巻第三十九之下

 

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菩薩の身、口、意業の不浄

菩薩の身、口、意の罪

身、口、意の麁業を除く

仏道を浄めて六波羅蜜を行う

六波羅蜜を行う時、能く壊る者が無い

般若波羅蜜中に住して智慧を具足す

菩薩摩訶薩の智慧

菩薩摩訶薩の肉眼

菩薩摩訶薩の天眼浄

菩薩摩訶薩の慧眼浄

 

 

 

 

 

菩薩の身、口、意業の不浄

【經】舍利弗白佛言。世尊。云何菩薩身業不淨口業不淨意業不淨

舎利弗の仏に白して言さく、『世尊、云何が菩薩の身業の不浄、口業の不浄、意業の不浄なる』と。

 『舎利弗』は、

   『仏』に、

     こう白して言った、――

     『世尊、!

        何を、

          『菩薩』の、

            『身業の不浄』、

            『口業の不浄』、

            『意業の不浄』というのですか?』、と。

【論】問曰。舍利弗智慧第一。何以故。不識身口意惡業。

問うて曰く、舎利弗は智慧第一なり。何を以っての故にか、身、口、意の悪業を識らざる。

 問い、

   『舎利弗』は、

     『智慧第一』である。

     何故、

       『身、口、意』の、

         『悪業を識らない』のか?

答曰。舍利弗。於聲聞法中則知。菩薩事異故不知。如說若菩薩生聲聞辟支佛心。是為菩薩破戒。以是故舍利弗疑。不知何者是菩薩罪非罪。

答えて曰く、舎利弗は、声聞法の中に於いては則ち知れども、菩薩の事は異なるが故に知らず。説の如く、若し菩薩は、声聞、辟支仏の心を生ぜば、是れを菩薩の破戒と為す。是を以っての故に、舎利弗は知らざるを疑えり、『何者か是れ菩薩の罪なる、罪に非ざる』と。

 答え、

   『舎利弗』は、

     『声聞法』ならば、

     則ち、

       『知っている』が、

     『菩薩の事』は、

       『異る』が故に、

       『知らない』。

     例えば、

       『経』には、

         こう説いている、――

         『若し、

           菩薩が、

             『声聞、辟支仏の心』を生ずれば、

             是れは、

               『菩薩の破戒』である』と。

     是の故に、

       『舎利弗』は、

         『知らない』のではないか?と、

         こう疑ったのである、――

         『何者が、

            『菩薩の罪』なのか?

            『菩薩の罪』でないのか?』と。

 

  参考:『摩訶般若波羅蜜巻6発趣品』:『云何菩薩戒清淨。若菩薩摩訶薩不念聲聞辟支佛心。及諸破戒障佛道法。是名戒清淨。

復次舍利弗。知身三不善道口四不善道意三不善道。是為身口意罪。此中佛答。若菩薩取身口意相。是則為菩薩身口意罪。如是等因緣故。舍利弗問

復た次ぎに、舎利弗は、身の三不善道、口の四不善道、意の三不善道は、是れを身、口、意の罪と為すことを知れば、此の中に、仏の答えたまわく、『若し菩薩は、身、口、意の相を取らば、是れ則ち菩薩の身、口、意の罪なり』と。是の如き等の因縁の故に、舎利弗は問えり。

 復た次ぎに、

   『舎利弗』は、

     『身の三不善道』、

     『口の四不善道』、

     『意の三不善道』は、

       『身、口、意の罪』だ、と知っている。

   『此の中』で、

     『仏』は、

       こう答えられた、――

       『若し、

          『菩薩』が、

            『身、口、意の相』を取れば、

            是れが、

              則ち、

              『身、口、意の罪』である』、と。

   是れ等の、

     『因縁』の故に、

       『舎利弗は問うた』のである。

 

  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻2往生品』:『舍利弗。以是故菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。身口意不淨不令妄起。舍利弗白佛言。世尊。云何菩薩身業不淨口業不淨意業不淨。佛告舍利弗。若菩薩摩訶薩作是念。是身是口是意。如是取相作緣。舍利弗。是名身口意不淨。舍利弗。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。不得身不得口不得意。舍利弗。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。若得身若得口若得意。用是得身口意故。能生慳心犯戒心瞋心懈心亂心愚心。當知是菩薩行六波羅蜜時。不能除身口意麤業。舍利弗白佛言。世尊。菩薩摩訶薩。云何除身口意麤業。佛告舍利弗。若菩薩摩訶薩不得身口意。如是菩薩摩訶薩。能除身口意麤業。

 

 

 

 

菩薩の身、口、意の罪

【經】佛告舍利弗。若菩薩摩訶薩作是念。是身是口是意如是取相作緣。舍利弗。是名菩薩身口意罪。舍利弗。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。不得身不得口不得意。舍利弗。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。若得身得口得意。用是得身口意故。能生慳心犯戒心瞋心懈怠心亂心癡心。當知是菩薩行六波羅蜜時。不能除身口意麤業

仏の舎利弗に告げたまわく、『若し菩薩摩訶薩は、是の念を『是れは身、是れは口、是れは意なり』と作して、是の如く相を取り、縁を作さば、舎利弗、是れを菩薩の身、口、意の罪と名づく。舎利弗、菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行ずる時、身を得ず、口を得ず、意を得ず。舎利弗、菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行ずる時、若し身を得、口を得、意を得れば、是の身、口、意を得たるを用っての故に、能く慳心、犯戒心、瞋心、懈怠心、乱心、癡心を生ず。当に知るべし、是の菩薩は六波羅蜜を行ずる時、身、口、意の麁業を除くこと能わず。

   『仏』は、

     『舎利弗』に、

     こう告げられた、――

      若し、

        『菩薩摩訶薩』が、

          『是れは身である』、

          『是れは口である』、

          『是れは意である』と、是の念を作して、

          是のように、

            『相』を取って、

            『縁』を作せば、

      舎利弗!

        是れを、

          『菩薩』の、

            『身、口、意の罪』という。

      舎利弗!

        『菩薩摩訶薩』は、

          『般若波羅蜜』を行う時、

            『身』を得ない、

            『口』を得ない、

            『意』を得ない。

      舎利弗!

        『菩薩摩訶薩』は、

          『般若波羅蜜』を行う時、

          若し、

            『身』を得、

            『口』を得、

            『意』を得たならば、

          是のように得た、

            『身、口、意』を用いて、

              『慳心、犯戒心、瞋心、懈怠心、乱心、癡心』を生ずる。

        これを知らなくてはならない、――

        是の、

          『菩薩摩訶薩』は、

            『般若波羅蜜』を行う時、

              『身、口、意』の、

                『麁業を除けない』のだと。

【論】釋曰。佛示舍利弗。法空中菩薩不見是三業。是為無罪。若見是三業是為罪。聲聞法中十不善道。是為罪業。摩訶衍中見有身口意所作是為罪。所以者何。有作有見。作者見者皆是虛誑故。

釈して曰く、仏の舎利弗に示したまわく、『法空の中に、菩薩は、是の三業を見ざれば、是れを罪無しと為す。若し是の三業を見れば、是れを罪と為す。声聞法の中の十不善道は、是れを罪業と為し、摩訶衍の中に、身、口、意の所作有りと見る、是れを罪と為す。所以は何んとなれば、作有り、見有るも、作者、見者は皆是れ虚誑なるが故なり』と。

 釈す、

   『仏』は、

     『舎利弗』に、

     こう示された、――

     『法空』の中では、

       『菩薩』が、

         是の、

           『三業』を見なければ、

           是れに、

             『罪』は無いが、

       若し、

         是の、

           『三業』を見れば、

           是れは、

             『罪』である。

     『声聞法』の中では、

       『十不善道』、

       是れが、

         『罪』であるが、

     『摩訶衍法』の中では、

       『身、口、意』の、

         『所作が有る』と見る、

         是れが、

           『罪』である。

       何故ならば、

         『作』が有り、

         『見』が有っても、

           『作者』、

           『見者』は、

           皆、

             『虚妄』だからである。

麤人則麤罪細人則細罪。如離欲界欲時五欲五蓋為惡罪。初禪攝善覺觀為無罪。離初禪入二禪時覺觀為罪。二禪所攝義喜為無罪。乃至非有想非無想處亦如是。入諸法實相中。一切諸觀諸見諸法皆名為罪。

麁なる人は則ち麁なる罪、細なる人は則ち細なる罪なり。欲界の欲を離るる時の如きは、五欲、五蓋を罪悪と為し、初禅に、善の覚観を摂するを罪無しと為し、初禅を離れて二禅に入る時には、覚観を罪と為し、二禅に摂する所の義は、喜を罪無しと為し、乃ち非有想非無想処に至るまで、亦た是の如し。諸法の実相の中に入れば、一切の諸観、諸見、諸法は、皆名づけて罪と為す。

       『麁(粗雑)の人』には、

         『麁の罪』が有り、

       『細(繊細)の人』には、

         『細の罪』が有る。

       例えば、

         『欲界の欲』を離れる時には、

           『五欲(色、声、香、味、触)』、

           『五蓋(貪欲、瞋恚、睡眠、掉悔、疑法)』が、

             『悪罪』である。

         『初禅』では、

           『善の覚観』を摂しても、

             『無罪』だが、

         『初禅』を離れて、

         『二禅』に入る時には、

           『覚観』は、

             『罪』である。

         『二禅』に、

           『摂する所の義』には、

           『喜』は、

             『無罪』であるように、

       乃ち、

         『非有想非無想処』に至るまで、

         亦た、

           是のようであるが、

         『諸法の実相』の中に入れば、

         一切の、

           『諸観、諸見』は、

           皆、

             『罪』となる。

小乘人畏三惡道故。以十不善業為罪。大乘人以一切能生著心取相法與三解脫門相違者名為罪。以是事異故名為大乘。

小乗人は、三悪道を畏るるが故に、十不善業を以って罪と為し、大乗人は、一切の能く著心を生じて相を取る法を以って、三解脱門と相違すれば、名づけて罪と為す。是の事の異るを以って、名づけて大乗と為す。

       『小乗の人』は、

         『三悪道』を畏れるが故に、

           『十不善業』を以って、

           『罪』だとするが、

       『大乗の人』は、

       一切の、

         『著心』を生じて、

           『相を取る法』、

         『三解脱門』と、

           『相違する法』を、

           『罪』だとする。

       『是の事』が、

         『異る』ので、

         『大乗』というのである。

若見有是三業雖不起惡。亦不名牢固。不見是身口意是三業根本。是為牢固。是菩薩法空故不見是三事。用是三事起慳貪相犯戒相瞋恚相懈怠相散亂相愚癡相。因無故果亦無。如無樹則無蔭。若能如是觀者。則能除身口意麤業。

若し是の三業有るを見れば、悪を起さずと雖も、亦た牢固と名づけず、是の身、口、意、是の三業の根本を見ざれば、是れを牢固と為す。是の菩薩は、法空の故に、是の三事を見ず、是の三事を用って、慳貪相、犯戒相、瞋恚相、懈怠相、散乱相、愚癡相を起すも、因無きが故に果も亦た無し。樹無ければ則ち蔭無きが如し。若し能く是の如く観れば、則ち身、口、意の麁業を除く。

     若し、

       是の、

         『身、口、意』の、

           『三業は有る』と見れば、

           『悪』を起さなくても、

           亦た、

             『牢固』とはいわないが、

       是の、

         『身、口、意』、

       是の、

         『三業の根本』を見なければ、

         是れを、

           『牢固』というのである。

    是の、

      『菩薩』は、

        『法空』の故に、

        是の、

          『三事』を見ない。

        是の、

          『三事』を用って、

            『慳貪相、犯戒相、瞋恚相、懈怠相、散乱相、愚癡相』を起すが、

          『三事』が、

            『無い』に因るが故に、

              『果』も、

              亦た、

                『無い』のである。

          譬えば、

            『樹』が無ければ、

              『蔭』も、

              亦た、

                『無い』のと同じように。

   若し、

     是のように、

     『観る者』であれば、

       『身、口、意』の、

         『麁業を除く』ことができる。

問曰。先說罪業今何以故言麤業。

問うて曰く、先には罪業と説き、今は何を以っての故にか、麁業と言う。

 問い、

   先には、

     『罪業』と説いていたが、

   今は、

     何故、

       『麁業』と言うのか?

答曰。麤業罪業無異。罪即是麤不名為細。

答えて曰く、麁業と、罪業に異無し。罪は即ち是れ麁なれば、名づけて細と為さず。

 答え、

   『麁業』は、

     『罪業』と異らない。

   『罪』とは、

   即ち、

     『麁』であり、

     『細』といわないだけである。

復次聲聞人以身口不善業名為麤。意不善業名為細。瞋恚邪見等諸結使名為麤罪。愛慢等結使名為細罪。三惡覺所謂欲覺瞋覺惱覺名為麤。親里覺國土覺不死覺名為細。但善覺名為微細。於摩訶衍中盡皆為麤以是故此說麤罪

復た次ぎに、声聞人は、身、口の不善業を以って名づけて麁と為し、意の不善業を名づけて細と為す。瞋恚、邪見等の諸結使を名づけて麁罪と為し、愛、慢等の結使を名づけて細罪と為す。三悪覚、謂わゆる欲覚、瞋覚、悩覚を名づけて麁と為し、親里覚、国土覚、不死覚を名づけて細と為し、但だ善覚のみを名づけて微細と為す。摩訶衍中に於いては、尽く皆麁と為す。是を以っての故に、此に麁罪と説く。

 復た次ぎに、

   『声聞の人』は、

     『身、口』の、

       『不善業』を、

       『麁』といい、

     『意』の、

       『不善業』を、

       『細』という。

     『瞋恚、邪見』等の、

       『諸の結使』を、

       『麁罪』といい、

     『愛、慢』等の、

       『結使』を、

       『細罪』という。

     『三悪覚』、

     謂わゆる、

       『欲覚、瞋覚、悩覚』を、

       『麁』といい、

     『親里覚、国土覚、不死覚』を、

       『細』といい、

     但だ、

       『善覚』のみを、

       『微細』という。

   『摩訶衍』の中に於いては、

     是れ等は、

     皆尽く、

       『麁』であり、

       是の故に、

       此に、

         『麁罪』と説くのである。

 

  欲覚(よくかく):貪欲の念。

  瞋覚(しんかく):瞋恚の念。

  悩覚(のうかく):他を悩害せんとする念。

  親里覚(しんりかく):親里(親戚)に愛著する念。

  国土覚(こくどかく):国土に愛著する念。

  不死覚(ふしかく):不死に愛著する念。

  参考:『成実論巻14:悪覚品』:『惡覺品第一百八十二  具足善覺者。若人雖不睡眠而起不善覺。所謂欲覺瞋覺惱覺。若親里覺國土覺不死覺利他覺輕他覺等。寧當睡眠勿起此等諸不善覺。應當正念出等善覺。所謂出覺不瞋惱覺。八大人覺。欲覺者謂依欲生覺。於五欲中見有利樂。是名欲覺。為衰惱眾生是名瞋覺惱覺。行者不應念此三覺。所以者何。念此三覺則得重罪。又先已說貪等過患。以此過患故不應念。問曰。何故不說癡等覺耶。答曰。是三惡覺次第而生。餘煩惱不如是。行者或念五欲故生貪覺。不得所貪故生瞋恚。瞋成名惱。是故不說癡等。又癡所成果所謂貪恚。若從貪恚生不善業。此三覺名不善業因。如經中說。如有土封夜則煙出晝則火然。煙則是覺火名為業。親里覺者。由親里故起諸憶念。欲令親里得安隱樂。若念衰惱則生愁憂。若念與親里種種同事。名親里覺。行者不應憶念此覺。所以者何。本出家時。已捨親里。今依此覺則非所宜。又若出家人還念親里。則唐捨家屬空無所成。以愛親里故生貪著。貪著故守護。守護因緣鞭杖等業次第而起。是故不應生親里覺。又與親里和合則不能增長善法。又行者當念一切眾生生死流轉無非親里何故偏著。又生死中為親里故憂悲啼哭淚成大海。今復貪著則苦無窮已。又眾生以利益因緣便相親愛。無有決定。又念親里者是愚癡相。世間愚人未有自利。而欲利他。若念親里則少自利。以此等故行者不應起親里覺。國土覺者。行者生念。某處國土豐樂安隱。當往到彼可得安樂。又心輕躁欲遍遊觀。行者不應起如是覺。所以者何。一切國土皆有過惡。有國大寒有國大熱。有國多險有國多病。有國多盜賊。有如是等種種諸過故不應念。又輕躁者則失禪定。隨所樂處能增善法則名為好。何用遍觀諸國土耶。一切國土但可遠聞。到不必稱。以世間人多過言故。有遊諸國者受種種苦。又身是苦因。持此苦因隨所至處則受諸苦。又受苦樂皆由業因。雖復遠去亦無所益。是故不應起國土覺。不死覺者。行者作如是念。我徐當修道。先當讀誦修多羅比尼阿毘曇雜藏菩薩藏。廣綜外典多畜弟子。牽引善人供養四塔。勸化眾生令大布施。後當修道名不死覺。行者不應起如是念。所以者何。死時不定不可豫知。若營餘事中則命盡不得修道。後將死時心悔憂惱。我唐養此身空無所得。與畜生同死。如經中說。凡夫應二十種自折伏心。謂如是念。我但形服異俗空無所得。乃至當以不調至死。又智者不作所不應作。如法句中說。不應作不作。應作則常作。憶念安慧心諸漏則得盡。又經中說。未得四諦者方便為欲得。當勤加精進甚於救頭然。是故不應起不死覺。又不死覺是愚癡氣。何有智者知命無常如條上露而能保一念。又經中說。佛問諸比丘。汝等云何修習死想。有答佛言。我不保七歲。或言六歲。如是轉減乃至須臾。佛言。汝等皆是放逸修死想也。有一比丘偏袒白佛言。我於出息不保還入。入息不保還出。佛言。善哉善哉。汝真修死想。是故不應起不死覺。利他覺者。於非親里中欲令得利。若作是念。令某富貴安樂能行布施。某則不及。行者不應起如是覺。所以者何。不以念故便能令他得苦樂也。但自以此壞亂定心。問曰。欲令他利非慈心耶。答曰。行者求道應念第一義。利謂無常等。是中雖少有福。以能妨道利少過多。亂定心故。若以散心念利他人。則不能見貪著過患。故不應念。輕他覺者。行者若念此人種姓形色富貴伎能。及持戒利根禪定智慧等皆不如我。行者不應起如是覺。所以者何。一切萬物皆無常故。若上中下有何差別。又此人身髮毛爪齒皆名不淨。等無有異。又老病死等衰惱亦同。又一切眾生內外苦惱皆等無異。又凡夫富貴是罪因緣。又富貴不久還為貧賤。是故不應起輕他覺。又此憍慢是無明分。智者云何當起此覺

  参考:『成実論巻14:善覚品』:『善覺品第一百八十三  出覺者。心樂遠離。若離五欲。及色無色界。樂此遠離故名出覺。此遠離樂。無諸苦故。隨貪著有苦。無貪著則樂。於諸覺中二覺名樂。謂無瞋覺。無惱覺。所以者何。此二覺名安隱覺。如如來品中說。如來常有二覺現前。謂安隱覺。及遠離覺。安隱覺者。即是不瞋惱覺。遠離覺者。即是出覺。又念此三覺則福增長。亦能成心定。又心得清淨。又念此三覺能障諸纏。諸纏斷故速能證斷。又行者以樂遠離多集善法。故能速得解脫。八大人覺者。佛法中若少欲者能得利益。非多欲者。知足者遠離者精進者正憶者定心者智慧者無戲論者能得利益。非戲論者是名為八。少欲行者為修道故必欲所須。但不多求餘無用物。是名少欲。知足者。有人若以因緣若為持戒若令他人心得清淨。是故少取而心不以為足。若人少取心以為足。是名知足。有人雖取少物而求好者。是名少欲非知足也。若趣得少物是名知足。問曰。若取所須名少欲者。一切眾生皆名少欲。以其各有所須故。答曰。行者以不著心取但為用故。故不多取。不如世人為嚴飾名聞長取多物。問曰。行者何故少欲知足。答曰。於守護等中見有過患。又畜無用物是愚癡相。又出家人不應積聚與白衣同。以此過故少欲知足。又行者若不少欲知足。則貪心漸增。為財利故求不應求。為貪樂財利終無安隱。以深著故。又是人出家為遠離樂。以貪利故忘其所為。又亦不能捨諸煩惱。所以者何。外物尚不能捨。況內法耶。又見利養是衰惱因如雹害禾。是故常習少欲知足。又見施物難償。如負債不償。後受苦惱。又見利養是諸佛等善人所棄。如佛說。我不近利養。利養勿近我。又此行者善法充足。故捨利養。如佛說。諸天尚不能得出樂離樂寂滅樂真智樂如我所得。故捨利養。又如舍利弗說。我善修無相。持空三昧觀一切外萬物。視之如涕唾。又行者不見受欲有厭足者。如飲鹹水不能除渴。是故勤求智慧為足。又見多欲者。常發願求多得少。故常有苦。又見乞求者人所輕賤。不加敬仰如少欲者。又出家多求非其所應。人與不取則是所宜。是故應行少欲知足。遠離者。若於在家出家人中行身遠離。於諸煩惱行心遠離。是名遠離。問曰。行者何故遠離。答曰。諸出家人。雖未得道以遠離為樂。諸白衣等處在女色憒鬧之中。終無安樂。又若遠離則心易寂滅。如水不擾自然澄清。故行遠離。又此遠離法為恒沙等諸佛所讚。何以知之。佛見比丘近聚落宴坐。心則不悅。又見比丘空處睡臥佛則心喜。所以者何。近聚宴坐多諸因緣散亂定心。令應得不得應證不證。空處睡臥雖小懈怠。若起求定則散心能攝。攝心能得解脫。又因取相故起貪等煩惱。空處無色等相煩惱易斷。如火無薪則自然滅。又經中說。若比丘樂於眾住樂雜言說。不離眾故尚不能得愛緣解脫。何況能得不壞解脫。遠離行者。必能俱證。又如燈離風則能明照。行者如是。遠離行故能逮真智。精進者行者若行正勤。斷不善法修集善法。是中勤行故名精進。如是則能得佛法利。所以者何。以集善法日日增長。如憂缽羅缽頭摩等隨水增長。懈怠行者。猶如木杵從初成來日日減盡。又精進者。以得利故心常歡樂。懈怠行者。惡法覆心恒懷苦惱。又精進者。於念念中善法常增長無有減損。又深行精進得最勝處。謂諸佛道。如經中佛語阿難。深修精進能至佛道。又精進者定心易得。又鈍根精進尚於生死速得解脫。利根懈怠則不能得。又所有今世後世世間出世間利。皆因精進。一切世間所有衰惱皆因懈怠。如是見懈怠過精進利益。故念精進。正憶者常於身受心法修正安慧。問曰。念此四法得何等利。答曰。惡不善法不來入心。如善守備則惡人不入。又如瓶滿更不受水。此人如是善法充滿不容諸惡。又若修此正憶。則攝解脫分一切善法。如飲海水則飲眾流。以一切水在大海故。又修此正憶名住自在行處。煩惱魔民所不能壞。如鷹鵽喻。又此人心安住難動。如圓瓶入制。又此人不久當得利益。如比丘尼經中說。諸比丘尼問阿難言。大德。我等善修念處覺異於本。阿難言。善此法應爾定心者若習定心得微妙利。如經中說。修定心者能如實知。又以此人身得過人法。謂身出水火飛行自在等。又此人得樂。乃至諸天及梵王等所不能及。又此人名為所應為不應為者則不為也。又善修習定。則善法常增。又修習定者後心不悔。是人名為得出家果。亦名順佛教者。不如餘人空受供養。是人能報施福。餘人不能。又此定心法諸佛賢聖皆所親近。又能堪受一切善法。又若定能成則得聖道。若不能成則生淨天。謂色無色界。所以者何。以布施等不能得如是事。謂能究竟不造諸惡。如經中說。若小兒從生習慈能起惡心思惡事不。不也世尊。此皆是定力。又定心名真智慧因。真智慧能盡諸行。諸行盡故諸苦惱滅。又行者於一切世間出世間事。應念即辦不勞加功。餘人尚不能發心量其所得。故說定心能獲利益。智慧者智者心中不生煩惱。若生即滅。如一渧水墮熱鐵上。又智者心不起諸想。若起即滅。如條上露見日則晞。又若有智眼能觀佛法。如有目者日能為用。又智者名得佛法分。如所生子得父財分。又智慧者名曰有命。餘則名死。又智慧者名真道人。能知道故。又智者知佛法味。如舌根不壞能別五味。又智慧者。於佛法中心定不動。猶若石山風不能動。又智慧者名信。以得四信不隨他故。又得聖慧根名佛弟子。餘人名外凡夫。故說智者能得利益。無戲論者。若一異論名為戲論。如阿難問舍利弗。若六觸入離欲滅盡更有餘耶。舍利弗言。六觸入離欲盡滅已若有餘是不可論。而汝論耶。若無亦有亦無非有非無。問答亦爾。問曰。是事何故不可論耶。答曰。此問實我法若一若異。是故不答。我無決定。但五陰中假名字說。若以有無等答。即墮斷常。若以因緣說我。即非戲論。又若人見眾生空法空則無戲論。故說無戲論者得佛法利。是名具足善覺

 

 

 

 

身、口、意の麁業を除く

【經】舍利弗白佛言。世尊。菩薩摩訶薩云何除身口意麤業。佛告舍利弗。若菩薩摩訶薩不得身不得口不得意。如是菩薩摩訶薩能除身口意麤業。復次舍利弗。菩薩摩訶薩從初發意行十善道。不生聲聞心不生辟支佛心。如是菩薩摩訶薩能除身口意麤業

舎利弗の仏に白して言さく、『世尊、菩薩摩訶薩は、云何が身、口、意の麁業を除く』と。仏の舎利弗に告げたまわく、『若し菩薩摩訶薩は身を得ず、口を得ず、意を得ざれば、是の如き菩薩摩訶薩は、能く身、口、意の麁業を除く。復た次ぎに、舎利弗、菩薩摩訶薩は、初発意より十善道を行いて声聞心を生ぜず、辟支仏心を生ぜざれば、是の如き菩薩摩訶薩は、能く身、口、意の麁業を除く』と。

   『舎利弗』は、

     『仏』に、こう白した、――

     『世尊!

        『菩薩摩訶薩』は、

        何のように、

          『身、口、意』の、

            『麁業』を除くのですか?』と。

   『仏』は、

     『舎利弗』に、こう告げられた、――

     『若し、

        『菩薩摩訶薩』が、

          『身』を得ず、

          『口』を得ず、

          『意』を得なければ、

      是のような、

        『菩薩摩訶薩』は、

          『身、口、意』の、

            『麁業を除いた』のである。

      復た次ぎに、

      舎利弗!

        『菩薩摩訶薩』が、

          『初発意』より、

          『十善道』を行っていながら、

            『声聞心』を生じず、

            『辟支仏心』を生じなければ、

      是のような、

        『菩薩摩訶薩』は、

          『身、口、意』の、

            『麁業を除いた』のである。

【論】問曰。何等身口意細業與相違者為麤。

問うて曰く、何等かの身、口、意の細業と相違すれば、麁と為す。

 問い、

   何のような、

     『身、口、意』の、

       『細業』と相違するので、

       『麁』というのですか?

答曰。如前所說者是。

答えて曰く、前の所説の如きは、是れなり。

 答え、

   前に、

     『説いた所』などが、

       是れである。

復次凡夫人業於聲聞業為麤。聲聞業於大乘為麤。

復た次ぎに、凡夫人の業は、声聞の業に於いて麁と為し、声聞の業は、大乗に於いて麁と為す。

 復た次ぎに、

   『凡夫人の業』は、

     『声聞の業』に於いて、

     『麁』である。

   『声聞の業』は、

     『大乗』に於いて、

     『麁』である。

復次垢業為麤。非垢業為細。能生苦受因緣業為麤。不生苦受因緣業為細。有覺有觀業為麤無覺無觀業為細。

復た次ぎに、垢の業を麁と為し、垢に非ざる業を細と為す。能く苦受の因縁を生ずる業を麁と為し、苦受の因縁を生ぜざる業を細と為す。有覚有観の業を麁と為し、無覚無観の業を細と為す。

 復た次ぎに、

   『垢の業』は、

     『麁』であり、

   『垢でない業』は、

     『細』である。

   能く、

     『苦受の因縁』を、

       『生ずる業、が、

       『麁』であり、

     『苦受の因縁』を、

       『生じない業』が、

       『細』である。

   『有覚有観の業』が、

     『麁』であり、

   『無覚無観の業』が、

     『細』である。

復次見我乃至知者見者為麤。若不見我乃至知者見者。但見三業處五眾十二入十八界為細。

復た次ぎに、我、乃至知者、見者を見るを麁と為し、若し我、乃至知者、見者を見ずして、但だ三業の処の五衆、十二入、十八界を見るを細と為す。

 復た次ぎに、

   『我』、乃至、

   『知者、見者』を、

     『見る』のが、

     『麁』であり、

   若し、

     『我』、乃至、

     『知者、見者』を見ず、

   但だ、

     『三業の処』である、

     『五衆、十二入、十八界』のみを

       『見る』のが、

       『細』である。

復次有所見者名為麤。無所見者名為細。以是故佛告舍利弗。若菩薩不得身口意。是時則除三麤業。

復た次ぎに、見る所有る者を、名づけて麁と為し、見る所無き者を、名づけて細と為す。是を以っての故に、仏の舎利弗に告げたまわく、『若し菩薩は身、口、意を得ざれば、是の時則ち三麁業を除く』と。

 復た次ぎに、

   『見る所』が、

     『有る』のを、

     『麁』といい、

   『見る所』が、

     『無い』のを、

     『細』という。

   是の故に、

     『仏』は、

       『舎利弗』に、こう告げられた、――

       『若し、

          『菩薩』が、

            『身、口、意』を得なければ、

          是の時が、

          則ち、

            『三麁業を除いた』のである』と。

復次初發意住畢竟空中一切法不可得。而常行十善道。不起聲聞辟支佛心。以不取相心。一切諸善根。皆迴向阿耨多羅三藐三菩提。是名菩薩除身口意麤業罪名為清淨

復た次ぎに、初発意より、畢竟空の中、一切法の不可得に住して、而も常に十善道を行じて、声聞、辟支仏の心を起さず、相を取らざる心を以って、一切の諸善根を皆、阿耨多羅三藐三菩提に迴向す。是れを菩薩は身、口、意の麁業の罪を除くと名づけ、名づけて清浄と為す。

 復た次ぎに、

   『初発意』より、

     『畢竟空』の中、

     『一切法の不可得』に住して、

     常に、

       『十善道』を行い、

       『声聞、辟支仏の心』を起さず、

     『不取相の心』を以って、

     一切の、

       『諸の善根』を、

       皆、

         『阿耨多羅三藐三菩提』に迴向する。

   是れを、

     『菩薩』は、

       『身、口、意』の、

         『麁業の罪を除いた』と名づけ、

         『清浄』と名づける。

 

 

 

 

 

仏道を浄めて六波羅蜜を行う

【經】舍利弗。有菩薩摩訶薩。行般若波羅蜜淨佛道時。行檀波羅蜜尸羅波羅蜜羼提波羅蜜毘梨耶波羅蜜禪波羅蜜。是名菩薩摩訶薩除身口意麤業。

舎利弗、有る菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行じて、仏道を浄むる時、檀波羅蜜、尸羅波羅蜜、羼提波羅蜜、毘梨耶波羅蜜、禅波羅蜜を行ず。是れを菩薩摩訶薩は身、口、意の麁業を除くと名づく。

 舎利弗!

   有る、

     『菩薩摩訶薩』は、

       『般若波羅蜜』を行って、

       『仏道』を浄める時、

         『檀波羅蜜』、

         『尸羅波羅蜜』、

         『羼提波羅蜜』、

         『毘梨耶波羅蜜』、

         『禅波羅蜜』を行う。

   是れを、

     『菩薩摩訶薩』は、

       『身、口、意』の、

         『麁業を除いた』と名づける。

舍利弗白佛言。世尊。何等是菩薩摩訶薩佛道。

舎利弗の仏に白して言さく、『何等か、是れ菩薩摩訶薩の仏道なる』と。

 『舎利弗』は、

   『仏』に、こう白した、――

   『世尊!

      何を、

        『菩薩摩訶薩の仏道』というのですか?』と。

佛告舍利弗。佛道者。若菩薩摩訶薩不得身不得口不得意。不得檀波羅蜜。乃至不得般若波羅蜜。不得聲聞辟支佛。不得菩薩不得佛。舍利弗。是名菩薩摩訶薩佛道。所謂一切諸法不可得故

仏の舎利弗に告げたまわく、『仏道とは、若し菩薩摩訶薩は身を得ず、口を得ず、意を得ず、檀波羅蜜を得ず、乃至般若波羅蜜を得ず、声聞辟支仏を得ず、菩薩を得ず、仏を得ざれば、舎利弗、是れを菩薩摩訶薩の仏道と名づく。謂わゆる一切の諸法は不可得なるが故に』と。

 『仏』は、

   『舎利弗』に、こう告げられた、――

   『若し、

      『菩薩摩訶薩』が、

        『身』を得ず、

        『口』を得ず、

        『意』を得ず、

        『檀波羅蜜』を得ず、乃至、

        『般若波羅蜜』を得ず、

        『声聞、辟支仏』を得ず、

        『菩薩』を得ず、

        『仏』を得なければ、

    舎利弗!

      是れを、

        『菩薩摩訶薩の仏道』と名づける。

        謂わゆる、

          『一切の諸法』は、

            『不可得』であるが故に』と。

【論】釋曰。是菩薩依六波羅蜜總相淨佛道。

釈して曰く、是の菩薩は六波羅蜜の総相に依りて、仏道を浄む。

 釈す、

   是の、

     『菩薩』は、

       『六波羅蜜の総相』に依り、

       『仏道を浄める』のである。

問曰。舍利弗從佛聞除三惡三麤。即是淨佛道。今何以更問。

問うて曰く、舎利弗は仏より、三悪、三麁を除く、即ち是れ仏道を浄むるなりと聞けり。今何を以ってか、更に問う。

 問い、

   『舎利弗』は、

     『仏』より、

       『三悪(貪欲、瞋恚、愚癡)』、

       『三麁(身業、口業、意業)』を除くことが、

       即ち、

         『仏道』である、と聞いた。

     今は、

       何故、

         『更に、問う』のですか?

答曰。先說三業清淨相。今說一切法清淨相。先略說今說別相。先但不得三業。今不得六波羅蜜諸賢聖菩薩及佛。是名淨佛道。一切法皆不可得故。

答えて曰く、先には三業の清浄相を説き、今は一切法の清浄相を説く。先には略して説き、今は別相を説く。先には但だ三業を得ず、今は六波羅蜜、諸の賢聖、菩薩、及び仏を得ざる、是れを仏道を浄むと名づく。一切法は皆不可得なるが故に。

 答え、

   先には、

     『三業の清浄相』を説いたので、

     今は、

       『一切法の清浄相』を説くのである。

   先には、

     『略して説いた』ので、

     今は、

       『別相を説く』のである。

   先には、

     但だ、

       『三業』のみを、

         『得ない』のであったが、

     今は、

       『六波羅蜜』、

       『諸賢聖』、及び、

       『仏』を、

         『得ない』こと、

       是れを、

         『仏道を浄める』と名づける。

         『一切法』は、

         皆、

           『不可得』だからである。

不得身。乃至不得般若波羅蜜。是名法空。不得聲聞乃至佛。是名眾生空。菩薩住是二空中漸得一切不可得空。不可得空即是諸法實相。是不可得空義如先十八空中說

身を得ず、乃至般若波羅蜜を得ざる、是れを法空と名づけ、声聞、乃至仏を得ざる、是れを衆生空と名づく。菩薩は是の二空中に住して、漸く一切の不可得空を得、不可得空は即ち是れ諸法の実相なり。是の不可得空の義は、先に十八空中に説けるが如し。

   『身』を得ない、乃至、

   『般若波羅蜜』を、

     『得ない』こと、

     是れを、

       『法空』と名づけ、

   『声聞』、乃至、

   『仏』を、

     『得ない』こと、

     是れを、

       『衆生空』と名づける。

   『菩薩』は、

   是の、

     『二空』の中に住して、

     漸く、

       『一切不可得の空』を得る。

   『不可得空』とは、

   即ち、

   是れが、

     『諸法の実相』である。

   是の、

     『不可得空の義』は、

     先に、

       『十八空』の中に説いたとおりである。

  

 

 

 

 

六波羅蜜を行う時、能く壊る者が無い

【經】舍利弗。有菩薩摩訶薩。行六波羅蜜時無能壞者。

舎利弗、有る菩薩摩訶薩は六波羅蜜を行ずる時、能く壊る者無し。

   舎利弗!

     有る、

       『菩薩摩訶薩』は、

         『六波羅蜜』を行う時、

         能く、

           『壊る者』が無い。

 

  能壊:菩薩をして廃退せしむるを云う。

舍利弗白佛言。世尊。云何菩薩摩訶薩行六波羅蜜時無能壞者。

舎利弗の仏に白して言さく、『世尊、云何が菩薩は六波羅蜜を行ずる時、能く壊る者無き』と。

   『舎利弗』は、

     『仏』に、こう白した、――

     『世尊!

        菩薩が、

          『六波羅蜜を行う』時、

          能く、

            『壊る者が無い』、とは、

        何を、

          いうのですか?

佛告舍利弗。若菩薩摩訶薩行六波羅蜜時。不念有色乃至識。不念有眼乃至意。不念有色乃至法。不念有眼界乃至法界。不念有四念處乃至八聖道分。不念有檀波羅蜜乃至般若波羅蜜。不念有十力乃至十八不共法。不念有須陀洹果乃至阿羅漢果。不念有辟支佛乃至阿耨多羅三藐三菩提。舍利弗。菩薩摩訶薩如是行增益六波羅蜜無能壞者

仏の舎利弗に告げたまわく、『若し菩薩摩訶薩は六波羅蜜を行ずる時、色、乃至識有るを念ぜず、眼、乃至意有るを念ぜず、色、乃至法有るを念ぜず、眼界、乃至法界有るを念ぜず、四念処、乃至八聖道分有るを念ぜず、檀波羅蜜、乃至般若波羅蜜有るを念ぜず、十力、乃至十八不共法有るを念ぜず、須陀洹果、乃至阿羅漢果有るを念ぜず、辟支仏、乃至阿耨多羅三藐三菩提を念ぜず。舎利弗、菩薩摩訶薩は是の如く行じて六波羅蜜を増益すれば、能く壊る者無し』と。

   『仏』は、

     『舎利弗』に、こう告げられた、――

     『若し、

        『菩薩摩訶薩』が、

          『般若波羅蜜』を行う時、

            『色、乃至識』が有る、と念ぜず、

            『眼、乃至意』が有る、と念ぜず、

            『色、乃至法』が有る、と念ぜず、

            『眼界、乃至法界』が有る、と念ぜず、

            『四念処、乃至八聖道分』が有る、と念ぜず、

            『檀波羅蜜、乃至般若波羅蜜』が有る、と念ぜず、

            『十力、乃至十八不共法』が有る、と念ぜず、

            『須陀洹果、乃至阿羅漢果』が有る、と念ぜず、

            『辟支仏、乃至阿耨多羅三藐三菩提』が有る、と念じなければ、

      舎利弗!

        『菩薩摩訶薩』が、

        是のように、

          『六波羅蜜』を行って増益すれば、

          能く、

            『壊る者は無い』のである。

【論】釋曰。佛為舍利弗種種分別諸菩薩。次為說有菩薩發心時無有能壞者。舍利弗驚喜恭敬諸菩薩。是故問。菩薩結使未斷未於實相法作證。何因緣故不可破壞。

釈して曰く、仏は、舎利弗の為に種種に諸の菩薩を分別し、次いで為に有る菩薩は発心の時より、能く壊る者の有ること無きを説きたもうに、舎利弗は驚喜して、諸の菩薩を恭敬し、是の故に問わく、『菩薩の結使は未だ断ぜず、未だ実相の法に於いて証を作さざるに、何なる因縁の故に破壊すべからざる』と。

 釈す、

   『仏』は、

     『舎利弗』の為に、

     種種に、

       『諸の菩薩』を分別し、

     次いで、

       『有る菩薩は、

          『発心』の時より、

          能く、

            『壊る者』が無いのだ』と説かれた。

   『舎利弗』は、

     驚喜して、

       『諸の菩薩』を恭敬し、

       是の故に、

         こう問うたのである、――

         『菩薩は、

            『結使』を、

            未だ、

              『断っていない』ので、

              『諸法の実相』に於いても、

              未だ、

                『証』を作さない。

            何の、

              『因縁』の故に、

                『破壊できない』のですか?』と。

佛答。若菩薩不念有色。乃至不念有阿耨多羅三藐三菩提。得是法空故亦得眾生空。若是法空觀空者亦空。住是無礙般若波羅蜜中無有能壞者

仏の答えたまわく、『若し菩薩は色有りと念ぜず、乃至阿耨多羅三藐三菩提有りと念ぜざれば、是の法空を得たるが故に、亦た衆生空を得、若し是の法空の観空者も、亦た空にして、是の無礙の般若波羅蜜の中に住すれば、能く壊る者の有ること無し』と。

   『仏』は、

     こう答えられた、――

     『若し、

        菩薩が、

          『色が有る』、と念ぜず、乃至、

          『阿耨多羅三藐三菩提が有る』、と念じなければ、

        是の、

          『法空』を得るが故に、

          亦た、

            『衆生空』を得る。

        若し、

          是の、

            『法空』の、

              『観空者』も、

              亦た、

                『空(衆生空)』だ、という、

          是の、

            『無礙』の、

              『般若波羅蜜』の中に住すれば、

              能く、

                『壊る者が無い』のである』と。

  

 

 

 

 

般若波羅蜜中に住して智慧を具足す

【經】舍利弗。有菩薩摩訶薩。住般若波羅蜜中具足智慧。以是智慧常不墮惡道。不生弊惡人中。不作貧窮人。所受身體不為人天阿修羅所憎惡

舎利弗、有る菩薩摩訶薩は般若波羅蜜の中に住して、智慧を具足し、是の智慧を以って、常に悪道に堕ちず、弊悪人中に生ぜず、貧窮の人と作らず、受くる所の身体は、人天、阿修羅の憎悪する所と為らず。

   舎利弗!

     有る、

       『菩薩摩訶薩』は、

         『般若波羅蜜』の中に住して、

           『智慧』を具足し、

           是の、

             『智慧』を以って、

             常に、

               『悪道』に堕ちず、

               『弊悪人』の中に生まれず、

               『貧窮人』と作らず、

             受けた、

               『身体』は、

                 『人、天、阿修羅』の為に、

                   『憎悪されない』のである。

【論】釋曰。此菩薩先世來。愛樂智慧學一切經書。觀察思惟聽採諸法。自以智力推求一切法中實相。得是一切法實相故。為諸佛深心愛念。是無量智慧福德因緣故。身心具足常受富樂無諸不可

釈して曰く、此の菩薩は先世より来、智慧を愛楽して一切の経書を学び、観察し思惟して諸法を聴き採り、自ら智力を以って一切法中の実相を推求し、是の一切法の実相を得るが故に、諸仏の為に深心愛念せられ、是の無量の智慧の福徳の因縁の故に、身心具足して、常に富楽を受け、諸の不可なること無し。

 釈す、

   此の、

     『菩薩』は、

       先世より、

         『智慧』を愛楽して、

           『一切の経書』を学び、

         『観察、思惟』して、

           『諸法』を聴き採り、

         自ら、

           『智力』を以って、

           『一切法』の中に、

             『実相』を推求し、

             是の、

               『一切法』の、

                 『実相』を得たが故に、

                 『諸仏』を、

                 深心に、

                   『愛念』し、

             是の、

               『無量の智慧』の、

                 『福徳の因縁』の故に、

                 『身心』が具足して、

                 常に、

                   『富楽』を受け、

                   諸の、

                     『不可が無い』のである。

 

 

 

 

 

菩薩摩訶薩の智慧

【經】舍利弗白佛言。世尊。何等是菩薩摩訶薩智慧。佛告舍利弗。菩薩摩訶薩用是智慧成就見十方如恒河沙等諸佛。聽法見僧亦見嚴淨佛土。

舎利弗の仏に白して言さく、『世尊、何等か是れ菩薩摩訶薩の智慧なる』と。仏の舎利弗に告げたまわく、『菩薩摩訶薩は、是の智慧を用って、十方の恒河沙等の諸仏を見て、法を聞き、僧を見、亦た厳浄の仏土を見るを成就す。

   『舎利弗』は、

     『仏』に、こう白した、――

     『世尊!

        是の、

          『菩薩摩訶薩』の、

            『智慧』とは、

            何等をいうのですか?』と。

   『仏』は、

     『舎利弗』に、こう告げられた、――

     『菩薩摩訶薩は、

        是の、

          『智慧』を用って、

          十方の、

            恒河沙等ほどの、

              『諸仏』を見、

              『法』を聴き、

              『僧』を見て、

              亦た、

                『厳浄の仏土』を見ることを、

                『成就する』のである。

菩薩摩訶薩以是智慧不作佛想。不作菩薩想。不作聲聞辟支佛想。不作我想。不作佛國想。用是智慧行檀波羅蜜亦不得檀波羅蜜。乃至行般若波羅蜜亦不得般若波羅蜜。行四念處亦不得四念處。乃至行十八不共法亦不得十八不共法。舍利弗。是名菩薩摩訶薩智慧。用是智慧能具足一切法。亦不得一切法

菩薩摩訶薩は、是の智慧を以って、仏の想を作さず、菩薩の想を作さず、声聞、辟支仏の想を作さず、我の想を作さず、仏国の想を作さず。是の智慧を用って檀波羅蜜を行ずるも、亦た檀波羅蜜を得ず、乃至般若波羅蜜を行ずるも、亦た般若波羅蜜を得ず、四念処を行ずるも、亦た四念処を得ず、乃至十八不共法を行ずるも、亦た十八不共法を得ず。舎利弗、是れを菩薩摩訶薩の智慧と名づく。是の智慧を用って、能く一切法を具足するも、亦た一切法を得ず。

      『菩薩摩訶薩』は、

      是の、

        『智慧』を以って、

          『仏の想』を作さず、

          『菩薩の想』を作さず、

          『声聞、辟支仏の想』を作さず、

          『我の想』を作さず、

          『仏国の想』を作さない。

      是の、

        『智慧』を用って、

          『檀波羅蜜』を行いながら、

          亦た、

            『檀波羅蜜』を得ず、乃至、

          『般若波羅蜜』を行いながら、

          亦た、

            『般若波羅蜜』を得ず、

          『四念処』を行いながら、

          亦た、

            『四念処』を得ず、乃至、

          『十八不共法』を行いながら、

          亦た、

            『十八不共法』を得ない。

     舎利弗!

       是れを、

         『菩薩摩訶薩の智慧』と名づけ、

         是の、

           『智慧』を用って、

           能く、

             『一切法』を具足しながら、

             亦た、

               『一切法を得ない』のである。

【論】釋曰。是中佛說二種智慧。一者分別破壞諸法而不取相。二者不著心不取相見十方諸佛聽法。

釈して曰く、是の中に、仏は二種の智慧を説きたまえり。一には、諸法を分別し、破壊して相を取らず、二には、不著心もて相を取らずして、十方の諸仏を見、法を聴く。

 釈す、

   此の中に、

     『仏』は、

       『二種の智慧』を説かれた、――

       一は、

         『諸法』を、

           『分別』し、

           『破壊』して、

             『相を取らない』こと、

       二は、

         『不著心』で、

           『相』を取らずに、

           十方の、

              『諸仏』を見て、

              『法を聴く』ことである。

問曰。云何行檀波羅蜜而不得檀。

問うて曰く、云何が、檀波羅蜜を行じて、而も檀を得ざる。

 問い、

   何を、

      『檀波羅蜜』を行いながら、

      而も、

        『檀を得ない』というのですか?

答曰。不得檀中若一若異若實若空是檀從和合因緣生。於是檀中令眾生得富樂及勸助佛道。以是故行檀亦不得檀。不得義如上說。乃至十八不共法亦如是。是名菩薩智慧能具足一切法而不得諸法

答えて曰く、檀中に若しは一、若しは異、若しは実、若しは空を得ざるなり。是の檀は、和合の因縁より生ず。是の檀の中に於いて、衆生をして富楽を得しめて、及び仏道を勧助す。是を以っての故に、檀を行ずるも亦た檀を得ず。不得の義は、上に説くが如し。乃至十八不共法も亦た是の如し。是れを菩薩の智慧は、能く一切法を具足して、而も諸法を得ずと名づく。

 答え、

   『檀』の中に、

     『一』とか、

     『異』とか、

     『実』とか、

     『空』とかを、

       『得ない』ことである。

   是の、

     『檀』は、

       『和合の因縁』より、

       『生ずる』のであるが、

   是の、

     『檀』の中に於いて、

       『衆生』に、

         『富楽』を得させて、

     及び、

       『仏道』を、

         『勧助する』ので、

     是の故に、

       『檀』を行いながら、

       亦た、

         『檀を得ない』というのである。

   『不得の義』は、

   上に、

     説くとおりである。

     乃至、

       『十八不共法』も、

       亦た、

         是のとおりである。

   是れを、

     『菩薩の智慧』は、

     能く、

       『一切法』を具足しながら、

       而も、

         『諸法を得ない』と名づける。

 

 

 

 

 

菩薩摩訶薩の肉眼浄

【經】舍利弗。有菩薩摩訶薩。行般若波羅蜜時。淨於五眼肉眼天眼慧眼法眼佛眼。舍利弗白佛言。世尊。云何菩薩摩訶薩肉眼淨。

舎利弗、有る菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行ずる時、五眼を浄む。肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼なり。舎利弗の仏に白して言さく、『世尊、云何が、菩薩摩訶薩の肉眼浄なる』と。

   舎利弗!

     有る、

       『菩薩摩訶薩』は、

         『般若波羅蜜』を行う時、

           『五眼』の、

           『肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼』を浄める。

   『舎利弗』は、

     『仏』に、こう白した、――

     『世尊!

        何故、

          『菩薩摩訶薩』は、

            『肉眼が浄い』のですか?』と。

佛告舍利弗。有菩薩肉眼見百由旬。有菩薩肉眼見二百由旬。有菩薩肉眼見一閻浮提。有菩薩肉眼見二天下三天下四天下。有菩薩肉眼見小千世界。有菩薩肉眼見中千世界。有菩薩肉眼見三千大千世界。舍利弗。是為菩薩摩訶薩肉眼淨

仏の舎利弗に告げたまわく、『有る菩薩の肉眼は、百由旬を見、有る菩薩の肉眼は、二百由旬を見、有る菩薩の肉眼は、一閻浮提を見、有る菩薩の肉眼は、二天下、三天下、四天下を見、有る菩薩の肉眼は、小千世界を見、有る菩薩の肉眼は、中千世界を見、有る菩薩の肉眼は、三千大千世界を見る。舎利弗、是れを菩薩摩訶薩の肉眼浄と為す』と。

   『仏』は、

     『舎利弗』に、こう告げられた、――

     『有る、

        『菩薩の肉眼』は、

          『百由旬』を見る。

      有る、

        『菩薩の肉眼』は、

          『二百由旬』を見る。

      有る、

        『菩薩の肉眼』は、

          『一閻浮提』を見る。

      有る、

        『菩薩の肉眼』は、

          『二天下、三天下、四天下』を見る。

      有る、

        『菩薩の肉眼』は、

          『小千世界』を見る。

      有る、

        『菩薩の肉眼』は、

          『中千世界』を見る。

      有る、

        『菩薩の肉眼』は、

          『三千大千世界』を見る。

      舎利弗!

      是れを、

        『菩薩摩訶薩』の、

          『肉眼が浄い』という。

【論】問曰。佛何以不說行般若波羅蜜生五眼。而說淨五眼。

問うて曰く、仏は、何を以ってか、般若波羅蜜を行じて、五眼を生ずるを説かず、五眼を浄むるを説きたもう。

 問い、

   『仏』は、

   何故、

     『般若波羅蜜』を行って、

       『五眼を生ずる』と説かずに、

       『五眼を浄める』と説かれたのですか?

答曰。菩薩先有肉眼亦有四眼分。以諸罪結使覆故不清淨。如鏡性有照明垢故不見。若除垢則照明如本。菩薩行六波羅蜜。滅諸垢法故眼得清淨。肉眼業因緣故清淨。天眼禪定及業因緣故清淨。餘三眼修無量智慧福德因緣故清淨。最大菩薩肉眼最勝見三千大千世界。

答えて曰く、菩薩は先に肉眼有り、亦た四眼の分有り。諸罪の結使覆うを以っての故に清浄ならず。鏡性は照明有り、垢の故に見えざるが如し。若し垢を除けば則ち照明なること本の如し。菩薩は、六波羅蜜を行じて諸の垢法を滅するが故に眼に清浄を得。肉眼は業の因縁の故に清浄なり。天眼は、禅定、及び業の因縁の故に清浄なり。余の三眼は、無量の智慧を修むる福徳の因縁の故に清浄なり。最大の菩薩の肉眼は最勝にして、三千大千世界を見る。

 問い、

   『菩薩』には、

     先に、

       『肉眼』が有り、亦た、

       『四眼の分』が有るが、

     諸の、

       『罪の結使』が覆うが故に、

       『清浄』でない。

     譬えば、

       『鏡の性』は、

         『照明』であるが、

         『垢』の故に、

           『見えない』ように、

       若し、

         『垢』を除けば、

         本のように、

           『照明』となるのである。

   『菩薩』は、

     『六波羅蜜』を行って、

     諸の、

       『垢法』を除くが故に、

       『眼』に、

         『清浄を得る』が、

         『肉眼』は、

           『業の因縁』の故に、

             『清浄』であり、

         『天眼』は、

           『禅』、及び、

           『業の因縁』の故に、

             『清浄』であり、

         『余の三眼』は、

           『無量の智慧』を修める、

             『福徳の因縁』の故に、

             『清浄』である。

   『最大の菩薩』の、

     『肉眼』は、

       『最勝』であり、

       『三千大千世界』を見る。

問曰。若三千大千世界中。百億須彌山諸山鐵圍山阜樹木等。是事障礙。云何得遍見。若能得見何用天眼。若不能見。此中云何說見三千大千世界。

問うて曰く、若し三千大千世界中の百億の須弥山、諸山、鉄囲山、阜、樹木等は、是の事の障礙なり。云何が遍く見るを得る。若し能く見るを得ば、何んが天眼を用うる。若し見ること能わずんば、此の中に云何が、三千大千世界を見ると説く。

 問い、

   若し、

     『三千大千世界』の中の、

       『百億の須弥山、諸山、鉄囲山、阜(おか)、樹木』等は、

         『是の事』の、

           『障礙』です。

         何のように、

           『遍く見る』ことができるのですか?

   若し、

     『肉眼』で、

       『見られる』なら、

       何故、

         『天眼を用いる』のですか?

     若し、

       『見られない』なら、

       此の中に、

         何故、

           『三千大千世界を見る』と説くのですか?

答曰。不以障礙故見。若無障礙得見三千世界如觀掌無異。

答えて曰く、障礙を以っての故に見ず。若し障礙無くんば、三千世界を見るに、掌を観るが如きに異無きを得ん。

 答え、

   『障礙』を以っての故に、

     『見えない』のであるが、

   若し、

     『障礙』が無ければ、

       『三千世界を見る』ことができ、

       『掌を観る』のと、

         『異なり』が無い。

復次有人言。菩薩天眼有二種。一者從禪定力得。二者先世行業果報得。業報生天眼常在肉眼中。以是故三千世界所有之物不能為礙。因天眼開障肉眼得見。是故肉眼得名果報生天眼。常現在前不待攝心。

復た次ぎに、有る人の言わく、『菩薩の天眼に二種有り、一には禅定力より得、二には先世の行業の果報より得。業報の生ずる天眼は、常に肉眼中に在り。是を以っての故に、三千大千世界の有らゆる物は、礙を為す能わず。天眼に因り障を開き、肉眼もて見るを得。是の故に肉眼は、果報生の天眼と名づくるを得て、常に前に現在し、摂心を待たず』と。

 復た次ぎに、

   有る人は、

     こう言っている、――

     『菩薩には、

        『天眼』が二種有り、

          一は、『禅定の力』より得、

          二は、『先世の行業の果報』より得、

            『業報』の生ずる、

              『天眼』は、

              常に、

                『肉眼』の中に在る。

        是の故に、

          『三千世界』の有らゆる、

            『物』は、

            『障礙』と為ることができない。

          『天眼』に因って、

            『障礙』を開いて、

            『肉眼で見る』のであり、

          是の故に、

            『肉眼』は、

              『果報の生ずる天眼』と名づけられ、

              常に、

                『前』に現在するので、

                『心を摂する』のを待たないのである』と。

問曰。佛為世尊力皆周遍。何以但見一三千大千世界不能見多。

問うて曰く、仏は、世尊たれば、力は皆周遍す。何を以ってか、但だ一三千大千世界のみを見て、多く見ること能わざる。

 問い、

   『仏』は、

     『世尊』であり、

     『力』は、

     皆、

       『周遍』しています。

   何故、

     但だ、

       『一三千大千世界』のみを見て、

       『多く見られない』のですか?

答曰。若肉眼能過三千大千世界。復有所見者。何用天眼。以肉眼不能及故修學天眼。

答えて曰く、若し肉眼にして、能く三千大千世界を過ぎて、復た見る所有らば、何んが天眼を用いん。肉眼の及ぶ能わざるを以っての故に、天眼を修学す。

 答え、

   若し、

     『肉眼』で、

     能く、

       『三千大千世界』を過ぎて、

       まだ、

         『見る所が有る』なら、

         『天眼』を、

         何に、

           『用いる』というのか?

     『肉眼』が、

     能く、

       『及ばない』が故に、

       『天眼』を、

         『修学する』のである。

復次三千大千世界。劫初一時生劫盡一時滅。世界之外無央數由旬皆是虛空。空中常有風。肉眼與風相違。以相違故不能得過見異世界。或有菩薩住三千世界境上計其道數亦應見他方近世界。

復た次ぎに、三千大千世界は劫初に一時に生じ、劫尽に一時に滅す。世界の外の無央数由旬は、皆是れ虚空なり。空中には常に風有り。肉眼は風と相違す。相違を以っての故に過ぎて、異世界を見るを得ること能わず。或は有る菩薩は、三千世界の境上に住して其の道数を計れば、亦た応に他方の近き世界を見るべし。

 復た次ぎに、

   『三千大千世界』は、

     『劫初』に、

       『一時』に生じて、

     『劫尽』に、

       『一時』に滅する。

   『世界の外』の、

     『無央数由旬』は、

     皆、

       『虚空』であり、

       『虚空』中には、

       常に、

         『風』が有る。

   『肉眼』は、

     『風』と、

       『相違』があり、

       『相違』を以っての故に、

         『過ぎる』ことができず、

         『異世界を見る』ことができない。

   或は、

     有る、

       『菩薩』は、

         『三千世界』の、

           『境上に住する』ので、

           其の、

             『道数(道程)』を計れば、

             亦た、

               『他方の近世界を見る』はずである。

問曰。菩薩及佛。何以不集無量清淨福德令肉眼遠有所見。

問うて曰く、菩薩、及び仏は、何を以ってか、無量清浄の福徳を集めて、肉眼をして遠く見る所有らしめざる。

 問い、

   『菩薩』、及び、

   『仏』は、

     何故、

       『無量清浄の福徳』を集めて、

       『肉眼』に

         『遠くを見させよう』としないのですか?

答曰。是肉眼因緣虛誑不淨。天眼因緣清淨。若無天眼當修肉眼強令遠見。

答えて曰く、是の肉眼の因縁は、虚誑にして不浄なり、天眼の因縁は清浄なり。若し天眼無くんば、当に肉眼を修めて、強いて遠く見しむべし。

 答え、

   是の、

     『肉眼』は、

       『因縁』が、

         『虚誑』であり、

         『不浄』であるのに、

     『天眼』は、

       『因縁』が、

         『清浄』である。

   若し、

     『天眼』が無ければ、

     当然、

       『肉眼』を修め、

       強いて、

         『遠くを見させる』はずである。

復次如經中說極遠見三千世界。佛法不可思議經法甚多。或能遠見。但此中不說小遠見佛道。菩薩見二千中世界。不能種清淨業因緣故。小復不如者見小千世界。復不如者見四天下一須彌山一日月處。又見三天下二天下一天下千由旬乃至百由旬。是名最小肉眼淨。

復た次ぎに、『経』中に、『極めて遠くは、三千世界を見る』と説くが如きは、仏法は不可思議にして、経法は甚だ多く、或は能く遠く見る。但だ此の中には、小しく遠く見る仏道を説かざるのみ。菩薩の二千中世界を見るは、清浄の業の因縁を種うる能わざるが故に小なり。復た如かざる者は、小千世界を見、復た如かざる者は、四天下の一須弥山、一日月の処を見、又三天下、二天下、一天下、千由旬、乃至百由旬を見る。是れを最小の肉眼浄と名づく。

 復た次ぎに、

   『経』の中に、

     『極めて遠ければ、

        三千大千世界を見る』と説くのは、

     『仏法』は、

       『不可思議』であり、

       『経法が甚だ多い』ので、

       或は、

         『遠くを見る』こともできるが、

       但だ、

         『此の中』では、

           『小し遠く見る仏道』を説かない。

   『菩薩』が、

     『二千中千世界』を見るのは、

     『清浄業』の、

       『因縁を種えられない』が故に、

       『小』なのであり、

   復た、

     『及ばない者』は、

       『小千世界』を見、

   復た、

     『及ばない者』は、

       『四天下』の、

       『一須弥山、一日月の処』を見、

     又、

       『三天下、二天下、一天下』、

       『千由旬』、乃至、

       『百由旬』を見、

       是れを、

         『最小の肉眼浄』と名づける。

問曰。何以不說九十八十等由旬以為小。

問うて曰く、何を以ってか、九十八十等の由旬を説いて、以って小と為さざる。

 問い、

   何故、

     『九十、八十等の由旬』を説いて、

     『小』としないのですか?

答曰。轉輪聖王所見過於餘人。又人先世然燈等因緣故。得堅固眼根。能遠有所見。雖遠終不能見百由旬。以是故菩薩小者見百由旬。

答えて曰く、転輪聖王の見る所は、余人を過ぐ。又人は、先世の然灯等の因縁の故に、堅固の眼根を得て、能く遠く、見る所有り。遠しと雖も、終に百由旬を見る能わず。是を以っての故に、菩薩の小なる者は、百由旬を見る。

 答え、

   『転輪聖王』の、

     『見る所』は、

     『余人』に過ぎる。

   又、

     『人』は、

       先世の、

         『灯を燃やす』等の因縁の故に、

         『堅固な眼根』を得れば、

         能く、

           『遠くを見る』ことができるが、

           『遠い』とはいえ、

           終に、

             『百由旬を見る』ことはできない。

   是の故に、

     『菩薩』は、

       『小』であっても、

       『百由旬を見る』のである。

問曰。日月在上去地四萬二千由旬人皆能見。何以不能見百由旬。見百由旬何足稱。

問うて曰く、日月は上に在りて、地を去ること四万二千由旬なるも、人は皆能く見る。何を以ってか、百由旬を見ること能わず。百由旬を見て、何んが称するに足る。

 問い、

   『日、月』は、

     『上』に在り、

     『地』を去ること、

       『四万二千由旬』なのに、

       『人』は、

       皆、

         『見る』ことができます。

   何故、

     『百由旬』が、

       『見られない』のですか?

     『百由旬を見る』のが、

     何故、

       『称讃するに足る』のですか?

答曰。日月雖遠自有光明。還照其形人得見之。餘色不然。又日月遠故雖見而顛倒。所以者何。日月方圓五百由旬。而今所見不過如扇。大而見小顛倒非實。菩薩肉眼則不然。

答えて曰く、日月は遠しと雖も、自ら光明有り、還って其の形を照らし、人は之を見ることを得。余の色は然らず。又日月は遠きが故に、見ると雖も顛倒なり。所以は何んとなれば、日月は方円五百由旬にして、而も今見る所は、扇の如くなるに過ぎず。大なるを而も小と見るは、顛倒にして実に非ず。菩薩の肉眼は則ち然らず。

 答え、

   『日、月』は、

     『遠い』とはいえ、

     自ら、

       『光明』が有り、

       還って、

         『其の形』を照らすので、

       『人』は、

         『之を見る』ことができるが、

   『余の色』は、

     そうでない。

   又、

     『日、月』は、

       『遠い』が故に、

       『見える』とはいえ、

         『顛倒』である。

     何故ならば、

       『日、月』は、

         『方円五百由旬』であるが、

       今、

         『見る処』は、

           『扇』ほどに過ぎない。

         『大』なのに、

           『小を見る』のは、

             『顛倒』であり、

             『実』でない。

       『菩薩』の、

         『肉眼』は、

           そのようなものではない。

問曰。菩薩既得肉眼能見何事。

問うて曰く、菩薩は、既に肉眼を得て、能く何事をか見ん。

 問い、

   『菩薩』が、

   既に、

     『肉眼』を得ていれば、

     何事を、

       『見ることができる』のですか?

答曰。見可見色。色義色眾中廣說

答えて曰く、可見の色を見る。色の義は、色衆の中に広く説けり。

 答え、

   『可見の色』を見る。

   『色の義』は、

     『色衆』の中に、

       広く、説いた。

 

 

 

 

 

菩薩摩訶薩の天眼浄

【經】舍利弗白佛言。世尊。云何菩薩摩訶薩天眼淨。

舎利弗の仏に白して言さく、『世尊、云何が菩薩摩訶薩の天眼浄なる』と。

   『舎利弗』は、

     『仏』に、こう白した、――

     『世尊!

        何故、

          『菩薩摩訶薩』は、

            『天眼が浄い』のですか?』

佛告舍利弗。菩薩摩訶薩天眼見一切四天王天所見。見三十三天夜摩天兜率陀天化樂天他化自在天所見。見梵天王所見乃至阿迦尼吒天所見。菩薩天眼所見者。四天王天乃至阿迦尼吒天所不知不見。舍利弗。是菩薩摩訶薩天眼。見十方如恒河沙等諸佛世界中眾生死此生彼。舍利弗。是為菩薩摩訶薩天眼淨

仏の舎利弗に告げたまわく、『菩薩摩訶薩の天眼は、一切の四天王天の見る所を見、三十三天、夜摩天、兜率陀天、化楽天、他化自在天の見る所を見、梵天王の見る所、乃至阿迦尼吒天の見る所を見る。菩薩の天眼の見る所は、四天王天、乃至阿迦尼吒天の知らず、見ざる所なり。舎利弗、是の菩薩摩訶薩の天眼は、十方の恒河沙等の諸仏の世界の中の衆生の、此に死し、彼に生ずるを見る。舎利弗、是れを菩薩摩訶薩の天眼浄と為す。

   『仏』は、

     『舎利弗』に、こう告げられた、――

     『菩薩摩訶薩は、

        一切の、

          『四天王天の見る所』を見、

          『三十三天、夜摩天、兜率陀天、化楽天、他化自在天の見る所』を見、

          『梵天王の見る所』、乃至、

          『阿迦尼吒天の見る所』を見る。

        『菩薩』の、

          『天眼の見る所』は、

            『四天王天』、乃至、

            『阿迦尼吒天』の、

              『知らない所』であり、

              『見ない所』である。

      舎利弗!

        是の、

          『菩薩摩訶薩の天眼』は、

            『十方の恒河沙等』ほどの、

            『諸仏の世界』の中の、

              『衆生』が、

                『此に生まれ』て、

                『彼に死ぬ』のを見る。

      舎利弗!

        是れを、

          『菩薩摩訶薩』の、

            『天眼が浄い』という。

【論】釋曰。菩薩天眼有二種。一者果報得。二者修禪得。果報得者。常與肉眼合用。唯夜闇天眼獨用。諸人得果報天眼見四天下。欲界諸天見下不見上。菩薩所得果報天眼。見三千大千世界。禪定離欲天眼所見。如先十力天眼明中說。

釈して曰く、菩薩の天眼に二種有り、一には果報の得、二には修禅の得なり。果報の得とは、常に肉眼と合して用い、唯だ夜闇にのみ天眼を独り用う。諸人は、果報の天眼を得て、四天下を見、欲界の諸天は下を見て、上を見ず、菩薩の得る所の果報の天眼は、三千大千世界を見る。禅定、離欲の天眼の見る所は、先に十力の天眼明中に説くが如し。

 釈す、

   『菩薩の天眼』に、

     『二種』有り、

     一は、『果報の得』、

     二は、『修禅の得』である。

   『果報の得』とは、

     常に、

       『肉眼』と合して用い、

       唯だ、

         『夜闇』には、

         『天眼』のみを用いる。

     『諸人』は、

       『果報の天眼』を得て、

         『四天下』を見、

       『欲界の諸天』は、

         『下』を見て、

         『上』を見ないが、

     『菩薩の所得』の、

       『果報の天眼』は、

         『三千大千世界』を見る。

   『禅定、離欲』の、

     『天眼の見る所』は、

     先に、

       『十力の天眼明』中に説いたとおりである。、

菩薩用是天眼。見十方如恒河沙等世界中眾生。生死善惡好醜及善惡業因緣。無所障礙一切皆見。四天王天乃至阿迦尼吒天所見。又能過之。是諸天不能知菩薩天眼所見。何以故。是菩薩出三界得法性生身。得菩薩十力故。如是等因緣菩薩天眼淨。餘菩薩天眼論議如讚菩薩五神通中說

菩薩は、是の天眼を用いて、十方の恒河沙等の世界の中の衆生の、生死、善悪、好醜、及び善悪の業の因縁を見て、障礙する所無く、一切を皆見、四天王天、乃至阿迦尼吒天の見る所も、又能く之を過ぐ。是の諸天は、菩薩の天眼の見る所を知る能わず。何を以っての故に、是の菩薩は、三界を出でて、法性生身を得、菩薩の十力を得るが故なり。是の如き等の因縁は、菩薩の天眼浄なり。余の菩薩の天眼の論議は、菩薩の五神通を讃ずる中に説けるが如し。

   『菩薩』は、

   是の、

     『天眼』を用いて、

       『十方恒河沙等ほどの世界』の中の、

       『衆生』の、

         『生死、善悪、好醜』及び、

         『善悪業の因縁』を見て、

           『障礙する所』が無く、

           『一切』を、

             『皆、見る』ことができ、

           『四天王天』、乃至、

           『阿迦尼吒天』の、

             『見る所を過ぎる』ものである。

     是の、

       『諸天』は、

         『菩薩の天眼』の、

         『見る所を知る』ことができない。

       何故ならば、

         『是の菩薩』は、

           『三界』を出て、

             『法性生身』を得、

             『菩薩の十力』を得たからである。

   是れ等の、

     『因縁』が、

       『菩薩の天眼浄』であり、

     余の、

       『菩薩の天眼の論議』は、

       『讃菩薩五神通』の中に説いたとおりである。

 

 

 

 

 

菩薩摩訶薩の慧眼浄

【經】舍利弗白佛言。世尊。云何菩薩摩訶薩慧眼淨。佛告舍利弗。慧眼菩薩不作是念。有法若有為若無為若世間若出世間若有漏若無漏。是慧眼菩薩無法不見無法不聞無法不知無法不識。舍利弗。是為菩薩摩訶薩慧眼淨

舎利弗の仏に白して言さく、『世尊、云何が菩薩摩訶薩の慧眼浄なる。』と。仏の舎利弗に告げたまわく、『慧眼の菩薩は、是の念を作さず。有る法は、若しは有為、若しは無為、若しは世間、若しは出世間、若しは有漏、若しは無漏と。是の慧眼の菩薩は、法の見ざる無く、法の聞かざる無く、法の知らざる無く、法の識らざる無し。舎利弗、是れを菩薩摩訶薩の慧眼浄と為す。』と。

   『舎利弗』は、

     『仏』に、こう白した、――

     『世尊!

        何故、

          『菩薩摩訶薩』は、

            『慧眼が浄い』のですか?』と。

   『仏』は、

     『舎利弗』に、こう告げられた、――

     『慧眼の菩薩は、

       是の念を作さない、――

       『有る、

          『法』が、

            『有為』なのか、

            若しくは、

              『無為』なのか、

            『世間』なのか、

            若しくは、

              『出世間』なのか、

            『有漏』なのか、

            若しくは、

              『無漏』なのか』と。

      是の、

        『慧眼の菩薩』は、

          『見ない法』は無く、

          『聞かない法』は無く、

          『知らない法』は無く、

          『識らない法』は無い。

      舎利弗!

        是れを、

          『菩薩摩訶薩』の、

            『慧眼は浄い』というのである。

【論】釋曰。肉眼不能見障外事。又不能遠見。是故求天眼。天眼雖復能見。亦是虛誑見一異相。取男女相取樹木等諸物相。見眾物和合虛誑法。以是故求慧眼。慧眼中無如是過。

釈して曰く、肉眼は、障外の事を見る能わず、又遠く見る能わず。是の故に天眼を求む。天眼は復た能く見ると雖も、亦た是れ虚誑にして一異の相を見、男女の相を取り、樹木等の諸物の相を取り、衆物を見るに虚誑の法を和合す。是を以っての故に、慧眼を求む。慧眼の中には、是の如き過無し。

 釈す、

   『肉眼』では、

     『障外の事』を見られないし、又

     『遠くの事』も見られないので、

   是の故に、

     『天眼を求める』のである。

   『天眼』は、

   復た、

     『見ることができる』とはいえ、

     亦た、

       『虚誑』して、

         『一、異の相』を見て、

         『男、女の相』、

         『樹木』等の、

           『諸物の相』を取り、

       『衆物』を見れば、

         『虚誑の法』を和合する。

   是の故に、

     『慧眼』を求める。

     『慧眼』の中には、

     是のような、

       『過』が無い。

問曰。若爾者何等是慧眼相。

問うて曰く、若し爾らば、何等か是れ慧眼の相なる。

 問い、

   若し、

     そうならば、

     何を、

       『慧眼の相』というのですか?

答曰。有人言。八聖道中正見是慧眼相。能見五受眾實相。破諸顛倒故。

答えて曰く、有る人の言わく、『八聖道中の正見は、是れ慧眼の相なり。能く五受衆の実相を見て、諸の顛倒を破するが故に』と。

 答え、

   有る人は、こう言う、――

     『八聖道中の、

        正見が、

          慧眼の相である。

        五受衆の、

          実相を見ることができ、

          諸の顛倒を破るが故に』と。

有人言。能緣涅槃慧名為慧眼。所緣不可破壞故。是智慧非虛妄。

有る人の言わく、『能く涅槃に縁ずる慧を名づけて慧眼と名づく。所縁の破壊すべからざるが故に、是の智慧は虚妄に非ず』と。

   有る人は、こう言う、――

     『能く、

       涅槃に縁ずる慧を、

         慧眼と名づける。

         所縁(涅槃)は、

           破壊できないが故に、

           是の智慧は、

             虚妄ではない』と。

有人言。三解脫門相應慧是名慧眼。何以故。是慧能開涅槃門故。

有る人の言わく、『三解脱門相応の慧は、是れを慧眼と名づく。何を以っての故に、是の慧は、能く涅槃の門を開くが故に』と。

   有る人は、こう言う、――

     『三解脱門相応の慧を、

        慧眼と名づける。

        何故ならば、

          是の慧は、

          能く、

            涅槃の門を開くからである』と。

有人言。智慧現前能觀實際。了了深入通達悉知。是名慧眼。有人言。能通達法性直過無礙。有人言。定心知諸法相。如是名慧眼

有る人の言わく、『智慧は現前に能く実際を観て、了了に深入通達して悉く知る。是れを慧眼と名づく』と。有る人の言わく、『能く法性に通達し、直ちに過ぎて無礙なり』と。有る人の言わく、『定心もて、諸法の相を知る。是の如きを慧眼と名づく』と。

   有る人は、こう言う、――

     『智慧が、

        現前して、

          実際を観ることができ、

          了了として、

            深入し、

            通達して、

              悉く知る。

          是れを、

            慧眼と名づける』と。

   有る人は、こう言う、――

     『能く、

        法性に、

          通達し、

          直ちに過ぎて、

            無礙であること』と。

   有る人は、こう言う、――

     『定心で、

        諸法の相を知る。

        是れを、

          慧眼と名づける』と。

有人言。法空是名慧眼。有人言。不可得空中亦無法空。是名慧眼。有人言。十八空皆是慧眼

有る人の言わく、『法空は、是れを慧眼と名づく』と。有る人の言わく、『不可得空中には亦た法空も無し。是れを慧眼と名づく』と。有る人の言わく、『十八空は、皆是れ慧眼なり』と。

   有る人は、こう言う、――

     『法空を、

        慧眼と名づける』、と。

   有る人は、こう言う、

     『不可得空の中、

      亦たは、

        無法空を、

          慧眼と名づける』、と。

   有る人は、こう言う、――

     『十八空は、

      皆、

        慧眼である』、と。

有人言。癡慧非一非異。世間法不異出世間。出世間法不異世間。世間法即是出世間。出世間法即是世間。所以者何。異不可得故。諸觀滅諸心行轉還無所去。滅一切語言世間法相。如涅槃不異。如是智慧是名慧眼。

有る人の言わく、『癡と、慧とは一に非ず、異に非ず。世間の法は出世間に異ならず、出世間の法は世間に異ならず。世間の法は即ち是れ出世間、出世間の法は即ち是れ世間なり。所以は何んとなれば、異は不可得なるが故なり。諸観滅すれば、諸の心行転じて還って去る所無く、一切の語言を滅すれば、世間の法相は涅槃の如きと異ならず。是の如き智慧は、是れを慧眼と名づく』と。

   有る人は、こう言う、――

     『愚癡』と、

     『智慧』とは、

        『一』でもなく、

        『異』でもない。

     『出世間の法』は、

        『世間の法』と異ならない。

     『世間』の、

       『法』は、

       即ち、

         『出世間』であり、

     『出世間』の、

       『法』は、

       即ち、

         『世間』である。

       何故ならば、

          『異』が、

            『得られない』からである。

      諸の、

        『観』が滅すれば、

        諸の、

          『心行』が転じて、

          還た、

            『去る所(帰属する所)』も無く、

        一切の、

          『語言』と、

          『世間』の、

            『法、相』が滅して、

            『涅槃』と、

              『異ならない』。

     是のような、

       『智慧』は、

       是れを、

         『慧眼』と名づける、と。

次此中佛自說慧眼。菩薩一切法中。不念有為若無為若世間若出世間若有漏若無漏等。是名慧眼

次に此の中に仏は自ら慧眼を説きたまわく、『菩薩は、一切の法中に、有為、若しは無為、若しは世間、若しは出世間、若しは有漏、若しは無漏等を念ぜず。是れを慧眼と名づく』と。

 次に、

   此の中にも、

     『仏』は、

       自ら、『慧眼』をこう説かれた、――

       『菩薩は、

          一切の法の中に、

            『有為』だとか、

            若しくは、

              『無為』だとか、

            『世間』だとか、

            若しくは、

              『出世間』だとか、

            『有漏』だとか、

            若しくは、

              『無漏』だとかを、念じない。

        是れを、

          『慧眼』と名づける』と。

若菩薩見有為世間有漏。即墮有見中。若見無為出世間無漏。即墮無見中。是有無二見捨以不戲論。慧行於中道。是名慧眼。

若し菩薩は有為、世間、有漏を見れば、即ち有見中に堕し、若し無為、出世間、無漏を見れば、即ち無見中に堕す。是の有無の二見の捨は、戯論せざるの慧を以って、中道を行く。是れを慧眼と名づく。

   若し、

     『菩薩』が、

       『有為、世間、有漏』を見るならば、

       即ち、

         『有見』中に堕し、

     若し、

       『無為、出世間、無漏』を見るならば、

       即ち、

         『無見』中に堕す。

     是の、

       『有、無』の、

         『二見』を捨てれば、

           『戯論しない智慧』で、

           『中道』を行くので、

         是れを、

           『慧眼』と名づける。

是慧眼無法不見無法不聞無法不知無法不識。所以者何。得是慧眼破邪曲。諸法無明諸法總相別相各皆如是。

是の慧眼には、法の見ざる無く、法の聞かざる無く、法の知らざる無く、法の識らざる無し。所以は何んとなれば、是の慧眼を得て邪曲を破すればなり。諸法の無明、諸法の総相別相も各皆是の如し。

   是の、

     『慧眼』には、

       『見ない法』が無く、

       『聞かない法』が無く、

       『知らない法』が無く、

       『識らない法』が無い。

     何故ならば、

       『是の慧眼』を得て、

         『邪曲を破る』からである。

         『諸法の無明』であるとか、

         『諸法の総相、別相』であるとかも、

         各、皆、

           是のとおりである。

問曰。阿羅漢辟支佛亦得慧眼。何以不說無法不見無法不聞無法不知無法不識。

問うて曰く、阿羅漢、辟支仏も亦た慧眼を得。何を以ってか、法の見ざる無く、法の聞かざる無く、法の知らざる無く、法の識らざる無しと説かざる。

 問い、

   『阿羅漢、辟支仏』も、

   亦た、

     『慧眼』を得ているのに、

     何故、

       『見ない法は無い』、

       『聞かない法は無い』、

       『知らない法は無い』、

       『識らない法は無い』と、説かないのですか?

答曰。慧眼有二種。一者總相。二者別相。聲聞辟支佛見諸法總相。所謂無常苦空等。佛以總相別相慧觀諸法。聲聞辟支佛雖有慧眼有量有限。

答えて曰く、慧眼に二種有り、一には総相、二には別相なり。声聞、辟支仏は、諸法の総相を見る、謂わゆる無常、苦、空等なり。仏は、総相別相の慧を以って諸法を観たもう。声聞、辟支仏に慧眼有りと雖も、有量有限なり。

 答え、

   『慧眼』には、

     『二種』有り、

     一は、『総相』、

     二は、『別相』である。

   『声聞、辟支仏』は、

     『諸法』の、

       『総相』を見る。

       謂わゆる、

         『無常、苦、空』等である。

   『仏』は、

     『総相、別相の慧』を以って、

       『諸法』を観られる。

   『声聞、辟支仏』にも、

     『慧眼』は有るが、

       『有量、有限』である。

復次聲聞辟支佛慧眼雖見諸法實相。因緣少故慧眼亦少。不能遍照法性。譬如燈油炷雖淨小故不能廣照。諸佛慧眼照諸法實性盡其邊底。以是故無法不見無法不聞無法不知無法不識。譬如劫盡火燒三千世界明無不照。

復た次ぎに、声聞、辟支仏の慧眼は、諸法の実相を見ると雖も、因縁少きが故に慧眼も亦た少く、法性を遍く照す能わず。譬えば灯の油、炷は浄と雖も、小なるが故に広く照らす能わざるが如し。諸仏の慧眼は、諸法の実性を照らして、其の辺底を尽くす。是を以っての故に、法の見ざる無く、法の聞かざる無く、法の知らざる無く、法の識らざる無し。譬えば劫尽の火の三千世界を焼くとき、明の照らさざる無きが如し。

 復た次ぎに、

   『声聞、辟支仏』の、

     『慧眼』は、

       『諸法の実相』を見るが、

         『因縁』の、少いが故に、

         『慧眼』も、亦た少く、

         遍く、

           『法性を照らす』ことができない。

         譬えば、

           『灯の油、炷』が、

             『浄』であっても、

             『小』であるが故に、

               『広く照らせない』のと同じである。

   『諸仏の慧眼』は、

     『諸法』の、

       『実相』を照らして、

       『其の辺底』を尽くすので、

     是の故に、

       『見ない法』が無く、

       『聞かない法』が無く、

       『知らない法』が無く、

       『識らない法』が無い。

     譬えば、

       『劫尽の火』が、

         『三千大千世界』を焼く、

         『明』は、

           『照らさないものが無い』のと同じである。

復次若聲聞辟支佛慧眼無法不知者。與一切智人有何等異。菩薩世世集福德智慧苦行何所施用。

復た次ぎに、若し声聞、辟支仏の慧眼に、法の知らざる無くんば、一切智の人と何等の異か有らん。菩薩は、世世に福徳の智慧を集め、苦行するに、何んが施用する所あらん。

 復た次ぎに、

   若し、

     『声聞、辟支仏』の、

       『慧眼』に、

         『知らない法が無い』なら、

         『一切智の人』と、

         何等の、

           『異が有る』というのか?

         『菩薩』が、

           『世世』に苦行して、

             『福徳の智慧』を集めても、

             何処に、

               『施用する』というのか?

問曰。佛用佛眼無法不知非是慧眼。今云何言慧眼無法不知。

問うて曰く、仏は、仏眼を用いて法の知らざる無く、是の慧眼に非ず。今は云何が、慧眼に法の知らざる無しと言う。

 問い、

   『仏』は、

     『仏眼』を用いて、

       『知らない法が無い』のであり、

       『是の慧眼』ではない。

   今は、

     何故、

       『慧眼』に、

         『知らない法は無い』と言うのか?

答曰。慧眼成佛時變名佛眼。無明等諸煩惱及習滅故。一切法中皆悉明了。如佛眼中說無法不見聞知識。以是故肉眼天眼慧眼法眼。成佛時失其本名但名佛眼。譬如閻浮提四大河入大海中則失其本名。

答えて曰く、慧眼は成仏の時、名を仏眼と変ず。無明等の諸煩悩、及び習の滅するが故に、一切の法の中は皆悉く明了なればなり。仏眼中に、法の見、聞、知、識ならざる無しと説くが如きは、是を以っての故に肉眼、天眼、慧眼、法眼は成仏の時、其の本の名を失して、但だ仏眼とのみ名づく。譬えば閻浮提の四大河の大海中に入れば、則ち其の本の名を失うが如し。

 答え、

   『慧眼』は、

     『成仏』の時、

       『名』を、

         『仏眼』と変じ、

         一切の、

           『無明』等の、

           『諸の煩悩、及び習』が滅して、

         一切の、

           『法』の中は、

           皆悉く、

             『明了』である。

   『仏眼』の中を、

     『見、聞、知、識できない法は無い』、と説くのは、

     是の故に、

       『肉眼、天眼、慧眼、法眼』は、

         『成仏』の時、

         其の、

           『本の名』を失って、

           但だ、

             『仏眼』とのみ名づけるのである。

     譬えば、

       『閻浮提の四大河』が、

         『海』の中に入れば、

         則ち、

           『其の本名を失う』のと同じである。

何以故。肉眼諸煩惱有漏業生故虛誑不實。唯佛眼無誑法。天眼亦從禪定因緣和合生故。虛誑不能如實見事。

何を以っての故に、肉眼は、諸の煩悩、有漏業の生なるが故に、虚誑にして実ならず。唯だ仏眼にのみ誑法無し。天眼も亦た禅定の因縁和合より生ずるが故に、虚誑にして如実に事を見る能わず。

     何故ならば、

       『肉眼』は、

       諸の、

         『煩悩、有漏業の生』であるが故に、

         『虚誑』であり、

         『実』でない。

       唯だ、

         『仏眼』のみに、

           『虚誑が無い』のである。

       『天眼』も、亦た、

         『禅定の因縁和合の生』であるが故に、

         『虚誑』であり、

         『如実』に、

           『事を見る』ことができない。

慧眼法眼煩惱習未盡故。不畢竟清淨故捨。佛眼中無有謬錯盡其邊極。以是故阿羅漢辟支佛慧眼。不能畢竟清淨。故不能無法不見。

慧眼、法眼は煩悩の習の未だ尽きざるが故に、畢竟じて清浄ならざるが故に捨つ。仏眼中には謬錯有ること無く、其の辺極を尽くす。是を以っての故に、阿羅漢、辟支仏の仏眼は畢竟じて清浄なること能わざるが故に、法の見ざるもの無きこと能わず。

       『慧眼、法眼』も、

         『煩悩の習』が、

           『未だ尽きない』が故に、

           畢竟じて、

             『清浄でない』が故に、

             『捨てる』のである。

       『仏眼』の中には、

         『謬錯』が無く、

         『其の辺極を尽くす』ことができる。

       是の故に、

         『阿羅漢、辟支仏』の、

           『慧眼』は、

           畢竟じて、

             『清浄』となれず、

             故に、

               『見えない法』が、

                 『無くせない』のである。

問曰。佛現得果報肉眼能見色是事云何。

問うて曰く、仏は現に、果報の肉眼を得て、能く色を見たもう。是の事や云何。

 問い、

   『仏』は、

    現に、

      『果報』の、

      『肉眼を得られた』ので、

      能く、

        『色を見ることができた』のです。

   是の事は、

     何うですか?

答曰。肉眼雖生眼識。而佛不隨其用不以為實。如聖自在神通中說。佛告阿難。所見好色中生厭惡心。眼見惡色生不惡厭心。或時見色不生穢不穢但生捨心。如是則肉眼無所施用。

答えて曰く、肉眼は眼識を生ずと雖も、仏は其の用に随わず、以って実と為したまわず。聖自在神通中に説けるが如く、仏は阿難に告げたまわく、『見る所の好色中に厭悪心を生じ、眼に悪色を見ては不悪厭心を生じ、或は時に色を見て汚穢、不汚穢を生ぜず、但だ捨心を生ずるのみ』と。是の如きは則ち肉眼の施用する所無し。

 答え、

   『肉眼』は、

     『眼識を生ずる』が、

     而し、

       『仏』は、

         『其の用(作用)』に随わず、

         『其の用』を、

           『実』とされなかった。

     『聖自在神通(聖如意)』の中に説いたように、

       『仏』は、

         『阿難』に、こう告げられたのである、――

         『見る所の、

            『好色』の中に、

            『厭悪心』を生じ、

          眼に、

            『悪色』を見ては、

            『不悪厭心』を生じ、

          或は、

          時に、

            『色』を見ても、

              『汚穢』も、

              『不汚穢』も生じず、

              但だ、

                『捨心』のみを生ずる』と。

     是のようならば、

     則ち、

       『肉眼』は、

         『施用(使用)する所』が無い。

 

  聖自在神通:聖如意とも云う。

  参考:『大智度論巻5』:『如意天眼天耳他心智自識宿命。云何如意。如意有三種。能到轉變聖如意。能到有四種。一者身能飛行如鳥無礙。二者移遠令近不往而到。三者此沒彼出。四者一念能至。轉變者。大能作小小能作大一能作多多能作一。種種諸物皆能轉變。外道輩轉變極久不過七日。諸佛及弟子轉變自在無有久近。聖如意者。外六塵中不可愛不淨物。能觀令淨。可愛淨物。能觀令不淨。是聖如意法唯佛獨有。

  参考:『出曜経巻25』:『若眼見非邪  黠人求方便  智者善壽世  亦不為眾惡  若眼見非邪者。夫人習行專精為惡。若眼見色不起眼識。若好若醜意悉平等。設見好色不興染著。設見惡色亦不懷慼。是故說曰若眼見非邪。黠人求方便者。見彼眼色知為非真。為磨滅法遷轉不住。生者有盡常者亦滅。愚者翫習智者所嗤。是故說曰黠人求方便也。智者善壽世亦不為眾惡者。智人所施教權化非一。防惡於無形。養福於自然。執行不累於世。言教不損於形質。在世周旋。未幾彼壽見短如有恥。見長不自稱。在世訖其壽終不為惡行。是故說曰智者善壽世不為眾惡也

復次有人言。得聖道時五情清淨異本。復次諸法畢竟空及諸法通達無礙。是二總為慧眼。

大智度論卷第三十九

復た次ぎに、有る人の言わく、『聖道を得る時の五情は清浄にして、本と異なる。復た次ぎに、諸法の畢竟空は、諸法の通達無礙に及ぶ。是の二を総じて慧眼と為す』と。

大智度論巻第三十九

 復た次ぎに、

   有る人は、こう言う、――

     『聖道を得た時の、

        『五情』は、

          『清浄』であり、

          『本』とは異なる。

      復た次ぎに、

        『諸法』の、

          『畢竟空』は、

          『諸法』の、

            『通達、無礙』に及ぶ。

      是の二は、

        総じて、

          『慧眼』である』と。

 

大智度論巻第三十九

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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