巻第四十四(上)
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大智度論釋幻人無作品第十一(卷第四十四)
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


【經】幻人は、薩婆若を得られるのか?

【經】爾時慧命須菩提白佛言。世尊。若當有人問言。幻人學般若波羅蜜當得薩婆若不。幻人學禪波羅蜜毘梨耶波羅蜜羼提波羅蜜尸羅波羅蜜檀波羅蜜。學四念處乃至十八不共法及一切種智。得薩婆若不。我當云何答 爾の時、慧命須菩提の仏に白して言さく、『世尊、若しは、当に有る人問うて言うべし、「幻人も般若波羅蜜を学べば、当に薩婆若を得べしや不や。幻人も禅波羅蜜、毘梨耶波羅蜜、羼提波羅蜜、尸羅波羅蜜、檀波羅蜜を学び、四念処乃至十八不共法及び一切種智を学べば、薩婆若を得べしや不や」、と。我れは当に云何が答うべきや』、と。
爾の時、
『慧命須菩提』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
若しは、
有る、
『人が問うて!』、こう言うでしょう、――
『幻人であっても!』、
『般若波羅蜜を学べば!』、
『薩婆若を得ることになるのか?』。
『幻人であっても!』、
『禅乃至檀波羅蜜、四念処乃至十八不共法、一切種智を学べば!』、
『薩婆若を得ることになるのか?』、と。
わたしは、
何のように、
『答えねばならないのでしょうか?』、と。
  参考:『大般若経巻42』:『爾時具壽善現白佛言。世尊。若有問言。幻士能學般若波羅蜜多成辦一切智智不。幻士能學靜慮精進安忍淨戒布施波羅蜜多成辦一切智智不。我得此問當云何答。世尊。若有問言。幻士能學四靜慮成辦一切智智不。幻士能學四無量四無色定成辦一切智智不。我得此問當云何答。世尊。若有問言。幻士能學四念住成辦一切智智不。幻士能學四正斷四神足五根五力七等覺支八聖道支成辦一切智智不。我得此問當云何答。世尊。若有問言。幻士能學空解脫門成辦一切智智不。幻士能學無相無願解脫門成辦一切智智不。我得此問當云何答。世尊。若有問言。幻士能學五眼成辦一切智智不。幻士能學六神通成辦一切智智不。我得此問當云何答。世尊。若有問言。幻士能學佛十力成辦一切智智不。幻士能學四無所畏四無礙解大慈大悲大喜大捨十八佛不共法一切智道相智一切相智成辦一切智智不。我得此問當云何答。佛告善現。我還問汝。隨汝意答。善現。於意云何。色與幻有異不。受想行識與幻有異不。善現答言。不也世尊。何以故。色不異幻。幻不異色。色即是幻。幻即是色。受想行識亦復如是。善現。於意云何。眼處與幻有異不。耳鼻舌身意處與幻有異不。善現答言。不也世尊。何以故。眼處不異幻。幻不異眼處。眼處即是幻。幻即是眼處。耳鼻舌身意處亦復如是。』
佛告須菩提。我還問汝。隨汝意答我。須菩提。於汝意云何。色與幻有異不。受想行識與幻有異不。須菩提言。不也世尊。 仏の須菩提に告げたまわく、『我れは還って汝に問わん。汝が意に随いて我れに答えよ。須菩提、汝が意に於いて云何、色と幻とに異有りや不や。受想行識と幻とに異有りや不や』、と。須菩提の言わく、『不なり、世尊』、と。
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
わたしは、
『還って、お前に問おう( I ask you some questions in return)!』、
『須菩提、お前の意のままに答えよ!』。
『色と』と、
『幻とには!』、
『異が有るのか?』。
『受想行識』と、
『幻とには!』、
『異が有るのか?』、と。
『須菩提』は、こう言った、――
いいえ、有りません!
世尊!、と。
佛言。於汝意云何。眼與幻有異不。乃至意與幻有異不。色乃至法與幻有異不。眼界乃至意識界與幻有異不。眼觸乃至意觸。眼觸因緣生受乃至意觸因緣生受與幻有異不。須菩提言。不也世尊。 仏の言わく、『汝が意には云何、眼と幻とに異有りや不や、乃至意と幻とに異有りや不や、色乃至法と幻とに異有りや不や、眼界乃至意識界と幻とに異有りや不や、眼触乃至意触、眼触因縁生の受乃至意触因縁生の受と幻とに異有りや不や』、と。須菩提の言わく、『不なり、世尊』、と。
『仏』は、こう言われた、――
お前の意には、何うなのか?――
『眼乃至意』と、
『幻とには!』、
『異が有るのか?』。
『色乃至法、眼界乃至意識界』と、
『幻とには!』、
『異が有るのか?』。
『眼触乃至意触、眼触因縁生の受乃至意触因縁生の受』と、
『幻とには!』、
『異が有るのか?』、と。
『須菩提』は、こう言った、――
いいえ、有りません!
世尊!、と。
於汝意云何。四念處與幻有異不。乃至八聖道分與幻有異不。不也世尊。於汝意云何。空無相無作與幻有異不。不也世尊。須菩提。於汝意云何。檀波羅蜜與幻有異不。乃至十八不共法與幻有異不。不也世尊。 『汝が意には云何、四念処と幻とに異有りや不や、乃至八聖道分と幻とに異有りや不や』、と。『不なり、世尊』。『汝が意には云何、空、無相、無作と幻とに異有りや不や』、と。『不なり、世尊』。『汝が意には云何、檀波羅蜜と幻とに異有りや不や、乃至十八不共法と幻とに異有りや不や』、と。『不なり、世尊』。
お前の意には、何うなのか?――
『四念処乃至八聖道分』と、
『幻とには!』、
『異が有るのか?』。
――
いいえ、有りません!
世尊!
お前の意には、何うなのか?――
『空、無相、無作』と、
『幻とには!』、
『異が有るのか?』。
――
いいえ、有りません!
世尊!
お前の意には、何うなのか?――
『檀波羅蜜乃至十八不共法』と、
『幻とには!』、
『異が有るのか?』。
――
いいえ、有りません!
世尊!。
須菩提。於汝意云何。阿耨多羅三藐三菩提與幻有異不。不也世尊。何以故。色不異幻幻不異色。色即是幻幻即是色。世尊。受想行識不異幻。幻不異受想行識。識即是幻幻即是識。世尊。眼不異幻幻不異眼。眼即是幻幻即是眼。眼觸因緣生受乃至意觸因緣生受亦如是。 『汝が意には云何、阿耨多羅三藐三菩提と幻とに異有りや不や』。 『不なり、世尊。何を以っての故に、色は幻と異ならず、幻は色と異ならず、色は即ち是れ幻、幻は即ち是れ色なり。世尊、受想行識は幻と異ならず、幻は受想行識と異ならず、識は即ち是れ幻、幻は即ち是れ識なり。世尊、眼は幻と異ならず、幻は眼と異ならず、眼は即ち是れ幻、幻は即ち眼なり。眼触因縁生の受、乃至意触因縁生の受も亦た是の如し。
お前の意には、何うなのか?――
『阿耨多羅三藐三菩提』と、
『幻とには!』、
『異が有るのか?』。
――
いいえ、世尊!
何故ならば、
『色は幻と異ならず、幻は色と異ならず!』、
『色は、即ち幻であり!』、
『幻は、即ち色であり!』
世尊!
『受想行識は幻と異ならず、幻は受想行識と異ならず!』、
『受想行識は、即ち幻であり!』、
『幻は、即ち受想行識であり!』、
『眼は幻と異ならず、幻は眼と異ならず!』、
『眼は、即ち幻であり!』、
『幻は、即ち眼であり!』、
亦た、
『眼触因縁生の受、乃至意触因縁生の受』も、
『是の通りです!』。
世尊。四念處不異幻幻不異四念處。四念處即是幻幻即是四念處。乃至阿耨多羅三藐三菩提不異幻。幻不異阿耨多羅三藐三菩提。阿耨多羅三藐三菩提即是幻。幻即是阿耨多羅三藐三菩提。 世尊。四念処は幻と異ならず、幻は四念処と異ならず、四念処は即ち是れ幻、幻は即ち是れ四念処なり。乃至阿耨多羅三藐三菩提は幻と異ならず、幻は阿耨多羅三藐三菩提と異ならず、阿耨多羅三藐三菩提は即ち是れ幻、幻は即ち是れ阿耨多羅三藐三菩提なり。
世尊、
『四念処は幻と異ならず、幻は四念処と異ならず!』、
『四念処は、即ち幻であり!』、
『幻は、即ち四念処であり!』
乃至、
『阿耨多羅三藐三菩提は幻と異ならず、幻は阿耨多羅三藐三菩提と異ならず!』、
『阿耨多羅三藐三菩提は、即ち幻であり!』、
『幻は、即ち阿耨多羅三藐三菩提なのです!』。
佛告須菩提。於汝意云何。幻有垢有淨不。不也世尊。須菩提。於汝意云何。幻有生有滅不。不也世尊。若法不生不滅。是法能學般若波羅蜜當得薩婆若不。不也世尊。 仏の須菩提に告げたまわく、『汝が意に於いて云何、幻には垢有り、浄有りや不や』、と。『不なり、世尊』。『須菩提、汝が意に於いて云何、幻には生有り、滅有りや不や』。『不なり、世尊』。『若し法にして不生、不滅なれば、是の法は能く般若波羅蜜を学びて、当に薩婆若を得べしや不や』。『不なり、世尊』。
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
お前の意には、何うなのか?――
『幻』には、
『垢や、浄』が、
『有るだろうか?』、と。
――
いいえ、有りません!
世尊!
――
お前の意には、何うなのか?――
『幻』には、
『生や、滅』が、
『有るだろうか?』。
――
いいえ、有りません!
世尊!
――
是の、
『法が、不生不滅でありながら!』、
『般若波羅蜜を学ぶことができれば!』、
『薩婆若を得ることになるだろうか?』。
――
いいえ、得られません!
世尊!
於汝意云何。五受陰假名是菩薩不。如是世尊。於汝意云何。五受陰假名有生滅垢淨不。不也世尊。 『汝が意に於いて云何、五受陰を仮に、是れ菩薩と名づくや不や』。『是の如し、世尊』。『汝が意に於いて云何、五受陰を仮に、生滅、垢浄有りと名づくや不や』。『不なり、世尊』。
――
お前の意には、何うなのか?――
『五受陰』を、
『仮に!』、
『菩薩と称するのだろうか?』。
――
その通りです!
世尊!
――
お前の意には、何うなのか?――
『五受陰』を、
『仮に!』、
『生滅、垢浄が有る、と称するのか?』。
――
いいえ!
世尊!
  五受陰(ごじゅおん):有漏の五衆/衆生の受くる色受想行識。『大智度論巻20上注:五取蘊』参照。
於汝意云何。若法但有名字非身非身業。非口非口業。非意非意業。不生不滅不垢不淨。如是法能學般若波羅蜜得薩婆若不。不也世尊。菩薩摩訶薩若能如是學般若波羅蜜。當得薩婆若。以無所得故。 『汝が意に於いて云何。若し法に但だ名字のみ有りて、非身、非身業、非口、非口業、非意、非意業にして、不生不滅、不垢不浄なれば、是の如き法は、能く般若波羅蜜を学びて薩婆若を得や不や』。『不なり世尊』。『菩薩摩訶薩は能く是の如く般若波羅蜜を学べば、当に薩婆若を得べし。所得無きを以っての故なり』。
――
お前の意には、何うなのか?――
若し、
『法に、但だ名字のみが有って!』、
『身でも身業でもなく、口でも口業でもなく、意でも意業でもなく!』、
『不生不滅であり、不垢不浄ならば!』、
是のような、
『法が、般若波羅蜜を学んで!』、
『薩婆若』を、
『得ることができるのか?』。
――
いいえ、得られません!
世尊!
――
『菩薩摩訶薩』が、
若し、
是のように、
『般若波羅蜜を学ぶことができれば!』、
『薩婆若』を、
『得ることになる!』。
何故ならば、
『薩婆若』には、
『所得が無いからである!』。
須菩提白佛言。世尊。菩薩摩訶薩應如是學般若波羅蜜。得阿耨多羅三藐三菩提如幻人學。何以故。世尊。當知五陰即是幻人。幻人即是五陰。 須菩提の仏に白して言さく、『世尊、菩薩摩訶薩は応に是の如く般若波羅蜜を学びて、阿耨多羅三藐三菩提を得べしとは、幻人の学ぶが如し。何を以っての故に、世尊、当に知るべし、五陰は、即ち是れ幻人、幻人は即ち是れ五陰なればなり』。
『須菩提』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
『菩薩摩訶薩』が、
是のように、
『般若波羅蜜を学んで!』、
『阿耨多羅三藐三菩提を得るのだとすれば!』、
是れは、
『幻人』が、
『般若波羅蜜を学ぶようなものです!』。
何故ならば、
世尊!
当然、こう知らねばならないからです、――
『五陰は、即ち幻人であり!』、
『幻人』が、
『即ち、五陰なのです!』、と。
佛告須菩提。於汝意云何。是五陰學般若波羅蜜當得薩婆若不。不也世尊。何以故。是五陰性無所有。無所有性亦不可得。 仏の須菩提に告げたまわく、『汝が意に於いて云何。是の五陰は、般若波羅を学べば、当に薩婆若を得べしや不や』、と。『不なり、世尊。何を以っての故に、是の五陰の性は無所有、無所有の性も亦た不可得なればなり』。
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
お前の意には、何うなのか?――
是の、
『五陰が、般若波羅蜜を学べば!』、
『薩婆若』を、
『得ることになるのか?』、と。
――
いいえ、世尊!
何故ならば、
是の、
『五陰の性』は、
『無所有であり( has nothing existing )!』、
亦た、
『無所有の性』も、
『不可得だからです!』。
佛告須菩提。於汝意云何。如夢五陰學般若波羅蜜。當得薩婆若不。不也世尊。何以故。夢性無所有。無所有性亦不可得。 仏の須菩提に告げたまわく、『汝が意に於いて云何。夢の如き五陰は、般若波羅蜜を学びて、当に薩婆若を得べしや不や』。『不なり、世尊。何を以っての故に、夢の性は無所有、無所有の性も亦た不可得なればなり』。
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
お前の意には、何うなのか?――
『夢のような!』、
『五陰であっても、般若波羅蜜を学べば!』、
『薩婆若を得ることになるのか?』、と。
――
いいえ、世尊!
何故ならば、
『夢の性は、無所有であり!』、
『無所有の性も、不可得だからです!』。
於汝意云何。如響如影如焰如化。五眾學般若波羅蜜當得薩婆若不。不也世尊。何以故。響影焰化性無所有。無所有性亦不可得。六情亦如是。世尊。識即是六情。六情即是五眾。是法皆內空故不可得。乃至無法有法空故不可得 『汝が意に於いて云何。響の如き、影の如き、焔の如き、化の如き五衆は般若波羅蜜を学べば、当に薩婆若を得べしや不や』。『不なり、世尊。何を以っての故に、響、影、焰、化の性は無所有、無所有の性も亦た不可得なればなり。六情も亦た是の如し。世尊、識は即ち是れ六情、六情は即ち是れ五衆にして、是の法は皆内空なるが故に不可得、乃至無法有法空なるが故に不可得なり』。
――
お前の意には、何うなのか?――
『響、影、焰、化のような!』、
『五衆が、般若波羅蜜を学べば!』、
『薩婆若を得ることになるのか?』。
――
いいえ、世尊!
何故ならば、
『響、影、焰、化』の、
『性』は、
『無所有であり!』、
亦た、
『無所有の性』も、
『不可得だからです!』。
亦た、
『六情』も、
『是の通りです!』。
世尊!
『識(五衆)とは、即ち六情であり!』、
『六情』は、
『即ち、五衆なので!』、
是の、
『法』は、
皆、
『内空である!』が故に、
『不可得であり!』、
乃至、
『無法有法空である!』が故に、
『不可得だからです!』。



【論】幻人は、薩婆若を得られるのか?

【論】問曰。須菩提何以故以是事問佛。若人問幻人學般若波羅蜜得作佛不。應答言不得。幻人虛誑無有本末。是事易答。何以故問佛。 問うて曰く、須菩提は何を以っての故にか、是の事を以って仏に問える、『若し人、幻人も般若波羅蜜を学べば、仏と作るを得や不や、と問えば、応に答えて、得ずと言うべしや』、と。幻人は虚誑にして本末有ること無ければ、是の事は答え易きに、何を以っての故にか、仏に問える。
問い、
『須菩提』は、
何故、
是の、
『事』を、
『仏に問うたのですか?』、――
若し、
『人』が、
『幻人でも般若波羅蜜を学べば、仏と作ることができるのか?』と、
『問えば!』、
『答えて!』、
『仏と作ることはできない!』と、
『答えればよいのですか?』、と。
『幻人』は、
『虚誑であり!』、
『本も、末も!』、
『無い!』ので、
是の、
『事』は、
『答え易いのに!』、
何故、
『仏』に、
『問うたのですか?』。
答曰。上品佛答舍利弗甚深空義。須菩提作是念。諸法一相無分別。若爾者幻人及實菩薩無異。而菩薩行諸功德得作佛。幻人無實但誑人眼不能作佛。 答えて曰く、上の品に、仏は舎利弗に甚だ深き空義を答えたまえるに、須菩提は是の念を作さく、『諸法は一相にして分別無し。若し爾らば、幻人及び実の菩薩に異無し。而るに菩薩は諸功徳を行じて、仏と作るを得、幻人は実無く、但だ人の眼を誑すのみなれば、仏と作る能わず』、と。
答え、
上の品に、
『仏』が、
『舎利弗』に、
『甚だ深い空義を答えられた!』ので、
『須菩提』は、こう念じたのである、――
若し、爾うならば、――
『幻人も、実の菩薩も!』、
『異』が、
『無いはずである!』が、
而し、
『菩薩』は、
『諸功徳を行じて!』、
『仏と作ることができ!』、
『幻人』は、
『実が無く、但だ人の眼を誑すだけなので!』、
『仏と作ることができないのだが?』、と。
問曰。幻人不能行功德。以無心識云何言行。 問うて曰く、幻人の功徳を行ずる能わざるは、心識無きを以ってなるに、何んが行ずと言う。
問い、
『幻人』は、
『心識が無い!』ので、
『功徳』を、
『行じることができない!』が、
何故、
『行じる( be making its merits perfect )!』と、
『言うのですか?』。
  (ぎょう):梵語 saMs√(kR) の訳、形作る( to put together, form well )の義、身を飾る/磨きをかける/完全にする( to adorn, embellish, refine, elaborate, make perfect )の意。
答曰。雖實不行人見似行故名為行。如幻人以飲食財物七寶布施出家。持戒忍辱精進坐禪說法等。無智人謂是為行不知是幻。 答えて曰く、実に行ぜずと雖も、人は、行に似たるを見るが故に名づけて、行と為す。幻人の飲食、財物、七宝を以って布施するが如し。出家の持戒、忍辱、精進、坐禅、説法等も、無智の人は、是れを謂いて、行と為すは、是れを幻と知らざればなり。
答え、
『実は、行じていない!』のに、
『人』は、
『行に似たものを見る!』が故に、
『行と称するのである!』。
譬えば、
『幻人』が、
『飲食、財物、七宝』を、
『布施するようなものである!』のに、
『出家の持戒、忍辱、精進、坐禅、説法』等を、
『無智の人』が、
是れを、
『行である!』と、
『謂う!』のは、
是れが、
『幻である!』と、
『知らないからである!』。
須菩提作是念。若如佛說諸法一相無所有但是虛誑。幻人及實菩薩乃至佛等無有異。如幻人亦幻作佛行六波羅蜜。降魔兵坐道場。成佛道放光明說法度人。實菩薩行實道得作佛度眾生有何差別。佛言我還問汝隨汝意答我。 須菩提の是の念を作さく、『若し仏の説きたもうが如く、諸法は一相、無所有にして、但だ是れ虚誑なれば、幻人及び実の菩薩乃至仏は等しく、異有ること無し。幻人の亦た仏を幻作して、六波羅蜜を行じ、魔兵を降し、道場に坐して、仏道を成じ、光明を放ち、説法して人を度すが如く、実の菩薩の実の道を行じて、仏と作るを得、衆生を度するに、何なる差別か有る』、と。仏の言わく、『我れ還って、汝に問わん。汝が意に随いて、我れに答えよ』、と。
『須菩提』は、こう念じた、――
若し、仏が説かれたように、――
『諸法』が、
『一相、無所有であって!』、
『但だ、虚誑でしかなければ!』、
『幻人と実の菩薩乃至仏』は、
『皆、等しく!』、
『異が無いはずである!』。
譬えば、
『幻人』が、
亦た( and moreover )、
『仏を幻作して、六波羅蜜を行じたり!』、
『魔兵を降して、道場に坐したり!』、
『仏道を成じて、光明を放ったり!』、
『法を説いて、人を度したりする!』のと、
『実の菩薩』が、
『実の道を行じて!』、
『仏と作ることができ!』、
『衆生を度す!』のと、
何のような、
『差別』が、
『有るのか?』、と。
『仏』は、こう言われた、――
わたしは、
『還って( in return )!』、
『お前に問おう!』。
お前は、
『お前の意のままに!』、
『わたしに答えよ!』、と。
問曰。佛何以不直答。而還問令隨意答。 問うて曰く、仏は何を以ってか、直ちに答えたまわず、還って問うて、意に随いて答えしむ。
問い、
『仏』は、
何故、
『直ちに!』、
『答えられず!』、
『問を還して( to give a question in return )!』、
『意のままに!』、
『答えさせたのですか?』。
答曰。須菩提以空智慧觀三界五眾皆空。心生厭離諸煩惱習故。雖能總相知諸佛法空。猶有所貴。不能觀佛法如幻無所有。以是故方喻說。如汝以五眾空為證。諸佛法亦爾。汝觀世間五眾為空。我觀佛法亦爾。 答えて曰く、須菩提は、空の智慧を以って三界、五衆は皆空なりと観て、心に厭離を生ずるも、諸の煩悩の習の故に、能く総相もて、諸仏の法の空なるを知ると雖も、猶お貴ぶ所有りて、仏法の幻の如く、無所有なるを観る能わず。是を以っての故に方(まさ)に喻を説くべし、『汝が、五衆の空を以って証と為すが如く、諸の仏法も亦た爾り。汝は世間の五衆を観て、空と為すも、我れ仏法を観れば、亦た爾り』、と。
答え、
『須菩提』は、
『空の智慧を用いて!』、
『三界の五衆は皆空である、と観て!』、
『心に、厭離を生じた!』が、
『諸煩悩の習』の故に、
『総相を用いて!』、
『諸仏の法も空である、と知りながら!』、
『猶お、貴ぶ所が有り!』、
『仏法は、幻のように無所有である!』と、
『観ることができない!』ので、
是の故に、
『方に喻を用いて説かれたのである( be going to explain with an analogy )』、――
お前が、
『五衆は空である!』と、
『証を為すように( being certain of )!』、
亦た、
『諸仏の法』も、
『その通りなのである!』。
お前は、
『世間の五衆は、空である!』と、
『観る!』が、
わたしは、
『仏法も、爾うである!』と、
『観るのである!』、と。
  (ほう):まさに~す。且く。将に。先づ~して。be going to, will, shall。
是故問須菩提於汝意云何。色與幻有異不。幻與色有異不。乃至受想行識亦如是。若異者汝應問。若不異不應作是問。須菩提言不異。 是の故に須菩提に問いたまわく、『汝が意に於いて云何。色と幻とには異有りや不や。幻と色とには異有りや不や。乃至受想行識も亦た是の如く、若し異なれば、汝は応に問うべし。若し異ならざれば、応に是の問を作すべからず』、と。須菩提の言わく、『異ならず』、と。
是の故に、
『須菩提』に、こう問われた、――
お前の意には、何うなのか?――
『色と幻とには、異が有るのか?』、
『幻と色とには!』、
『異が有るのか?』。
乃至、
『受想行識』も、
『是のように!』、
若し、
『色と幻とが、異ならば!』、
お前は、
『当然、問うべきであり!』、
若し、
『異でなければ!』、
是の、
『問』を、
『作してはならない!』、と。
『須菩提』は、こう言った、――
『色と幻とは!』、
『異ならない!』、と。
問曰。若色不異幻可爾。幻人有色故云何言受想行識如幻不異。 問うて曰く、若しは色の幻と異ならざるは、爾るべし。幻人にも色有るが故なり。云何が、『受想行識も、幻の如きに異ならず』、と言う。
問い、
若し、
『色』が、
『幻と異らない!』とは、
『爾うだろう!』。
『幻人』にも、
『色』が、
『有るからである!』が、
何故、こう言うのか?――
『受想行識』も、
『幻など!』と、
『異らない!』、と。
答曰。幻人有喜樂憂苦相。無智人見謂為有受想行識。 答えて曰く、幻人にも喜楽憂苦の相有れば、無智の人は見て、謂いて受想行識有りと為す。
答え、
『幻人にも!』、
『喜楽、憂苦の相』が、
『有る!』ので、
『無智の人が見て!』、
『受想行識が有る!』と、
『謂うのである!』。
復次佛譬喻欲令人知五受眾虛誑如幻。五受眾雖與幻無異。佛欲令解故為作譬喻。眾生謂幻是虛誑五受眾雖有與幻無異。是故須菩提一心籌量知五眾與幻無異。 復た次ぎに、仏の譬喻は、人をして、『五受衆は虚誑にして、幻の如し』、と知らしめんと欲したもう。五受衆は幻と異無しと雖も、仏は解せしめんと欲したもうが故に、為めに譬喻を作したまえば、衆生は、『幻は、是れ虚誑なり、五受衆は有りと雖も、幻と異無し』、と謂えば、是の故に、須菩提は、一心に籌量して、『五衆は、幻と異無し』、と知る。
復た次ぎに、
『仏が譬喻された!』のは、
『人』に、こう知らそうとされたからである、――
『五受衆( the fife aggregates of human being )』は、
『幻のように!』、
『虚誑であ!』、と。
『五受衆は、幻と異らない!』が、
『仏』は、
『幻と異らないこと!』を、
『理解させようとされ!』、
『衆生の為め!』に、
『譬喻』を、
『作されたのである!』。
『衆生』は、
『幻は虚誑であるが、五受衆は有る!』と、
『謂う!』が、
『五受衆』は、
『幻』と、
『異が無い!』ので、
是の故に、
『須菩提は、一心に籌量して!』、こう知った、――
『五衆( the five aggregates )』も、
『幻と異が無い!』、と。
  五受衆(ごじゅしゅ):梵語 paJca- upaadaana- skandha の訳、受け取った五衆の部分( the five perceived aggregates or divisions or parts )の義。衆生の五衆( the five aggregates of living being )、衆生の五種の構成要素( the five constituent elements of being )の意。衆生の色受想行識。
  五衆(ごしゅ):梵語 paJca- skandha の訳、五種の部分( the five divisions or parts or aggregates )の義。法としての色受想行識。
  五陰(ごおん):梵語 paJca- skandha の訳、五衆に同じ。
所以者何。如幻人色誑肉眼能令生憂喜苦樂。五受眾亦能誑慧眼。令生貪欲瞋惱諸煩惱等。如幻因少許咒術物事語言為本。能現種種事城郭廬觀等。五受眾亦以先世少許無明術因緣。有諸行識名色等種種。以是故說不異。 所以は何んとなれば、幻人の色は、肉眼を誑して、能く憂喜苦楽を生ぜしむるが如く、五受衆も亦た能く慧眼を誑して、貪欲、瞋悩の諸煩悩等を生ぜしむ。幻の少許りの咒術、物事、語言を本と為すに因りて、能く種種の事の城郭、廬観等を現わすが如く、五受衆も亦た先世の少許りの無明の術の因縁を以って、諸の行、識、名色等の種種有り。是を以っての故に『異ならず』、と説く。
何故ならば、
『幻人の色』が、
『肉眼を誑して!』、
『憂喜、苦楽』を、
『生じさせるように!』、
『五受衆』も、
『慧眼を誑して!』、
『貪欲、瞋悩、諸の煩悩』等を、
『生じさせ!』、
『幻』が、
『少許りの咒術、物事、語言を本と為す!』が故に、
『種種の事や、城郭、廬観』等を、
『現わさせるように!』、
『五受衆』も、
『先世の少許りの無明の術の因縁』の故に、
『諸の行、識、名色等の種種』を、
『有らせる!』ので、
是の故に、
『異らない!』と、
『説くのである!』。
如人見幻事生著心。廢其生業。幻滅時生悔。五受眾亦如是。先業因緣幻生今五眾。受五欲生貪瞋。無常壞時心乃生悔。我云何著是幻五眾失諸法實相。 人の幻事を見て著心を生じ、其の生業を廃するに、幻の滅する説き悔を生ずるが如く、五受衆も亦た是の如く、先業の因縁より、今の五衆を幻生し、五欲を受けて貪瞋を生じ、無常の壊るる時に心乃ち悔を生ず、『我れは云何が、是の幻の五衆に著して、諸法の実相を失える』、と。
『人が、幻事を見て!』、
『著心を生じ!』、
其の、
『生業』を、
『廃したとしても!』、
『幻が滅する!』時には、
『悔』を、
『生じるように!』、
『五受衆』も、
是のように、
『先業の因縁』が、
『今の五衆を幻生して( to raise up the present five aggregates )!』、
『五欲を受け!』、
『貪瞋を生じ!』、
『無常の五衆が壊れる!』時に、
乃ち( at last )、
『心に、悔を生じることになる!』、――
わたしは、
何故、
是の、
『幻の五衆に著して!』、
『諸法の実相を失ったのだろう?』、と。
  幻生(げんしょう)、幻作(げんさ):梵語 niSpanna, abhiniSpanna の訳、現れた/湧き出た/生じた( gone forth, sprung up, arisen )の義、引き起こす( to bring about )の意。
佛問須菩提樂說門故答言幻與色不異。若不異是色法即是空入不生不滅法中。法若不生不滅。云何行般若波羅蜜得作佛。 仏の須菩提に問いたまえるは、楽説門の故に答えて言わく、『幻は色と異ならず。若し異ならざれば、是の色法は、即ち是れ空にして、不生不滅の法中に入る。法が若し不生不滅なれば、云何が般若波羅蜜を行じて、仏と作るを得んや』、と。
『仏』が、
『須菩提に問われた!』のは、
『楽説門であった!』が故に、
『須菩提は答えて!』、こう言った、――
『幻は、色と異らない!』、
若し、
『異らなければ!』、
『色法は、即ち空であり!』、
『不生、不滅の法中に入ることになる!』。
若し、
『法が不生、不滅ならば!』、
何故、
『般若波羅蜜を行じて!』、
『仏と作ることができるのか?』、と。
  楽説(ぎょうせつ):梵語 pratibhaa, pratibhaana の訳、視野に入る/明白になる/心に映る( to come in sight, become clear or manifest, appear to the mind )の義、義を明白にする( to manifest the truth or meaning )の意。
須菩提作是念。若爾者菩薩何以故。種種行道。求阿耨多羅三藐三菩提。佛知其念即答。五眾虛誑但以假名故號為菩薩。是假名中無業無業因緣。無心無心數法。無垢無淨畢竟空故。 須菩提の是の念を作さく、『若し爾らば、菩薩は何を以っての故にか、種種に道を行じて、阿耨多羅三藐三菩提を求むる』、と。仏は其の念を知りて、即ち答えたまわく、『五衆は虚誑にして、但だ仮名を以っての故に号して、菩薩と為し、是の仮名中には業無く、業の因縁無く、心無く、心数法無く、垢無く、浄無し。畢竟じて空なるが故なり』、と。
『須菩提』は、こう念じた、――
若し、爾うならば、
『菩薩』は、
何故、
『種種に道を行じながら!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『求めるのか?』、と。
『仏』は、
『須菩提の念を知って!』、即ちこう答えられた、――
『五衆』は、
『虚誑であり!』、
但だ、
『仮名』の故に、
『菩薩と号するだけである!』が、
是の、
『仮名』中には、
『業、業因縁、心、心数法、垢、浄』が、
『無いからであり!』、
是の、
『仮名』は、
『畢竟じて空だからである!』。
佛言。菩薩應如幻人行般若波羅蜜。五眾即是幻人無異。從先世業因緣幻業出故。是五眾亦不能得成就佛。何以故。性無所有故。餘夢化影響等亦如是。 仏の言わく、『菩薩は、応に幻人の如く般若波羅蜜を行ずべし。五衆は即ち是れ幻人にして異無し。先世の業因縁より、幻業出づるが故に、是の五衆亦た仏を成就するを得る能わず。何を以っての故に、性の無所有なるが故なり。餘の夢、化、影、響等も亦た是の如し』、と。
『仏』は、こう言われた、――
『菩薩』は、
『幻人のように!』、
『般若波羅蜜を行じなければならない!』。
『五衆』とは、
『即ち、幻人であり!』、
『異が、無いからである!』。
『先世の業因縁より!』、
『幻の業』が、
『出るのである!』が故に、
是の、
『五衆』も、
『仏』を、
『成就することができない!』。
何故ならば、
『五衆の性』は、
『無所有だからである!』。
亦た、
『餘の夢、化、影、響』等も、
『是の通りである!』、と。
問曰。何以故說識即是六情六情即是五眾。 問うて曰く、何を以っての故にか説かく、『識は即ち是れ六情、六情は即ち是れ五衆なり』、と。
問い、
何故、こう説かれたのですか?――
『識とは、六情であり!』、
『六情』とは、
『五衆である!』、と。
答曰。是識十二因緣中第三事。是中亦有色亦有心數法未熟故受識名。從識生六入。是二時俱有五眾。色成故名五情。名成故名意情。六情不離五眾。以是故說識即是六情。 答えて曰く、是の識は、十二因縁中の第三事にして、是の中にも亦た色有り、心数法有るも、未だ熟さざるが故に識の名を受く。識より六入を生じて、是の二時には倶に五衆有り、色成ずるが故に五情と名づけ、名成ずるが故に意情と名づけ、六情は五衆を離れず。是を以っての故に説かく、『識は、即ち是れ六情なり』、と。
答え、
是の、
『識』は、
『十二因縁中の第三事であり!』、
是の中にも、
『色や心数法が有るが、未だ熟さない!』が故に、
『識の名』を、
『受けるのであり!』、
『識より、六入を生じる!』と、
是の、
『識、六入の二時』には、
『倶に、五衆が有り( both have the five aggregates )!』、
『色が成じる!』が故に、
『五情(眼耳鼻舌身情)』と、
『称し!』、
『名(受想行識)が成じる!』が故に、
『意情』と、
『称する!』ので、
『六情』は、
『五衆』を、
『離れることがない!』。
是の故に、こう説くのである、――
『色とは!』、
『即ち、六情である!』、と。
問曰。若爾者十二因緣中處處皆有五眾。何以但說六情有五眾。 問うて曰く、若し爾らば、十二因縁中の処処に、皆五衆有り。何を以ってか但だ六情に五衆有り、と説ける。
問い、
若し、爾うならば、
『十二因縁中の処処に、皆!』、
『五衆』が、
『有るはずだ!』が、
何故、
但だ、こう説くのですか?――
『六情』に、
『五衆が有る!』、と。
答曰。是識今身之本。眾生於現在法中多錯。名色未熟未有所能故不說。六情受苦樂能生罪福故說。其餘十一因緣故說五眾。 答えて曰く、是の識は、今の身の本にして、衆生は現在の法中に多く錯(あやま)つ。名色は未だ熟さず、未だ能くする所有らざるが故に説かず。六情は苦楽を受けて、能く罪福を生ずるが故に説き、其の餘の十一因縁も、故(もと)より五衆を説く。
答え、
是の、
『識』は、
『今の身』の、
『本である!』が、
『衆生』は、
『現在の法(五衆中の識)である!』と、
『多く錯っている( many people misunderstand )!』ので、
――
『名色』は、
『未だ熟さず( being not yet ripe )!』、
『未だ所能が無い( have not possibilities )!』が故に、
是れに、
『五衆が有る!』と、
『説かず!』、
『六情(六処)』は、
『苦楽を受けて!』、
『罪福を生じさせる!』が故に、
是れは、
『五衆である!』と、
『説く!』も、
『識の餘の十一因縁』も、
故より( of course )、
『五衆』を、
『説くのである!』。
  所能(しょのう):梵語 zakyataa の訳、功能( possibilities )の義。
  十二因縁(じゅうにいんねん):十二種の因縁生起の意。具に十二支縁起dvaadazaaGga- pratiitya- samutpaada(巴梨語dvaadasaGga- paTiicca- samuppaada)と云い、又十二縁起、十二縁生、或いは或いは十二因縁起とも名づく。即ち衆生が生死に流転する因果相依の関係を十二支に分類せるもの。十二支とは一に無明avidyaa、二に行saMskaara、三に識vijJaana、四に名色naama- ruupa、五に六処SaD- aayatana、六に触sparza、七に受vedanaa、八に愛tRSNaa、九に取upaadaana、十に有bhava、十一に生jaati、十二に老死jaraa- maraNaなり。「長阿含巻10大縁方便経」に、「阿難、此の十二因縁は見難く知り難し。諸天魔梵沙門婆羅門の未だ縁を見ざる者、若し思量観察して其の義を分別せんと欲せば、則ち皆荒迷しく能く見る者なし。阿難、我れ今汝に語る、老死に縁あり。若し問うて何等か是れ老死の縁なりやと言うものあらば、応に彼れに答えて生は是れ老死の縁なりと言うべし。若し復た問うて誰か是れ生の縁なると言わば、応に彼れに答えて有は是れ生の縁なりと言うべし。若し復た問うて誰か是れ有の縁なると言わば、応に彼れに答えて取は是れ有の縁なりと言うべし。若し復た問うて誰か是れ取の縁なると言わば、応に彼れに答えて愛は是れ取の縁なりと言うべし。若し復た問うて誰か是れ愛の縁なると言わば、応に彼れに答えて受は是れ愛の縁なりと言うべし。若し復た問うて誰か是れ受の縁なると言わば、応に彼れに答えて触は是れ受の縁なりと言うべし。若し復た問うて誰をか触の縁となすと言わば、応に彼れに答えて六入は是れ触の縁なりと言うべし。若し復た問うて誰をか六入の縁となすと言わば、応に彼れに答えて名色は是れ六入の縁なりと言うべし。若し復た問うて誰をか名色の縁となすと言わば、応に彼れに答えて識は是れ名色の縁なりと言うべし。若し復た問うて誰をか識の縁となすと言わば、応に彼れに答えて行は是れ識の縁なりと言うべし。若し復た問うて誰をか行の縁となすと言わば、応に彼れに答えて癡は是れ行の縁なりと言うべし。阿難、是の如く癡を縁として行あり、行を縁として識あり、識を縁として名色あり、名色を縁として六入あり、六入を縁として触あり、触を縁として受あり、受を縁として愛あり、愛を縁として取あり、取を縁として有あり、有を縁として生あり、生を縁として老死憂悲苦悩大患の所集あり。是れを此の大苦陰の縁となす」と云い、又「雑阿含経巻12」に、「仏比丘に告ぐ、縁起の法は我が所作に非ず、亦た余人の作にも非ず。然るに彼の如来出世するも、及び未だ出世せざるも法界常住なり。彼の如来は自ら此の法を覚して等正覚を成じ、諸の衆生の為に分別し演説し開発し顕示す。所謂此れ有るが故に彼れ有り、此れ起るが故に彼れ起る。謂わく無明を縁として行あり、乃至純大苦聚集あり。無明滅するが故に行滅し、乃至純大苦聚滅す」と云える是れなり。是れ即ち仏陀は自ら此の縁起の法を覚して等正覚を成じ、而して諸の衆生の為に此の法を分別し演説し、開発し顕示せられたるものなることを説けるものなり。然るに此の十二支縁起を解するに諸部の間に異説あり。「大毘婆沙論巻23」に説一切有部の説を挙げ、「云何が無明なる、謂わく過去の煩悩の位なり。云何が行なる、謂わく過去の業の位なり。云何が識なる、謂わく続生の心及び彼の助伴なり。云何が名色なる、謂わく結生し已りて未だ眼等の四種の色根起らず、六処未だ満ぜざる中間の五位なり。謂わく羯刺藍、頞部曇、閉尸、鍵南、鉢羅奢佉なり。是れ名色の位なり。云何が六処なる、謂わく已に四の色根を起して六処已に満ず、即ち鉢羅奢佉の位なり。眼等の諸根は未だ能く触の為に所依止と作らず、是れ六処の位なり。云何が触なる、謂わく眼等の根能く触の為に所依止と作ると雖も、而も未だ苦楽の差別を了知せず、亦た未だ諸の損害の縁を避くること能わず、火に触れ刀に触れ、毒を食し糞を食し、食と婬と具との愛猶お未だ現行せず、是れ触の位なり。云何が受なる、謂わく能く苦楽を別ち、亦た能く損害の縁を避け、火に触れ刀に触れず、毒を食し糞を食せず。已に食愛を起すと雖も、而も未だ婬及び具の愛を起さず、是れ受の位なり。云何が愛なる、謂わく已に食愛婬愛及び資具愛を起すと雖も、而も未だ此れが為に四方に追求して労倦を辞せざることをなさず、是れ愛の位なり。云何が取なる、謂わく三愛に由りて四方に追求し、多く危険を渉ると雖も而も労倦を辞せず。然れども未だ後有の為に善悪の業を起さず、是れ取の位なり。云何が有なる、謂わく追求する時亦た後有の為に善悪の業を起す、是れ有の位なり。云何が生なる、謂わく即ち現在の識の位の未来に在る時を生位と名づく。云何が老死なる、謂わく即ち現在の名色六処触受の位の未来に在る時を老死位と名づく」と云えり。是れ無明及び行の二を過去の因、識と名色、六処、触及び受の五を現在の果、愛と取及び有の三を未来の因、生及び老死の二を未来の果となせるものにして、即ち三世両重の因果と称せらるる説なり。就中、現在五果の熟するに至るまでの過去一切の煩悩を総じて無明と名づけ、亦た彼の無明力に由りて生ぜられたる過去一切の業を総じて行と名づく。此の二は即ち過去の因なり。現在五果の中、託胎時に於ける一刹那の意識と其の助伴とを識と名づけ、託胎後、眼耳鼻舌の四根未だ起らず、胎内に於ける羯刺藍等の五位を総じて名色と名づけ、眼等の六根已に満ずるも、未だ境識と和合せざる位を六処と名づけ、出胎の後、根は境識と和合するも未だ苦楽等の差別を了せず、損害の縁に遇うも自ら避くることを知らざるを嬰児時を触と名づけ、已に能く苦楽の因を了し、亦た食愛を生ずる幼少年時を受と名づく。次に未来三因の中、食愛婬愛及び資具愛を生ずる青年時を愛と名づけ、此の三愛増上して周遍馳求するを取と名づけ、更に当有の因たる善悪業を積集するを有と名づく。未来二果の中、中有の識が当有を結するを生と名づけ、現在の名色六処触受の異滅するを老死と名づけたるなり。又此の中、無明と愛及び取の三は煩悩を性とし、行及び有の二は業を性とし、余の識と名色、六処、触、受、生及び老死の七は事を以って性とす。前の五は是れ因、後の七は即ち果なり。総じて惑より業を生じ、業より事を生じ、是の如く循環相続して生死絶ゆることなきを明すの意なり。「倶舎論巻9」に此の十二支は欲界に於ける円満者に約して説けるものにして、中夭の者及び色無色界の有情は皆之を具するに非ずとなせり。即ち彼の論に「無明と行とは前際に在り、生と老死とは後際に在り、所余の八は中際に在り。此の中際の八は一切の有情此の一生に皆具に有りや不や、皆具に有なるに非ず。若し然らば何故に八支ありと説くや、円満の者に拠るなり。此の中の意は補特伽羅の一切の位を歴るものを説いて円満者と名づく。諸の中夭及び色無色に非ず。但だ欲界の補特伽羅に拠る」と云える是れなり。是れ中夭の者は愛取等を闕き、又色界には名色、無色界には名色及び六処を闕くに由るなり。但し「大毘婆沙論巻24」に両説あり、一説は今の如く、一説は色無色界にも亦た十二支を具すとなすなり。然るに凡そ縁起を論ずるに、刹那、連縛、遠続等の別あり。刹那とは一刹那の中に具に十二支の縁起ありとなすものにして、即ち今貪心を起して衆生の命を害せんとするに、此の貪と相応する癡は即ち無明、思は即ち行、諸の境界の事に於いて了別するは即ち識、識と倶なる三蘊は名色、名色に住する根は即ち六処、六処の余に対して和合するは触、触を領するは受、貪は即ち愛、之と相応する諸纏は即ち取、所起の身語二業は有、是の如き諸法の起るは生、変壊するは即ち老死なるが如き是れなり。又連縛とは単に一刹那に就くに非ず、無間に隣次し相続して縁起するを云い、遠続とは生を隔てて断ぜず、懸(はるか)に遠く十二支の相続縁起するを云うなり。此の中、説一切有部に於いては此等の刹那等を取らず、即ち仏は十二の分位に依りて十二支を建立せられたりとし、随って上に出せる如く無明等の一一の支に各色等の五蘊を具すとなせり。但し諸支皆各五蘊を具して其の体別なしと雖も、之に無明等の名を立つるは各其の諸位の中に於いて最も勝れたるものに就くが故なりとす。「倶舎論巻9」に、「伝許すらく、世尊は唯分位に約して諸の縁起に十二支ありと説く。若し支支の中に皆五蘊を具せば、何に拠りて但だ無明等の名を立つるや。諸位の中に無明等勝るるを以っての故に、勝に就きて無明等の名を立つ。謂わく若し位の中に無明最勝なれば、此の位の五蘊を総じて無明と名づく。乃至、位の中に老死最勝なれば、此の位の五蘊を総じて老死と名づく。故に体は総なりと雖も、名は別なること失なし」と云える其の意なり。然るに経部に於いては有部の分位説を以って経に違背すとなし、無明は唯過去の無智、行は唯福等の三業、乃至有は唯後有を招くの業を指すとなせり。「倶舎論巻9」に其の説を挙げ、「前所説の分位の縁起に十二の五蘊を十二支と為すことは契経に違背す。経には説を異にするが故なり。契経に説く如し、云何が無明と為す、謂わく前際の無智なりと。乃至広く説く。此れ了義の説なり。抑えて不了義と成さしむべからず。(中略)我れ今略して顕し経の義に符順すべし、謂わく諸の愚夫は縁生の法に於いて唯行なるを知らず、妄に我見及び我慢の執を起し、自ら楽と非苦楽とを受けんが為の故に、身等の各三種の業を造作す。謂わく自身に当の楽を受けんが為の故に諸の福業を造り、当来の楽と非苦楽とを受くるが故に不動業を造り、現の楽を受くるが故に非福業を造る。是の如きを名づけて無明が行に縁たりと為す。引業の力に由りて、識相続して流るること火焔の行くが如し。彼彼の趣に往きて中有に憑附し、所生に馳せ赴きて生有の身を結するを、行が識に縁たりと名づく。若し此の釈を作さば、善く契経に識支を分別して六識に通ぜしむるに順ず。識を先と為すが故に此の趣の中に於いて名色生ずることあり、五蘊を具足し展転相続して一期の生に遍ず。大因縁と辯縁起等の諸経に於いて皆是の如き説あるが故なり。是の如く名色漸く成熟する時、眼等の根を具するを説きて六処と為す。次に境と合すれば便ち識生ずることあり、三和するが故に順楽等の触あり、此に依りて便ち楽等の三受を生じ、此の三受より三愛を引生す。謂わく苦逼るに由りて楽受に於いて欲愛を発生することあり、或いは楽と非苦楽との受に於いて色愛を発生することあり、或いは唯だ非苦楽受に於いて無色愛を生ずることあり。受を欣う愛より欲等の取を起す。(中略)取は謂わく欲貪なり。故に薄伽梵は諸経の中に釈す、云何が取と為す、所謂欲貪なりと。取を縁と為すに由りて種種の後有を招くの業を積集するを説きて名づけて有と為す。世尊の阿難陀に告げて言うが如し、後有を招くの業を説きて名づけて有と為すと。有を縁と為すが故に、識相続して流れて未来の生に趣き、前の道理の如く五蘊を具足するを説きて名づけて生となす。生を以って縁と為して便ち老死あり。其の相の差別は広く説くこと経の如し」と云えり。以って其の説の大猷を見るべし。又大乗唯識宗に於いては十二支を以って唯一重の因果を説けるものとなし、就中、無明乃至有の十支は因、生及び老死の二支は果にして必ず同世に非ず、因の十の中、前の無明等の七と愛取有の三とは或いは異世或いは同世なるが故に、世には二世又は三世の別を生ずと雖も、唯一重の因果を説けるものなりとし、更に中に於いて能引支所引支及び能生支所生支の四種を分別せり。即ち「成唯識論巻8」に、「十二支を略摂して四となす、一に能引支は謂わく無明と行となり、能く識等の五種の果を引くが故なり。此の中、無明は唯能く正しく後世を感ずる善悪の業を発する者のみを取るなり。即ち彼の所発を乃ち名づけて行となす。此に由るに一切の順現受業と別助当業とは皆行支に非ず。二に所引支は謂わく本識内の、親しく当来の異熟果の摂たる識等の五を生ずべき種なり。是れ前の二支に引発せらるるが故なり。此の中、識の種とは謂わく本識の因なり。後の三因を除きて余の因は皆是れ名色の種の摂なり。後の三因は名の次第の如く即ち後の三の種なり。或いは名色の種に総じて五因を摂す、中に於いて勝なるに随って余の四種を立つ。六処と識との総別も亦た然り。(中略)三に能生支は謂わく愛と取と有となり。近く当来の生と老死を生ずるが故なり。謂わく内の異熟果に迷う愚に縁りて正しく能く後有を招く諸業を発し、縁となりて親しく当来の生老死の位の五果を生ずべき種を引発し、已りて復た外の増上果に迷う愚に依りて境界受を縁じて貪愛を発起し、愛を縁じて復た欲等の四取を生ず。愛と取と合して潤し、能引の業種及び所引の因転ずるを名づけて有となす。倶に能く近く後有の果を有するが故なり。(中略)四に所生支とは謂わく生と老死となり。是れ愛と取と有とに近く生ぜらるるが故なり。謂わく中有より本有の中に至りて、未だ衰変せざる来は皆生支の摂なり。諸の衰変する位を総じて名づけて老となし、身壊し命終するを乃ち名づけて死となす」と云える其の説なり。此の中、無明とは総別業を引発する第六意識相応の癡煩悩を指し、行とは無明所発の善不善等の三業にして、即ち思を以って体となし、順現受業及び唯別報業を除き、余の総別報を感ずる業を指すなり。前の無明と共に種子及び現行に通ず。此の二は能引支なり。所引支の中、識とは異熟の第八識の親種を指し、現行に通ぜず。名色とは異熟蘊の種子たる名言種にして、即ち想蘊の全と、色蘊(根を除く)行蘊(触を除く)及び識蘊(本識を除く)の一分とを指す。六処とは内の六処の種子にして、即ち眼等の五根の種子及び第六無間滅の意の種子を指し、触とは異熟の触の種子にして、即ち第八及び第六識相応の触の種を云い、受とは異熟受の心所の種子にして、即ち第八及び第六識相応の受の種を云う。又能生支の中、愛とは第六相応の俱生の煩悩にして、正しく後有の身を縁じて起す潤生の愛を云い、取とは生死を執取する一切の煩悩にして、愛と共に種既に通ず。有とは能引の業種たる行支、及び所引の識等の五支の種子にして、即ち業種と名言種との二に通じ、愛取の二支に依りて当来の果を有するを云う。所生支の中、生とは異熟の五蘊にして、即ち識等の五果の現行して未だ衰変せざる間を云い、老死とは五蘊衰変し及び身壊して命終するを云うなり。又此の中、無明と行とを能熏、識等の五を所熏、愛等の三を能潤、生老死の二を所潤となすなり。是れ即ち十二支を以って唯一重の因果を示せるものなりとし、且つ無明等は唯発業の煩悩を取る等となせるものにして、説一切有部の分位説と其の旨大いに同じからざるを見るべし。蓋し十二縁起の説は生死の由りて起る所以を究め、無因不平等因等の邪執を捨てしむると同時に、亦た老病死憂悲苦悩の本たる無明を抜くを以って其の所期とす。故に仏陀は諸弟子をして勤めて之を観ぜしめ、古来四諦観と共に仏教に於ける最も重要なる観行とせられつつあり。但し其の修観の法には順逆及び四諦安立等の種種の別あり。順逆観に関しては、「大毘婆沙論巻23」に、「云何が菩薩、順逆に十二縁起を観察するや。答う、若し因を以って果を推するを順観察と名づけ、若し果を以って因を推するを逆観察と名づく。復た次ぎに若し細より麁に入るを順観察と名づけ、若し麁より細に入るを逆観察と名づく。麁細の如く是の如く可見不可見、現見非現見、顕了非顕了も応に知るべし亦た爾り。復た次ぎに若し近に因りて遠を観ずるを順観察と名づけ、若し遠に因りて近を観ずるを逆観察と名づく。近遠の如く是の如く此に在り彼に在ると、現前非現前と、此の衆同分彼の衆同分とも応に知るべし亦た爾り」と云い、又「大乗阿毘達磨雑集論巻4」に、「順逆とは謂わく雑染順逆の故に、清浄順逆の故に是れを縁起順逆と説く。雑染順逆とは或いは流転の次第に依りて説く、謂わく無明は行に縁たりと。是の如き等は順次第の説なり。或いは安立諦に依りて説く、謂わく老死の苦と老死の集と老死の滅と老死の滅に趣く行となり。是の如き等は逆次第の説なり。清浄順逆とは謂わく無明滅するが故に行滅すと。是の如き等は順次第の説なり。誰の無なるが由るが故に老死無なるや、誰の滅の滅に由るが故に老死滅するやと。是の如き等は逆次第の説なり。応に是の如く縁生起の義を観ずべし。一切は皆是れ縁生なり。唯法界法処の一分の諸の無為法を除く。無因不平等因の我に執著するを遮せんが為の故に衆生を観察するなり」と云えり。是れ生死相生の次第に依り、無明は行に縁たり、乃至生は老死に縁たり等と観ずるを雑染順観の次第とし、安立諦に依りて老死等に各苦集滅道の四諦を安立し、之を観ずるを雑染逆観の次第とし、又無明滅するに由りて行滅す等と観ずるを清浄順観の次第となし、老死の滅は生の滅に由る等と観ずるを清浄逆観の次第となすなり。此の中、雑染逆観の次第を分別するに更に七十七智観、四十四智観等の別あり。即ち現在の生に由りて老死あり(即ち推因智)、又現在の生に由らずして而も老死あるに非ず(即ち審因智)と観じ、是の如く過去及び未来の老死を観ずるにも亦た二智あるが故に三世合して六智あり。更に支に摂せざる諸の有漏の慧を観じ、法住智を得るが故に、一支に総じて七智あり。無明は無因の故に之を除き、余の十一支に各七智あるを以って合して七十七智を成ず。之を前加行又は遠方便観となすなり。又安立諦に依りて老死乃至行の十一支に各苦集滅道の四諦あるが故に、総じて亦た四十四智を成ず、之を後加行又は近方便観となすなり。又「雑阿含経巻12」に依るに、十二支の中、無明及び行を観ぜず唯十支を観じ、識に斉(かぎ)りて退還するの説あり。之に関し「大毘婆沙論巻24」に、流転分の中には但だ十支を観じ、還滅分の中には具に十二支を観ずとし、且つ仏陀が唯十支を観じ、識に至りて転還せられたる所以を問答し、「問う、菩薩は何故に縁起を逆観し、唯だ識に至りて心便ち転還せるや、智力窮まれるとせんや、爾焔尽きたりとせにゃ。設し爾らば何の失かある、若し智力窮まらば正理に応ぜず、菩薩は智見辺際なきが故なり。若し爾焔尽きば理亦た然らず。行と無明と猶お未だ観ぜざるが故なり。答う、応に是の説を作すべし、智力窮まれるに非ず、爾焔尽きたるに非ず。但だ菩薩は行と無明とに於いて先に已に観ずるに由るが故なり。謂わく先に有を観ずるは則ち已に行を観じ、先に愛取を観ずるは已に無明を観ずるなり。問う、先に老死を観ずるは已に名色と六処と触と受とを観ず、先に生を観ずるは已に識を観ず。名色等に於いて応に重観せざるべし。答う、先は略にして後は広、先は総にして後は別なり、重観の失なし。問う、若し爾らば生と識とは広略の異なし、何ぞ重観を為すや。答う、生を厭畏するが故に再観するも失なし、謂わく我が世尊先に菩薩位に老病死を厭い、城を逾えて出家し、是の思惟を作す、此の老死の苦は誰に由りてか有なると。即便ち現見するに続生の心に由る。復た思う、此の心は誰に由りてか起る、即ち知る業に由ると。復た思う此の業は何に従ってか生ずる、煩悩に従うと知る。復た思う煩悩は誰に依りてか生ずる、即ち知る事に依ると。復た思う此の事は誰に由りてか転ずる、即ち知る此の転は結生の心に由ると。菩薩爾の時便ち是の念を作す、一切の過患は皆此の心に由ると。故に此の心に於いて深く厭畏を生じ、広略なしと雖も而も更に重観す。識に斉りて転還するは義此れに属す」と云えり。以って趣旨を見るべし。又「般若心経幽賛巻下」に此の説を敷演し、「縁起の中に於いて先づ逆に観察するに、三種の相を以って老死支を観ず。一に細因縁、二に麁因縁、三に非不定なり。生を感ずる因縁を細と名づく、謂わく愛取有なり。生の自体を麁と名づく、謂わく生支なり。此の二生に由りて而も老死あり、当来老死の細生を因と為し、現法老死の麁生を因と為し、二生の体を除きて余は定んで能く老死の果を起すことなきを非不定と名づく。老死の苦諦を愛に至りて観ずと雖も、後際の苦并びに彼の集諦に於いて未だ喜足を為さず。還って復た後の集の因縁と現在の衆苦を観ず、謂わく遍く受と触と六処と名色と識とを逆観し、未来の苦は是れ当の苦諦なりと観じ、彼の集因は是れ当の集諦なりと観じ、未来世の苦の集諦は誰に由りて有なるやを観じ、先の集に従って生起せられたる識を辺際と為し、現法の苦に由りて有なるを知り、既に先の集に従って生起せられたるを知りて、復た此れは云何が有なるやを観ずべからず。識と名色とは譬えば束蘆の如く、展転相縁して作者等なきに由る、是の故に観察は識に斉りて退還す。是の如く順逆に苦集を観察するは唯十支のみなり」と云えり。是れ初習位に約して斉識退還観の相を明せるなり。又「天台四教儀集註巻6」には前記有部等の諸説を会合し、若し三世両重の十二因縁を観ぜば断常二見を破す、所謂過現未三世に渉りて両重の因果を観じ、以って生死因果なしと執する断見、及び我の常住を執する常見を治すとし、又二世一重の十二因縁を観ぜば著我見を破す、所謂有情は因縁に依りて生ずと観ずるを以って、神我を執する著我の妄見を治し、又刹那一念の十二因縁を観ぜば性実見を破す、即ち有情は刹那に生じ、刹那に滅すと観ずるに由りて、実体実性ありと執する性実の邪見を破す。此の如く三種の十二因縁観を以って三種の愚癡邪見を破すとなせり。又「中阿含巻21説処経」、「同巻24大因経」、「雑阿含経巻12、13」、「増一阿含経巻30」、「長阿含経巻10大縁方便経」、「過去現在因果経巻3」、「貝多樹下思惟十二因縁経」、「縁起聖道経」、「大法鼓経巻上」、「旧華厳経巻25」、「大般涅槃経巻27、34」、「坐禅三昧経巻下」、「達磨多羅禅経巻下」、「菩薩瓔珞本業経巻上」、「法蘊足論巻10」、「雑阿毘曇心論巻8」、「分別功徳論巻1」、「彰所知論巻下」、「大智度論巻2、31、44、80」、「十二因縁論」、「順正理論巻25至28」、「瑜伽師地論巻9、10、93、94」、「顕揚聖教論巻16」、「十地経論巻8」、「大乗義章巻4」、「法界次第初門巻中之下」、「倶舎論光記巻9」、「法華経玄賛巻7」、「金光明最勝王経疏巻6」等に出づ。<(望)
  十二因縁の考察:十二因縁に関し説一切有部に於ける三世分位説は、生老死を実有のものと取るに当たり、その脱るる道を求索する中に於いて、釈尊所説の十二因縁を以って、其の中の無明を滅することに由って道を得んと画するものの如くなるも、若ししからば恐らくは仏説の真意を著しく歪曲せるものと言わざるべからず。今阿含中に十二因縁を見るに、即ち「長阿含巻1大本経」に、「復た是の念を作さく、衆生は愍むべし、常に闇冥に処して身の危脆を受け、生有り、老有り、病有り、死有り、衆苦の集まる所、此に死して彼に生じ、彼より此に生じ、此の苦陰を縁じて、流転窮まり無し。我れは当に何れの時にか、苦陰を暁了して、生老死を滅すべしと。復た是の念を作さく、生死は何に従り、何を縁じてか有る、即ち智慧を以って所由を観察すれば、生従り老死有り、生は是れ老死の縁なり。生は有従り起る、有は是れ生の縁なり。有は取従り起る、取は是れ有の縁なり。取は愛従り起る、愛は是れ取の縁なり。愛は受従り起る、受は是れ愛の縁なり。受は触従り起る、触は是れ受の縁なり。触は六入従り起る、六入は是れ触の縁なり。六入は名色従り起る、名色は是れ六入の縁なり。名色は識従り起る、識は是れ名色の縁なり。識は行従り起る、行は是れ識の縁なり。行は癡従り起る、癡は是れ行の縁なり。是れを癡を縁じて行有り、行を縁じて識有り、識を縁じて名色有り、名色を縁じて六入あり、六入を縁じて触有り、触を縁じて受有り、受を縁じて愛有り、愛を縁じて取有り、取を縁じて有有り、有を縁じて生有り、生を縁じて老病死憂悲苦悩有りと為す。此の苦盛の陰は、生を縁じて有り。是れを苦集と為す。菩薩の苦集の陰を思惟する時、智を生じ、眼を生じ、覚を生じ、明を生じ、通を生じ、慧を生じ、証を生ずと。時に於いて菩薩は復た自ら思惟すらく、何等の無なるが故にか老死無なる。何等の滅するが故にか老死滅する。即ち智慧を以って所由を観察すらく、生無きが故に老死無し、生滅するが故に老死滅す。有無きが故に生無し、有滅するが故に生滅す。取無きが故に有無し、取滅するが故に有滅す。愛無きが故に取無し、愛滅するが故に取滅す。受無きが故に愛無し、受滅するが故に愛滅す。触無きが故に受無し、触滅するが故に受滅す。六入無きが故に触無し、六入滅するが故に触滅す。名色無きが故に六入無し、名色滅するが故に六入滅す。識無きが故に名色無し、識滅するが故に名色滅す。行無きが故に識無し、行滅するが故に識滅す。癡無きが故に行無し、癡滅するが故に行滅す。是れを癡滅するが故に行滅す、行滅するが故に識滅す、識滅するが故に名色滅す、名色滅するが故に六入滅す、六入滅するが故に触滅す、触滅するが故に受滅す、受滅するが故に愛滅す、愛滅するが故に取滅す、取滅するが故に有滅す、有滅するが故に生滅す、生滅するが故に老死憂悲苦悩滅すと為すと。菩薩の苦陰の滅を思惟する時、智を生じ、眼を生じ、覚を生じ、明を生じ、通を生じ、慧を生じ、生を生ぜり」と云えるが如き其の最も典型的の説なり。此の中、無明又は癡avidyaaは知識のないことを云い、行saMskaaraは動作、行為の義を有する語にして、心の動き、即ち五蘊中の行蘊、即ち思うことを云う、識vijJaanaは覚知、識別、識知するを云い、名色naama- ruupaは名づくる行為及び形、姿の意にして色及び、其の色に名づくるを云い、又引いては人の身心を表す、六入又は六処SaD- aayatanaは六の住居を云い、触sparzaは触れる行為を云い、受vedanaaは知覚、感受するを云い、愛tRSnaaは喉の渇きに基づく語にして、欲望を指し、取upaadaanaは取りて自己の物となさんとする意向、意志を云い、有bhavaは誕生、生起、存在の意を表し、生jaatiは生まれることを云い、老死jaraa- maraNaは老い及び死の意を表す。既に「大本経」により知る、釈尊はこれ以上の説明を必要とされず、弟子衆も亦た善くそれを理解したのである。今其の中の各支の名を挙げ、その意味を考察するも、極めて普通の語にして、理解しがたい所は皆無である。即ち釈尊は先づ、生老死の苦は知識の欠乏に因ると教えられたのであり、十二支中の最初と最後を知れば、中は自づと明らかである。然るに十二支を説かれたのは極めて疑り深い者のためであるが、今釈尊のことばを敷演すれば、およそ次の如くであろう、老死の苦は、今現在、実に生じておると信ずるに従る。何故生ずると信ずるのか、それは自己の存在を妄信するからである(自己の存在を信ずるとは、他に異なると信ずるを云う)。何故自己の存在を妄信するのか、本来自らの所有にあらざる我我所、即ち自己と自己の依止する身心、并びに所有物に執著するからである。何故執著するのか、境、即ち目にし耳にする所を愛するからである。何故愛するのか、苦楽憂喜を受けるからである。何故苦楽憂喜を受けるのか、境に触れるからである。何故触れるのか、眼等の六入に従る。六入は何に従るのか、名色、即ち事物と、それを判別せんとする心作用に従る。名色は何に従るのか、識、即ち識知判別作用に従る。識は何に従るのか、行、即ち心に思うことに従る。行は何に従るのか、癡、即ち知識のないことに従る。即ち心に空智なきが故に、思うこと有り、思うこと有るが故に識知、判別すること有り、識知判別有るが故に物を見て判別せんとすること有り、物を見て判別するが故に六根を働かして境を求むる有り、六根境を求むるが故に境に触るる有り、境に触るるが故に苦楽憂喜を受くる有り、苦楽憂喜を受くるが故に愛する有りて更に受けんことを求む、愛有るが故に自己の所有ならざるを取らんとする有り、取らんとする有るが故に自己を他に区別して自己有りとなす、自己有りとするが故に生ず、生ずるが故に老死の苦有り。即ち空智無きが故に老死の苦有りとなす、是れを十二因縁と為す。理は、既に経中に明らかなり。何ぞ小乗有部の教説、大乗唯識の教説を信ぜんや。
復次佛知五百歲後學者分別諸法相各異。離色法說識。離識法說色。欲破是諸見令入畢竟空故。識中雖無五情。而說識即是六情。六情中雖不具五眾。而說六情即是五眾。 復た次ぎに、仏は、五百歳の後の学者の諸法の相を分別して、各異らしめ、色法を離れて識を説き、識法を離れて色を説くを知り、是の諸見を破りて、畢竟空に入らしめんと欲するが故に、識中に五情無しと雖も、識は即ち是れ六情なりと説き、六情中に五衆を具せずと雖も、六情は即ち是れ五衆なりと説きたまえり。
復た次ぎに、
『仏』は、こう知られると、――
『五百歳の後の学者』は、
『諸法の相が各異なる、と分別して!』、
『色法を離れて!』、
『識』を、
『説き!』、
『識法を離れて!』、
『色』を、
『説く!』、と。
是の、
『諸見を破って、畢竟空に入らせようとされた!』が故に、
『識中には、五情が無い!』のに、
『識は、即ち六情である!』と、
『説き!』、
『六情中には、五衆を具えていない!』のに、
『六情は、即ち五衆である!』と、
『説かれたのである!』。
復次先世但有心住六情。作種種憶想分別故。生今世六情五眾身。從今世身起種種結使。造後世六情五眾。如是等展轉。是故說識即是六情六情即是五眾。是法內空中不可得。乃至無法有法空中不可得 復た次ぎに、先世には、但だ心有りて六情に住し、種種の憶想、分別を作すが故に、今世の六情と、五衆の身を生じ、今世の身より種種の結使を起し、後世の六情、五衆を造り、是れ等の如く展転すれば、是の故に、『識は即ち是れ六情、六情は即ち是れ五衆なり』、と説きたもうも、是の法は内空中に不可得、乃至無法有法空中に不可得なり。
復た次ぎに、
『先世』には、
『但だ、六情に住する心が有るだけである!』が、
『種種の憶想、分別を作す!』が故に、
『今世の六情、五衆の身』を、
『生じ!』、
是の、
『心』が、
『今世の身に従って!』、
『種種の結使を起し!』、
是の故に、
『後世の六情、五衆』を、
『造り!』、
是れ等のように、
『心』が、
『展転する( to succeed )!』ので、
是の故に、こう説かれたのであるが、――
『識は、即ち六情であり!』、
『六情は、即ち五衆である!』、と。
是の、
『法』は、
『内空』中にも、
『不可得であり!』、
乃至、
『無法有法空』中にも、
『不可得なのである!』。
  展転(てんでん):梵語 parampara, anyonya の訳、引き続く/[父から子のように]次々と続く/継続的に/繰り返して( one following the other, proceeding from one to another (as from father to son), successive, repeated )の義。



【經】薩婆若に応じる心で、諸法実相を観る

【經】須菩提白佛言。世尊。新發大乘意菩薩聞說般若波羅蜜。將無驚怖畏。 須菩提の仏に白して言さく、『世尊、新たに大乗の意を発せし菩薩は、般若波羅蜜を説くを聞いて、将(あ)に驚いて怖畏する無けんや』、と。
『須菩提』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
『新発意の菩薩』が、
『般若波羅蜜が説かれる!』のを、
『聞いて!』、
何うして、
『驚いて怖畏すること!』が、
『無いのですか?』。
  新発大乗意(しんほつだいじょうい)、新発意(しんほつい):梵語 nava- yaana- samprasthita の訳、新たに仏果に至る乗り物に乗ること/乗る者( to beggin to ride on a vehicle to advance towards the Buddhahood or one who does so )の意。
  (しょう):まさに。なんぞ。あに。なお。当、何、豈、猶、尚等に同じ。
  参考:『大般若経巻42』:『爾時具壽善現復白佛言。世尊。新發趣大乘菩薩摩訶薩。聞說如是甚深般若波羅蜜多。其心將無驚恐怖不。佛告善現。新發趣大乘菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多時。若無方便善巧不為善友之所攝受。聞說如是甚深般若波羅蜜多。其心有驚有恐有怖。爾時善現白言。世尊。何等菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多時。有方便善巧故聞說如是甚深般若波羅蜜多。其心不驚不恐不怖。佛告善現。若菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多時。以應一切智智心。觀色常無常相不可得。觀受想行識常無常相不可得。以應一切智智心。觀色樂苦相不可得。觀受想行識樂苦相不可得。以應一切智智心觀色我無我相不可得。觀受想行識我無我相不可得。以應一切智智心。觀色淨不淨相不可得。觀受想行識淨不淨相不可得。以應一切智智心。觀色空不空相不可得。觀受想行識空不空相不可得。以應一切智智心。觀色無相有相相不可得。觀受想行識無相有相相不可得。以應一切智智心。觀色無願有願相不可得。觀受想行識無願有願相不可得。以應一切智智心。觀色寂靜不寂靜相不可得。觀受想行識寂靜不寂靜相不可得。以應一切智智心。觀色遠離不遠離相不可得。觀受想行識遠離不遠離相不可得。善現。如是菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多時。有方便善巧故。聞說如是甚深般若波羅蜜多。其心不驚不恐不怖』
佛告須菩提。若新發大乘意菩薩。於般若波羅蜜無方便。亦不得善知識。是菩薩或驚或怖或畏。 仏の須菩提に告げたまわく、『若し新たに大乗の意を発せし菩薩が、般若波羅蜜に於いて方便無く、亦た善知識を得ざれば、是の菩薩は、或は驚き、或は怖れ、或は畏れん』、と。
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
若し、
『新発意の菩薩』が、
『般若波羅蜜を行じながら!』、
『方便』が、
『無かったり!』、
亦たは、
『善知識』を、
『得られなければ!』、
是の、
『菩薩』は、
『或は、驚いたり!』、
『或は、怖畏したりするかもしれない!』、と。
須菩提白佛言。世尊。何等是方便。菩薩行是方便不驚不畏不怖。 須菩提の仏に白して言さく、『世尊、何等か、是れ方便にして、菩薩は是の方便を行じて驚かず、畏れず、怖れざる』。
『須菩提』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
『菩薩』が、
是の、
『方便を行じれば!』、
『驚くこともなく、畏怖することもない!』とは、
何のような、
『方便ですか?』、と。
佛告須菩提。有菩薩摩訶薩。行般若波羅蜜應薩婆若心。觀色無常相是亦不可得。觀受想行識無常相是亦不可得。須菩提。是名菩薩摩訶薩行般若波羅蜜中方便。 仏の須菩提に告げたまわく、『有る菩薩摩訶薩の般若波羅蜜を行ずるは、薩婆若に応ずる心もて、色の無常相は、是れも亦た不可得なりと観、受想行識の無常相は、是れも亦た不可得なりと観る。須菩提、是れを菩薩摩訶薩の般若波羅蜜を行ずる中の方便と名づく。
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
有る、
『菩薩摩訶薩が、般若波羅蜜を行じ!』、
『薩婆若に応じる心で( with minds fitting to Sarvajna )!』、
『色の無常相』も、
『不可得である!』と、
『観!』、
『受想行識の無常相』も、
『不可得である!』と、
『観れば!』、
須菩提!
是れを、
『菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を行じる中の方便』と、
『称する!』。
復次須菩提。菩薩摩訶薩應薩婆若心。觀色苦相是亦不可得。受想行識亦如是。應薩婆若心。觀色無我相是亦不可得。受想行識亦如是。 復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は、薩婆若に応ずる心もて、色の苦相は是れも亦た不可得なりと観、受想行識も亦た是の如く、薩婆若に応ずる心もて、色の無我相は是れも亦た不可得なりと観、受想行識も亦た是の如し。
復た次ぎに、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』は、
『薩婆若に応じる心で!』、
『色の苦相』も、
『不可得である!』と、
『観!』、
亦た、
『受想行識』も、
『是の通りである!』。
『薩婆若に応じる心で!』、
『色の無我相』も、
『不可得である!』と、
『観!』、
亦た、
『受想行識』も、
『是の通りである!』。
復次須菩提。菩薩摩訶薩應薩婆若心。觀色空相是亦不可得。受想行識亦如是。觀色無相相是亦不可得。受想行識亦如是。觀色無作相是亦不可得。受想行識亦如是。觀色寂滅相是亦不可得。乃至識亦如是。觀色離相是亦不可得。乃至識亦如是。是名菩薩摩訶薩行般若波羅蜜中方便。 復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は、薩婆若に応ずる心もて、色の空相は是れも亦た不可得なりと観、受想行識も亦た是の如く、色の無相相は是れも亦た不可得なりと観、受想行識も亦た是の如く、色の無作相は是れも亦た不可得なりと観、受想行識も亦た是の如く、色の寂滅相は是れも亦た不可得なりと観、乃至識も亦た是の如く、色の離相は是れも亦た不可得なりと観、乃至識も亦た是の如し。是れを菩薩摩訶薩の般若波羅蜜を行ずる中の方便と名づく。
復た次ぎに、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』は、
『薩婆若に応じる心で!』、
『色の空相』も、
『不可得である!』と、
『観!』、
亦た、
『受想行識』も、
『是の通りである!』。
『色の無相相』も、
『不可得である!』と、
『観!』、
亦た、
『受想行識』も、
『是の通りである!』。
『色の無作相』も、
『不可得である!』と、
『観!』、
亦た、
『受想行識』も、
『是の通りである!』。
『色の寂滅相』も、
『不可得である!』と、
『観!』、
乃至、
『識』も、
『是の通りである!』。
『色の離相』も、
『不可得である!』と、
『観!』、
乃至、
『識』も、
『是の通りである!』。
是れを、
『菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を行じる中の方便』と、
『称する!』。
復次須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。觀色無常相是亦不可得。觀色苦相無我相空相無相相無作相寂滅相離相。是亦不可得。受想行識亦如是。是時菩薩作是念。我當為一切眾生說是無常法是亦不可得。當為一切眾生說苦相無我相空相無相相無作相寂滅相離相。是亦不可得。是名菩薩摩訶薩檀波羅蜜。 復た次ぎに、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行じて、色の無常相は、是れも亦た不可得なりと観、色の苦相、無我相、空相、無相相、無作相、寂滅相、離相は、是れも亦た不可得なりと観、受想行識も亦た是の如し。是の時菩薩は、是の念を作さく、『我れは当に一切の衆生の為めに、是の無常の法は、是れも亦た不可得なりと説くべく、当に一切の衆生の為めに苦相、無我相、空相、無相相、無作相、寂滅相、離相は、是れも亦た不可得なりと説くべし』、と。是れを菩薩摩訶薩の檀波羅蜜と名づく。
復た次ぎに、
須菩提!
『菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行じて!』、
『色の無常相』も、
『不可得である!』と、
『観!』、
『色の苦相、無我相、空相、無相相、無作相、寂滅相、離相』も、
『不可得である!』と、
『観!』、
亦た、
『受想行識』も、
『是の通りである!』。
是の時、
『菩薩』は、こう念じる、――
わたしは、
『一切の衆生の為め!』に、
是の、
『無常の法も、不可得である!』と、
『説かねばならず!』、
『一切の衆生の為め!』に、
『苦相、乃至離相も不可得である!』と、
『説かねばならない!』、と。
是れを、
『菩薩摩訶薩の檀波羅蜜』と、
『称する!』。
復次須菩提。菩薩摩訶薩不以聲聞辟支佛心觀色無常亦不可得。不以聲聞辟支佛心觀識無常亦不可得。不以聲聞辟支佛心觀色苦無我空無相無作寂滅離亦不可得。受想行識亦如是。是名菩薩摩訶薩尸羅波羅蜜。 復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は、声聞、辟支仏の心を以って、色の無常も亦た不可得なりと観ず、声聞、辟支仏の心を以って、識の無常も亦た不可得なりと観ず、声聞、辟支仏の心を以って、色の苦、無我、空、無相、無作、寂滅、離も亦た不可得なりと観ず。受想行識も亦た是の如ければ、是れを菩薩摩訶薩の尸羅波羅蜜と名づく。
復た次ぎに、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』が、
『声聞、辟支仏の心』で、
『色の無常、苦、無我、空、無相、無作、寂滅、離も不可得である!』と、
『観ず!』、
亦た、
『受想行識』も、
『是の通りならば!』、
是れを、
『菩薩摩訶薩の尸羅波羅蜜』と、
『称する!』。
復次須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。是諸法無常相乃至離相忍欲樂。是名菩薩摩訶薩羼提波羅蜜。 復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行じて、是の諸法の無常相、乃至離相を忍んで、楽しまんと欲すれば、是れを菩薩摩訶薩の羼提波羅蜜と名づく。
復た次ぎに、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』が、
『般若波羅蜜を行じながら!』、
是の、
『諸法の無常相、乃至離相』を、
『忍んで!』、
『楽しもうとすれば!』、
是れを、
『菩薩摩訶薩の羼提波羅蜜』と、
『称する!』。
復次須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。應薩婆若心。觀色無常相亦不可得。乃至離相亦不可得。受想行識亦如是。應薩婆若心不捨不息。是名菩薩摩訶薩毘梨耶波羅蜜。 復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行じ、薩婆若に応ずる心もて、色の無常相も亦た不可得、乃至離相も亦た不可得なりと観、受想行識も亦た是の如く、薩婆若に応ずる心を捨てず、息まざれば、是れを菩薩摩訶薩の毘梨耶波羅蜜と名づく。
復た次ぎに、
須菩提!
『菩薩摩訶薩が、般若波羅蜜を行じながら!』、
『薩婆若に応じる心』で、
『色』の、
『無常相、乃至離相は不可得である!』と、
『観て!』、
亦た、
『受想行識』も、
『是の通りであり!』、
亦た、
『薩婆若に応じる心』を、
『捨てることもなく、息むこともなければ!』、
是れを、
『菩薩摩訶薩の毘梨耶波羅蜜』と、
『称する!』。
復次須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。不起聲聞辟支佛意及餘不善心。是名菩薩摩訶薩禪波羅蜜。 復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行じて、声聞、辟支仏の意、及び餘の不善心を起さざれば、是れを菩薩摩訶薩の禅波羅蜜と名づく。
復た次ぎに、
須菩提!
『菩薩摩訶薩が、般若波羅蜜を行じながら!』、
『声聞、辟支仏に向う!』、
『意』を、
『起さず!』、
及び、
『餘の不善心』を、
『起さなければ!』、
是れを、
『菩薩摩訶薩の禅波羅蜜』と、
『称する!』。
復次須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。如是思惟。不以空色故色空。色即是空空即是色。受想行識亦如是。不以空眼故眼空。眼即是空空即是眼。乃至意觸因緣生受。不以空受故受空。受即是空空即是受。不以空四念處故四念處空。四念處即是空。空即是四念處。乃至不以空十八不共法故十八不共法空。十八不共法即是空。空即是十八不共法。 復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行じて、是の如く思惟すらく、『空の色なるを以って故に色は空なるにあらず。色は即ち是れ空、空は即ち是れ色、受想行識も亦た是の如く、空の眼なるを以っての故に眼は空なるにあらず。眼は即ち是れ空、空は即ち是れ眼なり。乃至意触因縁生の受まで、空の受なるを以っての故に受は空なるにあらず。受は即ち是れ空、空は即ち是れ受なり。空の四念処なるを以っての故に、四念処は空なるにあらず。四念処は即ち是れ空、空は即ち是れ四念処なり。乃至空の十八不共法なるを以っての故に十八不共法は空なるにあらず。十八不共法は即ち是れ空、空は即ち是れ十八不共法なり』、と。
復た次ぎに、
須菩提!
『菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行じながら!』、こう思惟する、――
『空が色である!』が故に、
『色』が、
『空なのではない!』、
『色とは、即ち空であり!』、
『空』が、
『即ち、色なのである!』。
亦た、
『受想行識』も、
『是の通りであり!』、
亦た、
『眼乃至意触因縁生の受、四念処乃至十八不共法』も、
『是の通りである!』、と。
  (い):~という意味で/~の故に/~と思う/~の為めに( by means of; thereby, therefore; consider as; in order to )。
  参考:『大般若経巻43』:『善現。若菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多時。作如是觀。非空色故色空。色即是空。空即是色。受想行識亦復如是。非空眼處故眼處空。眼處即是空。空即是眼處。耳鼻舌身意處亦復如是。非空色處故色處空。色處即是空。空即是色處。聲香味觸法處亦復如是。非空眼界故眼界空。眼界即是空。空即是眼界。色界眼識界及眼觸眼觸為緣所生諸受亦復如是。非空耳界故耳界空。耳界即是空。空即是耳界。聲界耳識界及耳觸耳觸為緣所生諸受亦復如是。非空鼻界故鼻界空。鼻界即是空。空即是鼻界。香界鼻識界及鼻觸鼻觸為緣所生諸受亦復如是。非空舌界故舌界空。舌界即是空。空即是舌界。味界舌識界及舌觸舌觸為緣所生諸受亦復如是。非空身界故身界空。身界即是空。空即是身界。觸界身識界及身觸身觸為緣所生諸受亦復如是。非空意界故意界空。意界即是空。空即是意界。法界意識界及意觸意觸為緣所生諸受亦復如是。非空地界故地界空。地界即是空。空即是地界。水火風空識界亦復如是。非空苦聖諦故。苦聖諦空。苦聖諦即是空。空即是苦聖諦。集滅道聖諦亦復如是。非空無明故無明空。無明即是空。空即是無明。行識名色六處觸受愛取有生老死愁歎苦憂惱亦復如是。非空四靜慮故四靜慮空。四靜慮即是空。空即是四靜慮。四無量四無色定亦復如是。非空四念住故。四念住空。四念住即是空。空即是四念住。四正斷四神足五根五力七等覺支八聖道支亦復如是。非空空解脫門故空解脫門空。空解脫門即是空。空即是空解脫門。無相無願解脫門亦復如是。非空布施波羅蜜多故布施波羅蜜多空。布施波羅蜜多即是空。空即是布施波羅蜜多。淨戒安忍精進靜慮般若波羅蜜多亦復如是。非空五眼故五眼空。五眼即是空。空即是五眼。六神通亦復如是。非空佛十力故佛十力空。佛十力即是空。空即是佛十力。四無所畏四無礙解大慈大悲大喜大捨十八佛不共法一切智道相智一切相智亦復如是。善現。是為菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多時無所著般若波羅蜜多。如是菩薩摩訶薩由此般若波羅蜜多。有方便善巧故。聞說如是甚深般若波羅蜜多。其心不驚不恐不怖』
如是須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。不驚不畏不怖。 是の如く、須菩提、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずれば、驚かず、畏れず、怖れざるなり。
是のように、
須菩提!
『菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行じる!』ので、
『驚くこともなく!』、
『畏怖することもないのである!』。
須菩提白佛言。世尊。何等是菩薩摩訶薩善知識守護故。聞說是般若波羅蜜。不驚不畏不怖。 須菩提の仏に白して言さく、『世尊、何等か是れ菩薩摩訶薩の善知識にして守護するが故に、是の般若波羅蜜を説くを聞いて驚かず、畏れず、怖れざる』、と。
『須菩提』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
何のような、
『善知識』が、
『菩薩摩訶薩』を、
『守護する!』が故に、
是の、
『般若波羅蜜が説かれるのを、聞いても!』、
『驚くこともなく!』、
『畏怖することもないのですか?』。
佛告須菩提。菩薩摩訶薩善知識者。說色無常亦不可得。持是善根不向聲聞辟支佛道。但向一切智。是名菩薩摩訶薩善知識。說受想行識無常亦不可得。持是善根不向聲聞辟支佛道。但向一切智。是名菩薩摩訶薩善知識。 仏の須菩提に告げたまわく、『菩薩摩訶薩の善知識とは、色の無常も亦た不可得なりと説き、是の善根を持して、声聞、辟支仏の道に向わず、但だ一切智に向かえば、是れを菩薩摩訶薩の善知識と名づけ、受想行識の無常も亦た不可得なりと説いて、是の善根を持して、声聞、辟支仏の道に向わず、但だ一切智に向えば、是れを菩薩摩訶薩の善知識と名づく。
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
『菩薩摩訶薩の善知識』は、
『色の無常も不可得である、と説きながら!』、
是の、
『善根を持って( having taken with this good-deed )!』、
『声聞、辟支仏の道』に、
『向わず!』、
但だ、
『一切智のみ!』に、
『向えば!』、
是れを、
『菩薩摩訶薩の善知識』と、
『称し!』、
『受想行識の無常も不可得である、と説きながら!』、
是の、
『善根を持って!』、
『声聞、辟支仏の道』に、
『向わず!』、
但だ、
『一切智のみ!』に、
『向えば!』、
是れを、
『菩薩摩訶薩の善知識』と、
『称するのである!』。
須菩提。菩薩摩訶薩復有善知識。說色苦亦不可得。說受想行識苦亦不可得。說色無我亦不可得。受想行識無我亦不可得。說色空無相無作寂滅離亦不可得。受想行識空無相無作寂滅離亦不可得。持是善根不向聲聞辟支佛道。但向一切智。須菩提。是名菩薩摩訶薩善知識。 須菩提、菩薩摩訶薩には、復た善知識有り、色の苦も亦た不可得なりと説き、受想行識の苦も亦た不可得なりと説き、色の無我も亦た不可得なり、受想行識の無我も亦た不可得なりと説き、色の空、無相、無作、寂滅、離も亦た不可得なり、受想行識の空、無相、無作、寂滅、離も亦た不可得なりと説き、是の善根を持して、声聞、辟支仏の道に向わず、但だ一切智に向えば、須菩提、是れを菩薩摩訶薩の善知識と名づく。
須菩提!
『菩薩摩訶薩には、復た善知識が有り!』、
『色や、受想行識の苦』も、
『不可得である!』と、
『説き!』、
『色や、受想行識の無我、空、無相、無作、寂滅、離』も、
『不可得である!』と、
『説き!』、
是の、
『善根を持って!』、
『声聞、辟支仏の道』に、
『向わず!』、
但だ、
『一切智のみ!』に、
『向えば!』、
須菩提!
是れを、
『菩薩摩訶薩の善知識』と、
『称するのである!』。
須菩提。菩薩摩訶薩復有善知識。說眼無常乃至離亦不可得。乃至意觸因緣生受。說無常乃至離亦不可得。持是善根不向聲聞辟支佛道。但向一切智。是名菩薩摩訶薩善知識。 須菩提、菩薩摩訶薩には復た善知識有り、眼の無常乃至離も亦た不可得なりと説き、乃至意触因縁生の受の無常乃至離も亦た不可得なりと説き、是の善根を持して、声聞、辟支仏の道に向わず、但だ一切智に向えば、是れを菩薩摩訶薩の善知識と名づく。
須菩提!
『菩薩摩訶薩には、復た善知識が有り!』、
『眼の無常乃至離』も、
『不可得である!』と、
『説き!』、
乃至、
『意触因縁生の受の無常乃至離』も、
『不可得である!』と、
『説き!』、
是の、
『善根を持って!』、
『声聞、辟支仏の道』に、
『向わず!』、
但だ、
『一切智のみ!』に、
『向えば!』、
是れを、
『菩薩摩訶薩の善知識』と、
『称するのである!』。
須菩提。菩薩摩訶薩復有善知識。說修四念處法乃至離亦不可得。持是善根不向聲聞辟支佛道。但向一切智。須菩提。是名菩薩摩訶薩善知識。乃至說修十八不共法修一切智亦不可得。持是善根不向聲聞辟支佛道。但向一切智。是名菩薩摩訶薩善知識 須菩提、菩薩摩訶薩には復た善知識有り、四念処の修する法の乃至離も亦た不可得なりと説き、是の善根を持して、声聞、辟支仏の道に向わず、但だ一切智に向えば、須菩提、是れを菩薩摩訶薩の善知識と名づけ、乃至十八不共法を修し、一切智を修するも亦た不可得なりと説き、是の善根を持して声聞、辟支仏の道に向わず、但だ一切智に向えば、是れを菩薩摩訶薩の善知識と名づく。
須菩提!
『菩薩摩訶薩には、復た善知識が有り!』、
『四念処を修する法の無常乃至離』も、
『不可得である!』と、
『説き!』、
是の、
『善根を持って!』、
『声聞、辟支仏の道』に、
『向わず!』、
但だ、
『一切智のみ!』に、
『向えば!』、
須菩提!
是れを、
『菩薩摩訶薩の善知識』と、
『称し!』、
乃至、
『十八不共法や、一切智を修すること!』も、
『不可得である!』と、
『説き!』、
是の、
『善根を持って!』、
『声聞、辟支仏の道』に、
『向わず!』、
但だ、
『一切智のみ!』に、
『向えば!』、
是れを、
『菩薩摩訶薩の善知識』と、
『称するのである!』。



【論】薩婆若に応じる心で、諸法実相を観る

【論】問曰。須菩提何以生此疑問。佛言。新發意菩薩聞是將無恐怖。 問うて曰く、須菩提は何を以ってか、此の疑を生じ、仏に問うて言わく、『新発意の菩薩は、是れを聞いて将(あ)に恐怖無しや』、と。
問い、
『須菩提』は、
何故、
此の、
『疑を生じて!』、
『仏に問うて!』、こう言ったのですか?――
『新発意の菩薩』に、
何うして、
『恐怖』が、
『無いのですか?』、と。
答曰。聞無有菩薩行般若波羅蜜者。但空五眾法。亦不能行般若波羅蜜。以是故生疑。誰當行般若波羅蜜。是故問佛。佛言若菩薩內外因緣不具足當有恐怖。 答えて曰く、『菩薩の般若波羅蜜を行ずる者有ること無く、但だ空の五衆の法も、亦た般若波羅蜜を行ずる能わず』、と聞き、是を以っての故に疑を生ずらく、『誰か、当に般若波羅蜜を行ずべき』、と。是の故に仏に問えば、仏の言わく、『若し菩薩の内外の因縁具足せざれば、当に恐怖有るべし』、と。
答え、
『須菩提』は、こう聞いたので、――
『般若波羅蜜を行じるような!』、
『菩薩』は、
『無く!』、
『但だ、空にすぎない( only being empty )!』、
『五衆の法』も、
『般若波羅蜜を行じることはできない!』、と。
是の故に、
『疑を生じた!』、――
誰が、
『般若波羅蜜』を、
『行じることになるのか?』、と。
是の故に、
『仏』に、
『問うたのである!』が、
『仏』は、こう言われた、――
若し、
『菩薩』の、
『内外の因縁』が、
『具足していなければ!』、
当然、
『恐怖』が、
『有るはずである!』、と。
內因緣者。無正憶念無利智慧。於眾生中無深悲心。內無如是等方便。外因緣者。不生中國土。不得聞般若波羅蜜。不得善知識能斷疑者。無如是等外因緣。內外因緣不和合故生驚怖畏。 内の因縁とは、正憶念無く、利智慧無く、衆生中に於いて深き悲心無き、内に是れ等の如き方便無きなり。外の因縁とは、中国の土に生ぜず、般若波羅蜜を聞くを得ず、善知識の能く疑を断ずる者を得ず、是れ等の如き外の因縁無きなり。内外の因縁の和合せざるが故に、驚、怖畏を生ずるなり。
『内の因縁が具足しない!』とは、――
『正しい憶念が無く!』、
『利い智慧が無く!』、
『衆生中に於いて、深い悲心が無いことであり!』、
是れ等のような、
『方便』が、
『内に無いからである!』。
『外の因縁が具足しない!』とは、――
『中央の国土に生じず!』、
『般若波羅蜜を聞くことがなく!』、
『疑を断じる善知識が得られないことであり!』、
是れ等のような、
『外の因縁』が、
『無いからであり!』、
『内、外の因縁が和合しない
both inner conditions and outer had not been gathered )!』が故に、
『驚きや、怖畏』を、
『生じるのである!』。
今須菩提問是方便。佛答。一切種智相應心觀諸法亦不得諸法。 今、須菩提の是の方便を問えるに、仏の答えたまわく、『一切種智相応の心もて、諸法を観れば、亦た諸法をも得ざるなり』、と。
今、
『須菩提』が、
是の、
『方便』を、
『問うた!』ので、
『仏』は、こう答えられた、――
『一切種智に相応する心』で、
『諸法を、観れば!』、
『諸法を、得ることもない!』、と。
問曰。方便有觀色無常等種種相故不怖畏。今何以但說薩婆若相應心觀諸法故不恐不怖。 問うて曰く、方便には、色の無常等の種種相を観ること有るが故に怖畏せざるに、今、何を以ってか、但だ説きたまわく、『薩婆若相応の心もて、諸法を観るが故に恐れず、怖れず』、と。
問い、
『方便して!』、
『色の無常等の種種相を観ること!』が、
『有れば!』、
是の故に、
『怖畏することがない!』のに、
今は、
何故、但だこう説くのですか?――
『薩婆若に相応する心』で、
『諸法を観る!』が故に、
『恐怖しないのである!』、と。
答曰。菩薩先來但觀諸法空。心麤故生著。今憶想分別觀如佛意。於眾生中起大悲不著一切法。於智慧無所礙。但欲度眾生。以無常空等種種觀諸法。亦不得是法。如是觀諸法已作是念。我以是法度眾生令離顛倒。以是故心不著。不見定實有一法。譬如藥師和合諸藥。冷病者與熱藥。於熱病中為非藥。 答えて曰く、菩薩は先より来但だ諸法の空を観るも、心麁なるが故に著を生ず。今憶想、分別して観るも、仏意の如く、衆生中に於いて大悲を起せば、一切法に著せず、智慧に於いても所礙無く、但だ衆生を度せんと欲して、無常、空等を以って、種種に諸法を観るも亦た是の法を得ず。是の如く諸法を観已りて、是の念を作さく、『我れは、是の法を以って、衆生を度して顛倒を離れしめん』、と。是を以っての故に心に著せず、定実の一法すら有るを見ず。譬えば、薬師の諸薬を和合するに、冷病者の熱を与うる薬は、熱病中に於いては、非薬と為すが如し。
答え、
『菩薩』は、
先より、
『但だ、諸法の空を観るだけであっても!』、
『心が麁である( his mind is careless )!』が故に、
『著』を、
『生じることになる!』が、
今、
『著を生じ!』、
『憶想、分別して!』、
『諸法』を、
『観ながら!』、
『仏意のように!』、
『衆生中に於いて、大悲を起せば!』、
『一切法』に、
『著することもなく!』、
『智慧に於いても!』、
『礙られること!』も、
『無く!』、
『但だ、衆生を度そうとして!』、
『無常、空等を用いて!』、
『諸法』を、
『種種に観るだけであり!』、
是の、
『空等の法』を、
『得ることもなく!』、
是のように、
『諸法を観ながら!』、こう念じるのである、――
わたしは、
是の、
『法を用いて、衆生を度し!』、
『顛倒を離れさせよう!』、と。
是の故に、
『心が、著することもなく!』、
『定実の一法すら!』、
『有るとは、見ないのである!』。
譬えば、
『薬師が、諸薬を和合する!』時、
『冷病者』には、
『熱を与える!』のが、
『薬である!』が、
『熱病』には、
『薬と為らないようなものである!』。
二施中法施大故。是名檀波羅蜜。五波羅蜜亦如是隨義分別。 二施中に法施大なるが故に、是れを檀波羅蜜と名づけ、五波羅蜜も亦た是の如く義に随いて分別す。
『二施』中には、
『法施が大である!』が故に、
是れを、
『檀波羅蜜』と、
『称するのである!』が、
『五波羅蜜』も、
是のように、
『義に随って!』、
『分別されたのである!』。
復次菩薩方便者。非十八空故令色空。何以故。不以是空相強令空故。色即是空。是色從本已來常自空。色相空故。空即是色。乃至諸佛法亦如是。 復た次ぎに、菩薩の方便とは、十八空の故に色をして空ならしむるに非ず。何を以っての故に、是の空相を持って強いて空ならしむるが故に、色は即ち是れ空なるにあらず。是の色は、本より已来、常に自ら空にして、色相の空なるが故に、空は即ち是れ色、乃至諸仏法も亦た是の如し。
復た次ぎに、
『菩薩の方便』とは、
『十八空』の故に、
『色』を、
『空とするのではない!』。
何故ならば、
是の、
『空相を用いて!』、
『強いて、空にした!』が故に、
『色は即ち、空であるのではなく!』、
是の、
『色は本より、常に自ら空であり!』、
『色の相が、空である!』が故に、
『空は即ち、色なのである!』。
乃至、
『諸の仏法』も、
『是の通りである!』。
善知識者。教人令以是智慧迴向阿耨多羅三藐三菩提。菩薩先知無常空等諸觀。今惟說迴向為異 善知識とは、人に教えて、是の智慧を以って、阿耨多羅三藐三菩提に迴向せしむればなり。菩薩は、先に無常、空等の諸観を知れば、今は惟(た)だ迴向を説くを異と為す。
『善知識』は、
『人』に、
是の、
『智慧(無常等の不可得)を用いて、阿耨多羅三藐三菩提に迴向せよ!』と、
『教える!』が、
『菩薩』は、
先に、
『無常、空等の諸観』を、
『知っている!』ので、
今は、
『惟だ迴向せよ、と説くところ!』が、
『他の善知識と、異なるのである!』。
  (ゆい):唯だ。しかしながら/それにも拘らず/但だ単に( but, however, nevertheless; only )。



【經】菩薩摩訶薩の悪知識とは?

【經】須菩提白佛言。世尊。云何菩薩摩訶薩行般若波羅蜜無方便。隨惡知識聞說是般若波羅蜜驚怖畏。 須菩提の仏に白して言さく、『世尊、云何が菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずるに、方便無く、悪知識に随えば、是の般若波羅蜜を説くを聞いて驚き、怖畏する』、と。
『須菩提』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
何のように、
『菩薩摩訶薩』が、
『般若波羅蜜を行じる!』時、
『方便が無く!』、
『悪知識に随えば!』、
是の、
『般若波羅蜜が説かれるのを、聞く!』と、
『驚いて!』、
『怖畏するのですか?』、と。
  参考:『大般若経巻44』:『爾時具壽善現白佛言。世尊。云何菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多時。無方便善巧故。聞說如是甚深般若波羅蜜多。其心有驚有恐有怖。佛告善現。若菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多時。離應一切智智心。修行般若波羅蜜多。於修般若波羅蜜多。有所得有所恃。以有所得為方便故。離應一切智智心修行靜慮精進安忍淨戒布施波羅蜜多。於修靜慮乃至布施波羅蜜多。有所得有所恃。以有所得為方便故。善現。如是菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多時。無方便善巧。聞說如是甚深般若波羅蜜多。其心有驚有恐有怖』
佛告須菩提。菩薩摩訶薩離一切智心。修般若波羅蜜。得是般若波羅蜜。念是般若波羅蜜。禪波羅蜜毘梨耶波羅蜜羼提波羅蜜尸羅波羅蜜檀波羅蜜。皆得皆念。 仏の須菩提に告げたまわく、『菩薩摩訶薩は、一切智を離るる心もて、般若波羅蜜を修すれば、是の般若波羅蜜を得て、是の般若波羅蜜を念じ、禅波羅蜜、毘梨耶波羅蜜、羼提波羅蜜、尸羅波羅蜜、檀波羅蜜を皆得て、皆念ずるなり。
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
『菩薩摩訶薩』が、
『一切智を離れた心で!』、
『般若波羅蜜』を、
『修めれば!』、
是の、
『般若波羅蜜』を、
『得た( to recognize )!』時には、
是れが、
『般若波羅蜜である!』と、
『念じ( to consider )!』、
『禅、毘梨耶、羼提、尸羅、檀波羅蜜』を、
『皆、得た!』時には、
『皆、念じるのである!』。
復次須菩提。菩薩摩訶薩離薩婆若心。觀色內空乃至無法有法空。觀受想行識內空乃至無法有法空。觀眼內空乃至無法有法空。乃至觀意觸因緣生受內空乃至無法有法空。於諸法空有所念有所得。 復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は薩婆若を離るる心もて、色の内空乃至無法有法空を観、受想行識の内空乃至無法有法空を観、眼の内空乃至無法有法空を観、乃至意触因縁生の受の内空乃至無法有法空を観れば、諸法の空に於いて、所念有り、所得有り。
復た次ぎに、
須菩提!
『菩薩摩訶薩』が、
『薩婆若を離れた心で!』、
『色』の、
『内空、乃至無法有法空』を、
『観たり!』、
『受想行識や、眼乃至意触因縁生の受』の、
『内空、乃至無法有法空』を、
『観れば!』、
『諸法の空』に於いて、
『所念や、所得』が、
『有ることなる!』。
復次須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。離薩婆若心修四念處亦念亦得。乃至修十八不共法亦念亦得。如是須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。以無方便故。聞是般若波羅蜜驚怖畏。 復た次ぎに、須菩提、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずるに、薩婆若を離るる心もて、四念処を修すれば、亦た念じ、亦た得、乃至十八不共法を修すれば、亦た念じ、亦た得。是の如く、須菩提、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずるに、方便無きを以っての故に、是の般若波羅蜜を聞いて驚き怖畏するなり。
復た次ぎに、
須菩提!
『菩薩摩訶薩が、般若波羅蜜を行じる!』時、
『薩婆若を離れた心で!』、
『四念処を修すれば!』、
『念じたり、得たりするのであり!』、
乃至、
『十八不共法を修すれば!』、
『念じたり、得たりするのである!』。
是のように、
須菩提!
『菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行じる!』時、
『方便が無い!』が故に、
是の、
『般若波羅蜜を聞いて!』、
『驚いたり、怖畏するのである!』。
須菩提白佛言。世尊。云何菩薩摩訶薩隨惡知識聞般若波羅蜜驚怖畏。 須菩提の仏に白して言さく、『世尊、云何が菩薩摩訶薩は悪知識に随えば、般若波羅蜜を聞いて驚き、怖畏する』、と。
『須菩提』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
何のように、
『菩薩摩訶薩が、悪知識に随えば!』、
『般若波羅蜜を聞いて!』、
『驚いたり、怖畏するのですか?』、と。
佛告須菩提。菩薩摩訶薩惡知識教離般若波羅蜜。離禪波羅蜜毘梨耶波羅蜜羼提波羅蜜尸羅波羅蜜檀波羅蜜。須菩提。是名菩薩摩訶薩惡知識。 仏の須菩提に告げたまわく、『菩薩摩訶薩の悪知識は、般若波羅蜜を離れ、禅波羅蜜、毘梨耶波羅蜜、羼提波羅蜜、尸羅波羅蜜、檀波羅蜜を離るるを教う。須菩提、是れを菩薩摩訶薩の悪知識と名づく。
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
『菩薩摩訶薩』の、
『悪知識』は、
『般若、禅、毘梨耶、羼提、尸羅、檀波羅蜜を離れよ!』と、
『教えるのであり!』、
須菩提!
是れを、
『菩薩摩訶薩の悪知識』と、
『称するのである!』。
  参考:『大般若経巻44』:『爾時善現白佛言。世尊。云何菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多時。為諸惡友之所攝受。聞說如是甚深般若波羅蜜多。其心有驚有恐有怖。佛告善現。諸菩薩摩訶薩惡友者。若教厭離般若波羅蜜多相應之法。若教厭離靜慮精進安忍淨戒布施波羅蜜多相應之法。謂作是言。咄善男子。汝等於此六到彼岸相應之法不應修學。所以者何。此法定非如來所說。是文頌者妄所製造。是故汝等不應聽習。不應受持。不應讀誦。不應思惟。不應尋究。不應為他宣說開示。善現。是為菩薩摩訶薩惡友。若菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多時。為此惡友之所攝受。聞說如是甚深般若波羅蜜多。其心有驚有恐有怖』
須菩提。菩薩摩訶薩復有惡知識。不說魔事不說魔罪。不作是言。惡魔作佛形像來教菩薩離六波羅蜜。語菩薩言。善男子。用修般若波羅蜜為。用修禪波羅蜜毘梨耶波羅蜜羼提波羅蜜尸羅波羅蜜檀波羅蜜為。當知是菩薩摩訶薩惡知識。 須菩提、菩薩摩訶薩には復た悪知識有り、魔事を説かず、魔の罪を説かず、是の言を作さず、『悪魔は仏の形像を作し、来たりて、菩薩に六波羅蜜を離るるを教え、菩薩に語りて言わく、『善男子、般若波羅蜜を修するを用うるや。禅波羅蜜、毘梨耶波羅蜜、羼提波羅蜜、尸羅波羅蜜、檀波羅蜜を修するを用うるや』、と。当に知るべし、是れ菩薩摩訶薩の悪知識なり』、と。
須菩提!
『菩薩摩訶薩』には、
『復た、悪知識が有り!』、
『魔の事も、魔の罪も!』、
『説かず!』、
是の、
『言を作すこともない!』、――
『悪魔』は、
『仏の形像を作して、来る!』と、
『菩薩』に、
『六波羅蜜を離れよ!』と、
『教え!』、
『菩薩に語って!』、こう言うだろう、――
善男子!
『般若波羅蜜』を、
『修めるような!』、
『用があるのか( Is it need that )?』、
『禅波羅蜜乃至檀波羅蜜』を、
『修めるような!』、
『用があるのか?』、と。
是れが、
『菩薩摩訶薩の悪知識である!』と、
『知らねばならない!』、と。
  (ゆう):もって。もちいる。必要とする。
  (い):[最後尾に用いて]疑問の助辞を表わす。
復次須菩提。惡魔復作佛形像。到菩薩所為說聲聞經。若修妒路乃至優波提舍。教詔分別演說如是經。終不為說魔事魔罪。當知是菩薩摩訶薩惡知識。 復た次ぎに、須菩提、悪魔は、復た仏の形像を作して、菩薩の所に到り、為めに声聞経の若しは修妒路乃至憂波提舎を説き、是の如き経を教詔、分別、演説するも、終に為めに魔事、魔罪を説かざれば、当に知るべし、是れ菩薩摩訶薩の悪知識なり。
復た次ぎに、
須菩提!
『悪魔』は、
『復た、仏の形像を作して!』、
『菩薩の所』に、
『到り!』、
『菩薩の為め!』に、
『修妒路乃至憂波提舎(契経乃至論議)などの声聞経』を、
『説いたり!』、
是のような、
『経』を、
『教詔、分別、演説する!』が、
終に、
『菩薩の為め!』に、
『魔事も魔罪も説かない!』。
是れは、
『菩薩摩訶薩の悪知識である!』と、
『知らねばならない!』。
  教詔(きょうしょう):教誨、教訓を為す。
復次須菩提。惡魔作佛形像到菩薩所作是語。善男子。汝無真菩薩心。亦非阿毘跋致地。汝亦不能得阿耨多羅三藐三菩提。不為說如是魔事魔罪。當知是菩薩惡知識。 復た次ぎに、須菩提、悪魔は仏の形像を作して、菩薩の所に到りて、『善男子、汝には真の菩薩心無く、亦た阿毘跋致の地に非ざれば、汝は亦た阿耨多羅三藐三菩提を得る能わず』と、是の語を作すも、為めに是の如き魔事、魔罪を説かざれば、当に知るべし、是れ菩薩の悪知識なり。
復た次ぎに、
須菩提!
『悪魔』は、
『仏の形像を作して、菩薩の所に到り!』、こう言うが、――
善男子!
お前には、
『真の菩薩心が無く!』、
『阿鞞跋致の地でもない!』ので、
お前は、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得ることはできない!』、と。
是のような、
『魔事も、魔罪も!』、
『菩薩の為め!』に、
『説かなければ!』、
是れは、
『菩薩の悪知識である!』と、
『知らねばならない!』。
復次須菩提。惡魔作佛形像到菩薩所語菩薩言。善男子。色空無我無我所。受想行識空無我無我所。眼空無我無我所。乃至意觸因緣生受空無我無我所。檀波羅蜜空乃至般若波羅蜜空。四念處空乃至十八不共法空。汝用阿耨多羅三藐三菩提為。如是魔事魔罪不說不教。當知是菩薩惡知識。 復た次ぎに、須菩提、悪魔は仏の形像を作して、菩薩の所に到り、菩薩に語りて言わく、『善男子、色は空にして我無く、我所無く、受想行識は空にして我無く、我所無く、眼は空にして我無く、我所無く、乃至意触因縁生の受は空にして我無く、我所無く、檀波羅蜜は空、乃至般若波羅蜜は空、四念処は空、乃至十八不共法は空なるに、汝は阿耨多羅三藐三菩提を用うるや』、と。是の如き魔事、魔罪を説かず、教えざれば、当に知るべし、是れ菩薩の悪知識なり。
復た次ぎに、
須菩提!
『悪魔』は、
『仏の形像を作して!』、
『菩薩の所』に、
『到り!』、
『菩薩に語って!』、こう言うが、――
善男子!
『色も、受想行識も、眼乃至意触因縁生の受も!』、
『空であって!』、
『我も我所も無く!』、
『檀波羅蜜乃至般若波羅蜜も、四念処乃至十八不共法も!』、
『空である!』のに、
お前は、何故、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『用いるのか?』、と。
是のような、
『魔事や、魔罪』を、
『説くこともなく!』、
『教えることもなければ!』、
是れは、
『菩薩の悪知識である!』と、
『知らねばならない!』。
復次須菩提。惡魔作辟支佛身。到菩薩所語菩薩言。善男子。十方皆空是中無佛無菩薩無聲聞。如是魔事魔罪不說不教。當知是菩薩摩訶薩惡知識。 復た次ぎに、須菩提、悪魔は辟支仏の身と作りて、菩薩の所に到り、菩薩に語りて言わく、『善男子、十方は皆空なれば、是の中に仏無く、菩薩無く、声聞無し』、と。是の如き魔事、魔罪を説かず、教えざれば、当に知るべし、是れ菩薩摩訶薩の悪知識なり。
復た次ぎに、
須菩提!
『悪魔』は、
『辟支仏の身と作って!』、
『菩薩の所』に、
『到る!』と、
『菩薩に語って!』、こう言うが、――
善男子!
『十方は、皆空であり!』、
是の中には、
『仏も、菩薩も、声聞も!』、
『無い!』、と。
是のような、
『魔事や、魔罪』を、
『説くこともなく!』、
『教えることもなければ!』、
是れは、
『菩薩摩訶薩の悪知識である!』と、
『知らねばならない!』。
復次須菩提。惡魔作和尚阿闍梨身。到菩薩所。教離菩薩道。教離一切種智。教離四念處乃至八聖道分。教離檀波羅蜜。乃至教離十八不共法。教入空無相無作。作是言。善男子。汝修念是諸法得聲聞證。用阿耨多羅三藐三菩提為。如是魔事魔罪不說不教。當知是菩薩惡知識。 復た次ぎに、須菩提、悪魔は和尚、阿闍梨の身と作りて、菩薩の所に到り、菩薩道を離るるを教え、一切種智を離るるを教え、四念処乃至八聖道分を離るるを教え、檀波羅蜜を離るるを教え、乃至十八不共法を離るるを教え、空、無相、無作に入るを教えて、是の言を作さく、『善男子、汝は是の諸法を念ずるを修すれば、声聞の証を得るに、阿耨多羅三藐三菩提を用うるや』、と。是の如き魔事、魔罪を説かず、教えざれば当に知るべし、是れ菩薩の悪知識なり。
復た次ぎに、
須菩提!
『悪魔』は、
『和尚や、阿闍梨の身と作って!』、
『菩薩の所に到り!』、
『菩薩道や、一切種智や、四念処乃至八聖道分や!』、
『檀波羅蜜乃至十八不共法』を、
『離れよ!』と、
『教えて!』、
『空、無相、無作』に、
『入れ!』と、
『教えながら!』、
こう言う、――
善男子!
お前が、
是の、
『諸法を念じることを、修めれば!』、
『声聞の証』を、
『得ることになる!』が、
何故、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『用いるのか?』、と。
是のような、
『魔事、魔罪』を、
『説くこともなく!』、
『教えることもなければ!』、
是れは、
『菩薩の悪知識である!』と、
『知らねばならない!』。
  和尚(わじょう):西域語の転訛。梵名鄔波駄耶upaadhyaaya、巴梨名upajjhaaya、又和上、和闍、和社、殟社、鶻社、烏社に作る。近誦、親教師、力生、依学等と訳す。受戒の人の為に師表となる者を云う。即ち戒和尚なり。「大智度論巻13」に、「何をか沙弥沙弥尼の出家受戒の法と云う。白衣来たりて出家を求めんと欲せば、応に二師を求むべし。一は和上、一は阿闍梨なり。和上は父の如く、阿闍梨は母の如し。本生の父母を捨つるを以って当に出家の父母を求むべし」と云い、又「四分律巻33」に和尚及び阿闍梨の起原を説き、「根本説一切有部百一羯磨巻1」に、「鄔波駄耶に二種あり、一は即ち十学処を与え、他は即ち近円を授くと云えるもの即ち是れなり。和尚の語に就きては、「根本説一切有部百一羯磨巻1の夾註」に、「鄔波駄耶は訳して親教師と云う。和上と云うは、即ち是れ西方時俗の語にして是れ典語に非ず。然るに諸経律の梵本には皆鄔波駄耶と言うなり」と云い、「玄応音義巻14」に、「和上とは、菩薩内戒経に和闍に作るは皆于闐国等の訛なり。応に郁波弟耶夜と言うべし、此には近誦と云う。(中略)又鄔波拕耶は此には親教と云い、旧訳には知罪知無罪と云い、名づけて和上と為すなり」と云い、又「慧苑音義巻上」には、「按ずるに五天の雅言にては是れを塢波陁耶と謂う。然るに彼の土の流俗は之を殟社と謂い、于闐、疏勒にては乃ち鶻社と謂い、今此の方の訛音には之を和上と謂う。諸方殊異なりと雖も、今正釈に依れば、塢波と言うは此に近と云うなり、陁耶とは読なり。此れ尊師の弟子の為に親近せられ、習読せらるる者を言うなり。旧に親教と言うは是れなり」と云えり。されば和上の語は訛言なりというべく、彼の亀茲語のpwaajjhaw等の如きは、其の音写に近きものあるが如し。支那にては主として戒和尚の称呼として用いられたるも、我国に於いては僧侶の官名となるに至れり。即ち孝謙天皇の天平宝字二年、初めて鑑真に大和尚位を授けたる如き、又清和天皇の貞観六年二月、新に法橋上人位、法眼和尚位、法印大和尚位等の三階を制したるが如き是れなり。爾後或いは単に高僧の尊称に用い、近時禅宗、浄土宗等に於いては、住職以上の者に対する称呼となせり。又此の語は読み方一定ならず、南都諸宗にては和上(わじょう)と云い、北嶺には和尚(かしょう)、禅宗には和尚(おしょう)と発音せり。又「弥沙塞羯磨本」、「四分律巻39」、「菩提資糧論巻5」、「玄応音義巻8、9」、「四分律開宗記巻7本」、「希麟音義巻4」、「南海寄帰内法伝巻3」、「宋高僧伝巻3」、「翻訳名義集巻4」等に出づ。<(望)
  阿闍梨(あじゃり):梵語aacaarya、巴梨語aacariya、又阿舎梨、阿祇利、阿祇黎、阿闍黎、阿遮利夜、阿遮利耶、阿遮梨耶に作る。又略して闍梨とも云う。規範師、又は正行と訳す。弟子を教授し、其の軌則軌範たるべき師を云う。「玄応音義巻21」に、「阿遮利耶は此に規範師と云う。義訳して正行と云う。或いは云わく、善法の中に於いて教授して知らしむるを阿闍梨と名づく」とあり。元と婆羅門が弟子を引入して之に吠陀等の儀則を教受する者を称したりしが、後仏教教団にも之を採用するに至れり。「四分律巻34」に和尚命終して人の教うるなく、教授を被らざるを以って威儀を案ぜず、著衣斉整ならず、乞食如法ならず、処処に不浄の食を受け、婆羅門の聚会法と異なることなし。世尊言わく、今より已去、阿闍梨あるを聴し、弟子あるを聴す。阿闍梨は弟子に於いて当に児の如く想うて展転相教え、展転相奉事すべしと云える是れなり。「四分律行事鈔巻上之3」には、阿闍梨に出家、受戒、教授、受経、依止の五種の別ありとし、「慧苑音義巻上」には羯磨、威儀、依止、受経、十戒の五種を挙げ、又西域に別に君持阿闍梨ありと云い、「四分律刪補随機羯磨巻上」には、律の中に凡べて六種の阿闍梨ありとし、剃髪、出家、受経、教授、羯磨及び依止の名を出せり。此の中、剃髪阿闍梨とは剃髪の師を云い、出家阿闍梨とは即ち十戒阿闍梨にして、出家得度の時十戒を授くる師を云い、受戒阿闍梨とは即ち羯磨阿闍梨にして、具足戒を受くる時、為に羯磨を為すの師を云い、教授阿闍梨とは即ち威儀阿闍梨にして、具足戒を受くる時、威儀を教授する師を云い、受経阿闍梨とは経を読み、若しくは義を説き、乃至一の四句偈を受習する師を云い、依止阿闍梨とは之に依止し、乃至一宿も住することを得しむる師を云うなり。但し小乗に於いては、是の如く現前の師を以って受戒等の阿闍梨となすも、大乗円頓戒にては仏を戒和尚となすが故に、文殊を羯磨阿闍梨、弥勒を教授阿闍梨となせり。又密教に於いては曼荼羅及び諸尊の印言等に通じ、伝法潅頂を受けたるものを名づけて阿闍梨とし、亦た仏菩薩をも並びに皆阿闍梨と称せり。「大日経疏巻3」に、「此の曼荼羅の種種の支分と乃至一切諸尊の真言、手印、観行、悉地とに於いて皆尽く通達して伝教潅頂を得たる、是れを阿闍梨と名づく。(中略)乃至三密を解する人の中に於いて、最も上首たる金剛薩埵の如き、是れを阿闍梨と名づく。復た次ぎに毘盧遮那是れを阿闍梨と名づく」と云える是れなり。又「大日経巻1具縁品」には、真言乗の阿闍梨は十三徳を具足すべきことを説けり。即ち一に菩提心を発し、二に妙慧慈悲あり、三に兼ねて衆生を綜べ、四に善巧して般若波羅蜜多を修行し、五に三乗に通達し、六に善く真言の実義を解し、七に衆生の心を知り、八に諸仏菩薩を信じ、九に伝教潅頂等を得て妙に曼荼羅の画を解し、十に其の性調柔にして我執を離れ、十一に真言行に於いて善く決定を得、十二に瑜伽を究習し、十三に勇健の菩提心に住するを云うなり。又本邦に於いては平安朝以来之を一種の職官となせり。「釈家官班記巻上」に、承和三年勅して比叡山等の七高山に始めて阿闍梨を置き、天下の五穀を祈らしめたることを記し、又「同巻下」に阿闍梨は諸寺に寄置せらる。其の闕を以って補任し、官符を下さるる所なりと云えり。又「台東両密に於いて伝法潅頂を執行するに伝法阿闍梨の職あり。承和十年始めて真紹を以って伝法阿闍梨に補し、貞観十八年には承雲を三部大法阿闍梨に、常済を両部大法阿闍梨に補せり。又一身阿闍梨の職あり、是れ名門の人を尊崇して、其の人一身を限りて伝法潅頂職を授くるを云い、又出身の門地に依りて大阿闍梨小阿闍梨等の別を立て、皆官符を下して是れを補任せり。此の他に又悉曇阿闍梨、声明阿闍梨等あり。又「大日経巻5阿闍梨真実智品」、「四分律巻39」、「五分律巻16」、「四分律行事鈔巻上」、「同資持記巻上3之3」、「四分律刪補随機羯磨疏済縁記巻3之2」、「四分律疏飾宗義記巻7末」、「四分律開宗記巻7本」、「続高僧伝巻2」、「南海寄帰内法伝巻3」、「玄応音義巻8」、「慧琳音義巻59、65」、「希麟音義巻4」等に出づ。<(望)
復次須菩提。惡魔作父母形像。到菩薩所語菩薩言。子汝為須陀洹果證故勤精進。乃至阿羅漢果證故勤精進。汝用阿耨多羅三藐三菩提為。求阿耨多羅三藐三菩提。當受無量阿僧祇劫生死截手截腳受諸苦痛。如是魔事魔罪不說不教。當知是菩薩惡知識。 復た次ぎに、須菩提、悪魔は父母の形像を作して、菩薩の所に到り、菩薩に語りて言わく、『子よ、汝は須陀洹果の証の為めの故に勤めて精進し、乃至阿羅漢果の証の故に勤めて精進せよ。汝は阿耨多羅三藐三菩提を用うるや。阿耨多羅三藐三菩提を求むれば、当に無量阿僧祇劫の生死を受けて、手を截られ、脚を截られて、諸の苦痛を受くべし』、と。是の如き魔事、魔罪を説かず、教えざれば、当に知るべし、是れ菩薩の悪知識なり。
復た次ぎに、
須菩提!
『悪魔』は、
『父母の形像を作し!』、
『菩薩の所』に、
『到る!』と、
『菩薩に語って!』、こう言うが、――
子よ!
お前は、
『須陀洹果の証の為め!』の故に、
『勤めて精進し!』、
乃至、
『阿羅漢果の証の為め!』の故に、
『勤めて精進せよ!』。
お前は、何故、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『用いるのか?』。
若し、
『阿耨多羅三藐三菩提を求めれば!』、
『無量阿僧祇劫の生死を受けて!』、
『手を截られ、脚を截られて!』、
『諸の苦痛を受けることになる!』、と。
是のような、
『魔事、魔罪』を、
『説くこともなく!』、
『教えることもなければ!』、
是れは、
『菩薩の悪知識である!』と、
『知らねばならない!』。
復次須菩提。惡魔作比丘形像。到菩薩所語菩薩言。眼無常可得法乃至意無常可得法。眼苦眼無我眼空無相無作寂滅離說可得法。乃至意亦如是。用有所得法說四念處。乃至用有所得法說佛十八不共法。須菩提。如是魔事魔罪不教不說。當知是菩薩惡知識。知已當遠離之 復た次ぎに、須菩提、悪魔は比丘の形像を作して、菩薩の所に到り、菩薩に語りて、『眼の無常は可得の法なり、乃至意の無常は可得の法なり』、と言い、『眼の苦、眼の無我、眼の空、眼の無相、無作、寂滅、離は、可得の法なり』と説き、乃至意も亦た是の如く、有所得の法を用いて四念処を説き、乃至有所得の法を用いて仏の十八不共法を説く。須菩提、是の如き魔事、魔罪を教えず、説かざれば、当に知るべし、是れ菩薩の悪知識なり。知り已りて、当に之を遠離すべし。
復た次ぎに、
須菩提!
『悪魔』は、
『比丘の形像を作し!』、
『菩薩の所』に、
『到り!』、
『菩薩に語って!』、
『眼乃至意の無常』は、
『可得の法である!』と、
『言い!』、
『眼の苦、無我、空、無相、無作、寂滅、離』は、
『可得の法である!』と、
『説き!』、
乃至、
『意の苦、無我等も!』、
『是の通りであり!』、
『有所得の法を用いて!』、
『四念処乃至十八不共法』を、
『説く!』が、
須菩提!
是のような、
『魔事や、魔罪』を、
『教えることもなく!』、
『説くこともなければ!』、
是れは、
『菩薩の悪知識である!』と、
『知らねばならず!』、
『知ったならば!』、
之を、
『遠離せねばならない!』。



【論】菩薩摩訶薩の悪知識とは?

【論】釋曰。先略說無方便。今欲廣說無方便。所謂離一切種智相應心。行般若波羅蜜。取是般若波羅蜜定相。五波羅蜜乃至諸佛法亦如是。是自無方便又得惡知識教故。 釈して曰く、先には無方便を略説し、今は無方便を広説せんと欲す。謂わゆる一切種智相応の心を離れて、般若波羅蜜を行じ、是の般若波羅蜜の定相を取り、五波羅蜜乃至諸の仏法も亦た是の如きは、是れ自ら方便無く、又悪知識の教を得るが故なり。
釈す、
先には、
『無方便』を、
『略説した!』ので、
今は、
『無方便』を、
『広説しようとするのである!』。
謂わゆる、
『一切種智に相応する心を離れて!』、
『般若波羅蜜を行じれば!』、
是の、
『般若波羅蜜の定相』を、
『取ることになり!』、
亦た、
『五波羅蜜乃至諸の仏法』も、
『是の通りである!』が、
是れは、
『自ら、方便が無く!』、
『悪知識より、教を得るからである!』。
復次惡知識大失利益種種壞人。是大惡因緣故。佛更種種因緣說惡知識相。惡知識者教人遠離六波羅蜜。或不信罪福報故教遠離。或著般若波羅蜜故言諸法畢竟空。汝何所行。或讚歎小乘。汝但自免老病死苦。眾生何豫汝事。如是等種種因緣教令遠離。是名惡知識。 復た次ぎに、悪知識の大いに利益を失いて、種種に人を壊るは、是れ大悪の因縁なるが故に、仏は更に種種の因縁もて、悪知識の相を説きたまえり。悪知識とは、人に教えて、六波羅蜜を遠離せしめ、或は罪福の報を信ぜざるが故に教えて遠離せしめ、或は般若波羅蜜に著するが故に、『諸法は畢竟空なるに、汝が行ずる所は何ぞ』、と言い、或は小乗を、『汝は但だ自ら老病死の苦を免れよ。衆生は何ぞ汝が事に豫(あずか)らんや』と讃歎し、是れ等の如く種種の因縁もて、教えて遠離せしむ。是れを悪知識と名づく。
復た次ぎに、
『悪知識』は、
大いに、
『自らの利益』を、
『失うばかりでなく!』、
種種に、
『人の心』を、
『壊る!』ので、
是れは、
『大悪の因縁である!』が故に、
『仏』は、
『更に、種種の因縁を用いて!』、
『悪知識の相』を、
『説かれた!』、――
『悪知識』とは、
『人に教えて!』、
『六波羅蜜』を、
『遠離させたり!』、
或は、
『自ら、罪福の報を信じない!』が故に、
『六波羅蜜を遠離せよ!』と、
『教え!』、
或は、
『自ら、般若波羅蜜に著する!』が故に、
『諸法は畢竟空なのに、お前は何を行じているのか?』と、
『言ったり!』、
或は、
『小乗を讃歎して!』、こう言ったり、――
お前は、
『但だ!』、
『老病死の苦を免れよ!』、
お前の、
『事に!』、
『衆生が、何のように関与するのか?』、と。
是れ等のように、
『種種の因縁を教えて!』、
『六波羅蜜』を、
『遠離させる!』ので、
是れを、
『悪知識』と、
『称するのである!』。
  (よ):あずかる。与る。関与する。
復次惡知識者。不教弟子令覺知魔是佛賊。魔者欲界主有大力勢常憎行道者。佛威力大故魔無所能。但能壞小菩薩。乃至作佛形像來壞菩薩行六波羅蜜。或讚歎開解論說。隨聲聞所應學經法。 復た次ぎに、悪知識とは、弟子を教えて、魔は是れ仏の賊なりと覚知せしめず。魔とは、欲界の主にして、大力勢有り、常に行道の者を悪むも、仏の威力の大なるが故に、魔には能くする所無く、但だ能く小菩薩を壊り、乃至仏の形像を作して来たり、菩薩の六波羅蜜を行ずるを壊り、或は讃歎、開解、論説し、声聞の応に学ぶべき所の経法を随わしむ。
復た次ぎに、
『悪知識』は、
『弟子に教えて!』、
『魔とは、仏賊である!』と、
『覚知させることがない!』。
『魔』は、
『大力勢の有る、欲界主でり!』、
『常に!』、
『道を行じる者を憎んでいる!』が、
『仏は、威力が大である!』が故に、
『魔のできる!』所は、
『無い!』が、
但だ、
『小菩薩を壊ることができるだけであり!』、
乃至、
『仏の形像を作して、来て!』、
『菩薩が、六波羅蜜を行じる!』のを、
『壊ったり!』、
或は、
『声聞の学ぶべき経法に随え!』と、
『讃歎、開解、論説する!』。
  開解(かいげ):はっきりさせる/説明する( to make clear, explain )、梵語 prati- vi- √(nud), apagama の訳、[悪いものを]取り除く( to get rid of )、遠離する( going away )の義。
或作佛身來語之言。汝不任得佛。或說眼等一切諸法空。何用是阿耨多羅三藐三菩提為。 或は仏身を作して来たりて、之に語りて言わく、『汝は仏を得るに任えず』。或は説かく、『眼等の一切諸法は空なるに、何んが是の阿耨多羅三藐三菩提を用いんや』、と。
或は、
『仏身を作して、来る!』と、
『菩薩に語って!』、こう言う、――
お前は、
『仏を得る!』のに、
『任えられない!』、と。
或は、こう説く、――
『眼等の一切諸法は、空である!』のに、
何故、是の、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『用いようとするのか?』、と。
或作辟支佛身。或說十方世界中三乘人空。求佛道者但有空名。汝云何欲作佛。或教令遠離菩薩三十七品。令入聲聞三解脫門中。汝入是三門實際作證得盡眾苦。汝勤精進汝為得四果故。何用阿耨多羅三藐三菩提為。 或は辟支仏の身と作りて、或は説かく、『十方の世界中の三乗の人は空なれば、仏道を求むる者も、但だ空の名有るのみ。汝は云何が、仏と作らんと欲する』、と。或は教えて、菩薩の三十七品を遠離せしめて、声聞の三解脱門中に入らしむ、『汝は是の三門の実際に入りて、証を作し、衆苦を尽すを得よ』、『汝は勤めて精進するは、汝が四果を得んが為めの故なり。何ぞ阿耨多羅三藐三菩提を用うるや』、と。
或は、
『辟支仏の身と作って!』、
或は、こう説き、――
『十方の世界』中の、
『三乗の人は、皆空であり!』、
『仏道を求める!』者も、
『但だ、空の名が有るだけなのに!』、
お前は、何故、
『仏』と、
『作ろうとするのか?』、と。
或は、教えて、――
『菩薩』の、
『三十七品』を、
『遠離させ!』、
『声聞』の、
『三解脱門』中に、
『入らせる!』。
謂わゆる、
お前は、
是の、
『三門の実際に入って!』、
『証を作し!』、
『衆苦を尽せ!』。
お前が、
『勤めて精進する!』のは、
お前が、
『四果』を、
『得る為めである!』。
何故、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『用いようとするのか?』、と。
或作和尚阿闍梨父母來教令遠離佛道。空當受是截手腳耳鼻等以與求者。若不與則破求佛意。若與則受是辛苦。 或は和尚、阿闍梨、父母と作りて来たり、教えて仏道を遠離せしむらく、『空なれば、当に是の手、脚、耳、鼻等を截るを受け、以って求むる者に与うべし。若し与えざれば、則ち仏を求むる意を破り、若し与うれば則ち是の辛苦を受けよ』、と。
或は、
『和尚、阿闍梨、父母と作り、来て!』、
『仏道を遠離させようと!』、こう教える、――
『空ならば!』、
是の、
『手、脚、耳、鼻等を截られ!』、
『求める!』者に、
『与えねばならぬ!』。
若し、
『与えなければ!』、
『仏を求めようとする!』、
『意を破ることになり!』、
若し、
『与えれば!』、
是の、
『辛苦』を、
『受けることになるぞ!』、と。
或時作阿羅漢比丘被服來為說。眼是定無常相苦空無我相無作寂滅離。乃至諸佛法亦如是用有所得取相憶念分別說。如是等種種無量魔事不教令覺知。是為惡知識。 或は時に阿羅漢、比丘の被服を作して来たりて為めに説かく、『眼は、是れ定んで無常相、苦、空、無我相なり』、と。無作、寂滅、離、乃至諸の仏法も亦た是の如く、有所得を用いて、相を取り、憶想、分別して説くも、是れ等の如き種種無量の魔事を教えて、覚知せしめざれば、是れを悪知識と為す。
或は時に、
『魔』は、
『阿羅漢、比丘の被服を作して、来て!』、
『菩薩の為め!』に、
『眼』とは、
『定んで無常、苦、空、無我の相である!』と、
『説き!』、
『無作、寂滅、離、乃至諸の仏法』も、
是のように、
『無所得を用いて、相を取り!』、
『憶想、分別して説く!』が、
是れ等のような、
『種種、無量の魔事』を、
『教えて!』、
『覚知させなければ!』、
是れは、
『悪知識である!』。
  被服(ひふく):梵語 aacchaada, aacchaadya, aacchaadayati の訳、衣服( garment, clothes )、衣服を着ける( to clothe oneself, get dressed )の意。
遠離者以其無利益。如軟語賊轉來親近近則害人。惡知識復過於是。所以者何。是賊但能害今世一身。惡知識則世世害人。賊但能害命奪財。惡知識則害慧念命根奪佛法無量寶。知已急當身心遠離 遠離とは、其の利益無きを以ってなり。軟語の賊の転来し、親近するに、近ければ則ち人を害するが如き、悪知識は復た是れに過ぐ。所以は何んとなれば、是の賊は、但だ能く今世の一身を害するも、悪知識は世世に人を害し、賊は但だ能く命を害して罪を奪うも、悪知識は則ち慧、念の命根を害して、仏法の無量の宝を奪えばなり。知り已りて、急ぎ当に身心を遠離せしむべし。
『遠離』とは、
『悪知識』には、
『利益』が、
『無いからであり!』、
譬えば、
『軟語の賊』が
『転来して( to come near )!』、
『親近する( to be familiar )!』時、
『近づければ!』、
『人』を、
『害するようなものである!』。
『悪知識』は、
復た、
是の、
『賊』に、
『過ぎるのである!』。
何故ならば、
是の、
『賊』は、
但だ、
『今世の一身』を、
『害するだけである!』が、
『悪知識』は、
世世に、
『人』を、
『害するからであり!』、
『賊』は、
但だ、
『命を害して!』、
『財を奪うだけである!』が、
『悪知識』は、
『慧や、念の命根を害して!』、
『仏法という!』、
『無量の宝を奪うからである!』ので、
是のように、
『知ったならば!』、
急いで、
『身心』を、
『遠離せねばならない!』。


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