巻第四十二(上)
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大智度論釋集散品第九(卷第四十二)
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


【經】諸法の集散と、名字の住不住

【經】爾時慧命須菩提白佛言。世尊。我不覺不得是菩薩行般若波羅蜜。當為誰說般若波羅蜜。 爾の時、慧命須菩提の仏に白して言さく、『世尊、我れは覚らず、得ず、是の菩薩は般若波羅蜜を行じて、当に誰の為めにか、般若波羅蜜を説くべきや。
爾の時、
『慧命須菩提』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
わたしは、覚ることも、得ることもできません
I cannot find out and comprehend that )、――
是の、
『菩薩は、般若波羅蜜を行じて!』、
『誰の為めに!』、
『般若波羅蜜を説くつもりなのですか?』。
  参考:『大般若経巻36』:『爾時具壽善現白佛言。世尊。我於菩薩摩訶薩及於般若波羅蜜多。皆不得不見。云何令我以般若波羅蜜多相應之法。教誡教授諸菩薩摩訶薩。世尊。我於諸法。不得不見若集若散。若以此法。教誡教授諸菩薩摩訶薩。或當有悔。世尊。我於諸法。不得不見若集若散。云何可言。此是菩薩摩訶薩。此是般若波羅蜜多。世尊。是菩薩摩訶薩名及般若波羅蜜多名。皆無所住亦非不住。何以故。是二名義既無所有故。是二名皆無所住亦非不住。世尊。我於色受想行識。不得不見若集若散。云何可言。此是色乃至此是識。世尊。是色等名皆無所住亦非不住。何以故。色等名義既無所有故。色等名皆無所住亦非不住。世尊。我於眼耳鼻舌身意處。不得不見若集若散。云何可言。此是眼處乃至此是意處。‥‥』
世尊。我不得一切諸法集散。若我為菩薩作字言菩薩。或當有悔。 世尊、我れは、一切諸法の集散を得ず。若し我れ菩薩の為めに、字を作りて、菩薩と言わば、或は当に悔ゆること有るべしや。
世尊!
わたしは、
『一切の諸法』の、
『集、散( gathering and scattering )』を、
『得ることができません( cannot comprehend )!』。
若し、
わたしが、
『菩薩という、字を作って!』、
『菩薩である!』と、
『言えば!』、
或は、
『悔ゆること!』が、
『有るのですか?』。
  (じゅう):梵語 saMgraahin, saMdhaya の訳、集める( gathering, collecting )、一緒に集める/合一する( to put or join together, unite )の義。諸法を集めて、衆生と作す( to gather dharmas and make a living being )の義。
  (さん):梵語 bheda, visaara の訳、ばら蒔く( scattering, diffusion )の義、衆生が死んでばらばらになる( a living being die and become scattered )の意。
世尊。是字不住亦不不住。何以故。是字無所有故。以是故是字不住亦不不住。 世尊、是の字は住にあらず、亦た不住にあらず。何を以っての故に、是の字は、無所有なるが故なり。是を以っての故に、是の字は住にあらず、亦た不住にあらず。
世尊!
是の、
『字』は、
『住でもなく( be not staying )!』、
『不住でもない( be not non-staying )!』。
何故ならば、
是の、
『字』は、
『無所有だからです( be non-existent )!』。
是の故に、
是の、
『字』は、
『住でもなく!』、
『不住でもないのです!』。
  (じゅう):梵語 pratiSThita の訳、立つ/~に位置する/住する( standing, situated in or on, abiding, staying )の義、~の上に確立した( established on )の意。
  不住(ふじゅう):梵語 apratiSThita の訳、立地を有しない( having no solid ground )、確定しない/不明瞭な( unfixed, obscure )の意。
世尊。我不得色集散乃至識集散。若不可得云何當作名字。 世尊、我れは、色の集散、乃至識の集散を得ず。若し不可得ならば、云何が、当に名字を作すべきや。
世尊!
わたしは、
『色、乃至識』の、
『集、散』を、
『得ることができません!』。
若し、
『得られなければ!』、
何故、
『名字』を、
『作らねばならなかったのですか?』。
世尊。以是因緣故。是字不住亦不不住。何以故。是名字無所有故。 世尊、是の因縁を以っての故に、是の字は住にあらず、亦た不住にあらず。何を以っての故に、是の名字は無所有なるが故なり。
世尊!
是の、
『因緣』の故に、
是の、
『字』は、
『住でもなく!』、
『不住でもない!』。
何故ならば、
是の、
『名字』は、
『無所有だからです!』。
世尊。我亦不得眼集散乃至意集散。若不可得云何當作名字言是菩薩。 世尊、我れは亦た眼の集散、乃至意の集散を得ず。若し不可得ならば、云何が、当に名字を作して、是れ菩薩なりと言うべきや。
世尊!
わたしは、
『眼、乃至意』の、
『集散』を、
『得ることもできません!』。
若し、
『得られなければ!』、
何故、
『名字を作って!』、
『是れは菩薩である、と言えるのですか?』。
世尊。是眼名字乃至意名字不住亦不不住。何以故。是名字無所有故。以是故是字不住亦不不住。 世尊、是の眼の名字、乃至意の名字は、住にあらず、亦た不住にあらず。何を以っての故に、是の名字は無所有なるが故なり。是を以っての故に、是の字は住にあらず、亦た不住にあらず。
世尊!
是の、
『眼、乃至意の名字』は、
『住でもなく!』、
『不住でもない!』。
何故ならば、
是の、
『名字』は、
『無所有だからです!』。
是の故に、
是の、
『字』は、
『住でもなく!』、
『不住でもないのです!』。
世尊。我不得色集散乃至法集散。若不可得云何當作名字言是菩薩。 世尊、我れは色の集散、乃至法の集散を得ず。若し不可得ならば、云何が当に、名字を作りて、是れ菩薩なりと言うべきや。
世尊!
わたしは、
『色、乃至法』の、
『集散』を、
『得ることができません!』。
若し、
『得られなければ!』、
何故、
『名字を作って!』、
『是れは菩薩である、と言えるのですか?』。
世尊。是色字乃至法字不住亦不不住。何以故。是字無所有故。以是故是字不住亦不不住。眼識乃至意識。眼觸乃至意觸。眼觸因緣生受乃至意觸因緣生受亦如是。 世尊、是の色の字、乃至法の字は住にあらず、亦た不住にあらず。何を以っての故に、是の字は無所有なるが故なり。是を以っての故に、是の字は住にあらず、亦た不住にあらず。眼識、乃至意識、眼触、乃至意触、眼触因縁生の受、乃至意触因縁生の受も亦た是の如し。
世尊!
是の、
『色、乃至法の字』は、
『住でもなく!』、
『不住でもない!』。
何故ならば、
是の、
『字』は、
『無所有だからです!』。
是の故に、
是の、
『字』は、
『住でもなく!』、
『不住でもないのです!』。
亦た、
『眼識乃至意識、眼触乃至意触、眼触因縁生の受乃至意触因縁生の受』も、
『是の通りです!』。
世尊。我不得無明集散乃至不得老死集散。 世尊、我れは無明の集散を得ず、乃至老死の集散を得ず。
世尊!
わたしは、
『無明、乃至老死の集散』を、
『得ることができません!』。
世尊。我不得無明盡集散。乃至不得老死盡集散。 世尊、我れは無明の尽の集散を得ず、乃至老死の尽の集散を得ず。
世尊!
わたしは、
『無明の尽、乃至老死の尽の集散』を、
『得ることができません!』。
世尊。我不得婬怒癡集散。諸邪見集散皆亦如是。 世尊、我れは婬怒癡の集散を得ず。諸邪見の集散も皆亦た是の如し。
世尊!
わたしは、
『婬怒癡の集散』を、
『得ることができず!』、
亦た、
『諸邪見の集散』も、
『是の通りです!』。
世尊。我不得六波羅蜜集散。四念處集散。乃至八聖道分集散。空無相無作集散。四禪四無量心四無色定集散。念佛念法念僧念戒念捨念天念善念入出息念身念死集散。我亦不得佛十力乃至十八不共法集散。 世尊、我れは六波羅蜜の集散、四念処の集散、乃至八聖道分の集散、空、無相、無作の集散、四禅、四無量心、四無色定の集散、念仏、念法、念僧、念戒、念捨、念天、念善、念入出息、念身、念死の集散を得ず。我れは亦た仏の十力、乃至十八不共法の集散を得ず。
世尊!
わたしは、
『六波羅蜜』の、
『集散』を、
『得ることができず!』、
『四念処、乃至八聖道分、空、無相、無作、四禅、四無量心、四無色定』の、
『集散』を、
『得ることができず!』、
『念仏、念法、念僧、念戒、念捨、念天、念善、念入出息、念身、念死』の、
『集散』を、
『得ることができず!』、
わたしは、亦た、
『仏の十力、乃至十八不共法』の、
『集散』を、
『得ることもできません!』。
世尊。我若不得六波羅蜜乃至十八不共法集散。云何當作字言是菩薩。 世尊、我れ若し六波羅蜜、乃至十八不共法の集散を得ずんば、云何が当に字を作りて、是れ菩薩なりと言うべきや。
世尊!
わたしが、
若し、
『六波羅蜜、乃至十八不共法』の、
『集散』を、
『得られなければ!』、
何故、
『字を作って!』、
『是れが菩薩である、と言えるのですか?』。
世尊。是字不住亦不不住。何以故。是字無所有故。以是故是字不住亦不不住。 世尊、是の字は住にあらず、亦た不住にあらず。何を以っての故に、是の字は無所有なるが故なり。是を以っての故に是の字は住にあらず、亦た不住にあらざるなり。
世尊!
是の、
『字』は、
『住でもなく!』、
『不住でもない!』。
何故ならば、
是の、
『字』は、
『無所有だからです!』。
是の故に、
是の、
『字』は、
『住でもなく!』、
『不住でもないのです!』。
世尊。我不得如夢五陰集散。我不得如響如影如焰如化五陰集散亦如上說。 世尊、我れは夢の如き五陰の集散を得ず。我れは響の如き、影の如き、焰の如き、化の如き五陰の趣さんを得ざること、亦た上に説けるが如し。
世尊!
わたしは、
『夢のような!』、
『五陰の集散』を、
『得ることができません!』、
わたしが、
『響、影、焰、化のような!』、
『五陰の集散』を、
『得られない!』のも、
亦た、
『上に!』、
『説いた通りです!』。
世尊。我不得離集散。我不得寂滅不生不滅不示不垢不淨集散。 世尊、我れは離の集散を得ず。我れは寂滅、不生不滅、不示、不垢不浄の集散を得ず。
世尊!
わたしは、
『離の集散』を、
『得ることができません!』し、
わたしは、
『寂滅、不生不滅、不示、不垢不浄の集散』を
『得ることもできません!』。
世尊。我不得如法性實際法相法位集散亦如上說。我不得諸善不善法集散。我不得有為無為法有漏無漏法集散。過去未來現在法集散。不過去不未來不現在法集散。何等是不過去不未來不現在。所謂無為法。 世尊、我が如、法性、実際、法相、法位の集散を得ざるも、亦た上に説けるが如し。我れは諸の善、不善の法の集散を得ず。我れは有為、無為の法、有漏、無漏の法の集散、過去、未来、現在の法の集散、不過去不未来不現在の法の集散を得ず。何等か、是れ不過去不未来不現在なる。謂わゆる無為法なり。
世尊!
わたしが、
『如、法性、実際、法相、法位!』の、
『集散』を、
『得ることができない!』のも、
亦た、
『上に!』、
『説く通りです!』。
わたしは、
『諸の善、不善の法』の、
『集散』を、
『得ることができません!』。
わたしは、
『有為、無為の法、有漏、無漏の法』の、
『集散』を、
『得ることができず!』、
『過去、未来、現在の法』の、
『集散』を、
『得ることができず!』、
『過去でもなく、未来でもなく、現在でもない法』の、
『集散』を、
『得ることもできません!』。
何のような、
『法』が、
『過去でも、未来でも、現在でもない法なのか?』、
『謂わゆる、無為法です!』。
世尊。我亦不得無為法集散。世尊。我亦不得佛集散。 世尊、我れは亦た無為法の集散も得ず。世尊、我れは亦た仏の集散も得ず。
世尊!
わたしは、
『無為法の集散』も、
『得られません!』。
世尊!
わたしは、
『仏の集散』も、
『得られません!』。
世尊。我亦不得十方如恒河沙等世界諸佛及菩薩聲聞僧集散 世尊、我れは亦た十方の恒河沙に等しきが如き世界の諸仏、及び菩薩、声聞僧の集散を得ず。
世尊!
わたしは、
『十方の恒河沙に等しいほど!』の、
『世界の諸仏や、菩薩、声聞僧の集散』を、
『得ることもできません!』。
世尊。我若不得諸佛集散。云何當教菩薩摩訶薩般若波羅蜜。 世尊、我れ若し諸仏の集散を得ずんば、云何が当に菩薩摩訶薩に般若波羅蜜を教うべき。
世尊!
わたしが、
若し、
『諸仏の集散』を、
『得られなければ!』、
何のように、
『菩薩摩訶薩』に、
『般若波羅蜜を教えればよいのですか?』。
世尊。是菩薩字不住亦不不住。何以故。是字無所有故。以是故是字不住亦不不住。 世尊、是の菩薩の字は住にあらず、亦た不住にあらず。何を以っての故に、是の字は無所有なるが故なり。是を以っての故に、是の字は住にあらず、亦た不住にあらず。
世尊!
是の、
『菩薩の字』は、
『住でもなく!』、
『不住でもない!』。
何故ならば、
是の、
『字』は、
『無所有だからです!』。
是の故に、
是の、
『字』は、
『住でもなく!』、
『不住でもないのです!』。
世尊。我亦不得是諸法實相集散。云何當與菩薩作字言是菩薩。 世尊、我れは亦た是の諸法の実相の集散を得ず。云何が当に菩薩の与(ため)に字を作りて、是れ菩薩なり、と言うべけんや。
世尊!
わたしは、
是の、
『諸法の実相の集散』も、
『得ることができません!』。
何故、
『菩薩の与に字を作って( should make tne name for bodhisattva )!』、
『是れが、菩薩である!』と、
『言うことができるのですか?』。
世尊。是諸法實相名字不住亦不不住。何以故。是名字無所有故。以是故是名字不住亦不不住 世尊、是の諸法の実相の名字は住にあらず、亦た不住にあらず。何を以っての故に、是の名字は無所有なるが故なり。是を以っての故に、是の名字は住にあらず、亦た不住にあらず。
世尊!
是の、
『諸法の実相という!』、
『名字』は、
『住でもなく!』、
『不住でもない!』。
何故ならば、
是の、
『名字』は、
『無所有だからです!』。
是の故に、
是の、
『名字』は、
『住でもなく!』、
『不住でもないのです!』。



【論】諸法の集散と、名字の住不住

【論】問曰。先品中已說不見菩薩菩薩字般若波羅蜜。一切諸法不內不外不中間等。今何以重說。 問うて曰く、先の品中に已に説かく、『菩薩、菩薩の字、般若波羅蜜を見ず、一切の諸法は内にあらず、外にあらず、中間にあらず、等』、と。今は何を以ってか重ねて説く。
問い、
先の品中に、こう説かれているが、――
『菩薩も、菩薩の字も、般若波羅蜜も見ない!』。
『一切の諸法』は、
『内でも、外でも、中間でもない!』等と。
今は、
何故、
『重ねて説くのか?』。
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻2三仮品』:『爾時慧命須菩提白佛言。世尊。所說菩薩菩薩字何等法名菩薩。世尊。我等不見是法名菩薩。云何教菩薩般若波羅蜜。佛告須菩提。般若波羅蜜亦但有名字。名為般若波羅蜜。菩薩菩薩字亦但有名字。是名字不在內不在外不在中間。須菩提。譬如說我名。和合故有。是我名不生不滅。但以世間名字故說。如眾生壽者命者生者養育者。眾數人作者使作者。起者使起者。受者使受者。知者見者等。和合法故有。是諸名不生不滅。但以世間名字故說般若波羅蜜。菩薩菩薩字亦如是。皆和合故有。是亦不生不滅。但以世間名字故說。』
答曰。有四種愛。欲愛有愛非有愛法愛。欲愛易見其過不淨等。有愛無不淨等小難遣。非有愛破有似智慧故難遣。法愛者愛諸善法利益道者。法愛中過患難見故重說。譬如小草加功少易除大樹功重難除。 答えて曰く、四種の愛有り、欲愛、有愛、非有愛、法愛なり。欲愛は、其の過の不浄等を見易く、有愛は、不浄等無ければ、小(すこ)しく遣(や)り難く、非有愛は、有を破ることの智慧に似たるが故に遣り難く、法愛は、諸の善法の道を利益するを愛すれば、法愛中に過患を見難きが故に重ねて説けり。譬えば小草の功を加うること少なくして、除き易く、大樹は功重くして、除き難きが如し。
答え、
『愛には、四種有り!』、
『欲愛( the love of enjoyment )と!』、
『有愛( the love of existence )と!』、
『非有愛( the love of non-existence )と!』、
『法愛( the love of dharma )である!』が、
『欲愛』は、
『欲愛の過である!』、
『不浄等』が、
『見易く!』、
『有愛』は、
『不浄等が無い!』ので、
『小し( slightly )!』、
『遣り難く( being hard to be dismissed )!』、
『非有愛』は、
『有を破る!』のは、
『智慧に似る!』が故に、
『遣り難く!』、
『法愛』は、
『諸の善法という!』、
『道を利益する!』者を、
『愛する!』ので、
『法愛』中の、
『過患』は、
『見難い!』が故に、
是れを、
『重ねて!』、
『説くのである!』。
譬えば、
『小草』は、
『功を少し加えるだけ( with a little labour )!』で、
『除き易い!』が、
『大樹』は、
『功を重くしても( with hard labour )!』、
『除き難いようなものである!』。
  (けん):逐、或いは去の義。追い払う。駆逐。
  欲愛(よくあい):梵語 kaama-tRSNaa の訳、娯楽に対する貪愛( the desire of enjoyment )の義、諸欲の中に於ける貪愛を云う。『大智度論巻42上注:愛』参照。
  有愛(うあい):梵語 bhava-tRSNaa の訳、存在に対する貪愛( the desire of existence )の義、色無色界の貪愛を云う。『大智度論巻42上注:愛』参照。
  非有愛(ひうあい):梵語 abhava-tRSNaa の訳、非存在に対する貪愛( the desire of non- existence )の義、非有を欣ぶ者が非有を楽い貪愛するを云う。『大智度論巻42上注:愛』参照。
  法愛(ほうあい):梵語 dharma-tRSNaa の訳、法に対する貪愛( the desire of dharma )の義、善法、正道法を楽い貪愛するを云う。『大智度論巻42上注:愛』参照。
  (あい):(一)梵語tRSNaaの訳。十二因縁の一。又愛支と名づく。「大毘婆沙論巻23」に、「云何が愛なる。謂わく已に貪愛婬愛及び資具愛を起すと雖も、而も未だ此れが為に四方に追求して労倦を辞せざることあらず、是れ愛の位なり」と云い、「倶舎論巻9」に、「妙資具を貪して婬愛現行するも未だ広く追求せず、此の位を愛と名づく」と云える是れなり。是れ謂わゆる分位縁起の説にして、即ち青年期に及び已に婬貪の心を起すも、未だ広く追求するに至らざる間を愛支と名づけたるなり。蓋し説一切有部に於いては十二因縁に三世両重の因果を分ち、愛と取及び有の三を現在の三因とし、分位縁起の説を作すと雖も、経量部にては之を経説に違背すとなし、唯楽等の三受より三種の愛を引生するを愛支となせり。即ち「倶舎論巻9」に、「此の三受より三愛を引生す、謂わく苦逼まるに由りて楽受に於いて欲愛を発生することあり、或いは楽と非苦楽との受に於いて色愛を発生することあり、或いは唯非苦楽受に於いて無色愛を生ずることあり」と云える其の説なり。是れ欲界の苦に逼悩せらるるに由り楽受に於いて欲愛kaama-tRSNaaを生じ、色界初二三禅の楽受及び第四禅の非苦楽受に於いて色愛ruupa-tRSNaaを生じ、或いは唯無色界の非苦楽受に於いて無色愛aruupa-tRSNaaを生ずるを愛支となすの意なり。又唯識大乗に於いては唯一重の因果を立て、愛取有の三を能生支と名づけ、其の中、愛は第六意識相応の倶生の煩悩にして、正しく後有を縁じて起す潤生の惑となせり。「成唯識論巻8」に、「三に能生支は謂わく愛と取と有となり。近く当来の生老死を生ずるが故なり。謂わく内の異熟果に迷う愚に縁りて正しく能く後有を招く諸業を発し、縁と為りて親しく当来生老死の位の五果を生ずる種を引発し已り、復た外の増上果に迷う愚に依りて、境界受を縁として貪愛を発起す」と云える是れなり。是れ無明によりて業を発し、業によりて識等の五果の種を引発して当果を決定せしめ、更に境界受を縁として愛を起し、此の愛の潤力によりて近く生老死の果を生ぜしむるものなるを明にするの意なり。又「識身足論巻3」、「法蘊足論巻12」、「雑阿毘曇心論巻8」、「瑜伽師地論巻93」、「倶舎論巻10、19」、「大乗阿毘達磨雑集論巻4」、「成唯識論述記巻8末」等に出づ。(二)九結の一。愛結anunaya-saMyojanaと名づけ、又随順結と訳す。即ち境に染著する貪煩悩を云う。「大毘婆沙論巻50」に、「云何が愛結なる、謂わく三界の貪なり。然るに三界の貪は九結の中に於いては総じて愛結と立て、七随眠の中には二随眠を立つ。謂わく欲界の貪を欲貪随眠と名づけ、色無色界の貪を有貪随眠と名づく。余経の中に於いては立てて三愛となす、謂わく欲愛、色愛、無色愛なり」と云い、「順正理論巻54」に、「何に縁りて此の貪を説いて名づけて愛と為すや。此れ染心に境を随楽する所なるが故なり」と云える是れなり。是れ三界の貪を総称して愛結となすなり。又「集異門足論巻4」に欲愛色愛無色愛の三愛を説き、諸欲の中に於ける諸貪等貪執蔵防護耽著愛染を欲愛と名づけ、諸色の中に於ける諸貪等貪等を色愛、無色の中に於ける諸貪等貪等を無色愛と名づくとし、又欲愛有愛無有愛の三愛を説き、諸欲の中に於ける諸貪等貪等を欲愛kamaa-tRSNaa、色無色界の諸貪等貪等を有愛bhava-tRSNaa、無有を欣う者が無有の中に於ける諸貪等貪等を無有愛vibhava-tRSNaaと名づくと云い、又「勝鬘経」に五住地の惑を説く中、欲愛住地、色愛住地、有愛住地の名を挙げ、「大般涅槃経巻13」には四諦の中の集諦を愛とし、之に二種三種四種五種の別あることを説き、「愛に二種あり、一の己身を愛し、二に所須を愛す。復た二種あり、未だ五欲を得ざれば心を繋けて専ら求め、既に求めて得已れば堪忍して専ら著す。復た三種あり、欲愛色愛無色愛なり。復た三種あり、業因縁愛と煩悩因縁愛と苦因縁愛となり。出家の人に四種の愛あり、何等をか四となす、衣服飲食臥具湯薬なり。復た五種あり、五陰に貪著し諸の所須に随って一切愛著す」と云えり。此等は皆貪を名づけて愛となせるものなり。又「大毘婆沙論巻48、49、56、173」、「成実論巻9貪相品」、「入阿毘達磨論巻上」、「倶舎論巻21」等に出づ。(三)梵語premanの訳。又はpriya、即ち不染汚の心を以って法又は師長等を愛楽するを云う。「大毘婆沙論巻29」に、「愛に二種あり、一に染汚は謂わく貪なり。二に不染汚は謂わく信なり」と云い、「倶舎論巻4」に、「愛は謂わく愛楽なり、体即ち是れ信なり。然るに愛に二あり、一に有染汚、二に無染汚なり。有染は謂わく貪なり、妻子等を愛するが如し。無染は謂わく信なり、師長等を愛するが如し」と云える是れなり。是れ不染汚の愛は信を其の体となすことを明せるなり。又「大般涅槃経巻13」に、「愛に二種あり、一には善愛、二には不善愛なり。不善愛は惟だ愚のみ之を求め、善法愛は諸菩薩求む。善法愛とは復た二種あり、不善と善となり。二乗を求むる者を名づけて不善となし、大乗を求むる者是れを名づけて善となす」と云い、又「大智度論巻72」に、「愛は貪欲煩悩の心にして行ずべからず、当に慈愛の心を行ずべし。世間の法は妻子牛馬等を愛念し、怨賊等を憎悪す。菩薩は此の世間の法を転じ、但だ慈愛の心を一切の衆生に行ず」と云い、「大乗荘厳経論巻9」に、「一切の世間は皆世楽及び自身の命を愛す、一切の声聞縁覚は世楽及び自身の命を愛せずと雖も、而も涅槃に於いて住著の意を起す。菩薩は爾らず、大悲自在なるが故に涅槃に於いて尚お住せず、何に況んや彼の二愛の中に住せんや。已に大悲無著を説く、次に大悲愛勝を説かん」と云えり。是れ大乗法を楽求し、又衆生を悲愍するを愛と名づけたるものにして、皆不染愛を説けるものなり。但し「梵文大乗荘厳経論」には今の愛をsnehaとなせり。又「大般涅槃経巻16」、「順正理論巻11」、「成唯識論巻6」等に出づ。<(望)
復次上法與此法有同有異。彼聞說菩薩字不見。此中說菩薩字不覺不得。以不覺不得故不見。非是智慧力少故不見。 復た次ぎに、上の法は、此の法と有るいは同じ、有るいは異なり。彼には、菩薩の字を見ずと説くを聞き、此の中は、菩薩の字を覚らず、得ずと説く。覚らず、得ざるを以っての故に見ざれば、是の智慧力の少きが故に見ざるに非ず。
復た次ぎに、
『上の法と、此の法と!』は、
『有るいは、同じであり!』、
『有るいは、異なる!』。
『彼の法』は、
『菩薩の字を見ない、と説く!』のを、
『聞いた!』が、
『此の法』中には、
『菩薩の字を覚らず、得ず!』と、
『説かれており!』、
是れは、
『覚らず、得ない!』が故に、
『見ないのであり!』、
是の、
『智慧力が、少い!』が故に、
『見ないのではない!』。
問曰。未行般若波羅蜜時為有菩薩耶。今何以故言不見菩薩行般若波羅蜜。 問うて曰く、未だ、般若波羅蜜を行ぜざる時、菩薩有りと為すや。今は何を以っての故にか、『菩薩の般若波羅蜜を行ずるを見ず』、と言うや。
問い、
未だ、
『般若波羅蜜を行じていない!』時でも、
『菩薩』は、
『有るのですか?』。
今は、
何故、
『菩薩が、般若波羅蜜を行じる!』のを、
『見ない!』と、
『言うのですか?』。
答曰。從無始已來眾生不可得。非行般若波羅蜜故不可得。但以虛誑顛倒。凡夫人隨是假名故謂為有。今行般若波羅蜜滅虛誑顛倒。了知其無非本有今無。本有今無則墮斷滅。 答えて曰く、無始より已来、衆生は不可得にして、般若波羅蜜を行ずるが故に不可得なるに非ず。但だ虚誑、顛倒の凡夫人の、是の仮名に随うを以っての故に、謂いて有りと為すのみ。今、般若波羅蜜を行じて、虚誑顛倒を滅すれば、其の無きを了知するも、本有りて、今無きには非ず。本有りて今無ければ、則ち断滅に堕するなり。
答え、
『無始より!』、
『衆生』は、
『不可得であり!』、
『般若波羅蜜を行じる!』が故に、
『衆生』が、
『不可得なのではない!』。
但だ、
『虚誑、顛倒の凡夫人』は、
是の、
『仮名』に、
『随う!』が故に、
是れを、
『有る!』と、
『謂うだけである!』。
今、
『般若波羅蜜を行じて!』、
『虚誑、顛倒』を、
『滅すれば!』、
其のような、
『衆生は、無い!』と、
『了知するのであり!』、
『衆生』が、
『本、有って!』、
『今、無いのではない!』。
若し、
『本有って、今無ければ!』、
『断滅』に、
『堕ちることになるからである!』。
復次須菩提心悔畏破妄語戒。所以者何。佛法中一切諸法決定無我。而我說言有菩薩為說般若波羅蜜。則墮妄語罪。是故心悔。 復た次ぎに、須菩提は、心に、妄語戒を破るを悔畏すればなり。所以は何んとなれば、仏法中の一切の諸法は決定して、無我なるに、我れ説いて、『菩薩有り』、と言いて、為めに般若波羅蜜を説かばば、則ち妄語罪に堕ちん、と。是の故に心に悔ゆるなり。
復た次ぎに、
『須菩提』は、
『心』に、
『妄語戒を破ることにはならないか?』と、
『悔畏したのである!』。
何故ならば、こう念じたからである、――
『仏法中の、一切の初法』は、
『決定して!』、
『無我である!』のに、
わたしが、
『菩薩を説いて!』、
『有ると言い!』、
是の、
『菩薩の為め!』に、
『般若波羅蜜を説けば!』、
則ち、
『妄語罪』に、
『堕ちることになるだろう!』、と。
是の故に、
『心』に、
『悔いたのである!』。
復次有心悔因緣。一切法以不可得空故皆空。所以者何。無集無散故。 復た次ぎに、心に悔ゆる因緣有り、一切法は不可得空なるを以っての故に、皆空なり。所以は何んとなれば、集無く、散無きが故なり。
復た次ぎに、
『心に悔ゆる!』、
『因緣が有る!』、――
『一切法』は、
『不可得空である!』が故に、
『皆、空だからである!』。
何故ならば、
『集も、散も!』、
『無いからである!』。
譬如眼色因緣生眼識。三事和合故生眼觸。眼觸因緣中即生受想思等心數法。是中邪憶念故。生諸煩惱罪業。正憶念故生諸善法善惡業受六道果報。從是身邊。復種善惡業。如是展轉無窮。是名為集。餘情亦如是。 譬えば眼と色の因縁は、眼識を生じ、三事和合の故に眼触を生じ、眼触の因緣中に即ち受想思等の心数法を生じ、是の中の邪に憶念するが故に、諸煩悩の罪業を生じ、正しく憶念するが故に諸の善歩應を生じ、善悪の業もて、六道の果報を受け、是の身の辺より、復た善悪の業を種え、是の如く展転して、窮まること無し。是れを名づけて集と為し、餘の情も亦た是の如し。
譬えば、
『眼、色の因緣より!』、
『眼識』を、
『生じ!』、
『眼、色、眼識の三事の和合』の故に、
『眼触』を、
『生じ!』、
『眼触の因緣』中に、
即ち、
『受、想、思等の心数法』を、
『生じ!』、
是の、
『心数法』中に、
『邪に憶念する( incorrect considering )!』が故に、
『諸の煩悩の罪業』を、
『生じ!』、
『正しく憶念する( correct considering )!』が故に、
『諸の善法』を、
『生じながら!』、
『善、悪の業により!』、
『六道の果報を受け!』、
是の、
『身の辺より!』、
復た、
『善、悪の業』を、
『種え!』、
是のように、
『展転して( successively )!』、
『窮まること!』が、
『無い!』。
是れを、
『集』と、
『称するのである!』が、
亦た、
『餘の情(耳鼻舌身意)』も、
『是の通りである!』。
散者是眼識等諸法念念滅故。諸因緣離故。是眼識等法生時無來處。非如田上穀運致聚集。若滅時無去處。非如散穀與民。是名略說諸法集散相。生時無所從來。散時無所去。是諸法皆如幻化但誑惑於眼。 散とは、是の眼識等の法は念念に滅するが故に、諸の因緣の離るるが故なり。是の眼識等の法は、生時に来処無きこと、田上の穀を運致し、聚集するが如きに非ず。若しは滅する時に、去処無きこと、穀を散じて、民に与うるが如きに非ず。是れを、諸法の集散の相を略説すと名づく。生時に従来する所無く、散時に去る所無きは、是の諸法は、皆幻化の如く、但だ眼を誑惑すればなり。
『散』とは、
是の、
『眼識等の諸法』は、
『念念に滅する!』が故に、
『諸の因緣』が、
『離れるからである!』。
是の、
『眼識等の法』が、
『生時』に、
『来処』が、
『無い!』のは、
譬えば、
『田上の穀』が、
『運致、聚集するようなものでもなく!』、
『滅時』に、
『去処』が、
『無い!』のは、
譬えば、
『穀を散じて!』、
『民に与えるようなものでもない!』。
是れが、
『略説された!』、
『諸法』の、
『集、散の相である!』が、
謂わゆる、
『生時に、来処が無く!』、
『散時に、去処が無い!』のは、
是の、
『諸法は、皆幻化のように!』、
但だ、
『眼』を、
『誑惑するだけだからである!』。
  運致(うんち):運んで一処に集める。
  聚集(じゅしゅう):一処に集める。
問曰。若爾有集散相。須菩提何以言不覺不得。 問うて曰く、若し爾らば、集散の相有るに、須菩提は、何を以ってか、『覚らず、得ず』、と言える。
問い、
若し、爾うならば、
『集、散の相は有る!』のに、
『須菩提』は、
何故、
『覚ることもなく、得ることもない!』と、
『言ったのか?』。
答曰。無來處故集不可得。無去處故散不可得。 答えて曰く、来処無きが故に集は不可得にして、去処無きが故に散は不可得なればなり。
答え、
『来処が無い!』が故に、
『集( to become an union )』は、
『不可得であり!』、
『去処が無い!』が故に、
『散( to become parts )』は、
『不可得だからである!』。
復次生無故集不可得。滅無故散不可得。畢竟空故集不可得。業因緣不失故散不可得。 復た次ぎに、生の無きが故に集は不可得、滅の無きが故に散は不可得なり。畢竟空の故に集は不可得、業因縁の失われざるが故に散は不可得なり。
復た次ぎに、
『生が無い!』が故に、
『集』は、
『不可得であり!』、
『滅が無い!』が故に、
『散』は、
『不可得である!』。
『諸法が畢竟空である!』が故に、
『集』は、
『不可得であり!』、
『業因縁は失われない!』が故に、
『散』は、
『不可得である!』。
復次觀世間滅諦故集不可得。觀世間集諦故散不可得。如是等義。當知集散不可得云何當作菩薩字。若強為名。是名亦無住亦無不住。 復た次ぎに、世間の滅諦を観るが故に集は不可得、世間の集諦を観るが故に散は不可得なり。是れ等の如き義もて、当に知るべし、集散は不可得なるに、云何が、当に菩薩の字を作るべき。若し強いて名を為すも、是の名も亦た住無く、亦た不住無し。
復た次ぎに、
『世間の滅諦を観る!』が故に、
『集』は、
『不可得であり!』、
『世間の集諦を観る!』が故に、
『散』は、
『不可得である!』。
是れ等のような、
『義』の故に、こう知らねばならない、――
『集、散が不可得なのに!』、
何故、
『菩薩の字』を、
『作ることができるのか?』。
若し、
『強いて!』、
『名』を、
『為したとしても!』、
是の、
『名』には、
『住も、不住も!』、
『無いのである!』。
問曰。是名字何以故不住。 問うて曰く、是の名字は、何を以っての故にか、不住なる。
問い、
是の、
『名』は、
『何故、不住なのですか?』。
答曰。名字在法中住。法空故名字無住處。如車輪輞輻轂等和合故有車名。若散是和合則失車名。是車名非輪等中住。亦不離輪等中住。車名字一異中求皆不得。失車名字故。名字無住處。因緣散時尚無。何況因緣滅。眾生亦如是。色等五眾和合故有眾生字。若五眾離散名字無住處。五眾離散時尚無。何況無五眾。 答えて曰く、名字は、法中に在りて住すれば、法は空なるが故に名字には住処無し。車の輪、輞、輻、轂等の和合の故に車の名有り。若し、是の和合を散ずれば、則ち車の名を失うも、是の車の名は、輪等中に住するに非ず、亦た輪等を離れたる中に住するにもあらず。車の名字を一異中に求むれば、皆得ず。車の名字を失うが故に、名字には住処無きが如く、因緣散ずる時にすら尚お無し。何に況んや因緣の滅するをや。衆生も亦た是の如く、色等の五衆の和合の故に衆生の字有り。若し五衆離散すれば、名字には住処無し。五衆の離散する時にすら、尚お無し。何に況んや五衆無きをや。
答え、
『名字』は、
『法中に在って!』、
『住する!』が、
『法は、空である!』が故に、
『名字』には、
『住処が無い!』。
譬えば、
『車』には、
『輪、輞、輻、轂等の和合』の故に、
『車の名』が、
『有る!』が、
若し、
是の、
『和合が、散じれば!』、
『車の名』は、
『失われるのであり!』、
是の、
『車の名』は、
『輪等の法』中に、
『住するのでもなく!』、
亦た、
『輪等の法を離れた!』中に、
『住するのでもない!』。
『車の名字』を、
『一、異中に求めても!』、
『皆、得られず!』、
『車の名字を失う!』が故に、
『車の名字』には、
『住処が無いように!』、
『名字』は、
尚お、
『因緣の散じる!』時にすら、
『無いのであり!』、
況して、
『因緣が滅すれば!』、
『尚おさらである!』。
『衆生』も、
是のように、
『色等の五衆の和合』の故に、
『衆生の字』が、
『有る!』が、
若し、
『五衆が離散すれば!』、
『名字』には、
『住処が無いのであり!』、
尚お、
『五衆が離散する!』時にすら、
『住処』が、
『無いのである!』から、
況して、
『五衆が無ければ!』、
『尚更である!』。
  (ざい):~に。於に同じ。
  (もう):おおわ。車輪の外周をつつむわ。牙、牙囲とも云う。
  (ふく):や。車のや。輞と轂をつなぐ部材。
  (こく):こしき。車輪の中心にあり、輻を集め、車軸を其の中心に貫いておるもの。
  (りん):車のわ。中央に轂があり、外周に牙(輞)があって轂と牙とを輻で結び、轂の中央に孔を穿って車軸をさし入れて車を転進させる具。古は牙囲の径は六尺六寸、輻は三十本であった。
問曰。若散時名字不可得。和合未散時則有名字。何以言不可得。 問うて曰く、若し散ずる時の名字が不可得ならば、和合の未だ散ぜざる時は、則ち名字有らん。何を以ってか、不可得と言う。
問い、
若し、
『散じる!』時に、
『名字』が、
『不可得ならば!』、
『和合が、未だ散じない!』時には、
『名字』が、
『有るはずである!』のに、
何故、
『不可得』と、
『言うのか?』。
答曰。是菩薩名字一。五眾則有五。一不作五五不作一。若五作一如五匹物不得為一匹用。若一作五如一匹物不得為五匹用。以是故一菩薩字不得五眾中住。 答えて曰く、是の菩薩の名字は一なるに、五衆は則ち五有り。一は五に作らず、五は一に作らず。若し五が一と作れば、五匹の物を、一匹の為めに用うるを得ざるが如し。若し一が五と作れば、一匹の物を五匹の為めに用うるを得ざるが如し。是を以っての故に一菩薩の字は、五衆中に住するを得ず。
答え、
是の、
『菩薩という!』、
『名字』は、
『一である!』のに、
『五衆』には、
『五』が、
『有る!』が、
『一』は、
『五』に、
『作らず!』、
『五』は、
『一』と、
『作らないからである!』。
若し、
『五が、一と作れば!』、
譬えば、
『五匹の物(五頭の馬の荷物)』を、
『一匹の為め!』に、
『用いられないようなものである!』。
若し、
『一が、五と作れば!』、
譬えば、
『一匹の物』を、
『五匹の為め!』に、
『用いられないようなものである!』。
是の故に、
『一菩薩の字』は、
『五衆』中に、
『住することはできないのである!』。
  (ひき):反物や、布を数える量詞。馬、騾馬を数える量詞。
非不住者。若名字因緣和合無。則世俗語言眾事都滅。世諦無故第一義諦亦無。二諦無故諸法錯亂。 不住に非ずとは、若し名字の因緣の和合無ければ、則ち世俗の語言の衆事は、都て滅す。世諦無きが故に第一義諦も亦た無く、二諦無きが故に諸法錯乱す。
『不住でない!』とは、――
若し、
『名字の因緣の和合が、無ければ!』、
『世俗の語言の示す!』、
『衆事』は、
『都、滅することになり!』、
『世諦が無くなる!』が故に、
『第一義諦』も、
『無くなり!』、
『二諦が無くなる!』が故に、
『諸法』が、
『錯乱するからである!』。
復次若因緣中有名字者。如說火則燒口。說有則塞口。若名字不在法中者。說火不應生火想。求火亦可得水。從久遠已來共傳名字故。因名則識事。以是故說名字義非住非不住。 復た次ぎに、若し因緣中に名字有れば、火と説けば、則ち口を焼き、有りと説けば、則ち口を塞ぐが如し。若し名字が法中に在らざれば、火と説けば、応に火想を生ずべからず。火を求むれば、亦た水を得べし。久遠より以来、共に名字を伝うるが故に、名に因りて、則ち事を識る。是を以っての故に説かく、『名字の義は、住に非ず、不住に非ず』、と。
復た次ぎに、
若し、
『名字』が、
『因緣』中に、
『有れば!』、
譬えば、
『火である、と説けば!』、
『口』を、
『焼くことになり!』、
『有る、と説けば!』、
『口』を、
『塞ぐことになる!』。
若し、
『名字』が、
『法』中に、
『無ければ!』、
譬えば、
『火である、と説いても!』、
『火想』を、
『生じるはずがなく!』、
『火を求めても!』、
『水』を、
『得るかもしれない!』。
久遠より、
『共に、名字を伝えてきた
people passed names on to next generations )!』が故に、
『名に因って( by a name )!』、
『事( the matter )』を、
『識る( to know )!』ので、
是の故に、こう説くのである、――
『名字の義』は、
『住でもなく!』、
『不住でもない!』、と。
  (そく):空隙を満たす/ふさぐ( fill )。
復次是中須菩提自說。因緣無所有故。是名字非住非不住。如菩薩名字五眾十二入十八界等諸法亦如是。 復た次ぎに、是の中に須菩提の自ら、因緣を説かく、『無所有なるが故に、是の名字は住に非ず、不住に非ず』、と。菩薩の名字の如く、五衆、十二入、十八界等の諸法も亦た是の如し。
復た次ぎに、
是の中に、
『須菩提』は、
自ら、
『因緣』を、こう説いている、――
『無所有である!』が故に、
是の、
『名字』は、
『住でもなく、不住でもなく!』、
亦た、
『菩薩の名字のように!』、
『五衆、十二入、十八界等の諸法』も、
『是の通りである!』、と。
問曰。如上來說。五眾諸法集散不可得。今何以復說五眾。 問うて曰く、上来、『五衆の諸法の集散は不可得なり』、と説けるが如きに、今は、何を以ってか、復た五衆を説く。
問い、
上来( at the beginning )、
『五衆の諸法の、集散は不可得である!』と、
『説かれている!』が、
今、何故、
『復た!』、
『五衆を説くのですか?』。
  上来(じょうらい):初の/冒頭の( at the beginning )。
答曰。上直說五眾。今說五眾如夢如幻。 答えて曰く、上は、直ちに五衆を説き、今は、五衆の夢の如く、幻の如きを説く。
答え、
上は、
『五衆』を、
『直だ、説くだけである!』が、
今は、
『五衆が、夢か幻のようだ!』と、
『説くのである!』。
復次有人謂。凡夫人五眾虛誑不實如夢。聖人五眾非是虛誑。以是故須菩提說。如夢如幻同皆不住。 復た次ぎに、有る人の謂わく、『凡夫人の五衆は虚誑、不実なること夢の如きなるも、聖人の五衆は、是れ虚誑なるに非ず』、と。是を以っての故に須菩提は、『夢の如く、幻の如きに同じく、皆不住なり』、と説けり』、と。
復た次ぎに、
有る人は、こう謂っている、――
『凡夫人の五衆』は、
『虚誑、不実であり!』、
『夢のようである!』が、
『聖人の五衆』は、
『虚誑ではない!』、と。
是の故に、
『須菩提』は、こう説いたのである!』、
『夢や、幻のように!』、
『凡夫も、聖人も同じく!』、
『皆、不住である!』、と。
問曰。十譬喻中何以但說五事。 問うて曰く、十譬喩中に、何を以ってか、但だ五事を説く。
問い、
『十譬喩』中に、
何故、
『但だ、五事(夢、響、影、焰、化)のみ!』を、
『説いたのですか?』。
  十譬喩(じゅうひゆ):諸法皆空の理を解せしめんが為に説ける十種の譬喩。即ち幻、焔、水中月、虚空、響、揵闥婆城、夢、影、鏡中像、化を云う。『大智度論巻6上注:十喩』参照。
答曰。若說十事無在。但以隨眾生心。說五喻事辯故不盡說。或以五眾故說五喻。餘法亦如是。 答えて曰く、若し、十事の在ること無きを説くは、但だ、衆生心に随うを以ってなり。五喻を説けば、事辯ずるが故に尽くを説かず。或は五衆を以っての故に五喻を説く。餘の法も亦た是の如し。
答え、
若し、
『十事には、在が無い( the ten things are not existent )!』と、
『説いたとしても!』、
但だ、
『衆生心』に、
『随っただけであり!』、
『五喻を、説けば!』、
『事は、辯じられる( all matters are argued )!』が故に、
『尽くは!』、
『説かなかったのである!』。
或は、
『五衆を説こうとした!』が故に、
『五喻』を、
『説いたのかもしれない!』が、
亦た、
『(五喻以外の)餘法であっても!』、
『同じことである!』。
離有二種。一者身離。二者心離。身離者。捨家恩愛世事等閑居靜處。心離者。於諸結使悉皆遠離。 離には二種有り、一には身の離、二には心の離なり。身の離とは、家、恩愛の世事等を捨てて、静処に閑居し、心の離とは、諸の結使に於いて、悉く皆遠離するなり。
『離には、二種有り!』、
一には、
『身』の、
『離であり!』、
二には、
『心』の、
『離である!』。
『身の離』とは、
『家や、恩愛や、世事等を捨てて!』、
『静処』に、
『閑居することであり!』、
『心の離』とは、
『諸の結使』を、
『悉く、皆!』、
『遠離することである!』。
復有二種離。一者諸法離名字。二者諸法各各離自相。此中說後二種離。所以者何。此中破名字故餘處自相離。小乘法中多說前二離。 復た、二種の離有り、一には諸法の名字を離れ、二には諸法の各各の自相を離る。此の中には後の二種の離を説く。所以は何んとなれば、此の中に、名字を破るが故に、余処も、自相を離るればなり。小乗の法中には多く、前の二離を説けり。
復た、
『二種の離が、有り!』、
一には、
『諸法』が、
『名字』を、
『離れることであり!』、
二には、
『諸法の各各が!』、
『自相』を、
『離れることである!』。
此の、
『般若波羅蜜』中には、
後の、
『二種の離』が、
『説かれている!』。
何故ならば、
此の中に、
『名字を破る!』が故に、
『余処(名字以外の諸法)』も、
『自相を離れるからである!』。
『小乗法』中には、
多くが、
『前の二種』を、
『説いている!』。
寂滅亦有二種。一者淳善相寂滅惡事。二者如涅槃寂滅相。觀世間諸法亦如是。此中但說後寂滅。 寂滅にも亦た二種有り、一には淳善の相、寂滅せる悪事なり、二には涅槃の如き寂滅の相なり。世間の諸法を観るも亦た是の如し。此の中には但だ、後の寂滅を説く。
『寂滅にも、二種有り!』、
一には、
『淳善の相( the mark of pure goodness )であり!』、
『寂滅した( faded out )!』、
『悪事であり!』、
二には、
『涅槃のように!』、
『寂滅した!』、
『相である!』が、
亦た、
『世間の諸法を観れば!』、
『是の通りなのである!』。
此の中には、
但だ、
『後の寂滅だけ!』が、
『説かれている!』。
不生亦有二種。一者未來無為法名不生。二者一切法實無生相。生不可得故此中但說後不生。 不生にも亦た二種有り、一には未来の無為の法を不生と名づけ、二には一切法は実に生相無し、生の不可得なるが故なり。此の中には但だ、後の不生を説く。
『不生にも、二種有り!』、
一には、
『未来の無為の法( a uncreated future dharma )』を、
『不生』と、
『称し!』、
二には、
『一切法』には、
『実に!』、
『生相が無いからである!』が、
何故ならば、
『生( something born )』が、
『不可得だからである!』。
此の中には、
但だ、
『後の不生』が、
『説かれるだけである!』。
  (しょう):梵語 jaati の訳、誕生/製造( birth, production )の義、誕生に従って定る(男とか動物等の)存在の形( the form of existence (as man, animal, etc.) fixed by birth )の意。
不滅有三種。智緣滅非智緣滅無常滅。此中說無常滅。與此相違故名不滅。 不滅には、三種有り、智縁滅、非智縁滅、無常滅なり。此の中には無常滅を説き、此れと相違するが故に不滅と名づく。
『滅には、三種有り!』、
『智縁滅( the cessation (of pain) attained by wisdom )と!』、
『非智縁滅( the cessation attained not by wisdom but by chance )と!』、
『無常滅( the cessation attained by knowing the non-eternity )である!』が、
此の中には、
但だ、
『無常滅のみ!』を、
『説き!』、
此れと、
『相違する!』が故に、
『不滅なのである!』。
  智縁滅(ちえんめつ):又択滅とも称す。智慧の揀択力に依りて得する滅諦涅槃を云う。『大智度論巻19上注:三無為、巻42上注:択滅、三種滅』参照。
  非智縁滅(ひちえんめつ):又非択滅とも称す。一説に智慧に依らず、生の縁を欠くに由り不生を得る相似の涅槃の如し。『大智度論巻15上注:非択滅、巻19上注:三無為、巻42上注:三種滅』参照。
  無常滅(むじょうめつ):諸行無常に由り、諸法の性の自ら滅なるを云う。『大智度論巻42上注:三種滅』参照。
  択滅(じゃくめつ):梵語pratisaMkhyaa-nirodhaの訳。又数滅、或いは智縁滅とも名づく。七十五法の一、百法の一。無為法の一種にして、即ち慧の揀択力に依りて得する滅諦涅槃を云う。「大毘婆沙論巻31」に、「云何が択滅なる。答う、諸滅は是れ離繋なり。謂わく諸法の滅に亦た離繋を得す、離繋得を得する是れを択滅と名づく。(中略)何故に択滅と名づくるや、答う、択とは謂わく慧なり、滅は是れ彼の果なり。択所得の滅なるが故に択滅と名づく」と云い、「倶舎論巻1」に、「択滅は即ち離繋を以って性と為す。諸の有漏法は繋縛を遠離し、解脱を証得するを名づけて択滅と為す。択は謂わく揀択にして、即ち慧の差別なり。各別に四聖諦を揀択するが故なり。択力所得の滅を名づけて択滅と為す。牛の駕する所の車を名づけて牛車と曰うが如し。中言を略去するが故に是の説を作す」と云える是れなり。是れ慧を以って四聖諦の理を揀択し、煩悩を断ずる時、諸の有漏法は繋縛を離れ、之に対して離繋を得するを択滅と名づけたるなり。蓋し凡夫は無始以来煩悩を有するが故に、彼の一切の有漏法は煩悩の為に繋縛せらる。今慧の択力によりて煩悩を断ずる時、彼の有漏法は即ち繋縛を離るるが故に之を滅と名づけ、彼の滅に於いて離繋を得するを解脱を証得すとなすなり。「大毘婆沙論巻31」に、「諸の有漏法は無始時来、煩悩に繋せられて解脱を得ず。若し煩悩を断ぜば彼れ繋を離るるが故に便ち解脱を得。人の縛せられて後解脱する時、人を解脱と名づけ、縄等を謂うに非ざるが如し。既に所繋に於いて解脱を証得す、故に外物の中に亦た解脱を得るなり」と云える即ち其の意なり。其の一体多体に関しては、「大毘婆沙論巻31」に一物、二物、五物、十一物、三十五物、八十九物等の諸説を挙げ、其の下に之を許し「応に此の説を作すべし、有漏法に爾の所の体あるに随って択滅も亦た爾り。所繋の事体に随って爾の所の離繋あり、亦た爾の所の体あるが故なり」と云い、又前引「倶舎論巻1」の連文に、「一切の有漏法は同一択滅なりや、爾らず。云何、繋の事に随って別なり。謂わく繋の事の量に随って離繋の事も亦た爾り。若し爾らずんば見苦所断の煩悩の滅を証する時に於いて、応に一切所断の諸の煩悩の滅を証すべし。若し是の如くならば、余の対治を修するは則ち無用となるべし」と云えり。是れ一切の有漏法は一一皆煩悩の為に繋縛せられ、而して択滅は即ち其の離繋に名づけたるものなるが故に、択滅の数は所繋縛の有漏法の数に等しきことを顕わすの意なり。又説一切有部に於いては、択滅は常住実有にして、三性の中には善に摂すとなすも、経部等に於いては之を仮立とし、又其の解釈も今と大いに異なる所あり。「倶舎論巻6」に、「此の法の自性は実有なるも離言なり。唯諸の聖者の各別の内証なり。但し方便して総相に説きて是れ善是れ常なり、別に実物あるを名づけて択滅と為し、亦た離繋と名づくと言うべし。経部師説く、一切の無為は、皆実有なること色受等の別に実物あるが如くには非ず。此れ所無なるが故なり。(中略)已起の随眠の生種滅する位に、揀択力に由りて余更に生ぜざるを説いて択滅と名づくと。(中略)余部の師説く、慧の功能に由りて随眠生ぜざるを名づけて択滅と為すと」と云えり。之に依るに経部等に於いては、揀択力に由りて随眠をして生ぜざらしむるを択滅と名づけたるを知るべし。又「成唯識論巻1」にも、「簡択力に由りて諸の雑染を滅し、究竟じて証会するが故に択滅と名づく」と云い、又「同巻10」に、「択滅に二あり、一に滅縛得、謂わく生を感ずる煩悩を断じて得する者なり。二に滅障得、謂わく余障を断じて証得する者なり。故に四の円寂は、諸の無為の中に初の一は即ち真如、後の三は皆択滅なり」と云えり。此の中、滅縛得とは煩悩障を断じて得する択滅を云い、滅障得とは縛に非ざる所知障等を断じて得する択滅を云う。性浄、有余、無余、無住処の四種涅槃の中、性浄涅槃は真如にして即ち択滅の摂に非ず、余の三は総じて択滅に摂し、就中、無住処涅槃は其の体亦た真如なりと雖も、真の択力に由りて余障を滅し、証得するものなるが故に之を択滅に摂すとし、真如と択滅を区別し、択滅を施設有にして実有に非ずとなすなり。又「品類足論巻1」、「大毘婆沙論巻32」、「雑阿毘曇心論巻9」、「大智度論巻42」、「瑜伽師地論巻3」、「顕揚聖教論巻1、巻18」、「入阿毘達磨論巻下」、「順正理論巻1」、「異部宗輪論」、「彰所知論巻下無為法品」、「大乗義章巻2」、「百論疏巻下之中」、「倶舎論光記巻1、巻6」、「成唯識論述記巻2末、巻10末」等に出づ。<(望)
  三種滅(さんしゅめつ):(一)有為無為の滅に総じて三種あるの意。一に択滅pratisaMkhyaa-nirodha、二に非択滅apratisaMkyhaa-nirodha、三に無常滅anitiya-nirodhaなり。「発智論巻2」に、「云何が択滅なる、答う、諸滅の是れ離繋なるもの。云何が非択滅なる、答う、諸滅の離繋に非ざるもの。云何が無常滅なる、答う、諸行の散壊破没亡退なり」と云える是れなり。蓋し説一切有部の正義は、二滅は是れ無為、無常滅は是れ有為にして共に実体ありとなせるも、譬喩者は三種の滅は実に体あるに非ずとし、分別論者は三皆無為なりとなせり。又「大毘婆沙論巻31」等に出づ。(二)有為法の滅に三種あるの意。一に念念滅、二に相違滅、三に無余滅なり。「四諦論巻3」に依るに、一切有為法の刹那に随って謝することを念念滅と名づけ、刹那相続して滅すれども、其の性前後相乖くを相違滅と名づけ、灯火の滅するが如く、滅して余なきを無余滅と名づくと云えり。又「順中論巻下」所説の三種の無常も亦た此の意に同じきが如し。三種の無常とは、一に念念壊滅無常、二に和合離散無常、三に畢竟如是無常なり。(三)断惑の道に三種の滅あるの意。一に未有滅、二に伏離滅、三に永離滅なり。未有滅とは、惑の未だ生ぜず未だ地を縁ずることを得ざるを云い、伏離滅とは、惑已に生じ已に地を縁ずることを得るも、世出世の道由りて現時に起らざるを云い、永離滅とは、惑已に伏して滅因を離れ、滅余なきが故に未来に決して生ぜざるを云うなり。「四諦論巻3」等に出づ。(四)滅諦の滅に三種あるの意。一に自性滅、二に二取滅、三に本性滅なり。「辯中辺論巻中」に、「滅諦の三とは、一に自性滅なり、謂わく自性不生なるが故なり。二に二取滅なり、謂わく所取と能取と二不生なるが故なり。三に本性滅なり、謂わく垢の寂に二あり、即ち択滅及び真如なり」と云える是れなり。此の中、自性滅とは、偏計所執の自性は仮名にして不生なるを云い、二取滅とは、依他起の所取能取の相は仮にして本と不生なるを云い、本性滅とは、択滅及び真如の体は本来寂滅なるを云うなり。又「成唯識論巻8」、「同述記巻8本」、「辯中辺論述記巻中」等に出づ。<(望)
不示者一切諸觀滅。語言道斷故無法可示。是法如。是相若有若無若常若無常等。不垢不淨。如法性實際法相法位義如先說。 不示とは、一切の諸観滅し、語言の道断ずるが故に、『是の法は是の如き相なり、若しは有なり、若しは無なり、若しは常なり、若しは無常なり等』、と示すべき法無し。不垢不浄、如、法性、実際、法相、法位の義は、先に説けるが如し。
『不示』とは、
『一切の諸観が滅して、語言の道が断じた!』が故に、
『是の法は、是のような相であり、有である、無、常、無常である!』等と、
『示すべき!』、
『法が無いからである!』。
『不垢不浄、如、法性、実際、法相、法位の義』は、
『先に!』、
『説いた通りである!』。
問曰。五眾法有集散。與此相違故言不集不散。如法性實際等無相違故。云何言不集不散。 問うて曰く、五衆の法には、集散有れば、此れと相違するが故に不集不散と言うも、如、法性、実際等には、相違無きが故に、云何が、不集不散と言う。
問い、
『五衆の法には、集散が有る!』ので、
此れと、
『相違する!』が故に、
『不集不散』と、
『言うのである!』が、
『如、法性、実際』等には、
『相違する法が、無い!』が故に、
何故、
『不集不散』と、
『言うのですか?』。
答曰。行者得如法性等故名為集。失故名為散。如虛空雖無集無散。鑿戶牖名為集。塞故名為散。善不善乃至十方如恒河沙等諸佛義如先說。是諸佛法及佛名字無所依止故。皆空不住非不住 答えて曰く、行者は如、法性等を得るが故に名づけて、集と為し、失うが故に名づけて、散と為す。虚空の如きには集無く、散無しと雖も、戸牖を鑿(うが)つを名づけて集と為し、塞ぐが故に名づけて、散と為す。善、不善、乃至十方の恒河沙に等しきが如き諸仏の義は、先に説けるが如し。是の諸仏の法、及び仏の名字には、依止する所無きが故に、皆空なれば、不住、非不住なり。
答え、
『行者』が、
『如、法性等を得る!』が故に、
『集( collection )』と、
『称し!』、
『失う!』が故に、
『散( dispersion )』と、
『称する!』。
譬えば、
『虚空には集も、散も無い!』が、
『戸牖を鑿つ( to bore a window in a wall )!』のを、
『集』と、
『称し!』、
『塞ぐ!』が故に、
『散』と、
『称するようなものである!』。
『善、不善、乃至十方の恒河沙に等しいほどの諸仏の義』は、
『先に!』、
『説いた通りであり!』、
是の、
『諸仏の法も、仏の名字も!』、
『依止する所が無いが故に、皆空であり!』、
『住でもなく!』、
『不住でもない!』。
  戸牖(こゆ):出入り口と窓。牖は壁に穿った窓。
  (さく):ノミ( chisel )。穴を穿つ( to bore a hole in something )。



【經】菩薩とは名字である

【經】世尊。諸法因緣和合假名施設。所謂菩薩是名字於五受陰中不可說。十二入十八界乃至十八不共法中不可說。於和合法中亦不可說。 世尊、諸法は因緣和合の仮名の施設なり。謂わゆる菩薩は、是れ名字にして、五受陰中に於いて説くべからず、十二入、十八界、乃至十八不共法中に説くべからず。和合の法中に於いても亦た説くべからず。
世尊!
『諸法』は、
『因緣の和合であり!』、
『仮名の施設です( being nominally established )!』。
謂わゆる、
『菩薩とは、名字であり!』、
『五受陰』中に、
『説くことができず( cannot be explained )!』、
亦た、
『十二入、十八界乃至十八不共法』中にも、
『説くことができず!』、
亦た、
『和合した法( united dharmas )』中にも、
『説くことはできません!』。
  仮名施設(けみょうのしせつ):梵語 prajJapti の訳、契約( an agreement, a promise or contract with somebody )の義、名目上の施設( nominally established )の意。
  参考:『大般若経巻37』:『世尊。諸法因緣和合。施設假名。菩薩摩訶薩及般若波羅蜜多。此二假名。於五蘊不可說。於十二處十八界六界四聖諦十二緣起不可說。於貪瞋癡一切纏結隨眠見趣不善根等不可說。於四靜慮四無量四無色定不可說。於五眼六神通不可說。於我有情乃至知者見者不可說。於十隨念十想不可說。於空無相無願六波羅蜜多不可說。於四念住乃至八聖道支不可說。於佛十力乃至一切相智不可說。於如幻乃至如變化事五取蘊等不可說。於寂靜遠離無生無滅無染無淨絕諸戲論真如法界法性實際平等性離生性不可說。於常無常乃至屬生死涅槃法不可說。於過去未來現在乃至在內在外在兩間法不可說。於十方殑伽沙等世界若佛若菩薩若聲聞僧等不可說。何以故。如上所說諸法集散。皆不可得不可見故』
世尊。譬如夢於諸法中不可說。響影焰化於諸法中亦不可說。譬如名虛空。亦無法中可說。 世尊、譬えば夢は諸法中に説くべからず、響、影、焰、化は諸法中に於いて亦た説くべからざるが如く、譬えば、虚空と名づくるも、亦た法中に説くべき無きが如し。
世尊!
譬えば、
『夢』が、
『諸法』中に、
『説くことができず!』、
『響、影、焰、化』が、
『諸法』中に、
『説くことができないようなものであり!』、
譬えば、
『虚空と称しながら!』、
『法中に、説かれる!』者が、
『無いようなものです!』。
世尊。如地水火風名。亦無法中可說。戒三昧智慧解脫解脫知見名。亦無法中可說。如須陀洹名字。乃至阿羅漢辟支佛名字。亦無法中可說。如佛名法名。亦無法中可說。所謂若善若不善若常若無常。若苦若樂若我若無我。若寂滅若離若有若無。 世尊、地水火風の名の如きも、亦た法中に説くべき無く、戒、三昧、智慧、解脱、解脱知見の名も、亦た法中に説くべき無く、須陀洹の名字、乃至阿羅漢、辟支仏の名字の如きも、亦た法中に説くべき無く、仏の名、法の名の如きも亦た法中に説くべき無し。謂わゆる若しは善、若しは不善、若しは常、若しは無常、若しは苦、若しは楽、若しは我、若しは無我、若しは寂滅、若しは離、若しは有、若しは無なり。
世尊!
例えば、
『地、水、火、風の名など!』も、
『法中に、説かれる!』者が、
『無く!』、
『戒、三昧、智慧、解脱、解脱知見の名など!』も、
『法中に、説かれる!』者が、
『無く!』、
『須陀洹、乃至阿羅漢、辟支仏の名字など!』も、
『法中に、説かれる!』者が、
『無く!』、
『仏や、法の名』も、
『法中に、説かれる!』者が、
『無いのです!』、
謂わゆる、
『法』とは、
『善不善、常無常、苦楽、我無我、寂滅、離、有無です!』。
世尊。我以是義故心悔。一切諸法集散相不可得。云何為菩薩作字言是菩薩。 世尊、我れは是の義を以っての故に心に悔ゆるらく、一切の諸法の集散の相は不可得なるに、云何が菩薩の為めに字を作りて、是れ菩薩なりと言える。
世尊!
わたしは、
是の、
『義』の故に、
『心に、悔いています!』――
『一切の諸法』は、
『集、散の相』が、
『不可得なのに!』、
何故、
『菩薩の為めに、字を作り!』、
『是れが菩薩である、と言ったのか?』、と。
世尊。是字不住亦不不住。何以故。是字無所有故。以是故是字不住亦不不住。 世尊、是の字は住にあらず、亦た不住にあらず。何を以っての故に、是の字は無所有なるが故なり。是を以っての故に是の字は住にあらず、亦た不住にあらず。
世尊!
是の、
『字』は、
『住でもなく!』、
『不住でもない!』。
何故ならば、
是の、
『字』は、
『無所有だからであり!』、
是の故に、
是の、
『字』は、
『住でも、不住でもないのです!』。
若菩薩摩訶薩聞作是說般若波羅蜜如是相如是義。心不沒不悔不驚不畏不怖。當知是菩薩必住阿鞞跋致性中。住不住法故 若し菩薩摩訶薩、般若波羅蜜は是の如き相、是の如き義なりと、是の説を作すを聞いて、心没せず、悔いず、驚かず、畏れず、畏れざれば、当に知るべし、是の菩薩は、必ず阿毘跋致性中に住す、不住法に住するが故なり。
若し、
『菩薩摩訶薩』が、
是のように、
『般若波羅蜜とは、是のような相、是のような義である!』と、
『説かれる!』のを、
『聞きながら!』、
『心』が、
『没することもなく、悔ゆることもなく!』、
『驚くことも、畏れることも、怖れることもなければ!』、
当然、こう知るべきです、――
是の、
『菩薩は、必ず!』、
『阿毘跋致性』中に、
『住す!』、
何故ならば、
『不住法中に( in the dharma teaching non-staying)!』、
『住するからである( to stay )!』、と。



【論】菩薩とは名字である

【論】釋曰。上來非住非不住門。破菩薩名字及諸法。今以異門破菩薩名字。無法可說為菩薩。 釈して曰く、上来の非住非不住の門は、菩薩の名字及び諸法を破り、今は異門を以って、菩薩の名字を破るらく、『法の、菩薩と為すと説くべき無し』、と。
釈す、
上来に、
『非住非不住の門を用いて!』、
『菩薩の名字や、諸法』を、
『破った!』ので、
今は、
『異門を用いて!』、
『菩薩の名字』を、
『破った!』。
謂わゆる、
『菩薩である、と説けるような!』、
『法』は、
『無いのである!』。
何以故。菩薩非是五眾。五眾非是菩薩。五眾中無菩薩。菩薩中無五眾。五眾不屬菩薩。菩薩不屬五眾離五眾無菩薩。離菩薩無五眾。如是菩薩名字不可得。當知是空乃至十八不共法亦如是。 何を以っての故に、菩薩は、是れ五衆に非ず、五衆は是れ菩薩に非ず。五衆中に菩薩無く、菩薩中に五衆無し。五衆は菩薩に属せず、菩薩は五衆に属せず。五衆を離れて菩薩無く、菩薩を離れて五衆無ければなり。是の如く菩薩の名字は不可得なれば、当に知るべし、是れ空なり、と。乃至十八不共法も亦た是の如し。
何故ならば、
『菩薩は、五衆でなく!』、
『五衆』は、
『菩薩でないからであり!』、
『五衆中に、菩薩は無く!』、
『菩薩』中に、
『五衆は無く!』、
『五衆は、菩薩に属さず!』、
『菩薩』は、
『五衆に属さず!』、
『五衆を離れて、菩薩は無く!』、
『菩薩を離れて!』、
『五衆は無いからである!』が、
是のように、
『菩薩の名字が、不可得ならば!』、
是の、
『名字は、空である!』と、
『知ることになり!』、
乃至、
『十八不共法』も、
『是の通りなのである!』。
譬如夢中有所見。皆是虛妄不可說。此夢中無有定法相。所謂五眾十二入十八界。但有誑心。餘影響焰化亦如是但誑耳目。 譬えば夢中に所見有るも、皆是れ虚妄にして説くべからず、此の夢中には、定たる法、相有ること無きが如し。謂わゆる五衆、十二入、十八界は、但だ心を誑すもの有るのみ。餘の影、響、焰、化も亦た是の如く、但だ耳目を誑すのみ。
譬えば、
『夢中に有る!』、
『所見』は、
『皆、虚妄であって!』、
『説くことができない!』のは、
此の、
『夢』中には、
『定った法、相』が、
『無いからであるように!』、
謂わゆる、
『五衆、十二入、十八界』は、
但だ、
『心を誑す!』者が、
『有るだけであり!』、
亦た、
『餘の影、響、焰、化』も、
是のように、
『但だ、耳目を誑すだけである!』。
如虛空一切法中不可說。無相故。虛空與色相違故不得說名為色。色盡處亦非虛空。更無別法故。若謂入出為虛空相。是事不然。是身業非虛空相。若無相則無法。以是故虛空但有名字。菩薩名字亦如是。 虚空を、一切法中に説くべからざるは、無相なるが故なるが如きは、虚空は色と相違するが故に、『名づけて、色と為す』、と説くを得ず。色の尽くる処も亦た虚空に非ず、更に別法無きが故なり。若し入出を謂いて、虚空の相と為せば、是の事は然らず。是れ身業にして、虚空の相に非ず。若し無相なれば、則ち無法なり。是を以っての故に虚空には、但だ名字有り。菩薩の名字も亦た是の如し。
例えば、
『虚空』が、
『一切法中に説くことができない!』のは、
『相』が、
『無いからであり!』、
『虚空』は、
『色と相違する!』が故に、
『色である!』と、
『説くことができないからである!』。
『色の尽きた!』、
『処が、虚空でない!』のは、
更に( another )、
『別法( distinguishable dharma )』が、
『無いからである!』。
若し、
『入出が虚空の相である、と謂えば!』、
是の、
『事』は、
『然うでない( be false )!』。
是れは、
『身業であって!』、
『虚空の相でないからである!』。
若し、
『相が無ければ!』、
則ち、
『法』も、
『無いことになる!』。
是の故に、
『虚空』には、
但だ、
『名字』が、
『有るだけである!』。
亦た、
『菩薩の名字』も、
『是の通りである!』。
問曰。如夢虛空等可但有名字。云何地水火風實法亦但有名字。 問うて曰く、夢、虚空等の如きは、但だ、名字有るべきも、云何が、地水火風の実法も亦た但だ名字有るや。
問い、
例えば、
『夢、虚空』等は、
但だ、
『名字』が、
『有るだけだろうが!』、
何故、
『地水火風等の実法』も、
但だ、
『名字』が、
『有るだけなのか?』。
答曰。無智人謂地等諸物以為實。聖人慧眼觀之。皆是虛誑。 答えて曰く、無智の人は、『地等の諸物を以って、実と為す』、と謂うも、聖人の慧眼もて之を観れば、皆是れ虚誑なり。
答え、
『無智の人』は、
『地等の諸物は、実である!』と、
『謂う!』が、
『聖人の慧眼が観れば!』、
『皆!』、
『虚誑だからである!』。
譬如小兒見鏡中像以為實。歡喜欲取謂為真實。大人觀之但誑惑人眼。諸凡夫人見微塵和合成地謂為實地。餘有天眼者散此地但見微塵。慧眼分別破散此地都不可得。 譬えば小児は、鏡中の像を見て、以って実と為し、歓喜して取らんと欲し、謂いて真実と為すも、大人、之を観れば、但だ人の眼を誑惑するのみなるが如く、諸の凡夫人は微塵和合して成ずる地を見て、謂いて実と地と為すも、餘の天眼を有する者は、此の地を散じて、但だ微塵を見るのみ。慧眼分別して、此の地を破散すれば、都て不可得なり。
譬えば、
『小児』は、
『鏡』中に、
『像を見て!』、
『実だと思い!』、
『歓喜して、取ろうとし!』、
『真実だ!』と、
『謂う!』が、
『大人』は、
之は、
『但だ、人の眼を誑惑するだけだ!』と、
『観るようなものである!』。
『諸の凡夫人』は、
『微塵が和合して成じた!』、
『地』を、
『観て!』、
是れは、
『実の地である!』と、
『謂う!』が、
『餘の天眼を有する!』者は、
此の、
『地』を、
『散じて( to disperse )!』、
但だ、
『微塵』を、
『観るだけである!』が、
『慧眼で分別して!』、
此の、
『地』を、
『破散すれば( to break up and disperse )!』、
此の、
『地や、微塵』は、
『都、不可得なのである!』。
復次初品論中種種破身相。如身破地亦破。 復た次ぎに、初品の論中に、種種に身相を破るに、身の破るるが如く、地も亦た破るるなり。
復た次ぎに、
『初品の論』中に、
『種種に、身相を破った!』が、
『身相』が、
『破れたように!』、
亦た、
『地』も、
『破れるのである!』。
復次若地是實。云何一切火觀時皆是火。若以禪定觀為實。佛說一切法空為虛妄。但是事不然。水火風亦如是。 復た次ぎに、若し地は、是れ実なれば、云何が一切火観の時、皆是れ火なる。若し禅定を以って観るを、実と為せば、仏は、『一切法は空にして、虚妄と為す』、と説きたまえるも、但だ是の事は、然らざらん。水火風も亦た是の如し。
復た次ぎに、
若し、
『地が、実ならば!』、
何故、
『一切火観する!』時に、
『皆が!』、
『火なのか?』。
若し、
『禅定を用いて!』、
『実である!』と、
『観れば!』、
『仏』は、
『一切法は空であり、虚妄である!』と、
『説かれている!』が、
是の、
『事』は、
『然うでないとなる!』。
亦た、
『水火風』も、
『是の通りである!』。
  一切火観(いっさいかかん):十一切処/十遍処中の観法。一切処は皆火なりと観じて解脱する観法。『大智度論巻11上注:十遍処』参照。
如四大為身本猶尚爾。何況身所作持戒等諸業而不空。如戒等麤業尚空。何況禪定智慧解脫解脫知見等而不空。若戒等五眾空者。何況是因緣得諸聖道果而不空。若聖道果空者。何況須陀洹人乃至佛而不空。 四大の如き、身の本と為すすら、猶尚お爾り。何に況んや身の所作の持戒等の諸業にして、空ならざるをや。戒等の如き麁業すら尚お空なり。何に況んや禅定、智慧、解脱、解脱知見等にして空ならざるをや。若し戒等の五衆にして空なれば、何に況んや是の因縁もて得る諸の聖道の果にして空ならざるをや。若し聖道の果にして空なれば、何に況んや、須陀洹の人、乃至仏にして空ならざるをや。
『四大のような!』、
『身の本ですら!』、
猶尚お( yet )、
『爾うである( be empty )!』。
況して、
『身の所作である!』、
『持戒等の諸業』が、
『空でないはずがない!』。
『戒等のような!』、
『麁業すら!』、
尚お、
『空である!』。
況して、
『禅定、智慧、解脱、解脱知見』等が、
『空でないはずがない!』。
若し、
『戒等の五衆が、空ならば!』、
況して、
是の、
『因縁で得た、諸の聖道の果』が、
『空でないはずがない!』。
若し、
『聖道の果が、空ならば!』、
況して、
『須陀洹の人や、仏』が、
『空でないはずがない!』。
以是故菩薩名字雖善法乃至有無法中。出不名為善。乃至不名為有無集散不可得故。 是を以っての故に、菩薩の名字は善法なりと雖も、乃至有無の法中より出づれば、名づけて善と為さず、乃至名づけて有無と為さず、集散の不可得なるが故なり。
 是の故に、
『菩薩の名字は、善法である!』が、
乃至、
『有、無の法中を出た!』者を、
『善』と、
『称することはなく!』、
乃至、
『有、無』と、
『称することもない!』。
何故ならば、
『集、散』が、
『不可得だからである!』。
須菩提知空相如是。云何說名菩薩為說般若波羅蜜。若菩薩聞是不恐不畏。則是阿鞞跋致性中住。以如不住法住故。 須菩提は、空相の是の如きを知るに、云何が説かく、『菩薩を名づけて、般若波羅蜜を説くと為す。若し菩薩、是れを聞いて恐れず、畏れざれば、則ち是れ阿毘跋致の性中に住するなり。不住法の如く住するを以っての故なり』、と。
『須菩提』は、
『空相とは、是のようである!』と、
『知りながら!』、
何故、こう説いたのか?――
『菩薩』とは、
『般若波羅蜜』を、
『説くということである!』が、
若し、
『菩薩』が、
是れを、
『聞いて!』、
『恐れることも、畏れることもなければ!』、
是れは、
『阿毘跋致の性』中に、
『住するからである!』。
何故ならば、
『不住法の如く( with the dharma teaching non-staying )!』に、
『住するからである!』。
阿鞞跋致性者。是菩薩未得無生法忍。未從諸佛授記。但福德智慧力故。能信樂諸法畢竟空。是名阿鞞跋致性中住得阿鞞跋致氣分故。如小兒在貴姓中生。雖未成事以姓貴故便貴 阿毘跋致の性とは、是の菩薩は、未だ無生法忍を得ず、未だ諸仏より授記せず、但だ福徳の智慧の力の故に、能く諸法の畢竟空を信楽し、是れを阿毘跋致の性中に住すと名づく。阿毘跋致の気分を得るが故なり。小児の貴姓中に生ずれば、未だ事を成ぜずと雖も、姓の貴きを以っての故に便ち貴ばるるが如し。
『阿毘跋致の性』とは、
是の、
『菩薩』は、
未だ、
『無生法忍を得ず、諸仏より授記されていない!』が、
但だ、
『福徳の智慧の力』の故に、
『諸法が畢竟空であること!』を、
『信楽することができる( to believe in )!』ので、
是れを、
『阿毘跋致の性中に住する!』と、
『称する!』。
何故ならば、
『阿毘跋致の気分』を、
『得たからである!』。
譬えば、
『小児であっても!』、
『貴姓中に生じれば!』、
『未だ、事を成すことがなくても!』、
『姓が、貴である!』が故に、
『便ち( smoothly )、貴ばれるようなものである!』。
  信楽(しんぎょう):梵語 pra√(sad), abhiprasanna の訳、~に制圧される( to fall into the power of )の義、~に満足する/~を信じる( to become satisfied, to believe in )の意。



【經】菩薩は、諸法中に住しない

【經】復次世尊。菩薩摩訶薩欲行般若波羅蜜。色中不應住。受想行識中不應住。眼耳鼻舌身意中不應住。色聲香味觸法中不應住。眼識乃至意識中不應住。眼觸乃至意觸中不應住。眼觸因緣生受乃至意觸因緣生受中不應住。地種水火風空識種中不應住。無明乃至老死中不應住。 復た次ぎに、世尊、菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行ぜんと欲すれば、色中に応に住すべからず、受想行識中に応に住すべからず、眼耳鼻舌身意中に応に住すべからず、色声香味触法中に応に住すべからず、眼識乃至意識中に応に住すべからず、眼触乃至意触中に応に住すべからず、眼触因縁生の受、乃至意触因縁生の受中に応に住すべからず、地種水火風空識種中に応に住すべからず、無明乃至老死中に応に住すべからず。
復た次ぎに、
世尊!
『菩薩摩訶薩が、般若波羅蜜を行じようとすれば!』、
当然、
『色や、受想行識や、眼耳鼻舌身意や、色声香味触法』中に、
『住してはならず!』、
当然、
『眼識乃至意識や、眼触乃至意触、眼触因縁生の受乃至意触因縁生の受』中に、
『住してはならず!』、
当然、
『地種や、水火風空識種、無明乃至老死』中に、
『住してはなりません!』。
  参考:『大般若経巻37』:『爾時具壽善現復白佛言。世尊。修行般若波羅蜜多諸菩薩摩訶薩。不應住色。不應住受想行識。何以故。世尊。色色性空。受想行識受想行識性空。世尊。是色非色空。是色空非色。色不離空。空不離色。色即是空。空即是色。受想行識亦復如是。是故世尊。修行般若波羅蜜多諸菩薩摩訶薩。不應住色。不應住受想行識。世尊。修行般若波羅蜜多諸菩薩摩訶薩。不應住眼處。不應住耳鼻舌身意處。何以故。世尊。眼處眼處性空。乃至意處意處性空。世尊。是眼處非眼處空。是眼處空非眼處。眼處不離空。空不離眼處。眼處即是空。空即是眼處。耳鼻舌身意處亦復如是。是故世尊。修行般若波羅蜜多諸菩薩摩訶薩。不應住眼處。乃至不應住意處。』
何以故。世尊。色色相空。受想行識識相空。 何を以っての故に、世尊、色の色相は空、受想行識の識相は空なればなり。
何故ならば、
世尊!
『色』の、
『色相』は、
『空であり!』、
『受想行識』の、
『識相』は、
『空だからです!』。
世尊。色空不名為色。離空亦無色。色即是空空即是色。受想行識空不名為識。離空亦無識。識即是空空即是識。乃至老死老死相空。 世尊、色の空を名づけて、色と為さず、空を離れて亦た色無く、色は即ち是れ空、空は即ち是れ色、受想行識の空を名づけて、識と為さず、空を離れて亦た識無く、識は即ち是れ空、空は即ち是れ識、乃至老死の老死の相は空なればなり。
世尊!
『色という!』、
『空』は、
『色と称されず!』、
『空を離れれば!』、
『色』は、
『無い!』ので、
『色とは、即ち空であり!』、
『空』は、
『即ち、色であり!』、
『受想行識という!』、
『空』は、
『識と称されず!』、
『空を離れれば!』、
『識』は、
『無く!』、
『識とは、即ち空であり!』、
『空』は、
『即ち、識であり!』、
乃至、
『老死』の、
『老死の相』は、
『空なのです!』。
世尊老死空不名為老死。離空亦無老死。老死即是空空即是老死。 世尊、老死の空は、名づけて老死と為さず、空を離れて亦た老死無く、老死は即ち是れ空、空は即ち是れ老死なり。
世尊!
『老死という!』、
『空』は、
『老死と称されず!』、
『空を離れて!』、
『老死』は、
『無い!』ので、
『老死とは、即ち空であり!』、
『空』は、
『即ち、老死なのです!』。
世尊。以是因緣故。菩薩摩訶薩欲行般若波羅蜜。不應色中住。乃至老死中亦不應住。 世尊、是の因縁を以っての故に、菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行ぜんと欲せば、応に色中に住すべからず、乃至老死中にも亦た応に住すべからず。
世尊!
是の因縁の故に、
『菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行じようとすれば!』、
当然、
『色』中に、
『住してはならず!』、
乃至、
『老死』中にも、
『住してはならないのです!』。
復次世尊。菩薩摩訶薩欲行般若波羅蜜。四念處中不應住。何以故。四念處四念處相空。 復た次ぎに、世尊、菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行ぜんと欲せば、四念処中に応に住すべからず。何を以っての故に、四念処の四念処相は、空なればなり。
復た次ぎに、
世尊!
『菩薩摩訶薩が、般若波羅蜜を行じようとすれば!』、
当然、
『四念処』中に、
『住してはなりません!』。
何故ならば、
『四念処の四念処相』は、
『空だからです!』。
世尊。四念處空不名為四念處。離空亦無四念處。四念處即是空空即是四念處。乃至十八不共法亦如是。 世尊、四念処の空を名づけて、四念処と為さず。空を離れて亦た四念処無く、四念処は即ち是れ空、空は即ち是れ四念処なり。乃至十八不共法も亦た是の如し。
世尊!
『四念処という!』、
『空』は、
『四念処と称されない!』が、
『空を離れて!』、
『四念処』は、
『無い!』ので、
『四念処とは、即ち空であり!』、
『空』は、
『四念処なのであり!』、
乃至、
『十八不共法』も、
『是の通りなのです!』。
世尊以是因緣故。菩薩摩訶薩欲行般若波羅蜜。四念處乃至十八不共法中不應住。 世尊、是の因縁を以っての故に、菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行ぜんと欲せば、四念処、乃至十八不共法中に、応に住すべからず。
世尊!
是の因縁の故に、
『菩薩摩訶薩が、般若波羅蜜を行じようとすれば!』、
当然、
『四念処、乃至十八不共法』中に、
『住してはならないのです!』。
復次世尊。菩薩摩訶薩欲行般若波羅蜜。檀波羅蜜中不應住。尸羅波羅蜜羼提波羅蜜毘梨耶波羅蜜禪波羅蜜般若波羅蜜中不應住。何以故。檀波羅蜜檀波羅蜜相空。乃至般若波羅蜜般若波羅蜜相空。 復た次ぎに、世尊、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ぜんと欲せば、檀波羅蜜中に応に住すべからず、尸羅波羅蜜、羼提波羅蜜、毘梨耶波羅蜜、禅波羅蜜、般若波羅蜜中に応に住すべからず。何を以っての故に、檀波羅蜜の檀波羅蜜相は空、乃至般若波羅蜜の般若波羅蜜相は空なればなり。
復た次ぎに、
世尊!
『菩薩摩訶薩が、般若波羅蜜を行じようとすれば!』、
当然、
『檀波羅蜜』中に、
『住してはならず!』、
当然、
『尸羅、羼提、毘梨耶、禅、般若波羅蜜』中に、
『住してはならないのです!』。
何故ならば、
『檀波羅蜜の檀波羅蜜相』は、
『空であり!』、
乃至、
『般若波羅蜜の般若波羅蜜相』は、
『空だからです!』。
世尊。檀波羅蜜空不名為檀波羅蜜。離空亦無檀波羅蜜。檀波羅蜜即是空空即是檀波羅蜜。乃至般若波羅蜜亦如是。 世尊、檀波羅蜜の空を名づけて、檀波羅蜜と為さず、空を離れて亦た檀波羅蜜無く、檀波羅蜜は即ち是れ空、空は即ち是れ檀波羅蜜なり。乃至般若波羅蜜も亦た是の如し。
世尊!
『檀波羅蜜という!』、
『空』は、
『檀波羅蜜と称されず!』、
『空を離れて!』、
『檀波羅蜜』は、
『無い!』ので、
『檀波羅蜜とは、即ち空であり!』、
『空』は、
『即ち、檀波羅蜜なのです!』。
乃至、
『般若波羅蜜』も、
『是の通りです!』。
世尊。以是因緣故。菩薩摩訶薩欲行般若波羅蜜不應六波羅蜜中住 世尊、是の因縁を以っての故に、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ぜんと欲せば、応に六波羅蜜中に住すべからず。
世尊!
是の因縁の故に、
『菩薩摩訶薩が、般若波羅蜜を行じようとすれば!』、
当然、
『六波羅蜜』中に、
『住してはならないのです!』。



【論】菩薩は、諸法中に住しない

【論】釋曰。上須菩提以謙讓門說般若。雖言不說而實為諸菩薩說般若波羅蜜。今須菩提以不住門直為菩薩說般若波羅蜜。般若波羅蜜有種種名字。觀修相應合入習住等。是皆名修行般若波羅蜜。但種種名字說聞者歡喜。 釈して曰く、上に須菩提は、謙譲門を以って、般若を説けば、説かずと言うと雖も、実に諸菩薩の為めに般若波羅蜜を説けり。今須菩提は、不住門を以って直ちに、菩薩の為めに般若波羅蜜を説けり。般若波羅蜜には、種種の名字有りて、観、修、相応、合、入、習、住等は、是れ皆般若波羅蜜を修行すと名づく。但だ種種の名字を説くは、聞く者歓喜すればなり。
釈す、
上に、
『須菩提』は、
『謙譲門を用いて、般若を説いた!』ので、
『説かない、と言いながら!』、
『実』は、
『諸菩薩の為めに、般若波羅蜜を説いたのである!』が、
今、
『須菩提』は、
『不住門を用いて!』、
『直ちに!』、
『菩薩の為めに!』、
『般若波羅蜜を説いたのである!』。
『般若波羅蜜には、種種の名字が有り!』、
『観、修、相応、合、入、習、住』等は、
皆、
『般若波羅蜜』を、
『修行することである!』が、
但だ、
『種種の名字を説けば!』、
『聞く者が歓喜するからである!』。
復次小有差別行。名聽聞誦讀書寫正憶念說思惟籌量分別修習等。乃至阿耨多羅三藐三菩提總名為行。 復た次ぎに、小しく差別有りて、行を聴、聞、誦、読、書写、正憶念、説、思惟、籌量、分別、修習等と名づけ、乃至阿耨多羅三藐三菩提を総じて、名づけて行と為す。
復た次ぎに、
『行には、少し差別が有り!』、
『聴、聞、誦、読、書写、正憶念、説、思惟、籌量、分別、修習』等と、
『称し!』、
乃至、
『阿耨多羅三藐三菩提までを総じて!』、
『行』と、
『称する!』。
是行中分別故初者名觀。如初始見物。日日漸學是名習。與般若波羅蜜相可是名合。隨順般若波羅蜜名相應。通徹般若波羅蜜是名為入。分別取相有是事名為念。常行不息令與相似是名為學。學已巧方便觀知是非得失名為思惟。以禪定心共行名為修。得是般若波羅蜜道不失是名住。與住相違名不住。 是の行中を分別するが故に初を観と名づく、初に見物より始むるが如し。日日漸く是れを学ぶを、習と名づけ、般若波羅蜜と相可(かな)う、是れを合と名づく。般若波羅蜜に隨順するを相応と名づけ、般若波羅蜜に通徹すれば、是れを名づけて入と為し、分別して相を取り、是の事有るを、名づけて念と為し、常行して息まず、与(とも)に相似ならしむれば、是れを名づけて学と為し、学び已りて、巧みに方便し、是非得失を観知するを、名づけて思惟と為し、禅定心を以って共に行ずるを、名づけて修と為し、是の般若波羅蜜の道を得て失わざる、是れを住と名づけ、住と相違するを不住と名づく。
是の、
『行中に分別する!』が故に、
『初』を、
『観と称する!』のは、
譬えば、
『初に!』、
『物を見ることより!』、
『始めるようなものである!』。
次に、
『日日漸く学ぶ( to learn day by day gradually )!』のを、
『習』と、
『称し!』、
『般若波羅蜜と相可う( to accord with the PrajnaParamita )!』のを、
『合』と、
『称し!』、
『般若波羅蜜に隨順する( to adapt himself to P.P. )!』のを、
『相応( corresponding )』と、
『称し!』、
『般若波羅蜜に通徹する( to understand clearly )!』のを、
『入』と、
『称し!』、
『般若波羅蜜を分別し、相を取り!』、
是の、
『事』が、
『心中に有れば!』、
是れを、
『念』と、
『称し!』、
『常行して、息まず!』、
『心』を、
『般若波羅蜜』に、
『相似させれば!』、
是れを、
『学』と、
『称し!』、
『般若波羅蜜を学んで!』、
『巧みな方便を用いて、世間を観ながら!』、
『是非、得失』を、
『知れば!』、
是れを、
『思惟( considering )』と、
『称し!』、
『禅定心』を、
『般若波羅蜜と共に行じれば!』、
是れを、
『修( practising )』と、
『称し!』、
是の、
『般若波羅蜜の道を得て、失わなければ!』、
是れを、
『住』と、
『称し!』、
『住と相違すれば!』、
『不住』と、
『称する!』。
  相可(そうか):相よろし/相称う/適合する( accord with )。
  通徹(つうてつ):通達する( understand clearly )。
問曰。先說諸法空即是不住。今何以說諸法中不應住。 問うて曰く、先には、『諸法の空は、即ち是れ不住なり』、と説き、今は、何を以ってか、『諸法中には、応に住すべからず』、と説くや。
問い、
先には、
『諸法の空が、即ち不住である!』と、
『説かれた!』が、
今は、何故、
『諸法中には、住してはならない!』と、
『説かれたのですか?』。
答曰。先雖說著法愛心難遣故今更說。 答えて曰く、先に説くと雖も、法愛に著する心は遣り難きが故に、今更に説くなり。
答え、
『先にも、説かれたのである!』が、
『法愛に著する!』、
『心』は、
『遣り難い( be hard to be dismissed )!』が故に、
今、
『更に!』、
『説かれたのである!』。
復次有無相三昧。入此三昧於一切法不取相。而不入滅定。菩薩智慧不可思議。雖不取一切法相而能行道。如鳥於虛空中無所依而能高飛。菩薩亦如是。於諸法中不住而能行菩薩道。 復た次ぎに、有る無相三昧は、此の三昧に入れば、一切法に於いて、相を取らず、而も滅定にも入らず。菩薩の智慧は不可思議にして、一切法の相を取らずと雖も、能く道を行ず。鳥の虚空中に於いて、所依無くして、能く高く飛ぶが如し。菩薩も亦た是の如く、諸法中に於いて住せざるも、能く菩薩道を行ず。
復た次ぎに、
有る、
『無相三昧』は、
此の、
『三昧に入れば、一切法の相を取ることなく!』、
『滅定』に、
『入ることもない!』が、
『菩薩の智慧は、不可思議であり!』、
『一切法の相を取らずに!』、
『道』を、
『行じることができる!』ので、
譬えば、
『鳥』が、
『虚空中に、所依が無い!』のに、
『高く!』、
『飛ぶことができるようなものである!』。
『菩薩』も、
是のように、
『諸法中に、住することなく!』、
『菩薩の道』を、
『行じることができるのである!』。
問曰。人心得緣便起。云何菩薩於一切法不住而不入滅定中。 問うて曰く、人心は、縁を得て、便ち起つに、云何が、菩薩は一切法に於いて住せずして、滅定中に入らざる。
問い、
『人心』は、
『縁を得て!』、
『便ち、起つ( immediately arise )!』が、
何故、
『菩薩は、一切法に住しない!』のに、
『滅定』中に、
『入らないのですか?』。
答曰。此中須菩提自說。所謂色色相自空。色空為非色亦不離空有色。色即是空空即是色。是義第二品中已說。乃至不應六波羅蜜中住。亦如是。以空故無所住 答えて曰く、此の中に須菩提の自ら説かく、謂わゆる『色の色相は自ら空にして、色の空は色に非ずと為すも、亦た空を離れて色有らず、色は即ち是れ空、空は即ち是れ色なり』、と。是の義は、第二品中に已に説けり。乃至応に六波羅蜜中に住すべからざることも、亦た是の如く、空を以っての故に所住無ければなり。
答え、
此の中に、
『須菩提は、自ら説いている!』が、――
謂わゆる、
『色』の、
『色相』は、
『自ら、空であり!』、
『色という!』、
『空』は、
『色でなく!』、
『空を離れて!』、
『色』が、
『有るのでもない!』。
即ち、
『色とは、即ち空であり!』、
『空』は、
『即ち、色である!』、と。
是の、
『義』は、
『第二品(釈報応品第二)』中に、
『已に、説いた!』。
乃至、
『六波羅蜜中に、住してはならない!』まで、
是のように、
『空である!』が故に、
『所住が無いからである!』。


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