巻第三十九(上)
 大智度論釋往生品第四之中
1.有る菩薩は超越して禅、定に入る
2.有る菩薩は八聖道分を起して、衆生を度する
3.有る賢劫の菩薩は、兜率天道を浄める
4.有る一生補処の菩薩は四諦を証していない
5.有る菩薩は無量劫の修行で、阿耨多羅三藐三菩提を得る
6.有る菩薩は謬錯を恐れるが故に、無益の事を説かない
7.有る菩薩は一仏国より一仏国に至り、三悪道を断じる
8.有る菩薩は檀を首と為して、六波羅蜜に住する
9.有る菩薩は仏に変じて、三悪の衆生の為めに法を説く
10.有る菩薩は諸仏より、十方の国土の浄妙の相を聞く
11.有る菩薩は諸根浄利の故に、衆人に愛敬される
12.有る菩薩は諸根の浄を得て、自ら高ぶらない
13.有る菩薩は阿鞞跋致地に至るまで、終に悪道に堕ちない
14.有る菩薩は初発心より、常に十善行を捨てない
15.有る菩薩は転輪聖王と作り、衆生を十善道に安立する
16.有る菩薩は檀、尸羅波羅蜜に住して、無量世に転輪聖王と作る
17.有る菩薩は身口意の不浄を妄起させない
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大智度論釋往生品第四之中(卷三十九)   
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


有る菩薩は超越して禅、定に入る

【經】舍利弗。有菩薩摩訶薩。行般若波羅蜜時。得四禪四無量心四無色定。遊戲其中入初禪。從初禪起入滅盡定。從滅盡定起乃至入四禪。從四禪起入滅盡定。從滅盡定起入虛空處。從虛空處起入滅盡定。從滅盡定起乃至入非有想非無想處。從非有想非無想處起入滅盡定。如是舍利弗。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。以方便力故入超越定 舎利弗、有る菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行ずる時、四禅、四無量心、四無色定を得、其の中に遊戯して、初禅に入り、初禅より起ちて滅尽定に入り、滅尽定より起ちて乃至四禅に入り、四禅より起ちて滅尽定に入り、滅尽定より起ちて虚空処に入り、虚空処より起ちて滅尽定に入り、滅尽定より起ちて乃至非有相非無想処に入り、非有相非無想処より起ちて滅尽定に入る。是の如く、舎利弗、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行じて、方便力を以っての故に、超越する定に入る。
舎利弗!
有る、
『菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行じる!』時、
『四禅、四無量心、四無色定を得て!』、
其の中に、
『遊戯しながら!』、
『初禅に入る!』と、
『初禅より起って!』、
『滅尽定』に、
『入り!』、
『滅尽定より起って!』、
『乃至四禅』に、
『入り!』、
『四禅より起って!』、
『滅尽定』に、
『入り!』、
『滅尽定より起って!』、
『虚空処』に、
『入り!』、
『虚空処より起って!』、
『滅尽定』に、
『入り!』、
『滅尽定より起って!』、
『乃至非有相非無想処』に、
『入り!』、
『非有相非無想処より起って!』、
『滅尽定』に、
『入る!』が、
是のように、
舎利弗!
『菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行じる!』と、
『方便力を用いる!』が故に、
『超越した!』、
『定』に、
『入るのである!』。
【論】問曰。若凡夫人不能入滅盡定。云何菩薩從初禪起入滅盡定。 問うて曰く、若し凡夫人にして、滅尽定に入る能わざれば、云何が、菩薩は、初禅より起ちて、滅尽定に入る。
問い、
若し、
『凡夫人』が、
『滅尽定』に、
『入ることができなければ!』、
何故、
『菩薩が、初禅より起って!』、
『滅尽定』に、
『入るのですか?』。
答曰。阿毘曇鞞婆沙中小乘如是說。非佛三藏說。又是菩薩聖人尚不及。何況當是凡夫。譬如六牙白象。雖被毒箭猶憐愍怨賊。如是慈悲心阿羅漢所無。畜生中猶尚如是。何況作人身。離欲入禪而不得滅盡定。 答えて曰く、阿毘曇鞞婆沙中に、小乗は是の如く説くも、仏の三蔵の説に非ず。又是の菩薩は、聖人すら尚お及ばざるに、何に況んや、当に是れ凡夫なるべき。譬えば六牙の白象の毒箭を被ると雖も、猶お怨賊を憐愍せるが如き、是の如き慈悲心は、阿羅漢の無き所なり。畜生中にして、猶尚お是の如し。何に況んや人身と作りて、欲を離れ、禅に入りて、滅尽定を得ざるをや。
答え、
『阿毘曇鞞婆沙』中に、
『小乗』は、
是のように、
『説いている!』が、
是れは、
『仏の三蔵』中の、
『説ではない!』。
又、
是の、
『菩薩』には、
『聖人すら!』、
『尚お、及ぶことができないのであり!』、
況して、
是れが、
『凡夫であるはずがない!』。
譬えば、
『六牙の白象が、毒箭を被りながら!』、
猶お、
『怨賊』を、
『憐愍したように!』、
是のような、
『慈悲心』は、
『阿羅漢』には、
『無い所である!』。
『畜生』中にすら、
猶尚お、
是のように、
『及ばない!』のに、
況して、
『人身と作り、欲を離れて禅に入りながら!』、
『滅尽定』を、
『得られないはずがあろうか?』。
  六牙白象:本生譚。『雑譬喩経巻上(9)』、『大智度論巻12』等参照。
  参考:『雑譬喩経巻上(9)』:『昔雪山有白象王。身有六牙。生二萬象。象王有二夫人。一人年長一人年少。每出遊戲時夫人挾左右。時王出戲。道過一大樹。樹花茂好。欲取二夫人身上以為光飾。鼻絞樹而搖逍之。風吹樹花獨落大夫人上。小夫人在下風不得華。謂王為有偏意內生毒心。後王池中生一金色千葉蓮花。小象見之取持上王。王得以與大夫人使著頭上。小夫人遂益妒忿念欲害王。雪山中多有道士。於是小夫人採取美果每供養百辟支佛。以後山上臨一嶮處而自誓願。持是前後施辟支佛福報生於人中。有豪勢自識宿命害殺此象王。即便放身自投山下而死。神來生人間為長者女。明慧遠識端正無比。其女長大。國王聘為夫人愛重之。夫人念言。今真得報宿怨矣。便以梔子黃面委臥稱病。王入問之。答曰夜夢見象頭有六牙。欲得其牙持作釵耳。王若不得此象牙者。病日篤矣。王素重之不敢違意。即召國中諸射獵者得數百人。而告之言。汝等山中頗見有白象身有六牙者不。皆言。未曾見也。王意不樂。使夫人呼。獵者共道此意。夫人言此間近處實無此象。汝眾中誰有能耐苦大膽者乎。有一人長跪曰。我最可矣。於是夫人與萬兩金。與其鐵鉤斧鑿及法衣一具。告之。汝徑詣雪山中。道當有大樹。左右有蟒。身長數百丈不可得近。斧鑿穿樹從中過去。前行當見大水。有樹木臨水上。取鐵鉤鉤上樹。尋枝進而前度至象所住。視其常可頓止處。當下作深坑薄覆其上。在中伺象來時。以箭射之。即著袈裟如沙門法。象奉三尊終不害汝。獵者受教即涉道去。七年七月七日到象所止處。作坑入其中。須臾象王還。獵者以毒箭射之。象被此箭不從遠來。便以鼻撈其邊地。見坑中人。即問何人。其人大怖懼自首言。我是應募人。象王即知是夫人所為。自截其牙用與獵者。語人言汝還去。諸象見汝即當害卿。教卻行去。群象必當尋跡追汝。象王以威神將護。七日之中得出部界。還至本國以象牙與夫人。夫人得之反覆視之。且喜且悔未幾吐血死近。釋迦文佛在世時。天龍鬼神四輩弟子大會說法。坐中有大比丘尼。遙瞻視佛便大聲笑。須臾復舉聲哭。眾坐中無不怪者。阿難問佛。云何此比丘尼得阿羅漢。何因且悲且喜不能自勝。願聞其事。佛告阿難。爾時白象王者我身是。夫人者今瞿夷是。小夫人者今比丘尼是。以得神通識往昔事。所以悲者不事心所喜。笑者賊害善人更從得道。眾會聞皆念曰。與世尊作惡因緣猶尚得度。況有道德之因緣乎。一切眾會皆發無上正真道意。願及十方廣度一切』
問曰。若菩薩得滅盡定可爾。超越定法不能過二。若言從初禪起乃至入滅盡定無有是法。 問うて曰く、若し菩薩、滅尽定を得れば、爾るべけん。超越の定法は、二を過ぐる能わず。若し、『初禅より起ちて、乃至滅尽定に入る』、と言わば、是の法有ること無けん。
問い、
若し、
『菩薩』が、
『滅尽定を得れば!』、
『爾うかもしれない!』が、
『定を超越する!』、
『法』が、
『二を過ぎることはない!』ので、
若し、
『初禅より起って!』、
『乃至滅尽定に入る!』と、
『言えば!』、
是の、
『法』は、
『有るはずがない!』。
答曰。餘人雖有定法。力少故不能遠超。菩薩無量福德智慧力深入禪定。心亦不著故能遠超。譬如人中力士趠不過三四丈。若天中力士無復限數。小乘法中超一者是定法。菩薩禪定力大心無所著故遠近隨意。 答えて曰く、餘人にも、定法有りと雖も、力少きが故に、遠く超ゆる能わざるも、菩薩の無量の福徳の智慧力は、深く禅定に入り、心も亦た著せざるが故に、能く遠く超ゆ。譬えば人中の力士は、趠(と)ぶこと三四丈を過ぎざるも、若し天中の力士なれば、復た限数無きが如し。小乗の法中には、一を超ゆれば、是れ定法なるも、菩薩の禅定は、力大にして、心に著する所無きが故に、遠近随意なり。
答え、
『餘人』にも、
『定法は有る!』が、
『定力』が、
『少い!』が故に、
『禅定』を、
『遠くまで!』、
『超えることはできない!』。
『菩薩の無量の福徳』は、
『智慧の力』で、
『深く!』、
『禅定に入りながら!』、
亦た、
『心も!』、
『禅定に著さない!』が故に、
『定』を、
『遠くまで!』、
『超えることができる!』。
譬えば、
『人中の力士が、趠べば!』、
『三、四丈』を、
『過ぎない!』が、
『天中の力士ならば!』、
『数を限ること( restricting )!』は、
『復た無い( there is not )ように!』、
『小乗の法』中には、
『一を超える!』のが、
『定法( the reality of the dhyana )である!』が、
『菩薩の禅定』は、
『力が大きく!』、
『心』に、
『所著が無い!』が故に、
『定を超える!』のは、
『遠くも、近くも!』、
『意のまゝである!』。
  (ちょう):高く跳ぶ。跳躍。
  無復(むふく):無い/没有( there is not )。
問曰。若爾者超越者是大。次第定不應為大。 問うて曰く、若し爾らば、超越する者は、是れ大にして、定を次第すれば、応に大と為すべからず。
問い、
若し、爾うならば、
『定』を、
『超越する!』者は、
『大であり!』、
『定』を、
『次第する!』者は、
『大であるはずがない!』。
答曰。二俱為大。所以者何。從初禪起至二禪。更無餘心一念得入。乃至滅盡定皆爾。超越者從初禪起入第三禪。亦不令餘心雜。乃至滅盡定逆順皆爾。有人言超越定勝。所以者何。但無餘心雜而能超越故。譬如槃馬迴轉隨意 答えて曰く、二を倶に大と為す。所以は何んとなれば、初禅より起ちて、二禅に至るは、更に餘心無く、一念もて入るを得ること、乃至滅尽定まで、皆爾り。超越する者は、初禅より起ちて、第三禅に入るに、亦た餘心をして雑えせしめざること、乃至滅尽定まで、逆順するも、皆爾ればなり。有る人の言わく、『超越の定勝る。所以は何んとなれば、但だ餘心の雑うる無くして、能く超越するが故なり。譬えば馬を槃(めぐ)らして、回転随意なるが如し』、と。
答え、
『二』は、
『倶に!』、
『大である!』。
何故ならば、
『初禅より起って、二禅に至る!』のは、
更に、
『余心無く!』、
『一念で!』、
『入ることであり!』、
乃至、
『滅尽定まで!』、
『皆、爾うだからであり!』、
『禅定を超越する!』者は、
『初禅より起って、第三禅に入る!』が、
亦た、
『餘心』を、
『雑えさせず!』、
乃至、
『滅尽定まで!』、
『逆も、順も、皆爾うだからである!』。
有る人は、こう言う、――
『定』を、
『超越する!』者が、
『勝っている!』。
何故ならば、
但だ、
『餘心を雑えることの無い者だけが!』、
『定』を、
『超越することができるからである!』。
譬えば、
『馬を槃らし( rotating a horse )!』、
『回転』が、
『意のままであるようなものである!』、と。
  槃馬(はんめ):馬に跨がり盤旋、馳騁する。馬を回転させる( rotate a horse )。



有る菩薩は八聖道分を起して、衆生を度する

【經】舍利弗。有菩薩摩訶薩。行般若波羅蜜時。修四念處乃至十八不共法。不取須陀洹果斯陀含果阿那含果阿羅漢果辟支佛道。以方便力為度眾生故。起八聖道分。以是八道令得須陀洹果乃至辟支佛道。佛告舍利弗。一切阿羅漢辟支佛果及智。是菩薩摩訶薩無生法忍。舍利弗當知。是菩薩摩訶薩行般若波羅蜜在阿鞞跋致地中住 『舎利弗、有る菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行ずる時、四念処、乃至十八不共法を修するも、須陀洹果、斯陀含果、阿那含果、阿羅漢果、辟支仏道を取らず、方便力を以って、衆生を度せんが為めの故に、八聖道分を起し、是の八道を以って、須陀洹果、乃至辟支仏道を得しむるなり』。仏の舎利弗に告げたまわく、『一切の阿羅漢、辟支仏の果、及び智は、是れ菩薩摩訶薩の無生法忍なり。舎利弗、当に知るべし、是の菩薩摩訶薩、般若波羅蜜を行ずれば、阿鞞跋致地中に在りて、住すと。
舎利弗!
有る、
『菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行じる!』時、
『四念処、乃至十八不共法を修めながら!』、
『須陀洹果、乃至阿羅漢果、辟支仏道』を、
『取らず!』、
『方便力を用いて、衆生を度する為め!』の故に、
『八聖道分を起し!』、
是の、
『八聖道分を用いて!』、
『須陀洹果、乃至辟支仏道』を、
『得させるのである!』。
『仏』は、
『舎利弗』に、こう告げられた、――
一切の、
『阿羅漢、辟支仏の果と智』は、
『菩薩摩訶薩』の、
『無生法忍である!』が、
舎利弗! こう知らねばならない、――
是の、
『菩薩摩訶薩は、若波羅蜜を行じて!』、
『阿毘跋致の地』中に、
『住するのである!』、と。
【論】問曰。何以不說是菩薩行六波羅蜜。而但說得四念處。 問うて曰く、何を以ってか、是の菩薩の六波羅蜜を行ずるを説かずして、但だ四念処を得るを説く。
問い、
何故、
是の、
『菩薩』は、
『六波羅蜜を行じる!』と、
『説かず!』に、
但だ、
『四念処を得る!』と、
『説くのですか?』。
答曰。若說若不說。當知是菩薩皆行六波羅蜜。於三十七品或行或不行。不證聲聞辟支佛道者。有大慈大悲深入方便力等如先說。 答えて曰く、若しは説き、若しは説かざるも、当に知るべし、是の菩薩は、皆六波羅蜜を行じ、三十七品に於いては、或は行じ、或は行ぜず、と。声聞、辟支仏道を証せずとは、大慈大悲有ある者は、深く方便力等に入ればなり。先に説けるが如し。
答え、
『仏が説かれようが、説かれまいが!』、こう知らねばならない、――
是の、
『菩薩』は、
『六波羅蜜』は、
皆、
『行じる!』が、
『三十七品』は、
『行じたり!』、
『行じなかったりである!』、と。
『声聞、辟支仏道を証しない!』とは、
『大慈大悲が有り!』、
『方便力』等に、
『深く、入るからである!』が、
是れは、
先に、
『説いた通りである!』。
問曰。自不得諸道果。云何能以化人。 問い、自ら諸の道果を得ざるに、云何が能く、以って人を化すや。
問い、
自ら、
『諸の道果』を、
『得ようとしない!』のに、
何故、
『人』を、
『化することができるのですか?』。
答曰。佛自說因緣。所謂聲聞辟支佛果及智。皆是菩薩法忍。但不受諸道果名字。果及智皆入無生法忍中。 答えて曰く、仏の自ら因縁を説きたまわく、謂わゆる、『声聞、辟支仏の果、及び智は、皆是れ菩薩の法忍にして、但だ諸の道果の名字を受けざるのみ。果、及び智は、皆無生法忍中に入ればなり。
答え、
『仏』は、
自ら、
『因縁』を、こう説かれた、――
謂わゆる、
『声聞、辟支仏の果や智』は、
皆、
『菩薩の法忍であり!』、
但だ、
『諸の道果の名字』を、
『受けないだけである!』、と。
何故ならば、
『果も、智』も、
皆、
『無生法忍中に入るからである!』。
復次唯不取證。餘者皆行。得菩薩道故。名為阿鞞跋致 復た次ぎに、唯だ証を取らざるも、餘は皆行ずれば、菩薩道を得るが故に、名づけて阿毘跋致と為す。
復た次ぎに、
唯だ、
『証を取らないだけで!』、
『餘を、皆行じれば!』、
『菩薩道』を、
『得る!』が故に、
是れを、
『阿毘跋致』と、
『称するのである!』。



有る賢劫の菩薩は、兜率天道を浄める

【經】舍利弗。有菩薩摩訶薩。住六波羅蜜淨兜率天道。當知是賢劫中菩薩 舎利弗、有る菩薩摩訶薩は、六波羅蜜に住して、兜率天道を浄むれば、当に知るべし、是れ賢劫中の菩薩なり。
舎利弗!
有る、
『菩薩摩訶薩は、六波羅蜜に住して!』、
『兜率天道』を、
『浄めている!』が、
当然、こう知らねばならぬ、――
是れは、
『賢劫(現在劫)』中の、
『菩薩なのである!』。
【論】釋曰。菩薩有各各道各各行各各願。是菩薩修業因緣生兜率天上。入千菩薩會中次第作佛。如是相當知是賢劫中菩薩 釈して曰く、菩薩には各各の道、各各の行、各各の願有り。是の菩薩は、業因縁を修して、兜率天上に生じ、千菩薩会中に入りて、次第に仏と作る。是の如き相を、当に知るべし、是れ賢劫中の菩薩なり。
釈す、
『菩薩』には、
『各各の道、行、願』が、
『有り!』、
是の、
『菩薩』は、
『業因縁を修めて!』、
『兜率天上』に、
『生じ!』、
『千菩薩会中に入って!』、
『次第に!』、
『仏の作ったのである!』が、
是のような、
『相』は、
当然、こう知らねばならぬ、――
是れは、
『賢劫』中の、
『菩薩である!』、と。



有る一生補処の菩薩は四諦を証していない

【經】舍利弗。有菩薩摩訶薩。修四禪乃至十八不共法未證四諦。當知是菩薩一生補處 舎利弗、有る菩薩摩訶薩は、四禅、乃至十八不共法を修するも、未だ四諦を証せず。当に知るべし、是の菩薩は一生補処なり。
舎利弗!
有る、
『菩薩摩訶薩』は、
『四禅、乃至十八不共法』を、
『修めながら!』、
未だに、
『四諦』を、
『証していない!』が、
当然、こう知らねばならぬ、――
是の、
『菩薩』は、
『一生補処なのである!』。
【論】問曰。是一生補處菩薩應生兜率天。云何說得四禪等。 問うて曰く、是の一生補処の菩薩は、応に兜率天に生ずべきに、云何が四禅等を得と説く。
問い、
是の、
『一生補処の菩薩』は、
当然、
『兜率天』に、
『生じねばならない!』のに、
何故、
『四禅等を得る!』と、
『説くのですか?』。
答曰。是菩薩生兜率天上。離欲得四禪等。 答えて曰く、是の菩薩は、兜率天上に生じて、欲を離れ、四禅等を得ればなり。
答え、
是の、
『菩薩は、兜率天上に生じ!』、
『欲を離れて!』、
『四禅』等を、
『得たのである!』。
復次是補處菩薩離欲來久具足佛法。以方便力隨補處法生兜率天。未證四諦者故留不證。若取證者成辟支佛。欲成佛故不證 復た次ぎに、是の補処の菩薩は、欲を離れて来、久しく仏法を具足し、方便力を以って、補処の法に随って、兜率天に生ずれば、未だ四諦を証せざるは、故(ことさら)に不証に留まるなり。若し証を取らば、辟支仏と成るも、仏と成らんと欲するが故に証せざるなり。
復た次ぎに、
是の、
『補処の菩薩』は、
『欲を離れてより、久しくして!』、
『仏法』を、
『具足したのである!』が、
『方便力を用いた!』が故に、
『補処の法に随い
complying with the law of nonretrogression )!』、
『兜率天』に、
『生まれたのであるから!』、
未だ、
『四諦を証しない!』のは、
『故に( intentionally )!』、
『不証』に、
『留まっているのである!』。
若し、
『証を取れば!』、
『辟支仏と成る!』が、
『仏に成ろうとした!』が故に、
『証しないのである!』。



有る菩薩は無量劫の修行で、阿耨多羅三藐三菩提を得る

【經】舍利弗。有菩薩摩訶薩。無量阿僧祇劫修行。得阿耨多羅三藐三菩提 舎利弗、有る菩薩摩訶薩は、無量阿僧祇劫に行を修し、阿耨多羅三藐三菩提を得。
舎利弗!
有る、
『菩薩摩訶薩』は、
『無量阿僧祇に、行を修めて!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得る!』。
【論】釋曰。是菩薩雖種善根求阿耨多羅三藐三菩提。以鈍根雜行故久乃得之。以深種善根故必得 釈して曰く、是の菩薩は善根を種えて、阿耨多羅三藐三菩提を求むと雖も、鈍根にして行を雑うるを以っての故に、久しくすれば乃ち、之を得るも、善根を深く種うるを以っての故に必ず得るなり。
釈す、
是の、
『菩薩』は、
『善根を種えて!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『求めていた!』が、
『鈍根であり!』、
『行』を、
『雑えた!』が故に、
『久しくすれば、乃ち( after an extremely long time )!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得ることになる!』が、
『深く、善根を種えた!』が故に、
『必ず!』、
『得るのである!』。



有る菩薩は謬錯を恐れるが故に、無益の事を説かない

【經】舍利弗。有菩薩摩訶薩。住六波羅蜜。常懃精進利益眾生。不說無益之事 舎利弗、有る菩薩摩訶薩は、六波羅蜜に住して、常に精進を懃めて、衆生を利益し、無益の事を説かず。
舎利弗!
有る、
『菩薩摩訶薩は、六波羅蜜に住して!』、
『常に精進を懃め、衆生を利益して!』、
『無益の事』を、
『説かない!』。
【論】釋曰。是菩薩先有惡口故。發菩薩心願言。我永離口四過行是道。 釈して曰く、是の菩薩は、先に悪口有るが故に、菩薩心を発すに、願うて言わく、『我れは、永く口の四過を離れ、是の道を行ぜん』、と。
釈す、
是の、
『菩薩』は、
『先に、悪口することが有った!』が故に、
『菩薩の心』を、
『発し!』、
『願って!』、こう言ったのである、――
わたしは、
永く、
『口の四過(妄語、両舌、悪口、綺語)』を、
『離れ!』、
是の、
『道』を、
『行じよう!』、と。
復次此菩薩知是般若波羅蜜中諸法無有定相不可著不可說相故。如是知能利益者皆是佛法。若不能利益。雖種種好語非是佛法。譬如種種好藥不能破病不名為藥。趣得土泥等能差病者是名為藥。以是故恐其謬錯故。不說無益之事 復た次ぎに、此の菩薩の知るらく、『此の般若波羅蜜中の諸法には、定相有ること無く、著すべからず、相を説くべからざるが故に、是の如く知り、能く利益すれば、皆是れ仏法なるも、若し利益する能わざれば、種種の好語なりと雖も、是れ仏法に非ず』、と。譬えば、種種の好薬は、病を破る能わざれば、名づけて薬と為さず、趣いて土泥等を得るも、能く病を差(いや)せば、是れを名づけて、薬と為すが如し。是を以っての故に、其の謬錯を恐るるが故に、無益の事を説かず。
復た次ぎに、
此の、
『菩薩』は、こう知るのである、――
是の、
『般若波羅蜜中の諸法( the Dharmas belonging to the p.-p. )!』には、
『定相が無く!』、
『著すこともできず!』、
『相を説くこともできない!』が故に、
是のように、
『諸法の相を知って!』、
『衆生を利益することができれば!』、
是の、
『法』は、
『皆、仏法である!』が、
若し、
『衆生を利益することができなければ!』、
『種種の!』、
『好語であったとしても!』、
是の、
『法』は、
『仏法ではない!』、と。
譬えば、
『種種の好薬』も、
『病を破ることができなければ!』、
『薬』と、
『呼ばれず!』、
『趣いて得た、土泥等であっても!』、
『病を差すことができれば!』、
『薬』と、
『呼ばれるようなものである!』。
是の故に、
『種種の好語』の、
『謬錯を恐れる!』が故に、
『無益の事』は、
『説かないのである!』。



有る菩薩は一仏国より一仏国に至り、三悪道を断じる

【經】舍利弗。有菩薩摩訶薩。行六波羅蜜。常懃精進利益眾生。從一佛國至一佛國。斷眾生三惡道 舎利弗、有る菩薩摩訶薩は、六波羅蜜を行じ、常に精進を懃めて、衆生を利益し、一仏国より、一仏国に至りて、衆生の三悪道を断ず。
舎利弗!
有る、
『菩薩摩訶薩は、六波羅蜜を行じて!』、
『常に、精進して!』、
『衆生』を、
『利益し!』、
『一仏国より、一仏国に至って!』、
『衆生の三悪道』を、
『断じる!』。
【論】釋曰。是菩薩住六神通到十方世界。遮上中下三種不善道 釈して曰く、是の菩薩は、六神通に住し、十方の世界に到りて、上中下三種の不善道を遮するなり。
釈す、
是の、
『菩薩は、六神通に住して!』、
『十方の世界に到り!』、
『上、中、下三種の不善道』を、
『遮るのである!』。



有る菩薩は檀を首と為して、六波羅蜜に住する

【經】舍利弗。有菩薩摩訶薩。住六波羅蜜以檀為首。安樂一切眾生。須飲食與飲食。衣服臥具瓔珞花香房舍燈燭。隨其所須皆給與之 舎利弗、有る菩薩摩訶薩は、六波羅蜜に住して、檀を以って首と為し、一切の衆生を安楽ならしめ、飲食を須むれば、飲食を与え、衣服、臥具、瓔珞、花香、房舎、灯燭は、其の須(もと)むる所に随いて、皆之を給与す。
舎利弗!
有る、
『菩薩摩訶薩』は、
『六波羅蜜に住しながら!』、
『檀』を、
『首と為す!』ので、
『一切の衆生を安楽にする!』にも、
『飲食を須める!』者には、
『飲食』を、
『与え!』、
『衣服、臥具、瓔珞、花香、房舎、灯燭』も、
『須められるがままに!』、
『皆、給与するのである!』。
【論】釋曰。菩薩有二種。一者能令眾生離苦。二者能與樂。復有二種。一者憐愍三惡道眾生。二者憐愍人。是菩薩與眾生樂。憐愍人故。隨所須皆與之 釈して曰く、菩薩には二種有り、一には能く衆生をして、苦を離れしめ、二には能く楽を与う。復た二種有り、一には三悪道の衆生を憐愍し、二には人を憐愍す。是の菩薩の衆生に楽を与え、人を憐愍するが故に、須むる所に随いて、皆之を与うるなり。
釈す、
『菩薩』には、
『二種有り!』、
一には、
『衆生』を、
『苦より!』、
『離れさせ!』、
二には、
『衆生』に、
『楽』を、
『与える!』。
復た、
『二種有り!』、
一には、
『三悪道の衆生』を、
『憐愍し!』、
二には、
『人』を、
『憐愍する!』。
是の、
『菩薩は、衆生に楽を与え!』、
『人を憐愍する!』が故に、
『須められるがままに!』、
『皆、与えるのである!』。



有る菩薩は仏に変じて、三悪の衆生の為めに法を説く

【經】舍利弗。有菩薩摩訶薩。行般若波羅蜜時。變身如佛。為地獄中眾生說法。為畜生餓鬼中眾生說法 舎利弗、有る菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行ずる時、身を仏の如きに変じて、地獄中の衆生の為めに法を説き、畜生、餓鬼中の衆生の為めに法を説く。
舎利弗!
有る、
『菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行じる!』時、
『仏のように、身を変じて!』、
『地獄、畜生、餓鬼中の衆生の為め!』に、
『法』を、
『説くのである!』。
【論】問曰。是菩薩何以故變作佛身。似不尊重佛。 問うて曰く、是の菩薩は、何を以っての故にか、変じて仏身と作すや。仏を尊重せざるに似たり。
問い、
是の、
『菩薩』は、
何故、
『身を変じて!』、
『仏身』と、
『作すのですか?!』、
『仏』を、
『尊重しない!』のに、
『似ていますが( it looks as if )!』。
答曰。有眾生見佛身得度者。或有見轉輪聖王等餘身得度者。以是故變身作佛。 答えて曰く、有る衆生は、仏身を見て、度を得る者なり。或は有るは転輪聖王等の餘の身を見て、度を得る者なり。是を以っての故に身を変じて仏と作る。
答え、
有る、
『衆生』は、
『仏身を見て!』、
『度』を、
『得る者であり!』、
或は、有る、
『衆生』は、
『転輪聖王等の餘の身を見て!』、
『度』を、
『得る者である!』。
是の故に、
『身を変じて!』、
『仏』と、
『作るのである!』。
復次世間稱佛名字是大悲是世尊。若以佛身入地獄者。則閻羅王諸鬼神不遮礙。是我所尊者師云何可遮。 復た次ぎに、世間は仏の名字を、是れ大悲なり、是れ世尊なりと称(たた)うれば、若し仏身を以って、地獄に入れば、則ち閻羅王の諸鬼神も、『是れ我が尊ぶ所の者なり。師をば、云何が遮すべきや』、と遮礙せず。
復た次ぎに、
『世間』は、
『仏の名字』を、
『是れが大悲である、是れが世尊である!』と、
『称える!』ので、
若し、
『仏身と作って、地獄に入れば!』、
『閻羅王の諸鬼神』も、
『是れはわたしの尊ぶ所の者である。師なのに、何故遮られるのか?』と、
『遮礙しないからである!』。
問曰。若地獄中火燒常有苦痛。心常散亂不得受法。云何可化。 問うて曰く、若し地獄中の火に焼かるれば、、常に苦痛有り、心は常に散乱して、法を受くるを得ず。云何が化すべき。
問い、
若し、
『地獄中に火に焼かれれば!』、
『常に、苦痛が有って!』、
『常に、心が散乱する!』ので、
『法』を、
『受けることができない!』。
何のようにして、
『化されるのですか?』。
答曰。是菩薩以不可思議神通力。破鑊滅火禁制獄卒。放光照之眾生心樂。乃為說法聞則受持。 答えて曰く、是の菩薩は不可思議の神通力を以って、鑊(かま)を破り、火を滅して獄卒を禁制し、光を放ち、之を照らして衆生の心を楽ならしめ、乃ち為めに法を説けば、聞いて則ち受持す。
答え、
是の、
『菩薩』は、
『不可思議の神通力を用いて!』、
『鑊を破り、火を滅して!』、
『獄卒』を、
『禁制し!』、
『光を放ち、衆生を照らして!』、
『心』を、
『楽にさせてから!』、
乃ち( at last )、
『衆生の為めに、法を説けば!』、
『聞いて!』、
『受持するのである!』。
  (かく):大釜。
問曰。若爾者地獄眾生有得道者不。 問うて曰く、若し爾らば、地獄の衆生にして、道を得る者有りや、不や。
問い、
若し、爾うならば、
『地獄の衆生』にも、
『道を得る!』者が、
『有るのですか?』。
答曰。雖不得道種得道善根因緣。所以者何。以重罪故不應得道。畜生道中當分別。或得者或不得者。如阿那婆達多龍王沙竭龍王等得菩薩道。鬼神道中如夜叉密跡金剛鬼子母等有得見道。是大菩薩 答えて曰く、道を得ずと雖も、道を得る善根の因縁を種うればなり。所以は何んとなれば、重罪を以っての故に応に道を得るべからざるも、畜生道中には当に分別すべく、或は得る者、或は得ざる者なり。阿那婆達多龍王、沙竭龍王等の菩薩道を得たるが如き、鬼神道中には、夜叉の密跡、金剛、鬼子母等の如く、見道を得る有りて、是れ大菩薩なり。
答え、
『道を得られなくても!』、
『道を得る!』、
『善根の因縁』を、
『種えるからである!』。
何故ならば、
『重罪の地獄である!』が故に、
『道』を、
『得られるはずがない!』が、
『畜生道』中には、
『得る者と、得られない者とに!』、
『分別すべきであり!』、
例えば、
『阿那婆達多龍王や、沙竭龍王等』は、
『菩薩道』を、
『得ており!』、
『鬼神道』中には、
例えば、
『夜叉の密跡、金剛、鬼子母等のように!』、
『見道を得る!』者が、
『有り!』、
是れは、
『大菩薩である!』。
  鬼子母(きしも):大藥叉女神の名。『大智度論巻39(上)注:鬼子母神』参照。
  鬼子母神(きしもじん):梵名訶利帝haariitiiの意訳。又訶利底、柯利帝、訶梨帝、哥利底、呵利底、呵利陀、可梨陀に作り、或は訶利帝母とも云う。青色、黄色、青衣等と訳す。大藥叉女神の名。又歓喜母、愛子母、天母、或は功徳天等の称あり。「有部毘奈耶雑事巻31」に、「其の女生まるる時、諸の藥叉衆咸く皆歓慶す。諸親字を立てて名づけて歓喜と曰う」と云い、又「我が男女を取りて食に充つ、則ち是れ悪賊藥叉なり。何ぞ歓喜と名づけんや。此に因りて諸人皆喚んで訶利底藥叉女と為す」と云えり。以って其の名称の由来を知るべし。鬼子母の本縁に関しては、「雑宝蔵経巻9」に、鬼子母は是れ老鬼神王般闍迦の妻にして子一万あり、皆大力士なり。其の最小を嬪伽羅piyaNkaraと名づく。此の鬼子母兇妖暴悪にして、人の児子を殺して以って自ら噉食す。人民之を患いて仰いで仏に告ぐ。仏即ち其の愛子嬪伽羅を取り、盛りて鉢底に著く。時に鬼子母は天下を周遊して七日の中、其の子を推求すれども得ず、愁憂懊悩す。適ま仏世尊は一切智なりと聞き、即ち仏所に至りて児の所在を問う。時に仏答えて曰わく、汝万子ありて、今唯だ一子を失う。何が故に苦悩愁憂して之を推覓するや。世間の人民は或は一子あり、或は五三子あり。而も汝は之を殺害するにあらずやと。鬼子母時に仏に白して曰わく、我れ今若し嬪伽羅を得ば、終に更に世人の子を殺さじと。仏即ち鬼子母をして嬪伽羅を見せしむるに、鉢下に在り。其の神力を尽くすも得て取ること能わず。還って仏に求む。仏の言わく、汝今若し能く三帰五戒を受け、寿を尽くすまで殺さずんば、当に汝の子を還すべしと。鬼子母は即ち仏勅の如く三帰五戒を受け、受持し訖りて後、仏為に其の子を還し給いたりと云えり。此の説話は「鬼子母経」、「有部毘奈耶雑事巻31」、「大藥叉女歓喜母并愛子成就法」、及び「摩訶摩耶経巻上」等にも記載せるも、其の中、「鬼子母経」には彼れに千子あり、五百は天上、五百は世間に在りとし、「有部毘奈耶雑事」並びに「歓喜母成就法」には単に五百とし、其の他記事に多少の相違あり。又「南海寄帰内法伝巻1受斎軌則」の條に、行食の末に於いて食一盤を安んじ、以って訶利底母に供うべきこと、及び此の母神の本縁を略叙し、且つ其の下に「故に西方の諸寺、毎に門屋の処に於いて、或る食廚の辺に在りて、母形一児子を抱き、其の膝下に於いて或は五或は三を素画して、以って其の像を表し、毎日前に於いて盛陳供食す。其の母は乃ち是れ四天王の衆にして、大豊勢力あり。其の疾病ありて児息なきもの、饗食して之に薦めば咸く皆願を遂ぐ」と記せり。之に依るに当時印度に於いて、産生の女神として諸寺に安置せられたるを見るべし。又「摩訶摩耶経巻上」、「七星如意輪秘密要経」、「七仏八菩薩所説大陀羅尼神呪経巻4」、「仏母大孔雀明王経巻下」、「翻梵語巻7」等に出づ。<(望)



有る菩薩は諸仏より、十方の国土の浄妙の相を聞く

【經】舍利弗。有菩薩摩訶薩。行六波羅蜜時。變身如佛遍至十方如恒河沙等諸佛世界。為眾生說法。亦供養諸佛及淨佛世界。聞諸佛說法。觀採十方淨妙國土相。而以自起殊勝世界。其中菩薩摩訶薩皆是一生補處 舎利弗、有る菩薩摩訶薩は、六波羅蜜を行ずる時、身を仏の如く変じて、遍く十方の恒河沙に等しきが如き諸仏の世界に至りて、衆生の為めに法を説き、亦た諸仏を供養し、及び仏世界を浄め、諸仏の説法を聞き、十方の浄妙の国土の相を観て採り、以って自ら殊勝の世界を起て、其の中の菩薩摩訶薩は、皆是れ一生補処なり。
舎利弗!
有る、
『菩薩摩訶薩は、六波羅蜜を行ずる!』時、
『仏のように、身を変じて!』、
遍く、
『十方の恒河沙に等しいほどの諸仏の世界に至り!』、
『衆生の為め!』に、
『法を説き!』、
亦た、
『諸仏を供養して、仏世界を浄めながら!』、
『諸仏の説法』を、
『聞き!』、
『十方の国土』の、
『浄妙の相』を、
『観て採り!』、
自ら、
『最も浄妙の相を用いて!』、
『殊勝の世界』を、
『起てるのであり!』、
其の中の、
『菩薩摩訶薩』は、
『皆、一生補処なのである!』。
【論】釋曰。是菩薩遍為六道說法。以佛身為十方眾生說法。若眾生聞弟子教者不能信受。若聞佛獨尊自在者說法信受其語。是菩薩二事因緣故供養諸佛。莊嚴世界聞莊嚴世界法。到十方佛國取清淨世界相。行業因緣轉復殊勝光明亦多。所以者何。此國土中皆一生補處菩薩。 釈して曰く、是の菩薩は、遍く六道の為めに法を説き、仏身を以って、十方の衆生の為めに法を説く。若し衆生、弟子の教を聞けば、信受する能わざるも、若し仏、独尊、自在の者の説法を聞けば、其の語を信受すればなり。是の菩薩は二事の因縁の故に諸仏を供養し、諸仏を供養し、世界を荘厳するに、世界を荘厳する法を聞き、十方の仏国に至って、清浄の世界の相を取るに、行業の因縁転ずれば、復た殊勝の光明も亦た多し。所以は何んとなれば、此の国土中は、皆一生補処の菩薩なればなり。
釈す、
是の、
『菩薩』は、
『遍く、六道の為め!』に、
『法』を、
『説くのに!』、
『十方の、衆生の為め!』に、
『仏身と作って!』、
『法を説く!』のは、
若し、
『衆生』が、
『弟子より!』、
『教を聞けば!』、
其の、
『語』を、
『信受することはできなくても!』、
若し、
『仏、独尊、自在者の説く!』、
『法を聞けば!』、
其の、
『語』を、
『信受するからである!』。
是の、
『菩薩』は、
『説法、聞法の二事の因縁』の故に、
『諸仏を供養して!』、
『諸仏の世界』を、
『荘厳し!』、
『世界を荘厳する法を聞く!』と、
『十方の仏国に到って!』、
『清浄の世界の相』を、
『採取した!』ので、
『行業の因縁が転じて!』、
復た、
『殊勝の光明』も、
『多いのである!』。
何故ならば、
是の、
『国土』中は、
『皆、一生補処の菩薩だからである!』。
問曰。若先己說兜率天上一生補處菩薩。今云何說他方世界菩薩皆一生補處。 問うて曰く、若し先に已に、兜率天上の一生補処の菩薩を説くに、今は云何が、他方の世界の菩薩は皆一生補処なりと説く。
問い、
若し、
先に、
『兜率天上の一生補処の菩薩』が、
『説かれていれば!』、
今、何故、
『他方の世界の菩薩が、皆一生補処である!』と、
『説くのですか?』。
答曰。兜率天上一生補處者。是三千世界常法。餘處不定。所謂第一清淨者。轉身成佛故 答えて曰く、兜率天上の一生補処は、是れ三千世界の常法なるも、余処は不定なればなり。謂わゆる第一清浄なりとは、身を転じて、仏と成るが故なり。
答え、
『兜率天上の一生補処』は、
『三千世界』の、
『常法である!』が、
『餘の処』の、
『一生補処』は、
『不定だからである!』。
謂わゆる、
『第一に清浄である!』とは、
『身を転じて!』、
『仏と成ったからである!』。



有る菩薩は諸根浄利の故に、衆人に愛敬される

【經】舍利弗。有菩薩摩訶薩。行六波羅蜜時。成就三十二相諸根淨利。諸根淨利故眾人愛敬。以愛敬故漸以三乘法而度脫之。如是舍利弗。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。應學身清淨口清淨 舎利弗、有る菩薩摩訶薩は、六波羅蜜を行ずる時、三十二相の諸根の浄利を成就し、諸根浄利なるが故に衆人愛敬し、愛敬するを以っての故に、漸く三乗の法を以って、之を度脱す。是の如く、舎利弗、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずる時、応に身清浄、口清浄を学ぶべし。
舎利弗!
有る、
『菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行じる!』時、
『三十二相の諸根の浄利を成就しており!』、
『諸根が浄利である!』が故に、
『衆人に!』、
『愛敬され!』、
『衆人に、愛敬される!』が故に、
『漸く、三乗の法を用いて
gradually with the three doctrines of buddhist )!』、
之を、
『度脱するのである!』が、
是のように、
舎利弗!
『菩薩摩訶薩が、般若波羅蜜を行じる!』時には、
『身、口の清浄』を、
『学ばねばならないのである!』。
  浄利(じょうり):浄(梵 vizuddha )と利(梵 tiikSNa )との複合語、乃ち清浄利根( being free from vice and having sharp senses )の意。
【論】釋曰。是菩薩欲令眾生眼見其身得度故。以三十二相莊嚴身。諸根淨利者。眼等諸根明利出過餘人。信慧根諸心數根等利淨第一。見者歎其希有。我無此事。愛敬是菩薩信受其語。世世具足道法。以三乘道入涅槃。是三十二相眼等諸根。皆從身口業因緣清淨得。以是故佛說。菩薩應當淨身口業 釈して曰く、是の菩薩は、衆生をして、眼に其の身を見て、度を得しめんと欲するが故に、三十二相を以って、身を荘厳す。諸根の浄利とは、眼等の諸根の明利なること、餘人を出過し、信慧根、諸の心数根等の利浄第一なれば、見る者、其の希有を、『我れには、此の事無し』、と歎じて、是の菩薩を愛敬し、其の語を信受し、世世に道法を具足して、三乗の道を以って、涅槃に入る。是の三十二相の眼等の諸根は、皆、身口業の因縁の清浄なるによって得。是を以っての故に、仏は、『菩薩は、応当に身口業を浄むべし』、と説きたまえり。
釈す、
是の、
『菩薩』は、
『衆生』に、
其の、
『身を、眼に見させて!』、
『度』を、
『得させようとする!』が故に、
『三十二相を用いて!』、
『身』を、
『荘厳するのである!』。
『諸根が、浄利である!』とは
『眼等の諸根』が、
『餘人を出過して( to exceed other people )!』、
『明利であり!』、
『信根、慧根、諸の心数根』等が、
『利浄であること!』も、
『第一である!』ので、
『見る!』者は、
『菩薩の身の希有であること!』を、
『わたしには、此の事は無い!』と、
『歎じて!』、
是の、
『菩薩を愛敬して!』、
其の、
『語』を、
『信受し!』、
『世世に、道法を具足し!』、
『三乗の道より!』、
『涅槃に入る!』。
是の、
『三十二相の眼等の諸根』は、
皆、
『身、口の業という!』、
『因縁が、清浄であることにより!』、
『得られる!』ので、
是の故に、
『仏』は、こう説かれたのである、――
『菩薩』は、
『身、口の業を浄めねばならない!』、と。



有る菩薩は諸根の浄を得て、自ら高ぶらない

【經】舍利弗。有菩薩摩訶薩。行六波羅蜜時得諸根淨。以是淨根而不自高亦不下他 舎利弗、有る菩薩摩訶薩は、六波羅蜜を行ずる時、諸根の浄を得て、是の浄根を以って、自ら高ぶらず、亦た他を下さず。
舎利弗!
有る、
『菩薩摩訶薩は、六波羅蜜を行じる!』時、
『諸根の浄』を、
『得!』、
是の、
『浄根を用いる!』が故に、
『自ら、高ぶることもなく!』、
『他を、下すこともない!』。
【論】釋曰。是菩薩常深淨行六波羅蜜故。得眼等諸根淨利人皆愛敬。慧等諸心數法根淨利無比。為度眾生故。世間常法若得殊異心則自高。輕諸餘人。作是念。汝無此事我獨有此。以是因緣故還失佛道。 釈して曰く、是の菩薩は、常に深く、六波羅蜜を浄行するが故に、眼等の諸根の浄利を得れば、人、皆愛敬し、慧等の諸の心数法の根の浄利の無比なるは、衆生を度せんが為めの故なり。世間の常法は、若し殊異を得れば、心は則ち自ら高ぶり、諸余の人を軽んじて、是の念を作さく、『汝には、是の事無く、我れ独り、此れ有り』、と。是の因縁を以っての故に、還って仏道を失う。
釈す、
是の、
『菩薩』は、
『常に深く!』、
『六波羅蜜』を、
『浄行する!』が故に、
『眼等の諸根に浄利を得て!』、
『人』が、
『皆、愛敬するのであり!』、
『慧等の諸心数法の根が浄利であり、無比である!』のは、
『衆生』を、
『度す為めである!』。
『世間の常法』は、
若し、
『殊異の事を得れば!』、
『心』に、
『自らを、高くして!』、
『諸余の人を、軽んじ!』、
こう念じることになる、――
お前には、
此の、
『事』が、
『無く!』、
わたし、独りに、
『此れ!』が、
『有る!』、と。
是の、
『因縁』の故に、
還って( notwithstanding )、
『仏道まで!』、
『失うのである!』。
  浄行(じょうぎょう):梵語 vizuddha-carita の訳、雑じり気のない行( pure practice )の意。
如經中說。菩薩輕餘菩薩。念念一劫遠於佛道。經爾所劫更修佛道。以是故而不自高亦不下他 経中に説けるが如し、『菩薩にして、餘の菩薩を軽んずれば、念念に一劫仏道より遠ざかり、爾所(そこばく)の劫を経て、更に仏道を修するなり』、と。是を以っての故に、自ら高ぶらず、亦た他を下さざるなり。
『経』中には、こう説かれている、――
『菩薩』が、
『餘の菩薩を軽んじれば!』、
『念念ごと!』に、
『一劫だけ!』、
『仏道より遠ざかることになり!』、
『爾所の劫を経て( after some eons )!』、
『更に!』、
『仏道』を、
『修めることになる!』、と。
是の故に、
『自ら、高ぶらず!』、
『他』を、
『下さないのである!』。
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻13魔事品』:『復次須菩提。是菩薩摩訶薩作是念。是般若波羅蜜中。無我生處名字若聚落城邑。是人不欲聽聞般若波羅蜜。便從會中起去。是人如所起念時念念卻一劫。補當更勤精進求阿耨多羅三藐三菩提。』



有る菩薩は阿鞞跋致地に至るまで、終に悪道に堕ちない

【經】舍利弗。有菩薩摩訶薩。從初發心住檀波羅蜜尸羅波羅蜜。乃至阿鞞跋致地。終不墮惡道 舎利弗、有る菩薩摩訶薩は、初発心より檀波羅蜜、尸羅波羅蜜に住して、乃(すなわ)ち阿毘跋致地に至るまで終に、悪道に堕せず。
舎利弗!
有る、
『菩薩摩訶薩』は、
『初発心より!』、
『檀、尸羅波羅蜜』に、
『住する!』ので、
乃ち( just )、
『阿毘跋致地に至るまで!』、
終に、
『悪道』に、
『堕ちることはない!』。
【論】釋曰。是菩薩從初已來怖畏惡道。所作功德願不墜墮。乃至阿鞞跋致地者。以未到中間畏墮惡道故作願。菩薩作是念。若我墮三惡道者。自不能度何能度人。又受三惡道苦惱時。以瞋惱故結使增長。還起惡業復受苦報。如是無窮。何時當得修行佛道。 釈して曰く、是の菩薩は、初より已来、悪道を怖畏して、功徳を作す所は、乃ち阿鞞跋致地に至るまで墜墮せざるを願い、未だ到らざる中間にて悪道に堕するを畏るるを以っての故に、願を作す。菩薩の、是の念を作さく、『若し我れ、三悪道に堕すれば、自ら度する能わず、何んぞ能く人を度するや。又、三悪道の苦悩を受くる時には、瞋悩を以っての故に、結使増長し、還って悪業を起し、復た苦報を受けて、是の如く窮まること無ければ、何れの時にか、当に仏道を修行するを得べき』、と。
釈す、
是の、
『菩薩』は、
『初発心より!』、
『悪道』を、
『怖畏した!』ので、
『功徳を作す所( the aim of his good actions )』は、
乃ち、
『阿毘跋致地に至るまで!』、
『墜墮しないこと!』を、
『願うからであり!』、
未だ、
『阿鞞跋致地に到らない中間』に於いて、
『悪道に堕ちることを、畏れる!』が故に、
『願を作した!』ので、
『菩薩』は、こう念じたのである、――
若し、
わたしが、
『三悪道に堕ちれば!』、
『自ら!』を、
『度すこともできない!』のに、
何故、
『人』を、
『度すことができるのか?』。
又、
『三悪道の苦悩を受ける!』時には、
『瞋悩』の故に、
『結使』が、
『増長して!』、
還って、
『悪業』を、
『起して!』、
復た、
『苦報』を、
『受けるので!』、
是のように、
『窮( the end )』が、
『無い!』。
何時になれば、
『仏道』を、
『修行することができるのか?』、と。
  未到地(みとうじ):又未到定、未至定という。上界八地に各根本定と近分定と有り。欲界の修惑を断じて発す所の禪定を初禅の根本定と為し、乃至無所有処の修惑を断ずる所得の禅定を、非想処の根本定と為す。又欲界の煩悩を伏して発する近似の初禅根本定を初禅の近分定と為し、乃至無所有処の煩悩を伏して発する非想処根本定に近似の禅定を非想処の近分定と為す。此の如き八根本定、八近分定の中、初禅の近分定には他の近分定と相異する点が有り、故に別に名を立て、之を未至定と謂い、未至根本定の義を言う。近分の義は亦た此れに同じ。<(丁)
  中間地(ちゅうげんじ):又中間定、中間三昧、中間静慮、中間禅とも名づく。大梵天王所得の禅定なり。色界、無色界を通じて八地有り、毎一地に各近分定と根本定と有り。其の中の初禅地の近分定と根本定は尋、伺の心所に相応し、第二禅以上の七地の近分定と根本定とは、則ち尋、伺に皆相応せずして、而も寂静を至極す。然るに其の中間に、唯だ伺の心所のみ相応し、尋の心所の相応せざる禅定有り、是れを中間定と名づけ、之を修す者は初禅天の頂上に在る大梵天王にして、彼れは常に此の禅定に住すと為す。「倶舎論巻28」に、「初の本、近分は尋、伺に相応し、上の七定中は皆尋、伺無く、唯だ中静慮には伺有りて尋無し、故に彼の勝の初、未、及び第二は、此の義に依るが故に中間を立てて名づく。(中略)此の定は能く大梵処の果を招く、多く修習すれば、大梵と為るが故に」と云えり。<(丁)
問曰。若持戒果報不墮惡道者。何以復說布施。 問うて曰く、若し持戒の果報もて、悪道に堕せざれば、何を以ってか、復た布施を説く。
問い、
若し、
『持戒の果報』が、
『悪道』に、
『堕ちないことであれば!』、
何故、
復た、
『布施』を、
『説くのですか?』。
答曰。持戒是不墮惡道根本。布施亦能不墮 答えて曰く、持戒は、是れ悪道に堕せざる根本なるも、布施も亦た能く堕せしめず。
答え、
『持戒』は、
『悪道に堕ちない!』、
『根本である!』が、
『布施』も、
『悪道』に、
『堕ちさせないのである!』。
復次菩薩持戒雖不墮惡道中。生人中貧窮。不能自利又不益人。以是故行布施。餘波羅蜜各有其事 復た次ぎに、菩薩は持戒して、悪道中に堕せずと雖も、人中の貧窮に生ずれば、自ら利する能わずして、又人を益せず。是を以っての故に、布施を行じ、餘の波羅蜜も各に其の事有り。
復た次ぎに、
『菩薩』が、
『持戒して!』、
『悪道』中に、
『堕ちなくても!』、
『人中の貧窮に生じれば!』、
『自ら!』を、
『利することもできず!』、
又、
『人』を、
『利益することもない!』ので、
是の故に、
『布施』を、
『行じるのであり!』、
『餘の波羅蜜』にも、
各に、
『其の事( its facility )!』が、
『有るのである!』。



有る菩薩は初発心より、常に十善行を捨てない

【經】舍利弗。有菩薩摩訶薩。從初發心乃至阿鞞跋致地。常不捨十善行 舎利弗、有る菩薩摩訶薩は、初発心より、乃ち阿鞞跋致地に至るまで、常に十善行を捨てず。
舎利弗!
有る、
『菩薩摩訶薩』は、
『初発心より、阿毘跋致地に至るまで!』、
常に、
『十善行』を、
『捨てることがない!』。
【論】釋曰。佛說持戒故不墮惡道布施隨逐。今不知云何行尸羅波羅蜜。乃至阿鞞跋致地。是故復說常行十善。 釈して曰く、仏の、『持戒の故に、悪道に堕ちざれば、布施は随逐す』、と説きたもうに、今、何んが尸羅波羅蜜を行じて、乃ち、阿毘跋致地に至るを知らざれば、是の故に復た、『常に十善を行ず』、と説きたまえり。
釈す、
『仏』は、――
『持戒する!』が故に、
『悪道』に、
『堕ちなければ!』、
『布施』の、
『功徳が随逐する!』と、
『説かれた!』が、
今、
何のように、
『尸羅波羅蜜を行じて、乃ち阿毘跋致地に至るのか?』を、
『知らない!』ので、
是の故に、
復た、
『常に、十善を行じるのである!』と、
『説かれたのである!』。
復次先菩薩持戒不牢固布施隨助。今說但持戒牢固不捨十善不墮三惡道 復た次ぎに、先には、『菩薩の持戒牢固ならざれば、布施随いて助く』、とするも、今は、『但だ、持戒牢固にして、十善を捨てざれば、三悪道に堕せず』、と説きたもう。
復た次ぎに、
先には、こう説かれたが、――
『菩薩の持戒が、牢固でなければ!』、
『布施』が、
『随って、助ける!』、と。
今は、こう説かれたのである、――
但だ、
『持戒が牢固で、十善を捨てない者だけ!』が、
『三悪道』に、
『堕ちない!』、と。



有る菩薩は転輪聖王と作り、衆生を十善道に安立する

【經】舍利弗。有菩薩摩訶薩。住檀波羅蜜尸羅波羅蜜中。作轉輪聖王安立眾生。於十善道亦以財物布施眾生 舎利弗、有る菩薩摩訶薩は、檀波羅蜜、尸羅波羅蜜中に住して、転輪聖王と作り、衆生を十善道に安立し、亦た財物を以って、衆生に布施す。
舎利弗!
有る、
『菩薩摩訶薩は檀、尸羅波羅蜜中に住して!』、
『転輪聖王と作り!』、
『衆生』を、
『十善道』に、
『安立させて!』、
『衆生』に、
『財物』を、
『布施する!』。
  安立(あんりゅう):梵語 pratiSThita の訳、堅固に立つ( standing firmly )の義。
【論】釋曰。是檀尸波羅蜜因緣故。作轉輪聖王。行尸羅波羅蜜故。能令眾生信受十善。行檀波羅蜜故。以財寶給施眾生亦不可盡。 釈して曰く、是の檀、尸波羅蜜の因縁の故に、転輪聖王と作り、尸羅波羅蜜を行ずるが故に、能く衆生をして、十善を信受せしめ、檀波羅蜜を行ずるが故に、財宝を以って、衆生に給施し、亦た尽すべからず。
釈す、
是の、
『檀、尸羅波羅蜜の因縁( because of the dana-p. and sila-p. )』の故に、
『転輪聖王と作って!』、
『尸羅波羅蜜を行じる!』が故に、
『衆生に!』、
『十善を信受させ!』、
『檀波羅蜜を行じる!』が故に、
『財宝を衆生に給施しても!』、
『尽すことがない!』。
問曰。一切菩薩皆行是二波羅蜜。作轉輪聖王不。 問うて曰く、一切の菩薩は皆、是の二波羅蜜を行じて、転輪聖王と作るや不や。
問い、
『一切の菩薩は、皆!』、
是の、
『二波羅蜜を行じて!』、
『転輪聖王』と、
『作るのですか?』。
答曰。不必然也。何以故。如此品中。諸菩薩種種法入佛道。有菩薩聞轉輪聖王儀法。在此處能利益眾生故作是願。或有菩薩種轉輪聖王因緣。雖不作願亦得轉輪聖王報。自行二波羅蜜故。作轉輪聖王。亦教一切眾生行十善道。亦自行布施。聞者生疑。為一世作為世世作。以是故 答えて曰く、必ずしも然らざるなり。何を以っての故に、此の品中の如く、諸菩薩は、種種の法もて、仏道に入ればなり。有る菩薩は転輪聖王の儀法は、此の処に在りて、能く衆生を利益すと聞くが故に、是の願を作す。或は有る菩薩は、転輪聖王の因縁を種うれば、願を作さずと雖も、亦た転輪聖王の報を得、自ら二波羅蜜を行ずるが故に、転輪聖王と作り、亦た一切の衆生に教えて、十善道を行ぜしめ、亦た自ら布施を行ず。聞く者の疑を生ずらく、『一世に作ると為すや、世世に作ると為すや』、と。是を以っての故に、‥‥
答え、
必ずしも、
『転輪聖王』と、
『作るのではない!』。
何故ならば、
此の、
『品中に説くように!』、――
『諸の菩薩』は、
『種種の法を用いて!』、
『仏道に入るからである!』。
有る、
『菩薩』は、
『転輪聖王の儀法( the manner of Chakravartin's behaviour )』は、
此の、
『処に在りながら!』、
『衆生を利益することができる!』と、
『聞いた!』が故に、
是の、
『願』を、
『作すのである!』。
有る、
『菩薩』は、
『転輪聖王の因縁を種えた!』が故に、
『願を作さずに!』、
『転輪聖王の報』を、
『得て!』、
『自ら、二波羅蜜を行じた!』が故に、
『転輪聖王と作って!』、
『一切の衆生を教えて!』、
『十善道』を、
『行じさせ!』、
『自らも!』、
『布施』を、
『行じるのである!』が、
『聞いた!』者が、
『一世だけ、転輪聖王と作るのだろうか?』、
『世世に、転輪聖王と作るのだろうか?』と、
『疑』を、
『生じる!』ので、
是の故に、――



有る菩薩は檀、尸羅波羅蜜に住して、無量世に転輪聖王と作る

【經】佛告舍利弗。有菩薩摩訶薩。住檀波羅蜜尸羅波羅蜜。無量千萬世作轉輪聖王。值遇無量百千諸佛。供養恭敬尊重讚歎 仏の舎利弗に告げたまわく、『有る菩薩摩訶薩は、檀波羅蜜、尸羅波羅蜜に住して、無量千万世に転輪聖王と作り、無量百千の諸仏に値遇して、供養、恭敬、尊重、讃歎す』、と。
『仏』は、
『舎利弗』に、こう告げられた、――
有る、
『菩薩摩訶薩は檀、尸羅波羅蜜に住して!』、
『無量千万世』に、
『転輪聖王』と、
『作り!』、
『無量百千の諸仏に値遇して!』、
『供養し!』、
『恭敬、尊重、讃歎する!』、と。
【論】釋曰。若菩薩知作轉輪聖王大益眾生者。便作轉輪聖王。若自知餘身益大亦作餘身。 釈して曰く、若し菩薩、転輪聖王と作れば、大いに衆生を益すと知れば、便ち転輪聖王と作り、若し自ら、餘身の益すること大なるを知れば、亦た餘身と作る。
釈す、
若し、
『菩薩』が、
『転輪聖王に作れば!』、
『衆生を大いに益することになる!』と、
『知れば!』、
便ち( then )、
『転輪聖王』と、
『作り!』、
若し、
『餘身のほうが!』、
『利益が大きい!』と、
『知れば!』、
亦た、
『餘身』と、
『作る!』。
復次欲以世間法大供養佛故。作轉輪聖王 復た次ぎに、世間法を以って、大いに仏を供養せんと欲するが故に、転輪聖王と作る。
復た次ぎに、
『世間法を用いて!』、
『仏』を、
『大いに!』、
『供養しようとして!』、
是の故に、
『転輪聖王』と、
『作るのである!』。



有る菩薩は身口意の不浄を妄起させない

【經】舍利弗。有菩薩摩訶薩。常為眾生以法照明亦以自照。乃至阿耨多羅三藐三菩提終不離照明。舍利弗。是菩薩摩訶薩於佛法中已得尊重。舍利弗。以是故菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。身口意不淨不令妄起 舎利弗、有る菩薩摩訶薩は、常に衆生の為めに法を以って、照明し、亦た以って自ら照らし、乃ち阿耨多羅三藐三菩提に至るまで、終に照明を離れず。舎利弗、是の菩薩摩訶薩は、仏法中に於いて、已に尊重を得れば、舎利弗、是を以っての故に、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずる時、身、口、意の不浄をして、妄(みだり)に起こらざらしむ。
舎利弗!
有る、
『菩薩摩訶薩』は、
常に、
『衆生の為めに!』、
『法を用いて!』、
『照明し!』、
亦た、
『自らの為め!』にも、
『照らして!』、
乃ち、
『阿耨多羅三藐三菩提に至るまで!』、
終に、
『照明より!』、
『離れることがない!』。
舎利弗!
是の、
『菩薩摩訶薩』は、
『仏法』中に於いて、
已に、
『尊重( the respect )』を、
『得ているのである!』。
舎利弗!
是の故に、
『菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行じる!』時、
『身、口、意』中に、
『不浄』を、
『妄起させないのである( does not let it arise )!』。
  妄起(もうき):梵語 abhiniviSTa の訳、突き進んだ状態( entered or plunged into )の義、没頭したさま( intent on )の意。
  尊重(そんじゅう):◯梵語 guru-kRta の訳( highly prized or praised, worshipped )の義、◯梵語 aadara の訳、尊敬/厚遇( respect, regard, notice )の義、◯梵語 guru の訳、尊敬される人/精神上の師( a venerated one, a spiritual teacher )の義。
【論】釋曰。上菩薩行檀尸波羅蜜作轉輪聖王。是菩薩但分別諸經。讀誦憶念思惟分別諸法以求佛道。以是智慧光明自利益。亦能利益眾生。 釈して曰く、上の菩薩は、檀、尸羅波羅蜜を行じて、転輪聖王と作る。是の菩薩は、但だ諸経を分別して、読誦、憶念、思惟し、諸法を分別して、以って仏道を求め、是の智慧の光明を以って、自ら利益し、亦た能く衆生を利益す。
釈す、
上の、
『菩薩』は、
『檀、尸羅波羅蜜を行じて!』、
『転輪聖王と作って!』、
『衆生』を、
『利益したのである!』が、
是の、
『菩薩』は、
但だ、
『諸経を分別して!』、
『読誦し、憶念し!』、
『思惟し!』、
『諸法を分別して!』、
『仏道』を、
『求めるだけで!』、
是の、
『智慧の光明を用いて!』、
『自ら!』を、
『利益し!』、
亦た、
『衆生』を、
『利益することができるのである!』。
如人闇道中然燈。亦能自益亦能益人。終不離者。是因緣故終不離智慧光明乃至阿耨多羅三藐三菩提。 人の闇道中に灯を然(もや)せば、亦た能く自ら益し、亦た能く人を益するが如し。終に離れずとは、是の因縁の故に終に、智慧の光明を離れずして、乃ち阿耨多羅三藐三菩提に至るなり。
譬えば、
『人』が、
『闇道中に灯を然せば!』、
『自ら!』、
『益することもでき!』、
亦た、
『人をも!』、
『益することができるようなものである!』。
『終に、離れない!』とは、
是の、
『因縁(闇中の灯の譬喻)』の故に、
終に、
『智慧の光明を離れなければ!』、
乃ち、
『阿耨多羅三藐三菩提』に、
『至るからである!』。
復次是菩薩清淨法施不求名利供養恭敬。不貪弟子不恃智慧。亦不自高輕於餘人。亦不譏刺。但念十方諸佛慈心念眾生。我亦如是。學佛道說法。無所依止適無所著。但為眾生令知諸法實相。如是清淨說法。世世不失智慧光明。乃至阿耨多羅三藐三菩提。 復た次ぎに、是の菩薩の清浄の法施は、名利、供養、恭敬を求めず、弟子を貪らず、智慧を恃(たの)まず、亦た自ら高くして、餘人を軽んぜず、亦た譏刺せず、但だ十方の諸仏の慈心を念じて、衆生を念ずらく、『我れも亦た是の如く、仏道を学びて法を説き、依止する所無く、適(かな)いて著する所無く、但だ衆生の為めに、諸法の実相を知らしめん』、と。是の如く清浄に法を説き、世世に智慧の光明を失わず、乃ち阿耨多羅三藐三菩提に至る。
復た次ぎに、
是の、
『菩薩の清浄の法施』は、
『名利、供養、恭敬を求めるものでもなく!』、
『弟子を貪るのでもなく!』、
『智慧を恃むものでもなく!』、
『自ら高ぶり!』、
『餘人を軽んじるものでもなく!』、
『譏刺するものでもなく!』、
但だ、
『十方の諸仏の慈心を念じ、衆生を念じて!』、こう言うのである、――
わたしも、
亦た、
是のように、
『仏道を学んで、法を説きながら!』、
『依止する所も、著する所も!』、
『無い!』。
但だ、
『衆生の為め!』に、
『諸法の実相』を、
『知らしめるだけである!』、と。
是のように、
『清浄に説法すれば!』、
世世に、
『智慧の光明』を、
『失うこともなく!』、
乃ち、
『阿耨多羅三藐三菩提』に、
『至るのである!』。
  譏刺(きし):人を嘲笑で突き刺す( thrust with a ridicule )、あてこする( satirize )。
已得尊重者。上諸菩薩能如是者。於諸眾生皆為尊重。 已に、尊重を得とは、上の諸菩薩は是の如きを能くする者なれば、諸の衆生に於いて、皆尊重せらるればなり。
『已に、尊重を得た!』とは、
上の、
『諸菩薩が、是のようにすれば!』、
『諸の衆生』に、
『皆、尊重されるからである!』。
身口意不淨不令妄起者。能以清淨法施者。不應雜起身口意惡業。所以者何。若起身口意惡者。聞者或不信受。若意業不淨智慧不明。智慧不明不能善行菩薩道。 身口意の不浄を妄起せしめずとは、能く清浄の法を以って施せば、応に身口意の悪業を起すを雑うべからざればなり。所以は何んとなれば、若し身口意の悪を起せば、聞く者も或は信受せず。若し意業不浄なれば、智慧明ならずして、智慧明ならざれば、善く、菩薩道を行ずる能わざればなり。
『身口意の不浄を妄起させない!』とは、
『清浄の法を施せば!』、
『身口意の悪業を起すのを!』、
『雑えるはずがないからである!』。
何故ならば、
若し、
『身口意の悪を起せば!』、
『聞く!』者も、
『或は、信受しないからであり!』、
若し、
『意業が不浄ならば!』、
『智慧』が、
『明らかでなく!』、
『智慧が明らかでなければ!』、
『菩薩道』を、
『善く、行じることができないからである!』。
復次不但此一菩薩。上來菩薩能行此法者。皆名尊重佛教。若菩薩欲行菩薩道。皆不應雜罪行。一切惡罪業不令妄起。雜行者於行道則難。不能疾成佛道。罪業因緣壞諸福德故 復た次ぎに、但だ此の一菩薩のみならず、上来の菩薩は、能く此の法を行ずれば、皆仏教を尊重すと名づく。若し菩薩、菩薩道を行ぜんと欲すれば、皆応に罪行を雑うべからず。一切の悪罪業をして、妄起せしめず。行を雑うれば、道を行ずるに於いて、則ち難く、疾かに仏道を成ずる能わず。罪業の因縁は、諸の福徳を壊るが故なり。
復た次ぎに、
但だ、
『此の一菩薩だけではなく!』、
上来の、
『菩薩』は、
此の、
『法』を、
『行じることができるので!』、
皆、
『仏教を尊重する!』と、
『称される!』。
若し、
『菩薩が、菩薩道を行じようとすれば!』、
皆、
『悪罪の行を雑えず!』、
『一切の悪罪の業』を、
『妄起させないはずである!』。
『悪罪の行を雑えれば!』、
則ち、
『道を行うこと!』が、
『難しくなり!』、
疾かに、
『仏道』を、
『成じることができない!』。
何故ならば、
『罪業の因縁』が、
『諸の福徳を壊るからである!』。


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