巻第三十八之下

 

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方便力を以って、人中の大姓に生ず

方便力を以って、六欲天に生ず

方便力を以って、梵天処に生ず

方便力を以って、有仏の処に生ず

神通を以って、一仏国より一仏国に至る

所生の処に随って、衆生を利益す

羊、馬、神通に乗る三種の菩薩

 

 

 

 

 

 

 

 

 

方便力を以って、人中の大姓に生ず

【經】舍利弗。有菩薩摩訶薩。入初禪乃至第四禪。入慈心乃至捨。入空處乃至非有想非無想處。以方便力故不隨禪生。還生欲界若利大姓婆羅門大姓居士大家。成就眾生故

舎利弗、有る菩薩摩訶薩は、初禅、乃至第四禅に入り、慈心、乃至捨に入り、空処、乃至非有想非無想処に入り、方便力を以っての故に、禅に随わずして生ず。還って欲界の若しは刹利の大姓、婆羅門の大姓、居士の大家に生ずるは、衆生を成就せんが故なり。

   舎利弗!

     有る、

       菩薩摩訶薩は、

         『初禅、乃至第四禅』に入って、

           『慈心、乃至捨心』に入り、

           『空処、乃至非有想非無想処』に入るが、

         『方便力』を以っての故に、

           『禅』に随わずに、

           『生ずる』のである。

         還って、

           『欲界』の、

             『刹利の大姓』や、

             『婆羅門の大姓』、

             『居士の大家』に生まれるのは、

           『衆生』を、

             『成就する』為の故である。

【論】問曰。菩薩有二種。一者隨業生。二者得法性身。為度眾生故。種種變化身生三界。具佛功德度脫眾生故。二者之中今是何者。

問うて曰く、菩薩に二種有り、一には業に随って生ず、二には法性身を得て、衆生を度せんが為の故に、種種に身を変化して三界に生じ、仏の功徳を具す、衆生を度脱せんが故なり。二者の中、今は是れ何者ぞ。

 問い、

   菩薩には、

     二種有り、

       一は、

         『業』に随って生まれ、

       二は、

         『法性身』を得て、

           『衆生』を度する為の故に、

             『身』を種種に変化して、

             『三界』に生まれ、

           『衆生』を度脱する為の故に、

             『仏の功徳』を具えるのである。

   是の二者の中、

     今の是れは、

     何者だろうか?

答曰。是菩薩是業因緣生身。所以者何。入諸禪方便力故不隨禪生。法身菩薩變化自在則不大須方便。入禪方便義先已說。

答えて曰く、是の菩薩は、是れ業因縁生の身なり。所以は何んとなれば、諸禅に入るも方便力の故に、禅に随わずに生ずればなり。法身の菩薩は、変化自在なれば、則ち方便を須うること大ならず。『入禅の方便』の義は、先に已に説けり。

 答え、

   是の菩薩は、

     『業因縁生の身』である。

     何故ならば、

       『諸の禅に入る』が、

       『方便力』の故に、

         『禅に随わず』に、

         『生まれる』からである。

     『法身の菩薩』ならば、

       『自在』に変化して、

       『方便』を余り用いない。

   又、

     『入禅の方便』の義は、

       先に、

         已に、説いた。

 

  参考:『大智度論巻17』:『問曰。菩薩法以度一切眾生為事。何以故。閑坐林澤靜默山間。獨善其身棄捨眾生。答曰。菩薩身雖遠離眾生心常不捨。靜處求定得實智慧以度一切。譬如服藥將身權息家務。氣力平健則修業如故。菩薩宴寂亦復如是。以禪定力故服智慧藥。得神通力還在眾生。或作父母妻子。或作師徒宗長。或天或人下至畜生。種種語言方便開導。

問曰。若不隨禪定。何以生於欲界不生他方清淨世界。

問うて曰く、若し禅定に随わずんば、何を以ってか、欲界に生じて、他方の清浄世界に生ぜざる。

 問い、

   若し、

     『禅定』に随わなければ、

     何故、

       『欲界』に生じて、

       『他方の清浄世界』に生じないのか?

答曰。諸菩薩行各不同。或有菩薩。於禪轉心生他方佛國。菩薩迴心生欲界亦如是。

答えて曰く、諸の菩薩の行は、各不同なり、或は有る菩薩は、禅より心を転じて、他方の仏国に生ず。菩薩の心を迴らして欲界に生ずるも、亦た是の如し。

 答え、

   諸の、

     『菩薩の行』は、

       各、不同であり、

     或は、

       『禅』中に於いて、

         『心』を転じて、

         『他方の仏国』に生まれるが、

     是の、

       『菩薩』も、亦た同じように、

         『心』を迴らして、

         『欲界』に生まれたのである。

問曰。生他方佛國者。為是欲界非欲界。

問うて曰く、他方の仏国に生ずとは、是れを欲界と為すや、欲界に非ざるや。

 問い、

   『他方の仏国に生まれる』とは、

     是れは、

       『欲界』なのか?

       『欲界』ではないのか?

答曰。他方佛國雜惡不淨者。則名欲界。

答えて曰く、他方の仏国の雑悪不浄なる者は、則ち欲界と名づく。

 答え、

   『他方の仏国』でも、

     『悪』を雑えて、

     『不浄』であれば、

   則ち、

     『欲界』と名づける。

若清淨者則無三惡道三毒。乃至無三毒之名。亦無二乘之名。亦無女人。一切人皆有三十二相。無量光明常照世間。一念之頃作無量身。到無量如恒河沙等世界。度無量阿僧祇眾生。還來本處。

若し清浄なれば、則ち三悪道、三毒無く、乃至三毒の名すら無く、亦た二乗の名も無く、亦た女人も無く、一切の人には、皆三十二相有りて、無量の光明は常に世間を照らし、一念の頃に無量の身と作りて、無量の恒河沙等の如き世界に到りて、無量阿僧祇の衆生を度して、本処に還り来たる。

   若し、

     『清浄』ならば、

   則ち、

     『三悪道も、三毒』も無く、乃ち、

     『三毒の名』さえ無い。

   亦た、

     『二乗(声聞、辟支仏)の名』も無く、亦た、

     『女人』も無いのである。

   則ち、

     『一切の人』は、

       皆、

         『三十二相』を具えて、

     『無量の光明』が、

       常に、

         『世間』を照らし、

     『一念の頃(あいだ)』に、

       無量の、

         『身』と作って、

       無量の恒河沙に等しい、

         『世界』に到り、

       無量阿僧祇の、

         『衆生』を度して、

         『本の処』に、還って来るのである。

如是世界在地上故不名色界。無欲故不名欲界。有形色故不名無色界。諸大菩薩福德清淨業因緣故。別得清淨世界出於三界。或有以大慈大悲心憐愍眾生故生此欲界。

是の如き世間は地上に在るが故に、色界と名づけず。無欲の故に欲界と名づけず、形色有るが故に無色界と名づけざるも、諸の大菩薩の福徳は、清浄業の因縁なるが故に、別に清浄世界を得て、三界を出だすなり。或は大慈大悲心の衆生を憐愍するを以っての故に、此の欲界に生ずる有り。

   是のような、

     『世界』は、

       『地上』に在るが故に、

         『色界』とは名づけず、

       『無欲』であるが故に、

         『欲界』とも名づけず。

       『形色』を有するが故に、

         『無色界』とも名づけないが、

     則ち、

       『諸の大菩薩』の、

         『福徳』は、

           『清浄の業』の因縁である故に、

         別に、

           『清浄の世界(例えば極楽世界)』を得て、

           『三界』を出すのである。

   或は、

     有る菩薩は、

       『大慈大悲心』で、

       『衆生を憐愍する』が故に、

     此の世間の、

       『欲界』に生ずることもある。

問曰。若命終時捨此禪定。初何以求學。

問うて曰く、若し命の終の時、此の禅定を捨つれば、初めに何を以ってか、学ばんことを求むる。

 問い、

   若し、

     『命』の終る時、

       此の『禅定を捨てる』ならば、

     何故、

       初に『学ぼう』とするのか?

答曰。欲界心狂不定。為柔軟攝心故入禪。命終時為度眾生起欲界心。

答えて曰く、欲界の心は、狂にして不定なれば、柔軟に心を摂せんが為の故に、禅に入り、命の終の時、衆生を度せんが為に欲界心を起す。

 答え、

   『欲界の心』は、

     『狂』であって、

     『定まらない』ので、

   『心』を、

     『柔軟』にして、

     『摂める』為に、

       『禅に入る』のだが、

   『命』の終る時には、

     『衆生』を度す為に、

       『欲界の心』を起すのである。

問曰。若生人中。何以故正生利等大家不生餘處。

問うて曰く、若し人中に生ぜば、何を以っての故にか、正しく刹利等の大家に生じて、余処に生ぜざる。

 問い、

   若し、

     『人中』に生まれるならば、

   何故、

     正しく、

       『刹利等の大家』に生まれて、

       『余の処』には生まれないのか?

答曰。生利為有勢力。生婆羅門家為有智慧。生居士家為大富故。能利益眾生。貧窮中自不能利何能益人生欲界天次當說

答えて曰く、刹利に生ずれば、為に勢力有り。婆羅門の家に生ずれば、為に智慧有り。居士の家に生ずれば、為に大富なれば、故に能く衆生を利益す。貧窮中には、自ら利する能わず。何んが能く人を益せん。欲界天に生ずるは、次に当に説くべし。

 答え、

   『刹利』に生まれれば、

     『勢力』が有り、

   『婆羅門』に生まれれば、

     『智慧』が有り、

   『居士家』に生まれれば、

     『大富』であるが故に、

       『衆生』を、

         『利益する』ことができるが、

   若し、

     『貧窮』中に生まれたならば、

       『自ら、利する』ことすらできない。

       何うして、

         『人を、益する』ことができよう?

 又、

   『欲界天に生ずる』に就いては、

     次いで、説くことになる。

  

 

 

 

 

方便力を以って、六欲天に生ず

【經】舍利弗。復有菩薩摩訶薩。入初禪乃至第四禪。入慈心乃至捨。入空處乃至非有想非無想處。以方便力故不隨禪生。或生四天王天處。或生三十三天夜摩天兜率陀天化樂天地化自在天。於是中成就眾生。亦淨佛世界常諸佛

舎利弗、復た有る菩薩摩訶薩は、初禅乃至第四禅に入り、慈心乃至捨に入り、空処乃至非有想非無想処に入り、方便力を以っての故に、禅に随わずして生ず。或は四天王天処に生じ、或は三十三天、夜摩天、兜率陀天、化楽天、他化自在天に生じて、是の中に於いて衆生を成就し、亦た仏世界を浄めて、常に諸仏に値う。

   舎利弗!

     復た、

       有る、

         菩薩摩訶薩は、

           『初禅、乃至第四禅』に入って、

             『慈心、乃至捨心』に入り、

             『空処、乃至非有想非無想処』に入り、

           『方便力』を以っての故に、

             『禅』に随わずに、

             『生まれる』のである。

         或は、『四天王天処』に生れ、

         或は、『三十三天、夜摩天、兜率陀天、化楽天、他化自在天』に生れて、

           是の中に於いて、

             『衆生』を成就し、亦た、

             『仏世界』を浄めて、

           常に、

             『諸仏に値う』のである。

 

  :地化自在天を他化自在天に改む。

【論】是義同上生天為異。問曰。欲界諸天情著五欲難可化度。菩薩何以生彼而不生人中。

是の義は上に同じ、天に生ずるを異と為すのみ。

問うて曰く、欲界の諸天の情は、五欲に著して、化度すべきこと難し。菩薩は、何を以ってか、彼に生じて、人中に生ぜざる。

 是の義は、

   上と同じであるが、

   『天に生まれる』ことだけが、異る。

 問い、

   『欲界の諸天』は、

      『情』が、

        『五欲』に著するので、

        『化度』し難い。

   菩薩は、

     何故、

       『彼の天』に生まれて、

       『人中』に生まれないのか?

答曰。諸天著心雖大。菩薩方便力亦大。如說三十三天上有須浮摩樹林。天中聖天厭捨五欲。在中止住化度諸天。兜率天上恒有一生補處諸菩薩。常得聞法。密跡金剛力士亦在四天王天上。如是等教化諸天

答えて曰く、諸天の著心は大なりと雖も、菩薩の方便力も亦た大なり。説の如きは、『三十三天上に須浮摩(しゅぶま)樹林有り。天中の聖天は五欲を厭捨し、中に在りて止住して、諸天を化度す。兜率天上に恒に一生補処の諸菩薩有り、常に法を聞くを得』と。密迹金剛力士も亦た四天王天上に在り。是の如き等、諸天を教化するなり。

 答え、

   『諸天』は、

     『著心』が大であるが、

   『菩薩』の、

     『方便力』も亦た大だからである。

   例えば、

     『三十三天上に、

        須浮摩(しゅぶま)樹林が有る。

        天中の聖天は、

          五欲を厭捨して、

          その林中に止住し、

          諸天を化度する』と説かれているし、

      兜率天上には、

        恒に、一生補処の諸菩薩が有って、

        常に、法を聞くことができるし、

      密迹金剛力士も、亦た、

        四天王天上に在り、

   是のように、

     『諸天を教化する』のである。

 

  須浮摩(しゅぶま):不明。

 

 

 

 

方便力を以って、梵天処に生ず

【經】復次舍利弗。有菩薩摩訶薩。行般若波羅蜜。以方便力入初禪。此間命終生梵天處作大梵天王。從梵天處遊一佛國至一佛國。在所有諸佛得阿耨多羅三藐三菩提。未轉法輪者勸請令轉

復た次ぎに、舎利弗、有る菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行じて、方便力を以って初禅に入り、此の間に命終りて、梵天処に生じて、大梵天王と作り、梵天処より、一仏国に遊びて、一仏国に至り、在る所に、諸仏有りて、阿耨多羅三藐三菩提を得たるも、未だ法輪を転ぜざれば、勧請して転ぜしむ。

 復た次ぎに、

   舎利弗!

     有る、

       菩薩摩訶薩は、

         『般若波羅蜜』を行じて、

           『方便力』を以って、

             『初禅』に入り、

           『此の間』の、

             『命』が終れば、

             『梵天処』に生まれて、

               『大梵天王』と作り、

           『梵天処』より、

             『一仏国』に遊んで、

             『一仏国』に至って、

           『在る所』に、

             『諸仏』が有って、

               『阿耨多羅三藐三菩提』を得ていながら、

               未だ、

                 『法輪』を転じていなければ、

                 『法輪』を転ずるよう勧請するのである。

問曰。若隨初禪生有何方便。

問うて曰く、若し初禅に随って生ぜば、何の方便か有らん。

 問い、

   若し、

     『初禅』に随って、

       『生まれる』ならば、

     何のような、

       『方便』が有るのだろうか?

答曰。雖生而不著味。念佛道憶本願。入慈心。念佛三昧時與禪和合故。名為方便。

答えて曰く、生ずと雖も、味に著せず、仏道を念じて本願を憶す。慈心に入りて念仏三昧の時も、禅と和合するが故に、名づけて方便と為す。

 答え、

   『禅』に随って、

     『生まれた』としても、

     『禅味』に著するのではなく、

   即ち、

     『仏道』を念じて、

     『本願』を憶えており、

     『慈心』に入るので、

   則ち、

     『念仏三昧』の時と、

     『禅』とが

       『和合する』のであり、

   故に、

     『方便』と名づけるのである。

問曰。何以故作梵王。

問うて曰く、何を以っての故にか、梵王と作る。

 問い、

   何故、

     『梵天王』と作るのだろう?

答曰。菩薩集福德因緣大故。世世常為物主。乃至生鹿中亦為其王。

答えて曰く、菩薩は、福徳を集むる因縁の大なるが故に、世世に常に物の主と為り、乃ち鹿中に生ずるに至るまで、亦た其の王と為る。

 答え、

   菩薩は、

     『福徳』を集める、

     『因縁』が大であるが故に、

   世世に、

     常に、

       『物の主』であり、

     乃ち、

       『鹿中』に生じても、亦た、

       『其の王』と為るのである。

復次是菩薩本願欲請佛轉法輪。不應作散天。或時此中三千大千世界。無佛。從一佛國至一佛國。求見初成佛未轉法輪者。所以者何。梵天王法。常應勸請諸佛轉法輪故

復た次ぎに、是の菩薩の本願は、仏を請じて、法輪を転ぜしめんと欲すれば、応に散天と作るべからず。或は時に此の中の三千大千世界に仏無くんば、一仏国より一仏国に至りて、初めて仏と成りて、未だ法輪を転ぜざる者に見えんことを求む。所以は何んとなれば、梵天王の法は、常に応に諸仏を勧請して、法輪を転ぜしむるべきが故なり。

 復た次ぎに、

   是の菩薩の、

     『本願』は、

       『梵天王』と作り、

         『仏』を勧請して、

         『法輪』を転じさせることであり、

       『散天』と作るべきでない。

   或は、

     此の中の、

       『三千大千世界』が、

       『無仏の時』であれば、

     即ち、

       『一仏国』より、

       『一仏国』に至って、

         『仏』と成りながら、

         『法輪』を転じていない者を、

           探し、求めるのである。

   何故ならば、

     『梵天王の法』が、

       常に、

         『諸仏』を、

           『勧請』して、

         『法輪』を、

           『転じさせる』からである。

 

  散天(さんてん):役目の無い天。

 

 

 

 

方便力を以って、有仏の処に生ず

【經】舍利弗。有菩薩摩訶薩。三生補處行般若波羅蜜。以方便力入初禪乃至第四禪。入慈心乃至捨。入空處乃至非有想非無想處。修四念處乃至八聖道分。入空三昧無相無作三昧不隨禪生。生有佛處修梵行。

舎利弗、有る菩薩摩訶薩は、三生補処にして、般若波羅蜜を行じ、方便力を以って、初禅乃至第四禅に入り、慈心乃至捨に入り、空処乃至非有想非無想処に入り、四念処乃至八聖道分を修め、空三昧無相無作三昧に入りて、禅に随わずして生じ、有仏の処に生じて、梵行を修む。

   舎利弗!

     有る、

       菩薩摩訶薩は、

         『三生補処』であり、

         『般若波羅蜜』を行じて、

           『方便力』を以って、

             『初禅、乃至第四禅』に入り、

               『慈心、乃至捨心』に入り、

             『空処、乃至非有想非無想処』に入って、

               『四念処、乃至八聖道分』を修め、

             『空三昧、無相無作三昧』に入って、

               『禅』に随わずに生じ、

               『有仏の処』に生じて、

                 『梵行』を修める。

若生兜率天上。隨其壽終具足善根不失正念。與無數百千億萬諸天圍繞恭敬。來生此間得阿耨多羅三藐三菩提

若し兜率天上に生ずれば、其の寿の終るに随いて、善根を具足して正念を失わず。無数百千億万の諸天に囲遶、恭敬されて、此の間に来生し、阿耨多羅三藐三菩提を得。

         若し、

           『兜率天上』に生ずれば、

             『其の寿命』の終るに随って、

               『善根』を具足して、

               『正念』を失わず、

             『無数百千億万の諸天』に、

               『囲遶、恭敬』されて、

               『此の間』に来生し、

               『阿耨多羅三藐三菩提』を得るのである。

【論】問曰。是三生菩薩在十住地已具足諸功德。今何以修習諸行。

問うて曰く、是の三生菩薩は、十住の地に在れば、已に諸の功徳を具足す。今、何を以ってか、諸行を修習する。

 問い、

   是の、

     『三生の菩薩』は、

       『十住の地』に在って、已に、

       『諸の功徳』を具足している。

   今、

     何故、

       『諸行』を修習するのか?

答曰。心未入涅槃要有所行。所謂四禪乃至三三昧。

答えて曰く、心の未だ涅槃に入らざるは、要ず所行有り、謂わゆる四禅乃至三三昧なり。

 答え、

   『心』が、

     未だ、『涅槃』に入らなければ、

     要ず、『行う所』が有る。

   謂わゆる、

     『四禅、乃至三三昧』である。

復次是菩薩於天人中示行人法修行求道。

復た次ぎに、是の菩薩は天、人中に於いては人法を行じ、修行して道を求むるを示す。

 復た次ぎに、

   是の菩薩は、

     『天、人』中に於いては、

       『人法』を行じて、修行し、

       『道を求める』ことを、

         『天、人』に示すのである。

復次是菩薩雖在十住地猶有煩惱習在。又於諸法猶有所不知。是故修道。

復た次ぎに、是の菩薩は、十住の地に在りと雖も、猶お煩悩の習の有るに在り。又、諸法に於いて猶お知らざる所有れば、是の故に道を修む。

 復た次ぎに、

   是の菩薩は、

     『十住の地』に在るが、

     猶お、

       『煩悩の習の有る地』に在り、

   又、

     『諸法』に於いても、

     猶お、

       『知らない所』が有るので、

   是の故に、

     『道を修める』のである。

復次是菩薩雖行深行。三十七品三解脫門等猶未取證。今為證故更修諸行。

復た次ぎに、是の菩薩は、深行を行ずと雖も、三十七品、三解脱門等は、猶お未だ証を取らず。今、証せんが為の故に更に諸行を修む。

 復た次ぎに、

   是の菩薩は、

     『深行』を行ずるが、

       『三十七品、三解脱門』等は、

       猶お、

         未だ、『証』を取っていないので、

         今、

           『証』を取る為の故に、

         更に、

           『諸行』を修めるのである。

復次雖是大菩薩於佛猶小。譬如大聚火雖有能照於日則不現。如放缽經中。彌勒菩薩語文殊尸利。如我後身作佛。如恒河沙等文殊尸利。不知我舉足下足事。以是故雖在十住猶應修行。

復た次ぎに、是れ大菩薩なりと雖も、仏に於いては猶お小なり。譬えば大聚火の能く照らすこと有りと雖も、日に於いては則ち現われざるが如し。『放鉢経』中に、弥勒菩薩の文殊師利に語るが如きは、『我が後身の如きも、仏と作らば、恒河沙等の如き文殊師利も、我が挙足下足の事すら知らざらん』と。是を以っての故に、十住に在りと雖も、猶お応に修行すべし。

 復た次ぎに、

   是れは、

     『大菩薩』ではあるが、

       『仏』に比せば、

       猶お、

         『小』である。

   譬えば、

     『大火聚』が、

       『照らすことができる』としても、

       『日』に比せば、

         『現われない』のと同じである。

   例えば、

     『放鉢経』には、

       弥勒菩薩が、文殊師利にこう語っている、――

       『例えば、

          わたしの、

            後身が、

              仏に作れば、

          恒河沙に等しい、

            文殊師利も、

              わたしに就いては、

                挙足下足の事すら、

                知ることができない』と。

   是の故に、

     『十住の地』に在ったとしても、

     猶お、

       『修行』すべきなのである。

 

  参考:『仏説放鉢経』:『彌勒菩薩語舍利弗言。我雖次當來佛功德成滿其行具足。不知文殊師利菩薩。譬如十方恒邊沙佛。滿中萬物草木。及爾所菩薩。不能知佛一步之中所念何等。

問曰。三生菩薩何以不廣度眾生而要生佛前。

問うて曰く、三生菩薩は、何を以ってか、広く衆生を度せずして、而も要ず仏前に生ずる。

 問い、

   『三生の菩薩』は、

     何故、

       広く、

         『衆生を度す』のではなく、

       要ず、

         『仏前に生まれる』のか?

答曰。是菩薩所度已多。今垂欲成佛應在佛前。所以者何。非但度眾生得成佛。諸佛深法應當聽聞故。

答えて曰く、是の菩薩の度する所は、已に多し。今垂として、成仏せんと欲すれば、応に仏前に在るべし。所以は何んとなれば、但だ衆生を度して、成仏を得るのみに非ず、諸仏の深法は、応当に聴聞すべきが故なり。

 答え、

   是の菩薩の、

     『度す所』は、

       『已に、多い』のであるが、

   今、

     垂(なんなん)として、

       『仏に成ろう』と欲すれば、

       『仏前に在る』べきである。

   何故ならば、

     『仏に成る』のは、

       但だ、

         『衆生を度せばよい』のではなく、

       当然、

         『諸仏の深法を聴聞すべき』である。

問曰。若為諮問佛事故在佛前者。何以故。釋迦文佛作菩薩時。在迦葉佛前惡口毀呰。

問うて曰く、若し仏事を諮問せんが為の故に、仏前に在らば、何を以っての故にか、釈迦文仏は菩薩と作る時、迦葉仏の前に在りて、悪口毀呰せる』と。

 問い、

   若し、

     『仏事を問う』為の故に、

     『仏前に在る』ならば、

   何故、

     『釈迦文仏』は、

       『菩薩』と作った時、

       『迦葉仏』の前で、

         『悪口、毀呰した』のか?

 

  参考:『雑阿含経巻19(533)』:『如是我聞。一時。佛住舍衛國。乃至尊者大目犍連言。我於路中見一大身眾生。比丘之像。皆著鐵葉以為衣服。舉體火然。亦以鐵缽盛熱鐵丸而食之。乃至佛告諸比丘。此眾生者。過去世時。於此舍衛國迦葉佛法中出家作比丘。作摩摩帝。惡口形名諸比丘。或言此是惡禿。此惡風法。此惡衣服。以彼惡口故。先住者去。未來不來。緣斯罪故。已地獄中受無量苦。地獄餘罪。今得此身。續受斯苦。諸比丘。如大目犍連所見。真實不異。當受持之。佛說此經已。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行

答曰。是事先已說。法身菩薩種種變化身以度眾生。或時行人法。有飢渴寒熱老病憎愛瞋喜讚歎呵罵等。除諸重罪餘者皆行。

答えて曰く、是の事は、先に已に説けり。法身の菩薩は、種種に身を変化して以って衆生を度するに、或は時に人法を行じて、飢渇、寒熱、老病、憎愛、瞋喜、讃歎、呵罵等有れば、諸の重罪を除きて余の者は皆行ず。

 答え、

   是の事は、

     先に、已に説いた、――

   『法身の菩薩』は、

     種種に、

       『身を変化し』て、

       『衆生を度す』のであるが、

     或は、

       時に、

         『人法』を行じて、

           『飢渇、寒熱、老病、憎愛、瞋喜、讃歎、呵罵』等が有り、

           『諸の重罪』を除いて、

             余は、

               『皆、行う』のである。

 

  参考:『大智度論巻27』:『復次聲聞人言。菩薩不斷結使乃至坐道場然後斷。是為大錯。何以故汝法中說。菩薩已滿三阿僧祇劫。後更有百劫中。常得宿命智自憶迦葉佛時。作比丘名鬱多羅修行佛法。云何今六年苦行修邪道法。日食一麻一米。後身菩薩一日尚不應謬。何況六年。瞋亦如是從久遠世時作毒蛇。獵者生剝其皮猶尚不瞋。云何最後身而瞋五人。以是故知聲聞人受佛義為錯。佛以方便力。欲破外道故。現六年苦行。汝言瞋五人者是為方便。亦是瞋習非煩惱也。今當如實說。菩薩得無生法忍。煩惱已盡習氣未除故因習氣受。及法性生身能自在化生。有大慈悲為眾生故。亦為滿本願故。還來世間。具足成就餘殘佛法故。十地滿坐道場。以無礙解脫力故。得一切智一切種智斷煩惱習。

是釋迦文菩薩爾時為迦葉佛弟名鬱多羅。兄智慧熟不好多語。弟智慧未備故多好論議。時人謂弟為勝。兄後出家得成佛道號名迦葉。弟為閻浮提王訖梨机師。有五百弟子以婆羅門書教授諸婆羅門。諸婆羅門等不好佛法。

是の釈迦文菩薩は、爾の時の迦葉仏の弟と為りて、鬱多羅(うったら)と名づく。兄は智慧熟して、多語を好まず、弟は智慧未だ備わらざるが故に多く論議を好めり。時の人の謂わく、『弟勝れたり』と。兄は後に出家して仏道を成ずるを得、号を迦葉と名づけ、弟は閻浮提の王訖梨机(きつりき)の師と為りて、五百の弟子を有して、婆羅門の書を以って、諸の婆羅門に教授す。諸の婆羅門等は、仏法を好まず。

   是の、

     『釈迦文菩薩』は、

       爾の時、

         『迦葉仏』の、

           『弟』であり、

           名を、

             『鬱多羅(うったら)』といった。

         『兄』は、

           『智慧』が熟して、

           『多語』を好まなかったが、

         『弟』は、

           『智慧』が未熟で、

           『論議』を多く好んだので、

         時の人は、

           『弟が勝れている』と謂った。

       後に、

         『兄』は、

           『出家』して、

           『仏道』を得、

           名を、

             『迦葉』と号したが、

         『弟』は、

           『閻浮提の王』、

             『訖梨机(きつりき)の師』と為って、

             『五百の弟子』を有し、

               『婆羅門の教書』を以って、

               『諸の婆羅門』に教授していた。

         『諸の婆羅門』は、

           『仏法を好まなかった』のである。

爾時有一陶師名難陀婆羅。迦葉佛五戒弟子得三道。與王師鬱多羅為善友。以其心善淨信故。

爾の時、一陶師有り、難陀婆羅(なんだばら)と名づけ、迦葉仏の五戒の弟子にして、三道(須陀洹道、斯陀含道、阿那含道)を得、王師鬱多羅と善友たり。其の心の善、浄、信なるを以っての故なり。

       爾の時、

         『一陶師』が有り、

         名を、

           『難陀婆羅(なんだばら)』といい、

           『迦葉仏の五戒の弟子』であり、

             『三道(須陀洹道、斯陀含道、阿那含道)』を得て、

           『王師、鬱多羅』の、

             『善友』であったが、

             『鬱多羅の心』が、

               『善、浄、信』だったからである。

爾時鬱多羅乘金車駕四白馬。與弟子俱出城門。難提婆羅於路相逢鬱多羅問言。從何所來。答言。汝兄得阿耨多羅三藐三菩提。我供養還。汝可共行覲見於佛。故來相迎。

爾の時、鬱多羅は、金の車駕、四の白馬に乗り、弟子と倶に城門を出づるに、難提婆羅と路に於いて相逢い、鬱多羅の問うて言わく、『何所より来たる』と。答えて言わく、『汝が兄は、阿耨多羅三藐三菩提を得たれば、我れは供養して還れり。汝も、共に行きて仏に覲見すべければ、故に来たりて相迎うるなり』と。

       爾の時、

         『鬱多羅』は、

           『四白馬の牽く金車駕』に乗り、

           『弟子』と倶に、

             『城門』を出ると、

           『難提婆羅』に、

             『道』で出会った。

         『鬱多羅』は、

           こう問うた、――

             『誰の所から、来た?』と。

           こう答えた、――

             『お前の、

                兄が、阿耨多羅三藐三菩提を得たので、

              わたしは、

                供養して、還るところだが、

              お前も、

                共に行って、

                仏に、お会いするがよかろう。

              それで、

                お前を、迎えに来たのだ』と。

鬱多羅作是念。若我徑到佛所。我諸弟子當生疑怪。汝本論議智慧恒勝。今往供養將是親屬愛故必不隨我。恐破其見佛因緣故。住諸法實相智中入無上方便慧度眾弟子。故口出惡言。此禿頭人何能得菩提道。

鬱多羅の是の念を作さく、『若し我れ径(みち)にて、仏所に到らば、我が諸の弟子は、当に疑怪を生ずべし、汝は本論議して、智慧恒に勝れり。今往きて供養するも、将に是れ親属の愛の故ならんと。必ず我れに随わじ』と。其の見を破する仏の因縁を恐るるが故に、諸法の実相の智中に住し、無上方便の慧に入りて、衆の弟子を度せんが故に、口に悪言を出せり、『此の禿頭人にして、何んが能く菩提の道を得んや』と。

         『鬱多羅』は、

           こう考えた、――

             『若し、

                わたしが、

                  寄り道して、

                  仏の所に到れば、

                わたしの、

                  諸の弟子は、

                    疑い怪しんで、

                      『お前は、

                         本、論議して、

                         智慧では、恒に勝っていたではないか!

                       今、

                         往きて、供養するのも、

                         将(はた)して、親属の愛からであろう!』と謂って、

                    必ず、

                      わたしに、

                        随わなくなるだろう』と。

           『其の見』を破る、

             『仏の因縁』を恐れるが故に、

           『諸法実相』の、

             『智』中に住して、

           『無上方便』の、

             『慧』中に入り、

             『衆弟子を度そう』とするが故に、

           『悪口』して、

             こう言った、――

             『此の、

                禿頭の人め!

                何うして、

                  菩提の道を得られよう!』と。

爾時難提婆羅善友。為如瞋狀捉頭挽言。汝不得止。鬱多羅語弟子言。其事如是吾不得止。即時師徒俱行詣佛。見佛光相心即清淨。前禮佛足在一面坐。佛為隨意說法。鬱多羅得無量陀羅尼門。諸三昧門皆開。五百弟子還發阿耨多羅三藐三菩提心。

爾の時、難提婆羅善友は、瞋るが如き状を為し、頭を捉えて挽きて言わく、『汝、止まるを得ざれ』と。鬱多羅の弟子に語りて言わく、『其の事は是の如し。吾れは、止まることを得ず』と。即ち時に、師、徒倶に往きて、仏に詣(いた)り、仏の光相を見るに、心は即ち清浄なり、前(すす)みて仏の足に礼し、一面に在りて坐す。仏は為に意の随に法を説きたまい、鬱多羅は、無量の陀羅尼門、諸の三昧門の皆開くを得、五百の弟子も還た阿耨多羅三藐三菩提心を発せり。

       爾の時、

         『難提婆羅善友』は、

            『瞋り』の形状を為して、

            『頭』を捉えて挽きよせ、

              こう言った、――

              『お前は、

                 止まってはならない!』と。

         『鬱多羅』は、

            弟子に、こう言った、――

            『是のような、

               事では、

               わたしは、止まるわけにいかない』と。

       即時に、

         『師と、諸弟子』は、

            倶に、

              『仏の所』に行き、

              『仏の光相』を見ると、

              『心』が、

                『清浄』になった。

            即ち、

              『仏前』に進んで、

              『仏足』を礼し、

              『壁の一面』に坐した。

         『仏』が、

            意の随に、

              『法』を説かれると、

         『鬱多羅』は、

            無量の、

              『陀羅尼門、諸三昧門』を得て、

            皆、

              『開く』ことができた。

         『五百の弟子』も、

            還た、

              『阿耨多羅三藐三菩提心を発した』のである。

鬱多羅從坐起白佛言。願佛聽我出家作比丘。佛言善來。即成沙門。以是方便故現出惡言非是實也。虛空可破。水可作火。火可作水。三生菩薩於凡夫中瞋心叵得。何況於佛。

鬱多羅は、坐より起ちて仏に白して言さく、『願わくは仏、我が出家と、比丘と作ることを聴したまえ』と。仏の言わく、『善く来たれり』と。即ち沙門と成る。是の方便を以っての故に、現に悪言を出せるも、是れは実なるに非ざるなり。虚空は破るべく、水は火と作るべく、火は水と作るべきも、三生の菩薩は、凡夫中に於いて、瞋心を得べからず。何に況んや、仏に於いてをや。

         『鬱多羅』は、

            坐より起つと、

            仏に、こう白して言った、――

            『願わくは、

               仏!

                 わたくしに、

                   出家と、

                   比丘と作ることを聴(ゆる)したまえ!』と。

            仏が、

              『善く来た!』と言われて、即ち、

              『沙門と成った』のである。

   是れは、

     『方便』を以っての故に、

     現に、

       『悪言』を出したのであり、

   是れは、

     『実』ではない。

   若し、

     『虚空』が、破られ、

       『水』が、火と作り、

       『火』が、水と作ったとしても、

     『三生の菩薩』は、

       『凡夫』の中に於いて、

       『瞋心』を起すことは、

         有り得ないのである。

問曰。若爾者佛何以受第八罪報六年苦行。

問うて曰く、若し爾らば、仏は何を以ってか、第八の罪報を受けて六年苦行したまえる。

 問い、

   若し、

     そうならば、

   仏は、

     何故、

       『第八の罪報』を受けて、

       『六年の苦行』をされたのか?

 

  参考:『大智度論巻9』:『問曰。若佛神力無量威德巍巍不可稱說。何以故受九罪報。一者梵志女孫陀利謗。五百阿羅漢亦被謗。二者旃遮婆羅門女。繫木盂作腹謗佛。三者提婆達推山壓佛傷足大指。四者迸木刺腳。五者毘樓璃王興兵殺諸釋子佛時頭痛。六者受阿耆達多婆羅門請而食馬麥。七者冷風動故脊痛。八者六年苦行。九者入婆羅門聚落乞食不得空缽而還。

答曰。小乘法與大乘法異。若無異者不應有大小。小乘法中。不說法身菩薩祕奧深法無量不可思議神力。多說斷結使直取涅槃法。

答えて曰く、小乗法は、大乗法と異り。若し異無くんば、応に大小有るべからず。小乗法中には、法身の菩薩の秘奥の深法の無量不可思議なる神力を説かずして、多く結使を断じて直ちに涅槃を取る法を説く。

 答え、

   『小乗の法』は、

     『大乗の法』と異る。

   若し、

     『異り』が無ければ、

     『大、小』の有るはずがない。

   『小乗の法』中には、

     『法身の菩薩』の、

       『秘奥の深法』、

       『無量不可思議の神力』を説かないが、

     多くは、

       『結使』を断じて、

       直ちに、

         『涅槃を取る法』を説くのである。

復次若佛不受是第八罪報。有諸天神仙龍鬼諸長壽者。見有此惡業而不受罪報。謂為無業報因緣。以是故雖現在無惡業亦受罪報。

復た次ぎに、若し仏、是の第八罪報を受けたまわずんば、諸の天、神仙、龍鬼、諸の長寿の者は、此の悪業有りても、罪報を受けずと見て、業報の因縁無しと為すと謂う有らん。是を以っての故に、現に在して、悪業無しと雖も、亦た罪報を受けたもうなり。

 復た次ぎに、

   若し、

     『仏』が、

       『是の第八罪報』を受けられなければ、

     『諸天、神仙、龍鬼、諸の長寿の者』は、

       『此の世』に、

         『悪業』が有っても、

         『罪報を受けない』と見て、

       『業報の因縁は無い』と謂うだろう。

   是の故に、

     現在、

       『悪業が無く』ても、

     亦た、

       『罪報を受られた』のである。

又有今世因緣。諸外道等信著苦行。若佛不六年苦行則人不信。言是王子串樂不能苦行。以是故佛六年苦行。有外道苦行者。或三月半歲一歲。無能六年日食一麻一米者。諸外道謂此為苦行之極。是人若言無道真無道也。於是信受皆入正道。

又、今世の因縁有り。諸の外道等は信じて、苦行に著す。若し仏にして、六年苦行したまずんば、則ち人は信ぜずして、『是の王子は、楽を串(つら)ねて苦行すること能わず』と言わん。是を以っての故に、仏は六年苦行したもう。外道の苦行者有り、或は三月、半歳、一歳にして、能く六年、日に一麻一米を食する者無し。諸の外道の謂わく、『此れを苦行の極と為す。是の人にして、若し道無しと言えば、真に道無きなり』と。是に於いて信受して、皆正道に入る。

 又、

   『今世の因縁』も有るのである。

   諸の、

     『外道』等は、

       『苦行』を信著していたので、

   若し、

     『仏』が、

       『六年の苦行』をされなければ、

     『人』は、

       『是の王子は、

          楽を、積み重ねて、

          苦行することができないのだ!』と言うだろう。

   是の故に、

     『仏』は、

       『六年の苦行』をされたのである。

   有る、

     『外道の苦行者』は、

       或は、

         『三月、半歳、一歳』ぐらいであり、

         『六年』も、

           『日』ごとに、

             『一麻粒、一米粒』を、

             『食う』ような者は無いので、

   諸の、

     『外道』は、

       こう謂うだろう、――

       『此れは、

          苦行の極みである。

        是の人が、

          若し、

            道が無いと言うならば、

          真に、

            道は無いのである』と。

     是に於いて、

       『信受』して、

       皆、

         『正道に入る』のである。

以是二因緣故六年苦行非實罪也。何以故諸佛斷一切不善法。成就一切善法故。佛若實受罪報不得言成一切善法斷一切不善法。

是の二因縁を以っての故に、六年苦行したもうも、実の罪に非ず。何を以っての故に、諸仏は、一切の不善法を断じて、一切の善法を成就したもうが故なり。仏にして、若し実に罪報を受けたまわば、『一切の善法を成じて、一切の不善法を断ず』と言うを得ず。

     是の、

       『二因縁』を以っての故に、

         『六年の苦行』をされたのであり、

       実に、

         『罪が有った』のではない。

     何故ならば、

       『諸仏』は、

         『一切の不善法』を断じて、

         『一切の善法』を成就されているからである。

     若し、

       『仏』が、

         実に、

           『罪報を受けられた』ならば、

         このように言うわけがない、――

           『一切の、

              善法を成じて、

            一切の、

              不善法を断じた』と。

復次小乘法中佛為小心眾生故說。二生菩薩猶惡口毀佛。二生菩薩尚不罵小兒。云何實毀佛。皆是方便為眾生故。何以知之。

復た次ぎに、小乗法中に、仏は小心の衆生の為の故に、『二生の菩薩すら、猶お悪口して仏を毀(そし)る』と説きたまえるも、二生の菩薩は、尚お小児すら罵らず、云何が実に仏を毀らんや。皆、是れ方便にして、衆生の為の故なり。何を以ってか、之を知る。

 復た次ぎに、

   『小乗法』中に、

     仏は、

       『小心の衆生』の為の故に、

       こう説かれたのである、――

       『二生の菩薩すら、

          猶お、

            悪口して、

            仏を毀(そし)ることがある』と。

     而し、

       『二生の菩薩』は、

          尚お、

            『小児すら、罵らない』のである。

       何うして、

          実に、

            『仏を、毀る』ことが有ろう?

       皆、

          是れは、

            『方便』であり、

            『衆生』の為だからである。

       何故、

         之を知ることができるのか?

是釋迦文佛。毘婆尸佛時作大婆羅門。見佛眾僧食疾而發是言。如是人輩應食馬麥。因此罪故墮黑繩等地獄。受無量世苦已。餘罪因緣。雖成佛道而三月食馬麥。

是の釈迦文仏は、毘婆尸仏の時、大婆羅門と作るに、仏の衆僧の食することの疾きを見て、是の言を発すらく、『是の如き人の輩は、応に馬麦を食すべし』と。此の罪に因るが故に黒縄等の地獄に堕ち、無量世の苦を受け已るも、余罪の因縁に、仏道を成ずと雖も、而も三月、馬麦を食したまえり。

       『是の釈迦文仏』は、

          『毘婆尸仏』の時、

            『大婆羅門』と作り、

              『仏の衆僧』の、

                 『食うのが疾すぎる』のを見て、

              是の言を発した、――

              『是のような人は、

                 馬麦を食えばよいのだ!』と。

          『是の罪』に因るが故に、

            『黒縄等の地獄』に堕ちて、

            『無量世の苦』を受け已ったが、

          『余罪』の因縁の故に、

            『仏道』を成じても、

            『三月、馬麦を食った』のである。

又聲聞法中說。佛過三阿僧祇劫常為男子。常生貴處常不失諸根。常識宿命常不墮三惡道中。從毘婆尸佛來。九十一劫如汝法。九十劫中不應墮惡道。何況末後一劫。以是故知非是實也。方便故說。

又、声聞法中に説かく、『仏は、三阿僧祇劫を過ぎて常に男子と為り、常に貴処に生じ、常に諸根を失わず、常に宿命を知り、常に三悪道中に堕ちず』と。毘婆尸仏より来、九十一劫なり。汝が法の如きは、『九十劫中には、応に悪道に堕すべからず』と。何に況んや、末後の一劫をや。是を以っての故に知る、『是れ実なるに非ず、方便の故に説きたまえり』と。

 又、

   『声聞法』中には、

     こう説いている、――

     『仏は、

        三阿僧祇劫を過ぎると、

          常に、男子と為り、

          常に、貴処に生まれ、

          常に、諸根を失わず、

          常に、宿命を識り、

          常に、三悪道中に堕ちない』と。

   『毘婆尸仏』より、

     已に、

       『九十一劫』であるが、

     あなたの法では、

       『九十劫』の中、

         『悪道に堕ちる』はずがない。

     況して、

       『末後の一劫』に、

         何うして、堕ちることがあろう?

   是の故に、

     こう知るのである、――

     『是れは、

        実ではない。

        方便の故に、説いたのだ』と。

 

  参考:『雑宝蔵経巻7(81)』:『佛在菩提樹下魔王波旬欲來惱佛緣  。昔如來在菩提樹下。惡魔波旬。將八十憶眾。欲來壞佛。至如來所。而作是言。瞿曇汝獨一身何能坐此。急可起去。若不去者。我捉汝腳。擲著海外。佛言。我觀世間。無能擲我著海外者。汝於前身。但曾作一寺。受一日八戒。施辟支佛一缽之食。故生六天。為大魔王。而我乃於三阿僧祇劫。廣修功德。一阿僧祇劫。我曾供養無量諸佛。第二第三阿僧祇劫。亦復如是。供養聲聞緣覺之人。不可計數。一切大地。無有針許非我身骨。魔言。瞿曇。汝道我昔。一日持戒。施辟支佛食。信有真實。我亦自知。汝亦知我。汝自道者。誰為證知。佛以手指地言。此地證我。作是語時。一切大地。六種震動。地神即從金剛際出。合掌白佛言。我為作證。有此地來。我恒在中。世尊所說。真實不虛。佛語波旬。汝今先能動此澡瓶。然後可能擲我海外。爾時波旬。及八十億眾。不能令動。魔王軍眾。顛倒自墮。破壞星散。諸比丘言。波旬長夜。惱亂如來。而不得勝。佛言。非但今日。過去亦爾。昔迦尸國。仙人山中。有五通仙。教化波羅奈城中諸年少輩。皆度出家。使修仙道。爾時城神。極大瞋恚。語仙人言。汝若入城。更度人者。我捉汝腳。擲於海外。彼仙人捉一澡瓶。語城神言。先動此瓶。然後擲我。盡其神力。不能得動。慚愧歸伏。爾時仙人。我身是也。爾時城神。波旬是也

問曰。佛二罪毘尼雜藏中說。是可信受。三阿僧祇後百劫不墮惡道者。從初阿僧祇亦不應墮惡道。若不墮者何以但說百劫。佛無是說。但是阿毘曇鞞婆沙論議師說。

問うて曰く、仏の二罪は、毘尼雑蔵中にも説けり、是れ信受すべし。三阿僧祇の後の百劫、悪道に堕ちずとは、初の阿僧祇より亦た応に悪道に堕すべからず。若し堕せずんば、何を以って但だ百劫と説く。仏には、是の説無し、但だ是れ阿毘曇、鞞婆沙の論議師の説なるのみ。

 問い、

   『仏の二罪』は、

     『毘尼()』の、

       『雑蔵』中に説かれているので、

     是れは、

       『信受』できる。

   『三阿僧祇劫の後の百劫、悪道に堕ちない』は、

     『初の阿僧祇』より、

       亦た、

         『悪道に堕ちる』はずがない。

       若し、

         『堕ちない』ならば、

       何故、

         但だ、『百劫』とのみ説いたのだろう?

     『仏』に、

       『是の説』は無く、

     但だ、

       『阿毘曇、毘婆沙の論議師の説』なのだろう?

答曰。阿毘曇是佛說。汝聲聞人隨阿毘曇論議。是名鞞婆沙不應有錯又如薄拘盧以一訶梨勒果施僧。於九十一劫中不墮惡道。何況菩薩無量世來。以身布施修諸功德。而以小罪因緣墮在地獄。如是事鞞婆沙不應錯。以是故小乘人不知菩薩方便。

答えて曰く、阿毘曇は、是れ仏説なり。汝、声聞人は、阿毘曇に随って論議して、是れを鞞婆沙と名づくるに、応に錯有るべからず。又、薄拘盧(はくくる)の如きは、一訶梨勒(かりろく)果を僧に施すに、九十一劫中に悪道に堕ちず。何に況んや、菩薩の無量世より来、身を以って布施し、諸の功徳を修め、而も小罪の因縁を以って堕して地獄に在るをや。是の如き事に、鞞婆沙は応に錯つべからず。是を以っての故に、小乗人は菩薩の方便を知らず。

 答え、

   『阿毘曇』は、

     是れは、

       『仏の説かれた』ものである。

     あなたのような、

       『声聞人』も、

         『阿毘曇』に随って、

           『論議』して、

         是れを、

           『鞞婆沙(びばしゃ、広説)』と名づけるぐらいだから、

           『錯誤する』はずがなかろう。

   又、

     『薄拘盧(はくくる、仏弟子)』などは、

       『一訶梨勒(かりろく、薬果)』を、

         『僧』に、施したので、

       『九十一劫』、

         『悪道』に、堕ちなかった。

    況して、

      『菩薩』は、

        『無量世』に、

          『身』を以って施し、

          『諸の功徳』を修めている。

     而も、

        『小罪』の因縁を以って、

          『地獄』に堕ちることがあろうか?

     是の事は、

        『鞞婆沙』ですら、

          『錯誤する』はずがない。

     是の故に、

       『声聞人』は、

         『菩薩の方便』を知らないのである。

 

  薄拘盧(はくくる):又薄拘羅に作る。

  薄拘羅(はくくら):梵名bakkula、又bakulavakkulavakula、巴梨名bakkula、或はbaakula、又薄矩羅、薄倶羅、薄拘盧、波拘盧、波鳩蠡、婆拘羅、婆拘盧、婆駒羅、婆鉤羅、縛矩羅、或は薄羅に作り、重姓、売姓、或は善容と訳す。仏の大弟子なり。「賢愚経巻5重姓品」に依るに、師は舎衛国長者の児にして、幼時、衆と共に大江の辺に到り、父母過ちて師を水中に落とす。時に一魚ありて之を呑み、下流に至りて奴の為に捕えられ、奴之を大家に売るに、腹中より師出づ。父母之を聞いて求むるも得ず、仍りて王所に到りて断を乞い、遂に両家に与えて共に養わしむ。故に師を字して重姓と号するなりと云えり。巴梨文長老偈註(真諦解釈paramathadiipanii所收)にも亦た同一説話を出し、其の生国を憍賞弥kosambii、大河を遥扶那yamnaa河となせり。「大智度論巻24」並びに「付法蔵因縁伝巻3」には、師は幼時母に嫌悪せられて、餅爐又は熱湯の釜中に擲置せられしも死せず、後河中に投ぜられて一大魚の呑食する所となり、捕魚師之を釣りて師の父に売り、為に救われたりと云えり。又「雑阿含経巻23」、「賢愚経巻5」等には、師は過去毘婆尸仏の時、長者となり、三帰不殺戒を持し、又彼の仏に一銭を布施せしを以って、爾後九十一劫常に無病福祐を得たりと云い、又「仏五百弟子自説本起経薄拘盧品」、「大智度論巻22、巻29」、「順正理論巻59」等には、師は毘婆尸仏の時、槃曇摩国に在りて薬を売り、一の呵棃勒薬を以って諸比丘に供養せし功徳に由り、九十一劫悪道に堕せず、天上人間に生じて福楽自然に備わることを得たりと云えり。師は後仏に帰して修道怠らず、少欲知足にして常に閑静を楽しみ、遂に阿羅漢果を得て大弟子の一に数えらるるに至れり。「中阿含巻8薄拘羅経」に、仏般涅槃の後未だ久しからざる時、師は一異学の問に答えて、我れ正法律の中に於いて学道すること八十年、未だ曽て欲想を起さず、常に糞掃衣を持し、居士の請を受けず、又女人の面を視ず、比丘尼の房中に入らず、沙弥を畜えず、白衣の為に法を説かず、乃至未だ曽て疾病あることなしと語りしことを伝え、又「増一阿含経巻13」には、師は嘗て釈提桓因の問に対して、舎利弗、阿難、均頭槃等は善く妙法を説くが故に、我れは人の為に説法せず、又衆生の類は覚知すること難く、且つ世界の国土同じからざるも皆我所非我所に著す、我れ此の義を観察するが故に人の為に説法せずと答えたることを記せり。斯くて師は生涯疾病あることなく、寿百六十歳にして遂に涅槃せりと伝えらる。仏入滅の後まで康存せしことは、前引「薄拘羅経」の記事に依りて知るを得べし。又「有部毘奈耶薬事巻4」に杵山に薄拘羅仙人あり、山を下りて仏に帰依し、不還果を証して、上首となる。是れ謂わゆる著樹皮衣苾芻なりと云えり。是れ同名異人なるべし。又「増一阿含経巻3弟子品」、「諸徳福田経」、「有部毘奈耶薬事巻17」、「大毘婆沙論巻181」、「阿育王伝巻2」等に出づ。<(望)

  参考:『大智度論巻22』:『如薄拘羅比丘。鞞婆尸佛時。以一呵梨勒果供養眾僧。九十一劫天上人中受福樂果常無疾病。今釋迦牟尼佛出家漏盡得阿羅漢。

  参考:『仏五百弟子自説本起経巻1薄拘盧品』:『我昔曾賣藥  於槃曇摩國  在惟衛佛世  敬諸比丘僧  時有病瘦者  行藥療其疾  供給諸根藥  以惠諸比丘  一歲諸眾僧  令無所乏少  時施諸沙門  與一呵梨勒  於九十一劫  未曾歸惡道  在天上人間  其福自然見  所作德少耳  受福不可量  施一呵梨勒  長久生善處  其餘所有福  今還得人身  見平等覺  導師無有一  未曾自識念  郡縣受施處  唯仁我二夜  證通三達智  常衣麤惡服  五納之震越  棄家行學道  願樂在閑居  其年百六十  於此無垢濁  未曾有疾病  所生處常安  佛普見說法  少欲無睡眠  觀布施藥者  其福廣如是  今我悉識念  本殖少功德  悉獲其果實  可意而安隱  時賢薄拘盧  在眾比丘僧  於阿耨達池  自說本所作

  訶梨勒(かりろく):梵名haritaki、又訶利勒、呵梨勒、呵利勒、訶梨怛鶏、呵梨得枳、賀唎怛繋、訶羅勒等に作り、又訶子に作る。果名。天主将来と訳す。五薬の一。「毘奈耶雑事巻1」に、「余甘子、訶梨勒、毘醯勒、畢鉢梨、胡椒、此の五薬は、有病無病、時と非時とに随意に皆食す」と云い、「善見律巻17」に、「訶羅勒は、大なること棗の大なるが如く、其の味は酢苦にして、服すれば便利なり」と云い、「玄応音義巻24」に、「訶梨怛鶏、旧に訶利勒と言い、翻じて天主将来と為す。此の果は薬分と為すに堪え、功用極めて多し。此の土の人の人参、石斛等の入らざる所無きが如し」と云える是れなり。<(丁)

復次聽汝鞞婆沙不錯。佛自說菩薩本起。菩薩初生時行七步。口自說言。我所以生者為度眾生故。言已默然。乳餔三年不行不語。漸次長大行語如法。

復た次ぎに、汝が鞞婆沙の錯たざるを聴け。仏は自ら菩薩の本起を説きたまわく、菩薩は初生の時、七歩行きて、口に自ら説いて、『我が生ずる所以は、衆生を度せんが為の故なり』と言い、言い已りて黙然し、乳餔の三年、行かず語らず、漸次長大するに行きて語ること法の如し。

 復た次ぎに、

   聴きなさい!

     あなたの、

       『鞞婆沙』は錯っていないのである。

     仏は、

       自ら、

         『菩薩の本起』を、こう説かれた、――

       『菩薩は、

          初生の時、

            七歩、歩いて、

            口で自ら、こう説いて言った、――

            『わたしの、

               生まれた理由は、

               衆生を度する為である』と。

          言い已ると、

            黙然として、

              乳餔の三年、

              歩くこともなく、

              言うこともなかったが、

            漸次、

              長大して、

            法のように、

              大いに、

                歩いて、

                語った』と。

一切嬰孩小時未能行語。漸次長大能具人法。今云何菩薩初生能行能語。後便不能。當知是方便力故。若受是方便。一切佛語悉皆得通。若不受者一實一虛。如是種種因緣。知為度眾生故現行惡口。

一切の嬰孩は、小時に未だ行き語ること能わず、漸次長大するに能く人法を具う。今、云何が、菩薩は初生にして能く行きて語り、後に便ち能わざらんや。当に知るべし、是れは方便力の故なり。若し是の方便を受くれば、一切の仏語は悉く皆通ずるを得、若し受けざれば、一は実、一は虚なり。是の如き種種の因縁に知る、衆生を度せんが為の故に現に悪口を行じたもうと。

     『一切の嬰孩』は、

       『小時』には、

         未だ、

           『歩く』ことも、

           『語る』こともできないが、

       漸次、

         長大すれば、

           『人法を具える』のである。

     今、

       何うして、

         『菩薩』は、

            初生の時、

              『歩く』こともでき、

              『語る』こともできたのに、

            後には、

              『できなくなった』のだろう?

     こう知るはずである、――

       『是れは、

          方便力の故である』と。

     若し、

       『是の方便』を、

         『受ける』ならば、

     則ち、

       『一切の仏語』は、

         悉く、

           『皆、通ずる』のである。

     若し、

       『受けない』ならば、

     則ち、

       『仏語』は、

         『一は、実』であり、

         『一は、虚』である。

   是れ等の、

     種種の因縁で、

       こう知ることになる、――

       『衆生を度す為に、

          現に、

            悪口を行じた』のであると。

問曰。三生菩薩何以但生兜率天上不生餘處。

問うて曰く、三生菩薩は、何を以ってか、但だ兜率天上に生じて、余処に生ぜざる。

 問い、

   『三生の菩薩』は、

     何故、

       但だ、

         『兜率天上に、生まれる』のみで、

         『余の処に、生まれない』のか?

答曰。若在他方世界來者諸長壽天龍鬼神。求其來處不能知。則生疑心謂為幻化。若在人中死人中生然後作佛者。人起輕慢天則不信。法應天來化人。不應人化天也。是故天上來生。則是從天為人。人則敬信。

答えて曰く、若し他方世界に在りて来たらば、諸の長寿の天龍、鬼神は、其の来たる処を求むるも、知ること能わずして、則ち疑心を生じ、謂いて幻化と為さん。若し人中に在りて死し、人中に生じて然る後に、仏と作らば、人は憍慢を起し、天は則ち信ぜざらん。法は、応に天来たりて人に化すべくして、応に人化して天たるべからず。是の故に天上より来たりて生ずれば、則ち是れ天に従っての人為れば、人は則ち敬信すべし。

 答え、

   若し、

     『他方世界』に在って来たならば、

   即ち、

     『諸の長寿の天龍、鬼神』は、

       『其の来処』を

         求めても、

         『知ることができない』ので、

     則ち、

       『疑心』を生じて、

       『幻化だろう』と謂うことになる。

   若し、

     『人中』に死に、

       『人中』に生まれた後に、

       『仏』と作るならば、

   則ち、

     『人』は、

       『軽慢を起す』ことになり、

     『天』は、

       『信じない』だろう。

   『法』としては、

     『天』より来て、

       『人に化す』べきであり、

     『人』が、

       『天に化す』べきではないのである。

   是の故に、

     『天上』より来て、

       『人中に生まれる』ならば、

   則ち、

     是れは、

       『天』より来て、

         『人』と為るので、

       『人』は、

         『敬信する』のである。

無色界中無形。不得說法故不在中生。色界中雖有色身可為說法。而深著禪味不能大利益眾生故。是故不在中生。

無色界中には形無く、法を説くことを得ざるが故に中に在りて生ぜず。色界中には、色身有りて、為に法を説くべしと雖も、而も深く禅味に著すれば、大いに衆生を利益すること能わざるが故に、是の故に中に在りて生ぜず。

   若し、

     『無色界中』ならば、

       『無形』であり、

     則ち、

       『説法ができない』が故に、

       『中からは、生まれない』。

   若し、

     『色界中』ならば、

       『色身』が有って、

       『説法』ができたとしても、

     深く、

       『禅味に著する』ので、

     大いに、

       『衆生を利益する』ことがない。

     是の故に、

       『中からは、生まれない』のである。

下三欲天深厚結使麤心錯亂。上二天結使既厚心軟不利。兜率天上結使薄心軟利。常是菩薩住處。

下の三欲天は、結使深厚にして麁心錯乱し、上の二天は、結使既に厚く、心軟らかけれど利ならず。兜率天上は、結使は薄く、心軟利なれば、常に是れ菩薩の住処なり。

     若し、

       『下三欲天』ならば、

         『結使』は深厚であり、

         『麁心』が錯乱する。

     若し、

       『上二欲天』ならば、

         『結使』は本より厚く、

         『心』も、

           『柔軟』であるが、

           『利根』でない。

     若し、

       『兜率天』ならば、

         『結使』が薄く、

         『心』は、

           『柔軟』、

           『利根』なので、

       常に、

         『菩薩の住処』となるのである。

譬如太子將登王位。先於靜室七日齋潔。然後登正殿受王位。補處菩薩亦如是。兜率天上如齋處。於彼末後受天樂。壽終來下末後受人樂。便成阿毘三佛。

譬えば、太子の将に王位に登らんとするや、先に静室に於いて七日斎潔し、然る後に正殿に登りて、王位を受くが如く、補処の菩薩も亦た是の如く、兜率天上は斎処の如し、彼に於いて末後の天楽を受け、寿終りて来下して末後の人楽を受け、便ち阿毘三仏(あびさんぶつ、現等覚)を成ず。

 譬えば、

   『太子』が、

     『王位に、登ろう』とすれば、

     先に、

       『静室』に於いて、

       『七日の斎潔』をして、

     後に、

       『正殿』に登って、

       『王位』を受けるように、

   『補処の菩薩』も、亦た、

     是のように、

       『兜率天上』を、

         『斎処』として、

       『彼の天』に於いて、

         『末後の天楽』を受け、

         『寿』が終ると、

           『人中』に来て下り、

       『人中』に於いて、

         『末後の人楽』を受けて、

         『阿毘三仏(あびさんぶつ、現等覚)』を成ずるのである。

 

  阿毘三仏(あびさんぶつ):具に阿毘三仏陀abhisaMbuddhaに作り、現等覚と訳す。仏の正覚を成ずるなり。「玄応音義巻3」に、「阿惟三仏、此の言は訛なり。正しく阿毘三仏陀と言うべし。阿毘は此に訳して現と云い、三は此に等と云い、仏陀は此に覚と云い、名づけて現等覚と為す」と云い、「大智度論巻38」に、「兜率天上は斎処の如し、彼に於いて末後の天楽を得、寿終りて来下して、末後の人楽を受け、便ち阿毘三仏を成ず」と云える是れなり。<(丁)

無量百千萬億諸天圍遶來生是間。以菩薩先常於無始生死中。往反天上人間。今是末後天身不復更來生天。是故咸皆侍送。菩薩於彼壽盡當下作佛。諸天壽有盡者不盡者。作願下生為菩薩檀越。

無量百千万億の諸天に囲遶されて、是の間に来生するは、菩薩は、先に常に、無始の生死中に於いて、天上人間を往き反りせるに、今是の末後の天身は、復た更に天に来生せざるを以って、是の故に咸(ことごと)く皆侍送す。菩薩は、彼に於いて寿尽くれば、当に下りて仏と作るべし。諸天の寿は尽くる者も、尽きざる者も有り、願を作して下生し、菩薩の檀越と為れり。

   『無量百千万億の諸天』に、

     『囲遶』されて、

     『是の間に来生する』というのは、

   『菩薩』は、

     先に、

       常に、

          『無始の生死』中に於いて、

          『天上、人間』を往き反りしてきたが、

     今の、

       是れが、

          『末後の天身』であって、

       復た更に、

          『天に来生しない』ので、

        是の故に、

          悉く、

            『皆が、侍送する』のである。

   『菩薩』は、

     『彼の天』に於いて、

       『寿が尽きる』と、下って、

       『仏に作る』のであるが、

   『諸天』には、

     『寿』の、

       『尽きる者』も、

       『尽きない者』も有るが、

     『願』を作して、下り、

       『人間』に生まれて、

       『菩薩の檀越』と為るのである。

復次諸天下者欲常侍衛菩薩。以有百億魔怨恐來惱亂菩薩。故此菩薩生人中厭老病死。出家得阿耨多羅三藐三菩提。如菩薩本起經中說

復た次ぎに、諸天の下の者は、常に菩薩を侍衛せんと欲するは、百億の魔怨有り、恐らくは来たりて菩薩を悩乱せんことを以っての故なり。此の菩薩の、人中に生じて老病死を厭い、出家して阿耨多羅三藐三菩提を得たること、『菩薩本起経』中に説くが如し。

 復た次ぎに、

   『諸天の下の者』が、

     常に、

       『菩薩を、侍衛しよう』とするのは、

   『百億の魔怨』が有り、、

     恐らくは、

       来て、

       『菩薩を悩乱しよう』とするからである。

   『此の菩薩』は、

     『人中』に生まれて、

       『老病死』を厭い、

     『出家』して、

       『阿耨多羅三藐三菩提』を得るのであるが、

     例えば、

       『菩薩本起経』中に説くとおりである。

 

  菩薩本起経:『修行本起経』等参照。

 

 

 

 

神通を以って、一仏国より一仏国に至る

【經】復次舍利弗。有菩薩摩訶薩。得六神通不生欲界色界無色界。從一佛國至一佛國。供養恭敬尊重讚歎諸佛。

復た次ぎに、舎利弗、有る菩薩摩訶薩は、六神通を得て、欲界色界無色界に生ぜず、一仏国より一仏国に至りて、諸仏を供養し、恭敬尊重讃歎す。

 復た次ぎに、

   舎利弗!

     有る、

       菩薩摩訶薩は、

         『六神通』を得て、

           『欲界、色界、無色界』に生まれず、

         『一仏国』より、

         『一仏国』に至って、

           『諸仏』を、

             『供養、恭敬、尊重、讃歎』する。

舍利弗。有菩薩摩訶薩。遊戲神通從一佛國至一佛國。所至到處無有聲聞辟支佛乘。乃至無二乘之名。

舎利弗、有る菩薩摩訶薩は、神通に遊戯して、一仏国より一仏国に至るに、至到する所の処に声聞辟支仏乗有ること無く、乃ち二乗の名すら無きに至る。

   舎利弗!

     有る、

       菩薩摩訶薩は、

         『神通』に遊戯して、

           『一仏国』より、

           『一仏国』に至るが、

         『到る処』は皆、

           『声聞乗、辟支仏乗』が無く、乃ち、

           『二乗の名』に至るまで無い。

舍利弗。有菩薩摩訶薩。遊戲神通從一佛國至一佛國。所至到處其壽無量。

舎利弗、有る菩薩摩訶薩は、神通に遊戯して、一仏国より一仏国に至るに、至到する所の処に、其の寿は無量なり。

   舎利弗!

     有る、

       菩薩摩訶薩は、

         『神通』に遊戯して、

           『一仏国』より、

           『一仏国』に至るが、

         『到る処』は皆、

           『寿』は無量である。

舍利弗。有菩薩摩訶薩。遊戲神通從一佛國至一佛國。所至到處有無佛法僧處讚佛法僧功德。諸眾生等以聞佛名法名僧名故。於此命終生諸佛前

舎利弗、有る菩薩摩訶薩は、神通に遊戯して、一仏国より一仏国に至るに、至到する所の処に、仏法僧の無き処有りて、仏法僧の功徳を讃ずれば、諸の衆生等、仏名法名僧名を聞くを以っての故に、此に於いて命終れば、諸仏の前に生ず。

   舎利弗!

     有る、

       菩薩摩訶薩は、

         『神通』に遊戯して、

           『一仏国』より、

           『一仏国』に至るが、

         『到る処』に、

           『仏法僧の無い処』が有れば、

           『仏法僧の功徳』を讃歎し、

         『諸の衆生等』は、

           『仏名、法名、僧名』を聞くが故に、

             『此の国』に、命が終ると、

             『諸仏の前』に、生まれる。

【論】釋曰菩薩有二種。一者生身菩薩。二者法身菩薩。一者斷結使。二者不斷結使。法身菩薩斷結使得六神通。生身菩薩不斷結使。或離欲得五神通。

釈して曰く、菩薩に二種有り、一には生身の菩薩、二には法身の菩薩なり。一は結使を断じ、二は結使を断ぜず。法身の菩薩は、結使を断じて六神通を得、生身の菩薩は、結使を断ぜざるも、或は欲を離れて五神通を得。

 釈す、

   『菩薩』には、

     二種有り、

       一は、『生身の菩薩』、

       二は、『法身の菩薩』である。

     又、

       一は、『結使を断じ』、

       二は、『結使を断じない』。

   即ち、

     『法身の菩薩』は、

       『結使』を断じて、

       『六神通』を得るが、

     『生身の菩薩』は、

       『結使』を断じず、

     或は、

       『欲』を離れて、

       『五神通』を得る。

得六神通者。不生三界。遊諸世界供養十方諸佛。遊戲神通者。到十方世界度眾生雨七寶。所至世界皆一乘清淨。壽無量阿僧祇劫。

六神通を得る者は、三界に生ぜず、諸の世界に遊んで、十方の諸仏を供養す。神通に遊戯する者は、十方の世界に到りて、衆生を度し、七宝を雨ふらすに、至る所の世界は、皆一乗の清浄たりて、寿は無量阿僧祇劫なり。

     『六神通を得る』者は、

       三界に生まれず、

         『諸の世界』に遊んで、

         『十方の諸仏』を供養する。

     『神通に遊戯する』者は、

       十方の世界に到って、

         『衆生』を度し、

         『七宝』を雨ふらし、

       至る所の世界は、

         皆、

           『一乗』の清浄であり、

           『寿』は無量阿僧祇劫である。

問曰。菩薩法應度眾生。何以但至清淨無量壽佛世界中。

問うて曰く、菩薩の法は、応に衆生を度すべし。何を以ってか、但だ清浄、無量寿の仏世界中にのみ至るや。

 問い、

   『菩薩の法』は、

     『衆生を度す』ことである。

   何故、

     但だ、

       『清浄、無量寿』の、

         『仏世界』の中のみに至るのか?

答曰。菩薩有二種。一者有慈悲心多為眾生。二者多集諸佛功德。樂多集諸佛功德者。至一乘清淨無量壽世界。好多為眾生者至無佛法眾處。讚歎三寶之音。如後章說

答えて曰く、菩薩に二種有り、一には慈悲心有りて多く衆生の為にし、二には多く諸仏の功徳を集む。楽しんで多く諸仏の功徳を集むる者は、一乗、清浄、無量寿の世界に至り、好んで多く衆生の為にする者は、仏法衆無き処に至る。三宝を讃歎する音(こえ)は後の章に説くが如し。

 答え、

   『菩薩』には、

     二種有り、

       一は、

         『慈悲心』が有って、

         多く、

           『衆生』の為にする、

       二は、

         多く、

           『諸仏の功徳』を集める。

   楽しんで、

     多く、

       『諸仏の功徳』を集める者は、

         『一乗清浄、無量寿の世界』に至り、

   好んで、

     多く、

       『衆生』の為にする者は、

         『仏、法、衆僧の無い処』に至る。

   『三宝を讃歎する音(こえ)』は、

     後の章に説くとおりである。

 

 

 

 

 

所生の処に随って、衆生を利益す

【經】舍利弗。有菩薩摩訶薩。初發意時得初禪乃至第四禪。得四無量心。得四無色定。修四念處乃至十八不共法。是菩薩不生欲界色界無色界中。常生有益眾生之處

舎利弗、有る菩薩摩訶薩は、初発意の時、初禅、乃至第四禅を得て、四無量心を得、四無色定を得、四念処、乃至十八不共法を修む。是の菩薩は欲界、色界、無色界の中に生ぜざるも、常に衆生を益すること有る処に生ず。

   舎利弗!

     有る、

       菩薩摩訶薩は、

         『初発意』の時、

           『初禅、乃至第四禅』を得て、

           『四無量心』を得、

           『四無色定』を得、

             『四念処、乃至十八不共法』を修める。

     是の菩薩は、

       『欲界、色界、無色界』中に生まれず、

       常に、

         『衆生を益することの有る処』に生まれる。

【論】釋曰。此菩薩或生無佛世界。或生有佛世界。世界不淨有三惡道貧窮下劣。或生清淨世界。至無佛世界。以十善道四禪乃至四無色定。利益眾生令信向三寶。稱說五戒及出家戒。令得禪定智慧功德。

釈して曰く、此の菩薩は、或は無仏の世界に生じ、或は有仏の世界に生ずるも、世界は不浄にして、三悪道、貧窮、下劣有り。或は清浄の世界に生ずるも、無仏の世界に至りて十善道、四禅、乃至四無色定を以って、衆生を利益し、三宝を信じて向わしめ、五戒、及び出家戒を称えて説き、禅定と、智慧の功徳を得しむ。

 釈す、

   此の菩薩は、

     『無仏の世界』にも、

     『有仏の世界』にも生まれるが、

     『世界』は、

       『不浄』であって、

       『三悪道、貧窮、下劣』が有る。

   或は、

     『清浄の世界』にも生まれるが、

       『無仏の世界』に至って、

         『十善道、四禅、乃至四無色定』を以って、

           『衆生』を利益し、

             『三宝』を信じ向わせ、

         『五戒、及び出家戒』を称え説いて、

           『禅定、智慧、功徳』を得させる。

不清淨世界有二種。有現在佛及佛滅度後。佛滅度後或時出家或時在家。以財施法施種種利益眾生。若佛在世作種種因緣。引導眾生令至佛所。清淨世界者。眾生未具功德者令其滿足。是名在所生處利益眾生

不清浄の世界に二種有り、現在の仏有ると、及び仏の滅度の後となり。仏の滅度の後は、或は時に出家し、或は時に在家として、財施、法施を以って種種に衆生を利益す。若し仏在世なれば、種種の因縁を作して、衆生を引導し、仏所に至らしむ。清浄の世界とは、衆生の未だ功徳を具えざる者は、其れをして満足せしむ。是れを所生の処に在りて、衆生を利益すと名づく。

   『不清浄の世界』には、

     二種有り、

       一は、『現在の仏』が有り、

       二は、『仏の滅度』の後である。

     若し、

       『仏の滅度の後』であれば、

         或は、時に出家し、

         或は、時に在家のまま、

           『財施、法施』を以って、

           『衆生』を、種種に利益する。

     若し、

       『仏の在世』であれば、

         『種種の因縁』を作して、

         『衆生』を引導して、

           『仏所』に至らせる。

   『清浄の世界』ならば、

     衆生が、

       未だ、『功徳』を具えていなければ、

       其れを、『満足』させる。

   是れを、

     『所生の処に在って、衆生を利益する』と名づける。

 

 

 

 

 

羊、馬、神通に乗る三種の菩薩

【經】舍利弗。有菩薩摩訶薩。初發意時行六波羅蜜。上菩薩位得阿毘跋致地。

舎利弗、有る菩薩摩訶薩は、初発意の時、六波羅蜜を行じて菩薩位に上り、阿毘跋致地を得。

   舎利弗!

     有る、

       菩薩摩訶薩は、

         『初発意』の時、

           『六波羅蜜』を行じて、

           『菩薩位』に上り、

           『阿鞞跋致地』を得る。

舍利弗。有菩薩摩訶薩。初發心時便得阿耨多羅三藐三菩提轉法輪。與無量阿僧祇眾生作益厚已入無餘涅槃。是佛般涅槃後餘法。若住一劫若減一劫。

舎利弗、有る菩薩摩訶薩は、初発心の時、便ち阿耨多羅三藐三菩提を得て法輪を転じ、無量阿僧祇の衆生の与(ため)に益を作し、厚くし已りて無余涅槃に入る。是の仏の般涅槃の後の余法は、若しは一劫、若しは減一劫住す。

   舎利弗!

     有る、

       菩薩摩訶薩は、

         『初発心』の時、速かに、

           『阿耨多羅三藐三菩提』を得て、

           『法輪』を転じて、

             『無量阿僧祇の衆生』に、

               『益』を作し、

               『信心』を厚くし已って、

           『無余涅槃』に入る。

       是の仏の、

         『般涅槃の後の余法』は、

           若しは、『一劫』、世に住まり、

           若しは、『減一劫』、世に住まる。

 

  減劫(げんこう):住劫の中に於いて、人寿無量歳由り、毎百年に一歳を減じて人寿十歳に至るを、第一の減劫と為し、是れ由り毎百年に一歳を増して人寿八万歳に至るを第一の増劫と為し、更に下りて十歳に至るを第二の減劫と為し、此の如く一上一下して、終に第十九の減劫となり、更に増して人寿八万歳に至るを第二十の増劫と為して、住劫の終に至る。即ち第一は減数を止め、第二は増数を止め、中間に十八回の増減有り。是れを住劫の二十増減と曰い、此の中に第一由り第十九に至る減寿の時期を減劫と名づけ、第二由り第二十に至る増寿の時期を増劫と名づく。「倶舎論巻12」に曰く、「此の洲の人寿は、無量時を経て住劫の初に至り、寿方に漸減すべくして、無量従り減じて十歳に至極す、即ち名づけて初一住中劫と為し、此の後十八には皆増減有りて、謂わく十年従り増して八万に至り、復た八万従り減じて十年に至る。爾れば乃ち名づけて第二中劫と為すより、次後の十七の例は皆是の如くして、後の十歳従り増して八万歳に至りて極まるを、二十劫と名づく。一切の劫の増は八万を過ぐる無く、一切の劫の減は唯だ十年に極まる。十八劫中の一増一減の時量は、方に初減後増に等しかるべくして、故に二十劫の時量は皆等し」と。(八万とは、八万四千歳の大数なり)。<(丁)

舍利弗。有菩薩摩訶薩。初發意時與般若波羅蜜相應。與無數百千億菩薩。從一佛國至一佛國。為淨佛世界故

舎利弗、有る菩薩摩訶薩は、初発意の時、般若波羅蜜と相応し、無数百千億の菩薩の与に一仏国より一仏国に至る、仏世界を浄めんが為の故なり。

   舎利弗!

     有る、

       菩薩摩訶薩は、

         『初発意』の時、

           『般若波羅蜜』と相応し、

           『無数百千億の菩薩』の与に、

             『一仏国』より、

             『一仏国』に至って、

             『仏世界を浄める』のである。

【論】釋曰。有三種菩薩。利根心堅未發心。前久來集諸無量福德智慧。是人遇佛聞是大乘法。發阿耨多羅三藐三菩提心。即時行六波羅蜜。入菩薩位得阿鞞跋致地。所以者何。先集無量福德。利根心堅從佛聞法故。

釈して曰く、三種の菩薩有り、利根にして心堅く、未発心なるも、前の久しきより来、諸の無量の福徳、智慧を集む。是の人は仏に遇うて是の大乗の法を聞き、阿耨多羅三藐三菩提心を発し、即時に六波羅蜜を行じて、菩薩位に入り、阿鞞跋致地を得。所以は何んとなれば、先に無量の福徳を集むれば利根にして心堅く、仏より法を聞くが故なり。

 釈す、

   『三種の菩薩』が有る。

     一には、

       『利根』であって、

         『信心』が堅く、

       『未発心』であるが、久しく以前より、

         『無量の福徳、智慧』を集めている。

     是の人は、

       『仏』に遇って、

       『是の大乗法』を聞き、

       『阿耨多羅三藐三菩提心』を発して、

       即時に、

         『六波羅蜜』を行じ、

         『菩薩位』に入って、

         『阿鞞跋致地』を得る。

     何故ならば、

       先に、

         『無量の福徳』を集めて、

           『利根』であり、

           『信心』が堅く、

       仏より、

         『法を聞く』からである。

譬如遠行。或有乘羊而去。或有乘馬而去。或有神通去者。乘羊者久久乃到。乘馬者差速。

譬えば、遠行するに、或は羊に乗りて去る有り、或は馬に乗りて去る有り、或は神通もて去る者有り。羊に乗る者は久久にして乃ち到り、馬に乗る者は差(やや)速きが如し。

     譬えば、

       『遠行』するのに、

         或は、『羊』に乗って去る者が有り、

         或は、『馬』に乗って去る者が有り、

         或は、『神通』に乗って去る者が有るが、

       『羊』に乗る者は、

         久久として、

         ようやく、到り、

       『馬』に乗る者は、

         やや速い。

乘神通者發意頃便到。如是不得言發意間云何得到。神通相爾不應生疑。菩薩亦如是。發阿耨多羅三藐三菩提時即入菩薩位。

神通に乗る者は、発意の頃に便ち到る。是の如きは、『発意の間に、云何が到ることを得る』と言うを得ず。神通の相の爾ればなり、応に疑を生ずべからず。菩薩も亦た是の如し、阿耨多羅三藐三菩提を発す時、即ち菩薩位に入る。

       『神通』に乗る者は、

         『発意の頃』に、

           速かに、到るのであるが、

         是のようであっても、

           『発意の間に、何うして到ることができるのか?』と言ってはならない。

         『神通の相』は、

           そうなのだから、

           『疑』を生じてはならないのである。

     『菩薩』も、

       亦た、是のように、

         『阿耨多羅三藐三菩提心』を発すと、

         即時に、

           『菩薩位』に入るのである。

有菩薩初發意初雖心好後雜諸惡。時時生念我求佛道。以諸功德迴向阿耨多羅三藐三菩提。是人久久無量阿僧祇劫。或至或不至。先世福德因緣薄而復鈍根。心不堅固如乘羊者。

有る菩薩は初発意に、初は心好ましと雖も、後には諸悪を雑え、時時念を生ずらく、『我れは仏道を求む。諸の功徳を以って阿耨多羅三藐三菩提に迴向せん』と。是の人は、久久無量阿僧祇劫にして、或は至り、或は至らず。先世の福徳の因縁薄ければ、復た鈍根にして、心の堅固ならざること、羊に乗る者の如し。

     二には、

       有る菩薩は、

         『初発意』の時、

           初は、『心が好ましい』が、

           後には、『諸悪』を雑えるようになり、

         時時、

           この念を生じる、――

           『わたしは、

              仏道を求めているのだ!

              諸の功徳を以って、

                阿耨多羅三藐三菩提に迴向しよう』と。

        是の人は、

          『久久』として、

          『無量阿僧祇劫』の後、

            或は、『阿耨多羅三藐三菩提を得る』に至り、

            或は、至らない。

        是の人の、

          先世の、

            『福徳の因縁』が薄いので、

          今世には、

            『鈍根』であり、

            『信心』も堅固でないからである。

        譬えば、

          『羊』に乗る者のように。

有人前世少有福德利根發心。漸漸行六波羅蜜。若三若十若百阿僧祇劫。得阿耨多羅三藐三菩提。如乘馬者必有所到第三乘神通者如上說。

有る人は、前世に少しく福徳有れば利根にして、発心するに、漸漸に六波羅蜜を行じ、若しは三、若しは十、若しは百阿僧祇劫して、阿耨多羅三藐三菩提を得ること、馬に乗る者の必ず到る所の有るが如し。第三の神通に乗る者は、上に説くが如し。

     三には、

       有る人は、

         前世に、

           『福徳』が、少し有ったので、

         今世に、

           『利根』であり、

           『発心』して、

             次第に、

               『六波羅蜜』を行い、

             若しは、三阿僧祇劫、

             若しは、十阿僧祇劫、

             若しは、百阿僧祇劫して、

               『阿耨多羅三藐三菩提』を得る。

         譬えば、

            『馬』に乗る者には、

              必ず、『到る所』が有るように。

     第三の、

       『神通』に乗る者は、

         上に説くとおりである。

是三種發心。一者罪多福少。二者福多罪少。三者但行清淨福德。清淨有二種。一者初發心時即得菩薩道。二者小住供養十方諸佛。通達菩薩道故入菩薩位。即是阿鞞跋致地。阿鞞跋致地菩薩義如先說。

是の三種の発心は、一は罪多く福少し、二は福多く罪少し、三は但だ清浄の福徳のみを行ず。清浄に二種有り、一には初発心の時に便ち菩薩道を得、二は小しく住まりて十方の諸仏を供養して菩薩道に通達するが故に菩薩位に入る、即ち是れ阿鞞跋致地なり。阿鞞跋致地の菩薩の義は先に説けるが如し。

   是の三種の、

     『発心』は、

        一は、

          『罪』が多く、

          『福』が少い、

        二は、

          『福』が多く、

          『罪』が少い、

        三は、

          但だ、

            『清浄のみを行った福徳』である。

     『清浄』には、

       二種有り、

         一には、

           『初発心』の時、

           直ちに、

             『菩薩道』を得る。

         二には、

           『初発心の位』に、小しく住まって、

             『十方の諸仏』を供養し、

             『菩薩道』に通達して、

             直ちに、

               『菩薩位』に入る。

           即ち、

             是れが、

               『阿鞞跋致地』である。

     『阿鞞跋致地』の義は、

       先に説いたとおりである。

 

  参考:『大智度論巻27』:『問曰。何等是阿鞞跋致地。答曰。若菩薩能觀一切法不生不滅不不生不不滅不共非不共。如是觀諸法。於三界得脫。不以空不以非空。一心信忍十方諸佛所用實相智慧。無能壞無能動者。是名無生忍法。無生忍法即是阿鞞跋致地。復次入菩薩位是阿鞞跋致地。過聲聞辟支佛地。亦名阿鞞跋致地。復次住阿鞞跋致地。世世常得果報神通不失不退。若菩薩得此二法。雖得諸法實相。而以大悲不捨一切眾生。復有二法。一者清淨智慧。二者方便慧。復有二法。一者深心念涅槃。二者所作不離世間。譬如大龍。尾在大海頭在虛空。震電雷霆而降大雨。復次阿鞞跋致菩薩。得是諸法實相智慧。世世不失終不暫離。於諸佛深經。終不疑亦不作礙。何以故。我未得一切智慧故。不知何方便何因緣故。如是說。阿鞞跋致菩薩。常以深心終不生惡。阿鞞跋致以深心集諸善。淺心作諸不善。

次後菩薩大厭世間。世世已來常好真實惡於欺誑。是菩薩亦利根堅心。久集無量福德智慧。初發心時便得阿耨多羅三藐三菩提。即轉法輪度無量眾生。入無餘涅槃。法住若一劫若減一劫。留化佛度眾生。

次後の菩薩は、大いに世間を厭い、世世より已来、常に常に真実を好んで、欺誑を悪む。是の菩薩も亦た利根、堅心なれば、久しく無量の福徳、智慧を集め、初発心の時には便ち阿耨多羅三藐三菩提を得て、即ち法輪を転じ、無量の衆生を度して、無余涅槃に入り、法の住すること、若しは一劫、若しは減一劫にして、化仏を留めて衆生を度す。

   『次後の菩薩』は、

     大いに、

       『世間』を厭い、

     世世常に、

       『真実』を好んで、

       『欺誑』を悪む。

   是の菩薩も、亦た、

     『利根』であり、

     『堅心』であるので、

     久しく、

       『無量の福徳、智慧』を集めて、

     『初発心』の時、

       速かに、『阿耨多羅三藐三菩提』を得て、

       直ちに、『法輪』を転じて、

       無量の、『衆生』を度して、

         『無余涅槃』に入り、

     『法』は、

       『涅槃』に入った後も、

       若しくは、『一劫』、

       若しくは、『減一劫』、世に住まり、

       後、

         『化仏』を留めて、

         『衆生』を度すのである。

佛有二種神通力。一者現在時。二者滅後。劫義如上說。劫中所度眾生亦復不少。

仏には二種の神通力有り、一には現在の時、二には滅後なり。劫の義は、上に説けるが如し。劫中に度する所の衆生は亦復た少なからず。

   『仏』には、

     『二種の神通力』が有り、

       一には、『現在の時』、

       二には、『滅後』である。

   『劫』の義は、

     上に説いたとおりである。

   『劫』中に、

     『度される衆生』も、亦た、

       少くはない。

次後菩薩亦利根心堅久集福德。發心即與般若波羅蜜相應得六神通。與無量眾生共觀十方清淨世界而自莊嚴其國。如阿彌陀佛先世時作法藏比丘。佛將導遍至十方示清淨國。令選擇淨妙之國。以自莊嚴其國

大智度論卷第三十八

次後の菩薩も亦た利根にして心堅く、久しく福徳を集むるに、発心すれば即ち般若波羅蜜と相応して六神通を得、無量の衆生と共に、十方の清浄世界を観て、自ら其の国を荘厳すること、阿弥陀仏の、先世の時法蔵比丘と作るに、仏、将導して遍く十方に至りて清浄の国を示し、浄妙の国を選択せしめて、以って自ら其の国を荘厳するが如し。

大智度論巻三十八

   『次後の菩薩』も、亦た、

     『利根』であり、

     『堅心』である。

   久しく、

     『福徳』を集めて、

     『発心』すれば、

       直ちに、

         『般若波羅蜜』と相応して、

         『六神通』を得、

     『無量の衆生』と、

       共に、

         『十方の清浄世界』を観て、

       自らも、

         『其の国』を荘厳するのである。

   例えば、

     『阿弥陀仏』は、

       先世の時、

         『法蔵比丘』と作ったのであるが、

       『仏』は、

         『法蔵比丘』を将導して、

           遍く、

             『十方』に至って、

             『清浄の国』を示して、

             『浄妙の国』を選択させ、

           其れを以って、

             自ら、

               『其の国』を荘厳させたのである。

 

大智度論巻第三十八

 

 

 

 

 

 

 

 

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