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巻第四十七之下
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攝諸法海三昧者。如一切眾流皆歸於海。三乘法皆入是三昧中亦如是。又諸餘三昧皆入是三昧中。如四禪四無色中攝諸解脫九次第等皆入其中。 |
摂諸法海三昧とは、一切の衆流の、皆、海に帰するが如く、三乗の法は、皆、是の三昧中に入ること、亦た是の如し。又諸余の三昧も、皆、是の三昧中に入ること、四禅、四無色中に、諸の解脱、九次第等を摂し、皆、其の中に入るが如し。 |
『摂諸法海三昧』とは、 一切の、 『河川』が、 皆、 『海』に、 『帰する!』ように、 『三乗』の、 『法』も亦た、 是のように、 皆、 是の、 『三昧』中に、 『入る!』のであるが、 又、 諸余の、 『三昧』も、 皆、 是の、 『三昧』中に、 『入る!』のであり、 例えば、 『四禅』、 『四無色定』中に、 諸の、 『解脱』や、 『九次第定』等を摂して、 皆、 其の中に、 『入る!』のと同じである。
経曰:「云何名攝諸法海三昧。住是三昧能攝諸三昧如大海水。是名攝諸法海三昧。」 |
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遍覆虛空三昧者。是虛空無量無邊。是三昧力悉能遍覆虛空。或結加趺坐。或放光明。或以音聲充滿其中。 |
遍覆虚空三昧とは、是れ虚空は無量、無辺なり。是の三昧の力は、悉く、能く遍く、虚空を覆い、或いは結跏趺坐し、或いは光明を放ち、或いは音声を以って、其の中に充満す。 |
『遍覆虚空三昧』とは、 是の、 『虚空』は、 『無量』、 『無辺』である!が、 是の、 『三昧』の、 『力』は、 悉くが、 『虚空』を、 『遍く!』、 『覆う!』ことができ、 或いは、 『結跏趺坐』して、 或いは、 『光明』を放って、 或いは、 『音声』を以って、 其の中に、 『充満』する!のである。
経曰:「云何名遍覆虛空三昧。住是三昧遍覆諸三昧如虛空。是名遍覆虛空三昧。」 |
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金剛輪三昧者。如真金剛輪所往無礙。得是三昧者。於諸法中所至無礙。 |
金剛輪三昧とは、真の金剛輪の往く所無礙なるが如く、是の三昧を得る者は、諸法中に於いて、至る所無礙なり。 |
『金剛輪三昧』とは、 譬えば、 真の、 『金剛輪(戦車の如し)』は、 『往く!』所が、 『無礙』である!ように、 是の、 『三昧』を得た!者は、 諸の、 『法』中に於いて、 『至る!』所が、 『無礙』である。
経曰:「云何名金剛輪三昧。住是三昧能持諸三昧。分是名金剛輪三昧。」 金剛輪(こんごうりん):金剛で造られた輪の意。転輪聖王の七宝の一。又金輪宝、金輪、或いは単に輪とも云う。直径凡そ2メートル80センチの車輪状の武器。蓋し今の戦車の如きものなり。『大智度論巻7(上)注:七宝、巻25(下)注:輪』参照。 |
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復次能分別諸三昧分界故名輪。輪分界也。 |
復た次ぎに、能く諸の三昧を分別して、界を分くるが故に輪と名づく。輪とは、界を分くるなり。 |
復た次ぎに、 『輪』とは、 諸の、 『三昧』を分別して、 『界』を、 『分ける!』が故に、 『輪』という!のであり、 『輪』とは、 『界』を、 『分ける!』ことである。 |
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斷寶三昧者。如有寶能淨治諸寶。是三昧亦如是。能除諸三昧煩惱垢。五欲垢易遣。諸三昧垢難卻。 |
断宝三昧とは、有る宝は、能く、諸の宝を浄治するが如く、是の三昧も、亦た是の如く、能く諸の三昧の煩悩の垢を除く。五欲の垢は、遣り易く、諸の三昧の垢は、却け難し。 |
『断宝三昧』とは、 譬えば、 有る、 『宝』が、 諸の、 『宝』を、 『浄治』する!ように、 是の、 『三昧』も亦た、 是のように、 諸の、 『三昧』の、 『煩悩』の、 『垢』を、 『除く!』ことができる。 何故ならば、 『五欲』の、 『垢』は、 『遣りやすい!』が、 諸の、 『三昧』の、 『垢』は、 『却けがたい!』のである。
経曰:「云何名斷寶三昧。住是三昧斷諸三昧煩惱垢。是名斷寶三昧。」 浄治(じょうじ):浄めて正す。 遣(けん):はらう。おう。さる。 |
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能照三昧者。得是三昧能以十種智慧照了諸法。譬如日出照閻浮提事皆顯了。 |
能照三昧とは、是の三昧を得れば、能く十種の智慧を以って、諸法を照了すること、譬えば、日出でて、閻浮提を照らせば、事は、皆、顕了なるが如し。 |
『能照三昧』とは、 是の、 『三昧』を得れば、 『十種』の、 『智慧(十智)』を以って、 諸の、 『法』を、 『照了』する!ことができ、 譬えば、 『日』が出て、 『閻浮提』を照らせば、 『事』が、 皆、 『顕了』する!のと同じである。
経曰:「云何名能照三昧。住是三昧能以光明顯照諸三昧。是名能照三昧。」 照了(しょうりょう):明るく照らしてはっきりさせる。 顕了(けんりょう):むきだしになってはっきりする。 |
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不求三昧者。觀諸法如幻化。三界愛斷故都無所求。 |
不求三昧とは、諸法は、幻化の如しと観て、三界の愛断ずるが故に、都て求むる所無し。 |
『不求三昧』とは、 諸の、 『法』は、 『幻化』のようだ!と、 『観る!』ことであり、 『三界』の、 『愛』を、 『断ずる!』が故に、 都(すべ)て、 『求める!』所が、 『無い!』ことである。
経曰:「云何名不求三昧。住是三昧無法可求。是名不求三昧。」 |
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無住三昧者。是三昧名無住三昧。住是三昧中觀諸法。念念無常無有住時。 |
無住三昧とは、是の三昧を無住三昧と名づくるは、是の三昧中に住して、諸法を観るに、念念無常にして、住する時の有ること無ければなり。 |
『無住三昧』とは、 是の、 『三昧』を、 『無住三昧』という!のは、 是の、 『三昧』中に、 住して、 諸の、 『法』を観れば、 『念念(各瞬間)』に、 変じて、 『常』が、 『無い!』が故に、 『住する!』、 『時』が、 『無い!』からである。
経曰:「云何名無住三昧。住是三昧一切三昧中不見法住。是名無住三昧。」 |
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無心三昧者。即是滅盡定或無想定。何以故。佛自說因緣。入是三昧中諸心心數法不行。 |
無心三昧とは、即ち是れ滅尽定、或いは無想定なり。何を以っての故に、仏自ら因縁を説きたまわく、『是の三昧中に入れば、諸の心、心数法行ぜず。』と。 |
『無心三昧』とは、 即ち、 是れは、 『滅尽定』であり、 或いは、 『無想定』である。 何故ならば、 『仏』は、 自ら、 『因縁』を、こう説かれている!―― 是の、 『三昧』中に入れば、 諸の、 『心』、 『心数法』は、 『行ずる!』ことがない、と。
経曰:「云何名無心三昧。住是三昧心心數法不行。是名無心三昧。」 |
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淨燈三昧者。燈名智慧燈。諸煩惱名垢。離是垢慧則清淨。 |
浄灯三昧とは、灯は、智慧の灯に名づけ、諸の煩悩を垢と名づく。是の垢を離るる慧は、則ち清浄なり。 |
『浄灯三昧』とは、 『灯』とは、 『智慧』の、 『灯』である! 諸の、 『煩悩』を、 『垢』といい、 是の、 『垢』を、 『離れる!』ので、 則ち、 『智慧』が、 『清浄』となる!のである。
経曰:「云何名淨燈三昧。住是三昧於諸三昧中作明如燈。是名淨燈三昧。」 |
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無邊明三昧者。無邊名無量無數。明有二種。一者度眾生故身放光明。二者分別諸法總相別相故智慧光明。得是三昧。能照十方無邊世界及無邊諸法。 |
無辺明三昧とは、無辺は、無量、無数に名づく。明には、二種有り、一には衆生を度するが故に、身より光明を放ち、二には諸法の総相、別相を分別するが故の智慧の光明なり。是の三昧を得れば、能く十方無辺の世界、及び無辺の諸法を照らす。 |
『無辺明三昧』とは、 『無辺』は、 『無量』、 『無数』である!ことをいい、 『明』には、 『二種』有り、 一には、 『衆生』を、 『度する!』が故に、 『身』より、 『放つ!』、 『光明』である。 二には、 諸の、 『法』の、 『総相』、 『別相』を、 『分別』する!が故の、 『智慧』の、 『光明』である。 是の、 『三昧』を得れば、 『十方』の、 『無辺』の、 『世界』を、 『照らし』、 及び、 『無辺』の、 『諸法』を、 『照らす!』ことができる。
経曰:「云何名無邊明三昧。住是三昧與諸三昧作無邊明。是名無邊明三昧。」 |
能作明三昧者。於諸法能為作明。如闇中然炬。 |
能作明三昧とは、諸法に於いて、能く為に明と作ること、闇中の炬を然(もや)すが如し。 |
『能作明三昧』とは、 諸の、 『法』に於いて、 『明』と、 『作る!』ことができ、 譬えば、 『闇』中に、 『炬(たいまつ)』を、 『燃やす!』のと同じである。
経曰:「云何名能作明三昧。住是三昧即時能為諸三昧作明。是名能作明三昧。」 |
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普照明三昧者。如轉輪聖王寶珠於軍眾外四邊各照一由旬。菩薩得是三昧。普照諸法種種門。 |
普照明三昧とは、転輪聖王の宝珠の軍衆の外に於いて、四辺に、各、一由旬を照らすが如く、菩薩は、是の三昧を得れば、普く、諸法の種種の門を照らす。 |
『普照明三昧』とは、 譬えば、 『転輪聖王』の、 『宝珠』が、 『軍衆』の外の、 『四辺』を、 各、 『一由旬』、 『照らす!』ように、 『菩薩』が、 是の、 『三昧』を得れば、 普く、 諸の、 『法』の、 種種の、 『門』を、 『照らす!』のである。
経曰:「云何名普照明三昧。住是三昧即能照諸三昧。門是名普照明三昧。」 |
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堅淨諸三昧三昧者。菩薩得是三昧力故。令諸三昧清淨堅牢。 |
堅浄諸三昧三昧とは、菩薩は、是の三昧の力を得るが故に、諸の三昧をして、清浄、堅牢ならしむ。 |
『堅浄諸三昧三昧』とは、 『菩薩』は、 是の、 『三昧』の、 『力』を、 『得る!』が故に、 諸の、 『三昧』を、 『清浄』にし、 『堅牢』にする!のである。
経曰:「云何名堅淨諸三昧三昧。住是三昧能堅淨諸三昧相。是名堅淨諸三昧三昧。」 |
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無垢明三昧者。三解脫門相應三昧。得是三昧。離一切三昧垢。離一切無明愛等。亦能照一切諸三昧。 |
無垢明三昧とは、三解脱門相応の三昧なり。是の三昧を得れば、一切の三昧の垢を離れ、一切の無明、愛等を離れ、亦た能く、一切の諸三昧を照らす。 |
『無垢明三昧』とは、 『三解脱門』に、 『相応』する! 『三昧』であり、 是の、 『三昧』を得れば、 一切の、 『三昧』の、 『垢』を、 『離れる!』ことができ、 一切の、 『無明』や、 『愛』等を、 『離れる!』ので、 亦た、 一切の、 諸の、 『三昧』を、 『照らす!』こともできる。
経曰:「云何名無垢明三昧。住是三昧能除諸三昧垢。亦能照一切三昧。是名無垢明三昧。」 |
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歡喜三昧者。得是三昧於諸法生歡喜樂。何者是。有人言。初禪是如佛說有四修定。一者修是三昧得現在歡喜樂。二者修定得知見。見眾生生死。三者修定得智慧分別。四者修定得漏盡。 |
歓喜三昧とは、是の三昧を得れば、諸法に於いて、歓喜、楽を生ず。何者か、是れなる。有る人の言わく、『初禅、是れなり。仏の説きたまえるが如し、四の修定有り、一には、是の三昧を修して、現在の歓喜、楽を得。二には、定を修して知見を得、衆生の生死を見る。三には、定を修して、智慧もて分別するを得。四には、定を修して、漏尽を得、と。』と。 |
『歓喜三昧』とは、 是の、 『三昧』を得れば、 諸の、 『法』に於いて、 『歓喜』と、 『楽』とを、 『生ずる!』のである。 是の、 『三昧』とは何か? 有る人は、 こう言う、―― 是れは、 『初禅』である! 『仏』は、 是れを、こう説かれた、―― 『定』を、 『修める!』には、 『四種』有る! 一には、 是の、 『三昧』を修めて、 『現在』の、 『歓喜』と、 『楽』を、 『得る!』ものである。 二には、 『定』を修めて、 『知見』を得、 『衆生』の、 『生死』を、 『見る!』ものである。 三には、 『定』を修めて、 『智慧』を得、 『分別』する!ことである。 四には、 『定』を修めて、 『漏尽』を、 『得る!』ことである、と。
経曰:「云何名歡喜三昧。住是三昧能受諸三昧喜。是名歡喜三昧。」 参考:『阿毘達磨集異門足論巻7』:『四修定者。一有修定若習若修若多所作。為能獲得現法樂住。二有修定若習若修若多所作。為能獲得最勝知見。三有修定若習若修若多所作。為能獲得勝分別慧。四有修定若習若修若多所作。為能獲得諸漏永盡。云何修定若習若修若多所作為能獲得現法樂住。答於初靜慮所攝離生喜樂。俱行心一境性。若習若修堅作常作精勤修習。是名修定若習若修若多所作為能獲得現法樂住。云何修定若習若修若多所作為能獲得最勝知見。答於光明想俱行心一境性。若習若修堅作常作精勤修習。是名修定若習若修若多所作為能獲得最勝知見。云何修定若習若修若多所作為能獲得勝分別慧。答於受想尋觀俱行心一境性。若習若修堅作常作精勤修習。是名修定若習若修若多所作為能獲得勝分別慧。云何修定若習若修若多所作為能獲得諸漏永盡。答於第四靜慮所攝。清淨捨念俱行。阿羅漢果無間道。攝心一境性。若習若修堅作常作精勤修習。是名修定若習若修若多所作為能獲得諸漏永盡。如薄伽梵於波羅衍拏起問中說 斷欲想憂怖 離惛沈睡眠 及惡作掉舉 得捨念清淨 法輪為上首 得正智解脫 我說斷無明 得勝分別慧』 |
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復次得是三昧。生無量無邊法歡喜樂。 |
復た次ぎに、是の三昧を得れば、無量、無辺の法の歓喜、楽を生ず。 |
復た次ぎに、 是の、 『三昧』を得れば、 『無量、無辺』の、 『法』に、 『歓喜』と、 『楽』を、 『生ずる!』のである。 |
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電光三昧者。如電暫現行者得路。得是三昧者無始世界來失道還得。 |
電光三昧とは、電(いなづま)暫く現れて、行者路を得るが如し。是の三昧を得る者は、無始の世界より来、道を失えるも、還(ま)た得。 |
『電光三昧』とは、 譬えば、 『電(いなづま)』が、 『暫く』、 『現れる!』と、 『行者』が、 『道』を、 『得る!』ように、 是の、 『三昧』を得れば、 『無始』の、 『世界』に於いて、 『失った!』、 『道』を、 『還(ま)た』、 『得る!』ことができる。
経曰:「云何名電光三昧。住是三昧照諸三昧如電光。是名電光三昧。」 |
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無盡三昧者。得是三昧滅諸法無常等相。即入不生不滅。 |
無尽三昧とは、是の三昧を得れば、諸法の無常等の相を滅して、即ち不生不滅に入る。 |
『無尽三昧』とは、 是の、 『三昧』を得れば、 諸の、 『法』の、 『無常』等の、 『相』を、 『滅する!』ことができ、 即ち、 『不生、不滅』に、 『入る!』のである。
経曰:「云何名無盡三昧。住是三昧於諸三昧不見盡。是名無盡三昧。」 |
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威コ三昧者。菩薩得是三昧威コ莊嚴。 |
威徳三昧とは、菩薩、是の三昧を得れば、威徳荘厳す。 |
『威徳三昧』とは、 『菩薩』は、 是の、 『三昧』を得れば、 『威徳』が、 『荘厳』する!ことになる。
経曰:「云何名威コ三昧。住是三昧於諸三昧威コ照然。是名威コ三昧。」 |
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離盡三昧者。菩薩得是三昧。無量阿僧祇劫善本功コ必得果報不失故。 |
離尽三昧とは、菩薩、是の三昧を得れば、無量阿僧祇劫の善本の功徳を必ず得。果報は、失せざるが故なり。 |
『離尽三昧』とは、 『菩薩』は、 是の、 『三昧』を得れば、 『無量阿僧祇劫』の、 『善本(善行)』の、 『功徳(果報)』を、 『必ず』、 『得る!』が、 『果報』は、 『失われない!』からである。
経曰:「云何名離盡三昧。住是三昧不見諸三昧盡。是名離盡三昧。」 |
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不動三昧者。有人言。第四禪是不動。欲界中五欲故動。初禪中覺觀故動。二禪中喜多故動。三禪中樂多故動。四禪離出入息無諸動相故不動。有人言。四無色定是不動。離諸色故。有人言。滅盡定是不動。離心心數法故。有人言。知諸法實相畢竟空智慧相應三昧故不動。得是三昧已。於一切三昧一切法都不戲論。 |
不動三昧とは、有る人の言わく、『第四禅は、是れ不動なり。欲界中には、五欲の故に動じ、初禅中には、覚観の故に動じ、二禅中には、喜多きが故に動じ、三禅中には、楽多きが故に動じ、四禅には、出入息を離れて、諸の動相無きが故に、不動なり。』と。有る人の言わく、『四無色定は、是れ不動なり。諸色を離るるが故なり。』と。有る人の言わく、『滅尽定は、是れ不動なり。心、心数法を離るるが故なり。』と。有る人の言わく、『諸法の実相は、畢竟じて空なりと知れば、智慧に相応する三昧の故に不動なり。是の三昧を得已れば、一切の三昧、一切の法に於いて、都て戯論せず。』と。 |
『不動三昧』とは、 有る人は、 こう言っている、―― 『第四禅』は、 是れが、 『不動』である! 『欲界』中は、 『五欲』の故に、 『動』であり、 『初禅』中は、 『覚観』の故に、 『動』であり、 『二禅』中は、 『喜』が多い!が故に、 『動』であり、 『三禅』中は、 『楽』が多い!が故に、 『動』である!が、 『四禅』中は、 『出入息』を、 『離れる!』ので、 『動相』が、 『無い!』が故に、 『不動』である!と。 有る人は、 こう言っている、―― 『四無色定』は、 是れが、 『不動』である! 何故ならば、 諸の、 『色』を、 『離れる!』からである、と。 有る人は、 こう言っている、―― 『滅尽定』は、 是れが、 『不動』である! 何故ならば、 『心』、 『心数法』を、 『離れる!』からである、と。 有る人は、 こう言っている、―― 諸の、 『法』の、 『実相』は、 畢竟じて、 『空である!』と、 『知る!』、 『智慧』に、 『相応』する! 『三昧』の故に、 『不動』であり、 是の、 『三昧』を得た!ならば、 一切の、 『三昧』、 一切の、 『法』に於いて、 『都て』、 『戯論』する!ことはない、と。
経曰:「云何名不動三昧。住是三昧令諸三昧不動不戲。是名不動三昧。」 |
不退三昧者。住是三昧不見諸三昧退。論者言。菩薩住是三昧常不退轉。即是阿鞞跋致智慧相應三昧。不退者不墮頂。如不墮頂義中說。 |
不退三昧とは、是の三昧に住すれば、諸の三昧より退くを見ず。論者の言わく、『菩薩は、是の三昧に住すれば、常に退転せず。即ち、是れ阿鞞跋致の智慧相応の三昧なり。』と。退せずとは、頂より堕せざるなり。『不堕頂』の義中に説けるが如し。 |
『不退三昧』とは、 是の、 『三昧』に住すれば、 諸の、 『三昧』より、 『退く!』のを、 『見る!』ことがない、とは、―― 『論者』は、 こう言っている、―― 『菩薩』は、 是の、 『三昧』に住すれば、 常に、 『退転しない!』とは、 即ち、 是れは、 『阿鞞跋致』の、 『智慧』に、 『相応』する! 『三昧』である!と。 『退かない!』とは、 『頂』より、 『堕ちない!』ことであるが、 是れは、 『不堕頂』の義中に説いた!とおりである。
経曰:「云何名不退三昧。住是三昧能不見諸三昧退。是名不退三昧。」 参考:『大智度論巻27』:『復次菩薩摩訶薩。入是法位中。不復墮凡夫數。名為得道人。一切世間事。欲壞其心不能令動。閉三惡趣門。墮諸菩薩數中。初生菩薩家。智慧清淨成熟。復次住頂不墮。是名菩薩法位。』 参考:『大智度論巻41』:『問曰。是一事何以故。名為頂名為位名為不生。答曰。於柔順忍無生忍中間。所有法名為頂。住是頂上直趣佛道不復畏墮。譬如聲聞法中煖忍中間名為頂法。問曰。若得頂不墮今云何言頂墮。答曰。垂近應得而失者名為墮。得頂者智慧安隱則不畏墮。譬如上山既得到頂則不畏墮。未到之間傾危畏墮。頂搨キ堅固名為菩薩位。』 |
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日燈三昧者。得是三昧。能照一切諸法種種門及諸三昧。譬如日出能照一切閻浮提。 |
日灯三昧とは、是の三昧を得れば、能く、一切の諸法の種種の門、及び諸の三昧を照らす。譬えば、日出づれば、能く、一切の閻浮提を照らすが如し。 |
『日灯三昧』とは、 是の、 『三昧』を得れば、 一切の、 諸の、 『法』の、 種種の、 『門』を、 『照らす!』ことができ、 及び、 諸の、 『三昧』を、 『照らす!』ことができる。 譬えば、 『日』が出て、 一切の、 『閻浮提』を、 『照らす!』のと同じである。
経曰:「云何名日燈三昧。住是三昧放光照諸三昧門。是名日燈三昧。」 |
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月淨三昧者。如月從十六日漸減至三十日都盡。凡夫人亦如是。諸善功コ漸漸減盡墮三惡道。如月從一日漸漸搨キ至十五日光明清淨。菩薩亦如是。得是三昧。從發心來世世漸搗P根。乃至得無生法忍授記。智慧清淨利益眾生。又能破諸三昧中無明。 |
月浄三昧とは、月の十六日より、漸く減じて、三十日に至れば、都て尽くるが如く、凡夫人も、亦た是の如く、諸善の功徳漸漸に減じ尽くせば、三悪道に堕す。月の一日より、漸漸に増長して、十五日に至れば、光明清浄なるが如く、菩薩も、亦た是の如く、是の三昧を得れば、発心より来、世世に漸く、善根を増し、乃至無生法忍の授記を得て、智慧清浄にして、衆生を利益し、又能く、諸三昧中の無明を破す。 |
『月浄三昧』とは、 譬えば、 『月』が、 『十六日』より、 漸減して、 『三十日』に至る!と、 『都(すべ)て』、 『尽きる!』ように、 『凡夫人』も、 亦た、 是のように、 諸の、 『善行』の、 『功徳』が、 漸減して、 『尽きた!』ときには、 『三悪道』に、 『堕ちる!』のであるが、 『月』が、 『一日』より、 漸増して、 『十五日』に至れば、 『光明』が、 『清浄』である!ように、 『菩薩』も、 亦た、 是のように、 是の、 『三昧』を得れば、 『発心』より、 『世世』に、 『善根』を、 『漸増』し、 乃至、 『無生法忍』の、 『授記』を得て、 『智慧』が、 『清浄』となって、 『衆生』を、 『利益』する!のである。 又、 諸の、 『三昧』中の、 『無明』を、 『破る!』こともできる。
経曰:「云何名月淨三昧。住是三昧能除諸三昧闇。是名月淨三昧。」 |
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淨明三昧者。明名慧垢為礙。得是三昧者於諸法無障礙。以是故佛於此說住是三昧中得四無礙智。 |
浄明三昧とは、明を慧と名づけ、垢を礙と為す。是の三昧を得る者は、諸法に於いて障礙無し。是を以っての故に、仏は、此に於いて、『是の三昧中に住すれば、四無礙智を得。』と説きたまえり。 |
『浄明三昧』とは、 『明』とは、 『慧』であり、 『垢(不浄)』とは、 『礙(さわり)』である。 是の、 『三昧』を得れば、 諸の、 『法』に於いて、 『障礙』が、 『無くなる!』ので、 是の故に、 『仏』は、 此れに就いて、こう説かれたのである、―― 是の、 『三昧』中に住すれば、 『四無礙智』を、 『得る!』、と。
経曰:「云何名淨明三昧。住是三昧於諸三昧得四無礙智。是名淨明三昧。」 |
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問曰。佛何以獨於此中說四無礙智。 |
問うて曰く、仏は、何を以ってか、独り此の中にのみ、四無礙智を説きたまえる。 |
問い、 『仏』は、 何故、 『此の中』に於いてのみ、 『四無礙智』を、 『説かれた!』のですか? |
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答曰。於三昧中無覺觀心。所可樂說與定相違。是事為難。此三昧力故得四無礙智。四無礙智義如先說。 |
答えて曰く、三昧中に於いては、覚観の心無く、楽説すべき所の、定と相違すれば、是の事を難しと為すも、此の三昧の力の故に、四無礙智を得るなり。四無礙智の義は、先に説けるが如し。 |
答え、 『三昧』中に於いては、 『覚、観』の、 『心』が、 『無い!』ので、 『楽説』する!者は、 『定(三昧)』と、 『相違』する!、 故に、 是の、 『事(楽説)』は、 『難しい!』のであるが、 此の、 『三昧』の、 『力』の故に、 『四無礙智』を得る!のである。 『四無礙智』の、 『義』は、 先に説いた!とおりである。
所可(しょか):堪うる所。堪任する者の意。 |
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能作明三昧者。明即是智慧。諸智慧中般若智慧最第一。是般若相應三昧。能作明 |
能作明三昧とは、明は、即ち是れ智慧なり。諸の智慧中に、般若の智慧は最も第一なり。是の般若相応の三昧は、能く明と作る。 |
『能作明三昧』とは、 『明』とは、 即ち、 『智慧』であり、 諸の、 『智慧』中に、 『般若波羅蜜』は、 『最第一』である。 是の、 『般若』に、 『相応』する!ので、 『三昧』が、 『明』と、 『作る!』のである。
経曰:「云何名能作明三昧。住是三昧於諸三昧門能作明。是名能作明三昧。」 |
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作行三昧者。得是三昧力。能發起先所得諸三昧。 |
作行三昧とは、是の三昧の力を得れば、能く、先に得たる所の諸の三昧を発起す。 |
『作行三昧』とは、 是の、 『三昧』の、 『力』を得れば、 先に、 『得た!』 諸の、 『三昧』の、 『作す!』所を、 『発起する!』ことができる。
経曰:「云何名作行三昧。住是三昧能令諸三昧各有所作。是名作行三昧。」 |
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知相三昧者。得是三昧見一切諸三昧中有實智慧相。 |
知相三昧とは、是の三昧を得れば、一切の諸の三昧中に、実の智慧の相有るを見る。 |
『知相三昧』とは、 是の、 『三昧』を得れば、 一切の、 諸の、 『三昧』中に、 実の、 『智慧』の、 『相』が、 『有る!』のを見る。
経曰:「云何名知相三昧。住是三昧見諸三昧知相。是名知相三昧。」 |
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如金剛三昧者。得是三昧以智慧能通達一切諸法。亦不見通達。用無所得故。 |
如金剛三昧とは、是の三昧を得れば、智慧を以って、能く、一切の諸法に通達するも、亦た通達するを見ず。無所得を用うるが故なり。 |
『如金剛三昧』とは、 是の、 『三昧』を得れば、 『智慧』を以って、 一切の、 『諸法』に、 『通達』する!ことができるが、 亦た、 『通達』した!と、 『見る!』ことはない。 何故ならば、 諸の、 『法』には、 『得る!』所が、 『無い!』からである。
経曰:「云何名如金剛三昧。住是三昧能貫達諸法亦不見達。是名如金剛三昧。」 |
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問曰。三種三昧何以皆言金剛。 |
問うて曰く、三種の三昧は、何を以ってか、皆、金剛と言う。 |
問い、 『三種(金剛、金剛輪、如金剛)』の、 『三昧』は、 何故、 皆、 『金剛』と言う!のですか? |
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答曰。初言金剛。中言金剛輪。後言如金剛。如金剛三昧。佛說能貫穿一切諸法亦不見。是金剛三昧能通達諸三昧。金剛輪三昧者。得是三昧即能持諸三昧輪。是皆佛自說義。 |
答えて曰く、初には、金剛と言い、中には、金剛輪と言い、後には、如金剛と言う。如金剛三昧を、仏は、『能く、一切の諸法を貫穿するも、亦た見ず。』と説きたまい、是の金剛三昧は、『能く、諸三昧に通達す。』と、『金剛輪三昧』には、『是の三昧を得れば、即ち能く、諸三昧の輪を持す。』と、是れ皆、仏、自ら、義を説きたまえり。 |
答え、 初には、 『金剛』と言い、 中には、 『金剛輪』と言い、 後には、 『如金剛』と言う!のであるが、 『如金剛三昧』を、 『仏』は、 こう説かれている、―― 一切の、 『諸法』を、 『貫穿(通達)』する!が、 亦た、 『見る!』ことはない、と。 是の、 『金剛三昧』を、 こう説かれている、―― 諸の、 『三昧』に、 『通達』する!と。 『金剛輪三昧』を、 こう説かれている、―― 是の、 『三昧』を得た!ならば、 即ち、 諸の、 『三昧』の、 『輪』を、 『持つ!』ことができる、と。 是れは、 皆、 『仏』、 自らが、 『義』を説かれた!のである。 |
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論者言。如金剛三昧者。能破一切諸煩惱結使無有遺餘。譬如釋提桓因手執金剛破阿修羅軍。即是學人末後心。從是心次第得三種菩提。聲聞菩提辟支佛菩提佛無上菩提。金剛三昧者。能破一切諸法。入無餘涅槃更不受有。譬如真金剛能破諸山令滅盡無餘。金剛輪者。此三昧能破一切諸法無遮無礙。譬如金剛輪轉時無所不破無所障礙。 |
論者の言わく、『如金剛三昧とは、能く、一切の諸の煩悩、結使を破して、遺余有ること無きなり。譬えば、釈提桓因の手に金剛を執りて、阿修羅の軍を破するが如し。即ち、是れ学人の末後の心にして、是の心に従いて、次第に三種の菩提を得。声聞の菩提、辟支仏の菩提、仏の無上菩提なり。金剛三昧とは、能く、一切の諸法を破して、無余涅槃に入り、更に、有を受けざるなり。譬えば、真の金剛の、能く、諸の山を破して、滅尽ならしめ、余無きが如し。金剛輪とは、此の三昧の、能く、一切の諸法を破して、無遮無礙なること、譬えば、金剛輪の転ずる時、破せざる所無く、障礙する所無きが如し。』と。 |
『論者』は、 こう言おう、―― 『如金剛三昧』は、 一切の、 諸の、 『煩悩』、 『結使』を破って、 『遺余』が、 『無くなる!』ことである。 譬えば、 『釈提桓因』が、 手に、 『金剛』を執って、 『阿修羅』の、 『軍』を、 『破る!』のと同じである。 即ち、 是れは、 『学人』の、 『末後(最後)』の、 『心』であり、 是の、 『心』より、 次第に、 『三種』の、 『菩提』を、 『得る!』のである。 謂わゆる、 『声聞』の、 『菩提』、 『辟支仏』の、 『菩提』、 『仏』の、 『無上』の、 『菩提』である。 『金剛三昧』は、 一切の、 『諸法』を、 破って、 『無余涅槃』に、 『入る!』ことであり、 更に、 『有(後有)』を、 『受けない!』ことである。 譬えば、 真の、 『金剛』が、 『諸山』を、 破って、 『滅尽』させ、 『無余』となる!のと同じである。 『金剛輪』とは、 此の、 『三昧』で、 一切の、 『諸法』を、 『破る!』時には、 『遮止』する!者も、 『障礙』する!者も、 『無い!』ことをいう。 譬えば、 『金剛輪』が、 『転ずる!』時には、 『破らない!』所も、 『障礙する!』所も、 『無い!』のと同じである。 |
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復次初金剛。二金剛輪。三如金剛。名字分別佛說其義亦異。論者釋其因緣亦異。不應致難。 |
復た次ぎに、初には、金剛、二には、金剛輪、三には、如金剛と、名字分別し、仏も、其の義を説いて、亦た異なりたまえば、論者、其の因縁を釈して、亦た異なるも、応に難を致すべからず。 |
復た次ぎに、 初には、 『金剛』と言い、 二には、 『金剛輪』と言い、 三には、 『如金剛』と言って、 『名字』を、 『分別』し、 『仏』が、 其の、 『義』を、 『説かれる!』と、 亦た、 『異なる!』のであるから、 『論者』が、 其の、 『因縁』を、 『釈する!』時に、 亦た、 『異なった!』としても、 当然、 『難』を、 『致す!』べきではない。 |
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心住三昧者。心相輕疾遠逝無形。難制難持常是動相。如獼猴子。又如掣電。亦如蛇舌。得是三昧故能攝令住。乃至天欲心不動轉。何況人欲 |
心住三昧とは、心相の軽疾なること、遠く逝きて形無く、制し難く、持し難く、常に是れ動相なること、獼猴の子の如く、又掣電の如く、亦た蛇の舌の如きに、是の三昧を得るが故に、能く摂して、住まらしめ、乃至天の欲すら、心は動転せず。何に況んや、人の欲をや。 |
『心住三昧』とは、 『心』の、 『相』は、 『軽疾』であり、 『遠く』に逝き、 『形』が無い!ので、 故に、 『制し難く』、 『持ち難く』、 常に、 是れは、 『動相』であり、 譬えば、 『獼猴の子』や、 『いなづま』、 亦たは、 『蛇の舌』と同じであるが、 是の、 『三昧』を得れば、 是の、 『心』を、 『摂し』て、 『住まらせる!』ことができ、 乃至、 『天』の、 『五欲』にすら、 『動転』する!ことはない。 況して、 『人』の、 『欲』は尚更である。
掣電(せいでん):電をひく。短い時の喩。疾い喩。 経曰:「云何名心住三昧。住是三昧心不動不轉不惱。亦不念有是心。是名心住三昧。」 |
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普明三昧者。得是三昧於一切法見光明相無K闇相。如晝所見夜亦如是。如見前見後亦爾。如見上見下亦爾。心中無礙。修是三昧故得天眼通。普見光明了了無礙。善修是神通故得成慧眼。普照諸法所見無礙。 |
普明三昧とは、是の三昧を得れば、一切の法に於いて、光明の相を見て、黒闇の相無く、昼に見る所の如く、夜にも、亦た是の如し。前を見るが如く、後を見るも、亦た爾り。上を見るが如く、下を見るも、亦た爾り。心中無礙なり。是の三昧を修するが故に、天眼通を得、普く光明を見れば、了了として、無礙なり。善く是の神通を修するが故に、慧眼を成ずるを得て、普く諸法を照らせば、見る所無礙なり。 |
『普明三昧』とは、 是の、 『三昧』を得れば、 一切の、 『法』に於いて、 『光明』の、 『相』を、 『見る!』ので、 『黒闇』の、 『相』が、 『無く』なり、 譬えば、 『昼』に、 『見る!』所は、 『夜』にも、 亦た、 是のように、 『見る!』のである。 又、 『前』を、 『見る!』ように、 『後』を見たり、 『上』を、 『見る!』ように、 『下』を見たり、 『心』中を、 『見る!』時にも、 『礙(とどこおり)』が、 『無い!』のである。 是の、 『三昧』を修める!が故に、 『天眼通』を得て、 普く、 『光明』を見て、 『了了』として、 『礙』が、 『無く』なり、 善く、 是の、 『神通』を修める!が故に、 『慧眼』を成じて、 普く、 『諸法』を照らし、 『見る!』所に、 『礙』が、 『無くなる!』のである。
経曰:「云何名普明三昧。住是三昧普見諸三昧明。是名普明三昧。」 |
安立三昧者。得是三昧者一切諸功コ善法中安立牢固。如須彌山在大海安立不動。 |
安立三昧とは、是の三昧を得る者は、一切の諸の功徳、善法中に安立して、牢固なること、須弥山の、大海に在りて安立し、不動なるが如し。 |
『安立三昧』とは、 是の、 『三昧』を得る!者は、 一切の、 諸の、 『功徳』、 『善法』中に、 『安立』して、 『牢固』である! 譬えば、 『須弥山』が、 『大海』中に、 『安立』して、 『動かない!』のと同じである。
経曰:「云何名安立三昧。住是三昧於諸三昧安立不動。是名安立三昧。」 |
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寶聚三昧者。得是三昧所有國土悉成七寶。 |
宝聚三昧とは、是の三昧を得れば、有らゆる国土は、悉く、七宝と成る。 |
『宝聚三昧』とは、 是の、 『三昧』を得れば、 有らゆる、 『国土』が、 悉く、 『七宝』と、 『成る!』のである。
経曰:「云何名寶聚三昧。住是三昧普見諸三昧如見寶聚。是名寶聚三昧。」 |
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問曰。此是肉眼所見。禪定所見。 |
問うて曰く、此れは是れ肉眼の見る所なりや、禅定の見る所なりや。 |
問い、 此れは、 『肉眼』の、 『見る!』所ですか? 『禅定』の、 『見る!』所ですか? |
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答曰。天眼肉眼皆能見。何以故。外六塵不定故。行者常修習禪定。是故能轉本相。 |
答えて曰く、天眼、肉眼は、皆、能く見る。何を以っての故に、外の六塵は定まらざるが故なり。行者、常に、禅定を修習すれば、是の故に、能く本相を転ず。 |
答え、 『天眼』も、 『肉眼』も、 皆、 『見る!』ことができる。 何故ならば、 『外』の、 『六塵』は、 『定まらない!』が故に、 『行者』が、 常に、 『禅定』を、 『修習する!』ならば、 是の故に、 『本相』を、 『転ずる!』ことができる。 |
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妙法印三昧者。妙法名諸佛菩薩深功コ智慧。得是三昧得諸深妙功コ智慧。 |
妙法印三昧とは、妙法とは、諸仏、菩薩の深き功徳と、智慧に名づく。是の三昧を得れば、諸の深妙なる功徳と、智慧を得。 |
『妙法印三昧』とは、 『妙法』とは、 諸の、 『仏』、 『菩薩』の、 深い、 『功徳』と、 『智慧』であり、 是の、 『三昧』を得れば、 諸の、 深妙な、 『功徳』と、 『智慧』とを得る!ことになる。
経曰:「云何名妙法印三昧。住是三昧能印諸三昧。以無印印故。是名妙法印三昧。」 |
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法等三昧者。等有二種。眾生等法等。法等相應三昧名為法等。 |
法等三昧とは、等に二種有り、衆生等、法等なり。法等相応の三昧を名づけて、法等と為す。 |
『法等三昧』とは、 『等』には、 『二種』有り、 『衆生等』と、 『法等』であり、 是の、 『法等』に、 『相応』する! 『三昧』を、 『法等』という。
経曰:「云何名法等三昧。住是三昧觀諸法等無法不等。是名法等三昧。」 |
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斷喜三昧者。得是三昧觀諸法無常苦空無我不淨等。心生厭離。十想中一切世間不可樂想相應三昧是 |
断喜三昧とは、是の三昧を得れば、諸法の無常、苦、空、無我、不浄等を観て、心に厭離を生ず。十想中の一切世間不可楽想相応の三昧是れなり。 |
『断喜三昧』とは、 是の、 『三昧』を得て、 諸の、 『法』の、 『無常』、 『苦』、 『空』、 『無我』等を、 『観る!』ならば、 『心』に、 『遠離』を、 『生ずる!』のであり、 『十想』中の、 『一切世間不可楽想』に、 『相応』する! 『三昧』が、 是の、 『断喜三昧』である。
経曰:「云何名斷喜三昧。住是三昧斷一切法中喜。是名斷喜三昧。」 |
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到法頂三昧者。法名菩薩法。所謂六波羅蜜。到般若波羅蜜中得方便力到法山頂。得是三昧能住是法山頂。諸無明煩惱不能動搖。 |
到法頂三昧とは、法を菩薩法に名づく、謂わゆる六波羅蜜なり。到は、般若波羅蜜中に、方便の力を得て、法山の頂に到るなり。是の三昧を得て、是の法山の頂に住すれば、諸の無明の煩悩も動揺する能わず。 |
『到法頂三昧』とは、 『法』とは、 『菩薩』の、 『法』であり、 謂わゆる、 『六波羅蜜』である。 『到』とは、 『般若波羅蜜』中に、 『方便』の、 『力』を得て、 『法』の、 『山頂』に、 『到る!』ことである。 是の、 『三昧』を得れば、 是の、 『法』の、 『山頂』に、 『住まる!』ことができ、 諸の、 『無明』の、 『煩悩』も、 『動揺』させる!ことができない。
経曰:「云何名到法頂三昧。住是三昧滅諸法闇。亦在諸三昧上。是名到法頂三昧。」 |
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能散三昧者。得是三昧能破散諸法。散空相應三昧是。 |
能散三昧とは、是の三昧を得れば、能く、諸法を破散す。散空相応の三昧是れなり。 |
『能散三昧』とは、 是の、 『三昧』を得れば、 諸の、 『法』を、 『破散』する!ことができ、 『散空』に、 『相応』する! 『三昧』である。
経曰:「云何名能散三昧。住是三昧中能破散諸法。是名能散三昧。」 |
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分別諸法句三昧者。得是三昧能分別一切諸法語言字句。為眾生說辭無滯礙。樂說相應三昧是。 |
分別諸法句三昧とは、是の三昧を得れば、能く、一切の諸法の語言、字句を分別し、衆生の為に説いて、辞の滞礙する無し。楽説相応の三昧是れなり。 |
『分別諸法句三昧』とは、 是の、 『三昧』を得れば、 一切の、 諸の、 『法』の、 『語言』、 『字句』を、 『分別』する!ことができ、 『衆生』の為に、 『説法』して、 『辞(ことば)』が、 『停滞』したり、 『妨礙』される!ことが、 『無い!』。 是の、 『三昧』は、 『楽説無礙智』に、 『相応』する!
経曰:「云何名分別諸法句三昧。住是三昧能分別諸三昧諸法句。是名分別諸法句三昧。」 滞礙(たいげ):とどこおり、さまたげられる。停滞と妨礙。 |
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字等相三昧者。得是三昧觀諸字諸語皆悉平等。呵詈讚歎無有憎愛。 |
字等相三昧とは、是の三昧を得て、諸の字、諸の語を観れば、皆悉く、平等にして、呵詈、讃嘆に憎愛有ること無し。 |
『字等相三昧』とは、 是の、 『三昧』を得れば、 諸の、 『字』や、 『語』は、 皆、 悉く、 『平等』である!と、 『観る!』ので、 『呵詈』にも、 『讃嘆』にも、 『憎、愛』する!ことが、 『無い!』のである。
経曰:「云何名字等相三昧。住是三昧得諸三昧字等。是名字等相三昧。」 呵詈(かり):怒って責め、ののしること。呵罵。 |
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離字三昧者。得是三昧不見字在義中。亦不見義在字中。 |
離字三昧とは、是の三昧を得れば、字の義中に在るを見ず、亦た義の字中に在るを見ず。 |
『離字三昧』とは、 是の、 『三昧』を得れば、 『義』の中に、 『字』が、 『有る!』と見ず、 亦た、 『字』の中にも、 『義』が、 『有る!』とも見ない。
経曰:「云何名離字三昧。住是三昧諸三昧中乃至不見一字。是名離字三昧。」 |
斷緣三昧者。得是三昧。若內若外。樂中不生喜。苦中不生瞋。不苦不樂中不生捨心。於此三受遠離不著。心則歸滅。心若滅緣亦斷。 |
断縁三昧とは、是の三昧を得れば、若しは内、若しは外の楽中に、喜を生ぜず、苦中に瞋を生ぜず、不苦不楽中に捨心を生ぜず。此の三受に於いて、遠離して著せざれば、心は則ち滅に帰す。心若し滅すれば、縁も亦た断ず。 |
『断縁三昧』とは、 是の、 『三昧』を得れば、 『内』も、 『外』も、 『楽』中に、 『喜』を、 『生ずる!』ことなく、 『苦』中に、 『瞋』を、 『生ずる!』ことなく、 『不苦不楽』中に、 『捨心』を、 『生ずる!』ことがない。 此の、 『三受』を、 『遠離』して、 『著する!』ことがなければ、 『心』は、 則ち、 『滅』に、 『帰する!』のであり、 『心』が、 若し、 『滅した!』ならば、 『縁』も、 亦た、 『断ずる!』のである。
経曰:「云何名斷緣三昧。住是三昧斷諸三昧緣。是名斷緣三昧。」 |
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不壞三昧者。緣法性畢竟空相應三昧戲論不能破。無常不能轉。先已壞故。 |
不壊三昧とは、法性は畢竟空なりと縁ずるに、相応する三昧なり。戯論も破する能わず、無常も転ずる能わざるは、先に已に壊するが故なり。 |
『不壊三昧』とは、 『法性』は、 畢竟じて、 『空である!』と、 『縁ずる!』時に、 『相応』する! 『三昧』である!、 故に、 『戯論』で、 『破る!』ことができず、 『無常』も、 『転ずる!』ことができない。 何故ならば、 『法性』は、 先に、 『已に』、 『壊れている!』からである。
経曰:「云何名不壞三昧。住是三昧不得諸法變異。是名不壞三昧。」 |
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無種三昧者。得是三昧不見諸法種種相。但見一相。所謂無相。 |
無種三昧とは、是の三昧を得れば、諸法の種種相を見ず、但だ一相のみを見る。謂わゆる無相なり。 |
『無種三昧』とは、 是の、 『三昧』を得れば、 諸の、 『法』の、 『種種相』を見ず、 但だ、 『一相』を見る! 謂わゆる、 『無相』である。
経曰:「云何名無種相三昧。住是三昧不見諸法種種。是名無種相三昧。」 |
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無處行三昧者。得是三昧知三毒火然三界故心不依止。涅槃畢竟空故亦不依止。 |
無処行三昧とは、是の三昧を得れば、三毒の火の、三界を然(もや)すを知るが故に、心は依止せず。涅槃も畢竟じて空なるが故に、亦た依止せず。 |
『無処行三昧』とは、 是の、 『三昧』を得れば、 『三毒』の、 『火』が、 『三界』を、 『燃やしている!』と、 『知る!』が故に、 『心』は、 『三界』に、 『依止』せず、 『涅槃』も亦た、 畢竟じて、 『空』である!が故に、 『依止』する!ことはない。
経曰:「云何名無處行三昧。住是三昧不見諸三昧處。是名無處行三昧。」 |
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離曚昧三昧者。得是三昧於諸三昧中微翳無明等悉皆除盡。 |
離曚昧三昧とは、是の三昧を得れば、諸三昧中に於いて、微翳の無明等、悉く皆、除尽す。 |
『離曚昧三昧』とは、 是の、 『三昧』を得れば、 諸の、 『三昧』中の、 微かな、 『翳(かげり)』や、 『無明』等を、 悉く、 皆、 『除き尽くす!』ことになる。
経曰:「云何名離曚昧三昧。住是三昧離諸三昧微闇。是名離矇昧三昧。」 曚昧(もうまい):くらい。うすぐらい。蒙昧。 |
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無去三昧者。得是三昧不見一切法來去相。 |
無去三昧とは、是の三昧を得れば、一切の法の来去の相を見ず。 |
『無去三昧』とは、 是の、 『三昧』を得れば、 一切の、 『法』の、 『去、来』する! 『相』を、 『見る!』ことはない。
経曰:「云何名無去三昧。住是三昧不見一切三昧去相。是名無去三昧。」 |
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不變異三昧者。得是三昧觀一切諸法。因不變為果。如乳不變作酪。諸法皆住自相不動故。 |
不変異三昧とは、是の三昧を得て、一切の諸法を観れば、因は変ぜずして、果と為ること、乳の変ぜずして、酪と作るが如し。諸法は、皆、自相に住して、不動なるが故なり。 |
『不変異三昧』とは、 是の、 『三昧』を得て、 一切の、 諸の、 『法』を、 『観る!』ならば、 『因』は、 『変ずる!』ことなく、 『果と為る!』のであり、 譬えば、 『乳』が、 『変ずる!』ことなく、 『酪と作る!』のと同じである。 何故ならば、 諸の、 『法』は、 皆、 『自相!』に住して、 『不動!』だからである。
経曰:「云何名不變異三昧。住是三昧不見諸三昧變異相。是名不變異三昧。」 |
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度緣三昧者。得是三昧於六塵中諸煩惱盡滅。度六塵大海。亦能過一切三昧緣生智慧。 |
度縁三昧とは、是の三昧を得れば、六塵中に於いて、諸の煩悩尽く滅して、六塵の大海を度(わた)る。亦た能く、一切の三昧の縁生の智慧をも過ぐ。 |
『度縁三昧』とは、 是の、 『三昧』を得れば、 『六塵』中の、 諸の、 『煩悩』は、 『尽く』、 『滅する!』ので、 『六塵』の、 『大海』を、 『度る!』ことができ、 亦た、 一切の、 『三昧』の縁じて、 生ずる! 『智慧』を、 『過ぎる!』ことができる。
経曰:「云何名度緣三昧。住是三昧度一切三昧緣境界。是名度緣三昧。」 |
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集諸功コ三昧者。得是三昧集諸功コ。從信至智慧。初夜後夜修習不息。如日月運轉初不休息。 |
集諸功徳三昧とは、是の三昧を得れば、諸の功徳を集めて、信より智慧に至るまで、初夜、後夜に修習して息まざること、日月の運転して、初より休息せざるが如し。 |
『集諸功徳三昧』とは、 是の、 『三昧』を得れば、 諸の、 『功徳』を、 『集める!』為に、 『信』より、 『智慧』に至る!まで、 『初夜』にも、 『後夜』にも、 『修習』して、 『息む!』ことがない。 譬えば、 『日月』の、 『運転』は、 初より、 『休息』しない!のと同じである。
経曰:「云何名集諸功コ三昧。住是三昧集諸三昧功コ。是名集諸功コ三昧。」 |
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住無心三昧者。入是三昧中不隨心但隨智慧。至諸法實相中住。 |
住無心三昧とは、是の三昧中に入れば、心に随わずして、但だ智慧のみに随い、諸法の実相中に住するに至る。 |
『住無心三昧』とは、 是の、 『三昧』中に入れば、 『心』に、 『随わず』、 但だ、 『智慧』のみに、 『随う!』ので、 やがて、 諸の、 『法』の、 『実相』中に、 『住する!』に、 『至る!』ことになる。
経曰:「云何名住無心三昧。住是三昧於諸三昧心不入。是名住無心三昧。」 |
淨妙華三昧者。如樹華敷開令樹嚴飾。得是三昧諸三昧中開諸功コ華以自莊嚴。 |
浄妙華三昧とは、樹華敷開すれば、樹をして厳飾せしむるが如く、是の三昧を得れば、諸の三昧中に、諸の功徳の華を開きて、以って自ら荘厳す。 |
『浄妙華三昧』とは、 譬えば、 『樹』に、 『華』が、 『敷開』して、 『樹』を、 『厳飾』する!のと同じである。 是の、 『三昧』を得れば、 諸の、 『三昧』中に、 諸の、 『功徳』の、 『華』を、 『開敷』して、 それで、 『自ら』を、 『荘厳』する!のである。
敷開(ふかい):一面に開く。開敷。 経曰:「云何名淨妙華三昧。住是三昧令諸三昧得淨妙如華。是名淨妙華三昧。」 |
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覺意三昧者。得是三昧令諸三昧變成無漏與七覺相應。譬如石汁一斤能變千斤銅為金。 |
覚意三昧とは、是の三昧を得れば、諸の三昧をして、無漏と七覚相応に変成せしむ。譬えば、石汁一斤の、能く、千斤の銅を変じて、金と為すが如し。 |
『覚意三昧』とは、 是の、 『三昧』を得れば、 諸の、 『三昧』を、 変成して、 『無漏』と、 『七覚』とに、 『相応』させる。 譬えば、 『石汁』の、 『一斤』が、 『千斤』の、 『銅』を変じて、 『金』にする!のと同じである。
石汁(しゃくじゅう):鉱物質の液体にして、変じて金と作るものを云う。即ち「大智度論巻16」に、「我れ当に大方便を作して財を給足し、其れをして充満せしむべし。便ち大海に入りて諸の異宝を求め、山に登り危を履みて以って妙薬を求め、深石窟に入りて諸の異物石汁珍宝を求め、以って衆生に給す」と云い、「同巻28」に、「水は寒を得れば則ち結して冰と成り、而も堅相を為す。石汁は金と作り、金敗れて銅と為り、或いは還って石と為る」と云えるが如し。 経曰:「云何名覺意三昧。住是三昧諸三昧中得七覺分。是名覺意三昧。」 |
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無量辯三昧者。即是樂說辯。得是三昧力故。乃至樂說一句無量劫而不窮盡。 |
無量辯三昧とは、即ち是れ楽説の辯なり。是の三昧の力を得るが故に、乃至一句を楽説するに、無量劫にして、而も窮尽せず。 |
『無量辯三昧』とは、 即ち、 是れは、 『楽説(辯)無礙智』であり、 是の、 『三昧』の、 『力』を、 『得る!』が故に、 乃至、 『一句』を、 『無量劫』、 『楽説』して、 『窮尽』しない!のである。
経曰:「云何名無量辯三昧。住是三昧於諸法中得無量辯。是名無量辯三昧。」 |
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無等等三昧者。得是三昧觀一切眾生皆如佛。觀一切法皆同佛法無等等。般若波羅蜜相應是。 |
無等等三昧とは、是の三昧を得て、一切の衆生を観れば、皆、仏の如く、一切の法を観れば、皆、仏法に同じく、無等等なり。般若波羅蜜の相応なる是れなり。 |
『無等等三昧』とは、 是の、 『三昧』を得て、 一切の、 『衆生』を観れば、 皆、 『仏』と、 『同じ!』ように、 『無等等』であり、 一切の、 『法』を観れば、 皆、 『仏法』と、 『同じ!』ように、 『無等等』である。 是れは、 『般若波羅蜜』に、 『相応』する! 『三昧』である。
無等等(むとうとう):梵語阿娑摩娑摩asamasama、仏道、及び仏の尊号なり。仏道は超絶して与に等しき者無きが故に無等と云い、唯仏と仏と等しきが故に等と曰う。『大智度論巻47(下)注:阿娑摩娑摩』参照。 阿娑摩娑摩(あしゃましゃま):梵語a−sama−sama、無等等と訳す。阿娑摩a−samaと共に仏の別号なり。「大智度論巻2」に、「婆伽婆を有徳と名づく、先に已に説く。復た阿娑摩(秦に無等と言う)と名づけ、復た阿娑摩娑摩(秦に無等等と言う)と名づく」と云える是れなり。其の語義に関し、「瑜伽師地論巻82」に、「無等とは与に等しきもの無きが故に、無等等とは去来今の無等者に等しきが故なり」と云い、「十地経論巻2」に、「無等とは諸仏を余の衆生に比するに、彼れ等に非ざるが故なり、等とは此彼の法身等しきが故なり」と云えり。是れ仏を余の衆生に比するに、彼れ全く等同に非ざるが故に無等と云い、仏仏等同なるが故に重ねて亦た等と名づくというの意なり。又「方広大荘厳経巻11」、「仏一百八名讃」、「大日経疏巻10」等に出づ。<(望) 経曰:「云何名無等等三昧。住是三昧諸三昧中得無等等相。是名無等等三昧。」 |
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度諸法三昧者。得是三昧入三解脫門。過出三界度三乘眾生。 |
度諸法三昧とは、是の三昧を得れば、三解脱門に入りて、三界を過出し、三乗と衆生を度す。 |
『度諸法三昧』とは、 是の、 『三昧』を得れば、 『三解脱門』に入って、 『三界』を、 『過出(超過)』し、 『三乗』と、 『衆生』とを、 『度す!』のである。
経曰:「云何名度諸法三昧。住是三昧度一切三昧。是名度諸法三昧。」 |
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分別諸法三昧者。即是分別慧相應三昧。得是三昧分別諸法善不善有漏無漏有為無為等相。 |
分別諸法三昧とは、即ち是れ分別慧相応の三昧なり。是の三昧を得て、諸法の善不善、有漏無漏、有為無為等の相を分別す。 |
『分別諸法三昧』とは、 即ち、 是れは、 『分別』する! 『慧』に、 『相応』する! 『三昧』であり、 是の、 『三昧』を得て、 諸の、 『法』の、 『善、不善』、 『有漏、無漏』、 『有為、無為』等の、 『相』を、 『分別』する!のである。
経曰:「云何名分別諸法三昧。住是三昧諸三昧及諸法分別見。是名分別諸法三昧。」 |
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散疑三昧者。有人言。即是見諦道中無相三昧疑結。見諦智相應三昧斷故。有人言。菩薩無生法忍相應三昧是。時一切法中疑網悉斷。見十方諸佛。得一切諸法實相。有人言。無礙解脫相應三昧。是諸佛得是三昧已。於諸法中無疑無近無遠皆如觀掌中。 |
散疑三昧とは、有る人の言わく、『即ち是れ見諦道中の無相三昧の疑結を、見諦智相応の三昧断ずるが故なり。』と。有る人の言わく、『菩薩の無生法忍相応の三昧なり。是の時に一切法中の疑網、悉く断じて、十方の諸仏を見、一切諸法の実相を得。』と。有る人の言わく、『無礙解脱相応の三昧是れなり。諸仏は、是の三昧を得已りて、諸法中に疑無く、近無く、遠無く、皆、掌中を観るが如し。』と。 |
『散疑三昧』とは、 有る人は、こう言っている、―― 即ち、 是れは、 『見諦道』中の、 『無相三昧』の、 『疑結』を、 『見諦』の、 『智慧』に相応する! 『三昧』が、 『断ずる!』のである、と。 有る人は、こう言っている、―― 『菩薩』の、 『無生法忍』に相応する! 『三昧』である。 是の時、 一切の、 『法』中の、 『疑網』を、 『悉く』、 『断ずる!』ので、 十方の、 諸の、 『仏』を、 『見る!』ことができ、 一切の、 諸の、 『法』の、 『実相』を、 『得る!』のである。 有る人は、こう言っている、―― 是れは、 『無礙解脱』に、 『相応』する! 『三昧』である。 諸の、 『仏』は、 是の、 『三昧』を、 『得られた!』ので、 諸の、 『法』中に於いて、 『疑』も、 『無く』、 『近』も、 『遠』も、 『無く』、 皆、 『掌』中を、 『観る!』ようなのである、と。
経曰:「云何名散疑三昧。住是三昧得散諸法疑。是名散疑三昧。」 |
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無住處三昧者。即是無受智慧相應三昧。得是三昧不見一切諸法定有住處。 |
無住処三昧とは、即ち是れ無受の智慧相応の三昧なり。是の三昧を得れば、一切諸法に、定んで住処有るを見ず。 |
『無住処三昧』とは、 即ち、 是れは、 『無受』の、 『智慧』に、 『相応』する! 『三昧』であり、 是の、 『三昧』を得れば、 一切の、 諸の、 『法』に、 『住処』が、 必ず、 『有る!』と、 『見る!』ことはない。
経曰:「云何名無住處三昧。住是三昧不見諸法住處。是名無住處三昧。」 |
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一莊嚴三昧者。得是三昧。觀諸法皆一。或一切法有相故一。或一切法無故一。或一切法空故一。如是等無量皆一。以一相智慧莊嚴是三昧。故言一莊嚴。 |
一荘厳三昧とは、是の三昧を得て、諸法を観れば、皆、一なり。或いは一切法は、有相なるが故に一なり。或いは一切法は、無なるが故に一なり。或いは一切法は、空なるが故に一なり。是の如き等の無量なる、皆、一なり。一相の智慧を以って、是の三昧を荘厳するが故に、一荘厳と言う。 |
『一荘厳三昧』とは、 是の、 『三昧』を得て、 諸の、 『法』を観れば、 皆、 『一』である。 或いは、 一切の、 『法』には、 『相』が有る!が故に、 『一』であり、 或いは、 一切の、 『法』は、 『無い!』が故に、 『一』であり、 或いは、 一切の、 『法』は、 『空』である!が故に、 『一』であり、 是れ等のように、 無量の、 『事』が、 皆、 『一』である。 『一相』の、 『智慧』が、 是の、 『三昧』を、 『荘厳』する!が故に、 是れを、 『一荘厳』と言う!のである。
経曰:「云何名一莊嚴三昧。住是三昧終不見諸法二相。是名一莊嚴三昧。」 |
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生行三昧者。行名觀。得是三昧。能觀種種行相入相住相出相。又是行皆空。亦不可見。 |
生行三昧とは、行は、観に名づく。是の三昧を得れば、能く、種種の行相、入相、住相、出相を観るに、又、是の行は、皆、空にして、亦た見るべからず。 |
『生行三昧』とは、 『行(眼触乃至意触所生の思)』とは、 『観る!(心が生ずる!)』ことである。 是の、 『三昧』を得れば、 種種の、 『行相』、 『入相』、 『住相』、 『出相』を、 『観る!』ことができるが、 又、 是の、 『行』は、 皆、 『空』である!ので、 『見る!』ことはできない。
経曰:「云何名生行三昧。住是三昧不見諸行生。是名生行三昧。」 行(ぎょう):行蘊。眼触乃至意触所生の思。『大智度論巻11(下)注:思』参照。 |
一行三昧者。是三昧常一行。畢竟空相應三昧中更無餘行次第。如無常行中次有苦行苦行中次有無我行。又菩薩於是三昧不見此岸不見彼岸。諸三昧入相為此岸。出相為彼岸。初得相為此岸。滅相為彼岸。 |
一行三昧とは、是の三昧は、常に一行にして、畢竟空相応の三昧中に、更に余行の次第の、無常行中には、次に苦行有り、苦行中には、次に無我行有るが如き無し。又菩薩は、是の三昧に於いて、此岸を見ず、彼岸を見ず。諸の三昧の、入相を此岸と為し、出相を彼岸と為し、初に相を得るを此岸と為し、相を滅するを彼岸と為す。 |
『一行三昧』とは、 是の、 『三昧』は、 常に、 『一行』であり、 『畢竟空』に、 相応する! 『三昧』であり、 是の中には、 更に、 『余行』の、 『次第』が、 『無い!』、 謂わゆる、 例えば、 『無常行』中は、 『次第』して、 『苦行』が有り、 『苦行』中には、 『次第』して、 『無我行』が有る!ような事である。 又、 『菩薩』は、 是の、 『三昧』に於いて、 『此岸』も、 『彼岸』も、 『見る!』ことはない。 謂わゆる、 諸の、 『三昧』の、 『入相』が、 『此岸』であり、 『出相』が、 『彼岸』である。 初の、 『得相』が、 『此岸』であり、 『滅相』が、 『彼岸』である。
経曰:「云何名一行三昧。住是三昧不見諸三昧此岸彼岸。是名一行三昧。」 |
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不一行三昧者。與上一行相違者是。所謂諸餘觀行。 |
不一行三昧とは、上の一行と相違する者是れなり。謂わゆる諸余の観行なり。 |
『不一行三昧』とは、 上の、 『一行三昧』に、 『相違』する! 『三昧』である。 謂わゆる、 『諸余』の、 『観行』である。
経曰:「云何名不一行三昧。住是三昧不見諸三昧一相。是名不一行三昧。」 |
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妙行三昧者。即是畢竟空相應三昧。乃至不見不二相。一切戲論不能破。 |
妙行三昧とは、即ち是れ畢竟空相応の三昧なり。乃至不二相すら見ざれば、一切の戯論は、破す能わず。 |
『妙行三昧』とは、 即ち、 是れは、 『畢竟空』に、 『相応』する! 『三昧』であり、 乃至、 『不二相』すら、 『見ない!』のであるから、 故に、 一切の、 『戯論』では、 『破る!』ことができない。
経曰:「云何名妙行三昧。住是三昧不見諸三昧二相。是名妙行三昧。」 |
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達一切有底散三昧者。有名三有。底者非有想非無想。以難到故名底。達者以無漏智慧。乃至離非有想非無想。入無餘涅槃。三界五眾散滅。 |
達一切有底散三昧とは、有は、三有に名づけ、底は、非有想非無想の到り難きを以っての故に、底と名づく。達は、無漏の智慧を以って、乃至非有想非無想を離れて、無余涅槃に入り、三界の五衆散滅するなり。 |
『達一切有底散三昧』とは、 『有』とは、 『三有(欲有、色有、無色有)』であり、 『底』とは、 『非有想非無想』を、 『到りがたい!』が故に、 『底』というのである。 『達』とは、 『無漏』の、 『智慧』を以って、 乃至、 『非有想非無想』を離れ、 『無余涅槃』に入り、 『三界(三有)』の、 『五衆』が、 『散滅』する!ことである。
経曰:「云何名達一切有底散三昧。住是三昧入一切有一切三昧。智慧通達亦無所達。是名達一切有底散三昧。」 |
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復次菩薩得是不生不滅智慧。一切諸有通達散壞皆無所有。 |
復た次ぎに、菩薩は、是の不生不滅の智慧を得て、一切の諸有に通達すれば、散壊して、皆、所有無し。 |
復た次ぎに、 『菩薩』は、 是の、 『不生』、 『不滅』の、 『智慧』を得て、 一切の、 『諸有』に、 『通達』し、 『散壊』すれば、 皆、 『有する!』所が、 『無い!』のである。 |
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入名語三昧者。得是三昧識一切眾生一切物一切法名字。亦能以此名字語化人。一切語言無不解了。皆有次第。 |
入名語三昧とは、是の三昧を得れば、一切の衆生、一切の物、一切の法の名字を識り、亦た能く、此の名字の語を以って、人を化す。一切の語言は、了解せざる無く、皆、次第有り。 |
『入名語三昧』とは、 是の、 『三昧』を得れば、 一切の、 『衆生』、 一切の、 『物』、 一切の、 『法』の、 『名字』を、 『識る!』ことができ、 亦た、 此の、 『名字』と、 『語』とを以って、 『人』を、 『化導する!』ことができ、 一切の、 『語言』には、 『解了しない!』ものが、 『無い!』のであり、 皆、 『次第(順序)』が、 『有る!』だけである。
経曰:「云何名入名語三昧。住是三昧入一切三昧名語。是名入名語三昧。」 注:皆有次第の一語理解し難し。蓋し一切の語言を解了するも、其れには自ら次第有りと云うの意なり。 |
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離音聲字語三昧者。得是三昧觀一切諸法。皆無音聲語言常寂滅相。 |
離音声字語三昧とは、此の三昧を得て、一切の諸法を観れば、皆、音声、語言無く、常に寂滅の相なり。 |
『離音声字語三昧』とは、 是の、 『三昧』を得て、 一切の、 諸の、 『法』を観れば、 皆、 『音声』も、 『語言』も、 『無く』なり、 常に、 『寂滅』の、 『相』である。
経曰:「云何名離音聲字語三昧。住是三昧不見諸三昧音聲字語。是名離音聲字語三昧。」 |
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然炬三昧者。如捉炬夜行不墮險處。菩薩得是三昧。以智慧炬於諸法中無錯無著。 |
然炬三昧とは、炬を捉りて夜行すれば、険処に堕ちざるが如し。菩薩は、是の三昧を得て智慧の炬を以ってすれば、諸法の中に於いて、錯無く、著無し。 |
『然炬三昧』とは、 譬えば、 『炬(たいまつ)』を持って、 『夜行』すれば、 『険処』に、 『堕ちない!』ように、 『菩薩』は、 是の、 『三昧』を得れば、 『智慧』の、 『炬』を以って、 諸の、 『法』中に、 『錯る!』ことも、 『無く』なり、 『著する!』ことも、 『無い!』のである。
経曰:「何名然炬三昧。住是三昧威コ照明如炬。是名然炬三昧。」 |
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淨相三昧者。得是三昧能清淨具足莊嚴三十二相。又能如法觀諸法總相別相。亦能觀諸法無相清淨。所謂空無相無作。如相品是中廣說。 |
浄相三昧とは、是の三昧を得れば、能く、清浄具足して、三十二相を荘厳す。又、能く、如法に諸法の総相、別相を観、亦た能く、諸法の無相にして、清浄なるを観る。謂わゆる空、無相、無作なり。相品の如きを、是の中に広く説かん。 |
『浄相三昧』とは、 是の、 『三昧』を得れば、 『清浄』に、 『荘厳』して、 『三十二相』を、 『具足』する!ことができ、 又、 『如法』に、 『諸法』の、 『総相』、 『別相』を、 『観る!』ことができ、 亦た、 『諸法』は、 『無相』であり、 『清浄』である!と、 『観る!』ことができる。 謂わゆる、 『空』、 『無相』、 『無作』については、 『相品』中に、 広く、 『説く!』とおりである。
経曰:「云何名淨相三昧。住是三昧淨諸三昧相。是名淨相三昧。」 参考:『摩訶般若波羅蜜経巻14問相品』:『何等是深般若波羅蜜相。佛告欲界色界諸天子。諸天子。空相是深般若波羅蜜相。無相無作無起無生無滅無垢無淨。無所有法無相。無所依止虛空相。是深般若波羅蜜相。諸天子。如是等相是深般若波羅蜜相。佛為眾生用世間法故說。非第一義。諸天子。如是諸相一切世間天人阿修羅不能破壞。何以故。是一切世間天人阿修羅。亦是相故。諸天子。相不能破相。相不能知相。相不能知無相無相不能知相。是相是無相。相無相皆無所有。謂知相知者知法皆不可得故。何以故。諸天子。是諸相非色作。非受想行識作。非檀那波羅蜜作。非尸羅波羅蜜羼提波羅蜜毘梨耶波羅蜜禪那波羅蜜般若波羅蜜作。非內空作非外空作。非內外空作。非無法空作。非有法空作。非無法有法空作。非四念處作。乃至非一切種智作。諸天子。是相非人所有。非非人所有。非世間非出世間。非有漏非無漏。非有為非無為。佛復告諸天子。譬如有人問何等是虛空相。此人為正問不。諸天子言。世尊。此不正問。何以故。世尊。是虛空無有相可說。虛空無為無起故。佛告欲界色界諸天子。有佛無佛相性常住。佛得如實相性故。名為如來。諸天子白佛言。世尊。世尊所得諸相性甚深。得是相故得無礙智。住是相中以般若波羅蜜集諸法自相。諸天子言。希有世尊。是深般若波羅蜜是諸佛常所行道處。行是道得阿耨多羅三藐三菩提。得阿耨多羅三藐三菩提已。通達一切法相若色相若受想行識相。乃至一切種智相。佛言如是如是。諸天子。惱壞相是色相。佛得是無相。覺者受相。取者想相。起作者行相。了別者識相。佛得是無相。能捨者檀那波羅蜜相。無熱惱者尸羅波羅蜜相。不變異者羼提波羅蜜相。不可伏者毘梨耶波羅蜜相。攝心者禪那波羅蜜相。捨離者般若波羅蜜相。佛得是無相。心無所嬈惱者。是四禪四無量心四無色定相。佛得是無相。出世間者三十七品相。佛得是無相。苦者無作脫門相。集者空脫門相。寂滅者無相脫門相。佛得是無相。勝者十力相。不恐怖者無所畏相。遍知者四無礙智相。餘人無得者十八不共法相。佛得是無相。愍念眾生者大慈大悲相。實者無錯謬相。無所取者常捨相。現了知者一切種智相。佛得是無相。如是諸天子。佛得一切諸法無相。以是因緣故。佛名無礙智。』 |
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破相三昧者。得是三昧不見一切法相。何況諸三昧相。得是無相三昧。 |
破相三昧とは、是の三昧を得れば、一切の法相を見ず。何に況んや、諸の三昧の相をや。即ち是れ無相三昧なり。 |
『破相三昧』とは、 是の、 『三昧』を得れば、 一切の、 『法』の、 『相』を、 『見る!』ことがない。 況して、 諸の、 『三昧』の、 『相』を、 『見る!』ことがあろうか。 即ち、 是れは、 『無相三昧』である。
経曰:「云何名破相三昧。住是三昧不見諸三昧相。是名破相三昧。」 注:得是無相三昧は、他本に従い、即是無相三昧に改む。 |
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一切種妙足三昧者。得是三昧以諸功コ具足莊嚴。所謂好姓好家好身好眷屬禪定智慧皆悉具足清淨。 |
一切種妙足三昧とは、是の三昧を得れば、諸の功徳を以って、荘厳を具足す。謂わゆる好姓、好家、好身、好眷属、禅定、智慧は、皆、悉く具足して清浄なり。 |
『一切種妙足三昧』とは、 是の、 『三昧』を得れば、 諸の、 『功徳』が、 『具足』して、 『荘厳』する! 謂わゆる、 『好姓』、 『好家』、 『好身』、 『好眷属』、 『禅定』、 『智慧』等が、 皆、 悉く、 『具足』して、 『清浄』である。
経曰:「云何名一切種妙足三昧。住是三昧一切諸三昧種皆具足。是名一切種妙足三昧。」 |
不喜苦樂三昧者。得是三昧觀世間樂。多過多患虛妄顛倒非可愛樂。觀世間苦如病。如箭入身心不喜樂。以一切法虛誑故不求其樂。何以故。異時變為苦。樂尚不喜。何況於苦。 |
不喜苦楽三昧とは、是の三昧を得て、世間の楽を観れば、過多く、患多く、虚妄、顛倒にして、愛楽すべきに非ず。世間の苦を観れば、病の如く、箭の身に入るが如ければ、心に喜楽せず。一切法の虚誑なるを以っての故に、其れに楽を求めず。何を以っての故に、異時には変じて苦と為ればなり。楽すら尚お喜ばず。何に況んや、苦に於いてをや。 |
『不喜苦楽三昧』とは、 是の、 『三昧』を得て、 『世間』の、 『楽』を観れば、 『過』や、 『患』が、 『多く』、 『虚妄』、 『顛倒』であり、 『愛』し、 『楽しむ!』ものではない。 『世間』の、 『苦』を観れば、 『病』か、 『箭』が、 『身』に入った!ようで、 『心』が、 『喜び』、 『楽しむ!』ことはない。 一切の、 『法』は、 『虚誑』である!が故に、 其の中には、 『楽』を、 『求めない!』のである。 何故ならば、 『楽』は、 『異時』に変じて、 『苦』と為る!からである。 『楽』すら、 尚お、 『喜ばない!』、 況して、 『苦』は、 尚更である。
経曰:「云何名不喜苦樂三昧。住是三昧不見諸三昧苦樂。是名不喜苦樂三昧。」 |
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無盡相三昧者。得是三昧觀一切法無壞無盡。 |
無尽相三昧とは、是の三昧を得て、一切法を観れば、壊する無く、尽くる無し。 |
『無尽相三昧』とは、 是の、 『三昧』を得て、 一切の、 『法』を観れば、 『壊れる!』者も、 『尽きる!』者も、 『無い!』のである。
経曰:「云何名無盡相三昧。住是三昧不見諸三昧盡。是名無盡相三昧。」 |
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問曰。若爾者云何不墮常邊。 |
問うて曰く、若し爾らば、云何が、常辺に堕せざる。 |
問い、 若し、 そうならば、 何故、 『常』の、 『辺』に、 『堕ちない!』のですか? |
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答曰。如菩薩雖觀無常不墮滅中。若觀不盡不墮常中。此二相於諸法中皆不可得。有因緣故修行。所謂為罪福不失故。言常離著故言無常。 |
答えて曰く、菩薩の如きは、無常を観ると雖も、滅中に堕せず、若し尽きざるを観るも、常中に堕せず。此の二相は、諸法中に於いて、皆、得べからざるも、因縁有るが故に、修行す。謂わゆる罪福の失せざるが為の故に、常と言い、著を離るるが故に、無常と言うなり。 |
答え、 『菩薩』ならば、 『無常』を観ても、 『滅』中に、 『堕ちない!』のであり、 若し、 『尽きない!』者を観ても、 『常』中に、 『堕ちない!』のである。 諸の、 『法』中に、 此の、 『二相(常、無常)』は、 皆、 『得られない!』が、 『因縁』が、 皆、 『有る!』が故に、 『常、無常』を、 『修行』する!のであるが、 謂わゆる、 『罪、福』は、 『失われない!』が故に、 『常である!』と言い、 『著』を、 『離れた!』が故に、 『無常である』と言う!のである。 |
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陀羅尼三昧者。得是三昧力故。聞持等諸陀羅尼皆自然得。 |
陀羅尼三昧とは、是の三昧の力を得るが故に、聞持等の諸の陀羅尼を、皆、自然に得。 |
『陀羅尼三昧』とは、 是の、 『三昧』の、 『力』を、 『得る!』が故に、 『聞持』等の、 諸の、 『陀羅尼』を、 皆、 『自然』に、 『得る!』のである。
経曰:「云何名陀羅尼三昧。住是三昧能持諸三昧。是名陀羅尼三昧。」 |
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攝諸邪正相三昧者。得是三昧不見三聚眾生。所謂正定邪定不定。都無所棄一心攝取。又於諸法不見定正相定邪相。諸法無定相故。 |
摂諸邪正相三昧とは、是の三昧を得れば、三聚の衆生を見ず。謂わゆる正定、邪定、不定は、都て棄つる所無く、一心に摂取す。又諸法に於いて、定まりたる正相、定まりたる邪相を見ず。諸法に定相無きが故なり。 |
『摂諸邪正相三昧』とは、 是の、 『三昧』を得れば、 『三聚』の、 『衆生』を、 『見る!』ことはない。 謂わゆる、 『正定』、 『邪定』、 『不定』の、 『衆生』は、 都て、 『棄てる!』所、 『無い!』のであり、 『平等』の、 『一心』中に、 『摂取する!』のである。 又、 諸の、 『法』に於いて、 『正相』が、 『定まる!』のを、 『見ず』、 『邪相』が、 『定まる!』のも、 『見ない!』というのは、 諸の、 『法』には、 『定まった!』、 『相』が、 『無い!』からである。
経曰:「云何名攝諸邪正相三昧。住是三昧於諸三昧不見邪正相。是名攝諸邪正相三昧。」 三聚(さんじゅ):三種の類聚の意。『大智度論巻45(上)注:三聚』参照。 |
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滅憎愛三昧者。得是三昧可喜法中不生愛。可憎法中不生瞋。 |
滅憎愛三昧とは、是の三昧を得れば、喜ぶべき法中に、愛を生ぜず、憎むべき法中に、瞋を生ぜず。 |
『滅憎愛三昧』とは、 是の、 『三昧』を得れば、 『喜ぶべき!』法中に、 『愛』を、 『生ずる!』ことなく、 『憎むべき!』法中に、 『瞋』を、 『生ずる!』こともない。
経曰:「云何名滅憎愛三昧。住是三昧不見諸三昧憎愛。是名滅憎愛三昧。」 |
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逆順三昧者。得是三昧於諸法中逆順自在。能破諸邪逆眾生。能順可化眾生。又離著故破一切法。善根搨キ故成一切法。亦不見諸法逆順。是事亦不見。以無所有故。 |
逆順三昧とは、是の三昧を得れば、諸法中に於いて、逆順自在なり。能く諸の邪を破って衆生に逆らい、能く可に順いて衆生を化す。又著を離るるが故に、一切の法を破し、善根増長するが故に、一切の法を成じ、亦た諸法の逆順も見ずして、是の事をも亦た見ず。所有無きを以っての故なり。 |
『逆順三昧』とは、 是の、 『三昧』を得れば、 諸の、 『法』中に、 『逆(さから)う!』ことも、 『順(したが)う!』ことも、 『自在』である。 謂わゆる、 諸の、 『邪』を、 『破る!』為の故に、 『衆生』に、 『逆らう!』とか、 『可(宜しき)』に、 『順う!』を以っての故に、 『衆生』を、 『化す!』とかである。 又、 『著』を、 『離れる!』為の故に、 一切の、 『法』を、 『破る!』とか、 『善根』を、 『増長する!』為の故に、 一切の、 『法』を、 『成ずる!』とかである。 亦た、 諸の、 『法』が、 『逆らう!』者か、 『順う!』者かを、 『見る!』ことはなく、 是の事をも、 亦た、 『見る!』ことはない。 何故ならば、 『有する!』所が、 『無い!』からである。
経曰:「云何名逆順三昧。住是三昧不見諸法諸三昧逆順。是名逆順三昧。」 |
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淨光三昧者。得是三昧一切法中諸煩惱垢不可得。不可得故諸三昧皆清淨。 |
浄光三昧とは、是の三昧を得れば、一切法中に諸の煩悩の垢は得べからず。得べからざるが故に、諸の三昧は、皆、清浄なり。 |
『浄光三昧』とは、 是の、 『三昧』を得れば、 一切の、 『法』中に、 諸の、 『煩悩』の 『垢』は、 『得られない!』ことになり、 『得られない!』が故に、 諸の、 『三昧』は、 皆、 『清浄』である。
経曰:「云何名淨光三昧。住是三昧不得諸三昧明垢。是名淨光三昧。」 |
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堅固三昧者。有人言。金剛三昧是。堅固不壞故。有人言。金剛非。所以者何。金剛亦易破故。是諸法實相智相應三昧。不可破如虛空。以是故言牢固。 |
堅固三昧とは、有る人の言わく、『金剛三昧、是れなり。堅固にして不壊なるが故なり。』と。有る人の言わく、『金剛に非ず。所以は何んとなれば、金剛も亦た破し易きが故なり。是れ諸法の実相の智相応の三昧なれば、破すべからざること虚空の如し。是を以っての故に、牢固と言う。』と。 |
『堅固三昧』とは、 有る人は、 こう言っている、―― 是れは、 『金剛三昧』である。 何故ならば、 『金剛』は、 『堅固』であり、 『壊れない!』からである、と。 有る人は、 こう言っている、―― 『金剛三昧』ではない! 何故ならば、 『金剛』も、 亦た、 『破れやすい!』からである。 是れは、 『諸法』の、 『実相』に、 『相応』する! 『三昧』であり、 『虚空』のように、 『破られない!』ので、 是の故に、 『牢固』と言う!のである、と。
経曰:「云何名堅固三昧。住是三昧不得諸三昧不堅固。是名堅固三昧。」 |
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滿月淨光三昧者。得是三昧所言清淨無諸錯謬。如秋時虛空清淨月滿光明涼樂可樂無諸可惡。菩薩亦如是。修諸功コ故。如月滿破無明闇故。淨智光明具足滅愛恚等火故。清涼功コ具足大利益眾生故可樂。 |
満月浄光三昧とは、是の三昧を得れば、言う所清浄にして、諸の錯謬無く、秋の時の虚空の清浄にして、月満つれば光明涼しく、楽しむべきを楽しんで、諸の悪むべき無きが如し。菩薩も亦た是の如く、諸の功徳を修むるが故に、月満ちて、無明の闇を破るが故なるが如く、浄智の光明具足して、愛恚等の火を滅するが故に、清凉なる功徳具足して、衆生を大利益するが故に、楽しむべし。 |
『満月浄光三昧』とは、 是の、 『三昧』を得れば、 『言う!』所が、 『清浄』となり、 諸の、 『錯謬』が、 『無くなる!』のである。 譬えば、 『秋時』の、 『清浄』な、 『虚空』中の、 『満月』の、 『光明』は涼しく、 唯だ、 『楽しむべき!』を、 『楽しむ!』のみで、 諸の、 『悪むべき!』所が、 『無い!』ように、 『菩薩』も、 亦た、 是のように、 諸の、 『功徳』を、 『修める!』が故に、 譬えば、 『満月』が、 『無明』の、 『闇』を、 『破る!』ように、 『清浄』な、 『智慧』の、 『光明』が具足して、 『愛、恚』等の、 『火』を、 『滅する!』が故に、 『清凉』な、 『功徳』が具足して、 大いに、 『衆生』を、 『利益』する!が故に、 『楽しむべき!』なのである。
経曰:「云何名滿月淨光三昧。住是三昧諸三昧滿足如月十五日。是名滿月淨光三昧。」 |
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大莊嚴三昧者。見十方如恒河沙等世界。以七寶華香莊嚴佛處。其中如是等清淨莊嚴。得是三昧故。一時莊嚴諸功コ。又觀此莊嚴空無所有。心無所著。 |
大荘厳三昧とは、十方の恒河沙等の如き世界を見るに、七宝、華香を以って仏処を荘厳す。其の中に、是の如き等の清浄なる荘厳は、是の三昧を得るが故に、一時に諸の功徳を荘厳す。又、此の荘厳を観れば、空にして所有無く、心の著する所無し。 |
『大荘厳三昧』とは、 『十方』の、 『恒河沙』に等しい!、 『世界』を、 『見る!』と、 『七宝』の、 『華香』を以って、 『仏所』を、 『荘厳』している!が、 其の中の、 是れ等の、 『清浄』な、 『荘厳』は、 是の、 『三昧』を、 『得た!』が故に、 『一時』に、 諸の、 『功徳』を、 『荘厳』した!のである。 又、 是の、 『三昧』を得れば、 此の、 『荘厳』も、 皆、 『空』であり、 『有する!』所が、 『無い!』と、 『観る!』のであり、 『心』には、 『著する!』所が、 『無い!』のである。
経曰:「云何名大莊嚴三昧。住是三昧大莊嚴成就諸三昧。是名大莊嚴三昧。」 |
能照一切世間三昧者。得是三昧故。能照三種世間。眾生世間住處世間五眾世間。 |
能照一切世間三昧とは、是の三昧を得るが故に、能く、三種の世間を照らす。衆生世間、住処世間、五衆世間なり。 |
『能照一切世間三昧』とは、 是の、 『三昧』を得る!が故に、 『三種』の、 『世間』を、 『照らす!』ことができる。 謂わゆる、 『衆生世間』、 『住処世間』、 『五衆世間』である。
経曰:「云何名能照一切世三昧。住是三昧諸三昧及一切法能照。是名能照一切世三昧。」 三種世間(さんしゅせけん):世間は梵語路迦lokaの訳。毀壊すべきものの意。又は対治せらるるべき有為有漏の現象を云う。是れを三種に分類せるに名づけて、三種世間と為す。謂わゆる一には衆生世間、二には住処世間、三には五衆世間なり。即ち「大智度論巻47」に、「能照一切世間三昧とは、是の三昧を得るが故に、能く三種の世間、衆生世間、住処世間、五衆世間を照らす」と云える是れなり。此の中衆生世間とは、三界の衆生は、仮に五衆の和合に名づけ、非想非非想処乃至地獄まで、是の中の衆生は、皆是れ衆生世間なり。住処世間とは、即ち国土世間とも称し、衆生所依の境界を云う。五衆世間とは、即ち色受想行識の五法は、是れ五衆世間なり。 |
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三昧等三昧者。得是三昧觀諸三昧皆一等。所謂攝心相。是三昧皆得因緣生。有為作法無深淺。得是三昧皆悉平等。是名為等。與餘法亦等無異。以是故義中說。一切法中定亂相不可得。 |
三昧等三昧とは、是の三昧を得て、諸の三昧を観れば、皆、一等にして、謂わゆる摂心の相なり。是の三昧は、皆、因縁を得て生じ、有為の作法にして、深浅無し。是の三昧を得れば、皆悉く、平等なり。是れを名づけて、等と為すも、余法とも、亦た等しくして、異なる無し。是を以っての故に、義の中に説かく、『一切法中に、定、乱の相を得べからず。』と。 |
『三昧等三昧』とは、 是の、 『三昧』を得て、 諸の、 『三昧』を観れば、 皆、 『一等』であり、 謂わゆる、 『摂心の相』である。 是の、 諸の、 『三昧』は、 皆、 『因縁』を得て、 生ずる! 『有為』の、 『作法』であり、 『深』も、 『浅』も、 『無い!』のである。 是の、 『三昧』を得れば、 皆、 『悉く』が、 『平等』である! 是れを、 『等』というのであるが、 是の、 『三昧』は、 『余法』とも、 亦た、 『平等』、 『無異』である!ので、 是の故に、 『義』中に、 こう説くのである、―― 一切の、 『法』中には、 『定相』も、 『乱相』も、 『得られない!』、と。
経曰:「云何名三昧等三昧。住是三昧於諸三昧不得定亂相。是名三昧等三昧。」 |
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攝一切有諍無諍三昧者。得是三昧不見是法如是相是法不如是相。不分別諸法有諍無諍。於一切法中通達無礙。於眾生中亦無好醜諍論。但隨眾生心行而度脫之。得是三昧故。於諸三昧皆隨順不逆 |
摂一切有諍無諍三昧とは、是の三昧を得れば、是の法は是の如き相なり。是の法は是の如き相ならずと見ず。諸法の有諍、無諍を分別せず。一切法中に於いて、通達して無礙なり。衆生中に於いても亦た、好醜の諍論無く、但だ衆生の心行に随うて、之を度脱す。是の三昧を得るが故に、諸三昧に於いて、皆、随順して、逆らわず。 |
『摂一切有諍無諍三昧』とは、 是の、 『三昧』を得れば、 是の、 『法』は、 是のような、 『相』である!とか、 是の、 『法』は、 是のような、 『相』ではない!と、 ――『見る!』ことなく、 諸の、 『法』には、 『諍論』が有る!とか、 『諍論』が無い!と、 ――『分別する!』ことなく、 一切の、 『法』中に、 『通達』して、 『無礙』となり、 『衆生』中にも、 亦た、 『好』とか、 『醜』を、 『諍論』する!ことが、 『無く』、 但だ、 『衆生』の、 『心行』に随って、 『度脱』する!のであり、 是の、 『三昧』を得る!が故に、 諸の、 『三昧』に於いて、 皆、 『随順』して、 『逆らわない!』のである。
経曰:「云何名攝一切有諍無諍三昧。住是三昧能使諸三昧不分別有諍無諍。是名攝一切有諍無諍三昧。」 注:一切の諍論を有する法につき、論点を自家薬籠中に摂入するの意なり。蓋し大乗の三昧とは、一心に精進して、衆生済度するの意なれば、其の方法、即ち各三昧に於いて諍論し、互いに毀謗するの愚を避くべく、是の種の三昧を立つるものなり。 |
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不樂。一切住處三昧者。得是三昧不樂住世間。不樂住非世間。以世間無常過故不樂。非世間中無一切法。是大可畏處不應生樂。 |
不楽一切住処三昧とは、是の三昧を得れば、世間に住するを楽しまず。非世間に住するを楽しまず。世間は、無常の過を以っての故に楽しまず。非世間の中は、一切法無く、是れ大いに畏るべき処なれば、応に楽を生ずべからず。 |
『不楽一切住処三昧』とは、 是の、 『三昧』を得れば、 『世間』に、 『住する!』ことも、 『非世間』に、 『住する!』ことも、 『楽しむ!』ことはない。 何故ならば、 『世間』は、 『無常』の、 『過』の故に、 『楽しむ!』ことがなく、 『非世間』中には、 一切の、 『法』が、 『無い!』ということで、 是れは、 大いに、 『畏るべき!』処であるので、 『楽』を、 『生ずる!』はずがないのである。
経曰:「云何名不樂一切住處三昧。住是三昧不見諸三昧依處。是名不樂一切住處三昧。」 |
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如住定三昧者。得是三昧故。知一切法如實相。不見有法過是如者。如義如先說。 |
如住定三昧とは、是の三昧を得るが故に、一切法の如実の相を知り、法の、是の如に過ぐる者の有るを見ず。如の義は、先に説けるが如し。 |
『如住定三昧』とは、 是の、 『三昧』を得る!が故に、 一切の、 『法』の、 『如実』の、 『相』を、 『知る!』ことができ、 『法』中に、 是の、 『如』に、 『過ぎる!』者が、 『有る!』と、 『見ない!』のである。 『如の義』は、 先に説いた!とおりである。
経曰:「云何名如住定三昧。住是三昧不過諸三昧如相。是名如住定三昧。」 参考:『大智度論巻32』:『諸法如有二種。一者各各相二者實相。各各相者。如地堅相水濕相火熱相風動相。如是等分別諸法各自有相。實相者。於各各相中分別求實不可得不可破。無諸過失如自相空中說。』 |
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壞身衰三昧者。血肉筋骨等和合故名為身。是身多患。常與飢寒冷熱等諍。是名身衰。得是三昧故。以智慧力分分破壞身衰相。乃至不見不可得相。 |
壊身衰三昧とは、血肉、筋骨等の和合の故に、名づけて身と為す。是の身は、患多くして、常に飢寒、冷熱等と諍えば、是れを身衰と名づく。是の三昧を得るが故に、智慧の力を以って、身の衰相を分分に破壊し、乃至不可得の相すら見ず。 |
『壊身衰三昧』とは、 『血肉』、 『筋骨』等の、 『和合』を、 『身』という!が、 是の、 『身』には、 『患』が多く、 常に、 『飢寒』、 『冷熱』等と、 『諍う』ので、 是れを、 『身衰』というのである。 是の、 『三昧』を得る!が故に、 『智慧』の、 『力』を以って、 『身衰』の、 『相』を、 『分分』にして、 『破壊』する!ので、 乃至、 『不可得』の、 『相』すら、 『見る!』ことはない。
経曰:「云何名壞身衰三昧。住是三昧不得身相。是名壞身衰三昧。」 |
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壞語如虛空三昧者。語名內。有風發觸七處故有聲。依聲故有語。觀如是語言因緣故。能壞語言。不生我相及以愛憎。有人言。二禪無覺觀。是壞語三昧。賢聖默然故。有人言。無色定三昧。彼中無身離一切色故。有人言。但是諸菩薩三昧。能破先世結業因緣不淨身而受法身。隨可度眾生種種現形。 |
壊語如虚空三昧とは、語を、内に風の発(おこ)る有りて、七処に触るるが故に、声有りと名づく。声に依るが故に、語有り。是の如き語言の因縁を観るが故に、能く、語言を壊して、我相、及以(および)愛憎を生ぜず。有る人の言わく、『二禅に覚観無きは、是れ壊語三昧にして、賢聖の黙然たるが故なり。』と。有る人の言わく、『無色定三昧なり。彼の中には、身無く、一切の色を離るるが故に。』と。有る人の言わく、『但だ是れ諸の菩薩の三昧なり。能く、先世の結合の因縁の不浄身を破り、法身を受くれば、度すべき衆生に随いて、種種に形を現ず。』と。 |
『壊語如虚空三昧』とは、 『語』とは、 内に、 有る、 『風』が発って、 『七処(項、歯茎、歯、唇、舌、咽、胸)』に、 『触れる!』ので、 故に、 『声』が有り、 是の、 『声』に依る!が故に、 『語』が有る!のであるが、 是のように、 『語言』の、 『因縁』を観る!が故に、 『語言』を、 『壊る!』ことができ、 『我相』、 及び、 『愛、憎』を、 『生じない!』のである。 有る人は、 こう言っている、―― 『二禅』は、 『覚、観』が、 『無い!』ので、 是れが、 『壊語三昧』であり、 『賢聖』の 『黙然』とする! 『理由』である、と。 有る人は、 こう言っている、―― 是れは、 『無色定』の、 『三昧』である! 彼の中には、 『身』が無く、 一切の、 『色』を、 『離れる!』からである、と。 有る人は、 こう言っている、―― 但だ、 是れは、 諸の、 『菩薩』の、 『三昧』である。 是の、 『三昧』を得れば、 『先世』の、 『結業』の、 『因縁』の、 『不浄身』を破って、 『法身』を受け、 『度すべき!』、 『衆生』に随って、 種種の、 『形』を、 『現す!』ことができる、と。
経曰:「云何名壞語如虛空三昧。住是三昧不見諸三昧語業如虛空。是名壞語如虛空三昧。」 七処(しちじょ):項、齗(歯茎)、歯、唇、舌、咽、胸を指す。『大智度論巻6(上)』参照。 参考:『大智度論巻6』:『如響者。若深山狹谷中。若深絕澗中。若空大舍中。若語聲。若打聲從聲有聲名為響。無智人。謂為有人語聲。智者心念。是聲無人作。但以聲觸故更有聲名為響。響事空能誑耳根。如人欲語時。口中風名憂陀那。還入至臍觸臍響出。響出時觸七處退。是名語言。如偈說 風名憂檀那 觸臍而上去 是風七處觸 項及齗齒脣 舌咽及以胸 是中語言生 愚人不解此 惑著起瞋癡 中人有智慧 不瞋亦不著 亦復不愚癡 但隨諸法相 曲直及屈申 去來現語言 都無有作者 是事是幻耶 為機關木人 為是夢中事 我為熱氣悶 有是為無是 是事誰能知 是骨人筋纏 能作是語聲 如融金投水 以是故言諸菩薩知諸法如響。』 |
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離著虛空不染三昧者。菩薩行般若波羅蜜。觀諸法畢竟空。不生不滅如虛空無物可喻。鈍根菩薩著此虛空。得此三昧故。離著虛空等諸法。亦不染著是三昧。如人沒在泥中有人挽出鎖腳為奴。如有三昧能離著虛空。而復著此三昧亦如是。今是三昧能離著虛空。亦自離著。 |
離著虚空不染三昧とは、菩薩は、般若波羅蜜を行じて、諸法を観れば、畢竟じて空、不生不滅なれば、虚空の如く、物の喩うべき無し。鈍根の菩薩は、此の虚空に著すも、此の三昧を得るが故に、虚空等にの諸法に著するを離れて、亦た是の三昧にも染著せず。人没して、泥中に在るに、有る人挽きて出し、脚に鎖して、奴と為すが如し。有る三昧の如きは、能く虚空に著するを離れ、而も復た此の三昧に著するも、亦た是の如し。今、是の三昧は、能く、虚空に著するを離れしめ、亦た自らに著するをも離れしむ。 |
『離著虚空不染三昧』とは、 『菩薩』は、 『般若波羅蜜』を行じて、 諸の、 『法』を観れば、 畢竟じて、 『空』であり、 『不生、不滅』であり、 『虚空』のように、 喩えるべき! 『物』が、 『無い!』のであるが、 『鈍根』の、 『菩薩』は、 此の、 『虚空』に、 『著する!』のである。 『菩薩』は、 此の、 『三昧』を得る!が故に、 『虚空』等の、 諸の、 『法』に、 『著する!』ことを、 『離れる!』ことができ、 亦た、 是の、 『三昧』にも、 『染著』しない!のである。 譬えば、 『人』が、 『泥』中に、 『没している!』と、 有る、 『人』が、 『挽き出し』て、 『脚』に、 『鎖』を掛け、 『奴隷』にした!ように、 有る、 『三昧』は、 『虚空』に、 『著する!』のを、 『離れられる!』が、 而し、 復た、 是れと同じように、 此の、 『三昧』に、 『著する!』のである。 今の、 是の、 『三昧』は、 『虚空』に、 『著する!』ことも、 『離れられる!』し、 亦た、 『自ら』に、 『著する!』ことも、 『離れられる!』のである。
経曰:「云何名離著虛空不染三昧。住是三昧見諸法如虛空無礙亦不染。是名離著虛空不染三昧。」 |
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問曰。佛多說諸三昧。汝何以但說諸法。 |
問うて曰く、仏は多く、諸の三昧を説きたまえり。汝は、何を以ってか、諸の法を説く。 |
問い、 『仏』は、 多く、 諸の、 『三昧』を説かれた!が、 あなたは、 何故、 但だ、 諸の、 『法』を説く!のですか? |
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答曰。佛多說果報。論者合因緣果報說。譬如人觀身不淨得不淨三昧。身是因緣。三昧是果。又如人觀五眾無常苦空等。得七覺意三昧。能生八聖道四沙門果。 |
答えて曰く、仏は多く、果報を説きたまい、論者は、因縁と果報とを合して説けり。譬えば、人、身の不浄を観るに、不浄三昧を得るが如し。身は、是れ因縁にして、三昧は、是れ果なり。又、人、五衆の無常、苦、空等を観るに、七覚意三昧を得て、能く八聖道、四沙門果を生ずるが如し。 |
答え、 『仏』は、 多く、 『果報』を、 『説かれた!』が、 『論者』は、 『因縁』と、 『果報』とを合して、 『説いた!』のである。 譬えば、 『人』が、 『身』の、 『不浄』を観て、 『不浄三昧』を得た!とすると、 『身』とは、 『因縁』であり、 『三昧』は、 『果報』なのである。 又、 『人』が、 『五衆』の、 『無常』、 『苦』、 『空』等を、 『観る!』と、 『七覚意』の、 『三昧』を得て、 『八聖道』、 『四沙門果』を、 『生ずる!』ようなものである。 |
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復次佛應適眾生故但說一法。論者廣說分別諸事。譬如一切有漏皆是苦因。而佛但說愛。一切煩惱滅名滅諦。佛但說愛盡。 |
復た次ぎに、仏は、応に衆生に適(かな)うが故に、但だ一法のみを説きたもうべし。論者は、広く説いて、諸事を分別す。譬えば、一切の有漏は、皆、是れ苦の因なるも、仏は但だ、愛のみを説きたまえるが如し。一切の煩悩の滅するを、滅諦と名づくるも、仏は、但だ愛のみ尽くるを説きたまえり。 |
復た次ぎに、 『仏』は、 ちょうど、 『衆生』に、 『適する!』ように、 但だ、 『一法』のみを、 『説かれた!』が、 『論者』は、 広く説いて、 諸の、 『事』を、 『分別』した! 譬えば、 一切の、 『有漏』は、 皆、 『苦』の、 『因』である!が、 而し、 『仏』は、 但だ、 『愛』のみを、 『説かれている!』、 一切の、 『煩悩』が、 『滅する!』のを、 『滅諦』という!のであるが、 『仏』は、 但だ、 『愛』の、 『尽きる!』ことのみを、 『説かれている!』。 |
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是菩薩於諸觀行中必不疑於諸三昧。未了故。佛但說三昧。論者說諸法。一切三昧皆已在中。 |
是の菩薩は、諸の観行中に、必ず疑わず。諸の三昧に於いて、未だ、了(あき)らかならざるが故に、仏は、但だ、三昧のみを説きたまえり。論者の、諸の法を説くは、一切の三昧は、皆已に、中に在ればなり。 |
是の、 『菩薩』は、 諸の、 『観行』中に於いて、 『疑う!』ことはないが、 諸の、 『三昧』に於いては、 未だ、 『解了しない!』が故に、 『仏』は、 但だ、 『三昧』のみを、 『説かれた!』のである。 『論者』が、 諸の、 『法』を説いた!のは、 一切の、 『三昧』が、 皆、 其の、 『法』中に、 『在る!』からである。 |
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是諸三昧末後。皆應言用無所得。以同般若故。如是等無量無邊三昧和合。名為摩訶衍 大智度論卷第四十七 |
是の諸の三昧の末後に、皆、応に『所得無きを用う。』と言うべし。般若と同じきを以っての故なり。是の如き等、無量、無辺の三昧の和合を、名づけて摩訶衍と為す。 大智度論巻第四十七 |
是の、 諸の、 『三昧』の、 『末後』には、 皆、 『得る!』所が、 『無い!』からである、と言うべきである。 何故ならば、 是の、 『三昧』は、 『般若波羅蜜』と、 『同じ!』だからである。 是れ等の、 無量、 無辺の、 『三昧』の、 『和合』が、 『摩訶衍』である。
大智度論巻第四十七 |
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