【論】問曰。須菩提何以故以是事問佛。若人問幻人學般若波羅蜜得作佛不。應答言不得。幻人虛誑無有本末。是事易答。何以故問佛。 |
問うて曰く、須菩提は何を以っての故にか、是の事を以って仏に問える、『若し人、幻人も般若波羅蜜を学べば、仏と作るを得や不や、と問えば、応に答えて、得ずと言うべしや』、と。幻人は虚誑にして本末有ること無ければ、是の事は答え易きに、何を以っての故にか、仏に問える。 |
問い、
『須菩提』は、
何故、
是の、
『事』を、
『仏に問うたのですか?』、――
若し、
『人』が、
『幻人でも般若波羅蜜を学べば、仏と作ることができるのか?』と、
『問えば!』、
『答えて!』、
『仏と作ることはできない!』と、
『答えればよいのですか?』、と。
『幻人』は、
『虚誑であり!』、
『本も、末も!』、
『無い!』ので、
是の、
『事』は、
『答え易いのに!』、
何故、
『仏』に、
『問うたのですか?』。
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答曰。上品佛答舍利弗甚深空義。須菩提作是念。諸法一相無分別。若爾者幻人及實菩薩無異。而菩薩行諸功德得作佛。幻人無實但誑人眼不能作佛。 |
答えて曰く、上の品に、仏は舎利弗に甚だ深き空義を答えたまえるに、須菩提は是の念を作さく、『諸法は一相にして分別無し。若し爾らば、幻人及び実の菩薩に異無し。而るに菩薩は諸功徳を行じて、仏と作るを得、幻人は実無く、但だ人の眼を誑すのみなれば、仏と作る能わず』、と。 |
答え、
上の品に、
『仏』が、
『舎利弗』に、
『甚だ深い空義を答えられた!』ので、
『須菩提』は、こう念じたのである、――
若し、爾うならば、――
『幻人も、実の菩薩も!』、
『異』が、
『無いはずである!』が、
而し、
『菩薩』は、
『諸功徳を行じて!』、
『仏と作ることができ!』、
『幻人』は、
『実が無く、但だ人の眼を誑すだけなので!』、
『仏と作ることができないのだが?』、と。
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問曰。幻人不能行功德。以無心識云何言行。 |
問うて曰く、幻人の功徳を行ずる能わざるは、心識無きを以ってなるに、何んが行ずと言う。 |
問い、
『幻人』は、
『心識が無い!』ので、
『功徳』を、
『行じることができない!』が、
何故、
『行じる( be making its merits perfect )!』と、
『言うのですか?』。
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行(ぎょう):梵語 saMs√(kR) の訳、形作る( to put together, form well )の義、身を飾る/磨きをかける/完全にする(
to adorn, embellish, refine, elaborate, make perfect )の意。 |
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答曰。雖實不行人見似行故名為行。如幻人以飲食財物七寶布施出家。持戒忍辱精進坐禪說法等。無智人謂是為行不知是幻。 |
答えて曰く、実に行ぜずと雖も、人は、行に似たるを見るが故に名づけて、行と為す。幻人の飲食、財物、七宝を以って布施するが如し。出家の持戒、忍辱、精進、坐禅、説法等も、無智の人は、是れを謂いて、行と為すは、是れを幻と知らざればなり。 |
答え、
『実は、行じていない!』のに、
『人』は、
『行に似たものを見る!』が故に、
『行と称するのである!』。
譬えば、
『幻人』が、
『飲食、財物、七宝』を、
『布施するようなものである!』のに、
『出家の持戒、忍辱、精進、坐禅、説法』等を、
『無智の人』が、
是れを、
『行である!』と、
『謂う!』のは、
是れが、
『幻である!』と、
『知らないからである!』。
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須菩提作是念。若如佛說諸法一相無所有但是虛誑。幻人及實菩薩乃至佛等無有異。如幻人亦幻作佛行六波羅蜜。降魔兵坐道場。成佛道放光明說法度人。實菩薩行實道得作佛度眾生有何差別。佛言我還問汝隨汝意答我。 |
須菩提の是の念を作さく、『若し仏の説きたもうが如く、諸法は一相、無所有にして、但だ是れ虚誑なれば、幻人及び実の菩薩乃至仏は等しく、異有ること無し。幻人の亦た仏を幻作して、六波羅蜜を行じ、魔兵を降し、道場に坐して、仏道を成じ、光明を放ち、説法して人を度すが如く、実の菩薩の実の道を行じて、仏と作るを得、衆生を度するに、何なる差別か有る』、と。仏の言わく、『我れ還って、汝に問わん。汝が意に随いて、我れに答えよ』、と。 |
『須菩提』は、こう念じた、――
若し、仏が説かれたように、――
『諸法』が、
『一相、無所有であって!』、
『但だ、虚誑でしかなければ!』、
『幻人と実の菩薩乃至仏』は、
『皆、等しく!』、
『異が無いはずである!』。
譬えば、
『幻人』が、
亦た( and moreover )、
『仏を幻作して、六波羅蜜を行じたり!』、
『魔兵を降して、道場に坐したり!』、
『仏道を成じて、光明を放ったり!』、
『法を説いて、人を度したりする!』のと、
『実の菩薩』が、
『実の道を行じて!』、
『仏と作ることができ!』、
『衆生を度す!』のと、
何のような、
『差別』が、
『有るのか?』、と。
『仏』は、こう言われた、――
わたしは、
『還って( in return )!』、
『お前に問おう!』。
お前は、
『お前の意のままに!』、
『わたしに答えよ!』、と。
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問曰。佛何以不直答。而還問令隨意答。 |
問うて曰く、仏は何を以ってか、直ちに答えたまわず、還って問うて、意に随いて答えしむ。 |
問い、
『仏』は、
何故、
『直ちに!』、
『答えられず!』、
『問を還して( to give a question in return )!』、
『意のままに!』、
『答えさせたのですか?』。
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答曰。須菩提以空智慧觀三界五眾皆空。心生厭離諸煩惱習故。雖能總相知諸佛法空。猶有所貴。不能觀佛法如幻無所有。以是故方喻說。如汝以五眾空為證。諸佛法亦爾。汝觀世間五眾為空。我觀佛法亦爾。 |
答えて曰く、須菩提は、空の智慧を以って三界、五衆は皆空なりと観て、心に厭離を生ずるも、諸の煩悩の習の故に、能く総相もて、諸仏の法の空なるを知ると雖も、猶お貴ぶ所有りて、仏法の幻の如く、無所有なるを観る能わず。是を以っての故に方(まさ)に喻を説くべし、『汝が、五衆の空を以って証と為すが如く、諸の仏法も亦た爾り。汝は世間の五衆を観て、空と為すも、我れ仏法を観れば、亦た爾り』、と。 |
答え、
『須菩提』は、
『空の智慧を用いて!』、
『三界の五衆は皆空である、と観て!』、
『心に、厭離を生じた!』が、
『諸煩悩の習』の故に、
『総相を用いて!』、
『諸仏の法も空である、と知りながら!』、
『猶お、貴ぶ所が有り!』、
『仏法は、幻のように無所有である!』と、
『観ることができない!』ので、
是の故に、
『方に喻を用いて説かれたのである( be going to explain with an analogy )』、――
お前が、
『五衆は空である!』と、
『証を為すように( being certain of )!』、
亦た、
『諸仏の法』も、
『その通りなのである!』。
お前は、
『世間の五衆は、空である!』と、
『観る!』が、
わたしは、
『仏法も、爾うである!』と、
『観るのである!』、と。
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方(ほう):まさに~す。且く。将に。先づ~して。be going to, will, shall。 |
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是故問須菩提於汝意云何。色與幻有異不。幻與色有異不。乃至受想行識亦如是。若異者汝應問。若不異不應作是問。須菩提言不異。 |
是の故に須菩提に問いたまわく、『汝が意に於いて云何。色と幻とには異有りや不や。幻と色とには異有りや不や。乃至受想行識も亦た是の如く、若し異なれば、汝は応に問うべし。若し異ならざれば、応に是の問を作すべからず』、と。須菩提の言わく、『異ならず』、と。 |
是の故に、
『須菩提』に、こう問われた、――
お前の意には、何うなのか?――
『色と幻とには、異が有るのか?』、
『幻と色とには!』、
『異が有るのか?』。
乃至、
『受想行識』も、
『是のように!』、
若し、
『色と幻とが、異ならば!』、
お前は、
『当然、問うべきであり!』、
若し、
『異でなければ!』、
是の、
『問』を、
『作してはならない!』、と。
『須菩提』は、こう言った、――
『色と幻とは!』、
『異ならない!』、と。
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問曰。若色不異幻可爾。幻人有色故云何言受想行識如幻不異。 |
問うて曰く、若しは色の幻と異ならざるは、爾るべし。幻人にも色有るが故なり。云何が、『受想行識も、幻の如きに異ならず』、と言う。 |
問い、
若し、
『色』が、
『幻と異らない!』とは、
『爾うだろう!』。
『幻人』にも、
『色』が、
『有るからである!』が、
何故、こう言うのか?――
『受想行識』も、
『幻など!』と、
『異らない!』、と。
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答曰。幻人有喜樂憂苦相。無智人見謂為有受想行識。 |
答えて曰く、幻人にも喜楽憂苦の相有れば、無智の人は見て、謂いて受想行識有りと為す。 |
答え、
『幻人にも!』、
『喜楽、憂苦の相』が、
『有る!』ので、
『無智の人が見て!』、
『受想行識が有る!』と、
『謂うのである!』。
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復次佛譬喻欲令人知五受眾虛誑如幻。五受眾雖與幻無異。佛欲令解故為作譬喻。眾生謂幻是虛誑五受眾雖有與幻無異。是故須菩提一心籌量知五眾與幻無異。 |
復た次ぎに、仏の譬喻は、人をして、『五受衆は虚誑にして、幻の如し』、と知らしめんと欲したもう。五受衆は幻と異無しと雖も、仏は解せしめんと欲したもうが故に、為めに譬喻を作したまえば、衆生は、『幻は、是れ虚誑なり、五受衆は有りと雖も、幻と異無し』、と謂えば、是の故に、須菩提は、一心に籌量して、『五衆は、幻と異無し』、と知る。 |
復た次ぎに、
『仏が譬喻された!』のは、
『人』に、こう知らそうとされたからである、――
『五受衆( the fife aggregates of human being )』は、
『幻のように!』、
『虚誑であ!』、と。
『五受衆は、幻と異らない!』が、
『仏』は、
『幻と異らないこと!』を、
『理解させようとされ!』、
『衆生の為め!』に、
『譬喻』を、
『作されたのである!』。
『衆生』は、
『幻は虚誑であるが、五受衆は有る!』と、
『謂う!』が、
『五受衆』は、
『幻』と、
『異が無い!』ので、
是の故に、
『須菩提は、一心に籌量して!』、こう知った、――
『五衆( the five aggregates )』も、
『幻と異が無い!』、と。
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五受衆(ごじゅしゅ):梵語 paJca- upaadaana- skandha の訳、受け取った五衆の部分( the five perceived
aggregates or divisions or parts )の義。衆生の五衆( the five aggregates of living
being )、衆生の五種の構成要素( the five constituent elements of being )の意。衆生の色受想行識。
五衆(ごしゅ):梵語 paJca- skandha の訳、五種の部分( the five divisions or parts or aggregates
)の義。法としての色受想行識。
五陰(ごおん):梵語 paJca- skandha の訳、五衆に同じ。 |
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所以者何。如幻人色誑肉眼能令生憂喜苦樂。五受眾亦能誑慧眼。令生貪欲瞋惱諸煩惱等。如幻因少許咒術物事語言為本。能現種種事城郭廬觀等。五受眾亦以先世少許無明術因緣。有諸行識名色等種種。以是故說不異。 |
所以は何んとなれば、幻人の色は、肉眼を誑して、能く憂喜苦楽を生ぜしむるが如く、五受衆も亦た能く慧眼を誑して、貪欲、瞋悩の諸煩悩等を生ぜしむ。幻の少許りの咒術、物事、語言を本と為すに因りて、能く種種の事の城郭、廬観等を現わすが如く、五受衆も亦た先世の少許りの無明の術の因縁を以って、諸の行、識、名色等の種種有り。是を以っての故に『異ならず』、と説く。 |
何故ならば、
『幻人の色』が、
『肉眼を誑して!』、
『憂喜、苦楽』を、
『生じさせるように!』、
『五受衆』も、
『慧眼を誑して!』、
『貪欲、瞋悩、諸の煩悩』等を、
『生じさせ!』、
『幻』が、
『少許りの咒術、物事、語言を本と為す!』が故に、
『種種の事や、城郭、廬観』等を、
『現わさせるように!』、
『五受衆』も、
『先世の少許りの無明の術の因縁』の故に、
『諸の行、識、名色等の種種』を、
『有らせる!』ので、
是の故に、
『異らない!』と、
『説くのである!』。
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如人見幻事生著心。廢其生業。幻滅時生悔。五受眾亦如是。先業因緣幻生今五眾。受五欲生貪瞋。無常壞時心乃生悔。我云何著是幻五眾失諸法實相。 |
人の幻事を見て著心を生じ、其の生業を廃するに、幻の滅する説き悔を生ずるが如く、五受衆も亦た是の如く、先業の因縁より、今の五衆を幻生し、五欲を受けて貪瞋を生じ、無常の壊るる時に心乃ち悔を生ず、『我れは云何が、是の幻の五衆に著して、諸法の実相を失える』、と。 |
『人が、幻事を見て!』、
『著心を生じ!』、
其の、
『生業』を、
『廃したとしても!』、
『幻が滅する!』時には、
『悔』を、
『生じるように!』、
『五受衆』も、
是のように、
『先業の因縁』が、
『今の五衆を幻生して( to raise up the present five aggregates )!』、
『五欲を受け!』、
『貪瞋を生じ!』、
『無常の五衆が壊れる!』時に、
乃ち( at last )、
『心に、悔を生じることになる!』、――
わたしは、
何故、
是の、
『幻の五衆に著して!』、
『諸法の実相を失ったのだろう?』、と。
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幻生(げんしょう)、幻作(げんさ):梵語 niSpanna, abhiniSpanna の訳、現れた/湧き出た/生じた( gone forth, sprung up,
arisen )の義、引き起こす( to bring about )の意。 |
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佛問須菩提樂說門故答言幻與色不異。若不異是色法即是空入不生不滅法中。法若不生不滅。云何行般若波羅蜜得作佛。 |
仏の須菩提に問いたまえるは、楽説門の故に答えて言わく、『幻は色と異ならず。若し異ならざれば、是の色法は、即ち是れ空にして、不生不滅の法中に入る。法が若し不生不滅なれば、云何が般若波羅蜜を行じて、仏と作るを得んや』、と。 |
『仏』が、
『須菩提に問われた!』のは、
『楽説門であった!』が故に、
『須菩提は答えて!』、こう言った、――
『幻は、色と異らない!』、
若し、
『異らなければ!』、
『色法は、即ち空であり!』、
『不生、不滅の法中に入ることになる!』。
若し、
『法が不生、不滅ならば!』、
何故、
『般若波羅蜜を行じて!』、
『仏と作ることができるのか?』、と。
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楽説(ぎょうせつ):梵語 pratibhaa, pratibhaana の訳、視野に入る/明白になる/心に映る( to come in sight,
become clear or manifest, appear to the mind )の義、義を明白にする( to manifest the
truth or meaning )の意。 |
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須菩提作是念。若爾者菩薩何以故。種種行道。求阿耨多羅三藐三菩提。佛知其念即答。五眾虛誑但以假名故號為菩薩。是假名中無業無業因緣。無心無心數法。無垢無淨畢竟空故。 |
須菩提の是の念を作さく、『若し爾らば、菩薩は何を以っての故にか、種種に道を行じて、阿耨多羅三藐三菩提を求むる』、と。仏は其の念を知りて、即ち答えたまわく、『五衆は虚誑にして、但だ仮名を以っての故に号して、菩薩と為し、是の仮名中には業無く、業の因縁無く、心無く、心数法無く、垢無く、浄無し。畢竟じて空なるが故なり』、と。 |
『須菩提』は、こう念じた、――
若し、爾うならば、
『菩薩』は、
何故、
『種種に道を行じながら!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『求めるのか?』、と。
『仏』は、
『須菩提の念を知って!』、即ちこう答えられた、――
『五衆』は、
『虚誑であり!』、
但だ、
『仮名』の故に、
『菩薩と号するだけである!』が、
是の、
『仮名』中には、
『業、業因縁、心、心数法、垢、浄』が、
『無いからであり!』、
是の、
『仮名』は、
『畢竟じて空だからである!』。
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佛言。菩薩應如幻人行般若波羅蜜。五眾即是幻人無異。從先世業因緣幻業出故。是五眾亦不能得成就佛。何以故。性無所有故。餘夢化影響等亦如是。 |
仏の言わく、『菩薩は、応に幻人の如く般若波羅蜜を行ずべし。五衆は即ち是れ幻人にして異無し。先世の業因縁より、幻業出づるが故に、是の五衆亦た仏を成就するを得る能わず。何を以っての故に、性の無所有なるが故なり。餘の夢、化、影、響等も亦た是の如し』、と。 |
『仏』は、こう言われた、――
『菩薩』は、
『幻人のように!』、
『般若波羅蜜を行じなければならない!』。
『五衆』とは、
『即ち、幻人であり!』、
『異が、無いからである!』。
『先世の業因縁より!』、
『幻の業』が、
『出るのである!』が故に、
是の、
『五衆』も、
『仏』を、
『成就することができない!』。
何故ならば、
『五衆の性』は、
『無所有だからである!』。
亦た、
『餘の夢、化、影、響』等も、
『是の通りである!』、と。
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問曰。何以故說識即是六情六情即是五眾。 |
問うて曰く、何を以っての故にか説かく、『識は即ち是れ六情、六情は即ち是れ五衆なり』、と。 |
問い、
何故、こう説かれたのですか?――
『識とは、六情であり!』、
『六情』とは、
『五衆である!』、と。
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答曰。是識十二因緣中第三事。是中亦有色亦有心數法未熟故受識名。從識生六入。是二時俱有五眾。色成故名五情。名成故名意情。六情不離五眾。以是故說識即是六情。 |
答えて曰く、是の識は、十二因縁中の第三事にして、是の中にも亦た色有り、心数法有るも、未だ熟さざるが故に識の名を受く。識より六入を生じて、是の二時には倶に五衆有り、色成ずるが故に五情と名づけ、名成ずるが故に意情と名づけ、六情は五衆を離れず。是を以っての故に説かく、『識は、即ち是れ六情なり』、と。 |
答え、
是の、
『識』は、
『十二因縁中の第三事であり!』、
是の中にも、
『色や心数法が有るが、未だ熟さない!』が故に、
『識の名』を、
『受けるのであり!』、
『識より、六入を生じる!』と、
是の、
『識、六入の二時』には、
『倶に、五衆が有り( both have the five aggregates )!』、
『色が成じる!』が故に、
『五情(眼耳鼻舌身情)』と、
『称し!』、
『名( 受想行識)が成じる!』が故に、
『意情』と、
『称する!』ので、
『六情』は、
『五衆』を、
『離れることがない!』。
是の故に、こう説くのである、――
『色とは!』、
『即ち、六情である!』、と。
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問曰。若爾者十二因緣中處處皆有五眾。何以但說六情有五眾。 |
問うて曰く、若し爾らば、十二因縁中の処処に、皆五衆有り。何を以ってか但だ六情に五衆有り、と説ける。 |
問い、
若し、爾うならば、
『十二因縁中の処処に、皆!』、
『五衆』が、
『有るはずだ!』が、
何故、
但だ、こう説くのですか?――
『六情』に、
『五衆が有る!』、と。
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答曰。是識今身之本。眾生於現在法中多錯。名色未熟未有所能故不說。六情受苦樂能生罪福故說。其餘十一因緣故說五眾。 |
答えて曰く、是の識は、今の身の本にして、衆生は現在の法中に多く錯(あやま)つ。名色は未だ熟さず、未だ能くする所有らざるが故に説かず。六情は苦楽を受けて、能く罪福を生ずるが故に説き、其の餘の十一因縁も、故(もと)より五衆を説く。 |
答え、
是の、
『識』は、
『今の身』の、
『本である!』が、
『衆生』は、
『現在の法(五衆中の識)である!』と、
『多く錯っている( many people misunderstand )!』ので、
――
『名色』は、
『未だ熟さず( being not yet ripe )!』、
『未だ所能が無い( have not possibilities )!』が故に、
是れに、
『五衆が有る!』と、
『説かず!』、
『六情( 六処)』は、
『苦楽を受けて!』、
『罪福を生じさせる!』が故に、
是れは、
『五衆である!』と、
『説く!』も、
『識の餘の十一因縁』も、
故より( of course )、
『五衆』を、
『説くのである!』。
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所能(しょのう):梵語 zakyataa の訳、功能( possibilities )の義。
十二因縁(じゅうにいんねん):十二種の因縁生起の意。具に十二支縁起dvaadazaaGga- pratiitya- samutpaada(巴梨語dvaadasaGga-
paTiicca- samuppaada)と云い、又十二縁起、十二縁生、或いは或いは十二因縁起とも名づく。即ち衆生が生死に流転する因果相依の関係を十二支に分類せるもの。十二支とは一に無明avidyaa、二に行saMskaara、三に識vijJaana、四に名色naama-
ruupa、五に六処SaD- aayatana、六に触sparza、七に受vedanaa、八に愛tRSNaa、九に取upaadaana、十に有bhava、十一に生jaati、十二に老死jaraa-
maraNaなり。「長阿含巻10大縁方便経」に、「阿難、此の十二因縁は見難く知り難し。諸天魔梵沙門婆羅門の未だ縁を見ざる者、若し思量観察して其の義を分別せんと欲せば、則ち皆荒迷しく能く見る者なし。阿難、我れ今汝に語る、老死に縁あり。若し問うて何等か是れ老死の縁なりやと言うものあらば、応に彼れに答えて生は是れ老死の縁なりと言うべし。若し復た問うて誰か是れ生の縁なると言わば、応に彼れに答えて有は是れ生の縁なりと言うべし。若し復た問うて誰か是れ有の縁なると言わば、応に彼れに答えて取は是れ有の縁なりと言うべし。若し復た問うて誰か是れ取の縁なると言わば、応に彼れに答えて愛は是れ取の縁なりと言うべし。若し復た問うて誰か是れ愛の縁なると言わば、応に彼れに答えて受は是れ愛の縁なりと言うべし。若し復た問うて誰か是れ受の縁なると言わば、応に彼れに答えて触は是れ受の縁なりと言うべし。若し復た問うて誰をか触の縁となすと言わば、応に彼れに答えて六入は是れ触の縁なりと言うべし。若し復た問うて誰をか六入の縁となすと言わば、応に彼れに答えて名色は是れ六入の縁なりと言うべし。若し復た問うて誰をか名色の縁となすと言わば、応に彼れに答えて識は是れ名色の縁なりと言うべし。若し復た問うて誰をか識の縁となすと言わば、応に彼れに答えて行は是れ識の縁なりと言うべし。若し復た問うて誰をか行の縁となすと言わば、応に彼れに答えて癡は是れ行の縁なりと言うべし。阿難、是の如く癡を縁として行あり、行を縁として識あり、識を縁として名色あり、名色を縁として六入あり、六入を縁として触あり、触を縁として受あり、受を縁として愛あり、愛を縁として取あり、取を縁として有あり、有を縁として生あり、生を縁として老死憂悲苦悩大患の所集あり。是れを此の大苦陰の縁となす」と云い、又「雑阿含経巻12」に、「仏比丘に告ぐ、縁起の法は我が所作に非ず、亦た余人の作にも非ず。然るに彼の如来出世するも、及び未だ出世せざるも法界常住なり。彼の如来は自ら此の法を覚して等正覚を成じ、諸の衆生の為に分別し演説し開発し顕示す。所謂此れ有るが故に彼れ有り、此れ起るが故に彼れ起る。謂わく無明を縁として行あり、乃至純大苦聚集あり。無明滅するが故に行滅し、乃至純大苦聚滅す」と云える是れなり。是れ即ち仏陀は自ら此の縁起の法を覚して等正覚を成じ、而して諸の衆生の為に此の法を分別し演説し、開発し顕示せられたるものなることを説けるものなり。然るに此の十二支縁起を解するに諸部の間に異説あり。「大毘婆沙論巻23」に説一切有部の説を挙げ、「云何が無明なる、謂わく過去の煩悩の位なり。云何が行なる、謂わく過去の業の位なり。云何が識なる、謂わく続生の心及び彼の助伴なり。云何が名色なる、謂わく結生し已りて未だ眼等の四種の色根起らず、六処未だ満ぜざる中間の五位なり。謂わく羯刺藍、頞部曇、閉尸、鍵南、鉢羅奢佉なり。是れ名色の位なり。云何が六処なる、謂わく已に四の色根を起して六処已に満ず、即ち鉢羅奢佉の位なり。眼等の諸根は未だ能く触の為に所依止と作らず、是れ六処の位なり。云何が触なる、謂わく眼等の根能く触の為に所依止と作ると雖も、而も未だ苦楽の差別を了知せず、亦た未だ諸の損害の縁を避くること能わず、火に触れ刀に触れ、毒を食し糞を食し、食と婬と具との愛猶お未だ現行せず、是れ触の位なり。云何が受なる、謂わく能く苦楽を別ち、亦た能く損害の縁を避け、火に触れ刀に触れず、毒を食し糞を食せず。已に食愛を起すと雖も、而も未だ婬及び具の愛を起さず、是れ受の位なり。云何が愛なる、謂わく已に食愛婬愛及び資具愛を起すと雖も、而も未だ此れが為に四方に追求して労倦を辞せざることをなさず、是れ愛の位なり。云何が取なる、謂わく三愛に由りて四方に追求し、多く危険を渉ると雖も而も労倦を辞せず。然れども未だ後有の為に善悪の業を起さず、是れ取の位なり。云何が有なる、謂わく追求する時亦た後有の為に善悪の業を起す、是れ有の位なり。云何が生なる、謂わく即ち現在の識の位の未来に在る時を生位と名づく。云何が老死なる、謂わく即ち現在の名色六処触受の位の未来に在る時を老死位と名づく」と云えり。是れ無明及び行の二を過去の因、識と名色、六処、触及び受の五を現在の果、愛と取及び有の三を未来の因、生及び老死の二を未来の果となせるものにして、即ち三世両重の因果と称せらるる説なり。就中、現在五果の熟するに至るまでの過去一切の煩悩を総じて無明と名づけ、亦た彼の無明力に由りて生ぜられたる過去一切の業を総じて行と名づく。此の二は即ち過去の因なり。現在五果の中、託胎時に於ける一刹那の意識と其の助伴とを識と名づけ、託胎後、眼耳鼻舌の四根未だ起らず、胎内に於ける羯刺藍等の五位を総じて名色と名づけ、眼等の六根已に満ずるも、未だ境識と和合せざる位を六処と名づけ、出胎の後、根は境識と和合するも未だ苦楽等の差別を了せず、損害の縁に遇うも自ら避くることを知らざるを嬰児時を触と名づけ、已に能く苦楽の因を了し、亦た食愛を生ずる幼少年時を受と名づく。次に未来三因の中、食愛婬愛及び資具愛を生ずる青年時を愛と名づけ、此の三愛増上して周遍馳求するを取と名づけ、更に当有の因たる善悪業を積集するを有と名づく。未来二果の中、中有の識が当有を結するを生と名づけ、現在の名色六処触受の異滅するを老死と名づけたるなり。又此の中、無明と愛及び取の三は煩悩を性とし、行及び有の二は業を性とし、余の識と名色、六処、触、受、生及び老死の七は事を以って性とす。前の五は是れ因、後の七は即ち果なり。総じて惑より業を生じ、業より事を生じ、是の如く循環相続して生死絶ゆることなきを明すの意なり。「倶舎論巻9」に此の十二支は欲界に於ける円満者に約して説けるものにして、中夭の者及び色無色界の有情は皆之を具するに非ずとなせり。即ち彼の論に「無明と行とは前際に在り、生と老死とは後際に在り、所余の八は中際に在り。此の中際の八は一切の有情此の一生に皆具に有りや不や、皆具に有なるに非ず。若し然らば何故に八支ありと説くや、円満の者に拠るなり。此の中の意は補特伽羅の一切の位を歴るものを説いて円満者と名づく。諸の中夭及び色無色に非ず。但だ欲界の補特伽羅に拠る」と云える是れなり。是れ中夭の者は愛取等を闕き、又色界には名色、無色界には名色及び六処を闕くに由るなり。但し「大毘婆沙論巻24」に両説あり、一説は今の如く、一説は色無色界にも亦た十二支を具すとなすなり。然るに凡そ縁起を論ずるに、刹那、連縛、遠続等の別あり。刹那とは一刹那の中に具に十二支の縁起ありとなすものにして、即ち今貪心を起して衆生の命を害せんとするに、此の貪と相応する癡は即ち無明、思は即ち行、諸の境界の事に於いて了別するは即ち識、識と倶なる三蘊は名色、名色に住する根は即ち六処、六処の余に対して和合するは触、触を領するは受、貪は即ち愛、之と相応する諸纏は即ち取、所起の身語二業は有、是の如き諸法の起るは生、変壊するは即ち老死なるが如き是れなり。又連縛とは単に一刹那に就くに非ず、無間に隣次し相続して縁起するを云い、遠続とは生を隔てて断ぜず、懸(はるか)に遠く十二支の相続縁起するを云うなり。此の中、説一切有部に於いては此等の刹那等を取らず、即ち仏は十二の分位に依りて十二支を建立せられたりとし、随って上に出せる如く無明等の一一の支に各色等の五蘊を具すとなせり。但し諸支皆各五蘊を具して其の体別なしと雖も、之に無明等の名を立つるは各其の諸位の中に於いて最も勝れたるものに就くが故なりとす。「倶舎論巻9」に、「伝許すらく、世尊は唯分位に約して諸の縁起に十二支ありと説く。若し支支の中に皆五蘊を具せば、何に拠りて但だ無明等の名を立つるや。諸位の中に無明等勝るるを以っての故に、勝に就きて無明等の名を立つ。謂わく若し位の中に無明最勝なれば、此の位の五蘊を総じて無明と名づく。乃至、位の中に老死最勝なれば、此の位の五蘊を総じて老死と名づく。故に体は総なりと雖も、名は別なること失なし」と云える其の意なり。然るに経部に於いては有部の分位説を以って経に違背すとなし、無明は唯過去の無智、行は唯福等の三業、乃至有は唯後有を招くの業を指すとなせり。「倶舎論巻9」に其の説を挙げ、「前所説の分位の縁起に十二の五蘊を十二支と為すことは契経に違背す。経には説を異にするが故なり。契経に説く如し、云何が無明と為す、謂わく前際の無智なりと。乃至広く説く。此れ了義の説なり。抑えて不了義と成さしむべからず。(中略)我れ今略して顕し経の義に符順すべし、謂わく諸の愚夫は縁生の法に於いて唯行なるを知らず、妄に我見及び我慢の執を起し、自ら楽と非苦楽とを受けんが為の故に、身等の各三種の業を造作す。謂わく自身に当の楽を受けんが為の故に諸の福業を造り、当来の楽と非苦楽とを受くるが故に不動業を造り、現の楽を受くるが故に非福業を造る。是の如きを名づけて無明が行に縁たりと為す。引業の力に由りて、識相続して流るること火焔の行くが如し。彼彼の趣に往きて中有に憑附し、所生に馳せ赴きて生有の身を結するを、行が識に縁たりと名づく。若し此の釈を作さば、善く契経に識支を分別して六識に通ぜしむるに順ず。識を先と為すが故に此の趣の中に於いて名色生ずることあり、五蘊を具足し展転相続して一期の生に遍ず。大因縁と辯縁起等の諸経に於いて皆是の如き説あるが故なり。是の如く名色漸く成熟する時、眼等の根を具するを説きて六処と為す。次に境と合すれば便ち識生ずることあり、三和するが故に順楽等の触あり、此に依りて便ち楽等の三受を生じ、此の三受より三愛を引生す。謂わく苦逼るに由りて楽受に於いて欲愛を発生することあり、或いは楽と非苦楽との受に於いて色愛を発生することあり、或いは唯だ非苦楽受に於いて無色愛を生ずることあり。受を欣う愛より欲等の取を起す。(中略)取は謂わく欲貪なり。故に薄伽梵は諸経の中に釈す、云何が取と為す、所謂欲貪なりと。取を縁と為すに由りて種種の後有を招くの業を積集するを説きて名づけて有と為す。世尊の阿難陀に告げて言うが如し、後有を招くの業を説きて名づけて有と為すと。有を縁と為すが故に、識相続して流れて未来の生に趣き、前の道理の如く五蘊を具足するを説きて名づけて生となす。生を以って縁と為して便ち老死あり。其の相の差別は広く説くこと経の如し」と云えり。以って其の説の大猷を見るべし。又大乗唯識宗に於いては十二支を以って唯一重の因果を説けるものとなし、就中、無明乃至有の十支は因、生及び老死の二支は果にして必ず同世に非ず、因の十の中、前の無明等の七と愛取有の三とは或いは異世或いは同世なるが故に、世には二世又は三世の別を生ずと雖も、唯一重の因果を説けるものなりとし、更に中に於いて能引支所引支及び能生支所生支の四種を分別せり。即ち「成唯識論巻8」に、「十二支を略摂して四となす、一に能引支は謂わく無明と行となり、能く識等の五種の果を引くが故なり。此の中、無明は唯能く正しく後世を感ずる善悪の業を発する者のみを取るなり。即ち彼の所発を乃ち名づけて行となす。此に由るに一切の順現受業と別助当業とは皆行支に非ず。二に所引支は謂わく本識内の、親しく当来の異熟果の摂たる識等の五を生ずべき種なり。是れ前の二支に引発せらるるが故なり。此の中、識の種とは謂わく本識の因なり。後の三因を除きて余の因は皆是れ名色の種の摂なり。後の三因は名の次第の如く即ち後の三の種なり。或いは名色の種に総じて五因を摂す、中に於いて勝なるに随って余の四種を立つ。六処と識との総別も亦た然り。(中略)三に能生支は謂わく愛と取と有となり。近く当来の生と老死を生ずるが故なり。謂わく内の異熟果に迷う愚に縁りて正しく能く後有を招く諸業を発し、縁となりて親しく当来の生老死の位の五果を生ずべき種を引発し、已りて復た外の増上果に迷う愚に依りて境界受を縁じて貪愛を発起し、愛を縁じて復た欲等の四取を生ず。愛と取と合して潤し、能引の業種及び所引の因転ずるを名づけて有となす。倶に能く近く後有の果を有するが故なり。(中略)四に所生支とは謂わく生と老死となり。是れ愛と取と有とに近く生ぜらるるが故なり。謂わく中有より本有の中に至りて、未だ衰変せざる来は皆生支の摂なり。諸の衰変する位を総じて名づけて老となし、身壊し命終するを乃ち名づけて死となす」と云える其の説なり。此の中、無明とは総別業を引発する第六意識相応の癡煩悩を指し、行とは無明所発の善不善等の三業にして、即ち思を以って体となし、順現受業及び唯別報業を除き、余の総別報を感ずる業を指すなり。前の無明と共に種子及び現行に通ず。此の二は能引支なり。所引支の中、識とは異熟の第八識の親種を指し、現行に通ぜず。名色とは異熟蘊の種子たる名言種にして、即ち想蘊の全と、色蘊(根を除く)行蘊(触を除く)及び識蘊(本識を除く)の一分とを指す。六処とは内の六処の種子にして、即ち眼等の五根の種子及び第六無間滅の意の種子を指し、触とは異熟の触の種子にして、即ち第八及び第六識相応の触の種を云い、受とは異熟受の心所の種子にして、即ち第八及び第六識相応の受の種を云う。又能生支の中、愛とは第六相応の俱生の煩悩にして、正しく後有の身を縁じて起す潤生の愛を云い、取とは生死を執取する一切の煩悩にして、愛と共に種既に通ず。有とは能引の業種たる行支、及び所引の識等の五支の種子にして、即ち業種と名言種との二に通じ、愛取の二支に依りて当来の果を有するを云う。所生支の中、生とは異熟の五蘊にして、即ち識等の五果の現行して未だ衰変せざる間を云い、老死とは五蘊衰変し及び身壊して命終するを云うなり。又此の中、無明と行とを能熏、識等の五を所熏、愛等の三を能潤、生老死の二を所潤となすなり。是れ即ち十二支を以って唯一重の因果を示せるものなりとし、且つ無明等は唯発業の煩悩を取る等となせるものにして、説一切有部の分位説と其の旨大いに同じからざるを見るべし。蓋し十二縁起の説は生死の由りて起る所以を究め、無因不平等因等の邪執を捨てしむると同時に、亦た老病死憂悲苦悩の本たる無明を抜くを以って其の所期とす。故に仏陀は諸弟子をして勤めて之を観ぜしめ、古来四諦観と共に仏教に於ける最も重要なる観行とせられつつあり。但し其の修観の法には順逆及び四諦安立等の種種の別あり。順逆観に関しては、「大毘婆沙論巻23」に、「云何が菩薩、順逆に十二縁起を観察するや。答う、若し因を以って果を推するを順観察と名づけ、若し果を以って因を推するを逆観察と名づく。復た次ぎに若し細より麁に入るを順観察と名づけ、若し麁より細に入るを逆観察と名づく。麁細の如く是の如く可見不可見、現見非現見、顕了非顕了も応に知るべし亦た爾り。復た次ぎに若し近に因りて遠を観ずるを順観察と名づけ、若し遠に因りて近を観ずるを逆観察と名づく。近遠の如く是の如く此に在り彼に在ると、現前非現前と、此の衆同分彼の衆同分とも応に知るべし亦た爾り」と云い、又「大乗阿毘達磨雑集論巻4」に、「順逆とは謂わく雑染順逆の故に、清浄順逆の故に是れを縁起順逆と説く。雑染順逆とは或いは流転の次第に依りて説く、謂わく無明は行に縁たりと。是の如き等は順次第の説なり。或いは安立諦に依りて説く、謂わく老死の苦と老死の集と老死の滅と老死の滅に趣く行となり。是の如き等は逆次第の説なり。清浄順逆とは謂わく無明滅するが故に行滅すと。是の如き等は順次第の説なり。誰の無なるが由るが故に老死無なるや、誰の滅の滅に由るが故に老死滅するやと。是の如き等は逆次第の説なり。応に是の如く縁生起の義を観ずべし。一切は皆是れ縁生なり。唯法界法処の一分の諸の無為法を除く。無因不平等因の我に執著するを遮せんが為の故に衆生を観察するなり」と云えり。是れ生死相生の次第に依り、無明は行に縁たり、乃至生は老死に縁たり等と観ずるを雑染順観の次第とし、安立諦に依りて老死等に各苦集滅道の四諦を安立し、之を観ずるを雑染逆観の次第とし、又無明滅するに由りて行滅す等と観ずるを清浄順観の次第となし、老死の滅は生の滅に由る等と観ずるを清浄逆観の次第となすなり。此の中、雑染逆観の次第を分別するに更に七十七智観、四十四智観等の別あり。即ち現在の生に由りて老死あり(即ち推因智)、又現在の生に由らずして而も老死あるに非ず(即ち審因智)と観じ、是の如く過去及び未来の老死を観ずるにも亦た二智あるが故に三世合して六智あり。更に支に摂せざる諸の有漏の慧を観じ、法住智を得るが故に、一支に総じて七智あり。無明は無因の故に之を除き、余の十一支に各七智あるを以って合して七十七智を成ず。之を前加行又は遠方便観となすなり。又安立諦に依りて老死乃至行の十一支に各苦集滅道の四諦あるが故に、総じて亦た四十四智を成ず、之を後加行又は近方便観となすなり。又「雑阿含経巻12」に依るに、十二支の中、無明及び行を観ぜず唯十支を観じ、識に斉(かぎ)りて退還するの説あり。之に関し「大毘婆沙論巻24」に、流転分の中には但だ十支を観じ、還滅分の中には具に十二支を観ずとし、且つ仏陀が唯十支を観じ、識に至りて転還せられたる所以を問答し、「問う、菩薩は何故に縁起を逆観し、唯だ識に至りて心便ち転還せるや、智力窮まれるとせんや、爾焔尽きたりとせにゃ。設し爾らば何の失かある、若し智力窮まらば正理に応ぜず、菩薩は智見辺際なきが故なり。若し爾焔尽きば理亦た然らず。行と無明と猶お未だ観ぜざるが故なり。答う、応に是の説を作すべし、智力窮まれるに非ず、爾焔尽きたるに非ず。但だ菩薩は行と無明とに於いて先に已に観ずるに由るが故なり。謂わく先に有を観ずるは則ち已に行を観じ、先に愛取を観ずるは已に無明を観ずるなり。問う、先に老死を観ずるは已に名色と六処と触と受とを観ず、先に生を観ずるは已に識を観ず。名色等に於いて応に重観せざるべし。答う、先は略にして後は広、先は総にして後は別なり、重観の失なし。問う、若し爾らば生と識とは広略の異なし、何ぞ重観を為すや。答う、生を厭畏するが故に再観するも失なし、謂わく我が世尊先に菩薩位に老病死を厭い、城を逾えて出家し、是の思惟を作す、此の老死の苦は誰に由りてか有なると。即便ち現見するに続生の心に由る。復た思う、此の心は誰に由りてか起る、即ち知る業に由ると。復た思う此の業は何に従ってか生ずる、煩悩に従うと知る。復た思う煩悩は誰に依りてか生ずる、即ち知る事に依ると。復た思う此の事は誰に由りてか転ずる、即ち知る此の転は結生の心に由ると。菩薩爾の時便ち是の念を作す、一切の過患は皆此の心に由ると。故に此の心に於いて深く厭畏を生じ、広略なしと雖も而も更に重観す。識に斉りて転還するは義此れに属す」と云えり。以って趣旨を見るべし。又「般若心経幽賛巻下」に此の説を敷演し、「縁起の中に於いて先づ逆に観察するに、三種の相を以って老死支を観ず。一に細因縁、二に麁因縁、三に非不定なり。生を感ずる因縁を細と名づく、謂わく愛取有なり。生の自体を麁と名づく、謂わく生支なり。此の二生に由りて而も老死あり、当来老死の細生を因と為し、現法老死の麁生を因と為し、二生の体を除きて余は定んで能く老死の果を起すことなきを非不定と名づく。老死の苦諦を愛に至りて観ずと雖も、後際の苦并びに彼の集諦に於いて未だ喜足を為さず。還って復た後の集の因縁と現在の衆苦を観ず、謂わく遍く受と触と六処と名色と識とを逆観し、未来の苦は是れ当の苦諦なりと観じ、彼の集因は是れ当の集諦なりと観じ、未来世の苦の集諦は誰に由りて有なるやを観じ、先の集に従って生起せられたる識を辺際と為し、現法の苦に由りて有なるを知り、既に先の集に従って生起せられたるを知りて、復た此れは云何が有なるやを観ずべからず。識と名色とは譬えば束蘆の如く、展転相縁して作者等なきに由る、是の故に観察は識に斉りて退還す。是の如く順逆に苦集を観察するは唯十支のみなり」と云えり。是れ初習位に約して斉識退還観の相を明せるなり。又「天台四教儀集註巻6」には前記有部等の諸説を会合し、若し三世両重の十二因縁を観ぜば断常二見を破す、所謂過現未三世に渉りて両重の因果を観じ、以って生死因果なしと執する断見、及び我の常住を執する常見を治すとし、又二世一重の十二因縁を観ぜば著我見を破す、所謂有情は因縁に依りて生ずと観ずるを以って、神我を執する著我の妄見を治し、又刹那一念の十二因縁を観ぜば性実見を破す、即ち有情は刹那に生じ、刹那に滅すと観ずるに由りて、実体実性ありと執する性実の邪見を破す。此の如く三種の十二因縁観を以って三種の愚癡邪見を破すとなせり。又「中阿含巻21説処経」、「同巻24大因経」、「雑阿含経巻12、13」、「増一阿含経巻30」、「長阿含経巻10大縁方便経」、「過去現在因果経巻3」、「貝多樹下思惟十二因縁経」、「縁起聖道経」、「大法鼓経巻上」、「旧華厳経巻25」、「大般涅槃経巻27、34」、「坐禅三昧経巻下」、「達磨多羅禅経巻下」、「菩薩瓔珞本業経巻上」、「法蘊足論巻10」、「雑阿毘曇心論巻8」、「分別功徳論巻1」、「彰所知論巻下」、「大智度論巻2、31、44、80」、「十二因縁論」、「順正理論巻25至28」、「瑜伽師地論巻9、10、93、94」、「顕揚聖教論巻16」、「十地経論巻8」、「大乗義章巻4」、「法界次第初門巻中之下」、「倶舎論光記巻9」、「法華経玄賛巻7」、「金光明最勝王経疏巻6」等に出づ。<(望) 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十二因縁の考察:十二因縁に関し説一切有部に於ける三世分位説は、生老死を実有のものと取るに当たり、その脱るる道を求索する中に於いて、釈尊所説の十二因縁を以って、其の中の無明を滅することに由って道を得んと画するものの如くなるも、若ししからば恐らくは仏説の真意を著しく歪曲せるものと言わざるべからず。今阿含中に十二因縁を見るに、即ち「長阿含巻1大本経」に、「復た是の念を作さく、衆生は愍むべし、常に闇冥に処して身の危脆を受け、生有り、老有り、病有り、死有り、衆苦の集まる所、此に死して彼に生じ、彼より此に生じ、此の苦陰を縁じて、流転窮まり無し。我れは当に何れの時にか、苦陰を暁了して、生老死を滅すべしと。復た是の念を作さく、生死は何に従り、何を縁じてか有る、即ち智慧を以って所由を観察すれば、生従り老死有り、生は是れ老死の縁なり。生は有従り起る、有は是れ生の縁なり。有は取従り起る、取は是れ有の縁なり。取は愛従り起る、愛は是れ取の縁なり。愛は受従り起る、受は是れ愛の縁なり。受は触従り起る、触は是れ受の縁なり。触は六入従り起る、六入は是れ触の縁なり。六入は名色従り起る、名色は是れ六入の縁なり。名色は識従り起る、識は是れ名色の縁なり。識は行従り起る、行は是れ識の縁なり。行は癡従り起る、癡は是れ行の縁なり。是れを癡を縁じて行有り、行を縁じて識有り、識を縁じて名色有り、名色を縁じて六入あり、六入を縁じて触有り、触を縁じて受有り、受を縁じて愛有り、愛を縁じて取有り、取を縁じて有有り、有を縁じて生有り、生を縁じて老病死憂悲苦悩有りと為す。此の苦盛の陰は、生を縁じて有り。是れを苦集と為す。菩薩の苦集の陰を思惟する時、智を生じ、眼を生じ、覚を生じ、明を生じ、通を生じ、慧を生じ、証を生ずと。時に於いて菩薩は復た自ら思惟すらく、何等の無なるが故にか老死無なる。何等の滅するが故にか老死滅する。即ち智慧を以って所由を観察すらく、生無きが故に老死無し、生滅するが故に老死滅す。有無きが故に生無し、有滅するが故に生滅す。取無きが故に有無し、取滅するが故に有滅す。愛無きが故に取無し、愛滅するが故に取滅す。受無きが故に愛無し、受滅するが故に愛滅す。触無きが故に受無し、触滅するが故に受滅す。六入無きが故に触無し、六入滅するが故に触滅す。名色無きが故に六入無し、名色滅するが故に六入滅す。識無きが故に名色無し、識滅するが故に名色滅す。行無きが故に識無し、行滅するが故に識滅す。癡無きが故に行無し、癡滅するが故に行滅す。是れを癡滅するが故に行滅す、行滅するが故に識滅す、識滅するが故に名色滅す、名色滅するが故に六入滅す、六入滅するが故に触滅す、触滅するが故に受滅す、受滅するが故に愛滅す、愛滅するが故に取滅す、取滅するが故に有滅す、有滅するが故に生滅す、生滅するが故に老死憂悲苦悩滅すと為すと。菩薩の苦陰の滅を思惟する時、智を生じ、眼を生じ、覚を生じ、明を生じ、通を生じ、慧を生じ、生を生ぜり」と云えるが如き其の最も典型的の説なり。此の中、無明又は癡avidyaaは知識のないことを云い、行saMskaaraは動作、行為の義を有する語にして、心の動き、即ち五蘊中の行蘊、即ち思うことを云う、識vijJaanaは覚知、識別、識知するを云い、名色naama-
ruupaは名づくる行為及び形、姿の意にして色及び、其の色に名づくるを云い、又引いては人の身心を表す、六入又は六処SaD- aayatanaは六の住居を云い、触sparzaは触れる行為を云い、受vedanaaは知覚、感受するを云い、愛tRSnaaは喉の渇きに基づく語にして、欲望を指し、取upaadaanaは取りて自己の物となさんとする意向、意志を云い、有bhavaは誕生、生起、存在の意を表し、生jaatiは生まれることを云い、老死jaraa-
maraNaは老い及び死の意を表す。既に「大本経」により知る、釈尊はこれ以上の説明を必要とされず、弟子衆も亦た善くそれを理解したのである。今其の中の各支の名を挙げ、その意味を考察するも、極めて普通の語にして、理解しがたい所は皆無である。即ち釈尊は先づ、生老死の苦は知識の欠乏に因ると教えられたのであり、十二支中の最初と最後を知れば、中は自づと明らかである。然るに十二支を説かれたのは極めて疑り深い者のためであるが、今釈尊のことばを敷演すれば、およそ次の如くであろう、老死の苦は、今現在、実に生じておると信ずるに従る。何故生ずると信ずるのか、それは自己の存在を妄信するからである(自己の存在を信ずるとは、他に異なると信ずるを云う)。何故自己の存在を妄信するのか、本来自らの所有にあらざる我我所、即ち自己と自己の依止する身心、并びに所有物に執著するからである。何故執著するのか、境、即ち目にし耳にする所を愛するからである。何故愛するのか、苦楽憂喜を受けるからである。何故苦楽憂喜を受けるのか、境に触れるからである。何故触れるのか、眼等の六入に従る。六入は何に従るのか、名色、即ち事物と、それを判別せんとする心作用に従る。名色は何に従るのか、識、即ち識知判別作用に従る。識は何に従るのか、行、即ち心に思うことに従る。行は何に従るのか、癡、即ち知識のないことに従る。即ち心に空智なきが故に、思うこと有り、思うこと有るが故に識知、判別すること有り、識知判別有るが故に物を見て判別せんとすること有り、物を見て判別するが故に六根を働かして境を求むる有り、六根境を求むるが故に境に触るる有り、境に触るるが故に苦楽憂喜を受くる有り、苦楽憂喜を受くるが故に愛する有りて更に受けんことを求む、愛有るが故に自己の所有ならざるを取らんとする有り、取らんとする有るが故に自己を他に区別して自己有りとなす、自己有りとするが故に生ず、生ずるが故に老死の苦有り。即ち空智無きが故に老死の苦有りとなす、是れを十二因縁と為す。理は、既に経中に明らかなり。何ぞ小乗有部の教説、大乗唯識の教説を信ぜんや。 |
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復次佛知五百歲後學者分別諸法相各異。離色法說識。離識法說色。欲破是諸見令入畢竟空故。識中雖無五情。而說識即是六情。六情中雖不具五眾。而說六情即是五眾。 |
復た次ぎに、仏は、五百歳の後の学者の諸法の相を分別して、各異らしめ、色法を離れて識を説き、識法を離れて色を説くを知り、是の諸見を破りて、畢竟空に入らしめんと欲するが故に、識中に五情無しと雖も、識は即ち是れ六情なりと説き、六情中に五衆を具せずと雖も、六情は即ち是れ五衆なりと説きたまえり。 |
復た次ぎに、
『仏』は、こう知られると、――
『五百歳の後の学者』は、
『諸法の相が各異なる、と分別して!』、
『色法を離れて!』、
『識』を、
『説き!』、
『識法を離れて!』、
『色』を、
『説く!』、と。
是の、
『諸見を破って、畢竟空に入らせようとされた!』が故に、
『識中には、五情が無い!』のに、
『識は、即ち六情である!』と、
『説き!』、
『六情中には、五衆を具えていない!』のに、
『六情は、即ち五衆である!』と、
『説かれたのである!』。
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復次先世但有心住六情。作種種憶想分別故。生今世六情五眾身。從今世身起種種結使。造後世六情五眾。如是等展轉。是故說識即是六情六情即是五眾。是法內空中不可得。乃至無法有法空中不可得 |
復た次ぎに、先世には、但だ心有りて六情に住し、種種の憶想、分別を作すが故に、今世の六情と、五衆の身を生じ、今世の身より種種の結使を起し、後世の六情、五衆を造り、是れ等の如く展転すれば、是の故に、『識は即ち是れ六情、六情は即ち是れ五衆なり』、と説きたもうも、是の法は内空中に不可得、乃至無法有法空中に不可得なり。 |
復た次ぎに、
『先世』には、
『但だ、六情に住する心が有るだけである!』が、
『種種の憶想、分別を作す!』が故に、
『今世の六情、五衆の身』を、
『生じ!』、
是の、
『心』が、
『今世の身に従って!』、
『種種の結使を起し!』、
是の故に、
『後世の六情、五衆』を、
『造り!』、
是れ等のように、
『心』が、
『展転する( to succeed )!』ので、
是の故に、こう説かれたのであるが、――
『識は、即ち六情であり!』、
『六情は、即ち五衆である!』、と。
是の、
『法』は、
『内空』中にも、
『不可得であり!』、
乃至、
『無法有法空』中にも、
『不可得なのである!』。
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展転(てんでん):梵語 parampara, anyonya の訳、引き続く/[父から子のように]次々と続く/継続的に/繰り返して( one following the other, proceeding from one to another (as from father to son), successive, repeated )の義。 |
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