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巻第四十之上
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大智度論、釈往生品第四之下 |
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大智度論、釈往生品第四之下
大智度論釋往生品第四之下(卷四十) 聖者龍樹造 後秦龜茲國三藏鳩摩羅什譯 |
大智度論、釈往生品第四の下(巻の四十) 聖者龍樹造り 後秦亀茲国の三蔵鳩摩羅什訳せり |
往生する菩薩の種種相を説く。 |
菩薩摩訶薩の法眼浄
【經】舍利弗白言。世尊。云何菩薩摩訶薩法眼淨。佛告舍利弗。菩薩摩訶薩以法眼知是人隨信行。是人隨法行。是人無相行。是人行空解脫門。是人行無相解脫門。是人行無作解脫門得五根。得五根故得無間三昧。得無間三昧故得解脫智。得解脫智故斷三結。有眾見疑齋戒取。是人名為須陀洹。 |
舎利弗の白して言さく、『世尊、云何が菩薩摩訶薩の法眼浄なる。』と。仏の舎利弗に告げたまわく、『菩薩摩訶薩は法眼を以って知りたまわく、是の人は随信行なり。是の人は随法行なり。是の人は無相行なり。是の人は空解脱門を行ず。是の人は無相解脱門を行ず。是の人は無作解脱門を行じて五根を得、五根を得るが故に無間三昧を得、無間三昧を得るが故に解脱智を得、解脱智を得るが故に三結の有衆見、疑、斎戒取を断ず。是の人を名づけて須陀洹と為す。 |
『舎利弗』は、こう白(もう)した、―― 『世尊! 何を、 菩薩摩訶薩の、 『法眼浄』というのですか?』と。 『仏』は、 『舎利弗』に、こう告げられた、―― 『菩薩摩訶薩は、 『法眼』で、こう知る、―― 『是の人は、 『随信行』である。 是の人は、 『随法行』である。 是の人は、 『無相行』である。 是の人は、 『空解脱門』を行ずる。 是の人は、 『無相解脱門』を行ずる。 是の人は、 無作解脱門を行じて、 『五根(信、精進、念、定、慧根)』を得、 五根を得るが故に、 『無間三昧』を得、 無間三昧を得るが故に、 『解脱智』を得、 解脱智を得るが故に、 『三結』の、 『有衆見(身見)、疑、斎戒取(戒禁取)』を断ずる。 是の人を、 『須陀洹』と名づける。
随信行(ずいしんぎょう):鈍根の者が、信力に依るが故に道を得ること。又、未だ須陀洹果を得ざる者が、色受陰乃至識受陰の無常、苦、変易の法なるを智慧を以って思惟、観察、分別して忍べば、是れを随信行と名づけ、超昇離生して凡夫地を越え、未だ須陀洹果、中間の不死を得ざる者は、必ず須陀洹果を得と為すものを云う。『雑阿含巻3(61経)』参照。又十八有学中の一を指す。 随法行(ずいほうぎょう):利根の者が、諸法を分別するが故に道を得ること。又、随信行の者が、智慧を増上して思惟、観察して忍べば、是れを随法行と名づけ、超昇離生し、凡夫地を越え、未だ須陀洹果、中間の不死を得ざる者は、必ず須陀洹果を得る。此の法に於いて如実に正慧等見して、三結(身見、戒取、疑)が尽く断じて、それを知る、是れを須陀洹果と名づけ、悪道に堕せず、必定して三菩提に正趣すと為すものを云う。『雑阿含経巻3(61経)』参照。又十八有学中の一を指す。 無相行(むそうぎょう):随信行、随法行は十五心、須陀洹中には、亦た無相行と名づく。十五心中は疾速であり、誰も其の相を取ることができない、故に無相と名づけるのである。『大智度論巻40』参照。 無間三昧(むげんさんまい):果を取る時の相応の三昧に名づく。『大智度論巻40』参照。蓋し無間道(無礙道)の如きなり。方に断惑せんとするに、惑の為に道を間隔せられざる境地にして、解脱智を得る直前に名づく。 参考:『雑阿含経巻3(61)』:『如是我聞。一時。佛住舍衛國祇樹給孤獨園。爾時。世尊告諸比丘。有五受陰。何等為五。謂色受陰。受.想.行.識受陰。云何色受陰。所有色。彼一切四大。及四大所造色。是名為色受陰。復次。彼色是無常.苦.變易之法。若彼色受陰。永斷無餘。究竟捨離.滅盡.離欲.寂沒。餘色受陰更不相續.不起.不出。是名為妙。是名寂靜。是名捨離。一切有餘愛盡.無欲.滅盡.涅槃。云何受受陰。謂六受身。何等為六。謂眼觸生受。耳.鼻.舌.身.意觸生受。是名受受陰。復次。彼受受陰無常.苦.變易之法。乃至滅盡.涅槃。云何想受陰。謂六想身。何等為六。謂眼觸生想。乃至意觸生想。是名想受陰。復次。彼想受陰無常.苦.變易之法。乃至滅盡.涅槃。云何行受陰。謂六思身。何等為六。謂眼觸生思。乃至意觸生思。是名行受陰。復次。彼行受陰無常.苦.變易之法。乃至滅盡.涅槃。云何識受陰。謂六識身。何等為六。謂眼識身。乃至意識身。是名識受陰。復次。彼識受陰是無常.苦.變易之法。乃至滅盡.涅槃。比丘。若於此法以智慧思惟.觀察.分別.忍。是名隨信行。超昇離生。越凡夫地。未得須陀洹果。中間不死。必得須陀洹果。比丘。若於此法增上智慧思惟.觀察.忍。是名隨法行。超昇離生。越凡夫地。未得須陀洹果。中間不死。必得須陀洹果。比丘。於此法如實正慧等見。三結盡斷知。謂身見.戒取.疑。比丘。是名須陀洹果。不墮惡道。必定正趣三菩提。七有天人往生。然後究竟苦邊。比丘。若於此法如實正慧等見。不起心漏。名阿羅漢。諸漏已盡。所作已作。捨離重擔。逮得己利。盡諸有結。正智心得解脫。佛說此經已。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』 十八有学(じゅうはちうがく):梵語aSTaadaza zaikSaaHの訳。十八種の有学の聖人の意。又十八学人とも云う。一に随信行zraddhaanusaarin、二に随法行dharmaanusaarin、三に信解zraddhaadhimuktaa、四に見至dRSTi-praapta、五に身証kaaya-saakSin、六に家家kulaMkula、七に一間ekaviicika、八に預流向srotaaappati-phala-pratipanna、九に預流果srotaaapanna、十に一来向sakRdaagaami-phala-pratipanna、十一に一来果sakRdaagaamin、十二に不還向anaagaami-phala-pratipanna、十三に不還果anaagaaamin、十四に中般antaraaparinirvaayin、十五に生般upapadya-parinirvaayin、十六に有行般saaghisaMskaara-parinirvaayin、十七に無行般anabhisaMskaara-parinirvaayin、十八に上流般uurdhva-srotasなり。「中阿含巻30福田経」に、「云何が十八学人なる。信行、法行、信解、見到、身証、家家、一種、向須陀洹、得須陀洹、向斯陀洹、得斯陀洹、向阿那含、得阿那含、中般涅槃、生般涅槃、行般涅槃、無行般涅槃、上流色究竟なり。是れを十八学人と謂う」と云える是れなり。此の中、見道十五心中に於ける鈍根の人を随信行、又は信行と名づけ、利根の人を随法行、又は法行と名づけ、随信行の人の修道位に入れるを信解と名づけ、随法行の人の修道位に入れるを見至又は見到、或は見得と名づく。又不還果の人の滅尽定を得する者を身証と名づけ、一来向の人の中、欲界修惑の三品乃至四品を断ぜる者を家家と名づけ、不還向の人の中、既に七品乃至八品の惑を断じ、唯第九品の惑の為に住果を間隔せらるる者を一間、又は一種、或は一種子と名づけ、有学の三向三果を預流向乃至不還果と名づけ、七種不還の中、色界生の五種の聖者を中般乃至上流般と名づけたるなり。「大乗義章巻17本」に此の中、初の随信、随法、信解、見至の四種は一切有学の人を統摂し、余の十四有学は此の四種より開出せるものなるを説けり。即ち「此の四は一切の学人を統摂す、含通するを以っての故なり。余の十四人は中に於いて別分す。前の信行法行の人の中に於いて三人を開出す。一は則ち須陀洹向の次第の人を開出す。見諦道の十五心中に入るを須陀向と名づく。二は則ち斯陀含向を開出す、超越の斯陀の見諦道十五心中に入るを斯陀向と名づく。三は則ち阿那含向を開出す、超越の那含の見諦道十五心中に入るを那含向と名づく。前の信脱見到の人の中に於いて別に随って十三種の人を開出す。一は則ち須陀洹果を開出す、第二は斯陀含向を開出す、謂わく次第の人の斯陀含に向かいて未だ果に至らざる前に、現在中に於いて修行する者是れなり。第三に家家の人を開出す、謂わく次第の人の斯陀含に向かいて未だ果に至らざる前に、分に煩悩を断じて生を経る者是れなり。第四に斯陀含果を開出す、中に於いて細分するに異あり、其の二種とは一には超証の斯陀含果、二に次第証の斯陀含果なり、通じて合して一の斯陀果と為す。第五に阿那含向を開出す、謂わく次第の人の阿那含に向かいて未だ果に至らざる前に、現世の中に於いて修行する者是れなり。第六に一種子の人を開出す、謂わく次第の人の阿那含に向かい、分に煩悩を断じて生を経る者是れなり。第七に阿那含果を開出す、中に於いて細分するに亦た二種あり、一には超証阿那含果、二には次第証の阿那含果なり。今合して一の阿那含果と為す。第八に中般の人を開出し、第九に生般の人を開出し、第十に行般の人を開出し、十一に無行般の人を開出し、十二に上流般の人を開出す。此の上流の中に勝あり劣あり、勝なる者は色界に般涅槃を得、劣なる者は無色界の中に生じて方に始めて般を得るなり。彼は勝なる者を挙ぐ、是の故に説いて色究竟に至ると言うなり。彼の福田に向かうに、色界に在る者は有色有形にして供を受くることを得て福田と為る、是れが為に偏に挙ぐるなり。十三に身証の人を開出す、那含果の後に滅定を得る者なり。是の十三は皆是れ信脱見到の中に列する学人なり」と云えり。以って其の釈意を見るべし。然るに諸論に出す所は之と稍異同あり。即ち「順正理論巻65」には、此の中の身証を除きて阿羅漢向を加え、列次の順位も初に四向三果の七を出し、次に随信、随法、信解、見至、家家、一間、中般乃至上流般の十一を掲げ、身証は無漏の三学等の依因なきが故に有学の数中に置かずと云えり。是れ蓋し説一切有部の所説なり。又「成実論巻1分別賢聖品」には随信行、随法行、随無相行、須陀洹、行斯陀洹、斯陀洹、行阿那含、阿那含、中陰滅者、有生有滅者、有不行滅者、有行滅者、有上行至阿迦尼吒滅者、有至無色処者、有転世者、信解脱、見得、身証を以って十八学人となせり。此の中、煗等の法を修すと雖も未だ真智を得ず、見諦に対するに尚お遠きを随信行となし、既に無我智を得て世第一法に在り、見諦に近きが故に随法行となし、此の二人の見道に入りて滅諦を見るを随無相行をなし、此の三を総じて行須陀洹と名づく。阿那含を開して八種となせる中、中陰滅者は中般、有生有滅者は生般、有不行滅者は無行般、有行滅者は有行般、有上行至阿迦尼吒滅者と有至無色処者の二は即ち上流般、有転世者は現般なり。就中、楽慧の者の色究竟天に至りて般涅槃するを有上行至阿迦尼吒滅者と名づけ、楽定の者の更に無色界に至りて般涅槃する者を有至無色処者と名づけ、又先世に第二果を得、後転身して第三果を得する者を有転世者と名づくるなり。随信随行の二人を見道以前に置き、又阿羅漢向を加えざるは有部の説に同じからざる所なり。又「大乗法苑義林章巻5本」には随信随法の二を除き、極七返有と阿羅漢向とを加えて十八となせり。即ち「十八とは即ち四向三果と即ち七種を成し、八には信解、九には見至、十には身証、十一に極七返、十二に家家、十三に一間、十四に中般、十五に生般、十六に無行般、十七に有行般、十八に上流般なり。此れ即ち有学中の十八の名なり」と云える、其の説なり。此の中、随信随法の二を加えざるは「大乗阿毘達磨雑集論巻13」に此の二を方便となすに基づけるものにして、前掲成実論の説にも合するを見るべく、又阿羅漢向を取れるは有部の説を参照せるものというべし。又「大智度論巻22」、「倶舎論巻24」、「同光記巻24」、「大明三蔵法数巻46」、「倶舎論明思抄巻24」、「同要解巻10」等に出づ。<(望) 参考:『中阿含巻30福田経』:『我聞如是。一時。佛遊舍衛國。在勝林給孤獨園。爾時。給孤獨居士往詣佛所。稽首佛足。卻坐一面。白曰。世尊。世中為有幾福田人。世尊告曰。居士。世中凡有二種福田人。云何為二。一者學人。二者無學人。學人有十八。無學人有九。居士。云何十八學人。信行.法行.信解脫.見到.身證.家家.一種.向須陀洹.得須陀洹.向斯陀含.得斯陀含.向阿那含.得阿那含.中般涅槃.生般涅槃.行般涅槃.無行般涅槃.上流色究竟。是謂十八學人。居士。云何九無學人。思法.昇進法.不動法.退法.不退法.護法護則不退。不護則退.實住法.慧解脫.俱解脫。是謂九無學人。於是。世尊說此頌曰 世中學無學 可尊可奉敬 彼能正其身 口意亦復然 居士是良田 施彼得大福 佛說如是。給孤獨居士及諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』 |
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是人得思惟道。薄婬恚癡當得斯陀含增進思惟道。斷婬恚得阿那含增進思惟道。斷色染無色染無明慢掉得阿羅漢。是人行空無相無作解脫門得五根。得五根故得無間三昧。得無間三昧故得解脫智。得解脫智故知所有集法皆是滅法。作辟支佛。是為菩薩法眼淨。 |
是の人は思惟道を得て婬恚癡を薄くし、当に斯陀含を得べく、思惟道を増進して婬恚を断じて阿那含を得べく、思惟道を増進して、色染、無色染、無明、慢、掉を断じて阿羅漢を得べし。是の人は空、無相、無作解脱門を行じて五根を得、五根を得るが故に無間三昧を得、無間三昧を得るが故に解脱智を得、解脱智を得るが故に有らゆる集法は皆是れ滅法なりと知りて、辟支仏と作る。是れを菩薩の法眼浄と為す。 |
是の人は、 思惟道を得て、 『婬、恚、癡』が薄くなり、 斯陀含を得て、 『思惟道』を増進し、 『婬、恚』を断じ、 阿那含を得て、 『思惟道』を増進し、 『色染、無色染、無明、慢、掉(躁)』を断じ、 『阿羅漢』を得るだろう。 是の人は、 空、無相、無作解脱門を行じて、 『五根』を得、 五根を得るが故に、 『無間三昧』を得、 無間三昧を得るが故に、 『解脱智』を得、 解脱智を得るが故に、 有らゆる、 『集法(身心乃至煩悩)』は、 皆、 『滅法』であると知って、 『辟支仏』と作る。』と。 是れが、 『菩薩』の、 『法眼浄』である。 |
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復次舍利弗。菩薩摩訶薩知是菩薩初發意行檀波羅蜜。乃至行般若波羅蜜。成就信根精進根。善根純厚用方便力故。為眾生受身。若生剎利大姓。若生婆羅門大姓。若生居士大家。若生四天王天處乃至他化自在天處。 |
復た次ぎに、舎利弗、菩薩摩訶薩の知るらく、是の菩薩は初発意より、檀波羅蜜を行じ、乃至般若波羅蜜を行じて、信根、精進根、善根を成就し、純ら厚く方便力を用うるが故に、衆生の為に身を受け、若しは刹利の大姓に生じ、若しくは婆羅門の大姓に生じ、若しくは居士の大家に生じ、若しくは四天王天処、乃至他化自在天処に生ず。 |
復た次ぎに、 舎利弗! 『菩薩摩訶薩』は、こう知る、―― 『是の菩薩は、 初発意より、 『檀波羅蜜』、乃至、 『般若波羅蜜』を行じて、 『信根、精進根、善根』を成就し、 純(もっぱ)ら、 厚く、 『方便力』を用いての故に、 『衆生』の為に、 『身』を受けて、 『刹利の大姓』に生まれ、又は、 『婆羅門の大姓』に生まれ、又は、 『居士の大家』に生まれ、又は、 『四天王天処』、乃至、 『自在天処』に生まれる。 |
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是菩薩於其中住成就眾生。隨其所樂皆給施之。亦淨佛世界。值遇諸佛供養恭敬尊重讚歎。乃至阿耨多羅三藐三菩提。亦不墮聲聞辟支佛地。是為菩薩摩訶薩法眼淨。 |
是の菩薩は、其の中に住して、衆生を成就し、其の楽(ねが)う所に随いて、皆之を給施し、亦た仏の世界を浄めて、諸仏に値遇し、供養、恭敬、尊重、讃歎して、乃ち阿耨多羅三藐三菩提に至るまで、亦た声聞、辟支仏の地に堕ちず。是れを菩薩摩訶薩の法眼浄と為す。 |
是の菩薩は、 其の中に住して、 『衆生』を成就し、 其の、 『楽(ねが)う所』のままに、 皆、 『給施』して、 『仏世界』を浄め、 諸仏に遇って、 『供養、恭敬、尊重、讃歎』し、 阿耨多羅三藐三菩提に至るまで、 『声聞、辟支仏の地』に堕ちることはない。』と。 是れを、 『菩薩摩訶薩』の、 『法眼浄』という。 |
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復次舍利弗。菩薩摩訶薩如是知是菩薩於阿耨多羅三藐三菩提退。知是菩薩於阿耨多羅三藐三菩提不退。知是菩薩受阿耨多羅三藐三菩提記。知是菩薩未受阿耨多羅三藐三菩提記。 |
復た次ぎに、舎利弗、菩薩摩訶薩は是の如く、是の菩薩は阿耨多羅三藐三菩提より退くと知り、是の菩薩は阿耨多羅三藐三菩提より退かずと知り、是の菩薩は阿耨多羅三藐三菩提の記を受くと知り、是の菩薩は未だ阿耨多羅三藐三菩提の記を受けずと知る。 |
復た次ぎに、 舎利弗! 『菩薩摩訶薩』は、 是のようにして、 『是の菩薩は、 阿耨多羅三藐三菩提より退く。』と知り、 『是の菩薩は、 阿耨多羅三藐三菩提より退かない。』と知り、 『是の菩薩は、 阿耨多羅三藐三菩提の記を受ける。』と知り、 『是の菩薩は、 未だ、 阿耨多羅三藐三菩提の記を受けない。』と知る。 |
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知是菩薩到阿鞞跋致地。知是菩薩未到阿鞞跋致地。知是菩薩具足神通。知是菩薩未具足神通。知是菩薩已具足神通飛到十方如恒河沙等世界。見諸佛供養恭敬尊重讚歎。知是菩薩未得神通當得神通。知是菩薩當淨佛世界未淨佛世界。 |
是の菩薩は阿鞞跋致地に到ると知り、是の菩薩は未だ阿鞞跋致地に到らずと知り、是の菩薩は神通を具足すと知り、是の菩薩は未だ神通を具足せずと知り、是の菩薩は已に神通を具足して、十方の恒河沙等の如き世界に飛んで到り、諸仏に見(まみ)えて、供養、恭敬、尊重、讃歎せりと知り、是の菩薩は未だ神通を具足せざるも、当に神通を得べしと知る。是の菩薩は当に仏世界を浄むべし、未だ仏世界を浄むべからずと知る。 |
『是の菩薩は、 阿鞞跋致地に到る。』と知り、 『是の菩薩は、 未だ、 阿鞞跋致地に到らない。』と知り、 『是の菩薩は、 神通を具足する。』と知り、 『是の菩薩は、 未だ、 神通を具足しない。』と知り、 『是の菩薩は、 已に、 『神通』を具足して、 十方の、 『恒河沙等ほどの世界』に飛んで到り、 『諸仏』に見(まみ)えて、 供養、恭敬、尊重、讃歎する。』と知る。 『是の菩薩は、 未だ、 『神通』を得ないが、 将来、 『神通』を得るだろう。』と知り、 『是の菩薩は、 将来、 『仏世界』を浄めるだろう。 未だ、 『仏世界』を浄めないだろう。』と知る。 |
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是菩薩成就眾生未成就眾生。是菩薩為諸佛所稱譽所不稱譽。是菩薩親近諸佛不親近佛。是菩薩壽命有量壽命無量。是菩薩得佛時比丘眾有量比丘眾無量。 |
是の菩薩は衆生を成就す、未だ衆生を成就せず。是の菩薩は諸仏の為に称誉せらる、称誉せられず。是の菩薩は諸仏に親近す、仏に親近せず。是の菩薩は寿命有量なり、寿命無量なり。是の菩薩は仏を得る時、比丘衆は有量なり、比丘衆は無量なり。 |
『是の菩薩は、 『衆生』を成就する。 未だ、 『衆生』を成就しない。』、 『是の菩薩は、 諸仏に、 『称讃』される。 『称讃』されない。』、 『是の菩薩は、 諸仏に、 『親近』する。 仏に、 『親近』しない。』、 『是の菩薩は、 寿命が、『有量』である。 寿命が、『無量』である。』、 『是の菩薩は、 仏を得た時、 比丘衆が、『有量』である。 比丘衆が、『無量』である。』、 |
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是菩薩得阿耨多羅三藐三菩提時。以菩薩為僧不以菩薩為僧。是菩薩當修苦行難行不修苦行難行。是菩薩一生補處未一生補處。是菩薩受最後身未受最後身。是菩薩能坐道場不能坐道場。是菩薩有魔無魔。如是舍利弗。是為菩薩摩訶薩法眼淨 |
是の菩薩は阿耨多羅三藐三菩提を得る時、菩薩を以って僧と為す、菩薩を以って僧と為さず。是の菩薩は当に苦行、難行を修むべし、苦行、難行を修むべからず。是の菩薩は一生補処なり、未だ一生補処ならず。是の菩薩は最後の身を受く、未だ最後の身を受けず。是の菩薩は能く道場に坐す、道場に坐す能わず。是の菩薩には魔有り、魔無し。是の如し、舎利弗、是れを菩薩摩訶薩の法眼浄と為す。 |
『是の菩薩は、 阿耨多羅三藐三菩提を得る時、 菩薩を、『僧』とする。 菩薩を、『僧』としない。』、 『是の菩薩は、 将来、 『苦行、難行』を修めることになる。 『苦行、難行』を修めない。』、 『是の菩薩は、 『一生補処』である。 未だ、 『一生補処』ではない。』、 『是の菩薩は、 『最後の身』を受けた。 未だ、 『最後の身』を受けない。』、 『是の菩薩は、 『道場に坐す』ことができる。 『道場に坐す』ことはできない。』、 『是の菩薩には、 『魔』が有る。 『魔』が無い。』。 是のような、 舎利弗! 是れを、 『菩薩摩訶薩』の、 『法眼浄』という。 |
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【論】釋曰。菩薩摩訶薩初發心時。以肉眼見世界眾生受諸苦患。心生慈愍。學諸禪定修得五通。以天眼遍見六道中眾生受種種身心苦。益加憐愍故。求慧眼以救濟之。得是慧眼已。見眾生心相種種不同。云何令眾生得是實法。故求法眼引導眾生令入法中故名法眼。 |
釈して曰く、菩薩摩訶薩は初発心の時、肉眼を以って世界の衆生の諸の苦患を受くるを見て、心に慈愍を生じて、諸の禅定を学び、五通を修得し、天眼を以って遍く六道の中の衆生の種種の身心に苦を受くるを見て、益して憐愍を加うるが故に、慧眼を求めて以って之を救済せんとし、是の慧眼を得已りて、衆生の心相を見るに、種種に不同なり。云何が衆生をして、是の実法を得しめん。故に法眼を求めて衆生を引導して、法中に入らしめんとす。故に法眼と名づく。 |
釈す、 『菩薩摩訶薩』は、 初発心の時、 『肉眼』で、 世界の、 『衆生』が、 諸の、 『苦患を受ける』のを見て、 心に、 『慈愍』を生じ、 『諸の禅定』を学んで、 『五通』を修得し、 『天眼』で、 遍く、 『六道』の中で、 『衆生』が、 『種種の身心』に、 『苦を受ける』のを見て、 益々、 『憐愍』を加え、 『慧眼』を求めて、 『救済』しようとする。 『慧眼』を得て、 『衆生』を見ると、 『心相』は、 『種種』であり、 『不同』である。 何のようにして、 『衆生』に、 是の、 『実法』を得させようか? 故に、 『法眼』を求める。 『衆生』を引導して、 『実法』中に入れるので、 故に、 『法眼』と名づけるのである。 |
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所謂是人隨信行是人隨法行。初入無漏道鈍根者名隨信行。是人初依信力故得道。名為隨信行。利根者名隨法行。是人分別諸法故得道。是名隨法行。是二人十五心中亦名為無相行。過是已往或名須陀洹。或名斯陀含。或名阿那含。十五心中疾速無人能取其相者。故名無相。 |
謂わゆる、是の人は随信行なり、是の人は随法行なりとは、初めて無漏道に入るに、鈍根の者を随信行と名づく。是の人は初めに、信力に依るが故に道を得れば、名づけて随信行と為す。利根の者を随法行と名づく。是の人は諸法を分別するが故に道を得れば、是れを随法行と名づくるなり。是の二人は十五心中には、亦た名づけて無相行と為す。是れを過ぎて已往は、或は須陀洹と名づけ、或は斯陀含と名づけ、或は阿那含と名づく。十五心の中は疾速にして、人には能く其の相を取る者無く、故に無相と名づく。 |
謂わゆる、 『是の人は、随信行である。』、 『是の人は、随法行である。』とは、 初めて、 『無漏道』に入る、 鈍根の者を、 『随信行』と名づける。 是の人は、 初より、 『信力』に依って、 『道』を得るが故に、 『随信行』と名づける。 利根の者を、 『随法行』と名づける。 是の人は、 『諸法』を分別して、 『道』を得るが故に、 『随法行』と名づける。 是の二人は、 『十五心』の中に在り、 亦た、 『無相行』とも名づける。 是れを、 過ぎて以後は、 或は、『須陀洹』と名づけ、 或は、『斯陀含』と名づけ、 或は、『阿那含』と名づける。 『十五心』の中は、 疾速に遷移して、 『その相』は、 誰にも、 『取れない』ので、 『無相』と名づける。
十五心(じゅうごしん):八忍八智の十六心中、最後の道比智(道類智)を除く前十五心を見道に摂し、道比智を修道に摂す。『大智度論巻12(上)注:八忍八智』参照。 |
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有人無始世界來性常質直好樂實事者。有人好行捨離者。有人世世常好善寂者。好實者。用空解脫門得道。以諸實中空為第一故。好行捨者。行無作解脫門得道。好善寂者。行無相解脫門得道。 |
有る人は、無始の世界より来、性は常に質直にして、好んで実事を楽う者なり。有る人は、好んで捨離を行う者なり。有る人は、世世に常に善寂を好む者なり。実を好む者は、空解脱門を用いて道を得、諸の実の中には空を第一と為すを以っての故なり。好んで捨を行ずる者は、無作解脱門を行じて道を得、善寂を好む者は、無相解脱門を行じて道を得るなり。 |
有る人は、 無始の世界より、 『性』が、 常に、『質直』であり、 好んで、『実事』を知ろうとする。 有る人は、 好んで、 『捨離』を行ずる。 有る人は、 世世に、 常に、 『善寂』を好む。 『実を好む者』は、 『空解脱門』を用いて、 『道』を得る。 『諸実』の中に、 『空』を、 『第一』とするからである。 『捨を好んで行ずる者』は、 『無作解脱門』を行じて、 『道』を得る。 『善寂を好む者』は、 『無相解脱門』を行じて、 『道』を得る。 |
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問曰。何以說得五根。 |
問うて曰く、何を以ってか、五根を得と説く。 |
問い、 何故、 『五根を得る。』と説くのですか? |
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答曰。有人言。一切聖道名為五根。五根成立故。八根雖皆是善。而三無漏根無有別異。以是故但說五根。取果時相應三昧名無間三昧。得是三昧已得解脫智。以是解脫智斷三結得果證。有眾見者。於五受眾中生我若我所。疑者於三寶四諦中不信。齋戒取者。九十六種外道法中。取是法望得苦解脫 |
答えて曰く、有る人の言わく、『一切の聖道を名づけて五根と為す、五根の成立するが故なり。八根は、皆是れ善なりと雖も、三無漏根には別異有ること無し。是を以っての故に、但だ五根を説く。』と。果を取る時に相応の三昧を無間三昧と名づく。是の三昧を得已りて解脱智を得、是の解脱智を以って三結を断じて果証を得。有衆見とは、五受衆の中に於いて、我、若しくは我所を生ずるなり。疑とは、三宝、四諦中に於いて、信ぜざるなり。斎戒取とは、九十六種の外道法中に、是の法を取りて、望んで苦解脱を得るなり。 |
答え、 有る人は、こう言っている、―― 『一切の、 『聖道』を、 『五根』と名づける。 『聖道』は、 『五根』で成り立つからである。 『八根』は、 皆、 『善』であるが、 『三無漏根』は、 『五根』と別異が無い。 是の故に、 但だ、 『五根』と説くのである。』、と。 『無間三昧』とは、 『果』を、 『取る時』に、 『相応する三昧』である。 是の三昧を得れば、 『解脱智』を得る。 是の解脱智で、 『三結(有衆見、疑、斎戒取)』を断じて、 『果、証』を得る。 『有衆見』とは、 『五受衆(喜、楽、苦、憂、捨受)』の中に、 『我、我所』を生ずることである。 『疑』とは、 『三宝』、 『四諦』の中に、 『不信』を懐くことである。 『斎戒取』とは、 『九十六種の外道法』中に、 是の法を取り、 望んで、 『苦解脱』を得ることである。
八根(はちこん):信、精進、念、定、慧根の五根、及び未知当知根、已知根、具知根の三無漏根の総称。 三無漏根(さんむろこん):聖者の修めるべき無漏の三種の根力。二十二根に摂して最後の三根と為す。『大智度論巻17(下)注:二十二根、巻23(下)注:三無漏根』参照。二十二根の最後の三根を三無漏根と名づけ、意根、楽根、善根、捨根、及び信、勤、念、定、慧の九根は、見道、修道、無学道の三道に依って、三根を立てる。一に未知当知根は、此の九根が見道に在る者であり、見道に在って、未だ曽て知らざる所の四諦の理を知ろうと欲して行動する者、之を未知当知と謂う。二に已知根は、彼の九根の修道に在る者であり、修道に在って、已に四諦の理を知了すと雖も、更に所余の煩悩を断ぜんが為に、彼の四諦の境に於いて数数了知せんとする者であり、之を已知と名づける。三に具知根とは、彼の九根の無学道に在る者であり、無学道に在っては、己が四諦の理を了知せりと為すと知ることを云い、その知と四諦の了知と具有するが故に、具知と名づける。<(丁) |
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問曰。見諦所斷十結得須陀洹果。何以故但說三不說七。 |
問うて曰く、見諦所断は十結にして、須陀洹果を得。何を以っての故にか、但だ三を説いて、七を説かざる。 |
問い、 『見諦所断』は、 『十結(有身見、辺執見、邪見、見取、戒禁取、貪、瞋、慢、無明、疑)』であり、 『須陀洹果』を得ます。 何故、 但だ、 『三結』のみを説いて、 『七結』を説かないのですか?
十結(じっけつ):又十使とも云う。十種の煩悩。見結、疑結、戒道結、欲染結、瞋恚結、色染結、無色染結、無明結、慢結、掉結、或は有身見、辺執見、邪見、見取、戒禁取、貪、瞋、慢、無明、疑を云う。『大智度論巻3(下)注結、巻7(上)注九十八結、巻32(下)注八十八結』参照。 参考:『舎利弗阿毘曇論巻26』:『云何十結。見結疑結戒道結。欲染結瞋恚結色染結無色染結。無明結慢結掉結。』 参考:『十住毘婆沙論巻16』:『煩惱煩惱垢者。使所攝名為煩惱纏所攝名為垢。使所攝煩惱者。貪瞋慢無明身見邊見見取戒取邪見疑。是十根本隨三界見諦思惟所斷分別故名九十八使。非使所攝者。不信無慚無愧諂曲戲侮堅執懈怠退沒睡眠佷戾慳嫉憍不忍食不知足。亦以三界見諦思惟所斷分別故有一百九十六纏垢。』 |
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答曰。若說有眾見已說一切見結。如經說有眾見為六十二見根本故。若人著我復思惟我。為是常為是無常。若謂無常墮斷滅中。而生邪見無有罪福。若謂為常墮常見中。而生齋戒取計望得道。或修後世福德。樂欲得此二事故。取戒求苦樂因緣故。謂天所作便生見取。 |
答えて曰く、若し有衆見を説き已れば、一切の見結を説く。経に、『有衆見を六十二見の根本と為す。』と説けるが如し。故に、若し人、我に著して、復た思惟すらく、我は是れ常と為すや、是れ無常と為すやと。若し無常と謂わば、断滅の中に堕して、邪見を生じ、罪福の有ること無けん。若し常と為すと謂わば、常見の中に堕して、斎戒取を生じ、道を得んことを計望(希望)して、或は後世の福徳を修めん。此の二事(福、徳)を得んと楽欲するが故に戒を取り、苦楽の因縁を求むるが故に、天の所作なりと謂いて、便ち見取を生ず。 |
答え、 若し、 『有衆見』を説いたならば、 一切の、 『見結』を説いたことになる。 『経』には、 こう説いている、―― 『有衆見とは、 六十二見の根本である。』と。 故に、 若し、 有る人が、 『我』に著すれば、 復た、 こう思惟する、―― 『我は、常である』のか? 『我は、無常である』のか?と。 若し、 『無常』だと謂えば、 『断滅』の中に堕して、 『邪見』を、このように生ずる、―― 『罪福など有るはずがない!』、と。 若し、 『常』だと謂えば、 『常見』の中に堕して、 『斎戒取』を生じて、 『梵天』に生ずる、 『道を得よう』と望み、 或は、 『後世の福、徳』を修めて、 此の、 『二事(福、徳)を得たい』と欲するが故に、 『戒』を取著して、 『苦、楽の因縁』を求めるが故に、 『苦、楽』は、 『天の作す所である!』と謂って、 『見取』を生ずるのである。
参考:『摩訶般若波羅蜜経巻19』:『須菩提。譬如我見中悉攝六十二見。如是須菩提。是深般若波羅蜜悉攝諸波羅蜜。』 |
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若說有眾見則攝是二見邊見邪見。若說齋戒取已說見取。餘四結未拔根本故。不說是十結。於三界四諦所斷分別。有八十八須陀洹乃至辟支佛。分別聲聞辟支佛道如先說。 |
若し有衆見を説けば、則ち是の二見の辺見、邪見を摂す。若し斎戒取を説き已れば、見取を説くなり。余の四結は未だ根本を抜かざるが故に説かず。是の十結を三界の四諦所断に於いて分別すれば、八十八有り。須陀洹、乃至辟支仏は、声聞、辟支仏道を分別すること、先に説けるが如し。 |
若し、 『有衆見』を説けば、 則ち、 『辺見、邪見』の、 『二見』を摂するのであり、 若し、 『斎戒取』を説けば、 『見取』を説くことになる。 余の、 『四結(貪、瞋、慢、無明)』は、 未だ、 『根本が抜けない』ので説かない。 是の十結は、 『三界』の、 『四諦所断』として、 分別すれば、 『八十八』有る。 『須陀洹』乃至、 『辟支仏』は、 先に、 『声聞、辟支仏道』を分別して説いたとおりである。
参考:『大智度論巻28』:『問曰。如佛說有四種沙門果。四種聖人須陀洹乃至阿羅漢。五種佛子須陀洹乃至辟支佛。三種菩提阿羅漢菩提辟支佛菩提佛菩提。果中聖中佛子中菩提中皆無菩薩。云何言菩薩勝一切聲聞辟支佛智慧。答曰。佛法有二種。一者聲聞辟支佛法。二者摩訶衍法。聲聞法小故。但讚聲聞事不說菩薩事。摩訶衍廣大故。說諸菩薩摩訶薩事。發心修行十地入位。淨佛世界成就眾生得佛道。此法中說菩薩次佛。應如供養佛。能如是觀諸法相是為福田。能勝聲聞辟支佛如是。摩訶衍經中。處處讚菩薩摩訶薩智慧勝聲聞辟支佛。如寶頂經中說。轉輪聖王少一不滿千子。雖有大力諸天世人所不貴重。有真轉輪聖王種。處在胎中。初受七日便為諸天所貴重。所以者何。九百九十九人。不能嗣轉輪聖王種令世人得二世樂。是雖在胎必能紹胄聖王。是故恭敬。諸阿羅漢辟支佛。雖得根力覺意六神通諸禪智慧力於實際得證為眾生福田。十方諸佛所不貴重。菩薩雖在諸結使煩惱欲縛三毒胎中。初發無上道意。未能有所作。而為諸佛所貴。以其漸漸當行六波羅蜜。得方便力入菩薩位。乃至得一切種智。度無量眾生。不斷佛種法種僧種。不斷天上世間淨樂因緣故。』 |
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菩薩法眼有二種。一者分別知聲聞辟支佛方便得道門。二者知菩薩方便行道門。聲聞辟支佛事先已處處說。今當分別菩薩法。若菩薩知是菩薩深行六波羅蜜。薄諸煩惱故。用信根精進根。及方便為度眾生故受身。 |
菩薩の法眼には二種有り。一には分別して、声聞、辟支仏の方便の、得道の門を知る。二には菩薩の方便の、行道の門を知る。声聞、辟支仏の事は、先に已に処処に説けり。今は当に、菩薩法を分別すべし。若しは菩薩の知るらく、『是の菩薩は深く六波羅蜜を行じて、諸の煩悩を薄くするが故に、信根、精進根を用いて、方便に及び、衆生を度せんが為の故に、身を受く。』と。 |
『菩薩』の、 『法眼』には、 二種有り、 一には、 分別して、 『声聞、辟支仏の方便』の、 『得道の門』を知る。 二には、 『菩薩の方便』の、 『行道の門』を知る。 『声聞、辟支仏の事』は、 先に、 已に、処処に説いた。 今は、 『菩薩法』を分別しよう、―― 若しは、 『菩薩』は、 このように知る、―― 『是の菩薩は、 深く、 『六波羅蜜』を行じて、 『諸の煩悩』が薄くなるが故に、 『信根、精進根』を用いて、 『方便』に及び、 『衆生』を度する為の故に、 『身』を受けることになる。』と。 |
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是菩薩生死肉身未得法性神通法身。以是故不說三根。未離欲故。今世行布施。功德信根精進根。後世生剎利大姓乃至他化自在天。先知因後知果。 |
是の菩薩は生死の肉身にして、未だ法性、神通、法身を得ざれば、是を以っての故に、三根を説かず、未だ欲を離れざるが故なり。今世には布施を行ずる功徳の信根、精進根もて、後世に刹利の大姓、乃至他化自在天に生ず。先に因を知り、後に果を知るなり。 |
是の菩薩は、 『生死の肉身』で、 未だ、 『法性、神通、法身』を得ていないので、 是の故に、 『三根(三無漏根)』を説かない。 未だ、 『欲を離れない』からである。 今世に、 『布施』を行ずる、 『功徳』が、 『信根、精進根』であり、 後世には、 『刹利の大姓』、乃至、 『他化自在天』に生まれるのであるが、 是のように、 先に、 『因(布施)』を知って、 後に、 『果(刹利の大姓等)』を知る。 是れが、 『法眼』である。 |
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復次是菩薩不退者如先說。不退轉相亦如後阿鞞跋致品中說。與此相違名為退。不退菩薩有二種。一者受記。二者未受記。如首楞嚴三昧四種受記中說。 |
復た次ぎに、是の菩薩の不退とは、先に説けるが如し。不退転の相も亦た、後の阿鞞跋致品中に説くが如し。此れと相違するを名づけて、退と為す。不退の菩薩には二種有り、一には受記、二には未受記なり。首楞厳三昧の四種受記の中に説けるが如し。 |
復た次ぎに、 是の菩薩が、 『不退』であることは、 先に、 説いたとおりである。 『不退転の相』も、亦た、 後の、 『阿鞞跋致品』の中に説くとおりであり、 此れと、 『相違』するものを、 『退』と名づける。 『不退の菩薩』には、二種有り、 一には、『受記』、 二には、『未受記』であり、 『首楞厳三昧経』の、 『四種受記品』の中に説くとおりである。
四種受記(ししゅじゅき):首楞厳三昧経中に説く四種の受記、即ち一には未だ発心せざるに授記に与(あずか)る。二には適(たまたま)発心して授記に与る。三には密かに記を授ける。四には無生法忍を得て現前に記を授かると云う。『大智度論巻4(下)』参照。 参考:『首楞厳三昧経巻2』:『授記凡有四種。何謂為四。有未發心而與授記。有適發心而與授記。有密授記。有得無生法忍現前授記。是謂為四。』 |
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具足神通者。於十方恒河沙世界中。一時能變化無量身供養諸佛。聽法說法度眾生。如是等除佛無能及者。是為末後身菩薩。與此相違者名不具足。 |
神通を具足すとは、十方の恒河沙の世界の中に於いて、一時に能く無量の身に変化して、諸仏を供養して法を聴き、法を説いて衆生を度す。是の如き等は、仏を除いて、能く及ぶ者無し。是れを末後の身の菩薩と為し、此れと相違する者を不具足と名づく。 |
『神通を具足する』とは、 十方の、 恒河沙等の世界の中に、 一時に、 『無量の身』に変化することができ、 『諸仏』を供養して、 『法』を聴き、 『法』を説いて、 『衆生』を度す。 是れ等の事は、 『仏』を除けば、 『及ぶ者』が無い。 是れを、 『末後の身の菩薩』といい、 此れと、 『相違』する者を、 『不具足』と名づける。 |
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復次各各自地中無所少。名為具足。各各地中未成就是不具足。得神通有二種。有用者有不用者。未得神通者。有菩薩新發意故未得神通。或未離欲故。懈怠心故。行餘法故。是為未得。與上相違是為得。淨佛世界未淨世界如先說。 |
復た次ぎに、各各の自地中に、少(か)くる所の無きを名づけて、具足と為す。各各の地中に未だ成就せざる、是れ不具足なり。神通を得るにも二種有り、用うる者有り、用いざる者有り。未だ神通を得ざる者は、有る菩薩は、新発意なるが故に未だ神通を得ず。或は未だ欲を離れざるが故に、懈怠心の故に、余法を行ずるが故に、是れを未得と為す。上と相違すれば、是れを得と為す。仏世界を浄むると、未だ世界を浄めざるとは、先に説けるが如し。 |
復た次ぎに、 各各の、 『自地』の中に、 『不足する所』が無い。 是れを、 『具足』と名づけ、 各各の、 『自地』の中に、 未だ、 『成就』しない。 是れを、 『不具足』という。 『神通を得た者』には、二種有り、 『用いる者』と、 『用いない者』とである。 『未だ、 神通を得ない者』とは、 有る菩薩は、 『新発意』であるが故に、 未だ、 『神通』を得ていない。 或は、 未だ、 『欲を離れない』が故に、 或は、 『懈怠心』の故に、 『余法を行ずる』が故に。 是れが、 『未得の者』であり、 上と、 『相違』する者が、 『得た者』である。 『仏世界を浄める』と、 『未だ、 仏世界を浄めない』とは、 先に、 説いたとおりである。
浄仏世界(じょうぶっせかい):浄仏土に同じ。衆生を教化して、十善道等を行わしむること。『摩訶般若波羅蜜経巻1習応品』、『大智度論巻37』参照。 参考:『摩訶般若波羅蜜経巻1習応品』:『舍利弗。空行菩薩摩訶薩。不墮聲聞辟支佛地。能淨佛土成就眾生。疾得阿耨多羅三藐三菩提。』 参考:『大智度論巻37』:『能淨佛世界成就眾生者。菩薩住是空相應中無所復礙。教化眾生令行十善道及諸善法以眾生行善法因緣故佛土清淨。以不殺生故壽命長。以不劫不盜故。佛土豐樂應念即至。如是等眾生行善法則佛土莊嚴。』 |
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成就眾生者有二種。有先自成功德然後度眾生者。有先成就眾生後自成功德者。如寶華佛欲涅槃時觀二菩薩心。所謂彌勒釋迦文菩薩。彌勒菩薩自功德成就弟子未成就。釋迦文菩薩弟子成就自身未成就。成就多人難自成則易。作是念已。入雪山谷寶窟中身放光明。 |
衆生を成就する者に二種有り、先に自ら功徳を成じ、然る後に衆生を度す者有り、先に衆生を成就して後に自ら功徳を成ずる者有り。宝華仏の涅槃せんと欲する時、二菩薩の心を観たまえるが如し。謂わゆる弥勒、釈迦文菩薩なり。『弥勒菩薩は自ら功徳成就するも、弟子は未だ成就せず。釈迦文菩薩は弟子成就するも、自らの身は未だ成就せず。多人を成就するは難く、自ら成ずるは則ち易し。』と、是の念を作し已りて、雪山の谷の宝窟中に入り、身より光明を放ちたまえり。 |
『衆生を成就する』には、二種有り、 一には、 先に、自らの『功徳』を成就して、 後に、『衆生』を度する者、 二には、 先に、『衆生』を成就して、 後に、自らの『功徳』を成す者である。 例えば、 『宝華仏』が、 『涅槃』されようとした時、 『二菩薩』の、 『心』を観ると、こうであった、―― 謂わゆる、 『弥勒菩薩』と、 『釈迦文菩薩』とである。 『弥勒菩薩』は、 『自らの功徳』を、 成就していたが、 『弟子』は、 未だ、 成就していなかった。 『釈迦文菩薩』は、 『弟子』は、 成就していたが、 『自身』は、 未だ、 成就していなかった。 『仏』は、 こう念じられた、―― 『多人を、 成就することは、 難しいが、 自らを、 成就することは、 易しい。』と。 そこで、 雪山の谷の、 『宝窟』中に入られると、 『身』より、 『光明』を放たれた。
参考:『大智度論4』:『如經中言。過去久遠有佛名弗沙。時有二菩薩。一名釋迦牟尼。一名彌勒。弗沙佛。欲觀釋迦牟尼菩薩心純淑未。即觀見之。知其心未純淑。而諸弟子心皆純淑。又彌勒菩薩心已純淑。而弟子未純淑。是時弗沙佛。如是思惟。一人之心易可速化。眾人之心難可疾治。如是思惟竟。弗沙佛。欲使釋迦牟尼菩薩疾得成佛。上雪山上。於寶窟中入火定。是時釋迦牟尼菩薩。作外道仙人。上山採藥。見弗沙佛坐寶窟中入火定放光明。見已心歡喜。信敬翹一腳立。叉手向佛一心而觀。目未曾眴七日七夜。以一偈讚佛 天上天下無如佛 十方世界亦無比 世界所有我盡見 一切無有如佛者 七日七夜諦觀世尊目未曾眴。超越九劫於九十一劫中。得阿耨多羅三藐三菩提。』 |
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是時釋迦文菩薩見佛。其心清淨一足立七日七夜以一偈讚佛。以是因緣故超越九劫。如是等知成就眾生不成就眾生者。諸佛稱譽如先說。與此相違名為不稱譽。親近諸佛無量壽命無量比丘僧純菩薩為僧不修苦行如初品末說。 |
是の時、釈迦文菩薩は仏を見て、其の心清浄に、一足もて立つこと七日七夜にして、一偈を以って仏を讃ず。是の因縁を以っての故に、九劫を超越せり。是の如き等は、衆生を成就する、衆生を成就せざるを知るなり。諸仏の称誉したもうは、先に説けるが如し。此れと相違するを名づけて、不称誉と為す。諸仏に親近すること、無量の寿命、無量の比丘僧、純(もっぱ)ら菩薩のみを僧と為すこと、苦行を修せざることは、初品の末に説けるが如し。 |
是の時、 『釈迦文菩薩』は、 『仏』を見て、 『その心』が、 『清浄』になり、 『一足』で立つこと、 『七日七夜』、 『一偈』を以って、 『仏』を讃えた。 是の因縁で、 『釈迦文菩薩』は、 『九劫』を超越して、 『弥勒菩薩』より、 先に、 『仏』と成ったのである。 是のようにして、 『衆生を成就する』こと、 『衆生を成就しない』ことを知ったが、 『諸仏の称讃される』のは、 先に、 『釈迦文菩薩』について、 説いたとおりであり、 此れと、 『相違』する、 『弥勒菩薩』は、 『称讃されない』のである。 『諸仏に親近する』、 『無量の寿命』、 『無量の比丘僧』、 『純ら菩薩を僧と為す』、 『苦行を修めない』については、 『初品の末』に説いたとおりである。
参考:『大智度論巻30初品中諸仏称讃其命釈論』:『‥‥問曰。若諸佛出於三界不著世間。無有我及我所。視於外道惡人大菩薩阿羅漢一等無異。云何讚歎菩薩。答曰。佛雖無吾我無有憎愛於一切法心無所著。憐愍眾生以大慈悲心引導一切故。分別善人而有所讚。亦欲破壞惡魔。所願以佛讚歎故。無量眾生愛樂菩薩恭敬供養。後皆成就佛道。以是故諸佛讚歎菩薩。‥‥』 |
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一生補處者。或以相知者。如阿私陀仙人觀其身相知今世成佛。珊若婆羅門見乳糜知今日成佛者應食如遍吉菩薩觀世音菩薩文殊師利菩薩等。見是菩薩如諸佛相知當成佛。如是等 |
一生補処とは、或は相を以って知る者なり。阿私陀(あしだ)仙人の如きは、其の身相を観て、今世に成仏するを知り、刪若(さんにゃ)婆羅門は乳糜を見て、今日成仏する者の、応に食すべきを知る。遍吉菩薩、観世音菩薩、文殊師利菩薩等は、是の菩薩の諸仏の相の如くなるを見て、当に成仏すべしと知る。是の如き等なり。 |
『一生補処』とは、 或は、 『相』を以って、 『知られる者』である。 例えば、 『阿私陀(あしだ、釈尊の三十二相を観た)仙人』は、 その、 『一生補処の身相』を観て、 『今世に仏と成る』ことを知り、 『刪若(さんにゃく)婆羅門』は、 『乳糜(にゅうび、乳粥)』を見て 『今日仏と成る者が、食うはずである。』と知った。 『遍吉菩薩、観世音菩薩、文殊師利菩薩』等は、 『是の菩薩』の 『諸仏の相』などを見て、 『仏と成るはずだ』と知った。 是れ等が、 『相を以って知る』、 『一生補処』である。
刪若(さんにゃく):梵語saJjaya、又刪闍耶に作る。或は六師外道中の刪闍夜毘羅胝子か。 参考:『仏本行集経巻25』:『是時善生村主二女。聞於彼天如是告已。歡喜踊躍。遍滿其體不能自勝。速疾集聚一千牸牛。而[(殼-一)/牛]乳取轉。更將飲五百牸牛。更別日[(殼-一)/牛]此五百牛轉持乳。將飲於二百五十牸牛。後日[(殼-一)/牛]此二百五十牸牛之乳。還更飲百二十五牛。後日[(殼-一)/牛]此一百二十五牸牛乳。飲六十牛。後日[(殼-一)/牛]此六十牛乳。飲三十牛。後日[(殼-一)/牛]此三十牛乳。飲十五牛。後日[(殼-一)/牛]此十五牛乳。著於一分淨好粳米。為於菩薩。煮上乳糜。其彼二女。煮乳糜時。現種種相。或復出於滿花瓶相。或現功德河水淵相。或時現於萬字之相。或現功德千輻輪相。或復現於斛領牛相。或現象王龍王之相。或現魚相。或時復現大丈夫相。或復現於帝釋形相。或時有現梵王形相。或復現出乳糜。向上涌沸。上至半多羅樹。須臾還下。或現乳糜向上。高至一多羅樹訖已還下。或現出高一丈夫狀。還入彼器。無有一渧。離於彼器而落餘處。煮乳糜時。別有一善解海算數占相師。來至彼之處。見其乳糜出現如是諸種相貌。善占觀已。作如是語。希有希有。是誰得此乳糜而食。彼人食已。不久而證甘露妙藥』 |
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坐道場者。有菩薩見菩薩行處。地下有金剛地持是菩薩。又見天龍鬼神持種種供養具送至道場。如是等知坐道場。 |
道場に坐すとは、有る菩薩は、菩薩の行処を見るに、地下に金剛地有りて、是の菩薩を持す。又天龍、鬼神、種種の供養の具を持して、送りて道場に至るを見る。是の如き等に道場に坐すを知る。 |
『道場に坐す』とは、 有る菩薩は、 このように、見る、―― 『是の菩薩の、 『行処』の地下に、 『金剛の地』が有り、 『是の菩薩』を保持している。』と。 又、 このように、見る、―― 『是の菩薩を、 『天、龍、鬼神』が、 種種に、 『供養の具』を持って、 『道場』まで送ってくる。』と。 是れ等で、 『道場に坐す』ことを知るのである。 |
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有魔者宿世遮他行道及種種求佛道因緣。不喜行慈好行空等餘法。如是等因緣以宿世破他行道故有魔破壞。 |
魔有りとは、宿世に他の行道、及び種種に仏道を求むる因縁を遮し、慈を行ずるを喜ばず、好んで空等の余法を行ず。是の如き等の因縁は、宿世に他の行道を破せるを以っての故に、魔の破壊すること有り。 |
『魔が有る』とは、 宿世に、 『他人』の、 『道を行ずる』こと、及び、 『種種に仏道を求める』ことの、 『因縁』を遮った。 又、 『慈悲を行う』のを喜ばず、 『空等の余法を行う』のを好んだ。 是れ等の、 『因縁』は、 宿世に、 『他人の行道』を破るが故に、 『有る魔』によって、 『破壊される』のである。 |
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問曰。云何末後身菩薩受惡業報為魔來壞。 |
問うて曰く、云何が末後の身の菩薩は、悪業の報を受けて、魔の来たりて壊すところと為る。 |
問い、 何故、 『末後の身』の、 『菩薩』が、 『悪業の報』を受け、 『魔』が来て、 『心を壊(やぶ)る』のですか? |
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答曰。菩薩以種種門入佛道。或從悲門或從精進智慧門入佛道。是菩薩行精進智慧門不行悲心。好行精進智慧故。譬如貴人雖有種種好衣或時著一餘者不著。菩薩亦如是。修種種行以求佛道。或行精進智慧道。息慈悲心。 |
答えて曰く、菩薩は、種種の門を以って仏道に入り、或は悲門より、或は精進、智慧の門より、仏道に入るなり。是の菩薩は、精進、智慧の門を行じて、悲心を行ぜず、好んで精進、智慧を行ずるが故なり。譬えば、貴人は種種に好衣有りと雖も、或は時に一を著けて、余の者は著けざるが如し。菩薩も亦た、是の如く種種の行を修めて、以って仏道を求むるに、或は精進、智慧の道を行じて、慈悲心を息むなり。 |
答え、 『菩薩』は、 種種の、 『門』より、 『仏道』に入る。 或は、 『慈悲の門』より入り、 或は、 『精進の門』、 『智慧の門』より、 『仏道』に入る。 『是の菩薩』は、 『智慧に門』を行じて、 『慈悲心』を行じなかった。 好んで、 『精進、智慧』を行じたのである。 譬えば、 『貴人』は 種種の、 『好衣』を有しながら、 或は時に、 『一』を著けて、 『余の者』は著けないように、 『菩薩』も、亦た、 是のように、 種種の、 『行』を修めながら、 『仏道』を求めているが、 或は時に、 『精進、智慧の道』を行って、 『慈悲心』を息(やす)めるのである。 |
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破行道者。增上慢故。諸長壽天龍鬼神不識方便者。見作惡行因緣若不受報生斷滅見。是故佛現受報。是故雖無罪因緣實魔來。以方便力故現有魔。如是等一切聲聞辟支佛諸菩薩種種方便門令眾生入道。是名法眼淨 |
行道を破るとは、増上慢の故なり。諸の長寿の天龍鬼神の方便を識らざる者は、悪行の因縁を作すも、若しは報を受けざるを見て、断滅見を生ず。是の故に仏は報を受くるを現じたまえり。是の故に、罪の因縁もて実に魔の来たること無しと雖も、方便力を以っての故に魔有るを現ずるなり。是の如き等、一切の声聞、辟支仏、諸の菩薩の種種の方便門は、衆生をして道に入らしむ。是れを法眼浄と名づく。 |
『行道を破る』とは、 『増上慢』だからである。 諸の、 『長寿』の、 『天、龍、鬼神』で、 『方便を識らない』者は、 『悪行の因縁』を作しながら、 『報を受けないこともある』のを見て、 『断滅見』を生ずる。 是の故に、 『仏』は、 『報を受ける』ことを現されたが、 是の故に、 『罪の因縁』で、 実に、 『魔が来る』ことは無いが、 『方便力』を用いるが故に、 現に、 『魔が来る』のである。 是のように、 一切の、 『声聞、辟支仏』や、 『諸菩薩』の、 種種の、 『方便門』は、 『衆生』を、 『道に入らせる』のであるが、 是の、 『方便門』を、 『法眼浄』というのである。
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菩薩摩訶薩の仏眼浄
【經】舍利弗。白佛言。世尊。云何菩薩摩訶薩佛眼淨。佛告舍利弗。有菩薩摩訶薩。求佛道心次第入如金剛三昧。得一切種智。爾時成就十力四無所畏四無礙智十八不共法大慈大悲。 |
舎利弗の仏に白して言さく、『世尊、云何が菩薩摩訶薩の仏眼浄なる。』と。仏の舎利弗に告げたまわく、『有る菩薩摩訶薩は、仏道を求むる心もて、次第に如金剛三昧に入り、一切種智を得。爾の時、十力、四無所畏、四無礙智、十八不共法、大慈大悲を成就す。 |
『舎利弗』は、 『仏』に、こう白した、―― 『世尊! 何を、 菩薩摩訶薩の、 『仏眼浄』というのですか?』と。 『仏』は、 『舎利弗』に、こう告げられた、―― 『有る、 菩薩摩訶薩は、 『仏道』を求めて、 『心』が、 次第に、 『如金剛三昧』に入ると、 『一切種智』を得る。 爾の時、 『十力、四無所畏、四無礙智、十八不共法、大慈大悲』を、 『成就する』のである。 |
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是菩薩摩訶薩用一切種。一切法中無法不見無法不聞無法不知無法不識。舍利弗。是為菩薩摩訶薩得阿耨多羅三藐三菩提時佛眼淨。 |
是の菩薩摩訶薩は、一切種を用って、一切法中に、法として見ざる無く、法として聞かざる無く、法として知らざる無く、法として識らざる無し。舎利弗、是れを菩薩摩訶薩の、阿耨多羅三藐三菩提を得る時の、法眼浄と為す。 |
是の菩薩摩訶薩は、 『一切種』を用いて、 一切法の中に、 『見ない法』は無く、 『聞かない法』は無く、 『知らない法』は無く、 『識らない法』は無い。 舎利弗! 是れを、 菩薩摩訶薩が、 『阿耨多羅三藐三菩提』を得た時の、 『仏眼浄』という。 |
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如是舍利弗。菩薩摩訶薩欲得五眼。當學六波羅蜜。何以故。舍利弗。是六波羅蜜中攝一切善法。若聲聞法辟支佛法菩薩法佛法。舍利弗。若有實語能攝一切善法者。般若波羅蜜是。舍利弗。般若波羅蜜能生五眼。菩薩學五眼者。得阿耨多羅三藐三菩提 |
是の如し、舎利弗、菩薩摩訶薩は、五眼を得んと欲せば、当に六波羅蜜を学ぶべし。何を以っての故に、舎利弗、是の六波羅蜜中に、一切の善法、若しは声聞法、辟支仏法、菩薩法、仏法を摂すればなり。舎利弗、若し実語有りて、能く一切の善法を摂すれば、般若波羅蜜是れなり。舎利弗、般若波羅蜜は、能く五眼を生ず。菩薩にして、五眼を学ぶ者は、阿耨多羅三藐三菩提を得ん。 |
是のように、 舎利弗! 菩薩摩訶薩は、 『五眼』を得ようと欲するならば、 『六波羅蜜』を学ばなくてはならない。 何故ならば、 是の、 『六波羅蜜』の中に、 『一切の善法』を、 『声聞法』であろうと、 『辟支仏法』であろうと、 『菩薩法』であろうと、 『仏法』であろうと、 皆、 『摂する』からである。 舎利弗! 『般若波羅蜜』は、 『五眼』を生ずることができ、 『菩薩』が、 『五眼』を学べば、 『阿耨多羅三藐三菩提』を得るのである。 |
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【論】釋曰。菩薩住十地中。具足六波羅蜜乃至一切種智。菩薩入如金剛三昧破諸煩惱習。即時得諸佛無礙解脫即生佛眼。所謂一切種智十力四無所畏四無礙智。乃至大慈大悲等諸功德是名佛眼。 |
釈して曰く、菩薩は、十地の中に住するに、六波羅蜜、乃至一切種智を具足す。菩薩は、如金剛三昧に入りて、諸の煩悩の習を破り、即時に諸仏の無礙解脱を得て、即ち仏眼を生ず。謂わゆる一切種智、十力、四無所畏、四無礙智、乃至大慈大悲等の諸の功徳は、是れを仏眼と名づく。 |
釈す、 『菩薩』は、 『十地』の中に住すると、 『六波羅蜜』、乃至、 『一切種智』を具足する。 『菩薩』は、 『如金剛三昧』に入って、 諸の、 『煩悩の習』を破ると、 即時に、 『諸仏の無礙解脱』を得て、 『仏眼』を生ずる。 謂わゆる、 『一切種智、十力、四無所畏、四無礙智、乃至大慈大悲』等の、 『諸の功徳』を、 『仏眼』と名づけるのである。 |
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問曰。智慧見物是眼相。云何大慈悲等名為眼。 |
問うて曰く、智慧もて物を見るは、是れ眼相なり。云何が大慈悲等を名づけて、眼と為す。 |
問い、 『智慧』で、 『物を見る』のが、 『眼相』です。 何故、 『大慈悲』等を、 『眼』と名づけるのですか? |
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答曰。諸功德皆與慧眼相應故通名為眼。 |
答えて曰く、諸の功徳は、皆慧眼と相応するが故に、通じて名づけて眼と為す。 |
答え、 『諸の功徳』は、 皆、 『慧眼』と相応するが故に、 通じて、 『眼』と名づける。 |
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復次慈悲心有三種。眾生緣法緣無緣。凡夫人眾生緣。聲聞辟支佛及菩薩初眾生緣後法緣。諸佛善修行畢竟空故名為無緣。是故慈悲亦名佛眼。 |
復た次ぎに、慈悲心に三種有り、衆生縁、法縁、無縁なり。凡夫人は衆生縁なり。声聞、辟支仏、及び菩薩は、初は衆生縁、後は法縁なり。諸仏は、善く畢竟空を修行するが故に名づけて、無縁と為す。是の故に、慈悲も亦た仏眼と名づく。 |
復た次ぎに、 『慈悲心』には、 三種有り、 『衆生縁』、 『法縁』、 『無縁』である。 『凡夫人』は、 『衆生縁』であり、 『声聞、辟支仏』、及び、 『菩薩』は、 初は『衆生縁』、 後に『法縁』であり、 『諸仏』は、 善く、 『畢竟空』を修行するが故に、 『無縁』であるが、 是の故に、 『慈悲』を、亦た、 『仏眼』と名づけるのである。
三種慈悲(さんしゅじひ):衆生縁、法縁、無縁の三種の慈悲心を云う。一に衆生縁慈悲心とは、一慈悲心を以って十方五道の衆生を視ること、父の如く、母の如く、兄弟姉妹子姪の如く、之を縁じて常に楽を与えて、苦を抜かんと思う心を、衆生縁慈悲心と名づける。此れは多く凡夫、或は有学人の未だ煩悩を断ぜざる者に在りて起るものなり。二に法縁慈悲心とは、既に煩悩を断じたる三乗の聖人は法空に達して、吾我の相を破り、一異の相を滅する人なるも、但だ衆生は是の法空を知らずして、一心に苦を抜いて楽を得んと欲すれば、其の意に随いて苦を抜いて楽を与う、是れを法縁慈悲心と名づく。三に無縁慈悲心とは、此の慈悲は惟諸仏のみに在る。蓋し諸仏の心は、有為無為性の中に住せず、過去現在未来世の中に住せず、諸縁の不実にして顛倒妄想なるを知り、故に心に所縁無し。但だ仏は、衆生の諸法の実相を知らずして、五道に往来し、心を諸法に著して、取捨分別するを以っての故に、心に衆生縁無きも、一切の衆生をして自然に拔苦与楽の益を得しむれば、是れを無縁慈悲心と名づく。又『大智度論巻20』参照。<(丁) 参考:『大智度論巻20』:『慈有三種。一者眾生緣二者法緣三者無緣。問曰。是四無量心云何行。答曰。如佛處處經中說。有比丘以慈相應心。無恚無恨無怨無惱。廣大無量善修慈心得解遍滿。東方世界眾生慈心得解遍滿。南西北方四維上下十方世界眾生。以悲喜捨相應心亦如是。慈相應心者。慈名心數法。能除心中憒濁。所謂瞋恨慳貪等煩惱。譬如淨水珠著濁水中水即清。‥‥一切眾生皆畏於苦貪著於樂。瞋為苦因緣慈是樂因緣。眾生聞是慈三昧。能除苦能與樂故。一心懃精進行是三昧。‥‥十方五道眾生中。以一慈心視之。如父如母如兄弟姊妹子姪知識。常求好事。欲令得利益安隱。如是心遍滿十方眾生中。如是慈心名眾生緣。多在凡夫人行處或有學人未漏盡者。行法緣者。諸漏盡阿羅漢辟支佛諸佛。是諸聖人破吾我相。滅一異相故。但觀從因緣相續生諸欲。以慈念眾生時。從和合因緣相續生但空。五眾即是眾生。念是五眾以慈念。眾生不知是法空。而常一心欲得樂。聖人愍之令隨意得樂。為世俗法故。名為法緣。無緣者是慈但諸佛有。何以故。諸佛心不住有為無為性中。不依止過去世未來現在世知諸緣不實顛倒虛誑故。心無所緣。佛以眾生不知是諸法實相。往來五道心著諸法分別取捨。以是諸法實相智慧。令眾生得之。是名無緣。譬如給賜貧人。或與財物或與金銀寶物。或與如意真珠。眾生緣法緣無緣亦復如是。』 |
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已說佛眼。今說佛眼所用。是眼無法不見不聞不知不識。 |
已に仏眼を説きたれば、今は仏眼の所用を説かん。是の眼には、法として見ざる、聞かざる、知らざる、識らざる無し。 |
已に、 『仏眼』を説いた。 今、 『仏眼』の、 『用うる所』を説こう。 是の、 『仏眼』の、 『見ない法』は無く、 『聞かない法』は無く、 『知らない法』は無く、 『識らない法』は無い。 |
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復次有人謂十住菩薩與佛無有差別。如遍吉文殊師利觀世音等。具足佛十力功德等而不作佛。為廣度眾生故。是故生疑。以是故說佛眼相。十方眾生及諸法中無不見無不聞。是諸菩薩於餘菩薩為大。比於佛不能遍知。如月光明雖大於日則不現。 |
復た次ぎに、有る人の謂わく、『十住の菩薩は、仏と差別有ること無し。遍吉、文殊師利、観世音等の如きは、仏の十力の功徳等を具足して、而も仏と作らず、広く衆生を度せんが為の故なり。』と。是の故に疑を生ずれば、是を以っての故に仏眼の相を説かく、『十方の衆生、及び諸法の中に、見ざる無く、聞かざる無し。是の諸の菩薩は、余の菩薩に於いては大と為すも、仏に比せば、遍く知る能わず。月の光明は大なりと雖も、日に於いては則ち現われざるが如し。』と。 |
復た次ぎに、 有る人は、 こう謂っている、―― 『十住の、 『菩薩』は、 『仏』と、差別が無い。 譬えば、 『遍吉(普賢)』、 『文殊師利』、 『観世音』等は、 『仏の十力の功徳』等を具足しながら、 『仏と作らない』のは、 広く、 『衆生を度す』為の故である。』と。 是の故に、 『仏』について、 『疑』を生ずるので、 こう説いたのである、―― 『仏眼の相は、 『十方の衆生』、及び、 『諸法』の中に、 『見ない法』は無く、 『聞かない法』は無い。。 是の、 『諸の菩薩』は、 『余の菩薩』よりは、 『大』であるが、 『仏』に比べれば、 『遍く知る』ことはできない。 譬えば、 『月』の、 『光明』は 『大』であるが、 『日』が出れば、 『現われない』のと同じである。』と。 |
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問曰。眼為見相云何說聞。 |
問うて曰く、眼は見相と為す。云何が聞と説く。 |
問い、 『眼』は、 『見相』であるのに、 何故、 『聞』を説くのですか? |
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答曰。眾生智慧從六情生知六塵。人謂佛有所不聞。如外經書中言。或有所不聞。是故佛智慧無所不聞。又耳識因緣生智慧。智慧所知言無法不聞。 |
答えて曰く、衆生の智慧は、六情より生じて、六塵を知る。人の謂わく、『仏には、聞かざる所有り。』と。外の経書の中に、『或は聞かざる所有り。』と言うが如し。是の故に、仏の智慧に聞かざる所無し。又耳識の因縁は、智慧を生ずれば、智慧の知る所なるをもて、『法として聞かざる無し。』と言う。 |
答え、 『衆生の智慧』は、 『六情』より生じて、 『六塵』を知るので、 『人』は、 こう謂うのである、―― 『仏にも、 聞かない所が有る。』と。 『外の経書』などにも、 こう言っている、―― 『或は、 聞かない所が有る。』と。 是の故に、 『仏の智慧には、 聞かない所が無い。』のである。 又、 『耳識の因縁』は、 『智慧を生ずる』ので、 『智慧の知る所』を、 『聞かない法は無い。』と言うのである。 |
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問曰。何以故三識所知合為一。三識所知別為三。眼名為見。耳名為聞。意知名為識。鼻舌身識名為覺。 |
問うて曰く、何を以っての故にか、三識の知る所を合して一と為し、三識の知る所を別にして三と為し、眼を名づけて見と為し、耳を名づけて聞と為し、意の知るを名づけて識と為し、鼻舌身の識を名づけて覚と為すや。 |
問い、 何故、 『三識(鼻、舌、身識)』の、 『知る所』を合して、 『一(覚)』とし、 『三識(眼、耳、意識)』の、 『知る所』を別けて、 『三(見、聞、識)』として、 謂わゆる、 『眼』を、 『見』と名づけ、 『耳』を、 『聞』と名づけ、 『意が知る』を、 『識』と名づけ、 『鼻、舌、身の識』を、 『覚』と名づけるのですか? |
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答曰。是三識助道法多。是故別說。餘三識不爾。是故合說。是三識但知世間事。是故合為一。餘三亦知世間亦知出世間。是故別說。 |
答えて曰く、是の三識には、助道の法多し、是の故に別に説く。余の三識は爾らず、是の故に合して説く。是の三識は、但だ世間の事のみを知れば、是の故に合して一と為し、余の三は亦た世間を知るも、亦た出世間をも知れば、是の故に別して説くなり。 |
答え、 『是の三識(眼、耳、意識)』は、 『助道法が多い』ので、 『別けて説く』が、 『余の三識(鼻、舌、身識)』は、 そうでないので、 『合して説く』、 『是の三識(鼻、舌、身識)』は、 但だ、 『世間の事を知る』のみなので、 合して、 『一』とするが、 『余の三識(眼、耳、意識)』は、 『世間の事も知り』、亦た、 『出世間も知る』ので、 『別に説く』のである。 |
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復次是三識但緣無記法。餘三識或緣善或緣不善或緣無記。 |
復た次ぎに、是の三識は、但だ無記法にのみ縁じ、余の三識は或は善を縁じ、或は不善を縁じ、或は無記を縁ず。 |
復た次ぎに、 『是の三識(鼻、舌、身識)』は、 但だ、 『無記法』のみを縁ずるが、 『余の三識(眼、耳、意識)』は、 或は、『善』を縁じ、 或は、『不善』を縁じ、 或は、『無記』を縁ずる。 |
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復次是三識能生三乘因緣。如眼見佛及佛弟子。耳聞法心籌量正憶念。如是等種種差別。以是故六識所知事分為四分。 |
復た次ぎに、是の三識は、能く三乗の因縁を生ず。眼は仏、及び仏弟子を見、耳は法を聞き、心は籌量して正憶念するが如し。是の如き等の種種の差別あれば、是を以っての故に、六識の所知の事を分けて、四分と為すなり。 |
復た次ぎに、 『是の三識(眼、耳、意識)』は、 『三乗の因縁』を生ずることができる。 例えば、 『眼』は、 『仏』及び、 『仏弟子』を見、 『耳』は、 『法』を聞き、 『心』は、 『籌量』して、 『正憶念』するが、 是れ等の、 種種の、 『差別』が有るので、 是の故に、 『六識』の、 『知る所の事』を別けて、 『四分』するのである。 |
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一切種智者。如人眼見近不見遠。見內不見外。見麤不見細。見東不見西。見此不見彼。見和合不見散。見生時不見滅。肉眼見天眼不見。眼根成就未離欲凡夫人故無天眼。 |
一切種智とは、人の眼の如きは、近を見て遠を見ず、内を見て外を見ず、麁を見て細を見ず、東を見て西を見ず、此を見て彼を見ず、和合を見て散を見ず、生時を見て滅を見ざるが如く、肉眼で見て天眼で見ざるは、眼根成就すれども、未だ欲を離れざる凡夫人なれば、故(もと)より天眼無し。 |
『一切種智』とは、 例えば、 『人の眼』ならば、 『近く』を見て、『遠く』は見ない、 『内』を見て、『外』は見ない、 『麁』を見て、『細』は見ない、 『東』を見て、『西』は見ない、 『此』を見て、『彼』は見ない、 『和合』を見て、『散』を見ない、 『生時』を見て、『滅時』は見ない。 『肉眼』で見て、 『天眼』で見ないのは、 則ち、 『眼根』は成就したが、 『未離欲』の、 『凡夫人』であるが故に、 『天眼が無い』のである。 |
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天眼見慧眼不見。凡夫人得天眼神通故無慧眼。 |
天眼で見て慧眼で見ずとは、凡夫人にして、天眼神通を得るが故に慧眼無し。 |
『天眼』で見て、 『慧眼』で見ないとは、 『凡夫人』のまま、 『天眼神通』を得たが故に、 『慧眼』が無い。 |
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慧眼見法眼不見。未離欲聲聞聖人。不知種種度眾生道故無法眼。 |
慧眼で見て法眼で見ざるは、未だ欲を離れざる声聞の聖人にして、種種に衆生を度する道を知らざれば、故より法眼無し。 |
『慧眼』で見て、 『法眼』で見ないとは、 『未離欲』の、 『声聞の聖人』であり、 種種の、 『衆生を度する道』を知らないので、 『法眼』が無い。 |
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法眼見佛眼不見。菩薩得道種智知種種度眾生道。未成佛故無佛眼。 |
法眼で見て仏眼で見ざるは、菩薩は道種智を得て、種種に衆生を度する道を知るも、未だ成仏せざるが故に仏眼無し。 |
『法眼』で見て、 『仏眼』で見ないとは、 『菩薩』は、 『道種智』を得て、 種種の、 『衆生を度する道』を知るが、 未だ、 『仏と成らない』ので、 『仏眼』が無い。 |
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復次肉眼天眼見慧眼法眼佛眼不見。凡夫人眼根成就。得天眼神通故。無慧眼法眼佛眼。 |
復た次ぎに、肉眼、天眼で見て慧眼、法眼、仏眼で見ざるは、凡夫人の眼根成就して、天眼神通を得るが故に慧眼、法眼、仏眼無し。 |
復た次ぎに、 『肉眼、天眼』で見て、 『慧眼、法眼、仏眼』で見ないとは、 『凡夫人』が、 『眼根』を成就して、 『天眼神通』を得たが故に、 『慧眼、法眼、仏眼』は無いのである。 |
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肉眼慧眼見法眼佛眼不見。眼根成就聲聞聖人。不知種種度眾生道故無法眼。聲聞人故無佛眼。 |
肉眼、慧眼で見て法眼、仏眼で見ざるは、眼根成就せる声聞の聖人は、種種に衆生を度する道を知らざるが故に法眼無く、声聞人なるが故に仏眼無し。 |
『肉眼、慧眼』で見て、 『法眼、仏眼』で見ないとは、 『眼根』が成就した、 『声聞の聖人』は、 種種に、 『衆生を度する道』を知らないが故に、 『法眼』が無く、 『声聞人』であるが故に、 『仏眼』が無いのである。 |
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肉眼法眼見佛眼不見。初得無生忍。未受法性生身菩薩。得道種智未成佛故無佛眼。 |
肉眼、法眼で見て仏眼で見ざるは、初めて無生忍を得たるも、未だ法性生身を受けざる菩薩は、道種智を得て未だ成仏せざるが故に仏眼無し。 |
『肉眼、法眼』で見て、 『仏眼』で見ないとは、 初めて、 『無生忍』を得て、 未だ、 『法性生身』を受けない、 『菩薩』は、 『道種智』を得たが、 未だ、 『仏と成らない』が故に、 『仏眼』が無いのである。 |
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天眼慧眼見法眼佛眼不見。離欲聲聞聖人得天眼神通。非菩薩故無道種智。無道種智故無法眼。聲聞人故無佛眼。 |
天眼、慧眼で見て法眼、仏眼で見ざるは、欲を離れたる声聞の聖人は、天眼神通を得るも、菩薩に非ざるが故に道種智無し、道種智無ければ故より法眼無く、声聞人の故に仏眼無し。 |
『天眼、慧眼』で見て、 『法眼、仏眼』で見ないとは、 『離欲』の、 『声聞の聖人』が、 『天眼神通』を得たが、 『菩薩』でないが故に、 『道種智』が無く、 『道種智』が無いが故に、 『法眼』が無く、 『声聞人』であるが故に、 『仏眼』が無いのである。 |
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天眼法眼見佛眼不見。得菩薩神通知種種度眾生道。未成佛故無佛眼。 |
天眼、法眼で見て仏眼で見ざるは、菩薩の神通を得て種種に衆生を度する道を知るも、未だ成仏せざるが故に仏眼無し。 |
『天眼、法眼』で見て、 『仏眼』で見ないとは、 『菩薩の神通』を得て、 種種に、 『衆生を度する道』を知るが、 未だ、 『仏と成らない』が故に、 『仏眼』が無いのである。 |
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慧眼法眼見佛眼不見。菩薩得無生法忍。得無生法忍已能觀一切眾生得道因緣。以種種道而度脫之。未成佛故無佛眼。 |
慧眼、法眼で見て仏眼で見ざるは、菩薩は無生法忍を得るに、無生法忍を得已りて能く一切の衆生の得道の因縁を観、種種の道を以って、之を度脱するも、未だ成仏せざるが故に仏眼無し。 |
『慧眼、法眼』で見て、 『仏眼』で見ないとは、 『菩薩』が、 『無生法忍』を得て、 『無生法忍』を得たが故に、 『一切の衆生』の、 『得道の因縁』を観ることができ、 『種種の道』を以って、 『衆生を度脱する』が、 未だ、 『仏と成らない』が故に、 『仏眼』が無い。 |
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復次肉眼天眼慧眼見法眼佛眼不見。眼根成就聲聞聖人得天眼神通。無道種智故無法眼。聲聞人故無佛眼。 |
復た次ぎに、肉眼、天眼、慧眼で見て法眼、仏眼で見ざるは、眼根成就せる声聞の聖人は、天眼神通を得るも、道種智無きが故に法眼無く、声聞人の故に仏眼無し。 |
復た次ぎに、 『肉眼、天眼、慧眼』で見て、 『法眼、仏眼』で見ないとは、 『眼根』の成就した、 『声聞の聖人』は、 『天眼神通』を得るが、 『道種智』が無いが故に、 『法眼』が無く、 『声聞人』であるが故に、 『仏眼』が無い。 |
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天眼慧眼法眼見佛眼不見。法性生身菩薩具六神通以種種道度眾生。未成佛故無佛眼。 |
天眼、慧眼、法眼で見て仏眼で見ざるは、法性生身の菩薩は、六神通を具え、種種の道を以って衆生を度すも、未だ成仏せざるが故に仏眼無し。 |
『天眼、慧眼、法眼』で見て、 『仏眼』で見ないとは、 『法性生身の菩薩』は、 『六神通』を具足して、 『種種の道』で、 『衆生を度す』が、 未だ、 『仏と成らない』が故に、 『仏眼』が無い。 |
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復次肉眼天眼慧眼法眼見佛眼不見。初得無生法忍菩薩未捨肉身。得菩薩神通無生法忍。道種智具足未成佛故無佛眼。 |
復た次ぎに、肉眼、天眼、慧眼、法眼で見て仏眼で見ざるは、初めて無生法忍を得たる菩薩は、未だ肉身を捨てざるに菩薩の神通を得て、無生法忍、道種智具足するも、未だ成仏せざるが故に仏眼無し。 |
復た次ぎに、 『肉眼、天眼、慧眼、法眼』で見て、 『仏眼』で見ないとは、 初めて、 『無生法忍』を得た、 『菩薩』は、 未だ、 『肉身』を捨てないまま、 『菩薩の神通』を得て、 『無生法忍、道種智』が具足しているが、 未だ、 『仏と成らない』が故に、 『仏眼』が無い。 |
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如是等不名無法不見聞覺識。若以佛眼觀諸法。是名無所不見無所不聞無所不覺無所不識。五塵隨義分別亦如是。 |
是の如き等は、法として見、聞、覚、識せざる無しと名づけず。若し仏眼を以って諸法を観れば、是れを見ざる所無く、聞かざる所無く、覚らざる所無く、識らざる所無しと名づく。五塵を義に随って分別するも、亦た是の如し。 |
是れ等を、 『見ない法が無い』、 『聞かない法が無い』、 『覚知しない法が無い』、 『識らない法が無い』とは名づけない。 若し、 『仏眼』で、 『諸法』を観れば、 是れを、 『見ない所が無い』、 『聞かない所が無い』、 『覚知しない所が無い』、 『識らない所が無い』と名づける。 『五塵』を、 『義』に随って、 『分別』すれば、 亦た、 是のとおりである。 |
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三乘等諸善法。是五眼因緣諸善法。皆六波羅蜜攝。是六波羅蜜般若波羅蜜為本。以是故說般若波羅蜜能生五眼。菩薩漸漸學是五眼不久當作佛 |
三乗等の諸の善法は、是れ五眼の因縁にして、諸の善法は皆、六波羅蜜に摂し、是の六波羅蜜は般若波羅蜜を本と為す。是を以っての故に説かく、『般若波羅蜜は、能く五眼を生ず。』と。菩薩は漸漸に是の五眼を学び、久しからずして当に仏と作るべし。 |
『三乗』等の、 『諸の善法』は、 皆、 『五眼の因縁』であり、 『諸の善法』は、 皆、 『六波羅蜜』に摂せられ、 是の、 『六波羅蜜』は、 『般若波羅蜜』が、 『根本』である。 是の故に、 こう説く、―― 『般若波羅蜜は、 五眼を生ずることができる。』と。 『菩薩』は、 次第に、 是の『五眼』を学べば、 久しからずして、 『仏と作る』ことができよう。
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菩薩摩訶薩の神通波羅蜜
【經】舍利弗。有菩薩摩訶薩。行般若波羅蜜時。修神通波羅蜜。以是神通波羅蜜受種種如意事。能動大地。變一身為無數身。無數身還為一身。隱顯自在。山壁樹木皆過無礙如行空中。履水如地凌虛如鳥。出沒地中如出入水。身出煙炎如大火聚。身中出水如雪山水流。日月大德威力難當而能摩捫。乃至梵天身得自在亦不著是如意神通。 |
舎利弗、有る菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずる時、神通波羅蜜を修めて、是の神通波羅蜜を以って、種種の如意の事を受け、能く大地を動かし、一身を変じて無数の身と為し、無数の身を還た一身と為し、隠顕自在にして、山、壁、樹木を皆過ぐることの無礙なること、空中を行くが如く、水を履むこと地の如く、虚(そら)を凌ぐこと鳥の如く、地中に没すること水に出入するが如く、身より煙炎を出すこと大火聚の如く、身中より水を出すこと雪山の水流の如く、日月の大威徳力の当たり難きをも、能く摩捫(まもん、なでてつかむ)し、乃ち梵天の身に至るまで自在を得るも、亦た是の如意神通にも著せず。 |
舎利弗! 有る、 『菩薩摩訶薩』は、 『般若波羅蜜』を行ずる時、 『神通波羅蜜』を修める。 『是の神通波羅蜜』を以って、 種種の、 『如意事』を受けて、 『大地を動かしたり』、 『一身を無数の身に変じたり』、 『無数の身を一身にもどしたり』、 『隠顕自在であったり』、 『山壁、樹木を皆通り過ぎて、 虚空を行くように無礙であったり』、 『水を地のように履んだり』、 『地中に出没して、 水中に出入するようであったり』、 『身より煙や炎を出して、 大火聚のようであったり』、 『身より水を出して、 雪山の水流のようであったり』、 『日月の大威力は当たり難いのに、 摩でて捫(つか)むことができたり』、 『梵天の身に至るまで、 自在に得ることができる』のであるが、 亦た、 是の、 『如意神通に著する』こともない。 |
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神通事及己身皆不可得。自性空故。自性離故。自性無生故。不作是念。我得如意神通除為薩婆若心。如是舍利弗。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。得如意神通智證。 |
神通の事、及び己が身は皆得べからずして、自性は空なるが故に、自性を離るるが故に、自性に生無きが故に、是の念を作さず、『我れは如意神通を得たり。』と。薩婆若心の為を除く。是の如く、舎利弗、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずる時、如意神通智の証を得るなり。 |
『神通事』及び、 『己の身』は、 皆、 『得られない』のである。 『自性』が、 『空』であるが故に、 『自性』を、 『離れたものである』が故に、 『自性』には、 『生が無い』が故に、 『薩婆若心(さばにゃしん、一切智)』の為を除いて、 このような念を作さない、―― 『わたしは、 如意神通を得た。』と。 是のように、 舎利弗! 『菩薩摩訶薩』は、 『般若波羅蜜』を行ずる時、 『如意神通智の証を得る』のである。 |
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是菩薩以天耳淨過於人耳。聞二種聲。天聲人聲。亦不著是天耳神通。天耳與聲及己身皆不可得。自性空故。自性離故。自性無生故。不作是念。我有是天耳。除為薩婆若心。如是舍利弗。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。得天耳神通智證。 |
是の菩薩は天耳浄を以って、人の耳に過ぎて二種の声の天声、人声を聞いて、亦た是の天耳神通にも著せず。天耳と、声及び己が身とは皆得べからずして、自性は空なるが故に、自性を離るるが故に、自性に生無きが故に、是の念を作さず、『我れに是の天耳有。』と。薩婆若心の為を除く。是の如く、舎利弗、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずる時、天耳神通智の証を得るなり。 |
『是の菩薩』は、 『天耳浄』を以って、 『人の耳』を過ぎて、 『二種の声』、 『天声、人声』を聞くことができるが、 亦た、 是の、 『天耳神通に著する』こともない。 『天耳、声』、及び、 『己の身』は、 皆、 『得られない』からである。 『自性』が、 『空である』が故に、 『自性』を、 『離れたものである』が故に、 『自性』には、 『生が無い』が故に、 『薩婆若心』の為を除いて、 このような念を作さない、―― 『わたしには、 是の天耳が有る。』と。 是のように、 舎利弗! 『菩薩摩訶薩』は、 『般若波羅蜜』を行ずる時、 『天耳神通智の証を得る』のである。 |
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是菩薩如實知他眾生心。若欲心如實知欲心。離欲心如實知離欲心。瞋心如實知瞋心。離瞋心。如實知離瞋心。癡心如實知癡心。離癡心如實知離癡心。渴愛心如實知渴愛心。無渴愛心如實知無渴愛心。有受心如實知有受心。無受心如實知無受心。攝心如實知攝心。散心如實知散心。小心如實知小心。大心如實知大心。定心如實知定心。亂心如實知亂心。解脫心如實知解脫心。不解脫心如實知不解脫心。有上心如實知有上心。無上心如實知無上心。亦不著是心。 |
是の菩薩は如実に他の衆生心を知る。若しは欲心なれば、如実に欲心なりと知り、離欲心なれば如実に離欲心なりと知り、瞋心なれば如実に瞋心なりと知り、瞋心を離れたれば如実に瞋心を離れたりと知り、癡心なれば如実に癡心なりと知り、癡心を離れたれば如実に癡心を離れたりと知り、渇愛心なれば如実に渇愛心なりと知り、渇愛心無ければ如実に渇愛心無しと知り、受心有れば如実に受心有りと知り、受心無ければ如実に受心無しと知り、摂心なれば如実に摂心なりと知り、散心なれば如実に散心なりと知り、小心なれば如実に小心なりと知り、大心なれば如実に大心なりと知り、定心なれば如実に定心なりと知り、乱心なれば如実に乱心なりと知り、解脱心なれば如実に解脱心なりと知り、解脱心ならざれば如実に解脱心ならざるを知り、有上心なれば如実に有上心なりと知り、無上心なれば如実に無上心なりと知り、亦た是の心にも著せず。 |
是の、 『菩薩』は、 如実に、 『他の衆生心』を知る。 若し、 『欲心』ならば、 如実に、 『欲心である。』と知り、 『離欲心』は、 如実に、 『離欲心である。』と知り、 『瞋心』は、 如実に、 『瞋心である。』と知り、 『離瞋心』は、 如実に、 『離瞋心である。』と知り、 『癡心』は、 如実に、 『癡心である。』と知り、 『離癡心』は、 如実に、 『離癡心である。』と知り、 『渇愛心』は、 如実に、 『渇愛心である。』と知り、 『渇愛心』が無ければ、 如実に、 『渇愛心が無い。』と知り、 『受心』が有れば、 如実に、 『受心が有る。』と知り、 『受心』が無ければ、 如実に、 『受心が無い。』と知り、 『摂心』は、 如実に、 『摂心である。』と知り、 『散心』は、 如実に、 『散心である。』と知り、 『小心』は、 如実に、 『小心である。』と知り、 『大心』は、 如実に、 『大心である。』と知り、 『定心』は、 如実に、 『定心である。』と知り、 『乱心』は、 如実に、 『乱心である。』と知り、 『解脱心』は、 如実に、 『解脱心である。』と知り、 『解脱心』でなければ、 如実に、 『解脱心でない。』と知り、 『有上心』は、 如実に、 『有上心である。』と知り、 『無上心』は、 如実に、 『無上心である。』と知るが、 亦た、 『是の心に著する』こともない。 |
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何以故是心非心相不可思議故。自性空故。自性離故。自性無生故。不作是念。我得他心智證除為薩婆若心。如是舍利弗。菩薩摩訶薩。行般若波羅蜜時。得他心神通智證。 |
何を以っての故に、是の心は心相に非ずして、不可思議なるが故に、自性は空なるが故に、自性を離るるが故に、自性に生無きが故に、是の念を作さず、『我れは他心智、証を得たり。薩婆若心たるを除く。』と。是の如き、舎利弗、菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行ずる時、他心神通智の証を得るなり。 |
何故ならば、 是の、 『心』とは、 『心相』ではなく、 『不可思議』だからである。 『心』の、 『自性』は、 『空である』が故に、 『自性』を、 『離れたもの』であるが故に、 『自性』には、 『生が無い』が故に、 『薩婆若心』の為を除いて、 このような念を作さない、―― 『わたしは、 他心智の証を得た。』と。 是のように、 舎利弗! 『菩薩摩訶薩』は、 『般若波羅蜜』を行ずる時、 『他心神通智の証を得る』のである。 |
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是菩薩以宿命智證通。念一心乃至百心。念一日乃至百日。念一月乃至百月。念一歲乃至百歲。念一劫乃至百劫無數百劫無數千劫無數百千劫。乃至無數百千萬億劫世。我是處如是姓如是名如是生如是食。如是久住如是壽限如是長壽如是受苦樂。我是中死生彼處。彼處死生是處。有相有因緣。亦不著是宿命神通。 |
是の菩薩は、宿命智の証、通を以って一心、乃至百心を念じ、一日、乃至百日を念じ、一月、乃至百月を念じ、一歳、乃至百歳を念じ、一劫、乃至百劫、無数百劫、無数千劫、無数百千劫、乃至無数百千万億劫世を、『我れは是の処に、是の如き姓、是の如き名、是の如き生、是の如き食、是の如き久住、是の如き寿限、是の如き長寿にして、是の如き苦楽を受けたり。我れは是の中に死して彼の処に生じ、彼の処に死して是の処に生ずる相有り、因縁有り。』と念ずるも、亦た是の宿命の神通にも著せず。 |
是の、 『菩薩』は、 『宿命智の証と通』とで、 『一心、乃至百心』を念じ、 『一日、乃至百日』を念じ、 『一月、乃至百月』を念じ、 『一歳、乃至百歳』を念じ、 『一劫、乃至百劫』、 『無数百劫、無数千劫、無数百千劫、乃至無数百千万億劫世』を、 『わたしは、 是の『処』に於いて、 是のような『姓』、 是のような『名』であり、 是のように『生』じ、 是のように『食』し、 是のように『久住』し、 是のような『寿限』であり、 是のような『長寿』であり、 是のような『苦楽』を受けた。 わたしは、 是の『中』に死んで、 彼の『処』に生まれ、 彼の『処』に死んで、 是の『処』に生まれるという、 『相』が有り、 『因縁』が有る。』と念ずるが、 亦た、 『是の宿命神通に著する』こともない。 |
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宿命神通事及己身皆不可得。自性空故。自性離故。自性無生故。不作是念。我有是宿命神通。除為薩婆若心。如是舍利弗。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。得宿命神通智證。 |
宿命の神通事、及び己が身は皆得べからずして、自性は空なるが故に、自性を離るるが故に、自性に生無きが故に、是の念を作さず、『我れに是の宿命の神通有り。薩婆若心たるを除く。』と。是の如く、舎利弗、菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行ずる時、宿命神通智の証を得るなり。 |
『宿命神通の事』、及び、 『己の身』は、 皆、 『得られない』のであり、 『自性』が、 『空である』が故に、 『自性』を、 『離れたもの』であるが故に、 『自性』には、 『生が無い』が故に、 『薩婆若心』の為を除いて、 このような念を作さない、―― 『わたしには、 是の宿命神通が有る。』と。 是のように、 舎利弗! 『菩薩摩訶薩』は、 『般若波羅蜜』を行ずる時、 『宿命神通智の証』を得るのである。 |
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是菩薩以天眼見眾生死時生時。端政醜陋惡處好處。若大若小。知眾生隨業因緣。是諸眾生身惡業成就口惡業成就意惡業成就。故謗毀聖人。受邪見因緣。故身壞命終墮惡道生地獄中。是諸眾生身善業成就口善業成就意善業成就。不謗毀聖人。受正見因緣故。命終入善道生天上。亦不著是天眼神通。 |
是の菩薩は天眼を以って、衆生の死時、生時、端政(たんじょう)、醜陋(しゅうる)、悪処、好処、若しは大なる、若しは小なるを見て、衆生の業の因縁に随うを、『是の諸の衆生は身の悪業成就し、口の悪業成就し、意の悪業成就するが故に、聖人を謗毀(ぼうき)して、邪見の因縁を受け、故に身壊して命終れば、悪道に堕ちて地獄の中に生ず。是の諸の衆生は、身の善業成就し、口の善業成就し、意の善業成就して、聖人を謗毀せず、正見の因縁を受くるが故に、命終りて善道に入り、天上に生ず。』と知るも、亦た是の天眼の神通にも著せず。 |
是の、 『菩薩』は、 『天眼』で、 『衆生』の、 『死時、生時、端政(たんじょう、端正)、醜陋(しゅうる、醜悪)』、 『悪処、好処、大か、小か』を見て、 『衆生』が、 『業の因縁』に随うのを、 『是の、 諸の衆生は、 『身の悪業』が成就し、 『口の悪業』が成就し、 『意の悪業』が成就するが故に、 『聖人』を謗(そし)り、 『邪見の因縁』を受けて、 故に、 『身』が壊(やぶ)れて、 『命』が終ると、 『悪道』に堕ちて、 『地獄』の中に生まれる。 是の、 諸の衆生は、 『身の善業』が成就し、 『口の善業』が成就し、 『意の善業』が成就するが故に、 『聖人』を謗らず、 『正見の因縁』を受けて、 故に、 『命』が終ると、 『善道』に入って、 『天上』に生まれる。』と知るが、 亦た、 『是の天眼神通に著する』こともない。 |
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天眼神通事及己身皆不可得。自性空故。自性離故。自性無生故。不作是念。我有是天眼神通。除為薩婆若心。如是舍利弗。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。得天眼神通智證。亦見十方如恒河沙等世界中眾生生死乃至生天上。四神通亦如是。 |
天眼の神通の事、及び己が身は皆得べからずして、自性は空なるが故に、自性を離るるが故に、自性に生無きが故に、是の念を作さず、『我れに是の天眼の神通有り。薩婆若心たるを除く。』と。是の如き、舎利弗、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずる時、天眼の神通の智、証を得て、亦た十方の恒河沙等の世界の中の衆生の生死、乃至天上に生ずるを見るなり。四神通も、亦た是の如し。 |
『天眼神通の事』及び、 『己の身』は、 皆、 『得られない』のであり、 『自性』が、 『空である』が故に、 『自性』を、 『離れたもの』であるが故に、 『自性』には、 『生が無い』が故に、 『薩婆若心』の為を除いて、 このような念を作さない、―― 『わたしには、 是の天眼神通が有る。』と。 是のように、 舎利弗! 『菩薩摩訶薩』は、 『般若波羅蜜』を行ずる時、 『天眼神通智の証』を得て、 亦た、 『十方恒河沙等ほどの世界』の中の、 『衆生』の、 『生死』を、乃ち、 『天上に生まれる』ことに至るまで見るのであり、 『他の四神通』も、亦た、 是れと同じなのである。 |
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是菩薩摩訶薩漏盡神通雖得漏盡神通。不墮聲聞辟支佛地。乃至阿耨多羅三藐三菩提。亦不依異法。亦不著是漏盡神通。 |
是の菩薩摩訶薩の漏尽の神通は、漏尽の神通を得たりと雖も、声聞、辟支仏の地に堕ちず、乃ち阿耨多羅三藐三菩提に至るまで、亦た異法に依らず、亦た是の漏尽の神通に著せず。 |
是の、 『菩薩摩訶薩』の、 『漏尽神通』は、 『漏尽神通』を得ても、 『声聞、辟支仏の地』に堕ちず、 『阿耨多羅三藐三菩提』に至るまで、 亦た、 『異法』にも依らず、 亦た、 『是の漏尽神通に著する』こともない。 |
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漏盡神通事及己身皆不可得。自性空故。自性離故。自性無生故。不作是念。我得漏盡神通。除為薩婆若心。如是舍利弗。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。得漏盡神通智證。 |
漏尽神通の事、及び己が身は皆得べからず、自性は空なるが故に、自性を離るるが故に、自性に生無きが故に、是の念を作さず、『我れは漏尽の神通を得たり。薩婆若心たるを除く。』と。是の如き、舎利弗、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずる時、漏尽神通の智、証を得たるなり。 |
『漏尽神通の事』、及び、 『己の身』は、 皆、 『得られない』のであり、 『自性』が、 『空である』が故に、 『自性』を、 『離れたもの』であるが故に、 『自性』には、 『生が無い』が故に、 『薩婆若心』の為を除いて、 このような念を作さない、―― 『わたしは、 漏尽神通を得た。』と。 是のように、 舎利弗! 『菩薩摩訶薩』は、 『般若波羅蜜』を行ずる時、 『漏尽神通智の証』を得るのである。 |
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如是舍利弗。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。具足神通波羅蜜。具足神通波羅蜜已。增益阿耨多羅三藐三菩提 |
是の如き、舎利弗、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずる時、神通波羅蜜を具足し、神通波羅蜜を具足し已りて、阿耨多羅三藐三菩提を増益するなり。 |
是のように、 舎利弗! 『菩薩摩訶薩』は、 『般若波羅蜜』を行ずる時、 『神通波羅蜜』を具足するのであり、 『神通波羅蜜』を具足すれば、 『阿耨多羅三藐三菩提』に増益するのである。 |
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【論】釋曰。如大海中有種種寶珠。有能殺毒。有能遮鬼。有能破病。有能除寒熱飢渴。有能隨人所願皆能與者。如是等無量無數寶珠。大乘海中亦如是。有種種菩薩寶。有菩薩能破三惡道。有能開三善門。有能生五眼。有能修行神通波羅蜜。 |
釈して曰く、大海中に種種の宝珠の、有るは能く毒を殺(のぞ)き、有るは能く鬼を遮り、有るは能く病を破り、有るは能く寒熱、飢渇を除き、有るは能く人の所願に随いて皆能く与うる者、是れ等の無量無数の宝珠の如く、大乗の海中にも、亦た是の如く、種種の菩薩宝有り、有る菩薩は能く三悪道を破し、有るは能く三善門を開き、有るは能く五眼を生じ、有るは能く神通波羅蜜を修行す。 |
釈す、 譬えば、 『大海』の中には、 種種の、 『宝珠』が有り、 有るものは、『毒を除く』ことができ、 有るものは、『鬼を遮る』ことができ、 有るものは、『病を破る』ことができ、 有るものは、『寒熱、飢渇を除く』ことができ、 有るものは、『人の願いに随って、皆与える』ことのできるものである。 是れ等の、 『無量無数の宝珠』のように、 『大乗の大海』の中にも、亦た同じように、 種種の、 『菩薩の宝』が有り、 有る菩薩は、『三悪道を破る』ことができ、 有る菩薩は、『三善門を開く』ことができ、 有る菩薩は、『五眼を生ずる』ことができ、 有る菩薩は、『神通波羅蜜を修行する』ことができる。 |
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是故諸菩薩能為奇特希有之事。所謂取空相多地相少。則能隨意動地。一身能多。多身能一。虛空中常有微塵滿中。是人離欲福德因緣故。集諸微塵以為諸身令皆相似。 |
是の故に諸の菩薩は、能く奇特にして希有の事を為すなり。謂わゆる空相を多く取りて、地相少ければ則ち能く意の随(まま)に地を動かす。一身を能く多くし、多身を能く一にするは、虚空中に常に微塵有りて中を満たせば、是の人は、欲を離れたる福徳の因縁の故に、諸の微塵を集めて以って諸の身と為して、皆相似せしむ。 |
是の故に、 『諸の菩薩』は、 『奇特で希有の事を為す』ことができる。 謂わゆる、 『空相』を多く取り、 『地相』を少く取れば、 『意のままに、地を動かす』ことができる。 又、 『一身を、多身にする』ことができ、 『多身を、一身にする』ことができるのは、 『虚空』の中には、 常に、 『微塵』が有って、 『中を満たしている』ので、 是の人は、 『離欲の福徳の因縁』の故に、 『諸の微塵』を集めて、 『諸の身』と為し、 皆、 『相似せしめる』のである。 |
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有人言。諸非人恭敬。是離欲菩薩入其身中。隨其意所欲變化則皆能化。轉輪聖王未離欲。少有福德因緣故。諸鬼神尚為其使。何況離欲行無量心人。 |
有る人の言わく、『諸の非人、是の離欲の菩薩を恭敬して、其の身中に入り、其の意の欲する所の随に変化すれば、則ち皆能く化するなり。転輪聖王は、未だ欲を離れざるも、少しく福徳の因縁有るが故に、諸の鬼神は、尚お其の為に使わる。何に況んや、離欲にして無量心を行ずる人をや。 |
有る人は、 こう言っている、―― 『諸の、 『非人』は、 是の、 『離欲の菩薩』を恭敬するので、 『其の身中』に入って、 『其の意の欲する所』に随って、 『変化する』ので、 皆、 『変化する』ことができるのである。 転輪聖王は、 未だ、 『離欲』ではないが、 少しく、 『福徳の因縁』が有るが故に、 『諸の鬼神』が、 尚お、 『其の為』に、 『使われ』ている。 況して、 『離欲』の、 『無量心』を行ずる人ならば、 言うまでもない。 |
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復次是心相無有住處若內若外若大若小。以禪定力故。其心調柔疾遍諸身還復亦速。譬如千頭龍。眼耳各有二千。及有千口。心一時用。龍是麤身尚爾。何況菩薩。 |
復た次ぎに、是の心相は、住処の若しは内、若しは外、若しは大、若しは小なる有ること無し。禅定力を以っての故に、其の心調柔なれば、疾かに諸の身に遍くして、還るも復た亦た速かなり。譬えば千頭の龍の、眼耳は各二千有り、及び千の口有るも、心は一時に用うるが如し。龍は是れ麁身なるに尚お爾り、何に況んや菩薩をや。』と。 |
復た次ぎに、 是の、 『心相』は、 『住処』が無い、 『内』にも、 『外』にも、 『大』でも、 『小』でも無いのである。 其の、 『心』は、 『禅定力』を以っての故に、 『調柔』であるので、 疾かに、 『諸身』を遍くし、 『もとに還す』のも、 亦た、 速かである。 譬えば、 『千頭の龍』は、 各各の、 『頭』に、 『眼耳が、二千有り』、及び、 『口が、千有り』ながら、 『心』が、 『一時に用いる』のと同じである。 『龍』のような、 『麁身』ですら、 尚お、 このようである。 況して、 『菩薩』は言うまでもない。』と。 |
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有人言。坐禪人事所有力勢不可思議故。一身為無量身。無量身為一身。石壁無礙者取石壁虛空相。微塵開闢如撅入土。 |
有る人の言わく、『坐禅人の事は、所有の力勢の不可思議なるが故に、一身を無量の身と為し、無量の身を一身と為す。石の壁の無礙なるは、石の壁の虚空相を取れば、微塵開闢(かいびゃく)して、橛(けつ)を土に入るるが如し。 |
有る人は、 こう言っている、―― 『坐禅人の事は、 其の『力勢』が、 『不可思議』であるが故に、 『一身を、無量の身にする』ことができ、 『無量の身を、一身にする』ことができる。 『石の壁』が、 『無礙』となるのも、 『石の壁』に、 『虚空相』を取るので、 『微塵』が、 『開け』て、 『橛(くい)を土に入れる』ようになるのである。 |
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履水者取地相多故履水如地。取水相多故入地如水。取火相多故身出煙火。捫摸日月者。神通不可思議力故。令手及日月入火定故。月不能令冷。入水定故日不能令熱。 |
水を履むとは、地相を多く取るが故に水を履むこと地の如く、水相を多く取るが故に地に入ること水の如し。火相を多く取るが故に身より煙火を出すなり。日月を捫摸(もんも、つかむ)すとは、神通の不可思議の力の故に、手をして日月に及ぼさしむ。火定に入るが故に、月は冷ややかならしむる能わず、水定に入るが故に、日は熱からしむる能わず。』と。 |
『水を履む』のも、 『地相を多く取る』が故に、 『水を、地のように履む』ことができ、 『水相を多く取る』が故に、 『地に、水のように入る』ことができ、 『火相を多く取る』が故に、 『身より、煙火を出す』のである。 『日月をつかむ』とは、 『神通』は、 『不可思議の力』であるが故に、 『手を、日月に及ぼさせる』ことができ、 『火定』に入るが故に、 『月を、冷たくさせず』、 『水定』に入るが故に、 『日を、熱くさせない』のである。 |
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問曰。是神通力乃至四禪中。此何以言但至梵世身得自在。 |
問うて曰く、是の神通力は、乃ち四禅の中に至る。此には何を以ってか、但だ『梵世の身に至りて、自在を得。』と言える。 |
問い、 是の、 『神通力』は、 『四禅』の中に至るまで有ります。 此には、 何故、 但だ、『梵世(色界初禅天)の身に至るまで、自在を得る』と言うのですか? |
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答曰。此先已說。梵是初門故言梵世。則攝一切色界。又世人皆貴梵王以為世界主故。又是菩薩不欲於欲界散亂心現其自在。是故乃至離欲人中能有所作。如是神通相無量無數。為易解故少說譬喻。 |
答えて曰く、此れは先に已に説けり。梵は、是れ初門なるが故に、梵世と言えば、則ち一切の色界を摂す。又世人は皆梵王を貴びて、世界の主と為すを以っての故なり。又是の菩薩は、欲界の散乱心に於いて、其の自在を現すことを欲せず。是の故に乃ち離欲人の中に至るまで、能く作す所有り。是の如き神通の相は無量無数なるも、解し易からんが為の故に少しく譬喩を説く。 |
答え、 此れは、 先に、已に説いた。 『梵』は、 『色界の初門』であるが故に、 『梵世』と言えば、 『一切の色界』を摂する。 又、 『世人』は、 皆、 『梵王』を貴び、 『世界の主である。』とするからである。 又、 『是の菩薩』は、 『欲界の散乱心』の中で、 其の、 『自在を現そう。』とは思わない。 是の故に、 『離欲人(初禅)』の中に至っても、 其の、 『作す所が有る』のであるが、 是のような、 『神通の相』は、 『無量、無数』であり、 『解し易さ』の為の故に、 少しばかり、 『譬喩』を説いたのである。 |
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諸外道於此神通有二事錯。一者起吾我心。我能起此事而生憍慢。二者著是神通。譬如貪人著寶。以是故外道神通不及聖人神通。 |
諸の外道は、此の神通に於いて、二事の錯有り。一には吾我心を起し、我れは能く此の事を起すとして、憍慢を生ず。二には是の神通に著して、譬えば貪人の宝に著するが如し。是を以っての故に、外道の神通は、聖人の神通に及ばず。 |
『諸の外道』は、 『此の神通』に、 『二種の錯誤』が有る。 一には、 『吾我心』を起して、 『わたしは、 此の事を起すことができる。』とし、 『憍慢』を生ずる。 二には、 『是の神通』に著して、 譬えば、 『貪人が、宝に著する』ようである。 是の故に、 『外道の神通』は、 『聖人の神通』に及ばない。 |
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菩薩於是神通力。知一切法自性不生故不著。但念一切種智。為度眾生故。餘五神通亦如是。如其法分別先說其相後皆說空。六神通餘義如讚菩薩品中五神通義說。以是六神通廣利益眾生。故說具足得。如是神通增益阿耨多羅三藐三菩提 |
菩薩は、是の神通力に於いて、一切法の自性は不生なることを知るが故に著せず、但だ一切種智のみを念ずるも、衆生を度せんが為の故なり。余の五神通も亦た是の如く、其の法を分別するに、先に其の相を説きて、後に皆空なりと説くが如し。六神通の余の義は、讃菩薩品中の五神通の義に説けるが如し。是の六神通を以って、広く衆生を利益するが故に、具足して得と説く。是の如き神通は、阿耨多羅三藐三菩提を増益す。 |
『菩薩』は、 『是の神通力』について、 このように知っている、―― 『一切の法は、 自性が生じない。』と。 故に、 『著する』ことはなく、 但だ、 『一切種智(薩婆若)』のみを念ずるが、 『衆生を度す』為である。 『余の五神通』も、 亦た、是のように、 『其の法』を、 分別して、 先に、『其の相を説く』が、 後には、皆『空であると説く』のである。 『六神通』の、 『余の義』は、 『讃菩薩品』中の、 『五神通の義』に説いたとおりである。 『是の六神通』は、 広く、 『衆生を利益する』ものであるが故に、 『具足して得る』と説き、 是のような、 『神通』は、 『阿耨多羅三藐三菩提を増益する』ものである。
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