巻第四十二之上

 

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大智度論、釈集散品第九

諸法の集、散を得ない

諸法の名字は説くべからず

諸法の中に住すべからず

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大智度論、釈集散品第九

大智度論釋集散品第九(卷第四十二)

 龍樹菩薩造

 後秦龜茲國鳩摩羅什奉 詔譯

大智度論、釈集散品第九(巻第四十二)

  龍樹菩薩造り、

  後秦亀茲国鳩摩羅什詔を奉じて訳せり

  諸法の集、散の得べからざること、及び名字の無所有性を説く。

 

  (じゅう):因縁和合して諸法を出生するを云う。

  (さん):因縁和合生の諸法の破散するを云う。

 

諸法の集、散を得ない

【經】爾時慧命須菩提白佛言。世尊。我不覺不得是菩薩行般若波羅蜜。當為誰說般若波羅蜜。

爾の時、慧命須菩提の仏に白して言さく、『世尊、我れは、是の菩薩の般若波羅蜜を行ずるを覚らず、得ざるなり。応に、誰が為にか、般若波羅蜜を説くべき。

   爾の時、

     『慧命須菩提』は、

       『仏』に白して、こう言った、――

       『世尊!

          わたしは、

            是の、

              『菩薩』が、

              『般若波羅蜜』を行ずる!とは、

          そのように、

            『覚(覚知)る!』こともなく、

            『得(会得)る!』こともありません。

            いったい、

              『誰』の為に、

              『般若波羅蜜』を説くことができる!のでしょう?

世尊。我不得一切諸法集散。若我為菩薩作字言菩薩。或當有悔。

世尊、我れは一切の諸法の集、散を得ず。若し我れ、菩薩の為に字を作して、菩薩と言わば、或いは当に、悔有るべし。

        世尊!

          わたしは、

          一切の、

            『諸法』が、

              『集、散』する!と、

              『得る!』ことはありません。

          若し、

          わたしが、

            『菩薩』の為に、

              『字(菩薩という言葉)』を作って、

              『菩薩』だ!と言えば、

            或いは、

              『悔やむ!』ことでしょう。

世尊。是字不住亦不不住。何以故。是字無所有故。以是故是字不住亦不不住。

世尊、是の字は住まらず、亦た住まらざるにあらず。何を以っての故に、是の字は所有無きが故に、是を以っての故に、是の字は、住まらず、亦た住まらざるにあらず。

        世尊!

          是の、

            『字』は、

              『住まる!』こともなく、

              『住まらない!』のでもありません。

          何故ならば、

            『字』には、

              『所有(諸法)』が、

              『無い!』からです。

          是の故に、

            『字』は、

              『住まる!』こともなく、

              『住まらない!』のでもありません。

世尊。我不得色集散乃至識集散。若不可得云何當作名字。

世尊、我れは色の集、散、乃至識の集、散を得ず。若し得べからずんば、云何が当に、名字を作すべき。

        世尊!

          わたしは、

            『色』が、

              『集、散』する!とも、

            乃至、

            『識』が、

              『集、散』する!とも、

            そのように、

              『得る!』ことはありません。

            若し、

              『得られない!』ものならば、

              何故、

                『名字』を作ることができる!のでしょう?

世尊。以是因緣故。是字不住亦不不住。何以故。是名字無所有故。

世尊、是の因縁を以ての故に、是の字は住まらず、亦た住まらざるにあらず。何を以っての故に、是の名字は、所有無きが故なり。

        世尊!

          是の、

            因縁の故に、

            是の、

              『字』は、

                『住まる!』こともなく、

                『住まらない!』こともないのです。

            何故ならば、

            是の、

              『名字』には、

                『所有』が、

                『無い!』からです。

世尊。我亦不得眼集散乃至意集散。若不可得云何當作名字言是菩薩。

世尊、我れは亦た、眼の集、散、乃至意の集、散を得ず。若し得べからずんば、云何が当に、名字を作して、『是れ菩薩なり』と言うべき。

        世尊!

          わたしは、

          亦た、

            『眼』が、

              『集、散』する!とも、

            乃至、

            『意』が、

              『集、散』する!とも、

            そのように、

              『得る!』ことはありません。

            若し、

              『得られない!』ものならば、

              何故、

                『名字』を作って、

                『是れは、菩薩である!』と言える!のでしょう?

世尊。是眼名字乃至意名字不住亦不不住。何以故。是名字無所有故。以是故是字不住亦不不住。

世尊、是の眼の名字、乃至意の名字は、住まらず、亦た住まらざるにあらず。何を以っての故に、是の名字は、所有無きが故に、是を以っての故に、是の字は、住まらず、亦た住まらざるにあらず。

        世尊!

          是の、

            『眼の名字』、

            乃至、

            『意の名字』は、

              『住まる!』こともなく、

              『住まらない!』のでもありません。

            何故ならば、

            是の、

              『名字』には、

                『所有』が、

                『無い!』からであり、

            是の故に、

              『字』は、

                『住まる!』こともなく、

                『住まらない!』のでもないのです。

世尊。我不得色集散乃至法集散。若不可得云何當作名字言是菩薩。

世尊、我れは、色の集、散、乃至法の集、散を得ず。若し得べからずんば、云何が当に、名字を作して、『是れ菩薩なり』と言うべき。

        世尊!

          わたしは、

            『色』が、

              『集、散』する!とも、

            乃至、

            『法』が、

              『集、散』する!とも、

            そのように、

              『得る!』ことはありません。

            若し、

              『得られない!』ものならば、

              何故、

                『名字』を作って、

                『是れが、菩薩である。』と言える!のでしょう?

世尊。是色字乃至法字不住亦不不住。何以故。是字無所有故。以是故是字不住亦不不住。眼識乃至意識。眼觸乃至意觸。眼觸因緣生受乃至意觸因緣生受亦如是。

世尊、是の色の字、乃至法の字は、住まらず、亦た住まらざるにあらず。何を以っての故に、是の字は所有無きが故に、是を以っての故に、是の字は、住まらず、亦た住まらざるにあらず。眼識、乃至意識、眼触乃至意触、眼触因縁生の受、乃至意触因縁生の受も亦た是の如し。

        世尊!

          是の、

            『色の字』、

            乃至、

            『法の字』は、

              『住まる!』こともなく、

              『住まらない!』のでもありません。

          何故ならば、

          是の、

            『字』には、

              『所有』が、

              『無い!』のだから、

          是の故に、

          是の、

            『字』は、

              『住まる!』こともなく、

              『住まらない!』のでもないのです。

          『眼識、乃至意識』、

          『眼触、乃至意触』、

          『眼触因縁生の受、乃至意触因縁生の受』も、

          亦た、

            是のとおりです。

世尊。我不得無明集散乃至不得老死集散。

世尊、我れは、無明の集、散を得ず、乃至老死の集、散を得ず。

        世尊!

          わたしは、

            『無明』が、

              『集、散』する!と、

              『得る!』こともなく、

            乃至、

            『老、死』が、

              『集、散』する!と、

              『得る!』こともありません。

世尊。我不得無明盡集散。乃至不得老死盡集散。

世尊、我れは、無明の尽の集、散を得ず、乃至老死の尽の集、散を得ず。

        世尊!

          わたしは、

            『無明の尽』が、

              『集、散』する!と、

              『得る!』こともなく、

            乃至、

            『老、死の尽』が、

              『集、散』する!と、

              『得る!』こともありません。

世尊。我不得婬怒癡集散。諸邪見集散皆亦如是。

世尊、我れは婬、怒、癡の集、散を得ず、諸の邪見の集、散も皆、亦た是の如し。

        世尊!

          わたしは、

            『婬、怒、癡』が、

              『集、散』する!と、

              『得る!』ことはありません。

          諸の、

            『邪見』が、

              『集、散』する!ことも、

            皆、

            亦た、

              是のとおりです。

世尊。我不得六波羅蜜集散。四念處集散。乃至八聖道分集散。空無相無作集散。四禪四無量心四無色定集散。念佛念法念僧念戒念捨念天念善念入出息念身念死集散。我亦不得佛十力乃至十八不共法集散。

世尊、我れは、六波羅蜜の集、散、四念処の集、散、乃至八聖道分の集、散、空無相無作の集、散、四禅、四無量心、四無色定の集、散、念仏、念法、念僧、念戒、念捨、念天、念善、念入出息、念身、念死の集、散を得ず。我れは、亦た仏の十力、乃至十八不共法の集、散を得ず。

        世尊!

          わたしは、

            『六波羅蜜』が、

              『集、散』する!とも、

            『四念処』が、

              『集、散』する!とも、

            乃至、

            『八聖道分』が、

              『集、散』する!とも、

            『空、無相、無作』が、

              『集、散』する!とも、

            『四禅、四無量心、四無色定』が、

              『集、散』する!とも、

            『念仏、念法、念僧、念戒、念捨、念天』、

            『念善、念入出息、念身、念死』が、

              『集、散』する!とも、

              『得る!』ことはありません。

          わたしは、

          亦た、

            『仏の十力、乃至十八不共法』が、

              『集、散』する!とも、

              『得る!』ことはありません。

世尊。我若不得六波羅蜜乃至十八不共法集散。云何當作字言是菩薩。

世尊、我れは、若し、六波羅蜜、乃至十八不共法の集、散を得ずんば、云何が、当に、字を作して、『是れ菩薩なり』と言うべき。

        世尊!

          わたしが、

          若し、

            『六波羅蜜』、

            乃至、

            『十八不共法』が、

              『集、散』する!と、

              『得る!』ことがなければ、

            何故、

              『字』を作って、

              『是れが、菩薩である。』と言える!のでしょう?

世尊。是字不住亦不不住。何以故。是字無所有故。以是故是字不住亦不不住。

世尊、是の字は、住まらず、亦た住まらざるにあらず。何を以っての故に、是の字は所得無きが故なり。是を以っての故に、是の字は住まらず、亦た住まらざるにあらず。

        世尊!

          是の、

            『字』は、

              『住まる!』こともなく、

              『住まらない!』のでもありません。

          何故ならば、

          是の、

            『字』には、

              『所有』が、

              『無い!』からであり、

          是の故に、

          是の、

            『字』は、

              『住まる!』こともなく、

              『住まらない!』のでもないのです。

世尊。我不得如夢五陰集散。我不得如響如影如焰如化五陰集散亦如上說。

世尊、我れは、夢の如き五陰の集、散を得ず。我れは、響の如き、影の如き、焔の如き、化の如き五陰の集、散を得ざること、亦た上に説くが如し。

        世尊!

          わたしは、

            『夢』のような、

            『五陰』が、

              『集、散』する!と、

              『得る!』ことはありません。

            『響』や、

            『影』や、

            『焔』や、

            『化』のような、

            『五陰』が、

              『集、散』する!と、

              『得る!』ことがないのも、

              亦た、

                上に説くとおりです。

世尊。我不得離集散。我不得寂滅不生不滅不示不垢不淨集散。

世尊、我れは、離の集、散を得ず。我れは、寂滅、不生、不滅、不示、不垢、不浄の集、散を得ず。

        世尊!

          わたしは、

            『離』が、

              『集、散』する!と、

              『得る!』ことはありません。

          わたしは、

            『寂滅』、

            『不生』、

            『不滅』、

            『不示』、

            『不垢』、

            『不浄』が、

              『集、散』する!と、

              『得る!』こともありません。

世尊。我不得如法性實際法相法位集散亦如上說。我不得諸善不善法集散。我不得有為無為法有漏無漏法集散。過去未來現在法集散。不過去不未來不現在法集散。何等是不過去不未來不現在。所謂無為法。

世尊、我れは、如、法性、実際、法相、法位の集、散を得ざること、亦た上に説くが如し。我れは、諸の善、不善の法の集、散を得ず。我れは、有為、無為の法、有漏、無漏の法の集、散、過去、未来、現在の法の集、散、不過去、不未来、不現在の法の集、散を得ず。何等か、是れ過去にあらざる、未来にあらざる、現在にあらざる。謂わゆる、無為法なり。

        世尊!

          わたしは、

            『如』、

            『法性』、

            『実際』、

            『法相』、

            『法位』が、

              『集、散』する!と、

              『得る!』ことがないのも、

              亦た、

                上に説くとおりです。

          わたしは、

          諸の、

            『善、不善の法』が、

              『集、散』する!と、

              『得る!』ことはありません。

          わたしは、

            『有為、無為法』、

            『有漏、無漏法』が、

              『集、散』する!とも、

            『過去、未来、現在法』が、

              『集、散』する!とも、

            『不過去、不未来、不現在法』が、

              『集、散』する!とも、

              『得る!』ことはありません。

            『不過去、不未来、不現在法』とは何か?

            謂わゆる、

              『無為法』です。

世尊。我亦不得無為法集散。

世尊、我れは、亦た無為法の集、散を得ざるなり。

        世尊!

          わたしは、

          亦た、

            『無為法』が、

              『集、散』する!と、

              『得る!』こともありません。

世尊。我亦不得佛集散。

世尊、我れは、亦た仏の集、散を得ず。

        世尊!

          わたしは、

          亦た、

            『仏』が、

              『集、散』する!と、

              『得る!』こともありません。

世尊。我亦不得十方如恒河沙等世界諸佛及菩薩聲聞僧集散

世尊、我れは、亦た十方の恒河沙等の世界の諸の仏、及び菩薩、声聞僧の集、散を得ず。

        世尊!

          わたしは、

          亦た、

            『十方の恒河沙等の世界』の、

            『諸仏』、

            及び、

              『菩薩』、

              『声聞僧』が、

                『集、散』する!と、

                『得る!』こともありません。

世尊。我若不得諸佛集散。云何當教菩薩摩訶薩般若波羅蜜。

世尊、我れは、若し、諸仏の集、散を得ずんば、云何が、当に、菩薩摩訶薩の般若波羅蜜を教うべき。

        世尊!

          わたしは、

          若し、

            『諸仏』が、

              『集、散』する!と、

              『得ない!』ならば、

          何故、

            『菩薩摩訶薩』に、

              『般若波羅蜜』を、

              『教えられる!』のでしょう?

世尊。是菩薩字不住亦不不住。何以故。是字無所有故。以是故是字不住亦不不住。

世尊、是の菩薩の字は、住まらず、亦た住まらざるにあらず。何を以っての故に、是の字は、所有無きが故に、是を以っての故に、是の字は、住まらず、亦た住まらざるにあらず。

        世尊!

          是の、

            『菩薩の字』は、

              『住まる!』こともなく、

              『住まらない!』のでもありません。

          何故ならば、

          是の、

            『字』は、

              『所有』が、

              『無い!』からであり、

          是の故に、

          是の、

            『字』は、

              『住まる!』こともなく、

              『住まらない!』のでもないのです。

世尊。我亦不得是諸法實相集散。云何當與菩薩作字言是菩薩。

世尊、我れは、亦た是の諸法の実相の集、散を得ず。云何が、当に、菩薩の与に、字を作して、『是れ菩薩なり』と言うべき。

        世尊!

          わたしは、

          亦た、

          是の、

            『諸法の実相』が、

              『集、散』する!と、

              『得る!』こともありません。

          何故、

            『菩薩』の為に、

              『字』を作って、

              『是れが、菩薩である』と言える!のでしょう?

世尊。是諸法實相名字不住亦不不住。何以故。是名字無所有故。以是故是名字不住亦不不住

世尊、是の諸法の実相の名字は、住まらず、亦た住まらざるにあらず。何を以っての故に、是の名字は、所有無きが故に、是を以っての故に、是の名字は住まらず、亦た住まらざるにあらず。

        世尊!

          是の、

            『諸法の実相』の、

            『名字』は、

              『住まる!』こともなく、

              『住まらない!』のでもありません。

          何故ならば、

          是の、

            『名字』は、

              『所有』が、

              『無い!』からであり、

          是の故に、

          是の、

            『名字』は、

              『住まる!』のでもなく、

              『住まらない!』のでもないのです。

【論】問曰。先品中已說不見菩薩菩薩字般若波羅蜜。一切諸法不內不外不中間等。今何以重說。

問うて曰く、先の品中に、已に『菩薩、菩薩の字を見ず。般若波羅蜜は、一切の諸法の内にあらず、外にあらず、中間にあらず。』等を説けり。今は、何を以ってか、重ねて説く。

 問い、

   先の、

     『品(三仮品)』の中に、

     已に、

       こう説いています、――

       『菩薩』と、

       『菩薩の字』とを見ない!

       『般若波羅蜜』は、

        一切の、

          『諸法』の、

            『内』にある!でもなく、

            『外』にある!でもなく、

            『中間』にある!でもない等と。

     今は、

     何故、

       重ねて説く!のですか?

 

  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻2三仮品』:『爾時慧命須菩提白佛言。世尊。所說菩薩菩薩字何等法名菩薩。世尊。我等不見是法名菩薩。云何教菩薩般若波羅蜜。佛告須菩提。般若波羅蜜亦但有名字。名為般若波羅蜜。菩薩菩薩字亦但有名字。是名字不在內不在外不在中間。須菩提。譬如說我名。和合故有。是我名不生不滅。但以世間名字故說。如眾生壽者命者生者養育者。眾數人作者使作者。起者使起者。受者使受者。知者見者等。和合法故有。是諸名不生不滅。但以世間名字故說般若波羅蜜。菩薩菩薩字亦如是。皆和合故有。是亦不生不滅。但以世間名字故說。

答曰。有四種愛。欲愛有愛非有愛法愛。欲愛易見其過不淨等。有愛無不淨等小難遣。非有愛破有似智慧故難遣。法愛者愛諸善法利益道者。法愛中過患難見故重說。譬如小草加功少易除大樹功重難除。

答えて曰く、四種の愛有り、欲愛、有愛、非有愛、法愛なり。欲愛は、見易く、其の過は不浄等なり。有愛は、不浄等無く、小しく遣り難し。非有愛は、有を破すること、智慧に似たるが故に、遣り難し。法愛なる者は、諸の善法の道を利益する者を愛す。法愛の中の過患は見難きが故に重ねて説く。譬えば、小草は、功を加うること少くとも、除き易く、大樹は、功重くとも、除き難きが如し。

 答え、

   『愛』には、

     『四種』有り、

       『欲愛』、

       『有愛』、

       『非有愛』、

       『法愛』である。

     『欲愛』は、

     其の、

       『過』の、

       『不浄』等を、

         『見やすい!』ので、

         『駆逐』し易い!が、

     『有愛』には、

       『不浄』等が、

         『無い!』ので、

         少しばかり、

           『駆逐』し難い!

     『非有愛』は、

       『有』を破る!ところが、

         『智慧』に似る!ので、

         『駆逐』し難い!

     『法愛』とは、

     諸の、

       『善法』、

       『道を利益する者』を愛する!ことであるが、

     『法愛』の中には、

       『過患』を、

         『見難い!』が故に、

         『重ねて説く!』のである。

     譬えば、

       『小草』は、

       加える、

         『巧(手間)』が、

           『少し!』でも、

           『除き易い!』が、

       『大樹』は、

         『巧』が、

           『重く』とも、

           『除き難い!』のと同じである。

 

  (けん):逐、或いは去の義。追い払う。駆逐。

  欲愛(よくあい):諸欲の中に於ける貪愛を云う。『大智度論巻42()注:愛』参照。

  有愛(うあい):色無色界の貪愛を云う。『大智度論巻42()注:愛』参照。

  非有愛(ひうあい):非有を欣ぶ者が非有を楽い貪愛するを云う。『大智度論巻42()注:愛』参照。

  法愛(ほうあい):善法、正道法を楽い貪愛するを云う。『大智度論巻42()注:愛』参照。

  (あい):(一)梵語tRSNaaの訳。十二因縁の一。又愛支と名づく。「大毘婆沙論巻23」に、「云何が愛なる。謂わく已に貪愛婬愛及び資具愛を起すと雖も、而も未だ此れが為に四方に追求して労倦を辞せざることあらず、是れ愛の位なり」と云い、「倶舎論巻9」に、「妙資具を貪して婬愛現行するも未だ広く追求せず、此の位を愛と名づく」と云える是れなり。是れ謂わゆる分位縁起の説にして、即ち青年期に及び已に婬貪の心を起すも、未だ広く追求するに至らざる間を愛支と名づけたるなり。蓋し説一切有部に於いては十二因縁に三世両重の因果を分ち、愛と取及び有の三を現在の三因とし、分位縁起の説を作すと雖も、経量部にては之を経説に違背すとなし、唯楽等の三受より三種の愛を引生するを愛支となせり。即ち「倶舎論巻9」に、「此の三受より三愛を引生す、謂わく苦逼まるに由りて楽受に於いて欲愛を発生することあり、或いは楽と非苦楽との受に於いて色愛を発生することあり、或いは唯非苦楽受に於いて無色愛を生ずることあり」と云える其の説なり。是れ欲界の苦に逼悩せらるるに由り楽受に於いて欲愛kaama−tRSNaaを生じ、色界初二三禅の楽受及び第四禅の非苦楽受に於いて色愛ruupa−tRSNaaを生じ、或いは唯無色界の非苦楽受に於いて無色愛aruupa−tRSNaaを生ずるを愛支となすの意なり。又唯識大乗に於いては唯一重の因果を立て、愛取有の三を能生支と名づけ、其の中、愛は第六意識相応の倶生の煩悩にして、正しく後有を縁じて起す潤生の惑となせり。「成唯識論巻8」に、「三に能生支は謂わく愛と取と有となり。近く当来の生老死を生ずるが故なり。謂わく内の異熟果に迷う愚に縁りて正しく能く後有を招く諸業を発し、縁と為りて親しく当来生老死の位の五果を生ずる種を引発し已り、復た外の増上果に迷う愚に依りて、境界受を縁として貪愛を発起す」と云える是れなり。是れ無明によりて業を発し、業によりて識等の五果の種を引発して当果を決定せしめ、更に境界受を縁として愛を起し、此の愛の潤力によりて近く生老死の果を生ぜしむるものなるを明にするの意なり。又「識身足論巻3」、「法蘊足論巻12」、「雑阿毘曇心論巻8」、「瑜伽師地論巻93」、「倶舎論巻10、19」、「大乗阿毘達磨雑集論巻4」、「成唯識論述記巻8末」等に出づ。(二)九結の一。愛結anunaya−saMyojanaと名づけ、又随順結と訳す。即ち境に染著する貪煩悩を云う。「大毘婆沙論巻50」に、「云何が愛結なる、謂わく三界の貪なり。然るに三界の貪は九結の中に於いては総じて愛結と立て、七随眠の中には二随眠を立つ。謂わく欲界の貪を欲貪随眠と名づけ、色無色界の貪を有貪随眠と名づく。余経の中に於いては立てて三愛となす、謂わく欲愛、色愛、無色愛なり」と云い、「順正理論巻54」に、「何に縁りて此の貪を説いて名づけて愛と為すや。此れ染心に境を随楽する所なるが故なり」と云える是れなり。是れ三界の貪を総称して愛結となすなり。又「集異門足論巻4」に欲愛色愛無色愛の三愛を説き、諸欲の中に於ける諸貪等貪執蔵防護耽著愛染を欲愛と名づけ、諸色の中に於ける諸貪等貪等を色愛、無色の中に於ける諸貪等貪等を無色愛と名づくとし、又欲愛有愛無有愛の三愛を説き、諸欲の中に於ける諸貪等貪等を欲愛kamaa−tRSNaa、色無色界の諸貪等貪等を有愛bhava−tRSNaa、無有を欣う者が無有の中に於ける諸貪等貪等を無有愛vibhava−tRSNaaと名づくと云い、又「勝鬘経」に五住地の惑を説く中、欲愛住地、色愛住地、有愛住地の名を挙げ、「大般涅槃経巻13」には四諦の中の集諦を愛とし、之に二種三種四種五種の別あることを説き、「愛に二種あり、一の己身を愛し、二に所須を愛す。復た二種あり、未だ五欲を得ざれば心を繋けて専ら求め、既に求めて得已れば堪忍して専ら著す。復た三種あり、欲愛色愛無色愛なり。復た三種あり、業因縁愛と煩悩因縁愛と苦因縁愛となり。出家の人に四種の愛あり、何等をか四となす、衣服飲食臥具湯薬なり。復た五種あり、五陰に貪著し諸の所須に随って一切愛著す」と云えり。此等は皆貪を名づけて愛となせるものなり。又「大毘婆沙論巻48、49、56、173」、「成実論巻9貪相品」、「入阿毘達磨論巻上」、「倶舎論巻21」等に出づ。(三)梵語premanの訳。又はpriya、即ち不染汚の心を以って法又は師長等を愛楽するを云う。「大毘婆沙論巻29」に、「愛に二種あり、一に染汚は謂わく貪なり。二に不染汚は謂わく信なり」と云い、「倶舎論巻4」に、「愛は謂わく愛楽なり、体即ち是れ信なり。然るに愛に二あり、一に有染汚、二に無染汚なり。有染は謂わく貪なり、妻子等を愛するが如し。無染は謂わく信なり、師長等を愛するが如し」と云える是れなり。是れ不染汚の愛は信を其の体となすことを明せるなり。又「大般涅槃経巻13」に、「愛に二種あり、一には善愛、二には不善愛なり。不善愛は惟だ愚のみ之を求め、善法愛は諸菩薩求む。善法愛とは復た二種あり、不善と善となり。二乗を求むる者を名づけて不善となし、大乗を求むる者是れを名づけて善となす」と云い、又「大智度論巻72」に、「愛は貪欲煩悩の心にして行ずべからず、当に慈愛の心を行ずべし。世間の法は妻子牛馬等を愛念し、怨賊等を憎悪す。菩薩は此の世間の法を転じ、但だ慈愛の心を一切の衆生に行ず」と云い、「大乗荘厳経論巻9」に、「一切の世間は皆世楽及び自身の命を愛す、一切の声聞縁覚は世楽及び自身の命を愛せずと雖も、而も涅槃に於いて住著の意を起す。菩薩は爾らず、大悲自在なるが故に涅槃に於いて尚お住せず、何に況んや彼の二愛の中に住せんや。已に大悲無著を説く、次に大悲愛勝を説かん」と云えり。是れ大乗法を楽求し、又衆生を悲愍するを愛と名づけたるものにして、皆不染愛を説けるものなり。但し「梵文大乗荘厳経論」には今の愛をsnehaとなせり。又「大般涅槃経巻16」、「順正理論巻11」、「成唯識論巻6」等に出づ。<(望)

復次上法與此法有同有異。彼聞說菩薩字不見。此中說菩薩字不覺不得。以不覺不得故不見。非是智慧力少故不見。

復た次ぎに、上の法は、此の法と同有り、異有り。彼には、『菩薩の字を見ず』と説くを聞き、此の中には、『菩薩の字を覚らず、得ず』と説く。覚らざる、得ざるを以っての故に見ずとは、是れ智慧の力の少なきが故に見ざるに非ざるなり。

 復た次ぎに、

   『上の法』と、

   『此の法』とは、

     『同じ』ところも有り、

     『異なる』ところも有る。

   『彼()』には、

     『菩薩の字』を、

       『見ない!』と説き、

   『此の中』には、

     『菩薩の字』を、

       『覚らない!』、

       『得ない!』と説くように、

     其れを、

       『覚らない!』ことと、

       『得ない!』ことの故に、

         『見ない!』のであって、

     是の、

       『智慧』が、

         『少い!』が故に、

         『見ない!』のではない。

問曰。未行般若波羅蜜時為有菩薩耶。今何以故言不見菩薩行般若波羅蜜。

問うて曰く、未だ、般若波羅蜜を行ぜざる時、菩薩有りと為すや。今は、何を以っての故にか、『菩薩の般若波羅蜜を行ずるを見ず』と言う。

 問い、

   未だ、

     『般若波羅蜜』を、

       『行じない!』時にも、

     『菩薩』は、

       『有る!』のですか?

   今は、

   何故、

     『菩薩』が、

       『般若波羅蜜』を、

       『行ずる!』のを見ない!と言うのですか?

答曰。從無始已來眾生不可得。非行般若波羅蜜故不可得。但以虛誑顛倒。凡夫人隨是假名故謂為有。今行般若波羅蜜滅虛誑顛倒。了知其無非本有今無。本有今無則墮斷滅。

答えて曰く、無始より已来、衆生は得べからず。般若波羅蜜を行ずるが故に得べからざるに非ず。但だ、虚誑、顛倒を以って、凡夫人は、是の仮名に随うが故に、謂いて有と為す。今、般若波羅蜜を行じて、虚誑、顛倒を滅し、其の無を了知するも、本有りて、今無きには非ず。本有りて、今無ければ、則ち断滅に堕す。

 答え、

   『無始』より已来、

     『衆生』は、

     『得られない!』のであり、

   『般若波羅蜜』を、

     『行ずる!』が故に、

     『得られない!』のではない。

   但だ、

   『虚誑、顛倒』の、

   『凡夫人』は、

   是の、

     『仮名』に随う!が故に、

     『有る!』と謂うのである。

   今、

   『般若波羅蜜』を、

     『行ずる!』が故に、

     『虚誑、顛倒』を滅して、

     其の、

       『無』である!ことを、

       『了知した!』のであり、

     其の、

       本、『有った!』ものが、

       今、『無くなる!』のではない。

     若し、

       本、『有った!』ものが、

       今、『無くなる!』とすれば、

       則ち、

         『断滅』に堕ちた!のである。

復次須菩提心悔畏破妄語戒。所以者何。佛法中一切諸法決定無我。而我說言有菩薩為說般若波羅蜜。則墮妄語罪。是故心悔。

復た次ぎに、須菩提の心に悔ゆるは、妄語戒を破らんことを畏るればなり。何を以っての故に。仏法中に、一切の諸法は、決定して無我なるに、我れ説いて、『菩薩有りて、為に般若波羅蜜を説く』と言わば、則ち、妄語罪に堕せん。是の故に心に悔ゆるなり。

 復た次ぎに、

   『須菩提』が、

   『心』に、

     『悔いる!』とは、

     『妄語戒』を、

       『破る!』ことを、

       『畏れる!』からである。

   何故ならば、

   『仏法』の中で、

   一切の、

     『諸法』は、

     決定して、

       『無我!』なのに、

     わたし(有我)が、

       説いて、

       『有る、

          菩薩(有我)の為に、

          般若波羅蜜を説く!』と言えば、

     則ち、

       『妄語罪』に堕ちる!ことになり、

   是の故に、

   『心』に、

     『悔いる!』のである。

復次有心悔因緣。一切法以不可得空故皆空。所以者何。無集無散故。譬如眼色因緣生眼識。三事和合故生眼觸。眼觸因緣中即生受想思等心數法。是中邪憶念故。生諸煩惱罪業。正憶念故生諸善法

復た次ぎに、心の悔ゆる因縁有り。一切法は不可得空なるを以っての故に、皆空なり。所以は何んとなれば、集無く、散無きが故なり。譬えば、眼、色、因縁生の眼識の三事和合の故に、眼触を生じ、眼触の因縁中に、即ち受、想、思等の心数法を生じ、是の中には、邪憶念の故に、諸の煩悩の罪業を生じ、正憶念の故に、諸の善法を生ず。

 復た次ぎに、

   『心』に、

     『悔いる!』、

     『因縁』が有る!

   『一切法』は、

     『不可得空』であるが故に、

     皆、

       『空』であり、

   何故ならば、

     『集する!』ことも無く、

     『散ずる!』ことも無いからである。

   譬えば、

     『眼』と、

     『色』と、

     因縁生の、

       『眼識』との、

       『三事』が和合する!が故に、

         『眼触』を生じ、

         『眼触』の因縁の中に、

           『受、想、思』等の、

           『心数法』を生じ、

     是の、

     『心数法』の中の

       『邪憶念!』の故に、

       諸の、

         『煩悩』、

         『罪業』を生じ、

       『正憶念!』の故に、

       諸の、

         『善法』を生ずる!のである。

善惡業受六道果報。從是身邊。復種善惡業。如是展轉無窮。是名為集。餘情亦如是。

善、悪業は、六道の果報を受け、是の身の辺より、復た善、悪業を種う。是の如く展転して、無窮なる、是れを名づけて、集と為す。余情も、亦た是の如し。

     『善、悪の業』は、

       『六道』の、

       『果報の身』を受け、

       是の、

         『身の辺』より、

         復た、

           『善、悪の業』を種える!のであるが、

       是のように、

       『展転』として、

         『無窮』である!

     是れを、

       『集』という。

     余の、

       『情(耳、鼻、舌、身、意)』も、

       亦た、

         是のとおりである。

散者是眼識等諸法念念滅故。諸因緣離故。是眼識等法生時無來處。非如田上穀運致聚集。若滅時無去處。非如散穀與民。是名略說諸法集散相。

散とは、是れ眼識等の諸法は、念念に滅するが故に、諸の因縁は、離るるが故に、是の眼識等の法は、生時に来処無し。田上の穀を運致して聚集するが如き非ず。若し滅時なれば、去処無し。穀を散じて、民に与うるが如きに非ず。是れを、諸法の集、散の相を略説すと名づく。

     『散』とは、

     是の、

       『眼識』等の、

       『諸法』は、

       念念に、

         『滅する!』が故に、

     諸の、

       『因縁』が、

         『離れる!』が故に、

     是の、

       『眼識』等の、

       『法』は、

         『生時』に、

           『来処』が無い!のであり、

         譬えば、

         『田上の穀(来処)』を、

           『運致』して、

           『聚集』する!ようではない。

       若し、

         『滅時』ならば、

           『去処』が無い!のであり、

         譬えば、

         『聚集した穀』を、

           『散らし』て、

           『民(去処)』に与える!ようではない。

   是れが、

   略して、

     『諸法』の、

       『集、散の相』を説く!ということである。

 

  運致(うんち):運んで一処に集める。

  聚集(じゅしゅう):一処に集める。

生時無所從來。散時無所去。是諸法皆如幻化但誑惑於眼。

生時に、従りて来たる所無く、散じに去る所無し。是の諸法は、皆、幻、化の如く、但だ眼を誑惑す。

     『生時』に、

       『来処』が無く、

     『散時』に、

       『去処』が無い、

     是の、

       『諸法』は、

       皆、

         『幻、化』のようであり、

         但だ、

           『眼』を、

           『誑惑』する!のみである。

問曰。若爾有集散相。須菩提何以言不覺不得。

問うて曰く、若し爾らば、集、散の相有らん。須菩提は、何を以ってか、『覚らずして、得ず』と言う。

 問い、

   若し、

     そうならば、

     『集の相』、

     『散の相』が有るだろう!

   『須菩提』は、

   何故、

     『覚らない!』、

     『得ない!』と言うのですか?

答曰。無來處故集不可得。無去處故散不可得。

答えて曰く、来処無きが故に、集は得べからず。去処無きが故に、散は得べからず。

 答え、

   『来処』が、

     『無い!』が故に、

     『集』は得られない!

   『去処』が、

     『無い!』が故に、

     『散』も得られない!のである。

復次生無故集不可得。滅無故散不可得。畢竟空故集不可得。業因緣不失故散不可得。

復た次ぎに、生無きが故に、集は得べからず。滅無きが故に、散は得べからず。畢竟空なるが故に、集は得べからず。業の因縁は失せざるが故に、散は得べからず。

 復た次ぎに、

   『生』が、

     『無い!』が故に、

     『集』は得られない!

   『滅』が、

     『無い!』が故に、

     『散』も得られない!

   『畢竟』じて、

     『空』である!が故に、

     『集』は得られない!

   『業の因縁』は、

     『失われない!』が故に、

     『散』も得られない!

復次觀世間滅諦故集不可得。觀世間集諦故散不可得。如是等義。當知集散不可得云何當作菩薩字。若強為名。是名亦無住亦無不住。

復た次ぎに、世間に滅諦を観るが故に、集は得べからず。世間に集諦を観るが故に、散は得べからず。是の如き等の義は、当に知るべし、集、散は得べからず。云何が、当に、菩薩の字を作すべき。若し、強いて名を為さば、是れを、亦た住まる無く、亦た住まらざる無しと名づく。

 復た次ぎに、

   『世間』に、

     『滅諦』を観る!が故に、

     『集』は得られない!

   『世間』に、

     『集諦』を観る!が故に、

     『散』も得られない!

   是れ等の義により、

     当然、知るはずである、――

     『集、散』は、

       『得られない!』のに、

       何故、

         『菩薩』の、

           『名字』を、

           『作れる!』のか?

         若し、

         強いて、

           『名字』を、

           『作った!』としても、

         是の、

           『名字』は、

             『住まる!』こともなく、

             『住まらない!』のでもないのである。

問曰。是名字何以故不住。

問うて曰く、是の名字は、何を以っての故にか、住まらざる。

 問い、

   是の、

     『名字』は、

     何故、

       『住まらない!』のですか?

答曰。名字在法中住。法空故名字無住處。如車輪輞輻轂等和合故有車名。若散是和合則失車名。是車名非輪等中住。亦不離輪等中住。

答えて曰く、名字は、法中に在りて住まる。法は空なるが故に、名字は住処無し。車は輪、輞、輻、轂等の和合の故に、車の名有るが如し。若し、是の和合を散ずれば、則ち車の名を失うも、是の車の名は、輪等の中に住まるに非ず、亦た輪等の中を離れて住まるにあらず。

 答え、

   『名字』は、

     『法』の中に、

       『住まる!』ものであるが、

     『法』が、

       『空』である!が故に、

       『名字』も、

       亦た、

         『住処』が無い!のである。

     譬えば、

       『車』は、

         『輪(わ)』、

         『輞(おおわ)』、

         『輻(や)』、

         『轂(こしき)』等の、

           『和合』の故に、

           『車の名』が有る!のであり、

         若し、

         是の、

           『和合』を

             『散じた!』ならば、

             『車の名』を失う!のである。

     是の、

       『車』の、

         『名』は

           『輪』等の中に、

           『住まる!』のではなく、

         亦た、

           『輪』等を離れて、

           『住まる!』のでもない。

 

  (ざい):〜に。於に同じ。

  (もう):おおわ。車輪の外周をつつむわ。牙、牙囲とも云う。

  (ふく):や。車のや。輞と轂をつなぐ部材。

  (こく):こしき。車輪の中心にあり、輻を集め、車軸を其の中心に貫いておるもの。

  (りん):車のわ。中央に轂があり、外周に牙(輞)があって轂と牙とを輻で結び、轂の中央に孔を穿って車軸をさし入れて車を転進させる具。古は牙囲の径は六尺六寸、輻は三十本であった。

車名字一異中求皆不得。失車名字故。名字無住處。因緣散時尚無。何況因緣滅。眾生亦如是。色等五眾和合故有眾生字。若五眾離散名字無住處。五眾離散時尚無。何況無五眾。

車の名字は、一異の中に求むるも、皆得ず。車の名字を失するが故に、名字は住処無し。因縁の散ずる時すら、尚お無し、何に況んや、因縁の滅するをや。衆生も、亦た是の如く、色等の五衆の和合の故に、衆生の字有り。若し五衆離散すれば、名字は住処無し。五衆の離散の時すら、尚お無し、何に況んや、五衆無きをや。

         『車』の、

         『名字』は、

           『一()』、

           『異()』の中に求めても、

           皆、

             『得る』ことはない!

         『因縁』が散ずれば、

           『車』の、

           『名字』を失う!が故に、

             『名字』には、

             『住処』が無い!のである。

           『因縁』の、

             『散時』すら、

             尚お、

               『無い!』のであるから、

           況して、

           『因縁』の、

             『滅時』は言うまでもない。

       『衆生』も、

       亦た、

         是のように、

         『色』等の、

         『五衆』の、

           『和合』の故に、

           『衆生』の、

             『名字』が、

             『有る!』のであり、

         若し、

         『五衆』が、

           『離散』すれば、

           『名字』には、

             『住処』が、

             『無い!』のである。

         『五衆』の、

           『離散の時』すら、

           尚お、

             『無い!』のであるから、

           況して、

           『五衆』が、

             『無い!』ならば言うまでもない。

問曰。若散時名字不可得。和合未散時則有名字。何以言不可得。

問うて曰く、若し、散ずる時に名字は得べからざるも、和合して未だ散ぜざる時には、則ち名字有らん。何を以ってか、得べからずと言う。

 問い、

   若し、

     『散時』に、

       『名字』が、

       『得られない!』ならば、

     『和合』して、

     未だ、

       『散じない時』には、

       『名字』が有る!はずです。

     何故、

       『得られない!』と言うのですか?

答曰。是菩薩名字一。五眾則有五。一不作五五不作一。若五作一如五匹物不得為一匹用。若一作五如一匹物不得為五匹用。以是故一菩薩字不得五眾中住。

答えて曰く、是の菩薩の名字は一にして、五衆は則ち五有り。一は五と作らず、五は一と作らず。若しは、五を一と作すとも、五匹の物は、一匹と為すに用うることを得ざるが如し。若しは、一を五と作すとも、一匹の物は、五匹と為すに用うることを得ざるが如し。是を以っての故に、一菩薩の字は、五衆の中に住まるを得ず。

 答え、

   是の、

     『菩薩』の、

       『名字』は、

         『一』であり、

       『五衆』には、

         『五』が有る!が、

       『一』は、

         『五』と作らず、

       『五』は、

         『一』と作らない!

     若し、

       『五』が、

         『一』に作った!としても、

       例えば、

       『五匹』の、

         『物』を用いて、

         『一匹』と為す!ことはできない。

     若し、

       『一』が、

         『五』に作った!としても、

       例えば、

       『一匹』の、

         『物』を用いて、

         『五匹』と為す!ことはできないのである。

   是の故に、

     『一菩薩』の、

       『名字』は、

       『五衆』の中に、

         『住まる!』ことができない。

非不住者。若名字因緣和合無。則世俗語言眾事都滅。世諦無故第一義諦亦無。二諦無故諸法錯亂。

住まらざるに非ずとは、若し、名字と因縁との和合無くんば、則ち世俗の語言、衆事は都て滅し、世諦無きが故に第一義諦も亦た無く、二諦無きが故に、諸法錯乱せん。

   『住まらない!のでもない』とは、

   若し、

     『名字』と、

     『因縁()』との、

       『和合』が、

       『無い!』ならば、

     則ち、

     『世俗』の、

     『語言』の、

       『衆事』が、

       都て、

         『滅する!』ことになる。

     『世諦』が、

       『無い!』が故に、

       『第一義諦』も、

       亦た、

         『無い!』ことになり、

     『二諦』が、

       『無い!』が故に、

       『諸法』が、

         『錯乱』する!ことになる。

復次若因緣中有名字者。如說火則燒口。說有則塞口。若名字不在法中者。說火不應生火想。求火亦可得水。從久遠已來共傳名字故。因名則識事。以是故說名字義非住非不住。

復た次ぎに、若し、因縁の中に、名字有らば、火と説けば、則ち口を焼き、有りと説けば、則ち口を塞ぐが如くならん。若し、名字は、法中に在らずんば、火と説くも、応に火想を生ずべからず。火を求むれば、亦た水を得べし。久遠より已来、共に名字を伝うるが故に、名に因りて、則ち事を識る。是を以っての故に、名字の義は、住まるに非ず、住まらざるに非ずと説く。

 復た次ぎに、

   若し、

     『因縁()』の中に、

       『名字』が、

       『有る!』ならば、

     例えば、

       『火!』と言えば、

         『口』を、

         『焼く!』ことになり、

       『有る!』と言えば、

         『口』を、

         『塞ぐ!』はずである。

   若し、

     『名字』が、

       『法(因縁)』の中に、

       『無い!』ならば、

     例えば、

       『火!』と言っても、

         『火想』を、

         『生ずる!』はずがなく、

       『火!』と求めれば、

       亦た、

         『水』を、

         『得る!』かもしれない。

   『久遠の昔』より、

   共に、

     『名字』を、

     『伝えてきた!』が故に、

       『名』に因れば、

       『事』を識る!ことができ、

   是の故に、

     こう説くのである、――

     『名字』の義は、

       『住まる!』こともなく、

       『住まらない!』のでもない、と。

復次是中須菩提自說。因緣無所有故。是名字非住非不住。如菩薩名字五眾十二入十八界等諸法亦如是。

復た次ぎに、是の中に、須菩提は、自ら説かく、『因縁は、所有無きが故に、是の名字は住まるに非ず、住まらざるに非ず。菩薩の名字の如く、五衆、十二入、十八界等の諸法も、亦た是の如し』と。

 復た次ぎに、

   是の中に、

   『須菩提』は、

     自ら、こう説いている、――

     『因縁()』は、

       『所有』が、

       『無い!』が故に、

     是の、

       『名字』は、

         『住まる!』こともなく、

         『住まらない!』のでもない。

     例えば、

     『菩薩』の、

       『名字』のように、

     『五衆』、

     『十二入』、

     『十八界』等の、

     『諸法』も、

     亦た、

       是のとおりである、と。

問曰。如上來說。五眾諸法集散不可得。今何以復說五眾。

問うて曰く、上来説くが如く、五衆の諸法の集、散は得べからず。今は、何を以ってか、復た五衆を説く。

 問い、

   上に、

     説かれたように、

     『五衆』の、

     『諸法』の、

       『集、散』は、

       『得られない!』とすれば、

   今は、

   何故、

     復た、

     『五衆』を説く!のですか?

答曰。上直說五眾。今說五眾如夢如幻。

答えて曰く、上には、直ちに五衆を説き、今は、五衆の夢の如き、幻の如きを説く。

 答え、

   上には、

   直ちに、

     『五衆』を説いた!のであるが、

   今は、

     『五衆』の、

       『夢』のようであり、

       『幻』のようである!ことを説く。

復次有人謂。凡夫人五眾虛誑不實如夢。聖人五眾非是虛誑。以是故須菩提說。如夢如幻同皆不住。

復た次ぎに、有る人の謂わく、『凡夫人の五衆は、虚誑にして、実ならざること、夢の如きも、聖人の五衆は、是れ虚誑に非ず』と。是を以っての故に、須菩提は、『夢の如く、幻の如くして、同じく皆住まらず』と説けり。

 復た次ぎに、

   有る人は、

     こう謂っている、――

     『凡夫人』の、

       『五衆』は、

         『虚誑』であり、

         『不実』であり、

         『夢』のようである!が、

     『聖人』の、

       『五衆』は、

       是れは、

         『虚誑』ではない!と。

   是の故に、

     『須菩提』は、

       こう説いたのである、――

       『凡夫人』も、

       『聖人』も、

         『五衆』は、

           『夢』か、、

           『幻』のようであり、

         皆、

         同じように、

           『住まらない!』のである、と。

問曰。十譬中何以但說五事。

問うて曰く、十譬喩の中に、何を以ってか、但だ五事のみを説く。

 問い、

   『十譬喩』の中に、

   何故、

   但だ、

     『五事』のみを説く!のですか?

 

  十譬喩(じゅうひゆ):諸法皆空の理を解せしめんが為に説ける十種の譬喩。即ち幻、焔、水中月、虚空、響、ノ闥婆城、夢、影、鏡中像、化を云う。『大智度論巻6()注:十喩』参照。

答曰。若說十事無在。但以隨眾生心。說五事辯故不盡說。或以五眾故說五。餘法亦如是。

答えて曰く、若し、十事を説くとも、在るもの無し。但だ、以って衆生の心に随わんに、五喩事を説けば、辯ずるが故に、尽くは説かざるなり。或いは五衆を以っての故に五喩を説く。余法も、亦た是の如し。

 答え、

   若し、

     『十事』を説いた!としても、

       『在る!』ものは、

       『無い!』のであるが、

     但だ、

     『衆生の心』に随う!為には、

       『五譬喩』を説けば、

       『事』が済む!ので、

     故に、

     尽くは、

       『説かなかった!』のである。

   或いは、

     『五衆』の為に、、

     『五喩』を説いた!ものか?

   是の、

     『五喩』以外の、

     『余法』であっても、

     亦た、

       是のとおりである。

離有二種。一者身離。二者心離。身離者。捨家恩愛世事等閑居靜處。心離者。於諸結使悉皆遠離。

離に、二種有り、一には身の離、二には心の離なり。身の離とは、家、恩愛、世事等を捨てて、静処に閑居す。心の離とは、諸の結使を悉く、皆遠離す。

   『離』には、

     『二種』有り、

     一には、『身の離』、

     二には、『心の離』である。

   『身の離』とは、

     『家、恩愛、世事』等を捨てて、

     『静処』に、

       『閑居』する!ことであり、

   『心の離』とは、

   諸の、

     『結使』を、

     悉く、

     皆、

       『遠離』する!ことである。

復有二種離。一者諸法離名字。二者諸法各各離自相。此中說後二種離。所以者何。此中破名字故餘處自相離。小乘法中多說前二離。

復た二種の離有り、一には、諸法は名字を離る。二には、諸法は、各各自相を離る。此の中には、後の二種の離を説く。所以は何んとなれば、此の中に、名字を破するが故に、余処に、自相を離るればなり。小乗法の中には、多く前の二離を説く。

   復た、

     『二種の離』が有る、

     一には、

       『諸法』が、

       『名字』を離れる!ことであり、

     二には、

       『諸法』が、

       各各、

         『自相』を離れる!ことである。

   此の中では、

   後の、

     『二種の離』と説く!ことにする。

     何故ならば、

       此の中に、

         『名字』を、

         『破する!』が故に、

       余処に、

         『自相』を、

         『離れる!』からである。

   『小乗法』中には、

   多く、

   前の、

     『二離』を説いている。

寂滅亦有二種。一者淳善相寂滅惡事。二者如涅槃寂滅相。觀世間諸法亦如是。此中但說後寂滅。

寂滅も、亦た二種有り、一には、善相を淳くして、悪事を寂滅す。二には、涅槃の如き寂滅相もて、世間の諸法も、亦た是の如しと観る。此の中には、但だ後の寂滅を説く。

   『寂滅』も、

   亦た、

     『二種』有る、

     一には、

       『善相』を厚くして、

       『悪事』を寂滅する!ことであり、

     二には、

       『涅槃』のような、

       『寂滅の相』を以って、

         『世間』の、

         『諸法』も、

         亦た、

           是のとおりである!と観ることである。

   此の中には、

   但だ、

     『後の寂滅』のみを説く。

 

  (じゅん):あつくす。厚に同じ。

不生亦有二種。一者未來無為法名不生。二者一切法實無生相。生不可得故此中但說後不生。

不生も、亦た二種有り、一には、未来の無為法を不生と名づく。二には、一切法は、実に生相無し、生は得べからざるが故なり。此の中には、但だ後の不生を説く。

   『不生』にも、

   亦た、

     『二種』有り、

     一には、

       『未来』の、

         『無為法』を、

         『不生』といい、

     二には、

       『一切の法』は、

       実に、

         『生相』が、

         『無い!』ことをいう。

       何故ならば、

         『生』を、

         『得られない!』からである。

   此の中には、

   但だ、

     『後の不生』のみを説く。

不滅有三種。智緣滅非智緣滅無常滅。此中說無常滅。與此相違故名不滅。

不滅には三種有り、智縁滅、非智縁滅、無常の滅なり。此の中には、無常の滅を説いて、此れと相違するが故に、不滅と名づく。

   『不滅』とは、

   『滅』には、

     『三種』有り、

       『智縁滅』と、

       『非智縁滅』と、

       『無常滅』である。

   此の中には、

     『無常滅』を説き、

     此れと、

       『相違』する!が故に、

       『不滅』というのである。

 

  智縁滅(ちえんめつ):又択滅とも称す。智慧の揀択力に依りて得する滅諦涅槃を云う。『大智度論巻19()注:三無為、巻42()注:択滅、三種滅』参照。

  非智縁滅(ひちえんめつ):又非択滅とも称す。一説に智慧に依らず、生の縁を欠くに由り不生を得る相似の涅槃の如し。『大智度論巻15()注:非択滅、巻19()注:三無為、巻42()注:三種滅』参照。

  無常滅(むじょうめつ):諸行無常に由り、諸法の性の自ら滅なるを云う。『大智度論巻42()注:三種滅』参照。

  択滅(じゃくめつ):梵語pratisaMkhyaa−nirodhaの訳。又数滅、或いは智縁滅とも名づく。七十五法の一、百法の一。無為法の一種にして、即ち慧の揀択力に依りて得する滅諦涅槃を云う。「大毘婆沙論巻31」に、「云何が択滅なる。答う、諸滅は是れ離繋なり。謂わく諸法の滅に亦た離繋を得す、離繋得を得する是れを択滅と名づく。(中略)何故に択滅と名づくるや、答う、択とは謂わく慧なり、滅は是れ彼の果なり。択所得の滅なるが故に択滅と名づく」と云い、「倶舎論巻1」に、「択滅は即ち離繋を以って性と為す。諸の有漏法は繋縛を遠離し、解脱を証得するを名づけて択滅と為す。択は謂わく揀択にして、即ち慧の差別なり。各別に四聖諦を揀択するが故なり。択力所得の滅を名づけて択滅と為す。牛の駕する所の車を名づけて牛車と曰うが如し。中言を略去するが故に是の説を作す」と云える是れなり。是れ慧を以って四聖諦の理を揀択し、煩悩を断ずる時、諸の有漏法は繋縛を離れ、之に対して離繋を得するを択滅と名づけたるなり。蓋し凡夫は無始以来煩悩を有するが故に、彼の一切の有漏法は煩悩の為に繋縛せらる。今慧の択力によりて煩悩を断ずる時、彼の有漏法は即ち繋縛を離るるが故に之を滅と名づけ、彼の滅に於いて離繋を得するを解脱を証得すとなすなり。「大毘婆沙論巻31」に、「諸の有漏法は無始時来、煩悩に繋せられて解脱を得ず。若し煩悩を断ぜば彼れ繋を離るるが故に便ち解脱を得。人の縛せられて後解脱する時、人を解脱と名づけ、縄等を謂うに非ざるが如し。既に所繋に於いて解脱を証得す、故に外物の中に亦た解脱を得るなり」と云える即ち其の意なり。其の一体多体に関しては、「大毘婆沙論巻31」に一物、二物、五物、十一物、三十五物、八十九物等の諸説を挙げ、其の下に之を許し「応に此の説を作すべし、有漏法に爾の所の体あるに随って択滅も亦た爾り。所繋の事体に随って爾の所の離繋あり、亦た爾の所の体あるが故なり」と云い、又前引「倶舎論巻1」の連文に、「一切の有漏法は同一択滅なりや、爾らず。云何、繋の事に随って別なり。謂わく繋の事の量に随って離繋の事も亦た爾り。若し爾らずんば見苦所断の煩悩の滅を証する時に於いて、応に一切所断の諸の煩悩の滅を証すべし。若し是の如くならば、余の対治を修するは則ち無用となるべし」と云えり。是れ一切の有漏法は一一皆煩悩の為に繋縛せられ、而して択滅は即ち其の離繋に名づけたるものなるが故に、択滅の数は所繋縛の有漏法の数に等しきことを顕わすの意なり。又説一切有部に於いては、択滅は常住実有にして、三性の中には善に摂すとなすも、経部等に於いては之を仮立とし、又其の解釈も今と大いに異なる所あり。「倶舎論巻6」に、「此の法の自性は実有なるも離言なり。唯諸の聖者の各別の内証なり。但し方便して総相に説きて是れ善是れ常なり、別に実物あるを名づけて択滅と為し、亦た離繋と名づくと言うべし。経部師説く、一切の無為は、皆実有なること色受等の別に実物あるが如くには非ず。此れ所無なるが故なり。(中略)已起の随眠の生種滅する位に、揀択力に由りて余更に生ぜざるを説いて択滅と名づくと。(中略)余部の師説く、慧の功能に由りて随眠生ぜざるを名づけて択滅と為すと」と云えり。之に依るに経部等に於いては、揀択力に由りて随眠をして生ぜざらしむるを択滅と名づけたるを知るべし。又「成唯識論巻1」にも、「簡択力に由りて諸の雑染を滅し、究竟じて証会するが故に択滅と名づく」と云い、又「同巻10」に、「択滅に二あり、一に滅縛得、謂わく生を感ずる煩悩を断じて得する者なり。二に滅障得、謂わく余障を断じて証得する者なり。故に四の円寂は、諸の無為の中に初の一は即ち真如、後の三は皆択滅なり」と云えり。此の中、滅縛得とは煩悩障を断じて得する択滅を云い、滅障得とは縛に非ざる所知障等を断じて得する択滅を云う。性浄、有余、無余、無住処の四種涅槃の中、性浄涅槃は真如にして即ち択滅の摂に非ず、余の三は総じて択滅に摂し、就中、無住処涅槃は其の体亦た真如なりと雖も、真の択力に由りて余障を滅し、証得するものなるが故に之を択滅に摂すとし、真如と択滅を区別し、択滅を施設有にして実有に非ずとなすなり。又「品類足論巻1」、「大毘婆沙論巻32」、「雑阿毘曇心論巻9」、「大智度論巻42」、「瑜伽師地論巻3」、「顕揚聖教論巻1、巻18」、「入阿毘達磨論巻下」、「順正理論巻1」、「異部宗輪論」、「彰所知論巻下無為法品」、「大乗義章巻2」、「百論疏巻下之中」、「倶舎論光記巻1、巻6」、「成唯識論述記巻2末、巻10末」等に出づ。<(望)

  三種滅(さんしゅめつ):(一)有為無為の滅に総じて三種あるの意。一に択滅pratisaMkhyaa−nirodha、二に非択滅apratisaMkyhaa−nirodha、三に無常滅anitiya−nirodhaなり。「発智論巻2」に、「云何が択滅なる、答う、諸滅の是れ離繋なるもの。云何が非択滅なる、答う、諸滅の離繋に非ざるもの。云何が無常滅なる、答う、諸行の散壊破没亡退なり」と云える是れなり。蓋し説一切有部の正義は、二滅は是れ無為、無常滅は是れ有為にして共に実体ありとなせるも、譬喩者は三種の滅は実に体あるに非ずとし、分別論者は三皆無為なりとなせり。又「大毘婆沙論巻31」等に出づ。(二)有為法の滅に三種あるの意。一に念念滅、二に相違滅、三に無余滅なり。「四諦論巻3」に依るに、一切有為法の刹那に随って謝することを念念滅と名づけ、刹那相続して滅すれども、其の性前後相乖くを相違滅と名づけ、灯火の滅するが如く、滅して余なきを無余滅と名づくと云えり。又「順中論巻下」所説の三種の無常も亦た此の意に同じきが如し。三種の無常とは、一に念念壊滅無常、二に和合離散無常、三に畢竟如是無常なり。(三)断惑の道に三種の滅あるの意。一に未有滅、二に伏離滅、三に永離滅なり。未有滅とは、惑の未だ生ぜず未だ地を縁ずることを得ざるを云い、伏離滅とは、惑已に生じ已に地を縁ずることを得るも、世出世の道由りて現時に起らざるを云い、永離滅とは、惑已に伏して滅因を離れ、滅余なきが故に未来に決して生ぜざるを云うなり。「四諦論巻3」等に出づ。(四)滅諦の滅に三種あるの意。一に自性滅、二に二取滅、三に本性滅なり。「辯中辺論巻中」に、「滅諦の三とは、一に自性滅なり、謂わく自性不生なるが故なり。二に二取滅なり、謂わく所取と能取と二不生なるが故なり。三に本性滅なり、謂わく垢の寂に二あり、即ち択滅及び真如なり」と云える是れなり。此の中、自性滅とは、偏計所執の自性は仮名にして不生なるを云い、二取滅とは、依他起の所取能取の相は仮にして本と不生なるを云い、本性滅とは、択滅及び真如の体は本来寂滅なるを云うなり。又「成唯識論巻8」、「同述記巻8本」、「辯中辺論述記巻中」等に出づ。<(望)

不示者一切諸觀滅。語言道斷故無法可示。是法如。是相若有若無若常若無常等。不垢不淨。如法性實際法相法位義如先說。

不示とは、一切の諸観滅し、語言の道断ずるが故に、法の示すべき無し。是の法は如にして、是の相は、若しは有、若しは無、若しは常、若しは無常等なり。不垢、不浄、如、法性、実際、法相、法位の義は、先に説けるが如し。

   『不示』とは、

   一切の、

     『諸観』が滅して、

     『語言』の、

       『道』が断ずる!が故に、

       『示す!』べき、

         『法』が無い!ことをいう。

     是の、

       『法』が、

       『如』であり、

     是の、

       『相』は、

         若しくは、『有』、

         若しくは、『無』、

         若しくは、『常』、

         若しくは、『無常』等である。

   『不垢』、

   『不浄』、

   『如』、

   『法性』、

   『実際』、

   『法相』、

   『法位』の義については、

   先に、

     説いたとおりである。

 

  (か):〜される。所に同じ。

問曰。五眾法有集散。與此相違故言不集不散。如法性實際等無相違故。云何言不集不散。

問うて曰く、五衆の法は、集、散有り。此れと相違するが故に、不集、不散と言うも、如、法性、実際等は、相違無きが故に、云何が、不集、不散と言う。

 問い、

   『五衆』の、

     『法』には、

     『集、散』が有る!が、

   此れと、

     『相違』するが故に、

       『集でない!』、

       『散でない!』と言うのであれば、

   『如』、

   『法性』、

   『実際』等は、

     『相違』が無い!のに、

     何故、

       『集でない!』、

       『散でない!』と言うのですか?

答曰。行者得如法性等故名為集。失故名為散。如虛空雖無集無散。鑿戶牖名為集。塞故名為散。善不善乃至十方如恒河沙等諸佛義如先說。是諸佛法及佛名字無所依止故。皆空不住非不住

答えて曰く、行者は、如、法性等を得るが故に、名づけて集と為し、失するが故に、名づけて散と為す。虚空の如きは、集無く、散無しと雖も、戸牖を鑿(うが)つを名づけて、集と為し、塞ぐが故に、名づけて散と為す。善、不善、乃至十方の恒河沙等の如き諸仏の義は、先に説けるが如し。是の諸仏の法、及び仏の名字は、依止する所無きが故に、皆空なれば、住まらずして、住まらざるに非ざるなり。

 答え、

   『行者』は、

     『如』、

     『法性』等を、

       『得る!』が故に、

         『集』する!といい、

       『失う!』が故に、

         『散』ずる!というのである。

   例えば、

     『虚空』には、

       『集』も無く、

       『散』も無い!が、

     『窓』を

       『穿つ!』が故に、

         『集』する!といい、

       『塞ぐ!』が故に、

         『散』ずる!というのと同じである。

   『善、不善』、

   乃至、

   『十方恒河沙等の諸仏』の義は、

   先に、

     説いたとおりである。

   是の、

     『諸仏の法』、及び、

     『仏の名号』は、

       『依止する所』が無い!が故に、

       皆、

         『空』であり、

         『住まる!』こともなく、

         『住まらない!』のでもない。

 

  戸牖(こゆ):出入り口と窓。牖は壁に穿った窓。

 

 

 

 

諸法の名字は説くべからず

【經】世尊。諸法因緣和合假名施設。所謂菩薩是名字於五受陰中不可說。十二入十八界乃至十八不共法中不可說。於和合法中亦不可說。

世尊、諸法は因縁の和合、仮名の施設なり。謂わゆる菩薩とは、是の名字は、五受陰の中に説くべからず。十二入、十八界、乃至十八不共法の中に説くべからず。和合の法中にも、亦た説くべからず。

        世尊!

          『諸法』は、

            『因縁の和合』、

            『仮名の施設』であり、

          謂わゆる、

            『菩薩』とは、

            是の、

              『名字』を、

              『五受陰』の中に、

                『説く!』ことはできません。

              『十二入』、

              『十八界』、

              乃至、

              『十八不共法』の中に、

                『説く!』こともできず、

              亦た、

              『和合法』の中に、

                『説く!』こともできません。

 

  施設(しせつ):こしらえもうける。

世尊。譬如夢於諸法中不可說。響影焰化於諸法中亦不可說。譬如名虛空。亦無法中可說。

世尊、譬えば夢は、諸法の中に説くべからず。響、影、焔、化も、諸法の中に、亦た説くべからざるが如し。譬えば虚空と名づくるが如きも、亦た法の中に説くべきもの無し。

        世尊!

          譬えば、

            『夢』を、

              『諸法』の中に、

              『説く!』ことができないように、

            『響、影、焔、化』を、

              『諸法』の中に、亦た、

              『説く!』ことができないように、

          譬えば、

            『虚空』と言われるものが、

            亦た、

              『諸法』の中に、

              『説く!』ことができないのと同じです。

世尊。如地水火風名。亦無法中可說。戒三昧智慧解脫解脫知見名。亦無法中可說。如須陀洹名字。乃至阿羅漢辟支佛名字。亦無法中可說。如佛名法名。亦無法中可說。

世尊、地、水、火、風の名の如きも、亦た法の中に説くべきもの無し。戒、三昧、智慧、解脱、解脱知見の名も、亦た法の中に説くべきもの無し。須陀洹の名字、乃至阿羅漢、辟支仏の名字の如きも、亦た法の中に説くべきもの無し。仏の名、法の名の如きも、亦た法の中に説くべきもの無し。

        世尊!

          譬えば、

            『地、水、火、風』の、

              『名』も、

              亦た、

                『法』の中に、

                『説かれる!』ことが無いように、

            『戒、三昧、智慧、解脱、解脱知見』の、

              『名』も、

              亦た、

                『法』の中に、

                『説かれる!』ことが有りません。

          例えば、

            『須陀洹』の、

              『名字』、乃至、

            『阿羅漢、辟支仏』の、

              『名字』が、

              亦た、

                『法』の中に、

                『説かれる!』ことが無いように、

            『仏』の、

              『名』や、

            『法』の、

              『名』も、

              亦た、

                『法』の中に、

                『説かれる!』ことは有りません。

所謂若善若不善若常若無常。若苦若樂若我若無我。若寂滅若離若有若無。世尊。我以是義故心悔。一切諸法集散相不可得。

謂わゆる、若しは善、若しは不善、若しは常、若しは無常、若しは苦、若しは楽、若しは我、若しは無我、若しは寂滅、若しは離、若しは有、若しは無なり。世尊、我れは是の義を以っての故に、心に悔ゆ。一切の諸法の集、散の相は得べからず。

            謂わゆる、

              『善』である!『不善』である!とか、

              『常』である!『無常』である!とか、

              『苦』である!『楽』である!とか、

              『我』である!『無我』である!とか、

              『寂滅』である!

              『離』である!

              『有』である!

              『無』である!とかです。

       世尊!

         わたしは、

           『此の義』を以っての故に、

           『心』に、

             『悔いる!』のであり、

         一切の、

           『諸法』には、

           『集、散の相』が、

             『得られない!』から、

             『悔いる!』のです。

若為菩薩作字言是菩薩。世尊。是字不住亦不不住。何以故。是字無所有故。以是故是字不住亦不不住。若菩薩摩訶薩聞作是說般若波羅蜜如是相如是義。心不沒不悔不驚不畏不怖。當知是菩薩必住阿鞞跋致性中。住不住法故

若しは、菩薩の為に字を作して、『是れ菩薩なり』と言わん。世尊、是の字は住まらず、亦た住まらざるにあらず。何を以っての故に、是の字は所有無きが故に、是を以っての故に、是の字は住まらず、亦た住まらざるにあらず。若し、菩薩摩訶薩は、是に般若波羅蜜は、是の如きの相なり。是の如きの義なりと説くことを作すを聞いて、心は没せず、悔いず、驚かず、畏れず、怖れずんば、当に知るべし、是の菩薩は、必ず阿鞞跋致性の中に住まる、不住法に住まるが故なり。

          若し、

            『菩薩』の為に、

              『字』を作って、

              『是れが、菩薩である!』と言ったならば、

          世尊!

            是の、

              『字』は、

                『住まる!』こともなく、

                『住まらない!』のでもありません。

            何故ならば、

            是の、

              『字』は、

                『所有』が、

                『無い!』からであり、

            是の故に、

            是の、

              『字』は、

                『住まる!』こともなく、

                『住まらない!』のでもないからです。

          若し、

            『菩薩摩訶薩』が、

            是のように、

              『般若波羅蜜』とは、

                『是のような相である。』、

                『是のような義である。』と説く!のを聞いて、

            『心』が、

              『没する!』こともなく、

              『悔やむ!』こともなく、

              『驚く!』こともなく、

              『畏れる!』こともなく、

              『怖れる!』こともなければ、

            こう知ることができます、――

            是の、

              『菩薩摩訶薩』は、

                『阿鞞跋致性』の中に、

                『住まる!』のである。

              何故ならば、

                『不住法』の中に、

                『住まる!』からである、と。

【論】釋曰。上來非住非不住門。破菩薩名字及諸法。今以異門破菩薩名字。無法可說為菩薩。何以故。菩薩非是五眾。五眾非是菩薩。五眾中無菩薩。菩薩中無五眾。五眾不屬菩薩。菩薩不屬五眾離五眾無菩薩。離菩薩無五眾。如是菩薩名字不可得。當知是空乃至十八不共法亦如是。

釈して曰く、上来の非住非不住の門は、菩薩の名字、及び諸法を破す。今は、異門を以って、菩薩の名字を破せん。法の説くべき無きを、菩薩と為す。何を以っての故に、菩薩は、是れ五衆に非ず、五衆は、是れ菩薩に非ず。五衆の中に菩薩無く、菩薩の中に五衆無し。五衆は、菩薩に属せず、菩薩は五衆に属せず。五衆を離れて菩薩無く、菩薩を離れて五衆無し。是の如く、菩薩の名字は得べからず。当に知るべし、是の空、乃至十八不共法も、亦た是の如くなるを。

 釈す、

   上来の、

     『住まる!』でもなく、

     『住まらない!』でもないという、

       『門』は、

         『菩薩の名字』、及び、

         『諸法』を破する!ものであるが、

     今は、

       『異門』を以って、

         『菩薩の名字』を破る!のである。

     『法』の中に、

       『菩薩である!』と、

       『説かれる!』ものは無い。

     何故ならば、

       『菩薩』とは、

       是れは、

         『五衆』でなく、

       『五衆』は、

       是れが、

         『菩薩』ではない!からである。

       『五衆』の中に、

         『菩薩』は、

         『無い!』のであり、

       『菩薩』の中に、

         『五衆』は、

         『無い!』のである。

       『五衆』は、

         『菩薩』に、

         『属する!』ことはなく、

       『菩薩』は、

         『五衆』に、

         『属する!』のでもない。

       『五衆』を、

       離れて、

         『菩薩』は、

         『無い!』のであり、

       『菩薩』を、

       離れて、

         『五衆』は、

         『無い!』のである。

   是のように、

     『菩薩』の、

       『名字』は、

       『得られない!』のであり、

   こう知ることもできる、――

   是の、

     『空』、

     乃至、

     『十八不共法』も、

     亦た、

       是のとおりである、と。

譬如夢中有所見。皆是虛妄不可說。此夢中無有定法相。所謂五眾十二入十八界。但有誑心。餘影響焰化亦如是但誑耳目。

譬えば夢中に見る所有るも、皆是れ虚妄にして説くべからざるが如し。此の夢中には、定まれる法相の有ること無し。謂わゆる五衆、十二入、十八界は、但だ心を誑すこと有るのみ。余の影、響、焔、化も、亦た是の如く、但だ耳目を誑すのみ。

   譬えば、

     『夢』の中に、

       『見る所』が有っても、

       皆、

         『虚妄』であり、

         『説く!』ことはできないが、

   是の、

     『夢』の中に、

     定まった、

       『法相』が、

       『無い!』ように、

     謂わゆる、

       『五衆』、

       『十二入』、

       『十八界』も、

       但だ、

         『心』を、

         『誑す!』ことが有るだけである。

   余の、

     『影、響、焔、化』も、

     亦た、

       是のように、

       但だ、

         『耳、目』を誑す!だけである。

如虛空一切法中不可說。無相故。虛空與色相違故不得說名為色。色盡處亦非虛空。更無別法故。若謂入出為虛空相。是事不然。是身業非虛空相。若無相則無法。以是故虛空但有名字。菩薩名字亦如是。

虚空の如きは、一切法の中に説くべからず。無相なるが故なり。虚空は、色と相違するが故に、『名づけて、色と為す』と説くことを得ず。色の尽くる処も、亦た虚空に非ず。更に別の法無きが故なり。若し、入出を謂いて、虚空の相と為さば、是の事は然らず。是れは身業にして、虚空の相に非ざればなり。若し相無ければ、則ち法無し。是を以っての故に、虚空は、但だ名字有るのみ。菩薩の名字も、亦た是の如し。

     例えば、

       『虚空』は、

         『一切法』の中に、

         『説かれる!』ことはない。

       何故ならば、

         『相』が、

         『無い!』からである。

       『虚空』は、

         『色』と、

           『相違する!』が故に、

           『色である!』と説けないし、

         『色』が、

           『尽きた処』も、

           亦た、

             『虚空』ではない!

         何故ならば、

         『色』の、

           『尽きた処』に、

           更に、

             『別の法』が、

             『無い!』からである。

         若し、

           『入、出』する!ことが、

             『虚空の相』である!と謂えば、

             是の事は、

               そうでない。

           是れは、

             『身業』であり、

             『虚空の相』ではない!のである。

       若し、

         『相』が無ければ、

         則ち、

           『法』が無い!ことになる。

       是の故に、

         『虚空』は、

         但だ、

           『名字』のみが、

           『有る!』のであり、

         『菩薩』の、

           『名字』も、

           亦た、

             是のとおりである。

問曰。如夢虛空等可但有名字。云何地水火風實法亦但有名字。

問うて曰く、夢、虚空等の如きは、但だ名字有るのみなるべし。云何が、地、水、火、風の実法も、亦た但だ名字有るのみなる。

 問い、

   例えば、

     『夢』や、

     『虚空』等は、

     但だ、

       『名字』が有る!だけだとしても、

   何故、

     『地、水、火、風』等の、

     『実法』も、

     亦た、

     但だ、

       『名字』が有る!だけなのですか?

答曰。無智人謂地等諸物以為實。聖人慧眼觀之。皆是虛誑。譬如小兒見鏡中像以為實。歡喜欲取謂為真實。大人觀之但誑惑人眼。

答えて曰く、無智の人は、地等の諸物を謂いて、以って実と為すも、聖人は慧眼もて、之を観れば、皆是れ虚誑なり。譬えば、小児は、鏡中の像を見て、以って実と為し、歓喜して取らんと欲し、謂いて真実と為すも、大人は之を、但だ人の眼を誑惑するのみと観るが如し。

 答え、

   『無智の人』は、

     『地』等の、

     『諸物』を、

       『実』である!と謂うが、

   『聖人』が、

   『慧眼』で、

     之を観れば、

     皆、

       『虚誑』である。

   譬えば、

   『小児』は、

     『鏡中の像』を見て、

     『実』である!と思い、

     歓喜して、

       『取ろう!』として、

       『真実だ!』と謂うが、

   『聖人』が、

     之を観れば、

     但だ、

       『人の眼』を、

       『誑惑』している!だけである。

諸凡夫人見微塵和合成地謂為實地。餘有天眼者散此地但見微塵。慧眼分別破散此地都不可得。

諸の凡夫人は、微塵和合して地と成るを見て、謂いて実の地と為すも、余の天眼有る者は、此の地を散じて、但だ微塵なるを見、慧眼もて分別すれば、此の地を破散して、都て得べからず。

   諸の、

     『凡夫人』は、

       『微塵』の、

         『和合』が、

         『地』を成す!のを見て、

       是れは、

         『実の地』だ!と謂うが、

     余の、

       『天眼』を有する者は、

       此の、

         『地』を散じて、

       但だ、

         『微塵』のみを見る!のであり、

       『慧眼』の者が、

       此の、

         『地』を、

           『分別』し、

           『破散』すれば、

         都て、

           『得られない!』のである。

復次初品論中種種破身相。如身破地亦破。

復た次ぎに、初品の論中に、種種に身相を破せり。身の破するが如く、地も亦た破すなり。

 復た次ぎに、

   『初品の論』の中に、

   種種に、

     『身相』を破した!が、

   亦た、

     『身』を破した!ように、

     『地』を破す!のである。

復次若地是實。云何一切火觀時皆是火。若以禪定觀為實。佛說一切法空為虛妄。但是事不然。水火風亦如是。

復た次ぎに、若し、地は是れ実ならば、云何が、一切の火は、観る時に、皆、是れ火なる。若し、禅定を以って観て、実と為さば、仏は、『一切の法は、空なり』と説いて、虚妄と為したまえり、但だ、是の事は然らざらんや。水、火、風も、亦た是の如し。

 復た次ぎに、

   若し、

     『地』は、

     是れが、

       『実』であれば、

     はたして、

     一切の、

       『火(鏡中、画中を含む)』は、

       『観る時』に、

       皆、

         『火』である!ということか?

   若し、

     『禅定』を以って、

       『実』である!と、

       『観る!』のだといえば、

     『仏』は、

       一切の、

         『法』は、

           『空』である!と説かれて、

           『虚妄』である!と為された!

     いったい、

     是の事が、

       そうでない!というのか?

   『水、火、風』も、

   亦た、

     是のとおりである。

 

  云何(うんが):いかん。如何に同じ。

  如何(にょか):(問う言葉)いかが。(反語の辞)どうして、いかんぞ。(詰問の辞)なんぞ。

  (たん):特別の義。単にの義。専らの義。而れどもの義。凡その義。徒にの義。空しくの義。詐るの義。

如四大為身本猶尚爾。何況身所作持戒等諸業而不空。

四大の如き、身の本と為すものすら、猶尚お爾り。何に況んや、身の作す所の、持戒等の諸業にして、空ならざらんや。

   例えば、

     『四大』のような、

     『身の本』であってすら、

     尚お、

       爾のように、

       『空』である。

     況して、

     『身』の、

       『所作』である、

       『持戒』等の、

       『諸業』が、

         『空でない!』ことがあろうか?

如戒等麤業尚空。何況禪定智慧解脫解脫知見等而不空。

戒等の如き、麁業すら、尚お空なり。何に況んや、禅定、智慧、解脱、解脱知見等にして、空ならざらんや。

   例えば、

     『戒』等の、

     『麁業』ですら、

     尚お、

       『空』である!

     況して、

     『禅定』、

     『智慧』、

     『解脱』、

     『解脱知見』等が、

       『空でない!』ことがあろうか?

若戒等五眾空者。何況是因緣得諸聖道果而不空。

若し、戒等の五衆すら空なれば、何に況んや、是の因縁の得たる、諸の聖道の果にして、空ならざらんや。

   若し、

     『戒』等の、

     『五衆』ですら、

       『空』である!とするならば、

     況して、

     是の、

       『因縁の得』である、

       諸の、

         『聖道の果』が、

           『空でない!』ことがあろうか?

若聖道果空者。何況須陀洹人乃至佛而不空。以是故菩薩名字雖善法乃至有無法中。出不名為善。乃至不名為有無集散不可得故。

若し、聖道の果すら空なれば、何に況んや、須陀洹の人、乃至仏にして、空ならざらんや。是を以っての故に、菩薩の名字は、善法、乃至有無の法中に出づと雖も、名づけて善と為さず、乃至名づけて有無と為さず。集、散は得べからざるが故なり。

   若し、

     『聖道の果』すら、

       『空』である!とするならば、

     況して、

     『須陀洹の人』、乃至、

     『仏』が、

       『空でない!』ことがあろうか?

   是の故に、

     『菩薩』の、

       『名字』は、

         『善法』、乃至、

         『有、無の法』の中に

           『出た!』としても、

           『善』といわない!のであり、

         乃至、

         『有る!』とも、

         『無い!』ともいわない。

       何故ならば、

         『集、散』が、

         『得られない!』からである。

須菩提知空相如是。云何說名菩薩為說般若波羅蜜。若菩薩聞是不恐不畏。則是阿鞞跋致性中住。以如不住法住故。

須菩提は、空相を知ること是の如し。云何が、説いて菩薩と名づけ、為に般若波羅蜜を説かん。若し、菩薩は、是れを聞いて、恐れず、畏れずんば、則ち是れ阿鞞跋致性の中に住まらん。不住法の如きに住まるを以っての故なり。

   『須菩提』は、

     『空相』を、是のように知ったのである、――

     何故、

       是れが、

         『菩薩である!』といって、

         其の為に、

           『般若波羅蜜』を説く!と説けるのか?

     若し、

       『菩薩摩訶薩』が、

       是れを、

         『聞いた!』として、

           『恐れる!』こともなく、

           『畏れる!』こともなければ、

       是れは、

         『阿鞞跋致性』の中に、

           『住まる!』ことになる。

       何故ならば、

         『不住法』の中に、

           『住まる!』からである。

阿鞞跋致性者。是菩薩未得無生法忍。未從諸佛授記。但福コ智慧力故。能信樂諸法畢竟空。是名阿鞞跋致性中住得阿鞞跋致氣分故。如小兒在貴性中生。雖未成事以姓貴故便貴

阿鞞跋致性とは、是の菩薩は、未だ無生法忍を得ず。未だ諸仏より授記せず、但だ福徳の智慧力の故に、能く諸法の畢竟空を信楽す。是れを阿鞞跋致性の中に住まると名づく。阿鞞跋致の気分を得たるが故なり。小児の、貴性中に在りて生まれ、未だ事を成さずと雖も、姓の貴なるを以っての故に、便ち貴きが如し。

   『阿鞞跋致性』とは、

   是の、

     『菩薩』は、

     未だ、

       『無生法忍』を得ず、

     未だ、

       『諸仏』より、

       『授記』されていないが、

     但だ、

       『福徳』の、

       『智慧力』の故に、

         『諸法』は、

         畢竟じて、

           『空』である!と信楽する。

     是れを、

       『阿鞞跋致性』の中に、

         『住まる!』という。

       『阿鞞跋致』の、

         『気分』を得た!からである。

     譬えば、

       『小児』が、

         『貴い性』の中に、

           『生まれた!』ならば、

           未だ、

             『事』を成した!ことがなくても、

             『性』が、

               『貴い!』が故に、

               『貴ばれる!』のと同じである。

 

 

 

 

 

諸法の中に住すべからず

【經】復次世尊。菩薩摩訶薩欲行般若波羅蜜。色中不應住。受想行識中不應住。眼耳鼻舌身意中不應住。色聲香味觸法中不應住。眼識乃至意識中不應住。眼觸乃至意觸中不應住。眼觸因緣生受乃至意觸因緣生受中不應住。地種水火風空識種中不應住。無明乃至老死中不應住。

復た次ぎに、世尊、菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行ぜんと欲すれば、色中に、応に住まるべからず。受、想、行、識中に、応に住まるべからず。眼、耳、鼻、舌、身、意中に、応に住まるべからず。色、声、香、味、触、法中に、応に住まるべからず。眼識、乃至意識中に、応に住まるべからず。眼触、乃至意触中に、応に住まるべからず。眼触因縁生の受、乃至意触因縁生の受中に、応に住まるべからず。地種、水、火、風、空、識種中に、応に住まるべからず。無明、乃至老死中に、応に住まるべからず。

 復た次ぎに、

   世尊!

     『菩薩摩訶薩』は、

       『般若波羅蜜』を行じよう!とするならば、

       当然、

         『色』の中に、

           『住まる!』べきではありません。

       当然、

         『受、想、行、識』の中に、

           『住まる!』べきではありません。

       当然、

         『眼、耳、鼻、舌、身、意』の中に、

           『住まる!』べきではありません。

       当然、

         『色、声、香、味、触、法』の中に、

           『住まる!』べきではありません。

       当然、

         『眼識、乃至意識』の中に、

           『住まる!』べきではありません。

       当然、

         『眼触、乃至意触』の中に、

           『住まる!』べきではありません。

       当然、

         『眼触因縁生の受、乃至意触因縁生の受』の中に、

           『住まる!』べきではありません。

       当然、

         『地種、水、火、風、空、識種』の中に、

           『住まる!』べきではありません。

       当然、

         『無明、乃至老死』の中に、

           『住まる!』べきではありません。

何以故。世尊。色色相空。受想行識識相空。

何を以っての故に、世尊、色の色相は空なり、受、想、行、識の識相は空なればなり。

       何故ならば、

       世尊!

         『色』の、

           『色相』は、

           『空』であり、

         『受、想、行、識』の、

           『識相』は、

           『空』だからです。

世尊。色空不名為色。離空亦無色。色即是空空即是色。受想行識空不名為識。離空亦無識。識即是空空即是識。

世尊、色は空なれば、名づけて色と為さず。空を離るれば、亦た色無し。色は、即ち是れ空なり。空は、即ち是れ色なり。受、想、行、色は空なれば、名づけて識と為さず。空を離るれば、亦た識為し。識は、即ち是れ空なり。空は、即ち是れ識なり。

       世尊!

         『色』が、

           『空』ならば、

           『色』とはいわれませんが、

         『空』を、

         離れた、

           『色』も、

           亦た、

             無いのです。

         『色』とは、

         是れは、

           『空』であり、

         『空』とは、

         是れは、

           『色』なのです。

         『受、想、行、識』が、

           『空』ならば、

           『受、想、行、識』とはいわれませんが、

         『空』を、

         離れた、

           『受、想、行、識』も、

           亦た、

             無いのです。

         『受、想、行、識』とは、

         是れは、

           『空』であり、

         『空』とは、

         是れは、

           『受、想、行、識』なのです。

乃至老死老死相空。世尊老死空不名為老死。離空亦無老死。老死即是空空即是老死。

乃至老死の老死相とは空なり。世尊、老死は空なれば、名づけて老死と為さず。空を離るれば、亦た老死無し。老死は、即ち是れ空なり。空は、即ち是れ老死なり。

         乃至、

         『老死』の、

           『老死』という、

             『相』は、

             『空』なのです。

       世尊!

         『老死』が、

           『空』ならば、

           『老死』とはいわれませんが、

         『空』を、

         離れた、

           『老死』も、

           亦た、

             無いのです。

         『老死』とは、

         是れは、

           『空』であり、

         『空』とは、

         是れは、

           『老死』なのです。

世尊。以是因緣故。菩薩摩訶薩欲行般若波羅蜜。不應色中住。乃至老死中亦不應住。

世尊、是の因縁を以っての故に、菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行ぜんと欲すれば、応に色中に住まるべからず。乃至老死中にも、亦た応に住まるべからず。

     世尊!

       是の、

         『因縁』を以っての故に、

         『菩薩摩訶薩』は、

           『般若波羅蜜』を行じよう!とするならば、

           当然、

             『色』の中に、

               『住まる!』べきでなく、

             乃至、

             『老死』の中に、

               『住まる!』べきではないのです。

復次世尊。菩薩摩訶薩欲行般若波羅蜜。四念處中不應住。何以故。四念處四念處相空。

復た次ぎに、世尊、菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行ぜんと欲すれば、四念処中に、応に住まるべからず。何を以っての故に、四念処と、四念処の相とは空なればなり。

 復た次ぎに、

   世尊!

     『菩薩摩訶薩』は、

       『般若波羅蜜』を行じよう!とするならば、

       当然、

         『四念処』の中に、

           『住まる!』べきではありません。

       何故ならば、

         『四念処』、

         『四念処の相』は、

           『空』だからです。

世尊。四念處空不名為四念處。離空亦無四念處。四念處即是空空即是四念處。乃至十八不共法亦如是。

世尊、四念処は空なれば、名づけて四念処と為さず。空を離るれば、亦た四念処無し。四念処は、即ち是れ空なり。空は、即ち是れ四念処なり。乃至十八不共法も、亦た是の如し。

       世尊!

         『四念処』が、

           『空』ならば、

           『四念処』とはいわれませんが、

         『空』を、

         離れた、

           『四念処』も、

           亦た、

             無いのです。

         『四念処』とは、

         是れは、

           『空』であり、

         『空』とは、

         是れは、

           『四念処』なのです。

         乃至、

         『十八不共法』も、

         亦た、

           是のとおりです。

世尊以是因緣故。菩薩摩訶薩欲行般若波羅蜜。四念處乃至十八不共法中不應住。

世尊、是の因縁を以っての故に、菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行ぜんと欲すれば、四念処、乃至十八不共法中に、応に住まるべからず。

   世尊!

     是の、

       『因縁』を以っての故に、

       『菩薩摩訶薩』は、

         『般若波羅蜜』を行じよう!とすれば、

         当然、

           『四念処』、

           乃至、

           『十八不共法』の中に、

             『住まる!』べきではないのです。

復次世尊。菩薩摩訶薩欲行般若波羅蜜。檀波羅蜜中不應住。尸羅波羅蜜羼提波羅蜜毘梨耶波羅蜜禪波羅蜜般若波羅蜜中不應住。何以故。檀波羅蜜檀波羅蜜相空。乃至般若波羅蜜般若波羅蜜相空。

復た次ぎに、世尊、菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行ぜんと欲すれば、檀波羅蜜中に、応に住まるべからず。尸羅波羅蜜、羼提波羅蜜、毘梨耶波羅蜜、禅波羅蜜、般若波羅蜜中に、応に住まるべからず。何を以っての故に、檀波羅蜜と、檀波羅蜜の相は空なり、乃至般若波羅蜜と、般若波羅蜜の相とは空なればなり。

 復た次ぎに、

   世尊!

     『菩薩摩訶薩』は、

       『般若波羅蜜』を行じよう!とすれば、

       当然、

         『檀波羅蜜』の中に、

           『住まる!』べきではありません。

         『尸羅波羅蜜』、

         『羼提波羅蜜』、

         『毘梨耶波羅蜜』、

         『禅波羅蜜』、

         『般若波羅蜜』の中に、

           『住まる!』べきではありません。

       何故ならば、

         『檀波羅蜜』、

         『檀波羅蜜の相』は、

           『空』であり、

         乃至、

         『般若波羅蜜』、

         『般若波羅蜜の相』は、

           『空』だからです。

世尊。檀波羅蜜空不名為檀波羅蜜。離空亦無檀波羅蜜。檀波羅蜜即是空空即是檀波羅蜜。乃至般若波羅蜜亦如是。世尊。以是因緣故。菩薩摩訶薩欲行般若波羅蜜不應六波羅蜜中住

世尊、檀波羅蜜は空なれば、名づけて檀波羅蜜と為さず。空を離るれば、亦た檀波羅蜜無し。檀波羅蜜は、即ち是れ空なり。空は、即ち是れ檀波羅蜜なり。乃至般若波羅蜜も、亦た是の如し。世尊、是の因縁を以っての故に、菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行ぜんと欲すれば、応に六波羅蜜中に住まるべからず。

       世尊!

         『檀波羅蜜』が、

           『空』ならば、

           『檀波羅蜜』とはいわれません。

         『空』を、

           『離れた!』、

           『檀波羅蜜』も亦た有りません。

         『檀波羅蜜』とは、

         是れは、

           『空』であり、

         『空』とは、

         是れは、

           『檀波羅蜜』なのです。

         乃至、

         『般若波羅蜜』も、

         亦た、

           是のとおりです。

     是の、

       『因縁』を以っての故に、

       『菩薩摩訶薩』は、

         『般若波羅蜜』を行じよう!とすれば、

         当然、

           『六波羅蜜』の中に、

             『住まる!』べきではないのです。

【論】釋曰。上須菩提以謙讓門說般若。雖言不說而實為諸菩薩說般若波羅蜜。今須菩提以不住門直為菩薩說般若波羅蜜。

釈して曰く、上に須菩提は、謙譲門を以って般若を説くに、説かずと言うと雖も、実に諸の菩薩の為に、般若波羅蜜を説き、今、須菩提は、不住門を以って、直ちに菩薩の為に、般若波羅蜜を説けり。

 釈す、

   上に、

     『須菩提』は、

       『謙譲の門』を以って、

         『般若波羅蜜』を説いた!ので、

           『説かない!』と言いながらも、

           実は、

             『諸の菩薩』の為に、

             『般若波羅蜜』を説いた!のであるが、

   今、

     『須菩提』は、

       『不住の門』を以って、

       直ちに、

         『菩薩』の為に、

         『般若波羅蜜』を説いた!のである。

般若波羅蜜有種種名字。觀修相應合入習住等。是皆名修行般若波羅蜜。但種種名字說聞者歡喜。

般若波羅蜜に、種種の名字有り。観、修、相応、合、入、習、住等、是れは皆、般若波羅蜜を修行すと名づく。但だ、種種の名字を説けば、聞く者歓喜す。

     『般若波羅蜜』には、

     種種の、

       『名字』が有り、

         『観』、

         『修』、

         『相応』、

         『合』、

         『入』、

         『習』、

         『住』等であるが、

       是れは、

       皆、

         『般若波羅蜜』を、

           『修行する!』ということであり、

     但だ、

     種種の、

       『名字』を説く!のは、

       『聞く者』が、

         『歓喜』する!からである。

復次小有差別行。名聽聞誦讀書寫正憶念說思惟籌量分別修習等。乃至阿耨多羅三藐三菩提總名為行。

復た次ぎに、小しく、行を差別すること有り。聴聞、誦読、書写、正憶念、説、思惟、籌量、分別、修習等に名づく。乃至阿耨多羅三藐三菩提も、総じて名づけて、行と為す。

 復た次ぎに、

   『行』には、

     『小差』が有り、

       『聴聞』、

       『誦読』、

       『書写』、

       『正憶念』、

       『説』、

       『思惟』、

       『籌量』、

       『分別』、

       『修習』等をいい、

     乃至、

       『阿耨多羅三藐三菩提』も、

       総じて、

         『行』である。

是行中分別故初者名觀。如初始見物。日日漸學是名習。與般若波羅蜜相可是名合。隨順般若波羅蜜名相應。通徹般若波羅蜜是名為入。分別取相有是事名為念。常行不息令與相似是名為學。學已巧方便觀知是非得失名為思惟。以禪定心共行名為修。得是般若波羅蜜道不失是名住。與住相違名不住。

是の行中に分別するが故に、初の者を観と名づく。初めに、物を見るより始め、日日漸学す、是れを習と名づく。般若波羅蜜の相に可(かな)う、是れを合と名づく。般若波羅蜜に随順するを、相応と名づく。般若波羅蜜に通徹する、是れを名づけて入と為す。分別して相を取り、是の事有るを、名づけて念と為す。常に行じて息まず、与に相似せしむる、是れを名づけて学と為す。学び已りて、巧みに方便し、是非、得失を観知するを、名づけて思惟と為す。禅定心を以って共に行ずるを、名づけて修と為す。是の般若波羅蜜の道を得て失わざる、是れを住と名づく。住と相違するを、不住と名づく。

     是の、

       『行』の中を、

         『分別』するが故に、

         初を、

           『観』という。

         例えば、

         初に、

           『物を見る!』ことから、

           『始まる!』のである。

         日日、

         少しづつ、

           『学ぶ!』ので、

           是れが、

             『習』である。

         『般若波羅蜜』の、

           『相』として、

           『可』であれば、

           是れが、

             『合』である。

         『般若波羅蜜』に、

           『随順』する!こと、

           是れを、

             『相応』という。

         『般若波羅蜜』に、

           『通徹』する!こと、

           是れを、

             『入』という。

         『分別』して、

           『相』を取り、

           『心』に、

             『是の事』が有る!のを、

             『念』といい、

         常に、

           『行』じて息まず、

           『相似』する!こと、

           是れを、

             『学』という。

         学んだならば、

         巧みに、

           『方便』して、

           『是非、得失』を、

             『観知する!』ことを、

             『思惟』といい、

         『禅定心』と共に、

           『行』ずる!こと、

           是れを、

             『修』という。

         是の、

         『般若波羅蜜』の、

           『道』を得て、

           『失わない!』こと、

           是れを、

             『住』といい、

           『住』と、

             『相違』する!のを、

             『不住』という。

 

  漸学(ぜんがく):次第に学ぶ。少しづつ学ぶ。漸習に同じ。

  (か):かなう。ゆるせる。

問曰。先說諸法空即是不住。今何以說諸法中不應住。

問うて曰く、先に、『諸法は空なれば、即ち是れ住まらず』と説けり。今は何を以ってか、『諸法の中に、応に住まるべからず』と説ける。

 問い、

   先には、

     『諸法』は、

       『空』であるから、

       是には、

         『住まらない!』と説いたが、

   今は、

   何故、

     『諸法』の中には、

     当然、

       『住まる』べきでない!と説くのですか?

答曰。先雖說著法愛心難遣故今更說。

答えて曰く、先に説くと雖も、法に著する愛心は、遣り難きが故に、今更に説くなり。

 答え、

   先にも、

     『説いた!』のであるが、

     『法』に、

       『著する!』、

       『愛心』は、

         『離れ難い!』ので、

   今、

     更に説く!のである。

復次有無相三昧。入此三昧於一切法不取相。而不入滅定。菩薩智慧不可思議。雖不取一切法相而能行道。如鳥於虛空中無所依而能高飛。菩薩亦如是。於諸法中不住而能行菩薩道。

復た次ぎに、無相三昧有り。此の三昧に入りて、一切法に於いて、相を取らず、而も滅定にも入らず。菩薩の智慧は不可思議なり、一切の法相を取らずと雖も、而も能く道を行ず。鳥は、虚空中に依る所無くして、能く高く飛ぶが如し。菩薩も、亦た是の如く、諸法の中に住まらずして、能く菩薩の道を行ず。

 復た次ぎに、

   『無相三昧』が有る。

   『菩薩』は、

   此の、

     『三昧』に入る!と、

     『一切法』の中に、

       『相』を、

         『取らない!』のに、

       『滅定』にも、

         『入らない!』のである。

    『菩薩』の、

      『智慧』は、

        『不可思議』であり、

      『一切法』の中に、

        『相』を、

          『取らない!』のに、

        『道』を、

          『行じられる!』のであり、

      譬えば、

      『鳥』が、

        『虚空』の中で、

          『依る所』が、

          『無い!』のに、

          高く、

            『飛べる!』のと同じである。

      『菩薩』も、

      亦た、

        是のように、

        『諸法』の中に、

          『住まる』ことがない!のに、

        『菩薩の道』を、

          『行く』ことができる!のである。

問曰。人心得緣便起。云何菩薩於一切法不住而不入滅定中。

問うて曰く、人心は、縁を得れば、便ち起る。云何が、菩薩は、一切法に住まらずして、滅定中に入らざる。

 問い、

   『人』の、

     『心』は、

     『縁』を、

       『得た!』ときに、

       『起る!』ものです。

   何のような、

     『縁』の故に、

     『菩薩』は、

       『一切法』の中に、

         『住まらない!』のに、

       『滅定』の中に、

         『入らない!』のですか?

答曰。此中須菩提自說。所謂色色相自空。色空為非色亦不離空有色。色即是空空即是色。是義第二品中已說。乃至不應六波羅蜜中住。亦如是。以空故無所住

答えて曰く、此の中に、須菩提が自ら説けり。謂わゆる色の色相は、自ら空なり。色は空にして、色に非ずと為し、亦た空を離れて色有るにもあらず。色は、即ち是れ空なり。空は、即ち是れ色なり、と。是の義は、第二品中に已に説けり。乃至応に六波羅蜜中に住まるべからずも、亦た是の如く、空なるを以っての故に、住まる所無きなり。

 答え、

   此の中に、

     『須菩提』が、

       自ら、こう説いている、――

       謂わゆる、

         『色』の、

           『色相』は、

           自ら、

             『空』であり、

         『色』は、

           『空』である!ので、

           『色』ではない!

         亦た、

         『空』を、

           『離れた!』、

           『色』が有る!のでもない。

         『色』とは、

         是れは、

           『空』であり、

         『空』とは、

         是れは、

           『色』である!と。

   是の義は、

     『第二品(報応品)』中に、

     已に、

       説いた!ことであるが、

     乃至、

     『六波羅蜜』の中には、

     当然、

       『住まるべきでない!』まで、

     亦た、

       是のように、

       『空』である!ことの故に、

       『住する所』が無い!からである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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