巻第四十六(下)
大智度論釋摩訶衍品第十八
1.【經】大乗の六波羅蜜、十八空
2.【論】大乗の六波羅蜜、十八空
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大智度論釋摩訶衍品第十八 
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


【經】大乗の六波羅蜜、十八空

【經】爾時須菩提。白佛言世尊。何等是菩薩摩訶薩摩訶衍。云何當知。菩薩摩訶薩發趣大乘。是乘發何處是乘至何處。當住何處誰當乘是乘出者。 爾の時、須菩提の仏に白して言さく、『世尊、何等か是れ菩薩摩訶薩の摩訶衍なる。云何が当に、菩薩摩訶薩の大乗を発趣するを知るべき。是の乗は何処よりか発し、是の乗は何処にか至り、当に何処にか住し、誰か当に是の乗に乗りて出づべき者なる』、と。
爾の時、
『須菩提』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
何のようなものが、
『菩薩摩訶薩』の、
『摩訶衍なのですか?』、
何のようにすれば、
『菩薩摩訶薩が、大乗を発趣する!』のを、
『知ることができるのですか?』、
是の、
『乗』は、
『何処より発するのですか?』、
是の、
『乗』は、
『何処に至るのですか?』、
是の、
『乗』は、
『何処に住するのですか?』、
是の、
『乗』には、
『誰が乗って、出るのですか?』、と。
佛告須菩提。汝問何等是菩薩摩訶薩摩訶衍。須菩提。六波羅蜜是菩薩摩訶薩摩訶衍。何等六。檀波羅蜜尸羅波羅蜜羼提波羅蜜毘梨耶波羅蜜禪波羅蜜般若波羅蜜。 仏の須菩提に告げたまわく、『汝が問わく、何等か、是れ菩薩摩訶薩の摩訶衍なるとは、須菩提、六波羅蜜は是れ菩薩摩訶薩の摩訶衍なり。何等か六なる、檀波羅蜜、尸羅波羅蜜、羼提波羅蜜、毘梨耶波羅蜜、禅波羅蜜、般若波羅蜜なり。
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
お前は、
『何のようなものが、菩薩摩訶薩の摩訶衍なのか?』と、
『問うた!』が、
須菩提!
『六波羅蜜』が、
『菩薩摩訶薩の摩訶衍である!』。
何のような、
『六なのか?』、――
『檀、尸羅、羼提、毘梨耶、禅、般若波羅蜜である!』。
云何名檀波羅蜜。須菩提。菩薩摩訶薩以應薩婆若心。內外所有布施共一切眾生。迴向阿耨多羅三藐三菩提。用無所得故。須菩提。是名菩薩摩訶薩檀波羅蜜。 云何が檀波羅蜜と名づくる。須菩提、菩薩摩訶薩は薩婆若に応ずる心を以って、内外の有らゆる布施を、一切の衆生と共に、阿耨多羅三藐三菩提に迴向するに、無所得を用うるが故に、須菩提、是れを菩薩摩訶薩の檀波羅蜜と名づく。
何を、
『檀波羅蜜と称するのか?』、――
須菩提!
『菩薩摩訶薩』は、
『薩婆若に応じる心』で、
『内外の所有を布施し
to donate all your inner and outer possessions )!』、
『一切の衆生と共に!』、
『阿耨多羅三藐三菩提に迴向することである!』が、
是の、
『布施』は、
『無所得』を、
『用いる!』が故に、
須菩提!
是れを、
『菩薩摩訶薩の檀波羅蜜』と、
『称するのである!』。
云何名尸羅波羅蜜。須菩提。菩薩摩訶薩以應薩婆若心。自行十善道亦教他行十善道。用無所得故。是名菩薩摩訶薩不著尸羅波羅蜜。 云何が、尸羅波羅蜜と名づくる。須菩提、菩薩摩訶薩は、薩婆若に応ずる心を以って、自ら十善道を行じ、亦た他に教えて、十善道を行ぜしむるに、無所得を用うるが故に、是れを菩薩摩訶薩の不著の尸羅波羅蜜と名づく。
何を、
『尸羅波羅蜜と称するのか?』、――
須菩提!
『菩薩摩訶薩』は、
『薩婆若に応じる心』で、
『自ら、十善道を行じながら!』、
『他人にも教えて!』、
『十善道を行じさせることである!』が、
是の、
『十善道を行じる!』のに、
『無所得』を、
『用いる!』が故に、
是れを、
『菩薩摩訶薩』の、
『著すことのない尸羅波羅蜜』と、
『称するのである!』。
云何名羼提波羅蜜。須菩提。菩薩摩訶薩以應薩婆若心。自具足忍辱亦教他行忍辱。用無所得故。是名菩薩摩訶薩羼提波羅蜜。 云何が、羼提波羅蜜と名づくる。須菩提、菩薩摩訶薩は薩婆若に応ずる心を以って、自ら忍辱を具足し、亦た他を教えて忍辱を行ぜしむるに、無所得を用うるが故に、是れを菩薩摩訶薩の羼提波羅蜜と名づく。
何を、
『羼提波羅蜜と称するのか?』、――
須菩提!
『菩薩摩訶薩』は、
『薩婆若に応じる心』で、
『自ら、忍辱を具足しながら!』、
『他人にも教えて!』、
『忍辱を行じさせることである!』が、
是の、
『忍辱を具足する!』のに、
『無所得』を、
『用いる!』が故に、
是れを、
『菩薩摩訶薩』の、
『羼提波羅蜜』と、
『称するのである!』。
云何名毘梨耶波羅蜜。須菩提。菩薩摩訶薩以應薩婆若心。行五波羅蜜懃修不息。亦安立一切眾生於五波羅蜜。用無所得故。是名菩薩摩訶薩毘梨耶波羅蜜。 云何が、毘梨耶波羅蜜と名づくる。須菩提、菩薩摩訶薩は薩婆若に応ずる心を以って、五波羅蜜を行じて懃修して息まず、亦た一切の衆生を五波羅蜜に安立するに、無所得を用うるが故に、是れを菩薩摩訶薩の毘梨耶波羅蜜と名づく。
何を、
『毘梨耶波羅蜜と称するのか?』、――
須菩提!
『菩薩摩訶薩』は、
『薩婆若に応じる心』で、
『五波羅蜜を行じながら、懃修して息まず!』、
『一切の衆生を!』、
『五波羅蜜に安立させることである!』が、
是の、
『五波羅蜜を行じる!』のに、
『無所得』を、
『用いる!』が故に、
是れを、
『菩薩摩訶薩』の、
『毘梨耶波羅蜜』と、
『称するのである!』。
云何名禪波羅蜜。須菩提菩薩摩訶薩以應薩婆若心。自以方便入諸禪不隨禪生。亦教他令入諸禪。用無所得故。是名菩薩摩訶薩禪波羅蜜。 云何が、禅波羅蜜と名づくる。須菩提、菩薩摩訶薩は薩婆若に応ずる心を以って、自ら方便を以って諸禅に入り、禅に随って生ぜず、亦た他を教えて諸禅に入らしむるに、無所得を用うるが故に、是れを菩薩摩訶薩の禅波羅蜜と名づく。
何を、
『禅波羅蜜と称するのか?』、――
須菩提!
『菩薩摩訶薩』は、
『薩婆若に応じる心』で、
『自ら方便を用いて、諸禅に入りながらも!』、
『禅に随って!』、
『生じず!』、
『他人にも教えて!』、
『諸禅に!』、
『入らせるのである!』が、
是の、
『諸禅に入る!』のに、
『無所得』を、
『用いる!』が故に、
是れを、
『菩薩摩訶薩』の、
『禅波羅蜜』と、
『称するのである!』。
云何名般若波羅蜜。須菩提。菩薩摩訶薩以應薩婆若心。不著一切法。亦觀一切法性。用無所得故。亦教他不著一切法亦觀一切法性。用無所得故。是名菩薩摩訶薩般若波羅蜜。須菩提。是為菩薩摩訶薩摩訶衍。 云何が、般若波羅蜜と名づくる。須菩提、菩薩摩訶薩は薩婆若に応ずる心を以って、一切法に著せず、亦た一切法の性を観るに、無所得を用うるが故に、亦た他を教えて一切法に著せざらしめ、一切法の性を観しむるに、無所得を用うるが故に、是れを菩薩摩訶薩の般若波羅蜜と名づく。須菩提、是れを菩薩摩訶薩の摩訶衍と為す。
何を、
『般若波羅蜜と称するのか?』、――
須菩提!
『菩薩摩訶薩』は、
『薩婆若に応じる心で、!』、
『一切法に著することなく!』、
『一切法の性』を、
『観ながら!』、
『他人にも教えて!』、
『一切法に著することなく!』、
『一切法の性』を、
『観させるのである!』が、
是の、
『一切法の性を観る!』のに、
『無所得』を、
『用いる!』が故に、
是れを、
『菩薩摩訶薩』の、
『般若波羅蜜』と、
『称するのである!』。
須菩提!
是れが、
『菩薩摩訶薩』の、
『摩訶衍である!』。
復次須菩提。菩薩摩訶薩復有摩訶衍。所謂內空外空內外空空空大空第一義空有為空無為空畢竟空無始空散空性空自相空諸法空不可得空無法空有法空無法有法空。 復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩には、復た摩訶衍有り、謂わゆる内空、外空、内外空、空空、大空、第一義空、有為空、無為空、畢竟空、無始空、散空、性空、自相空、諸法空、不可得空、無法空、有法空、無法有法空なり。
復た次ぎに、
須菩提!
『菩薩摩訶薩には、復た摩訶衍が有り!』、
謂わゆる、
『内空、外空、内外空、空空、大空、第一義空』、
『有為空、無為空、畢竟空、無始空、散空、性空、自相空』、
『諸法空、不可得空、無法空、有法空、無法有法空である!』。
  十八空(じゅうはちくう):空に十八種の別有るを云う。即ち、
  1.   内空(ないくう):梵語 adhyaatma- zuunyataa の訳、内/自身と呼ばれる空( the emptiness called 'inner' or 'own' )の義。
  2.   外空(げくう):梵語 bahirdhaa- zuunyataa の訳、外/他身と呼ばれる空( the emptiness called 'outer' or 'disown' )の義。
  3.   内外空(ないげくう):梵語 adhyaatma- bahirdhaa- zuunyataa の訳、内外/自他身と呼ばれる空( the emptiness called 'inner and outer' or 'own and disown' )の義。
  4.   空空(くうくう):梵語 zuunyataa- zuunyataa の訳、空と呼ばれる空( the emptiness called 'emptinessa' )の義。
  5.   大空(だいくう):梵語 mahaa- zuunyataa の訳、偉大と呼ばれる空( the emptiness called 'greatness' )の義。
  6.   第一義空(だいいちぎくう):梵語 paramaartha- zuunyataa の訳、第一義/最高の真実と呼ばれる空( the emptiness called 'the highest truth' )の義。
  7.   有為空(ういくう):梵語 saMskRta- zuunyataa の訳、有為と呼ばれる空( the emptiness called 'created' )の義。
  8.   無為空(むいくう):梵語 asaMskRta- zuunyataa の訳、無為/常住と呼ばれる空( the emptiness called 'non-created' or 'eternal' )の義。
  9.   畢竟空(ひっきょうくう):梵語 atyanta-zuunyataa の訳、畢竟/限界と呼ばれる空( the emptiness called 'to the end' or 'to the limit' )の義。
  10.   無始空(むしくう):梵語 anavaraagra- zuunyataa の訳、無始と呼ばれる空( the emptiness called 'whithout beginning' )の義。
  11.   散空(さんくう):梵語 anavakaara-, avakaara- zuunyata の訳、離散/非散と呼ばれる空( the emptiness called 'dispersed' or 'undispersed' )の義。
  12.   性空(しょうくう):梵語 prakRti- zuunyataa の訳、本性と呼ばれる空( the emptiness called 'substantialness' )の義。
  13.   自相空(じそうくう):梵語 svalakSaNa- suunyataa の訳、自相/独自性と呼ばれる空( the emptiness called 'self-marks' or 'peculiarity' )の義。
  14.   諸法空(しょほうくう):梵語 sarva-dharma- zuunyataa の訳、一切法/諸法と呼ばれる空( the emptiness called 'all dharmas' or 'every dharma' )の義。
  15.   不可得空(ふかとくくう):梵語 anupalambha- zuunyataa の訳、認識不可能と呼ばれる空( the emptiness called 'unrecognizable' )の義。
  16.   無法空(むほうくう):梵語 abhaava- zuunyataa の訳、非存在と呼ばれる空( the emptiness called 'non-existence' )の義。
  17.   有法空(うほうくう):梵語 svabhaava- zuunyataa の訳、存在と呼ばれる空( the emptiness called 'existence' )の義。
  18.   無法有法空(むほううほうくう):梵語 abhaava- svabhaava- zuunyataa の訳、存在にして且つ亦た非存在と呼ばれる空( the emptiness called 'existent and non-existent' )の義。『大智度論巻18下注、同巻31上注:十八空』参照
  参考:『大般若経巻51』:『復次善現。菩薩摩訶薩大乘相者。謂內空外空內外空空空大空勝義空有為空無為空畢竟空無際空散空無變異空本性空自相空共相空一切法空不可得空無性空自性空無性自性空是菩薩摩訶薩大乘相。善現白佛言。世尊。云何內空。佛言。善現。內謂內法。即是眼耳鼻舌身意。此中眼由眼空。何以故。非常非壞本性爾故。耳鼻舌身意。由耳鼻舌身意空。何以故。非常非壞本性爾故。善現。是為內空。善現白佛言。世尊。云何外空。佛言。善現。外謂外法。即是色聲香味觸法。此中色由色空。何以故。非常非壞本性爾故。聲香味觸法。由聲香味觸法空。何以故。非常非壞本性爾故。善現是為外空。善現白佛言。世尊。云何內外空。佛言。善現。內外謂內外法。即是內六處外六處。此中內六處。由外六處空。何以故。非常非壞本性爾故。外六處由內六處空。何以故。非常非壞本性爾故。善現。是為內外空。善現白佛言。世尊云何空空。佛言。善現。空謂一切法空。此空由空空。何以故。非常非壞本性爾故。善現是為空空。善現白佛言。世尊。云何大空。佛言。善現。大謂十方。即是東南西北四維上下。此中東方由東方空。何以故。非常非壞本性爾故。南西北方四維上下。由南西北方四維上下空。何以故。非常非壞本性爾故。善現。是為大空。善現白佛言。世尊。云何勝義空。佛言。善現。勝義謂涅槃。此勝義由勝義空。何以故。非常非壞本性爾故。善現。是為勝義空。善現白佛言。世尊。云何有為空。佛言。善現。有為謂欲界色界無色界。此中欲界由欲界空。何以故。非常非壞本性爾故。色無色界由色無色界空。何以故。非常非壞本性爾故。善現。是為有為空。善現白佛言。世尊。云何無為空。佛言。善現。無為謂無生無住無異無滅。此無為由無為空。何以故。非常非壞本性爾故。善現。是為無為空。善現白佛言。世尊。云何畢竟空。佛言。善現。畢竟謂諸法究竟不可得。此畢竟由畢竟空。何以故。非常非壞本性爾故。善現。是為畢竟空。善現白佛言。世尊。云何無際空。佛言。善現。無際謂無初中後際可得及無往來際可得。此無際由無際空。何以故。非常非壞本性爾故。善現。是為無際空。善現白佛言。世尊。云何散空。佛言。善現。散謂有放有棄有捨可得。此散由散空。何以故。非常非壞本性爾故。善現。是為散空。善現白佛言。世尊。云何無變異空。佛言。善現。無變異謂無放無棄無捨可得。此無變異由無變異空。何以故。非常非壞本性爾故。善現。是為無變異空善現白佛言。世尊。云何本性空。佛言。善現。本性謂一切法本性。若有為法性。若無為法性。皆非聲聞所作。非獨覺所作。非菩薩所作。非如來所作。亦非餘所作。此本性由本性空。何以故。非常非壞本性爾故。善現。是為本性空善現白佛言。世尊。云何自相空。佛言。善現。自相謂一切法自相。如變礙是色自相。領納是受自相。取像是想自相。造作是行自相。了別是識自相。如是等若有為法自相。若無為法自相。此自相由自相空。何以故。非常非壞本性爾故。善現。是為自相空。善現白佛言。世尊。云何共相空。佛言。善現。共相謂一切法共相。如苦是有漏法。共相無常是有為法共相。空無我是一切法共相。如是等有無量共相。此共相由共相空。何以故。非常非壞本性爾故。善現。是為共相空。善現白佛言。世尊。云何一切法空。佛言。善現。一切法謂五蘊十二處十八界若有色無色有見無見有對無對有漏無漏有為無為法。此一切法由一切法空。何以故。非常非壞本性爾故。善現。是為一切法空。善現白佛言。世尊。云何不可得空。佛言。善現。不可得謂此中一切法不可得。若過去不可得。未來不可得。現在不可得。若過去無未來現在可得。若未來無過去現在可得。若現在無過去未來可得。此不可得由不可得空。何以故。非常非壞本性爾故。善現。是為不可得空。善現白佛言。世尊。云何無性空。佛言。善現。無性謂此中無少性可得。此無性由無性空。何以故。非常非壞本性爾故。善現。是為無性空。善現白佛言。世尊。云何自性空。佛言。善現。自性謂諸法能和合自性。此自性由自性空。何以故。非常非壞本性爾故。善現。是為自性空。善現白佛言。世尊。云何無性自性空。佛言。善現。無性自性謂諸法無能和合性。有所和合自性。此無性自性由無性自性空。何以故。非常非壞本性爾故。善現。是為無性自性空。復次善現。有性由有性空。無性由無性空。自性由自性空。他性由他性空。云何有性由有性空。有性謂五蘊。此有性由有性空。五蘊生性不可得故。是為有性由有性空。云何無性由無性空。無性謂無為。此無性由無性空。是為無性由無性空。云何自性由自性空。謂一切法皆自性空。此空非智所作。非見所作。亦非餘所作。是為自性由自性空。云何他性由他性空。謂若佛出世。若不出世。一切法法住法定法性法界法平等性法離生性真如不虛妄性不變異性實際。皆由他性故空。是為他性由他性空。善現。當知是為菩薩摩訶薩大乘相』
須菩提白佛言。何等為內空。佛言。內法名眼耳鼻舌身意。眼眼空非常非滅故。何以故。性自爾。耳耳空鼻鼻空舌舌空身身空意意空非常非滅故。何以故。性自爾。是名內空。 須菩提の仏に白して言さく、『何等をか、内空と為す』、と。仏の言わく、『内法を、眼耳鼻舌身意と名づけ、眼の眼空なるは非常、非滅の故なり。何を以っての故に、性として自ら爾り。耳の耳空なる、鼻の鼻空なる、舌の舌空なる、身の身空なる、意の意空なるは非常、非滅の故なり。何を以っての故に、性として自ら爾り。是れを内空と名づく。
『須菩提』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
何のようなものが、
『内空なのですか?』、と。
『仏』は、こう言われた、――
『内法とは、眼耳鼻舌身意であり!』、
『眼が、眼空である!』のは、
『眼』は、
『常でも、滅でもないからである!』。
何故ならば、
『性』が、
『自ら爾うだからである( be such a one )!』。
『耳が耳空、鼻が鼻空、舌が舌空、身が身空、意が意空である!』のは、
『意』は、
『常でも、滅でもないからである!』。
何故ならば、
『性』が、
『自ら爾うだからであり!』、
是れを、
『内空』と、
『称する!』。
  眼空(げんくう):梵語 cakSur- zuunyataa の訳、眼と呼ばれる空( the emptiness called 'eye' )の義。
  自爾(じに):梵語 taadRz, taadRzii の訳、そのような/そのような人/者/物( suchlike, such a one )の義。
何等為外空。外法名色。聲香味觸法。色色空非常非滅故。何以故性自爾。聲聲空香香空味味空觸觸空法法空非常非滅故。何以故。性自爾。是名外空。 何等をか、外空と為す。外法を色、声香味触法と名づけ、色の色空なるは常に非ず、滅に非ざるが故なり。何を以っての故に、性は自ら爾ればなり。声の声空なる、香の香空なる、味の味空なる、触の触空なる、法の法空なるも常に非ず、滅に非ざるが故なり。何を以っての故に、性は自ら爾ればなり。是れを外空と名づく。
何のようなものが、
『外空なのか?』、――
『外法とは、色声香味触法であり!』、
『色が、色空である!』のは、
『色』は、
『常でも、滅でもないからである!』。
何故ならば、
『性』が、
『自ら爾うだからである!』。
『声が声空、香が香空、味が味空、触が触空、法が法空である!』のは、
『法』は、
『常でも、滅でもないからである!』。
何故ならば、
『性』が、
『自ら爾うだからであり!』、
是れを、
『外空』と、
『称する!』。
何等為內外空。內外法名內六入外六入。內法內法空非常非滅故。何以故。性自爾。外法外法空非常非滅故。何以故。性自爾。是名內外空。 何等をか、内外空と為す。内外の法を内の六入、外の六入と名づけ、内法の内法空なるは常に非ず、滅に非ざるが故なり。何を以っての故に、性は自ら爾ればなり。外法の外法空なるも常に非ず、滅に非ざるが故なり。何を以っての故に、性は自ら爾ればなり。是れを内外空と名づく。
何のようなものが、
『内外空なのか?』、――
『内外法とは、内の六入と外の六入であり!』、
『内法が、内法空である!』のは、
『内法』は、
『常でも、滅でもないからである!』。
何故ならば、
『性』が、
『自ら爾うだからである!』。
『外法が、外法空である!』のは、
『外法』は、
『常でも、滅でもないからである!』。
何故ならば、
『性』が、
『自ら爾うだからであり!』、
是れを、
『内外空』と、
『称する!』。
何等為空空。一切法空。是空亦空。非常非滅故。何以故。性自爾。是名空空。 何等をか、空空と為す。一切法は空にして、是の空も亦た空なるは常に非ず、滅に非ざるが故なり。何を以っての故に、性は自ら爾ればなり。是れを空空と名づく。
何のようなものが、
『空空なのか?』、――
『一切法は、空であり!』、
是の、
『空も、亦た空である!』のは、
『空』が、
『常でも、滅でもないからである!』。
何故ならば、
『性』が、
『自ら爾うだからである!』。
是れを、
『空空』と、
『称する!』。
何等為大空。東方東方空非常非滅故。何以故。性自爾。南西北方四維上下南西北方四維上下空非常非滅故。何以故。性自爾。是名大空。 何等をか、大空と為す。東方の東方空なるは常に非ず、滅に非ざるが故なり。何を以っての故に、性は自ら爾ればなり。南西北方四維上下の南西北方四維上下空なるも常に非ず、滅に非ざるが故なり。何を以っての故に、性は自ら爾ればなり。是れを大空と名づく。
何のようなものが、
『大空なのか?』、――
『東方が、東方空である!』のは、
『東方』は、
『常でも、滅でもないからである!』。
何故ならば、
『性』が、
『自ら爾うだからである!』。
『南西北方四維上下が、南西北方四維上下空である!』のは、
『南西北方四維上下』は、
『常でも、滅でもないからである!』。
何故ならば、
『性』が、
『自ら爾うだからであり!』、
是れを、
『大空』と、
『称する!』。
何等為第一義空。第一義名涅槃。涅槃涅槃空非常非滅故。何以故。性自爾。是名第一義空。 何等をか、第一義空と為す。第一義を涅槃と名づけ、涅槃の涅槃空なるは常に非ず、滅に非ざるが故なり。何を以っての故に、性は自ら爾ればなり。是れを第一義空と名づく。
何のようなものが、
『第一義空なのか?』、――
『第一義とは、涅槃であり!』、
『涅槃が、涅槃空である!』のは、
『涅槃』は、
『常でも、滅でもないからである!』。
何故ならば、
『性』が、
『自ら爾うだからである!』。
是れを、
『第一義空』と、
『称する!』。
何等為有為空。有為法名欲界色界無色界。欲界欲界空色界色界空無色界無色界空非常非滅故。何以故。性自爾。是名有為空。 何等をか、有為空と為す。有為法を欲界、色界、無色界と名づけ、欲界の欲界空なる、色界の色皆空なる、無色界の無色界空なるは常に非ず、滅に非ざるが故なり。何を以っての故に、性は自ら爾ればなり。是れを有為空と名づく。
何のようなものが、
『有為空なのか?』、――
『有為法とは、欲界色界無色界であり!』、
『欲界が欲界空、色界が色界空、無色界が無色界空である!』のは、
『無色界』は、
『常でも、滅でもないからである!』。
何故ならば、
『性』が、
『自ら爾うだからである!』。
是れを、
『有為空』と、
『称する!』。
何等為無為空。無為法名為無生相無住相無滅相。無為法無為法空非常非滅故。何以故。性自爾。是名無為空。 何等をか、無為空と為す。無為法を名づけて生相無く、住相無く、滅相無しと為し、無為法の無為法空なるは常に非ず、滅に非ざるが故なり。何を以っての故に、性は自ら爾ればなり。是れを無為空と名づく。
何のようなものが、
『無為空なのか?』、――
『無為法に生相、住相、滅相が無く!』、
『無為法が、無為法空である!』のは、
『無為法』は、
『常でも、滅でもないからである!』。
何故ならば、
『性』が、
『自ら爾うだからである!』。
是れを、
『無為空』と、
『称する!』。
何等為畢竟空。畢竟名諸法至竟不可得。非常非滅故。何以故。性自爾。是名畢竟空。 何等をか、畢竟空と為す。畢竟を、諸法は竟に至るまで不可得なりと名づくるは常に非ず、滅に非ざるが故なり。何を以っての故に、性は自ら爾ればなり。是れを畢竟空と名づく。
何のようなものが、
『畢竟空なのか?』、――
『畢竟』とは、
『諸法が、竟りに至るまで不可得である
all dharmas are unrecognizable to the end )!』のは、
『諸法』が、
『常でも、滅でもないからである!』。
何故ならば、
『性』が、
『自ら爾うだからである!』。
是れを、
『畢竟空』と、
『称する!』。
何等為無始空。若法初來處不可得。非常非滅故。何以故。性自爾。是名無始空 何等をか、無始空と為す。若し法の初の来処が不可得なれば常に非ず、滅に非ざるが故なり。何を以っての故に、性は自ら爾ればなり。是れを無始空と名づく。
何のようなものが、
『無始空なのか?』、――
若し、
『法の、初の来処が不可得ならば
where a dharma had initially appeared is not recognized )!』、
『法』は、
『常でも、滅でもないからである!』。
何故ならば、
『性』が、
『自ら爾うだからである!』。
是れを、
『無始空』と、
『称する!』。
  来処(らいしょ):梵語 aagama-sthaana の訳、現れた場所( the place where it had appeared )の義。
何等為散空。散名諸法無滅。非常非滅故。何以故。性自爾。是名散空。 何等をか、散空と為す。散を諸法の無滅と名づくるは常に非ず、滅に非ざるが故なり。何を以っての故に、性は自ら爾ればなり。是れを散空と名づく。
何のようなものが、
『散空なのか?』、――
『散とは、諸法が無滅である!』のは、
『諸法』は、
『常でも、滅でもないからである!』。
何故ならば、
『性』が、
『自ら爾うだからである!』。
是れを、
『散空』と、
『称する!』。
何等為性空。一切法性若有為法性若無為法性。是性非聲聞辟支佛所作。非佛所作亦非餘人所作。是性性空非常非滅故。何以故。性自爾。是名性空。 何等をか、性空と為す。一切の法性の若しは有為の法性、若しは無為の法性にして、是の性の声聞、辟支仏の所作に非ず、仏の所作に非ず、亦た餘人の所作に非ず。是の性の性空なるは常に非ず、滅に非ざるが故なり。何を以っての故に、性は自ら爾ればなり。是れを性空と名づく。
何のようなものが、
『性空なのか?』、――
『有為法、無為法の一切の法性』が、
『声聞、辟支仏、仏の所作でも、餘人の所作でもなく!』、
是の、
『性が、性空である!』のは
『常でも、滅でもないからである!』。
何故ならば、
『性』が、
『自ら爾うだからである!』。
是れを、
『性空』と、
『称する!』。
何等為自相空自相名色壞相受受相想取相行作相識識相。如是等有為法無為法各各自相空。非常非滅故。何以故。性自爾。是名自相空。 何等をか、自相空と為す。自相を色の壊相、受の受相、想の取相、行の作相、識の識相と名づけ、是れ等の如き有為法、無為法の各各自相空なるは常に非ず、滅に非ざるが故なり。何を以っての故に、性は自ら爾ればなり。是れを自相空と名づく。
何のようなものが、
『自相空なのか?』、――
『自相』とは、
『色の壊相、受の受相、想の取相、行の作相、識の識相であり!』、
是れ等のような、
『有為法、無為法が有り、各各の自相が空である!』のは、
『常でも、滅でもないからである!』。
何故ならば、
『性』が、
『自ら爾うだからである!』。
是れを、
『自相空』と、
『称する!』。
何等為諸法空。諸法名色受想行識眼耳鼻舌身意色聲香味觸法眼界色界眼識界乃至意界法界意識界。是諸法諸法空非常非滅故。何以故。性自爾。是為諸法空。 何等をか、諸法空と為す。諸法を色受想行識、眼耳鼻舌身意、色声香味触法、眼界色界眼識界乃至意界法界意識界と名づけ、是の諸法の諸法空なるは常に非ず、滅に非ざるが故なり。何を以っての故に、性は自ら爾ればなり。是れを諸法空と為す。
何のようなものが、
『諸法空なのか?』、――
『諸法』とは、
『色受想行識、眼耳鼻舌身意、色声香味触法、眼界乃至意識界であり!』、
是の、
『諸法が、諸法空である!』のは、
『常でも、滅でもないからである!』。
何故ならば、
『性』が、
『自ら爾うだからである!』。
是れを、
『性空』と、
『称する!』。
何等為不可得空。求諸法不可得。是不可得空非常非滅故。何以故。性自爾。是名不可得空。 何等をか、不可得空と為す。諸法を求むるも不可得にして、是れ不可得空なるは常に非ず、滅に非ざるが故なり。何を以っての故に、性は自ら爾ればなり。是れを不可得空と名づく。
何のようなものが、
『不可得空なのか?』、――
『諸法を求めても、不可得であり!』、
是の、
『不可得も、不可得空である!』のは、
『常でも、滅でもないからである!』。
何故ならば、
『性』が、
『自ら爾うだからである!』。
是れを、
『不可得空』と、
『称する!』。
何等為無法空。若法無是亦空。非常非滅故。何以故。性自爾。是名無法空。 何等をか、無法空と為す。若し法無ければ、是れも亦た空なるは常に非ず、滅に非ざるが故なり。何を以っての故に、性は自ら爾ればなり。是れを無法空と名づく。
何のようなものが、
『無法空なのか?』、――
若し、
『法が無ければ!』、
是の、
『無法も、亦た空である!』のは、
『常でも、滅でもないからである!』。
何故ならば、
『性』が、
『自ら爾うだからである!』。
是れを、
『無法空』と、
『称する!』。
何等為有法空。有法名諸法和合中有自性相。是有法空非常非滅故。何以故。性自爾。是名有法空。 何等をか、有法空と為す。有法を、諸法の和合中に自ら性、相有りと名づけ、是れ有法空なるは常に非ず、滅に非ざるが故なり。何を以っての故に、性は自ら爾ればなり。是れを有法空と名づく。
何のようなものが、
『有法空なのか?』、――
『有法』とは、
『諸法の和合中に自性、自相が有ることである!』が、
是の、
『有法が、有法空である!』のは、
『常でも、滅でもないからである!』。
何故ならば、
『性』が、
『自ら爾うだからである!』。
是れを、
『有法空』と、
『称する!』。
何等為無法有法空。諸法中無法。諸法和合中有自性相。是無法有法空。非常非滅故。何以故。性自爾。是名無法有法空 何等をか、無法有法空と為す。諸法中に法無く、諸法の和合中に自ら性、相有れば、是れ無法有法空なるは常に非ず、滅に非ざるが故なり。何を以っての故に、性は自ら爾ればなり。是れを無法有法空と名づく。
何のようなものが、
『無法有法空なのか?』、――
『諸法中には、法が無く!』、
『諸法の和合中に自性、自相が有れば!』、、
是の、
『無法有法が、無法有法空である!』のは、
『常でも、滅でもないからである!』。
何故ならば、
『性』が、
『自ら爾うだからである!』。
是れを、
『無法有法空』と、
『称する!』。
復次須菩提。法法相空。無法無法相空。自法自法相空。他法他法相空。 復た次ぎに、須菩提、法の法相は空、無法の無法相は空、自法の自法相は空、他法の他法相は空なり。
復た次ぎに、
須菩提!
『法』は、
『法の相』が、
『空であり!』、
『無法』は、
『無法の相』が、
『空であり!』、
『自法』は、
『自法の相』が、
『空であり!』、
『他法』は、
『他法の相』が、
『空である!』。
何等名法法相空。法名五眾五眾空。是名法法相空。 何等をか、法の法相は空なりと名づくる。法を五衆と名づけ、五衆は空なり、是れを法の法相は空なりと名づく。
何のようなものを、
『法』の、
『法相は空である!』と、
『称するのか?』、――
『法』とは、
『五衆であり!』、
『五衆は空である!』。
是れを、
『法は、法相が空である!』と、
『称する!』。
何等名無法無法相空。無法名無為法是名無法無法相空。 何等をか、無法の無法相は空なりと名づくる。無法を無為法と名づけ、是れを無法の無法相は空なりと名づく。
何のようなものを、
『無法』の、
『無法相は空である!』と、
『称するのか?』、――
『無法とは、無為法であり!』、
是れを、
『無法は、無法相が空である!』と、
『称する!』。
何等名自法自法空。諸法自法空。是空非智作非見作。是名自法自法空。 何等をか、自法は自法空なりと名づくる。諸法の自法は空にして、是の空は、智の作に非ず、見の作に非ず、是れを自法は自法空なりと名づく。
何のようなものを、
『自法』は、
『自法空である!』と、
『称するのか?』、――
『諸法は、自法が空であり!』、
是の、
『空』は、
『智の作でもなく、見の作でもない
is not made by knowledge or views )!』。
是れを、
『自法は、自法空である!』と、
『称する!』。
  (ち):梵語 jJaana, prajJaa の訳、知ること/理解すること/識別すること/区別すること( to know, understanding , discern, distinguish )の義、高度な知識( the higher knowledge )の意。
何等名他法他法空。若佛出若佛未出。法住法相法位法性如實際過此諸法空。是名他法他法空。是名菩薩摩訶薩摩訶衍 何等をか、他法は他法空なりと名づくる。若しは仏出づるも、若しは仏未だ出でざるも、法住、法相、法位、法性、如、実際は、是の諸法の空を過ぐれば、是れを他法は他法空なりと名づく。是れを菩薩摩訶薩の摩訶衍と名づく。
何のようなものを、
『他法』は、
『他法空である!』と、
『称するのか?』、――
『仏が出ようと、出まいと!』、
『法住、法相、法位、法性、如、実際』は、
此の、
『諸法の空』を、
『過ぎたものであり!』、
是れを、
『他法は、他法空である!』と、
『称する!』。
是れを、
『菩薩摩訶薩の摩訶衍』と、
『称する!』。



【論】大乗の六波羅蜜、十八空

【論】問曰。是經名為般若波羅蜜。又佛命須菩提。為菩薩說般若波羅蜜。須菩提應問般若波羅蜜。佛亦應答般若波羅蜜。今須菩提。何以乃問摩訶衍。佛亦答摩訶衍。 問うて曰く、是の経を名づけて、般若波羅蜜と為して、又仏は須菩提に命じて、菩薩の為めに般若波羅蜜を説かしめたもう。須菩提は応に般若波羅蜜を問うべく、仏も亦た般若波羅蜜を答えたもうべし。今、須菩提は、何を以ってか、乃ち摩訶衍を問い、仏も亦た摩訶衍を説きたもうや。
問い、
是の、
『経』を、
『般若波羅蜜』と、
『称し!』、
又、
『仏は、須菩提に命じて!』、
『菩薩の為め!』に、
『般若波羅蜜を説かせられた!』ので、
当然、
『須菩提は、般若波羅蜜を問うべきであり!』、
『仏』も、
『般若波羅蜜を答えられるべきである!』が、
今、
『須菩提』は、
何故、乃ち( how easily )、
『摩訶衍』を、
『問い!』、
『仏』も、
『摩訶衍』を、
『答えられたのですか?』。
答曰。般若波羅蜜摩訶衍一義但名字異。若說般若波羅蜜。說摩訶衍無咎。摩訶衍名佛道行。是法得至佛。所謂六波羅蜜。 答えて曰く、般若波羅蜜と摩訶衍とは一義にして、但だ名字異なるのみ。若し般若波羅蜜を説けば、摩訶衍を説くも、咎無し。摩訶衍を仏道と名づけ、是の法を行ずれば、仏に至るを得。謂わゆる六波羅蜜なり。
答え、
『般若波羅蜜、摩訶衍は一義であり!』、
但だ、
『名字』が、
『異なるだけである!』ので、
若し、
『般若波羅蜜を説けば!』、
『摩訶衍を説いても!』、
『咎は無い!』。
『摩訶衍とは、仏道であり!』、
是の、
『法を行じれば!』、
『仏』に、
『至ることができる!』ので、
謂わゆる、
『六波羅蜜なのである!』。
六波羅蜜中第一。大者般若波羅蜜。如後品佛種種說大因緣。若說般若波羅蜜則攝六波羅蜜。若說六波羅蜜則具說菩薩道。所謂從初發意乃至得佛。 六波羅蜜中の第一に大なる者は、般若波羅蜜なり。後の品に、仏の種種に大の因縁を説きたもうが如く、若し般若波羅蜜を説けば、則ち六波羅蜜を摂す。若し六波羅蜜を説けば、則ち具(つぶさ)に菩薩道を説く。謂わゆる初発意より、乃至仏を得るまでなり。
『六波羅蜜』中に、
『第一に大である!』者は、
『般若波羅蜜であり!』、
『後の品』中に、
『仏』が、
『種種に大の因縁を説かれたように!』、
若し、
『般若波羅蜜を説けば!』、
『六波羅蜜』を、
『摂する( be included )ことになり!』、
若し、
『六波羅蜜を説けば!』、
『菩薩道』を、
『具さに説いたことになる!』、
謂わゆる、
『初発意より、乃至仏を得るまで!』の、
『菩薩道である!』。
譬如王來必有營從。雖不說從者當知必有。摩訶衍亦如是。菩薩初發意所行。為求佛道故。所修集善法隨可度眾生所說種種法。所謂本起經。斷一切眾生疑經。華手經。法華經。雲經。大雲經。法雲經彌勒問經。六波羅蜜經。摩訶般若波羅蜜經。 譬えば王来たれば、必ず営従有り、従者を説かずと雖も、当に必ず有りと知るべきが如し。摩訶衍も亦た是の如く、菩薩の初発意の所行は、仏道を求めんが為めの故にして、修集する所の善法は、度すべき衆生に随い、所説の種種の法は、謂わゆる本起経、断一切衆生疑経、華手経、法華経、雲経、大雲経、法雲経、弥勒問経、六波羅蜜経、摩訶般若波羅蜜経なり。
譬えば、
『王が来れば!』、
『必ず、営従が有るのであり( there are always followers of him )!』、
『従者を説かなくても!』、
『従者は必ず有る!』と、
『知るように!』、
『摩訶衍』も、
是のように、
『菩薩が、初めて発意する!』時の、
『所行』は、
『仏道を求める為めである!』が故に、
『菩薩が、修集する!』所の、
『善法』は、
『度される衆生に随い!』、
『所説の種種の法』とは、
謂わゆる、
『本起経、断一切衆生疑経、華手経、法華経、雲経、大雲経、法雲経や!』、
『弥勒問経、六波羅蜜経、摩訶般若波羅蜜経である!』。
  営従(ようじゅう):梵語 parivaara の訳、随行者/従者( followers )の義。
如是等無量無邊阿僧祇經。或佛說或化佛說。或大菩薩說或聲聞說。或諸得道天說。是事和合皆名摩訶衍。 是れ等の如き無量無辺、阿僧祇の経は、或は仏の説、或は化仏の説、或は大菩薩の説、或は声聞の説、或は諸の得道の天の説にして、是の事の和合を、皆摩訶衍と名づくるなり。
是れ等のような、
『無量、無辺、阿僧祇の経』は、
『仏や、化仏や、大菩薩や、声聞や、諸の得道の天』が、
『説いたものであり!』、
是の、
『事の和合』を、
『皆、摩訶衍と称するのである!』。
此諸經中般若波羅蜜最大故。說摩訶衍。即知已說般若波羅蜜。諸餘助道法無般若波羅蜜和合。則不能至佛。以是故。一切助道法皆是般若波羅蜜。如後品中。佛語須菩提。汝說摩訶衍不異般若波羅蜜。 此の諸経中に般若波羅蜜は最大なるが故に、摩訶衍を説けば、既に、已に般若波羅蜜を説けりと知る。諸余の助道法は、般若波羅蜜の和合無ければ、則ち仏に至ること能わず。是を以っての故に、一切の助道法は、皆是れ般若波羅蜜なり。後の品中に、仏の須菩提に、『汝は摩訶衍を説くも、般若波羅蜜と異ならず』、と語りたもうが如し。
此の、
『諸経』中に、
『般若波羅蜜は最大である!』が故に、
『摩訶衍が説かれれば!』、
即ち、
『已に、般若波羅蜜が説かれた!』と、
『知ることになる!』。
『諸余の助道法』は、
『般若波羅蜜の和合が無ければ!』、
『仏』に、
『至ることができない!』ので、
是の故に、
『一切の助道法』は、
『皆、般若波羅蜜なのである!』。
後の品中に、
『仏』が、
『須菩提』に、こう語られた通りである、――
お前の説いた、――
『摩訶衍』は、
『般若波羅蜜と異らない!』、と。
問曰。若爾者初何以不先說摩訶衍。 問うて曰く、若し爾らば、初に何を以ってか、先に摩訶衍を説かざる。
問い、
若し、爾うならば、――
何故、
『初品』中に、
『般若波羅蜜より先に!』、
『摩訶衍を説かないのですか?』。
答曰。我上說般若波羅蜜最大故應先說。 答えて曰く、我が上に説かく、『般若波羅蜜は最大なり』と、故に応に先に説くべし。
答え、
わたしは、上に――
『般若波羅蜜』は、
『最大である!』と、
『説いた!』が、
是の故に、
『先に!』、
『説くべきである!』。
又佛意欲說摩訶般若波羅蜜。放大光明。十方諸菩薩各自問佛。今何以有是光明。諸佛各答言。娑婆世界有佛。名釋迦牟尼。欲說般若波羅蜜。彼諸菩薩及諸天人和合而來。舍利弗問佛。世尊。云何菩薩摩訶薩欲知一切法習行般若波羅蜜。 又、仏は意に、摩訶般若波羅蜜を説かんと欲して、大光明を放ちたまえば、十方の諸菩薩は各自ら、仏に問わく、『今、何を以ってか、是の光明有る』、と。諸仏の各答えて言わく、『娑婆世界に仏有り、釈迦牟尼と名づく、般若波羅蜜を説かんと欲するなり』、と。彼の諸菩薩及び天人和合して来たるに、舎利弗の仏に問わく、『世尊、云何が菩薩摩訶薩は一切法を知らんと欲して、般若波羅蜜を習行する』、と。
又、
『仏』が、
『意に、摩訶般若波羅蜜を説こうとして!』、
『大光明』を、
『放たれる!』と、
『十方の諸菩薩』は、
『各、自らの仏に問うた!』、――
今、
何故、是のような、――
『大光明』が、
『有るのですか?』、と。
『諸仏は、各答えて!』、こう言われた、――
『娑婆世界に、釈迦牟尼という仏が有り!』、
『般若波羅蜜』を、
『説こうとしているのだ!』、と。
『彼の世界』の、
『諸の菩薩と諸の天、人が和合して!』、
『此の世界に来た!』。
『舎利弗』は、
『仏』に、こう問うた、――
世尊!
何故、
『菩薩摩訶薩は、一切法を知ろうとしながら!』、
『般若波羅蜜を習行するのですか?』、と。
又佛初品中種種讚般若波羅蜜功德。若欲得是者當學般若波羅蜜。有如是等因緣故。應初說般若波羅蜜。 又、仏は、初品中に種種に般若波羅蜜の功徳を讃じたまわく、『若し是れを得んと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし』、と。是れ等の如き因縁有るが故に、応に初に、般若波羅蜜を説くべし。
又、
『仏は、初品中に!』、
『種種に、般若波羅蜜の功徳を讃じて!』、こう言われた、――
若し、
是の、
『功徳を得ようとすれば!』、
『般若波羅蜜を学ばねばならない!』、と。
是れ等のような因縁の故に、
『初品』には、
『般若波羅蜜を説くべきなのである!』。
佛命須菩提。汝為諸菩薩說般若波羅蜜。須菩提謙言。菩薩空但有名。後言。能如是解了知菩薩相。即是行般若波羅蜜。既知是已。問菩薩句義。 仏の須菩提に命じたまわく、『汝は、諸菩薩の為めに、般若波羅蜜を説け』、と。須菩提の謙(へりくだ)りて言わく、『菩薩は空にして、但だ名有るのみ』、と。後に言わく、『能く是の如く解了して、菩薩相を知れば、即ち是れ般若波羅蜜を行ずるなり』、と。既に是れを知り已りて、菩薩の句義を問えり。
『仏』は、
『須菩提に命じて!』、こう言われた、――
お前は、
『諸の菩薩の為め!』に、
『般若波羅蜜を説け!』、と。
『須菩提』は、
『謙って!』、こう言い、――
『菩薩は空であり!』、
『但だ、名が有るだけなのに!』、
『何のように、説けばよいのですか?』、と。
『後に!』、こう言い、――
是のように、
『菩薩の相を解了して!』、
『知ることができれば!』、
是れが、
『即ち!』、
『般若波羅蜜を行じるということです!』、と。
『既に、菩薩の相を知った!』ので、――
更に、
『菩薩の句義』を、
『問うた!』。
  (けん):へりくだる。ゆづる。謙遜。謙譲。つつしむ。うやまう。謙恭。謙敬。
  参考:『大品般若経巻2三仮品』:『爾時佛告慧命須菩提。汝當教諸菩薩摩訶薩般若波羅蜜。如諸菩薩摩訶薩所應成就般若波羅蜜。即時諸菩薩摩訶薩及聲聞大弟子諸天等作是念。慧命須菩提。自以智慧力。當為諸菩薩摩訶薩說般若波羅蜜耶。為是佛力。慧命須菩提。知諸菩薩摩訶薩大弟子諸天心所念。語慧命舍利弗。諸佛弟子所說法。所教授皆是佛力。佛所說法。法相不相違背。是善男子。學是法得證此法。佛說如燈。舍利弗。一切聲聞辟支佛。實無是力。能為菩薩摩訶薩說般若波羅蜜。爾時慧命須菩提白佛言。世尊。所說菩薩菩薩字何等法名菩薩。世尊。我等不見是法名菩薩。云何教菩薩般若波羅蜜。佛告須菩提。般若波羅蜜亦但有名字。名為般若波羅蜜。菩薩菩薩字亦但有名字。是名字不在內不在外不在中間。須菩提。譬如說我名。和合故有。是我名不生不滅。但以世間名字故說。如眾生壽者命者生者養育者。眾數人作者使作者。起者使起者。受者使受者。知者見者等。和合法故有。是諸名不生不滅。但以世間名字故說般若波羅蜜。菩薩菩薩字亦如是。皆和合故有。是亦不生不滅。但以世間名字故說。須菩提。譬如身和合故有。是亦不生不滅。但以世間名字故說。須菩提。譬如色受想行識。亦和合故有。是亦不生不滅。但以世間名字故說。須菩提。般若波羅蜜。菩薩菩薩字亦如是。皆是和合故有。是亦不生不滅。但以世間名字故說。』
次有摩訶薩義。摩訶薩義中有大莊嚴摩訶衍。如勇夫雖有種種器杖莊嚴不乘駛馬則無能為。 次に摩訶薩の義有り、摩訶薩の義中に大莊嚴、摩訶衍有り、勇夫に種種の器仗の荘厳有りと雖も、駛馬に乗らざれば、則ち能く為す無きが如し。
次に、
『(摩訶薩品中に)摩訶薩の義が有り!』、
『摩訶薩の義』中に、
『大莊嚴と!』、
『摩訶衍が有る!』。
譬えば、
『勇夫』に、
『種種の器仗の荘厳が有っても!』、
『駛馬に乗らなければ!』、
『何も為すことができないようなものである!』。
  駛馬(しめ):はやい馬。
是大乘天竺語名摩訶衍。諸佛斷法愛故。又明般若波羅蜜義無異故佛不訶。以是故。須菩提更作異名問摩訶衍。 是の大乗は、天竺の語に摩訶衍と名づけ、諸仏は、法愛を断ぜんが故に、又般若波羅蜜の義と、異無きを明さんが故に、訶したまわず、是を以っての故に、須菩提は更に異名を作して、摩訶衍を問えり。
是の、
『大乗』は、
『天竺の語では!』、
『摩訶衍と称し!』、
『諸仏』は、
『法愛』を、
『断じようとされた!』が故に、
又、
『大乗と、般若波羅蜜の義には異が無い!』と、
『明かされようとされた!』が故に、
『仏』は、
『摩訶衍は空だ、と説く須菩提』を、
『訶されなかった!』ので、
是の故に、
『須菩提』は、
『更に、異名を作して!』、
『摩訶衍の義を問うたのである!』。
問曰。如摩訶衍序中說。從初發心乃至佛道。為佛道故集一切善法。皆名摩訶衍。今何以但說六波羅蜜為摩訶衍。 問うて曰く、摩訶衍の序中に説けるが如きは、『初発心より、乃至仏道まで、仏道の為めの故に集むる一切の善法は、皆摩訶衍と名づく』、と。今は、何を以ってか、但だ六波羅蜜を説いて、摩訶衍と為す。
問い、
『摩訶衍品の序』中には、――
『初発心乃至仏道まで!』、
『仏道の為めの故に集めた!』、
『一切の善法』は、
皆、
『摩訶衍と称する!』と、
『説かれている!』が、
今は、何故、
但だ、
『六波羅蜜が摩訶衍である!』と、
『説かれたのですか?』。
  参考:『大智度論巻46』:『菩薩初發意所行。為求佛道故。所修集善法隨可度眾生所說種種法。所謂本起經。斷一切眾生疑經。華手經。法華經。雲經。大雲經。法雲經彌勒問經。六波羅蜜經。摩訶般若波羅蜜經。』
答曰。如先說般若波羅蜜則說六波羅蜜。說六波羅蜜則攝一切善法。以是故不應作是問。諸善法多。何以但說六波羅蜜。 答えて曰く、先の如く、般若波羅蜜を説けば、則ち六波羅蜜を説き、六波羅蜜を説けば、則ち一切の善法を摂す。是を以っての故に、応に、『諸の善法は多し。何を以ってか、但だ六波羅蜜を説く』と、是の問を作すべからず。
答え、
先のように、――
『般若波羅蜜を説けば!』、
『六波羅蜜』を、
『説いたことになり!』、
『六波羅蜜を説けば!』、
『一切の善法』を、
『摂することになる!』。
是の故に、こう問うてはならない、――
『諸の善法は多い!』のに、
何故、
『但だ、六波羅蜜だけ!』を、
『説くのか?』、と。
復次摩訶衍初發心作願。乃至後方便等六波羅蜜。是諸法雖不名為波羅蜜。然義皆在六波羅蜜中。 復た次ぎに、摩訶衍とは、初発心の作願、乃至後の方便等の六波羅蜜なり。是の諸法は、名づけて波羅蜜と為さずと雖も、然るに義は皆、六波羅蜜中に在り。
復た次ぎに、
『摩訶衍』とは、
『初発心の作願より、乃至後の方便等の六波羅蜜である!』が、
是の、
『諸法』は、
『波羅蜜と称されなくても!』、
『義は、皆六波羅蜜中に在る
all their substances are in the six paramita )!』。
如初發心作願。大悲等心力大故。名毘梨耶波羅蜜。捨小利取大乘名般若波羅蜜。方便即是智慧。智慧淳淨故變名方便。教化眾生淨佛世界等皆在六波羅蜜中。隨義相攝。 初発心の作願の如きは、大悲等の心力の大なるが故に、毘梨耶波羅蜜と名づけ、小利を捨てて大乗を取るを般若波羅蜜と名づけ、方便とは即ち是れ智慧にして、智慧の淳浄なるが故に、変じて方便と名づけ、衆生を教化して、仏世界を浄むる等は、皆六波羅蜜中に在りて、義に随いて相摂するなり。
例えば、
『初発心の作願など!』は、
『大悲等の心力が大である!』が故に、
『毘梨耶波羅蜜』と、
『称され!』、
『小利を捨てて!』、
『大乗を取る!』のを、
『般若波羅蜜』と、
『称し!』、
『方便とは、即ち智慧であり!』、
『智慧が淳浄である( their knowledge is purified )!』が故に、
『名を変じて!』、
『方便と称されるのであり!』、
『衆生を教化するとか、仏世界を浄める!』等は、
皆、
『六波羅蜜』中に、
『義に随って!』、
『相摂する( to belong to one of the six paramitas )のである!』。
  淳浄(じゅんじょう)、清浄(しょうじょう):梵語 parizuddha, prasaada の訳、清潔/純粋/清潔な/純粋な( clearness, purity, cleaned, purified )の義。
問曰。若爾者後何以更說十八空百八三昧等名摩訶衍。 問うて曰く、若し爾らば、後に何を以ってか、更に十八空、百八三昧等を説いて、摩訶衍と名づくる。
問い、
若し、爾うならば、
後に、何故、
更に、
『十八空、百八三昧等が摩訶衍である!』と、
『説くのですか?』。
答曰。六波羅蜜是摩訶衍體。但後廣分別其義。如十八空四十二字等是般若波羅蜜義。百八三昧等是禪波羅蜜義。以是故初說六波羅蜜。 答えて曰く、六波羅蜜は是れ摩訶衍の体にして、但だ後に広く、其の義を分別するのみ。十八空、四十二字等の如きは、是れ般若波羅蜜の義なり。百八三昧等は、是れ禅波羅蜜の義なり。是を以っての故に、初に六波羅蜜を説けり。
答え、
『六波羅蜜』は、
『摩訶衍の体であり( the essence of MahaYana )!』、
但だ、後に、
『摩訶衍の義』を、
『広く、分別しただけである!』。
例えば、
『十八空や、四十二字』等は、
『般若波羅蜜』の、
『義であり!』、
『百八三昧』等は、
『禅波羅蜜』の、
『義である!』ので、
是の故に、
『六波羅蜜』を、
『初品中に説いたのである!』。
  (たい):梵語 eka-artha, bhaava の訳、実体( substance, essence )の義。
  (ぎ):梵語 artha の訳、意味/意義/観念/実体( meaning, sense, notion, substance )の義。
問曰。何以故正說六波羅蜜不多不少。 問うて曰く、何を以っての故にか、正に六波羅蜜を説けば、多きにあらず、少きにあらざる。
問い、
何故、
『正しく、六波羅蜜を説けば!』、
『多くもなく!』、
『少くもないのですか?』。
答曰。佛為法王。隨眾生可度。或時略說一二三四。或時廣說。如賢劫經八萬四千波羅蜜。 答えて曰く、仏を法王と為すは、衆生の度すべきに随いて、或は時に、一二三四を略説し、或は時に、賢劫経の八万四千波羅蜜を広説したまえばなり。
答え、
『仏を、法王と称する!』のは、
『度すべき衆生に随って!』、
或る時には、
『一、二、三、四波羅蜜』を、
『略して説き!』、
或る時には、
『賢劫経のように、八万四千波羅蜜』を、
『広く説かれたからである!』。
  参考:『現在賢劫千仏名経』:『爾時喜王菩薩白佛言。世尊。今此眾中頗有菩薩摩訶薩得是三昧。亦得八萬四千波羅蜜門。諸三昧門陀羅尼門者不。佛告喜王。今此會中有菩薩大士。得是三昧。亦能入八萬四千諸波羅蜜。及諸三昧陀羅尼門。此諸菩薩於是賢劫中。皆當得阿耨多羅三藐三菩提。除四如來於此劫中得成佛已。』
復次六道眾生皆受身心苦惱。如地獄眾生拷掠苦。畜生中相殘害苦。餓鬼中飢餓苦。人中求欲苦。天上離所愛欲時苦。阿修羅道鬥諍苦。菩薩生大悲心。欲滅六道眾生苦故。生六波羅蜜。以是故說六波羅蜜不多不少。 復た次ぎに、六道の衆生は、皆身心の苦悩を受くること、地獄の衆生の拷掠の苦、畜生中の相残害する苦、餓鬼中の飢餓の苦、人中の欲を求むる苦、天上の所愛の欲を離るる時の苦、阿修羅道の闘諍の苦の如し。菩薩は大悲心を生じて、六道の衆生の苦を滅せんと欲するが故に、六波羅蜜を生ず。是を以っての故に、六波羅蜜を説けば多からず、少なからず。
復た次ぎに、
『六道の衆生』は、
皆、
『身心の苦悩』を、
『受けており!』、
例えば、
『地獄の衆生』は、
『拷掠』の、
『苦を受け!』、
『畜生』中には、
『相残害する!』、
『苦を受け!』、
『餓鬼』中には、
『飢餓』の、
『苦を受け!』、
『人』中には、
『欲を求める!』、
『苦を受け!』、
『天』上には、
『所愛の欲を離れる!』時に、
『苦を受け!』、
『阿修羅道』には、
『闘諍する!』、
『苦を受けるのである!』が、
『菩薩は、大悲心を生じて!』、
『六道の衆生の苦を滅そうとする!』が故に、
『六波羅蜜』を、
『生じる!』ので、
是の故に、
『六波羅蜜を説けば!』、
『多くも、少くもないのである!』。
  拷掠(こうりゃく):拷問/痛めつけて尋問する( to torture and interrogate )。
問曰。檀波羅蜜有種種相。此中佛何以但說五相。所謂用薩婆若相應心捨內外物。是福共一切眾生。迴向阿耨多羅三藐三菩提。用無所得故。何以不說大慈悲心供養諸佛及神通布施等。 問うて曰く、檀波羅蜜には種種の相有るに、此の中に仏は何を以ってか、但だ五相を説きたまえる。謂わゆる薩婆若相応の心を用い、内外の物を捨て、是の福を一切の衆生と共にし、阿耨多羅三藐三菩提に迴向するは、無所得を用うるが故なり。何を以ってか、大慈悲心、諸仏の供養、及び神通の布施等を説かざる。
問い、
『檀波羅蜜には、種種の相が有る!』が、
此の中に、
『仏』は、
何故、
『但だ、五相しか説かないのですか?』、
謂わゆる、
『薩婆若相応の心を用い!』、
『内、外の物を捨てて!』、
『物を捨てる福を、一切の衆生と共にし!』、
『阿耨多羅三藐三菩提に迴向する!』のは、
『無所得を用いるからである!』、と。
何故、
『大慈悲心や、諸仏を供養することや、神通の布施』等を、
『説かないのですか?』。
答曰。是五種相中攝一切布施。相應薩婆若心布施者。此緣佛道依佛道。捨內外者。則捨一切諸煩惱。共眾生者。則是大悲心。迴向者。以此布施但求佛道不求餘報。用無所得故者。得諸法實相般若波羅蜜氣分故。檀波羅蜜非誑非倒亦無窮盡。 答えて曰く、是の五種の相中に、一切の布施を摂す。薩婆若に相応する心の布施は、此れ仏道を縁じて、仏道に依り、内外を捨つとは、則ち一切の諸煩悩を捨て、衆生と共にすとは、則ち是れ大悲心にして、迴向すとは、此の布施を以って、但だ仏道を求め、餘の報を求めず、無所得を用うるが故にとは、諸法の実相なる般若波羅蜜の気分を得るが故なり。檀波羅蜜は誑に非ず、倒に非ず、亦た窮尽すること無し。
答え、
是の、
『五種の相』中に、
『一切の布施』を、
『摂するからである( to be included )!』。
即ち、
『薩婆若に相応する心で布施すれば!』、
此の、
『布施』は、
『仏道に縁じ( to relate us with the Buddhism )!』、
『仏道に依らせ( to make us rely on the Buddhism )!』、
『内外を捨てて布施すれば!』、
『一切の諸の煩悩』を
『捨てることになり!』、
『布施の福』を、
『衆生と共にする!』のは、
『大悲心であり!』、
『阿耨多羅三藐三菩提に迴向する!』とは、
此の、
『布施』は、
『但だ、仏道を求める為めであり!』、
『餘の報を求める為めではなく!』、
『無所得を用いる!』が故に、
『諸法の実相という!』、
『般若波羅蜜の気分』を、
『得るからである!』。
即ち、
『檀波羅蜜』とは、
『虚誑でも、顛倒でもなく!』、
『窮尽することも無いのである!』。
問曰。若爾者則不須五種相。但說薩婆若相應心則足。 問うて曰く、若し爾らば、則ち五種の相を用いずして、但だ薩婆若相応の心を説けば、則ち足らん。
問い、
若し、爾うならば、――
『五種の相を須いなくても!』、
但だ、
『薩婆若相応の心を説けば!』、
『足るのではないですか?』。
答曰。此事可爾。但以眾生不知云何應薩婆若心布施義故。是故以四事分別其義。 答えて曰く、此の事は爾るべし。但だ衆生は、云何が薩婆若に応ずる心の布施の義なるやを知らざるを以っての故に、是の故に四事を以って、其の義を分別す。
答え、
此の、
『事』は、
『其の通りである!』が、
但だ、
『衆生』は、
『薩婆若に応じる心の布施という!』、
『義が、何であるか知らない!』が故に、
是の故に、
其の、
『義』を、
『四事に分別するのである!』。
應薩婆若心者。以菩薩心求佛薩婆若。作緣作念繫心持是布施。欲得薩婆若果。不求今世因緣名聞恩分等。亦不求後世轉輪聖王天王富貴處。為度眾生故不求涅槃。但欲具一切智等諸佛法。為盡一切眾生苦故。是名應薩婆若心。 薩婆若に応ずる心とは、菩薩の心は、仏の薩婆若を求めて、縁を作し、念を作して心を繋け、是の布施を持して、薩婆若の果を得んと欲するを以って、今世の因縁、名聞、恩分等を求めず、亦た後世の転輪聖王、天王、富貴の処を求めず、衆生を度せんが為めの故に涅槃を求めず、但だ一切智等の諸仏法を具えんと欲するは、一切の衆生の苦を尽くさんが為めの故なれば、是れを薩婆若に応ずる心と名づく。
『薩婆若に応じる心』とは、――
『菩薩の心』は、
『仏の薩婆若を求めて!』、
『仏道の縁を作し!』、
『仏道の念を作して、心に繋け!』、
是の、
『布施を持して!』、
『薩婆若という!』、
『果を求める!』が故に、
『今世』の、
『名聞、恩分等に因縁すること!』を、
『求めず!』、
『後世』の、
『転輪聖王、天王、富貴の処』を、
『求めず!』、
『衆生を度する為め!』の故に、
『涅槃を求めず!』、
『一切の衆生の苦』を、
『尽す為め!』の故に、
但だ、
『一切智等の諸仏の法』を、
『具えようとするだけであり!』、
是れを、
『薩婆若に応じる心』と、
『称するのである!』。
內外物者。內名頭腦骨髓血肉等難捨故在初說。外物者國土妻子七寶飲食等。 内外の物とは、内を頭脳、骨髄、血肉等と名づけ、捨難きが故に初に在りて説き、外の物は国土、妻子、七宝、飲食等なり。
『内、外の物』とは、
『内』とは、
『頭脳、骨髄、血肉等であり!』、
『捨難い!』が故に、
『初に説き!』、
『外の物』とは、
『国土、妻子、七宝、飲食等である!』。
共一切眾生者。是布施福德果報。與一切眾生共用。譬如大家種穀與人共食。菩薩福德果報一切眾生皆來依附。譬如好果樹眾鳥歸集。 一切の衆生と共にすとは、是の布施の福徳の果報を、一切の衆生と共に用うるなり。譬えば大家の種うる穀を、人と共に食するが如し。菩薩の福徳の果報に、一切の衆生皆来たりて、依附す。譬えば好き果樹に、衆生帰集するが如し。
『一切の衆生と共にする!』とは、――
是の、
『布施の福徳の果報』を、
『一切の衆生と共に!』、
『用いることであり!』、
譬えば、
『大家の種えた穀物』を、
『人と共に食するようなものであり!』、
『菩薩の福徳の果報』を、
『一切の衆生が皆来て!』、
『依附する( to rely on )!』ので、
譬えば、
『好い果樹』に、
『衆鳥が帰集する( a lot of birds return together )ようなものである!』。
  依附(えふ):梵語 saMzraya, saMniviSTa, adhyaalamb の訳、依止/依頼する/される( to depend on, depended on )の義。
迴向者。是福德邊不求餘報。但求阿耨多羅三藐三菩提。 迴向とは、是の福徳の辺に、餘の報を求めず、但だ阿耨多羅三藐三菩提を求む。
『迴向する!』とは、――
是の、
『福徳の辺』に、
『餘の報』を、
『求めず!』、
但だ、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『求めることである!』。
問曰。先言應薩婆若心。後言迴向。有何等異。 問うて曰く、先には薩婆若に応ずる心と言い、後には迴向と言う。何等の異か有る。
問い、
先には、
『薩婆若に応じる心で!』と、
『言い!』、
後には、
『迴向する!』と、
『言う!』が、
何のような、
『異』が、
『有るのですか?』。
答曰。應薩婆若心為起諸福德因緣。迴向者不求餘報但求佛道。復次薩婆若相應心。為應阿耨多羅三藐三菩提故。施如先義說。薩婆若為主。一切功德皆為薩婆若。 答えて曰く、薩婆若に応ずる心を、諸の福徳を起す因縁と為し、迴向とは、餘の報を求めず、但だ仏道を求むるなり。復た次ぎに、薩婆若相応の心は、阿耨多羅三藐三菩提に応ぜんが為めの故に施せば、先に義を『薩婆若を主と為し、一切の功徳は皆薩婆若の為めなり』、と説けるが如し。
答え、
『薩婆若に応じる心』とは、
『諸の福徳を起す!』、
『因縁であり!』、
『迴向する!』とは、
『餘の報を求めずに!』、
『但だ、仏道を求めることである!』。
復た次ぎに、
『薩婆若相応の心』は、
『阿耨多羅三藐三菩提に応じる!』、
『心である!』が故に、
『施せば!』、
先に、義を説いたように、――
『薩婆若が主であり!』、
『一切の功徳は、皆薩婆若の為めである
every merit is born of the knowledge of all kinds )!』。
讚佛智慧有二種。一者無上正智名阿耨多羅三藐三菩提。二者一切種智名薩婆若。 仏の智慧を讃ずるに、二種有り、一には無上正智にして、阿耨多羅三藐三菩提と名づけ、二には一切種智にして、薩婆若と名づく。
『仏の智慧を讃じる!』には、
『二種有り!』、
一には、
『無上正智であり!』、
『阿耨多羅三藐三菩提と称し!』、
二には、
『一切種智であり!』、
『薩婆若と称する!』。
  無上正智(むじょうしょうち)、無上正遍知(むじょうしょうへんち):梵語阿耨多羅三藐三菩提 anuttara- samyak- sambodhi の訳、最高にして完全な知識( the best entire perfect knowledge )の義。
  一切種智(いっさいしゅち)、一切智(いっさいち):梵語薩婆若 sarva-jJa, -jJaana, -jJaata の訳、有らゆる事物を知ること/全知/全種類の智慧( all-knowing, omniscience, in all sorts of knowledge )の義。
用無所得者。以般若波羅蜜心布施。順諸法實相而不虛誑。如是等說檀波羅蜜義。 無所得を用うとは、般若波羅蜜の心を以って布施すれば、諸法の実相に順じて、虚誑ならず。是れ等の如きは、檀波羅蜜の義に説けり。
『無所得を用いる!』とは、
『般若波羅蜜の心を用いて、布施すれば!』、
『諸法の実相に順じて!』、
『虚誑ではない!』と、
是れ等のように、
『檀波羅蜜の義』中に、
『説いた!』。
問曰。尸羅波羅蜜則總一切戒法。譬如大海總攝眾流。所謂不飲酒。不過中食。不杖加眾生等。是事十善中不攝。何以但說十善。 問うて曰く、尸羅波羅蜜とは則ち一切の戒法を総ず。譬えば大海の衆流を総摂するが如し。謂わゆる不飲酒、不過中食、不杖加衆生等の、是の事は十善中に摂せざるに、何を以ってか、但だ十善を説く。
問い、
『尸羅波羅蜜』が、
『一切の戒法を総じる
All silas belong to the sila-paramita )!』のは、
譬えば、
『大海』が、
『衆流を総摂するようなものである!』。
謂わゆる、
『不飲酒、不過中食、不杖加衆生』等の、
是の、
『事』は、
『十善中には、摂されない!』のに、
何故、
『但だ、十善だけ!』を、
『説くのですか?』。
  総摂(そうしょう):梵語 saMgraha の訳、一緒に保持する( holding together )の義、皆~に含まれる( be included together )の意。
答曰。佛總相說六波羅蜜。十善為總相戒。別相有無量戒。不飲酒不過中食入不貪中。杖不加眾生等入不瞋中。餘道隨義相從。 答えて曰く、仏は、総相もて六波羅蜜を説き、十善を総相の戒と為し、別相には無量の戒有り。不飲酒、不過中食は、不貪中に入り、杖不加衆生等は、不瞋中に入り。餘の道も、義に随いて相従う。
答え、
『仏』は、
『総相を用いて!』、
『六波羅蜜』を、
『説かれた!』が、
『十善』は、
『総相』の、
『戒であり!』、
『別相を用いれば!』、
『無量の戒』が、
『有る!』。
『不飲酒、不過中食』は、
『不貪』中に、
『入り!』、
『杖不加衆生』等は、
『不瞋』中に、
『入り!』、
『餘の道』は、
『義に随って( according to the meaning )!』、
『相従する( to belong to one )!』。
  十善(じゅうぜん):十種の善の意。十悪に対す。身口意の三妙行中、最も顕勝なるものを開して身三口四意三の十種の善行となせるものを云い、即ち不殺生、不偸盗、不邪婬、不妄語、不悪口、不両舌、不綺語、不貪欲、不瞋恚、不邪見なり。『大智度論巻8(下)注:十善』参照。
  相従(そうじゅう):随従する( following )、従属する( belong to )。
戒名身業口業。七善道所攝。 戒を身業、口業と名づけて、七善道に摂せらる。
『戒は身業、口業であり!』、
『七善道(不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不悪口、不両舌、不綺語)』に、
『摂する( to belong to )!』。
十善道及初後。如發心欲殺。是時作方便。惡口鞭打繫縛斫刺乃至垂死皆屬於初。死後剝皮食噉割截歡喜皆名後。奪命是本體。此三事和合總名殺不善道。以是故知。說十善道則攝一切戒。 十善道は初後に及び、発心して殺さんと欲するが如きは、是の時に作す方便、悪口、鞭打、繋縛、斫刺、乃至死に垂(なんな)んとするまで、皆初に属し、死後皮を剥ぎ、食噉し、割截して、歓喜するは皆、後と名づく。命を奪うは、是れ本体なり。此の三事の和合を総じて、殺不善道と名づく。是を以っての故に知るらく、『十善道を説けば、則ち一切の戒を摂す』、と。
『十善道』は、
『初、乃至後であり!』、
譬えば、
『発心して、殺そうとすれば!』、
是の時作された、――
『方便( prepare )や、悪口、鞭打、繋縛、斫刺や!』、
乃至、
『死に垂んとする( near the death )まで!』、
『皆、初に属し!』、
『死後』に、
『皮を剥いで食噉し、割截して歓喜する!』のは、
『皆、後と称し!』、
『命』を、
『奪うこと!』が、
『本体であり!』、
此の、
『三事の和合』を、
『総じて!』、
『殺不善道と称する!』。
是の故に、こう知ることになる、――
『十善道を説けば!』、
『一切の戒』を、
『摂することになる!』、と。
復次是菩薩生慈悲心。發阿耨多羅三藐三菩提。布施利益眾生。隨其所須皆給與之。持戒不惱眾生。不加諸苦常施無畏。十善業道為根本。餘者是不惱眾生遠因緣。 復た次ぎに、是の菩薩は慈悲心を生じて、阿耨多羅三藐三菩提を発せば、布施して衆生を利益するに、其の所須に随いて、皆之を給与し、持戒して衆生を惱さず、諸の苦を加えずして、常に無畏を施すは、十善業道を根本と為し、餘は是れ衆生を惱さざる遠因縁なり。
復た次ぎに、
是の、
『菩薩が、慈悲心を生じて!』、
『阿耨多羅三藐三菩提の心を発し!』、
『布施して!』、
『衆生を利益し!』、
其の、
『所須に随って( according to their necessities )!』、
『皆、給与し!』、
『持戒して!』、
『衆生を惱さず!』、
『諸の苦を加えず!』、
『常に、無畏を施す!』のは、
則ち、
『十善業道が根本であり!』、
餘は、
『衆生を惱さない!』、
『遠い因縁である!』。
  施無畏(せむい):梵語 abhaya-prada, abhayada の訳、無畏を施す/安全を施す( giving fearlessness or saftyness )の義。
戒律為今世取涅槃故。婬欲雖不惱眾生。心繫縛故為大罪。以是故戒律中婬欲為初。白衣不殺戒在前。為求福德故。菩薩不求今世涅槃。於無量世中往返生死修諸功德。十善道為舊戒。餘律儀為客。 戒律は、今世に涅槃を取る為めの故なれば、婬欲は衆生を惱さずと雖も、心を繋縛するが故に、大罪と為し、是を以っての故に戒律中には婬欲を初と為す。白衣は、不殺戒が前に在るは、福徳を求めんが為めの故なり。菩薩は今世の涅槃を求めず、無量世中に於いて、生死を往返して、諸の功徳を修むれば、十善道を旧戒と為し、餘の律儀を客と為す。
『戒律』は、
『今世に、涅槃を取る為めである!』が故に、
『婬欲は、衆生を惱さない!』が、
『心を繋縛する!』が故に、
『大罪であり!』、
是の故に、
『戒律』中には、
『婬欲が初である!』。
『白衣』は、
『不殺戒が前に在る!』のは、
『福徳』を、
『求める為めだからであり!』、
『菩薩』は、
『今世の涅槃を求めず!』、
『無量世中に生死を往返しながら!』、
『諸の功徳を修める!』ので、
是の故に、
『十善道は、旧戒であり!』、
『餘の律儀は、客戒である!』。
復次若佛出好世則無此戒律。如釋迦文佛。雖在惡世十二年中亦無此戒。以是故知是客。 復た次ぎに、若し仏、好世に出でたまわば、則ち此の戒律無けん。釈迦文仏の、悪世に在(ま)しますこと十二年中なりと雖も、亦た此の戒無きが如し。是を以っての故に、是れ客なりと知る。
復た次ぎに、
若し、
『仏』が、
『好世』に、
『出られたならば!』、
此の、
『戒(律儀戒)』は、
『無いことになるだろう!』。
譬えば、
『釈迦文仏が、悪世に在りながら!』、
『十二年』中、
此の、
『戒』が、
『無かったようなものであり!』、
是の故に、
此の、
『戒は、客である!』と、
『知ることになる!』。
復次有二種戒。有佛時或有或無。十善有佛無佛常有。 復た次ぎに、二種の戒有りて、有仏の時には或は有り、或は無し。十善は有仏にも、無仏にも常に有り。
復た次ぎに、
『二種の戒が有り!』、
一には、
『仏が有る!』時に、
『有ったり、無かったりする!』、
『戒(比丘の二百五十戒、沙彌の十戒等)であり!』、
二には、
『十善のような!』、
『仏が有ろうと、無かろう!』、
『常に有る戒である!』。
復次戒律中戒雖復細微懺則清淨。犯十善戒雖復懺悔。三惡道罪不除。如比丘殺畜生。雖復得悔罪報猶不除。如是等種種因緣故。但說十善業道。亦自行亦教他人。名為尸羅波羅蜜。 復た次ぎに、戒律中の戒は、復た微細なりと雖も、懺すれば則ち清浄なり。十善戒を犯せば、復た懺悔すと雖も、三悪道の罪は除かれず。比丘が畜生を殺せば、復た悔ゆるを得と雖も、罪報は猶お除かれざるが如し。是れ等の如き種種の因縁の故に、但だ十善業道を説いて、亦た自ら行じ、亦た他人にも教うるを名づけて、尸羅波羅蜜と為す。
復た次ぎに、
『戒律中の戒』は、
復た( it is not important but yet )、
『微細でありながら!』、
『懺悔すれば!』、
『清浄となる!』が、
『十善戒を犯せば!』、
復た、
『懺悔したとしても!』、
『三悪道の罪』は、
『除かれない!』。
例えば、
『比丘が、畜生を殺せば!』、
『懺悔したとしても!』、
『罪報は、猶お除かれないのである!』。
是れ等のような、
『種種の因縁』の故に、
『但だ、十善業道だけを説くのであり!』、
『自ら、十善を行じながら!』、
『他人にも教えて!』、
『十善を行じさせれば!』、
是れを、
『尸羅波羅蜜』と、
『称するのである!』。
十善道七事是戒。三為守護故。通名為尸羅波羅蜜。餘波羅蜜亦如是。隨義分別。如初品中六波羅蜜論議廣說。 十善道の七事は、是れ戒にして、三を守護と為すが故に通じて名づけて、尸羅波羅蜜と為す。餘の波羅蜜も亦た是の如く、義に随いて分別すること、初品中の六波羅蜜の論義に広説するが如し。
『十善道』の、
『七事(不殺、不盗、不邪淫、不妄語、不両舌、不綺語、不悪口)』が、
『戒であり!』、
『十善道』の、
『三事(不貪、不瞋、不邪見)』は、
『守護であり!』、
是の故に、
『十善を通じて!』、
『尸羅波羅蜜と称する!』。
『餘の波羅蜜』も、
是のように、
『義に随って!』、
『分別するのである!』が、
例えば、
『初品中の六波羅蜜の論議』で、
『広説した通りである!』。
是經名般若波羅蜜。般若波羅蜜名捨離相。以是故。一切法中皆用無所得故。 是の経を般若波羅蜜と名づけ、般若波羅蜜を捨離の相と名づくれば、是を以っての故に、一切法中に皆、無所得を用うる故なり。
是の、
『経を、般若波羅蜜と称し!』、
『般若波羅蜜』を、
『捨離相と称する!』ので、
是の故に、
『一切法』中に、
『皆、無所得を用いる!』、
『故である( it is the reason )!』。
問曰若用有所得集諸善法。猶尚為難。何況用無所得。 問うて曰く、若し有所得を用いて、諸の善法を集むれば、猶尚お難しと為す。何に況んや無所得を用うるをや。
問い、
若し、
『有所得を用いた!』としても、
『諸の善法を集める!』とは、
『猶尚お、難しい!』。
況して、
『無所得を用いれば!』、
『尚更である!』。
答曰。若得是無所得智慧。是時能妨善行或生邪疑。若不得是無所得智慧。是時無所妨。亦不生邪疑。佛亦不稱著心取相行諸善道。何以故。虛誑住世間終歸於盡。 答えて曰く、若し是の無所得の智慧を得れば、是の時能く善行を妨げ、或は邪疑を生ず。若し是の無所得の智慧を得ざれば、是の時妨ぐる所無く、亦た邪疑を生ぜず。仏も亦た著心もて相を取り、諸の善道を行ずるを称えたまわず。何を以っての故に、虚誑にして世間に住すれば、終に尽に帰すればなり。
答え、
若し、
是の、
『無所得の智慧を得れば!』、
是の時、
『善行が妨げられて!』、
或は、
『邪疑』を、
『生じることになる!』が、
若し、
是の、
『無所得の智慧を得なければ!』、
是の時、
『妨げられる所が無くなり!』、
亦た、
『邪疑』を、
『生じることもない!』ので、
亦た、
『仏』も、
『著心で、相を取りながら!』、
『諸の善道を行じる!』者を、
『称されないのである!』。
何故ならば、
『虚誑のまま、世間に住すれば!』、
『終に、尽に帰する( at last to become to be wasted )からである!』。
  (じん)、滅尽(めつじん):梵語 kSiiNa の訳、磨滅/消耗/損失/破滅する( diminished, wasted, expended, lost, destroyed, worn away )の義。
若著心修善破者則易。若著空生悔還失是道。譬如火起草中得水則滅。若水中生火則無物能滅。初習行著心取相菩薩修福德。如草生火易可得滅。若體得實相菩薩以大悲心行眾行難可得破。如水中生火無能滅者。 若し著心の修善の破るるは則ち易く、若し空に著して悔を生ずれば、還って是の道を失う。譬えば火、草中に起れば、水を得て則ち滅するも、若し水中に火生ずれば、則ち物の能く滅する無きが如し。初めて著心を習行して相を取る菩薩が福徳を修すれば、草に火を生ずれば、滅を得べきこと易きが如し。若し実相を体得せる菩薩が大悲心を以って衆行を行ずれば、破を得べきこと難く、水中に火を生ずれば、能く滅する者の無きが如し。
若し、
『著心の修善』は、
『破れる!』のも、
『易しく!』、
若し、
『空に著して、悔を生じれば!』、
是の、
『道』を、
『還って、失うことになる!』。
譬えば、
『火が、草中に起れば!』、
『水を得ただけで!』、
『滅することになる!』が、
若し、
『火が、水中に生じれば!』、
『滅することのできる!』、
『物は無いように!』、
初より、
『著心を習行して、相を取る!』、
『菩薩』が、
『福徳を修すれば!』、
『草に生じた!』、
『火のように!』、
『易すく、滅せられる!』。
若し、
『実相を体得した!』、
『菩薩が、大悲心を用いて!』、
『衆行を、行じれば!』、
是の、
『行を、破ることは!』、
『難しい!』。
譬えば、
『水中に生じた火』を、
『滅することのできる!』者が、
『無いようなものである!』。
以是故。雖用無所得心行眾行。心亦不弱不生疑悔。是名略說六波羅蜜義。廣說如初品中。一一波羅蜜皆具足 是を以っての故に、無所得を用うる心もて、衆行を行ずと雖も、心も亦た弱からざれば、疑悔を生ぜず。是れを、六波羅蜜の義を略説すと名づけ、広説すれば初品中に一一の波羅蜜の皆具足するが如し。
是の故に、
『無所得を用いる心で!』、
『衆行』を、
『行じたとしても!』、
『心が、弱くなければ!』、
『疑悔』を、
『生じることもない!』。
是れを、
『六波羅蜜の義』を、
『略説する!』と、
『称し!』、
『広説すれば!』、
『初品中に、一一の波羅蜜』を、
『皆、具足して説いた通りである!』。
十八空者。六波羅蜜中說般若波羅蜜義不著諸法。所以者何以十八空故。十八空論議如初品中。佛告舍利弗。菩薩摩訶薩欲住十八空。當學般若波羅蜜。彼義應此中廣說。 十八空とは、六波羅蜜中に、『般若波羅蜜の義は、諸法に著せざるなり。所以は何んとなれば、十八空を以っての故なり』、と説けり。十八空の論議は、初品中に、仏の、舎利弗に告げたもうが如し、『菩薩摩訶薩は、十八空に住せんと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし』、と。彼の義は、応に此の中に広説すべし。
『十八空』とは、
『六波羅蜜』中に、こう説く通りである、――
『般若波羅蜜の義』とは、
『諸法』に、
『著さないことである!』。
何故ならば、
『十八空を用いる!』が故に、
『著さないのである!』、と。
『十八空の論議』は、
『初品』中に、仏が舎利弗に告げられた通りである、――
『菩薩摩訶薩が、十八空に住しようとすれば!』、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』、と。
彼の、
『十八空の義』は、
此の中に、
『広く!』、
『説かねばならない!』。
問曰。十八空內空等後皆言非常非滅故。此義云何。 問うて曰く、十八空は、内空等の後に皆、『常に非ず、滅に非ざるが故に』、と言う。此の義は云何。
問い、
『十八空』は、
『内空等を説いた!』後に、
皆、
『常でもなく、滅でもないからである!』と、
『言う!』が、
此の、
『義』は、
『何ういうことですか?』。
答曰。若人不習此空必墮二邊。若常若滅。所以者何。若諸法實有則無滅義墮常中。如人出一舍入一舍。眼雖不見不名為無。諸法亦爾。從未來世入現在世。現在世入過去世。如是則不滅。 答えて曰く、若し人、此の空を習わざれば、必ず二辺の若しは常、若しは滅に堕すればなり。所以は何んとなれば、若し諸法にして、実に有らば、則ち無滅の義にして、常中に堕せん。人の一舎より出でて、一舎に入るに、眼には見ずと雖も、名づけて、無しと為さざるが如し。諸法も亦た爾(しか)く、未来世より、現在世に入り、現在世より過去世に入れば、是の如きは則ち不滅なり。
答え、
若し、
『人』が、
此の、
『空を習わなければ!』、
必ず、
『常、滅の二辺』に、
『堕ちるだろう!』。
何故ならば、
若し、
『諸法が、実に有れば!』、
『無滅という( lack of annihilation )!』、
『義であり!』、
則ち、
『常』中に、
『堕すことになるからである!』。
譬えば、
『人が一舎より出て、一舎に入れば!』、
『眼には、見えなくても!』、
『無いとは、称しないように!』、
『諸法』も、
是のように、
『未来世より、現在世に入り!』、
『現在世より、過去世に入れば!』、
是のような、
『諸法』は、
『滅でないことになる!』。
  (めつ):梵語 nirodha の訳、包み隠す( enclosing, covering up )の義、[仏教に於いては]滅尽/寂滅( (in buddhism,) annihilation or annihilation of pain )の意。
行者以有為患用空破有。心復貴空。著於空者則墮斷滅。以是故。行是空以破有。亦不著空。離是二邊以中道行。是十八空以大悲心為度眾生。 行者は有を以って、患と為し、空を用いて有を破るも、心に復た空を貴び、空に著せば、則ち断滅に堕す。是を以っての故に、是の空を行ずるを以って、有を破るも、亦た空に著せず。是の二辺を離れて、中道を以って、是の十八空を行ずるは、大悲心を以って、衆生を度せんが為めなり。
『行者』は、
『有を、患と為して( to think that existence is distress )!』、
『空を用いて!』、
『有を破る!』が、
『心が、復た空を貴んで( to respect contrarily the emptiness in mind )!』、
『空』に、
『著すれば!』、
則ち、
『断滅』に、
『堕することになり!』、
是の故に、
是の、
『空を行じて!』、
『有』を、
『破りながら!』、
亦た、
『空』に、
『著することもなく!』、
是の、
『二辺を離れて、中道を用い!』、
是の、
『十八空』を、
『行じる!』のは、
『大悲心を用いて!』、
『衆生』を、
『度する為めなのである!』。
  (げん):わずらい/不安楽/災難/苦痛( uneasiness, distress, pain )の義。
是故十八空後皆言非常非滅。是名摩訶衍。若異此者則是戲論狂人。於佛法中空無所得。如人於珍寶聚中取水精珠。眼見雖好價無所直。 是の故に十八空の後に、皆、『常にあらず、滅にあらず』、と言い、是れを摩訶衍と名づく。若し此れに異なれば、則ち是れ戯論の狂人なり。仏法中に於いては空は無所得なり。人の珍宝聚中に於いて水精の珠を取れば、眼に見て好しと雖も、価は直する所無きが如し。
是の故に、
『十八空の後』には、
皆、
『常でもなく、滅でもない!』と、
『言うのである!』が、
是れを、
『摩訶衍』と、
『称するのである!』。
若し、
此の、
『摩訶衍の空』と、
『異なれば!』、
是れは、
『狂人』の、
『戯論ということになる!』。
『仏法』中に於いては、
『空は無所得であり!』、
譬えば、
『珍宝聚』中に、
『水精の珠』を、
『取れば!』、
『眼には好く見えても!』、
『価( the worth )』は、
『所直が無い( is priceless )のである!』。
  (か):価格/価値( price, worth )。
  所直(しょじき):値打ちがある( be worth )。
問曰。若十八空已攝諸空。何以更說四空。 問うて曰く、若し十八空にして已に諸空を摂すれば、何を以ってか、更に四空を説く。
問い、
若し、
『十八空』に、
已に( completely )、
『諸空を摂すれば( all emptinesses are included )!』、
何故、
更に( additionally )、
『四空を説くのですか?』。
答曰。十八空中現空盡攝諸佛有二種說法。或初略後廣。或初廣後略。初略後廣為解義故。初廣後略為易持故。或為後會眾生略說其要。或以偈頌。今佛前廣說十八空。後略說四空相。 答えて曰く、十八空中に空を現せば、尽く摂するも、諸仏には二種の説法有りて、或は初に略し、後に広く、或は初に広く、後に略したもう。 初に略し、後に広きは義を解せんが為めの故なり。初に広く、後に略すは持し易きが為めの故なり。或は後の会の衆生の為めに、其の要を略説し、或は偈頌を以ってしたもう。今、仏は前に十八空を広説し、後に四空相を略説したもう。
答え、
『十八空』中に、
『空を現せば( to manifest the emptiness )!』、
『尽く摂することになる( all are included )!』が、
『諸仏』には、
『二種の説法が有り!』、
或は、
『初に、略説し!』、
『後に、広説するものであり!』、
或は、
『初に、広説し!』、
『後に、略説するものである!』、
『初め略説して、後に広説される!』のは、
『義を解する為めに( to explain the meaning )!』、
『説き!』、
『初め広説して、後に略説される!』のは、
『持し易いが為めに( to remember easily )!』、
『説かれた!』し、
或は、
『後会の衆生の為めに!』、
其の、
『要』を、
『略説されたり!』、
或は、
『偈頌を用いて!』、
『略説されるのである!』。
今、
『仏』は、
『前に、十八空を広説し!』、
『後に、四空相を略説された!』。
法法相空者。一切法中法相不可得。如色中色相不可得。 法の法相は空なりとは、一切法中に法相は不可得なること、色中に色相の不可得なるが如し。
『法の、法相が空である!』とは、――
『一切法』中に、
『法相』が、
『不可得である( it is unrecognizable )!』のは、
『色』中に、
『色相』が、
『不可得であるようなものである!』。
復次法中不生法故。名為法法空。 復た次ぎに、法中には法を生ぜざるが故に、名づけて法の法は空なりと為す。
復た次ぎに、
『法中には、法を生じない!』が故に、
『法の法は空である( the dharma of a dharma is empty )!』と、
『称するのである!』。
無法無法空者。無為法名無法。何以故。相不可得故。 無法は無法空なりとは、無為法を無法と名づく。何を以っての故に、相の不可得なるが故なり。
『無法は無法空である
non-existence is the emptiness called 'non-existence' )!』とは、――
『無為法( a dharma what is not created )』を、
『無法( non-existent )』と、
『称するからである!』。
何故ならば、
『無法の相( marks of non-existence )』は、
『不可得だからである( are unrecognizable )!』。
  無法(むほう):梵語 abhaava の訳、不存在/無( non-existence, non-entity, nullity, absence )の義、無/不存在である法( that(dharma) what is not existent )の意。
  無法空(むほうくう):梵語 abhaava-zuunyataa の訳、無法と呼ばれる者の不在( the emptiness/ absence of what is called 'non-existence' )の意。
問曰。佛以三相說無為法。云何言無相。 問うて曰く、仏は三相を以って、無為法を説きたまえるに、云何が、『無相なり』、と言う。
問い、
『仏』は、
『三相を用いて!』、
『無為法』を、
『説かれた!』が、
何故、
『無為法は、無相である!』と、
『言うのですか?』。
  参考:『大品般若経巻5』:『何等為無為空。無為法名為無生相無住相無滅相。無為法無為法空非常非滅故。何以故。性自爾。是名無為空。』
答曰不然。破生故言無生。破住故言無住。破滅故言無滅。皆從生住滅邊有此名。更無別。無生無滅法是名無法無法空。是義如無為空中說。 答えて曰く、然らず。生を破るが故に、『無生なり』と言い、住を破るが故に、『無住なり』と言い、滅を破るが故に、『無滅なり』と言うも、皆、生住滅の辺に従いて、此の名有るも、更に別に、無生、無滅なる法無ければ、是れを無法は無法空なりと名づけ、是の義は、無為法中に説けるが如し。
答え、
『三相を用いて、無為法を説かれたのではない!』。
何故ならば、
『生を破る為め!』の故に、
『無生である!』と、
『言われ!』、
『住を破る為め!』の故に、
『無住である!』と、
『言われ!』、
『滅を破る為め!』の故に、
『無滅である!』と、
『言われた!』が、
皆、
『生、住、滅の辺
beside the three marks of coming into existence, abiding and extinction
に!』、
此の、
『無生、無住、無滅という名』が、
『有るだけであり!』、
更に、
『別の無生、無滅の法』は、
『無い!』ので、
是れを、
『無法は無法空である!』と、
『称するのである!』。
是の、
『義』は、
『無為空中に説いた通りである!』。
自法自法空者。自法名諸法自性。自性有二種。一者如世間法地堅性等。二者聖人知如法性實際。此法空。所以者何。不由智見知故有二性空。如先說。 自法は自法空なりとは、自法を諸法の自性と名づくるに、自性には二種有り、一には世間法の地の堅性等の如し、二には聖人の知る如、法性、実際にして、此の法は空なり。所以は何んとなれば智、見に由りて知るが故に、二性空有るにあらずと、先に説けるが如し。
『自法が自法空である!』とは、――
『自法とは、諸法の自性であり!』、
『自性には、二種有り!』、
一には、
『世間法』の、
『地の堅性等のような!』、
『自性であり!』、
二には、
『聖人の知る!』、
『如、法性、実際』の、
『自性である!』が、
此の、
『二種の自性という!』、
『法』が、
『空なのであり!』、
何故ならば、
『智、見に由って知る!』が故に、
『二種の自性空』が、
『有るのではない!』と、
先に、
『経』に、
『説く通りである!』。
問曰。如法性實際無為法中已攝。何以復更說。 問うて曰く、如、法性、実際を無為法中に已に摂すれば、何を以っての故にか、復た更に説く。
問い、
『如、法性、実際』を、
已に、
『無為法』中に、
『摂したならば!』、
何故、復た更に、
『如、法性、実際』を、
『説くのですか?』。
答曰。觀時分別說五眾實相法性如實際。又非空智慧觀。故令空性自爾。 答えて曰く、時を観て、五衆の実相なる法性、如、実際を分別して説けば、又空の智慧もて観るが故に、空ならしむるに非ず。性として自ら爾ればなり。
問い、
『時を観て!』、
『五衆の実相を分別して!』、
『法性、如、実際』を、
『説いただけであり!』、
『空の智慧を用いて!』、
『観た!』が故に、
『空にするのではない!』。
『五衆の実相』は、
『性として!』、
『自ら空なのである!』。
問曰。如色是自法識為他法。此中何以說如法性實際有佛無佛常住過是名為他法空。 問うて曰く、色は是れ自法、識を他法と為すが如きに、此の中に何を以ってか、『如、法性、実際は有仏にも、無仏にも常住し、是れを過ぐるを名づけて他法空と為す』と説く。
問い、
例えば、
『自法とは、色であり!』、
『他法』とは、
『識である!』のに、
此の中には、
何故、こう説くのですか?――
『如、法性、実際は仏が有ろうと、無かろうと常住であり!』、
是の、
『如、法性、実際を過ぎる!』のを、
『他法空と称する!』、と。
答曰。有人未善斷見結故處處生著。是人聞是如法性實際。謂過是已更有餘法。以是故說過如法性實際亦空
大智度論卷第四十六
答えて曰く、有る人は未だ善く、見結を断ぜざるが故に処処に著を生ずるに、是の人、是の如、法性、実際を聞いて謂わく、『是れを過ぎ已りて、更に餘法有り』、と。是を以っての故に『如、法性、実際を過ぐるも、亦た空なり』と説く。
大智度論巻第四十六
答え、
有る人は、
『未だ、善く見結を断じていない!』が故に、
『処処』に、
『著を生じる!』ので、
是の、
『人』は、
是の、
『如、法性、実際は空である!』と、
『聞けば!』、
是れを過ぎて、
『更に餘法が有る!』と、
『謂う!』。
是の故に、こう説くのである、――
『如、法性、実際を過ぎた!』、
『他法』も、
『空である!』、と。

大智度論巻第四十六


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