【經】舍利弗。有菩薩摩訶薩。三生補處行般若波羅蜜。以方便力入初禪乃至第四禪。入慈心乃至捨。入空處乃至非有想非無想處。修四念處乃至八聖道分。入空三昧無相無作三昧不隨禪生。生有佛處修梵行。若生兜率天上。隨其壽終具足善根不失正念。與無數百千億萬諸天圍繞恭敬。來生此間得阿耨多羅三藐三菩提 |
舎利弗、有る菩薩摩訶薩は、三生補処にして、般若波羅蜜を行じ、方便力を以って、初禅乃至第四禅に入り、慈心乃至捨に入り、空処乃至非有相非無想処に入り、四念処乃至八聖道分を修し、空三昧、無相、無作三昧に入るも、禅に随いて生ぜず、仏有る処に生じて、梵行を修し、若しは兜率天上に生ずるも、其の寿の終るに随いて、善根を具足し、正念を失わずして、無数、百千億万の諸天に囲繞、恭敬され、此の間に来生して、阿耨多羅三藐三菩提を得るなり。 |
舎利弗!
有る、
『菩薩摩訶薩は、三生補処であり!』、
『般若波羅蜜を行じ、方便の力を用いて!』、
『初禅乃至第四禅に入り!』、
『慈心乃至捨心に入り!』、
『無辺虚空処乃至非有相非無想処に入り!』、
『四念処乃至八聖道分を修め!』、
『空、無相、無作三昧に入りながら!』、
『禅に随って!』、
『禅処に生じず!』、
『仏の有る処に生じて、梵行を修めながら!』、
若しは、
『兜率天上に生じて!』、
其の、
『寿の終るに随って!』、
『善根を具足したまま!』、
『正念を失わず!』、
『無数、百千億万の諸天』に、
『囲繞、恭敬され!』、
此の、
『間に来生して!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得るのである!』。
|
|
参考:『大般若経巻7』:『復次舍利子。有菩薩摩訶薩。一生所繫。有方便善巧故。入初靜慮。入第二第三第四靜慮。入慈無量。入悲喜捨無量。入空無邊處定。入識無邊處定。無所有處定。非想非非想處定。修行布施波羅蜜多。修行淨戒安忍精進靜慮般若波羅蜜多。安住內空。安住外空。內外空。空空。大空。勝義空。有為空。無為空。畢竟空。無際空。散空。無變異空。本性空。自相空。共相空。一切法空。不可得空。無性空。自性空。無性自性空。安住真如。安住法界。法性。不虛妄性。不變異性。平等性。離生性。法定。法住。實際。虛空界。不思議界。修行四念住。修行四正斷。四神足。五根。五力。七等覺支。八聖道支。安住苦聖諦。安住集滅道聖諦。修行八解脫。修行八勝處。九次第定。十遍處。修行空解脫門。修行無相無願解脫門。修行一切陀羅尼門。修行一切三摩地門。修行五眼。修行六神通。修行佛十力。修行四無所畏。四無礙解。大慈大悲大喜大捨。十八佛不共法。修行無忘失法。修行恒住捨性。修行一切智。修行道相智。一切相智。是菩薩摩訶薩。不隨靜慮無量無色勢力而生。現前奉事親近供養現在如來。應正等覺。於是佛所勤修梵行。從此處沒生睹史多天。盡彼壽量。諸根無缺。具念正知。無量無數百千俱胝那庾多天眾圍繞導從。遊戲神通來生人中。現修苦行。證得無上正等菩提。轉妙法輪。度無量眾』 |
|
|
【論】問曰。是三生菩薩在十住地已具足諸功德。今何以修習諸行。 |
問うて曰く、是の三生の菩薩は、十住の地に在れば、已に諸功徳を具足す。今は、何を以ってか、諸行を修習する。 |
問い、
是の、
『三生の菩薩』は、
『十住の地』に於いて、
已に、
『諸の功徳』を、
『具足している!』のに、
今、何故、
『諸の行』を、
『修習するのですか?』。
|
|
|
|
|
答曰。心未入涅槃要有所行。所謂四禪乃至三三昧。 |
答えて曰く、心未だ涅槃に入らざれば、要(かなら)ず所行有り、謂わゆる四禅、乃至三三昧なり。 |
答え、
『心』が、
未だ、
『涅槃』に、
『入らなければ!』、
要ず( it is essential that )、
『所行』が、
『有らねばならない!』。
謂わゆる、
『四禅、乃至三三昧である!』。
|
|
|
|
|
復次是菩薩於天人中示行人法修行求道。 |
復た次ぎに、是の菩薩は、天、人中に於いて、人法を行じて、修行し、道を求むるを示す。 |
復た次ぎに、
是の、
『菩薩』は、
『天、人』中に於いて、
『人法を行じながら!』、
『修行して、道を求めること!』を、
『示したのである!』。
|
|
|
|
|
復次是菩薩雖在十住地猶有煩惱習在。又於諸法猶有所不知。是故修道。 |
復た次ぎに、是の菩薩は、十住の地に在りと雖も、猶お煩悩の習在る有り。又諸法に於いて、猶お知らざる所有り。是の故に道を修す。 |
復た次ぎに、
是の、
『菩薩』は、
『十住の地に在りながら!』、
猶お、
『煩悩の習の在ること!』が、
『有り!』、
又、
『諸法』に於いて、
猶お、
『知らない!』所が、
『有る!』ので、
是の故に、
『道』を、
『修めるのである!』。
|
|
|
|
|
復次是菩薩雖行深行。三十七品三解脫門等猶未取證。今為證故更修諸行。 |
復た次ぎに、是の菩薩は、深き行を行ずと雖も、三十七品、三解脱門等は、未だ証を取らず。今、証せんが為めの故に、更に諸行を修む。 |
復た次ぎに、
是の、
『菩薩』は、
『深い行を行じながら!』、
『三十七品や、三解脱門等』は、
猶お、
未だ、
『証を取らない( does not realize it )!』ので、
今、
『証する為め( to realize it )!』に、
更に、
『諸の行』を、
『修めるのである!』。
|
|
|
|
|
復次雖是大菩薩於佛猶小。譬如大聚火雖有能照於日則不現。如放缽經中。彌勒菩薩語文殊尸利。如我後身作佛。如恒河沙等文殊尸利。不知我舉足下足事。以是故雖在十住猶應修行。 |
復た次ぎに、是れ大菩薩なりと雖も、仏に於いては猶お小なり。譬えば大聚火は能く日を照す有りと雖も、則ち現れざるが如し。放鉢経中に、弥勒菩薩の文殊師利に、『我が後身の仏と作るが如きを、恒河沙に等しきが如き文殊師利も、我が挙足、下足の事を知らざらん』、と語れるが如し。是を以っての故に、十住に在りと雖も、猶お応に修行すべし。 |
復た次ぎに、
是れは、
譬えば、
『大聚火』が、
『有って!』、
『照すことができたとしても!』、
則ち、
『日に比すれば!』、
『現れない( does not appear )ようなものである!』。
『放鉢経』中に、
『弥勒菩薩が、文殊師利』に、こう語ったようなものである、――
若し、
わたしの、
『後身が、仏と作ったとして!』、
『恒河沙に等しいほど!』の、
『文殊師利であっても!』、
わたしの、
『挙足、下足の事』は、
『知らないであろう!』、と。
是の故に、
『十住の地に在ったとしても!』、
猶お、
『修行せねばならないのである!』。
|
大聚火(だいじゅか):梵語 agni-skandha の訳、大きな火( a bright fire )の義。 |
参考:『仏説放鉢経』:『彌勒菩薩語舍利弗言。我雖次當來佛功德成滿其行具足。不知文殊師利菩薩。譬如十方恒邊沙佛刹。滿中萬物草木。及爾所菩薩。不能知佛一步之中所念何等。』 |
|
|
問曰。三生菩薩何以不廣度眾生而要生佛前。 |
問うて曰く、三生の菩薩は、何を以ってか、広く衆生を度せざるに、要ず仏前に生ず。 |
問い、
『三生の菩薩』は、
何故、
『広く、衆生を度さない!』のに、
要ず、
『仏前』に、
『生じるのですか?』。
|
|
|
|
|
答曰。是菩薩所度已多。今垂欲成佛應在佛前。所以者何。非但度眾生得成佛。諸佛深法應當聽聞故。 |
答えて曰く、是の菩薩の度し已りたる所多ければ、今は、垂(なんな)んとして、仏に成らんと欲すれば、応に仏前に在るべし。所以は何んとなれば、但だ衆生を度して、仏と成るを得るに非ず、諸仏の深法は、応当に聴聞すべきが故なり。 |
答え、
是の、
今は、
『垂んとして( very nearly )!』、
『仏』に、
『成ろうとしている!』ので、
当然、
『仏前』に、
『在るはずである!』。
何故ならば、
但だ、
『衆生を度すことだけ!』が、
『仏と成ること!』を、
『得るのではなく( not only to obtain )!』、
当然、
『諸仏の深法』を、
『聴聞せねばならぬからである!』。
|
|
|
|
|
問曰。若為諮問佛事故在佛前者。何以故。釋迦文佛作菩薩時。在迦葉佛前惡口毀呰。 |
問うて曰く、若し仏事を諮問せんが為めの故に、仏前に在らば、何を以っての故に釈迦文仏、菩薩と作りし時、迦葉仏の前に在りて、悪口し、毀呰したもう。 |
問い、
若し、
『仏事を諮問する( to consult about the buddha's work )為め!』に、
『仏前』に、
『在れば!』、
何故、
『釈迦文仏は、菩薩と作られた!』時、
『迦葉仏の前』で、
『悪口、毀呰されたのですか?』。
|
|
参考:『雑阿含経巻19(533)』:『如是我聞。一時。佛住舍衛國。乃至尊者大目犍連言。我於路中見一大身眾生。比丘之像。皆著鐵葉以為衣服。舉體火然。亦以鐵缽盛熱鐵丸而食之。乃至佛告諸比丘。此眾生者。過去世時。於此舍衛國迦葉佛法中出家作比丘。作摩摩帝。惡口形名諸比丘。或言此是惡禿。此惡風法。此惡衣服。以彼惡口故。先住者去。未來不來。緣斯罪故。已地獄中受無量苦。地獄餘罪。今得此身。續受斯苦。諸比丘。如大目犍連所見。真實不異。當受持之。佛說此經已。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』 |
|
|
答曰。是事先已說。法身菩薩種種變化身以度眾生。或時行人法。有飢渴寒熱老病憎愛瞋喜讚歎呵罵等。除諸重罪餘者皆行。 |
答えて曰く、是の事は、先に已に説けり。法身の菩薩は、種種に身を変化するを以って、衆生を度せば、或る時には人法を行じて、飢渇、寒熱、老病、憎愛、瞋喜、讃歎、呵罵等有り、諸の重罪を除き、餘の者を皆行ずるなり。 |
答え、
是の、
『事』は、
『先に説いた通りである!』が、
『法身の菩薩』は、
種種に、
『身を変化して!』、
『衆生』を、
『度する!』ので、
或る時には、
『人法を行じて!』、
『飢渇、寒熱、老病、憎愛、瞋喜、讃歎、呵罵等』が、
『有り!』、
『諸の重罪を除けば!』、
『餘の事』は、
『皆、行じてきたのである!』。
|
|
参考:『大智度論巻27』:『復次聲聞人言。菩薩不斷結使乃至坐道場然後斷。是為大錯。何以故汝法中說。菩薩已滿三阿僧祇劫。後更有百劫中。常得宿命智自憶迦葉佛時。作比丘名鬱多羅修行佛法。云何今六年苦行修邪道法。日食一麻一米。後身菩薩一日尚不應謬。何況六年。瞋亦如是從久遠世時作毒蛇。獵者生剝其皮猶尚不瞋。云何最後身而瞋五人。以是故知聲聞人受佛義為錯。佛以方便力。欲破外道故。現六年苦行。汝言瞋五人者是為方便。亦是瞋習非煩惱也。今當如實說。菩薩得無生法忍。煩惱已盡習氣未除故因習氣受。及法性生身能自在化生。有大慈悲為眾生故。亦為滿本願故。還來世間。具足成就餘殘佛法故。十地滿坐道場。以無礙解脫力故。得一切智一切種智斷煩惱習。』 |
|
|
是釋迦文菩薩爾時為迦葉佛弟名鬱多羅。兄智慧熟不好多語。弟智慧未備故多好論議。時人謂弟為勝。兄後出家得成佛道號名迦葉。弟為閻浮提王訖梨机師。有五百弟子以婆羅門書教授諸婆羅門。諸婆羅門等不好佛法。 |
是の釈迦文菩薩は、爾の時、迦葉仏の弟と為り、鬱多羅と名づく。兄は智慧熟して、多語を好まず。弟は智慧未だ備わらざるが故に、多く論議を好む。時の人の謂わく、弟を勝ると為す、と。兄は後に出家して、仏道を成ずるを得、号して迦葉と名づく。弟は、閻浮提王の訖梨机師と為り、五百の弟子有りて、婆羅門書を以って、諸の婆羅門を教授すれば、諸の婆羅門は等しく仏法を好まず。 |
是の、
『釈迦文菩薩』は、
爾の時、
『迦葉仏の弟であり!』、
『鬱多羅』と、
『呼ばれていた!』。
『兄』は、
『智慧が熟して!』、
『多く語ること!』を、
『好まなかった! 」が、
『弟』は、
『智慧が、未だ備わらない!』が故に、
『好んで論議すること!』が、
『多い!』ので、
『時の人』は、
『弟が、兄に勝る!』と、
『言っていた!』。
『兄』は、
『後に、出家して!』、
『仏道を成じて!』、
『迦葉』と、
『号していた!』が、
『弟』は、
『閻浮提王の訖梨机師として!』、
『五百の弟子が有り!』、
『婆羅門の書』を、
『諸の婆羅門に教授していた!』ので、
『諸の婆羅門』は、
『等しく!』、
『仏法を好まなかった!』。
|
訖梨机(きりき):閻浮提の王にして婆羅門の師の名。不他出。 |
|
|
|
爾時有一陶師名難陀婆羅。迦葉佛五戒弟子得三道。與王師鬱多羅為善友。以其心善淨信故。爾時鬱多羅乘金車駕四白馬。與弟子俱出城門。難提婆羅於路相逢鬱多羅問言。從何所來。答言。汝兄得阿耨多羅三藐三菩提。我供養還。汝可共行覲見於佛。故來相迎。 |
爾の時、一陶師有り、難陀婆羅と名づけ、迦葉仏の五戒の弟子にして、三道を得、王師の鬱多羅と善友と為り、其の心の善、浄、信なるを以っての故なり。爾の時、鬱多羅は金車に乗り、駕するは四白馬なり。弟子と倶に城門を出づるに、難陀婆羅と、路に於いて相逢う。鬱多羅の問うて言わく、『何所よりか、来る』、と。答えて言わく、『汝が兄、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえるに、我れ供養して還るなり。汝も、共に行きて、仏に覲見すべし。故に来たりて相迎うるなり』、と。 |
爾の時、
有る、
『難陀婆羅という!』、
『一陶師が有り!』、
『迦葉仏の五戒の弟子として!』、
『三道(見道、思惟道、無学道)』を、
『得ていた!』が、
『王師』の、
『鬱多羅』とも、
『善い友であった!』のは、
『鬱多羅の心』が、
『善であり!』、
『浄信であったからである!』。
爾の時、
『鬱多羅』は、
『四白馬の駕する金車に乗り
( driving a golden carriage drew by four white horses )!』、
『弟子と倶に!』、
『城門を出る!』と、
『中路』に於いて、
『難陀婆羅』に、
『逢った!』。
『鬱多羅』は、
『難陀婆羅に問うて!』、こう言った、――
何所から、
『来られたのか?』、と。
『答えて!』、こう言った、――
あなたの、
『兄が、阿耨多羅三藐三菩提を得られた!』ので、
わたしは、
『供養して!』、
『還ってきたのだが!』、
あなたも、
『共に行き!』、
『仏』に、
『覲見したほうがよい( should meet )!』ので、
是の故に、
あなたを、
『迎えに来たのです!』、と。
|
駕(が):馬車( carriage, cart )。馬車を牽く/馬に乗る( draw a cart, ride )。
覲見(ぎんけん):朝見する( go to court )。 |
|
|
|
鬱多羅作是念。若我徑到佛所。我諸弟子當生疑怪。汝本論議智慧恒勝。今往供養將是親屬愛故必不隨我。恐破其見佛因緣故。住諸法實相智中入無上方便慧度眾弟子。故口出惡言。此禿頭人何能得菩提道。 |
鬱多羅の是の念を作さく、『若し我れ径(ただち)に仏所に到れば、我が諸の弟子は、当に、汝は本論議の智慧、恒に勝れるに、今往きて供養するは、将(まさ)に是れ親属の愛の故なるべし、と疑怪を生じて、必ず、我れに随わざるべし』、と。其の仏を見(まみゆ)る因縁を破るを恐るるが故に、諸法の実相智中に住して、無上方便の慧に入り、衆弟子を度せんが故に、口より悪言を出すらく、『此の禿頭の人にして、何んが能く菩提の道を得んや』、と。 |
『鬱多羅』は、こう念じた、――
もし、
わたしが、
径に( directly )、
『仏所』に、
『到れば!』、
わたしの、
『諸の弟子』は、
『疑怪を生じて( will doubt and blame )!』、こう言い、――
お前は、
本、
『論議の智慧では!』、
『恒に勝っていたではないか?』。
今、
『往って、供養する!』のは、
『将に、親属の愛の故だろう
( should be by the familial love )!』、と。
必ず、
わたしに、
『随わないだろう!』、と。
『鬱多羅』は、
『仏に見える( to meet the buddha )!』、
『因縁を破る!』のを、
『恐れる!』が故に、
『諸法の実相智中に住して!』、
『無上の方便慧に入り!』、
『衆弟子』を、
『度す為め!』の故に、
『口より、悪言』を、こう出した――
此の、
『禿頭の人など!』に、
何うして、
『菩提の道』を、
『得ることができるのか?』、と。
|
径(きょう):直ちに( directly, straightway )。
疑怪(ぎけ):疑って責める( to doubt and blame )。
禿(とく):露出した/はげた/髪の無い( bare, bald, hairless )。 |
|
|
|
爾時難提婆羅善友。為如瞋狀捉頭挽言。汝不得止。鬱多羅語弟子言。其事如是吾不得止。即時師徒俱行詣佛。見佛光相心即清淨。前禮佛足在一面坐。佛為隨意說法。鬱多羅得無量陀羅尼門。諸三昧門皆開。五百弟子還發阿耨多羅三藐三菩提心。鬱多羅從坐起白佛言。願佛聽我出家作比丘。佛言善來。即成沙門。 |
爾の時、難提婆羅善友は、瞋りの如き状(さま)を為して、頭を捉え挽いて言わく、『汝は、止まるを得ざれ』、と。鬱多羅の弟子に語りて言わく、『其の事は是の如ければ、吾れ止まるを得ず』、と。即時に師、徒倶に行き、仏に詣(いた)りて、仏の光相を見、心即ち清浄たりて、前(すす)みて仏足を礼し、一面に在りて坐す。仏は為めに随意に説法したもうに、鬱多羅は無量の陀羅尼門を得て、諸の三昧門皆開く。五百の弟子も還って、阿耨多羅三藐三菩提の心を発す。鬱多羅は坐より起ちて、仏に白して言さく、『願わくは、仏、我れに聴して、出家せしめ、比丘と作したまえ』、と。仏の言わく、『善く来たれり』、と。即ち沙門と成る。 |
爾の時、
『難提婆羅善友』は、
『瞋ったような状を為し!』、
『鬱多羅の頭を捉えて、挽きながら!』、こう言った、――
あなたは、
『止まっていてはいけません!』、と。
『鬱多羅』は、
『弟子に語って!』、こう言った、――
其の、
『事』は、
『是の通りである!』ので、
わたしは、
『止まっていることはできない!』、と。
即時に、
『師、徒』は、
『倶に、行き!』、
『仏に詣り( to reach the buddha's abode )!』、
『仏の光相』を、
『見!』、
『心が、即ち清浄になり!』、
『前んで、仏足を礼し!』、
『一面』に、
『坐した!』。
『仏』が、
『鬱多羅の為めに!』、
『意のままに!』、
『法』を、
『説かれる!』と、
『鬱多羅』は、
『無量の陀羅尼門を得て!』、
『諸の三昧門』が、
『皆、開いた!』。
『五百の弟子』も、
『還って!』、
『阿耨多羅三藐三菩提の心』を、
『発した!』。
『鬱多羅』は、
『坐より起つ!』と、
『仏に白して!』、こう言った、――
願わくは、
『仏』、
わたしに、
『出家を聴して!』、
『比丘と作したまえ!』、と。
『仏』は、こう言われた、――
『善く来た!』、と。
『鬱多羅』は、
即ち、
『沙門と成ったのである!』。
|
|
|
|
|
以是方便故現出惡言非是實也。虛空可破。水可作火。火可作水。三生菩薩於凡夫中瞋心叵得。何況於佛。 |
是の方便を以っての故に、悪言を出すを現すも、是れは実に非ざるなり。虚空は破すべく、水は火と作るべく、火は水と作るべくも、三生の菩薩は、凡夫中に於いて、瞋心を得叵(べから)ず。何に況んや仏に於いてをや。 |
是の、
『方便を用いた!』が故に、
『悪言を出すこと!』を、
『現したのであり!』、
是れは、
『実ではない!』。
若し、
『虚空が破れたり、水が火と作ったり、水が火と作ったりしたとしても!』、
『三生の菩薩』が、
『凡夫』中に於いて、
『瞋心』を、
『得るはずがない!』。
況して、
『仏』に於いては、
『尚更である!』。
|
叵(は):不可/はずがない( cannot, improbable, impossible )。 |
|
|
|
問曰。若爾者佛何以受第八罪報六年苦行。 |
問うて曰く、若し爾らば、仏は何を以ってか、第八の罪報を得て、六年苦行したもうや。 |
問い、
若し、爾うならば、
『仏』は、
何故、
『第八の罪報を受けて!』、
『六年!』、
『苦行されたのですか?』。
|
|
参考:『大智度論巻9』:『問曰。若佛神力無量威德巍巍不可稱說。何以故受九罪報。一者梵志女孫陀利謗。五百阿羅漢亦被謗。二者旃遮婆羅門女。繫木盂作腹謗佛。三者提婆達推山壓佛傷足大指。四者迸木刺腳。五者毘樓璃王興兵殺諸釋子佛時頭痛。六者受阿耆達多婆羅門請而食馬麥。七者冷風動故脊痛。八者六年苦行。九者入婆羅門聚落乞食不得空缽而還。』 |
|
|
答曰。小乘法與大乘法異。若無異者不應有大小。小乘法中。不說法身菩薩祕奧深法無量不可思議神力。多說斷結使直取涅槃法。 |
答えて曰く、小乗の法は、大乗の法と異なり、若し異無ければ、応に大小有るべからず。小乗の法中には、法身の菩薩の秘奥の深法と、無量不可思議の神力を説かず、多くは結使を断じて、直ちに涅槃を取る法を説く。 |
答え、
『小乗の法』は、
『大乗の法』と、
『異なり!』、
若し、
『異が無ければ!』、
『大、小』が、
『有るはずがないからである!』。
『小乗の法』中には、
『法身の菩薩』の、
『秘奥の深法や、無量不可思議の神力』を、
『説かず!』、
『結使を断じて!』、
『直ちに涅槃を取る法』を、
『多く説く!』。
|
|
|
|
|
復次若佛不受是第八罪報。有諸天神仙龍鬼諸長壽者。見有此惡業而不受罪報。謂為無業報因緣。以是故雖現在無惡業亦受罪報。 |
復た次ぎに、若し仏、是の第八の罪報を受けざれば、有るいは諸天、神仙、龍鬼、諸の長寿の者、此の悪業有るも、罪報を受けざるを見て、謂いて、業報の因縁無しと為す。是を以っての故に、現在悪業無しと雖も、亦た罪報を受けたもうなり。 |
復た次ぎに、
若し、
『仏』が、
是の、
『第八の罪報を受けなければ!』、
有るいは、
『諸の天、神仙、龍鬼や、諸の長寿の者』が、
此の、
『悪業が有りながら!』、
『罪報を受けない!』のを、
『見て!』、
こう謂うだろう、――
『業報の因縁など!』は、
『無い!』、と。
是の故に、
『現在、悪業が無くても!』、
『罪報』を、
『受けられたのである!』。
|
|
|
|
|
又有今世因緣。諸外道等信著苦行。若佛不六年苦行則人不信。言是王子串樂不能苦行。以是故佛六年苦行。有外道苦行者。或三月半歲一歲。無能六年日食一麻一米者。諸外道謂此為苦行之極。是人若言無道真無道也。於是信受皆入正道。 |
又、今世の因縁有り。諸の外道等は、信じて苦行に著すれば、若し仏、六年の苦行したまわざれば、則ち人の信ぜずして、言わく、『是の王子は楽に串(な)れ、苦行する能わず』、と。是を以っての故に、仏は六年苦行したまえり。有る外道の苦行者は、或は三月、半歳、一歳にして、能く六年、日に一麻と一米とを食う者無し。諸の外道の謂わく、『此れを、苦行の極と為。是の人、若し、道無しと言わば、真に道無きなり』、と。是に於いて、信受して、皆正道に入る。 |
又、
『今世の因縁が有り!』、
諸の、
『外道』等は、
『苦行』を、
『信じて、著する!』ので、
若し、
『仏』が、
『六年』の、
『苦行をしなければ!』、
『人』は、
『仏を信じず!』に、こう言うだろう、――
是の、
『王子』は、
『楽に串れており( being used to take ease )!』、
『苦行することができない!』、と。
是の故に、
『仏』は、
『六年!』、
『苦行されたのである!』。
有る、
『外道の苦行者』は、
或は、
『三日、半歳、一歳ならば!』、
『苦行することができる!』が、
『六年!』、
『日に、一麻、一米だけを食うことのできる!』者は、
『無い!』ので、
諸の、
『外道』は、こう謂うだろう、――
此れは、
『苦行』の、
『極である!』。
是の、
『人』が、
若し、
『道が無い!』と、
『言えば!』、
真に、
『道は無いのである!』、と。
是の故に、
皆、
『信受して!』、
『正道』に、
『入るのである!』。
|
串(かん):慣れる/慣れている( get used to, be used to )、習慣的に( habitually )。 |
|
|
|
以是二因緣故六年苦行非實罪也。何以故諸佛斷一切不善法。成就一切善法故。佛若實受罪報不得言成一切善法斷一切不善法。 |
是の二因縁を以っての故に、六年の苦行は、実の罪に非ず。何を以っての故に、諸仏は、一切の不善法を断じて、一切の善法を成就したもうが故に、仏、若し実に罪報を受けたまえば、『一切の善法を成じ、一切の不善法を断ず』、と言うを得ざればなり。 |
是の、
『二因縁』の故に、
『六年の苦行』は
『実の!』、
『罪報ではない!』。
何故ならば、
『諸仏』は、
『一切の不善法を断じて!』、
『一切の善法を成就されている!』が故に、
『仏』が、
若し、
『罪報』を、
『受けられたならば!』、
こう言うことができないからである、――
『一切の善法を成じ!』、
『一切の不善法を断じた!』、と。
|
|
|
|
|
復次小乘法中佛為小心眾生故說。一生菩薩猶惡口毀佛。一生菩薩尚不罵小兒。云何實毀佛。皆是方便為眾生故。何以知之。 |
復た次ぎに、小乗の法中に、仏は小心の衆生の為めの故に、『一生の菩薩すら猶お、悪口して仏を仏を毀る』、と説きたまえども、一生の菩薩は、尚お小児すら罵らず、云何が実に仏を毀らん。皆、是れ方便にして、衆生の為めの故なり。何を以ってか、之を知る、―― |
復た次ぎに、
『小乗の法』中に、
『仏』は、
『小心の衆生の為め!』の故に、こう説かれたが、――
『一生の菩薩すら!』、
尚お、
『悪口して!』、
『仏を毀る!』、と。
『一生の菩薩』は、
尚お、
『小児すら!』、
『罵らない!』のに、
何うして、
『実に!』、
『仏を毀るのか?』。
皆、是れは、
『方便であり!』、
『衆生の為め!』の故に、
『説かれたのである!』。
何故、
こう知るのか?――
|
|
|
|
|
是釋迦文佛。毘婆尸佛時作大婆羅門。見佛眾僧食疾而發是言。如是人輩應食馬麥。因此罪故墮黑繩等地獄。受無量世苦已。餘罪因緣。雖成佛道而三月食馬麥。 |
是の釈迦文仏は、毘婆尸仏の時、大婆羅門と作り、仏と衆僧の食を見るに、疾(ねた)みて、是の言を発すらく、『是の如き人輩は、応に馬麦を食うべし』、と。此の罪に因るが故に黒縄等の地獄に堕して、無量世の苦を受け已り、余罪の因縁もて、仏道を成ずと雖も、三月馬麦を食したまえり。 |
是の、
『釈迦文仏』は、
『毘婆尸仏の時』、
『大婆羅門と作りながら!』、
『仏や、衆僧が食する!』のを、
『見る!』と、
『疾んで( being jealous of it )!』、
是の、
『言を発した!』、――
是のような、
『人輩( the people of such kind )』は、
『馬麦でも食えばよかろう!』、と。
此の、
『罪に因るが故に、黒縄等の地獄に墮ち!』、
『無量世の苦を受け、余罪の因縁』の故に、
『仏道を成じながら!』、
『三月!』、
『馬麦を食われたのである!』。
|
|
|
|
|
又聲聞法中說。佛過三阿僧祇劫常為男子。常生貴處常不失諸根。常識宿命常不墮三惡道中。從毘婆尸佛來。九十一劫如汝法。九十劫中不應墮惡道。何況末後一劫。以是故知非是實也。方便故說。 |
又、声聞法中に説かく、『仏は三阿僧祇劫を過ぐるまで、恒に男子と為り、恒に貴処に生じて、常に諸根を失わず、常に宿命を識り、常に三悪道中に堕せず』、と。毘婆尸仏より来、九十一劫なれば、汝が法の如く、九十劫中に応に悪道に堕すべからざれば、何に況んや末後の一劫をや。是を以っての故に、是れ実に非ずして、方便の故の説なり、と知る。 |
又、
『声聞法』中には、こう説かれている、――
『仏』は、
『三阿僧祇劫を過ぎるまで!』、
常に、
『男子と為って!』、
『貴処』に、
『生じながら!』、
常に、
『諸根を失うことなく!』、
『宿命』を、
『知り!』、
常に、
『三悪道』中に、
『堕ちることがない!』、と。
『毘婆尸仏已来、九十一劫である!』が、
お前の、
『法の通りならば!』、
『九十劫』中に、
『地獄に堕ちるはずがない!』。
況して、
『末後の一劫』に、
『堕ちるはずがあろうか?』。
是の故に、こう知る、――
是れは、
『実でなく!』、
『方便故の説である!』、と。
|
|
参考:『雑宝蔵経巻7(81)』:『佛在菩提樹下魔王波旬欲來惱佛緣 。昔如來在菩提樹下。惡魔波旬。將八十憶眾。欲來壞佛。至如來所。而作是言。瞿曇汝獨一身何能坐此。急可起去。若不去者。我捉汝腳。擲著海外。佛言。我觀世間。無能擲我著海外者。汝於前身。但曾作一寺。受一日八戒。施辟支佛一缽之食。故生六天。為大魔王。而我乃於三阿僧祇劫。廣修功德。一阿僧祇劫。我曾供養無量諸佛。第二第三阿僧祇劫。亦復如是。供養聲聞緣覺之人。不可計數。一切大地。無有針許非我身骨。魔言。瞿曇。汝道我昔。一日持戒。施辟支佛食。信有真實。我亦自知。汝亦知我。汝自道者。誰為證知。佛以手指地言。此地證我。作是語時。一切大地。六種震動。地神即從金剛際出。合掌白佛言。我為作證。有此地來。我恒在中。世尊所說。真實不虛。佛語波旬。汝今先能動此澡瓶。然後可能擲我海外。爾時波旬。及八十億眾。不能令動。魔王軍眾。顛倒自墮。破壞星散。諸比丘言。波旬長夜。惱亂如來。而不得勝。佛言。非但今日。過去亦爾。昔迦尸國。仙人山中。有五通仙。教化波羅奈城中諸年少輩。皆度出家。使修仙道。爾時城神。極大瞋恚。語仙人言。汝若入城。更度人者。我捉汝腳。擲於海外。彼仙人捉一澡瓶。語城神言。先動此瓶。然後擲我。盡其神力。不能得動。慚愧歸伏。爾時仙人。我身是也。爾時城神。波旬是也』 |
|
|
問曰。佛二罪毘尼雜藏中說。是可信受。三阿僧祇後百劫不墮惡道者。從初阿僧祇亦不應墮惡道。若不墮者何以但說百劫。佛無是說。但是阿毘曇鞞婆沙論議師說。 |
問うて曰く、仏の二罪は、毘尼、雑蔵中に説きたまえば、是れ信受すべし。三阿僧祇の後の百劫は、悪道に堕せずとは、初の阿僧祇劫より、亦た応に悪道に堕すべからず。若し堕せざれば、何を以ってか、但だ、百劫のみを説きたまえる。仏には、是の説無く、但だ是れ阿毘曇、鞞婆沙の論議師の説なるのみ。 |
問い、
『仏の二罪』は、
『毘尼蔵、雑蔵中にも、説かれている!』ので、
是れは、
『信受せねばならない!』。
『三阿僧祇劫後の百劫』、
『悪道中に墜ちないのであれば!』、
『初の阿僧祇劫より!』、
『悪道』に、
『堕ちるはずがない!』。
若し、
『堕ちなければ!』、
何故、
『但だ、百劫のみ堕ちない!』と、
『説くのか?』。
『仏』には、
是の、
『説』は、
『無く!』、
但だ、
『阿毘曇、鞞婆沙の論議師』が、
『説いただけである!』。
|
|
参考:『大智度論巻11』:『問曰。云何名法布施。答曰。有人言。常以好語有所利益。是為法施。復次有人言。以諸佛語妙善之法。為人演說。是為法施。復次有人言。以三種法教人。一修妒路二毘尼三阿毘曇。是為法施。復次有人言。以四種法藏教人。一修妒路藏二毘尼藏三阿毘曇藏四雜藏。是為法施。復次有人言。略說以二種法教人。一聲聞法二摩訶衍法。是為法施。』
参考:『大智度論巻27』:『復次聲聞人言。菩薩不斷結使乃至坐道場然後斷。是為大錯。何以故汝法中說。菩薩已滿三阿僧祇劫。後更有百劫中。常得宿命智自憶迦葉佛時。作比丘名鬱多羅修行佛法。云何今六年苦行修邪道法。日食一麻一米。後身菩薩一日尚不應謬。何況六年。瞋亦如是從久遠世時作毒蛇。獵者生剝其皮猶尚不瞋。云何最後身而瞋五人。以是故知聲聞人受佛義為錯。佛以方便力。欲破外道故。現六年苦行。汝言瞋五人者是為方便。亦是瞋習非煩惱也。今當如實說。菩薩得無生法忍。煩惱已盡習氣未除故因習氣受。及法性生身能自在化生。有大慈悲為眾生故。亦為滿本願故。還來世間。具足成就餘殘佛法故。十地滿坐道場。以無礙解脫力故。得一切智一切種智斷煩惱習。』 |
|
|
答曰。阿毘曇是佛說。汝聲聞人隨阿毘曇論議。是名鞞婆沙不應有錯又如薄拘盧以一訶梨勒果施僧。於九十一劫中不墮惡道。何況菩薩無量世來。以身布施修諸功德。而以小罪因緣墮在地獄。如是事鞞婆沙不應錯。以是故小乘人不知菩薩方便。 |
答えて曰く、阿毘曇は、是れ仏の説なり。汝、声聞人、阿毘曇の論議に随えば、是れを鞞婆沙と名づくるも、応に錯有るべからず。又薄拘盧の如きは、一訶梨勒果を以って、僧に施すに、九十一劫中に於いて、悪道に堕せず。何に況んや菩薩は無量世より来、身を以って布施し、諸功徳を修するに、而も小罪の因縁を以って堕して地獄に在るをや。是の如き事は、鞞婆沙は応に錯つべからず。是を以っての故に小乗の人は、菩薩の方便を知らず。 |
答え、
『阿毘曇という!』のは、
『仏』の、
『説である!』。
お前のような、
『声聞人』が、
『阿毘曇に随って!』、
『論議し!』、
是の、
『論議』を、
『鞞婆沙と呼んでいる!』が、
是れに、
『錯など!』、
『有るはずがない!』。
又、
『薄拘盧など!』は、
『一訶梨勒果( a fruit of Myrobalan tree )』を、
『僧』に、
『施しただけ!』で、
『九十一劫』中、
『悪道』に、
『堕ちなかった!』のに、
況して、
『菩薩』は、
『無量世已来!』、
『身を用いて、布施しながら!』、
『諸の功徳』を、
『修めながら!』、
『小罪の因縁』の故に、
『地獄』に、
『堕ちるはずがあろうか?』。
是のような、
『事』は、
『鞞婆沙であろう!』と、
『錯るはずがない!』。
是の故に、
『小乗人』は、
『菩薩の方便』を、
『知らないのである!』。
|
薄拘盧(はっくる):又薄拘羅に作る。
薄拘羅(はっくら):梵名bakkula、又bakula、vakkula、vakula、巴梨名bakkula、或はbaakula、又薄矩羅、薄倶羅、薄拘盧、波拘盧、波鳩蠡、婆拘羅、婆拘盧、婆駒羅、婆鉤羅、縛矩羅、或は薄羅に作り、重姓、売姓、或は善容と訳す。仏の大弟子なり。「賢愚経巻5重姓品」に依るに、師は舎衛国長者の児にして、幼時、衆と共に大江の辺に到り、父母過ちて師を水中に落とす。時に一魚ありて之を呑み、下流に至りて奴の為に捕えられ、奴之を大家に売るに、腹中より師出づ。父母之を聞いて求むるも得ず、仍りて王所に到りて断を乞い、遂に両家に与えて共に養わしむ。故に師を字して重姓と号するなりと云えり。巴梨文長老偈註(真諦解釈paramathadiipanii所收)にも亦た同一説話を出し、其の生国を憍賞弥kosambii、大河を遥扶那yamnaa河となせり。「大智度論巻24」並びに「付法蔵因縁伝巻3」には、師は幼時母に嫌悪せられて、餅爐又は熱湯の釜中に擲置せられしも死せず、後河中に投ぜられて一大魚の呑食する所となり、捕魚師之を釣りて師の父に売り、為に救われたりと云えり。又「雑阿含経巻23」、「賢愚経巻5」等には、師は過去毘婆尸仏の時、長者となり、三帰不殺戒を持し、又彼の仏に一銭を布施せしを以って、爾後九十一劫常に無病福祐を得たりと云い、又「仏五百弟子自説本起経薄拘盧品」、「大智度論巻22、巻29」、「順正理論巻59」等には、師は毘婆尸仏の時、槃曇摩国に在りて薬を売り、一の呵棃勒薬を以って諸比丘に供養せし功徳に由り、九十一劫悪道に堕せず、天上人間に生じて福楽自然に備わることを得たりと云えり。師は後仏に帰して修道怠らず、少欲知足にして常に閑静を楽しみ、遂に阿羅漢果を得て大弟子の一に数えらるるに至れり。「中阿含巻8薄拘羅経」に、仏般涅槃の後未だ久しからざる時、師は一異学の問に答えて、我れ正法律の中に於いて学道すること八十年、未だ曽て欲想を起さず、常に糞掃衣を持し、居士の請を受けず、又女人の面を視ず、比丘尼の房中に入らず、沙弥を畜えず、白衣の為に法を説かず、乃至未だ曽て疾病あることなしと語りしことを伝え、又「増一阿含経巻13」には、師は嘗て釈提桓因の問に対して、舎利弗、阿難、均頭槃等は善く妙法を説くが故に、我れは人の為に説法せず、又衆生の類は覚知すること難く、且つ世界の国土同じからざるも皆我所非我所に著す、我れ此の義を観察するが故に人の為に説法せずと答えたることを記せり。斯くて師は生涯疾病あることなく、寿百六十歳にして遂に涅槃せりと伝えらる。仏入滅の後まで康存せしことは、前引「薄拘羅経」の記事に依りて知るを得べし。又「有部毘奈耶薬事巻4」に杵山に薄拘羅仙人あり、山を下りて仏に帰依し、不還果を証して、上首となる。是れ謂わゆる著樹皮衣苾芻なりと云えり。是れ同名異人なるべし。又「増一阿含経巻3弟子品」、「諸徳福田経」、「有部毘奈耶薬事巻17」、「大毘婆沙論巻181」、「阿育王伝巻2」等に出づ。<(望)
訶梨勒(かりろく):梵名hariitakii、又訶利勒、呵梨勒、呵利勒、訶梨怛鶏、呵梨得枳、賀唎怛繋、訶羅勒等に作り、又訶子に作る。英名 Myrobalan
。果名。天主将来と訳す。五薬の一。「毘奈耶雑事巻1」に、「余甘子、訶梨勒、毘醯勒、畢鉢梨、胡椒、此の五薬は、有病無病、時と非時とに随意に皆食す」と云い、「善見律巻17」に、「訶羅勒は、大なること棗の大なるが如く、其の味は酢苦にして、服すれば便利なり」と云い、「玄応音義巻24」に、「訶梨怛鶏、旧に訶利勒と言い、翻じて天主将来と為す。此の果は薬分と為すに堪え、功用極めて多し。此の土の人の人参、石斛等の入らざる所無きが如し」と云える是れなり。<(丁) |
参考:『大智度論巻22』:『如薄拘羅比丘。鞞婆尸佛時。以一呵梨勒果供養眾僧。九十一劫天上人中受福樂果常無疾病。今值釋迦牟尼佛出家漏盡得阿羅漢。』
参考:『仏五百弟子自説本起経巻1薄拘盧品』:『我昔曾賣藥 於槃曇摩國 在惟衛佛世 敬諸比丘僧 時有病瘦者 行藥療其疾 供給諸根藥 以惠諸比丘 一歲諸眾僧 令無所乏少 時施諸沙門 與一呵梨勒 於九十一劫 未曾歸惡道 在天上人間 其福自然見 所作德少耳 受福不可量 施一呵梨勒 長久生善處 其餘所有福 今還得人身 值見平等覺 導師無有一 未曾自識念 郡縣受施處 唯仁我二夜 證通三達智 常衣麤惡服 五納之震越 棄家行學道 願樂在閑居 其年百六十 於此無垢濁 未曾有疾病 所生處常安 佛普見說法 少欲無睡眠 觀布施藥者 其福廣如是 今我悉識念 本殖少功德 悉獲其果實 可意而安隱 時賢薄拘盧 在眾比丘僧 於阿耨達池 自說本所作』 |
|
|
復次聽汝鞞婆沙不錯。佛自說菩薩本起。菩薩初生時行七步。口自說言。我所以生者為度眾生故。言已默然。乳餔三年不行不語。漸次長大行語如法。一切嬰孩小時未能行語。漸次長大能具人法。今云何菩薩初生能行能語。後便不能。當知是方便力故。若受是方便。一切佛語悉皆得通。若不受者一實一虛。如是種種因緣。知為度眾生故現行惡口。 |
復た次ぎに、汝が鞞婆沙の錯たざるを聴け。仏の自ら、菩薩の本起を説きたまわく、『菩薩、初めて生ずる時、行くこと七歩にして、口もて自ら説いて言わく、我が生ずる所以は、衆生を度せんが為めの故なり、と。言い已りて黙然とし、乳哺すること三年にして行かず、語らず、漸次長大するに行き、語ること法の如し』、と。一切の嬰孩は、小(おさな)き時、未だ行き、語る能わざるも、漸次長大するに、能く人法を具うるに、今、云何が、菩薩は初めて生ずるに、能く行き、能く語りて、後に便ち能わざるや。当に知るべし、是れ方便の力の故なり。若し是の方便を受くれば、一切の仏語は、悉く皆通ずるを得、若し受けざれば、一は実、一は虚なり。是の如き種種の因縁もて、衆生を度せんが為めの故に悪口を行ずるを現したもうを知る。 |
復た次ぎに、
お前の、
『鞞婆沙が、錯っていない!』のを、
『聴け!』。
『仏』は、
自ら、
『菩薩の本起』を、こう説かれている、――
『菩薩』は、
『初めて、生まれた!』時、
『七歩行く!』と、
自ら、
『口で説いて!』、こう言った、――
わたしが、
『生まれた所以( the reason of my birth )!』は、
『衆生』を、
『度そうとするからである!』、と。
『言い已ると、黙然とし!』、
『乳哺されること、三年( being breast-fed for 3years )!』、
『行くこともなく!』、
『語ることもなく!』、
『漸次、長大する( after growing up )!』と、
『行くことや、語ることも!』、
『法の通りである( be according to the mankindness )!』、と。
『一切の嬰孩( all babies or infants are )』は、
『小い時( at an early age )!』には、
未だ、
『行くことも!』、
『語ることもできない!』が、
『漸次、長大すれば!』、
『人法( the mankindness )』を、
『具えることができる!』のに、
今、何故、
『菩薩』は、
『初めて、生まれた!』時には、
『行くことも!』、
『語ることもできた!』のに、
『後には、便ち( as soon as )!』、
『行くことも!』、
『語ることもできないのか?』。
是れは、
『方便力のせいである!』と、
『知らねばならない!』。
若し、
是の、
『方便を受ければ( to agree this expedient )!』、
『一切の仏語』に、
『悉く、皆!』、
『通じることになり!』、
若し、
『受けなければ!』、
『一切の仏語』は、
『一は実であり!』、
『一は虚である!』。
是のような、
『種種の因縁』で、こう知るのである、――
『仏』は、
『衆生を度する為め!』の故に、
『悪口を行じること!』を、
『現されたのである!』、と。
|
乳哺(にゅうほ):母乳で育てる( breast-feed )、養育( nurture )。 |
|
|
|
問曰。三生菩薩何以但生兜率天上不生餘處。 |
問うて曰く、三生の菩薩は、何を以ってか、但だ兜率天上に生じて、余処に生ぜざる。 |
問い、
『三生の菩薩』は、
何故、
『但だ、兜率天上に生じて!』、
『餘の処』に、
『生じないのですか?』。
|
|
|
|
|
答曰。若在他方世界來者諸長壽天龍鬼神。求其來處不能知。則生疑心謂為幻化。若在人中死人中生然後作佛者。人起輕慢天則不信。法應天來化人。不應人化天也。是故天上來生。則是從天為人。人則敬信。無色界中無形。不得說法故不在中生。色界中雖有色身可為說法。而深著禪味不能大利益眾生故。是故不在中生。下三欲天深厚結使麤心錯亂。上二天結使既厚心軟不利。 |
答えて曰く、若し他方の世界に在りて来たれば、諸の長寿の天、龍、鬼神、其の来処を求むるも知る能わざれば、則ち疑心を生じ、謂いて幻、化なりと為さん。若し人中に在りて死し、人中に生じ、然る後に仏と作れば、人は軽慢を起し、天は則ち信ぜざらん。法は応に天来たりて、人を化すべく、応に人、天を化すべかざるなり。是の故に天上より来生し、則ち天より人と為れば、人は則ち敬信す。無色界中は無形にして、法を説くを得ざるが故に中に在りて生ぜず。色界中は、色身の説法を為すべき有りと雖も、深く禅味に著すれば、衆生を大利益する能わざるが故に、是の故に、中に在りて生ぜず。下の三欲天の深く厚き結使は麁心を錯乱せしめ、上の二天の結使は既に厚く、心軟にして利ならず。 |
答え、
若し、
『菩薩』が、
『他方の世界より来れば!』、
『諸の長寿の天、龍、鬼神』は、
『菩薩』の、
『来処を求めて!』、
『知ることができず!』、
『疑心を生じて!』、
『幻か、化である!』と、
『謂い!』、
若し、
『人中に死んで、人中に生じた!』後に、
『仏に作れば!』、
『人は、軽慢を起し!』、
『天は、信じない!』ので、
『法としては( it is natural that )!』、
『天が来て!』、
『人』を、
『化すべきであり!』、
『人』が、
『天』を、
『化すべきではない!』。
是の故に、
『天上より来て!』、
『人』中に、
『生じれば!』、
『天より来て!』、
『人』と、
『為るのである!』から、
則ち、
『人』は、
『敬信することになる!』。
『無色界』中は、
『形が無く!』、
『法』を、
『説くことができない!』が故に、
『無色界』中に、
『菩薩』が、
『生じることはない!』。
『色界』中は、
『説法するはずの!』、
『色身』が、
『有っても!』、
『深く!』、
『禅味』に、
『著する!』が故に、
『大いに!』、
『衆生』を、
『利益することができない!』ので、
是の故に、
『色界』中に、
『生じることはない!』。
『下の三欲天( 四天王天、三十三天、夜魔天)』は、
『深く厚い結使』が、
『麁心』を、
『錯乱させ!』、
『上の二天( 化楽天、他化自在天)』は、
『結使が既に厚い
( the afflictions of bindings and instigations were thick )!』が故に、
『心』が、
『軟らかく、利でない!』。
|
|
|
|
|
兜率天上結使薄心軟利。常是菩薩住處。譬如太子將登王位。先於靜室七日齋潔。然後登正殿受王位。補處菩薩亦如是。兜率天上如齋處。於彼末後受天樂。壽終來下末後受人樂。便成阿毘三佛。無量百千萬億諸天圍遶來生是間。以菩薩先常於無始生死中。往反天上人間。今是末後天身不復更來生天。是故咸皆侍送。菩薩於彼壽盡當下作佛。諸天壽有盡者不盡者。作願下生為菩薩檀越。 |
兜率天上の結使は薄く、心は軟、利なれば、常に是れ菩薩の住処なり。譬えば太子の将に王位に登らんとするに、先に静室に於いて、七日斎潔し、然る後に正殿に登りて、王位を受くるが如し。補処の菩薩も亦た是の如く、兜率天上は斎処の如く、彼に於いて末後に天楽を受け、寿終りて来下し、末後に人楽を受け、便ち阿毘三仏を成じ、無量百千万億の諸天に囲繞され、是の間に来生す。菩薩の先に常に無始の生死中に於いて、天上、人間を往反するも、今是れ末後の天身なるを以って、復た更に天に来生せず。是の故に咸(ことごと)く皆侍送す。菩薩は、彼に於いて、寿尽くれば、当に下りて、仏と作るべし。諸天は、寿の尽くる者、尽きざる者有り、願を作し、下生し、菩薩の檀越と為る。 |
『兜率天上』は、
『結使が薄く!』、
『心』が、
『軟らかく、利である!』ので、
常に、
『菩薩』の、
『住処である!』。
譬えば、
『太子』が、
『王位に登ろうとすれば!』、
先に、
『静室』に於いて、
『七日!』、
『斎潔して( purifying himself )!』、
その後、
『正殿に登って!』、
『王位』を、
『受けるようなものである!』。
『補処の菩薩』も、
是のように、
『潔斎の処のような!』、
『兜率天上』に於いて、
『寿が終り、来下する!』と、
便ち( as soon as )、
『阿毘三仏を成じて( having attained the Bodhi )!』、
『無量、百千万億の諸天に囲繞され!』、
是の、
『世間』に、
『来生するのである!』。
『菩薩』は、
先に、
『常に、無始の生死』中に於いて、
『天上、人間』を、
『往反していた!』が、
今は、
『末後の、天身である!』が故に、
復た更に、
『天』に、
『来生しない!』ので、
是の故に、
『諸天』は、
『咸く、皆( all without exception )!』、
『侍送するのである( to accompany )!』。
『菩薩』は、
彼の、
『兜率天上に、寿が終る!』と、
当然、
『人間に、来下して!』、
『仏』と、
『作るのである!』が、
『諸天』には、
『寿が尽きる者も、尽きない者も有り!』、
『願を作して!』、
『下生し!』、
『菩薩の檀越』と、
『為るのである!』。
|
阿毘三仏(あびさんぶつ):具に阿毘三仏陀abhisaMbuddhaに作り、現等覚と訳す。仏の正覚を成ずるなり。「玄応音義巻3」に、「阿惟三仏、此の言は訛なり。正しく阿毘三仏陀と言うべし。阿毘は此に訳して現と云い、三は此に等と云い、仏陀は此に覚と云い、名づけて現等覚と為す」と云い、「大智度論巻38」に、「兜率天上は斎処の如し、彼に於いて末後の天楽を得、寿終りて来下して、末後の人楽を受け、便ち阿毘三仏を成ず」と云える是れなり。<(丁)◯梵語 abhisambuddha は、深く精通した( deeply versed in )の義、今正覚を得た( having attained the bodhi )の意。 |
|
|
|
復次諸天下者欲常侍衛菩薩。以有百億魔怨恐來惱亂菩薩。故此菩薩生人中厭老病死。出家得阿耨多羅三藐三菩提。如菩薩本起經中說 |
復た次ぎに、諸の天より下る者は、常に菩薩を侍衛せんと欲するは、百億の魔怨の恐れて来たりて、菩薩を悩乱すること有るを以っての故なり。此の菩薩の、人中に生じて、老病死を厭い、出家して、阿耨多羅三藐三菩提を得ること、菩薩本起経中に説けるが如し。 |
復た次ぎに、
『諸天の下生する!』者が、
常に、
『菩薩』を、
『侍衛しようとする!』のは、
有るいは、
『百億の魔怨が恐れて、来て!』、
『菩薩』を、
『悩乱するからである!』。
此の、
『菩薩』が、
『人中に生じて、老病死を厭い!』、
『出家して!』、
『阿耨多羅三藐三菩提を得る!』ことは、
例えば、
『菩薩本起経』中に、
『説く通りである!』。
|
菩薩本起経:『修行本起経』等参照。 |
|
|
|