巻第四十三之下

 

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大智度論釈行相品第十之余

三昧を離れない!

般若波羅蜜は得られない!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

三昧を離れない!

【經】舍利弗言。但不離是三昧。令菩薩摩訶薩疾得阿耨多羅三藐三菩提。更有諸餘三昧。

舎利弗の言わく、『但だ、是の三昧(諸法無所受三昧)を離れずんば、菩薩摩訶薩をして、疾かに阿耨多羅三藐三菩提を得しめんや。更に諸余の三昧有りや。』と。

   『舎利弗』は、

     こう言った、――

     但だ、

     是の、

       『諸法無所受三昧』を、

         『離れない!』ことのみが、

         『菩薩摩訶薩』に、

         疾かに、

           『阿耨多羅三藐三菩提』を、

           『得させる!』のか?

       更に、

       其の他の、

         『三昧』が有る!のか?と。

須菩提。語舍利弗言。更有諸餘三昧。菩薩摩訶薩行是三昧。疾得阿耨多羅三藐三菩提。

須菩提の、舎利弗に語りて言わく、『更に、諸余の三昧有り。菩薩摩訶薩は、是の三昧を行じて、疾かに阿耨多羅三藐三菩提を得。』と。

   『須菩提』は、

     『舎利弗』に語って、

       こう言った、――

       更に、

       其の他の、

         『三昧』が有り、

         『菩薩摩訶薩』は、

         是の、

           『三昧』を行じて、

           疾かに、

             『阿耨多羅三藐三菩提』を得る!ことができる、と。

舍利弗言。何等三昧。菩薩摩訶薩行是疾得阿耨多羅三藐三菩提。

舎利弗の言わく、『何等の三昧か、菩薩摩訶薩は是れを行じて、疾かに阿耨多羅三藐三菩提を得る。』と。

   『舎利弗』は、

     こう言った、――

     何のような、

       『三昧』ならば、

       『菩薩摩訶薩』は、

       是の、

         『三昧』を行じて、

         疾かに、

           『阿耨多羅三藐三菩提』を得る!ことができるのか?と。

須菩提言。諸菩薩摩訶薩有三昧名首楞嚴。行是三昧令菩薩摩訶薩。疾得阿耨多羅三藐三菩提。

須菩提の言わく、『諸の菩薩摩訶薩に、三昧有りて、首楞厳と名づく。是の三昧を行ぜば、菩薩摩訶薩をして、疾かに阿耨多羅三藐三菩提を得しめん。

   『須菩提』は、

     こう言った、――

     諸の、

       『菩薩摩訶薩』には、

         『首楞厳』という、

         『三昧』が有る!

     是の、

       『三昧』を行ずれば、

       『菩薩摩訶薩』に、

       疾かに、

         『阿耨多羅三藐三菩提』を、

         『得させる!』ことができる。

 

  首楞厳三昧(しゅりょうごんさんまい):梵名zuuraMgama−samaadhi、堅固にして諸法を摂する三昧の意。又首楞伽摩三摩提、或いは首楞厳定に作り、健相三昧、健行定、勇健定、勇伏定、或いは大根本定とも訳す。「首楞厳三昧経巻上」に、「仏、堅意菩薩に告ぐ、首楞厳三昧は初地二地三地四地五地六地七地八地九地の菩薩の能く得る所に非ず。唯十地に住在する菩薩のみありて乃ち能く是の首楞厳三昧を得。何等か是れ首楞厳三昧なる、謂わく心を修治すること猶お虚空の如く、現在の衆生の諸心を観察し、衆生の諸根の利鈍を分別し、決定して衆生の因果を了知す。(中略)堅意、首楞厳三昧は一事一縁一義を以っては知るべからず。一切の禅定解脱三昧、神通如意無礙智慧は皆摂して首楞厳の中に在り。譬えば陂泉江河の諸流皆大海に入るが如し。是の如く菩薩所有の禅定は皆首楞厳三昧に在り。譬えば転輪聖王に大勇将あり、諸の四種の兵皆悉く随従するが如し。堅意、是の如く所有の三昧門、禅定門、辯才門、解脱門、陀羅尼門、神通門、明解脱門、是の諸の法門は悉く皆摂して首楞厳三昧に在り。随って菩薩ありて首楞厳三昧を行ぜば一切の三昧皆悉く随順す。堅意、譬えば転輪聖王の行く時、七宝皆従うが如し。是の如く堅意、首楞厳三昧には一切助菩提の法皆悉く随従す。是の故に此の三昧を名づけて首楞厳と為す」と云い、「大品般若経巻5問乗品」に、「云何が首楞厳三昧と名づくる、諸の三昧の行処を知る、是れを首楞厳三昧と名づく」と云い、「大智度論巻47」に之を解し、「首楞厳三昧とは秦に健相と言う。諸三昧の行相の多少深浅を分別すること、大将の諸兵力の多少を知るが如し。復た次ぎに菩薩は是の三昧を得ば、諸の煩悩魔及び魔人能く壊する者なし。譬えば転輪聖王の主兵宝将の往至する所の処として降伏せざることなきが如し」と云える是れなり。是れ首楞厳三昧は一切の三昧禅定等を摂し、勇健なること猶お転輪聖王の主兵宝将の到る処降伏せざることなきが如くなるを説けるものなり。「大般涅槃経巻27」には之を仏性に配し、「復た次ぎに善男子、仏性とは即ち首楞厳三昧なり。性は醍醐の如く、即ち是れ一切諸仏の母なり。首楞厳三昧の力を以っての故に、而も諸仏をして常楽我淨ならしむ。一切の衆生に悉く首楞厳三昧あるも、修行せざるを以っての故に見ることを得ず。是の故に阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得る能わず。善男子、首楞厳三昧には、五種の名あり、一には首楞厳三昧、二には般若波羅蜜、三には金剛三昧、四には師子吼三昧、五には仏性なり。其の所作に随って処処に名を得。(中略)善男子、首楞厳とは一切畢竟に名づけ、厳とは堅に名づく。一切畢竟じて而も堅固を得るを首楞厳と名づく。是を以っての故に首楞厳定を言って名づけて仏性と為す」と云えり。是れ首楞厳三昧に五種の名あることを説けるものなり。之に関し「止観輔行伝弘決巻3之1」に、「経に首楞厳定に五種の名ありと称す、楞厳亦た五名の内に在り。今仏性を引くに五種の名あり、仏性亦た五名の内に在り。今引く所は通を以って別を兼ぬるが故なり。其の意如何。経に衆生に楞厳定ありと釈す、故に楞厳に五種の名ありと云う。若し通論せば、師子吼に名ありと云い、乃至般若に五種の名あるも理に於いて失なし。皆失なしと雖も、然も五名の中、仏性は是れ通なり、定慧に通ずるが故なり。余の四名は二二寄局す、般若と師子吼は慧に従って名と為し、金剛と首楞厳は定に従って名と為す」と云えり。以って其の意を見るべし。又此の三昧は、経に唯十地の菩薩のみ能く得る所なりとし、「梁訳摂大乗論釈巻11」には、十地の菩薩及び仏は、無怖畏、無疑、堅実功徳、有勝能の四種の勝徳あるが故に能く此の定を得と云えり。又「大般涅槃経巻30」、「南本涅槃経巻25」、「同疏巻24」、「華手経巻6三昧品」、「法界次第初門巻下之1」、「華厳経探玄記巻9」、「慧琳音義巻26」等に出づ。<(望)

有名寶印三昧。師子遊戲三昧。妙月三昧。月幢相三昧。諸法印三昧。觀頂三昧。畢法性三昧。畢幢相三昧。金剛三昧。入法印三昧。三昧王安立三昧。放光三昧。力進三昧。出生三昧。必入辯才三昧。入名字三昧。

有るは名づくらく、宝印三昧、師子遊戯三昧、妙月三昧、月幢相三昧、諸法印三昧、観頂三昧、畢法性三昧、畢幢相三昧、金剛三昧、入法印三昧、三昧王安立三昧、放光三昧、力進三昧、出生三昧、必入辯才三昧、入名字三昧。

     有るものは、

       こう名づける――

       『宝印三昧』、――  ――

       『師子遊戯三昧』、――  ――

       『妙月三昧』、――  ――

       『月幢相三昧』、――  ――

       『諸法印三昧』、――  ――

       『観頂三昧』、――  ――

       『畢法性三昧』、――  ――

       『畢幢相三昧』、――  ――

       『金剛三昧』、――  ――

       『入法印三昧』、―― 10 ――

       『三昧王安立三昧』、―― 11 ――

       『放光三昧』、―― 12 ――

       『力進三昧』、―― 13 ――

       『出生三昧』、―― 14 ――

       『必入辯才三昧』、―― 15 ――

       『入名字三昧』、―― 16 ――

觀方三昧。陀羅尼印三昧。不妄三昧。攝諸法海印三昧。遍覆虛空三昧。金剛輪三昧。寶斷三昧。普照三昧。不求三昧。無處住三昧。無心三昧。淨燈三昧。無邊明三昧。能作明三昧。普遍明三昧。堅淨諸三昧。三昧無垢明三昧。作樂三昧。電光三昧。

観方三昧、陀羅尼印三昧、不妄三昧、摂諸法海印三昧、遍覆虚空三昧、金剛輪三昧、宝断三昧、普照三昧、不求三昧、無処住三昧、無心三昧、浄澄三昧、無辺明三昧、能作明三昧、普遍明三昧、堅浄諸三昧三昧、無垢明三昧、作楽三昧、電光三昧。

       『観方三昧』、―― 17 ――

       『陀羅尼印三昧』、―― 18 ――

       『不妄三昧』、―― 19 ――

       『摂諸法海印三昧』、―― 20 ――

       『遍覆虚空三昧』、―― 21 ――

       『金剛輪三昧』、―― 22 ――

       『宝断三昧』、―― 23 ――

       『普照三昧』、―― 24 ――

       『不求三昧』、―― 25 ――

       『無処住三昧』、―― 26 ――

       『無心三昧』、―― 27 ――

       『浄灯三昧』、―― 28 ――

       『無辺明三昧』、―― 29 ――

       『能作明三昧』、―― 30 ――

       『普遍明三昧』、―― 31 ――

       『堅浄諸三昧三昧』、―― 32 ――

       『無垢明三昧』、―― 33 ――

       『作楽三昧』、―― 34 ――

       『電光三昧』、―― 35 ――

無盡三昧。威コ三昧。離盡三昧。不動三昧。莊嚴三昧。日光三昧。月淨三昧。淨明三昧。能作明三昧。作行三昧。知相三昧。如金剛三昧。心住三昧。遍照三昧。安立三昧。寶頂三昧。妙法印三昧。法等三昧。生喜三昧。到法頂三昧。能散三昧。壞諸法處三昧。字等相三昧。離字三昧。

無尽三昧、威徳三昧、離尽三昧、不動三昧、荘厳三昧、日光三昧、月浄三昧、浄明三昧、能作明三昧、作行三昧、知相三昧、如金剛三昧、心住三昧、遍照三昧、安立三昧、宝頂三昧、妙法印三昧、法等三昧、生喜三昧、到法頂三昧、能散三昧、壊諸法処三昧、字等相三昧、離字三昧。

       『無尽三昧』、―― 36 ――

       『威徳三昧』、―― 37 ――

       『離尽三昧』、―― 38 ――

       『不動三昧』、―― 39 ――

       『荘厳三昧』、―― 40 ――

       『日光三昧』、―― 41 ――

       『月浄三昧』、―― 42 ――

       『浄明三昧』、―― 43 ――

       『能作明三昧』、―― 44 ――

       『作行三昧』、―― 45 ――

       『知相三昧』、―― 46 ――

       『如金剛三昧』、―― 47 ――

       『心住三昧』、―― 48 ――

       『遍照三昧』、―― 49 ――

       『安立三昧』、―― 50 ――

       『宝頂三昧』、―― 51 ――

       『妙法印三昧』、―― 52 ――

       『法等三昧』、―― 53 ――

       『生喜三昧』、―― 54 ――

       『到法頂三昧』、―― 55 ――

       『能散三昧』、―― 56 ――

       『壊諸法処三昧』、―― 57 ――

       『字等相三昧』、―― 58 ――

       『離字三昧』、―― 59 ――

斷緣三昧。不壞三昧。無種相三昧。無處行三昧。離闇三昧。無去三昧。不動三昧。度緣三昧。集諸功コ三昧。住無心三昧。妙淨華三昧。覺意三昧。無量辯三昧。無等等三昧。度諸法三昧。分別諸法三昧。散疑三昧。無住處三昧。一相三昧。一性三昧。生行三昧。一行三昧。不一行三昧。妙行三昧。

断縁三昧、不壊三昧、無種相三昧、無処行三昧、離闇三昧、無去三昧、不動三昧、度縁三昧、集諸功徳三昧、住無心三昧、妙浄華三昧、覚意三昧、無量辯三昧、無等等三昧、度諸法三昧、分別諸法三昧、散疑三昧、無住処三昧、一相三昧、一性三昧、生行三昧、一行三昧、不一行三昧、妙行三昧。

       『断縁三昧』、―― 60 ――

       『不壊三昧』、―― 61 ――

       『無種相三昧』、―― 62 ――

       『無処行三昧』、―― 63 ――

       『離闇三昧』、―― 64 ――

       『無去三昧』、―― 65 ――

       『不動三昧』、―― 66 ――

       『度縁三昧』、―― 67 ――

       『集諸功徳三昧』、―― 68 ――

       『住無心三昧』、―― 69 ――

       『妙浄華三昧』、―― 70 ――

       『覚意三昧』、―― 71 ――

       『無量辯三昧』、―― 72 ――

       『無等等三昧』、―― 73 ――

       『度諸法三昧』、―― 74 ――

       『分別諸法三昧』、―― 75 ――

       『散疑三昧』、―― 76 ――

       『無住処三昧』、―― 77 ――

       『一相三昧』、―― 78 ――

       『一性三昧』、―― 79 ――

       『生行三昧』、―― 80 ――

       『一行三昧』、―― 81 ――

       『不一行三昧』、―― 82 ――

       『妙行三昧』、―― 83 ――

達一切有底散三昧。入言語三昧。離音聲字語三昧。然炬三昧。淨相三昧。破相三昧。一切種妙足三昧。不喜苦樂三昧。不盡行三昧。多陀羅尼三昧。攝諸邪正相三昧。滅憎愛三昧。逆順三昧。淨光三昧。堅固三昧。滿月淨光三昧。大莊嚴三昧。能照一切世三昧。

達一切有底散三昧、入言語三昧、離音声字語三昧、然炬三昧、浄相三昧、破相三昧、一切種妙足三昧、不喜苦楽三昧、不尽行三昧、多陀羅尼三昧、摂諸邪正相三昧、滅憎愛三昧、逆順三昧、浄光三昧、堅固三昧、満月浄光三昧、大荘厳三昧、能照一切世三昧。

       『達一切有底散三昧』、―― 84 ――

       『入言語三昧』、―― 85 ――

       『離音声字語三昧』、―― 86 ――

       『然炬三昧』、―― 87 ――

       『浄相三昧』、―― 88 ――

       『破相三昧』、―― 89 ――

       『一切種妙足三昧』、―― 90 ――

       『不喜苦楽三昧』、―― 91 ――

       『不尽行三昧』、―― 92 ――

       『多陀羅尼三昧』、―― 93 ――

       『摂諸邪正相三昧』、―― 94 ――

       『滅憎愛三昧』、―― 95 ――

       『逆順三昧』、―― 96 ――

       『浄光三昧』、―― 97 ――

       『堅固三昧』、―― 98 ――

       『満月浄光三昧』、―― 99 ――

       『大荘厳三昧』、―― 100 ――

       『能照一切世三昧』、―― 101 ――

三昧等三昧。無諍行三昧。無住處樂三昧。如住定三昧。壞身衰三昧。壞語如虛空三昧。離著如虛空不染三昧。

三昧等三昧、無諍行三昧、無住処楽三昧、如住定三昧、壊身衰三昧、壊語如虚空三昧、離著如虚空不染三昧なり。

       『三昧等三昧』、―― 102 ――

       『無諍行三昧』、―― 103 ――

       『無住処楽三昧』、―― 104 ――

       『如住定三昧』、―― 105 ――

       『壊身衰三昧』、―― 106 ――

       『壊語如虚空三昧』、―― 107 ――

       『離著如虚空不染三昧』である。―― 108 ――

舍利弗。是菩薩摩訶薩行是諸三昧。疾得阿耨多羅三藐三菩提。

舎利弗、是れ菩薩摩訶薩は、是の諸の三昧を行ぜば、疾かに阿耨多羅三藐三菩提を得んとなり。

     舎利弗!

     是の、

       『菩薩摩訶薩』は、

       是の、

       諸の、

         『三昧』を行じて、

         疾かに、

           『阿耨多羅三藐三菩提』を得る!のである。

復有無量阿僧祇三昧門陀羅尼門。菩薩摩訶薩學是三昧門陀羅尼門。疾得阿耨多羅三藐三菩提。

復た、無量阿僧祇の三昧門、陀羅尼門有り。菩薩摩訶薩は、是の三昧門、陀羅尼門を学ばば、疾かに阿耨多羅三藐三菩提を得ん。』と。

     復た、

       『無量阿僧祇』の、

         『三昧門』と、

         『陀羅尼門』とが有り、

       『菩薩摩訶薩』は、

       是の、

         『三昧門』と、

         『陀羅尼門』とを学んで、

         疾かに、

           『阿耨多羅三藐三菩提』を得る!のである、と。

慧命須菩提隨佛心言。當知是菩薩摩訶薩行是諸三昧者。以為過去佛諸所授記。今現在十方諸佛亦授是菩薩記。是菩薩不見是諸三昧。亦不念是三昧。亦不念我當入是三昧。我今入是三昧。我已入是三昧。是菩薩摩訶薩都無分別念。

慧命須菩提の、仏心に随いて言わく、『当に知るべし、是れ菩薩摩訶薩は、是の諸の三昧を行ぜば、以って過去の仏の諸の授記する所と為し、今、現在の十方の諸仏も、亦た是の菩薩に記を授けん。是の菩薩は、是の諸の三昧を見ず、亦た是の三昧を念ぜず、亦た我れは、当に是の三昧に入るべしとも、我れは、今、是の三昧に入れりとも、我れは、已に是の三昧に入りたりとも念ぜず。是の菩薩摩訶薩は、都て分別の念の無ければなり。』と。

   『慧命須菩提』は、

     『仏心』に随って、

     こう言った、――

     このように知れ!――

     是の、

       『菩薩摩訶薩』が、

       是の、

       諸の、

         『三昧』を行ずる!ならば、

         その故に、

           『過去』の、

             『諸仏』に、

             『授記』され、

           今、

           『現在』の、

           『十方』の、

             『諸仏』も、

             亦た、

             是の、

               『菩薩』に、

               『授記』される!が、

           是の、

             『菩薩』は、

             是の、

             諸の、

               『三昧』を見ず、

             亦た、

             是の、

               『三昧』を念じず、

             亦た、

               わたしは、

               是の、

                 『三昧』に、

                 これから、

                   『入ろう!』とも、

               わたしは、

               是の、

                 『三昧』に、

                 今、

                   『入っている!』とも、

               わたしは、

               是の、

                 『三昧』に、

                 已に、

                   『入った!』とも念じない。

     是の、

       『菩薩摩訶薩』には、

       都て、

         『分別』する!という、

           『念』が、

           『無い!』からである、と。

舍利弗問須菩提。菩薩摩訶薩住是諸三昧已。從過去佛授記耶。

舎利弗の須菩提に問わく、『菩薩摩訶薩は、是の諸の三昧に住し已りて、過去の仏より、記を授かりしや。』と。

   『舎利弗』は、

     『須菩提』に、

       こう問うた、――

       『菩薩摩訶薩』は、

       是の、

       諸の、

         『三昧』に住する!ので、

         『過去』の、

           『仏』より、

           『授記』される!のか?と。

須菩提報言。不也。舍利弗。何以故。般若波羅蜜不異諸三昧。諸三昧不異般若波羅蜜。菩薩不異般若波羅蜜及三昧。般若波羅蜜及三昧。不異菩薩。般若波羅蜜即是三昧。三昧即是般若波羅蜜。菩薩即是般若波羅蜜及三昧。般若波羅蜜及三昧即是菩薩。

須菩提の報えて言わく、『不なり、舎利弗。何を以っての故に、般若波羅蜜は、諸の三昧と異ならず、諸の三昧は、般若波羅蜜と異ならず、菩薩は、般若波羅蜜、及び三昧と異ならず、般若波羅蜜、及び三昧は、菩薩と異ならず。般若波羅蜜は、即ち是れ三昧にして、三昧は、即ち是れ般若波羅蜜なり。菩薩は、即ち是れ般若波羅蜜、及び三昧にして、般若波羅蜜、及び三昧は、即ち是れ菩薩なればなり。』と。

     『須菩提』は報えて、

       こう言った、――

       そうではないのだ!

       舎利弗!

       何故ならば、

         『般若波羅蜜』は、

         諸の、

           『三昧』と、

           『異ならない!』のであり、

         諸の、

         『三昧』は、

           『般若波羅蜜』と、

           『異ならない!』からである。

         『菩薩』は、

           『般若波羅蜜』、

           及び、

             『三昧』と、

             『異ならない!』のであり、

         『般若波羅蜜』、

         及び、

           『三昧』は、

           『菩薩』と、

             『異ならない!』のである。

         『般若波羅蜜』とは、

         即ち、

         是れは、

           『三昧』であり、

         『三昧』とは、

         即ち、

         是れが、

           『般若波羅蜜』なのである。

         『菩薩』とは、

         即ち、

         是れは、

           『般若波羅蜜』、

           及び、

             『三昧』であり、

         『般若波羅蜜』、

         及び、

           『三昧』とは、

           即ち、

           是れが、

             『菩薩』なのである!と。

舍利弗語須菩提。若三昧不異菩薩。菩薩不異三昧。三昧即是菩薩。菩薩即是三昧。菩薩云何知一切諸法等三昧。

舎利弗の、須菩提に語らく、『若し、三昧は、菩薩と異ならず、菩薩は、三昧と異ならず。三昧は、即ち是れ菩薩にして、菩薩は、即ち是れ三昧ならば、菩薩は云何が、一切の諸法の三昧に等しきことを知るや。』と。

     『舎利弗』は、

       『須菩提』に、こう語った、――

       若し、

         『三昧』は、

           『菩薩』と異ならず、

         『菩薩』は、

           『三昧』と異ならず、

         『三昧』とは、

         即ち、

         是れが、

           『菩薩』であり、

         『菩薩』とは、

         即ち、

         是れが、

           『三昧』である!とすれば、

       『菩薩』は、

       何故、

       一切の、

         『諸法』は、

         『三昧』に等しい!と知っているのか?

須菩提言。若菩薩入是三昧。是時不作是念。我以是法入是三昧。以是因緣故。舍利弗。是菩薩於諸三昧不知不念。

須菩提の言わく、『若し、菩薩は、是の三昧に入れば、是の時、是の念を作さず、我れは、是の法を以って、是の三昧に入れりと。是の因縁を以っての故に、舎利弗、是の菩薩は、諸の三昧に於いて、知らず、念ぜざるなり。』と。

     『須菩提』は、

       こう言った、――

       若し、

         『菩薩』が、

         是の、

           『三昧』に入った!ならば、

           是の時、

             こう念ずる!ことはない、――

             わたしは、

               是の、

                 『法』を以って、

               是の、

                 『三昧』に入る!と。

           是の、

             『因縁』を以っての故に、

             舎利弗!

             是の、

               『菩薩』は、

               諸の、

                 『三昧』を、

                   『知る!』こともなく、

                   『念ずる!』こともないのだ、と。

舍利弗言。何以故不知不念。須菩提言。諸三昧無所有故。是故菩薩不知不念。

舎利弗の言わく、『何を以っての故にか、知らず、念ぜざる。』と。須菩提の言わく、『諸の三昧は、所有無きが故なり。是の故に菩薩は知らず、念ぜざるなり。』と。

     『舎利弗』が、

       こう言った、――

       何故、

         『知る!』こともなく、

         『念ずる!』こともないのか?と。

     『須菩提』は、

       こう言った、――

       諸の、

         『三昧』には、

           『所有』が、

           『無い!』のであり、

         是の故に、

         『菩薩』は、

           『知る!』こともなく、

           『念ずる!』こともないのだ、と。

爾時佛讚言。善哉善哉。須菩提。如我說汝行無諍三昧第一。與此義相應。菩薩摩訶薩應如是學般若波羅蜜。禪波羅蜜毘梨耶波羅蜜羼提波羅蜜尸羅波羅蜜檀波羅蜜。四念處乃至十八不共法。亦應如是學

爾の時、仏の讃じて言わく、『善い哉、善い哉、須菩提は、我が説の如し。汝は、無諍三昧を行ずること第一にして、此の義と相応せり。菩薩摩訶薩は、応に是の如く般若波羅蜜、禅波羅蜜、毘梨耶波羅蜜、羼提波羅蜜、尸羅波羅蜜、檀波羅蜜を学すべし。四念処、乃至十八不共法も、亦た応に是の如く学すべし。』と。

   爾の時、

     『仏』は讃じて、

       こう言われた、――

       善いことだ!

       善いことだ!

       須菩提!

         わたしの、

           『説く!』とおり、

         お前は、

           『無諍三昧』を

             『行う!』こと、

             『第一』であり、

           此の、

             『義(無諍)』とも、

             『相応』している。

         『菩薩摩訶薩』は、

         是のように、

           『般若波羅蜜』、

           『禅波羅蜜』、

           『毘梨耶波羅蜜』、

           『羼提波羅蜜』、

           『尸羅波羅蜜』、

           『檀波羅蜜』を、

             『学ぶべき!』であり、

           『四念処』、

           乃至、

           『十八不共法』も、

           亦た、

           是のように、

             『学ぶべき!』である、と。

 

  無諍三昧(むじょうさんまい):梵語arNa−samaadhiの訳。即ち空理に住して他と無諍なる三昧を云う。『大智度論巻11()注:無諍三昧』参照。

【論】問曰。如佛說涅槃一道。所謂空無相無作。舍利弗何以更問有餘三昧令菩薩疾得佛不。

問うて曰く、仏の説きたもうが如きは、涅槃の一道、謂わゆる空、無相、無作なり。舎利弗は、何を以ってか、更に余の三昧有りて、菩薩をして疾かに、仏を得しむるや不やを問う。

 問い、

   『仏』が説かれた!のは、

     『涅槃』の、

       『一道』であり、

       謂わゆる、

         『空』、

         『無相』、

         『無作』である。

   『舎利弗』は、

   何故、

     こう問うたのか?――

     更に、

       他にも、

       『三昧』が有って、

         『菩薩』に、

         疾かに、

           『仏』を、

           『得させる!』ことができるか、どうか?と。

答曰。未近涅槃時多有餘道。近涅槃時惟有一道。空無相無作。諸餘三昧皆入此三解脫門。譬如大城多有諸門皆得入城。又如眾川萬流皆歸於海。

答えて曰く、未だ、涅槃に近づかざる時は、多く余の道有り。涅槃に近づきたる時は、惟だ一道有るのみ。空、無相、無作なり。諸余の三昧は、皆、此の三解脱門に入る。譬えば大城には、多く諸門有りて、皆城に入るを得るが如く、又衆川万流は、皆海に帰するが如し。

 答え、

   未だ、

     『涅槃』に近づかない!時には、

     他の、

       『道』が、

       『多く!』有るが、

     『涅槃』に近づく!時には、

     惟だ、

       『一道』、

       謂わゆる、

         『空』、

         『無相』、

         『無作』が有る!のみであり、

     其の他の、

       『三昧』は、

       皆、

       此の、

         『三解脱門』に入る!のである。

     譬えば、

       『大城』には、

       諸の、

         『門』が、

         『多く!』有るが、

         皆、

           『城』に入る!ことができ、

       又、

       『衆川』、

       『万流』が、

         皆、

           『海』に帰す!のと同じである。

何等餘三昧。所謂首楞嚴三昧等諸三昧。摩訶衍品中佛自說。有深難解者彼中當說。若菩薩能行是百八三昧等諸陀羅尼門。十方諸佛皆與授記。

何等か、余の三昧なる。謂わゆる首楞厳三昧等の諸の三昧は、摩訶衍品の中に、仏の自ら説きたまえり。深くして、難解なる者有らば、彼の中に、当に説くべし。若し、菩薩は能く、是の百八三昧等の諸の陀羅尼門を行ぜば、十方の諸仏は、皆、授記を与えたまわん。

     其の他の、

     『三昧』とは、

       何のようなものか?

       謂わゆる、

       『須菩提』の説く!

         『首楞厳』等の、

         諸の、

           『三昧』である。

       『摩訶衍品(大品問乗品)』中にも、

         『仏』は、

         自ら、

           『説かれている!』が、

           深くて、

             『難解』の者が有れば、

             『彼の中(大智度論摩訶衍品)』で、

               『説く!』ことになろう。

     若し、

     『菩薩』が、

     此の、

       『百八三昧』等の、

       諸の、

         『陀羅尼(三昧名)門』を行う!ならば、

         十方の、

           『諸仏』が、

           皆、

             『授記』される!のである。

 

  陀羅尼門(だらにもん):梵語dhaaraNii、総持、能持等と訳す。能く憶持して忘失せざるの義。即ち三昧の名を記憶して、其の義を忘失せざるを以って諸の三昧に入る為の門とすの意。『大智度論巻42()注:陀羅尼、巻42()注:字門』参照。

  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻5問乗品(摩訶衍品)』:『復次須菩提。菩薩摩訶薩摩訶衍。所謂名首楞嚴三昧。寶印三昧。師子遊戲三昧。妙月三昧。月幢相三昧。出諸法三昧。觀頂三昧。畢法性三昧。畢幢相三昧。金剛三昧。入法印三昧。三昧王安立三昧。放光三昧。力進三昧。高出三昧。必入辯才三昧。釋名字三昧。觀方三昧。陀羅尼印三昧。無誑三昧。攝諸法海三昧。遍覆虛空三昧。金剛輪三昧。寶斷三昧。能照三昧。不求三昧。無住三昧。無心三昧。淨燈三昧。無邊明三昧。能作明三昧。普照明三昧。堅淨諸三昧三昧。無垢明三昧。歡喜三昧。電光三昧。無盡三昧。威コ三昧。離盡三昧。不動三昧。不退三昧。日燈三昧。月淨三昧。淨明三昧。能作明三昧。作行三昧。知相三昧。如金剛三昧。心住三昧。普明三昧。安立三昧。寶聚三昧。妙法印三昧。法等三昧。斷喜三昧。到法頂三昧。能散三昧。分別諸法句三昧。字等相三昧。離字三昧。斷緣三昧。不壞三昧。無種相三昧。無處行三昧。離朦昧三昧。無去三昧。不變異三昧。度緣三昧。集諸功コ三昧。住無心三昧。淨妙華三昧。覺意三昧。無量辯三昧。無等等三昧。度諸法三昧。分別諸法三昧。散疑三昧。無處三昧。一莊嚴三昧。生行三昧。一行三昧。不一行三昧。妙行三昧。達一切有底散三昧。入名語三昧。離音聲字語三昧。然炬三昧。淨相三昧。破相三昧。一切種妙足三昧。不喜苦樂三昧。無盡相三昧。陀羅尼三昧。攝諸邪正相三昧。滅憎愛三昧。逆順三昧。淨光三昧。堅固三昧。滿月淨光三昧。大莊嚴三昧。能照一切世三昧。三昧等三昧。攝一切有諍無諍三昧。不樂一切住處三昧。如住定三昧。壞身衰三昧。壞語如虛空三昧。離著虛空不染三昧。云何名首楞嚴三昧。知諸三昧行處。是名首楞嚴三昧。云何名寶印三昧。住是三昧能印諸三昧。是名寶印三昧。云何名師子遊戲三昧。住是三昧能遊戲諸三昧中如師子。是名師子遊戲三昧。‥‥』

  参考:『大智度論巻47摩訶衍品』:『釋曰。上以十八空釋般若波羅蜜。今以百八三昧釋禪波羅蜜。百八三昧佛自說其義是時人利根故皆得信解。今則不然。論者重釋其義令得易解首楞嚴三昧者。秦言健相。分別知諸三昧行相多少深淺。如大將知諸兵力多少。復次菩薩得是三昧。諸煩惱魔及魔人無能壞者。譬如轉輪聖王主兵寶將所往至處無不降伏。

所以者何。是菩薩雖得是諸三昧。實無諸憶想分別我心故。亦不作是念。我當入是三昧今入已入。我當住是三昧是我三昧。以是心清淨微妙法不著。故諸佛授記。

所以は何んとなれば、是の菩薩は、是の諸の三昧を得と雖も、実に憶想し、分別する、我心無きが故に、亦た是の念を作さず、『我れは当に、是の三昧に入るべし。』、『今入れり。』、『已に入りたり。』、『我れは当に、是の三昧に住すべし。』、『是れ我が三昧なり。』と。是の心の清浄にして、微妙の法にも著せざるを以っての故に、諸仏は授記したもうなり。

     何故ならば、

     是の、

       『菩薩』は、

       是の、

       諸の、

         『三昧』を得た!のであるが、

         実に、

         諸の、

           『憶想』し、

           『分別』する!

             『我心』が無い!のであり、

       故に、

         是の念を作さない!からである、、――

         わたしは、

         是の、

           『三昧』に、

           これから、

             『入ろう!』

         わたしは、

           今、

             『入っている!』

         わたしは、

           已に、

             『入った!』、

         わたしは、

         是の、

           『三昧』に、

           是れから、

             『住する!』ことにしよう。

         是れは、

           わたしの、

           『三昧』である!と。

     是の、

       『心』が、

         『清浄』であり、

         『微妙』な、

           『法』にも、

           『著する!』ことがないが故に、

       『諸仏』は、

         『授記』される!のである。

爾時舍利弗還以空智慧難須菩提言。菩薩住是三昧取是三昧相得授記耶。須菩提言。不也。

爾の時、舎利弗は還って、空の智慧を以って、須菩提を難じて言わく、『菩薩は、是の三昧に住し、是の三昧の相を取りて、授記を得るや。』と。須菩提の言わく、『不なり。』と。

     爾の時、

       『舎利弗』は、

       還って、

         『空の智慧』を以って、

         『須菩提』を難じて、

           こう言った、――

           『菩薩』が、

           是の、

             『三昧』に住し、

           是の、

             『三昧』の、

               『相』を、

               『取る!』ことによって、

                 『授記』を、

                 『得る!』のですか?と。

       『須菩提』は、

         こう言った、――

         そうではない!と。

何以故。三事不異故。般若不異三昧。三昧不異般若。般若不異菩薩三昧。菩薩三昧不異般若。般若三昧即是菩薩。菩薩即是般若三昧。若三昧菩薩異者。諸佛授其記。不異故無授記。

何を以っての故に、三事は異ならざるが故なり。般若は三昧に異ならず、三昧は般若に異ならず。般若は菩薩、三昧に異ならず、菩薩、三昧は般若に異ならず。般若、三昧は即ち是れ菩薩なり、菩薩は即ち是れ般若、三昧なり。若し三昧と、菩薩と異ならば、諸仏は、其れに記を授けたまわん。異ならざるが故に、授記無し。

         何故ならば、

           『三事(般若、三昧、菩薩)』が、

             『異ならない!』からである。

           謂わゆる、

             『般若』は、

               『三昧』に異ならず、

             『三昧』は、

               『般若』に異ならず、

             『般若』は、

               『菩薩』及び、

               『三昧』に異ならず、

             『菩薩』及び、

             『三昧』は、

               『般若』に異ならない!のであり、

             『般若』及び、

             『三昧』とは、

             即ち、

               是れは、

                 『菩薩』であり、

             『菩薩』とは、

             即ち、

               是れは、

                 『般若』及び、

                 『三昧』なのである。

         若し、

           『三昧』と、

           『菩薩』とが、

             『異なる!』のであれば、

             『諸仏』は、

             其れに、

               『授記』される!だろうが、

             『異ならない!』が故に、

               『授記』は、

               『無い!』のである。

舍利弗復問。若爾者三昧及一切法平等不異。須菩提言。諸菩薩有諸法等三昧。入是三昧中諸法無異。

舎利弗の復た問わく、『若し爾らば、三昧、及び一切法は平等にして、異ならざらん。』と。須菩提の言わく、『諸の菩薩に、諸法等三昧有り。是の三昧中に入れば、諸法は異なること無し。』と。

       『舎利弗』は、

       復た、

         こう問うた、――

         もし、

           そうならば、

           『三昧』及び、

           一切の、

             『法』は、

               『平等』であって、

               『異ならない!』のか?と。

       『須菩提』は、

         こう言った、――

         諸の、

           『菩薩』には、

             『諸法等三昧』が有り、

             是の、

               『三昧』中に入れば、

                 『異なる!』ことは、

                 『無い!』のである、と。

復次如先說。於諸三昧不作憶想分別覺與不覺。諸三昧自性無所有故。菩薩不知不念。

復た次ぎに、先に説けるが如く、諸の三昧に於いて、憶想、分別して、覚と不覚とを作さず。諸の三昧は、自性の所有無きが故に、菩薩は知らず、念ぜざるなり。

 復た次ぎに、

   先に、

     説くとおり、

     諸の、

       『三昧』を、

       憶想し、

       分別して、

         『入った!』と、

           『覚る!』ことも、

           『覚らない!』こともない。

     何故ならば、

     諸の、

       『三昧』には、

         『自性』の、

         『所有』が、

           『無い!』が故に、

         『菩薩』は、

           『知る!』こともなく、

           『念ずる!』こともないからである。

佛以須菩提自未得是三昧。而善說菩薩微妙三昧陀羅尼。般若波羅蜜中不念不著。是故讚言善哉。我說汝得無諍三昧第一。如我所讚不虛

仏は、須菩提の、自らは未だ、是の三昧を得ざるに、而も善く、菩薩の微妙なる三昧、陀羅尼の、般若波羅蜜の中に念ぜず、著せざるを説けるを以って、是の故に讃じて言わく、『善い哉。我れは、汝は無諍三昧を得て第一なりと説けり。我が讃ずる所の如きは、虚ならざるなり。』と。

     『仏』は、

       『須菩提』が、

       自ら、

       未だ、

         是の、

         『三昧』を得ていない!のに、

         善く、

           これを――

           『菩薩』の、

           微妙な、

             『三昧』や、

             『陀羅尼』は、

               『般若波羅蜜』の中に、

                 『念ずる!』こともなく、

                 『著する!』こともない、と説いたので、

       是の故に、

         讃じて、

           こう言われたのである、――

           善いことである!

           わたしは、

             お前の得た!

               『無諍三昧』は、

               『第一』である!と説いたが、

             わたしの、

               『讃じた!』所は、

               『嘘』でなかった!と。

 

 

 

 

 

般若波羅蜜は得られない!

【經】舍利弗白佛言。世尊。菩薩摩訶薩如是學為學般若波羅蜜耶。

舎利弗の仏に白して言さく、『世尊、菩薩摩訶薩の、是の如く学するを、般若波羅蜜を学すと為すや。』と。

     『舎利弗』は、

       『仏』に白して、

         こう言った、――

         世尊!

         『菩薩摩訶薩』が、

           是のように、

           『学んだ!』ならば、

             『般若波羅蜜』を、

             『学んだ!』ことになるのでしょうか?と。

佛告舍利弗。菩薩摩訶薩如是學為學般若波羅蜜。是法不可得故。乃至學檀波羅蜜。是法亦不可得故。學四念處乃至學十八不共法。是法不可得故。

仏の舎利弗に告げたまわく、『菩薩摩訶薩の、是の如く学するを、般若波羅蜜を学すと為す。是の法は、得べからざるが故なり。乃至檀波羅蜜を学するまで、是の法も、亦た得べからざるが故なり。四念処を学する、乃至十八不共法を学するまで、是の法は得べからざるが故なり。』と。

     『仏』は、

       『舎利弗』に、

         こう告げられた、――

         『菩薩摩訶薩』が、

           是のように、

           『学ぶ!』ならば、

             『般若波羅蜜』を、

             『学んだ!』ことになる。

           是の、

             『法(般若波羅蜜)』は、

             『得られない!』からである。

           乃至、

             『檀波羅蜜』を学ぶ!ことも、

             亦た、

               『得られない!』のであり、

             『四念処』を学ぶ!こと、

             乃至、

             『十八不共法』を学ぶ!ことまで、

             是の、

               『法』は、

               『得られない!』のである、と。

舍利弗白佛言。世尊。如是菩薩摩訶薩學般若波羅蜜。是法不可得耶。

舎利弗の仏に白して言さく、『世尊、是の如く、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を学するも、是の法は得べからざるや。』と。

     『舎利弗』は、

       『仏』に白して、

         こう言った、――

         世尊!

         是のように、

           『菩薩摩訶薩』が、

             『般若波羅蜜』を学んでも、

             是の、

               『法(般若波羅蜜)』は、

               『得られない!』のですか?と。

佛言如是。菩薩摩訶薩學般若波羅蜜是法不可得。

仏の言わく、『是の如し。菩薩摩訶薩の般若波羅蜜を学するも、是の法は得べからず。』と。

     『仏』は、

       こう言われた、――

       是のように、

         『菩薩摩訶薩』が、

           『般若波羅蜜』を学んでも、

           是の、

             『法』は、

             『得られない!』のである、と。

舍利弗言。世尊。何等法不可得。

舎利弗の言わく、『世尊、何等の法か、得べからざる。』と。

     『舎利弗』は、

       こう言った、――

       世尊!

       何のような、

         『法』が、

         『得られない!』のですか?と。

佛言。我不可得。乃至知者見者不可得。畢竟淨故。

仏の言わく、『我は得べからず、乃至知者、見者も得べからず、畢竟じて浄なるが故なり。

     『仏』は、

       こう言われた、――

       『我』は、

         『得られない!』、

       乃至、

       『知者』や、

       『見者』も、

         『得られない!』、

         畢竟じて、

           『浄い!』からである。

 

  :我、知者、見者の名は、本来所染の法に非ず、但だ境に対して心を起す時、憶念分別するに由るが故に、染せらるるのみの意。

五陰不可得。十二入不可得。十八界不可得。畢竟淨故。無明不可得。畢竟淨故。乃至老死不可得。畢竟淨故。苦諦不可得。畢竟淨故。集滅道諦不可得。畢竟淨故。欲界不可得。畢竟淨故。色界無色界不可得。畢竟淨故。

五陰は得べからず、十二入も得べからず、十八界も得べからず、畢竟じて浄なるが故なり。無明は得べからず、畢竟じて浄なるが故なり。乃至老死も得べからず、畢竟じて浄なるが故なり。苦諦は得べからず、畢竟じて浄なるが故なり。集、滅、道諦も得べからず、畢竟じて浄なるが故なり。欲界は得べからず、畢竟じて浄なるが故なり。色界、無色界も得べからず、畢竟じて浄なるが故なり。

       『五陰』は、

         『得られない!』、

       『十二入』も、

         『得られない!』、

       『十八界』も、

         『得られない!』、

         畢竟じて、

           『浄い!』からである。

       『無明』は、

         『得られない!』、

         畢竟じて、

           『浄い!』からである。

       乃至、

       『老死』は、

         『得られない!』、

         畢竟じて、

           『浄い!』からである。

       『苦諦』は、

         『得られない!』、

         畢竟じて、

           『浄い!』からである。

       『集、滅、道諦』は、

         『得られない!』、

         畢竟じて、

           『浄い!』からである。

       『欲界』は、

         『得られない!』、

         畢竟じて、

           『浄い!』からである。

       『色界、無色界』は、

         『得られない!』、

         畢竟じて、

           『浄い!』からである。

四念處不可得。畢竟淨故。乃至十八不共法不可得。畢竟淨故。六波羅蜜不可得。畢竟淨故。須陀洹不可得。畢竟淨故。斯陀含阿那含阿羅漢辟支佛不可得。畢竟淨故。菩薩不可得。畢竟淨故。佛不可得。畢竟淨故。

四念処は得べからず、畢竟じて浄なるが故なり。乃至十八不共法も得べからず、畢竟じて浄なるが故なり。六波羅蜜は得べからず、畢竟じて浄なるが故なり。須陀洹は得べからず、畢竟じて浄なるが故なり。斯陀含、阿那含、阿羅漢、辟支仏は得べからず、畢竟じて浄なるが故なり。菩薩は得べからず、畢竟じて浄なるが故なり。仏は得べからず、畢竟じて浄なるが故なり。』と。

       『四念処』は、

         『得られない!』、

         畢竟じて、

           『浄い!』からである。

       乃至、

       『十八不共法』は、

         『得られない!』、

         畢竟じて、

           『浄い!』からである。

       『六波羅蜜』は、

         『得られない!』、

         畢竟じて、

           『浄い!』からである。

       『須陀洹』は、

         『得られない!』、

         畢竟じて、

           『浄い!』からである。

       『斯陀含、阿那含、阿羅漢、辟支仏』は、

         『得られない!』、

         畢竟じて、

           『浄い!』からである。

       『菩薩』は、

         『得られない!』、

         畢竟じて、

           『浄い!』からである。

       『仏』は、

         『得られない!』、

         畢竟じて、

           『浄い!』からである、と。

舍利弗白佛言。世尊。何等是畢竟淨。

舎利弗の仏に白して言さく、『世尊、何等か、是れ畢竟じて浄なる。』と。

     『舎利弗』は、

       『仏』に白して、

         こう言った、――

         世尊!

         何のようなものが、

         畢竟じて、

           『浄い!』のでしょうか?と。

佛言。不出不生無得無作。是名畢竟淨。

仏の言わく、『出でず、生ぜずして、得る無く、作す無し。是れを畢竟じて浄なりと名づく。』と。

     『仏』は、

       こう言われた、――

       『出ない!』、

       『生じない!』、

       『得る!』ことが無い、

       『作す!』ことが無い、

       是れを、

       畢竟じて、

         『浄い!』という、と。

舍利弗白佛言。世尊。菩薩摩訶薩若如是學為學何等法。

舎利弗の仏に白して言さく、『世尊、菩薩摩訶薩は、若し是の如く学せば、何等の法を学すと為さん。』と。

     『舎利弗』は、

       『仏』に白して、

         こう言った、――

         世尊!

         『菩薩摩訶薩』が、

         是のように、

           『学ぶ!』ことは、

           何のような、

             『法』を、

             『学ぶ!』というのでしょうか?と。

佛告舍利弗。菩薩摩訶薩如是學。於諸法無所學。何以故。舍利弗。諸法相不如凡夫所著。

仏の舎利弗に告げたまわく、『菩薩摩訶薩は、是の如く学すれば、諸法に於いて、学す所無し。何を以っての故に、舎利弗、諸法の相は、凡夫の著する所の如くならざればなり。』と。

     『仏』は、

       『舎利弗』に、

         こう告げられた、――

         『菩薩摩訶薩』が、

         是のように、

           『学ぶ!』ならば、

           『諸法』に於いて、

             『学んだ!』所は、

             『無い!』のである。

         何故ならば、

         舎利弗!

           『諸法』の、

             『相』は、

           『凡夫』の、

             『著する!』所と、

             『同じではない!』からである、と。

舍利弗白佛言。世尊。諸法實相云何有。

舎利弗の仏に白して言さく、『世尊、諸法の実相は、云何が有る。』と。

     『舎利弗』は、

       『仏』に白して、

         こう言った、――

         世尊!

         諸の、

           『法』の、

           『実相』は、

           何のように、

             『有る!』のでしょうか?と。

佛言。諸法無所有。如是有如是無所有。是事不知名為無明。

仏の言わく、『諸法には、所有無し。是の如く有りて、是の如く所有無し。是の事を知らざるを名づけて、無明と為す。』と。

     『仏』は、

       こう言われた、――

       『諸法()』には、

         『有る!』所が、

         『無い!』と、

       是のように、

         『有る!』のであり、

       是のように、

         『有る!』所(実体)が、

         『無い!』のである。

       是の事を、

         『知らない!』ことを、

         『無明』という!と。

舍利弗白佛言。世尊。何等無所有是事不知名為無明。

舎利弗の仏に白して言さく、『世尊、何等の所有無くしてか、是の事を知らざるを、名づけて無明と為すや。』と。

     『舎利弗』は、

       『仏』に白して、

         こう言った、――

         世尊!

         何に、

           『有る!』所が、

           『無い!』と、

         是の事を、

           『知らない!』ことを、

           『無明』というのでしょうか?

佛告舍利弗。色受想行識無所有。內空乃至無法有法空故。四念處乃至十八不共法無所有。內空乃至無法有法空故。是中凡夫以無明力渴愛故。妄見分別說是無明。

仏の舎利弗に告げたまわく、『色、受想行識は所有無し、内空、乃至無法有法空の故なり。四念処、乃至十八不共法は、所有無し、内空、乃至無法有法空の故なり。是の中に凡夫は、無明の力を以って、渇愛するが故に、妄見し、分別して説く。是れ無明なり。

     『仏』は、

       『舎利弗』に、

         こう告げられた、――

         『色、受想行識()』には、

           『所有(実体)』が、

           『無い!』のである。

         何故ならば、

           『内空』、

           乃至、

           『無法有法空』だからである。

         『四念処』、

         乃至、

         『十八不共法』には、

           『所有』が、

           『無い!』のである。

         何故ならば、

           『内空』、

           乃至、

           『無法有法空』だからである。

         是の中に、

         『凡夫』は、

           『無明』の、

             『力』が、

             『渇愛』する!ので、

           故に、

             『妄見』し、

             『分別』して、

               『有る!』かのように、

               『説く!』のであり、

           是れが、

             『無明』である。

是凡夫為二邊所縛。是人不知不見諸法無所有。而憶想分別著色乃至十八不共法。是人著故。於無所有法而作識知見。是凡夫不知不見。

是の凡夫は、二辺の縛する所と為す。是の人は、諸法の所有無きことを知らず、見ずして、而も憶想し、分別して、色、乃至十八不共法に著す。是の人は、著するが故に、所有無き法に於いて、而も識、知、見を作すも、是の凡夫は、知らず、見ざるなり。

         是の、

           『凡夫』は、

             『二辺』に、

             『縛られている!』のである。

         是の、

           『人』は、

             『諸法()』には、

               『所有(実体)』が、

               『無い!』ということを、

                 『知る!』こともなく、

                 『見る!』こともないが、

             而し、

             『憶想』し、

             『分別』して、

               『色()』、

               乃至、

               『十八不共法』に、

                 『著する!』のである。

         是の人は、

           『諸法()』に、

           『著する!』が故に、

             『所有』の、

             『法(実体)』が、

               『無い!』のに、

               『識、知、見』を作す!ので、

           是れを、

             『凡夫』は、

               『知る!』こともなく、

               『見る!』こともない、というのである。

何等不知不見。不知不見色。乃至十八不共法。亦不知不見。以是故墮凡夫數如小兒。

何等をか、知らず、見ざる。色を知らず、見ず、乃至、十八不共法も、亦た知らず、見ず。是を以っての故に、凡夫の数に堕して、小児の如し。

         何について、

           『知る!』こともなく、

           『見る!』こともないのか?

         『色』を、

           『知る!』こともなく、

           『見る!』こともない。

         乃至、

         『十八不共法』をも、

         亦た、

           『知る!』こともなく、

           『見る!』こともない。

         是の故に、

           『凡夫の数(仲間)』に堕ちて、

           『小児』のようなのである。

是人不出。於何不出。不出欲界不出色界不出無色界聲聞辟支佛法中不出。是人亦不信。不信何等。不信色空。乃至不信十八不共法空。是人不住。不住何等。不住檀波羅蜜。乃至不住般若波羅蜜。不住阿毘跋致地。乃至不住十八不共法。以是因緣故。名為凡夫如小兒。亦名著者。

是の人は、出でず。何に於いてか、出でざる。欲界を出でず、色界を出でず、無色界を出でず、声聞、辟支仏の法の中より出でざるなり。是の人は、亦た信ぜず。何等をか、信ぜざる。色の空なるを信ぜず、乃至十八不共法の空なるを信ぜず。是の人は、住せず。何等にか、住せざる。檀波羅蜜に住せず、乃至般若波羅蜜に住せず、阿鞞跋致地に住せず、乃至十八不共法に住せず。是の因縁を以っての故に、名づけて凡夫の小児の如しと為し、亦た著する者と名づく。

       是の、

         『人(凡夫)』が、

           『出ない!』とは、

           何から、

             『出ない!』のだろうか?

             『欲界』から、

             『色界』から、

             『無色界』から、

               『出ない!』のであり、

             『声聞』、

             『辟支仏』の、

               『法』の中から、

               『出ない!』のである。

       是の、

         『人』は、

         亦た、

           『信じない!』のである。

           何のようなものを、

             『信じない!』のだろうか?

             『色』は、

               『空』である!と、

               『信じない!』のであり、

             乃至、

             『十八不共法』は、

               『空』である!と、

               『信じない!』のである。

       是の、

         『人』は、

           『住まらない!』のである。

           何のようなものに、

             『住まらない!』のだろうか?

             『檀波羅蜜』に、

               『住まらない!』のであり、

             乃至、

             『般若波羅蜜』に、

               『住まらない!』のである。

             『阿鞞跋致地』に、

               『住まらない!』のであり、

             乃至、

             『十八不共法』に、

               『住まらない!』のである。

       是の、

         『因縁(不知)』を以っての故に、

           『凡夫』は、

             『小児』と同じだ!といい、

             亦た、

               『著する』者だ!というのである。

 

  :此には凡夫人の失う所を説いて、前の不出不生無得無作の畢竟浄に対するものである。

何等為著。著色乃至識。著眼入乃至意入。著眼界乃至意識界。著婬怒癡。著諸邪見。著四念處。乃至著佛道。

何等をか、著すると為す。色、乃至識に著し、眼入、乃至意入に著し、限界、乃至意識界に著し、婬、怒、癡に著し、諸も論邪見に著し、四念処に著し、乃至仏道に著す。』と。

       何のようなものを、

         『著する!』というのだろうか?

         『色』、

         乃至、

           『識』に、

           『著する!』こと、

         『眼入』、

         乃至、

           『意入』に、

           『著する!』こと、

         『限界』、

         乃至、

           『意識界』に、

           『著する!』こと、

         『婬、怒、癡』に、

           『著する!』こと、

         『邪見』に、

           『著する!』こと、

         『四念処』、

         乃至、

           『仏道』に、

           『著する!』ことである、と。

舍利弗白佛言。世尊。若菩薩摩訶薩作如是學。亦不學般若波羅蜜。不得薩婆若。

舎利弗の仏に白して言さく、『世尊、若し菩薩摩訶薩も、是の如き学を作すも、亦た般若波羅蜜を学せずして、薩婆若を得ざるや。』と。

     『舎利弗』は、

       『仏』に白して、

         こう言った、――

         世尊!

         若し、

           『菩薩摩訶薩』が、

           是のように、

             『学んだ!』としても、

             亦た、

               『般若波羅蜜』を学んだ!のでなく、

               『薩婆若』を得る!こともないのでしょうか?と。

佛語舍利弗。菩薩摩訶薩作如是學。亦不學般若波羅蜜。不得薩婆若。

仏の舎利弗に語りたまわく、『菩薩摩訶薩は、是の如き学を作して、亦た般若波羅蜜を学せずして、薩婆若を得ず。』と。

     『仏』は、

       『舎利弗』に、

         こう語られた、――

         『菩薩摩訶薩』が、

         是のように、

           『学んだ!』としても、

           亦た、

             『般若波羅蜜』を学んだ!のではなく、

             『薩婆若』を得る!こともない、と。

舍利弗白佛言。世尊。何以故。菩薩摩訶薩亦不學般若波羅蜜。不得薩婆若。

舎利弗の仏に白して言さく、『世尊、何を以っての故に、菩薩摩訶薩も、亦た般若波羅蜜を学せずして、薩婆若を得ざる。』と。

     『舎利弗』は、

       『仏』に白して、

         こう言った、――

         世尊!

         何故、

           『菩薩摩訶薩』は、

           亦た、

             『般若波羅蜜』を学んだ!のではなく、

             『薩婆若』を得る!こともないのでしょうか?と。

佛告舍利弗。菩薩摩訶薩無方便故。想念分別著般若波羅蜜。著禪波羅蜜毘梨耶波羅蜜羼提波羅蜜尸羅波羅蜜檀波羅蜜。乃至十八不共法一切種智隨念分別著。以是因緣故。菩薩摩訶薩如是學。亦不學般若波羅蜜。不得薩婆若。

仏の舎利弗に告げたまわく、『菩薩摩訶薩は、方便無きが故に想念し、分別して、般若波羅蜜に著し、禅波羅蜜、毘梨耶波羅蜜、羼提波羅蜜、尸羅波羅蜜、檀波羅蜜に著し、乃至十八不共法、一切種智まで、念ずるに随うて、分別して著すれば、是の因縁を以っての故に、菩薩摩訶薩は、是の如く学して、亦た般若波羅蜜を学せず、薩婆若を得ざるなり。』と。

     『仏』は、

       『舎利弗』に、

         こう告げられた、――

         『菩薩摩訶薩』に、

           『方便』が無ければ、

           故に、

             『憶想』し、

             『分別』して、

               『般若波羅蜜』に、

                 『著する!』のであり、

               『禅波羅蜜』、

               『毘梨耶波羅蜜』、

               『羼提波羅蜜』、

               『尸羅波羅蜜』、

               『檀波羅蜜』に、

                 『著する!』のであり、

             乃至、

               『十八不共法』、

               『一切種智』も、

               念ずる!がままに、

                 『分別』して、

                 『著する!』のである。

           是の、

             『因縁』の故に、

             『菩薩摩訶薩』は、

             是のように、

               『学ぶ!』のであり、

               亦た、

                 『般若波羅蜜』を学ぶ!ことがなく、

                 『薩婆若』を得る!こともないのである、と。

舍利弗白佛言。世尊。若菩薩摩訶薩如是學。亦不學般若波羅蜜。不得薩婆若。

舎利弗の仏に白して言さく、『世尊、若し菩薩摩訶薩は、是の如く学せば、亦た般若波羅蜜を学せずして、薩婆若を得ざるや。』と。

     『舎利弗』は、

       『仏』に白して、

         こう言った、――

         世尊!

         若し、

           『菩薩摩訶薩』が、

           是のように、

             『上の事』を、

             『学んだ!』としても、

             亦た、

               『般若波羅蜜』を学んだ!のではなく、

               『薩婆若』を得る!こともないのでしょうか?と。

佛告舍利弗。菩薩摩訶薩如是學不學般若波羅蜜。不得薩婆若。

仏の舎利弗に告げたまわく、『菩薩摩訶薩は、是の如く学して、般若波羅蜜を学せず、薩婆若を得ざるなり。』と。

     『仏』は、

       『舎利弗』に、

         こう告げられた、――

         『菩薩摩訶薩』が、

         是のように、

           『学んだ!』としても、

             『般若波羅蜜』を学んだ!のではなく、

             『薩婆若』を得る!こともないのである、と。

舍利弗白佛言。世尊。菩薩摩訶薩今云何應學般若波羅蜜得薩婆若。

舎利弗の仏に白して言さく、『菩薩摩訶薩は、今、云何が、応に般若波羅蜜を学して、薩婆若を得べき。』と。

     『舎利弗』は、

       『仏』に白して、

         こう言った、――

         世尊!

         『菩薩摩訶薩』は、

         今、

         何のように、

           『般若波羅蜜』を学んで、

           『薩婆若』を得る!のがよいでしょうか?と。

佛告舍利弗言。若菩薩摩訶薩學般若波羅蜜時。不見般若波羅蜜。舍利弗。菩薩摩訶薩如是學。學般若波羅蜜得薩婆若。以不可得故。

仏の舎利弗に告げて言わく、『若し菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を学する時、般若波羅蜜を見ざれば、舎利弗、菩薩摩訶薩は、是の如く学して、般若波羅蜜を学し、薩婆若を得、得べからざるを以っての故なり。』と。

     『仏』は、

       『舎利弗』に告げて、

         こう言われた、――

         若し、

           『菩薩摩訶薩』が、

             『般若波羅蜜』を、

             『学ぶ!』ならば、

             その時、

               『般若波羅蜜』を、

               『見ない!』ことである。

           舎利弗!

           『菩薩摩訶薩』は、

           是のように、

             『学ぶ!』ということが、

               『般若波羅蜜』を学ぶ!ことであり、

               『薩婆若』を得る!ということである。

             何故ならば、

               『得られない!』からである、と。

舍利弗白佛言。世尊。云何名不可得。

舎利弗の仏に白して言さく、『世尊、云何が、得べからずと名づくる。』と。

     『舎利弗』は、

       『仏』に白して、

         こう言った、――

         世尊!

         何故、

           『得られない!』というのでしょうか?と。

佛言。諸法內空乃至無法有法空故

仏の言わく、『諸法の、内空乃至無法有法空なるが故なり。』と。

     『仏』は、

       こう言われた、――

       『諸法』は、

         『内空』、

         乃至、

         『無法有法空』だからである、と。

【論】釋曰。舍利弗上問。但無受三昧疾得佛。更有餘三昧。須菩提說更有餘三昧疾得佛。是菩薩不念不著是三昧。過去現在諸佛授記。佛讚言善哉。菩薩摩訶薩應如是學般若波羅蜜乃至一切佛法。

釈して曰く、舎利弗の上に問わく、『但だ、無受三昧のみ、疾かに仏を得んや、更に余の三昧有りや。』と。須菩提の説かく、『更に余の三昧有りて、疾かに仏を得るも、是の菩薩は、是の三昧を念ぜず、著せざれば、過去、現在の諸仏、記を授くるなり。』と。仏の讃じて言わく、『善い哉。菩薩摩訶薩は応に、是の如く般若波羅蜜、乃至一切の仏法を学すべし。』と。

 釈す、

   『舎利弗』は、

   上に、

     こう問うた、――

     但だ、

       『無受三昧』のみが、

       疾かに、

         『仏』を得る!のか?

       其の他の、

         『三昧』が有る!のか?と。

   『須菩提』は、

     こう説いた、――

     更に、

     其の他の、

       『三昧』が有り、

       疾かに、

         『仏』を得る!ことができるが、

     是の、

       『菩薩』は、

       是の、

         『三昧』を、

           『念ずる!』ことなく、

           『著する!』こともないので、

       『過去』と、

       『現在』の、

         『諸仏』が、

           『授記』される!のである、と。

   『仏』は、

     それを讃じて、

     こう言われた!――

     善いことだ!

     善いことだ!

     『菩薩摩訶薩』は、

     是のように、

       『般若波羅蜜』、

       乃至、

       一切の、

         『仏法』を、

         『学ぶべき!』である、と。

是時舍利弗作是念。般若波羅蜜是空相。諸三昧種種分別相。云何學諸三昧。是為學般若波羅蜜是故問。佛答舍利弗。如是學般若波羅蜜。皆以不可得故。以般若波羅蜜氣分相。皆在諸三昧中。能如是學。是為學般若波羅蜜乃至十八不共法。佛即可之。

是の時、舎利弗は、是の念を作さく、『般若波羅蜜は、是れ空相なり。諸の三昧は、種種の分別相なり。云何が、諸の三昧を学して、是れを般若波羅蜜を学すと為さん。』と。是の故に問えり。仏の舎利弗に答えたまわく、『是の如く般若波羅蜜を学すとは、皆、得べからざるを以っての故なり。般若波羅蜜の気分の相は、皆、諸の三昧中に在るを以って、能くかくの如く学して、是れを般若波羅蜜、乃至十八不共法を学すと為す。』と。仏は、即ち之を可としたまえり。

   是の時、

   『舎利弗』は、

     こう念じた!――

     『般若波羅蜜』とは、

     是れは、

       『空相』であり、

     諸の、

       『三昧』は、

       種種の、

         『分別相』である。

     何故、

     諸の、

       『三昧』を学ぶ!ことが、

       『般若波羅蜜』を学ぶ!ことになるのだろう?と。

     是の故に、

       問うた!ところ、

   『仏』は、

     『舎利弗』に、

       こう答えらえた、――

       是のように、

         『般若波羅蜜』を学ぶ!のは、

         皆、

           『得られない!』からであるが、

       『般若波羅蜜』の、

         『気分』としての、

         『相』は、

         皆、

         諸の、

           『三昧』中に在る!ので、

       是のように、

         『学ぶ!』ことができれば、

         是れが、

           『般若波羅蜜』、

           乃至、

           『十八不共法』を学ぶ!ことになるのだ、と。

    『仏』は、

    即ち、

      之でよい!とされたのである。

舍利弗復問。何等法不可得。佛此中自說。眾生空故。畢竟清淨故。我不可得。乃至知者見者。須陀洹乃至佛不可得。法空故。畢竟清淨故。五眾不可得。乃至十八不共法不可得。

舎利弗の復た問わく、『何等の法か、得べからざる。』と。仏は、此の中に、自ら説きたまわく、『衆生は空なるが故に、畢竟じて清浄なるが故に、我は得べからず、乃至知者、見者も、須陀洹、乃至仏も得べからず。法は空なるが故に、畢竟じて清浄なるが故に、五衆は得べからず、乃至十八不共法も得べからず。

   『舎利弗』は、

   復た、

     こう問うた、――

     何のような、

       『法』が、

       『得られない!』のですか?と。

   『仏』は、

   此の中に、

     自ら、こう説かれている、――

     『衆生』は、

       『空』である!が故に、

       畢竟じて、

         『清浄』である!

       故に、

         『我』は、

           『得られない!』のであり、

         乃至、

         『知者』や、

         『見者』も、

         『須陀洹』も、

         乃至、

           『仏』も、

           『得られない!』のである。

     『法』は、

       『空』である!が故に、

       畢竟じて、

         『清浄』である!

       故に、

         『五衆』は、

           『得られない!』のであり、

         乃至、

         『十八不共法』も、

           『得られない!』のである。

畢竟清淨者。不出不生不得不作等。因邊不起故名為不出。緣邊不起故名為不生。定生相不可得故名為不出不生。不出不生故名不可得。不可得故名無作無起。是起作法皆是虛誑離如是相名畢竟清淨。

畢竟じて清浄なりとは、不出、不生、不得、不作等なり。因の辺に起たざるが故に名づけて、不出と為し、縁の辺に起たざるが故に名づけて、不生と為す。定まれる生相は得べからざるが故に名づけて、不出不生と為し、不出不生の故に、得べからずと名づく。得べからざるが故に、無作無起と名づけ、是の起、作の法は、皆、是れ虚誑なれば、是の如き相を離るるを、畢竟じて清浄と名づく。』と。

     畢竟じて、

       『清浄』である!とは、

         『出ない!(世間)』、

         『生じない!(衆生)』、

         『得ない!()』、

         『作さない!()』等である。

        『因()』の辺に、

          『心』が、

          『起らない!』が故に、

            『出ない!』といい、

        『縁()』の辺に、

          『心』が、

          『起らない!』が故に、

            『生じない!』といい、

        定まった!

          『生相(三界衆生相)』は、

          『得られない!』が故に、

            『出ない!(世間)』、

            『生じない!(衆生)』といい、

          『出ない!』、

          『生じない!』が故に、

            『得られない!()』といい、

          『得られない!』が故に、

            『作さない!()』、

            『起さない!()』というのである。

        是の、

          『起す法()』も、

          『作す法()』も、

          皆、

          是れは、

            『虚誑』である!ので、

            是のような、

              『相』を、

              『離れる!』ことを、

              畢竟じて、

                『清浄』である!というのである、と。

舍利弗問佛。菩薩能如是行畢竟真淨道。為學何法為得何法。佛答。能如是學為無所學無所得。

舎利弗の仏に問わく、『菩薩の、能くかくの如く、畢竟じて真浄の道を行ずるを、何法を学すと為し、何法を得と為すや。』と。仏の答えたまわく、『能くかくの如く学すを、学ぶ所無く、得る所無しと為す。』と。

   『舎利弗』は、

     『仏』に、

       こう問うた、――

       『菩薩』が、

       是のような、

         『畢竟』じて、

         真に、

           『浄い道』を、

           『行う!』ことを、

           何の、

             『法』を、

             『学ぶ!』、

           何の、

             『法』を、

             『得る!』というのですか?と。

     『仏』は、

       こう答えらえた、――

       是のように、

         『学ぶ!』ことを、

           『学ぶ』所が無い!

           『得る』所が無い!というのである、と。

問曰。菩薩用是畢竟空。學六波羅蜜乃至十八不共法。云何言無法可學。

問うて曰く、菩薩は、是の畢竟空を用いて、六波羅蜜、乃至十八不共法を学するに、云何が、法の学すべき無しと言う。

 問い、

   『菩薩』は、

   是の、

     『畢竟空』を用いて、

       『六波羅蜜』、

       乃至、

       『十八不共法』を、

         『学んでいる!』のに、

     何故、

       『学ぶ!』べき、

         『法』が、

         『無い!』というのか?

答曰。此中佛自說諸法。不如凡夫所著。凡夫人心有無明邪見等結使。所聞所見所知皆異法相。乃至聞佛說法。於聖道中果報中皆著染於道。

答えて曰く、此の中に、仏は、自ら説きたまわく、『諸法は、凡夫の著する所の如くならず。凡夫人は、心に無明、邪見等の結使有れば、聞く所、見る所、知る所は、皆、法相に異なり。乃至仏の説法を聞きても、聖道の中、果報の中に於いて、皆、著して、道を汚染す。』と。

 答え、

   此の中に、

     『仏』は、

       自ら、こう説かれている、――

       『諸法』は、

         『凡夫』の、

           『著する!』所と、

           『同じ!』ではない。

       『凡夫人』は、

         『心』に、

           『無明』、

           『邪見』等の、

             『結使』が有る!ので、

         『聞く!』所、

         『見る!』所、

         『知る!』所が、

         皆、

           『法相』と、

           『異なる!』のであり、

         乃至、

         『仏』の、

           『説法』を、

           『聞く!』中にも、

         『聖道』中の、

           『果報』の中にも、

           皆、

             『著する!』ことで、

               『道』を、

               『汚染』している!のである、と。

舍利弗白佛言。若凡夫人所見皆是不實。今是諸法云何有。佛言諸法無所有。凡夫人於無所有處亦以為有。所以者何。是凡夫人離無明邪見不能有所觀。以是故說著無所有故名為無明。譬如空拳以誑小兒。小兒著故謂以為有。

舎利弗の仏に白して言さく、『若し凡夫人の見る所は、皆、是れ不実ならば、今、是の諸法は、云何が有る。』と。仏の言わく、『諸法は、所有無し。凡夫人は、所有無き処に於いて、亦た以って有りと為すなり。所以は何んとなれば、是の凡夫人は、無明、邪見を離れては、観る所有る能わざればなり。是を以っての故に説けり、所有無きに著するが故に名づけて、無明と為す。譬えば空拳を以って、小児を誑すに、小児は著するが故に謂いて以って有りと為すが如し。』と。

   『舎利弗』は、

     『仏』に白して、

       こう言った、――

       若し、

         『凡夫人』の、

           『見る!』所が、

           皆、

             『実でない!』ならば、

       今、

         是の、

           『諸法』には、

           何が、

             『有る!』のでしょうか?と。

     『仏』は、

       こう言われた、――

       『諸法』には、

         『所有』が、

         『無い!』のであるが、

       『凡夫人』は、

         『所有』の、

           『無い!』はずの、

           『処』にも、

           亦た、

             『有る!』というのである。

       何故ならば、

       是の、

         『凡夫人』は、

           『無明』、

           『邪見』を離れては、

             『観る!』所を、

             『有する!』ことができないからである。

       是の故に、

         こう説いた!――

         『所有』が、

           『無い!』ものに、

           『著する!』が故に、

             『無明』という。

         譬えば、

           『空拳』を以って、

             『小児』を、

             『誑す!』と、

           『小児』は、

             『著する!』が故に、

             其れを、

               『有る!』というのと同じである、と。

舍利弗問佛。何等法無所有著故名無明。佛答。色乃至十八不共法。是中無明愛故。憶想分別是明是無明。墮有邊無邊失智慧明。失智慧明故。不見不知色畢竟空無所有相。自生憶想分別。而著乃至識眾十二入十八界十二因緣。

舎利弗の仏に問わく、『何等の法をか、所有無くして、著するが故に、無明と名づくる。』と。仏の答えたまわく、『色、乃至十八不共法は、是の中に、無明の愛するが故に憶想して、是れ明なり、是れ無明なりと分別し、有辺、無辺に堕して、智慧の明を失い、智慧の明を失うが故に、色の畢竟空にして、所有の相無きを見ず、知らず、自ら憶想、分別を生じて、而して、乃至識衆、十二入、十八界、十二因縁に著す。

     『舎利弗』は、

       『仏』に、

         こう問うた、――

         何のような、

           『法』に、

             『所有』が、

             『無い!』ので、

               『著する!』ことを、

               『無明』というのですか?

       『仏』は、

         こう答えられた、――

         『色』、

         乃至、

           『十八不共法』は、

           是の中を、

             『無明』が、

               『愛する!』が故に、

               『憶想』して、

                 是れが、『明』である!

                 是れが、『無明』である!と、

                   『分別』する!ので、

                     『有辺』、

                     『無辺』に堕して、

                       『智慧の明』を失い、

               『智慧の明』を失う!が故に、

                 『色』とは、

                 畢竟じて、

                   『空』であり、

                   『所有』する!

                     『相』が、

                     『無い!』とは見ずに、

               自ら、

                 『憶想』し、

                 『分別』して、

                 乃至、

                   『識衆』、

                   『十二入』、

                   『十八界』、

                   『十二因縁』に、

                     『著する!』のである。

或聞善法。所謂六波羅蜜乃至十八不共法。亦如世間法憶想分別著聖法亦如是。以是故名墮凡夫數如小兒為人輕笑。

或いは善法の、謂わゆる六波羅蜜、乃至十八不共法を聞いても、亦た世間法の如く憶想し、分別す。聖法に著すること、亦た是の如し。是を以っての故に、凡夫の数に堕すること、小児の人の為に、軽んじ、笑わるるが如しと名づく。

         或いは、

           『善法』、

           謂わゆる、

             『六波羅蜜』、

             乃至、

               『十八不共法』を聞いても、

               亦た、

                 『世間法』のように、

                 『憶想』し、

                 『分別』する。

           『聖法』に、

             『著する!』のも、

             亦た、

               是のとおりであり、

           是の故に、

             『凡夫の数』に堕ちて、

             『小児』と同じように、

               『人』に、

               軽んじて、

                 『笑われる!』のである。

如人以指示月。愚者但看指不看月。智者輕笑言。汝何不得示者意。指為知月因緣。而更看指不知月。諸佛賢聖為凡夫人說法。而凡夫著音聲語言。不取聖人意不得實義。不得實義故。還於實中生著。

人の、指を以って月を示すに、愚者は、但だ指のみを看て、月を看ざるが如し。智者の軽んじ笑いて言わく、『汝は、何んが示す者の意を得ざる。指は、月を知らんが為の因縁なるに、而も更に指を看て、月を知らず。諸の仏、賢聖は、凡夫人の為に、法を説くに、而も凡夫は、音声、語言に著して、聖人の意を取らずして、実義を得ず。実義を得ざるが故に還って、実中に於いて、著を生ず。』と。

         譬えば、

           『人』が、

             『指』で、

             『月』を示す!と、

           『愚者』は、

           但だ、

             『指』を看る!のみである。

           『智者』は、

           軽んじて、

             笑いながら、こう言う、――

             お前は、

             何うして、

               『示す!』者の、

                 『意』を、

                 『得ない!』のか?

               『指』とは、

                 『月』を、

                   『知る!』為の、

                   『因縁』であるのに、

               更(かわり)に、

                 『指』のみを看て、

                   『月』を、

                   『知らない!』とは、と。

           『諸仏』、

           『賢聖』は、

             『凡夫人』の為に、

               『法』を、

               『説いた!』のに、

             『凡夫人』は、

             但だ、

               『音声』、

               『語言』に、

                 『著する!』のみで、

               『聖人』の、

                 『意』を、

                 『取る!』こともなく、

               『実』の、

                 『義』を、

                 『得る!』こともない。

               『実』の、

                 『義』を、

                 『得ない!』が故に、

               還って、

               『実』の中に於いて、

                 『著』を、

                 『生ずる!』のである、と。

 

  (きょう):かわりに。改に同じ。

佛今說凡夫所失故。言不能過三界。亦不能離二乘。不得聖人意故。聞說諸法空而不信。不信故不行。不住六波羅蜜乃至十八不共法。

仏は、今、凡夫の失する所を説かんとして、故に言わく、『三界を過ぐる能わず、亦た二乗を離るる能わず。聖人の意を得ざるが故に、諸法の空なるを説くを聞いて、信ぜず。信ぜざるが故に六波羅蜜、乃至十八不共法を行ぜず、住せず。

     『仏』は、

     今、

       『凡夫』の、

         『失う!』所を、

         『説く!』為の故に、

         こう言われた、――

         お前たちが、

           『三界』を過ぎる!ことができないのも、

           『二乗』を離れる!ことができないのも、

             『聖人』の、

               『意』を、

               『得ない!』からである。

         お前たちは、

           『諸法』が、

             『空』である!と、

               『説く!』のを、

               『聞い』ていながら、

                 『信じない!』のである。

             『信じない!』が故に、

               『六波羅蜜』、

               乃至、

               『十八不共法』を、

                 『行う!』こともなく、

                 『住する!』こともない。

以失如是功コ故。名為凡夫小兒。是小兒著五眾十二入十八界三毒諸煩惱。乃至六波羅蜜十八不共法。阿耨多羅三藐三菩提皆著。是故名為著者。

是の如き功徳を失するを以っての故に名づけて、凡夫、小児と為すなり。是の小児は五衆、十二入、十八界、三毒、諸の煩悩に著し、乃至六波羅蜜、十八不共法、阿耨多羅三藐三菩提は、皆、著すれば、是の故に名づけて、著する者と為す。』と。

         お前たちは、

         是のような、

           『功徳』を失う!が故に、

             『凡夫』とか、

             『小児』とかいわれる!のである。

           是の、

             『小児』は、

               『五衆』、

               『十二入』、

               『十八界』、

               『三毒』、

               諸の、

                 『煩悩』に著し、

             乃至、

               『六波羅蜜』、

               『十八不共法』、

               『阿耨多羅三藐三菩提』にも、

               皆、

                 『著する!』のであり、

           是の故に、

           お前たちを、

             『著する!』者というのである、と。

舍利弗問。若菩薩如是行是名不行般若波羅蜜。不行般若波羅蜜不得薩婆若。佛可舍利弗言如是如是。即為說因緣。

舎利弗の問わく、『若し菩薩は、是の如く行ずれば、是れを、般若波羅蜜を行ぜずと名づく。般若波羅蜜を行ぜざれば、薩婆若を得ず。』と。仏は、舎利弗を可として言わく、『是の如し、是の如し。』と。即ち、為に因縁を説きたまえり。

     『舎利弗』は、

       こう問うた、――

       若し、

         『菩薩』が、

         是のように、

           『行う!』ならば、

           是れは、

             『般若波羅蜜』を、

             『行わない!』というこということですか?

         若し、

           『般若波羅蜜』を行わなければ、

             『薩婆若』を得られません!が、と。

     『仏』は、

       『舎利弗』を、

       『それでよい!』として、

         こう言われた、――

         善いことである!

         善いことである!と。

     そこで、

       『舎利弗』の為に、

         『因縁』を説かれた!のである、――

所謂新行菩薩無方便力。聞是般若波羅蜜。憶想分別尋求欲取。作是念。我捨世間樂復不能得般若波羅蜜。是為兩失。專求欲得。

謂わゆる新行の菩薩は、方便力無ければ、是の般若波羅蜜を聞いて、憶想、分別、尋求し、取らんと欲して、是の念を、『我れは、世間の楽を捨て、復た般若波羅蜜を得る能わずんば、是れを両失と為す。』と作して、専ら求めて得んことを欲す。

         謂わゆる、

           『新行』の、

             『菩薩』には、

               『方便力』が無い!ので、

               是の、

                 『般若波羅蜜』を聞く!と、

                   『憶想』し、

                   『分別』し、

                   尋ね、

                     『求め』て、

                     『取ろう!』として、

               是の念を作す、――

               わたしは、

                 『世間』の、

                   『楽』を、

                   『捨てた!』上に、

                 復た、

                   『般若波羅蜜』までも、

                   『得る!』ことができなければ、

                 是れは、

                   『両(ふたつ)』ながら、

                   『失う!』ことになる、と。

               そこで、

               専ら求めて、

                 『得よう!』とするのだが、――

或謂說空是般若波羅蜜。或說空亦空是般若波羅蜜。或說諸法如實相是般若波羅蜜。如是用六十二見九十八使煩惱心。著是般若波羅蜜。乃至一切種智亦如是。以是著心學諸法不能得薩婆若。

或いは謂いて説かく、『空は、是れ般若波羅蜜なり。』と。或いは説かく、『空も、亦た空なり。是れ般若波羅蜜なり。』と。或いは説かく、『諸法の如実の相は、是れ般若波羅蜜なり。』と。是の如く六十二見、九十八使の煩悩を用いて、心は、是の般若波羅蜜に著す。乃至一切種智も、亦た是の如し。是の著心を以って、諸法を学すれば、薩婆若を得る能わず。

                 或いは、

                   こう謂って説く!だろう、――

                   『空』とは、

                   是れが、

                     『般若波羅蜜』である!と。

                 或いは、

                   こう説く!だろう、――

                   『空』も、

                   亦た、

                     『空』であり、

                     是れが、

                       『般若波羅蜜』である!と。

                 或いは、

                   こう説く!だろう、――

                   『諸法』の、

                     『如実』の、

                     『相』は、

                     是れが、

                       『般若波羅蜜』である!と。

               是のように、

                 『六十二見』、

                 『九十八使』の、

                   『煩悩』を用いて、

                 『心』は、

                 是の、

                   『般若波羅蜜』に、

                   『著する!』のであり、

               乃至、

                 『一切種智』まで、

                 亦た、

                   是のように、

                 是の、

                   『著する!』心を以って、

                     『諸法』を学ぶ!ので、

                     『薩婆若』を、

                       『得られない!』のである。

與此相違者能行般若波羅蜜。亦能得薩婆若。所謂不見般若波羅蜜。不見行者不見緣法。不見亦不見。

此れと相違せば、能く般若波羅蜜を行じて、亦た能く薩婆若を得ん。謂わゆる般若波羅蜜を見ず、行者を見ず、縁法を見ず、見ざるをも、亦た見ざるなり。

         此れと、

           『相違』すれば、

             『般若波羅蜜』を行ずる!ことができ、

             亦た、

               『薩婆若』を得る!こともできる。

           謂わゆる、

             『般若波羅蜜』を見ず、

               『行う!』者も見ず、

               『縁ずる!』法も見ず、

               『見ない!』ことも、

               亦た、

                 『見ない!』ことである。

舍利弗更問不見因緣。佛答。是菩薩入十八空故不見。非以無智故不見。

大智度論卷第四十三

舎利弗は、更に因縁を見ざることを問えり。仏の答えたまわく、『是の菩薩は、十八空に入るが故に見ず。無智を以っての故に見ざるには非ず。』と。

大智度論巻第四十三

     『舎利弗』が、

     更に、

       『因縁』を見ない!ことを問うと、

     『仏』は、

       こう答えられた、――

       是の、

         『菩薩』は、

           『十八空』に、

             『入る!』が故に、

             『見ない!』のであり、

           『智慧』が、

             『無い!』が故に、

             『見ない!』のではない、と。

     

大智度論巻第四十三

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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