【經】舍利弗白佛言。世尊。云何菩薩摩訶薩慧眼淨。佛告舍利弗。慧眼菩薩不作是念。有法若有為若無為若世間若出世間若有漏若無漏。是慧眼菩薩無法不見無法不聞無法不知無法不識。舍利弗。是為菩薩摩訶薩慧眼淨 |
舎利弗の仏に白して言さく、『世尊、云何が、菩薩摩訶薩の慧眼の浄なる』、と。仏の舎利弗に告げたまわく、『慧眼の菩薩は、是の念を作さず、有る法は、若しは有為、若しは無為、若しは世間、若しは出世間、若しは有漏、若しは無漏なり、と。是の慧眼の菩薩には、法の見ざる無く、法の聞かざる無く、法の知らざる無く、法の識らざる無し。舎利弗、是れを菩薩摩訶薩の慧眼の浄と為す』、と。 |
『舎利弗』が、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
『菩薩摩訶薩の慧眼』が、
『浄である!』とは、
『何をいうのですか?』、と。
『仏』は、
『舎利弗』に、こう告げられた、――
『慧眼の菩薩』は、
有る、
『法』が、
『有為であるとか、無為であるとか!』、
『世間であるとか、出世間であるとか!』、
『有漏であるとか、無漏であるとか!』、
是の、
『念』を、
『作さないのである!』。
是の、
『慧眼の菩薩』には、
『見ることのない!』、
『法』は、
『無く!』、
『聞くことのない!』、
『法』は、
『無く!』、
『知ることのない!』、
『法』は、
『無く!』、
『識ることのない!』、
『法』は、
『無い!』。
舎利弗!
是れが、
『菩薩摩訶薩の慧眼』が、
『浄であるということである!』、と。
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【論】釋曰。肉眼不能見障外事。又不能遠見。是故求天眼。天眼雖復能見。亦是虛誑見一異相。取男女相取樹木等諸物相。見眾物和合虛誑法。以是故求慧眼。慧眼中無如是過。 |
釈して曰く、肉眼は、障外の事を見る能わず、又遠くを見る能わざれば、是の故に天眼を求む。天眼は、復た能く見ると雖も、亦た是れ虚誑にして、一異の相を見て、男女の相を取り、樹木等の諸物の相を取り、衆物を、和合虚誑の法なりと見れば、是を以っての故に慧眼を求む。慧眼中には、是の如き過無ければなり。 |
釈す、
『肉眼』は、
『障外の事( something behind the obstacle )』を、
『見ることができず!』、
又、
『遠く!』を、
『見ることができない!』ので、
是の故に、
『天眼』を、
『求めるのである!』が、
『天眼』は、
『復た、見ることができる( be able to see more clearly )!』が、
是の、
『天眼も、虚誑であり!』、
『一相や、異相を見て!』、
『男女の相や、樹木等の諸物の相』を、
『取ったり!』、
『衆物』は、
『和合、虚誑の法である!』と、
『見る!』ので、
是の故に、
『慧眼』を、
『求めるのである!』。
『慧眼』中には、
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問曰。若爾者何等是慧眼相。 |
問うて曰く、若し爾らば、何等か、是れ慧眼の相なる。 |
問い、
若し、爾うならば、
何のようなものが、
『慧眼の相なのですか?』。
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答曰。有人言。八聖道中正見是慧眼相。能見五受眾實相。破諸顛倒故。 |
答えて曰く、有る人の言わく、『八聖道中の正見は、是れ慧眼の相なり。能く五受衆の実相を見て、諸の顛倒を破るが故なり』、と。 |
答え、
有る人は、こう言っている、――
『八聖道』中の、
『正見』が、
『慧眼の相である!』。
何故ならば、
『五受衆の実相を見て!』、
『諸の顛倒』を、
『破るからである!』、と。
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有人言。能緣涅槃慧名為慧眼。所緣不可破壞故。是智慧非虛妄。 |
有る人の言わく、『能く涅槃を縁ずる慧を名づけて、慧眼と名づく。所縁の破壊すべからざるが故に、是の智慧は虚妄に非ず』、と。 |
有る人は、こう言っている、――
『涅槃を縁じることのできる( being able to perceive the Nirvana )!』、
『慧』が、
『慧眼である!』。
『所縁( the Nirvana )が破壊されない!』が故に、
是の、
『智慧』は、
『虚妄でない!』、と。
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有人言。三解脫門相應慧是名慧眼。何以故。是慧能開涅槃門故。 |
有る人の言わく、『三解脱門相応の慧、是れを慧眼と名づく。何を以っての故に、是の慧は、能く涅槃の門を開くが故なり』、と。 |
有る人は、こう言っている、――
『三解脱門に相応する!』、
『智慧』が、
『慧眼である!』。
何故ならば、
是の、
『慧』は、
『涅槃の門を開くことができるからである!』、と。
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有人言。智慧現前能觀實際。了了深入通達悉知。是名慧眼。 |
有る人の言わく、『智慧現前して、能く実際を観、了了に深く入りて、通達し、悉くを知れば、是れを慧眼と名づく』、と。 |
有る人は、こう言っている、――
『智慧が現前して( the wisdom is manifested )!』、
『実際を観ることができ!』、
『了了に深入し( to understand very clearly and deeply )!』、
『通達して( to reach the end )!』、
『悉く知れば( to know allover )!』、
是れを、
『慧眼』と、
『称する!』、と。
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有人言。能通達法性直過無礙。有人言。定心知諸法相。如是名慧眼有人言。法空是名慧眼。 |
有る人の言わく、『能く法性に通達して、直ちに過ぎて無礙なり』、と。有る人の言わく、『定心もて、諸法の相を知れば、是の如きを慧眼と名づく』、と。有る人の言わく、『法空は、是れを慧眼と名づく』、と。 |
有る人は、こう言っている、――
『法性に通達しながら( reaching the dharma-nature )!』、
『直ちに過ぎて( to pass through quickly )!』、
『礙( any obstacle )』が、
『無い!』、と。
有る人は、こう言っている、――
『定心』に、
『諸法の相』を、
『知れば!』、
是のような、
『智慧』が、
『慧眼である!』。
有る人は、こう言っている、――
『法空』を、
『慧眼』と、
『称するのである!』、と。
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有人言。不可得空中亦無法空。是名慧眼。 |
有る人の言わく、『不可得空中に、亦た法空無ければ、是れを慧眼と名づく』、と。 |
有る人は、こう言っている、――
『不可得空』中には、
『法空』も、
『無いのであるから!』、
是の、
『不可得空』が、
『慧眼である!』、と。
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有人言。十八空皆是慧眼有人言。癡慧非一非異。世間法不異出世間。出世間法不異世間。世間法即是出世間。出世間法即是世間。所以者何。異不可得故。諸觀滅諸心行轉還無所去。滅一切語言世間法相。如涅槃不異。如是智慧是名慧眼。 |
有る人の言わく、『十八空は、皆是れ慧眼なり』、と。有る人の言わく、『癡と慧とは、一に非ず、異に非ず。世間法は、出世間に異ならず。出世間法は世間に異ならず。世間法は即ち是れ出世間、出世間法は即ち是れ世間なり。所以は何んとなれば、異の不可得なるが故なり。諸の観滅し、諸の心行転ずるも、還って去る所無く、一切の語言を滅すれば、世間法の相は、涅槃の如きに異ならず。是の如き智慧、是れを慧眼と名づく』、と。 |
有る人は、こう言っている、――
有る人は、こう言っている、――
『癡と、慧と!』は、
『一でもなく!』、
『異でもなく!』、
『世間法は、出世間に異ならず!』、
『出世間法』は、
『世間に異ならず!』、
『世間法は、即ち出世間であり!』、
『出世間法』は、
『即ち、世間である!』。
何故ならば、
『異( the difference )』は、
『不可得だからである!』。
『諸観が滅すれば!』、
『諸の心行が転じても!』、
『還って、去る!』所が、
『無く!』、
『一切の語言が滅すれば!』、
『世間法の相』は、
『涅槃など!』と、
『異らない!』。
是のような、
『智慧』を、
『慧眼』と、
『称するのである!』、と。
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復次此中佛自說慧眼。菩薩一切法中。不念有為若無為若世間若出世間若有漏若無漏等。是名慧眼 |
復た次ぎに、此の中に、仏の自ら説きたまわく、『慧眼の菩薩は、一切法中に有為、若しは無為、若しは世間、若しは出世間、若しは有漏、若しは無漏等を念ぜず、是れを慧眼と名づく』、と。 |
復た次ぎに、
此の中に、
『仏』は、
自ら、こう説かれている、――
『慧眼の菩薩』は、
『一切法』中に、
『有為か無為か、世間か出世間か、有漏か無漏か!』等を、
『念じることはない!』。
是れを、
『慧眼』と、
『称するのである!』、と。
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若菩薩見有為世間有漏。即墮有見中。若見無為出世間無漏。即墮無見中。是有無二見捨以不戲論。慧行於中道。是名慧眼。得是慧眼無法不見無法不聞無法不知無法不識。所以者何。得是慧眼破邪曲。諸法無明諸法總相別相各皆如是。 |
若し、菩薩は有為、世間、有漏を見れば、即ち有見中に堕し、若し無為、出世間、無漏を見れば、即ち無見中に堕す。是の有無の二見を捨て、不戯論の慧を以って、中道を行ずれば、是れを慧眼と名づく。是の慧眼を得れば、法の見ざる無く、法の聞かざる無く、法の知らざる無く、法の識らざる無し。所以は何んとなれば、是の慧眼を得て、邪曲の諸法と、無明を破り、諸法の総相、別相も、各皆是の如ければなり。 |
若し、
『菩薩』が、
『有為、世間、有漏を見れば!』、
『有見』中に、
『堕ちることになり!』、
『無為、出世間、無漏を見れば!』、
『無見』中に、
『堕ちることになる!』。
是の、
『有、無の二見を捨て!』、
『不戯論の慧を用いて!』、
『中道』を、
『行けば!』、
是れを、
『慧眼』と、
『称する!』。
是の、
『慧眼を得れば!』、
『見ない法も、聞かない法も、知らない法も、識らない法法も!』、
『無い!』。
何故ならば、
是の、
『慧眼を得れば!』、
『邪曲の諸法と、無明と!』を、
『破ることになり!』、
是のように、
『諸法の総相や、別相も!』、
『皆、破ることになるからである!』。
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問曰。阿羅漢辟支佛亦得慧眼。何以不說無法不見無法不聞無法不知無法不識。 |
問うて曰く、阿羅漢、辟支仏も亦た慧眼を得るに、何を以ってか、『法の見ざる無く、法の聞かざる無く、法の知らざる無く、法の識らざる無し』、と説かざる。 |
問い、
『阿羅漢や、辟支仏も!』、
『亦た、慧眼を得ている!』のに、
何故、こう説かないのですか?――
『見ない法も、聞かない法も、知らない法も、識らない法法も!』、
『無い!』、と。
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答曰。慧眼有二種。一者總相。二者別相。聲聞辟支佛見諸法總相。所謂無常苦空等。佛以總相別相慧觀諸法。聲聞辟支佛雖有慧眼有量有限。 |
答えて曰く、慧眼には二種有り、一には総相、二には別相なり。声聞、辟支仏は諸法の総相、謂わゆる無常、苦、空等を見るも、仏は、総相、別相の慧を以って、諸法を観たもう。声聞、辟支仏にも慧眼有りと雖も、有量有限なり。 |
答え、
『慧眼』には、
『二種有り!』、
一には、
『総相の慧眼!』、
二には、
『別相の慧眼である!』。
『声聞、辟支仏』は、
『諸法の総相である!』、
謂わゆる、
『無常、苦、空』等を、
『見るだけである!』が、
『仏』は、
『総相、別相の慧眼を用いて!』、
『諸法』を、
『観られる!』。
『声聞、辟支仏』にも、
『慧眼は有る!』が、
『量も、限も!』、
『有るのである!』。
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復次聲聞辟支佛慧眼雖見諸法實相。因緣少故慧眼亦少。不能遍照法性。譬如燈油炷雖淨小故不能廣照。諸佛慧眼照諸法實性盡其邊底。以是故無法不見無法不聞無法不知無法不識。譬如劫盡火燒三千世界明無不照。 |
復た次ぎに、声聞、辟支仏の慧眼は、諸法の実相を見ると雖も、因縁少きが故に慧眼も亦た少く、遍く法性を照らす能わず。譬えば灯の油炷浄なりと雖も、小なるが故に広く照らす能わざるが如し。諸仏の慧眼は、諸法の実相を照らして、其の辺底を尽せば、是を以っての故に法の見ざる無く、法の聞かざる無く、法の知らざる無く、法の識らざる無きこと、譬えば劫尽の火の、三千大千世界を焼きて、明の照らさざる無きが如し。 |
復た次ぎに、
『声聞、辟支仏の慧眼』は、
『諸法の実相を見たとしても!』、
『因縁が少い!』が故に、
『慧眼』も、
『少いのであり!』、
『遍く!』、
『法性』を、
『照らすことができない!』ので、
譬えば、
『灯の油炷が浄であっても!』、
『小さい!』が故に、
『広く照らすことができないようなものである!』。
『諸仏の慧眼』は、
『諸法の実相を照らして!』、
其の、
『辺底』を、
『尽す!』ので、
是の故に、
『見ない法も、聞かない法も、知らない法も、識らない法も!』、
『無いのであり!』、
譬えば、
『劫尽の火』が、
『三千大千世界を焼けば!』、
『明の照らさない!』所が、
『無いようなものである!』。
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油炷(ゆちゅ):油灯の灯心( wick of an oil lamp )。 |
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復次若聲聞辟支佛慧眼無法不知者。與一切智人有何等異。菩薩世世集福德智慧苦行何所施用。 |
復た次ぎに、若し声聞、辟支仏の法に、法の知らざる無ければ、一切智人と、何等かの異有るや。菩薩は世世に福徳の智慧を集め、苦行するに、何所んぞ施を用いんや。 |
復た次ぎに、
若し、
『声聞、辟支仏の慧眼』に、
『知らない法』が、
『無ければ!』、
『一切智人』と、
『何のような異』が、
『有るのか?』。
『菩薩』は、
世世に、
『福徳の智慧を集め!』、
『布施の苦行をした!』のに、
何所に、
『施の功徳』を、
『用いるのか?』。
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問曰。佛用佛眼無法不知非是慧眼。今云何言慧眼無法不知。 |
問うて曰く、仏の仏眼を用いて法の知らざる無きは、是れ慧眼なるに非ず。今、云何が、『慧眼には、法の知らざる無し』、と言う。 |
問い、
『仏』は、
『仏眼を用いて!』、
『知らない法』が、
『無いのであり!』、
是れは、
『慧眼ではない!』。
今何故、こう言うのですか?――
『慧眼』には、
『知らない法』が、
『無い!』と。
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答曰。慧眼成佛時變名佛眼。無明等諸煩惱及習滅故。一切法中皆悉明了。如佛眼中說無法不見聞知識。以是故肉眼天眼慧眼法眼。成佛時失其本名但名佛眼。 |
答えて曰く、慧眼は仏と成る時、変じて仏眼と名づけ、無明等の諸煩悩、及び習の滅するが故に一切法中に皆悉く明了なり。仏眼中に、『法の、見聞、知識せざる無し』、と説けるが如し。是を以っての故に、肉眼、慧眼、法眼は、仏と成る時、其の本の名を失い、但だ仏眼と名づく。 |
答え、
『慧眼』は、
『仏と成る!』時、
『名を変じて!』、
『仏眼となり!』、
『無明等の諸煩悩、及び習が滅する!』が故に、
『一切法』中に、
『皆悉く、明了となる!』のは、
例えば、
『仏眼』中に、こう説く通りである、――
『見、聞、知、識しない法』は、
『無い!』、と。
是の故に、
『肉眼、天眼、慧眼、法眼』は、
『仏と成る!』時、
其の、
『本の名』を、
『失って!』、
但だ、
『仏眼』と、
『称されるのである!』。
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譬如閻浮提四大河入大海中則失其本名。何以故。肉眼諸煩惱有漏業生故虛誑不實。唯佛眼無誑法。 |
譬えば、閻浮提の四大河の大海中に入れば、則ち其の本の名を失うが如し。何を以っての故に、肉眼は、諸煩悩と有漏業より生ずるが故に、虚誑にして不実なるも、唯だ仏眼のみ、無誑の法なればなり。 |
譬えば、
『閻浮提の四大河』が、
『大海中に入れば!』、
其の、
『本の名』を、
『失うようなものである!』。
何故ならば、
『肉眼』は、
『諸煩悩と、有漏業より生じる!』が故に、
『虚誑であり!』、
『不実である!』が、
唯だ、
『仏眼のみ!』が、
『虚誑の無い!』、
『法だからである!』。
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天眼亦從禪定因緣和合生故。虛誑不能如實見事。慧眼法眼煩惱習未盡故。不畢竟清淨故捨。佛眼中無有謬錯盡其邊極。以是故阿羅漢辟支佛慧眼。不能畢竟清淨。故不能無法不見。
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天眼も亦た禅定の因縁の和合より生ずるが故に、虚誑にして、如実に事を見る能わず。慧眼、法眼は煩悩の習の未だ尽きざるが故に、畢竟じて清浄ならざるが故に捨つるなり。仏眼中には、謬錯有ること無く、其の辺極を尽す。是を以っての故に、阿羅漢、辟支仏の慧眼は、畢竟じて清浄なる能わざるが故に、法の見ざる無き能わず。 |
『天眼』も、
『禅定の因縁の和合より、生じる!』が故に、
『虚誑であり!』、
『如実に、事を見ることができず!』、
『慧眼、法眼』は、
『煩悩の習が、未だ尽きない!』が故に、
『畢竟清浄でない!』が故に、
『捨てるのであり!』、
『仏眼』中には、
『謬錯が無く!』、
其の、
『事の辺極』を、
『尽す!』ので、
是の故に、
『阿羅漢、辟支仏』の、
『慧眼』は、
『畢竟清浄であることができず!』、
是の故に、
『見ない法』を、
『無くすこともできない!』。
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問曰。佛現得果報肉眼能見色是事云何。 |
問うて曰く、仏は現に果報の肉眼を得て、能く色を見る。是の事云何。 |
問い、
『仏』は、
『現に( really )!』、
『果報の肉眼を得て!』、
『色』を、
『見ることができるのである!』が、
是の、
『事( this fact )』は、
『何うですか?』。
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答曰。肉眼雖生眼識。而佛不隨其用不以為實。如聖自在神通中說。佛告阿難。所見好色中生厭惡心。眼見惡色生不惡厭心。或時見色不生污穢不污穢但生捨心。如是則肉眼無所施用。 |
答えて曰く、肉眼は、眼識を生ずと雖も、而も仏は、其の用に随わざれば、以って実と為したまわず。聖の自在神通中に、『仏の阿難に告げたまわく、所見の好色中に厭悪心を生じ、眼に悪色を見て、不悪厭心を生じ、或は時に色を見て、汚穢、不汚穢を生ぜずして、但だ捨心を生ずるのみ』、と説けるが如し。是の如きは、則ち肉眼に所施の用無きなり。 |
答え、
『肉眼は、眼識を生じる!』が、
『仏』は、
其の、
『眼識の用( the services of the eye's-faculty )に随わず!』、
其の、
『眼識』を、
『実とされない!』。
譬えば、
『聖自在神通』中に、こう説く通りである、――
『仏』は、
『阿難』に、こう告げられた、――
『所見の好色中にも!』、
『厭悪心』を、
『生じ!』、
『眼に悪色を見ても!』、
『不厭悪心』を、
『生じ!』、
或は時に、
『色を見ても!』、
『汚穢や、不汚穢の心』を、
『生じず!』、
但だ、
『捨心』を、
『生じるだけである!』、と。
是のようであれば、
『肉眼』には、
『所施の用( offered services )』が、
『無いのである!』。
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聖自在神通:聖如意とも云う。 |
参考:『大智度論巻5』:『如意天眼天耳他心智自識宿命。云何如意。如意有三種。能到轉變聖如意。能到有四種。一者身能飛行如鳥無礙。二者移遠令近不往而到。三者此沒彼出。四者一念能至。轉變者。大能作小小能作大一能作多多能作一。種種諸物皆能轉變。外道輩轉變極久不過七日。諸佛及弟子轉變自在無有久近。聖如意者。外六塵中不可愛不淨物。能觀令淨。可愛淨物。能觀令不淨。是聖如意法唯佛獨有。』
参考:『出曜経巻25』:『若眼見非邪 黠人求方便 智者善壽世 亦不為眾惡 若眼見非邪者。夫人習行專精為惡。若眼見色不起眼識。若好若醜意悉平等。設見好色不興染著。設見惡色亦不懷慼。是故說曰若眼見非邪。黠人求方便者。見彼眼色知為非真。為磨滅法遷轉不住。生者有盡常者亦滅。愚者翫習智者所嗤。是故說曰黠人求方便也。智者善壽世亦不為眾惡者。智人所施教權化非一。防惡於無形。養福於自然。執行不累於世。言教不損於形質。在世周旋。未幾彼壽見短如有恥。見長不自稱。在世訖其壽終不為惡行。是故說曰智者善壽世不為眾惡也』 |
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復次有人言。得聖道時五情清淨異本。 |
復た次ぎに、有る人の言わく、『聖道を得る時の五情は清浄にして、本と異なり。 |
復た次ぎに、
有る人は、こう言っている、――
『聖道を得た!』時、
『五情は、清浄となり!』、
『本とは!』、
『異なる!』、と。
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復次諸法畢竟空及諸法通達無礙。是二總為慧眼。
大智度論卷第三十九 |
復た次ぎに、諸法の畢竟空、及び諸法の通達無礙、是の二を総じて、慧眼と為す。
大智度論巻第三十九 |
復た次ぎに、
『諸法が畢竟空であること!』と、
『諸法に通達して無礙であること!』、
是の、
『二を総じて!』、
『慧眼というのである!』。
大智度論巻第三十九 |
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