【論】釋曰。內空中不見外空。外空中不見內空。有人言。外四大飲食入其身中故名為內。若身死還為外。一切法無來去相故。外空不在內空中。餘十七空亦如是。不生不滅無異相。無來去故各各中不住。 |
釈して曰く、内空中に外空を見ず、外空中に内空を見ずとは、有る人の言わく、『外の四大の飲食の、其の身中に入るが故に名づけて、内と為すに、若し身死すれば、還って外と為す。一切法は、来去の相無きが故に、外空は内空中に在らず、餘の十七空も亦た是の如く、不生不滅にして、異相無く、来去無きが故に各各の中に住せず』、と。 |
釈す、
『内空中に、外空を見ず!』、
『外空』中に、
『内空を見ない!』とは、――
有る人は、こう言っている、――
『外の四大である!』、
『飲食が、身中に入れば!』、
『内』と、
『称される!』が、
若し、
『身が死ねば!』、
『外』に、
『還ることになる!』。
『一切法は来、去相が無い!』が故に、
『外空』は、
『内空』中に、
『在ることがなく!』、
『餘の十七空』も、
是のように、
『不生、不滅であり!』、
『異相も、来去』も、
『無い!』が故に、
各各の、
『空』中に、
『住しない!』、と。
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復次菩薩位相不念一切色為有。乃至十八不共法亦不念是有。不念有義如先說。 |
復た次ぎに、菩薩位の相は、一切の色を念じて、有と為さず、乃至十八不共法も、亦た是れ有りと念ぜず。有を念ぜざるの義は、先に説けるが如し。 |
復た次ぎに、
『菩薩位の相』は、
『色、乃至十八不共法』が、
『有る!』と、
『念じないことである!』。
『有る、と念じない!』の、
『義』は、
『先に、説いた通りである!』。
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問曰。菩提心無等等心大心有何差別。 |
問うて曰く、菩提心、無等等心、大心には、何なる差別か有るや。 |
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答曰。菩薩初發心緣無上道。我當作佛是名菩提心。無等名為佛。所以者何。一切眾生一切法無與等者。是菩提心與佛相似。所以者何。因似果故。是名無等等心。是心無事不行。不求恩惠深固決定。 |
答えて曰く、菩薩は初発心に、無上道を縁じて、『我れ、当に仏と作るべし』、と。是れを菩提心と名づく。無等とは、名づけて仏と為す。所以は何んとなれば、一切の衆生、一切の法に、与(とも)に等しき者無ければなり。是の菩提心は、仏と相似なり。所以は何んとなれば、因の果に似たるが故なり、是れを無等等心と名づく。是の心には、事の行ぜざる無く、恩恵の深固、決定たるをも求めず。 |
答え、
『菩薩』は、
『初発心』に、
『無上道』を、
『縁じて(見聞覚知して)!』、
こう言うのであるが、――
わたしは、
『仏と作らねばならない!』、と。
是れを、
『菩提心』と、
『称する!』。
『無等』とは、
『仏をいうのである!』が、
何故ならば、
『一切の衆生や、一切の法』中に、
『与に等しい( being equal )!』者が、
『無いからである!』。
是の、
『菩提心』は、
『仏の心』と、
『相似している!』。
何故ならば、
『因』は、
『果に似るからであり!』、
是れを、
『無等等心』と、
『称し!』、
是の、
『心の行じない!』、
『事』は、
『無い!』が、
『恩恵』が、
『深固、決定であるよう!』、
『求めることもない!』。
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与等(よとう):与は比類の義、或いは共通点の義。等しき同類。~と等しい。
無事(むじ):何もしない。
深固(じんこ):甚だ堅固なこと。 |
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復次檀尸波羅蜜是名菩提心。所以者何。檀波羅蜜因緣故。得大富無所乏少。尸波羅蜜因緣故。出三惡道人天中尊貴住。二波羅蜜果報力故。安立能成大事。是名菩提心。 |
復た次ぎに、檀、尸波羅蜜は、是れを菩提心と名づく。所以は何んとなれば、檀波羅蜜の因縁の故に、大富を得て、乏少する所無く、尸波羅蜜の因縁の故に、三悪道を出でて人天中の尊貴となり、二波羅蜜に住する果報の力の故に安立して、能く大事を成せば、是れを菩提心と名づく。 |
復た次ぎに、
『檀波羅蜜、尸羅波羅蜜』を、
『菩提心』と、
『称する!』。
何故ならば、
『檀波羅蜜の因縁』の故に、
『大富を得て!』、
『乏少する所( that is lacking )!』が、
『無く!』、
『尸羅波羅蜜の因緣』の故に、
『三悪道を出でて!』、
『人天』中の、
『尊貴となり!』、
『二波羅蜜に住する果報の力』の故に、
『般若波羅蜜に安立して!』、
『大事』を、
『成すことができるからであり!』、
是れを、
『菩提心』と、
『称する!』。
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羼提毘梨耶波羅蜜相。於眾生中現奇特事。所謂人來割肉出髓如截樹木。而慈念怨家血化為乳。是心似如佛心。於十方六道中。一一眾生皆以深心濟度。又知諸法畢竟空。而以大悲能行諸行。是為奇特。 |
羼提、毘梨耶波羅蜜の相は、衆生中に於いて、奇特の事を現す。謂わゆる、人来たりて肉を割き、髄を出すこと、樹木を截(き)るが如くなるも、怨家を慈念して、血を化して、乳と為す。是の心の似たること仏心の如く、十方の六道中に於いて、一一の衆生を皆、深心を以って済度す。又諸法の畢竟空を知りて、而も大悲を以って、能く諸行を行ずれば、是れを奇特と為す。 |
『羼提波羅蜜、毘梨耶波羅蜜の相』は、
『衆生』中に於いて、
『奇特の事』を、
『現す!』。
謂わゆる、
『人が来て!』、
『樹木を截るように!』、
『肉を割いて!』、
『髄を出した!』としても、
『怨家を慈念して! 、
『血』を、
『乳に化するのである!』が、
是の、
『心は、仏心にも似て!』、
『十方六道中の一一の衆生』を、
皆、
『深心を用いて!』、
『済度するのであり!』、
又、
『諸法は畢竟空である、と知りながら!』、
『大悲を用いて!』、
『諸行を行じることができる!』ので、
是れを、
『奇特』と、
『称するのである!』。
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譬如人欲空中種樹。是為希有。如是等精進波羅蜜力勢與無等相似。是名無等等。 |
譬えば、人、空中に樹を種えんと欲すれば、是れを希有と為すが如し。是れ等の如きは、精進波羅蜜の力勢にして、無等に相似すれば、是れを無等等と名づく。 |
譬えば、
『人が空中に、樹を種えようとすれば!』、
是れを、
『希有』と、
『称するように!』、
是れ等のような、
『精進波羅蜜の力勢』は、
『無等』と、
『相似する!』ので、
是れを、
『無等等』と、
『称するのである!』。
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入禪定行四無量心。遍滿十方與大悲方便合。故拔一切眾生苦。又諸法實相滅一切觀。諸語言斷而不墮斷滅中。是名大心。 |
禅定に入りて、四無量心を行じて遍く十方を満て、大悲と方便と合するが故に、一切衆生の苦を抜く。又諸法の実相は、一切の観を滅し、諸の語言断ずれども、断滅中に堕せざれば、是れを大心と名づく。 |
『禅定に入って! 」、
『四無量心を行じ!』、
『十方』を、
『遍く、満たせば!』、
『大悲と、方便が合する!』が故に、
『一切の衆生の苦』を、
『抜くことになり!』、
又、
『諸法の実相』は、
『一切の観を滅して!』、
『諸の語言を断じる!』が、
而し、
『断滅』中に、
『堕ちることがない!』ので、
是れを、
『大心』と、
『称する!』。
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復次初發心名菩提心。行六波羅蜜名無等等心。入方便心中是名大心。如是等各有差別。 |
復た次ぎに、初発心を菩提心と名づけ、六波羅蜜を行ずるを無等等心と名づけ、方便心中に入れば、是れを大心と名づく。是れ等の如く、各に差別有り。 |
復た次ぎに、
『初発心』を、
『菩提心』と、
『称し!』、
『六波羅蜜を行じること!』を、
『無等等心』と、
『称し!』、
『方便心中に入ること!』を、
『大心』と、
『称する!』が、
是れ等のように、
『各には!』、
『差別が有る!』。
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復次菩薩得如是大智心亦不高心。相常清淨故。如虛空相常清淨。煙雲塵霧假來故覆蔽不淨。心亦如是常自清淨。無明等諸煩惱客來覆蔽故以為不淨。除去煩惱如本清淨。行者功夫微薄。此清淨非汝所作。不應自高不應念。何以故。畢竟空故。 |
復た次ぎに、菩薩は、是の如き大智を得るも、心は亦た高ぶらず、心相の常に清浄なるが故なり。虚空の相は、常に清浄にして、煙雲塵霧仮に来たるが故に、覆蔽して不浄なるが如く、心も亦た是の如く常に自ら清浄なるも、無明等の諸煩悩の客来たりて覆蔽するが故に、以って為めに不浄たるも、煩悩を除去すれば、本の如く清浄なり。行者は功夫して微薄ならしむるも、此の清浄は、汝が所作に非ざれば、応に自ら高ぶるべからず、応に念ずべからず。何を以っての故に、畢竟じて空なる故なり。 |
復た次ぎに、
『菩薩』は、
是のような、
『大智を得ても!』、
亦た、
『心』が、
『高ぶることはない!』。
常に、
『心相』が、
『清浄だからである!』。
譬えば、
『虚空の相が、常に清浄であり! 、
『煙雲、塵霧が仮に来た!』が故に、
『覆蔽されて( being concealed )!』、
『不浄であるように!』、
亦た、
『心』も、
是のように
『常に、自ら清浄である!』が、
『無明等の諸煩悩の客が来て、覆蔽する!』が故に、
『煩悩の為め!』に、
『不浄である!』が、
『煩悩を除去すれば!』、
『本のように!』、
『清浄なのである!』。
『行者』が、
『功夫して!』、
『煩悩』を、
『微薄にしたとしても!』、
此の、
『清浄』は、
『お前の所作ではない!』ので、
『自ら、高ぶるべきでなく!』、
『清浄にした!』と、
『念ずべきでもない!』。
何故ならば、
『心』は、
『畢竟じて空だからである!』。
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覆蔽(ふくへい):覆い隠す。
功夫(くふう):思慮をめぐらすこと。工夫。 |
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問曰。舍利弗知心相常淨何以故問。 |
問うて曰く、舎利弗は、心相の常に浄なるを知りて、何を以っての故にか問える。 |
問い、
『舎利弗』は、
『心相は、常に浄である!』と、
『知りながら!』、
何故、
『問うたのですか?』。
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答曰。以菩薩發阿耨多羅三藐三菩提心。深入深著故。雖聞心畢竟空常清淨。猶憶想分別取是無心相。以是故問。是無心相心為有為無。若有云何言無心相。若無何以讚歎是無等等心當成佛道。須菩提答曰。是無心相中畢竟清淨。有無不可得不應難。 |
答えて曰く、菩薩の阿耨多羅三藐三菩提の心を発して、深く入り、深く著するを以っての故に、心は畢竟じて空にして、常に清浄なり、と聞くと雖も、猶お憶想、分別して、是の心相無きを取れば、是を以っての故に問わく、『是の心相無き心は、有と為すや、無と為すや。若し有なれば、云何が心相無し、と言える。若し無ければ、何を以ってか、是の無等等の心は、当に仏道を成ずべし、と讃歎する』、と。須菩提の答えて曰く、『是の心相無き中は畢竟清浄にして、有無は不可得なれば、応に難ずべからず』、と。 |
答え、
『菩薩の発す!』、
『阿耨多羅三藐三菩提の心』に、
『深く、入り!』、
『深く、著する!』が故に、
『心』は、
『畢竟空であり、常に清浄である!』と、
『聞いても!』、
『猶お憶想、分別して( being yet recollecting and discriminating )!』、
是れは、
『心相が無い!』と、
『取り( to understand wrongly )!』、
是の故に、こう問うたのである、――
是の、
『心相が無いという!』、
『心』は、
『有るのか、無いのか?』。
若し、
『有れば!』、
何故、
『心相は無い!』と、
『言うのか?』。
若し、
『無ければ!』、
何故、
『是の無等等心は、仏道を成じることになる!』と、
『讃歎するのか?』、と。
『須菩提』は、こう答えた、――
是の、
『心相の無い!』中は、
『畢竟じて清浄であり!』、
『有、無は不可得である!』ので、
『難じてはならない!』、と。
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舍利弗復問。何等是無心相。須菩提答曰。畢竟空一切諸法無分別。是名無心相。舍利弗復問。但心相不壞不分別。餘法亦如是。須菩提答言。諸法亦如是。若爾者阿耨多羅三藐三菩提。亦如虛空無壞無分別。 |
舎利弗の復た問わく、『何等か、是れ心相無き』、と。須菩提の答えて曰く、『畢竟空なれば、一切諸法に分別無し。是れを心相無しと名づく』、と。舎利弗の復た問わく、『但だ心相のみ壊れず、分別せずや。餘法も亦た是の如しや』、と。須菩提の答えて言わく、『諸法も亦た是の如し。若し爾れば、阿耨多羅三藐三菩提も亦た虚空の如く、無壊、無分別なり』、と。 |
『舎利弗』が、復たこう問うた、――
『心相が無い!』とは、
『何ういうことなのか?』、と。
『須菩提は答えて!』、こう言った、――
『畢竟空ならば!』、
『一切の諸法』には、
『分別』が、
『無く!』、
是れを、
『心相が無い!』と、
『称するのである!』。
『舎利弗』が、復たこう問うた、――
但だ、
『心相』が、
『壊られることもなく!』、
『分別されることもないのか?』。
亦た、
『餘の法』も、
『是の通りなのか?』、と。
『須菩提は答えて!』、こう言った、――
亦た、
『諸法』も、
『是の通りであり!』、
若し、爾うならば、
『阿耨多羅三藐三菩提も、虚空のように!』、
『壊れることも、分別されること!』も、
『無い!』、と。
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諸菩薩深著阿耨多羅三藐三菩提故。作是念。諸凡夫法可言虛誑。以不真實故。菩薩漏未盡故。亦可言不清淨。云何阿耨多羅三藐三菩提亦復虛誑。是時心驚不悅。 |
諸菩薩は深く阿耨多羅三藐三菩提に著するが故に、是の念を作さく、『諸の凡夫法は虚誑なりと言うべし。真実ならざるを以っての故なり。菩薩は漏未だ尽きざるが故に亦た清浄ならずと言うべし。云何が阿耨多羅三藐三菩提も亦復た虚誑ならんや』、と。是の時心驚いて悦ばず。 |
『諸の菩薩は、深く阿耨多羅三藐三菩提に著する!』が故に、こう念じる、――
『諸の凡夫法』は、
『虚誑だ、と言えるだろう!』、
『真実でないからである!』。
『菩薩は、未だ漏が尽きていない!』が故に、
『清浄でない!』と、
『言うこともできるだろう!』が、
何故、
『阿耨多羅三藐三菩提までが!』、
『虚誑なのか?』、と。
是の時、
『菩薩の心』は、
『驚いて!』、
『悦ばない!』。
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須菩提知其心已。思惟籌量。我今應為說實相法不思惟已自念。今在佛前當以實相答。若我有失佛自當說。重思惟竟。以是故說阿耨多羅三藐三菩提。雖是第一。亦從虛誑法邊生故。亦是空不壞不分別相。以是故行者當隨阿耨多羅三藐三菩提相行。不應取相自高。 |
須菩提は、其の心を知り已りて、思惟し、籌量すらく、『我れは今応に、為めに実相の法を説くべしや、不や』、と。思惟し已りて、自ら念ずらく、『今、仏前に在れば、当に実相を以って答うべし。若し我れに失有らば、仏自ら、当に説きたもうべし』、と。重ねて思惟し竟りて、是を以っての故に説かく、『阿耨多羅三藐三菩提は、是れ第一なりと雖も、亦た虚誑の法の辺より生ずるが故に、亦た是れ空にして、不壊、不分別の相なり。是を以っての故に、行者は当に阿耨多羅三藐三菩提の相に随いて行ずべきも、応に相を取りて、自ら高ぶるべからず』、と。 |
『須菩提』は、
『諸菩薩の心を知り!』、こう思惟、籌量した、――
わたしは、今、
『諸菩薩の為め!』に、
『実相の法』を、
『説いた方がよいのだろうか?』、と。
『思惟し已る!』と、自ら、こう念じた、――
今は、
『仏の前である!』。
当然、
『実相を用いて!』、
『説くべきだろう!』。
若し、
『わたしに、失が有ったとしても!』、
『仏』が、
『自ら、説かれるはずである!』、と。
『重ねて、思惟してしまう!』と、
是の故に、こう説いたのである、――
『阿耨多羅三藐三菩提は、第一である!』が、
『虚誑の法の辺より、生じた!』が故に、
『空であり!』、
『壊られず、分別されない!』、
『相であり!』、
是の故に、
『行者』は、
『阿耨多羅三藐三菩提』の、
『相に随って!』、
『行じなければならず!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』の、
『相を取って!』、
『自ら高ぶってはならないのである!』、と。
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爾時舍利弗讚須菩提言。善哉善哉。佛時默然聽須菩提所答。亦可舍利弗所歎。從佛口生者。有人言婆羅門從梵天王口邊生故。於四姓中第一。以是故舍利弗讚言。汝真從佛口生。所以者何。見法知法故。 |
爾の時、舎利弗の須菩提を讃じて言わく、『善い哉、善い哉』、と。仏は時に黙然として、須菩提の答うる所を聴(ゆる)し、亦た舎利弗の歎ずる所をも可としたまえり。仏の口より生ずとは、有る人の言わく、『婆羅門は、梵天王の口の辺より生ずるが故に、四姓中に於いて第一なり』、と。是を以っての故に舎利弗の讃じて言わく、『汝は真に仏の口より生ず』、と。所以は何んとなれば、法を見て、法を知るが故なり。 |
爾の時、
『舎利弗』は、
『須菩提を讃じて!』、こう言った、――
『善いぞ、善いぞ!』、と。
『仏』は、その時、
『黙然として!』、、
『須菩提の答える!』所を、
『聴し( to agree )!』、
亦た、
『舎利弗の讃じる!』所を、
『可された( to approve )!』。
『仏の口より、生じる!』とは、――
有る人は、こう言っている、――
『婆羅門』は、
『梵天王の口の辺より、生じる!』が故に、
『四姓中の、第一であり!』、と。
是の故に、
『舎利弗は讃じて!』、こう言ったのである、――
お前は、
『真に!』、
『仏の口より、生じた!』、と。
何故ならば、
『法を見て!』、
『法を知るからである!』。
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黙然(もくねん):仏は許諾の時、ことばを発せず、但だ黙然として聴くのみの意。乃ち入不二の法門について維摩居士が身を以って黙然し、無言によせて無言を詮せしをいう。「維摩詰所説経巻中入不二法門品」に、「是に於いて文殊師利、維摩詰に問う、我等各自ら説き已んぬ。仁者当に説くべし。何等か是れ菩薩、不二法門に入るやと。時に維摩詰、黙然として言無し。文殊師利歎じて曰く、善い哉、善い哉、乃至文字語言有ること無し。是れ真に不二法門に入るなり」といい、法自在以下の三十一菩薩が各自ら言を以って無言の理を詮し、尋いで文殊菩薩が無言の理は言を以って詮することが出来ないことを言を以って詮したのに対し、維摩居士は現に黙する行為によってそれを詮するところがあった。この入不二法門に関する三様の表現について、僧肇は「註維摩詰経巻8」に、「此の三は宗を明すこと同じと雖も迹に深浅あり。所以に言は無言に後ばず、知は無知に後ばざること信なるかな」と説いて、維摩居士の黙然無言を最上としたのに対し、慧遠は「維摩経義記巻3末」に、「此の三は皆是れ化の分斉。想を息めて入を教えるの階降なり」といい、聖徳太子は「維摩経疏巻下」に、「此の三は皆無言の理を顕わして浅深無し。但だ衆生、諸の菩薩の各以って言に寄せて無言を詮するを聞いて、便ち理は必ず言を以って詮すべしと謂いなん。所以に文殊、言に寄せて以って言を遣る。物復た理は無言なりと雖も能遣の言あるべしと計しなん。所以に浄名、黙然として言わずして以って能遣の計を遣る」といい、浅深の差ありとするは取相分別に過ぎないことを示している。また「諸仏要集経巻下」に、「時に仏復た問う、文殊師利、何等の眼、通暢の行を以って如来を見んと欲する。何等の耳、諸義に清徹せるを以って如来所説の経典を聴かんと欲する。文殊師利黙然として言無し。時に於いて彼の会の余の菩薩衆各心に念言すらく、文殊師利実に如来所問の法義に答報するに堪任せず。所以はいかん。如来向に難問する所有るに言無し。天王如来諸の菩薩の心の所念を知りて、諸の菩薩に告げたまわく、止めん。族姓子、文殊の想言及ばずと観る莫かれ。所以はいかん。深法忍を解すれば、権慧悉く備わり、通達せざるは靡し。智虚空を踰ゆ。黙然として言わざるを以って如来に報いるなり」と説き、維摩経所説の黙然無言と揆を一にしている。斯様な黙然無言は釈尊が菩提樹下に於いて成等正覚された後、自ら開悟された正法を説くことを躊躇し、沈黙された事実に通ずるものである。即ち「過去現在因果経巻3」に、「爾の時、如来七日中に於いて一心に思惟し、樹王を観て自ら念言して、我れ此処に在りて、一切の漏を尽くし、所作已に竟り、本願を成就す。我が所得の法は甚深にして解し難く、唯だ仏と仏とのみ乃ち能く之を知る。一切の衆生は五濁の世に於いて、貪欲・瞋恚・愚癡・邪見・憍慢・諂曲の為に覆障せられ、薄福鈍根にして智慧あるなし。云何が能く我が所得の法を解せん。今我れ若し転法輪を為さば、彼れ必ず迷惑して信受する能わず。誹謗を生じて当に悪道に堕し、諸の苦痛を受くべし。我れ寧ろ黙然として般涅槃に入らん」というのがそれである。これは仏自内証の説き難きことを示すものであり、後世大乗仏教に於いても戯論や分別を絶して不可説なることを説いている。即ち「中論巻3観法品」の偈に、「自ら知りて他に随わず、寂滅にして戯論無く、異無く分別無き、是れ即ち実相と名づく」といい、また「同巻4観涅槃品」の偈に、「諸法は不可得にして、一切の戯論を滅す」というのは、皆それであり、月称の「中論釈」に、「諸聖人の勝義は黙然(tuuSNiiMbhaava)たりである」といい、「大乗起信論」には、「心真如とは即ち是れ一法界の大総相にして法門の体なり。謂わゆる心性は不生不滅なり。一切諸法は唯だ妄念に依りて差別あり。若し心念を離れば即ち一切の境界相なし。是の故に一切の法は本より已来、言説の相を離れ、名字の相を離れ、心縁の相を離れ、畢竟平等にして変異あることなし。破壊すべからず。唯だ是れ一心なり。故に真如と名づく」といい、離言真如を説いている。また釈尊が黙然無言の態度をとられた場合に二種がある。先ず釈尊の根本的立場を示す十四無記は、「大智度論巻2」に、「若し仏一切智人ならば、此の十四難何を以って答えざるや。答えて曰く。此の事は実なきが故に答えず。諸法有常は此の理なく、諸法断も亦た此の理なし。是の故に仏答えず」という如く、謂わゆる戯論を退けたものである。次に応諾の意を示すものとして、「法華経巻3化城喩品」に、「時に諸の梵天王、一心に声を同じくして、偈を以って頌して曰く。唯だ願わくは天人尊、無上の法輪を転じ、大法の鼓を撃ち、大法の螺を吹き、普く大法の雨ふらして、無量の衆生を度したまえ。我等咸く帰請したてまつる。常に深遠の音を演べたもうべしと。爾の時大通智勝如来、黙然として之を許したもう」というのが即ちそれである。また律に於いて黙然を説くに二種がある。「十誦律巻17」に不与欲戒を説き、「若し比丘僧事を断ずるに白を唱うる時、黙然として起ち去れば波逸提なり。若しは白一、白二、白四羯磨、布薩、自恣、作十四人羯磨の時黙然として坐より起ち去れば波逸提なり」と黙然起去(tuuSNiiM viprakramanaM)の波逸提なることを説き、余比丘に断らずして去ることを誡めているが、巴利・四分・五分律等には与欲せずして去れば波逸提となすと説いている。「四分律巻53」には黙然すべからざる場合とすべき場合の両様を説いて、「爾の時舎利弗衆僧の非法羯磨を作すを見る。同意する者なし、黙然として之に任ぜんと欲す。仏言わく、黙然を聴す。五法あり、黙然すべからず。若し如法羯磨にして、而も心同ぜず、黙然として之に任ず。若し同意伴を得て、亦た黙然として任ず。若し小罪を見て黙然し、為に別住を作して黙然し、戒場上に在りて黙然す。是の如きの五法に黙然する者は非法なり。五法あり応に黙然すべし。他の非法を見て黙然す。伴を得ずして黙然す。重を犯して黙然す。同住して黙然す。同住地に在りて黙然す。是の如き五法は応に黙然すべし」といっている。上記の外、「四分律巻53、56」、「根本説一切有部毘奈耶巻42」、「瑜伽師地論巻71」等に出づ。<(望) |
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有未得道者亦依佛故得供養。是名取財分。又如弊惡子不隨父教但取財分。取法分者。取諸禪定根力覺道種種善法。是名取法分。得四信故名為法中自信。得諸神通滅盡定等。著身中故是名身得證。 |
有る未だ道を得ざる者は、亦た仏に依るが故に供養を得、是れを財分を取ると名づく。又憋悪なる子の父の教に随わずして、但だ財分を取るが如し。法分を取るとは、諸の禅定、根力、覚、道の種種の善法を取る、是れを法分を取ると名づけ、四信を得るが故に名づけて、法中に自ら信ずと為し、諸神通、滅尽定等を得て、身中に著(つ)くるが故に、是れを身に証を得と名づく。 |
『財分を取る!』とは、
有る、
『未だ、道を得ない!』者は、
『仏に依る!』が故に、
『供養』を、
『得る!』ので、
是れを、
『財分を取る!』と、
『称し!』、
又、
『憋悪な子』が、
『父の教に随うことなく!』、
但だ、
『財分』を、
『取るだけであるようなものである!』。
『法分を取る!』とは、
『諸の禅定、五根五力、七覚分、八聖道分』等の、
『種種の善法』を、
『取ることであり!』、
是れを、
『法分を取る!』と、
『称し!』、
『法中に、自ら信じる!』とは、
『四信( 根本、仏、法、僧に於ける信)を得る!』が故に、
『法中に、自ら信じる!』と、
『称し!』、
『身に、証を得る!』とは、
『諸の神通や、滅尽定等を得て、身中に著ける!』ので、
『身に、証を得る!』と、
『称する!』。
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四信(ししん):根本を信じ、仏を信じ、法を信じ、僧を信ずるを云う。『大智度論巻18下注:四信』参照。 |
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如舍利弗於智慧中第一。目揵連神足第一。摩訶迦葉頭陀第一。須菩提得無諍三昧中第一。得無諍定阿羅漢者。常觀人心不令人起諍。是三昧根本四禪中攝。亦欲界中用。 |
『舎利弗の智慧中に於いて第一、目揵連の神足第一、摩訶迦葉の頭陀第一なるが如く、須菩提は無諍三昧を得る中の第一なり。無諍定を得る阿羅漢は、常に人心を観て、人をして諍を起さしめず。是の三昧は、根本の四禅中に摂し、亦た欲界中に用う。 |
『舎利弗』が、
『智慧』中の、
『第一であり!』、
『目揵連』が、
『神足』の、
『第一であり!』、
『摩訶迦葉』が、
『頭陀』の、
『第一であるように!』、
『須菩提』は、
『無諍三昧を得る!』中の、
『第一である!』。
『無諍定を得た!』、
『阿羅漢は常に、人心を観て!』、
『人』に、
『諍を起させない!』。
是の、
『無諍三昧』は、
『根本の四禅』中に、
『摂し( to be contained )!』、
亦た、
『欲界』中に、
『用いられる( to be applied )!』。
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問曰。般若波羅蜜是菩薩事。何以言欲得三乘者皆當習學。 |
問うて曰く、般若波羅蜜は、是れ菩薩の事なり。何を以ってか、『三乗を得んと欲せば、皆当に習学すべし』、と言う。 |
問い、
『般若波羅蜜は、菩薩の事である( the P.P. is a matter of BodhiSattva )!』のに、
何故、こう言うのですか?――
『三乗を得ようとすれば!』、
皆、
『般若波羅蜜を習学せねばならない!』、と。
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答曰。般若波羅蜜中說諸法實相。即是無餘涅槃。三乘人皆為無餘涅槃故精進習行。 |
答えて曰く、般若波羅蜜中には、諸法の実相を説くに、即ち是れ無余涅槃なり。三乗の人は、皆無余涅槃の為めの故に、精進して習行す。 |
答え、
『般若波羅蜜中に説く!』、
『諸法の実相』とは、
『無余涅槃なのである!』。
『三乗の人は皆、無余涅槃を得る為め!』の故に、
『精進して!』、
『般若波羅蜜を習行するのである!』。
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復次般若波羅蜜中種種因緣說空解脫門義。如經中說。若離空解脫門無道無涅槃。以是故三乘人皆應學般若。 |
復た次ぎに、般若波羅蜜中の種種の因緣は、空解脱門の義を説くこと、経中に、『若し空解脱門を離るれば、道無く、涅槃無し』、と説けるが如し。是を以っての故に、三乗の人は、皆応に般若を学ぶべし。 |
復た次ぎに、
『般若波羅蜜中の種種の因緣』は、
『空解脱門の義』を、
『説いている!』が、
例えば、
『経』中に、こう説く通りである、――
若し、
『空解脱門を離れれば!』、
『道も、涅槃も!』、
『無い!』、と。
是の故に、
『三乗の人』は、
皆、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならないのである!』。
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参考:『中論巻2観行品』:『大聖為破六十二諸見。及無明愛等諸煩惱故說空。若人於空復生見者。是人不可化。譬如有病須服藥可治。若藥復為病則不可治。如火從薪出以水可滅。若從水生為用何滅。如空是水能滅諸煩惱火。有人罪重貪著心深。智慧鈍故。於空生見。或謂有空。或謂無空。因有無還起煩惱。若以空化此人者。則言我久知是空。若離是空則無涅槃道。如經說。離空無相無作門。得解脫者。但有言說』
参考:『摩訶般若波羅蜜経巻3勧学品』:『‥‥復次世尊。菩薩摩訶薩欲行般若波羅蜜。四念處中不應住。何以故。四念處四念處相空。世尊。四念處空不名四念處。離空亦無四念處。四念處即是空。空即是四念處。乃至十八不共法亦如是。世尊。以是因緣故。菩薩摩訶薩欲行般若波羅蜜。四念處乃至十八不共法中不應住。復次世尊。菩薩摩訶薩欲行般若波羅蜜。檀那波羅蜜中不應住。尸羅波羅蜜羼提波羅蜜毘梨耶波羅蜜禪那波羅蜜般若波羅蜜中不應住。何以故。檀那波羅蜜檀那波羅蜜相空。乃至般若波羅蜜般若波羅蜜相空。世尊。檀那波羅蜜空不名檀那波羅蜜。離空亦無檀那波羅蜜。檀那波羅蜜即是空。空即是檀那波羅蜜。乃至般若波羅蜜亦如是。世尊。以是因緣故。菩薩摩訶薩欲行般若波羅蜜。不應六波羅蜜中住。‥‥』 |
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復次舍利弗自說因緣。於般若波羅蜜中廣說三乘相。是中三乘人應學成
大智度論卷第四十一 |
復た次ぎに、舎利弗の、自ら因縁を説かく、『般若波羅蜜中に於いて、広く三乗の相を説けば、是の中に三乗の人は、応に学びて成ずべし』、と。
大智度論巻第四十一 |
復た次ぎに、
『舎利弗』は、
自ら、
『因緣』を、こう説いている、――
『般若波羅蜜』中には、
『三乗の相』が、
『広く説かれている!』ので、
『三乗の人』は、
是の
『般若波羅蜜を学んで!』、
『道を成じねばならないのである!』、と。
大智度論巻第四十一 |
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