巻第四十四(下)
大智度論釋句義品第十二
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大智度論釋句義品第十二
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


【經】菩薩句義の意味

【經】爾時須菩提白佛言。世尊。云何為菩薩句義。佛告須菩提。無句義是菩薩句義。何以故。阿耨多羅三藐三菩提中。無有義處亦無我。以是故無句義是菩薩句義。 爾の時、須菩提の仏に白して言さく、『世尊、云何が菩薩の句義と為す』、と。仏の須菩提に告げたまわく、『句義無き、是れ菩薩の句義なり。何を以っての故に阿耨多羅三藐三菩提中には義の処有ること無く、亦た我無し。是を以っての故に句義無き是れ菩薩の句義なり。
爾の時、
『須菩提』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
何が、
『菩薩の句義ですか( the meaning of the word 'bodhisattva' )?』、と。
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
『句義の無い( what is meaningless )!』のが、
『菩薩という!』、
『句義である!』。
何故ならば、
『阿耨多羅三藐三菩提』中には、
『義の処( the place where a meaning is )』が、
『無く!』、
亦た、
『我』も、
『無い!』ので、
是の故に、
『句義が無い!』のが、
『菩薩の句義なのである!』。
  句義(くぎ):梵語padaarthaの訳。言葉の意味( the meaning of a word )、言葉の意味に対応するもの( that which corresponds the meaning of a word )/事物/物質的事物/人/人物( a thing, material object, man, person )、即ち句(言葉)に対する義(実体、対象、事物)、句の謂われ( the reason why it is called a certain word )の意。『大智度論巻44下注:句、義』参照。
  (く):梵語鉢陀padaの訳。又跛陀、鉢曇に作る。七十五法の一。百法の一。完全に一の義を詮する章句を云う。「倶舎論巻5」に、「句とは謂わく章なり。義を詮すること究竟す。諸行無常等の章を説くが如し。或いは能く業用徳を辯了する時の相応差別、此の章を句と称す」と云える是れなり。「同光記巻5」に之を釈して、「梵に鉢陀と云う、唐に迹と言う。一の象身に四の足迹あるが如く、是の如く一頌に総じて四句成ずるが故に、今義に就いて之を翻じて句と為す。句は能く義を詮すること究竟す。梵に薄迦と云う(告何の反)、唐に章と言う。還た是れ義を詮すること究竟す。諸行無常等の章を説くが如し。此の義同じきに由るが故に、章を以って句を釈す。章は即ち句の異目なり」と云い、又「此の方の章句は、句は少く、章は多し。印度の国法は、章句の二種倶に是れ義を詮すること究竟す。故に章を以って句を釈することを得」と云えり。蓋し句に長短不動あり、「大毘婆沙論巻14」に、「此の頌は、処中にして長ならず短ならず、八字を句となし、三十二字を頌と為す。諸経論の頌は多く此の法に依り、書写の数を計する亦た此の法に依る。又六字より乃至二十六字、皆句と為すことを得。然るに六字は名づけて初句と為し、二十六字は名づけて後句と為す。六字を減ずれば短句と名づけ、二十六字を過ぐれば長句と名づく」と云える其の意なり。又二句合集を句身と云い、三句若しくは四句以上を多句身と称す。故に「倶舎論光記巻5」に、「且く処中の句に依りて三種を辨ぜば、八字を説く時、但だ句ある可し。十六字を説く時即ち句身と謂う。或いは是の説を作す、二十四字を説く時即ち多句身と謂う。或いは是の説を作す、三十二字を説く時方に多句身と謂う」と云えり。経部及び唯識にては、之を声の上の音韻屈曲にして、別に自体なしと説くと雖も、薩婆多部は、但だ音声のみにして即ち義を了せしむべきに非ざれば、声に異にして別の実体ありと主張し、不相応行蘊に摂せり。又「大乗入楞伽経巻3」、「阿毘達磨順正理論巻14、76」、「大乗阿毘達磨雑集論巻2」、「大智度論巻44」、「成唯識論巻2」、「同述記巻2末」、「大乗法苑義林章巻1本」、「倶舎論宝疏巻5」等に出づ。<(望)
  (ぎ):梵語 artha の訳、原因/目的/理由( cause, motive, reason )、利益/効用( advantage, use, utility )、事物/対象/感覚の対象( thing, object, object of the sense )、資産/財産/富/資金( substance, wealth, property, opulence, money )の義。
  (ぎ):梵語阿他arthaの訳。巴梨語attha、又阿陀に作る。言教に依りて詮明せられたる道理、又は其等に依りて詮明し得られざる実理を云う。「中阿含巻2世間福経」に、「義及び饒益を求む」と云い、「大宝積経巻52」に、「如来の演ぶる所の八万四千の法蔵声教を皆名づけて文となす。諸の一切の言音文字を離れ、理不可説なるを名づけて義となす」と云える其の例なり。又「華厳経探玄記巻1」には教と義と相対し、「小乗は教義倶に融ぜず、三乗は義は融ずれども教は融ぜず。教義倶に融ずるは華厳の別教一乗なり」と云い、「華厳五教章巻1」に、根本法輪に約すれば、華厳一乗は教あり義あり。枝末法輪に約すれば、三乗末教は唯だ教のみにして義なし。摂末帰本法輪に約すれば、臨門の三車を開方便の教となし、界外別授の大白牛車を真実の義と為す。是れ同教一乗にして法華経に説くが如しと云えり。是れ蓋し別教一乗の実理を特に義と名づけたるものにして、普通の理義に同じからず。又「大乗法苑義林章巻2末」に、「義に二種あり、一には境界を義と名づけ、二には道理を義と名づく。(中略)第四の勝義は、多分道理に依りて義と名づく。廃詮談旨にして境界に非ざるが故なり。前の三勝義は境界を義と名づく」と云えり。是れ四種の勝義諦の中、前の三の勝義は依詮談旨なるが故に之を境界の義とし、第四の勝義は廃詮談旨なるが故に之を道理の義と名づけたるなり。又因明にては、宗の前陳を体と名づくるに対し、其の後陳を義と称せり。「因明入正理論疏巻上」に、「五蘊に於いて色等は是れ体なり。此の上の有漏無漏等の義は之を名づけて義となす」と云える即ち其の意なり。又諸経論に第一義諦或いは第一義空等と称するは、真諦を第一義とし、俗諦を第二義となすの意なり。其の他又義理の究竟せるを了義、究竟せざるを不了義、伝統の純正なるものを正義、純正ならざるものを不正義、異義又は邪義等と称するなり。<(望)
  参考:『大般若経巻45』:『爾時具壽善現白佛言。世尊。所言菩薩是何句義。佛告善現。無句義是菩薩句義。所以者何。善現。菩提不生。薩埵非有故。無句義是菩薩句義。善現。如空中鳥跡句義。無所有不可得。菩薩句義。無所有不可得亦如是。善現。如幻事句義。無所有不可得。菩薩句義無所有不可得亦如是。善現。如夢境句義。陽焰句義。光影句義。空花句義。像句義。響句義。尋香城句義。變化事句義。無所有不可得。菩薩句義。無所有不可得亦如是。善現。如真如句義無所有不可得。菩薩句義。無所有不可得亦如是。善現。如法界句義。法性句義。法住句義。法定句義。不虛妄句義。不變異句義。離生性句義。平等性句義。實際句義。無所有不可得。菩薩句義。無所有不可得亦如是』
須菩提。譬如鳥飛虛空無有足跡。菩薩句義無所有亦如是。須菩提。譬如夢中所見無處所。菩薩句義無所有亦如是。須菩提。譬如幻無有實義。如焰如響如影如佛所化無有實義。菩薩句義無所有亦如是。須菩提。譬如如法性法相法位實際無有義。菩薩句義無所有亦如是。 須菩提、譬えば鳥の虚空を飛ぶに足跡有る無きが如く、菩薩の句義の無所有なるも亦た是の如し。須菩提、譬えば夢中の所見に処所無きが如く、菩薩の句義の無所有なるも亦た是の如し。須菩提、譬えば幻に実義有ること無きが如く、焰の如く、響の如く、影の如く、仏の所化に実義有ること無きが如く、菩薩の句義の無所有なることも亦た是の如し。須菩提、譬えば如、法性、法相、法位、実際の義有ること無きが如く、菩薩の句義の無所有なるも亦た是の如し。
須菩提!
譬えば、
『鳥が虚空を飛べば!』、
『足跡』が、
『無いように!』、
『菩薩の句義』が、
『無所有である( there is no-being )!』のも、
『是の通りである!』。
須菩提!
譬えば、
『夢中の所見』に、
『処所( any basis )』が、
『無いように!』、
『菩薩の句義』が、
『無所有である!』のも、
『是の通りである!』。
須菩提!
譬えば、
『幻』に、
『実義』が、
『無いように!』、
『焰、響、影、仏の所化』に、
『実義』が、
『無いように!』、
『菩薩の句義』が、
『無所有である!』のも、
『是の通りである!』。
須菩提!
譬えば、
『如、法性、法相、法位、実際』に、
『義( any substance )』が、
『無いように!』、
『菩薩の句義』が、
『無所有である!』のも、
『是の通りなのである!』。
  処所(しょしょ):梵語 dhiSThaana の訳、戦車の座席( the standing-place of the warrior upon the car )の義、根拠/基礎( a basis, base )の意。
  所有(しょう):梵語 bhaava の訳、存在/実在( being, existing )の義、存在する事物/生存する生物( that which is or exists, thing or substance, being or living creature )の意。
  無所有(むしょう):梵語 abhaava の訳、非存在/無/不在/非実在/欠如( non-existence, nullity, absence non-entity, negation )の義。
  実義(じつぎ):梵語 arthatattva の訳、真実の物体/性質/原因( the real object or nature or cause of anything )、真実の事情/物事の真実( the true state of a case, fact of the matter )の義。
須菩提。譬如幻人色無有義。幻人受想行識無有義。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。菩薩句義無所有亦如是。須菩提。如幻人眼無有義。乃至意無有義。須菩提。如幻人色無有義。乃至法無有義。眼觸乃至意觸因緣生受無有義。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。菩薩句義無所有亦如是。 須菩提、譬えば幻人の色に義有ること無く、幻人の受想行識に義有ること無きが如く、菩薩摩訶薩の般若波羅蜜を行ずる時、菩薩の句義の無所有なるも亦た是の如し。須菩提、幻人の眼に義有ること無く、乃至意に義有ること無きが如く、須菩提、幻人の色に義有ること無く、乃至法に義有ること無く、眼触、乃至意触因縁生の受に義有ること無きが如く、菩薩摩訶薩の般若波羅蜜を行ずる時、菩薩の句義の無所有なるも亦た是の如し。
須菩提!
譬えば、
『幻人の色』に、
『義』が、
『無く!』、
『幻人の受想行識』に、
『義』が、
『無いように!』、
『菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を行じる!』時、
『菩薩の句義が無所有である!』のも、
『是の通りである!』。
須菩提!
譬えば、
『幻人の眼乃至意、色乃至法、眼触乃至意触因縁生の受』に、
『義』が、
『無いように!』、
『菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を行じる!』時、
『菩薩の句義が無所有である!』のも、
『是の通りである!』。
須菩提。如幻人行內空時無有義。乃至行無法有法空無有義。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。菩薩句義無所有亦如是。須菩提。如幻人行四念處。乃至十八不共法無有義。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。菩薩句義無所有亦如是。 須菩提、幻人の内空を行ずる時、義有ること無く、乃至無法有法空を行ずるに義有ること無きが如く、菩薩摩訶薩の般若波羅蜜を行ずる時、菩薩の句義の無所有なるも亦た是の如し。須菩提、幻人の四念処、乃至十八不共法を行ずるに義有ること無きが如く、菩薩摩訶薩の般若波羅蜜を行ずる時、菩薩の句義の無所有なるも亦た是の如し。
須菩提!
譬えば、
『幻人が内空乃至無法有法空を行じる!』時、
『義』が、
『無いように!』、
『菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を行じる!』時、
『菩薩の句義が無所有である!』のも、
『是の通りである!』。
須菩提!
譬えば、
『幻人が四念処乃至十八不共法を行じる!』時、
『義』が、
『無いように!』、
『菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を行じる!』時、
『菩薩の句義が無所有である!』のも、
『是の通りである!』。
須菩提。如多陀阿伽度阿羅訶三藐三佛陀色無有義。是色無有故。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。菩薩句義無所有亦如是。須菩提。如多陀阿伽度阿羅訶三藐三佛陀受想行識無有義。是識無有故。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。菩薩句義無所有亦如是。 須菩提、多陀阿伽度、阿羅呵、三藐三仏陀の色に義有ること無きは、是の色の有ること無きが故なるが如く、菩薩摩訶薩の般若波羅蜜を行ずる時、菩薩の句義の無所有なるも亦た是の如し。須菩提、多陀阿伽度、阿羅呵、三藐三仏陀の受想行識に義有ること無きは、是の識の有ること無きが故なるが如く、菩薩摩訶薩の般若波羅蜜を行ずる時、菩薩の句義の無所有なるも亦た是の如し。
須菩提!
譬えば、
『多陀阿伽度、阿羅呵、三藐三仏陀の色』に、
『義が無い!』のは、
是の、
『色』が、
『無いからであるように!』、
『菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を行じる!』時、
『菩薩の句義』が、
『無所有である!』のも、
『是の通りである!』。
須菩提!
譬えば、
『多陀阿伽度、阿羅呵、三藐三仏陀の受想行識』に、
『義が無い!』のは、
是の、
『識』が、
『無いからであるように!』、
『菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を行じる!』時、
『菩薩の句義』が、
『無所有である!』のも、
『是の通りである!』。
須菩提。如佛眼無處所。乃至意無處所。色乃至法無處所。眼觸乃至意觸因緣生受無處所。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。菩薩句義無所有亦如是。 須菩提、仏の眼に処所無く、乃至意に処所無く、色乃至法に処所無く、眼触乃至意触因縁生の受に処所無きが如く、菩薩摩訶薩の般若波羅蜜を行ずる時、菩薩の句義の無所有なるも亦た是の如し。
須菩提!
譬えば、
『仏』の、
『眼乃至意、色乃至法、眼触乃至意触因縁生の受』に、
『処所』が、
『無いように!』、
『菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を行じる!』時、
『菩薩の句義』が、
『無所有である!』のも、
『是の通りである!』。
須菩提。如佛內空無處所。乃至無法有法空無處所。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。菩薩句義無所有亦如是。須菩提。如佛四念處無處所。乃至十八不共法無處所。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。菩薩句義無所有亦如是。 須菩提、仏の内空に処所無く、乃至無法有法空に処所無きが如く、菩薩摩訶薩の般若波羅蜜を行ずる時、菩薩の句義の無所有なるも亦た是の如し。須菩提、仏の四念処に処所無く、乃至十八不共法に処所無きが如く、菩薩摩訶薩の般若波羅蜜を行ずる時、菩薩の句義の無所有なるも亦た是の如し。
須菩提!
譬えば、
『仏』の、
『内空乃至無法有法空』に、
『処所』が、
『無いように!』、
『菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を行じる!』時、
『菩薩の句義』が、
『無所有である!』のも、
『是の通りである!』。
須菩提!
譬えば、
『仏』の、
『四念処乃至十八不共法』に、
『処所』が、
『無いように!』、
『菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を行じる!』時、
『菩薩の句義』が、
『無所有である!』のも、
『是の通りである!』。
須菩提。如有為性中無無為性義。無為性中無有為性義。菩薩摩訶薩。行般若波羅蜜時。菩薩句義無所有亦如是。須菩提。如不生不滅義無處所。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。菩薩句義無所有亦如是。須菩提。如不作不出不得不垢不淨無處所。菩薩句義無所有亦如是。 須菩提、有為性中に無為性の義無く、無為性中に有為性の義無きが如く、菩薩摩訶薩の般若波羅蜜を行ずる時、菩薩の句義の無所有なるも亦た是の如し。須菩提、不生不滅の義に処所無きが如く、菩薩摩訶薩の般若波羅蜜を行ずる時、菩薩の句義の無所有なるも亦た是の如し。須菩提、不作、不出、不得、不垢、不浄に処所無きが如く、菩薩の句義の無所有なるも亦た是の如し。
須菩提!
譬えば、
『有為性中に、無為性の義が無く!』、
『無為性』中に、
『有為性の義』が、
『無いように!』、
『菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を行じる!』時、
『菩薩の句義』が、
『無所有である!』のも、
『是の通りである!』。
須菩提!
譬えば、
『不生不滅の義』に、
『処所』が、
『無いように!』、
『菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を行じる!』時、
『菩薩の句義が無所有である!』のも、
『是の通りである!』。
須菩提!
譬えば、
『不作、不出、不得、不垢、不浄』に、
『処所』が、
『無いように!』、
『菩薩の句義』が、
『無所有である!』のも、
『是の通りである!』。
須菩提白佛言。何法不生不滅故無處所。何法不作不出不得不垢不淨故無處所。 須菩提の仏に白して言さく、『何なる法か、不生不滅なるが故に処所無き。何なる法か、不作不出不得不垢不浄なるが故に処所無き』、と。
『須菩提』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
何のような、
『法が、不生不滅である!』が故に、
『処所』が、
『無いのですか?』。
何のような、
『法が、不作不出不得不垢不浄である!』が故に、
『処所』が、
『無いのですか?』、と。
  参考:『大般若経巻46』:『具壽善現白佛言。世尊。何法無生無滅。無作無為。無得無取。無染無淨句義無所有不可得。佛告善現。色無生無滅。無作無為。無得無取。無染無淨句義無所有不可得。受想行識無生無滅乃至無染無淨句義無所有不可得。善現。眼處無生無滅乃至無染無淨句義無所有不可得。耳鼻舌身意處無生無滅乃至無染無淨句義無所有不可得。善現。色處無生無滅乃至無染無淨句義無所有不可得。聲香味觸法處無生無滅乃至無染無淨句義無所有不可得。善現。眼界無生無滅乃至無染無淨句義無所有不可得。色界眼識界及眼觸眼觸為緣所生諸受無生無滅乃至無染無淨句義無所有不可得。善現。耳界無生無滅乃至無染無淨句義無所有不可得。聲界耳識界及耳觸耳觸為緣所生諸受無生無滅乃至無染無淨句義無所有不可得。善現。鼻界無生無滅乃至無染無淨句義無所有不可得。香界鼻識界及鼻觸鼻觸為緣所生諸受無生無滅乃至無染無淨句義無所有不可得。善現。舌界無生無滅乃至無染無淨句義無所有不可得。味界舌識界及舌觸舌觸為緣所生諸受無生無滅乃至無染無淨句義無所有不可得。善現。身界無生無滅乃至無染無淨句義無所有不可得。觸界身識界及身觸身觸為緣所生諸受無生無滅乃至無染無淨句義無所有不可得。善現。意界無生無滅乃至無染無淨句義無所有不可得。法界意識界及意觸意觸為緣所生諸受無生無滅乃至無染無淨句義無所有不可得。善現。地界無生無滅乃至無染無淨句義無所有不可得。水火風空識界無生無滅乃至無染無淨句義無所有不可得。善現。苦聖諦無生無滅乃至無染無淨句義無所有不可得。集滅道聖諦無生無滅乃至無染無淨句義無所有不可得。善現。無明無生無滅乃至無染無淨句義無所有不可得。行識名色六處觸受愛取有生老死愁歎苦憂惱無生無滅乃至無染無淨句義無所有不可得。善現。四靜慮無生無滅乃至無染無淨句義無所有不可得。四無量四無色定無生無滅乃至無染無淨句義無所有不可得。善現。四念住無生無滅乃至無染無淨句義無所有不可得。四正斷四神足五根五力七等覺支八聖道支無生無滅乃至無染無淨句義無所有不可得。善現。空解脫門無生無滅乃至無染無淨句義無所有不可得。無相無願解脫門無生無滅乃至無染無淨句義無所有不可得。善現。布施波羅蜜多無生無滅乃至無染無淨句義無所有不可得。淨戒安忍精進靜慮般若波羅蜜多無生無滅乃至無染無淨句義無所有不可得。善現。五眼無生無滅乃至無染無淨句義無所有不可得。六神通無生無滅乃至無染無淨句義無所有不可得。善現。佛十力無生無滅乃至無染無淨句義無所有不可得。四無所畏四無礙解大慈大悲大喜大捨十八佛不共法一切智道相智一切相智無生無滅乃至無染無淨句義無所有不可得。善現。如如是法。無生無滅。無作無為。無得無取。無染無淨句義無所有不可得。菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多時。觀菩薩句義無所有不可得亦復如是』
佛告須菩提。色不生不滅故無處所。受想行識不生不滅故無處所。乃至不垢不淨亦如是。入界不生不滅故無處所。乃至不垢不淨亦如是。四念處不生不滅故無處所。乃至不垢不淨亦如是。乃至十八不共法不生不滅故無處所。乃至不垢不淨亦如是。 仏の須菩提に告げたまわく、『色は不生不滅なるが故に処所無く、受想行識は不生不滅なるが故に処所無く、乃至不垢不浄も亦た是の如し。入、界は不生不滅なるが故に処所無く、乃至不垢不浄も亦た是の如し。四念処は不生不滅なるが故に処所無く、乃至不垢不浄も亦た是の如し。乃至十八不共法は不生不滅なるが故に処所無く、乃至不垢不浄も亦た是の如し。
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
『色』は、
『不生不滅である!』が故に、
『処所が無く!』、
『受想行識』は、
『不生不滅である!』が故に、
『処所が無く!』、
乃至、
『不垢不浄である!』まで、
『是の通りであり!』、
『十二入、十八界』は、
『不生不滅である!』が故に、
『処所が無く!』、
乃至、
『不垢不浄である!』まで、
『是の通りであり!』、
『四念処乃至十八不共法』は、
『不生不滅である!』が故に、
『処所が無く!』、
乃至、
『不垢不浄である!』まで、
『是の通りである!』。
須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。菩薩句義無所有亦如是。須菩提。如四念處淨義畢竟不可得。須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。菩薩句義無所有亦如是。須菩提。如四正懃乃至十八不共法淨義畢竟不可得。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。菩薩句義無所有亦如是。 須菩提、菩薩摩訶薩の般若波羅蜜を行ずる時、菩薩の句義の無所有なること亦た是の如し。須菩提四念処の浄の義の畢竟じて不可得なるが如く、須菩提、菩薩摩訶薩の般若波羅蜜を行ずる時、菩薩の句義の無所有なるも亦た是の如し。須菩提、四正勤乃至十八不共法の浄の義の畢竟じて不可得なるが如く、菩薩摩訶薩の般若波羅蜜を行ずる時、菩薩の句義の無所有なるも亦た是の如し。
須菩提!
『菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を行じる!』時、
『菩薩の句義が無所有である!』のも、
『是の通りなのである!』。
須菩提!
『四念処が浄である!』という、
『義』が、
『畢竟じて不可得であるように!』、
須菩提!
『菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を行じる!』時、
『菩薩の句義が無所有である!』のも、
『是の通りなのである!』。
須菩提!
『四正勤乃至十八不共法が浄である!』という、
『義』が、
『畢竟じて不可得であるように!』、
『菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を行じる!』時、
『菩薩の句義が無所有である!』のも、
『是の通りなのである!』。
須菩提。如淨中我不可得。我無所有故。乃至淨中知者見者不可得。知見無所有故。須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。菩薩句義無所有亦如是。 須菩提、浄中の我の不可得なるは、我の無所有なるが故にして、乃至浄中の知者、見者の不可得なるは、知、見の無所有なるが故なるが如く、須菩提、菩薩摩訶薩の般若波羅蜜を行ずる時、菩薩の句義の無所有なるも亦た是の如し。
須菩提!
『浄』中に、
『我が、不可得である!』のは、
『我、無所有だからであり!』、
乃至、
『浄』中に、
『知者、見者が不可得である!』のは、
『知、見が無所得だからであるように!』、
須菩提!
『菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を行じる!』時、
『菩薩の句義が無所有である!』のも、
『是の通りなのである!』。
須菩提。譬如日出時無有黑闇。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。菩薩句義無所有亦如是。須菩提。譬如劫燒時無一切物。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。菩薩句義無所有亦如是。 須菩提、譬えば日の出づる時に、黒闇有る無きが如く、菩薩摩訶薩の般若波羅蜜を行ずる時、菩薩の句義の無所有なるも亦た是の如し。須菩提、譬えば劫の焼くる時、一切の物無きが如く、菩薩摩訶薩の般若波羅蜜を行ずる時、菩薩の句義の無所有なるも亦た是の如し。
須菩提!
譬えば、
『日が出た!』時、
『黒闇』が、
『無くなるように!』、
『菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を行じる!』時、
『菩薩の句義が無所有となる!』のも、
『是の通りなのである!』。
須菩提!
譬えば、
『劫が焼けた!』時、
『一切の物』が、
『無くなるように!』、
『菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を行じる!』時、
『菩薩の句義が無所有となる!』のも、
『是の通りなのである!』。
須菩提。佛戒中無破戒。須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。菩薩句義無所有亦如是。須菩提。如佛定中無亂心。佛慧中無有愚癡。佛解脫中無不解脫解脫知見中無不解脫知見。須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。菩薩句義無所有亦如是。 須菩提、仏の戒中には破戒無く、須菩提菩薩摩訶薩の般若波羅蜜を行ずる時、菩薩の句義の無所有なるも亦た是の如し。須菩提、仏の定中に乱心無く、仏の慧中に愚癡有ること無く、仏の解脱中に不解脱無く、解脱知見中に不解脱知見無きが如く、須菩提菩薩摩訶薩の般若波羅蜜を行ずる時、菩薩の句義の無所有なるも亦た是の如し。
須菩提!
『仏の戒』中に、
『破戒』が、
『無いように!』、
須菩提!
『菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を行じる!』時、
『菩薩の句義が無所有である!』のも、
『是の通りなのである!』。
須菩提!
『仏の定』中に、
『乱心』が、
『無く!』、
『仏の慧』中に、
『愚癡』が、
『無く!』、
『仏の解脱』中に、
『不解脱』が、
『無く!』、
『仏の解脱知見』中に、
『不解脱の知見』が、
『無いように!』、
須菩提!
『菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を行じる!』時、
『菩薩の句義が無所有である!』のも、
『是の通りなのである!』。
須菩提。譬如佛光中日月光不現。佛光中四天王天三十三天夜磨天兜率陀天化樂天他化自在天。梵眾天乃至阿迦尼吒天光不現。須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。菩薩句義無所有亦如是。 須菩提、譬えば仏光中に日月の光現れず、仏光中に四天王天、三十三天、夜摩天、兜率陀天、化楽天、他化自在天、梵衆天乃至阿迦尼吒天の光現れざるが如く、須菩提、菩薩摩訶薩の般若波羅蜜を行ずる時、菩薩の句義の無所有なるも亦た是の如し。
須菩提!
譬えば、
『仏の光』中に、
『日月の光』が、
『現れず!』、
『仏の光』中に、
『四天王天乃至他化自在天、梵衆天乃至阿迦尼吒天の光』が、
『現れないように!』、
須菩提!
『菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を行じる!』時、
『菩薩の句義が無所有となる!』のも、
『是の通りなのである!』。
  阿迦尼吒天(あかにたてん):梵名akaniSTha、色究竟天と訳す。色界第四静慮に存す。色界の最高天。『大智度論巻22下注:天』参照。
何以故。是阿耨多羅三藐三菩提菩薩菩薩句義。是一切法皆不合不散。無色無形無對一相。所謂無相。如是須菩提。菩薩摩訶薩一切法無礙相中。應當學亦應當知 何を以っての故に、是の阿耨多羅三藐三菩提、菩薩と菩薩の句義とは、是の一切の法は皆合せず、散ぜず、無色、無形、無対の一相にして、謂わゆる無相なればなり。是の如く、須菩提、菩薩摩訶薩は一切法の無礙相中に応当に学ぶべく、亦た応当に知るべし。
何故ならば、
是の、
『阿耨多羅三藐三菩提、菩薩、菩薩の句義』は、
是の、
『一切の法』は、
皆、
『合することも、散じることもなく!』、
『無色、無形、無対の一相であり!』、
『謂わゆる無相だからである!』。
是のように、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』は、
『一切法の無礙相』中に、
『学ばねばならず!』、
『知らねばならないのである!』。



【論】菩薩句義の意味

【論】問曰。上來佛與須菩提種種因緣破菩薩字。今何以問菩薩句義。 問うて曰く、上より来、仏は須菩提の与(ため)に種種の因縁もて、菩薩の字を破したもうに、今何を以ってか、菩薩の句義を問う。
問い、
上より、
『仏』は、
『須菩提の与に、種種の因縁を用いて( for Subhuti with many reasons )!』、
『菩薩の字』を、
『破られた!』のに、
今、
『須菩提』は、
何故、
『菩薩の句義』を、
『問うたのですか?』。
答曰須菩提破菩薩字佛不破。言菩薩字從本已來畢竟空。但五眾中數假名菩薩。而眾生以假名為實。佛言假名無實但從諸法數和合為名。 答えて曰く、須菩提は菩薩の字を破るも、仏は破りたまわず。菩薩と言う字は本より已来、畢竟空なるも、但だ五衆中の数を菩薩と仮名したもうに、衆生は仮名を以って実と為せば、仏の言わく、『仮名には実無きも、但だ諸法の数の和合によって名と為すのみ』、と。
答え、
『須菩提』が、
『菩薩の字』を、
『破る!』と、
『仏は破らず!』に、こう言われたのである、――
『菩薩の字』は、
『本より!』、
『常に、畢竟空であり!』、
但だ、
『五衆中の数( the multitude of the five aggregates )!』を、
『菩薩』と、
『仮名したのである!』が、
『衆生が、仮名を実と為す!』ので、
『仏』は、こう言ったのである、――
『仮名には、実が無く!』、
但だ、
『諸法の数の和合( the multitude of many dharmas )』に、
『名を為した( have given a name to )だけである!』、と。
  (しゅ):梵語 saMkhyaata の訳、~の集団/集まり/和合( the multitude of )の義。
復次諸佛法無量無邊不可思議。須菩提因菩薩字空說般若波羅蜜相。今欲聞佛說菩薩字義。因是說般若波羅蜜。 復た次ぎに、諸仏の法は、無量無辺不可思議なるも、須菩提は菩薩の字の空なるに因りて、般若波羅蜜の相を説くに、今仏の説きたまえる菩薩の字義を聞き、是れに因って般若波羅蜜を説かんと欲す。
復た次ぎに、
『諸仏の法は、無量無辺不可思議である!』が、
『須菩提』は、
『菩薩という!』、
『字は、空である!』ことに、
『因って!』、
『般若波羅蜜』の、
『相』を、
『説いていた!』が、
今、
『仏』が、
『菩薩の字義を説かれている!』のを、
『聞いて!』、
是の、
『菩薩の字義に因って!』、
『般若波羅蜜』を、
『説こうとした!』。
復次應問因緣無量無邊。所謂佛音聲有六十種莊嚴。能令諸天專聽。何況人。但音聲令人樂聞。何況說大利益義。 復た次ぎに、応に問うべき因縁は無量無辺なり。謂わゆる仏の音声には六十種の荘厳有り、能く諸天をして専ら聴かしむ。何に況んや人をや。但だ音声のみすら人をして楽しんで聞かしむ。何に況んや大利益の義を説くをや。
復た次ぎに、
『問わねばならぬ!』、
『因縁』は、
『無量、無辺である!』。
謂わゆる、
『仏の音声には、六十種の荘厳が有り!』、
『諸天すら!』、
『専聴させる( to let concentrate on listening )!』が、
況して、
『人』は、
『言うまでもなく!』、
『但だ、音声だけでも!』、
『人』に、
『楽しんで聞かせるのであり!』、
況して、
『大利益の義が説かれれば!』、
『尚更である!』。
  専聴(せんちょう):心を集中して聴く( to concentrate one's mind on listening to )の義。
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻6勝出品』:『須菩提。若諸佛六十種莊嚴音聲是有法非無法者。諸佛不能以六十種莊嚴音聲遍至十方無量阿僧祇國土。須菩提。以諸佛六十種莊嚴音聲無法非法。以是故。諸佛能以六十種莊嚴音聲遍至十方無量阿僧祇國土。』
須菩提從佛聞是事。未發意人當發阿耨多羅三藐三菩提。發意者未行六波羅蜜當令行。行者不清淨當令清淨。清淨行者當令住阿鞞跋致地。成就眾生具足佛法。乃至一生補處。 須菩提は、仏より、是の事を聞く、『未発意の人は、当に阿耨多羅三藐三菩提を発すべし。発意の者、未だ六波羅蜜を行ぜざれば、当に行ぜしむべし。行者は、清浄ならざれば当に清浄ならしむべし。清浄の行者は、当に阿鞞跋致の地に住せしめ、衆生を成就し、仏法を具足せしむること、乃至一生補処なるべし』、と。
『須菩提』は、
『仏』より、是の事を聞いた、――
『未発意の人』は、
『阿耨多羅三藐三菩提の意』を、
『発さねばならない!』。
『発意の者』が、
未だ、
『六波羅蜜を行じていなければ!』、
『行じさせねばならい!』。
『行者』が、
『清浄でなければ!』、
『清浄にせねばならない!』。
『清浄の行者』は、
『阿鞞跋致地に住させ!』、
『衆生』を、
『成就させて!』、
乃至、
『一生補処まで!』、
『仏法』を、
『具足させねばならない!』、と。
如是等種種無量因緣利益故。佛以須菩提為問主。語一切十方世界在會眾生。 是れ等の如き種種無量の因縁もて利益せんが故に、仏は須菩提を以って、問主と為し、一切の十方の世界の会に在る衆生に語りたまえり。
是れ等のような、
『種種、無量の因縁を用いて!』、
『衆生』を、
『利益する為め!』の故に、
『仏』は、
『須菩提を問主として!』、
『一切の十方の世界の会』中の、
『衆生に語られたのである!』。
佛告須菩提。無句義是菩薩句義。阿耨多羅三藐三菩提。無處所亦無我無名。於是中無依止處即是法空。無我名者無得道者。 仏の須菩提に告げたまわく、『句義無き、是れ菩薩の句義なり。阿耨多羅三藐三菩提には処所無く、亦た我無く、名無ければ、是の中に於いて依止の処無し。即ち是れ法空にして、我、名無ければ道を得る者も無し』、と。
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
『句義の無い!』のが、
『菩薩』の、
『句義である!』。
『阿耨多羅三藐三菩提』には、
『処所も、我も、名』も、
『無い!』ので、
是の中には、
『依止する処』が、
『無い!』。
即ち、
是の、
『阿耨多羅三藐三菩提の法』は、
『空であり!』、
是の中には、
『我も、名も!』、
『無く!』、
即ち、
『道を得る!』者も、
『無いのである!』。
佛謂須菩提若汝知無我無我所。得阿羅漢者。菩薩亦如是。於阿耨多羅三藐三菩提中無我無我所。譬如鳥飛虛空無有足跡。菩薩句義亦如是。行諸法虛空中無依止著處。以是故言無菩薩句義。 仏の須菩提に謂わく、『汝、無我、無我所を知りて、阿羅漢を得たる者なるが若(ごと)く、菩薩も亦た是の如く、阿耨多羅三藐三菩提中に我無く、我所無し。譬えば鳥の虚空を飛ぶに、足跡有ること無きが如し。菩薩の句義も亦た是の如く、諸法の虚空中に行ずれば、依止して著する処無し。是を以っての故に菩薩の句義無し、と言えり』、と。
『仏』は、
『須菩提』に、こう謂われた( to tell Subhuti that )、――
お前が、
『無我や、無我所を知って!』、
『阿羅漢』を、
『得たように!』、
『菩薩』も、
是のように、
『阿耨多羅三藐三菩提』中には、
『我も、我所も!』、
『無いのである!』。
譬えば、
『鳥が、虚空を飛べば!』、
『足跡』が、
『無いように!』、
『菩薩の句義』も、
是のように、
『諸法の虚空中を行じる!』ので、
『依止する処も、著す処も!』、
『無い!』ので、
是の故に、
『菩薩の句義』は、
『無い!』と、
『言ったのである!』、と。
問曰。何等是菩薩句義。 問うて曰く、何等か、是れ菩薩の句義なる。
問い、
『菩薩の句義』とは、何のようなものですか?
答曰。天竺語法眾字和合成語。眾語和合成句。如菩為一字提為一字。是二不合則無語。若和合名為菩提。秦言無上智慧。薩埵或名眾生。或是大心。為無上智慧故出大心名為菩提薩埵。願欲令眾生行無上道。是名菩提薩埵。 答えて曰く、天竺の語法は、衆字和合して語を成じ、衆語和合して句を成ず。菩を一字と為し、提を一字と為すに、是の二合せざれば、則ち語無く、若し和合すれば名づけて菩提と為すが如きを、秦には、『無上の智慧』、と言う。薩埵を或は衆生と名づけ、或は是れ大心にして、無上の智慧の為めの故に、大心を出すを名づけて菩提薩埵と為し、願いて、『衆生をして、無上道を行ぜしめん』と欲すれば、是れを菩提薩埵と名づく。
答え、
『天竺の語法』は、
『衆字が和合して!』、
『語』を、
『成し!』、
『衆語が和合して!』、
『句』を、
『成す!』が、
例えば、
『菩の一字と、提の一字』と、
是の、
『二字が和合しなければ!』、
『語』は、
『無く!』、
『和合すれば!』、
『菩提を称して!』、
秦には、
『無上の智慧』と、
『称する!』、
『薩埵』とは、
或は、
『衆生』と、
『称する!』が、
或は、
『大心』とも、
『称し!』、
『無上の智慧の為め!』の故に、
『大心を出す( to show magnanimity )!』者を、
『菩提薩埵』と、
『称し!』、
『衆生に無上道を行じさせたい!』と、
『願う!』者を、
『菩提薩埵』と、
『称する!』。
  薩埵(さった):梵語 sattva の訳、存在/実在( being, existence, entity, reality )、本質/性質/気質/性格( true essence, nature, disposition of mind, character )、精神( spiritual essence, spirit, mind )、活力/生命/意識/性格の強さ/強さ/堅固さ/精力/決意/勇気/自制/良識/智慧/寛大さ( vital breath, life, consciousness, strength of character, strength, firmness, energy, resolution, courage, self- command, good sense, wisdom, magnanimity )の義、敵味方に関係なく親切にして寛大な態度( behaviour that is kind, generous and forgiving, especially towards an enemy of a rival )の意。
復次此品佛及佛弟子。種種因緣說菩薩摩訶薩義。菩提一語薩埵一語。二語和合故名為義。若說名字語句皆同一事無所在。今須菩提問以何定相法為菩薩句義。天竺言波陀。秦言句。是波陀有種種義。如後譬喻中說。 復た次ぎに、此の品の仏及び仏弟子は、種種の因縁もて、菩薩摩訶薩の義を説きたもうに、菩提の一語と薩埵の一語の二語和合するが故に名づけて義と為す。若し名字、語句を説けば、皆同一事にして、所在無し。今、須菩提の問えるは、『何なる定相の法を以って、菩薩の句義と為すや』、となり。天竺に『波陀』と言うは、秦には『句』と言う。是の波陀にも種種の義有り、後の譬喻中に説けるが如し。
復た次ぎに、
此の品の、
『仏や仏弟子は、種種の因縁を用いて!』、
『菩薩摩訶薩の義』を、
『説かれている!』が、
『菩提の一語、薩埵の一語の、二語が和合する!』が故に、
是れを、
『義』と、
『称されるのであり!』、
若し、
『名字の語句を説けば!』、
皆、
『空という!』、
『同一事であり!』、
此の、
『語句の所在』は、
『無いのである!』。
今、
『須菩提』は、こう問うた――
何のような、
『定相の法』が、
『菩薩の句義なのか?』、と。
『句義』とは、
『天竺に言う!』
『波陀( pada )』を、
秦に、
『句』と、
『言うのである!』が、
此の、
『波陀に有る!』、
『種種の義』は、
後の、
『譬喻』中に、
『説く通りである!』。
  所在(しょざい):其のある所。ありか。すみか。
  波陀(ぱだ):梵語 pada の音訳、語句と訳す。一歩/足跡/足( a step, footstep, mark, the foot itself )、印/特徴( a sign, token, characteristic )、地位/住居( a position, rank, station, abode, home )、一部/部分( a part, portion, division )の義、一連の韻文の一句/一行/一部( a portion of a verse, quarter or a line of stanza )、一語( a word )の意。『大智度論巻44下注:句』参照。
  名為(みょうい):梵語 aakhyaayate の訳、~と呼ばれる/列挙される( to be called or enumerated )の義。
問曰。但以鳥飛虛空足明句義。何以種種廣說。 問うて曰く、但だ鳥の虚空を飛ぶを以って、句義を明せば足るに、何を以ってか、種種に広説したもう。
問い、
但だ、
『鳥が虚空を飛ぶ!』という、
『譬喻を用いれば!』、
『句義を明かす!』に、
『足る!』のに、
何故、
『種種の譬喻を用いて!』、
『広説されたのですか?』。
答曰。眾生聽受種種不同。有好義者。有好譬喻者。譬喻可以解義。因譬喻心則樂著。如人從生端政加以嚴飾益其光榮。此譬喻中多以譬喻明義如後所說。所謂如夢如影如響如佛所化。是事虛誑如先說菩薩義亦如是。但可耳聞虛誑無實。以是故菩薩不應自高。 答えて曰く、衆生の聴受は種種に同じからずして、義を好む者有り、譬喻を好む者有り。譬喻は以って義を解すべきも、譬喻に因りて、心則ち楽著す。人の生ずるより端政なるに、加うるに厳飾を以ってすれば、其の光栄を益すが如し。此の譬喻中には多く、譬喻を以って義を明かすこと、後の所説の如し。謂わゆる『夢の如く、影の如く、響の如く、仏の所化の如し』とは、是の事の虚誑なること先に説けるが如し。菩薩の義も亦た是の如く、但だ耳に聞くべくも、虚誑にして実無し。是を以っての故に、菩薩は応に自ら高ぶるべからず。
答え、
『衆生の聴受は種種であり、同じでない!』ので、
『義を好む者も有り!』、
『譬喻を好む者も有る!』。
『譬喻を用いて!』、
『義』を、
『理解することもでき!』、
『譬喻に因って!』、
『心』が、
『楽著する( should be delightful )!』ので、
譬えば、
『人が、生まれなながらに端政であっても!』、
『厳飾』を、
『加えれば!』、
其の、
『光栄』を、
『益すようなものである!』。
此の、
『譬喻』中には、
『後の所説のように!』、
『譬喻を用いて義を明かすのが、多い!』。
謂わゆる、
『夢、影、響、仏の所化のように!』とは、
是の、
『事が、虚誑である!』のは、
『先に、説いた通りであり!』、
『菩薩の義も、是のように!』、
但だ、
『耳に聞こえるだけであり!』、
『虚誑であり、実が無い!』ので、
是の故に、
『菩薩』は、
『自ら、高ぶるべきではない!』。
  聴受(ちょうじゅ):梵語 zravaNa の訳、聞く行為( the act of hearing )の義、聞いて知識を獲得すること/学習( acquiring knowledge by hearing, learning, study )の意。
  楽著(らくじゃく):梵語 abhiram の訳、喜ぶ/楽しむ( to delight in, to please )の義。
  端政(たんじょう):梵語 abhiruupa の訳、凜々しい/美丈夫な/美しい( handsome, beautiful )の義。
  厳飾(ごんじき):梵語 maNDana の訳、装飾/装飾品( adorning, ornament, decoration )の義。
  光栄(こうよう):名誉/栄光( honor, glory )。
如法性法相實際等句無有定義。如幻人無五眾乃至諸佛法。如佛無五眾乃至一切法。如有為法中無無為法。如無為法中無有為法。無為法不生不滅等。諸法中無不生不滅相亦無異相。如三十七品無清淨相。何以故。有人著是三十七品法。即是結使。 如、法性、法相、実際等の句も、定義有ること無きこと、幻人に五衆乃至諸仏法無きが如く、仏に五衆乃至一切法無きが如く、有為法中に無為法無きが如く、無為法中に有為法無きが如し、無為法の不生、不滅等なればなり。諸法中に不生、不滅の相無く、亦た異相無きこと、三十七品に清浄相無きが如し。何を以っての故に、有る人は是の三十七品の法に著すれば、即ち是れ結使なればなり。
『如、法性、法相、実際等の句義』に、
『定義』が、
『無い!』のは、
譬えば、
『幻人』に、
『五衆乃至諸仏法』が、
『無く!』、
『仏』に、
『五衆乃至一切法』が、
『無く!』、
『有為法』中に、
『無為法』が、
『無く!』、
『無為法』中に、
『有為法』が、
『無いようなものである!』。
何故ならば、
『無為法』は、
『不生、不滅等だからである!』。
『諸法』中に、
『不生、不滅』の、
『相』が、
『無く!』、
亦た、
『異相( other characteristics )』が、
『無い!』のは、
例えば、
『三十七品』に、
『清浄相』が、
『無いようなものである!』。
何故ならば、有る人はこう言っている、――
是の、
『三十七品の法に著する!』のも、
『即ち、結使だからである!』、と。
  異相(いそう):梵語 anya-lakSaNa の訳、別の特徴( other or different characteristic )の義。
如我乃至知者見者淨相不可得。 我乃至知者、見者の浄相は不可得なるが如し。
『我乃至知者、見者』の、
『浄相』が、
『得られないようなものである!』とは、――
問曰。我乃至知者見者等云何淨。 問うて曰く、我乃至知者、見者等にして、云何が浄なる。
問い、
『我乃至知者、見者』等が、
何故、
『浄なのですか?』。
答曰。種種求覓我相不可得。是名我淨第一義中無淨無不淨。譬如洗臭死狗乃至皮毛血肉骨髓都盡。是時非狗非豬。不得言淨不得言不淨。我乃至知者見者亦如是。以無我空智慧求我相不可得是時非有我非無我。 答え、種種に我相を求覓するも不可得なれば、是れを我の浄と名づけ、第一義中には浄無く、不浄無し。譬えば臭き死狗の乃至皮毛、血肉、骨髄を洗うて、都(すべ)て尽せば、是の時狗に非ず、豬に非ずして、浄と言うを得ず、不浄と言うを得ざるが如し。我乃至知者、見者も亦た是の如く、無我の空智慧を以って我相を求むれば不可得にして、是の時我有るに非ず、我無きに非ず。
答え、
『我相』を、
『種種に求覓しても( if you had sought after by many kind of means )!』、
『不可得ならば!』、
是れを、
『我が浄である!』と、
『称する!』が、
『第一義』中には、
『浄も、不浄も!』、
『無い!』。
譬えば、
『臭い死狗』の、
『乃至皮毛、血肉、骨髄まで洗って!』、
『都て、尽せば!』、
是の時、
『狗でも、豬でもなくなり!』
『浄とも、不浄とも!』、
『言えないようなものである!』。
『我乃至知者、見者』も、
是のように、
『無我や空の智慧を用いて!』、
『我相を求めれば!』、
『不可得であり!』、
是の時、
『我』は、
『有るのでも、無いのでもない!』。
如日出無闇劫盡時無一切物。如佛五眾戒中破戒不可得。如日月星宿真珠等諸天鬼神龍王光。於佛光中則不現。從大福德神通力生故。菩薩句義亦如是。入是般若波羅蜜智慧光中則不現。因是譬喻教諸菩薩當學一切法不取相。無所得故 日出に闇無く、劫尽の時に一切の物無きが如く、仏の五衆の戒中に破戒は不可得なるが如く、日月星宿、真珠等、諸天鬼神龍王の光の、仏光中に於いては則ち現れざるは、大福徳の神通力より生ずるが故なるが如し。菩薩の句義も亦た是の如く、是の般若波羅蜜の智慧光中に入れば、則ち現れず。是の譬喻に因りて、諸菩薩に教うれば、当に一切法を学ぶも、相を取らざるべし、無所得なるが故なり。
譬えば、
『日が出れば!』、
『闇』が、
『無くなり!』、
『劫の尽きる!』時には、
『一切の物』が、
『無くなるように!』、
譬えば、
『仏の五衆中の戒』中に、
『破戒』が、
『不可得であるように!』、
譬えば、
『日月、星宿、真珠等や、諸天、鬼神、龍王の光』が、
『大福徳の神通力より生じたが故の、仏光』中には、
『現れないように!』、
『菩薩の句義』も、
是のように、
是の、
『般若波羅蜜の智慧光中に入れば!』、
『即ち、現れないのである!』が、
是の、
『譬喻に因って!』、
『諸菩薩に教えれば!』、
『一切法を学びながら!』、
『相を取るはずがない!』。
何故ならば、
『一切法』は、
『無所得だからである!』。



【經】一切法の意味

【經】須菩提白佛言。世尊。何等是一切法。云何一切法中無礙相應學應知。 須菩提の仏に白して言さく、『世尊、何等か、是れ一切法なる。云何が一切法中の無礙の相を応に学ぶべく、応に知るべきや』、と。
『須菩提』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
何のようなものが、
『一切法ですか?』、
何故、
『一切法中の無礙の相』を、
『学んで、知らねばならないのですか?』。
  参考:『大般若経巻46』:『爾時具壽善現白佛言。世尊。何者是一切法。而勸諸菩薩摩訶薩。於此一切法皆無所有無礙無著。應學應知。佛告善現。一切法者。謂善法非善法。有記法無記法。世間法出世間法。有漏法無漏法。有為法無為法。共法不共法。善現。是名一切法。諸菩薩摩訶薩於此一切法皆無所有無礙無著。應學應知具壽善現白佛言。世尊。云何善法。佛告善現。謂孝順父母。供養沙門婆羅門。敬事師長。施性福業事。戒性福業事。修性福業事。供侍病者俱行福。方便善巧俱行福。十善業道。所謂。離斷生命。離不與取。離欲邪行。離虛誑語。離離間語。離麤惡語。離雜穢語。無貪無瞋。正見。有十種想。所謂[月*逢]脹想。膿爛想。異赤想。青瘀想。破壞想。啄噉想。離散想。骸骨想。焚燒想。一切世間不可樂想。四靜慮。四無量。四無色定。有十隨念。所謂佛隨念。法隨念。僧隨念。戒隨念。捨隨念。天隨念。入出息隨念。寂靜隨念。死隨念。身隨念。善現。此等名善法。具壽善現白佛言。世尊。云何不善法。佛告善現。謂十不善業道。即斷生命。不與取。欲邪行。虛誑語。離間語。麤惡語。雜穢語。貪欲。瞋恚。邪見。及忿恨。覆惱。諂誑。矯害。嫉慳慢等。善現。此等名不善法。具壽善現白佛言。世尊。云何有記法。佛告善現。即諸善法及不善法。名有記法。具壽善現白佛言。世尊。云何。無記法。佛告善現。謂無記身業。無記語業。無記意業。無記四大種。無記五根。無記六處。無記無色法。無記五蘊。無記十二處。無記十八界。無記異熟法。善現。此等名無記法。具壽善現白佛言。世尊。云何世間法。佛告善現。謂世間五蘊。十二處。十八界。十業道。四靜慮。四無量。四無色定。十二支緣起法。善現。此等名世間法。具壽善現白佛言。世尊。云何出世間法。佛告善現。謂出世間四念住。四正斷。四神足。五根。五力。七等覺支。八聖道支。空解脫門。無相解脫門。無願解脫門。未知當知根。已知根。具知根。有尋有伺三摩地。無尋唯伺三摩地。無尋無伺三摩地。明解脫。念正知。如理作意。』
佛告須菩提。一切法者。善法不善法記法無記法世間法出世間法有漏法無漏法有為法無為法共法不共法。須菩提。是名為一切法。菩薩摩訶薩是一切法無礙相中應學應知。 仏の須菩提に告げたまわく、『一切法とは善法、不善法、記法、無記法、世間法、出世間法、有漏法、無漏法、有為法、無為法、共法、不共法なり。須菩提、是れを名づけて、一切法と為し、菩薩摩訶薩は、是の一切法を、無礙相中に応に学ぶべく、応に知るべし』、と。
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
『一切法』とは、
『善法と不善法、記法と無記法であり!』、
『世間法と出世間法、有漏法と無漏法であり!』、
『有為法と無為法、共法と不共法とである!』。
須菩提!
是れが、
『一切法であり!』、
『菩薩摩訶薩』は、
是の、
『一切法』を、
『無礙の相』中に於いて、
『学び、知らねばならない!』、と。
須菩提白佛言。世尊。何等名世間善法。 須菩提の仏に白して言さく、『世尊、何等か、世間の善法と名づくる』、と。
『須菩提』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
何のようなものが、
『世間の善法なのですか?』、と。
佛告須菩提。世間善法者。孝順父母。供養沙門婆羅門。敬事尊長。布施福處。持戒福處。修定福處。勸導福事。方便生福德。世間十善道。九相。脹相血相壞相膿爛相青相噉相散相骨相燒相。四禪四無量心四無色定。念佛念法念僧念戒念捨念天念善念安般念身念死。是名世間善法。 仏の須菩提に告げたまわく、『世間の善法とは、父母に孝順なること、沙門、婆羅門を供養すること、尊長を敬事すること、布施の福処、持戒の福処、修定の福処に福事を勧導すること、方便もて福徳を生ずること、世間の十善道、九相なる脹相、血相、壊相、膿爛相、青相、噉想、散相、骨相、焼相、四禅、四無量心、四無色定、念仏、念法、念僧、念戒、念捨、念天、念善、念安般、念身、念死、是れを世間の善法と名づく。
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
『世間の善法』とは、
『父母に孝順であること!』、
『沙門、婆羅門を供養すること!』、
『尊長を敬事すること!』、
『布施、持戒、修定の福処に於いて、福事に勧導すること!』、
『方便を用いて、福徳を生じさせること!』、
『世間の十善道』、
『九相、謂わゆる脹相、血相、壊相、膿爛相、青相、噉想、散相、骨相、焼相』、
『四禅、四無量心、四無色定』、
『念仏、念法、念僧、念戒、念捨、念天、念善、念安般、念身、念死であり!』、
是れを、
『世間の善法』と、
『称する!』。
  福処(ふくじょ):福報の因を種える処。布施等の福処なるを云う。
  敬事(きょうじ):敬い、代って仕事をする。
  福事(ふくじ):福を招く行為。
  勧導(かんどう):梵語 samaadaapana の訳、励起する/誘因する/教導する( excitation, instigation )の義。
何等不善法。奪他命。不與取。邪婬。妄語。兩舌。惡口。非時語。貪欲。惱害。邪見。是十不善道等。是名不善法。何等記法。若善法若不善法。是名記法。 何等か不善法なる。他の命を奪う、与えざるを取る、邪淫、妄語、両舌、悪口、非時語、貪欲、悩害、邪見、是の十不善道等、是れを不善法と名づく。何等か記法なる。若しは善法、若しは不善法、是れを記法と名づく。
何のようなものが、
『不善法なのか?』、――
『他の命を奪うこと!』、
『与えられないのに取ること!』、
『邪淫、妄語、両舌、悪口、非時語、貪欲、悩害、邪見』、
是の、
『十不善道等』が、
『不善法である!』。
何のようなものが、
『記法なのか?』、――
『善法と、不善法』が、
『記法である!』。
何等無記法。無記身業口業意業。無記四大。無記五眾十二入十八界。無記報。是名無記法。 何等か無記法なる。無記の身業、口業、意業、無記の四大、無記の五衆、十二入、十八界、無記の報、是れを無記法と名づく。
何のようなものが、
『無記法なのか?』、――
『無記の身業、口業、意業』、
『無記の四大!』、
『無記の五衆、十二入、十八界』、
『無記の報』、
是れが、
『無記法である!』。
何等名世間法。世間法者。五眾十二入十八界十善道。四禪四無量心四無色定。是名世間法。 何等か世間法と名づく。世間法とは、五衆、十二入、十八界、十善道、四禅、四無量心、四無色定、是れを世間法と名づく。
何のようなものが、
『世間法なのか?』、――
『世間法』とは、
『五衆、十二入、十八界』、
『十善道』、
『四禅、四無量心、四無色定』、
是れが、
『世間法である!』。
何等名出世間法。四念處四正懃四如意足五根五力七覺分八聖道分。空解脫門無相解脫門無作解脫門。三無漏根。未知欲知根。知根。知已根。三三昧有覺有觀三昧無覺有觀三昧無覺無觀三昧。明解脫念慧正憶 何等か出世間法と名づくる。四念処、四正勤、四如意足、五根、五力、七覚分、八聖道分、空解脱門、無相解脱門、無作解脱門、三無漏根なる未知欲知根、知根、知已根、三三昧なる有覚有観三昧、無覚有観三昧、無覚無観三昧、明、解脱、念、慧、正憶なり。
何のようなものが、
『出世間法なのか?』、――
『四念処、四正勤、四如意足、五根五力、七覚分、八聖道分』、
『三三昧の空解脱門、無相解脱門、無作解脱門』、
『三無漏根の未知欲知根、知根、知已根』、
『三三昧の有覚有観三昧、無覚有観三昧、無覚無観三昧』、
『明、解脱、念、慧、正憶である!』。
八背捨。何等八。色觀色。是初背捨。內無色相外觀色。是二背捨。淨背捨身作證。是三背捨。過一切色相故。滅有對相故。一切異相不念故。入無邊虛空處。是四背捨。過一切無邊虛空處入一切無邊識處。是五背捨。過一切無邊識處入無所有處。是六背捨。過一切無所有處入非有想非無想處。是七背捨。過一切非有想非無想處入滅受想定。是八背捨。 八背捨とは何等かの八なる。色にして色を観る、是れ初の背捨なり。内に色相無く、外に色を観る、是れ二背捨なり。浄背捨の身に証を作す、是れ三背捨なり。一切の色相を過ぐるが故に有対相を滅するが故に、一切の異相を念ぜざるが故に無辺虚空処に入る、是れ四背捨なり。一切無辺虚空処を過ぎて一切無辺識処に入る、是れ五背捨なり。一切無辺識処を過ぎて無所有処に入る、是れ六背捨なり、一切無所有処を過ぎて非有想非無想処に入る、是れ七背捨なり。一切非有想非無想処を過ぎて滅受想定に入る、是れ八背捨なり。
『八背捨』とは、何のような八か?――
『内の色を用いて!』、
『外の色を観れば!』、
是れが、
『初背捨である!』。
『内に色相が無いままに!』、
『外の色を観れば!』、
是れが、
『二背捨である!』。
『浄背捨の身で!』、
『証を作せば!』、
是れが、
『三背捨である!』。
『一切の色相を過ぎる!』が故に、
『有対の相を滅する!』が故に、
『一切の異相を念じない!』が故に、
『無辺虚空処』に、
『入れば!』、
是れが、
『四背捨である!』、
『一切の無辺虚空処を過ぎて!』、
『一切無辺識処に入れば!』、
是れが、
『五背捨である!』。
『一切の無辺識処を過ぎて!』、
『無所有処に入れば!』、
是れが、
『六背捨である!』。
『一切の無所有処を過ぎて!』、
『非有想非無想処に入れば!』、
是れが、
『七背捨である!』。
『一切の非有想非無想処を過ぎて!』、
『滅受想定に入れば!』、
是れが、
『八背捨である!』。
  参考:『大般若経巻46』:『有八解脫。謂有色觀諸色。是初解脫。內無色想觀外色。是第二解脫。淨解脫身作證。是第三解脫。超一切色想。滅有對想不思惟種種相。入無邊空。空無邊處具足住。是第四解脫。超一切空無邊處。入無邊識。識無邊處具足住。是第五解脫。超一切識無邊處。入無所有。無所有處具足住。是第六解脫。超一切無所有處。入非想非非想處具足住。是第七解脫。超一切非想非非想處。入滅想受定具足住。是第八解脫。有九次第定。謂離欲惡不善法。有尋有伺離生喜樂。入初靜慮具足住。是初定。尋伺寂靜內等淨心一趣性。無尋無伺定生喜樂。入第二靜慮具足住。是第二定。離喜住捨具念正知身受樂聖說住捨具念樂住。入第三靜慮具足住。是第三定。斷樂斷苦先喜憂沒不苦不樂捨念清淨。入第四靜慮具足住。是第四定。超一切色想滅有對想不思惟種種想。入無邊空。空無邊處具足住。是第五定。超一切空無邊處。入無邊識。識無邊處具足住。是第六定。超一切識無邊處。入無所有。無所有處具足住。是第七定。超一切無所有處。入非想非非想處具足住。是第八定。超一切非想非非想處。入滅想受定具足住。是第九定。內空。外空。內外空。空空。大空。勝義空。有為空。無為空。畢竟空。無際空。散空。無變異空。本性空。自相空。共相空。一切法空。不可得空。無性空。自性空。無性自性空。六到彼岸。五眼。六神通。佛十力。四無所畏。四無礙解。大慈大悲。大喜大捨。十八佛不共法。一切智。道相智。一切相智。善現。此等名出世間法。具壽善現白佛言。世尊。云何有漏法。佛告善現。世間。五蘊。十二處。十八界。四靜慮。四無量。四無色定。所有一切墮三界法。善現。是名有漏法。具壽善現白佛言。世尊。云何無漏法。佛告善現。謂出世間四靜慮。四無量。四無色定。四念住。四正斷。四神足。五根。五力。七等覺支。八聖道支。三解脫門。六到彼岸。五眼。六神通。佛十力。四無所畏。四無礙解。大慈大悲。大喜大捨。十八佛不共法。一切智。道相智。一切相智。善現。此等名無漏法。具壽善現白佛言。世尊。云何有為法。佛告善現。謂欲界繫法。色界繫法。無色界繫法。五蘊。四靜慮。四無量。四無色定。四念住。四正斷。四神足。五根。五力。七等覺支。八聖道支。三解脫門。六到彼岸。五眼。六神通。佛十力。四無所畏。四無礙解。大慈大悲。大喜大捨。十八佛不共法。一切智。道相智。一切相智。所有一切有生。有住。有異。有滅法。善現。是名有為法。具壽善現白佛言。世尊。云何無為法。佛告善現。若法無生無住無異無滅可得。所謂貪盡。瞋盡。癡盡。真如。法界。法性。法住。法定。不虛妄性。不變異性。離生性。平等性。實際。善現。此等名無為法。具壽善現白佛言。世尊。云何共法。佛告善現。謂世間四靜慮。四無量。四無色定。五神通。善現。此等名共法。何以故。共異生故。具壽善現白佛言。世尊。云何不共法。佛告善現。謂無漏四靜慮。四無量。四無色定。四念住。四正斷。四神足。五根。五力。七等覺支。八聖道支。三解脫門。六到彼岸。五眼。六神通。佛十力。四無所畏。四無礙解。大慈大悲。大喜大捨。十八佛不共法。一切智道。相智。一切相智。善現。此等名不共法。何以故。不共異生故。善現。諸菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多時。於如是等自相空法。不應執著。何以故。以諸法自相不可分別故。善現。諸菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多時。應以無二而為方便覺一切法。何以故。以一切法無動相故。善現。於一切法無二無動是菩薩句義。以是故。無句義是菩薩句義』
九次第定。何等九。離欲離惡不善法。有覺有觀離生喜樂入初禪。滅諸覺觀內清淨故。一心無覺無觀定生喜樂入第二禪。離喜故行捨受身樂聖人能說能捨念行樂入第三禪。斷苦樂故先滅憂喜故。不苦不樂捨念淨入第四禪。過一切色相故。滅有對相故。一切異相不念故。入無邊虛空處。過一切無邊虛空處入一切無邊識處。過一切無邊識處入無所有處。過一切無所有處入非有想非無想處。過一切非有想非無想處入滅受想定。 九次第定とは何等か九なる。欲を離れ、悪不善法を離れ、有覚有観、離生喜楽の初禅に入り、諸覚観を滅して内に清浄なるが故に一心に無覚無観、定生喜楽の、第二禅に入り、諸覚観を滅して内に清浄であるが故に一心、無覚無観、定生喜楽の第二禅に入り、喜を離るるが故に捨を行じて、身楽を受くる聖人にして、能く説(よろこ)んで能く捨念し、楽を行ずる第三禅に入り、苦楽を断ずるが故に先に憂喜を滅するが故に、不苦不楽の捨にして念浄く、第四禅に入り、一切色相を過ぐるが故に有対の相を滅するが故に、一切の異相を念ぜざるが故に、無辺虚空処に入り、一切の無辺虚空処を過ぎて一切の無辺識処に入り、一切の無辺識処を過ぎて無所有処に入り、一切の無所有処を過ぎて非有想非無想処に入り、一切の非有想非無想処を過ぎて滅受想定に入る。
『九次第定』とは、何のような九なのか?――
『欲、悪不善法を離れて!』、
『有覚有観、離生喜楽の初禅』に、
『入り!』、
『諸覚観を滅して、内に清浄となる!』が故に、
『一心、無覚無観、定生喜楽の第二禅』に、
『入り!』、
『喜を離れる!』が故に、
『捨を行じて、身楽を受ける聖人』の、
『能悦、能捨念、行楽の第三禅』に、
『入り!』、
『苦楽を断じる!』が故に、
『先に憂喜を滅した!』が故に、
『不苦不楽の捨であり、念が浄い第四禅』に、
『入り!』、
『一切の色相を過ぎる!』が故に、
『有対の相を滅する!』が故に、
『一切の異相を念じない!』が故に、
『無辺虚空処』に、
『入り!』、
『一切の無辺虚空処を過ぎて!』、
『一切無辺識処』に、
『入り!』、
『一切の無辺識処を過ぎて!』、
『無所有処』に、
『入り!』、
『一切の無所有処を過ぎて!』、
『非有想非無想処』に、
『入り!』、
『一切の非有想非無想処を過ぎて!』、
『滅受想定』に、
『入るのである!』。
  離生喜楽(りしょうきらく):梵語 viveka-jaM priiti-sukham の訳、離より生じた喜楽( joy or pleasure born from separation )の意。
  定生喜楽(じょうしょうきらく):梵語 samaadhi-jaM priiti-sukham の訳、定より生じた喜楽( joy or pleasure born from meditation )の意。
  (えつ):悦に同じ。
復有出世間法。內空乃至無法有法空。佛十力四無所畏四無礙智十八不共法一切智。是名出世間法。 復た出世間法有り、内空乃至無法有法空、仏の十力、四無所畏、四無礙智、十八不共法、一切智、是れを出世間法と名づく。
復た、
『出世間法が有り!』、
『内空乃至無法有法空と!』、
『仏の十力、四無所畏、四無礙智、十八不共法、一切智』、
是れが、
『出世間法である!』。
何等為有漏法。五受眾十二入十八界六種六觸六受四禪乃至四無色定。是名有漏法。何等為無漏法。四念處乃至十八不共法。及一切種智。是名無漏法。 何等をか有漏法と為す、五受衆、十二入、十八界、六種、六触、六受、四禅乃至四無色定、是れを有漏法と名づく。何等をか無漏法と為す、四念処乃至十八不共法、及び一切種智、是れを無漏法と名づく。
何のようなものが、
『有漏法なのか?』、――
『五受衆、十二入、十八界、六種(地水火風空識)、六触、六受と!』、
『四禅乃至四無色定』、
是れが、
『有漏法である!』。
何のようなものが、
『無漏法なのか?』、――
『四念処乃至十八不共法と!』、
『一切種智』、
是れが、
『無漏法である!』。
何等為有為法。若法生住滅。欲界色界無色界。五眾乃至意觸因緣生受。四念處乃至十八不共法及一切智。是名有為法。何等為無為法。不生不住不滅。若染盡瞋盡癡盡如不異。法相法性法住實際。是名無為法。 何等をか、有為法と為す、法の生、住、滅の若(ごと)き、欲界、色界、無色界の五衆乃至意触因縁生の受、四念処乃至十八不共法、及び一切智、是れを有為法と名づく。何等をか、無為法と為す、不生不住不滅にして染尽き、瞋尽き、癡尽くるが如の若きと、不異の法相、法性、法住、実際、是れを無為法と名づく。
何のようなものが、
『有為法なのか?』、――
『生、住、滅する法のような!』、
『欲界、色界、無色界の五衆乃至意触因縁生の受と!』、
『四念処乃至十八不共法と!』、
『一切智』、
是れが、
『有為法である!』。
何のようなものが、
『無為法なのか?』、――
『不生、不住、不滅である!』、
『染、瞋、癡の尽きた如などと!』、
『不異( unchangable )の法相、法性、法住、実際』、
是れが、
『無為法である!』。
何等為共法。四禪四無量心四無色定。如是等是名共法。何等為不共法。四念處乃至十八不共法。是名不共法。 何等をか共法と為す。四禅、四無量心、四無色定、是れ等の如き、是れを共法と名づく。何等をか、不共法と為す、四念処乃至十八不共法、是れを不共法と名づく。
何のようなものが、
『共法なのか?』、――
『四禅、四無量心、四無色定』、
是れ等のようなものが、
『共法である!』。
何のようなものが、
『不共法なのか?』、――
『四念処乃至十八不共法』、
是れが、
『不共法である!』。
菩薩摩訶薩於是自相空法中不應著。不動故。菩薩亦應知一切法不二相。不動故。是名菩薩義 菩薩摩訶薩は、是の自相空の法中に於いて、応に著すべからず、動ぜざるが故なり。菩薩は亦た応に一切法の不二の相なるを知るべし、動ぜざるが故なり。是れを菩薩の義と名づく。
『菩薩摩訶薩』は、
是の、
『自相空』の、
『法』中に、
『著すはずがない!』、
何故ならば、
『心』が、
『動かされないからである!』。
『菩薩』も、
亦た、
『一切法』は、
『不二の相である!』と、
『知るはずである!』、
何故ならば、
『心』が、
『動かされないからである!』。
是れが、
『菩薩の義である!』。



【論】一切法の意味

【論】問曰。須菩提何以故。先問世間善法。後問出世間法。 問うて曰く、須菩提は、何を以っての故にか、先に世間の善法を説いて、後に出世間の法を問える。
問い、
『須菩提』は、
何故、
先に、
『世間の善法』を、
『問うて!』、
後に、
『出世間の法』を、
『問うたのですか?』。
答曰。先問麤後當問細。先知世間相後則能知出世間相。 答えて曰く、先に麁を問うて、後に当に細を問うべし。先に世間の相を知れば、後に則ち能く出世間の相を知ればなり。
答え、
先に、
『麁』を、
『問うてから!』、
後に、
『細』を、
『問うべきである!』。
何故ならば、
先に、
『世間の相』を、
『知っていれば!』、
後に、
『出世間の相』を、
『知ることができるからである!』。
世間善法者。知有罪有福果報有今世後世。有世間有涅槃。有佛等諸賢聖今世後世及諸法實相證。所謂孝順父母等。乃至十念如法得物。供養供給沙門婆羅門。沙門名為出家求道人。婆羅門名為在家學問人。是二人於世間難為能為。利益眾生故應當供養。 世間の善法とは、罪有り、福の果報有り、今世、後世有り、世間有り、涅槃有り、仏等の諸賢聖有りて、今世、後世に、及び諸法の実相を証すと知る。謂わゆる父母に孝順する等、乃至十念、如法に物を得、沙門、婆羅門を供養供給するなり。沙門を名づけて、出家の求道人と為し、婆羅門を名づけて、在家の学問人と為す。是の二人は、世間に於いて、為し難きを能く為し、衆生を利益するが故に、応当に供養すべし。
『世間の善法』とは、――
『罪福の果報が有り、今世も後世も有り、世間も涅槃も有り!』、
『仏等の諸賢聖が有り、今世後世を諸法の実相に及ぶまで証される!』と、
是のように、
『知ることである!』。
謂わゆる、
『父母に孝順する等、乃至十念であり!』、
『如法に物を得て、沙門、婆羅門を供養、供給することである!』。
『沙門』とは、
『出家』の、
『求道の人であり!』、
『婆羅門』とは、
『在家』の、
『学問の人である!』が、
是の、
『二人は世間の、為し難きを為すことができ!』、
『衆生を利益する!』が故に、
『供養すべきである!』。
尊長者叔伯姊兄等。恭敬供養。是一切修家法。布施持戒修定勸導如初品中說。 尊長とは、叔伯、姉兄等なり。恭敬供養とは、是れ一切の修家の法なり。布施、持戒、修定、勧導は初品中に説けるが如し。
『尊長』とは、
『叔伯や!』、
『姉兄等である!』。
『恭敬供養』とは、
『家を修める為め!』の、
『一切の法である!』。
『布施、持戒、修定、勧導』は、
『初品』中に、
『説いた通りである!』。
方便生福德。如懺悔隨喜請佛久住不涅槃轉法輪。如雖行空不著空還修行諸善。如是等方便生諸福德。十善道乃至四無色如先說。 方便生の福徳とは、懺悔、随喜、請仏、久住、不涅槃、転法輪の如き、空を行ずと雖も空に著せずして還って諸善を修行するが如き、是れ等の如きは、方便生の諸福徳なり。十善道、乃至四無色は先に説けるが如し。
『方便生の福徳』とは、
例えば、
『懺悔、随喜、請仏や!』、
『仏の久住、不涅槃、転法輪であり!』、
例えば、
『空を行じながら、空に著することなく!』、
『還って、諸善法を修行することであり!』、
是れ等が、
『方便生の福徳である!』。
『十善道、乃至四無色』は、
『先に!』、
『説いた通りである!』。
十念中八事如先說。善念者。思惟分別善業因緣制伏其心。 十念中の八事は、先に説けるが如し。善念とは、善業の因縁を思惟分別して、其の心を制伏するなり。
『十念』中の、
『八事(念仏、念法、念僧、念戒、念捨、念天、念安般、念死)』は、
『先に説いた通りである!』。
『善念』とは、
『善業の因縁を思惟、分別して!』、
『行者の心を制伏することである!』。
復次涅槃是真善法。常繫心念涅槃。是善念。身念即是身念處。與善法相違是名不善法。 復た次ぎに、涅槃は是れ真の善法にして、常に心を繋けて、涅槃を念ずれば、是れ善念なり。身念とは、即ち是れ身念処なり。善法と相違すれば、是れを不善法と名づく。
復た次ぎに、
『涅槃』は、
『真の善法であり!』、
『常に心を繋けて、涅槃を念じること!』、
是れが、
『善念である!』。
『身念』とは、
即ち、
『身念処である!』。
『善法』と、
『相違する!』のが、
『不善法である!』。
無記法者。所謂威儀心。工巧心。變化心。及是起身業口業除善不善五眾。餘五眾及虛空非數緣滅等。 無記法とは、謂わゆる威儀の心、工巧の心、変化の心、及び是の起す身業、口業と、善、不善の五衆を除く餘の五衆、及び虚空、非数縁滅等なり。
『無記法』とは、
謂わゆる、
『威儀の心、工巧の心、変化の心』と、
是の、
『心の起す!』、
『身業、口業と!』、
『善、不善の五衆を除く!』、
『餘の五衆』と、
『虚空、非数縁滅等である!』。
  威儀(いぎ):梵語 iiryaapatha の訳、四威儀/身の四種の態度(即ち行、住、坐、臥)( the four positions of the body (viz. going, standing upright, sitting and lying down) )の意。
  工巧(くぎょう):梵語 zilpa の訳、手工芸/技術( manual art or craft )の義。
  変化(へんげ):◯梵語 vikR, vikurute の訳、変異/変化させる/形或は心を変えさせる( to make different, transform, change the shape (or the mind), cause to alter or change )の義。◯梵語 vikRta, pariNata, vyaakRta の訳、変化した( transformed, changed )の義。◯梵語 nirmaaNa の訳、形造る( forming, creating, making )の義、化導( transformation )の意。
  参考:『阿毘曇毘婆沙論巻5』:『善者能緣三種。善染污不隱沒無記。染污能緣三種。善染污不隱沒無記。善報無記心緣三種。善染污不隱沒無記。不善報無記無展轉緣。所以者何。意地無不善報無記。如說頗業身受受報非心耶。答曰。有諸不善業威儀無記心展轉相緣。其事云何。答曰。威儀有二種。一是威儀。二是威儀心。威儀者謂色香味觸。威儀心者能起威儀心是也。四識是威儀方便。非起威儀心。意識是威儀方便。亦是起威儀心。彼四識能緣威儀。不能緣起威儀心。意識能緣威儀亦能緣起威儀心。復有說者。因威儀心更生意識。能緣十二入。是能展轉相緣。工巧無記心展轉相緣。其事云何。答曰。工巧有二種。一是工巧。二是工巧心。工巧謂色聲香味觸。工巧心者能起工巧心者是。五識是工巧方便。非起工巧心。意識是工巧方便。亦是起工巧心。五識能緣工巧。不能緣起工巧心。意識能緣工巧。亦能緣起工巧心。復有說者。因工巧心更生意識。能緣十二入。是能展轉相緣邪見。』
世間法者。五眾或善或不善或無記。十二入八無記四三種。十八界八無記十三種。十善道四禪四無量心四無色定。是善法。凡夫人能得能成就故。又自不能出世間故名為世間法。 世間法とは、五衆の或は善、或は不善、或は無記と、十二入の八無記と、四の三種と、十八界の八の無記と、十の三種となり。十善道、四禅、四無量心、四無色定は是れ善法なるも、凡夫人の能く得、能く成就するが故に、又自ら世間を出だすこと能わざるが故に名づけて、世間法と名づく。
『世間法』とは、
『善、不善、無記の五衆と!』、
『八種の無記、四種の善、不善、無記の十二入と!』、
『八種の無記、十種の善、不善、無記の十八界である!』。
『十善道と、四禅、四無量心、四無色定は善法である!』が、
『凡夫人』が、
『得て( to obtain )!』、
『成就する( to accomplish )ことができる!』が故に、
又、
『自らを!』、
『世間より出すことができない!』が故に、
是れを、
『世間法』と、
『称するのである!』。
  参考:『衆事分阿毘曇論巻2』:『此十二入幾有記。幾無記。謂八無記。四分別。色入。或有記。或無記。云何有記。謂善不善色入。云何無記。謂除善不善色入。諸餘色入。如色入。聲入意入法入亦如是‥‥此十二入。幾善不善無記。謂八無記。四分別。色入。或善不善無記。云何善。謂善身作。云何不善。謂不善身作。云何無記。謂除善不善身作色。餘身作色。聲入。或善不善無記。云何善。謂善口聲。云何不善。謂不善口聲。云何無記。謂除善不善口聲。諸餘口聲。意入。或善不善無記。云何善。謂善意思惟相應意入。云何不善。謂不善意思惟相應意入。云何無記。謂無記意思惟相應意入。法入。或善不善無記。云何善。謂法入所攝善身口業善受陰想陰行陰及數滅。云何不善。謂法入所攝不善身口業不善受陰想陰行陰。云何無記。謂法入所攝無記受陰想陰行陰及虛空非數滅』
出世間法者。三十七品三解脫門三無漏根三三昧如先說。明解脫。明者三明。解脫者有為解脫無為解脫。念者十念。慧者十一智慧。正憶者。隨諸法實相觀。如隨身法觀一切善法之本。 出世間法とは、三十七品、三解脱門、三無漏根、三三昧にして先に説けるが如し。明、解脱とは、明とは三明なり。解脱とは有為解脱と無為解脱となり。念とは、十念なり。慧とは十一の智慧なり。正憶とは、諸法の実相に随いて、如を観じ、身法に随いて一切の善法の本を観る。
『出世間法』とは、
『三十七品、三解脱門、三無漏根、三三昧であり!』、
『先に説いた通りである!』。
『明、解脱、念、慧』とは、
『明は、三明であり!』、
『解脱は、有為解脱と無為解脱とである!』。
『念は、十念であり!』、
『慧は、十一智慧であり!』、
『正憶』とは、
『諸法の実相に随って!』、
『如』を、
『観じ!』、
『身法に随って!』、
『一切の善法の本である!』と、
『観じることである!』。
  三明(さんみょう):無学位の三事に通達無礙なるを云う。『大智度論巻16下注:三明』参照。
  有為解脱(ういげだつ):無学阿羅漢の正見相応の勝解の意。『大智度論巻18下注:解脱』参照。
  無為解脱(むいげだつ):択滅涅槃を云う。『大智度論巻18下注:解脱』参照。
復次八背捨九次第定十八空。十力四無所畏十八不共法。如先義中廣說。是四念處等一心為道故。又八背捨九次第定等。凡夫人所不得。名為出世間。念慧正憶雖有二種世間出世間。此中說出世間 復た次ぎに、八背捨、九次第定、十八空、十力、四無所畏、十八不共法は先の義中に広説せるが如し。是の四念処等の一心は道の為めの故なり。又八背捨、九次第定等は、凡夫人の得ざる所なれば、名づけて出世間と為す。念、慧、正憶は二種の世間、出世間有りと雖も、此の中には出世間を説く。
復た次ぎに、
『八背捨、九次第定、十八空、十力、四無所畏、十八不共法』は、
先の、
『義』中に、
『広説された通りである!』。
是の、
『四念処』等の、
『一心』は、
『皆、道の為めである!』が故に、
又、
『八背捨、九次第定』等は、
『凡夫人』には、
『得られない!』が故に、
是れを、
『出世間』と、
『称する!』。
『念、慧、正憶』には、
『世間、出世間の二種が有る!』が、
此の中は、
『出世間』が、
『説かれている!』。
有漏法者。五眾等四禪四無量四無色定。無漏法者。非世間。是四念處乃至十八不共法。有為法略說三相。所謂生住滅。三界繫乃四念處乃至十八不共法。雖為無為法。以作法故是為有為法。與有為相違。是為無為法。 有漏法とは、五衆等、四禅、四無量、四無色定なり。無漏法とは非世間にして、是れ四念処乃至十八不共法なり。有為法は略説すれば三相にして、謂わゆる生、住、滅にして、三界繋なり。乃び四念処乃至十八不共法は無為法と為すと雖も、作法なるを以っての故に是れを有為法と為す。有為と相違すれば、是れを無為法と為す。
『有漏法』とは、
『五衆等と!』、
『四禅、四無量、四無色定である!』。
『無漏法』とは、
『非世間法であり!』、
『四念処、乃至十八不共法である!』。
『有為法は、略説すれば!』、
『三相、謂わゆる生、住、滅相であり!』、
『三界繋である!』。
及び、
『四念処乃至十八不共法は、無為法と為されている!』が、
『作法である!』が故に、
『有為法である!』。
『有為と相違する!』、
『法』は、
『無為法である!』。
復次滅三毒等諸煩惱。五眾等不次第相續。如法相法性法住實際等。是名無為法。 復た次ぎに、三毒等の諸煩悩を滅したる五衆等の次第に相続せざる如、法相、法性、法住、実際等、是れを無為法と名づく。
復た次ぎに、
『三毒等の諸煩悩を滅して!』、
『五衆等が、次第に相続することのない!』、
『如、法相、法性、法住、実際』等、
是れを、
『無為法』と、
『称する!』。
問曰。色如色不離如如不離色。色是有為云何是無為。 問うて曰く、色の如は、色は如を離れず、如は色を離れざれば、色は是れ有為なるに、云何が是れ無為なる。
問い、
『色の如』は、
『色』は、
『如』を、
『離れることなく!』、
『如』は、
『色』を、
『離れない!』。
『色が有為である!』のに、
何故、
是の、
『如』が、
『無為なのですか?』。
  参考:『大智度論巻51含受品』:『以是故佛說。凡夫人法虛誑無實。雖復肉眼所見。與畜生無異。是不可信。是故說諸法無來無去無住處亦無動。何者是。所謂色色法色如色性色相。色名眼見事。未分別好醜實不實自相他相。色法名無常生滅不淨等。色如名色和合有。如水沫不牢固離散則無。虛偽無實但誑人眼。色現在如是。過去未來亦爾。如現在火熱。比知過去未來亦如是。復次如諸佛觀色相畢竟清淨空。菩薩亦應如是觀。色眼法色如何因緣不如凡夫人所見。性自爾故。此性深妙。云何可知。以色相力故可知。如火以煙為相見煙則知有火。今見眼色無常破壞苦惱麤澀相。知其性爾。此五法不去不來不住如先說。乃至無為無為法如性相。不來不去不住亦如是』
答曰。色有二種。一者凡夫肉眼憶想分別色。二者聖人心所知色。實相如涅槃。 答えて曰く、色には二種有り、一には凡夫の肉眼の憶想分別する色、二には聖人の心の所知なる色の実相にして涅槃の如きなり。
答え、
『色には二種有り!』、
一には、
『凡夫の肉眼が憶想、分別する!』、
『色であり!』、
二には、
『聖人の心の所知であり!』、
『涅槃のような色の実相である!』。
凡夫人所知色名為色。是色入如中更不生不滅。如有為雖是五眾。而有種種名字。所謂十二入十八界因緣等。無為法雖有三種。亦種種分別名字。所謂如法相法住實際等。 凡夫人の所知の色を名づけて色と為し、是の色は如中に入れば、更に不生不滅なり。有為は是れ五衆なりと雖も、種種の名字の謂わゆる十二入、十八界、因縁等有るが如く、無為法は三種有りと雖も、亦た種種に名字を分別し、謂わゆる如、法相、法住、実際等なり。
『凡夫人の知る!』所の、
『色』を、
『色』と、
『称するのである!』が、
是の、
『色』は、
『如中に入れば!』、
『更に生、滅することはない!』。
例えば、
『有為』は、
『五衆でありながら!』、
謂わゆる、
『十二入、十八界、因縁等のような!』、
『種種の名字が有るように!』、
『無為法』は、
『数縁滅、非数縁滅、虚空という!』、
『三種』、
『有りながら!』、
種種に、
『名字』を、
『分別する!』ので、
謂わゆる、
『如、法相、法住、実際等』が、
『有る!』。
共法者。凡夫聖人生處入定處共故。名為共法。不共法者。四念處乃至十八不共法。 共法とは、凡夫と聖人の生処、入定の処は共なるが故に名づけて、共法と名づけ、不共法とは、四念処乃至十八不共法なり。
『共法』とは、
『凡夫や、聖人』の、
『生処や、入定の処』は、
『共通である( being in common )!』が故に、
是れを、
『共法』と、
『称し!』、
『不共法』は、
『聖人のみ!』の、
『四念処、乃至十八不共法である!』。
  共法(ぐうほう):梵語 saha-dharma の訳、共有の法( a dharma owned in common )の義。
  不共法(ふぐうほう):梵語 aaveNika-dharma の訳、他と共有せざる法( a dharma not owned in common )の義。
菩薩分別知此諸法各各相。是法皆從因緣和合生故無性。無性故自性空。菩薩住是無障礙法中不動。以不二入法門。入一切法不動故
大智度論卷第四十四
菩薩は、此の諸法の各各相を分別して、『是の法は皆、因縁和合より生ずるが故に無性なり。無性なるが故に自性は空なり』、と知り、菩薩は、是の無障礙の法中に住して不動なり。不二入の法門を以って、一切法に入れば不動なるが故なり。
大智度論巻第四十四
『菩薩』は、
此の、
『諸法の各各相を分別して!』、こう知る、――
是の、
『法』は、
『皆、因縁和合より生じる!』が故に、
『無性であり!』、
『無性である!』が故に、
『自性』が、
『空である!』、と。
『菩薩』が、
是の、
『無障礙の法中に住すれば!』、
『心』が、
『動かない!』のは、
『不二入の法門より、一切法に入る!』が故に、
『心』が、
『動かないからである!』。

大智度論巻第四十四


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