巻第四十五(上)
大智度論釋摩訶薩品第十三
1.【經】摩訶薩と称する理由(1)
2.【論】摩訶薩と称する理由(1)
大智度論釋斷見品第十四
3.【經】摩訶薩と称する理由(2)
4.【論】摩訶薩と称する理由(2)
5.【經】摩訶薩と称する理由(3)
6.【論】摩訶薩と称する理由(3)
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大智度論釋摩訶薩品第十三(卷四十五)
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


【經】摩訶薩と称する理由(1)

【經】爾時須菩提白佛言。世尊。何以故。名為摩訶薩。佛告須菩提。是菩薩於畢定眾中為上首。是故名為摩訶薩。 爾の時、須菩提の仏に白して言さく、『世尊、何を以っての故にか、名づけて摩訶薩と為すや』、と。仏の須菩提に告げたまわく、『是の菩薩は、畢定衆中に於いて上首と為せば、是の故に名づけて、摩訶薩と為す』、と。
爾の時、
『須菩提』が、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
何故、
『摩訶薩』と、
『称されるのですか?』、と。
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
是の、
『菩薩』は、
『畢定衆
those who are certain of following correct paths )』中の、
『上首である!』ので、
是の故に、
『摩訶薩』と、
『称されるのである!』、と。
  畢定衆(ひつじょうしゅ):尽く定まりたる衆の意。又必定衆とも云う。即ち、「大智度論巻45」に、「畢定衆とは、性地の人、八人、須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢、辟支仏、初発心の菩薩、乃至阿鞞跋致地の菩薩なり」と云える是れなり。蓋し、三聚中の正定聚なるが如し。『大智度論巻十九上注:十地、巻45上注:正定聚、三聚』参照。
  正定聚(しょうじょうじゅ):「倶舎論巻10」に、「貪無余断、瞋無余断、癡無余断、一切煩悩皆無余断なる」と云える是れなり。『大智度論巻45上注:三聚』参照。
  三聚(さんじゅ):梵語trayo raazayaHの訳。巴梨語tayo raasii、三種の類聚の意。又三定聚、或いは三際とも名づく。即ち定不定に約して一切の衆生を三類に大別するを云う。一に正定聚samyaktva-niyata-raazi(巴梨語sammatta-niyata-raasi)、二に邪定聚mithyaatva-n.-r.(巴micchatta-n.-r.)、三に不定聚aniyata-r.(巴aniyata-r.)なり。又正性定聚、邪性定聚、不定性聚と名づけ、或いは必正聚、必邪聚、不定聚と云い、又直見際、邪見際、亦不在邪亦不在正見際と云い、略して正定、邪定、不定とも称す。「長阿含経巻8」に、「復た三法あり、謂わく三聚なり。正定聚と邪定聚と不定聚となり」と云い、「大品般若経巻17夢行品」に、「菩薩摩訶薩は六波羅蜜を行ずる時、衆生の三聚に住するを見る。一には必正聚、二には必邪聚、三には不定聚なり」と云える是れなり。蓋し三聚の別を論ずるに諸説同じからず。「倶舎論巻10」に、「世尊は此の有情世間の生住没の中に於いて三聚を建立す。何をか三聚と謂う、(中略)一に正性定聚、二に邪性定聚、三に不定性聚なり。何をか正性と名づくる、謂わく契経に言わく、貪無余断、瞋無余断、癡無余断、一切煩悩皆無余断なる、是れを正性と名づく。定とは謂わく聖なり、聖は謂わく已に無漏道生ずることありて、諸の悪法を遠ざかるが故に名づけて聖と為す。畢竟離繋得を獲得するが故に、定んで煩悩を尽くすが故に正定と名づく。諸の已に順解脱分を獲得する者は亦た定んで涅槃を得、何ぞ正定に非ざる。彼れ後に或いは邪定聚に堕するが故に、又涅槃を得るの時、未だ定まらざるが故に、預流の者の極七返有等の如きには非ず。又彼れ未だ能く邪性を捨せざるが故に正定と名づけず。何をか邪性と名づくる、謂わく諸の地獄と傍生と餓鬼と是れを邪性と名づく。定は謂わく無間なり、無間を造る者は必ず地獄に堕す、故に邪定と名づく。正と邪との定の余を不定性と名づく。彼れ二縁を待って二と成る可きが故なり」と云えり。是れ即ち涅槃択滅を正性となし、見道以上の聖者が見等の惑を断じて畢竟不退の離繋得を獲得し、正性の中に於いて定まるが故に之を名づけて正定となす。又三悪趣を総じて邪性となし、其の中、五無間業を造る者は必ず地獄に堕す、邪の中に於いて定まるが故に之を邪定と名づく。余の所有の諸法を不定性となし、彼れ善縁を得ば正定を成ずべく、悪縁を得ば邪定を成ずべく、定んで一に属せざるが故に不定と名づけたるなり。「集異門足論巻4」に、「云何が邪性定聚なる、答う五無間業なり。云何が正性定聚なる、答う学無学法なり。云何が不定聚なる、答う五無間業を除き、余の有漏法及び無為なり」と云えるも亦た即ち同義なり。又「成実論巻2讃論品」には、「又三種の人あり、正定と邪定と不定となり。正定とは必ず泥洹に入り、邪定とは必ず泥洹に入らず、余を不定と名づく」と云えり。「華厳経探玄記巻3」に、「又小乗の中、五停心観の前は邪定に在り、成実に依るに煗頂已上を悉く正定と名づく。永不退の故なり。毘曇に依るに、忍心已上は方に不退を得。若し地論に依らば、見道已上を方に正定と名づく。故に彼れに云わく、正位正定とは、見道已上は方に是れ正位なりと。不定と言うは、此の二の中間を不定と名づくるなり」と云い、「円覚経大疏鈔巻3上」に、「然るに一切の衆生を三聚に該収す、謂わく邪定と正定と不定となり。小乗有部は五無間を以って邪定と為し、学無学を正定と為し、余の有漏無漏を皆不定とす。五性宗は則ち定性二乗無性闡提を邪定と為し、菩薩性を正定と為し、不定性の人を不定と為す。若し法性宗は則ち未だ如来蔵の教を聞かず、之を聞くも信ぜざるを皆邪定と為し、十信未だ円かならざるを皆不定と為し、信成就発心は即ち正定に入る」と云い、又「釈摩訶衍論巻1」には、「然るに三聚門に其の三種あり、云何が三と為す、一には十信前を名づけて邪定聚と為す、業果報等を信ずる能わざるが故なり。三賢及び十聖を名づけて正定聚と為す、決定して不退位に安立するが故なり。十種の信心を名づけて不定聚と為す、或いは進、或いは退、未だ決定せざるが故なり。二には十信前并びに十信心を名づけて邪定聚と為す、皆根なきが故なり。無上大覚果を名づけて正定聚と為す、已に満足するが故なり。三賢及び十聖を名づけて、不定聚と為す、皆未だ究竟せざるが故なり。三には十信前を名づけて邪定聚と為す、楽求の心なきが故なり。十聖を名づけて正定聚と為す、已に真証を得るが故なり。十信三賢を名づけて不定聚と為す、未だ正証を得ざるが故なり」と云えり。以って諸部の異説を見るべし。又「増一阿含経巻13」に別に三聚の説あり。即ち彼の文に、「世尊、諸比丘に告ぐ、此の三聚あり。云何が三と為す、所謂等聚、邪聚、不定聚なり。彼れ云何が名づけて等聚と為す、所謂等見、等治、等語、等業、等命、等方便、等念、等定、是れを等聚と謂う。彼れ云何が名づけて邪聚と為す、所謂邪見、邪治、邪語、邪業、邪命、邪方便、邪念、邪定、是れを邪聚と謂う。彼れ云何が名づけて不定聚と為す、所謂苦を知らず、習を知らず、尽を知らず、道を知らず、等聚を知らず、邪聚を知らず、是れを謂って名づけて不定聚と為す。諸比丘当に知るべし。復た三聚あり、云何が三と為す、所謂善聚、等聚、定聚なり。彼れ云何が名づけて善聚と為す、所謂三善根なり。何等か三善根なる、所謂不貪善根、不恚善根、不癡善根なり。是れを善聚と謂う。云何が名づけて等聚と為す、所謂賢聖八品道にして、等見、等治、等語、等業、等命、等方便、等念、等三昧なり。是れを等聚と謂う。彼れ云何が名づけて定聚と為す、所謂苦を知り習を知り尽を知り道を知り、善聚を知り悪趣(趣一に聚に作る)を知り定聚を知る。是れを謂って名づけて定聚と為す」と云える是れなり。此の中、等は正の意にして、即ち八正道を正聚とし、八邪道を邪聚とし、四諦等を知るを定聚とし、四諦等を知らざるを不定聚とす。又「旧華厳経巻26十地品」に、「是の菩薩は衆生の定不定の相を知る。正定相、邪定相、不定相。正見中正定相、邪見中邪定相、此の二を離るる不定相。一一逆邪定相、五根正定相、此の二を離るる不定相。邪位邪定相、正位正定相、此の二を離るる不定相。深入邪聚難転相、修無上道因縁相、不定衆生守護相、皆実の如く知る」と云えり。「十地経論巻11」に此の文を解して、其の中に有涅槃法無涅槃法三乗中一向定差別、善行悪行因差別、悪道善道因差別、外道声聞因差別、菩薩差別の五種の門ありと云い、「華厳経探玄記巻14」には更に之を引釈して左の如く云えり。一に種姓に約して三聚を分つ、謂わく涅槃法無きは邪定相、涅槃法あるは正定相、此の二を離るるは不定相なり。二に解惑に約して三聚を分つ、謂わく諸煩悩の中、邪見の一種の定めて悪業を起すは邪定相なり、三善根の中、正見の一種の定めて善業を起すは正定相なり、無貪無瞋の定めて善業を起さず、邪見以外の煩悩の定めて悪業を起さざるは不定相なり。三に行業に約して三聚を分つ、謂わく一一の逆罪の定めて悪道を招くは邪定相、信等の五根の定めて善道を招くは正定相、此の二に同じからざるは不定相なり。四に邪正の位に約して三聚を分つ、謂わく八正に反するを名づけて八邪と為す、此れに因りて以って外道の邪位を立つるは邪定相なり。正性離生を名づけて正位と為す、此れに因りて以って声聞の正位を立つるは正定相なり。此の二に非ざるは不定相なり。五に直に大乗菩薩の得失に約して三聚を分つ、謂わく殺盗妬悋等の六度の行を障うる六蔽は邪定相なり、六度の行は正定相なり、此の二に非ざるは不定相なりと。以って経の説意を見るべし。又「解深密経疏巻2」には、此の五門の外に更に業惑趣寂門、断不断倒門、堪不堪任門、著有無等門、可不可治門の五種を立て、総じて十門を以って三聚の相を細釈せり。所謂業惑趣寂門とは、「瑜伽師地論巻100」、「大智度論巻45」に、無間業及び断善根を邪性定法聚とし、学無学の諸法を正性定法聚とし、余の非学非無学の法を不定法聚となすを云い、断不断倒門とは、「大智度論巻84」に能く顛倒を破するを正定と名づけ、必ず破する能わざるを邪定と名づけ、有縁は能く破し、無縁は破する能わざるを不定となすを云い、堪不堪任門とは、「大菩薩蔵経巻5」に先世の因力に依りて利根にして、如来之が為に説法するもせざるも、法器たるに堪うるを正定とし、識性薄弱、煩悩深厚にして邪見の網に住し、之が為に説法するも、終に解脱を証するに堪えざるを邪定とし、外縁の力に由り、如法に教授すれば解脱を得、然らざれば解脱を得ざるを不定と為すを云い、著有無等門とは、「無上依経巻上」に有無に著せず、平等道を行ずるを正定とし、三有に貪著して大乗を誹謗する一闡提を邪定とし、無行無方便に著するを不定と為すを云い、可不可治門とは、「央掘魔羅経巻2」に如来を正定とし、一闡提を邪定とし、二乗を不定となすを云うとせり。是れ即ち広く大乗に意に依りて以って三聚の相を分別したるものなり。又「無量寿経巻下」に、「其れ衆生ありて彼の国に生ずる者は、皆悉く正定の聚に住す。所以は何ぞ、彼の仏国の中には、諸の邪聚及び不定聚なければなり」と云えり。是れ弥陀の仏国中には唯正定聚の衆生のみあることを説けるものなり。「無量寿経鈔巻6」に之を解して、決定流転を邪定聚と名づけ、決定不退を正定聚と名づけ、随縁不定を不定聚と名づく。然るに今の三聚は処所に約して説く。所謂一切善悪の凡夫の仏願力に乗じて彼の国に生ずる者は、処不退の故に悉く退者なし、之を正定と名づく。処不退の故に流転の類なし、之を無邪と名づく。処不退の故に或退の者なし、之を無不定と名づくと云えり。是れ蓋し処不退を称して正定聚と為せるものにして、前の諸説と其の軌を殊にするを見るべし。又「一念多念証文」には、「邪聚というは雑行雑修万善諸行のひと、報土にはなければなりというなり。及はをよぶという、不定聚は自力の念仏、疑惑の念仏の人は報土にはなしというなり。正定聚の人のみ真実報土にむまるればなり」と云い、雑行雑修を邪定聚、自力の念仏を不定聚、他力信心の機を正定聚となせり。是れ親鸞独特の転釈なり。又「長阿含経巻10」、「放光般若経巻13」、「無上依経巻下」、「大毘婆沙論巻186」、「大智度論恵影疏巻24」、「倶舎釈論巻8」、「瑜伽師地論巻64」、「順正理論巻30」、「大乗起信論」、「同義記巻下末」、「同教理抄巻17」、「無量寿経義疏巻下」、「倶舎論光記巻10」、「同宝疏巻10」、「翻訳名義集巻5」、「西宗要巻2」、「無量寿経集解巻11」、「大乗法相宗名目巻4下」等に出づ。<(望)
  摩訶薩(まかさつ)、摩訶薩埵(まかさった):梵語 mahaa-sattva の訳、巨大な動物( a large creature or animal )の義、偉大な精神を有する人( one having a great essence )の意。
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻4金剛品』:『爾時須菩提白佛言。世尊。何以故。名為摩訶薩。佛告須菩提。是菩薩於必定眾中為上首。是故名摩訶薩。須菩提白佛言。世尊。何等為必定眾。是菩薩摩訶薩而為上首。佛告須菩提。必定眾者。性地人八人須陀洹斯陀含阿那含阿羅漢辟支佛。初發心菩薩乃至阿惟越致地菩薩。須菩提。是為必定眾菩薩。為上首菩薩摩訶薩於是中生大心。不可壞如金剛。當為必定眾作上首。』
  参考:『大般若経巻47』:『爾時具壽善現白佛言。世尊。何緣菩薩復名摩訶薩。佛告善現。菩薩於大有情眾中定當為上首。以是緣故。復名摩訶薩。具壽善現復白佛言。世尊。何者是大有情眾。而菩薩於中定當為上首。佛告善現。大有情眾者。謂住種性。第八預流一來不還阿羅漢獨覺地。及從初發心乃至不退轉地菩薩摩訶薩。是名大有情眾。菩薩於如是大有情眾中。定當為上首故。復名摩訶薩。具壽善現復白佛言。世尊。如是菩薩摩訶薩。以何因緣。於大有情眾中定當得為上首。佛告善現。以此菩薩摩訶薩發金剛喻心決不退壞。由此心故於大有情眾中定當得為上首。具壽善現白佛言。世尊。何者名為菩薩摩訶薩金剛喻心。佛告善現。若菩薩摩訶薩生如是心。我當擐堅固鎧。於無邊生死大曠野中。摧破無量煩惱冤敵。我當枯竭無邊甚深生死大海。我當棄捨內外所重一切身財。我當於一切有情等心作大義利。我當以三乘法拔濟一切有情。皆令於無餘依涅槃界而般涅槃。我當雖以三乘法滅度一切有情。而實不見有情得滅度者。我當於一切法如實覺了無生無滅。我當純以應一切智智心修行六波羅蜜多。我當修學於一切法通達究竟遍入妙智。我當通達一切法相一理趣門。我當通達一切法相二理趣門。乃至無邊理趣門。我當於一切法修學通達一理趣門妙智。我當於一切法修學通達二理趣門妙智。乃至通達無邊理趣門妙智。我當修學引發無邊靜慮無量無色法門。我當修學引發無邊三十七菩提分法。三解脫門。六到彼岸法門。我當修學引發無邊五眼六神通十力四無所畏四無礙解大慈大悲大喜大捨十八佛不共法一切智道相智一切相智法門。善現。如是名為菩薩摩訶薩金剛喻心。若菩薩摩訶薩。以無所得而為方便安住此心。亦不自恃而生憍舉故。於大有情眾中。定當得為上首。復次善現。若菩薩摩訶薩生如是心。一切地獄傍生鬼界人天趣中諸有情類所受苦惱。我當代受令彼安樂。若菩薩摩訶薩生如是心。我當為一有情經無量百千俱胝那庾多大劫。受諸地獄種種劇苦。以無數方便教化令證無餘涅槃。如是次第。為一切有情一一各經無量百千俱胝那庾多大劫。受諸地獄種種劇苦。亦一一各以無數方便教化令證無餘涅槃。作是事已自植善根。復經無量百千俱胝那庾多大劫。圓滿修集菩提資糧。然後趣證阿耨多羅三藐三菩提。善現。如是名為菩薩摩訶薩金剛喻心。若菩薩摩訶薩以無所得而為方便安住此心。亦不自恃而生憍舉故。於大有情眾中定當得為上首』
須菩提白佛言。世尊。何等為畢定眾。是菩薩摩訶薩而為上首。 須菩提の仏に白して言さく、『世尊、何等をか畢定衆と為し、是の菩薩摩訶薩をして、上首と為すや』。
『須菩提』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
是の、
『菩薩摩訶薩が上首である!』のは、
何のような、
『畢定衆なのですか?』、と。
佛告須菩提。畢定眾者。性地人八人。須陀洹斯陀含阿那含阿羅漢辟支佛。初發心菩薩乃至阿鞞跋致地菩薩。須菩提。是為畢定眾。菩薩為上首。菩薩摩訶薩於是中生大心。不可壞如金剛。當為畢定眾作上首。 仏の須菩提に告げたまわく、『畢定衆とは、性地の人、八人、須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢、辟支仏、初発心の菩薩、乃至阿鞞跋致地の菩薩にして、須菩提、是れを畢定衆と為し、菩薩を上首と為す。菩薩摩訶薩は、是の中に於いて大心を生じ、不可壊なること金剛の如ければ、応に畢定衆の為めに上首と作るべし。
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
『畢定衆』とは、
『性地の人、八人、須陀洹乃至阿羅漢、辟支仏と!』、
『初発心乃至阿鞞跋致地の菩薩であり!』、
須菩提!
是れが、
『畢定衆であり!』、
『菩薩』が、
『上首である!』が、
『菩薩摩訶薩』は、
是の、
『畢定衆』中に於いて、
『大心』を、
『生じ!』、
是の、
『心』は、
『金剛のように!』、
『壊られない!』ので、
当然、
『畢定衆の為めに!』、
『上首と作るのである!』。
  性地(しょうじ):十地中の第二地を云う。即ち「大品般若経巻6発趣品」には、「復た次ぎに須菩提、菩薩摩訶薩は二地の中に住して、常に八法を念ず。何等か八なる、一には戒の清浄、二には恩を知りて恩に報ゆ、三には忍辱に住する力、四には歓喜を受け、五には一切の衆生を捨てず、六には大悲心に入り、七には師を信じて恭敬諮受し、八には諸の波羅蜜を勤求す」と云えり。『大智度論巻19上注:十地』参照。
  八人(はちにん):十地中の第三八人地を云う。即ち「大品般若経巻6発趣品」には、「復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は三地の中に住して五法を行ず。何等か五なる、一には多く学問して厭足無し、二には法施を浄めて自ら高ぶらず、三には仏国土を浄めて自ら高ぶらず、四には世間の無量の懃苦を受けて以って厭と為さず、五には慚愧の処に住す」と云えり。『大智度論巻19上注:十地』参照。
  大心(だいしん):大悲を起して、一切の衆生の苦を抜かんとして発する心を云う。即ち、「大智度論」に依れば菩提心、無等等心と共に、大心を菩薩心と為す。其の間の違いに就いては、即ち「大智度論巻41」に、「問うて曰わく、菩提心、無等等心、大心に何の差別かある。答えて曰く、菩薩の初発心に、無上道を縁ずらく、我れは当に仏と作るべしと。是れを菩提心と名づく。無等を名づけて仏と為す。所以は何となれば、一切の衆生、一切の法の与に等しき者なければなり。是の菩提心は、仏と相似す。所以は何となれば、因は果に似たるが故なり。是れを無等等心と名づく。是の心は事として行ぜざるなく、恩恵を求めず深固に決定す。復た次ぎに檀尸波羅蜜は是れを菩提心と名づく。所以は何となれば、檀波羅蜜の因縁の故に大富を得て乏少する所なく、尸羅波羅蜜の故に三悪道を出でて人天中の尊貴に住し、二波羅蜜の果報の力の故に安立して能く大事を成ずれば、是れを菩提心と名づく。羼提、毘梨耶波羅蜜の相は衆生中に於いて奇特の事を現ず。謂わゆる人来たりて肉を割き髄を出すこと樹木を截るが如きにも怨家を慈念し血は化して乳と為る。是の心は似ること仏心の如くして、十方の六道中に於いて一一の衆生を皆深心を以って済度す。又諸法の畢竟空なるを知るも、大悲を以って能く諸行を行ず。是れを奇特と為すこと、譬えば人の空中に樹を種えんと欲して是れを希有と為すが如し。是の如き等の精進波羅蜜の力勢は無等と相似すれば是れを無等等と名づく。禅定に入りて、四無量心を行じ、十方に遍満して、大悲の方便と合し、故に一切衆生の苦を抜く。又諸法の実相もて一切の観を滅して諸の語言を断じ、而も断滅中に堕せざる、是れを大心と名づく。復た次ぎに初発心を菩提心と名づけ、六波羅蜜を行ずるを無等等心と名づけ、方便心中に入る、是れを大心と名づく。是の如き等の各に差別あり。」と云える是れなり。『大智度論巻41下、巻45上注:菩提心』参照。
須菩提白佛言。世尊。何等是菩薩摩訶薩生大心不可壞如金剛。 須菩提の仏に白して言さく、『世尊、何等か是れ菩薩摩訶薩の生ずる大心にして、不可壊なること金剛の如き』、と。
『須菩提』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
何のような、
『大心を、菩薩摩訶薩が生じて!』、
『金剛のように!』、
『壊られないのですか?』、と。
佛告須菩提。菩薩摩訶薩應生如是心。我當於無量生死中大誓。莊嚴。我應當捨一切所有。我應當等心於一切眾生。我應當以三乘度脫一切眾生令入無餘涅槃。我度一切眾生已。無有乃至一人入涅槃者。我應當解一切諸法不生相。我應當純以薩婆若心行六波羅蜜。我應當學智慧了達一切法。我應當了達諸法一相智門。我應當了達乃至無量相智門。須菩提是名菩薩摩訶薩生大心不可壞如金剛。是菩薩摩訶薩住是心中。於諸畢定眾中而為上首。是法用無所得故。 仏の須菩提に告げたまわく、『菩薩摩訶薩は応に、『我れは当に無量の生死中に於いて、大誓もて荘厳すべし。我れは応当に一切の所有を捨つべし。我れは応当に一切の衆生に於いて等心なるべし。我れは応当に三乗を以って一切の衆生を度脱し、無余涅槃に入らしむべし。我れ一切の衆生を度し已れば乃至一人すら涅槃に入る者有ること無けん。我れは応当に一切の諸法の不生の相を解すべし。我れは応当に純ら薩婆若の心を以って、六波羅蜜を行ずべし。我れは応当に智慧を学びて一切法に了達すべし。我れは応当に諸法の一相の智門に了達すべし。我れは応当に乃至無量相の智門に了達すべし』と、是の如き心を生ずべし。須菩提、是れを菩薩摩訶薩の生ずる大心は不可壊なること金剛の如しと名づけ、是の菩薩摩訶薩は是の心中に住して、諸の畢定衆中に於いて、上首為るは、是の法は無所得を用うるが故なり。
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
『菩薩摩訶薩』は、
是のような、
『心』を、
『生じなければならない!』、――
謂わゆる、
わたしは、
『無量の生死』中に於いて、
『大誓を用いて!』、
『身を荘厳せねばならない!』。
わたしは、
一切の、
『所有』を、
『捨てねばならない!』。
わたしは、
一切の、
『衆生』に於いて、
『等心であらねばならない!』。
わたしは、
『三乗を用いて、一切の衆生を度脱し!』、
『無余涅槃』に、
『入らせねばならない!』。
わたしが、
『一切の衆生を度したならば!』、
『乃至一人すら!』、
『涅槃に入るはずがない!』。
わたしは
一切の、
『諸法は不生の相である!』と、
『解さねばならない!』。
わたしは、
純ら、
『薩婆若の心を用いて!』、
『六波羅蜜を行じなければならない!』。
わたしは、
『智慧を学んで!』、
『一切の法』に、
『了達せねばならない!』。
わたしは、
『諸法は一相であるという!』、
『智門』に、
『了達せねばならない!』。
わたしは、
『諸法は乃至無量相であるという!』、
『智門』に、
『了達せねばならない!』、と。
須菩提!
是れが、
『菩薩摩訶薩の生じる!』、
『大心』は、
『金剛のように壊られないということである!』。
是の、
『菩薩摩訶薩』は、
是の、
『大心中に住する!』ので、
『諸の畢定衆』中に於いて、
『上首なのである!』が、
是の、
『大心という!』、
『法』は、
『無所得を用いるからである!』。
須菩提。菩薩摩訶薩應生如是心。我當代十方一切眾生若地獄眾生若畜生眾生若餓鬼眾生受諸苦痛。為一一眾生。無量百千億劫代受地獄中苦。乃至是眾生入無餘涅槃。以是法故。為是眾生受諸勤苦。是眾生入無餘涅槃已。然後自種善根。無量百千萬億阿僧祇劫。當得阿耨多羅三藐三菩提。須菩提。是為菩薩摩訶薩大心不可壞如金剛。住是心中為畢定眾作上首。 須菩提、菩薩摩訶薩は応に、『我れは当に十方の一切の衆生に代りて、若しは地獄の衆生、若しは畜生の衆生、若しは餓鬼の衆生に代りて諸の苦痛を受け、一一の衆生の為めに無量百千億劫に代りて地獄中の苦を受け、乃至是の衆生の無余涅槃に入るまで、是の法を以っての故に、是の衆生の為めに諸の勤苦を受くべし。是の衆生は、無余涅槃に入り已りて、然る後に自ら善根を種え、無量百千万億阿僧祇劫にして、当に阿耨多羅三藐三菩提を得べし』と、是の如き心を生ずべし。須菩提、是れを菩薩摩訶薩の大心の不可壊なること金剛の如しと為し、是の心中に住して、畢定衆の為めに上首と作るなり。
須菩提!
『菩薩摩訶薩』は、
是のような、
『心』を、
『生じなければならない!』、――
謂わゆる、
わたしは、
『十方の一切の衆生である!』、
『地獄、畜生、餓鬼の衆生に代って!』、
『諸の苦痛』を、
『受け!』、
『一一の衆生の為め!』に、
『無量、百千億劫にも代って!』、
『地獄中の苦』を、
『受け!』、
乃至、
是の、
『衆生が、無余涅槃に入るまで!』、
是の、
『法』を、
『用いる!』が故に、
是の、
『衆生の為め!』に、
『諸の勤苦』を、
『受けねばならない!』。
是の、
『衆生』は、
『無余涅槃に入った!』後には、
自ら、
『善根』を、
『種えて!』、
『無量百千万億阿僧祇劫にして!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得るはずである!』。
須菩提!
是れが、
『菩薩摩訶薩』の、
『大心』は、
『金剛のように!』、
『壊られないということであり!』、
是の、
『心中に住して!』、
『畢定衆の為めに!』、
『上首と作るのである!』。
復次須菩提。菩薩摩訶薩生大快心。住是大快心中為畢定眾作上首。須菩提白佛言。世尊。何等是菩薩摩訶薩大快心。 『復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は大快心を生じ、是の大快心中に住して、畢定衆の為めに上首と作る』。須菩提の仏に白して言さく、『世尊、何等か是れ菩薩摩訶薩の大快心なる』、と。
復た次ぎに、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』は、
『大快心を生じ!』、
是の、
『大快心中に住して!』、
『畢定衆の為め!』に、
『上首と作るのである!』。
『須菩提』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
何のようなものが、
『菩薩摩訶薩』の、
『大快心なのですか?』、と。
佛言。菩薩摩訶薩從初發意。乃至阿耨多羅三藐三菩提。不生染心瞋恚心愚癡心。不生惱心。不生聲聞辟支佛心。是名菩薩摩訶薩大快心。住是心中為畢定眾作上首。亦不念有是心。 仏の言わく、『菩薩摩訶薩は初発意より乃至阿耨多羅三藐三菩提まで、染心、瞋恚心、愚癡心を生ぜず、悩心、声聞、辟支仏心を生ぜざれば、是れを菩薩摩訶薩の大快心と名づけ、是の心中に住して畢定衆の為めに上首と作るも、亦た是の心有りと念ぜず。
『仏』は、こう言われた、――
『菩薩摩訶薩』が、
『初発意より、阿耨多羅三藐三菩提を得るまで!』、
『欲染心、瞋恚心、愚癡心』を、
『生じず!』、
亦た、
『悩心』を、
『生じず!』、
亦た、
『声聞、辟支仏の心』を、
『生じなければ!』、
是れが、
『菩薩摩訶薩の大快心であり!』、
是の、
『心中に住して!』、
『畢定衆の為め!』に、
『上首と作りながら!』、
亦た、
是の、
『心を有している!』と、
『念じることもない!』。
  悩心(のうしん)、害心(がいしん):梵語 vihiMsaa-citta の訳、「酷く傷つけたい」という思い( a wish to injure severely )の義。
復次須菩提。菩薩摩訶薩應生不動心。須菩提白佛言。云何名不動心。 『復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は応に不動心を生ずべし』。須菩提の仏に白して言さく、『云何が、不動心と名づくる』、と。
復た次ぎに、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』は、
『不動心』を、
『生じなければならない!』。
『須菩提』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
何のようなものが、
『不動心』と、
『称されるのですか?』、と。
佛言。常念一切種智心。亦不念有是心。是名菩薩摩訶薩不動心。 仏の言わく、『常に一切種智を念ずる心にして、亦た是の心有りと念ぜざれば、是れを菩薩摩訶薩の不動心と名づく。
『仏』は、こう言われた、――
『常に、一切種智を念じる!』、
『心』が、
『不動心である!』が、
是の、
『不動心を有している!』と、
『念じることもない!』、
是れが、
『菩薩摩訶薩』の、
『不動心である!』。
復次須菩提。菩薩摩訶薩於一切眾生中。應生利益安樂心。云何名利益安樂心。救濟一切眾生不捨一切眾生。是事亦不念有是心。是名菩薩摩訶薩於一切眾生中生利益安樂心。如是須菩提。是菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。於畢定眾中最為上首。 復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は一切の衆生中に於いて、応に利益安楽心を生ずべし。云何が、利益安楽心と名づくる、一切の衆生を救済し、一切の衆生を捨てざるなり。是の事も亦た是の心有りと念ぜざれば、是れを菩薩摩訶薩は一切の衆生中に於いて生ずる利益安楽心と名づく。是の如く、須菩提、是の菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行じて、畢定衆中に於いて最も上首為り。
復た次ぎに、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』は、
『一切の衆生』中に、
『利益、安楽心』を、
『生じなければならない!』。
何を、
『利益、安楽心と称するのか?』、――
『一切の衆生を救済して!』、
『一切の衆生を捨てない!』、
『心である!』が、
是の、
『事を作しながら!』、
是の、
『心を有している!』と、
『念じることもなければ!』、
是れが、
『菩薩摩訶薩が、一切の衆生中に生じる!』、
『利益、安楽心である!』。
是のように、
須菩提!
『菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行じる!』が故に、
『畢定衆』中に於いて、
『最も上首なのである!』。
復次須菩提。菩薩摩訶薩應當行欲法喜法樂法心。何等是法。所謂不破諸法實相。是名為法何等名欲法喜法。信法忍法受法。是名欲法喜法。何等名樂法。常修行是法。是名樂法。 復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は応当に法を欲し、法を喜び、法を楽しむ心を行ずべし。何等か、是の法なる。謂わゆる諸法の実相を破らざれば、是れを名づけて法と為す。何等をか、法を欲し、法を喜ぶと名づくる。法を信じ、法を忍び、法を受くれば、是れを法を欲し、法を喜ぶと名づく。何等をか、法を楽しむと名づくる。常に是の法を修行すれば、是れを法を楽しむと名づく。
復た次ぎに、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』は、
『法を欲し、法を喜び、法を楽しむ!』、
『心』を、
『行じなければならない( should be practicing )!』。
何のような、
『法なのか?』、――
謂わゆる、
『諸法の実相』を、
『破らないことであり!』、
是れを、
『法』と、
『称するのである!』。
何が、
『法を欲して、法を喜ぶということなのか?』、――
『法』を、
『信じ、忍んで、受けることであり!』、
是れが、
『法』を、
『欲して、喜ぶということである!』。
何が、
『法を楽しむということなのか?』、――
是の、
『法』を、
『常に、修行することであり!』、
是れが、
『法』を、
『楽しむということである!』。
如是須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜於畢定眾中能為上首。是法用無所得故。 是の如く、須菩提、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行じて、畢定衆中に於いて、能く上首と為るは、是の法は、無所得を用うるが故なり。
是のように、
須菩提!
『菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行じる!』が故に、
『畢定衆』中に、
『上首と為ることができる!』のは、
是の、
『般若波羅蜜の法』が、
『無所得を用いるからである!』。
復次須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。住內空乃至無法有法空。能為畢定眾作上首。是法用無所得故。 復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずる時、内空乃至無法有法空に住すれば、能く畢定衆の為めに上首と作る、是の法は無所得を用うるが故なり。
復た次ぎに、
須菩提!
『菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行じる!』時、
『内空乃至無法有法空に住する!』が故に、
『畢定衆の為め!』に、
『上首と作ることができる!』のは、
是の、
『空法』が、
『無所得を用いるからである!』。
復次須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。住四念處中。乃至住十八不共法中。能為畢定眾作上首。是法用無所得故。 復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずる時、四念処中に住し、乃至十八不共法に住すれば、能く畢定衆の為めに上首と作る、是の法は無所得を用うるが故なり。
復た次ぎに、
須菩提!
『菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行じる!』時、
『四念処乃至十八不共法に住する!』が故に、
『畢定衆の為め!』に、
『上首と作ることができる!』のは、
是の、
『十八不共法』が、
『無所得を用いるからである!』。
復次須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。住如金剛三昧乃至離著虛空不染三昧中。住於畢定眾作上首。是法用無所得故。 復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずる時、如金剛三昧に住し、乃至離著、虚空、不染三昧中に住すれば、畢定衆に於いて上首と作る、是の法は無所得を用うるが故なり。
復た次ぎに、
須菩提!
『菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行じる!』時、
『如金剛三昧乃至離著、虚空、不染三昧中に住する!』が故に、
『畢定衆』の、
『上首と作る!』のは、
是の、
『三昧の法』が、
『無所得を用いるからである!』。
如是須菩提。菩薩摩訶薩住是諸法中。能為畢定眾作上首。以是因緣故名為摩訶薩 是の如く、須菩提、菩薩摩訶薩は、是の諸法中に住して、能く畢定衆の為めに上首と作れば、是の因縁を以っての故に名づけて、摩訶薩と為す。
復た次ぎに、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』が、
是の、
『諸法中に住して!』、
『畢定衆の為め!』に、
『上首と作ることができ!』、
是の、
『因縁』の故に、
『摩訶薩( one having a great essence )』と、
『称するのである!』。



【論】摩訶薩と称する理由(1)

【論】釋曰須菩提已從佛聞菩薩義。今問摩訶薩義。摩訶者秦言大。薩埵秦言心。或言眾生。是眾生於世間諸眾生中第一最上。故名為大。又以大心知一切法欲度一切眾生。是名為大。 釈して曰く、須菩提は已に仏より、菩薩の義を聞けば、今は摩訶薩の義を問う。摩訶とは秦に大と言い、薩埵とは秦に心と言い、或は衆生と言う。是の衆生は世間の諸衆生中に於いて第一最上なるが故に名づけて、大と為す。又大心を以って、一切法を知り、一切の衆生を度せんと欲すれば、是れを名づけて、大と為す。
釈す、
『須菩提』は、
『仏より!』
已に、
『菩薩の義』を、
『聞いていた!』ので、
今、
『摩訶薩の義』を、
『問うたのである!』。
『摩訶』とは、
秦に、
『大』と、
『言い!』、
『薩埵』とは、
秦に、
『心』と、
『言い!』、
或は、
『衆生』とも、
『言う!』が、
是の、
『衆生』は、
『世間の諸衆生』中に於いて、
『第一最上である!』が故に、
『大と称され!』、
又、
『大心を用いて、一切法を知り!』、
『一切の衆生を度そうとする!』が故に、
『大と称する!』。
復次菩薩故名摩訶薩。摩訶薩故名菩薩。以發心為無上道故。 復た次ぎに、菩薩なるが故に摩訶薩と名づけ、摩訶薩なるが故に菩薩と名づくるは、発心を以って無上の道と為すが故なり。
復た次ぎに、
『菩薩である!』が故に、
『摩訶薩』と、
『称され!』、
『摩訶薩である!』が故に、
『菩薩』と、
『称する!』。
何故ならば、
『発心』は、
『無上の道だからである!』。
復次如讚菩薩摩訶薩義品中。此中應廣說。 復た次ぎに、『讃菩薩摩訶薩義品』中の如く、此の中に応に広く説くべし。
復た次ぎに、
『讃菩薩摩訶薩義品(大智度初品中摩訶薩埵釋論第九)』中のように、
此の、
『摩訶薩品』中にも、
『広説されねばならない!』。
復次佛此中自說摩訶薩義。眾生有三分。一者正定必入涅槃。二者邪定必入惡道。三者不定。於正定眾生中當最大故名摩訶薩。 復た次ぎに、仏は此の中に自ら摩訶薩の義を説きたまわく、『衆生には三分有りて、一には正定にして、必ず涅槃に入り、二には邪定にして必ず悪道に入り、三には不定なるに、正定の衆生中に於いて、当に最大なるべきが故に摩訶薩と名づく。
復た次ぎに、
『仏』は、
此の中に、
自ら、
『摩訶薩の義』を、こう説かれた、――
『衆生には、三分が有り!』、
一には、
『正定( being certainly correct )であり!』、
『必ず!』、
『涅槃に入る!』者、
二には、
『邪定( being certainly incorrect )であり!』、
『必ず!』、
『悪道に入る!』者、
三には、
『不定( being uncertain )である!』が、
『正定の衆生』中に於いて、
『当に最大である( being equal to the greatest )!』が故に、
『摩訶薩』と、
『称されるのである!』。
大眾者。除佛餘一切賢聖。所謂性地人是聖人性中生。故名為性。如小兒在貴家生。雖小未有所能。後必望成大事。是地從煖法乃至世間第一法八人。名見諦道。十五心中行。 大衆とは、仏を除いて餘の一切の賢聖、謂わゆる性地の人は、是れ聖人の性中に生ずるが故に名づけて性と為す。小児の貴家に在りて生ずれば、小(わか)くして未だ所能有らずと雖も、後に必ず大事を成さんと望むが如し。是の地は、煖法より乃至世間第一法なり。八人を見諦道と名づけ、十五心中の行なり。
『大衆』とは、
『仏を除く!』、
『一切の賢聖であり!』、
『謂わゆる、性地の人である!』。
是の、
『人』は、
『聖人の性中に生まれる!』ので、
『性と称される!』。
譬えば、
『小児が、貴家に生じれば!』、
未だ、
『小くして( being too yang )!』、
『所能が無くても( cannot do anything )!』、
後には、
『大事を成すだろう!』と、
『必ず望まれる( should be expected )ようなものである!』。
是の、
『性地』は、
『煖法より、乃至世間第一法』の、
『人である!』が、
『八人地』は、
『見諦道であり!』、
『十五心中を行じる!』。
  煖法(なんぽう):四善根位中の初位、具さに十六行相を修する位。
  世間第一法(せけんだいいっぽう):四善根位の第四、此れより見諦道に入りて無漏の聖道を生ずる位。
  十五心(じゅうごしんん):八忍八智中より第十六道類智を除く余の十五心にして総べて見諦道に称す。『大智度論巻12上注:八忍八智』参照。
問曰。是十五心中何以名為八人。 問うて曰く、是の十五心中を、何を以ってか、名づけて八人と為す。
問い、
是の、
『十五心』中を、
何故、
『八人』と、
『称するのですか?』。
答曰。思惟道中用智多。見諦道中多用見。忍智隨於忍。所以者何。忍功大故。 答えて曰く、思惟道中は智を用うること多く、見諦道中は多く見を用いて忍び、智は忍に随えばなり。所以は何んとなれば、忍の功の大なるが故なり。
答え、
『思惟道(十六心中の第十六道類智:無間道)』中は、
『智を用いること!』が、
『多く!』、
『見諦道(十六心中の初の十五心)』中には、
『見を用いて忍ぶ( patient wating with observing )こと!』が、
『多い!』が、
『智は、忍に随う!』が故に、
『八忍』を、
『八人と称するのである!』。
何故ならば、
『忍』は、
『功が大だからである( being very useful )!』。
  (けん):梵語 darzana の訳、見る/観る/視る/注目する/観察/認識( seeing, observing, looking, noticing, observation, perception )の義、見解( view, opinion )の意。
  (にん):梵語 kSaanti の訳、耐え忍ぶ/忍耐/寛大( patience, forbearance, endurance, indulgence )の義、何物かを忍耐強く待つこと( patient waiting for anything )の意。
  :八忍八智の十六心は、中の第十六心道比智のみ最終、永続的な心であり、餘の七智は須臾にして過ぎるので実質的には八忍及び一智の九心であり、見諦道中は八忍八心である。
  :見は見解であり、智即ち智慧に至る前段階をいう。
復次忍智二事能斷能證八忍中住。故名為八人。須陀洹斯陀含阿那含阿羅漢辟支佛義如先說。 復た次ぎに、忍、智の二事は能く断じ、能く証するも、八忍中に住するが故に名づけて八人と為す。須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢、辟支仏の義は先に説けるが如し。
復た次ぎに、
『忍、智の二事』は、
『苦を断じることができ!』、
『道を証することができる!』が、
『八忍中に住する!』が故に、
『八人』と、
『称する!』。
『須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢、辟支仏の義』は、
『先に!』、
『説いた通りである!』。
初發意菩薩者。有人言。初發意者。得無生法忍。隨阿耨多羅三藐三菩提相發心。是名初發意名真發心。了了知諸法實相。及知心相破諸煩惱故。隨阿耨多羅三藐三菩提心。不破故不顛倒故。此心名為初發心。 初発意の菩薩とは、有る人の言わく、『初発意とは、無生法忍を得て、阿耨多羅三藐三菩提の相に随いて発心すれば、是れを初発意と名づけ、真発心と名づけ、了了に諸法の実相を知り、及び心相を知って諸煩悩を破るが故に、阿耨多羅三藐三菩提に随う心の破れざるが故に、顛倒せざるが故に、此の心を名づけて初発心と為す』。
『初発意の菩薩』とは、――
有る人は、こう言っている、――
『初発意』とは、
『無生法忍を得て!』、
『阿耨多羅三藐三菩提の相に随って!』、
『発心すれば!』、
是れを、
『初発意とか、真発心』と、
『称するのであり!』、
了了に、
『諸法の実相を知って、心相を知れば!』、
『諸煩悩』を、
『破ることになる!』が故に、
『阿耨多羅三藐三菩提に随う心』が、
『破れることもなく!』、
『顛倒することもない!』が故に、
此の、
『心』を、
『初発心と称するのである!』。
有人言。諸凡夫人雖住諸結使。聞佛功德發大悲心憐愍眾生。我當作佛。此心雖在煩惱中。心尊貴故天人所敬。如轉輪聖王太子初受胎時勝於諸子。諸天鬼神皆共尊貴。菩薩心亦如是。雖在結使中勝諸天神通聖人。 有る人の言わく、『諸凡夫人は諸結使に住すと雖も、仏の功徳を聞いて、大悲心を発し、『我れ、当に仏と作るべし』と、衆生を憐愍すれば、此の心は煩悩中に在りと雖も、心の尊貴なるが故に天、人に敬わる。転輪聖王の太子は、初めて受胎する時に、諸子に勝れば、諸天、鬼神は皆共に尊貴するが如く、菩薩心も亦た是の如く、結使中に在りと雖も、諸天、神通の聖人に勝る』、と。
有る人は、こう言っている、――
『諸の凡夫人は、諸の結使に住しながら!』、
『仏の功徳を聞いて、大悲心を発し!』、
『衆生を憐愍する!』が故に、
『わたしは、仏と作らねばならない!』と、
『念じる!』ので、
此の、
『心は煩悩中に在りがなら、心が尊貴である!』が故に、
『天、人』に、
『敬われるのである!』。
譬えば、
『転輪聖王の太子』は、
『初めて、受胎した!』時にも、
『諸子に勝る!』が故に、
『諸天、鬼神』が、
『皆、共に尊貴するように!』、
『菩薩の心』も、
是のように、
『結使中に在りながら!』、
『諸天、神通の聖人』に、
『勝るのである!』。
復次菩薩。初發心乃至未得阿耨多羅三藐三菩提。有授記入法位得無生法忍者。名阿鞞跋致。阿鞞跋致相後當廣說。如是等大眾當作上首故名摩訶薩。 復た次ぎに、菩薩は初発心より、乃至未だ阿耨多羅三藐三菩提を得ざるも、授記有りて、法位に入り、無生法忍を得れば、阿鞞跋致と名づく。阿鞞跋致の相は、後に当に広説すべし。是れ等の如き大衆は、当に上首と作るべきが故に、摩訶薩と名づく。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
『初発心より!』、
乃至、
『未だ、阿耨多羅三藐三菩提を得ていなくても!』、
『授記が有って、法位に入り!』、
『無生法忍』を、
『得たならば!』、
是れを、
『阿鞞跋致』と、
『称する!』が、
後に、
『阿鞞跋致の相』は、
『広説するはずである!』。
是れ等のような、
『大衆』は、
『上首と作るべきである!』が故に、
是れを、
『摩訶薩』と、
『称するのである!』。
是菩薩欲為一切聖人主故。發大心受一切苦。心堅如金剛不動故。 是の菩薩は、一切の聖人の主為らんと欲するが故に大心を発せば、一切の苦を受くるも、心の堅きこと金剛の如く、動かざるが故なり。
是の、
『菩薩』は、
『一切の聖人の主と為ろうとする!』が故に、
『大心を発して!』、
『一切の苦』を、
『受けるのである!』が、
『心』が、
『金剛のように堅く!』、
『不動だからである!』。
金剛心者。一切結使煩惱所不能動。譬如金剛山不為風所傾搖。諸惡眾生魔人來。不隨意行不信受其語。瞋罵謗毀打擊閉繫斫刺割截心不變異。有來乞索頭目髓腦手足皮肉盡能與之。求者意猶無厭足。更瞋恚罵詈。爾時心忍不動。譬如牢固金剛山人來斸鑿毀壞。諸蟲來齧無所虧損。是名金剛心。 金剛心とは、一切の結使、煩悩の動かす能わざる所にして、譬えば金剛山の風の為めに傾揺せられざるが如く、諸の悪衆生、魔人来たるも隨意に行ぜず、其の語を信受せずして、罵詈、謗毀、打撃、閉繋、斫刺、割截さるるも、心は変異せず。有るいは来たりて頭目、髄脳、手足、皮肉を乞索するも、尽く能く之を与え、求むる者の意、猶お厭足する無く、更に瞋恚、罵詈せんとするも、爾の時、心忍びて動かず。譬えば牢固なる金剛山に人来たりて、斸鑿、毀壊せんとし、諸の虫来たりて齧るも、虧損する所無きが如き、是れを是れを金剛心と名づく。
『金剛心』とは、
一切の、
『結使、煩悩』に、
『動かされることがなく!』、
譬えば、
『金剛山が、風に傾揺されないように!』、
『諸の悪衆生、魔人が来ても!』、
『魔人』の、
『意に随って!』、
『行じることなく!』、
『魔人』の、
『語』を、
『信受することもなく!』、
『悪衆生に罵詈、希望、打撃、閉繋、斫刺、割截されても!』、
『心』が、
『変異することもなく!』、
有るいは、
『乞人が来て頭目、髄脳、手足、皮肉を乞索すれば!』、
『尽く!』を、
『与え!』、
『求める!』者の、
『意が、猶お厭足すること無く!』、
『更に、瞋恚、罵詈しても!』、
爾の時、
『心』は、
『忍んで、動くことがない!』。
譬えば、
『牢固な金剛山』は、
『人が来て斸鑿、毀壊しても!』、
『諸の虫が来て、齧っても!』、
是の、
『金剛山』には、
『虧損する所が無いようなものである!』が故に、
是れを、
『金剛心』と、
『称するのである!』。
  傾揺(きょうよう):かたむきゆれる。
  瞋罵(しんめ):いかりののしる。
  謗毀(ぼうき):そしりそこなう。
  閉繋(へいけい):とじこめつなぐ。
  斫刺(しゃくし):切りてさす。
  割截(かっさい):わりてさく。
  乞索(こつさく):乞うてもとめる。
  厭足(えんそく):あきたる。
  罵詈(めり):ののしりあてこする。
  斸鑿(そくざく):きりてうがつ。
  毀壊(きえ):そこないこわす。
  虧損(きそん):かきそこなう。へらしそこなう。
復次佛自說金剛心相。所謂菩薩應作是念。我不應一月一歲一世二世乃至千萬劫世大誓莊嚴。我應無量無數無邊世生死中。利益度脫一切眾生。 復た次ぎに、仏は自ら金剛心の相を説きたもう、謂わゆる『菩薩は、応に是の念を作すべし。我れは応に一月、一歳、一世、二世、乃至千万劫世に大誓もて荘厳すべからず。我れは応に無量、無数、無辺世の生死中に、一切の衆生を利益し、度脱すべし。
復た次ぎに、
『仏』は、
自ら、
『金剛心の相』を、
『説かれている!』。
謂わゆる、――
菩薩は、こう念じねばならない、――
わたしは、
『一月や、一歳、一世、乃至千万劫世に於いて!』、
『大誓を用いて!』、
『身を荘厳するだけではだめだ!』。
わたしは、
『無量、無数、無辺世の生死』中に於いて、
『一切の衆生』を、
『利益し、度脱せねばならない!』。
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻4金剛品』:『須菩提白佛言。世尊。何等是菩薩摩訶薩生大心。不可壞如金剛。佛告須菩提。菩薩摩訶薩應生如是心。我當於無量生死中大誓莊嚴。我應當捨一切所有。我應當等心於一切眾生。我應當以三乘度脫一切眾生。令入無餘涅槃。我度一切眾生已。無有乃至一人入涅槃者。我應當解一切諸法不生相。我應當純以薩婆若心行六波羅蜜。我應當學智慧了達一切法。我應當了達諸法一相智門。我應當了達乃至無量相智門。須菩提。是名菩薩摩訶薩生大心。不可壞如金剛。是菩薩摩訶薩住是心中。於諸必定眾而為上首。是法用無所得故。須菩提。菩薩摩訶薩應生如是心。我當代十方一切眾生若地獄眾生若畜生眾生若餓鬼眾生受苦痛。為一一眾生。無量百千億劫代受地獄中苦。乃至是眾生入無餘涅槃。以是法故為是眾生受諸懃苦。是眾生入無餘涅槃已。然後自種善根。無量百千億阿僧祇劫當得阿耨多羅三藐三菩提。須菩提。是為菩薩摩訶薩生大心。不可壞如金剛。住是心中為必定眾作上首。』
二者我應捨一切內外所有貴重之物。三者一切眾生中等心無憎愛。四者我當以三乘如應度脫一切眾生。五者度如是眾生已實無所度。而無其功此中心亦不悔不沒。六者我應知一切法。不生不滅不來不去不垢不淨等諸相。七者我應當以清淨無雜心行六波羅蜜。迴向薩婆若。 二には、我れは応に一切の内外の有らゆる貴重の物を捨つべし。三には一切の衆生中に等心もて憎愛すること無し。四には我れは当に三乗を以って、如応に一切の衆生を度脱すべし。五には是の如き衆生を度し已るも、実に度する所無く、其の功も無く、此の中の心も亦た悔いず、没せず。六には我れは応に一切法の不生不滅、不来不去、不垢不浄等の諸相を知るべし。七には我れは応当に清浄、無雑の心を以って六波羅蜜を行じ、薩婆若に迴向すべし。
二には、
わたしは、
『一切の内外の有らゆる!』、
『貴重の物』を、
『捨てねばならない!』。
三には、
わたしは、
『一切の衆生』中に、
『等心にして!』、
『憎愛を無くさねばならない!』。
四には、
わたしは、
『三乗を用いて!』、
『一切の衆生』を、
『如応に度脱せねばならない( to conformably free from suffering )!』。
五には、
是のように、
『衆生を度しても!』、
『実に!』、
『度す所が無く( nothing to be freed )!』、
其の、
『功( the efficacy )も!』、
『無い!』が、
此の中に於いて、
『心』は、
『悔ゆることもなく!』、
『没することもない!』。
六には、
わたしは、
『一切法』の、
『不生不滅、不来不去、不垢不浄等の諸相』を、
『知らねばならない!』。
七には、
わたしは、
『清浄、無雑の心で六波羅蜜を行じ!』、
『薩婆若』に、
『迴向せねばならない!』。
  如応(にょおう)、相応(そうおう)、隨順(ずいじゅん)、如法(にょほう):梵語 anuruupa の訳、色に順じて( following the form )の義、協調/同調/適合/相応して/適切に( conformable, in agreeable, corresponding, fit, suitable )の意。如法( anudharma )の同義語。
  度脱(どだつ):梵語 mocana の訳、~から解放する/自由にする( releasing from, freeing from )。
  (け):梵語 vipratisaara, kaukRtya の訳、後悔( repentance )、後悔する( to repent )の義。
  (もつ):梵語 avaliina の訳、坐る( sitting down )の義、身がすくむ/身を隠す( cowering, hiding one's self in )の意。
八者我應當善知一切世間所作之事。及出世間所應知事皆悉通達了知。九者我應當解了諸法一相智門。所謂一切諸法畢竟空觀一切諸法。如無餘涅槃相。離諸憶想分別。 八には我れは応当に善く一切の世間の所作の事、及び出世間の応に知るべき所の事を知り、皆悉く通達し、了知すべし。九には我れは応当に諸法の一相智門、謂わゆる一切諸法の畢竟空を解了し、一切の諸法の無余涅槃の如き相を観て、諸の憶想分別を離るべし。
八には、
わたしは、
善く、
『一切の世間の作す所の事と、出世間の知るべき所の事』を、
『知り!』、
皆、
『悉くに!』、
『通達し、了知せねばならない!』。
九には、
わたしは、
『諸法の一相智門』、
謂わゆる、
『一切諸法の畢竟空』を、
『解了して!』、
『一切の諸法は無余涅槃のような相である、と観て!』、
『諸の憶想、分別』を、
『離れねばならない!』。
十者我應當知諸法二相三相乃至無量相門通達明了。 十には我れは応当に諸法の二相、三相、乃至無量相の門を知りて通達し、明了すべし。
十には、
わたしは、
『諸法』の、
『二相、三相、乃至無量相の門を知り!』、
『通達して、明了にせねばならない!』。
二相者。一切法有二種。若有若無若生若滅若作若不作若色若無色等。三門者。若一若二若多。從三以上皆名為多。若有若無若非有非無。若上若中若下。若過去若未來若現在。三界三法善不善無記等三門 二相とは、一切法には二種有りて、若しは有、若しは無、若しは生、若しは滅、若しは作、若しは不作、若しは色、若しは無色等なり。三門とは、若しは一、若しは二、若しは多にして、三より以上を皆名づけて多と為す。若しは有、若しは無、若しは非有非無、若しは上、若しは中、若しは下、若しは過去、若しは未来、若しは現在、三界、三法、善、不善、無記等の三門なり。
『二相』とは、
『一切法』には、
『二種有り!』、
『有と無、生と滅、作と不作、色と無色等である!』。
『三門』とは、
『一、二、多』、
『多』とは、
『三以上は、皆多である!』
『有、無、非有非無』、
『上、中、下』、
『過去、未来、現在』、
『三界、三法』、
『善、不善、無記』等の、
『三門である!』。
四門五門。如是等無量法門皆通達無礙。是中心不悔不怯不疑。信受通達無礙常行不息。滅諸煩惱。及其果報及諸障礙之事。皆令敗壞如金剛寶能摧破諸山。住是金剛心中當於大眾而作上首。以不可得空故。 四門、五門、是れ等の如き無量の法門に、皆通達して無礙なるも、是の中に心は悔いず、怯えず、疑わず、信受、通達、無礙にして常に行じて息まず、諸の煩悩、及び其の果報、及び諸の障礙の事を滅して、皆敗壊せしむること、金剛宝の能く諸山を摧破するが如く、是の金剛心中に住すれば、当に大衆に於いて、上首と作るべきは、不可得空を以っての故なり。
『四門、五門』、
是れ等のような、
『無量の法門』に、
『皆、通達して!』、
『無礙である!』が故に、
是の中に於いて、
『心』が、
『悔ゆることもなく!』、
『怯えることもなく!』、
『疑うこともなく!』、
『無量の法門』を、
『信受しながら!』、
『通達し!』、
『無礙である!』が故に、
常に、
『行じて!』、
『息むことなく!』、
『諸の煩悩と、果報の事』等の、
『諸の障礙の事を滅して! 」、
『皆、敗壊させる!』のは、
譬えば、
『金剛宝』が、
『諸山を摧破するようなものであり!』、
是の、
『金剛心中に住する!』が故に、
『大衆』に於いて、
『上首と作るべきである!』が、
是れは、
『不可得空を用いる!』が故に、
『上首と作るのである!』。
不可得空者。若菩薩生如是大心如金剛。而生憍慢者罪過凡夫。以是故說。用無所得。諸法無定相如幻如化。 不可得空とは、若し菩薩が、是の如き大心の金剛の如きを生じて、憍慢を生ずれば、罪は凡夫に過ぎ、是を以っての故に説かく、『無所得を用う』、と。諸法には定相無きこと幻の如く、化のごとくなればなり。
『不可得空』とは、
若し、
『菩薩』が、
是のように、
『金剛のような!』、
『大心』を、
『生じながら!』、
『憍慢を生じれば!』、
『罪』は、
『凡夫を過ぎる!』ので、
是の故に、
『無所得を用いると、説かれた!』が、
『諸法』は、
『幻や、化のように!』、
『定相が無いからである!』。
復次心如金剛者。墮三惡道所有眾生我當代受勤苦。為一一眾生故代受地獄苦。乃至是眾生從三惡道出。集諸善本至無餘涅槃已。復救一切眾生。如是展轉一切眾生盡度已。後當自為集諸功德。無量阿僧祇劫乃當作佛。是中心不悔不縮。能如是代眾生受勤苦自作諸功德。久住生死心不悔不沒。如金剛地能持三千大千世界。令不動搖。是心堅牢故名為如金剛。 復た次ぎに、心の金剛の如きとは、三悪道に堕せる有らゆる衆生は、我れ当に代りて、勤苦を受け、一一の衆生の為めの故に代りて、地獄の苦を受け、乃至是の衆生の三悪道より出で、諸の善本を集めて、無余涅槃に至り已りて、復た一切の衆生を救い、是の如く展転して、一切の衆生の尽く度し已るべし。後に当に自らの為めに諸功徳を集むべく、無量阿僧祇劫にして、乃ち当に仏と作るべし。是の中に心悔いず、縮まず、能く是の如く衆生に代りて勤苦を受け、自ら諸功徳を作して、久しく生死に住するも、心悔いず、没せず、金剛の地の能く三千大千世界を持して、動搖せざらしむるが如く、是の心は堅牢なるが故に名づけて金剛の如しと為す。
復た次ぎに、
『心が、金剛のようである!』とは、――
わたしは、
『三悪道に堕ちた!』、
『有らゆる衆生に代って!』、
『勤苦』を、
『受け!』、
『一一の衆生の為め!』の故に、
『地獄の苦』を、
『代って受け!』、
乃至、
是の、
『衆生』が、
『三悪道より出て!』、
『諸の善本』を、
『集め!』、
乃至、
『無余涅槃に至って!』、
復た、
『一切の衆生』を、
『救い!』、
是のように、
『展転しながら( more and more )!』、
『一切の衆生』を、
『尽く度してしまったならば!』、
後に、
『自らの為め!』に、
『無量阿僧祇劫』に、
『諸の功徳』を、
『集めて!』、
乃ち( finally )、
『仏』と、
『作らねばならない!』と、
是のように、
『念じる!』中に、
『心が悔いることも、縮むこともなく!』、
是のように、
『衆生に代って!』、
『勤苦を受けることができ!』、
『自らの為め!』に、
『諸の功徳を作して!』、
『久しく、生死に住しながら!』、
『心が悔いることもなく、没することもなく!』、
『金剛の地』が、
『三千大千世界を持して!』、
『動搖させないように!』、
是の、
『心は堅牢である!』が故に、
『金剛のようである!』と、
『称するのである!』。
大快心者。雖有牢固心未是大快。如馬雖有大力而未大快。於眾生中得二種等心。故不生欲染心。若有偏愛則為是賊。破我等心。為佛道之本常行慈悲心。故無有瞋心。常觀諸法因緣和合生。無有自性故則無癡心。愛念眾生過於赤子故無有惱心。不捨眾生貴佛道故。不生聲聞辟支佛心。 大快心とは、牢固の心有りと雖も、未だ是れ大快ならざれば、馬の大力有りと雖も、未だ大快ならざるが如し。衆生中に於いて、二種の等心を得るが故に欲染心を生ぜず、若し偏愛有れば、則ち是の賊の為めに、我が等心を破られ、仏道の本は、常に慈悲心を行ずと為すが故に瞋心有ること無く、常に諸法は因縁和合の生にして、自性有ること無きを観るが故に則ち癡心無く、衆生を愛念すること赤子に過ぐるが故に悩心有ること無く、衆生を捨てずして仏道を貴ぶが故に声聞、辟支仏の心を生ぜず。
『大快心』とは、
『牢固な心が有りながら!』、
『未だ、大快でなければ!』、
『馬』に、
『大力が有りながら!』、
『未だ、大快でないようなものである!』。
『衆生』中に於いて、
『衆生等、法等という!』、
『二種の等心を得る!』が故に、
『欲染心』を、
『生じない!』が、
若し、
『偏愛が有れば!』、
是の、
『賊』は、
『わたしの等心』を、
『破ることになる!』。
『仏道の本』は、――法等――
常に、
『慈悲心を行じることである!』が故に、
『瞋心』が、
『無く!』、
常に、
『諸法は因縁和合の生であり!』、
『自性が無い!』と、
『観る!』が故に、
則ち、
『癡心』が、
『無い!』。
『衆生』を、――衆生等――
『赤子に過ぎて!』、
『愛念する!』が故に、
『悩心』が、
『無く!』、
『衆生を捨てずに!』、
『仏道を貴ぶ!』が故に、
『声聞、辟支仏の心』を、
『生じない!』。
  参考:『大智度論巻5摩訶薩埵釈論』:『已得等忍者。問曰。云何等云何忍。答曰。有二種等。眾生等法等。忍亦二種眾生忍法忍。云何眾生等。一切眾生中等心等念等愛等利。是名眾生等。問曰。慈悲力故於一切眾生中。應等念。不應等觀。何以故。菩薩行實道不顛倒如法相。云何於善人不善人大人小人人及畜生。一等觀。不善人中實有不善相。善人中實有善相。大人小人人及畜生亦爾。如牛相牛中住。馬相馬中住。牛相非馬中。馬相非牛中。馬不作牛故。眾生各各相。云何一等觀而不墮顛倒。答曰。若善相不善相是實。菩薩應墮顛倒。何以故破諸法相故以諸法非實。善相非實不善相非多相非少相。非人非畜生非一非異。以是故汝難非也。如說諸法相偈 不生不滅  不斷不常  不一不異  不去不來  因緣生法  滅諸戲論  佛能說是  我今當禮  復次一切眾生中。不著種種相。眾生相空相一等無異。如是觀。是名眾生等。若人是中心等無礙。直入不退。是名得等忍。得等忍菩薩。於一切眾生不瞋不惱如慈母愛子。如偈說 觀聲如呼響  身行如鏡像  如此得觀人  云何而不忍  是名眾生等忍。云何名法等忍。善法不善法有漏無漏有為無為等法。如是諸法入不二入法門。入實法相門。如是入竟。是中深入諸法實相時。心忍直入無諍無礙。是名法等忍。如偈說 諸法不生不滅  非不生非不滅  亦不生滅非不生滅  亦非不生滅  非非不生滅  已得解脫(丹注云於邪見得離故言解脫也)空非空(丹注云於空不取故言非也)是等悉捨滅諸戲論言語道斷。深入佛法心通無礙不動不退。名無生忍。是助佛道初門以是故說已得等忍』
問曰。若心牢固如金剛即是不動。今何以更說不動心。 問うて曰く、若し心が牢固なること金剛の如ければ、即ち是れ不動なり。今何を以ってか、更に不動心を説く。
問い、
若し、
『心』が、
『金剛のように!』、
『牢固ならば!』、
是の、
『心』は、
『不動ということになる!』が、
今は、
何故、更に、
『不動の心』を、
『説くのですか?』。
答曰。或時雖復牢固心猶有增減。如樹雖牢固猶可動搖。 答えて曰く、或は時に、復た牢固なりと雖も、心には猶お増減有ること、樹の牢固なりと雖も、猶お動搖すべきが如し。
答え、
或は時に、
『復た、牢固でありながら!』、
『心の増減すること!』は、
『有る!』、
譬えば、
『樹が、牢固でありながら!』、
猶お、
『風』等に、
『動搖させられるようなものである!』。
動有二種。一者外因緣動如先說。二者內因緣動。諸邪見疑等。若常憶念一切智慧佛道。我當得是果報故心不動。 動には二種有り、一には外の因縁の動は先に説けるが如く、二には内の因縁の動は、諸の邪見、疑等なり。若し常に一切の智慧を憶念すれば仏道にして、我れは当に是の果報を得べきが故に心動ぜず。
『動( moving )には、二種有り!』、
一には、
『先に説いたような!』、
『外の因縁による!』、
『動であり!』、
二には、
『諸の邪見、疑等のような!』、
『内の因縁による!』、
『動である!』。
若し、
常に、
『一切の智慧を憶念すれば!』、
是れは、
『仏道であり!』、
是の、
『果報』を、
『我々は得ねばならぬのであり!』、
是の故に、
『心』は、
『動かないのである!』。
復次菩薩應種種因緣利益眾生。飲食乃至佛樂以利眾生。常不捨眾生欲令離苦。是名安樂心。亦不念有是心。 復た次ぎに、菩薩は、応に種種の因縁もて衆生を利益するに、飲食乃至仏楽を以って衆生を利し、常に衆生を捨てずして、苦を離れしめんと欲すれば、是れを安楽心と名づくるも、亦た是の心有りと念ぜず。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
『種種の因縁を用いて!』、
『衆生』を、
『利益し!』、
『飲食乃至仏楽を用いて!』、
『衆生』を、
『利し!』、
『常に衆生を捨てずに!』、
『苦』を、
『離れさせようとすれば!』、
是れを、
『安楽心』と、
『称するのである!』が、
亦た、
是の、
『心が有る!』と、
『念じることもない!』。
  仏楽(ぶつらく):梵語 buddha-sukha の訳、仏の安楽/気楽/快適/福徳/快楽/幸福( the ease, easiness, comfort, prosperity, pleasure or happiness of Buddha )の義。
復次菩薩樂法名為上首。法者不破壞諸法相。不破壞諸法相者。無法可著無法可受故。所謂不可得。是不可得空即是涅槃。常信受忍是名為欲法喜法。常行三解脫門名為樂法。 復た次ぎに、菩薩にして法を楽しめば、名づけて上首と為す。法とは、破壊せざる諸の法相なり。破壊せざる諸の法相には、法の著すべき無く、法の受くべき無きが故にして、謂わゆる不可得なり。是の不可得空は、即ち是れ涅槃なり。常に信じ、受け、忍べば、是れを名づけて法を欲して、法を喜ぶと為し、常に三解脱門を行ずるを名づけて、法を楽しむと為す。
復た次ぎに、
『法を楽しむ!』、
『菩薩』を、
『上首と称するのである!』が、
『法』とは、
『破壊することのない!』、
『諸の法相であり!』、
『著したり、受けたりする!』、
『法は無い!』が故に、
『謂わゆる不可得であり!』、
是の、
『不可得という!』、
『空』は、
『即ち、涅槃であり!』、
是の、
『常に、空を信じ、受け、忍べば!』、
是れを、
『法を欲して、法を喜ぶ!』と、
『称し!』、
『常に、三解脱門を行ずれば!』、
是れを、
『法を楽しむ!』と、
『称する!』。
復次菩薩住是十八空中。不隨十八意行故不起罪業。住四念處乃至十八不共法。滅諸煩惱集諸善法。故能為上首。 復た次ぎに、菩薩は、是の十八空中に住すれば、十八の意行に随わざるが故に、罪業を起さず、四念処乃至十八不共法に住して、諸煩悩を滅し、諸善法を集むるが故に能く上首と為る。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
是の、
『十八空中に住して!』、
『十八意行に随わない( not to follow the 18 mental actions )!』が故に、
『罪業』を、
『起さず!』、
『四念処乃至十八不共法に住して!』、
『諸煩悩を滅し!』、
『諸の善法』を、
『集める!』ので、
是の故に、
『上首と為ることができる!』。
  意行(いぎょう):梵語 manomanu の訳、心或は精神作用からなる/霊的/精神的( consisting of spirit or mind, spiritual, mental )の義、精神作用( something consisting of mind, mental action )の意。
復次菩薩入金剛三昧。等心受快樂。厭於世樂增長善根。智慧方便故於大聖眾而為上首。若能為大者作上首。何況小者。是故名為摩訶薩 復た次ぎに、菩薩は金剛三昧に入りて、等心に快楽を受くれば、世楽を厭うて、善根、智慧、方便を増長するが故に、大聖衆に於いて上首と為る。若し能く大者の為めに上首と作れば、何に況んや、小者をや、是の故に名づけて摩訶薩と為す。
復た次ぎに、
『菩薩が、金剛三昧に入って!』、
『等心に、快楽を受ければ!』、
『善根、智慧、方便を増長する!』が故に、
『大聖衆』に於いて、
『上首と為るのであり!』、
若し、
『大きな者』に於いて、
『上首と作ることができれば!』、
況して、
『小さな者』に於いては、
『言うまでもなく!』、
是の故に、
『摩訶薩』と、
『称するのである!』。



大智度論釋斷見品第十四 


【經】摩訶薩と称する理由(2)

【經】爾時慧命舍利弗白佛言。世尊。我亦欲說所以為摩訶薩。佛告舍利弗。便說。 爾の時、慧命舎利弗の仏に白して言さく、『世尊、我れも亦た摩訶薩と為す所以(ゆえん)を説かんと欲す』、と。仏の舎利弗に告げたまわく、『便ち、説け』、と。
爾の時、
『慧命舎利弗』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
わたしも、
『摩訶薩と為す所以
the reason for that they are called 'mahasattva' )』を、
『説こうと思います!』、と。
『仏』は、
『舎利弗』に、こう告げられた、――
『便ち、説け( then explain )!』、と。
  便(べん):すなわち。たやすく。差し支えのなきことを示すことば。
  参考:『大般若経巻47』:『爾時具壽舍利子白佛言。世尊。我亦樂說。菩薩由此義故復名摩訶薩。佛言。舍利子。隨汝意說。舍利子言。世尊。由諸菩薩能為有情。以無所得而為方便。說斷我見。有情見。命者見。生者見。養者見。士夫見。補特伽羅見。意生見。儒童見。作者見。使作者見。起者見。使起者見。受者見。使受者見。知者見。見者見法故。此菩薩復名摩訶薩。世尊。由諸菩薩能為有情。以無所得而為方便。說斷常見斷見法故。此菩薩復名摩訶薩。世尊。由諸菩薩能為有情。以無所得而為方便。說斷有見無見法故。此菩薩復名摩訶薩。世尊。由諸菩薩能為有情。以無所得而為方便。說斷蘊見。處見。界見。諦見。緣起見法故。此菩薩復名摩訶薩。世尊。由諸菩薩能為有情。以無所得而為方便。說斷四靜慮見。四無量見。四無色定見法故。此菩薩復名摩訶薩。世尊。由諸菩薩能為有情。以無所得而為方便。說斷四念住見。四正斷見。四神足見。五根見。五力見。七等覺支見。八聖道支見法故。此菩薩復名摩訶薩。世尊。由諸菩薩能為有情。以無所得而為方便。說斷三解脫門見。六到彼岸見法故。此菩薩復名摩訶薩。世尊。由諸菩薩能為有情。以無所得而為方便。說斷五眼見。六神通見法故。此菩薩復名摩訶薩。世尊。由諸菩薩能為有情。以無所得而為方便。說斷佛十力見。四無所畏見。四無礙解見。大慈大悲大喜大捨見。十八佛不共法見。一切智見。道相智見。一切相智見法故。此菩薩復名摩訶薩。世尊。由諸菩薩能為有情。以無所得而為方便。說斷成熟有情見。嚴淨佛土見。菩薩見。佛陀見。轉法輪見法故。此菩薩復名摩訶薩。世尊。以要言之。由諸菩薩能為有情。以無所得而為方便。說斷一切見法故。此菩薩復名摩訶薩』
舍利弗言。我見眾生見壽見命見生見養育見眾數見人見作見使作見起見使起見受見使受見知者見見者見斷見常見有見無見陰見入見界見諦見因緣見四念處見乃至十八不共法見佛道見成就眾生見淨佛世界見佛見轉法輪見。為斷如是諸見故而為說法。是名摩訶薩。 舎利弗の言わく、『我見、衆生見、寿見、命見、生見、養育見、衆数見、人見、作見、使作見、起見、使起見、受見、使受見、知者見、見者見、断見、常見、有見、無見、陰見、入見、界見、諦見、因縁見、四念処見、乃至十八不共法見、仏道見、成就衆生見、浄仏世界見、仏見、転法輪見、是の如き諸見を断ぜんが為めの故に、説法を為せば、是れを摩訶薩と名づくるなり』、と。
『舎利弗』は、こう言った、――
『我、衆生、寿、命、生、養育、衆数、人、作、使作、起、使起、受、使受の見や!』、
『知者、見者、断、常、有、無、陰、入、界、諦、因縁、四念処乃至十八不共法の見や!』、
『仏道、成就衆生、浄仏世界、仏、転法輪の見や!』、
是のような、
『諸見を断じる為め!』の故に、
『説法すれば!』、
是れを、
『摩訶薩』と、
『称するのです!』、と。
  衆数(しゅす):ある種の人々の集まり( an aggregate of persons as )。
須菩提語舍利弗言。何因緣故。色見是妄見。何因緣故受想行識乃至轉法輪見。是名妄見。 須菩提の舎利弗に語りて言わく、『何なる因縁の故に、色見は是れ妄見なる。何なる因縁の故に受想行識、乃至転法輪の見は、是れを妄見と名づくる』、と。
『須菩提』は、
『舎利弗に語って!』、こう言った、――
何のような、
『因縁』の故に、
『色見』は、
『妄見なのですか?』。
何のような、
『因縁』の故に、
『受想行識乃至転法輪の見』を、
『妄見と称するのですか?』、と。
舍利弗語須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。無方便故於色生見。用有所得故。於受想行識乃至轉法輪生見。用有所得故。是中菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。以方便力斷諸見故而為說法。用無所得故 舎利弗の須菩提に語らく、『菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずる時、方便無きが故に色に於いて見を生ずるは、有所得を用うるが故なり。受想行識、乃至転法輪に於いて見を生ずるは、有所得を用うるが故なり。是の中に菩薩摩訶薩の般若波羅蜜を行じて、方便力を以って、諸見を断ずるが故に説法を為すは、無所得を用うるが故なり』、と。
『舎利弗』は、
『須菩提』に、こう語った、――
『菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を行じる!』時、
『方便が無ければ!』、
『色』に於いて、
『見を生じる!』のは、
『有所得を用いるからであり!』、
『受想行識、乃至転法輪』に於いて、
『見を生じる!』のは、
『有所得を用いるからである!』。
是の中に、
『菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を行じる!』時、
『方便力を用いれば!』、
『諸見を断じる為めの故に、説法する!』が、
『無所得を用いるからである!』。



【論】摩訶薩と称する理由(2)

【論】問曰。佛將五百大阿羅漢。至阿那婆達多龍王池。受遠離樂。欲說自身及弟子本業因緣。而舍利弗不在。佛令目連命之。 問うて曰く、仏は五百の大阿羅漢を将(ひき)いて、阿那婆達多龍王の池に至り、遠離の楽を受けて、自身及び弟子の本業の因縁を説かんと欲したもうも、舎利弗在らざれば、仏は目連をして、之に命じせしめたまえり。
問い、
『仏』は、
『五百の大阿羅漢を将いて、阿那婆達多龍王の池に至り!』、
『遠離の楽を受けて!』、
『自身と、弟子の本業の因縁』を、
『説こうとされた!』が、
『舎利弗が不在であった!』ので、
『仏』は、
『目連をして!』、
『舎利弗に命じさせられた!』。
時目連以神通力到祇洹。時舍利弗縫衣語目連言。小住待縫衣訖當去。目連催促疾去。時目連以手摩衣衣即成竟。舍利弗見目連貴其神通。即以腰帶擲地語言。汝舉此帶去。目連以兩手舉此帶不能離地。即入諸深定舉之。地為大動帶猶著地。 時に目連は神通力を以って、祇洹に到る。時に舎利弗は衣を縫うて、目連に語りて言わく、『小(しばら)く住(とどま)り、衣を縫い訖(おわ)るを待ちて、当に去るべし』、と。目連は、『疾かに去らん』、と催促せり。時に目連は手を以って、衣を摩づれば、衣は即ち成じ竟れり。舎利弗は、目連の其の神通を貴ぶを見て、即ち腰帯を以って地に擲(な)げ、語りて言わく、『汝は此の帯を挙げて去れ』、と。目連は両手を以って、此の帯を挙ぐるも、地を離れしむ能わざれば、即ち諸の深き定に入りて、之を挙ぐれば、地は為めに大いに動くも、帯は猶お地に著せり。
時に、
『目連は、神通力を用いて!』、
『祇洹』に、
『到った!』。
時に、
『舎利弗は、衣を縫いながら!』、
『目連に語って!』、こう言った、――
『小く住り( stay here for an instant )!』、
『衣を縫い訖るのを待って!』、
『去ることにしよう( and let's go )!』、と。
『目連』は、
『疾かに去ろう!』と、
『催促した!』。
時に、
『目連が、手で衣を摩る!』と、
『衣』は、
『即ち、成じた( soon, the cloth is completed )!』。
『舎利弗』は、
『目連』が、
『神通を貴ぶ!』のを、
『見て!』、
即ち、
『腰帯を、地に擲げて!』、こう言った、――
お前は、
此の、
『腰帯を挙げてから!』、
『去れ!』、と。
『目連』は、
『両手で、腰帯を挙げた!』が、
『地』を、
『離れさせることができない!』ので、
即ち、
『諸の深い定に入って!』、
『挙げたのである!』が、
『地が、大いに動かされただけで!』、
『帯』は、
『猶お、地に著いたままであった!』。
時憍陳如問佛。以何因緣故地大震動。佛言。目連入甚深禪定作大神力。欲舉舍利弗帶而不能舉。 時に憍陳如の仏に問わく、『何なる因縁を以っての故にか、地は大いに震動せる』、と。仏の言わく、『目連が甚深の禅定に入りて大神力を作し、舎利弗の帯を挙げんと欲するも、挙ぐる能わざればなり』、と。
時に、
『憍陳如』が、
『仏』に、こう問うた、――
何のような、
『因縁』の故に、
『地』が、
『大いに震動したのですか?』、と。
『仏』は、こう言われた、――
『目連が、甚だ深い禅定に入り!』、
『大神力を作して、舎利弗の帯を挙げようとした!』が、
『挙げられなかったからである!』、と。
佛告諸比丘。舍利弗所入出禪定。目連乃至不識其名。佛所入禪定。舍利弗乃至不識其名。如舍利弗智慧與佛懸殊。何以言我亦樂說。 仏の諸比丘に告げたまわく、『舎利弗の入出する所の禅定は、目連は乃至其の名すら識らず。仏の入る所の禅定は、舎利弗は乃至其の名すら知らず。舎利弗の智慧の、仏と懸殊するが如し』、と。何を以ってか、『我れも亦た楽説せん』、と言えり。
『仏』は、
『諸比丘』に、こう告げられた、――
『舎利弗の入出する!』所の、
『禅定』は、
『目連』は、
『乃至其の名すら識らない!』し、
『仏の入る!』所の、
『禅定』は、
『舎利弗』は、
『乃至其の名すら知らない!』。
譬えば、
『舎利弗の智慧』が、
『仏の智慧』とは、
『懸殊するようなものである!』、と。
何故、
『舎利弗』は、こう言ったのですか?――
わたしも、
『楽説しようと思います!』、と。
  懸殊(けんしゅ):かけへだてる。はるかに違う。非常な差がある。
答曰。舍利弗非欲於大眾中顯其智慧高心故說。舍利弗逐佛轉法輪人。廣益眾生。是摩訶薩義所益甚廣。是故佛說已。舍利弗次說。 答えて曰く、舎利弗は、大衆中に於いて、其の智慧を顕さんと欲し、高心の故に説くに非ず。舎利弗は仏を逐(お)うて法輪を転ずる人なれば、広く衆生を益すればなり。是の摩訶薩の義の益する所は甚だ広く、是の故に仏の説き已るに、舎利弗は次いで説けり。
答え、
『舎利弗』は、
『大衆中に、智慧を顕そうとして!』、
『高心』の故に、
『説いたのではない!』。
『舎利弗』は、
『仏を逐うて( following Buddha )!』、
『法輪を転じる!』、
『人であり!』、
『広く!』、
『衆生』を、
『益しようとしたのである!』。
是の、
『摩訶薩の義』は、
『益する!』所が、
『甚だ広い!』ので、
是の故に、
『仏が説き已る!』と、
『次いで、舎利弗が説いたのである!』。
復次多人信樂舍利弗語。所以者何。以宿世因緣故。多發菩薩心。佛以大慈悲心故。吾我心及習根本已拔。又法愛已斷故。如是種種因緣故聽。 復た次ぎに、多くの人の舎利弗の語を信楽すればなり。何を以っての故に、宿世の因縁を以っての故に、多く菩提心を発せばなり。仏は大慈悲心を以っての故に、吾我心及び習の根本は已に抜け、又法愛の已に断ずるが故に、是の如き種種の因縁の故に聴(ゆる)したまえり。
復た次ぎに、
『多くの人』が、
『舎利弗の語』を、
『信楽したからである!』。
何故ならば、
『宿世の因縁』の故に、
『多くの人』が、
『菩提心を発したからである!』。
『仏』は、
『大慈悲心』の故に、
『吾我心や、習の根本』が、
『已に抜けており!』、
又、
『法愛が、已に断じている!』が故に、
是のような、
『種種の因縁』の故に、
『聴されたのである!』。
  信楽(しんぎょう):梵語 pra√(sad) の訳、~の力に屈する( to fall into the power of )の義、明確になる/満足して喜悦する( to become clear or distinct, to become satisfied or pleased or glad )の意。
  (う):また。さらに。其の上。更。
  (ちょう):きく/ききいれる/うけいれる/同意する( agree )。
舍利弗言。我見及知者見者。佛見菩薩見諸眾生見等。及有無斷常等邪見。五眾乃至諸佛法轉法輪等諸法見。是菩薩能斷是三種見。故當於大眾中說法。是三種見無始世界來習著入於骨髓。 舎利弗の言わく、『我見、及び知者、見者、仏見、菩薩見、諸衆生見等、及び有無、断常等の邪見、五衆乃至諸仏の法、転法輪等の諸法の見を、是の菩薩は是の三種の見を能く断ずるが故に、当に大衆中に於いて法を説くべし。是の三種の見は、無始の世界より来、習いて著し、骨髄に入ればなり』、と。
『舎利弗』は、こう言った、――
『我見や知者、見者、仏の見、菩薩の見、諸衆生の見等や!』、
『有無、断常等の邪見や!』、
『五衆乃至諸仏の法、転法輪等の諸法の見!』、
是の、
『三種の見』を、
是の、
『菩薩は、断じさせることができる!』が故に、
『大衆』中に於いて、
『法を説かねばならないのである!』。
何故ならば、
『衆生』は、
是の、
『三種の見』を、
『無始の世界より習い、著する!』が故に、
『骨髄に入っているからである!』。
須菩提作是念。佛說五眾等乃至諸佛法是菩薩行。何以為斷諸見故說法。作是念已問舍利弗。舍利弗答。無方便菩薩欲行般若波羅蜜。觀色求定相。取色一切相生色見。與此相違名為有方便。是菩薩雖觀色不生妄見。而能斷諸見 須菩提の是の念を作さく、『仏の説きたまえる五衆等乃至諸仏の法は、是れ菩薩の行なるに、何を以ってか諸見を断ぜんが為めの故に法を説く』、と。是の念を作し已りて、舎利弗に問えば、舎利弗の答うらく、『無方便の菩薩は、般若波羅蜜を行ぜんと欲して、色を観じて、定相を求め、色の一切の相を取りて、色見を生ずるも、此れと相違するを名づけて有方便と為すに、是の菩薩は色を観ずと雖も、妄見を生ぜざれば、能く諸見を断ずるなり』、と。
『須菩提』は、こう念じた、――
『仏が説かれた!』、
『五衆等の法や、乃至諸仏の法』を、
『菩薩』は、
『行じねばならない!』のに、
何故、
『諸見を断じる為め!』の故に、
『法』を、
『説くのか!』、と。
是のように、
『念じて!』、
『舎利弗』に、
『問う!』と、
『舎利弗』は、こう答えた、――
『無方便の菩薩』が、
『般若波羅蜜を行じようとする!』と、
『色を観て、定相を求め!』、
『色』の、
『一切相を取って!』、
『色見を生じる!』ので、
此の、
『菩薩と相違する!』のを、
『有方便』と、
『称するのである!』が、
是の、
『有方便の菩薩』は、
『色を観ても!』、
『妄見を生じることがない!』ので、
『諸見』を、
『断じることができるのである!』、と。



【經】摩訶薩と称する理由(3)

【經】爾時須菩提白佛言。世尊。我亦欲說所以為摩訶薩。佛言。便說。 爾の時、須菩提の仏に白して言さく、『世尊、我れも亦た摩訶薩と為す所以を説かんと欲す』、と。仏の言わく、『便ち説け』、と。
爾の時、
『須菩提』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
わたしも、
『摩訶薩と為す所以』を、
『説こうと思います!』、と。
『仏』は、 こう言われた、――
『便ち、説け!』、と。
  参考:『大般若経巻47』:『爾時具壽善現白佛言。世尊。我亦樂說。菩薩由此義故復名摩訶薩。佛言。善現。隨汝意說。善現白言。世尊。由諸菩薩為一切智智發菩提心無等等心。不共一切聲聞獨覺心。於如是心亦不取著。何以故。世尊。彼一切智智心。是真無漏不墮三界。求一切智智心亦是無漏不墮三界。於如是心不應取著故。此菩薩。復名摩訶薩。時舍利子問善現言。云何菩薩摩訶薩無等等心不共一切聲聞獨覺心。善現答言。諸菩薩摩訶薩從初發心。不見諸法有生有滅。有減有增。有來有去。有染有淨。舍利子。若不見諸法有生有滅。有減有增。有來有去。有染有淨。亦不見有聲聞心獨覺心菩薩心如來心。舍利子。是名菩薩摩訶薩無等等心。不共一切聲聞獨覺心。諸菩薩摩訶薩於如是心亦不取著。時舍利子問善現言。若於如是心不應取著者。則於一切愚夫異生聲聞獨覺等心亦不應取著。及於色心不應取著。於受想行識心亦不應取著。於眼處心不應取著。於耳鼻舌身意處心亦不應取著。於色處心不應取著。於聲香味觸法處心亦不應取著。於眼界心不應取著。於色界眼識界及眼觸眼觸為緣所生諸受心亦不應取著。於耳界心不應取著。於聲界耳識界及耳觸耳觸為緣所生諸受心亦不應取著。於鼻界心不應取著。於香界鼻識界及鼻觸鼻觸為緣所生諸受心亦不應取著。於舌界心不應取著。於味界舌識界及舌觸舌觸為緣所生諸受心亦不應取著。於身界心不應取著。於觸界身識界及身觸身觸為緣所生諸受心亦不應取著。於意界心不應取著。於法界意識界及意觸意觸為緣所生諸受心亦不應取著。於地界心不應取著。於水火風空識界心亦不應取著。於苦聖諦心不應取著。於集滅道聖諦心亦不應取著。於無明心不應取著。於行識名色六處觸受愛取有生老死愁歎苦憂惱心亦不應取著。於四靜慮心不應取著。於四無量四無色定心亦不應取著。於四念住心不應取著。於四正斷四神足五根五力七等覺支八聖道支心亦不應取著。於空解脫門心不應取著。於無相無願解脫門心亦不應取著。於布施波羅蜜多心不應取著。於淨戒安忍精進靜慮般若波羅蜜多心亦不應取著。於五眼心不應取著。於六神通心亦不應取著。於佛十力心不應取著。於四無所畏四無礙解大慈大悲大喜大捨十八佛不共法一切智道相智一切相智心亦不應取著。何以故。如是諸心皆無心性故。善現答曰。如是如是。誠如所言。』
須菩提言。世尊。是阿耨多羅三藐三菩提心無等等心。不共聲聞辟支佛心。何以故。是一切智心無漏不繫故。是一切智心無漏不繫中亦不著。以是因緣故名摩訶薩。 須菩提の言わく、『世尊、是れ阿耨多羅三藐三菩提の心なる無等等の心は、声聞辟支仏の心と共にせず。何を以っての故に、是の一切智の心は、無漏、不繋なるが故なり。是の一切智の心は無漏、不繋中にも亦た著せず。是の因縁を以っての故に摩訶薩と名づく』、と。
『須菩提』は、こう言った、――
世尊!
是れは、
『阿耨多羅三藐三菩提の心は、無等等の心であり!』、
『声聞、辟支仏と共にしない
be not connected with them arhad and pratyeka-buddha )!』
『心です!』。
何故ならば、
是の、
『一切智の心』は、
『無漏であり!』、
『不繋だからです( be not connectable )!』。
是の、
『一切智の心』は、
『無漏、不繋』中にも、
『著することがない!』ので、
是の、
『因縁』の故に、
『摩訶薩』と、
『称するのです!』。
  不共(ふぐう):梵語 aaveNika の訳、他に繋属しない/独立した/特有の( not connected with anything else, independent, distinctive )の義、~に所属して、~と共有しない( being only possesed by ~ and not possesed by ~ )の意。
  阿耨多羅三藐三菩提心(あのくたらさんみゃくさんぼだいしん):阿耨多羅三藐三菩提を成ぜんと発する心。又菩提心と称す。『大智度論巻45上注:菩提心』参照。
  無等等心(むとうとうしん):無等に等しき心、即ち如来に等しき心の意。又菩提心の義。即ち「大智度論巻41」には、「問うて曰わく、菩提心、無等等心、大心に何の差別かある。答えて曰く、菩薩の初発心に、無上道を縁ずらく、我れは当に仏と作るべしと。是れを菩提心と名づく。無等を名づけて仏と為す。所以は何となれば、一切の衆生、一切の法の与に等しき者なければなり。是の菩提心は、仏と相似す。所以は何となれば、因は果に似たるが故なり。是れを無等等心と名づく。是の心は事として行ぜざるなく、恩恵を求めず深固に決定す。復た次ぎに檀尸波羅蜜は是れを菩提心と名づく。所以は何となれば、檀波羅蜜の因縁の故に大富を得て乏少する所なく、尸羅波羅蜜の故に三悪道を出でて人天中の尊貴に住し、二波羅蜜の果報の力の故に安立して能く大事を成ずれば、是れを菩提心と名づく。羼提、毘梨耶波羅蜜の相は衆生中に於いて奇特の事を現ず。謂わゆる人来たりて肉を割き髄を出すこと樹木を截るが如きにも怨家を慈念し血は化して乳と為る。是の心は似ること仏心の如くして、十方の六道中に於いて一一の衆生を皆深心を以って済度す。又諸法の畢竟空なるを知るも、大悲を以って能く諸行を行ず。是れを奇特と為すこと、譬えば人の空中に樹を種えんと欲して是れを希有と為すが如し。是の如き等の精進波羅蜜の力勢は無等と相似すれば是れを無等等と名づく。禅定に入りて、四無量心を行じ、十方に遍満して、大悲の方便と合し、故に一切衆生の苦を抜く。又諸法の実相もて一切の観を滅して諸の語言を断じ、而も断滅中に堕せざる、是れを大心と名づく。復た次ぎに初発心を菩提心と名づけ、六波羅蜜を行ずるを無等等心と名づけ、方便心中に入る、是れを大心と名づく。是の如き等の各に差別あり。」と云えり。『大智度論巻41下、巻45上注:菩提心』参照。
  阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい):梵語anuttara-saMyak-saMbodhi、略して阿耨三菩提、又は無上菩提と云う。無上正遍知、無答正遍知、無上正等正覚、又は無上正等覚と訳す。仏無上の覚智を云う。「大智度論巻2」に、「阿耨多羅は秦に訳して無上と云う。涅槃法は無上なり、仏自ら是の涅槃を知り、他より聞かざるのみならず、亦た衆生を将導して涅槃に至らしむ。諸法の中に涅槃無上なるが如く、衆生中に仏亦た無上なり。故に無上と言う。復た次ぎに阿は無と名づけ、耨多羅は答と名づく。一切外道の法は非実非清浄の故に、答う可く、破す可し。而も仏法は答うべからず、破すべからず。一切語言の道を出で、亦た実清浄なるが故に是を以って無答と名づく」と云い、又「注維摩詰経巻2」に僧肇の説を載せて、「阿耨多羅は秦に無上と言い、三藐三菩提は秦は正遍知と云う。道之より上なるはなし、故に無上なり、其の道真正にして、法として知らざるはなし、故に正遍知なり」と云える是れなり。<(望)是れ即ち仏の一切智の無上なるを云うが如し。蓋し按ずるに是れに就き小乗と大乗との間に無視すべからざる相違あり、即ち「長阿含巻1大本経」には、「時に於いて菩薩復た自ら思惟すらく、何等の無なるが故に老死無く、何等の滅なるが故に老死滅すると。即ち智慧を以って所由を観察すらく、生無なるが故に老死無く、生滅するが故に老死滅す。有無なるが故に生無く、有滅するが故に生滅す。(中略)行無なるが故に識無く、行滅するが故に識滅す。癡無なるが故に行無く、癡滅するが故に行滅す。是れを癡滅するが故に行滅す、行滅するが故に識滅す、(中略)生滅するが故に老死、憂悲、苦悩滅すと。菩薩の思惟すらく、苦陰滅する時、智を生じ、眼を生じ、覚を生じ、明を生じ、通を生じ、慧を生じ、証を生ずと。爾の時、菩薩は逆順に十二因縁を観じて、如実に知り、如実に見已りて、即ち座上に於いて阿耨多羅三藐三菩提を成ず」と云い、「大品般若経巻1」には、「是の時世尊、三昧より安詳として起ち、天眼を以って世界を観視し、挙身に微笑し、足下の千輻輪相より六百万億の光明を放ち、(中略)白毫相肉髻各各六百万億の光明を放ち、是の諸光より大光明を出し、三千大千国土を遍照し、三千大千国土より、東方恒河沙等の如き諸仏国土を遍照す。南西北方四維上下亦復た是の如し。若し衆生有りて斯の光に遇う者は、必ず阿耨多羅三藐三菩提を得ん。光明は出でて東方の恒河沙等の如き諸仏国土を過ぐ。南西北方四維上下も亦復た是の如し。爾の時世尊の挙身毛孔は、皆亦た微笑して諸光を放ち、三千大千国土を遍照し、復た十方の恒河沙等の諸仏国土に至る。若し衆生有りて斯の光に遇う者は、必ず阿耨多羅三藐三菩提を得ん。(中略)爾の時、世尊は広長の舌相を出して、遍く三千大千国土を覆い、熙怡微妙し、其の舌根より無量千万億光を放ち、是の一一光化して千葉の金色宝花を成ず。是の諸花上に皆化仏有り、結跏趺坐して六波羅蜜を説く。衆生の聞く者は必ず阿耨多羅三藐三菩提を得ん」と云えり。就中、「大本経」には、十二因縁の理を如実に知り、如実に見已りて、即ち座上に於いて阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを明し、「般若経」には、仏の智慧に感じて、六波羅蜜を聞く者の必ず阿耨多羅三藐三菩提を得ることを明す。是れ則ち小乗に於いては十二因縁を知ることにより、一個人の成ずる最高の智慧を阿耨多羅三藐三菩提と称することを示し、大乗に於いては法身の光、即ち天然自然の道理に感じて、六波羅蜜を行ずれば、当来の世に於いて一切の衆生、一切の諸法の空にして平等なることを知るに及びて、必ず阿耨多羅三藐三菩提を得んと説けるものにして、阿耨多羅三藐三菩提は単に一個人に内蔵する智慧を超過して、六波羅蜜を行ずるに由り、当来する理想的世界を享受する満足の境地を指すに至れりと為すものなり。此の事は必ずしも経中に明言せざる所なるも、義は方に是の如きを知るべし。
  菩提心(ぼだいしん):梵語bodhi-cittaの訳。無上菩提を求むる心の意。具に阿耨多羅三藐三菩提心と云い、又無上菩提心、無上道心、無上道意と称し、略して道心、道意、或いは覚意とも訳す。即ち無上菩提を成ぜんことを要期する心を云う。「旧華厳経巻59」に、「菩提心は則ち一切諸仏の種子たり、能く一切諸仏の法を生ずるが故なり。菩提心は則ち良田たり、衆生の白浄の法を長養するが故なり。菩提心は則ち大地たり、能く一切の諸の世間を持するが故なり。菩提心は浄水たり、一切の煩悩の垢を洗濯するが故なり」と云い、「菩薩地持経巻1種性品」に、「菩薩種性あり、菩提心を発して勤行精進せば、則ち能く疾く阿耨多羅三藐三菩提を成ぜん」と云える是れなり。是れ菩提心は一切諸仏の種子、浄法長養の良田にして此の心を発起して勤行精進せば、速かに無上菩提を成じ得べきことを説けるものなり。蓋し菩提心は大乗菩薩の必ず最初に発起すべき大心にして、之を起すを発菩提心と名づけ、略して発心又は発意と云い、其の初発を初発心、或いは新発意と称し、菩提の根本として最も尊重する所なり。「大智度論巻41」に、「菩薩初めて発心し、無上道を縁じて我れ当に作仏すべしと。是れを菩提心と名づく」と云い、「菩薩地持経巻1発菩提心品」に、「菩薩の初発心は是れ一切正願の始なり、悉く能く一切の正願を摂受す。是の故に初の正願を自性願と為す。菩薩は発心して是の言を作さく、我れ当に無上菩提を求め、一切衆生を安立して無余涅槃及び如来の大智を究竟せしむべしと。是の如く発心して菩提の道を求む。(中略)初発心の菩薩を名づけて度と為す、大乗菩提の諸菩薩の数なり、是の故に初発心は度の所摂なり。是の心を発し已りて漸に阿耨多羅三藐三菩提を得、是の故に初発心は是れ菩提の根本なり。是の心を発し已りて諸の衆生の無量の苦を受くるを見、而も悲心を起して之を度脱せんと発す、是の故に初発心は是れ大悲の所依なり。初発心に依りて菩薩の菩提分法を建立し、及び衆生の所作、菩薩の所学悉く能く修習す、是の故に初発心は是れ菩薩学の所依なり。是の如く初発心は名づけて摂と為し、名づけて根本と為し、名づけて依と為す」と云えり。是れ菩提心は一切正願の始め、菩提の根本、大悲及び菩薩学の所依なるが故に、大乗の菩薩は必ず先づ此の心を発起せざるべからざることを明にせるなり。又「菩薩地持経」の連文に菩提心を発すに四種の縁あることを説き、一に諸仏菩薩の不可思議神通変化を見聞し、之を増上縁として仏の大智を楽いて発心し、二に神変を見聞せざるも菩提及び菩薩蔵を説くを聞き、之を増上縁として仏の大智を楽いて発心し、三に聞法せざるも自ら法蔵の相を見、正法護持の為に仏の大智を楽いて発心し、四に法滅の相を見ざるも、濁世の衆生が煩悩の為に悩乱せられ発心得難きを見て即ち菩提心を発すと云い、又「発菩提心経論巻上発心品」に別種の四縁を明し、「一には諸仏を思惟して菩提心を発し、二には身の過患を観て菩提心を発し、三には衆生を慈愍して菩提心を発し、四には最勝の果を求めて菩提心を発す」と云い、又「大乗義章巻9発菩提心義」には、相発心、息相発心、真発心の三種の別を説き、生死の過と涅槃の利を見、相に随って厭求するを相発心とし、生死の性寂滅にして涅槃と別なく、相の厭求すべきものなしと知り、離相平等の心始めて起るを息相発心とし、菩提の性は是れ己の体にして、菩提即心、心即菩提なりと知り、彼の異求を捨てて心の自実に帰するを真発心となすと云い、「摩訶止観巻1上」には推理発心の説を挙げ、蔵教の菩薩は生滅、通教の菩薩は無生、別教の菩薩は無量、円教の菩薩は無作の四諦の理を推して各発心すと云い、元暁の「両巻無量寿経宗要」には四弘誓願を以って菩提心となし、之に随事発心順理発心の二種あることを説き、煩悩は無数なるも悉く之を断ぜんと願じ、善法は無量なるも悉く之を修せんと願じ、衆生は無辺なるも悉く之を度せんと願じ、此の三事に於いて決定して期願するを随事発心とし、諸法は幻夢の如く有に非ず無に非ず、言を離れ慮を絶すと信解し、煩悩及び善法あるを見ずと雖も可断可修を撥無せず、故に悉断悉修を願ずるも而も無願三昧に違せず。無量の有情を度せんと願ずるも而も能度所度を存せず、能く空無相に順ずるを順理の発心となすと云い、源信の「往生要集巻上末」にも亦た同説を出せり。是れ皆衆生の機に多種の別あるが故に発心にも亦た種種の縁あることを説けるものなり。又「大智度論巻41」に発菩提心を菩提心と名づけ、六波羅蜜を行ずるを無等等心と名づけ、方便心中に入るを大心と名づくると云い、「同巻53」に仏の菩提に発心菩提、伏心菩提、明心菩提、出到菩提、無上菩提の五種の別ありとし、「大乗起信論」に信成就発心、解行発心、証発心の三種の発心を説き、「維摩経文疏巻7」に名字の発菩提心、相似の発菩提心、分証真実の発菩提心を分別し、「菩提心論」に行願、勝義、三摩地の三種の菩提心ありとし、又「大日経巻1住心品」並びに「守護国界主陀羅尼経巻1」に因根究竟の三句を説き、菩提心を因、大悲を根、方便を究竟となし、「大日経疏巻14」に阿字五転の説をなせる如き、皆初発心より無上菩提に至るまでの菩提心の過程に浅深あることを明せるものというべし。又菩提心の体性に関し、「大乗義章巻9発菩提心義」に、菩提の性は是れ己の体なりと知り、心の自実に帰するを真発心と名づくと云い、如来蔵性を以って此の心の体とし、「大日経巻1住心品」には、「何をか菩提と云う、謂わく実の如く自心を知るなり」と云い、「同経疏巻14」に、「阿字は是れ菩提心なり」と云い、本有の自性清浄心を以って菩提心となせり。蓋し菩提心は菩提を求むるの心にして、即ち無上菩提の正因なるが故に、之を究むれば本有の自性となさざるべからず。「菩薩地持経巻1種性品」に、「菩薩は種性に依りて必定して阿耨多羅三藐三菩提に堪任す。(中略)若し菩薩種性なくんば、一切の諸の方便行ありと雖も終に無上菩提を成ずることを得じ」と云い、「究竟一乗宝性論巻4身転清浄成菩提品」に、「実体とは向に説く、如来蔵は煩悩蔵の所纏を離れず、諸の煩悩を遠離するを以って転じて身清浄なることを得。是れを名づけて実体となす」と云えるは、共に即ち其の意を明にせるものというべし。又菩提心は作仏を願ずる心なるが故に、一切の菩薩は悉く之を発起するを要し、随って浄土往生を求むる者も亦た此の心を発すべしとなし、「無量寿経巻下」に三輩往生の人は皆無浄菩提心を発すべきことを説けり。之に依りて曇鸞を始め、支那の諸家並びに本邦源信等も皆菩提心を以って浄土往生の正因となせりと雖も、源空の「選択本願念仏集」には廃立の意により、菩提心を余行として廃捨し、又証空の「観経玄義要義釈観門義鈔巻1」には、菩提心に行門と観門の別あり、行門の菩提心は之を廃捨するも、観門の菩提心は即ち三心なれば之を往生の正因となすと云い、親鸞の「顕浄土真実信文類」には、権実顕密大小所説の歴劫迂廻の菩提心及び自力の金剛心等を総じて自力の菩提心とし、願力回向の信楽即ち願作仏心を横超の大菩提心なりとし、良忠の「観経定分義伝通記巻3」には、浄土門の菩提心と聖道門の菩提心との別を立て、浄土門の菩提心は願を此の土に発して行を彼の土に修し、聖道門の菩提心は此の土に於いて願行具足すとなし、又「同玄義分伝通記巻1」には、更に菩提心を総安心、三心を別安心と名づけ、聖冏の「釈浄土二蔵義巻11」には、厭欣心と菩提心とを併せて総安心となせり。又「大品般若経巻9」、「旧華厳経巻9」、「優婆塞戒経巻1」、「金剛頂蓮華部心念誦儀軌」、「十住毘婆沙論巻3、4」、「受菩提心戒儀」、「大乗義章巻14」、「摩訶止観巻1下」、「安楽集巻上」、「観経疏序分義」、「大日経疏巻1」、「三摩耶戒序」、「摧邪輪巻上、中」等に出づ。<(望)
舍利弗語須菩提。何等為菩薩摩訶薩無等等心。不共聲聞辟支佛心。須菩提言。菩薩摩訶薩從初發意已來。不見法有生有滅有增有減有垢有淨。 舎利弗の須菩提に語らく、『何等かを、菩薩摩訶薩の無等等心と為して、声聞、辟支仏と共にせざる心なる』、と。須菩提の言わく、『菩薩摩訶薩は初発意より已来、法に生有り、滅有り、増有り、減有り、垢有り、浄有りと見ず』。
『舎利弗』が、
『須菩提』に、こう語った、――
何のような者が、
『菩薩摩訶薩の無等等心であり!』、
『声聞、辟支仏と共にしない!』、
『心なのか?』、と。
『須菩提』は、こう言った、――
『菩薩摩訶薩は、初発意より!』、
『法』には、
『生や滅が有るとも、増や減が有るとも、垢や浄が有るとも!』、
『見ないからである!』。
舍利弗。若法無生無滅。乃至無垢無淨。是中無聲聞心無辟支佛心。無阿耨多羅三藐三菩提心無佛心。舍利弗。是名菩薩摩訶薩無等等心。不共聲聞辟支佛心。 『舎利弗、若し法に生無く、滅無く、乃至垢無く、浄無ければ、是の中に声聞の心無く、辟支仏の心無く、阿耨多羅三藐三菩提の心無く、仏の心無し。舎利弗、是れを菩薩摩訶薩の無等等心と名づけ、声聞、辟支仏と共にせざる心なり』。
舎利弗!
若し、
『法に生滅も無く、乃至垢浄も無ければ!』、
是の、
『法』中には、
『声聞や辟支仏』の、
『心』も、
『無く!』、
『阿耨多羅三藐三菩提や仏』の、
『心』も、
『無いはずである!』が、
舎利弗、
是れが、
『菩薩摩訶薩の無等等心であり!』、
『声聞、辟支仏と共にしない!』、
『心である!』。
舍利弗語須菩提。如須菩提說。一切智心無漏心不繫心中不著。須菩提。色亦不著。受想行識亦不著。四念處亦不著。乃至十八不共法亦不著。何以故但說是心不著。須菩提言。如是如是。舍利弗色亦不著。乃至十八不共法亦不著。 舎利弗の須菩提に語らく、『須菩提の説の如く、一切智の心、無漏の心、不繋の心中に著せざれば、須菩提、色にも亦た著せず、受想行識にも亦た著せず、四念処にも亦た著せず、乃至十八不共法にも亦た著せざるに、何を以っての故に、但だ是の心に著せずと説く』、と。須菩提の言わく、『是の如し、是の如し。舎利弗、色にも著せず、乃至十八不共法にも亦た著せざるなり』、と。
『舎利弗』は、
『須菩提』に、こう語った、――
須菩提の説くように、――
『一切智や、無漏や、不繋』の、
『心』に、
『著すことがなければ!』、
須菩提!
亦た、
『色にも、受想行識にも、乃至十八不共法にも!』、
『著さないはずなのに!』、
何故、
但だ、
是の、
『心に、著さない!』と、
『説くだけなのか?』、と。
『須菩提』は、こう言った、――
その通りだ、その通りだ!
舎利弗!
亦た、
『色にも、乃至十八不共法にも!』、
『著さないのである!』、と。
舍利弗語須菩提。凡夫人心亦無漏不繫。性空故。諸聲聞辟支佛心諸佛心亦無漏不繫。性空故。須菩提言。如是舍利弗。 舎利弗の須菩提に語らく、『凡夫人の心も亦た無漏にして不繋なるは、性空なるが故なり。諸の声聞、辟支仏の心、諸仏の心も亦た無漏にして、不繋なるは性空なるが故なり』、と。須菩提の言わく、『是の如し、舎利弗』、と。
『舎利弗』は、
『須菩提』に、こう語った、――
『凡夫人の心』も、
『無漏であり!』、
『不繋である!』のは、
是の、
『心』が、
『性空だからであり!』、
『諸の声聞、辟支仏の心や、諸仏の心』が、
『無漏であり!』、
『不繋である!』のも、
是の、
『心』が、
『性空だからである!』、と。
『須菩提』は、こう言った、――
その通りだ!
舎利弗!、と。
舍利弗言。須菩提。若色亦無漏不繫。性空故。受想行識無漏不繫。性空故。乃至意觸因緣生受無漏不繫。性空故。須菩提言爾。 舎利弗の言わく、『須菩提、若し色の亦た無漏にして不繋なるは性空なるが故なれば、受想行識の無漏にして不繋なるは性空なるが故、乃至意触因縁生の受の無漏にして不繋なるは性空なるが故なり』、と。須菩提の言わく、『爾り』、と。
『舎利弗』は、こう言った、――
須菩提!
若し、
『色』が、
『無漏であり、不繋である!』のも、
『性空だからであれば!』、
『受想行識』が、
『無漏であり、不繋である!』のも、
『性空だからであり!』、
『乃至意触因縁生の受』が、
『無漏であり、不繋である!』のも、
『性空だからである!』、と。
『須菩提』は、こう言った、
その通りだ!と。
舍利弗言。四念處亦無漏不繫。性空故。乃至十八不共法亦無漏不繫性空故。須菩提言爾。如舍利弗所言。凡夫人心亦無漏不繫。性空故。乃至十八不共法亦無漏不繫。性空故。 舎利弗の言わく、『四念処の亦た無漏にして不繋なるは性空なるが故、乃至十八不共法の亦た無漏にして不繋なるも性空なるが故なり』、と。須菩提の言わく、『爾り、舎利弗の言う所の如く、凡夫人の心の亦た無漏にして不繋なるは性空なるが故、乃至十八不共法の亦た無漏にして不繋なるは性空なるが故なり』、と。
『舎利弗』は、こう言った、――
亦た、
『四念処』が、
『無漏であり、不繋である!』のも、
『性空だからであり!』、
乃至、
『十八不共法』が、
『無漏であり、不繋である!』のも、
『性空だからである!』、と。
『須菩提』は、こう言った、――
その通りだ!
舎利弗の言うように、――
『凡夫人の心』が、
『無漏であり、不繋である!』のも、
『性空だからであり!』、
『乃至十八不共法』が、
『無漏であり、不繋である!』のも、
『性空だからである!』。
舍利弗語須菩提。如須菩提所說。空無心故不著是心。須菩提。色無故不著色。受想行識乃至意觸因緣生受無故不著受。四念處無故不著四念處。乃至十八不共法無故不著十八不共法。 舎利弗の須菩提に語らく、『須菩提の所説の如く、空には心無きが故に、是の心に著せざるなり。須菩提、色は無きが故に色に著せず、受想行識、乃至意触因縁生の受も無きが故に受に著せず、四念処は無きが故に四念処に著せず、乃至十八不共法も無きが故に十八不共法に著せず』、と。
『舎利弗』は、
『須菩提』に、こう語った、――
須菩提の説くように、――
『空』には、
『心が無い!』が故に、
是の、
『心』に、
『著さないのである!』。
須菩提!
『色が無い!』が故に、
『色』に、
『著することもなく!』、
『受想行識、乃至意触因縁生の受が無い!』が故に、
『受』に、
『著することもなく!』、
『四念処、乃至十八不共法が無い!』が故に、
『十八不共法』に、
『著することもないのである!』、と。
須菩提言。如是舍利弗。色無故色中不著。乃至十八不共法無故十八不共法中不著。如是舍利弗。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。以阿耨多羅三藐三菩提心無等等心不共聲聞辟支佛心。不念有是心。亦不著是心。以一切法無所得故。以是故名摩訶薩 須菩提の言わく、『是の如し、舎利弗。色無きが故に色中に著せず、乃至十八不共法無きが故に十八不共法中に著せず。是の如く、舎利弗。菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずる時、阿耨多羅三藐三菩提の心、無等等心、声聞、辟支仏と共にせざる心を以ってするも、是の心有りと念ぜず、亦た是の心にも著せず。一切法の無所得なるを以っての故なり。是を以っての故に摩訶薩と名づく。
『須菩提』は、こう言った、――
その通りだ!
舎利弗!
『色、乃至十八不共法が無い!』が故に、
『十八不共法』中に、
『著さないのである!』。
是のように、
舎利弗!
『菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行じる!』時、
『阿耨多羅三藐三菩提の心、無等等心、声聞辟支仏と共にしない心を用いる!』が、
是の、
『心が有る!』と、
『念じることもなく!』、
是の、
『心』に、
『著することもない!』。
何故ならば、
『一切法』は、
『無所得だからであり!』、
是の故に、
『摩訶薩』と、
『称するのである!』。



【經】摩訶薩と称する理由(3)

【論】釋曰。須菩提說。摩訶薩無等等心於是心亦不著。 釈して曰く、須菩提の説かく、『摩訶薩の無等等心は、是の心にも亦た著せず』、と。
釈す、――
『須菩提』は、こう説いたのである、――
『摩訶薩』の、
『無等等心』は、
是の、
『心』に、
『著することもない!』、と。
不著者。是菩薩從初發心已來。不見有法定相。若生若滅若增若減若垢若淨。是心畢竟空。是中無有心相非心相。諸相畢竟清淨故。以是故無聲聞心辟支佛心菩薩心佛心。須菩提稱貴。菩薩如是心亦美。菩薩不著是心亦為尊貴。 著せずとは、是の菩薩は初発心より已来、法の定相の若しは生、若しは滅、若しは増、若しは減、若しは垢、若しは浄有るを見ず。是の心は畢竟空なれば、是の中には心相も非心相も有ること無し、諸の相は畢竟じて清浄なるが故なり。是を以っての故に声聞心、辟支仏心、菩薩心、仏心無し。須菩提の称貴すらく、『菩薩の是の如き心も亦た美なるも、菩薩は是の心にも著せざれば、亦た尊貴せらる』、と。
『著さない!』とは、――
是の、
『菩薩は、初発心より!』、
『生滅、増減、垢浄のような!』、
『法の定相が有る!』と、
『見ない!』ので、
是の、
『心は、畢竟じて空であり!』、
是の中には、
『心相も、非心相も!』、
『無い!』。
何故ならば、
『諸相』は、
『畢竟じて清浄だからであり!』、
是の故に、
『声聞の心も、辟支仏、菩薩、仏の心も!』、
『無い!』ので、
『須菩提』は、こう称貴したのである、――
『菩薩』の、
是のような、
『心』も、
『美しい( approvable )!』が、
『菩薩』は、
是の、
『心』にも、
『著することがない!』ので、
亦た、
『尊貴されるのである!』、と。
  称貴(しょうき):たたえたっとぶ。
  (み):梵語 acchaa, caaru の訳、黒ずまない/透明/美しい( not dark, pellucid, transparent, beautiful )の義、喜ばしい/認められた( agreeable, approved )の意。
舍利弗欲難須菩提。作是言。非但一切智心無漏不繫。菩薩不應自高。所以者何。凡夫人心亦無漏不繫。性常空故。如聲聞辟支佛佛心無漏不繫。是凡夫人心實相性空。實相性空清淨不著。如先說。陰雲翳日月不能汚日月。 舎利弗の須菩提を難ぜんと欲して、是の言を作さく、『但だ一切智の心のみ無漏にして、不繋なるに非ざれば、菩薩は、応に自高すべからず。所以は何んとなれば、凡夫人の心も亦た無漏にして、不繋にして、性として常に空なるが故なり。声聞、辟支仏、仏心の無漏にして、不繋なるが如く、是の凡夫人の心も、実相は性空なり。実相の性空、清浄にして著せざること、先に、『陰雲、日月を翳さすも、日月を汚す能わず』、と説けるが如し』。
『舎利弗』は、
『須菩提を難じようとして!』、こう言った、――
但だ、
『一切智の心だけ!』が、
『無漏であったり!』、
『不繋であるのではない!』ので、
当然、
『菩薩』が、
『自高するはずがない!』。
何故ならば、
『凡夫人の心』も、
『無漏であり!』、
『不繋だからである!』、
何故ならば、
『性として!』、
『常空だからである!』。
例えば、
『声聞、辟支仏や仏の心』が、
『無漏であり!』、
『不繋であるように!』、
是の、
『凡夫人の心の実相』も、
『性空なのである!』。
『実相が性空であり!』、
『清浄であって!』、
『著すことがない!』のは、
先に、こう説いた通りである、――
『陰雲』は、
『日月を翳にする!』が、
『日月を汚すことはできない!』、と。
又諸煩惱實相與常性空心相無異。但住凡夫地中是垢是淨。住聖人地中。修無相智慧故無所分別。但憐愍眾生故。雖復有說心無所著。 『又諸の煩悩の実相は、常性空の心相に異無し。但だ、凡夫地中に住して是れ垢、是れ浄なるも、聖人地中に住すれば、無相の智慧を修するが故に分別する所無く、但だ衆生を憐愍するが故に、復た説くこと有りと雖も、心に著する所無し』。
又、 ――
『諸の煩悩の実相』は、
『常性の空である!』、
『心相』と、
『異が無い!』が、
但だ、
『凡夫地中に住する!』者が、
『是れは垢である、是れは浄である!』と、
『分別するだけであり!』、
『聖人地中に住する!』者は、
『無相の智慧を修める!』が故に、
『分別する!』所が、
『無く!』、
『但だ、衆生を憐愍する!』が故に、
復た、
『浄、垢を説くこと!』も、
『有る!』が、
『心』には、
『著する!』所が、
『無いのである!』。
  常性(じょうしょう):梵語 nityatva の訳、生来の/自前の( innate, native, one's own )の義、不変の/永久的な( perpetual, eternal )の意。
非獨凡夫人心無漏不繫。五眾乃至十八不共法亦如是。須菩提然可。 『独り凡夫人の心のみ、無漏にして不繋なるに非ず。五衆乃至十八不共法も亦た是の如し』。須菩提は然可せり。
独り( only )、
『凡夫人の心だけ!』が、
『無漏であり!』、
『不繋であるのではない!』。
亦た、
『五衆乃至十八不共法』も、
『是の通りなのである!』、と。
『須菩提』は、
『舎利弗の説を聞いて!』、
『然可した( agree )!』。
  然可(ねんか):然るべし( 'I agree', 'that's true' )。
又舍利弗言。是心無心。心相空故。不著色中色相無故。亦不著乃至諸佛法亦如是。須菩提言如是。以是故菩薩能觀諸法性常空不可得空畢竟清淨。以是故說阿耨多羅三藐三菩提心無等等心不共聲聞辟支佛心。不念有是心亦不著是心。能疾至阿耨多羅三藐三菩提。(釋第十四品竟) 又、舎利弗の言わく、『是の心には、心、心相無く、空なるが故に著せず、色中に色相無きが故に亦た著せず。乃至諸仏の法も亦た是の如し』、と。須菩提の言わく、『是の如し、是を以っての故に菩薩は能く諸の法性の常空、不可得空にして畢竟清浄なるを観れば、是を以っての故に、『阿耨多羅三藐三菩提の心、無等等の心は声聞、辟支仏と共にせざる心なり』、と説けるも、是の心有りとも念ぜず、亦た是の心にも著せざれば、能く疾かに阿耨多羅三藐三菩提に至る』、と。
又、
『舎利弗』は、こう言った、――
是の、
『心には、心も心相も無く!』、
『空である!』が故に、
『著さないのであり!』、
『色』中にも、
『色相が無い!』が故に、
『著さないのであり!』、
乃至、
『諸仏の法』にも、
『是の通りなのである!』、と。
『須菩提』は、こう言った、――
その通りだ!
是の故に、
『菩薩』は、
『諸法の性は常空であり、不可得空であり、畢竟清浄である!』と、
『観ることができ!』、
是の故に、こう説きながら、――
『阿耨多羅三藐三菩提の心や、無等等の心』は、
『声聞、辟支仏と共にしない!』、
『心である!』、と。
是の、
『心が有る!』と、
『念じることもなく!』、
是の、
『心』に、
『著することもない!』ので、
疾かに、
『阿耨多羅三藐三菩提』に、
『至ることができるのである!』、と。


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