【論】問曰。先品中已說不見菩薩菩薩字般若波羅蜜。一切諸法不內不外不中間等。今何以重說。 |
問うて曰く、先の品中に已に説かく、『菩薩、菩薩の字、般若波羅蜜を見ず、一切の諸法は内にあらず、外にあらず、中間にあらず、等』、と。今は何を以ってか重ねて説く。 |
問い、
先の品中に、こう説かれているが、――
『菩薩も、菩薩の字も、般若波羅蜜も見ない!』。
『一切の諸法』は、
『内でも、外でも、中間でもない!』等と。
今は、
何故、
『重ねて説くのか?』。
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参考:『摩訶般若波羅蜜経巻2三仮品』:『爾時慧命須菩提白佛言。世尊。所說菩薩菩薩字何等法名菩薩。世尊。我等不見是法名菩薩。云何教菩薩般若波羅蜜。佛告須菩提。般若波羅蜜亦但有名字。名為般若波羅蜜。菩薩菩薩字亦但有名字。是名字不在內不在外不在中間。須菩提。譬如說我名。和合故有。是我名不生不滅。但以世間名字故說。如眾生壽者命者生者養育者。眾數人作者使作者。起者使起者。受者使受者。知者見者等。和合法故有。是諸名不生不滅。但以世間名字故說般若波羅蜜。菩薩菩薩字亦如是。皆和合故有。是亦不生不滅。但以世間名字故說。』 |
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答曰。有四種愛。欲愛有愛非有愛法愛。欲愛易見其過不淨等。有愛無不淨等小難遣。非有愛破有似智慧故難遣。法愛者愛諸善法利益道者。法愛中過患難見故重說。譬如小草加功少易除大樹功重難除。 |
答えて曰く、四種の愛有り、欲愛、有愛、非有愛、法愛なり。欲愛は、其の過の不浄等を見易く、有愛は、不浄等無ければ、小(すこ)しく遣(や)り難く、非有愛は、有を破ることの智慧に似たるが故に遣り難く、法愛は、諸の善法の道を利益するを愛すれば、法愛中に過患を見難きが故に重ねて説けり。譬えば小草の功を加うること少なくして、除き易く、大樹は功重くして、除き難きが如し。 |
答え、
『愛には、四種有り!』、
『欲愛( the love of enjoyment )と!』、
『有愛( the love of existence )と!』、
『非有愛( the love of non-existence )と!』、
『法愛( the love of dharma )である!』が、
『欲愛』は、
『欲愛の過である!』、
『不浄等』が、
『見易く!』、
『有愛』は、
『不浄等が無い!』ので、
『小し( slightly )!』、
『遣り難く( being hard to be dismissed )!』、
『非有愛』は、
『有を破る!』のは、
『智慧に似る!』が故に、
『遣り難く!』、
『法愛』は、
『諸の善法という!』、
『道を利益する!』者を、
『愛する!』ので、
『法愛』中の、
『過患』は、
『見難い!』が故に、
是れを、
『重ねて!』、
『説くのである!』。
譬えば、
『小草』は、
『功を少し加えるだけ( with a little labour )!』で、
『除き易い!』が、
『大樹』は、
『功を重くしても( with hard labour )!』、
『除き難いようなものである!』。
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遣(けん):逐、或いは去の義。追い払う。駆逐。
欲愛(よくあい):梵語 kaama-tRSNaa の訳、娯楽に対する貪愛( the desire of enjoyment )の義、諸欲の中に於ける貪愛を云う。『大智度論巻42上注:愛』参照。
有愛(うあい):梵語 bhava-tRSNaa の訳、存在に対する貪愛( the desire of existence )の義、色無色界の貪愛を云う。『大智度論巻42上注:愛』参照。
非有愛(ひうあい):梵語 abhava-tRSNaa の訳、非存在に対する貪愛( the desire of non- existence )の義、非有を欣ぶ者が非有を楽い貪愛するを云う。『大智度論巻42上注:愛』参照。
法愛(ほうあい):梵語 dharma-tRSNaa の訳、法に対する貪愛( the desire of dharma )の義、善法、正道法を楽い貪愛するを云う。『大智度論巻42上注:愛』参照。
愛(あい):(一)梵語tRSNaaの訳。十二因縁の一。又愛支と名づく。「大毘婆沙論巻23」に、「云何が愛なる。謂わく已に貪愛婬愛及び資具愛を起すと雖も、而も未だ此れが為に四方に追求して労倦を辞せざることあらず、是れ愛の位なり」と云い、「倶舎論巻9」に、「妙資具を貪して婬愛現行するも未だ広く追求せず、此の位を愛と名づく」と云える是れなり。是れ謂わゆる分位縁起の説にして、即ち青年期に及び已に婬貪の心を起すも、未だ広く追求するに至らざる間を愛支と名づけたるなり。蓋し説一切有部に於いては十二因縁に三世両重の因果を分ち、愛と取及び有の三を現在の三因とし、分位縁起の説を作すと雖も、経量部にては之を経説に違背すとなし、唯楽等の三受より三種の愛を引生するを愛支となせり。即ち「倶舎論巻9」に、「此の三受より三愛を引生す、謂わく苦逼まるに由りて楽受に於いて欲愛を発生することあり、或いは楽と非苦楽との受に於いて色愛を発生することあり、或いは唯非苦楽受に於いて無色愛を生ずることあり」と云える其の説なり。是れ欲界の苦に逼悩せらるるに由り楽受に於いて欲愛kaama-tRSNaaを生じ、色界初二三禅の楽受及び第四禅の非苦楽受に於いて色愛ruupa-tRSNaaを生じ、或いは唯無色界の非苦楽受に於いて無色愛aruupa-tRSNaaを生ずるを愛支となすの意なり。又唯識大乗に於いては唯一重の因果を立て、愛取有の三を能生支と名づけ、其の中、愛は第六意識相応の倶生の煩悩にして、正しく後有を縁じて起す潤生の惑となせり。「成唯識論巻8」に、「三に能生支は謂わく愛と取と有となり。近く当来の生老死を生ずるが故なり。謂わく内の異熟果に迷う愚に縁りて正しく能く後有を招く諸業を発し、縁と為りて親しく当来生老死の位の五果を生ずる種を引発し已り、復た外の増上果に迷う愚に依りて、境界受を縁として貪愛を発起す」と云える是れなり。是れ無明によりて業を発し、業によりて識等の五果の種を引発して当果を決定せしめ、更に境界受を縁として愛を起し、此の愛の潤力によりて近く生老死の果を生ぜしむるものなるを明にするの意なり。又「識身足論巻3」、「法蘊足論巻12」、「雑阿毘曇心論巻8」、「瑜伽師地論巻93」、「倶舎論巻10、19」、「大乗阿毘達磨雑集論巻4」、「成唯識論述記巻8末」等に出づ。(二)九結の一。愛結anunaya-saMyojanaと名づけ、又随順結と訳す。即ち境に染著する貪煩悩を云う。「大毘婆沙論巻50」に、「云何が愛結なる、謂わく三界の貪なり。然るに三界の貪は九結の中に於いては総じて愛結と立て、七随眠の中には二随眠を立つ。謂わく欲界の貪を欲貪随眠と名づけ、色無色界の貪を有貪随眠と名づく。余経の中に於いては立てて三愛となす、謂わく欲愛、色愛、無色愛なり」と云い、「順正理論巻54」に、「何に縁りて此の貪を説いて名づけて愛と為すや。此れ染心に境を随楽する所なるが故なり」と云える是れなり。是れ三界の貪を総称して愛結となすなり。又「集異門足論巻4」に欲愛色愛無色愛の三愛を説き、諸欲の中に於ける諸貪等貪執蔵防護耽著愛染を欲愛と名づけ、諸色の中に於ける諸貪等貪等を色愛、無色の中に於ける諸貪等貪等を無色愛と名づくとし、又欲愛有愛無有愛の三愛を説き、諸欲の中に於ける諸貪等貪等を欲愛kamaa-tRSNaa、色無色界の諸貪等貪等を有愛bhava-tRSNaa、無有を欣う者が無有の中に於ける諸貪等貪等を無有愛vibhava-tRSNaaと名づくと云い、又「勝鬘経」に五住地の惑を説く中、欲愛住地、色愛住地、有愛住地の名を挙げ、「大般涅槃経巻13」には四諦の中の集諦を愛とし、之に二種三種四種五種の別あることを説き、「愛に二種あり、一の己身を愛し、二に所須を愛す。復た二種あり、未だ五欲を得ざれば心を繋けて専ら求め、既に求めて得已れば堪忍して専ら著す。復た三種あり、欲愛色愛無色愛なり。復た三種あり、業因縁愛と煩悩因縁愛と苦因縁愛となり。出家の人に四種の愛あり、何等をか四となす、衣服飲食臥具湯薬なり。復た五種あり、五陰に貪著し諸の所須に随って一切愛著す」と云えり。此等は皆貪を名づけて愛となせるものなり。又「大毘婆沙論巻48、49、56、173」、「成実論巻9貪相品」、「入阿毘達磨論巻上」、「倶舎論巻21」等に出づ。(三)梵語premanの訳。又はpriya、即ち不染汚の心を以って法又は師長等を愛楽するを云う。「大毘婆沙論巻29」に、「愛に二種あり、一に染汚は謂わく貪なり。二に不染汚は謂わく信なり」と云い、「倶舎論巻4」に、「愛は謂わく愛楽なり、体即ち是れ信なり。然るに愛に二あり、一に有染汚、二に無染汚なり。有染は謂わく貪なり、妻子等を愛するが如し。無染は謂わく信なり、師長等を愛するが如し」と云える是れなり。是れ不染汚の愛は信を其の体となすことを明せるなり。又「大般涅槃経巻13」に、「愛に二種あり、一には善愛、二には不善愛なり。不善愛は惟だ愚のみ之を求め、善法愛は諸菩薩求む。善法愛とは復た二種あり、不善と善となり。二乗を求むる者を名づけて不善となし、大乗を求むる者是れを名づけて善となす」と云い、又「大智度論巻72」に、「愛は貪欲煩悩の心にして行ずべからず、当に慈愛の心を行ずべし。世間の法は妻子牛馬等を愛念し、怨賊等を憎悪す。菩薩は此の世間の法を転じ、但だ慈愛の心を一切の衆生に行ず」と云い、「大乗荘厳経論巻9」に、「一切の世間は皆世楽及び自身の命を愛す、一切の声聞縁覚は世楽及び自身の命を愛せずと雖も、而も涅槃に於いて住著の意を起す。菩薩は爾らず、大悲自在なるが故に涅槃に於いて尚お住せず、何に況んや彼の二愛の中に住せんや。已に大悲無著を説く、次に大悲愛勝を説かん」と云えり。是れ大乗法を楽求し、又衆生を悲愍するを愛と名づけたるものにして、皆不染愛を説けるものなり。但し「梵文大乗荘厳経論」には今の愛をsnehaとなせり。又「大般涅槃経巻16」、「順正理論巻11」、「成唯識論巻6」等に出づ。<(望) |
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復次上法與此法有同有異。彼聞說菩薩字不見。此中說菩薩字不覺不得。以不覺不得故不見。非是智慧力少故不見。 |
復た次ぎに、上の法は、此の法と有るいは同じ、有るいは異なり。彼には、菩薩の字を見ずと説くを聞き、此の中は、菩薩の字を覚らず、得ずと説く。覚らず、得ざるを以っての故に見ざれば、是の智慧力の少きが故に見ざるに非ず。 |
復た次ぎに、
『上の法と、此の法と!』は、
『有るいは、同じであり!』、
『有るいは、異なる!』。
『彼の法』は、
『菩薩の字を見ない、と説く!』のを、
『聞いた!』が、
『此の法』中には、
『菩薩の字を覚らず、得ず!』と、
『説かれており!』、
是れは、
『覚らず、得ない!』が故に、
『見ないのであり!』、
是の、
『智慧力が、少い!』が故に、
『見ないのではない!』。
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問曰。未行般若波羅蜜時為有菩薩耶。今何以故言不見菩薩行般若波羅蜜。 |
問うて曰く、未だ、般若波羅蜜を行ぜざる時、菩薩有りと為すや。今は何を以っての故にか、『菩薩の般若波羅蜜を行ずるを見ず』、と言うや。 |
問い、
未だ、
『般若波羅蜜を行じていない!』時でも、
『菩薩』は、
『有るのですか?』。
今は、
何故、
『菩薩が、般若波羅蜜を行じる!』のを、
『見ない!』と、
『言うのですか?』。
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答曰。從無始已來眾生不可得。非行般若波羅蜜故不可得。但以虛誑顛倒。凡夫人隨是假名故謂為有。今行般若波羅蜜滅虛誑顛倒。了知其無非本有今無。本有今無則墮斷滅。 |
答えて曰く、無始より已来、衆生は不可得にして、般若波羅蜜を行ずるが故に不可得なるに非ず。但だ虚誑、顛倒の凡夫人の、是の仮名に随うを以っての故に、謂いて有りと為すのみ。今、般若波羅蜜を行じて、虚誑顛倒を滅すれば、其の無きを了知するも、本有りて、今無きには非ず。本有りて今無ければ、則ち断滅に堕するなり。 |
答え、
『無始より!』、
『衆生』は、
『不可得であり!』、
『般若波羅蜜を行じる!』が故に、
『衆生』が、
『不可得なのではない!』。
但だ、
『虚誑、顛倒の凡夫人』は、
是の、
『仮名』に、
『随う!』が故に、
是れを、
『有る!』と、
『謂うだけである!』。
今、
『般若波羅蜜を行じて!』、
『虚誑、顛倒』を、
『滅すれば!』、
其のような、
『衆生は、無い!』と、
『了知するのであり!』、
『衆生』が、
『本、有って!』、
『今、無いのではない!』。
若し、
『本有って、今無ければ!』、
『断滅』に、
『堕ちることになるからである!』。
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復次須菩提心悔畏破妄語戒。所以者何。佛法中一切諸法決定無我。而我說言有菩薩為說般若波羅蜜。則墮妄語罪。是故心悔。 |
復た次ぎに、須菩提は、心に、妄語戒を破るを悔畏すればなり。所以は何んとなれば、仏法中の一切の諸法は決定して、無我なるに、我れ説いて、『菩薩有り』、と言いて、為めに般若波羅蜜を説かばば、則ち妄語罪に堕ちん、と。是の故に心に悔ゆるなり。 |
復た次ぎに、
『須菩提』は、
『心』に、
『妄語戒を破ることにはならないか?』と、
『悔畏したのである!』。
何故ならば、こう念じたからである、――
『仏法中の、一切の初法』は、
『決定して!』、
『無我である!』のに、
わたしが、
『菩薩を説いて!』、
『有ると言い!』、
是の、
『菩薩の為め!』に、
『般若波羅蜜を説けば!』、
則ち、
『妄語罪』に、
『堕ちることになるだろう!』、と。
是の故に、
『心』に、
『悔いたのである!』。
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復次有心悔因緣。一切法以不可得空故皆空。所以者何。無集無散故。 |
復た次ぎに、心に悔ゆる因緣有り、一切法は不可得空なるを以っての故に、皆空なり。所以は何んとなれば、集無く、散無きが故なり。 |
復た次ぎに、
『心に悔ゆる!』、
『因緣が有る!』、――
『一切法』は、
『不可得空である!』が故に、
『皆、空だからである!』。
何故ならば、
『集も、散も!』、
『無いからである!』。
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譬如眼色因緣生眼識。三事和合故生眼觸。眼觸因緣中即生受想思等心數法。是中邪憶念故。生諸煩惱罪業。正憶念故生諸善法善惡業受六道果報。從是身邊。復種善惡業。如是展轉無窮。是名為集。餘情亦如是。 |
譬えば眼と色の因縁は、眼識を生じ、三事和合の故に眼触を生じ、眼触の因緣中に即ち受想思等の心数法を生じ、是の中の邪に憶念するが故に、諸煩悩の罪業を生じ、正しく憶念するが故に諸の善歩應を生じ、善悪の業もて、六道の果報を受け、是の身の辺より、復た善悪の業を種え、是の如く展転して、窮まること無し。是れを名づけて集と為し、餘の情も亦た是の如し。 |
譬えば、
『眼、色の因緣より!』、
『眼識』を、
『生じ!』、
『眼、色、眼識の三事の和合』の故に、
『眼触』を、
『生じ!』、
『眼触の因緣』中に、
即ち、
『受、想、思等の心数法』を、
『生じ!』、
是の、
『心数法』中に、
『邪に憶念する( incorrect considering )!』が故に、
『諸の煩悩の罪業』を、
『生じ!』、
『正しく憶念する( correct considering )!』が故に、
『諸の善法』を、
『生じながら!』、
『善、悪の業により!』、
『六道の果報を受け!』、
是の、
『身の辺より!』、
復た、
『善、悪の業』を、
『種え!』、
是のように、
『展転して( successively )!』、
『窮まること!』が、
『無い!』。
是れを、
『集』と、
『称するのである!』が、
亦た、
『餘の情(耳鼻舌身意)』も、
『是の通りである!』。
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散者是眼識等諸法念念滅故。諸因緣離故。是眼識等法生時無來處。非如田上穀運致聚集。若滅時無去處。非如散穀與民。是名略說諸法集散相。生時無所從來。散時無所去。是諸法皆如幻化但誑惑於眼。 |
散とは、是の眼識等の法は念念に滅するが故に、諸の因緣の離るるが故なり。是の眼識等の法は、生時に来処無きこと、田上の穀を運致し、聚集するが如きに非ず。若しは滅する時に、去処無きこと、穀を散じて、民に与うるが如きに非ず。是れを、諸法の集散の相を略説すと名づく。生時に従来する所無く、散時に去る所無きは、是の諸法は、皆幻化の如く、但だ眼を誑惑すればなり。 |
『散』とは、
是の、
『眼識等の諸法』は、
『念念に滅する!』が故に、
『諸の因緣』が、
『離れるからである!』。
是の、
『眼識等の法』が、
『生時』に、
『来処』が、
『無い!』のは、
譬えば、
『田上の穀』が、
『運致、聚集するようなものでもなく!』、
『滅時』に、
『去処』が、
『無い!』のは、
譬えば、
『穀を散じて!』、
『民に与えるようなものでもない!』。
是れが、
『略説された!』、
『諸法』の、
『集、散の相である!』が、
謂わゆる、
『生時に、来処が無く!』、
『散時に、去処が無い!』のは、
是の、
『諸法は、皆幻化のように!』、
但だ、
『眼』を、
『誑惑するだけだからである!』。
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運致(うんち):運んで一処に集める。
聚集(じゅしゅう):一処に集める。 |
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問曰。若爾有集散相。須菩提何以言不覺不得。 |
問うて曰く、若し爾らば、集散の相有るに、須菩提は、何を以ってか、『覚らず、得ず』、と言える。 |
問い、
若し、爾うならば、
『集、散の相は有る!』のに、
『須菩提』は、
何故、
『覚ることもなく、得ることもない!』と、
『言ったのか?』。
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答曰。無來處故集不可得。無去處故散不可得。 |
答えて曰く、来処無きが故に集は不可得にして、去処無きが故に散は不可得なればなり。 |
答え、
『来処が無い!』が故に、
『集( to become an union )』は、
『不可得であり!』、
『去処が無い!』が故に、
『散( to become parts )』は、
『不可得だからである!』。
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復次生無故集不可得。滅無故散不可得。畢竟空故集不可得。業因緣不失故散不可得。 |
復た次ぎに、生の無きが故に集は不可得、滅の無きが故に散は不可得なり。畢竟空の故に集は不可得、業因縁の失われざるが故に散は不可得なり。 |
復た次ぎに、
『生が無い!』が故に、
『集』は、
『不可得であり!』、
『滅が無い!』が故に、
『散』は、
『不可得である!』。
『諸法が畢竟空である!』が故に、
『集』は、
『不可得であり!』、
『業因縁は失われない!』が故に、
『散』は、
『不可得である!』。
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復次觀世間滅諦故集不可得。觀世間集諦故散不可得。如是等義。當知集散不可得云何當作菩薩字。若強為名。是名亦無住亦無不住。 |
復た次ぎに、世間の滅諦を観るが故に集は不可得、世間の集諦を観るが故に散は不可得なり。是れ等の如き義もて、当に知るべし、集散は不可得なるに、云何が、当に菩薩の字を作るべき。若し強いて名を為すも、是の名も亦た住無く、亦た不住無し。 |
復た次ぎに、
『世間の滅諦を観る!』が故に、
『集』は、
『不可得であり!』、
『世間の集諦を観る!』が故に、
『散』は、
『不可得である!』。
是れ等のような、
『義』の故に、こう知らねばならない、――
『集、散が不可得なのに!』、
何故、
『菩薩の字』を、
『作ることができるのか?』。
若し、
『強いて!』、
『名』を、
『為したとしても!』、
是の、
『名』には、
『住も、不住も!』、
『無いのである!』。
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問曰。是名字何以故不住。 |
問うて曰く、是の名字は、何を以っての故にか、不住なる。 |
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答曰。名字在法中住。法空故名字無住處。如車輪輞輻轂等和合故有車名。若散是和合則失車名。是車名非輪等中住。亦不離輪等中住。車名字一異中求皆不得。失車名字故。名字無住處。因緣散時尚無。何況因緣滅。眾生亦如是。色等五眾和合故有眾生字。若五眾離散名字無住處。五眾離散時尚無。何況無五眾。 |
答えて曰く、名字は、法中に在りて住すれば、法は空なるが故に名字には住処無し。車の輪、輞、輻、轂等の和合の故に車の名有り。若し、是の和合を散ずれば、則ち車の名を失うも、是の車の名は、輪等中に住するに非ず、亦た輪等を離れたる中に住するにもあらず。車の名字を一異中に求むれば、皆得ず。車の名字を失うが故に、名字には住処無きが如く、因緣散ずる時にすら尚お無し。何に況んや因緣の滅するをや。衆生も亦た是の如く、色等の五衆の和合の故に衆生の字有り。若し五衆離散すれば、名字には住処無し。五衆の離散する時にすら、尚お無し。何に況んや五衆無きをや。 |
答え、
『名字』は、
『法中に在って!』、
『住する!』が、
『法は、空である!』が故に、
『名字』には、
『住処が無い!』。
譬えば、
『車』には、
『輪、輞、輻、轂等の和合』の故に、
『車の名』が、
『有る!』が、
若し、
是の、
『和合が、散じれば!』、
『車の名』は、
『失われるのであり!』、
是の、
『車の名』は、
『輪等の法』中に、
『住するのでもなく!』、
亦た、
『輪等の法を離れた!』中に、
『住するのでもない!』。
『車の名字』を、
『一、異中に求めても!』、
『皆、得られず!』、
『車の名字を失う!』が故に、
『車の名字』には、
『住処が無いように!』、
『名字』は、
尚お、
『因緣の散じる!』時にすら、
『無いのであり!』、
況して、
『因緣が滅すれば!』、
『尚おさらである!』。
『衆生』も、
是のように、
『色等の五衆の和合』の故に、
『衆生の字』が、
『有る!』が、
若し、
『五衆が離散すれば!』、
『名字』には、
『住処が無いのであり!』、
尚お、
『五衆が離散する!』時にすら、
『住処』が、
『無いのである!』から、
況して、
『五衆が無ければ!』、
『尚更である!』。
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在(ざい):~に。於に同じ。
輞(もう):おおわ。車輪の外周をつつむわ。牙、牙囲とも云う。
輻(ふく):や。車のや。輞と轂をつなぐ部材。
轂(こく):こしき。車輪の中心にあり、輻を集め、車軸を其の中心に貫いておるもの。
輪(りん):車のわ。中央に轂があり、外周に牙(輞)があって轂と牙とを輻で結び、轂の中央に孔を穿って車軸をさし入れて車を転進させる具。古は牙囲の径は六尺六寸、輻は三十本であった。 |
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問曰。若散時名字不可得。和合未散時則有名字。何以言不可得。 |
問うて曰く、若し散ずる時の名字が不可得ならば、和合の未だ散ぜざる時は、則ち名字有らん。何を以ってか、不可得と言う。 |
問い、
若し、
『散じる!』時に、
『名字』が、
『不可得ならば!』、
『和合が、未だ散じない!』時には、
『名字』が、
『有るはずである!』のに、
何故、
『不可得』と、
『言うのか?』。
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答曰。是菩薩名字一。五眾則有五。一不作五五不作一。若五作一如五匹物不得為一匹用。若一作五如一匹物不得為五匹用。以是故一菩薩字不得五眾中住。 |
答えて曰く、是の菩薩の名字は一なるに、五衆は則ち五有り。一は五に作らず、五は一に作らず。若し五が一と作れば、五匹の物を、一匹の為めに用うるを得ざるが如し。若し一が五と作れば、一匹の物を五匹の為めに用うるを得ざるが如し。是を以っての故に一菩薩の字は、五衆中に住するを得ず。 |
答え、
是の、
『菩薩という!』、
『名字』は、
『一である!』のに、
『五衆』には、
『五』が、
『有る!』が、
『一』は、
『五』に、
『作らず!』、
『五』は、
『一』と、
『作らないからである!』。
若し、
『五が、一と作れば!』、
譬えば、
『五匹の物( 五頭の馬の荷物)』を、
『一匹の為め!』に、
『用いられないようなものである!』。
若し、
『一が、五と作れば!』、
譬えば、
『一匹の物』を、
『五匹の為め!』に、
『用いられないようなものである!』。
是の故に、
『一菩薩の字』は、
『五衆』中に、
『住することはできないのである!』。
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匹(ひき):反物や、布を数える量詞。馬、騾馬を数える量詞。 |
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非不住者。若名字因緣和合無。則世俗語言眾事都滅。世諦無故第一義諦亦無。二諦無故諸法錯亂。 |
不住に非ずとは、若し名字の因緣の和合無ければ、則ち世俗の語言の衆事は、都て滅す。世諦無きが故に第一義諦も亦た無く、二諦無きが故に諸法錯乱す。 |
『不住でない!』とは、――
若し、
『名字の因緣の和合が、無ければ!』、
『世俗の語言の示す!』、
『衆事』は、
『都、滅することになり!』、
『世諦が無くなる!』が故に、
『第一義諦』も、
『無くなり!』、
『二諦が無くなる!』が故に、
『諸法』が、
『錯乱するからである!』。
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復次若因緣中有名字者。如說火則燒口。說有則塞口。若名字不在法中者。說火不應生火想。求火亦可得水。從久遠已來共傳名字故。因名則識事。以是故說名字義非住非不住。 |
復た次ぎに、若し因緣中に名字有れば、火と説けば、則ち口を焼き、有りと説けば、則ち口を塞ぐが如し。若し名字が法中に在らざれば、火と説けば、応に火想を生ずべからず。火を求むれば、亦た水を得べし。久遠より以来、共に名字を伝うるが故に、名に因りて、則ち事を識る。是を以っての故に説かく、『名字の義は、住に非ず、不住に非ず』、と。 |
復た次ぎに、
若し、
『名字』が、
『因緣』中に、
『有れば!』、
譬えば、
『火である、と説けば!』、
『口』を、
『焼くことになり!』、
『有る、と説けば!』、
『口』を、
『塞ぐことになる!』。
若し、
『名字』が、
『法』中に、
『無ければ!』、
譬えば、
『火である、と説いても!』、
『火想』を、
『生じるはずがなく!』、
『火を求めても!』、
『水』を、
『得るかもしれない!』。
久遠より、
『共に、名字を伝えてきた
( people passed names on to next generations )!』が故に、
『名に因って( by a name )!』、
『事( the matter )』を、
『識る( to know )!』ので、
是の故に、こう説くのである、――
『名字の義』は、
『住でもなく!』、
『不住でもない!』、と。
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塞(そく):空隙を満たす/ふさぐ( fill )。 |
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復次是中須菩提自說。因緣無所有故。是名字非住非不住。如菩薩名字五眾十二入十八界等諸法亦如是。 |
復た次ぎに、是の中に須菩提の自ら、因緣を説かく、『無所有なるが故に、是の名字は住に非ず、不住に非ず』、と。菩薩の名字の如く、五衆、十二入、十八界等の諸法も亦た是の如し。 |
復た次ぎに、
是の中に、
『須菩提』は、
自ら、
『因緣』を、こう説いている、――
『無所有である!』が故に、
是の、
『名字』は、
『住でもなく、不住でもなく!』、
亦た、
『菩薩の名字のように!』、
『五衆、十二入、十八界等の諸法』も、
『是の通りである!』、と。
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問曰。如上來說。五眾諸法集散不可得。今何以復說五眾。 |
問うて曰く、上来、『五衆の諸法の集散は不可得なり』、と説けるが如きに、今は、何を以ってか、復た五衆を説く。 |
問い、
上来( at the beginning )、
『五衆の諸法の、集散は不可得である!』と、
『説かれている!』が、
今、何故、
『復た!』、
『五衆を説くのですか?』。
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上来(じょうらい):初の/冒頭の( at the beginning )。 |
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答曰。上直說五眾。今說五眾如夢如幻。 |
答えて曰く、上は、直ちに五衆を説き、今は、五衆の夢の如く、幻の如きを説く。 |
答え、
上は、
『五衆』を、
『直だ、説くだけである!』が、
今は、
『五衆が、夢か幻のようだ!』と、
『説くのである!』。
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復次有人謂。凡夫人五眾虛誑不實如夢。聖人五眾非是虛誑。以是故須菩提說。如夢如幻同皆不住。 |
復た次ぎに、有る人の謂わく、『凡夫人の五衆は虚誑、不実なること夢の如きなるも、聖人の五衆は、是れ虚誑なるに非ず』、と。是を以っての故に須菩提は、『夢の如く、幻の如きに同じく、皆不住なり』、と説けり』、と。 |
復た次ぎに、
有る人は、こう謂っている、――
『凡夫人の五衆』は、
『虚誑、不実であり!』、
『夢のようである!』が、
『聖人の五衆』は、
『虚誑ではない!』、と。
是の故に、
『須菩提』は、こう説いたのである!』、
『夢や、幻のように!』、
『凡夫も、聖人も同じく!』、
『皆、不住である!』、と。
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問曰。十譬喻中何以但說五事。 |
問うて曰く、十譬喩中に、何を以ってか、但だ五事を説く。 |
問い、
『十譬喩』中に、
何故、
『但だ、五事(夢、響、影、焰、化)のみ!』を、
『説いたのですか?』。
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十譬喩(じゅうひゆ):諸法皆空の理を解せしめんが為に説ける十種の譬喩。即ち幻、焔、水中月、虚空、響、揵闥婆城、夢、影、鏡中像、化を云う。『大智度論巻6上注:十喩』参照。 |
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答曰。若說十事無在。但以隨眾生心。說五喻事辯故不盡說。或以五眾故說五喻。餘法亦如是。 |
答えて曰く、若し、十事の在ること無きを説くは、但だ、衆生心に随うを以ってなり。五喻を説けば、事辯ずるが故に尽くを説かず。或は五衆を以っての故に五喻を説く。餘の法も亦た是の如し。 |
答え、
若し、
『十事には、在が無い( the ten things are not existent )!』と、
『説いたとしても!』、
但だ、
『衆生心』に、
『随っただけであり!』、
『五喻を、説けば!』、
『事は、辯じられる( all matters are argued )!』が故に、
『尽くは!』、
『説かなかったのである!』。
或は、
『五衆を説こうとした!』が故に、
『五喻』を、
『説いたのかもしれない!』が、
亦た、
『(五喻以外の)餘法であっても!』、
『同じことである!』。
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離有二種。一者身離。二者心離。身離者。捨家恩愛世事等閑居靜處。心離者。於諸結使悉皆遠離。 |
離には二種有り、一には身の離、二には心の離なり。身の離とは、家、恩愛の世事等を捨てて、静処に閑居し、心の離とは、諸の結使に於いて、悉く皆遠離するなり。 |
『離には、二種有り!』、
一には、
『身』の、
『離であり!』、
二には、
『心』の、
『離である!』。
『身の離』とは、
『家や、恩愛や、世事等を捨てて!』、
『静処』に、
『閑居することであり!』、
『心の離』とは、
『諸の結使』を、
『悉く、皆!』、
『遠離することである!』。
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復有二種離。一者諸法離名字。二者諸法各各離自相。此中說後二種離。所以者何。此中破名字故餘處自相離。小乘法中多說前二離。 |
復た、二種の離有り、一には諸法の名字を離れ、二には諸法の各各の自相を離る。此の中には後の二種の離を説く。所以は何んとなれば、此の中に、名字を破るが故に、余処も、自相を離るればなり。小乗の法中には多く、前の二離を説けり。 |
復た、
『二種の離が、有り!』、
一には、
『諸法』が、
『名字』を、
『離れることであり!』、
二には、
『諸法の各各が!』、
『自相』を、
『離れることである!』。
此の、
『般若波羅蜜』中には、
後の、
『二種の離』が、
『説かれている!』。
何故ならば、
此の中に、
『名字を破る!』が故に、
『余処(名字以外の諸法)』も、
『自相を離れるからである!』。
『小乗法』中には、
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寂滅亦有二種。一者淳善相寂滅惡事。二者如涅槃寂滅相。觀世間諸法亦如是。此中但說後寂滅。 |
寂滅にも亦た二種有り、一には淳善の相、寂滅せる悪事なり、二には涅槃の如き寂滅の相なり。世間の諸法を観るも亦た是の如し。此の中には但だ、後の寂滅を説く。 |
『寂滅にも、二種有り!』、
一には、
『淳善の相( the mark of pure goodness )であり!』、
『寂滅した( faded out )!』、
『悪事であり!』、
二には、
『涅槃のように!』、
『寂滅した!』、
『相である!』が、
亦た、
『世間の諸法を観れば!』、
『是の通りなのである!』。
此の中には、
但だ、
『後の寂滅だけ!』が、
『説かれている!』。
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不生亦有二種。一者未來無為法名不生。二者一切法實無生相。生不可得故此中但說後不生。 |
不生にも亦た二種有り、一には未来の無為の法を不生と名づけ、二には一切法は実に生相無し、生の不可得なるが故なり。此の中には但だ、後の不生を説く。 |
『不生にも、二種有り!』、
一には、
『未来の無為の法( a uncreated future dharma )』を、
『不生』と、
『称し!』、
二には、
『一切法』には、
『実に!』、
『生相が無いからである!』が、
何故ならば、
『生( something born )』が、
『不可得だからである!』。
此の中には、
但だ、
『後の不生』が、
『説かれるだけである!』。
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生(しょう):梵語 jaati の訳、誕生/製造( birth, production )の義、誕生に従って定る(男とか動物等の)存在の形( the
form of existence (as man, animal, etc.) fixed by birth )の意。 |
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不滅有三種。智緣滅非智緣滅無常滅。此中說無常滅。與此相違故名不滅。 |
不滅には、三種有り、智縁滅、非智縁滅、無常滅なり。此の中には無常滅を説き、此れと相違するが故に不滅と名づく。 |
『滅には、三種有り!』、
『智縁滅( the cessation (of pain) attained by wisdom )と!』、
『非智縁滅( the cessation attained not by wisdom but by chance )と!』、
『無常滅( the cessation attained by knowing the non-eternity )である!』が、
此の中には、
但だ、
『無常滅のみ!』を、
『説き!』、
此れと、
『相違する!』が故に、
『不滅なのである!』。
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智縁滅(ちえんめつ):又択滅とも称す。智慧の揀択力に依りて得する滅諦涅槃を云う。『大智度論巻19上注:三無為、巻42上注:択滅、三種滅』参照。
非智縁滅(ひちえんめつ):又非択滅とも称す。一説に智慧に依らず、生の縁を欠くに由り不生を得る相似の涅槃の如し。『大智度論巻15上注:非択滅、巻19上注:三無為、巻42上注:三種滅』参照。
無常滅(むじょうめつ):諸行無常に由り、諸法の性の自ら滅なるを云う。『大智度論巻42上注:三種滅』参照。
択滅(じゃくめつ):梵語pratisaMkhyaa-nirodhaの訳。又数滅、或いは智縁滅とも名づく。七十五法の一、百法の一。無為法の一種にして、即ち慧の揀択力に依りて得する滅諦涅槃を云う。「大毘婆沙論巻31」に、「云何が択滅なる。答う、諸滅は是れ離繋なり。謂わく諸法の滅に亦た離繋を得す、離繋得を得する是れを択滅と名づく。(中略)何故に択滅と名づくるや、答う、択とは謂わく慧なり、滅は是れ彼の果なり。択所得の滅なるが故に択滅と名づく」と云い、「倶舎論巻1」に、「択滅は即ち離繋を以って性と為す。諸の有漏法は繋縛を遠離し、解脱を証得するを名づけて択滅と為す。択は謂わく揀択にして、即ち慧の差別なり。各別に四聖諦を揀択するが故なり。択力所得の滅を名づけて択滅と為す。牛の駕する所の車を名づけて牛車と曰うが如し。中言を略去するが故に是の説を作す」と云える是れなり。是れ慧を以って四聖諦の理を揀択し、煩悩を断ずる時、諸の有漏法は繋縛を離れ、之に対して離繋を得するを択滅と名づけたるなり。蓋し凡夫は無始以来煩悩を有するが故に、彼の一切の有漏法は煩悩の為に繋縛せらる。今慧の択力によりて煩悩を断ずる時、彼の有漏法は即ち繋縛を離るるが故に之を滅と名づけ、彼の滅に於いて離繋を得するを解脱を証得すとなすなり。「大毘婆沙論巻31」に、「諸の有漏法は無始時来、煩悩に繋せられて解脱を得ず。若し煩悩を断ぜば彼れ繋を離るるが故に便ち解脱を得。人の縛せられて後解脱する時、人を解脱と名づけ、縄等を謂うに非ざるが如し。既に所繋に於いて解脱を証得す、故に外物の中に亦た解脱を得るなり」と云える即ち其の意なり。其の一体多体に関しては、「大毘婆沙論巻31」に一物、二物、五物、十一物、三十五物、八十九物等の諸説を挙げ、其の下に之を許し「応に此の説を作すべし、有漏法に爾の所の体あるに随って択滅も亦た爾り。所繋の事体に随って爾の所の離繋あり、亦た爾の所の体あるが故なり」と云い、又前引「倶舎論巻1」の連文に、「一切の有漏法は同一択滅なりや、爾らず。云何、繋の事に随って別なり。謂わく繋の事の量に随って離繋の事も亦た爾り。若し爾らずんば見苦所断の煩悩の滅を証する時に於いて、応に一切所断の諸の煩悩の滅を証すべし。若し是の如くならば、余の対治を修するは則ち無用となるべし」と云えり。是れ一切の有漏法は一一皆煩悩の為に繋縛せられ、而して択滅は即ち其の離繋に名づけたるものなるが故に、択滅の数は所繋縛の有漏法の数に等しきことを顕わすの意なり。又説一切有部に於いては、択滅は常住実有にして、三性の中には善に摂すとなすも、経部等に於いては之を仮立とし、又其の解釈も今と大いに異なる所あり。「倶舎論巻6」に、「此の法の自性は実有なるも離言なり。唯諸の聖者の各別の内証なり。但し方便して総相に説きて是れ善是れ常なり、別に実物あるを名づけて択滅と為し、亦た離繋と名づくと言うべし。経部師説く、一切の無為は、皆実有なること色受等の別に実物あるが如くには非ず。此れ所無なるが故なり。(中略)已起の随眠の生種滅する位に、揀択力に由りて余更に生ぜざるを説いて択滅と名づくと。(中略)余部の師説く、慧の功能に由りて随眠生ぜざるを名づけて択滅と為すと」と云えり。之に依るに経部等に於いては、揀択力に由りて随眠をして生ぜざらしむるを択滅と名づけたるを知るべし。又「成唯識論巻1」にも、「簡択力に由りて諸の雑染を滅し、究竟じて証会するが故に択滅と名づく」と云い、又「同巻10」に、「択滅に二あり、一に滅縛得、謂わく生を感ずる煩悩を断じて得する者なり。二に滅障得、謂わく余障を断じて証得する者なり。故に四の円寂は、諸の無為の中に初の一は即ち真如、後の三は皆択滅なり」と云えり。此の中、滅縛得とは煩悩障を断じて得する択滅を云い、滅障得とは縛に非ざる所知障等を断じて得する択滅を云う。性浄、有余、無余、無住処の四種涅槃の中、性浄涅槃は真如にして即ち択滅の摂に非ず、余の三は総じて択滅に摂し、就中、無住処涅槃は其の体亦た真如なりと雖も、真の択力に由りて余障を滅し、証得するものなるが故に之を択滅に摂すとし、真如と択滅を区別し、択滅を施設有にして実有に非ずとなすなり。又「品類足論巻1」、「大毘婆沙論巻32」、「雑阿毘曇心論巻9」、「大智度論巻42」、「瑜伽師地論巻3」、「顕揚聖教論巻1、巻18」、「入阿毘達磨論巻下」、「順正理論巻1」、「異部宗輪論」、「彰所知論巻下無為法品」、「大乗義章巻2」、「百論疏巻下之中」、「倶舎論光記巻1、巻6」、「成唯識論述記巻2末、巻10末」等に出づ。<(望)
三種滅(さんしゅめつ):(一)有為無為の滅に総じて三種あるの意。一に択滅pratisaMkhyaa-nirodha、二に非択滅apratisaMkyhaa-nirodha、三に無常滅anitiya-nirodhaなり。「発智論巻2」に、「云何が択滅なる、答う、諸滅の是れ離繋なるもの。云何が非択滅なる、答う、諸滅の離繋に非ざるもの。云何が無常滅なる、答う、諸行の散壊破没亡退なり」と云える是れなり。蓋し説一切有部の正義は、二滅は是れ無為、無常滅は是れ有為にして共に実体ありとなせるも、譬喩者は三種の滅は実に体あるに非ずとし、分別論者は三皆無為なりとなせり。又「大毘婆沙論巻31」等に出づ。(二)有為法の滅に三種あるの意。一に念念滅、二に相違滅、三に無余滅なり。「四諦論巻3」に依るに、一切有為法の刹那に随って謝することを念念滅と名づけ、刹那相続して滅すれども、其の性前後相乖くを相違滅と名づけ、灯火の滅するが如く、滅して余なきを無余滅と名づくと云えり。又「順中論巻下」所説の三種の無常も亦た此の意に同じきが如し。三種の無常とは、一に念念壊滅無常、二に和合離散無常、三に畢竟如是無常なり。(三)断惑の道に三種の滅あるの意。一に未有滅、二に伏離滅、三に永離滅なり。未有滅とは、惑の未だ生ぜず未だ地を縁ずることを得ざるを云い、伏離滅とは、惑已に生じ已に地を縁ずることを得るも、世出世の道由りて現時に起らざるを云い、永離滅とは、惑已に伏して滅因を離れ、滅余なきが故に未来に決して生ぜざるを云うなり。「四諦論巻3」等に出づ。(四)滅諦の滅に三種あるの意。一に自性滅、二に二取滅、三に本性滅なり。「辯中辺論巻中」に、「滅諦の三とは、一に自性滅なり、謂わく自性不生なるが故なり。二に二取滅なり、謂わく所取と能取と二不生なるが故なり。三に本性滅なり、謂わく垢の寂に二あり、即ち択滅及び真如なり」と云える是れなり。此の中、自性滅とは、偏計所執の自性は仮名にして不生なるを云い、二取滅とは、依他起の所取能取の相は仮にして本と不生なるを云い、本性滅とは、択滅及び真如の体は本来寂滅なるを云うなり。又「成唯識論巻8」、「同述記巻8本」、「辯中辺論述記巻中」等に出づ。<(望) |
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不示者一切諸觀滅。語言道斷故無法可示。是法如。是相若有若無若常若無常等。不垢不淨。如法性實際法相法位義如先說。 |
不示とは、一切の諸観滅し、語言の道断ずるが故に、『是の法は是の如き相なり、若しは有なり、若しは無なり、若しは常なり、若しは無常なり等』、と示すべき法無し。不垢不浄、如、法性、実際、法相、法位の義は、先に説けるが如し。 |
『不示』とは、
『一切の諸観が滅して、語言の道が断じた!』が故に、
『是の法は、是のような相であり、有である、無、常、無常である!』等と、
『示すべき!』、
『法が無いからである!』。
『不垢不浄、如、法性、実際、法相、法位の義』は、
『先に!』、
『説いた通りである!』。
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問曰。五眾法有集散。與此相違故言不集不散。如法性實際等無相違故。云何言不集不散。 |
問うて曰く、五衆の法には、集散有れば、此れと相違するが故に不集不散と言うも、如、法性、実際等には、相違無きが故に、云何が、不集不散と言う。 |
問い、
『五衆の法には、集散が有る!』ので、
此れと、
『相違する!』が故に、
『不集不散』と、
『言うのである!』が、
『如、法性、実際』等には、
『相違する法が、無い!』が故に、
何故、
『不集不散』と、
『言うのですか?』。
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答曰。行者得如法性等故名為集。失故名為散。如虛空雖無集無散。鑿戶牖名為集。塞故名為散。善不善乃至十方如恒河沙等諸佛義如先說。是諸佛法及佛名字無所依止故。皆空不住非不住 |
答えて曰く、行者は如、法性等を得るが故に名づけて、集と為し、失うが故に名づけて、散と為す。虚空の如きには集無く、散無しと雖も、戸牖を鑿(うが)つを名づけて集と為し、塞ぐが故に名づけて、散と為す。善、不善、乃至十方の恒河沙に等しきが如き諸仏の義は、先に説けるが如し。是の諸仏の法、及び仏の名字には、依止する所無きが故に、皆空なれば、不住、非不住なり。 |
答え、
『行者』が、
『如、法性等を得る!』が故に、
『集( collection )』と、
『称し!』、
『失う!』が故に、
『散( dispersion )』と、
『称する!』。
譬えば、
『虚空には集も、散も無い!』が、
『戸牖を鑿つ( to bore a window in a wall )!』のを、
『集』と、
『称し!』、
『塞ぐ!』が故に、
『散』と、
『称するようなものである!』。
『善、不善、乃至十方の恒河沙に等しいほどの諸仏の義』は、
『先に!』、
『説いた通りであり!』、
是の、
『諸仏の法も、仏の名字も!』、
『依止する所が無いが故に、皆空であり!』、
『住でもなく!』、
『不住でもない!』。
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戸牖(こゆ):出入り口と窓。牖は壁に穿った窓。
鏨(さく):ノミ( chisel )。穴を穿つ( to bore a hole in something )。 |
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