が故に、
『楽を生じるはずがないからである!』。
如住定三昧者。得是三昧故。知一切法如實相。不見有法過是如者。如義如先說。 如住定三昧とは、是の三昧を得るが故に、一切法の如実の相を知り、法の是の如に過ぐる者有るを見ず。如の義は先に説けるが如し。
『如住定三昧』とは、
是の、
『三昧を得る!』が故に、
『一切法』の、
『如実の相』を、
『知り!』、
是の、
『如に過ぎる法が有る!』とは、
『見ないからである!』。
『如の義』は、
『先に!』、
『説いた通りである!』。
壞身衰三昧者。血肉筋骨等和合故名為身。是身多患。常與飢寒冷熱等諍。是名身衰。得是三昧故。以智慧力分分破壞身衰相。乃至不見不可得相。 壊身衰三昧とは、血肉、筋骨等の和合の故に名づけて、身と為すに、是の身には患多く、常に飢寒、冷熱等と諍えば、是れを身衰と名づくるも、是の三昧を得るが故に、智慧の力を以って、身衰の相を分分に破壊すれば、乃至不可得の相すら見ず。
『壊身衰三昧』とは、
『血肉、筋骨等が和合する!』が故に、
『身と称する!』が、
是の、
『身には、患が多く!』、
常に、
『飢寒、冷熱』等と、
『諍っている!』ので、
是れを、
『身が衰える!』と、
『称するのである!』が、
是の、
『三昧を得る!』が故n、
『智慧の力を用いて!』、
『身衰の相』を、
『分分に破壊すれば
breaking the physical weakness into fine pieces )!』、
乃至、
『不可得の相すら!』、
『見ることはない!』。
壞語如虛空三昧者。語名內。有風發觸七處故有聲。依聲故有語。觀如是語言因緣故。能壞語言。不生我相及以愛憎。有人言。二禪無覺觀。是壞語三昧。賢聖默然故。有人言。無色定三昧。彼中無身離一切色故。有人言。但是諸菩薩三昧。能破先世結業因緣不淨身而受法身。隨可度眾生種種現形。 壊語如虚空三昧とは、語を、内に有る風発りて七処に触るるが故に声有りと名づけ、声に依るが故に語有りと、是の如き語言の因縁を観るが故に、能く語言を壊り、我相及以(およ)び愛憎を生ぜず。有る人の言わく、『二禅には、覚観無ければ、是れ壊語三昧にして、賢聖の黙然たる故なり』、と。有る人の言わく、『無色定三昧なり。彼の中には身無く、一切の色を離るるが故なり』、と。有る人の言わく、『但だ是れ諸菩薩の三昧にして、能く先世の結業の因縁を破れば、不浄の身にして而も法身を受け、度すべき衆生に随いて、種種に形を現すなり』、と。
『壊語如虚空三昧』とは、
『語』とは、
『内に有る風が発って!』、
『七処(項、歯茎、歯、唇、舌、咽、胸)に触れる!』が故に、
『声が有り!』、
『声に依る!』が故に、
『語』が、
『有る!』と、
是のように、
『語言の因縁を観る!』が故に、
『語言を壊ることができれば!』、
『我相や、愛憎』を、
『生じることがない!』。
有る人は、こう言っている、――
『二禅には、覚観が無い!』が、
是れは、
『壊語三昧であり!』、
『賢聖が黙然する故である
it is the cause that every arya or arhat is in silence )!』、と。
有る人は、こう言っている、――
『無色定三昧である!』、
彼の、
『無色定中には、身が無く!』、
『一切の色』を、
『離れるからである!』。
有る人は、こう言っている、――
『但だ、諸菩薩だけの三昧である!』。
是の、
『三昧に住して!』、
『先世の結合の因縁』を、
『破り!』、
『不浄の身でありながら!』、
『法身』を、
『受けることができ!』、
『度すべき衆生に随って!』、
『種種の形』を、
『現すのである!』、と。
離著虛空不染三昧者。菩薩行般若波羅蜜。觀諸法畢竟空。不生不滅如虛空無物可喻。鈍根菩薩著此虛空。得此三昧故。離著虛空等諸法。亦不染著是三昧。如人沒在泥中有人挽出鎖腳為奴。如有三昧能離著虛空。而復著此三昧亦如是。今是三昧能離著虛空。亦自離著。 離著虚空不染三昧とは、菩薩は般若波羅蜜を行じて、諸法を観れば、畢竟空にして不生不滅なること、虚空の如く、物の喻うべき無し。鈍根の菩薩は、此の虚空に著するも、此の三昧を得るが故に、虚空等の諸法に著するを離るれば、亦た是の三昧にも染著せず。人の泥中に没して在るに、有る人引出して脚に鎖して奴と為すが如く、有る三昧は能く虚空に著するを離れしめ、復た此の三昧に著すること亦た是の如きが如く、今、是の三昧は、能く虚空に著するを離れ、亦た自らに著するをも離る。
『離著虚空不染三昧』とは、
『菩薩は般若波羅蜜を行じて、諸法を観れば!』、
『諸法は畢竟空であり、不生不滅であり!』、
『虚空のように!』、
『喻えられる物が無い( there is nothing to be compared )!』。
『鈍根の菩薩』は、
此の、
『虚空にすら!』、
『著するのである!』が、
是の、
『三昧を得る!』が故に、
『虚空等の諸法に著すること!』を、
『離れ!』、
亦た、
是の、
『三昧』に、
『染著することもない!』。
譬えば、
『人が、泥中に没して在る!』時、
有る、
『人が、引出して!』、
『鎖を、脚につけ!』、
『奴と為すように!』、
有る、
『三昧』は、
『虚空に著する!』のを、
『離れさせ!』、
復た、
是の、
『三昧に著する!』のも、
是のように、
『離れさせるように!』、
今、
是の、
『三昧』は、
『虚空に著する!』のを、
『離れさせ!』、
復た、
自ら、
『三昧に著する!』のも、
『離れさせるのである!』。
  (ゆ):梵語 aupamya の訳、類似/同等の状態( the state or condition of resemblance or equality, similitude, comparison, analogy )の義。
問曰。佛多說諸三昧。汝何以但說諸法。 問うて曰く、仏は多く諸三昧を説きたまえるに、汝は何を以ってか、但だ諸法を説く。
問い、
『仏』は、
多く( mainly )、
『諸の三昧』を、
『説かれた!』のに、
お前は、何故、
但だ( only )、
『諸の法』を、
『説くのか?』。
答曰。佛多說果報。論者合因緣果報說。譬如人觀身不淨得不淨三昧。身是因緣。三昧是果。又如人觀五眾無常苦空等。得七覺意三昧。能生八聖道四沙門果。 答えて曰く、仏は多く果報を説きたもうも、論者は因縁と果報と合して説く。譬えば人の身の不浄を観て、不浄三昧を得れば、身は是れ因縁、三昧は是れ果なるが如し。又人の五衆の無常、苦、空等を観て、七覚意三昧を得れば、能く八聖道、四沙門果を生ずるが如し。
答え、
『仏は、多く果報を説かれた!』ので、
『論者』は、
『因縁、果報を合して!』、
『説くのである!』。
譬えば、
『人が、身の不浄を観て!』、
『不浄三昧』を、
『得たとすれば!』、
『身は、因縁であり!』、
『三昧』は、
『果であるようなものであり!』、
又、
『人が、五衆の無常、苦、空等を観て!』、
『七覚意三昧』を、
『得れば!』、
即ち、
『八聖道、四沙門果』を、
『生じることができるようなものである!』。
復次佛應適眾生故但說一法。論者廣說分別諸事。譬如一切有漏皆是苦因。而佛但說愛。一切煩惱滅名滅諦。佛但說愛盡。 復た次ぎに、仏は応に衆生に適(かな)うべきが故に但だ一法を説きたまい、論者は広く説いて、諸事を分別す。譬えば一切の有漏は皆是れ苦因なるに、仏は但だ愛のみを説きたまい、一切の煩悩の滅を滅諦と名づくるに、仏は但だ愛の尽くるを説きたもうが如し。
復た次ぎに、
『仏』は、
『衆生に適う( it is suitable for every being )!』が故に、
但だ、
『一法の三昧』を、
『説かれたのであり!』、
『論者』は、
『広く説く為め!』の故に、
『諸事』を、
『分別したのである!』。
譬えば、
『一切の有漏は、皆苦因である!』が、
『仏』は、
但だ、
『愛』を、
『説かれただけであり!』、
『一切の煩悩の滅は、滅諦である!』が、
『仏』は、
但だ、
『愛が尽きる!』のを、
『説かれたようなものである!』。
是菩薩於諸觀行中必不疑於諸三昧。未了故。佛但說三昧。論者說諸法。一切三昧皆已在中。 是の菩薩は、諸観行中に於いて必ず疑わざるも、諸の三昧に於いては未だ了せざるが故に、仏は但だ三昧を説きたもうに、論者の諸法を説くは、一切の三昧は皆已に中に在ればなり。
是の、
『菩薩』は、
『諸の観行中に於いて!』は、
『必定していて!』、
『疑わない!』が、
未だ、
『諸の三昧に於いては!』、
『了らかでない!』が故に、
『仏』は、
但だ、
『三昧のみ!』を、
『説かれた!』が、
『論者が、諸法を説く!』のは、
一切の、
『三昧』は、
『皆、諸法中に在るからである!』。
是諸三昧末後。皆應言用無所得。以同般若故。如是等無量無邊三昧和合。名為摩訶衍
大智度論卷第四十七
是の諸三昧の末後には、皆応に、『無所得を用う』、と言うべきは、般若に同ずるを以っての故に、是れ等の如き無量、無辺の三昧の和合を名づけて、摩訶衍と為せばなり。
大智度論巻第四十七
是の、
『諸三昧の末後』に、
皆、
『無所得を用いるからである!』と、
『説かれなくてはならない!』のは、
是の、
『諸の三昧の和合』は、
『般若と同じであるからであり!』、
是の故に、
是れ等のような、
『無量、無辺の三昧の和合』を、
『摩訶衍と称するのである!』。

大智度論巻第四十七


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