巻第四十之下

 

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大智度論、釈往生品第四之余

檀等の六波羅蜜に住して、薩婆若の道を浄める

十方の諸仏菩薩、一切の声聞等に念ぜられる

三百の比丘、六万の欲天子は受記する

大智度論、釈歎度品第五

諸の阿羅漢は菩薩摩訶薩を讃歎する

大智度論、釈舌相品第六

再度、舌相を出す

 

 

 

 

 

 

 

 

 

檀等の六波羅蜜に住して、薩婆若の道を浄める

【經】舍利弗。有菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。住檀波羅蜜淨薩婆若道畢竟空。不生慳心故。

舎利弗、有る菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずる時、檀波羅蜜に住して薩婆若の道を浄む。畢竟空にして慳心を生ぜざるが故なり。

   舎利弗!

   有る、

     菩薩摩訶薩は、

       『般若波羅蜜』を行ずる時、

         『檀波羅蜜』に住して、

         『薩婆若の道』を浄める。

       『一切の法』は、

       畢竟じて、

         『空』であり、

         『慳心を生じない』からである。

 

  :薩婆若道:仏道と云うに同じ。

舍利弗。有菩薩摩訶薩。行般若波羅蜜時。住尸羅波羅蜜淨薩婆若道畢竟空。罪不罪不著故。

舎利弗、有る菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずる時、尸羅波羅蜜に住して薩婆若の道を浄む。畢竟空にして罪不罪に著せざるが故なり。

   舎利弗!

   有る、

     菩薩摩訶薩は、

       『般若波羅蜜』を行ずる時、

         『尸羅波羅蜜』に住して、

         『薩婆若の道』を浄める。

       『一切の法』は、

       畢竟じて、

         『空』であり、

         『罪、不罪に著さない』からである。

舍利弗。有菩薩摩訶薩。行般若波羅蜜時。住羼提波羅蜜淨薩婆若道畢竟空。不瞋故。

舎利弗、有る菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずる時、羼提波羅蜜に住して薩婆若の道を浄む。畢竟空にして瞋らざるが故なり。

   舎利弗!

   有る、

     菩薩摩訶薩は、

       『般若波羅蜜』を行ずる時、

         『羼提波羅蜜』に住して、

         『薩婆若の道』を浄める。

       『一切の法』は、

       畢竟じて、

         『空』であり、

         『瞋らない』からである。

舍利弗。有菩薩摩訶薩。行般若波羅蜜時。住毘梨耶波羅蜜淨薩婆若道畢竟空。身心精進不懈息故。

舎利弗、有る菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずる時、毘梨耶波羅蜜に住して薩婆若の道を浄む。畢竟空にして身心は精進し懈息せざるが故なり。

   舎利弗!

   有る、

     菩薩摩訶薩は、

       『般若波羅蜜』を行ずる時、

         『毘梨耶波羅蜜』に住して、

         『薩婆若の道』を浄める。

       『一切の法』は、

       畢竟じて、

         『空』であり、

       『身心』は、

         『精進』して、

         『懈怠しない』からである。

舍利弗。有菩薩摩訶薩。行般若波羅蜜時。住禪波羅蜜淨薩婆若道畢竟空。不亂不昧故。

舎利弗、有る菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずる時、禅波羅蜜に住して薩婆若の道を浄む。畢竟空にして乱れず、味わわざるが故なり。

   舎利弗!

   有る、

     菩薩摩訶薩は、

       『般若波羅蜜』を行ずる時、

         『禅波羅蜜』に住して、

         『薩婆若の道』を浄める。

       『一切の法』は、

       畢竟じて、

         『空』であり、

         『乱れず』、

         『味わわない』からである。

 

  :不乱不昧:他本に従って不乱不味に改む。

舍利弗。有菩薩摩訶薩。行般若波羅蜜時。住般若波羅蜜淨薩婆若道畢竟空。不生癡心故。

舎利弗、有る菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずる時、般若波羅蜜に住して薩婆若の道を浄む。畢竟空にして癡心を生ぜざるが故なり。

   舎利弗!

   有る、

     菩薩摩訶薩は、

       『般若波羅蜜』を行ずる時、

         『般若波羅蜜』に住して、

         『薩婆若の道』を浄める。

       『一切の法』は、

       畢竟じて、

         『空』であり、

         『癡心を生じない』からである。

如是舍利弗。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。住六波羅蜜淨薩婆若道畢竟空故。不來不去故。不施不受故。非戒非犯故。非忍非瞋故。不進不怠故。不定不亂故。不智不愚故。

是の如し、舎利弗、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずる時、六波羅蜜に住して薩婆若の道を浄む。畢竟空なるが故に、不来不去なるが故に、不施不受なるが故に、非戒非犯なるが故に、非忍非瞋なるが故に、不進不怠なるが故に、不定不乱なるが故に、不智不愚なるが故なり。

   是のように、

     舎利弗!

     菩薩摩訶薩は、

       『般若波羅蜜』を行ずる時、

         『六波羅蜜』に住して、

         『薩婆若の道』を浄める。

       『一切の法』は、

       畢竟じて、

         『空』であるので、

           『来る』でなく、『去る』でもないが故に、

           『施す』でなく、『受ける』でもないが故に、

           『持戒する』でなく、『犯戒する』でもないが故に、

           『忍辱する』でなく、『瞋恚する』でもないが故に、

           『精進する』でなく、『懈怠する』でもないが故に、

           『定心』でなく、『乱心』でもないが故に、

           『智慧』でなく、『愚癡』でもないが故にである。

爾時菩薩摩訶薩。不分別布施不布施持戒犯戒忍辱瞋恚精進懈怠定心亂心智慧愚癡。不分別毀害輕慢恭敬。

爾の時、菩薩摩訶薩は布施と不布施、持戒と犯戒、忍辱と瞋恚、精進と懈怠、定心と乱心、智慧と愚癡とを分別せず、毀害、軽慢と恭敬とを分別せず。

   爾の時、

     菩薩摩訶薩は、

       『布施』と、『布施しない』と、

       『持戒』と、『犯戒』と、

       『忍辱』と、『瞋恚』と、

       『精進』と、『懈怠』と、

       『定心』と、『乱心』と、

       『智慧』と、『愚癡』とを、

         『分別』せず、

       『毀害、軽慢』と、『恭敬』とを、

         『分別』しない。

何以故。舍利弗。無生法中無有受毀者。無有受害者。無有受輕慢恭敬者。

何を以っての故に、舎利弗、無生法中には毀を受くる者の有ること無く、害を受くる者の有ること無く、軽慢、恭敬を受くる者の有ること無ければなり。

   何故ならば、

     舎利弗!

       『無生法』の中には、

         『毀を受ける』者も無く、

         『害を受ける』者も無く、

         『軽慢や、恭敬を受ける』者も無いからである。

舍利弗。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。得如是諸功德。聲聞辟支佛所無有得。是功德具足成就眾生。淨佛世界得一切種智

舎利弗、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行じて、是の如き諸の功徳を得、声聞、辟支仏の得ることの有ること無き所なり。是の功徳を具足して、衆生を成就し、仏世界を浄めて一切種智を得。

   舎利弗!

     菩薩摩訶薩は、

       『般若波羅蜜』を行じて、

       是の、

         『諸の功徳』を得るが、

       是れは、

         『声聞、辟支仏』の、

           『得ることの無い』所であり、

       是の、

         『功徳』を具足して、

           『衆生』を成就し、

           『仏世界』を浄めて、

           『一切種智』を得るのである。

【論】釋曰。是菩薩初發意行般若波羅蜜。漸行餘功德。所謂檀波羅蜜等。菩薩住檀波羅蜜修治薩婆若道。觀一切法畢竟空。不生慳貪心。以是二事故開薩婆若道。

釈して曰く、是の菩薩は初発意に般若波羅蜜を行じて、漸く余の功徳を行ず。謂わゆる檀波羅蜜等なり。菩薩は檀波羅蜜に住して薩婆若の道を修治し、一切法の畢竟空なることを観て、慳貪心を生ぜず。是の二事を以っての故に、薩婆若の道を開く。

 釈す、

   是の菩薩は、

     初めて、

       『意(菩提心)』を発すと、

       『般若波羅蜜』を行じて、

     次第に、

       『他の功徳』を行ずる。

       謂わゆる、

         『檀波羅蜜』等である。

   菩薩は、

     『檀波羅蜜』に住して、

       『薩婆若の道』を修治(修理治乱)し、

       『一切の法』は、

       畢竟じて、

         『空である』と観て、

         『慳貪心』を生じない。

       是の、

         『二事(観空、不生慳心)』を用いるが故に、

         『薩婆若の道』が開ける。

所以者何。畢竟空中無有慳貪。慳貪根本斷故。具足檀波羅蜜。具足檀波羅蜜故。莊嚴般若波羅蜜。乃至般若波羅蜜畢竟空故。常不生癡心。所以者何。此中佛自說。一切法不來不去無施無受故。乃至不智不愚故。

所以は何んとなれば、畢竟空中には、慳貪有ること無ければなり。慳貪の根本を断つが故に檀波羅蜜を具足し、檀波羅蜜を具足するが故に般若波羅蜜を荘厳す。乃ち般若波羅蜜の畢竟空なるが故に常に癡心を生ぜざるに至る。所以は何んとなれば、此の中に仏の自ら説きたまわく、『一切法は不来不去なり、無施無受の故に、乃至不智不愚の故に。』と。

     何故ならば、

       畢竟じて、

         『空』の中には、

           『慳貪』が無く、

           『慳貪の根本』が断絶するが故に、

             『檀波羅蜜』を具足するのであり、

             『檀波羅蜜』の具足するが故に、

               『般若波羅蜜』を荘厳するのである。

     乃ち、

       『般若波羅蜜』に至るまで、

       畢竟じて、

         『空』であるが故に、

         常に、

           『癡心を生じない』のである。

     何故ならば、

       此の中に、

         仏は、

           自ら、こう説かれている、――

           『一切の法は、

              『来る』でなく、『去る』でもないが故に、

              『施す』でなく、『受ける』でもないが故に、

            乃至、

              『智者』でなく、『愚者』でもないが故に』と。

問曰。若能如是觀行六波羅蜜。得何等利益。

問うて曰く、若し能くかくの如く観て、六波羅蜜を行ぜば、何等の利益をか得る。

 問い、

   若し、

     是のように、

       『一切の法』を観て、

       『六波羅蜜を行う』ことができれば、

     何のような、

       『利益』を得られるのですか?

答曰。此中佛自說。此菩薩不念有所施與無所施與。若念有施入虛妄法中。又著布施心生憍慢。若念無所施即墮邪見中。是布施論議是佛法中初門。云何言無

答えて曰く、此の中に仏の自ら説きたまわく、『此の菩薩は施与する所有り、施与する所無きを念ぜず。若し施有るを念ぜば、虚妄法の中に入り、又布施に著して心に憍慢を生ぜん。若し施す所無きを念ぜば、即ち邪見中に堕せん。』と。是の布施の論議は、是れ仏法中の初門なり。云何が無しと言わん。

 答え、

   此の中に、

     仏は、

       自ら、こう説かれている、――

       『此の、

          菩薩は、

            『施与する所が有る』とも、

            『施与する所が無い』とも念じない。

          若し、

            『施す所が有る』と念ずれば、

              『虚妄の法』の中に入り、又、

              『布施』に著して、

                『憍慢心』を生ずる。

          若し、

            『施す所が無い』と念ずれば、

            即ち、

              『邪見』の中に堕ちる。』と。

   是の、

     『布施の論議』は、

     是れは、

       『仏法の初門』である。

       何うして、

         『無い!』と言えよう。

乃至不念有癡有慧。是人如金剛山四面風起不能令動。是菩薩爾時若有罵詈讚歎心無有異。何以故。此中佛自說。無生法中無有罵者無有害者無恭敬者。聲聞辟支佛有加害者。不能深有慈悲心。若默然若遠離。

乃ち癡有り、慧有るを念ぜざるに至るまで、是の人は、金剛山の四面に風起るも、動ぜしむること能わざるが如し。是の菩薩は、爾の時、若し罵詈、讃歎有るも、心に異なりの有ること無し。何を以っての故に、此の中に仏の自ら説きたまわく、『無生法中には、罵る者の有ること無く、害する者の有ること無く、恭敬する者の有ること無し。』と。声聞、辟支仏に加害する者有れば、深く慈悲心有ること能わずして、若しは黙然し、若しは遠離す。

   乃至、

     『愚癡が有る』とも、

     『智慧が有る』とも念じないならば、

   是の人は、

     『金剛山』が、

     四面に、

       『風』が起っても、

       『動かされない』のと同じであり、

   是の菩薩は、

     爾の時、

     若し、

       『罵詈』が有ろうと、

       『讃歎』が有ろうと、

       心には、

         『異なりが無い』のである。

   何故ならば、

     此の中に、

       仏は、

         自ら、こう説かれている、――

         『無生法の中には、

            『罵る者』も無く、

            『害する者』も無く、

            『恭敬する者』も無い。』と。

     『声聞、辟支仏』に、

       『加害する者』が有れば、

       深く、

         『慈悲心を保つ』ことができないので、

         若しは、

           『黙然』したり、

           『遠離』したりするのである。

菩薩則不然。能深加慈心。愛之如子方便度之。是故勝一切聲聞辟支佛。而能教化一切眾生。忍辱慈悲方便深故。隨願清淨業因緣故。能淨佛世界。是法具足故。不久當得一切種智

菩薩は則ち然らず、能く深く慈心を加え、之を愛すること、子の如く方便して、之を度す。是の故に一切の声聞、辟支仏に勝れて能く一切の衆生を教化す。忍辱、慈悲、方便の深きが故に、願に随う清浄業の因縁の故に、久しからずして、当に一切種智を得べし。

     『菩薩』ならば、

     則ち、

       そうでない。

       深く、

         之(これ)に、

           『慈悲心を加える』ことができるので、

           『子を愛する』ように愛して、

           『方便して度す』のである。

     是の故に、

       『一切の声聞、辟支仏』に勝れて、

         『一切の衆生』を教化するのであるが、

         『忍辱、慈悲、方便』が深いが故に、

         『願に随う清浄の業』の因縁の故に、

           『仏世界を浄める』ことができ、

         『是の法(六波羅蜜)』の具足するが故に、

         久しからずして、

           『一切種智を得る』のである。

 

 

 

 

 

十方の諸仏菩薩、一切の声聞等に念ぜられる

【經】復次舍利弗。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。一切眾生中生等心。一切眾生中生等心已。得一切諸法等。得一切諸法等已。立一切眾生於諸法等中。是菩薩摩訶薩現世為十方諸佛所念。亦為一切菩薩一切聲聞辟支佛所念。

復た次ぎに、舎利弗、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずる時、一切の衆生の中に等心を生じ、一切の衆生の中に等心を生じ已りて、一切の諸法の等を得、一切の諸法の等を得已りて、一切の衆生を、諸法の等中に立つ。是の菩薩摩訶薩は現世には十方の諸仏の為に念ぜられ、又一切の菩薩、一切の声聞、辟支仏の為に念ぜらる。

 復た次ぎに、

   舎利弗!

   菩薩摩訶薩は、

     『般若波羅蜜』を行ずる時、

       『一切の衆生』の中に、

         『等心』を生ずる。

       『一切の衆生』の中に、

         『等心』を生じたならば、

         『一切の諸法の等』を得る。

       『一切の諸法の等』を得たならば、

         『一切の衆生』を、

         『諸法の等』の中に立たせる。

   是の菩薩摩訶薩は、

     現世には、

       『十方の諸仏』に念ぜられ、亦た、

       『一切の菩薩』、及び、

       『一切の声聞、辟支仏』に念ぜられる。

是菩薩在所生處眼終不見不愛色。乃至意不覺不愛法。如是舍利弗。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。不減於阿耨多羅三藐三菩提

是の菩薩は所生の処に在りて、眼に終に不愛の色を見ず、乃至意に不愛の法を覚えず。是の如し、舎利弗、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行じて、阿耨多羅三藐三菩提を減ぜず。

   是の菩薩は、

     『所生の処』に在って、

     終に、

       『眼』には、『不愛の色』を見ず、乃至、

       『意』には、『不愛の法』を覚えないのである。

   是のように、

     舎利弗!

     菩薩摩訶薩は、

       『般若波羅蜜』を行じて、

       『阿耨多羅三藐三菩提』を減ずることがない。

【論】釋曰。佛若廣說諸菩薩相。則窮劫不盡。今佛此品末略說其相。是相足為諸菩薩所通行。

釈して曰く、仏は、若し広く、諸の菩薩相を説きたまわば、則ち劫を窮むるも尽きざらん。今、仏は此の品末に略して其の相を説きたまえり。是の相は諸の菩薩の通じて行ずる所と為すに足る。

 釈す、

   仏が、

     若し、

     広く、

       『諸の菩薩相』を説かれたならば、

       則ち、

         『劫』を窮めても、

         『尽きない』のであるが、

   今、

     仏は、

       此の品の末に当たって、

       略して、

         『其の相』を、こう説かれた、――

         『是の相は、

            『諸の菩薩』の、

            『通じて行ずる所』と為すに足るものである』と。

所謂大慈悲故。初發度一切眾生心故。學諸佛等心觀眾生故。一切法自性空故。如是等因緣故。於一切眾生中生等心。得是等心已。得一切諸法等。

謂わゆる大慈悲の故に、初めて一切の衆生を度せんとして発する心の故に、諸仏の等心を学んで衆生を観るが故に、一切法の自性は空なるが故に、是の如き等の因縁の故に、一切の衆生の中に於いて等心を生じ、是の等心を得已りて、一切の諸法の等を得るなり。

   謂わゆる、

     『大慈悲』の故に、

     『初めて、

        一切の衆生を度せんと、

        心を発す』が故に、

     『諸仏の、

        等心を学んで、

        衆生を観る』が故に、

     『一切の法は、

        自性が空である』が故に、

     是れ等の、

       因縁の故に、

       『一切の衆生』の中に於いて、

         『等心』を生じ、

         『是の等心』を得た後に、

           『一切の諸法の等』を得るのである。

一切法等者。如先說眾生等法等義。今當更說。慈愍四生眾生。一心欲利益名眾生等。觀四念處亦不見身名為法等。四正懃等諸四法亦如是。

一切法の等とは、先に衆生の等、法の等の義を説けるが如し。今、当に更に説くべし。四生の衆生を慈愍して、一心に利益せんと欲するを、衆生の等と名づく。四念処を観て、亦た身を見ざるを名づけて、法の等と為す。四正懃等の諸の四法も亦た是の如し。

   『一切法の等』とは、

   先に、

     『衆生の等』と、

     『法の等』の義を説いたとおりであるが、

   今、更に、

     説くことにしよう、――

     『四生(胎、卵、湿、化)の、

        衆生を慈愍して、

        一心に利益しようとする。』

      是れが、

        『衆生の等』である。

     『四念処(身、受、心、法)を、

        観察して、

        亦た再び、

          身を見ることがない。』

     是れが、

       『法の等』であり、

       『四正懃(止悪修善の精進)』等の、

         『諸の四法』も、

         亦た、

           是のようである。

 

  参考:『大智度論巻5』:『已得等忍者。問曰。云何等云何忍。答曰。有二種等。眾生等法等。忍亦二種眾生忍法忍。云何眾生等。一切眾生中等心等念等愛等利。是名眾生等。問曰。慈悲力故於一切眾生中。應等念。不應等觀。何以故。菩薩行實道不顛倒如法相。云何於善人不善人大人小人人及畜生。一等觀。不善人中實有不善相。善人中實有善相。大人小人人及畜生亦爾。如牛相牛中住。馬相馬中住。牛相非馬中。馬相非牛中。馬不作牛故。眾生各各相。云何一等觀而不墮顛倒。答曰。若善相不善相是實。菩薩應墮顛倒。何以故破諸法相故以諸法非實。善相非實不善相非多相非少相。非人非畜生非一非異。以是故汝難非也。如說諸法相偈 不生不滅  不斷不常  不一不異  不去不來  因緣生法  滅諸戲論  佛能說是  我今當禮  復次一切眾生中。不著種種相。眾生相空相一等無異。如是觀。是名眾生等。若人是中心等無礙。直入不退。是名得等忍。得等忍菩薩。於一切眾生不瞋不惱如慈母愛子。如偈說 觀聲如呼響  身行如鏡像  如此得觀人  云何而不忍  是名眾生等忍。云何名法等忍。善法不善法有漏無漏有為無為等法。如是諸法入不二入法門。入實法相門。如是入竟。是中深入諸法實相時。心忍直入無諍無礙。是名法等忍。如偈說 諸法不生不滅  非不生非不滅  亦不生滅非不生滅  亦非不生滅  非非不生滅  已得解脫(丹注云於邪見得離故言解脫也)空非空(丹注云於空不取故言非也)是等悉捨滅諸戲論言語道斷。深入佛法心通無礙不動不退。名無生忍。是助佛道初門以是故說已得等忍

復次念五道中眾生。皆沒無常老病死。是名眾生等。行是信等五根。若五神通。一心欲度是眾生是名法等。

復た次ぎに、五道の中の衆生を念ずるに、皆無常の老病死に没す、是れを衆生の等と名づく。是の信等の五根、若しくは五神通を行じて、一心に是の衆生を度せんと欲す、是れを法の等と名づく。

 復た次ぎに、

   『五道の中の、

      衆生は、

      皆、

        無常の、

        老、病、死に没している。』と念ずる。

   是れを、

     『衆生の等』という。

   是れに就いて、

     『信等の五根(信、精進、念、定、慧)』を行い、

     若しくは、

       『五神通』を行って、

       一心に、

         『是の衆生を度そう』とする。

   是れを、

     『法の等』という。

復次眾生中行忍辱慈悲等福功德無量。功德無量故心柔軟。心柔軟故疾得禪定。修禪定故心如意調柔。心如意調柔故。破世間長短男女白黑等。入一相法所謂無相。得是法等已。令一切眾生得是法等。

復た次ぎに、衆生の中に忍辱、慈悲等の福を行ずれば、功徳は無量なり。功徳無量なるが故に心は柔軟なり。心柔軟なるが故に疾かに禅定を得。禅定を修むるが故に心は意の如く調柔なり。心の意の如く調柔なるが故に世間の長短、男女、白黒等を破り、一相に入れば、法は謂わゆる無相なり。是の法の等を得已れば、一切衆生をして是の法を得しむ。

 復た次ぎに、

   『衆生』の中に於いて、

     『忍辱、慈悲』等の、

     『福』を行ずれば、

       『功徳』は無量である。

       『功徳』が無量であるが故に、

       心は『柔軟』である。

       心が、

         『柔軟』であるが故に、

         疾かに、

           『禅定』を得る。

           『禅定』を得るが故に、

           心は、

             『意』のままで、

             『調柔』である。

           心が、

             『意』のままで、

             『調柔』であるが故に、

             世間の、

               『長短、男女、白黒』等を破って、

               『一相』に入るので、

             『法』は、

             謂わゆる、

               『無相』である。

   是れが、

     『法の等』である。

   是の、

     『法の等』を得たならば、

     『一切の衆生』に、

     是の、

       『法の等』を得させる。

是菩薩得是二等。成就無量福德智慧故。得現世果報。為諸佛所念餘人所念。愛著生念者皆是虛妄。唯諸佛念是為實念。不愛著故。

是の菩薩は、是の二等を得て、無量の福徳の智慧を成就するが故に、現世には果報を得て、諸仏の為に念ぜられ、余人に念ぜらる。愛著して念を生ずれば、皆是れ虚妄なり。唯だ諸仏の念ずるのみ、是れを実に念ずと為す、愛著せざるが故なり。

   是の、

     菩薩は、

     是の、

       『二等(衆生等、法等)』を得て、

       無量の福徳の、

         『智慧』を成就するが故に、

         現世の果報を得て、

           『諸仏』にも念ぜられ、

           『余人』にも念ぜられる。

   『愛著』して生ずる、

     『念』は、

     皆、

     是れは、

       『虚妄』である。

   唯だ、

     『諸仏の念』のみは、

     是れが、

       『実の念』である。

       『愛著しない』からである。

是人諸佛尚念。何況聲聞辟支佛菩薩。聲聞辟支佛斷結者。猶尚愛念。何況凡夫未離欲者。以菩薩福德因緣生故。得如是等無量今世果報。後世所生處。眼終不見惡色。

是の人は、諸仏すら尚お念ず、何に況んや、声聞、辟支仏、菩薩をや。声聞、辟支仏の結を断ぜし者すら、猶尚お愛念す。何に況んや、凡夫の未だ欲を離れざる者をや。菩薩は福徳の因縁生なるを以っての故に、是の如き等、無量の今世の果報を得、後世の所生の処には、眼に終に悪色を見ず。

   是の人は、

     『諸仏』にさえ念ぜられる。

     況して、

       『声聞、辟支仏、菩薩』は言うまでもない。

   『声聞、辟支仏』は、

     『結』を断じた者ですら、

     猶お、

       『愛念(涅槃を)』する。

     況して、

     『凡夫』で、

     未だ、

       『欲を離れない』者は言うまでもない。

   『菩薩』は、

     『福徳の因縁』で生ずるが故に、

     是のように、

       今世には、

         『無量の果報』を得て、

       後世には、

         『所生の処』に於いて、

         終に、

           『眼』に、

           『悪色を見る』ことはない。

惡色者。所謂能生苦受聲香味觸法。乃至能生憂心者。如六欲天六情所對淨妙五欲隨意歡喜。眾生種少福德生天上如是。何況菩薩福德實智慧無量無邊。為十方諸佛諸餘賢聖所念

悪色とは、謂わゆる能く苦受を生ずる声、香、味、触、法、乃至能く憂心を生ずる者なり。六欲天の六情所対の浄妙の五欲の意の随(まま)に歓喜するが如く、衆生の少し福徳を種えて天上に生ずるも是の如し。何に況んや、菩薩の福徳の実の智慧の無量、無辺にして、十方の諸仏、諸余の賢聖の為に念ぜらるるをや。

   『悪色』とは、

   謂わゆる、

     『苦受』を生ずる、

       『色、声、香、味、触、法』であり、

     乃至、

       『憂心』を生ずるものである。

   例えば、

     『六欲天』は、

       『六情』に対する、

       『浄妙の五欲』を、

       意のままに、

         『歓喜している』のであるが、

     『衆生』が、

     少しばかり、

       『福』を種えて、

       『天上』に生まれても、

         是のようなのである。

     況して、

       『菩薩の福徳』は、

       『実の智慧』が、

         『無量無辺』であり、

         『十方の諸仏、賢聖』に、

           『念ぜられる』のである。

 

 

 

 

 

三百の比丘、六万の欲天子は受記する

【經】說是般若波羅蜜品時。三百比丘從坐起以所著衣上佛。發阿耨多羅三藐三菩提心。佛爾時微笑種種色光從口中出。

是の般若波羅蜜品を説きたまえる時、三百の比丘、坐より起ちて著くる所の衣を仏に上(ささ)げ、阿耨多羅三藐三菩提心を発せり。仏は、爾の時、微笑して、種種の色光を口中より出したもう。

 是の、

   『般若波羅蜜の品』を説かれた時、

   『三百の比丘』は、

     『坐』より起って、

     『身に着けた衣』を、

       『仏』に奉げ、

       『阿耨多羅三藐三菩提心』を発した。

  仏は、

    爾の時、

      『微笑』されると、

      種種の、

        『色光』が、

        『口』中より出た。

爾時慧命阿難從坐起整衣服。合掌右膝著地白佛言。佛何因緣微笑。

爾の時、慧命阿難、坐より起ちて衣服を整え、合掌して右膝を地に著け、仏に白して言さく、『仏は、何なる因縁にか微笑したもう。』と。

   爾の時、

     『慧命(長老)阿難』は、

       『坐』より起って衣服を整えると、

       『合掌』して右膝を地に著け、

       『仏』に、こう白した、――

       『仏は、

          何のような因縁で、

          微笑されたのですか?』と。

佛告阿難。是三百比丘。從是已後六十一劫。當得作佛皆號名大相。是三百比丘捨此身已當生阿閦佛國。及六萬欲天子皆發阿耨多羅三藐三菩提心。於彌勒佛法中出家行佛道。

仏の阿難に告げたまわく、『是の三百の比丘は、是れより已後の六十一劫に、当に仏と作るを得て、皆号して大相と名づくべし。是の三百の比丘は、此の身を捨て已りて、当に阿閦仏の国に生じ、及び六万の欲天子は、皆阿耨多羅三藐三菩提心を発して、弥勒仏の法中に出家し、仏道を行ずべし。』と。

     『仏』は、

       『阿難』に、こう告げられた、――

       『是の、

          『三百の比丘』は、

          是れ以後の、

            『六十一劫』に、

            『仏』と作り、

            皆、

              『大相』と号するだろう。

        是の、

          『三百の比丘』は、

            『此の身』を捨てて、

            『阿閦(あしゅく)仏の国』に生まれるだろう。

        及び、

          『六万の欲天子』は、

          皆、

            『阿耨多羅三藐三菩提心』を発して、

            『弥勒仏の法』の中に於いて、

              『出家』して、

              『仏道』を行うだろう。』と。

是時佛之威神故。此間四部眾見十方面各千佛。是十方世界嚴淨。此娑婆世界所不能及。爾時十千人作願言。我等修淨願行。以淨願行故當生彼佛世界。

是の時、仏の威神の故に、此の間の四部衆は十の方面に各千仏を見る。是の十方の世界の厳浄なること、此の娑婆世界の及ぶ能わざる所なり。爾の時、十千人の願を作して言わく、『我等は浄願の行を修めて、浄願の行を以っての故に、当に彼の仏世界に生ずべし。』と。

   是の時、

     『仏の威神』の故に、

     此の間の、

       『四部の衆』は、

         十方の面に、

         各、

           『千仏』を見た。

    是の、

      『十方の世界』は、

        『厳浄』であり、

        『此の娑婆世界』の、

          『及ばない所』であったので、

    爾の時、

      『十千(一万)人』は、

        『願』を作して、こう言った、――

        『我等は、

           浄願の行を修めて、

           浄願の行の故に、

             『彼の仏世界』に生まれることにしよう。』と。

爾時佛知是善男子深心而復微笑。種種色光從口中出。阿難整衣服合掌白佛。佛何因緣微笑。佛告阿難。汝見是十千人不。阿難言見。佛言。是十千人於此壽終當生彼世界。終不離諸佛。後當作佛皆號莊嚴王

爾の時、仏は、是の善男子の深心を知りて、復た微笑し、種種の色光を口中より出したまえり。阿難の衣服を整え合掌して、仏に白さく、『仏は、何なる因縁にか、微笑したもう。』と。仏の阿難に告げたまわく、『汝は、是の十千人を見るや、不や。』と。阿難の言さく、『見る。』と。仏の言わく、『是の十千人は、此に於いて寿を終るに、当に彼の世界に生じ、終に諸仏を離れざるべく、後には当に仏と作りて、皆荘厳王と号すべし。』と。

   爾の時、

     『仏』は、

     是の、

       『善男子の深心』を知って、復たしても、

       『微笑』されると、

       種種の、

         『色光』が、

         『口』中より出た。

     『阿難』は、

       『衣服』を整えて合掌し、

       『仏』に、こう白した、――

       『仏は、

          何のような因縁で、

          微笑されたのですか?』と。

     『仏』は、

       『阿難』に、こう告げられた、――

       『お前は、

          是の十千人を見たか?』、と。

     『阿難』は、

       こう言った、――

       『見ました!』と。

     『仏』は、

       こう言われた、――

       『是の十千人は、

          此の寿を終えると、

            彼の世界に生まれて、

            終に、

              『諸仏』を離れることなく、

            後には、

              『仏』と作って、

              皆、

                『荘厳王』と号するだろう。』と。

【論】問曰。如佛結戒。比丘三衣不應少。是諸比丘何以故破尸羅波羅蜜作檀波羅蜜。

問うて曰く、仏の戒を結びたもうが如くんば、比丘の三衣は、応に少(か)くべからず。是の諸の比丘は、何を以っての故にか、尸羅波羅蜜を破りて、檀波羅蜜を作せる。』と。

 問い、

   『仏の結戒』によれば、

     『比丘の三衣』は、

     『少(か)けてはならない』はずです。

   是の、

     諸の比丘は、

     何故、

       『尸羅波羅蜜』を破って、

       『檀波羅蜜』を作したのですか?

 

  参考:『四分律巻6三十捨墮法(2)』:『爾時佛在舍衛國祇樹給孤獨園。時六群比丘持衣付囑親友比丘往人間遊行。受付囑比丘得此衣數數在日中曬。諸比丘見已便問言。佛聽比丘畜三衣不得長。此是誰衣。彼即答言。此六群比丘衣。是我親友寄我遊行人間。恐虫壞故曬耳。諸比丘聞。中有少欲知足行頭陀樂學戒知慚愧者。嫌責六群比丘。汝等云何以衣付囑親友比丘離衣人間遊行。嫌責已往世尊所。頭面禮足在一面坐。以此因緣具白世尊。世尊以此因緣集比丘僧。呵責六群比丘言。汝所為非。非威儀非沙門法非淨行非隨順行。所不應為。云何以衣付囑親友比丘離衣遊行人間。世尊以無數方便呵責已。告諸比丘。六群比丘癡人。多種有漏處最初犯戒。自今已去與比丘結戒。集十句義乃至正法久住。欲說戒者當如是說。若比丘衣已竟迦絺那衣已捨。三衣中若離一一衣異處宿尼薩耆波逸提。如是世尊與比丘結戒。時有一比丘。有乾痟病。有糞掃僧伽梨患重。此比丘有因緣事。欲遊行人間不堪持行。自思念言。世尊與比丘結戒。不得離衣宿。離衣宿尼薩耆波逸提。而我今乾痟病。有糞掃僧伽梨極重。有因緣事欲往人間行不堪持行。我今當云何。即語同伴比丘。世尊與諸比丘結戒。若比丘三衣已竟迦絺那衣已出。比丘三衣中若離一一衣宿尼薩耆波逸提。而我得乾痟病。此衣極重。有因緣事欲人間行不堪持行。我今云何。諸大德為我往白世尊。世尊有所教敕我當奉行。時諸比丘往世尊所。頭面禮足在一面坐。以此因緣具白世尊。世尊即集諸比丘僧告言。自今已去聽僧與此病比丘結不失衣白二羯磨。應如是與。彼比丘應往至僧中。偏露右臂脫革屣向上座禮。胡跪合掌當作是說。大德僧聽。我某甲比丘得乾痟病。此糞掃僧伽梨重。有因緣欲人間行不堪持行。我今從僧乞結不失衣法。應如是求。乃至三說僧中當差堪能羯磨人。如上作如是白。大德僧聽。某甲比丘得乾痟病。有糞掃僧伽梨衣重。有因緣事欲人間行不堪持行。從僧乞結不失衣法。若僧時到僧忍聽。與此比丘結不失衣法。白如是。大德僧聽。某甲比丘得乾痟病。有糞掃僧伽梨衣患重。有因緣事欲人間行不堪持行。今從僧乞結不失衣法。今僧與某甲比丘結不失衣法。誰諸長老忍。僧與某甲比丘結不失衣法者默然。誰不忍者說。僧已忍。與某甲比丘結不失衣法竟。僧忍默然故。是事如是持。自今已去當如是說戒。若比丘衣已竟迦絺那衣已出。三衣中離一一衣異處宿除僧羯磨尼薩耆波逸提。比丘義如上說。衣已竟者三衣也。迦絺那衣已出。三衣者僧伽梨鬱多羅僧安陀會。衣者有十種如上說。僧者一說戒一羯磨。不失衣者。僧伽藍裏有一界。失衣者。僧伽藍裏有若干界。不失衣者。樹有一界。失衣者。樹有若干界。不失衣者。場有一界。失衣者。場有若干界。不失衣者。車有一界。失衣者。車有若干界。不失衣者。船有一界。失衣者。船有若干界。不失衣者。村有一界。失衣者。村有若干界。不失衣者。舍有一界。失衣者。舍有若干界。不失衣者。堂有一界。失衣者。堂有若干界。不失衣者。庫藏有一界。失衣者。庫藏有若干界。不失衣者。倉有一界。失衣者。倉有若干界。僧伽藍者。有四種如上。樹者。與人等足蔭覆跏趺坐。場者。於中治五穀處。車者。若車迴轉處。船者。若船迴轉處。村者。有四種如上。堂者。多敞露。庫者。儲積藏諸車乘輦輿販賣之物。倉者。儲積米穀。僧伽藍界者。此僧伽藍界非彼僧伽藍界。此僧伽藍界非彼樹界。乃至庫藏界非彼庫藏界亦如是。此樹界非彼樹界。乃至庫藏界僧伽藍界亦如是。此場界非彼場界。乃至僧伽藍界樹界亦如是。餘者作句亦如上。僧伽藍界者在僧伽藍邊。以中人若用石若塼擲所及處是名界。乃至庫藏界亦如是。若比丘置衣。在僧伽藍內。乃在樹下宿。明相未出。若捨衣。若手捉衣。若至擲石所及處。若不捨衣。若不手捉衣。若不至擲石所及處。明相出。隨所離衣宿。尼薩耆波逸提。除三衣若離餘衣。突吉羅。若比丘留衣。著僧伽藍內。往場處宿。明相未出。若捨衣。若應手捉衣。若至擲石所及處。若不捨衣。若不手捉衣。若不至擲石所及處。明相出。隨所離衣宿。尼薩耆波逸提。乃至庫藏宿。一一句亦如是。若比丘留衣樹下。往場處宿。乃至庫藏僧伽藍處宿亦如是。不失衣者。若阿蘭若處無界。八樹中間一樹間。七弓。遮摩梨國作弓法。長中肘四肘。若比丘無村阿蘭若處。留衣著此八樹間。異處宿。明相未出。不捨衣不手捉衣。若不至擲石所及處。明相出。尼薩耆波逸提。除三衣。離餘雜衣。突吉羅。此捨墮衣。應捨與僧。若眾多人若一人。不得別眾捨。若捨不成捨。突吉羅。捨與僧時。當往僧中偏露右臂脫革屣向上座禮。胡跪合掌作如是白。大德僧聽。我某甲比丘離衣宿犯捨墮。我今捨與僧。彼捨已當懺悔。受懺人當作白。然後受懺如是白。大德僧聽。此某甲比丘離衣宿犯捨墮。今捨與僧。若僧時到僧忍聽。我受某甲比丘懺白如是。作此白已。然後受懺當語彼人言。自責汝心。彼答言爾。僧應即還此比丘衣。白二羯磨應如是與。僧中當差堪能羯磨人如上作如是白。大德僧聽。某甲比丘離衣宿犯捨墮。今捨與僧。若僧時到僧忍聽。持此衣還彼某甲比丘。白如是。大德僧聽。此某甲比丘離衣宿犯捨墮。今捨與僧。僧持此衣還彼某甲比丘。誰諸長老忍。僧持此衣還彼某甲比丘者默然。誰不忍者說。僧已忍。與彼某甲比丘衣竟。僧忍默然故。是事如是持。若僧中捨衣竟不還者。突吉羅。還時若有人言莫還者突吉羅。若轉作淨施。若遣與人。若持作三衣。若作波利迦羅衣。若故壞若燒。若作非衣。若數數著壞者。盡突吉羅。比丘尼。尼薩耆波逸提。式叉摩那沙彌沙彌尼。突吉羅。是謂為犯。不犯者。僧與作羯磨。明相未出。手捉衣。若捨衣。若至擲石所及處。若劫奪想若失想若燒想若漂想若壞想。若水道斷路嶮難。若賊難若惡獸難。若渠水漲若強力者所執。若繫縛或命難或梵行難。若不捨衣不手捉衣不至擲石所及處。不犯。不犯者。最初未制戒。癡狂心亂痛惱所纏(二竟)

答曰。有人言。佛過十二歲然後結戒。是比丘施衣時未結戒。有人言。是比丘有淨施衣心生當受。以是故施。有人言。是諸比丘多知多識。即能更得事不經宿。

答えて曰く、有る人の言わく、『仏は、十二歳を過ぎて、然る後に戒を結びたまえり。是の比丘の衣を施す時は、未だ戒を結びたまわず。』と。有る人の言わく、『是の比丘に浄施の衣有りて、心に生ずらく、当に受くべしと。是を以っての故に施せり。』と。有る人の言わく、『是の諸の比丘は多く知り、多く識れば、即ち能く更に得て、事は宿を経ず。』と。

 答え、

   有る人は、

     こう言っている、――

     『仏は、

        『成仏後の十二歳』を過ぎて、

        初めて、

          『戒』を結ばれた。

      是の比丘が、

        『衣を施す』時には、

        未だ、

          『戒が結ばれていなかった』のである。』と。

   有る人は、

     こう言っている、――

     『是の比丘には、

        『浄施の衣』が有り、、

        心には、

          この意が生じた、――

          『受けるに値する』と。

        是の故に、

          『施した』のである。』と。

   有る人は、

     こう言っている、――

     『是の、

        諸の比丘は、

          多くを知り、

          多くを識るのであるから、

          更に、

            『衣を得る』ことができ、

            『三衣』を少いたまま、

              『宿(一夜)を経る』ことはない。』と。

復次有人言。是諸比丘聞佛說諸菩薩行檀波羅蜜諸功德力勢無量故。得與般若波羅蜜相應。心大踊躍即以衣施。無復他念不故破戒。

復た次ぎに、有る人の言わく、『是の諸の比丘は、仏の、諸の菩薩は檀波羅蜜を行じて、諸の功徳の力勢無量なるが故に般若波羅蜜と相応するを得と説きたまえるを聞き、心大いに踊躍して即ち衣を以って施すも、復た他念無ければ、故(ことさら)に破戒するにあらず。』と。

 復た次ぎに、

   有る人は、

     こう言っている、――

     『是の、

        諸の比丘は、

          仏が、

            『諸の菩薩の行ずる、

               檀波羅蜜の、

               諸の功徳は、

                 力勢が無量であるが故に、

                 般若波羅蜜と相応することができる。』と説かれるのを聞いて、

          心が、

          大いに、

            踊躍して、

            『衣を施した』のであって、

            『他念が有る』わけでなく、

            故意に、

              『戒を破った』のではない。』と。

復次諸比丘知佛法畢竟空無所著斷法愛。為世諦故結戒非第一義。是比丘從佛聞第一義及布施等六波羅蜜。聞諸菩薩種種大威力愍念眾生。為諸煩惱所覆。不能得是菩薩功德。是故生大悲心。為眾生故發阿耨多羅三藐三菩提意。以是故以衣布施。

復た次ぎに、諸の比丘は、仏法の畢竟空にして、著する所無きを知り、法愛を断ず。世諦の為の故に、結戒するも第一義に非ず。是の比丘は、仏より第一義、及び布施等の六波羅蜜を聞き、諸の菩薩の種種の大威力もて衆生を愍念するを聞くも、諸の煩悩の為に覆われ、是の菩薩の功徳を得ること能わず。是の故に、大悲心を生じて、衆生の為の故に、阿耨多羅三藐三菩提の意を発し、是を以っての故に、衣を以って布施せり。

 復た次ぎに、

   諸の比丘は、

     『仏法』も、

     畢竟すれば、

       『空』であり、

       『著する所』が無いと知り、

     『法愛』を断じたのである。

   仏は、

     『世諦』の為の故に、

       『結戒』されたのであり、

     『第一義諦』の故に、

       『結戒』されたのではない。

   是の比丘は、

     『仏』より、

       『第一義』、及び、

       『布施等の六波羅蜜』を聞き、

       『諸の菩薩は、

          種種の大威力を用って、

          衆生を愍念している』と聞いたが、

     『煩悩』に、

       覆われて、

       『是の菩薩の功徳』を、

         得られないので、

         是の故に、

           『大悲心』を生じて、

           『衆生』の為の故に、

             『阿耨多羅三藐三菩提の意』を発し、

             是の故に、

               『衣を施した』のである。

若人以貪欲瞋恚怖畏邪見不恭敬心。輕佛語而不持戒。是名為破戒。是諸比丘都無此心。是故無破戒罪。

若し人、貪欲、瞋恚、怖畏、邪見、不恭敬の心を以って、仏語を軽んじて、戒を持たずんば、是れを名づけて破戒と為す。是の諸の比丘は、都(すべ)て此の心無く、是の故に破戒の罪無し。

   若し、

     人が、

       『貪欲、瞋恚、怖畏、邪見』を起し、

       『不恭敬の心』で、

         『仏語』を軽んじて、

         『持戒』しないのであれば、

     是れを、

       『破戒』という。

   是の、

     諸の比丘は、

     都(すべ)て、

       『此の心』が無いので、

     是の故に、

       『破戒の罪』は無い。

問曰。佛何以故微笑。

問うて曰く、仏は何を以っての故にか、微笑したもう。

 問い、

   仏は、

   何故、

     『微笑された』のですか?

答曰。笑有種種。有人見妓樂事而笑。有人內懷瞋恚而笑。有人憍慢故笑。有人輕物故笑。有人事辦歡喜故笑。有人見不應作而作故笑。有人懷詐揚善故笑。有人見希有事故笑。佛今見比丘以一袈裟施故。未來世中。成辦佛事是為希有。以是故笑。

答えて曰く、笑いに種種有り。有る人は伎楽の事を見て笑い、有る人は内に瞋恚を懐いて笑い、有る人は憍慢の故に笑い、有る人は物を軽んじて笑い、有る人は事の辦(べん、具備)ずるに歓喜するが故に笑い、有る人は応に作すべからざるに作すが故に笑い、有る人は詐(いつわ)りを懐いて、善を揚ぐるが故に笑い、有る人は希有の事を見るが故に笑う。仏は、今、比丘の一袈裟を以って施すが故に未来世中に仏事を成辦(成就、具備)するを見て、是れを希有と為し、是を以っての故に笑いたもう。

 答え、

   『笑い』には、

     種種有る。

     有る人は、

       『伎楽の事』を見て笑い、

     有る人は、

     内に、

       『瞋恚』を懐いて笑い、

     有る人は、

       『憍慢』であるが故に笑い、

     有る人は、

       『物を軽んずる』が故に笑い、

     有る人は、

       『事が具わった』ので歓喜するが故に笑い、

     有る人は、

       『作してならない事』を作したが故に笑い、

     有る人は、

       『詐(いつわ)り』を懐きながら、

       『善良』を装って笑い、

     有る人は、

       『希有の事』を見るが故に笑う。

   『仏』は、

     今、

     『比丘が、

        一袈裟を施したが故に、

        未来世に、

          仏事を成就する』のを見られて、

     是れを、

       『希有の事』とされたので、

       是の故に、

         『笑われた』のである。

問曰。阿難何以常問佛笑。而餘比丘不問。

問うて曰く、阿難は何を以ってか、常に仏の笑いたもうを問い、余の比丘は問わざる。

 問い、

   『阿難』は、

     何故、

     常に、

       『仏の笑われた』ことを問い、

     『余の比丘』は、

       『問わない』のですか?

答曰。是諸比丘不親近佛。又敬難心多故不敢自問。阿難善知人相知諸比丘意。又見佛笑疑故作是念。佛無眾生相無有法相。知三界如夢如幻。今有何事能令佛笑。佛如須彌山王大地大海。不以小因緣故動。以是故問笑因緣。

答えて曰く、是の諸の比丘は、仏に親近せずして、又敬難心多きが故に敢て自ら問わず。阿難は善く人相を知り、諸の比丘の意を知り、又仏の笑いたもうを見て疑うが故に、是の念を作さく、『仏には、衆生相無く、法相の有ること無く、三界は夢の如く、幻の如しと知りたもうに、今何事有りてか、能く仏をして笑わしむ。仏は須弥山王、大地、大海の如くして、小因縁を以っての故には動じたまわず。』と。是を以っての故に、笑いの因縁を問えり。

 答え、

   是の、

     『諸の比丘』は、

       『仏』に、

         『親近する』ことがなく、又、

         『敬難(敬遠)心』が多いので、

         敢て、

           『自ら、問おうとしない』が、

     『阿難』は、

       善く、

         『人の相』を知るので、

         『諸の比丘の意』を知り、

       又、

         『仏が笑われる』を見て、

         『疑』が起きたので、

         是のような、

           『念』を作したのである、――

           『仏に、

              『衆生の相(笑相)』が無く、

              『法()の相』が無いのは、

              『三界』は、

                『夢か、幻のようだ』と知っていられるからだ。

            今、

              『何事』が有って、

              『仏を、笑わせた』のだろう?

            仏は、

              『須弥山王』か、

              『大地、大海』のように、

              小さな、

                『因縁』では、

                『動かせない』はずだ。』と。

     是の故に、

       『笑いの因縁』を問うたのである。

佛告阿難。業因緣果報相續不可思議。是三百比丘卻後六十一劫。當得作佛號名大相。(施以手舉物顯示為相故因以為名)六十一劫中是人利根佛說法。與般若波羅蜜相應故。是諸人疾得作佛。

仏の阿難に告げたまわく、『業の因縁、果報の相続するは不可思議なり。是の三百の比丘は却(しりぞ)きて後、六十一劫に、当に仏と作るを得て、号を大相(施すに手を以って物を挙げ顕示するを、相と為すが故に、因りて以って名と為す)と名づくべし。六十一劫の中に、是の人は利根にして、仏の説法に値(あ)い、般若波羅蜜と相応するが故に、是の諸の人は、疾かに仏と作るを得ん。』と。

     仏は、

       『阿難』に、こう告げられた、――

       『業の、

          『因縁』と、

          『果報の相続』は、

            不可思議である。

        是の、

          『三百の比丘』は、

            退いて後、

            六十一劫に於いて、

              『仏』と作り、

              『大相』と号することになる。

            六十一劫の中に、

            是の人は、

              『利根』となり、

              『仏の説法』に値(あ)って、

              『般若波羅蜜と相応する』が故に、

            是の、

              『諸の人』は、

              疾かに、

                『仏と作る』ことができるのである。』と。

是諸比丘未得天眼故。自疑不知生何處。恐不能得集諸功德不得至道。是故佛言捨是身當生阿閦佛世界。六萬欲天子必是宿世共福德因緣故。與三百比丘俱。發阿耨多羅三藐三菩提心。是彌勒所應度。是故佛說彌勒時當出家。

是の諸の比丘は、未だ天眼を得ざるが故に、自ら疑いて、何処に生ずるかを知らず、『諸の功徳を集むるを得ること能わずして、道に至るを得ざらん』と恐る。是の故に、仏の言わく、『是の身を捨つれば、当に阿閦佛の世界に生ずべし。六万の欲天子は、必ず是れ宿世に、福徳の因縁と共なるが故に、三百の比丘と倶に、阿耨多羅三藐三菩提心を発さん。』と。是れは弥勒の応に度すべき所なれば。是の故に仏の説きたまわく、『弥勒の時に当に出家すべし。』と。

     是の、

       諸の比丘は、

       未だ、

         『天眼』を得ないが故に、

         自らを疑って、

           『何処に生まれるのか?』を知らずに、

           このように恐れる、――

           『諸の、

              功徳を集めることもできず、

              道に至ることもできないであろう』と。

     是の故に、

       仏は、

         こう言われたのである、――

         『是の身を捨てれば、

            阿閦仏の世界に生ずることになる。

          六万の欲天子は、

          必ず、

            宿世に、

            福徳の因縁を共にするが故に、

              三百の比丘と倶に、

              阿耨多羅三藐三菩提心を発すだろう。』と。

     是れは、

       『弥勒が度す』はずであるので、

     是の故に、

       仏は、

         こう説かれた、――

         『弥勒の時に、

            出家することになる。』と。

今佛記諸比丘生阿閦佛世界故。諸人咸欲見諸佛清淨世界。是故佛令大眾見十方面各千佛。

今、仏の、『諸の比丘は阿閦仏の世界に生ぜん。』と記したもうが故に、諸人は、咸(ことごと)く諸仏の清浄世界を見んと欲し、是の故に仏は、大衆をして、十の方面に各千仏を見しめたもう。

   今、

     『仏』が、

       『諸の比丘は、

          阿閦仏の世界に生ずる。』と記されたが故に、

     『諸人』は、

     皆、

       『諸仏の、

          清浄の世界を見たいものだ。』と思った。

   是の故に、

     『仏』は、

       『大衆』に、

       十方の面の、

       各、

         『千仏』を見せられたのである。

是四眾見是清淨莊嚴佛世界。見諸佛身大於須彌山者。一生補處菩薩大眾圍繞。以梵音聲徹無量無邊世界。各自鄙薄其身。憐愍眾生故。為求無量佛法。作願生彼佛世界。如清淨世界行願中說。

是の四衆は、是の清浄荘厳の仏世界を見、諸仏の身は須弥山より大なるを見れば、一生補処の菩薩大衆に囲遶され、梵音声を以って、無量無辺の世界に徹り、各自ら其の身を鄙薄し、衆生を憐愍するが故に、為に無量の仏法を求め、願を作して彼の仏世界に生ずること、清浄世界の行願中に説くが如し。

   是の、

     『四衆』は、

     是の、

       『清浄荘厳の仏世界』を見、

       『諸仏の身』が、

         『須弥山』より大きく、

         『一生補処の菩薩大衆』に囲遶されるのを見、

       『梵音声』が、

         『無量、無辺の世界』に徹るのを聞き、

     各、

       自らの、

         『其の身』を賎しみ、

         『衆生』を憐愍するが故に、

         『衆生』の為に、

           『無量の仏法』を求めて、

           『願』を、

             このように作した、――

             『彼の仏世界に生まれたい。』と。

   是れは、

   例えば、

     『清浄世界の行願』の中に説いたとおりである。

 

  参考:『大智度論巻37』:『問曰。教化眾生則佛土淨。何以別說。答曰。眾生雖行善。要須菩薩行願迴向方便力因緣故。佛土清淨。如牛力挽車要須御者乃得到所至處。以是故別說。疾得者行是空相應無有障礙。則能疾得阿耨多羅三藐三菩提。

笑因緣如先說。是十千人於此壽終當生彼國。隨生彼國行業因緣具足故。此間集深厚無量福德故。終不離諸佛見諸莊嚴佛世界。發心故皆號莊嚴王佛

笑いの因縁は、先に説けるが如し。是の十千人は、此に於いて寿終れば、当に彼の国に生ずべし。彼の国に生ずるに随いて、行業の因縁具足するが故に、此の間に集めし深厚無量の福徳の故に、終に諸仏を離れずして、諸の荘厳の仏世界を見、心を発すが故に皆、荘厳王仏と号す。

   『笑いの因縁』は、

     先に説いたとおりである。

   是の、

     『十千人』は、

       『此の寿』を終えると、

       『彼の国』に生まれるのであるが、

       『彼の国』に生じて、

         『行業の因縁』の具足するが故に、

       『此の間』に於いて、

         『深厚、無量の福徳』を集めたが故に、

         終に、

           『諸仏』を離れることなく、

           『諸の荘厳の仏世界』を見て、

           『菩提心』を発すが故に、

           皆、

             『荘厳王仏』と号するのである。

 

 

 

 

 

大智度論、釈歎度品第五

大智度論釋歎度品第五

大智度論、釈歎度品第五

  慧命舎利弗、慧命目揵連、慧命須菩提、慧命摩訶迦葉等、

  諸の阿羅漢は、

    諸の菩薩摩訶薩の般若波羅蜜を讃歎する。

 

諸の阿羅漢は菩薩摩訶薩を讃歎する

【經】爾時慧命舍利弗。慧命目犍連。慧命須菩提。慧命摩訶迦葉。如是等諸多知識比丘。及諸菩薩摩訶薩。諸優婆塞優婆夷。從坐起合掌白佛言。世尊。摩訶波羅蜜是菩薩摩訶薩般若波羅蜜。尊波羅蜜第一波羅蜜勝波羅蜜妙波羅蜜無上波羅蜜無等波羅蜜無等等波羅蜜如虛空波羅蜜。是菩薩摩訶薩般若波羅蜜。

爾の時、慧命舎利弗、慧命目揵連、慧命須菩提、慧命摩訶迦葉、是の如き等の諸の多知識比丘、及び諸の菩薩摩訶薩、諸の優婆塞、優婆夷は、坐より起ちて合掌し、仏に白して言さく、『世尊、摩訶波羅蜜は是れ菩薩摩訶薩の般若波羅蜜なり。尊波羅蜜、第一波羅蜜、勝波羅蜜、妙波羅蜜、無上波羅蜜、無等波羅蜜、無等等波羅蜜、如虚空波羅蜜は、是れ菩薩摩訶薩の般若波羅蜜なり。

 爾の時、

   『慧命舎利弗』、

   『慧命目揵連』、

   『慧命須菩提』、

   『慧命摩訶迦葉』、

   是れ等、

     『諸の多知識比丘』、及び、

     『諸の菩薩摩訶薩』、

     『諸の優婆塞、優婆夷』は、

       『坐』より起って合掌し、

       『仏』に、こう白した、――

       『世尊!

         『摩訶波羅蜜』とは、

         是れは、

           『菩薩摩訶薩の般若波羅蜜』です。

         『尊波羅蜜』、

         『第一波羅蜜』、

         『勝波羅蜜』、

         『妙波羅蜜』、

         『無上波羅蜜』、

         『無等波羅蜜』、

         『無等等波羅蜜』、

         『如虚空波羅蜜』とは、

         是れは、

           『菩薩摩訶薩の般若波羅蜜』です。

世尊。自相空波羅蜜。是菩薩摩訶薩般若波羅蜜。

世尊、自相空波羅蜜は、是れ菩薩摩訶薩の般若波羅蜜なり。

        世尊!

          『自相空波羅蜜』とは、

          是れは、

            『菩薩摩訶薩の般若波羅蜜』です。

世尊。自性空波羅蜜。是菩薩摩訶薩般若波羅蜜。諸法空波羅蜜。無法有法空波羅蜜。開一切功德波羅蜜。成就一切功德波羅蜜。不可壞波羅蜜。是諸菩薩摩訶薩般若波羅蜜。

世尊、自性空波羅蜜は、是れ菩薩摩訶薩の般若波羅蜜なり。諸法空波羅蜜、無法有法空波羅蜜、開一切功徳波羅蜜、成就一切功徳波羅蜜、不可壊波羅蜜は、是れ諸の菩薩摩訶薩の般若波羅蜜なり。

        世尊!

          『自性空波羅蜜』とは、

          是れは、

            『菩薩摩訶薩の般若波羅蜜』です。

          『諸法空波羅蜜』、

          『無法有法空波羅蜜』、

          『開一切功徳波羅蜜』、

          『成就一切功徳波羅蜜』、

          『不可壊波羅蜜』とは、

          是れは、

          諸の、

            『菩薩摩訶薩の般若波羅蜜』です。

諸菩薩摩訶薩行是般若波羅蜜無等等布施。具足無等等檀波羅蜜。得無等等身。得無等等法。所謂阿耨多羅三藐三菩提。尸羅波羅蜜羼提波羅蜜毘梨耶波羅蜜禪波羅蜜般若波羅蜜亦如是。

諸の菩薩摩訶薩は、是の般若波羅蜜の無等等の布施を行じて、無等等の檀波羅蜜を具足し、無等等の身を得、無等等の法を得、謂わゆる阿耨多羅三藐三菩提なり。尸羅波羅蜜、羼提波羅蜜、毘梨耶波羅蜜、禅波羅蜜、般若波羅蜜も、亦た是の如し。

          諸の、

            『菩薩摩訶薩』は、

            是の、

              『般若波羅蜜』の、

              『無等等の布施』を行じて、

                『無等等の檀波羅蜜』を具足し、

                『無等等の身』を得、

                『無等等の法』を得ます。

                謂わゆる、

                  『阿耨多羅三藐三菩提』です。

              『尸羅波羅蜜』、

              『羼提波羅蜜』、

              『毘梨耶波羅蜜』、

              『禅波羅蜜』、

              『般若波羅蜜』も、

              亦た、

                是のとおりです。

世尊。本亦復行此般若波羅蜜。具足無等等六波羅蜜。得無等等法。得無等等色無等等受想行識。佛轉無等等法輪。

世尊は、本より、亦た復た此の般若波羅蜜を行じて、無等等の六波羅蜜を具足し、無等等の法を得、無等等の色、無等等の受想行識を得たまえる仏にして、無等等の法輪を転じたまえるなり。

          『世尊』も、

            本より、

            亦た復た、

            此の

              『般若波羅蜜』を行じて、

                『無等等の六波羅蜜』を具足し、

                『無等等の法』を得、

                『無等等の色』、

                『無等等の受想行識』を得られ、

              『仏』として、

                『無等等の法輪』を転じていられます。

過去佛亦如是。行此般若波羅蜜。具足無等等布施。乃至轉無等等法輪。未來世佛亦行此般若波羅蜜。當作無等等布施。乃至當轉無等等法輪。

過去の仏も、亦た是の如く、此の般若波羅蜜を行じて、無等等の布施を具足して、乃至無等等の法輪を転じたまえり。未来世の仏も、亦た此の般若波羅蜜を行じて、当に無等等の布施を作し、乃至当に無等等の法輪を転じたもうべし。

          『過去の仏』も、

          亦た、

            是のように、

            此の、

              『般若波羅蜜』を行じて、

                『無等等の布施』を具足し、乃至、

                『無等等の法輪』を転ぜられました。

          『未来世の仏』も、

          亦た、

            此の、

              『般若波羅蜜』を行じて、

                『無等等の布施』を作されるのであり、乃至、

                『無等等の法輪』を転ぜられるのです。

以是故世尊。菩薩摩訶薩欲度一切法彼岸。當習行般若波羅蜜。唯世尊。是行般若波羅蜜菩薩摩訶薩。一切世間天及人阿修羅。應當體敬供養。

是を以っての故に、世尊、菩薩摩訶薩は、一切法の彼岸に度せんと欲するに、当に般若波羅蜜を習行すべし。唯だ世尊、是の般若波羅蜜を行ずる菩薩摩訶薩を、一切の世間の天、及び人、阿修羅は、応当に体敬して供養すべし。』と。

          是の故に、

            世尊!

            『菩薩摩訶薩』は、

              『一切法の彼岸』に渡ろうとするのですから、

              当然、

                『般若波羅蜜』を習行しなくてはなりません。

          唯だ、

            世尊!

            是の、

              『般若波羅蜜』を行ずる、

              『菩薩摩訶薩』のみを、

              一切の、

                『世間の天、及び人、阿修羅』は、

                  『礼敬』して、

                  『供養』すべきです。

 

  体敬(たいきょう):体敬は身を以って敬うの意。一本には礼敬に作る。

佛告眾弟子及諸菩薩摩訶薩。如是如是諸善男子。行是般若波羅蜜者。一切世間天及人阿修羅。應當禮敬供養。

仏の衆(もろもろ)の弟子、及び諸の菩薩摩訶薩に告げたまわく、『是の如し、是の如し、諸の善男子、是の般若波羅蜜を行ずる者は、一切の世間の天、及び人、阿修羅、応当に礼敬し供養すべし。

     『仏』は、

       『衆()の弟子』、及び

       『諸の菩薩摩訶薩』に、

       こう告げられた、――

       『そうだ、そのとおりだ!

        諸の善男子!

        是の、

          『般若波羅蜜を行ずる者』を、

          一切の、

            『世間の天、及び人、阿修羅』は、

              『礼敬』して、

              『供養』すべきである。

何以故。因菩薩來故。出生人道天道利大姓婆羅門大姓居士大家。轉輪聖王四天王天。乃至阿迦尼吒天。出生須陀洹乃至阿羅漢辟支佛諸佛。因菩薩來故。世間便有飲食衣服臥具房舍燈燭摩尼真珠毘琉璃珊瑚金銀等諸寶物生。

何を以っての故に、菩薩来たるに因るが故に、人道、天道、刹利の大姓、婆羅門の大姓、居士の大家、転輪聖王、四天王天、乃至阿迦尼吒天を出生し、須陀洹、乃至阿羅漢、辟支仏、諸仏を出生し、菩薩の来たるに因るが故に、世間には便ち飲食、衣服、臥具、房舎、灯燭、摩尼、真珠、毘琉璃、珊瑚、金銀等、諸の宝物有りて生ず。

        何故ならば、

          『菩薩が来る』ことに因り、

            『人道、天道』、

            『刹利の大姓、婆羅門の大姓』、

            『居士の大家、転輪聖王』、

            『四天王天、乃至阿迦尼吒天』を出生し、

            『須陀洹、乃至阿羅漢、辟支仏、諸仏』を出生し、

          『菩薩が来る』ことに因り、

            『世間』には、

              『飲食、衣服、臥具、房舎、灯燭』、

              『摩尼、真珠、毘琉璃、珊瑚、金銀』等の、

              『諸の宝物』が生ずるからである。

舍利弗。世間所有樂具。若人中若天上若離欲樂。是一切樂具皆由菩薩有。

舎利弗、世間の有らゆる楽具は、若しは人中、若しは天上、若しは離欲の楽、是の一切の楽具は、皆菩薩に由りて有り。

   舎利弗!

     『世間』の、

     有らゆる、

       『楽具』は、

         『人中の楽』であろうと、

         『天上の楽』であろうと、

         『離欲の楽』であろうと、

     是の一切の、

       『楽具』は、

       皆、

         『菩薩』に由って、

         『有る』のである。

何以故。舍利弗。菩薩摩訶薩行菩薩道時。住六波羅蜜。自行布施亦以布施成就眾生。乃至自行般若波羅蜜。亦以般若波羅蜜成就眾生。舍利弗。是故菩薩摩訶薩為安樂一切眾生故。出現於世

何を以っての故に、舎利弗、菩薩摩訶薩は、菩薩道を行ずる時、六波羅蜜に住して、自ら布施を行じ、亦た布施を以って衆生を成就し、乃至自ら般若波羅蜜を行じ、亦た般若波羅蜜を以って衆生を成就す。舎利弗、是の故に、菩薩摩訶薩は、一切衆生を安楽にせんが為の故に、世に出現せり。』と。

     何故ならば、

       舎利弗!

       『菩薩摩訶薩』は、

         『菩薩道』を行ずる時、

           『六波羅蜜』に住して、

           自ら、

             『布施』を行い、

             『布施』を以って、

               『衆生』を成就し、乃至、

           自ら、

             『般若波羅蜜』を行い、

             『般若波羅蜜』を以って、

               『衆生』を成就するからである。

     舎利弗!

     是の故に、

       『菩薩摩訶薩』は、

       一切の、

         『衆生』を、

           『安楽にする』為の故に、

         『世間』に、

           『出現する』のである。

【論】問曰。五千比丘中上有千餘上座。所謂漚樓頻螺迦葉等。何以止說此四人名。

問うて曰く、五千の比丘中には、上に千余の上座有り。謂わゆる漚楼頻螺迦葉等なり。何を以ってか、是の四人の名を説くに止むる。

 問い、

   『五千の比丘』の中に、

     『上』の者として、

       『千余の上座』が有り、

       謂わゆる、

         『漚楼頻螺迦葉』等です。

   何故、

     『此の四人』の、

       『名』を説いて止めたのですか?

答曰。是四比丘是現世無量福田。舍利弗是佛右面弟子。目揵連是佛左面弟子。須菩提修無諍定行空第一。摩訶迦葉行十二頭陀第一。世尊施衣分坐常深心憐愍眾生。

答えて曰く、是の四比丘は、是れ現世の無量の福田にして、舎利弗は是れ仏の右面の弟子、目揵連は是れ仏の左面の弟子なり、須菩提は無諍定を修めて行空第一なり、摩訶迦葉は十二頭陀を行ずること第一なれば、世尊は衣を施して坐を分ちたまい、常に深心に衆生を憐愍せり。

 答え、

   是の、

     『四比丘』は、

     是れは、

       『現世の無量の福田』である。

     『舎利弗』は、

     是れは、

       『仏の右面の弟子』であり、

     『目揵連』は、

     是れは、

       『仏の左面の弟子』であり、

     『須菩提』は、

     是れは、

       『無諍定』を修めて、

       『行空第一』であり、

     『摩訶迦葉』は、

       『十二頭陀』を行じて、

         『第一』で、

       『世尊』が、

         『衣』を施して、

         『坐』を分たれたほどであり、

       常に、

       深心より、

         『衆生』を、

         『憐愍していた』からである。

佛在世時若有人欲求今世果報者。供養是四人輒得如願。是故是多知多識比丘及四眾讚般若波羅蜜。

仏の在世の時、若し有る人、今世の果報を求めんと欲するに、是の四人に供養せば、輒(すなわ)ち願の如きを得ん。是の故に、是の多知、多識の比丘、及び四衆は般若波羅蜜を讃ず。

   『仏』の、

     『在世の時』、

     若し、

     有る人が、

       『今世の果報』を求めて、

       『是の四人』に供養したならば、

       輒(たやす)く、

         『願』のままに、

         『得た』ほどである。

   是の故に、

   是の、

     『多知多識の比丘』及び、

     『四衆』が、

       『般若波羅蜜』を讃歎したのである。

問曰。是阿羅漢最後身所作已辦。何以復讚歎般若波羅蜜。

問うて曰く、是の阿羅漢は、最後の身にして所作已に辨ぜり。何を以ってか、復た般若波羅蜜を讃歎する。

 問い、

   是の、

     『阿羅漢』は、

       『最後の身』であり、

       『作すべき所』は、

       已に、

         具わっている。

     何故、

     復たしても、

       『般若波羅蜜を讃歎する』のですか?

答曰。人皆知阿羅漢得無漏道。以菩薩智慧雖大結使未斷故不貴。又以是阿羅漢有慈悲心助佛揚化故。以之為證。

答えて曰く、人は、皆、阿羅漢の無漏道を得るを知るも、菩薩は智慧大なりと雖も、結使の未だ断ぜざるが故に貴からざるを以って、又、是の阿羅漢には、慈悲心有りて、仏を助けて化を揚ぐるを以っての故に、之を以って証と為すなり。

 答え、

   人は、

   皆、

     『阿羅漢』が、

       『無漏道を得た』と知っているが、

     『菩薩』は、

       『智慧』が、

         『大』であっても、

       『結使』が、

       未だ、

         『断たれていない』が故に、

         『貴ばない』のである。

   又、

   是の、

     『阿羅漢』は

       『慈悲心』が有って、

       『仏』を助けて、

       盛んに、

         『化導』しているので、

       之を、

         『証人』としたのである。

佛道於世間中最大。是般若能與此事故。名為大波羅蜜。

仏道は、世間の中に最大にして、是の般若は能く此の事に与(あずか)るが故に名づけて、大波羅蜜と為す。

   『仏道』は、

     『世間の中の最大』であり、

   是の、

     『般若』は、

       『此の事(仏道)に与(あずか)る』ことができるので、

       『大波羅蜜』という。

一切法中智慧第一故。言尊波羅蜜。能正導五度故。名第一波羅蜜。五度不及故。名為勝波羅蜜。如五情不及意

一切法の中に智慧は第一なるが故に尊波羅蜜と言い、能く正しく五度を導くが故に第一波羅蜜と名づけ、五度も及ばざるが故に名づけて勝波羅蜜と為す、五情の意に及ばざるが如し。

   『智慧』は、

     『一切法』の中の、

       『第一』であるが故に、

       『尊波羅蜜』という。

     『五度』を、

       『正しく導びく』が故に、

       『第一波羅蜜』という。

     『五度』でも、

       『及ばない』が故に、

       『勝波羅蜜』という。

     例えば、

       『五情』が、

       『意に及ばない』のと同じである。

能自利利人故。名為妙波羅蜜。一切法中無有過者故。名無上波羅蜜。無有法與同者故。名無等波羅蜜。諸佛名無等從般若波羅蜜生故。名無等等波羅蜜。

能く自ら利し、人を利するが故に名づけて妙波羅蜜と為し、一切法の中に過ぐる者の有ること無きが故に無上波羅蜜と名づけ、法として同じき者の有ること無きが故に無等波羅蜜と名づけ、諸仏を無等と名づけ、般若波羅蜜より生ずるが故に、無等等波羅蜜と名づく。

   『智慧』は、

     『自ら』を利し、

     『人』を利するが故に、

       『妙波羅蜜』という。

     『一切法』の中に、

       『過ぎた者』が無いが故に、

       『無上波羅蜜』という。

     『法』として、

       『同じ者』が無いが故に、

       『無等波羅蜜』という。

     『諸仏』を、

       『無等』といい、

       『般若波羅蜜より生ずる』が故に、

       『無等等波羅蜜』という。

是般若波羅蜜畢竟清淨。不可以戲論破壞故。名如虛空波羅蜜。

是の般若波羅蜜は畢竟清浄にして戯論を以って破壊すべからざるが故に、如虚空波羅蜜と名づく。

 是の、

   『般若波羅蜜』は、

   畢竟じて、

     『清浄』であり、

     『戯論』では、

       『破壊できない』が故に、

       『如虚空波羅蜜』という。

般若波羅蜜中。一切法自相不可得故。名為自相空波羅蜜。此波羅蜜中一切法自性空故。諸法因緣和合生。無有自性故。名為自性空波羅蜜。諸法中無有自法故。名為諸法空波羅蜜。以此眾生空法空故。破諸法令無所有。無所有亦無所有。是名無法有法空波羅蜜。

般若波羅蜜中に、一切法の自相は得べからざるが故に名づけて、自相空波羅蜜と為し、此の波羅蜜中には、一切法の自性は空なるが故に、諸法は因縁和合の生にして、自性の有ること無きが故に名づけて、自性空波羅蜜と為し、諸法の中に自法の有ること無きが故に名づけて、諸法空波羅蜜と為し、此の衆生空、法空を以っての故に、諸法を破りて、所有無からしめ、所有無きも亦た所有無し、是れを無法有法空波羅蜜名づく。

   『般若波羅蜜』の中には、

     『一切法』の、

       『自相は得られない』が故に、

       『自相空波羅蜜』という。

   『此の波羅蜜』の中に、

     『一切法』は、

       『自性が空である』が故に、

     『諸法』は、

       『因縁和合の生』であり、

       『自性が無い』が故に、

       『自性空波羅蜜』という。

     『諸法』の中に、

       『自法は無い』が故に、

       『諸法空波羅蜜』という。

   『此の衆生空、法空』の故に、

     『諸法』を破って、

       『無所有』にすれば、

       『無所有』も、

       亦た、

         『無所有』である。

     是れを、

       『無法有法空波羅蜜』という。

菩薩行是般若波羅蜜。無有功德而不攝者。如日出時華無不敷故。名開一切功德波羅蜜。

菩薩は是の般若波羅蜜を行じて、功徳として摂せざる者の有ること無く、日の出づる時、華の敷(ひら)かざる無きが如きが故に、開一切功徳波羅蜜と名づく。

   『菩薩』は、

   是の、

     『般若波羅蜜』を行ずるので、

     『功徳』として、

       『摂しない者』は無い。

   例えば、

     『日』が出る時に、

     『華』として、

       『開かない者が無い』ようであるが故に、

       『開一切功徳波羅蜜』という。

是菩薩心中般若波羅蜜日出。成就一切諸功德皆令清淨。般若波羅蜜。是一切善法之本。是故名為成就一切功德波羅蜜。世間無有法能傾動者故。名不可破壞波羅蜜。

是の菩薩心の中に、般若波羅蜜の日出づれば、一切の諸の功徳を成就して、皆清浄ならしむ。般若波羅蜜は、是れ一切善法の本にして、是の故に名づけて、成就一切功徳波羅蜜と為し、世間に法の能く傾動する者の有ること無きが故に、不可破壊波羅蜜と名づく。

 是の、

   『菩薩』の、

     『心』中に、

     『般若波羅蜜の日』が出れば、

     一切の、

       『功徳』は、

       皆、

         『成就』して、

         『清浄』となり、

     『般若波羅蜜』は、

     是れは、

       『一切の善法』の、

         『本』であるが故に、

         『成就一切功徳波羅蜜』という。

       『世間の法』には、

         『動かす者』が無いが故に、

         『不可破壊波羅蜜』という。

是諸阿羅漢讚歎因緣。所謂三世佛皆從般若波羅蜜生。所謂無比布施乃至無比智慧。世間中無有與等者故言無比。是六波羅蜜畢竟清淨無有過失。故名為無比。無比即是無等等。

是れ諸の阿羅漢の讃歎する因縁なり。謂わゆる三世の仏は、皆般若波羅蜜より生ず。謂わゆる無比の布施、乃至無比の智慧にして、世間の中に与(とも)に等しき者有ること無きが故に無比と言い、是の六波羅蜜は畢竟清浄にして、過失有ること無きが故に名づけて、無比と為す。無比とは即ち、是れ無等等なり。

   是れが、

     『諸の阿羅漢』の、

       『讃歎する因縁』である。

       謂わゆる、

         『三世の諸仏は、皆般若波羅蜜より生ずる。』、

       謂わゆる、

         『無比の布施、乃至無比の智慧』である。

           『世間には等しい者が無い』が故に、

           『無比』という。

     『是の六波羅蜜』は、

     畢竟じて、

       『清浄』であり、

       『過失が無い』が故に、

       『無比』という。

     『無比』とは、

     即ち、

       『無等等』である。

復次無等等諸佛名無等。與諸佛等故名為無等等。

復た次ぎに、無等等とは、諸仏を無等と名づけ、諸仏と等しきが故に名づけて、無等等と為す。

 復た次ぎに、

   『無等等』とは、

     『諸仏』を、

       『無等』といい、

     『諸仏』と、

       『等しい』が故に、

       『無等等』という。

問曰。三世諸佛中已有釋迦文佛。何以別說。

問うて曰く、三世の諸仏の中には、已に釈迦文仏有り。何を以ってか、別して説く。

 問い、

   『三世の諸仏』の中に、

   已に、

     『釈迦文仏』は有る。

     何故、

       別に説くのですか?

 

  :三世諸仏中已有釈迦文仏:前の『世尊本亦復行此般若波羅蜜。具足無等等六波羅蜜。得無等等法。得無等等色無等等受想行識。佛轉無等等法輪。過去佛亦如是。行此般若波羅蜜。具足無等等布施。乃至轉無等等法輪。未來世佛亦行此般若波羅蜜。當作無等等布施。乃至當轉無等等法輪。』を指す。

答曰。今座上眾皆由釋迦文佛得度。感恩重故別說。如舍利弗說。我師不出者我等永為盲冥。諸阿羅漢知三世諸佛皆從般若波羅蜜中出。以是故。諸阿羅漢說。世尊諸菩薩摩訶薩。欲遍知一切法。當習般若波羅蜜。

答えて曰く、今、座上の衆は、皆、釈迦文仏に由り度を得て、恩の重きを感ずるが故に別して説く。舎利弗の如きの説かく、『我が師、出でたまわずんば、我等は永く盲冥為(た)るらん。』と。諸の阿羅漢は、三世の諸仏は、皆般若波羅蜜の中より出づるを知る。是を以っての故に、諸の阿羅漢の説かく、『世尊、諸の菩薩摩訶薩は、遍く一切法を知らんと欲せば、当に般若波羅蜜を習うべし。』と。

 答え、

   今、

     『座上の衆』は、

     皆、

       『釈迦文仏』より、

         『度』を得て、

         『恩』を重く感ずるが故に、

         別に、

           説くのである。

   例えば、

     『舎利弗』が、

       『若し、

          我が師が、

            世に出られなければ、

          我等は、

          永く、

            盲冥であっただろう。』と説くように、

     『諸の阿羅漢』は、

       『三世の、

          諸仏は、

          皆、

            般若波羅蜜より出る。』と知っている。

   是の故に、

     『諸の阿羅漢』は、

       こう説くのである、――

       『世尊!

          諸の菩薩摩訶薩は、

          遍く、

            『一切法を知ろう』とすれば、

          当然、

            『般若波羅蜜』を習わなければなりません。』と。

阿羅漢讚歎菩薩時心生恭敬。是故說禮敬供養。天人阿修羅者。說三善道。三惡道無所別知故不說。佛聞羅漢讚歎已。佛印可言。如是如是。應當禮敬供養行般若波羅蜜者。汝雖無一切智慧。而說不錯故。重言如是如是。

阿羅漢は、菩薩を讃歎する時、心に恭敬を生じ、是の故に説かく、『礼敬、供養すべし。』と。天、人、阿修羅とは、三善道を説く。三悪道は、別して知る所無きが故に説かず。仏は、羅漢の讃歎するを聞き已り、仏の印可して言わく、『是の如し、是の如し、応当に般若波羅蜜を行ずる者を礼敬、供養すべし。汝は、一切の智慧無しと雖も、説いて錯(あやま)たざるが故に、重ねて言わん、是の如し、是の如しと。』と。

     『阿羅漢』は、

       『菩薩』を讃歎する時、

       心に、

         『恭敬』を生じて、

       是の故に、

         こう説くのである、――

         『礼敬して供養すべきである。』と。

   『天、人、阿修羅』とは、

     『三善道』を説いたのである。

     『三悪道』については、

       『阿羅漢』には、

       別して、

         『知る所が無い』ので、

         説かない。

   『仏』は、

     『阿羅漢』の讃歎するのを聞いて、

     『印可』して、こう言われた、――

     『そうだ、

        そのとおりだ!

        当然、

          般若波羅蜜を行ずる者を、

            礼敬して供養しなければならない。

        お前には、

        一切の、

          智慧は無いが、

          錯(あやま)たずに説いた。

        是の故に、

          重ねて言おう、――

          そうだ、そのとおりだ!と。』と。

何以故。此中佛自說。因菩薩故出生人道天道。乃至一切諸菩薩。為安樂一切眾生故。說利大姓乃至阿迦尼吒。須陀洹乃至諸佛皆如先說。

何を以っての故に、此の中に、仏は自ら説きたまわく、『菩薩に因るが故に、人道、天道、乃至一切の諸の菩薩を出生す。一切の衆生を安楽にせんが為の故なり。』と。刹利の大姓、乃至阿迦尼吒、須陀洹、乃至諸仏を説きたもうは、皆先に説けるが如し。

   何故ならば、

     『仏』は、

     此の中に、

       自ら、こう説かれている、――

       『菩薩に因るが故に、

          人道、天道乃至、

          一切の、

            諸の菩薩を出生する。

            一切の、

              衆生を安楽にする為の故に。』と。

   『刹利の大姓、乃至阿迦尼吒』、

   『須陀洹、乃至諸仏』を説かれたのは、

   皆、

     先に説いたとおりである。

問曰。若因菩薩有飲食等及諸寶物。人何以力作求生受諸辛苦乃得。

問うて曰く、若し菩薩に因りて、飲食等、及び諸の宝物有らば、人は何を以ってか、力(つと)めて作して生を求め、諸の辛苦を受けて、乃ち得る。

 問い、

   若し、

     『菩薩』に因って、

       『飲食』等、及び、

       『諸の宝物』が有るならば、

     『人』は、

     何故、

       『努力』して業を作り、

       『生』を求め、

       『諸の辛苦』を受けて、

       漸く、

         『得る』のですか?

答曰。飢餓劫時人雖設其功力亦無所得。以眾生罪重故。菩薩世世讚歎布施持戒善心。是三福因緣故。有上中下。上者念便即得。中者人中尊重供養自至。下者施功力乃得。以是故說因菩薩得實而不虛。樂因緣甚多不可稱計。今佛略說天樂人樂涅槃樂皆由菩薩得。

答えて曰く、飢餓劫の時には、人は其の功力を設くと雖も、亦た得る所無きは、衆生の罪の重きを以っての故なり。菩薩は、世世に、布施、持戒、善心を讃歎し、是の三福の因縁の故に、上中下有り。上の者は念ずれば、便即(すなわ)ち得。中の者は、人中にて尊重、供養は自ら至る。下の者は功力を施して、乃ち得る。是を以っての故に、『菩薩に因りて得。』と説くは、実にして虚ならず。楽の因縁は甚だ多く称計すべからず。今、仏は略して、『天楽、人楽、涅槃楽は、皆、菩薩に由りて得。』と説きたまえり。

 答え、

   『飢餓劫』の時、

   『人』は、

   其の、

     『功力(くりき、功徳の力、持てる能力)』を施しても、

     亦た、

       『得る所が無い』のは、

       『衆生の罪が重い』からである。

   『菩薩』は、

   世世に、

     『布施、持戒、善心』を讃歎し、

     是の、

       『三福の因縁』の故に、

       『上、中、下』が有る。

   『上』の者は、

     『念』ずれば、

     『即時に得る』ことができ、

   『中』の者は、

     『人中』であれば、

       『尊重、供養』が、

       『自ら、至る』のであり、

   『下』の者は、

     『功夫、努力』を施して、

       『漸く得る』のである。

   是の故に、

     『菩薩に因って得る』と説くのは、

       『実』であって、

       『虚』ではない。

   『楽の因縁』は、

     甚だ多くて、称計できないので、

     今は、

       略して、こう説く、――

       『天楽、人楽、涅槃楽は

        皆、

          菩薩より得る。』と。

此中佛自說。菩薩住六波羅蜜自行布施。亦教眾生行布施。雖眾生自行布施。無菩薩教導則不能行。

此の中に、仏は自ら説きたまわく、『菩薩は六波羅蜜に住して、自ら布施を行じ、亦た衆生に教えて布施を行ぜしむ。衆生は自ら布施を行ずと雖も、菩薩の教導無ければ、則ち行ずること能わず。』と。

   此の中に、

     『仏』は、

       自ら、こう説かれている、――

       『菩薩は、

          六波羅蜜に住して、

          自ら、

            布施を行い、

            亦た、

            衆生に教えて、

              行わせる。

        衆生は、

          自ら、

            布施を行うが、

          菩薩の教導が無ければ、

            行えないのである。』と。

問曰。除解脫樂此二種樂。是眾生生結使處。貪欲因緣故生恚。菩薩何以教導此結使因緣。

問うて曰く、解脱の楽を除いて、此の二種の楽は、是れ衆生の結使を生ずる処にして、貪欲の因縁の故に恚を生ず。菩薩は、何を以ってか、此の結使の因縁を教導する。

 問い、

   『解脱の楽』を除いた、

   此の、

     『二種の楽』は、

     是れは、

       『衆生』の、

         『結使の生ずる処』であり、

           『貪欲』の因縁の故に、

           『瞋恚』を生ずる。

   『菩薩』は、

   何故、

     此の、

       『結使の因縁』を教導するのですか?

答曰。菩薩無咎。所以者何。菩薩慈悲清淨心。與眾生樂因緣教修福事。若眾生不能清淨行福德者。於菩薩何咎。如人好心作井。盲人墮中而死。作者無罪。如人設好食施人。不知量者多食致患。施者無罪。

答えて曰く、菩薩には咎無し。所以は何んとなれば、菩薩の慈悲は清浄心にして、衆生に楽を与うる因縁もて、教えて福事を修めしむ。若し衆生、清浄に福徳を行ずること能わざらんに、菩薩を何んが咎めん。人の好心もて井を作り、盲人、中に堕ちて死すとも、作者に罪無きが如し。人の好食を設けて、人に施すに、量を知らざる者、多く食いて患いを致すとも、施者に罪無きが如し。

 答え、

   『菩薩』に、

     『咎』は無い。

     何故ならば、

       『菩薩の慈悲』は、

         『清浄心』であり、

         『衆生』に、

           『楽の因縁』を与えて、

           『福事を修める』ことを教えるものである。

       若し、

         『衆生』が、

         清浄に、

           『福徳を行えない』としても、

         『菩薩』には、

         何の、

           『咎』も無い。

     例えば、

       『人』が、

         『好心』で、

           『井戸』を作り、

         『盲人』が、

           『中』に堕ちて死んだとしても、

         『作者』に、

           『罪が無い』のと同じであり、

       『人』が、

         『好食』を設けて、

           『人』に施し、

         『量を知らない人』が、

           『多く』食って、

           『患い』を招いたとしても、

         『施者』に、

           『罪が無い』のと同じである。

復次若諸佛菩薩。不教眾生作福德因緣。則無天無人無阿修羅。但長三惡道。無從罪得出者。

復た次ぎに、若し諸仏、菩薩は、衆生に福徳を作す因縁を教えずんば、則ち天無く、人無く、阿修羅無く、但だ三悪道を長じて、罪より出づるを得る者無けん。

 復た次ぎに、

   若し、

     『諸仏、菩薩』が、

       『衆生』に、

         『福徳の因縁を作す』ことを教えなければ、

         則ち、

           『天』も無く、

           『人』も無く、

           『阿修羅』も無いのであり、

         但だ、

           『三悪道』のみが長じて、

           『罪より出られる者』も無いだろう。

復次眾生樂因緣故生貪。貪因緣故生恚。恚因緣故生苦。苦因緣故生罪。今欲免眾生於第五罪中。是故與樂。

復た次ぎに、衆生は楽の因縁の故に貪を生じ、貪の因縁の故に恚を生じ、恚の因縁の故に苦を生じ、苦の因縁の故に罪を生ずれば、今、衆生を第五の罪の中より免れしめんと欲し、是の故に楽を与う。

 復た次ぎに、

   『衆生』は、

     『楽の因縁』の故に、『貪』を生じ、

     『貪の因縁』の故に、『恚』を生じ、

     『恚の因縁』の故に、『苦』を生じ、

     『苦の因縁』の故に、『罪』を生ずる。

   今、

     『衆生』を、

       『第五の罪』の中より免れさせようとして、

       是の故に、

         『楽を与える』のである。

復次非定樂因緣生貪欲。或正憶念故。樂為善福因緣。邪憶念故生貪欲。今為正憶念樂故。令生福德因緣。

復た次ぎに、定んで楽の因縁は、貪欲を生ずるに非ず。或は正憶念の故に楽を善福の因縁と為し、邪憶念の故に貪欲を生ず。今、正憶念の楽の故に、福徳の因縁を生ぜしむと為す。

 復た次ぎに、

   定めて、

     『楽の因縁』は、

       『貪欲を生ずる』のではない。

   或は、

     『正憶念』の故に、

       『楽』が、

       『善福の因縁』となり、

     『邪憶念』の故に、

       『楽』が、

       『貪欲を生ずる』のである。

   今は、

     『正憶念』の、

       『楽』の故に、

       『福徳の因縁を生じさせる』のである。

復次唯佛一人無錯無失。是菩薩未成就佛道。未得佛眼故。以三種樂故。教化可度眾生。諸佛但以解脫樂教化眾生

復た次ぎに、唯だ仏一人のみ、錯無く、失無し。是の菩薩は、未だ仏道を成就せず、未だ仏眼を得ざるが故に、三種の楽を以っての故に、度すべき衆生を教化し、諸仏は但だ解脱の楽を以って衆生を教化す。

 復た次ぎに、

   唯だ、

     『仏』、

       『一人』のみが、

       『錯誤』が無く、

       『過失』が無い。

   是の、

     『菩薩』は、

     未だ、

       『仏道』を成就せず、

     未だ、

       『仏眼』を得ないが故に、

         『三種の楽』で、

         『度すべき衆生』を教化するが、

     『諸仏』ならば、

     但だ、

       『解脱の楽』のみを以って、

       『衆生』を教化されるのである。

 

 

 

 

 

大智度論、釈舌相品第六

大智度論釋舌相品第六

大智度論、釈舌相品第六

 復たしても、

   世尊は舌相を出して三千世界を覆われた。

 

再度、舌相を出す

【經】爾時世尊出舌相。遍覆三千大千世界。從其舌相出無數無量色。光明普照十方如恒河沙等諸佛世界。

爾の時、世尊は舌相を出して遍く三千世界を覆い、其の舌相より無数、無量の色を出したまえば、光明は普く十方の恒河沙等の如き諸仏の世界を照らす。

 爾の時、

   世尊は、

     『舌相』を出して、

     遍く、

       『三千大千世界』を覆われると、

   其の、

     『舌相』より、

       『無数、無量の色』が出て、

     『光明』は、

     普く、

       『十方の恒河沙等』ほどの、

       『諸仏の世界』を照らした。

是時東方如恒河沙等世界中。無量無數諸菩薩。見是大光明各各白其佛言。世尊。是誰神力故。有是大光明普照諸佛世界。

是の時、東方の恒河沙等の世界の中の無量、無数の諸の菩薩は、是の大光明を見て、各各、其の仏に白して言さく、『世尊、是れ誰の神力の故に、是の大光明有りて、普く諸仏の世界を照らす。』と。

 是の時、

   『東方の恒河沙等』ほどの、

     『世界』の中の、

     『無量、無数の諸の菩薩』は、

     是の、

       『大光明』を見て、

     各各、

     其の、

       『仏』に、こう白した、――

       『世尊!

        是れは、

        誰の、

          『神力』の故に、

          是の、

            『大光明』が有って、

            普く、

              『諸仏の世界』を、

              『照らしている』のですか?』と。

諸佛告諸菩薩言。諸善男子。西方有世界名娑婆。是中有佛名釋迦牟尼。是其舌相出大光明。普照東方如恒河沙等諸佛世界。南西北方四維上下亦復如是。為諸菩薩摩訶薩說般若波羅蜜故。

諸仏の諸菩薩に告げて言わく、『諸の善男子、西方に世界有りて娑婆と名づく。是の中に仏有りて釈迦牟尼と名づく。是れ其の舌相の大光明を出して、普く東方の恒河沙等の如き諸仏の世界を照らし、南西、北方、四維、上下も亦た復たかくの如し。諸の菩薩摩訶薩の為に般若波羅蜜を説くが故なり。』と。

   『諸仏』は、

     『諸の菩薩』に、こう告げて言われた、――

     『諸の、

        善男子!

        西方に、

          『世界』が有り、

          『娑婆』という。

        是の中に、

          『仏』が有り、

          『釈迦牟尼』という。

        是れは、

        其の、

          『舌相』が、

          『大光明』を出して、

          普く、

            『東方の恒河沙等』ほどの、

              『諸仏の世界』を照らしたのであり、

            『南、西、北方、四維、上、下』も、

            亦た復た、

            是のようであるが、

          諸の、

            『菩薩摩訶薩』の為に、

            『般若波羅蜜』を説くからである。

是時諸菩薩各白其佛言。我欲往供養釋迦牟尼佛。及諸菩薩摩訶薩。并欲聽般若波羅蜜。

是の時、諸の菩薩は各、其の仏に白して言さく、『我れは往きて釈迦牟尼仏、及び諸の菩薩摩訶薩を供養せんと欲し、併せて般若波羅蜜を聴かんと欲す。』と。

   是の時、

     『諸の菩薩』は、

     各、

       其の仏に、こう白して言った、――

       『わたしは、

          往って、

            『釈迦牟尼仏』、及び、

            『諸の菩薩摩訶薩』を供養しようと思います、

          併せて、

            『般若波羅蜜』を聴こうと思います。』と。

諸佛告諸菩薩。善男子。汝自知時。是時諸菩薩摩訶薩。持諸供養具無量華蓋幢幡瓔珞眾香金銀寶花。向娑婆世界。詣釋迦牟尼佛所。

諸の仏の諸の菩薩に告げたまわく、『善男子、汝自ら時を知れり。』と。是の時、諸の菩薩摩訶薩は諸の供養の具、無量の華蓋、幢幡、瓔珞、衆香、金銀、宝花を持して、娑婆世界に向かい、釈迦牟尼仏の所に詣(いた)る。

   『諸仏』は、

     『諸の菩薩』に、こう告げられた、――

     『善男子!

        お前は、

        自ら、

          『時』を知っている。』と。

   是の時、

     『諸の菩薩摩訶薩』は、

       『諸の供養の具』、

         『無量の華蓋、幢幡、瓔珞、衆香、金銀、宝花』を持して、

       『娑婆世界』に向かい、

         『釈迦牟尼仏の所』に到着した。

爾時四天王諸天。乃至阿迦尼吒諸天。各持天上天香末香澤香天樹香葉香。天種種蓮華青赤紅白。向釋迦牟尼佛所。是諸菩薩摩訶薩及諸天。所散諸華於三千大千世界虛空中。化成四柱大寶臺。種種異色莊嚴分明。

爾の時、四天王の諸天、乃至阿迦尼吒の諸天は、各、天上の天香、末香、沢香、天樹香、葉香、天の種種の蓮華の青、赤、紅、白なるを持して、釈迦牟尼仏の所に向かう。是の諸の菩薩摩訶薩、及び諸天の散ずる所の諸の華は、三千大千世界の虚空中に於いて、化して四柱の大宝台と成り、種種の異色荘厳して分明なり。

   爾の時、

     『四天王天の諸天』、乃至、

     『阿迦尼吒の諸天』は、

     各、

       『天上の天香、末香、沢香、天樹香、葉香』、

       『天の種種の蓮華の青、赤、紅、白』を持って、

         『釈迦牟尼仏の所』に向かった。

   是の、

     『諸の菩薩摩訶薩』及び、

     『諸天』の、

       『散ずる所』の、

       『諸の華』は、

         『三千大千世界の虚空』の中に、

         化して、

           『四柱の大宝台』と成り、

           『種種の珍しい色』が、

             『荘厳』して、

             『明瞭』に耀いた。

是時釋迦牟尼佛眾中有十萬億人。皆從坐起合掌白佛言。世尊。我等於未來世中亦當得如是法。如今釋迦牟尼佛弟子侍從大眾說法亦爾。

是の時、釈迦牟尼仏の衆中、十万億の人有り、皆、坐より起ちて合掌し、仏に白して言さく、『世尊、我等は未来世の中にも、亦た当に是の如き法を得て、今の釈迦牟尼仏の如く、弟子、侍従、大衆、説法も亦た爾るべし。』と。

   是の時、

     『釈迦牟尼仏の衆』の中に、

       『十万億の人』が有り、

       皆、

         『坐』より起って合掌し、

         『仏』に白して、こう言った、――

         『世尊!

            我等は、

              未来世の中にも、

              亦た、

                是のような法を得て、

              今の、

                釈迦牟尼仏のように、

                  弟子、侍従、大衆、説法も、

                  亦た、

                    是のようでしょう。』と。

是時佛知善男子至心。於一切諸法不生不滅不出不作得是法忍。佛便微笑。種種色光從口中出。

是の時、仏は、善男子の至心に、一切の諸法の不生、不滅、不出、不作に於いて、是の法忍を得たるを知りたもう。仏は、便ち微笑して種種の色光を口中より出したまえり。

   是の時、

     『仏』は、

       こう知られた、――

       『善男子が、

          心から、

          一切の、

            諸法の不生、不滅、不出、不作に於いて、

            是のように、

              法忍を得た。』と。

     『仏』が、

       『微妙』されると、

       『種種の色光』が、

         『口』の中より出た。

阿難白佛言。世尊。何因緣故微笑。佛告阿難。是眾中十萬億人。於諸法中得無生忍。是諸人於未來世過六十八億劫。當得作佛。劫名華積。佛皆號覺花

阿難の仏に白して言さく、『世尊、何なる因縁の故にか、微笑したもう。』と。仏の阿難に告げたまわく、『是の衆中の十万億の人は、諸法の中に於いて無生忍を得、是の諸の人は、未来世に於いて六十八億劫を過ぎて、当に仏と作るを得、劫を華積と名づけ、仏は、皆、覚花と号すべし。』と。

     『阿難』は、

       『仏』に白して、こう言った、――

       『世尊!

          何のような、

            因縁の故に、

            微笑されたのですか?』と。

     『仏』は、

       『阿難』に、こう告げられた、――

       『是の衆中の、

          『十万億の人』は、

            『諸法』の中に於いて、

            『無生忍』を得た。

        是の、

          『諸の人』は、

            未来世には、

            『六十八億劫』を過ぎて、

              『仏』と作ることだろう。

              『劫』を、

                『華積』といい、

              『仏』は、

              皆、

                『覚花』と号すだろう。』と。

【論】問曰。初品中佛已出舌相。今何以重出。

問うて曰く、初品中に、仏は已に舌相を出したまえり。今は、何を以ってか、重ねて出したもう。

 問い、

   初品の中に、

     『仏』は、

     已に、

       『舌相』を出された。

     今は、

     何故、

       『重ねて出された』のですか?

答曰。是事非一日一坐說。前出舌相為和合大會度一切眾生。舍利弗問佛答。今此異時更為餘人。須菩提巧說空故。佛命令更說。是故出舌相光明。

答えて曰く、是の事は、一日一坐の説に非ず。前に舌相を出すは、大会を和合して、一切の衆生を度せんが為に、舎利弗問うて、仏答えたまえり。今は此の異時にして、更に余人の為に、須菩提の巧みに空を説くが故に、仏は命じて更に説かしめんとし、是の故に舌相と光明とを出したもう。

 答え、

   是の事は、

     『一日、一坐の説』ではない。

   前に、

     『舌相を出された』のは、

       『大会』を和合して、

         『一切の衆生』を度す為に、

         『舎利弗』が問い、

         『仏』が答えられたのである。

   今は、

     此れと、

       『異る時』であり、

       更に、

         『余人』の為に、

         『須菩提』が、

         巧みに、

           『空を説く』が故に、

         『仏』が、

           『更に説け!』と命じられ、

           是の故に、

             『舌相の光明』を出されたのである。

問曰。舍利弗智慧第一。竟何所少而復命須菩提。

問うて曰く、舎利弗は智慧第一なり。竟(つい)に何の少くる所有りてか、復た須菩提に命じたもう。

 問い、

   『舎利弗』は、

     『智慧第一』であるのに、

     畢竟、

       何が少くて、

       復たしても、

         『須菩提に命じられた』のですか?

答曰。佛弟子眾多一人說已次命一人。譬如王者群臣眾多次第共語。

答えて曰く、仏の弟子は衆多にして、一人説き已れば、次いで一人に命じたもう。譬えば、王者の群臣衆多にして、次第に共に語るが如し。

 答え、

   『仏の弟子』は、

     『多い』ので、

     『一人』が説き已れば、

     次いで、

       『一人』に命じられる。

   譬えば、

     『王者』は、

       『群臣が多い』ので、

       次々と、

         『共に語る』のと同じである。

問曰。若爾者目連迦葉等甚多。何以不次第皆與語。

問うて曰く、若し爾らば、目連、迦葉等甚だ多し。何を以ってか、次第に皆与(とも)に語らざる。

 問い、

   若し、

     そうならば、

     『目連、迦葉』等は、

       甚だ多い、

       何故、

         次々と、

         皆が、

           こぞって、語らないのですか?

答曰。此經名智慧。舍利弗智慧第一。是故問。須菩提雖有種種因緣。以二因緣大故。一者好行無諍定常慈悲眾生。雖不能廣度眾生。而常助菩薩。以菩薩事問佛。二者好深行空法。是般若中多說空法。是故命須菩提說是舌相光明。諸菩薩來往義。乃至華臺供養義。如先說。

答えて曰く、此の経を智慧と名づけ、舎利弗は智慧第一なり。是の故に問う。須菩提は、種種の因縁有りと雖も、二因縁の大なるを以っての故なり。一には、好んで無諍定を行じ、常に衆生を慈悲し、広く衆生を度す能わずと雖も、常に菩薩を助けて、菩薩事を以って仏に問えり。二には、好んで深く空法を行じ、是の般若の中には多く空法を説けば、是の故に、須菩提に命じて説かしむ。是の舌相の光明、諸の菩薩の来往の義、乃至華台供養の義は、先に説けるが如し。

 答え、

   此の、

     『経の名』を、

       『智慧』といい、

     『舎利弗』は、

       『智慧第一』である。

       是の故に、

         問うた。

     『須菩提』にも、

     種種の、

       『因縁』が有るが、

       『二因縁』が大だからである。

       一には、

         好んで、

           『無諍定』を行いながら、

           常に、

             『衆生』に、

             『慈悲』を懐いていた。

           広く、

             『衆生を度す』ことはなかったが、

             常に、

               『菩薩』を助けて、

               『菩薩事』を、

                 『仏』に問うていた。

       二には、

         好んで、

         深く、

           『空法』を行じたので、

         是の、

           『般若』の中にも、

           多く、

             『空法』を説いている。

     是の故に、

       『須菩提』に命じて、

         『説かせられた』のである。

     是の、

       『舌相の光明の義』と、

       『諸菩薩の来往の義』、乃至、

       『華台供養の義』は、

         先に説いたとおりである。

爾時眾生見是大神通力。所謂十方如恒河沙等世界中諸佛。以諸佛及釋迦文佛出無量光明故。眾生蒙佛神力。見舌相覆三千大千世界。及聞見諸佛在大眾中說法。即得無生法忍。作是願言。我等未來世神通變化亦當如今佛。

爾の時、衆生は、是の大神通力を見る。謂わゆる十方の恒河沙等の如き世界の中の諸仏なり。諸仏、及び釈迦文仏の無量の光明を出したまえるを以っての故に、衆生は仏の神力を蒙り、舌相の三千大千世界を覆えるを見、及び諸仏の大衆の中に在りて法を説きたまえるを聞見して、即ち無生法忍を得て、是の願を作して言わく、『我等が未来世の神通、変化も、亦た当に今の仏の如くなるべし。』と。

   爾の時、

     『衆生』は、

     是の、

       『大神力』を見た。

       謂わゆる、

         『十方の、

            恒河沙等ほどの世界の中の諸仏』である。

     『諸仏』、及び、

     『釈迦文仏』の出された、

       『無量の光明』の故に、

       『衆生』は、

         『仏の神力』を蒙って、

           『舌相が、三千大千世界を覆う』のを見、及び、

           『諸仏が、大衆の中で法を説かれる』のを見聞し、

         即時に、

           『無生法忍』を得て、

           是のように、

             『願』を作して、こう言った、

             『我等の、

                未来世の神通変化も、

                亦た、

                  今の仏のようであるだろう。』と。

佛知眾生得無生法忍故微笑。笑義佛答如先說。是人過六十八億劫作佛。是人見十方諸菩薩持七寶華來供養變成七寶花臺。因見是已其心清淨得無生法忍。是故作佛。時劫名華積。佛皆號覺華

大智度論卷第四十

仏は、衆生の無生法忍を得んことを知るが故に微笑したまえり。笑いの義に、仏の答えたもうは、先に説くが如し。是の人は、六十八億劫を過ぎて、仏と作るとは、是の人は、十方の諸の菩薩の、七宝の華を持し来たりて供養するに、変じて七宝の花台と成るを見るに、是れを見已るに因って、其の心は清浄たりて、無生法忍を得、是の故に仏と作り、時の劫を華積と名づけ、仏は皆、覚華と号するなり。

 

大智度論巻第四十

   『仏』は、

     『衆生が、無生法忍を得た』ことを知られて、

     『微笑』された。

   『笑いの義』について、

     『仏の答え』は、

     先に、

       説いたとおりである。

   『是の人は、

      六十八億劫を過ぎて、

      仏と作る』とは、

     『是の人』は、

     十方の、

        『諸の菩薩』が、

           『七宝の華』を、

             持ち来たって、

             供養すると、

             変じて、

               『七宝の華台と成る』のを見、

       是れを見て、

       其の心が、

         『清浄』となり、

         『無生法忍』を得たので、

       是の故に、

         『仏』と作り、

         時に、

           『劫』を、

             『華積』といい、

           『仏』は、

           皆、

             『覚華』と号するのである。

 

大智度論巻第四十

 

 

 

 

 

 

 

 

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